邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 鉄器を全回収して放棄された平塚川添遺跡の存在が、
狗奴国とは筑後を拠点とした国だったことを示しています。
何度か検討しましたが、
直接戦闘ではなく、状況の悪化で
平塚川添遺跡を放棄するとすれば、
東西南北のうち、
東の大分側を押さえられた場合のみです。
邪馬台国水軍が筑紫日向を出立し、
関門海峡を突破して、
大分の沿岸部を攻め落としたからこそ、
まだ時間的余裕があるにも関わらず、
平塚川添遺跡を放棄したわけです。 >>97
魏ではありませんね。
後漢末期の重臣、曹操は、
壱岐対馬ルートを確保して接触してきた
委奴国の流れをくむ狗奴国王を認めて、
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を贈った。
曹操が立ち上げた魏という国の、
第二皇帝曹叡は、
壱岐対馬ルートを確保して接触してきた
倭国王の陣営にある卑弥呼女王を認めて、
親魏倭国王金印を贈った。 >倭国伝と日本国伝に分かれてるのは、国名変更のあったとされる700年前後をまたいで遣唐使が送られたからだ
違う!
国名変更のあったとされる700年前後をまたいで倭国(阿波)から奈良大和への遷都が行われたからだ。 @阿波 むしろ高良山が卑弥呼の本来の拠点だったのでは?
それなら日田はその奥座敷になります。
邪馬台国の火の巫女と狗奴国の日御子は元々は肥国の同族だったのではないかと思います。 >倭国伝と日本国伝に分かれてるのは、国名変更のあったとされる700年前後をまたいで遣唐使が送られたからだ
違う!
国名変更のあったとされる700年前後をまたいで倭国(阿波)から奈良大和への遷都が行われたからだ。 @阿波 >>99
倭奴国は狗奴国になったと?
それでは邪馬台国が倭の極南界だった倭奴国(博多)をさらに南に追い立てたのか? >>101
平塚川添遺跡、高良山、などが狗奴国のまさに本拠地です。
祭祀拠点が旧三輪町ですね。
三輪山というのは、本来は三輪町の神社の目前にある御神体の山でしょう。
それが卑弥呼の拠点だったなどというのは、
歴史の勝者におもねって、
ご自分の本来の祖先を罵倒する行為になるかと。
(卑弥呼が勝者というわけでもないのですがね)
>>103
弥生銀座から追われて
委奴国が周囲に落ちのびたわけです。 マスコミも治世があるのなら、
魏志倭人伝に書かれていないのだから、
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は邪馬台国に贈られたものではない、
という厳然たる結論を確定させた上で議論してほしいものです。
そこから自然に導かれるのが、
邪馬台国関係者以外で金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が贈られる可能性があるのは、
魏志倭人伝の記載範囲内では、狗奴国王。
それ以外に王がいた可能性はあるが、
邪馬台国が北部九州であれば、南に狗奴国なのだから、
伊都国奴国の南、日田で金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が見つかったのなら、
そこは狗奴国、
狗奴国王が貰った。
いくら王でも、遠い辺境の倭の王に、
後漢の曹操が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を渡すとなれば、
その信用保証として考えられるのは、
漢委奴国王金印の封泥以外にありえない。
ここまでは確定といって言いのでは? 伊都を本拠とする邪馬台国(倭国やまと国)。
それ自体が山城の高祖宮(高千穂宮)が一度狗奴国に落とされれば、
奪還することは物理的に不可能でしょう。
ですから、伊都は落とされなかった。
筑後の狗奴国が壱岐対馬ルートを攻略するには、
吉野ヶ里から北上して、末盧國を落とす、
これしかありえません。
吉野ヶ里自体がどの陣営だったのかはまだ結論は出ません。
銅戈が出ているので、
倭国乱で
伊都国+豊国オオワダツミ(広型銅矛)vs饒速日オオヤマツミ(銅戈)
の戦いに参加して既に荒廃していた可能性もあります。
倭国乱の最中、もしくは直後に狗奴国が勃興し、
