>>312の続き
「三国志」「魏志韓伝(馬韓伝」「辰韓伝」「弁辰伝」には、以下のように書かれている。

「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である」。

「辰韓は馬韓の東にある。その古老は、代々伝えて、自ら次のように言う。いにしえの逃亡者で、秦の労役を避けて韓国にたどり着き、馬韓がその東の外れの土地を割いて与えたのだと」。

「始めは六国あり、徐々に分かれて十二国になった。その(辰韓の)十二国は辰王に属する。辰王は常に馬韓人を用いてこれを作り、代々、受け継いでいる。辰王は自立して王になることはできない」。

「辰王は月支国で統治している」。

「弁辰と辰韓、あわせて二十四国」。

「弁辰は辰韓と雑居する。城郭がある。衣服や住居は辰韓と同じで、言語や法俗も似ている。鬼神を祭ることに違いがあり、かまどは家の西側にある」。

「十二国には王がいる」

ここから、辰韓の人たちは、中国から秦の時代に逃亡してきた人たちで洛東江の東側から北にかけての辰韓の地に国々を作ったが、洛東江周辺には彼らが移住してくる以前から韓族が住んでいたので、洛東江周辺から南側の弁韓では漢族と辰韓の人たちが雑居する形になって、その地の国々は弁辰と呼ばれたと、考えられる。

なお、辰王がいたという月支国は古代朝鮮語で「タル」「キ」国といい「霊域」「霊国」の意味で、現在の忠清南道天安市の西北部の禝山、昔禝山郡の郡治に比定されており、また、この禝山は、慶長の役で日本軍と明軍とが激戦を展開した要地であった。