扶余隆の墓誌ははじめに「百済辰朝人也」、禰軍墓誌ははじめに「熊津嵎夷人也」。書き方にルールがある。
百済と熊津は地名。地名で始まる。
禰軍は百済の一地域の熊津と書かれているのに対し、隆は百済と書かれ一地域の人でないと墓誌を比較すると判断される。
嵎夷人は蔑称的で王族でないことを表し、隆は辰朝人の朝から王族の人であることを表している。
百済辰朝の百済が地名であることが確定すると、辰朝は時間を確定させている。
「百済の地の辰の王朝のときの人」と読める。
辰は(唐が用いた)扶余王朝の固有名詞。もちろん辰王(辰国)の系脈の意味だ。