吉野ヶ里が狗奴国に参加した可能性もあります。 >>105のように
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の価値が確定したことで、
狗奴国が後漢の曹操と連絡を取れたことが確定したわけです。
栄華を誇った末盧國は桜馬場遺跡を最後に考古学的に滅亡している。
そこから先が問題です。
吉野ヶ里から陸路で末盧國を落とした狗奴国軍が、
そこからどうやって壱岐対馬を落とせるのか? 筑後から吉野ヶ里を経て、陸路で末盧國を落とした狗奴国軍が、
壱岐対馬を落とすための水軍。
これは長崎しかありません。
タケミナカタですね。
前スレで検討しましたが、
記紀にある通り、
大国主=委奴国王が、天神族にも山津見にも属さない兵を求めて、
越の沼河比売=八岐大蛇族の血を引く越女王を口説いて組織した水軍が、
タケミナカタ
委奴国王=大国主が失脚して、北部九州系の奴族が投降していく中で、
越系のタケミナカタは徹底抗戦した。
東西に追われ、
東のタケミナカタは本拠地の越後から諏訪に追われて、降伏。
銅戈が見つかっています。
西のタケミナカタは、吉野ヶ里の銅戈軍と戦っていたわけです。 倭国乱=倭国内の倭国王族の内紛
を経て、
委奴国末裔が狗奴国を立ち上げた。
当然のことながら、
同じく委奴国末裔であるタケミナカタは呼応するわけです。
そう考えると、
伊都国末盧國(広型銅矛)と吉野ヶ里(銅戈)が
倭国乱で内乱をしているところに、
狗奴国王=三輪王が筑後から、タケミナカタが長崎から、
挟撃して吉野ヶ里を粉砕、
狗奴国王は陸路北上して末盧國を占領。
海路やってきたタケミナカタと合流して、
壱岐対馬を占領して、
狗奴国卑弥弓呼傘下の新支配官である卑狗を配置、
という流れでしょうか。 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の価値が確定したことで、
ここまでが確定しますね。
では、我らが卑弥呼様の邪馬台国はどうするでしょうか? 四隅突出型墳丘墓と、
大田南古墳群。
これが2世紀3世紀の日本海沿岸の全てを物語っています。
日本海沿岸は太平洋側と全く異なる平坦な海岸線が続きます。
水軍を係留する良湾は、若狭湾しかないわけですね。
現代の海上自衛隊の基地もそうです。
四隅突出型墳丘墓が富山まで伸びているにもかかわらず、
その若狭湾にあるのが、四隅突出型墳丘墓ではなく、
大田南古墳群。
この配置だけで、
四隅突出型墳丘墓は大田南古墳群の支配下にあったことが
確定するわけです。 筑後の狗奴国と、長崎のタケミナカタに、
壱岐対馬ルートを奪われた倭国。
免田式土器の分布から、
肥後筑後〜日田街道〜大分〜瀬戸内海が狗奴国領だったこともわかります。
倭国が形勢逆転するための兵力がどこにあるか?
瀬戸内海が狗奴国領なのだから、
日本海沿岸しかない。
日本海沿岸で、倭国を救うことが出来るだけの軍港。
それは若狭湾しかないわけです。
大田南1号古墳の鉄剣将軍。
卑弥呼の平原1号と同じ、方形墓、船形棺ですね。
卑弥呼の父です。 倭猿の話?
いい加減に頭の病院に行ったほうが良いぞ >>112
九州の遺跡って、ショボい遺跡なんだねぇwww ありふれたお墓遺跡でがっかり。 @阿波 狗奴国に呼応して、越後のタケミナカタも蜂起していますね。
2世紀3世紀の福井県石川県富山県新潟県に
高地性集落、山城が大量に建設されています。
卑弥呼の父親は、
倭国やまと国(卑弥呼邪馬台国)を援護するため、
伊都を目指して西へ進軍します。
若狭湾の留守番舞台と、
越後タケミナカタが、
小競り合いをしていたわけですね。 軍港、自衛隊が何やら〜とか言っているけど、
お前の名前は? 丹後若狭湾の大田南古墳群の配下にあった、
四隅突出型墳丘墓が、富山まで。
四隅突出型墳丘墓と、越後との間に、
高地性集落や山城が密集。
ここまでが卑弥呼時代。
卑弥呼時代の直後に、
琵琶湖北部に稲部遺跡鉄工所が出現して、
越後に高地性集落が乱立して木材伐採炭献上。
男王が発した将軍が、
孤立した越後タケミナカタを制圧して、
卑弥呼親族の若狭湾に近い
稲部遺跡に鉄工所を建設したわけです。 お前の名前を知ったところで、
そんな人物は知らないね〜、聞いたこともない、
どこから湧いてきたんだ(馬の骨)
となるだけなんだけど お前の名前は?
日本の貴族とか公家?大名、武将?
商人、企業などの経営者、創業者? 大己貴神(おおなむち)
おおは尊称。
むちは貴称。
奴国の奴族。
那珂川。
那珂遺跡。
葦原那珂津国の奴族の貴族。
奴佳鞮
那珂富なるぞ。 有名人(世界的)になる方法、
・・・人殺しをすれば良いんだよ
みたいな事を言っている人がいたでしょ
日本の話 順風満帆に見える北部九州説、
伊都平原遺跡の女王墓が卑弥呼の墓、
が全ての土台なわけですが、
その根幹を決める
決定的な考古学的問題点があります。
林・藤島遺跡です。 >>110
>金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の価値が確定したことで、
>ここまでが確定しますね。
鉄鏡の価値は認めるが、その他の部分に仮定が多すぎて、確定はできない。
それではキナイコシと同じになってしまう。 北部九州の弥生王墓には翡翠勾玉があります。
紀元前に越を征服して、
丹後扇谷遺跡を建設した。
翡翠勾玉というのは、単なる装飾品ではなく、
日本海沿岸を越まで支配している象徴、
アマテラス天神族の象徴なわけですね。
その翡翠勾玉が、
平原遺跡1号の前後の時代には当たり前のように副葬されているのに、
よりによって卑弥呼の墓である
平原1号「女王墓」に副葬されていない。
越後タケミナカタが狗奴国側だったから、
翡翠が入手できなかったわけです。 林・藤島遺跡の年代は200年頃とされています。
鉄工具が大量に出土していますから、
間違いなく邪馬台国側の遺跡ですね。
その林・藤島遺跡で、
200年頃から翡翠製品が作られていたなら、
それが副葬されていない平原1号は、
100%卑弥呼の墓ではない。 林・藤島遺跡を詳しく調べる必要があります。
林・藤島遺跡全体のアバウトな存在年代は問題ではありません。
林・藤島遺跡の「翡翠工房の稼働年代」が、邪馬台国論争の決定打につながります。
林・藤島遺跡の翡翠工房が、
200年頃から稼働しているのなら、
平原1号は卑弥呼の墓候補から脱落。
林・藤島遺跡の翡翠工房が、
3紀中旬から稼働しているのなら、
平原1号は卑弥呼の墓候補であり続ける。 一国の女王が石ごときを入手できないわけがない
駅前のルミネで売ってるだろうが 筑紫の倭王が越まで支配して翡翠を手に入れていたというのはいい。
しかし平原遺跡の卑弥呼が筑紫の出ではなく、肥国から臨時に擁立された女王であったならどうだろう。
筑紫における戦闘は回避または終結させることができたとしても、越はおろか、九州内の狗奴国や投馬国さえも支配下にはできなかったのではないか。
卑弥呼自身も、古い文化の象徴である翡翠よりも、中華文明からもたらされるガラスの方を好んだのかもしれない。 後々の中華正史を見てくと卑弥呼=神功でどうしようもないと思うよ。ただ神功はうろうろしてるんで都ははっきりしない。香椎宮でも穴門でもいいし、また神功は半島征伐の軍船を宇佐で作らせてるしな、どんな説でも結局ちょうねん王年代紀を説明しなきゃならないよ。 >>135
神功皇后の実年代は卑弥呼の120年後くらいだ。 記紀の年代が120年後なだけでしょ、では前の女王になりそうな姫当てはめて考えて見てわ?。繋がればそれでいいし。 卑弥呼に似た姫なんて、アマテラスくらいしか思いつかない。
まあ、あれは、本当は男だという説もあるからよくわからないけど。
アマテラスのモデルが卑弥呼なら、アマテラスが作らせた鏡が八咫の鏡だし、アマテラスは孫を王として筑紫に降臨させているんだけど。 卑弥呼とヤマトは別物。
もし関係があるならちゃんと書紀に書いているはず。
女王国が魏に使いを送ったレベルのことしか書いていないのは無関係だから。 もう既に何度も出ている話ですが、
「曹操集訳注」には、
>御物有尺二寸金銀鉄鏡一枚、皇后雑物用純銀錯七寸鉄鏡四枚、皇太子雑純銀錯七寸鉄鏡四枚、貴人至公主九寸鉄鏡四十枚
とあります。
曹操は自らは皇帝にはならないと公言して、
魏王として魏を建国しただけです。
曹操は亡くなった時、魏王止まりだったわけですね。
魏の初代皇帝は、曹操の息子の曹丕(文帝)であり、
卑弥呼金印の、曹叡(明帝)が二代目皇帝です。 曹操の墓から出てきた鉄鏡も、
日田のダンワラ古墳出土の鉄鏡も、
直径21cmの金銀錯嵌珠龍文鉄鏡ですから、
「曹操集訳注」には書かれていない規格ですね。
漢の1尺=23.5センチで計算すると、
皇帝なら、金銀錯嵌で直径28センチの鉄鏡。
皇后や皇太子で、銀錯になって16.5センチの鉄鏡。
貴人至公主で、ただの鉄鏡、直径21センチです。
ということは、曹操は魏王止まりだったのですから、
金銀錯嵌で直径21センチの鉄鏡は、皇帝未満の王、が所有するものだったことになります。 では、倭国側で、皇帝未満の王として曹操に認められる者は誰かとなると、
漢委奴国王金印の所有者が自然に筆頭候補に挙がりますね。
魏志倭人伝に鉄鏡が出てきませんので、
邪馬台国に与えられたものではない。
魏志倭人伝には、なぜか漢委奴国王金印のことが書かれず、
「漢時有朝見者」と曖昧な表現にとどまっている。
直前の後漢が認めた金印王なのですから、
漢委奴国王の系譜だとか、逆に漢委奴国王金印は滅ぼされたとか、
歴史書ならば何らかのコメントがあってしかるべきですよね。
となると、漢委奴国王金印を狗奴国王が使った。
後継者なのか、奪ったのかはわかりませんが。
漢委奴国王金印を使って朝貢してきた王なので、
金銀錯嵌で直径21センチの鉄鏡、を与えた。
と考えれば、
漢委奴国王金印も金銀錯嵌鉄鏡もまとめて
「漢時有朝見者」で誤魔化した説明がつきます。 今回曹操の墓から直径21センチの金銀錯嵌鉄鏡が出てきたことで、
直径21センチの金銀錯嵌鉄鏡は、皇帝ではなく王の持つ物とわかった。
邪馬台国関係者ではない者が
ダンワラ古墳の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を貰ったことがわかった。
伊都奴国が邪馬台国側の領土なので、
その南の日田が狗奴国だった可能性が高くなった。
よって、魏志倭人伝の行程記事は、
里程→日程→里程(朱儒國)などという意味不明な直列行程ではなく、
里程→里程、と日程、の並列行程であり、
邪馬台国は伊都を首都とする筑前国家であり、
狗奴国は筑後に首都があった国だが、卑弥呼の時代には筑後を奪われて
肥後に押し込められていたのだろう、
ということになります。 他説がこれを否定するには、
ダンワラ古墳の鉄鏡が、曹操時代ではなく、
後世に日本へ持ち込まれた、と主張するしかないでしょうね。
盗掘その他で世に出た鉄鏡が、
交易ルートを介して九州へ渡り、
ダンワラ古墳の被葬者がそれを入手した。
まあ、何百枚もある鏡なら、異国の骨董市に出ることもあるでしょうが、
世に数枚の宝鏡で、しかも5世紀までの未開の交易ルートでの話となると、
確率はとてつもなく低くなりますが。 面白い推論だが、一つだけ言わせて欲しい。
>>143
>伊都奴国が邪馬台国側の領土なので、
>その南の日田が狗奴国だった可能性が高くなった。
日田を含む福岡県、大分県、佐賀県までが邪馬台国でも良いのではないか?
菊池以南の熊本県が狗奴国で十分だ。
魏に朝貢するのに、狗奴国が福岡の邪馬台国を迂回したというのはやや苦しい。 >>146
それだと邪馬台国が圧倒的すぎて瞬殺されます。
壱岐対馬ルートからの鉄入手だけで圧倒的。
さらに伊都国奴国だけで圧倒的。
最初は伊都国奴国以外の福岡の大部分が狗奴国ぐらいでないと、
勝負にもなりません。
狗奴国が弱すぎると、魏志倭人伝の記載とそぐわなくなりますよね。
卑弥呼の時代に、邪馬台国がようやく優勢になって、
狗奴国を熊本へ押し込めたのでしょう。 >>146
ああ、もともとは全部倭国ですよ。
その後も、全部倭国ですよ。
邪馬台国(=卑弥呼時代の倭国やまと国)と狗奴国が戦っていた間だけ、
の話です。
壱岐対馬ルート〜末蘆〜伊都奴国が強すぎるので、
狗奴国は福岡県、要するに甕棺墓領域をある程度含まないと
とても対抗できないわけです。
倭人伝に鉄鏡が無い=鉄鏡は邪馬台国のじゃない
邪馬台国以外に鉄鏡を貰った国王がいた=狗奴国王が第一候補
伊都国奴国は確実に邪馬台国側=じゃあ南の日田は狗奴国領だった時期がある 熊本は自給自足できて鉄器も豊富だから、そんな心配は無用でしょう。
国境を歪める理由として不十分だと思います。
あとは、傍国の次の部分
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
これだと日田は邪馬台国側でしょう。
狗奴国側の前線が菊池城なら、古代三城が揃いますよ。 >>150
碌な集落遺跡や資源の無い熊本に、狗奴国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 古代で鉄はそれほど戦争のアドバンテージにはならんよ
実際鉄を独占していたヒッタイトはどこぞの蛮族に滅ぼされたし
古代の戦争は弓矢と投石で決まる 「倭国(阿波)は鉄器王国」
倭国(阿波)では遺跡発掘が少ないにも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地7か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」 @阿波 >>155
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑) 「倭国(阿波)は鉄器王国」
倭国(阿波)では遺跡発掘が少ないにも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地7か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」 @阿波 >>157
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑) 九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
分かりやすいのが、斉明天皇(第37代)はおろか、明治天皇以前には、一人も九州行幸が無いこと。
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 朝廷の祭祀には玉が祭料,幣帛として使われた。 忌部は,大和朝廷が祭祀に必要としたその玉類の生産,調達にかかわっていたとの指摘がある。
忌部の祖神である「天太玉命」に玉の文字が含まれていることも偶然ではないはずだ。
「日本書紀」(神代下第九段)に忌部に関する記述があり「…櫛明(くしあかる)玉神を作玉者とす…」とある。
「古語拾遺」にも似た記述があり,忌部氏はいろいろな神を率いて幣帛・祭具の生産に従事した。
櫛明玉神は出雲国の玉作の祖という。
さて,島根県で玉作といえば,出雲玉作遺跡がある玉湯町,松江市忌部だ。 つまり旧意宇郡忌部郷を中心とする地域だった。
「延喜式祇式」臨時祭条に「…毎年十月以前令意宇郡神戸玉作氏造備…」とある。
これを「出雲風土記」と照らすと,毎年十月に玉を調達した玉作氏の住む意宇郡神戸が,「和名抄」に出てくる「忌部神戸」であることが明らかになる。
つまり出雲の玉作りは忌部が行っていたわけだ。
もちろん,忌部の祖神を祀る天太玉命神社がある奈良県橿原市の近くにも玉作遺跡である曽我遺跡がある。 大和朝廷の官立の玉作工房だったようだ。
徳島の玉作遺跡は,徳島市国府町矢野の「矢野遺跡」と三好市三加茂町の「稲持遺跡」がある。 両遺跡とも緑灰色の蛇紋岩を使用し,勾玉の製作をしていた。
矢野では気延山や眉山から石を運んできたようだ。 時代は矢野が若干古く弥生時代後期後半とみられる。
矢野遺跡周辺は,いうまでもなく古代阿波が最も栄えていた土地である。 @阿波 >>161
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑) 九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波 日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が曹操のものと同一であることがわかったことで、
狗奴国王が漢委奴国王金印を所持していたことになります。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が魏志倭人伝に記載されていないから、
邪馬台国関係者に渡されたものではない。
↓
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は狗奴国王に渡された。
狗奴国王が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡をもらうためには、
@壱岐対馬ルートを制圧する
A漢委奴国王金印
の2つが絶対条件となりますね。
そもそも朝貢できないと話にならないので、@が必要。
南の狗奴国が魏王曹操と同格の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を入手するには、
A漢委奴国王金印の信任しかありえない。 さらに加わる条件が、
B漢委奴国王金印が有効であった。
いくら漢委奴国王金印を使っても、
57年金印が過去の遺物になっていたら意味が無いわけです。
ということは、
107年倭国王師升の訪漢は、漢委奴国王金印を無効化できていなかったわけです。
中国側の史書に「倭国王」と明記されているのですから、
師升が漢委奴国王金印を持って行って、
生口160人を贈ることで倭地の支配者となったことを述べれば、
その時点で、漢倭国王金印が新たに授与されるか、
少なくとも委奴国は滅亡したものとして、漢委奴国王金印は失効するはずです。
だから師升は漢委奴国王金印を持っていなかった。
狗奴国王が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を入手した。
↓
狗奴国王は壱岐対馬ルートを制圧して
狗奴国王は漢委奴国王金印を使用して、
漢委奴国王金印はまだ有効であった。
では、漢委奴国王金印はどうやって倭国側に奪われずにいたのでしょうか? 過去スレで検討しましたが、
神代=北部九州倭国(やまと国)時代においては、出雲などの場所が現代と異なり、
西から順に、
笠沙の岬=柏崎遺跡(唐津)
筑紫の日向=糸島平野(魏代伊都三雲)
高天原=早良平野(漢代伊都吉武)
天安河=室見川
葦原那珂津国=福岡平野(弥生銀座)
出雲国=宗像市〜遠賀川
稲場=鐘崎
比婆山=山鹿貝塚周囲の砂丘
伯伎国=遠賀川〜北九州市
となります。
そうなると、越(高志)とは、
関門海峡を越えた先の、本州日本海沿岸を広く指す地名だったわけですね。 伊都や奴国のように、栄えた中心地からは様々な貴重な遺物が出土するわけですが、
少し離れた衛星地域の出土状況もまた重要なわけです。
ノイズが少ないわけですね。
徳島に銅剣しかなくて、銅矛と銅戈が出土しないのもそうですね。
銅剣女王国(八上姫)が瀬戸内海を淡路島まで統一していたから、
奴国銅矛将軍が銅剣女王国に勝利すると、徳島は自動的に銅矛支配下に入った。
奴国銅矛将軍が失脚すると、徳島は今度も自動的に銅戈支配下に入り、
銅戈は徳島を飛び越えて大阪湾上陸作戦へと移ったわけです。
同じように、
壱岐〜唐津〜伊都奴国は甕棺墓を始めとする各時代の王墓が沢山あるわけですが、
対馬にはほぼ箱式石棺しかありません。
ということは、縄文時代末〜弥生時代早期においては、
箱式石棺の勢力が北部九州から日本海沿岸を占めていた可能性が高く、
これが、イザナミ、八雷神(豊国)、八岐大蛇(越国)、などの女系で、
翡翠加工品、そして後には貝輪を作って利益を上げていた。
八岐大蛇一族は、弥生のジュエリーブランドだったわけです。 >>167
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波 北部九州伊都説の主張はわかりやすくて、
三雲南小路1号2号=ニニギ+コノハナサクヤ
平原1号2号=卑弥呼+殉葬家臣
なわけですね。
葦原那珂津国=奴国を支配していた委奴国王が金印を入手して大王を狙ったが、
乱開発からの大洪水土石流、疫病の蔓延によって失脚した。
実権を奪い返した倭国王権は、
大混乱の福岡市から、高祖山日向峠を越えて糸島市へ遷都したという理屈ですね。
この流れの中で、貝輪について考えてみると、
直前の立岩遺跡には貝輪が大量に副葬されているのに、
三雲南小路から平原まではパッタリと貝輪が途絶えます。
つまり、委奴国王の失脚と共に、貝輪は作られなくなった。
次々と降伏していく奴国王勢力の中にあって、
唯一徹底抗戦を選んだのが、タケミナカタ。
八岐大蛇一族の女王を口説いて、委奴国王が男系の血を入れた一族です。 狗奴国王が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を入手した。
↓
狗奴国王は壱岐対馬ルートを制圧して
狗奴国王は漢委奴国王金印を使用して、
漢委奴国王金印はまだ有効であった。
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唯一徹底抗戦したタケミナカタが、漢委奴国王金印を持って逃走した。 >>169
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波 事代主は、八重八重が繰り返されて、
八尋ワニの姿になるわけですから、
神屋楯比売命は天神族と豊国岡田宮のワニ族との間の姫で、
ワニ族ですね。
だから降伏すれば、身分保障されたわけです。
豊国イザナミの八雷神部族→8山津見のうち、
八上姫率いる5〜6部族は銅矛銅剣戦争で敗北してオオヤマツミに。
ワニ族を主とする2〜3部族が豊国支配者オオワダツミに。
事代主は上手く立ち回れば豊国王。
あるいは、豊国が女王国を続けていたなら、豊国女王預かりの身。
になったわけです。 委奴国王や事代主は、降伏時に漢委奴国王金印のありかを聞かれたわけです。
「知らない」と答えたら間違いなく士ぬまで拷問ですね。
しかし少なくとも事代主は生き残っている。
ということは、「逃げたタケミナカタが持っています」と下呂ったわけです。
委奴国王はタケミナカタに王位を継がせようと思っていたわけですね。 >>167
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波 降伏します。
金印はタケミナカタが持って行きました。
だから、殺されずにすんだわけです。
タケミナカタは、越後〜諏訪〜関東へと逃げていますね。
貝輪が足跡のように残っていますから、我々には丸わかりです。
あと、一部は北海道にも逃げています。
当時の現地の人たちは驚いたことでしょう。
銅戈は、オオヤマツミの瀬戸内領土の資源ではなく、
新たな木材炭供給地を求めて、大阪湾を攻略します。
それと並行して、漢委奴国王金印を血眼になって探索したわけです。
越後から諏訪へ。
諏訪に九州型銅戈(出陣式用)がありますから、
諏訪で新たに出陣式をして、関東へも攻め込んだ可能性が高いです。 >>167
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波 山口県の土井ヶ浜遺跡。
関門海峡を越えた越の地ですね。
300体ほどの遺骨が出土した砂丘墓地。
女性シャーマンは八岐大蛇一族の女性地方指導者でしょう。
最初期の日本海沿岸覇者の末裔らしく、翡翠があります。
それ以外のぜいたく品、例えば鉄器や青銅器が無いのに、
各人それぞれオーダーメイドの貝輪を装着していることから、
貝輪だけ潤沢、つまり土井ヶ浜遺跡で貝輪を製作していたわけですね。
いくつかあったであろうタケミナカタ貝輪製作地の一つだったわけです。 一世紀半ば過ぎ。
土井ヶ浜遺跡の人々の元に、不吉な知らせが届きます。
西の奴国で大災害が発生し、委奴国王は出雲国へ避難。
そこで捕縛された。
委奴国王の一族は次々と投降している。
満足な情報も入らないままに、
出雲で敗北したタケミナカタ本軍が敗走してきます。
タケミナカタは、土井ヶ浜遺跡の人々に、
「一刻の猶予もない。
すぐに村人を全員集めて、我々と一緒に東へ落ちのびるんだ。」
と説得したことでしょう。
が、大半の人々は、他の委奴国王系一族と同様に、
住み慣れた土井ヶ浜遺跡に残って、降伏することを選んだ。 タケミナカタ水軍は慌ただしく東へ去り、
それを追うように怒り狂った倭国軍がやってきます。
一族の長であるシャーマンが応対します。
降伏するのでどうか命だけは助けてくれと。
貝輪を大量に提供しますから。
しかし倭国軍は長を捕らえ、縛りつけます。
矢をつがえて、
「金印のありかを吐け。」
と尋問してきたわけです。
本当に何もしらない長は、「知りません」と正直に叫ぶが、
一本ずつ矢が撃ちこまれます。
「何のことか本当にわからない。許してください。」と叫ぶ長に
次々と矢が撃ちこまれてゆき、品詞となって、
本当に何も知らなさそうとわかって、止めに鉄鏃の矢が撃ちこまれたわけですね。 長の誤算は、タケミナカタが金印を持って逃げたことです。
倭国としては、漢委奴国王金印を奪い返すことが国家としての至上命題。
実際に百数十年後に狗奴国勃興して金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の入手へと繋がるわけですから。
だから同じ委奴国王一族でもタケミナカタの集落だけは徹底捜索を受けた。
24体もの墓が掘り起こされ、これも徹底的に調べたわけでしょう。
なんとか逃げのびた村人が、後に戻ってきて、
頭部だけでも集めて再葬したわけです。 タケミナカタ本人は、東へ逃げたわけですが、
西にもタケミナカタの一族がいたわけです。
考えてみれば当たり前で、金印奴国を挟んで、
タケミナカタ本人は、東の出雲で敗れて東へ逃げた。
そちらには倭国水軍ならびに銅矛銅剣戦争の恨みに怒るタケミカヅチがいます。
となれば、金印は逆に西へと持ち去られたわけですね。
平戸や五島列島などにも貝輪集積遺跡があり、その辺りを拠点に抵抗を続けたわけです。
タケミナカタ本人が東へ逃げたので、銅戈追跡隊も東に本腰を入れた。
もちろん銅戈は西にも攻めており、伊万里から出土しています。
東の越後諏訪はだだっ広い陸上戦となるので、
本格的に攻め込まれると、掃討されやすい。
しかし西の長崎は、島だらけなので、あちこち逃げ回られると追いきれないし、
兵站も維持しにくい。
タケミナカタは佐世保あたりの山上に斥候を置いて、銅戈水軍が攻めてくると狼煙を焚き、
倭国軍が小中規模なら迎撃、
大規模侵攻なら九十九島や島原へと退避したのでしょう。
吉野ヶ里遺跡は当時は海辺の要塞。
筑紫〜熊本木材鉄工所の物流ラインを、
長崎タケミナカタの襲撃から防衛するためのものでしょう。 吉野ヶ里の妙な環濠は、タケミナカタを捕まえるためですね。
外から攻めるタケミナカタから見ると、登りやすい土壁。
登って攻め込むと、外から見えない内側に銅戈兵が待ち構えていて、
鉄戈で引っかけて、内側の堀へ引きずり落とし、
さすまたで押さえつけて捕縛したわけです。
生け捕りにして、金印の在りかや、拠点の位置情報を吐かせたのでしょう。
諏訪ではタケミナカタ本体が降伏しましたし、
いずれも金印が長崎に隠されている情報はバレたでしょうが、
その頃に、「倭国乱」が発生し、
上のスレ群へとつながっていったわけですね。
曹操墓のおかげでここまでがわかりましたね。 >>184
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑) 全国各地に、今もって忌部の地名を残しているのは「忌部(物部)一族」 だけ。 @阿波 >>190
阿波忌部(自称であって同族ではない)笑 阿波忌部は委託を受けた代行業者
一時期ネットで問題になってた大阪ガスサービスショップみたいなもん ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています