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邪馬台国畿内説 Part453
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0001◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:03:19.64
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556815392/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:05:08.62
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:05:28.00
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:05:44.47
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:06:01.52
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:06:18.41
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:06:34.96
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0008◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:06:50.63
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:07:10.49
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:07:28.72
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:07:47.45
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:08:09.06
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:08:26.60
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※

実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
0014◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:08:44.71
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:09:04.06
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:09:24.17
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:09:42.35
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:09:59.35
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:10:19.72
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:10:40.54
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0021◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:10:58.39
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:11:17.41
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:11:35.50
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0024◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:11:55.52
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0025◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:12:15.82
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0026◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:12:38.89
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0027◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:12:57.61
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0028◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:13:19.52
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0029◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:13:38.10
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0030◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:13:55.16
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0031日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:14:10.76
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0032◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:14:15.03
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:14:32.57
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:14:35.63
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0035日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:14:36.86
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0036◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:14:52.28
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0037日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:14:57.93
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0038日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:15:10.14
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0039◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:15:11.50
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0040◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:15:30.94
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0041日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:15:37.04
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0042◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:15:47.06
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0043日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:15:51.96
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0044◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:16:04.73
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0045◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:16:22.96
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0046日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:16:44.51
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0047◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:16:44.21
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0048日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:16:56.87
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0049◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:17:08.86
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0050日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:17:13.23
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0051◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:17:30.59
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0052◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:17:50.46
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0053◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:18:09.63
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0054日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:18:11.16
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0055◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:18:25.68
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0056日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:18:39.25
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0057◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:18:41.32
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0058日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:18:49.95
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0059◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:19:09.39
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0060日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:19:12.20
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0061日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:19:24.90
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0062◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:19:26.44
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0063日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:19:42.90
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0064◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:19:44.87
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0065日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:19:56.66
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0066◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:20:07.31
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0067日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:20:10.93
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0068日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:20:23.12
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0069◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:20:23.20
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0070◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:20:42.56
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い


◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0071日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:20:51.16
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0072◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:21:01.35
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0073日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:21:03.29
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0074◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:21:17.87
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0075◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:21:36.92
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0076日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:21:56.11
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0077◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:22:04.27
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:22:08.24
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0079◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:22:22.89
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
0080◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:22:41.87
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:22:53.60
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0082◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:23:02.58
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:23:16.94
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0084◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:23:23.49
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
0085◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:23:46.13
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0086日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:24:00.18
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0087◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:24:14.89
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0088日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:24:31.42
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0089◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/05(日) 12:24:31.65
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
0090◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:24:51.25
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
0091◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:25:18.09
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
0092◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:25:36.95
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

https://i.imgur.com/EXTU3lu.png


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
0093◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:25:56.77
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値を示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0094◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/05(日) 12:26:32.18
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 2を修文、58に追記
0095日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:26:47.99
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:27:48.87
このスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。

真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。

架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、

ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、

拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。

拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身を調べました。。。
頭部が、緑と青と赤のものが作製されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
0097日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:31:35.09
邪馬台国はヤマト国
他の畿内は邪馬台国ではありません

一般の人に誤解を与えるタイトルは変更するベきです
他の畿内にはまた別の歴史があります
その土地の歴史を奪うことは人間として一番してはいけないことです
0098日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:43:58.53
年表

西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇が誕生した。
107年 第6代・孝安天皇(倭国王帥升等)が後漢に朝貢した。
177年 第10代・崇神天皇が即位した。
179年 奈良県の三輪山西麓の瑞籬宮に都を移した。
181年 ニュージーランドのタウポ大噴火
181年 疾病の流行。『崇神紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ」
181年  『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
182年 『後漢書』によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く
181〜184年 倭国大乱
183年 モモソ姫の助言で大田田根子に大物主神を祀らせたら五穀豊穣となり疾病が治まった。
184年 疾病などの影響で崇神天皇が権威を失った。倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫か大田田根子が女王・卑弥呼になった。
184年 黄巾の乱が勃発し、漢が衰退した。漢から授かった金印の権威消失。
198年(戊寅年) 崇神天皇が崩御した。
199年 第12代・垂仁天皇が即位した(女王・卑弥呼を補佐する役割)
202年 纒向珠城宮(纒向遺跡)に都を移した。
※『魏志倭人伝』によると官のトップは伊支馬(垂仁天皇の本名は伊久米),次席は弥馬升(垂仁天皇后の本名は日葉酢)
237年 垂仁天皇が崩御した。
238年 第12代・景行天皇が即位した。(女王・卑弥呼を補佐する役割)
238年 難升米と都市牛利が魏に朝貢した。卑弥呼が「親魏倭王」の金印を授かった。
248年 『三国志』によると女王・卑弥呼がついに亡くなった。
264年 景行天皇の息子ヤマトタケルが熊襲討伐に成功。
266年 台与が晋に朝貢した。

※約100年間の天皇不在の空白期間
※卑弥呼と台与を日本の歴史から消す代わりに架空の天皇である第13代天皇と第14代天皇を創作し空白期間を埋めた。

390年 第15代・応神天皇が即位した。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:55:32.17
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身を調べました。。。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 12:57:59.18
100
0101日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 13:01:10.04
討論会を開始すれば、良いのでは、ないのかな、、、
0102日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 13:04:43.17
九州説はスレもなくなり残党が寄生虫状態
しかも畿内説に反論一つできず荒らし専業化

完全に勝負ついちゃったね
0104日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 14:12:18.11
九州説だと場所が比定出来ないから論が展開できなくて
九州説=畿内否定説になってる
0106日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 14:42:03.57
畿内説も無くて、邪馬台国ヤマト説だけやな
0107日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 14:47:56.47
前スレ 以下 異議はないよ
邪馬台国の王都より説得力がある


>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
「纏向は古墳造営基地  掘立柱建物は安全祈願の神社か斎場 」

根拠
1、集落跡が無い、生活用具が少なく土木具が多く出土
2、搬入土器が多く各地から作業員が来ているし、市的機能を持っていたであろう
3、物資運搬の運河が築かれ古墳建設の土木工事が行われている
4、多くの古墳がある
5、斎場と見なされる 大型掘立柱建物がある
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>


1について、
土木作業員は貧しい人か、奴隷だから竪穴式住居や高床式住居に済ませなくても良いし、常駐しなくてよい   土木用木工具(木製鏃等)が多く出土してるのもうなずける

2について
その通り 矛、盾、木弓の出土も無く警備は皆無

3について
楼観、城柵も無く 水路はお堀でなく物資運搬用の水路であろう

4について
その通り

5について
その通り  卑弥呼と結び付ける遺物は皆無
 
0108日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 14:52:02.54
>>106
邪馬台国七萬戸は畿内第V様式土器を共通に使う範囲
奈良盆地だけじゃないよ
纒向は邪馬台国ヤマト国の中の王宮所在地
0109日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 14:59:13.56
桜井市の観光戦略は失敗におわるだろう

纏向を邪馬台国と卑弥呼で売り出すより

古墳ミュージアムみたいなものを作り
古墳の築造方法の紹介
古墳から見つかった遺物展示
全国の特筆すべき古墳の紹介
古墳の散策コース
古墳時代の人々の暮らしの紹介と生活用品の展示
等々

俺が桜井市民ならそうするな
0110日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 15:02:19.76
>>108
>邪馬台国七萬戸は畿内第V様式土器を共通に使う範囲

それを言うなら、軽量薄型丸底土器(東阿波型土器)を共通に使う範囲。

畿内第V様式土器はあくまで、厚型の弥生土器にすぎない。   @阿波
0111日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 15:06:58.60
>>108
>纒向は邪馬台国ヤマト国の中の王宮所在地 <

土木作業は何のためにしていたのかな
都市を作るためなら、集落跡があってもいいし、生活を匂わせる遺物が見つかっても良いが無い
ポツンと大型掘立柱建物があるだけで王宮所在地と言えるだろうか 警備の証跡も無い
0112日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 15:09:34.79
畿内第V様式土器は卑弥呼以前だろ
それまでは同じ勢力圏だったという話
0113日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 15:21:33.61
集落がないとか、ポツンと大型掘立柱建物があるだけとか
誰の空想?
0114日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 15:27:27.64
土木作業員なんていないんだけどな、
後付け(時代的に最近)か何かの話をしているの?

家もセメント関係の会社で〜と言っていたし、
仕事をしていたとか
0115日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 15:30:03.49
それ以前(不明)は、
そういう仕事(セメントが何やら〜)をしていたわけでもないし

『松傾』?
こういう名前の家
0116日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 15:30:08.64
卑弥呼の次の男王の顛末、台与がどうなったか、台与の後はどうなったかが問題やな

当麻蹴速と野見宿禰の相撲は何だったんだろうか?
0117日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 15:37:44.31
>>113
都市と思わせる集落跡が無いんだからショウガアンメー
0118日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 15:46:03.57
詳しいことは、
わからないんだけど、老婆が言うには


泥棒のようなものに入られて・・・、
その後に仕事をするようになったのかな?

そういう話
0119日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 15:46:41.17
纏向は古墳造営基地でよいよ
王都は葛城
0120日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 15:50:47.84
>>109
いい考えだ
邪馬台国だの卑弥呼だの言うより
現実味があっていい案だ
0121日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 15:55:26.42
当時、持っていた、
お金なんかも無くなったとか?
そういう話もしていたり


機織りをしていたのかな、何の職業だったんだろう

蚕を飼い、機織りなんかをしていた家だよ
とばかり言っていた
0122日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 16:03:04.90
>>107
75パーの妥当性で考えれば
纏向は ほぼ100%に近い古墳造営基地で正解だな
0123日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 16:09:22.78
『王母 龍宮 鳳輿 長竿 寒』

調べてみると、むかーしの中国(king)の話が出てきたり、
どういう事なんだろう
0124日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 16:10:50.90
>>122
根拠もないのに?


w
0125日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 16:13:01.77
>>117
無いと言ってるのは何処の誰さま?
0126日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 16:15:29.29
>>112
>畿内第V様式土器は卑弥呼以前だろ
>それまでは同じ勢力圏だったという話

北部九州以外で、王権の伸張、広域の合従連衡が進む中で、
いち早く一つの精力としてまとまった領域がバラけて弱小化するべき理由がない

九州説は歴史の流れを無視して、自説の都合に合わせてトンデモ解釈を
根拠なく言い張るのみ
0127日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 16:16:00.00
日本でいうと『松傾』、中国でいうと『王昭君』?

『 Yngwie Malmsteen - Best of [HQ] 』


日本昔話『姥清水』もそうでしょ
0128日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 16:18:11.22
>>116
>卑弥呼の次の男王の顛末、台与がどうなったか、台与の後はどうなったかが問題やな

ヒコ王では倭王と認められず、新たにヒメ王を倭王として立てる必要があった、ということだろ
その後、祭祀連合から武力統一、ヒコ王の統一に向けて歴史が動いていく

>当麻蹴速と野見宿禰の相撲は何だったんだろうか?

出雲の服属に関する説話だろう
0130日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 16:36:27.27
『姥清水』調べてみると、
楽器を持っている画像が出てくるでしょ

この家、財宝の話なのかな?
泥棒のようなものに入られたとか
0131日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 16:39:44.03
>>124
根拠は是でいいのでは
反論が・・・・・

根拠
1、集落跡が無い、生活用具が少なく土木具が多く出土
2、搬入土器が多く各地から作業員が来ているし、市的機能を持っていたであろう
3、物資運搬の運河が築かれ古墳建設の土木工事が行われている
4、多くの古墳がある
5、斎場と見なされる 大型掘立柱建物がある
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>


1について、
土木作業員は貧しい人か、奴隷だから竪穴式住居や高床式住居に済ませなくても良いし、常駐しなくてよい   土木用木工具(木製鏃等)が多く出土してるのもうなずける

2について
その通り 矛、盾、木弓の出土も無く警備は皆無

3について
楼観、城柵も無く 水路はお堀でなく物資運搬用の水路であろう

4について
その通り

5について
その通り  卑弥呼と結び付ける遺物は皆無
 
0132日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 16:42:26.26
>>125

集落跡が見つかったと言ってるのは誰?
0134日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 16:44:55.43
ないものねだりの畿内説ww
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 16:46:22.34
それにしても本当に、おかしな話ばかり

『オズボーン ふなっしー』

本当は『船氏』〜関係の話でしょ
0136日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 16:48:39.97
石野・寺澤・橋本さんは纒向は大集落と言っている
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 16:50:35.70
>>134
>ないものねだりの畿内説ww

自分の主張に根拠がないと認める九州説



ばかですか?
0139日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 16:52:22.54
>>131
それがなんで根拠なの?
0141日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 16:56:48.60
『松傾』

松の木が立てられていた写真があるでしょ、
同じ名前の家なんだけど。

白い制服のようなものを着ていた写真も、
『松傾』の家の子供のころ。

『ガンダム サングラス』
このような白い服の写真も同じ。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:05:32.30
家は軍人(親も)とか、
そういう家でもないと言っていたしな・・・、
おかしな話ばかり。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:06:18.94
石野・寺澤は銭儲けだから
信用ならん
0144日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:07:52.49
>>137
反論できないと罵るのは、あなたがアホな証拠だよ
0145日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:08:45.96
>>143
誰を信用するの?
どんな理由で?
0147日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:10:52.65
>>140
範囲確認調査
0148日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:12:26.41
連続して人の営みが確認できる遺跡が途切れることなく広がっているのに、
それを大集落ではないという理由がむしろ分からない

例えば、鍛冶遺跡に人は住んでいないが、その鍛冶によって作られた製品は
人の生活のために遣われるものだ

集落遺跡の中の鍛冶遺跡だけを集落ではないというのは意味がないだろう
0149日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:13:49.56
>>146
相変わらず全く理由を言わない九州説


w
0153日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:22:05.66
家の親戚(かなり近いところの親戚、親の兄弟、姉妹・・・いとこなど)は
衝撃(ショック)を受けているんじゃないの?

「??????????????❓」
このような状態になっていると思う
0154日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:23:39.97
>>150
>鍛冶遺跡も無い

あるよ?
情弱が新しい情報を知らないだけ

纒向遺跡第174次調査
「そのほとんどは纒向遺跡の最盛期である3世紀代のものです。
 それらの遺物の中には、近辺で鉄器生産がおこなわれていたことを
 示す鞴(炉に空気を送り込む道具)の羽口や鉄滓、鉄片など特筆すべき
 ものがありました。鉄器はその当時では貴重なもので、纒向遺跡の
 中でいつ・どのくらいの規模で鉄製品の生産が行われていたか解明して
 いくことが今後必要になっていきます。 」
http://www.makimukugaku.jp/info/hakkutsu.html
調査地は纒向石塚古墳の北東200m、居館域の発掘調査地点からは北西に約400mの地点
0156日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:26:18.68
小6、中学の頃だったかな、
もれ(仮)は、ドラクエの曲が好きだったような気がするんだけど


「あの当時から・・・・・・・・・・・知っていたのか?」となるでしょ
0157日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:30:30.74
>>152
このように
トンデモはいつも主観しか無い
0158日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:32:04.64
古代ヤマトは暴君の土地だな
古墳づくりより、君主としてやる事は一杯あるだろうに
毛人の土地だな
それを変えたのが天皇じゃねーか
0159日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:33:26.12
>>155
大人口を動員しないと造営できない大墳丘墓がいくつもある遺跡だよ?
ここに多数の人が集まっていたのは否定しようもない

それを寒村と嘯くくらいしかできることがないところまで追い詰められているのが
九州説(と葛城説ww)の現状だ
0160日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:36:57.93
ほんとーに、おかしな話ばかり

銀〜???なんていう親戚もいたよ、
と言っていたり、家に刀が・・・w
0161日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:38:37.59
古代ヤマトは暴君の土地だな
古墳づくりより、君主としてやる事は一杯あるだろうに
毛人の土地だな
それを変えたのが天皇じゃねーか
0162日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:41:34.94
>>147
範囲調査はわかるけど
都市としての機能はなんだと思う
0164日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:45:12.67
>>161
>古代ヤマトは暴君の土地だな
>古墳づくりより、君主としてやる事は一杯あるだろうに

浅薄な知識しかない人は発送も貧困だなww
平安時代の朝廷の中枢の貴族たちの仕事は和歌を作ることだったって理解しているかい?

よい和歌を作り、その言霊で神仏を慰め国家の安寧をはかるのが、国家の運営に
責任を持つ貴族の仕事だったんだよ

大古墳を作ることも、国家祭祀の一環なんだから、民草のことを考えるからこそ
立派な古墳を作らなければいけなかったんだよ

そして、国家祭祀を主催するのが祭祀王たる卑弥呼・倭王の仕事な訳だ
纏向遺跡の存在様態そのものが、当時の倭国の中心、中枢であることを示している
0166日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:48:26.08
>>161
感情だけで理性のない言葉ですね
0167日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:50:38.25
>>107 賛同
統計学的 サンプル数から
纏向を王都とするよりは古墳造営基地の方が妥当性はある
ベイズ推定で立証できると思うが
畿内説は統計学に疎いから妄想に走るのだろう
0168日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:53:25.11
>>162
>範囲調査はわかるけど
>都市としての機能はなんだと思う

何度も答えは出ているじゃないか

祭祀王の王都 

これに尽きる
複数のよそでは見られない規模の祭祀土坑が発掘されていることも、それを裏付けている

また、王の下へは、王を共立した地域からの人も集まるし、
市としての機能もあっただろうけどね
0169日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:55:23.22
>>166
あんなに多くの古墳作るには作業員は優待受けていたと思う
纏向には生活痕があまりにも少なく作業員は冷遇だよ
それともテント食料持参のボランティア?
0170日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 17:59:02.77
>>167
>纏向を王都とするよりは古墳造営基地の方が妥当性はある

古墳造営こそ、祭祀王の仕事だというのが理解できれば、
最大の古墳のある土地こそ、王都のお膝元だと分かるだろう
0172日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:03:06.82
>>169
>あんなに多くの古墳作るには作業員は優待受けていたと思う

そこまで理解できていたらあと一歩!

それだけの人数を食べさせるだけの食料を用意できるのは、
当然に大集落を持つ王都だけなんだよ

纏向が集落ではないというのが、ただの寝言だって言うだけのこと
0174日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:07:23.93
スサノオ・・・その他?
むかーしの中国の話だと言っているのに、
本当はそうなんだよ


なぜ「違いますw」
みたいな事にしたいんだろう

『外三郡誌』にも、
日本の東北地方のほうには、
むかーしの中国の・・・・・・・・と書いてあるとか、
読んだことがないから、わからないんだけど、正解だと思う
0175日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:10:36.59
>>171
>古墳が出来たら、はいさようなら

本当に情弱なんだねぇ
纏向古墳群で、100メートル級以上の倭国最大の大墳丘墓が累代的に5基造営されたあとも
大倭古墳群、柳本古墳群では大小さまざまな古墳の造営が続いている

それだけ、永続的に大勢の人が存在し続けていたんだよ

纏向を否定することしか考えていなくて、大倭古墳群も柳本古墳群も意識してなかったんだろ?
そういう、断片的なチェリーピッキング思考しかできない人しか、
九州説には残ってないんだよ
0177日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:13:31.57
>>175
古墳が出来たら、はいさようなら
次の古墳でこんにちは
古墳が出来たら、またさようなら
0178日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:16:14.95
違いますwと
否定するのは、何やら教〜、そういうのが影響しているのかな


宗派、信者、団体など
0179日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:17:10.18
>>158
何故か奈良に農作業のしない兵が集結した結果だよ
大規模土木工事は
0180日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:18:25.49
>>176
>貧しい寒村の墓場だな

前方後円墳が、見られることを意識したビジュアル重視の大構築物だという観念が
ない人間しか、そういうバカなことは考えないし書き込まない

前方後円墳は権力誇示のためのモニュメントであり、大勢の人に見られることを
目的に作られるのだから、寒村にそんなものは作られないんだよ

だから、北部九州にはそんなに大きいのはないだろ?
北部九州なりに精一杯の大きさのものを作ってはいるけれどw
0182日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:20:38.27
>>177
>古墳が出来たら、はいさようなら
>次の古墳でこんにちは
>古墳が出来たら、またさようなら

残念ながら、多くの古墳が並行して造営されているんだよ
まあ、それぞれの現場はあっただろうけれど、常に大人口で賑わい続けていた訳だ

いちゃもんにも切れがなくなってきたなww
もう、ケチを付けるネタもネタ切れになってきたなw
0183日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:22:31.02
>>179
>何故か奈良に農作業のしない兵が集結した結果だよ
>大規模土木工事は

何故か、じゃないだろw
王のお膝元だから、多くの兵(とは限らないが)が終結しているんだよ

王以外が動員を掛けても、食わせられないからねw
自分で、纏向が王都であると考えるべき根拠を挙げてることに早く気づけるといいね!
0184日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:25:22.26
>>172
>それだけの人数を食べさせるだけの食料を用意できるのは、
当然に大集落を持つ王都だけなんだよ <


古墳造営の作業員は食料食わないと働けない 食料の用意は当然
0185日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:25:55.27
纒向遺跡は巨大な兵の駐屯地
兵を束ねるのが女祭祀王の役割
巫女、鏡、櫛、兵はセット

ヤマトは都でもあり対狗奴国の前線基地
0186日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:26:57.51
>>181
>貧しい寒村だからこそ出来る墓場だな

繰り返すが、貧しい寒村では見る人が少ないので、そのような大きな構築物を作る目的にそぐわない
これも繰り返しだが。貧しい寒村ならそれだけの大人員を食べさせるだけの食料が調達できない

大古墳が造営されている時点で、貧しい寒村というやつがバカという状況になる
0187日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:27:56.27
狗奴国とは攻撃し合っているんだよ

狗奴国との境界、前線に兵が集結するのは当然
0188日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:28:09.85
>>182
あっちの古墳でもこんにちは
古墳が出来たら、はいさようなら
次の古墳でこんにちは
古墳が出来たら、またさようなら
0189日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:28:24.35
『姥清水』
他の作品の画像も見てみて

例えば、大蛇の話

大蛇が出てきて・・・剣や刀(神話、伝説級)で退治するというのも、
むかーしの中国の話でしょ、日本昔話となっているけど、
正確には中国の話
0190日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:28:40.48
>>11 ◆UiepmfCeDJqf

あんたは5ちゃん運営のプロだね
邪馬台国を題材にしたのはgoodだけど知識が無さすぎだよ
畿内説の学者の引用も良いけど 自論は何なの
0191日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:34:08.96
>>184
>古墳造営の作業員は食料食わないと働けない 食料の用意は当然

おいおい、箸墓の造営には10〜15年かかるっていう試算も知らないのか?
郷里から10から15年分の食料持参で古墳を作りに来るなんてありえないって分かるだろ?

それは、王都周辺から調達するんだよ
そして、王都だから、それだけの食料が用意できる
0192日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:35:42.25
>>188
バカ?

どっちにしろ、ずっと大和の地にいてご飯を食べて働き続けているんだぞ?
0194日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:36:09.93
奈良に大きな勢力があった事すら否定しようとするのは無理があるわ
0196日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:41:22.66
>>187
>狗奴国との境界、前線に兵が集結するのは当然

邪馬台国は前線ではない
卑弥呼の王宮には婢千人がいるような平和な状況だ

大体、邪馬台国から
斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、
蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、爲吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、
支惟國、烏奴國、有奴國。
が間に入って、此女王境界所盡まできて、その南に狗奴國あり、なんだから、
前線でもなんでもないだろ?
ちゃんと魏志倭人伝を読めよ
0197日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:43:02.95
>>193
>寒村で自給自足だな

自分で、農作業はしていないって言ってただろ?
自給自足は無理だよww
0198日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:45:16.37
>>195
>あるわけねーだろ

九州説は、反論一つできなくなると、根拠なしの一言コメントで、
反論したという体だけ取り繕うww

惨めなものだな

あるわけねー、と判断した「具体的な理由や根拠」を書かない限り、
無意味な戯言以下だww
0201日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:50:41.84
>>196
君の読解力が低いからそんなアホなことが言えるのだ
0202日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:53:47.84
>>201
罵倒するだけ?

それって、あなたが論破された証拠だから
0203日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:54:57.79
柵、城は『き』と呼ばれていたらしい
高城たかき 石城いわき
というような例がある
神話におけるスサノオが木を植える話とかどういう意味なんだろうか?
兵を集めて拠点を作ったのかもしれない

古代において、【兵】【巫女】【櫛】【鏡】はセット
軍隊に随行する巫女の一軍の埴輪も見つかっている
また櫛を頭に刺した巫女や鏡を掲げた巫女の埴輪も見つかっている

木、兵、巫女、櫛、鏡
これが邪馬台国、初期のヤマト政権の起源かもしれない

更に興味深いのは、【賀】と【櫛】の関係性
賀は牙
旗印を掲げた拠点 、国境の防衛拠点、関

◎伊勢津彦、又の名は【櫛】玉命
伊勢津彦は伊賀に石の【城】を作っていたという伝承もある

玖賀(京都)〜敦賀〜多賀〜甲賀〜伊賀〜雑賀〜那賀(阿波)〜香賀(讃岐)〜英賀 (播磨)
倭国大乱前、賀で囲まれた国が作られていた可能性がある

倭国大乱でそのいくつかは謀反を起こしたのだろうか?
0204日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 18:54:58.69
>>200
そんなふうに
「根拠を示さずに決めつけ」するのは
妄想
0205決まったの?
垢版 |
2019/05/05(日) 18:57:51.81
纏向は倭種の別国の古墳造営基地と墓地で決まったの?
0206日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:00:35.13
>>204
傍国とは境界の外にあり境界をなす国
広大な女王国の周辺の国

狗奴国は女王国或いは都が置かれた邪馬台国の南の国(はっきり明記されていないからどちらか不明)

傍国の南に狗奴国があるわけではない
攻撃し合っているんだから接していると考えるのが妥当

間に他の国があってどうやって攻撃し合うのか?
0207日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:00:37.86
もう、まともに議論もできない不調法者しかいないんだな、九州説には

根拠もなく「寒村がー」「集落じゃない」と言い続けるだけ
相手にする必要すらもうないのかな?
0208日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:01:35.18
>>204
人の生活痕から寒村だよ
ダム建設の地と同じく土木作業員がいる間は賑わってるが
其の後は寒村で良い
今も航空写真を見る限り明るい農村だよ
0209日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:03:58.55
>>207
纏向が古墳造営基地と斎場兼市場に対する反論は?
斎場に市はつきものだし・・・
0210日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:06:40.68
>>205
>纏向は倭種の別国の古墳造営基地と墓地で決まったの? <


スレの流れから、このスレに限り決まったと思う
0211日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:11:11.13
レス遅れでスマンが
ベイズの数式を畿内説が導入するなら
複雑なベイズの数式から論ずるべきだと思う
98.4%か96.2%かしらんが
数式がベイズの定理とかけ離れてる
0212日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:16:23.81
>>206
>狗奴国は女王国或いは都が置かれた邪馬台国の南の国(はっきり明記されていないからどちらか不明)

却下
次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國

次に奴国あり。ここ、女王の境界の尽きる所。その南、狗奴国あり。

余傍国の最後の奴国が、女王国の境界の尽きる所であって、
邪馬台国のところには女王国の境界はない=邪馬台国は前線ではない

そして、奴国の女王の境界の尽きる所のその南が狗奴国の場所
邪馬台国と狗奴国は境界を直接接していない
0216日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:18:56.61
>>214
そうやって罵るだけといのは
あなたが論破された証拠
0220日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:30:49.36
>>218
大人口がそこにあったのは確実
なぜなら、大きな労力が必要な大墳丘墓が現存しているから

そして、大人口がある場所が貧しい寒村であるというのは破綻している
なぜなら、寒村はその大人口を支えるだけの食料調達ができないから

>>218は、根拠なく妄想による決め付けを繰り返すだけの無能であることが確定
0222日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:36:28.16
>>213
あんたが証明したら従うよ
どういう数式がベイズなの
0223日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:39:12.88
>>213
もういいよ 又 騒ぎ出すぞ
鬼の首を取った奴が

ベイズは諦めな
>>1も逃げたよ
0224日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:39:33.75
>>222
「数式がベイズの定理とかけ離れてる」
と、ウソをついていたことが
確定した
0226スレ主さんへ
垢版 |
2019/05/05(日) 19:43:21.97
纏向が王都でなく古墳造営基地と言っている方への反論すべき
0227日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:45:30.02
纏向を古墳造営基地と言った

@阿波は博識だよ


阿波説は無いけどなww
0229日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:47:18.15
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:48:27.68
阿波もただのチェリーピッカーだぞww
博識とかとんでもない
やつがトンデモなのはそうだがww

万津浦が末盧国だとかいうデタラメww
0232日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:49:42.37
>>229
理由もなく笑っていると
馬鹿にしか見えないぞ

事実ばかなら仕方ないが
0233日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:53:43.11
A:此処× 
次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國
・・・次に奴国あり。此処、女王の境界の尽きる所。その南、狗奴国あり。

B:此れ○
次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國
・・・次に奴国あり。此れ、女王の境界の尽きる所。その南、狗奴国あり。

即ち、その余の傍国はカクカクシカジカで次有奴國(傍国群は以上で終わり)、此れ、女王の境界の尽きる所・・、
と読むのがふさわしいのではないかねえ。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 19:57:08.10
>>303
しつこいヨ
すれ主も人の子
間違いもある
0235日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:00:20.84
間違い 俺も人の子 許せ

>>211
しつこいヨ
すれ主も人の子
間違いもある
0237日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:06:12.63
仕方ないよ
1 ◆UiepmfCeDJqf は考古学の勉強で精いっぱい
ベイズは勘違いのお遊びでいいんでねーか
0238日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:08:40.84
>>236
俺にとってイミフ
くわしく頼む 俺ばかだから
0239日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:14:12.02
つまり>>237はいつものあの
必ず自分の方が間違ってる恥いさんかあ
0241日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:18:44.73
>>232=>>1なの

ベイズも知らない与太話じゃねーの
ベイズの数式はそんなに単純じゃないよ
統計学に>>1が精通してない証拠だよ

>>1異論があればベイズの数式から導き出せよ
0242日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:21:49.73
>>241
だから、異論があるなら
お前が
どこが間違いか具体的に書けば?

出来ないってことは
お前がデタラメ言ってるってことこと
0243日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:26:45.55
>>241はいつもの、まったく具体的な反論ができないアノ人でしょ
つまりハクチーくん
0244日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:36:21.60
>>241
>統計学に>>1が精通してない証拠だよ

その証拠、お前が出さんといかんのでないの?
0245日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:45:02.95
>>242=スレ主で確定だと思うが

1-(1-0.75)^3=98.4%
0.75^3/(0.75^3+0.25^3)=96.4%


この数式はベイズという根拠を持ってるの?
あなたの条件は
「学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できる」
でしょう

上記の式にふさわしくないよ
確信するなら出典や、学術的に臨床された具体例を出してくれるww
0246日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:47:33.65
魏志倭人伝を普通に解釈した場合、
もし機内に邪馬台国があったとしたら、
九州上陸後の道中が省略されまくりなんじゃないの?
四国でも同じ。
瀬戸内海進んだ行程を単に水行一月とかないでしょ。



って散々言われてるかw
0248日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:51:15.00
>>1
止めとけ 75パーを蒸し返すのは
畿内説と関係無いあんたが不利だし 畿内説が誤解される
本論の畿内説に絞ったほうがいい
0249日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:55:26.29
>>524
>箸の歴史
有力な説としましては、7世紀に入ってから遣隋使が中国から日本に帰国した際に、
中国の文化を日本に持込み、そのなかのひとつに箸があり、徐々に日本の文化としても根付いていったとされています。<

ふーん、成程。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:56:25.34
>>533
>九州説が数値も画像も確認しないで投稿してる事は分かった<

画像を見れば、一目瞭然。
始皇帝冢は四角錐台の形。
箸墓や大仙陵は不定形であり、冢では全くない。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:57:21.14
>>551
>>墳丘の山としての傾斜を比べるなら、後円部径と高さの比を見ないとダメだって分からないんだろ?ww
テンプレにもあるこの図で、傾斜はだいたい同じだって一目見て分かるだろうに<

墓の「形」の形容や、「冢」や「墳」の区別は、「全体の形」で決めるものなの。
0252日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:58:17.02
>>245
確定だと思う理由は?

ふさわしくないって理由も書いてね

九州説はいつも理由を言わない
0253日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:58:24.75
>>553
>少し長く引用すると>、
自昔「祖禰」躬甲冑跋渉山川不遑寧處 
東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國
この部分の主語は「祖禰」なんだから、自動詞だったらどうやっても
おかしな意味にしかならないだろ
倭の五王の祖先が自ら甲冑を身につけ、東の毛人55国を征し、
西の衆夷66国に倭の五王の祖先が服したっていうのがザラコクの主張なんだなww
自動詞ならそういう意味にしかならないぞww<

「自昔・・・」なんだから、「昔から倭王武の頃まで」である事になり、
「東征毛人五十五國」と「渡平海北九十五國」が、「自昔〜倭王武」の間にずっと行われ、
「西服衆夷六十六國」は、
「昔に征服が終了していて、倭王武の頃は既に服属した状態である」という意味になり、
何ら問題はない。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:59:12.07
>>246同意する
水行 30日と 同じ陸行1月との整合性が畿内説は説明できない
0255日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:59:27.33
>>250
不定形だと冢では全くない
って理由は?
0256日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 20:59:31.99
>>565
>佐治国男弟は官筆頭の伊支馬と同一人物だと思うよ なんで別人だと思うの?<

邪馬壹國の政治組織と、共立女王の政治組織とは、別のものなのであり、
共立女王國の都が、その下部組織の邪馬壹國の地域の中にある、という関係であり、
卑弥呼の政治組織は、
有男弟佐治國が補佐し、その下に何人かの大夫がいて、
更に一大率や地方の市を監督する使大倭職がいる、という組織であり、
邪馬壹國は、「官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳革是」であり、
女王の都の組織とは違うの。
0257日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:00:14.55
>>251
>墓の「形」の形容や、「冢」や「墳」の区別は、「全体の形」で決めるものなの。

だと思う理由は?
0258日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:00:28.48
>>576
>一つの山、墳丘として造営されている部分で比較しないと意味がないし、
その場合前方後方墳では、後円部高/後円部径だろうし、チビかノッポかの印象は
傾斜角で決まる<

「後円部高/後円部径」なんて、部分の形状の比較は、×。
当然、「墓全体の形状」で比べなければならない。
つまり、スレ主がまたインチキをした、という事になる。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:02:10.38
>>580
>なるわけないだろメチャクチャ言うな
ならなんで渡海があるんだ<

渡海という文言も、水行という文言の中に含まれる。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:03:09.90
>>583
>邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ<

邪馬台国も大和朝廷も、
存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:03:30.42
おいおい
「自昔」は
「西服衆夷六十六國」にも掛かってるだろ
九州説は文法からきしだな
0262日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:04:12.90
>>588
>畿内説・九州説おのおのに質問です
1.女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 ここは何処ですか?<

おそらく、四国の松山付近。
山口県の東部の瀬戸内海海岸では、次の侏儒國に行くのに再度渡海をしなければならないが、
又渡海があった、とは書かれていないから。

>2、又有侏儒國在其南 ここは何処ですか?<

足摺の西方沖の沖の島には、
江戸期まで「低身長部族が住んでいた」という記録があるから、
おそらく、足摺付近。

>3、去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 ここは何処ですか?<

「去女王四千餘里」は侏儒國の位置説明。
又有裸國黒齒國は、「在其東南、船行一年可至」の一年が二倍年歴であるから、半年であり、
東の太平洋横断のサンフランシスコが3カ月であり、その後海岸沿いに南に行く事になって、
エクアドル付近。
そこから、縄文土器が発掘されている。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:05:02.19
>>259
>渡海という文言も、水行という文言の中に含まれる。

じゃあ、なんで書き分けられてるの?
0264日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:08:00.81
>>262
>又有裸國黒齒國は、「在其東南、船行一年可至」の一年が二倍年歴であるから、半年であり、
>東の太平洋横断のサンフランシスコが3カ月であり、その後海岸沿いに南に行く事になって、

ここまで臆面もなくトンデモしてくれると
かえって清々しいな
0265日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:08:49.96
>>590
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者やスレ主や、
5chが、5chが、大和説擁護目的の操作しかしないから、
相手にするのも疲れる
他人に迷惑をかけることを厭わない、というより
むしろ積極的に迷惑をかけることを目的にするというのは、
日本人の価値観にはない行動原理だから、大和説者やスレ主や5chの相手は
徒労感が大きい
0266日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:09:58.97
>>593
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説で、
まともな主張は「どこにある?」ってくらい稀少らしいな
方向も里数も日程も、実際に地理にも合わず、実行不能なものばかり
釈読は類例ゼロの我流珍読
判断は主観オンリーじゃないか
0267日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:11:01.04
>>596
>>「水行」は「陸行」と対比的に対になって使用されており、<

>陸行も、史書の地理旅程記事では陳寿の三国志以前には使われていないんだよ
まあ、陳寿が参考にした底本の撰者かもしれないけど<

中国大陸では、陸行が当たり前であるから、一々記載する必要がないが、
魏使らは、始めて水行と陸行の両方がある行程を記録したので、
「水行と陸行とを区別した記載」が必要になった。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:11:20.33
>>258
>当然、「墓全体の形状」で比べなければならない。

理由も言わずに「当然」とか
決めつけられてもな
0269日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:12:11.01
>>609
>適当に日程書いたやつも2000年後にあーだこーだ言われてるとは思いもしなかっただろうな<

魏使らは、きちんと日程書いたのに、
2000年後の「南→東」などの嘘付き詐欺師の大和説者に、
あーだこーだ言われてるとは思いもしなかっただろうな
0270日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:12:45.23
『伊達の桃太郎』

老婆も、この話と同じような話をしている、
本や書なんかも、誰かにあげちゃったのかな〜とか

どういう事なんだろう
0271日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:13:17.63
>>611
天皇も畿内も存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
0272日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:14:24.44
>>614
>たしかに『魏志倭人伝』の作者は
邪馬台国の場所を知らなかっただろうね
行ったことあるわけないし<

「邪馬台国」なんて、存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×ね。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:15:24.61
>>618
>お前『日本書紀』読んでないの?
「倭国の人口の半分が死んだ」ほどの厄災が起きて
ビビった崇神天皇が平和の神の大物主神を奈良の三輪山に祀ったんだよ
阿波は災害の神である荒魂を祀った隔離地帯 <

書紀の崇神紀のどこに「倭国」なんて書いてあるの?。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:15:54.23
鎮魂歌には初期のヤマト政権がどのような勢力だったかよく描かれている

鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
纒向遺跡の外来系土器から推測すると、初期のヤマト政権は東海山陰吉備が主体の征服王朝だったと考えられる
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。

【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0275日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:16:11.28
>>622
>だから実際よりすごく南に書いちゃったわけでしょ<

陳寿は、女王國に対してきちんと 「会稽東治之東」と書いて、
九州島付近を指し示しているから、「すごく南に書いちゃった」事にならないので、
この男も、×。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:17:00.60
>>625
>まさに「倭大国魂神社」の建立地は、倭の地(国)の証明になる。<

倭国は、魏志の「南≠東」や唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、
北部九州であった事が確定しており、
また、阿波も、元は、大国主の出雲系であったのであり、
卑弥呼らが近臣に下賜した「鏡片」が阿波からも出ているから、
阿波も、卑弥呼の部下が東征征服支配した地域であった事にもなり、
だから、阿波は出雲大国主系と九州倭国系の両方に関係する地であるから、
「倭大国魂神社」が造られて、当然である。
0277日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:19:37.55
>>211
畿内説は、ベイズ推定など導入しない。以上。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:20:20.28
>>275
「会稽東治之東」は
ぜんぜん九州島付近じゃないだろ
世界地理まで破壊する九州って
狂ってるな
0279日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:20:29.27
>>1 しばらく静かにしてくれませんか
短里の矛盾を九章算術で解説してるが飛んでしまう
話題が飛んでレスが速いのは>>1の責任もある
0280日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:21:20.62
>>277
単なる一般常識だよな
0281日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:22:09.15
>>279
また病気?
0282日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:22:12.44
>>277
すれ主を馬鹿にするなら独自のスレ建てろ
ばーーーか
0283日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:22:22.53
>>241
>>245
畿内説は、ベイズ推定など導入しない。以上。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:22:39.89
芝居、歌舞伎・・・、
そういうものを観て暮らしていた、
それとも一時期、芸能関係者になったとか?


そういう話(老婆談)なのかな
0285日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:22:57.92
>>636
>おおよそ大和での前方後円墳は2世紀末から6世紀末。<

大和の前方後円墳は、3世紀末以後だから、×。
0286日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:24:26.82
>>283
九州説さん
「根拠を示さないで決めつけ」するのは
妄想だよ
0287日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:24:40.22
>>281
ここは畿内説のスレ 他説は去れ
       
              以上
0288日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:25:33.04
>>285
>大和の前方後円墳は、3世紀末以後だから

その根拠はデタラメ
0289日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:26:07.01
>>282
>>1
君オリジナルの『ボクが考えた最強の確率統計テンプレ』(←しかも無様に間違っている)
など全く不要。畿内説学者が発表したことのコピペだけでいい。頼むからそれだけやっててくれ。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:27:24.87
>>287
他説が去らんでもいいけど
ばかは去って欲しいな
0291日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:27:28.25
>>286
私は畿内説です。
前スレで懇切丁寧に教えてあげたでしょうが。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:27:37.52
人手の不足が、進行しているのでは、ないのかな、
0293日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:28:02.33
>>289
間違ってるって証拠は?
0294日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:28:03.45
『氷の世界』

本当に、この曲も同じでしょ
0295日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:28:44.64
>>291
誰に、どんなことを?
0296日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:28:49.49
僕達の研究を再開すれば、良いな、、
0297日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:30:35.22
具体的なことを何も言えないのは
だいたいがトンデモな九州説
0298日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:30:44.60
>>296
仲哀天皇の両親が、謎なのでは、ないのかな、、、
0299日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:31:26.95
>>296
あんたら最初から何も研究しとらんだろ
0300日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:34:36.07
今はっきり確信できるのは、九州説の知能がとても低いってことだな
0301日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:35:31.66
両道入姫命という名前には、何か重大な意味があるのではないのかな、、、
0302日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:36:18.61
両道入姫命、、、
0303日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:40:47.78
石衝毘売命という人物は、両道入姫命なのだろうか、、、
0304日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:42:08.43
>>295
>2019/05/02(木) 06:20:57.64>>842
>>>733
>まだ頑張るの?どんだけ無駄な足掻きをするんだ?
>
>別の数値例でもいいんだよ。
>A説とB説があって、
>考古資料で80%:20%
>文献資料で80%:20%
>だと、
>
>A説=1-(1-0.8)^2=0.96
>B説=1-(1-0.2)^2=0.36
>で、合わせると100%を超す。
>
>そして命題の数が増えるほど、両説の確率はそれぞれに100%に漸近する。
>B説の^2を、^5や^10にしてみるといい。
>つまり命題が2つ以上になるほど、君の主張は『一般的に成立しない』んだよ。
>
>いい加減諦めてくれよ。

君はただ依怙地になって、引っ込みがつかなくなっているだけ。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:45:18.53
石衝毘売命は、どのような、二つの道を進んだのだろうか、、、
0306日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:46:42.29
>>304
それ、・・・>>1への反論じゃないよね
突然関係ない話始めて何のつもり?
0307日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 21:47:33.07
仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか、、、
0308日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:10:22.06
僕達は、人手不足に悩む友人のために労働する道と、孫達に、日本国の真実の歴史がどのようなものだったのかを究明し、伝達するための道の二つの道に、進入したのではないのかな、、
0309日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:11:01.55
石衝毘売命は、どのような、二つの道を進んだのだろうか、、、
0310日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:12:00.98
75パーが、いないのでは、ないのかな、、、
0311日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:17:31.03
>>310
お前の負けだな
0312日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:19:21.36
1 ◆UiepmfCeDJqf
の名無し投稿抜きにしてんくれない
FAQを除きテンプレはほぼ畿内説に沿ってるよ
1 ◆UiepmfCeDJqf はあまり顔出しをしないほうが良いと思う
0313日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:19:56.18
>>253
>「自昔・・・」なんだから、「昔から倭王武の頃まで」である事になり、
>「東征毛人五十五國」と「渡平海北九十五國」が、「自昔〜倭王武」の間にずっと行われ、
>「西服衆夷六十六國」は、
>「昔に征服が終了していて、倭王武の頃は既に服属した状態である」という意味になり、
>何ら問題はない。

で、西服衆夷の服が動詞だってのはいいな?
で、その服の主語は何だ?

明確に答えてみなさいww
0314日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:20:05.13
キウス氏は、巧妙な罠を仕掛けようとしているのだろうか、、
それとも、真実を究明しようとしているのだろうか、、、
0316日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:22:25.56
wwは、75パーの癖なのだろうか、、
それとも、頭の悪い者達に流行しているだけのものなのだろうか、、、
0317日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:23:13.19
石衝毘売命は、どのような、二つの道を進んだのだろうか、、、
0318日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:25:15.32
>>279
>話題が飛んでレスが速いのは>>1の責任もある

違うよ
ザラコクと連続句読点が話題を飛ばす目的で意味の無い大量の荒らし投稿をするからだよ
0319日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:26:37.99
卑弥呼は女性と決めつけなくてもいいような気がしてきた
魏の使いが卑弥呼と謁見したとは思えないがーーー
0321日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:27:35.42
僕達の孫達が釣り上げた、75パーは、頭の更に劣ったキナイコシとの笑える同士討ちを解決し、和解したのだろうか、、、
0322日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:29:02.68
>>287
>ここは畿内説のスレ 他説は去れ

別に他説の人が書き込んでもいいんだけど、科学板なんだから
きちんと根拠を挙げて論証できるレベルの人じゃないと恥ずかしいよってこと

九州説は根拠なく思い込みを書き込むだけで議論に堪えるだけの知的能力に欠けているのが問題
0323日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:30:09.05
僕達の頭の良い孫達と、また、このスレッドを題材に討論できれば、良いな、、、
0324日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:30:57.82
>>318=>>1でしょ
ザラコクは南≠東だけだから放置しておけば良い
連続句読点は誰か知らないが是々非々で議論すればいい良いと思うよ
0325日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:31:00.72
石衝毘売命は、どのような、二つの道を進んだのだろうか、、、
0326日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:32:22.12
320日本@名無史さん2019/05/05(日) 22:27:20.28
畿内説っていつも発狂してるよな

24時間張り付いてると発狂もするさww
0327日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:32:31.58
『かんのぱとら』

この家の話でしょ?
本当に、どういう事なんだろう。

上の名前の読み方を変えたんだったかな〜と言っているし、
家は・・・「す」?のほうの読み方だとか。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:35:18.78
魏志倭人伝時代からは、二百年程経った、仲哀天皇時代に、日本列島は、どのような混乱の時代だったのだろうか、、、
0329日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:36:44.30
>>321
連続句読点は知的能力が低すぎて九州説を論じることすらできないんだからww
確率も論理学も統計学も分かってない
0330日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:38:00.73
両道入姫命という名前には、何か重大な意味があるのではないのかな、、、
0331日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:39:46.88
両道入、、、
0332日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:39:48.46
>>324
>連続句読点は誰か知らないが是々非々で議論すればいい良いと思うよ

この時点で、お前はバカ=キウスだ
どうして見え透いたウソばかり平気で書くのかねぇ?

全1病って言うのは「すべての人」がキウスにとって越えられない壁に見えるってことだろww
0333日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:40:16.41
・・・・・・・某・・・『夢を信じて』?

『Yngwie Malmsteen - Best of [HQ]』
この曲を聴いてみて、べつに聴かなくても良いから画像を調べてみてw
0334日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:43:26.65
真実を究明するためには、討論のための討論になってはいけないのでは、ないのかな。。
0335日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:45:05.96
>>306 


>>304
反論じゃないと思う
>>1のバカさ加減に付き合っているだけだと思う
これもまた5ちゃんの性だから

しっかりしろ!>>1!で良い
0336日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:45:59.00
仲哀天皇の真実の父親は、何者なのだろうか、、、
0337日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:48:41.23
>>319
>卑弥呼は女性と決めつけなくてもいいような気がしてきた

乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼
すなわち一女子を共立し王と為す 名を卑彌呼という

これを全無視するなら魏志倭人伝を読む必要なくない?
0338日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:48:48.60
神宮皇后とは、何者なのだろうか、、、
0339日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:49:39.07
真実を究明するためには、討論のための討論になってはいけないのでは、ないのかな。。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:50:49.45
僕達の頭の良い孫達と、また、このスレッドを題材に討論できれば、良いな、、、
0341日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:52:31.89
僕達の孫達が釣り上げた、75パーは、頭の更に劣ったキナイコシとの笑える同士討ちを解決し、和解した可能性が高まってきたな、、、
0342日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:55:03.36
>>332
キウスって誰?いっぱいいるの?私も類キウス?
連続句読点って誰?いっぱいいるの?私も類連続句読点?
悪いけど>>1みたいに 24時間 貼りついていないですよ
0343日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:55:30.44
キナイコシが、自演癖のある、1 ◆UiepmfCeDJqf だった可能性が、あるな、、
0344日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:58:24.37
たかが5ちゃんでしょ
24時間張り付くのもいいけど 趣味程度にする方が・・・・
0345日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 22:59:25.43
>>342
>連続句読点って誰?

ウソつき=キウスだよ
類○○って書き方はザラコクしかしないし、それが認識できているのに
連続句読点が分からないなどというなら
ウソつきキウスかキウス以下の認識能力しかない極限レベルの無能だ
0346日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:00:18.96
UiepmfCeDJqf は、僕達の孫達がすぐに気づいた、コミュニケーション能力の低い75パーの言いたかった、余事象のことを理解できたのだろうか、、、
0347日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:01:16.87
真実を究明するためには、討論のための討論になってはいけないのでは、ないのかな。。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:01:50.46
両道入姫命という名前には、何か重大な意味があるのではないのかな、、、
0349日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:02:51.40
75パーは誰だか知らんが>>1が固執してるのはわかる
根拠
1 ◆UiepmfCeDJqf で投稿してるから
0350日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:02:52.64
余事象とは、何のことなのだろうか、、、
0351日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:03:03.88
もれ(仮)も邪馬台国とか、
そういう話をしているわけではない

なんで、ほとんど同じ(コンセプト、漫画やアニメ・・・)
なんだろうという話をしているだけ

日本(実際は日本ではない?)でいうと、
寒いな〜の話ばかり
0352日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:04:08.02
キナイコシが、消失したのは、なぜなのだろうか 、、、
0353日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:06:07.90
>>349
いつ、どこで?


また発狂したの?
0354日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:07:00.71
一番、笑える意見なので、何度でも、貼り付けて、笑えば良いな、、、

3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:09:06.70
ベジタリアンとは、何なのだろうか、、、
0356日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:10:17.70
プロ固定の雇用主は、何者なのだろうか、、、
0357日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:11:23.91
キナイコシが出現したのでは、ないのかな。。

353日本@名無史さん2019/05/05(日) 23:06:07.90
>>349
いつ、どこで?


また発狂したの?
0358日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:13:06.77
>>355
家の老婆も同じことを言っていた、
あの写真(葱の華・・・・キュウリの葉)の話

ニンジンとかイモ類を煮たもの、
そういうのが好きで肉は食べなかった
0359日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:13:08.00
同士討ちが、二人対一人だったのは、真実なのだろうか、、
0360日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:14:10.26
両道入姫命という名前には、何か重大な意味があるのではないのかな、、、
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:21:10.58
>>354
まったく反論できないのに笑っている
そんなあなたの名前は
ハクチーマン
0362日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:33:40.86
ベジタリアンとは、キナイコシなのだろうか、75パーなのだろうか、両方なのだろうか、どちらでもないのだろうか、、、
0363日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:35:01.95
偶然なのかな(またはストーカー?悪く言うとw)、
それとも何か知っている人がいるのかな?
0364日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:37:45.07
食べきることができると予想して、数を決め、解凍したタコ焼きは、今夜、食べきることが、できるのだろうか。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:38:38.20
余事象とは、何のことなのだろうか、、、
0366日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:39:53.08
石衝毘売命は、どのような、二つの道を進んだのだろうか、、、
0367日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:41:07.48
UiepmfCeDJqf は、僕達の孫達がすぐに気づいた、コミュニケーション能力の低い75パーの言いたかった、余事象のことを理解できたのだろうか、、、
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:42:50.49
余事象とは、何のことなのだろうか、、、
0369日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 23:45:33.87
>>368
孫達に教えてもらえば、良いな、、、
0370日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 00:08:49.94
96.4%も、条件付き確率の考え方として正しいんだぞ!
連続句読点は理解できていないけどさw
0373日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 02:01:22.00
結論
・災害の神様である「倭大国魂」を祀る阿波は、災害の神様の隔離地である。阿波は首都から遠く離れている
0374日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 05:05:29.66
>>656
お前の犯行だろうが
ホントに「南→東」などの嘘吐き騙しのスレ主や大和説者は
人間のクズしかいないな
唯我独尊人種差別戦争狂の・・・・アホ説だけに
0375日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 05:11:21.73
>>659
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
唯我独尊の人種差別戦争狂であり、いずれは天皇家も国民も戦争させて、
自分ひとりになって、その死亡で全滅してしまうウソしか言わない
0376日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 05:15:33.52
>>665
>思い込みではなくて崇神天皇4世紀前半ならその数十年前にトヨがいるはず。
実際、その時期にトヨがおり、国宝中平銘鉄刀の保持者である和邇氏の祖・考昭天皇の母である。<

「トヨ」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
「南≠東」などに拠っても、×。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 05:32:12.35
>>670
>>暗くなっては、漂流や座礁の危険もあり、<

>ザラコクが自分で上記のように書いているとおり、
暗くなってから航海を続けること、海上で夜明かしをすることは
そのまま遭難=死に直結するので、渡海は朝早く出てその日のうちに渡りきるしかない
この辺まで、勝手な自己解釈をするから、ザラコクはまともな論立てができない <

對海國と一大國の天孫族系の住民は、乘船南北市糴が可能であったのであり、
東松浦半島西北沖の高島や黒島が、都市氏の松浦水軍家の出身地でもあったから、
魏使らは、おそらく、都市牛利らの案内に拠って、渡海出来た。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 05:38:13.52
>>677
>モモソ姫を卑弥呼とすると 崇神天皇は2世紀後半の人になる <

「南≠東」などに拠って、×。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 05:42:49.90
>>679
テンプレの勝手定義
大和説学者の「南→東」などの嘘吐き段ましの自分都合法則
スレ主の偽多重人格
「松傾」らの妄想親族
陳寿90度回転の非客観的妄想事実
0380日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 05:45:57.62
>>681
>184年 疾病などの影響で崇神天皇が権威を失った。
倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫か大田田根子が女王・卑弥呼になった。<

「南≠東」などの嘘吐き騙しだから、×。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 05:48:42.96
>>682
>15代応神天皇が4世紀末(390年元年)で確定、なら10代崇神は4世紀前半であろう。
墓は行灯山古墳、その時点で3世紀後半のトヨは決まり、そして3世代前のヒメ后も決まり。
邪馬台国の王都は葛城である。<

トヨも邪馬台国も、存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 05:53:16.82
>>688
>応神天皇は新王朝っていうのは学者の間でもわりと有力な説だから
応神天皇以前に天皇不在の期間があることを考慮しないとダメ <

「天皇」なんて存在もしていなかった時期だから、×。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 06:05:53.90
>>690
>>東征将軍らの新規征服支配国は、母国の九州倭國とは半分独立国的であり、
従って、魏の薄葬令の制約も殆ど受けないの。<

>東征「将軍」というからには「倭王の配下」なんだろ?><

国生み神話や、五瀬命や神武の時から、倭國から別れた別種の分家の旧小国、
という地位でしかなかったの。

>配下、家臣が王よりでかい墓を作ってると考えるのが非常識ww
記紀の四道将軍にヒントを得た妄想なんだろうが、四道将軍もその子孫も
大和の大王よりでかい墓を作った例は一つもないぞw <

イギリスから別れたアメリカや、扶余から別れた別種の百済や、
倭国から別れた別種分家の旧小国の大和が、
母国よりも大きな建造物を造る事は幾らでもあり得るの。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 06:13:41.00
>>699
>黒塚古墳は箸墓の約半分の大きさで
難升米に授けた黄幢(黄色い旗さし)と思われるU字金具も出土してる
箸墓が卑弥呼の墓でほぼ決まりでしょう <

「南≠東」などに拠って、×。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 06:20:27.13
>>711
>巨大前方後円墳の下には都合の悪い遺物が隠されている気がするんだよな
卑弥呼の墓もどれかの墓の下敷きになっている可能がある<

「気がする」ではダメだし、「南≠東」などによっても、×。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 06:29:35.90
>>714
>崇神没年は「戊寅年」だろ。 318年、258年、198年が考えられるが
モモソ姫(卑弥呼)と同時代の人のようだから198年の可能性が高い<

240年に魏使らが見た卑弥呼は「年已長大(30〜35歳)」。
20歳で共立されたとしたら、即位は225〜230年になるから、
×。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 06:34:08.53
>>720
>で、径150メートルとかいう塚は主観かい?客観かい?www <

箸墓は長径が278m位だし、「冢」ではなく「墳」だから、
×。
0388日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 06:35:22.41
>>722
紀年論とか 前世紀の遺物だぞ
大和説って、化石?
0389日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 06:38:28.29
>>723
>最後に残ったのは邪馬台国ヤマト政権説 <

最後に残ったのは、「南」や「正北抵新羅」などに拠って、
邪馬壹國女王之所都は筑紫付近説。
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 06:41:04.59
>>725
>客観を集めた主観で悪いか。
卑弥呼がヒメ(蹈鞴五十鈴)と言ってるのも 、高天彦神社の塚も俺の説だ、悪いのか。<

「南」や「正北抵新羅」などに拠って×であり、悪い。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 06:51:43.69
>>754
>古事記に没年干支と呼ばれるものは、本文より小さな文字で書き込まれており、
後世に注記として追記されたと考える説も有力<

ふーん。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 07:13:39.02
>>377
>魏使らは、おそらく、都市牛利らの案内に拠って、渡海出来た。

都市牛利かどうかは知らんが、倭人の案内で渡海できた、まではいいが、
それが1日航海の命懸けなんだよ

海の上で夜明かしできないのは変わらない
0393日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 07:17:59.01
>>383
>イギリスから別れたアメリカや、扶余から別れた別種の百済や、
>倭国から別れた別種分家の旧小国の大和が、
>母国よりも大きな建造物を造る事は幾らでもあり得るの。

それは交流もない遠く離れた別の国での話だし、東征将軍でも配下でもない

北部九州、比恵那珂遺跡郡がヤマトカワチと祭祀が共通化するほど密接な関係にある状態で
ヤマトカワチ側により大きな構造物がある時点で、中央はヤマトカワチ側にある
0394日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 07:40:51.44
>>771
>目的語があるのが他動詞で、西服衆夷の衆夷が目的語だ
ザラコクの主張では、「服」は「衆夷が主語」の自動詞でなければならないが、
服の主語は>>553でも書いたように「祖禰」だww<

「服」の本義は、自動詞であり、
倭王武の時には「服属している」と自動詞的に書いている事になるから、
「服属せしめた」事があったのは、「祖禰」の頃だ。
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 07:50:51.71
>>778
>>(邪馬の入り口の門の位置)中心部の都の場所とは少し離れていて、違うんだよ。<

>本当にバカだよな
邪馬壹國、女王之所都なんだから、邪馬臺國に都があるんだよww<

お前(スレ主)は、本当に・・・・詐欺師だなあ。
「邪馬壹國女王之所都」なんだから、
「邪馬臺國ではなく邪馬壹國」であり、
邪馬壹國の中の入り口に近いところに、女王之所都がある事になるんだよ。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 07:54:16.26
>>784
>男王は大物主。 2世紀前半の男王から一貫して大物主。<

「南≠東」などに拠って、大和は×。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 08:07:29.29
>>818
記紀の記述を自分の説の都合に合わせて勝手解釈で読みかえてるだけなのが
スレ主君のやり口
ssn都同類だよ
0398日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 08:15:05.09
ザラコクは検証無しの思いつきによる畿内否定しかしないが九州のどこに邪馬台国があったかの目処は付いて無さそうだ
0399日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 08:18:42.02
>>826
>>どうも、大和日本国政府は、九州倭国の人間を遣唐使にして、
大和日本国が九州倭国を支配していますよ、と唐に示したかったんではないんかなあ。⇔

>だいぶ苦しくなってきたなww
続日本紀には粟田真人が太宰府に「赴任」する前から、出世していく様子(叙位記事)が
書かれているからどうやっても奈良朝廷の官人だぞww<

九州倭国の事を知り得て、大和との関係を熟知していなければ、
「其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉」と書かれるんだぞ。
だから、九州倭国の主張もよく知っていて、
唐に説明が可能な人間が遣唐使に選ばれた。
0400日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 08:22:53.76
>>827
>やはり、倭国を滅ぼしたのは、日本武尊だったのだな。<

違うね。
九州倭國を実質的に崩壊させたのは、白村江の唐であり、
別種の旧小国の大和が九州倭国を併合吸収継承する形で、唐を納得させたの。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 08:30:15.83
>>832
>1.行程記事の方位は全て実方位に対して時計回りに90度回転させられています。<

魏使らも陳寿も、そんなアホな嘘吐き騙しをする筈がありません。
「陳寿90度回転さん(畿内説)」のキミが、
分裂幻覚の妄想の・・・・アホ詐欺師である、という事になるだけです。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 09:14:45.43
>>393
全くその通り。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 10:05:01.63
>>394
>「服」の本義は、自動詞であり、

それはウソだって何度も教えているだろう!
obey も submit (oneself) to も他動詞だぞ

そして、たとえもし仮に「本義」が自動詞「だったとしても」
実際に使われている当該文書中で他動詞として使われている以上、
その文中では他動詞として解釈するのが「絶対に正しい」

この文は
主語が「祖禰」
動詞が「服」
目的語が「衆夷」
と、目的語を持つ以上は、ザラコクがどれだけ駄々を捏ねても、
インチキ解釈を百回書いても、この文中で他動詞なのは「絶対」に正しい

東の55国と、西の66国の対比は明確であり、倭王武の政権がその間、
つまり中央に存在するのもまた明確だ

したがって、西に66国を置くことのできない九州は、倭王武の政権所在地の
候補にはなりえない

九州王朝説なんて、トンデモもいいとこww
0407日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 10:08:00.95
>>399
>唐に説明が可能な人間が遣唐使に選ばれた。

つまり、倭国伝に書かれている「則天時」=「長安三年」の遣唐使、粟田真人の
派遣主体は奈良の朝廷だと認めるんだな?ww

この時点て、倭国=奈良の朝廷だぞww
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 10:15:56.73
>>402
>近畿説は奈良ではなく大阪の淀川流域らしい。

また、脳内畿内説を論破しだしたぞww
そこは、神武天皇の皇后の実家のあったあたりで、それなりの勢力はあっただろうが、
そこの娘が狹井河之上にいるくらいだから、いわゆる畿内第V様式土器圏内は、
移動、移住は自由だったのだろう

狭井川は、大神神社の北側を流れる川だ
0409日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 10:22:05.75
ザラコクのボケ防止の脊髄反射書き込みにこのスレを使われるのは本当に迷惑
最近ますます意味のある書き込みができなくなってるしww
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 10:27:45.74
このように
九州説はあらゆる分野で基礎知識すら欠いた半人前未満の人々が
自説の根拠を示す意思も能力もないままに
野放図に妄想を垂れ流してきたので
その報いを受けて昭和末年ごろ
亡んだのだ
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 11:04:31.01
>>401
こういうふうに過去スレにアンカーつける馬鹿ってなんなの
頭悪すぎてアンカーの使い方理解できないのか
「前スレの832へ」って書けよ
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 11:08:43.22
古代史の学問的研究が進んで九州説の存立基盤がすっかり抉れちゃったので
九州説がどんどんトンデモの世界方向に流れていったのは
これも歴史の必然なんだな
0415日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 11:11:38.45
>>413
アンカーをクリックされたらウソ書いてることが一発でバレちゃうので
それは出来ないのさ
0417日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 11:31:43.25
>>416
そもそも『随書』の認識が
7世紀の倭国の都・邪靡堆(大和)は、魏の時代の邪馬台国だし
0418日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 11:45:31.87
>>417
名前変わってるんだし時代錯誤。
東京都という首都とは、昔の京都のようなもんだ。
と書いてあるんだよ。
首都は移動するという話は歴史学者の常識だろ。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 11:55:33.00
>>418
>東京都という首都とは、昔の京都のようなもんだ。
>と書いてあるんだよ。

それはウソ
「則魏志所謂邪馬臺者也」
だから
「魏志が記述した邪馬臺そのものだ」
と書いてある
0420日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:09:56.34
>>413
>こういうふうに過去スレにアンカーつける馬鹿ってなんなの

それはね、自分がレス(反論のつもり)して、それに再反論がなかったら
自説が通った、自説が正しいと思い込むことを目的に、
わざわざ自分のコメントにレスされないように周回遅れでレスをつけてるんだよww

卑怯で惰弱な無能なりのあがきww
0421日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:25:09.57
>>419
>だから
「魏志が記述した邪馬臺そのものだ」・・・邪馬臺の地 ×

「魏志が記述した邪馬臺者だ」・・・邪馬臺者 ○、つまり邪馬臺政権の意味
0422日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:27:20.70
邪馬台(ヤマト→大和)国であって、北部九州にあったのなら筑紫国と記述されたハズ。
もう大和説には疑う余地がないのだが、箸墓≠卑弥呼の冢
箸墓は台与の死後、3世紀第四四半期~4世紀初頭に邪馬台国を乗っ取った大和朝廷(天皇家)によって、
卑弥呼の冢を埋め立てるように築かれた前方後円墳であり、卑弥呼の王宮は前方部の地下に眠って、
地上からその痕跡を消されてしまったこと。現在の徳川大坂城の地下に埋め立てられた豊臣大坂城のように。
纏向遺跡は大和朝廷の王宮であって、台与の王宮ではないことに要注意!
0423日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:29:50.72
>>421
漢文のできない九州説老人が
また何か珍読を発明したのか?
ダメだぞ最低限は勉強してないと
0424日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:32:38.01
ビフォー遷都:邪馬台、
アフター遷都:ヤマト(→大和)国であって、
0425日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:35:59.14
>>423
「者」をないがしろにして、胡麻化してはイカン。
しかと倭語に訳してみよ。
0426日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:36:40.43
>>854
>>地誌や行程移動の記録は、原則として「順次式」であるから、×。<

>そう主張しながら、水行十日の起点をいきなり振り出しの帯方郡まで戻すご都合主義ww<

不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わってしまっているから、
その先に「水行十日陸行一月」の行程を記載する筈がない事と、
「南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月」の「水行十日陸行一月」という数量説明の原則は、
その数量記載の直前の文言の説明である事から、
「女王之所都」の数量説明である事になり、それは全行程の目的地であるから、
全行程の出発地であった帯方郡からの所要日数の説明であった事になるから。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:37:29.70
>>874
>畿内説の素人の大勢は、卑弥呼に倭迹迹日百襲姫命を当てるのが標準<

勿論、存在もしない「畿内」なんて嘘つき騙し文言でも×だが、
「南≠東」などでも、纏向説は、×。

>プロは、この辺りの固有名詞は実在の証拠も根拠もないとして、具体名は挙げないのが標準<

じゃ、スレ主も×。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:38:18.13
>>878
>理論で抵抗できなくて悪口言うくらいしかない九州説ってそうとう頭悪くない?<

「南→東」などの嘘付き詐欺がバレ、理論で抵抗できなくて、
悪口言うくらいしかない大和説やスレ主らって
そうとう頭悪くない?
0429日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:39:20.55
>>880の訂正
理由なし
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの、
結論ありきの決めつけ100%。
自分たち唯我独尊の人種差別的殺戮戦争キョクウのエリートには
人民をの支配する義務があるする、エヘン、
という狂気が、全て。

それが大和説という名を借りた極右政治思想。
0430日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:40:12.09
>>881
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者らは、日本のまともな学校教育を受けておらず、
人種差別殺戮戦争の万世一系皇国史観の教科書や教員の、
キョクウ偏向教育しか受けていないようだ。
スレ主も、見て分かるとおり頭の悪い狂気の皇国史観思想の持ち主で。
学歴詐称のインチキの人である可能性も高い。
まともな常識ある大和説学者は皆無。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:41:17.79
>>900
>>平べったく見える前方後円墳は、(冢ではなく)全く×だ。<

>前方後円墳と平原1号墓と比べてどっちが平べったいと思ってるんだ?ww<

平原は、卑弥呼の宗女の壹與の墓である可能性が高く、
まだ薄葬令が効いており、
「更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人」を鎮めるために臨時的に立てられた王であったから、
亡くなっても、自分の出身地の郷里に戻って、低い墳丘墓で、副葬品で身分を示した、
というだけだ。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:42:12.85
>>903
>古墳はただ土を積み上げてる訳ではなく
高さを追求しても崩れない様に工夫して土木工事されてるから
高いのが冢なら前方後円墳は冢だろう<

「冢」の文字は豚の顔を形を形容しているようであり、
だから、高さだけではなく、「錐体台」というような形状が必要だ。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:43:41.19
>>904
>説文解字 冢 高墳也 冢が墳であることが明記されている<

「冢は高く見える墳である」と され、「冢≠墳」である事を示されている。

>説文解字注 墳 墓也。此渾言之也。析言之則墓爲平處。墳爲高處。 墓のうち、平ったいのが「墓」、高いのが「墳」<

「墓」は平らな場所に為したもの、「墳」は高い所に為したもの、という説明であり、「冢」の事は書かれていない。

>孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを 築く墓は「墳」に該当することが判る。<

「因りて其山は起墳ではない」と言っているだけ。

>諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て
墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。<

孔明の遺言は、孝文帝霸陵と同じ考え。どちらも「山を墳とする」話。

>常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。<

山を墳に見立てなさい、という遺言であり、冢は小さくせよ、という薄葬令の遺言である。

>素より冢が小さいものであれば 「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。<

孔明の遺言は薄葬令の遺言である。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:44:01.34
>>431
言い訳は根拠とは違う
妄想で可能性は高くならない
0435日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:44:27.96
>>906
>九州にあった邪馬台国が大和に移ったんだよ これで皆満足だろ <

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
倭国は「正北抵新羅」に拠って、唐代まで北部九州に存続していたのであるから、
×だ。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:45:15.24
>>924
>魏志倭人伝の方角が間違ってるって解釈はいいとして
南、実際は東にある敵国は現在のどこの地域なんだい?<

よくない。正常な人類は「南≠東」である。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:45:35.02
>>422
>邪馬台(ヤマト→大和)国であって、北部九州にあったのなら筑紫国と記述されたハズ。

筑紫の名が登場するのは隋のころかな?
0438日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:45:38.66
>>422
豊臣大坂城のように、箸墓の地下に卑弥呼の冢と王宮が埋め立てられた?
じゃ墳丘なんか調べるだけ無意味。地中レーダーで箸墓の地下を調べないと!
0439日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:46:01.30
>>925
>九州の大国である奴国が周辺を圧迫
周辺国はたまらず奴国より大きな畿内の国に救援要請
畿内の国が奴国をボコる こんな流れだろうな <

九州倭国の最大の邪馬壹國は、
福岡平野中央部〜筑紫平野およびその周辺丘陵地域であり、
奴國は、三雲付近から早良平野部であり、
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、
この男は、×である。
0440日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:46:28.26
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。

日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:47:02.22
>>433
>「因りて其山は起墳ではない」と言っているだけ。

日本語として通じないよ
九州説さん、せめて正常になってくれ
0442日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:47:29.02
>>900
>>平べったく見える前方後円墳は、(冢ではなく)全く×だ。<

>前方後円墳と平原1号墓と比べてどっちが平べったいと思ってるんだ?ww<

どっちもどっち、共に平べったいの範疇、、、
0443日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:47:48.80
唐会要の倭国伝
倭國
古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中。世與中國通。其王姓阿毎氏。設官十二等。
0444日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:50:44.25
其王姓「阿毎氏」…「天氏」と書くと中国語で意味を持ってしまうから、発音を記述したんだぬ。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 12:53:17.81
>>430
九州説さん
考えてみてくれ

「嘘付き騙しの大和説者らは、日本のまともな学校教育を受けておらず」
「人種差別殺戮戦争の万世一系皇国史観の教科書や教員の、
 キョクウ偏向教育しか受けていない」
「見て分かるとおり頭の悪い狂気の皇国史観思想の持ち主で」

こんなことを毎日叫んでる人を
世間の人が正常だと思うかどうか


考えてみてくれ
0446日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:00:08.37
>>443
これだけで、倭国女王であった卑弥呼がどこにいたのかが確定するような気もするな。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:00:45.61
>>929
>>南、実際は東にある敵国は現在のどこの地域なんだい? <

>東海地方でいいだろ?
朝日遺跡のある濃尾平野か、久努郷(久努国造)のある静岡かというのは
決めがたいけれど
古墳出現期の最古級かつ最大級の高尾山古墳のある沼津の辺りにも大きな勢力があったようだし<

二人とも、「南→東」などの嘘吐き騙しであるから、二人とも×。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:01:16.76
ま、邪馬台国がどこにあっても現代人の生活には一切無関係なので、有閑老人たちの永遠の論争テーマとしておきましょうw

正解は大和。
卑弥呼の冢は箸墓後円部地下、宮殿は箸墓前方部地下に埋め立てられた。
纏向遺跡は崇神の王宮w
0449日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:02:33.03
>>445
高齢者だと、キョクウが先導した大戦で親兄弟を失くしたりしていることがしばしばあるから...
0450日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:03:16.95
>>448
纒向が崇神の宮なら、卑弥呼が関わる余地はない。
0451日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:04:04.05
>>448
するってぇと、箸墓は真の崇神陵?
0452日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:04:57.92
隋書のテキストは
都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也。
なんだけど、
後漢書の注の「今名邪摩(惟)〔堆〕,音之訛也。」を頼りに、
邪馬臺じゃなくて、邪馬壹だって言い張る九州説の一派がいるんだよな

ザラコクには悪いが
維基文庫の隋書では則魏志所謂邪馬台者也になってるよww
中國哲學書電子化計劃の隋書では則魏志所謂邪馬臺者也だけれど

邪馬台国、あるねぇww
0453日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:09:53.41
>>958
>邪馬台国の中心地とされる候補地の一つに、纏向遺跡がある。<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しの文言であるし、
纏向は、「南≠東」などに拠って、×。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:11:46.31
>>421
>「魏志が記述した邪馬臺者だ」・・・邪馬臺者 ○、つまり邪馬臺政権の意味

おいおい、漢文の読めない人が無理なことを言い出すなってww
この「者」は助字というやつで、書き下し文には書かない字だよ
この辺を読めば分かるんじゃないかな?
https://kambun.jp/izanai/05-04-02shaji-tango2.htm
0455日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:12:07.64
>>451
箸墓が真の崇神寿陵で、邪馬台国卑弥呼の痕跡を消すためのものだったとしたら、
纏向型前方後円墳が箸墓で突然巨大化した理由は説明できるな
0456日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:13:16.03
後漢時代には、できる限り高く盛り土した塚墓の形式が流行した
しかし高く盛れば、幾何級数的に費用がかさむ。
そこで、薄葬令で高さ制限となり、墓は小さく低くなった。
わが国では、横に平べったい前方後円墳の形式に移行し、だんだんと横方向への広さを競うようになった。
0457日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:13:31.63
>>424
>ビフォー遷都:邪馬台、
>アフター遷都:ヤマト(→大和)国であって、

九州説は遷都、東遷が好きだよなww
どの史書にも遷都は書かれていないし、
考古学的にも遷都を示すような遺跡も遺物もない
0458日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:18:00.70
>>457
その通り。
遷都はされていないから、隋代まで倭国は九州北部。
白村江の後で、畿内の日本国に政権交代した。
0459日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:18:54.83
>>982
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
今回も一行レスで反論したフリだけして
具体的に示せって言われて逃げるという、
インチキを繰り返している・・・アホ詐欺師がなんだって?。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:19:05.36
>>455
「卑弥呼の冢(径百歩=直径約150m)」と箸墓(全長280m)の大きさが2倍近く違う理由も説明できるね
0461日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:24:25.37
>>454
リンク先を読んだよ。
だから俺の指摘した通りだろ。
くっつけられた「者」には「人」という意味もある。
今風に言えば、「邪馬台国の関係者」と訳しても良いのではないかな・・、
0462日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:29:06.36
>>458
遷都といってまずければ、潜都だろう。
誰かが、秘かに奈良盆地へ潜り込んだ、、、。それがニギハヤヒでも神武でも良かろう。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:32:51.87
>>461
だから、それが意味のない行為なのだよ
冒頭の「即」と矛盾するだろ
同じ「者」なんだ
人は300年も生きない
0464日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:37:30.55
九州説は非常識な珍解釈で生み出された虚像ってことね
0465日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:40:59.21
何時覗いても、テンプレートが、論破されてしまっているな、、、
0466日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:41:12.25
>>460
その通りだ
頑としてひとの説明を聞くことを拒否する一方で
「畿内説は説明できない」と
理由もなく決めつける人は当然ながら
正常じゃない
0467日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:43:11.33
仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか、、
0468日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:44:11.37
>>465
九州説は論破されるたび
こういう嘘をつくが
九州説は嘘つきだという実績を残し晒すので
自分たちの立場を悪くするだけだ
0469日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:45:27.20
>>463
だから最初に「政権」と書いただろう、そして次には「関係者」と書いた。。
今も「者」は、個人も意味するが、法人などの「人格」をもいう。
則ち邪馬台者とは、「邪馬台さん」という個人(自然人)ではなく、邪馬台国という政治的人格(邪馬台政権関係者)のことと読むべきであろう。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:47:18.44
つまり、討論を放棄し、邪馬台国畿内説が完全に破綻してしまったことを、嘘を言い放つことで、認めてしまったのだね、、、

468日本@名無史さん2019/05/06(月) 13:44:11.37
>>465
九州説は論破されるたび
こういう嘘をつくが
九州説は嘘つきだという実績を残し晒すので
自分たちの立場を悪くするだけだ
0471日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:48:22.99
両道入姫命という名前には、何か重大な意味があるのではないのかな、、、
0472日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:51:52.69
両道入姫命は、二つの国家か、二つの場所に、嫁入りした可能性が、あるな。。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:55:34.89
>>472
ベジタリアンが、計算すれば、分かるのではないのかな、、、
0474日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 13:59:06.71
今日は、キナイコシに、元気がないな、、、
0475日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:01:04.06
邪馬台国の関係者が、誰だったのかという討論会で、敗北して、疲労しているのでは、ないのかな、、、
0476日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:08:38.26
卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。

http://inoues.net/yamahonpen2.html
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:09:19.72
>>462
そんなものは都ではない。
言い逃れも甚だしい。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:12:29.22
>>476
九州説は、そんな作り話つくって何が楽しいんだ?
0479日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:15:30.77
寺沢薫
「鉄器が、弥生時代を通じて九州地方で多く出土する事実は変わらない、鉄器は腐食すると言っても、近畿だけが錆びてなくなることは無い。」
「(弥生時代後半に)近畿勢力が出雲の鉄生産ルートを掌握していたとか、(近畿勢力が)九州とは独自に鉄入手ルートや外交ルートを持っていたというような近畿勢の巻き返しにはとうてい同調できない。
あまりにも恣意的である。」
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:16:35.58
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
105年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらってから、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
0481日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:26:57.86
>>479
キナイコシは畿内だけが酸性土壌で、大量にあった弥生の鉄はすべて腐食してしまったということにするのではないかな?
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:33:28.86
「弥生の鉄・絹」は畿内でも出ないことはないが、北部九州の圧倒的な出土量と比較してしまうと、笑っちゃうほど少ないのではないかな?
0484日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:37:01.90
>>456
>しかし高く盛れば、幾何級数的に費用がかさむ。
>そこで、薄葬令で高さ制限となり、墓は小さく低くなった。

うそつきww
薄葬令は、豪奢な副葬品が盗掘を招くから、盗掘で死者の(というか自分の)死後の安寧が
破られないように、墓を目立たないようにし価値のあるものを墓に入れないようにしろ、
というのが、理由と目的だぞww

皇帝は、いくらでも人民を徴発できるから、費用がどうのというのは問題にならない
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:39:15.35
>>458
>遷都はされていないから、隋代まで倭国は九州北部。

ブブー× そうではありません

遷都はされていないから、北部九州の古い王とは無関係な
新たな共立女王の都が邪馬台国に置かれたんだよ

それを、寺澤先生あたりは「新生倭国」という言い方をしている
0486日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:39:28.87
>>97
>邪馬台国はヤマト国<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言ですから、始めから×です。

>他の畿内は邪馬台国ではありません<

畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言ですから、全て×です。
0487日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:41:48.70
>>98
>184年 疾病などの影響で崇神天皇が権威を失った。
倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫か大田田根子が女王・卑弥呼になった。<

「南→東」などの嘘吐き騙しになるから、×です。
0488日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:46:13.87
>>461
>くっつけられた「者」には「人」という意味もある。

その前のページも読んでおいで
https://kambun.jp/izanai/05-04-01shaji-tango1.htm

何々な人(者)という意味になるのは、者の前に動詞句がつくとき
邪馬臺者也の「邪馬臺」は動詞ではない

戦者、必然之勢也。(蘇軾『教戦守』)
(訓読)戦なる者は、必然の勢い也。

という時の「戦なる者」は「戦いというもの」という意味で
「戦いをする人」、「戦いという組織」という意味ではない
理解できるかどうか分からないが、抽象名詞としての「こと・もの」だ
0489日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:46:44.61
>>102
九州説スレは、クレームを付ける大和説者が全て「南≠東」によって駆逐され、
スレもいらなくなり、
大和残党がこのスレに寄生虫状態。
しかも、それでも九州説に反論一つできず荒らし専業化。

完全に勝負ついちゃったね
0490日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:47:03.52
>>485
中国側には新しい王朝とやらの存在を示唆する文献はない。
唯一の例外は、旧唐書で倭国と日本国が別の国であり、それらの関係について言及している部分。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:47:58.62
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。

日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:51:57.96
>>103
>九州説スレ、立てればいいのにw<

九州説は、「南≠東」などの史料事実に支えられ、
国民の過半数に支持され、スレは立てる必要がない。
大和説は、国民の7割に否定されているから、必死になって、
「南→東」などの嘘吐き騙しで、国民を騙そう、と叫び続けている。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:52:34.94
>>486
>邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言ですから、始めから×です。

維基文庫の隋書の標準テキストに、都於邪靡堆,則《魏志》所謂邪馬台者也。って書いてあるよww

ザラコクも、國は国の字も使うだろ?
本当にご都合主義のダブスタインチキ野郎なんだからww
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:55:02.83
>>490
>唯一の例外は、旧唐書で倭国と日本国が別の国であり、それらの関係について言及している部分。

これ「倭国と日本国が別の国号であり」という意味だぞ
別の名乗りをしている、くらいの意味
唐の時点で改号前の倭国も奈良の朝廷がその中枢なのは間違いないんだから
0495日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 14:59:36.86
>>491
>倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。

「小島の諸国はこれを畏怖している」って、どこから出てきた?

原文は
其王姓阿每氏,置一大率,檢察諸國,皆畏附之
これだけだぞ?
皆これを畏附す、としか書いてない
魏志倭人伝の
「特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之」を引き写しただけ
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:00:54.52
>>494
>これ「倭国と日本国が別の国号であり」という意味だぞ
>別の名乗りをしている、くらいの意味

旧唐書は丁寧に3つの説を紹介している。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:01:44.73
>>104
>九州説だと場所が比定出来ないから論が展開できなくて
九州説=畿内否定説になってる<

九州説は、「ほぼ中九州以北」説であり、
北部九州説や筑紫説にほぼ集約されている。
そして「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
纏向でも大和盆地でも説明が付かず、
畿内なんて存在もしない文言を造作し、さらに、
近畿地方からはみ出して中国四国東海までにまで範囲を広げなければならないような、
嘘吐き騙し説になっている。
0498日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:01:52.78
>>469
>だから最初に「政権」と書いただろう、そして次には「関係者」と書いた。。

あんたばかか?
全く漢文が読めないんだな
恥を知らずによく生きてられるな

「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
なんだよ
「邪靡堆」は地名
それが「即」魏志のしるす邪馬臺なんだから
「邪馬臺」は魏志に書かれてる地名だ
0499日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:03:42.58
>>105
つまり、「南→東」なんて嘘吐き騙しの大和説なんて、
「なかった」ってことじゃん?。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:03:58.39
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:04:45.87
>>497
>九州説は、「ほぼ中九州以北」説であり、
>北部九州説や筑紫説にほぼ集約されている。

また九州説がウソついてる
熊本説も宮崎説もあるだろう

まったくトンだ嘘吐き騙し説だな
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:06:00.29
>>501
熊本は中九州
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:06:41.29
>>489
九州じいさん日本語話してね
発狂しないでね
0504日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:07:08.20
少なくともこの板で宮崎を推す声はほぼないね。
0505日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:08:25.85
>>106
>畿内説も無くて、邪馬台国ヤマト説だけやな<

「畿内」も「邪馬台国」も存在もしない嘘つき騙しであり、
「大和」説も、「南≠東」などに拠って×だから、
全滅。
0506日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:16:03.83
>>108
>邪馬台国七萬戸は畿内第V様式土器を共通に使う範囲 <

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「畿内」なんても存在もしなかった嘘つき騙し文言であったし、
第X様式土器や庄内も、米田に拠って、河内の方が大都市であった、
と大和は否定されている。

>奈良盆地だけじゃないよ 纒向は邪馬台国ヤマト国の中の王宮所在地<

米田に拠って、ついうっかり否定された。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:16:21.27
>>496
>旧唐書は丁寧に3つの説を紹介している。

旧唐書は、唐末五代の混乱の中できちんとまとめられなかったから、
新唐書が新たに撰述されたんだよ

旧唐書よりも、ほぼ同じ内容が確認できる唐会要の方が事実関係を
きちんと書いてあるのに、九州説は史書間のクロスチェックをしないチェリーピッキング体質に
どっぷり浸っているから、旧唐書ばかりを引用する
https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%94%90%E6%9C%83%E8%A6%81/%E5%8D%B799
https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%94%90%E6%9C%83%E8%A6%81/%E5%8D%B7100
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:19:35.49
>>497
>九州説は、「ほぼ中九州以北」説であり、
>北部九州説や筑紫説にほぼ集約されている。

その説だと、
短里の捏造
島巡り仮説
水行の起点を帯方郡へ
冒頭で帯方東南大海中とあるのに、南だけて到着する矛盾
投馬国が戸数道里略載の女王国以北の国であることを無視
といった、様々なインチキ捏造を重ねないと北部九州にならない

北部九州説なら、その時点で破綻だ
0509日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:20:12.40
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。

これだけでもう十分だよ。
漢が倭奴国に金印を与えたことで、筑紫が倭の代表であることが確定し、そのまま卑弥呼の時代に連続する。
魏志倭人伝では中心が伊都に移動しているようだが、最大国邑である奴国と合わせて女王国という認識なのだろう。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:21:52.21
>>507

唐会要の倭国伝
倭國
古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中。世與中國通。其王姓阿毎氏。設官十二等。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:25:38.67
>>112
>畿内第V様式土器は卑弥呼以前だろ それまでは同じ勢力圏だったという話<

大和の第X様式に関しては、
庄内1が3世紀末の石塚であるから、
筑紫の三雲や祇園山や弥生銀座の3世紀前半の庄内よりも50年位後であり、
という事は、第X様式も筑紫が先行していた可能性が高い事になり、
「畿内第V様式土器は卑弥呼以前」説は×。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:28:05.23
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる)から一万二千里である。
その西北界(倭国の西北の国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県妻)までは水行20日

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
0513日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:31:53.18
「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺
江口、逆水行七千里乃至焉。」
ガンジス川河口より600kmのぼった所に天竺がある。三世紀には河口はもっと上の方にあった筈で500km程度
が7000里である。

同じく『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」とあります。
日南郡は今のドンホイ辺りになる。扶南國はプノンペンだ
ハノイから南に3000kmも行ったらオーストラリアまで行ってしまう。
これで計算するとプノンペンまで600km位になる。短里の86mだ。

更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われるが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
南極まで行ってしまう。
実際は直線で二千キロで1里83mと言う所だろう。

結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当である。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:34:26.95
>>113
>集落がないとか、ポツンと大型掘立柱建物があるだけとか誰の空想?<

その建物の周りに、
「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
の人々の居住する集落がない。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:34:33.57
>>510
>其王姓阿毎氏。設官十二等。

この冠位十二階の制定だけで、ここでの倭国が大和朝廷だと確定してるじゃないかw
0516日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:36:17.90
>>512
>楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる)から一万二千里である。

このコピペするやつもいい加減にしろよ
何か通り名を名乗ったらどうだ?

「その国」は倭国!
( )書きで一生懸命、捏造をねじ込んでも無意味
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:37:35.21
>>515
冠位十二階は筑紫倭国の制度だったんだね。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:39:14.67
>>516
文句があるなら自分で対訳を書けば?
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:39:31.75
>>513
>結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、

1.遠くのことはいい加減
2.遠くの国はより遠くとの修好であるほど、その王朝の徳の高さを示すので距離が誇張して盛られる

魏志倭人伝と同様のより簡単な説明で、短里なしで説明できるのですが?

短里は捏造、かつ、その根拠がすべて循環論法でしかない
短里の存在は論証されていないし、論証できない

短里を使う理由のある人が、どこにもいない、に対して、一つも反論ができないだろ?ww
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:40:11.04
>>517
>冠位十二階は筑紫倭国の制度だったんだね。

ご都合主義捏造の極致ww
0521日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:43:09.60
>>126
>北部九州以外で、王権の伸張、広域の合従連衡が進む中で、
いち早く一つの精力としてまとまった領域がバラけて弱小化するべき理由がない <

大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であり、
旧小国であったの。
大和説は、歴史の流れを無視して、自説の都合に合わせてトンデモ解釈を
根拠なく言い張るのみ。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:44:14.63
>>514
>その建物の周りに、

なんでその建物の周りにないといかんの
また思い込みで理由のない決めつけか?
0523日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:44:37.23
>>519
>短里は捏造、かつ、その根拠がすべて循環論法でしかない

あなたの主観的な願望に過ぎません。
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:46:18.50
>>518
>文句があるなら自分で対訳を書けば?

何度も書いてるだろうが!

倭在韓東南大海中 依山爲居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 
倭は韓の東南、大海の中にあり、山に依りて居を爲す 凡そ百餘國 
武帝の朝鮮を滅してより使譯漢に通ずるは三十許國
(使驛は使譯の誤りとするのが通説)

國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國
國、皆王を稱し丗丗統を傳う その大倭王は邪馬臺國に居す

樂浪郡徼 去其國萬二千里
樂浪郡徼はその國を去ること萬二千里

去其西北界拘邪韓國七千餘里
その西北界拘邪韓國を去ること七千餘里

まあ、ほぼそのまま書き下すだけで意味が通じる部分だけどな
そこに、捏造をねじ込むのがダメだって言ってるんだよ
0525日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:48:02.34
>>523
>あなたの主観的な願望に過ぎません。

主観じゃないよ
その根拠「短里を使う理由のある人が、どこにもいない」
これに触れることなく逃げてる時点で、論争としては負けだ

短里は捏造!
使う人のいない単位など存在しない
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:48:16.40
>>128
>ヒコ王では倭王と認められず、新たにヒメ王を倭王として立てる必要があった、ということだろ
その後、祭祀連合から武力統一、ヒコ王の統一に向けて歴史が動いていく<

古事記でも書紀でも、大和のヒメ王は神功まではいないから、×。
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:50:21.13
>>524
>樂浪郡徼はその國を去ること萬二千里
>その西北界拘邪韓國を去ること七千餘里

つまり邪馬台国は楽浪郡から何里なんだ?
そしてそれは実際の地理でどこに当たる?
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:50:34.95
>>129
>水行20日 水行10日陸行1月 https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg

「南≠東北」や「南≠東」などに拠って、×。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:54:43.40
>>516
>>楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる)から一万二千里である。
>「その国」は倭国!

北海道から東京までとあったら、普通は札幌から新宿までの距離だよね。
北海道の地理(道東など)がよくわからない時は地理的中心もわからないから、政治的中心からの距離を示すのが普通。
上の文章は、倭の政治的中心から楽浪郡まで一万二千里、倭の国境から楽浪郡まで七千里という意味であり、対馬海峡が三千里とあわせると、楽浪郡から一万二千里では九州を出ることはない。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:55:18.50
>>138
>自分の主張に根拠がないと認める九州説 ばかですか?<

「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、何の反論も出来ないまま。
自分の主張に根拠がないと認める大和説
ばかですか?。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:56:05.61
>>521
>大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であり、
旧小国であったの。

理由のない決めつけ言い張りだな
ウソつきだなあ
理由もなく言い張ってるの、お前だろ
0532日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:59:51.81
>>531

旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
日本国は倭国の別種である。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 15:59:59.77
>>148
>連続して人の営みが確認できる遺跡が途切れることなく広がっているのに、
それを大集落ではないという理由がむしろ分からない <

卑弥呼や、「以婢千人自侍」や、
「唯有男子一人給飮食、傳辭出入」や、
「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」が住んでいた痕跡がないから。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 16:01:11.60
ああ、唐会要の方がお気に入りなんだっけ?

唐会要倭国伝

古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中。
世與中國通。
其王姓阿毎氏。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 16:01:56.15
>>149
相変わらず、「南→東」などの嘘吐き騙しの、
全く理由を言わない大和説。
0536日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 16:06:29.44
延喜式祝詞には、
皇御孫之命は、天之御蔭 日之御蔭と隠坐てとある
同じく、坐摩神社の井戸の神々は、皇御孫之命にお仕えして、天之御蔭、日之御蔭と隠れていたとある

また道饗祭の祝詞には、クナトが高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。

これが平安時代の朝廷の認識

高天原で事を始めた、つまり天孫降臨神話とは全く関係ないということ
更に天之御蔭、日之御蔭と隠れていたとある
アマでも日でもないということやな
0537日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 16:06:44.65
唐会要倭国伝
古倭奴國也。

倭は古の倭奴国なり。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 16:07:17.29
>>523
>あなたの主観的な願望に過ぎません。

そう「根拠も示さずに決めつける」のは
短里があなたの妄想だからですよ
0539日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 16:10:05.83
>>533
どうしてその他王前が住んでいた痕跡がないと
大集落じゃないと決めつけるんだ?
理由は?
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 16:10:25.54
「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺
江口、逆水行七千里乃至焉。」
ガンジス川河口より600kmのぼった所に天竺がある。三世紀には河口はもっと上の方にあった筈で500km程度
が7000里である。

同じく『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」とあります。
日南郡は今のドンホイ辺りになる。扶南國はプノンペンだ
ハノイから南に3000kmも行ったらオーストラリアまで行ってしまう。
これで計算するとプノンペンまで600km位になる。短里の86mだ。

更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われるが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
南極まで行ってしまう。
実際は直線で二千キロで1里83mと言う所だろう。

結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当である。
0541日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 16:11:21.09
>>532
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。

(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。

(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は別の国である。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので
中国は倭国の使者の話を信用しなかった。
0542日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 16:11:37.62
■ 祓詞

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに

禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち

諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば

祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと

恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす
0543日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 16:12:21.90
>>151
>これだけの範囲が、ほぼどこを掘っても遺物が出る状態なのだから、
大集落以外に呼ぶとしたら 弥生都市と呼ぶしかないだろうな
https://i.imgur.com/KfF0503.jpg

あれ?、また変な言い方をした!。「遺物」なんて変な言い方。
どんな遺物がどこでどれ位でたの?。
何故、「集落」とか「大集落」とか呼べなかったの?。
0544日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 16:13:38.32
>>514
つまり
集落がないとか、ポツンと大型掘立柱建物があるだけとか言ってたのは
あなた一人の空想ということで
いいのね?
0545日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 16:14:10.54
>>541
>倭国の使者は異なる3つの説明をした。
>A 倭国が日本に改名した。
>B 日本と倭国は別の国である。
>C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
>倭国の使者は不誠実だったので
>中国は倭国の使者の話を信用しなかった。

さて問題です。
日本国の使者が説明したのは何番でしょう。
0546日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 16:15:04.13
>>543
呼んでるだろ

w
0548日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 16:16:27.02
>>157
「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
トンデモ大和説はいつも、
「言葉尻の言い回しの騙し」しか無い
0549日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 16:19:49.96
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。

(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。

(わかりやすくまとめ)
日本の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は完全に別の国である。
C 日本は小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実でウソをついているようなので
中国は日本の使者の話を信用しなかった。
0550日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 16:21:28.71
>>159
>大人口を動員しないと造営できない大墳丘墓がいくつもある遺跡だよ?
ここに多数の人が集まっていたのは否定しようもない<

掘立柱建築の周りには住居跡が全くのようにないし、



それを寒村と嘯くくらいしかできることがないところまで追い詰められているのが
九州説(と葛城説ww)の現状だ
0551日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 16:25:37.66
>>550がまた途中で投稿ボタンを押した事になったので、やり直し。

>大人口を動員しないと造営できない大墳丘墓がいくつもある遺跡だよ?
ここに多数の人が集まっていたのは否定しようもない<

掘立柱建築の周りには住居跡が全くのようにない。
それを大集落と嘯くくらいしかできることがないところまで追い詰められているのが
「南→東」などの嘘吐き騙しのスレ主や大和説者の現状だや。
0552日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 16:27:42.92
>>549
正解は当然Aの倭国が日本に改名しただけど
なんでウソを言ったかというと
「中国が考えてくれた『倭』という漢字は雅ではないから」という真実を話すと
中国が激怒して日本の使者が殺される可能性があったからだろうね
だから話が二転三転してる
0553日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 16:32:39.05
>>509
倭国はいにしえの奴国のことである。とは書いてないからな
あなたの説は間違い
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 16:38:47.95
唐会要の倭国伝
倭國
古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中。世與中國通。其王姓阿毎氏。設官十二等。

倭国はいにしえの奴国とは書いてないから「倭国=筑紫」とは認識できないけど
倭国はいにしえの倭奴国と書いてあるから
大和朝廷が金印「漢委奴国王」をもらった倭奴国と歴史的に繋がってる国だっていうふうに
唐も認識してるんだよな

大和朝廷とは別の倭国が九州にあったという説は否定されてる
0555日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 16:43:59.88
>>460
前方後円墳の前方部分って祭祀スペースが大きくなったものだから
当時の人々は円墳部分しか墓として認識してないぞ

なので箸墓の墓の部分(円墳部分)は「径百歩」と一致してる
0556日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 16:50:16.17
>>498
>「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
>「邪靡堆」は地名
>それが「即」魏志のしるす邪馬臺なんだから
>「邪馬臺」は魏志に書かれてる地名だ

省略してあるが、(だれだれが)邪靡堆に於いて都す、、、だ。
(そのだれだれは)、則ち魏志が所謂(いうところ)の邪馬臺なる者(人々、組織、政権)なり。
つまり、都している者は、邪馬台者なり、、だ。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 16:53:30.36
>>556
アホ?
意味がわからない
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 16:55:18.78
>>553
>>509
>倭国はいにしえの奴国のことである。とは書いてないからな
>あなたの説は間違い

そんなことを書いた覚えはない。
倭国は古の倭奴国と書いた。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 16:57:41.35
>>545
>>A 倭国が日本に改名した。
>日本国の使者が説明したのは何番でしょう。

Aが日本国がした説明(嘘)。
つまり、倭国が日本国に改名したのではなく、日本国が倭国の別種であり、倭国を併合したのが真実。
倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 16:59:48.93
前スレ 以下 異議はないよ
邪馬台国の王都より説得力がある


>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
「纏向は古墳造営基地  掘立柱建物は安全祈願の神社か斎場 」

根拠
1、集落跡が無い、生活用具が少なく土木具が多く出土
2、搬入土器が多く各地から作業員が来ているし、市的機能を持っていたであろう
3、物資運搬の運河が築かれ古墳建設の土木工事が行われている
4、多くの古墳がある
5、斎場と見なされる 大型掘立柱建物がある
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>


1について、
土木作業員は貧しい人か、奴隷だから竪穴式住居や高床式住居に済ませなくても良いし、常駐しなくてよい   土木用木工具(木製鏃等)が多く出土してるのもうなずける

2について
その通り 矛、盾、木弓の出土も無く警備は皆無

3について
楼観、城柵も無く 水路はお堀でなく物資運搬用の水路であろう

4について
その通り

5について
その通り  卑弥呼と結び付ける遺物は皆無
 
0561日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:00:15.19
>>557
モノ(物・土地・天然自然など)と、人(者・組織・法人・会社など)を、区別できてないねえ。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:01:05.10
>>559
それは違うな
唐の時代には倭国には大和朝廷が含まれてるわけだし
奴国(筑紫)から奈良に遷都したことを示唆する記述だね
0563日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:01:37.94
唐会要倭国伝
古倭奴國也。

倭は古の倭奴国なり。
0564日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:02:42.26
>>524
>樂浪郡徼はその國を去ること萬二千里
>その西北界拘邪韓國を去ること七千餘里

つまり邪馬台国は楽浪郡から何里なんだ?
そしてそれは実際の地理でどこに当たる?
早く答えろよ。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:03:41.92
>>562
大和朝廷は日本国だろ。
倭の別種で、倭国を併合したんだ。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:05:02.65
倭国=筑紫王朝
日本国=大和王朝
0567日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:05:58.36
>>560
珍説だなぁ
纏向遺跡の周囲には集落があり明らかに都市部
0568日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:06:15.00
卑弥呼は倭の女王(親魏倭王)であり、その王都が邪馬台国。
すると、邪馬台国があったのは筑紫であったことになる。
0569日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:06:52.24
>>567
崇神が建てた、後の日本国。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:07:24.16
>>565
「倭の別種で、倭国を併合した」という話は信用出来ないと書いてある
0571日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:07:36.71
ヤマト王権の萌芽と倭国を混同してはいけないのだね。
0572日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:09:21.70
>>562

1000年も前から嘘をつき続ける日本人。
そのため自国の起源すら正確にはわからなくなっている。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:09:54.41
>>566
それはないな
唐は倭奴国(筑紫が首都)と倭国(奈良が首都)は同じ国と認識してるから
遷都が示す記述だね
0575日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:11:14.81
>>572
チョンは引っ込んでてねw
0576日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:12:05.97
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
国産み伝説には、記紀編纂までに西日本各地の土地が追加された。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。

卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:13:17.47
>>574
纏向遺跡は集落ではないね
纏向は、御神体(三輪山)や巨大古墳(巨大モニュメント)や集落に囲まれた中心地
0579日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:22:03.47
>>578
誰の?w
0580日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:26:11.01
崇神
0582日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:32:02.92
>>579
纒向遺跡にいっぱい古墳があるの知らないの
0583日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:32:36.51
やっぱり墓地か。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:34:55.94
纒向遺跡の主な古墳
纒向石塚古墳
纒向勝山古墳
纒向矢塚古墳
東田大塚古墳
ホケノ山古墳
箸墓古墳
0587日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:36:20.61
>>582
古墳を墓地ってw
0588日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 17:43:35.04
石野博信
「箸墓は2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した遺跡である」
つまり纏向の前方後円墳の終末=4世紀中ごろに纏向の古墳造営基地も無くなったと言う事であろう
0589日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 18:01:45.69
>>588
ウソ書くな
箸墓が消滅するかアホ


アホ
アホすぎ
0590日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 18:01:46.19
>>587
古墳って墓じゃ無いの?
0591日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 18:04:20.10
>>560

1、集落跡が無い、生活用具が少なく土木具が多く出土
>1について、
土木作業員は貧しい人か、奴隷だから竪穴式住居や高床式住居に済ませなくても良いし常駐しなくてよい
土木用木工具(木製鏃等)が多く出土してるのもうなずける<

土木作業員の寝泊りする大集落でいいのでは
0592日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 18:05:17.61
>>590
儀式の場でありモニュメントだよ
0593日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 18:10:31.63
>左側スロープ君が卑弥呼と主張するヒメタタライスズヒメの在所(三嶋溝咋)は57キロ離れている
>神武にとってもヒメタタライスズヒメにとっても、高天彦神社の辺りは縁の薄い場所だ


ドアホ、三嶋溝咋は母方の祖父だ。
女性の実家で子供を育てたことを考えると、ヒメ(踏鞴五十鈴)は綏靖の母であり、
綏靖の宮は御所市森脇近辺だから、ヒメ(踏鞴五十鈴)はおそらく長柄神社、別名「姫の宮」であろう。
日本で唯一、銅鐸と鏡が同時に出ている(国宝)。

というか6代孝安まで宮が葛城、もうこの時点で崇神以前の3世紀の王都が葛城であったことが分る。

纏向に卑弥呼がいたってアホなのか、あそこは物部の郷。
だから瀬戸内の要素が強いのだ、分かったか。
0594日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 18:12:33.25
>>証拠は記紀と先代旧事本紀。

>記紀では崇神から応神まで6世代

ごまかすな、記紀では遡ること5世代だ、数の数え方も分からないのか。

>旧事本紀でも、天皇の系譜は記紀と同一
>崇神、垂仁、景行、日本武尊、仲哀、応神の6世代

しれっと嘘をつくな。
各豪族との対比では応神から崇神までおおよそ3世代であることが分る。
三輪 氏    物部氏   忌部氏     大伴氏   中臣氏    天皇
 
 大 田々根子  伊香色男  玉久志古    豊日    神耳勝    10崇神
大御 食持   十市根   多良斯富    武日    大鹿島    11垂仁12景行
大友 主    胆咋    麻豆奴美足尼  武以    臣狭山    13成務14仲哀
志多 留    五十琴   佐岐大人足尼   佐彦    雷大臣    15応神

だから崇神没年を318年としても古過ぎるくらいだ。
古事記の没年干支を信用しないとしても崇神没は4世紀前半。
その時点で崇神の数十年前のトヨは決定、そしてその3世代前のヒメ后も決定、住んだ場所は葛城だ。

>記紀が根拠と言いながら、これを勝手に4世代だと捏造して
>後代の記録から単純計算しただけですでに意味がないと否定されている天皇1代11年説を
>機械的に当てはめているだけのトンデモ説が左側スロープ君の主張

一世代間は20年、一代平均在位は11年、おまえも世代間と代数の違いが分かってないバカのようだなw
応神元年390年から、3世代遡っても、あるいは4世代遡っても崇神は4世紀前半。
そして応神元年390年から5代(世代ではなく代だよ)遡っても11×5=55、390−55=335で崇神は4世紀前半。
どちらにしても崇神は4世紀前半、墓は古事記の記述通り行燈山古墳(布留1)であろう。

箸墓は卑弥呼墓にはならないのだよ、ドアホ君w
0595日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 18:13:02.05
>天皇1代11年説とは、どのような説なのだろうか、、、

応神元年390年から30代の平均在位を計算してみ、11年弱になる。
そこから神功皇后を確実な一代として15代遡ってみ、神武の時代が卑弥呼の時代になる。
卑弥呼(Bei mei hu)とは 比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉つまりヒメ后、
夫の神武に先立たれたヒメ(踏鞴五十鈴)媛の姿だと分る。
0596日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 18:35:10.43
19時からBS11で邪馬台国関連のテレビやるよ
倉本氏がスタジオ解説するみたいだから九州説の人は期待しとくといい
自分の著書で書いてるようなトンデモだろうけど
0597日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 18:46:17.30
>>574
>纒向遺跡は集落じゃないってことだな <

集落はあったよ 古墳を造る土木作業員の集落がね
0598日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 18:47:42.61
>>592
嘘ーーー
0599日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 18:52:23.95
宮≠都
0601日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 18:55:09.75
宮≠京
0602日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 18:59:47.75
>>598
通説なんだがね
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:00:14.39
>>600
納得した
畿内説の学者は何を考えているのだろう
状況証拠から古墳造営基地で決まりだな
0604日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:02:26.68
九州説とは
人間がどこまでウソつきになれるか
限界に挑んだ男たちの壮絶な人生の記録である
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:07:25.79
>>603
素人が匿名で根拠もなく言い張って
どうしてそれで決まると思うの
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:08:07.61
出たーーー
纏向ドヤ街説

中らずと雖も遠からず
0607日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:08:10.43
少し、疲れているのでは、ないのかな、、、
0608日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:10:56.49
>>605
根拠
「纏向は古墳造営基地  掘立柱建物は安全祈願の神社か斎場 」

根拠
1、集落跡が無い、生活用具が少なく土木具が多く出土
2、搬入土器が多く各地から作業員が来ているし、市的機能を持っていたであろう
3、物資運搬の運河が築かれ古墳建設の土木工事が行われている
4、多くの古墳がある
5、斎場と見なされる 大型掘立柱建物がある
0609日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:11:48.04
>>607
頭の悪い邪馬台国畿内説のプロ固定が、九州説の真実の実力を引き出せない、この、レベルの低い、笑いリラックスできるスレッドを読んで、元気になれば良いな、、
0610日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:15:09.01
国立の学部の孫から、要らなくなった、余事象やベジタリアンの本を借りてきたのでは、ないのかな、、
0611日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:16:35.82
「奈良県桜井市の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、
 邪馬台国との関係で注目されている。」
「初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、
 奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、
 この問題に関する新たな発見が続いている。」
「邪馬台国の中心地とされる候補地の一つに、纏向遺跡がある。
 この遺跡は奈良盆地の東南、三輪山のふもとに位置し、大量の土器が出土し、大型建物跡も発見されている。
 巨大な運河などの土木工事がおこなわれた大規模な集落であり、政治の中心的地域であったと考えられる。」

全国の高校生がこう書かれた教科書で歴史を学んでいるのに
一部の老人たちは、まだ夢を見てるんだね
 
0612日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:17:37.54
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國(朝鮮半島南岸)から倭奴国(九州北岸)まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
0613日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:24:44.94
>>608
その「根拠」って言ってるモノって
結論に結びつかない見せかけお飾りを除くと
「集落跡が無い」とか
「斎場と見なされる」とか
お前がポッと思いついただけで
他の誰も言ってないことだから
0614日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:25:16.67
75パーは、 ◆UiepmfCeDJqf と、和解できたのだろうか、、、
0615日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:26:22.30
天理の西山古墳は日本最大の後方墳の上に後円墳が乗るという特異な形をしてるが、
本流(後円墳)と傍系(後方墳)だとしたら天理の地で一つになったともいえる。
被葬者は成務天皇の時に大臣になり、石上神宮に仕えた物部 胆咋 (もののべ の いくい)あたりか。
0616日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:30:01.41
やはり、
九州説>75パー>>>>>>>>> ◆UiepmfCeDJqf
の、ままなのだろうか、、、
0617日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:31:12.03
天理の西山古墳は日本最大の後方墳の上に後円墳が乗るという特異な形をしてるが、
本流(後円墳)と傍系(後方墳)だとしたら天理の地で一つになったともいえる。
被葬者は成務天皇の時に大臣になり、石上神宮に仕えた物部 胆咋 (もののべ の いくい)あたりか。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:33:17.76
余事象の本には、理解し、突破するのが難関なものが、多いのではないのかな、、
0619日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:39:54.36
やはり、余事象は、玉や弾が、箱や人体に、入らなかったり、外れたりした分も勘定に入れなければ、いけなかったのだな、、、
0620日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:42:22.37
>>608のいう根拠とやらから出所不明怪情報を取り除いて間違いを直すと
1、農具が少なく土木具が多く出土
2、搬入土器が多く各地から作業員が来ているし、市的機能を持っていたであろう
3、物資運搬の運河が築かれ古墳建設の土木工事が行われている
4、多くの古墳がある
5、神殿か宮殿と考えられている大型掘立柱建物がある

追加情報
1、搬入土器には精製品が多く、各地方から有力者が集まっていたと考えられている
2、この地で統合された古墳祭祀が全国に波及しており、大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって全国的な政治連合が形成されていたと考えられている
3、古墳祭祀以外の祭祀が多数行われていた
4、導水施設を使った王権祭祀が行われていた

結論
 王都である
0621日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:44:15.79
◆UiepmfCeDJqfは、無知なまま、生きていくのだろうか、、、
それとも、頭の悪い75パーの言いたかったことに、気づけるのだろうか、、、
0622日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:44:26.48
>>614
もともと対立していないのでは?
0623日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:46:09.82
75パーは、 ◆UiepmfCeDJqf と、和解できたのだろうか、、、
0624日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:48:01.00
僕達の研究を、再開すれば、良いな、、、
0625日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:51:12.62
両道入姫命という名前には、何か重大な意味があるのではないのかな、、、
0626日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:53:00.89
両道入姫命は、未亡人になり、再婚してから、出産したのでは、ないのかな、、、
0627日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:53:13.02
>>612
このコピペよく貼る人がいるけど支離滅裂だね
倭奴国が博多なら出雲も吉備も大和ももっと北だから
倭奴国が倭国の極南界だという情報から
「倭国とは狗邪韓國(朝鮮半島南岸)から倭奴国(九州北岸)まで」
という結論は出てこない
0628日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:57:27.04
倉本、飛ばしてるな
この番組、学術的には例外中の例外の意見を放映してるけどクレームくるだろうな
0629日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 19:59:26.24
>>620
>結論
 >王都である


結論は物部の郷。
大和では前方後円墳が2世紀末から始まり6世紀末に終る。

守屋が殺された物部宗家滅亡と同じ時期にピタッと終る。

前方後円墳とは物部の墓制、おそらく沼島(おのころ島)を模したものだろう。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:01:01.16
倉本というゴルファーが、いたな。。。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:01:40.24
>>628
どんなこと言ってる?
0632日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:01:57.51
>>164
>大古墳を作ることも、国家祭祀の一環なんだから、民草のことを考えるからこそ
立派な古墳を作らなければいけなかったんだよ
そして、国家祭祀を主催するのが祭祀王たる卑弥呼・倭王の仕事な訳だ
纏向遺跡の存在様態そのものが、当時の倭国の中心、中枢であることを示している<

「南≠東」などに拠って、×。
0633日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:03:06.02
>>168(纏向)
>何度も答えは出ているじゃないか 祭祀王の王都  これに尽きる
複数のよそでは見られない規模の祭祀土坑が発掘されていることも、それを裏付けている<

祭祀は構わないが、「王都」にはなっていない。

>また、王の下へは、王を共立した地域からの人も集まるし、<

共立女王の卑弥呼を意図したから、「南≠東」などに拠って、×。

> 市としての機能もあっただろうけどね<

これは構わない。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:03:30.25
>>628
古代史の学者じゃないからお笑いで許されるんじゃね?
0635日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:04:01.19
>>170
>古墳造営こそ、祭祀王の仕事だというのが理解できれば、
最大の古墳のある土地こそ、王都のお膝元だと分かるだろう<

卑弥呼の居地には、
「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」である事が必要。
そして、卑弥呼や壹與の墓である祇園山は平原は、女王の王都よりかなり遠かったようだ。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:05:10.87
>>172
>>あんなに多くの古墳作るには作業員は優待受けていたと思う<

>そこまで理解できていたらあと一歩!
それだけの人数を食べさせるだけの食料を用意できるのは、
当然に大集落を持つ王都だけなんだよ
纏向が集落ではないというのが、ただの寝言だって言うだけのこと <

「市」が機能しておればよい。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:05:25.55
>>633
理由言わずに決めつけるのが九州説
つまりゴミ
0638日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:05:48.04
>>631
番組の最後で、司会者が倉本にどっちにあったと思うかを聞いて、倉本が九州だと明言してしまい
司会者も結論が出ましたというような感じで番組を締めてしまった
0639日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:06:21.23
>>175
>纏向古墳群で、100メートル級以上の倭国最大の大墳丘墓が累代的に5基造営されたあとも
大倭古墳群、柳本古墳群では大小さまざまな古墳の造営が続いている<

何組もの、何人もの「東征」将軍や武将らが、繰り返し何組にも分れて、
盆地内各地を征服支配し、墓を造ったから。

>それだけ、永続的に大勢の人が存在し続けていたんだよ <

将軍や武将らは一人ではない。
纏向だけを肯定することしか考えていなくて、別の東征将軍や武将が、
大倭古墳群や柳本古墳などを征服支配した可能性を意識してなかったんだろ?
そういう、断片的なチェリーピッキング思考しかできない人しか、
大和説には残ってないんだよ。
0641日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:07:35.32
>>180
>前方後円墳は権力誇示のためのモニュメントであり、大勢の人に見られることを
目的に作られるのだから、寒村にそんなものは作られないんだよ<

複数以上の東征軍は、在地の出雲系銅鐸祭祀部族や毛人蝦夷部族を、
「墓守り人(後の部落民)」にして、威嚇支配しようとした。

>だから、北部九州にはそんなに大きいのはないだろ?
北部九州なりに精一杯の大きさのものを作ってはいるけれどw<

北部九州の倭国は、5世紀の宋代までは、中国の臣下の地位にあって、
ある程度薄葬の制約を受け続けた。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:09:01.58
>>182
>残念ながら、多くの古墳が並行して造営されているんだよ
まあ、それぞれの現場はあっただろうけれど、常に大人口で賑わい続けていた訳だ <

複数以上の東征軍が来ていた、というだけだな。
そして、好太王の碑にも書かれた「守墓人烟戸」と同じようじ、
「墓守り人」を造った、という事になる。
スレ主も、いちゃもんにも切れがなくなってきたな。
もう、ケチを付けるネタもネタ切れになってきたな。
0643日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:10:42.39
>>183
>王のお膝元だから、多くの兵(とは限らないが)が終結しているんだよ
王以外が動員を掛けても、食わせられないからねw <

東征将軍らは、「市」を監督した「大倭」職であったから、
軍も「市」の役人も、墓守り人も食わせられたんだよ。
0644日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:10:53.87
>>638
九州説を老衰死からちょっと延命して視聴率狙ってきたかな?
0645日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:11:25.47
倉本は邪馬台国の都は環濠集落で間違いないとか、
呉の系統の鏡が日本列島各地から出土してるとか、はっきり言っってしまってる
嘘ついたつもりではないだろうが、知識不足やばすぎる
0647日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:16:16.94
つまり、邪馬台国は、九州にあったことが、証明されたのでは、ないのかな。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:17:08.51
どっちかというと、九州説に迎合した番組作りだろうな
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:17:10.47
>>641
>北部九州の倭国は、5世紀の宋代までは、中国の臣下の地位にあって、
>ある程度薄葬の制約を受け続けた。

お笑いだな
「東征将軍」とやらがその制約を受けないんなら
かれらは「九州倭国」とやらの家臣じゃないわけだ
もちろん九州にある前方後円墳を作った首長たちも「九州倭国」には従わない勢力なわけだ

その「九州倭国」って、どんだけ無力なの?
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:17:33.23
両道入姫命が、未亡人になり、再婚してから出産したのは、仲哀天皇では、ないのかな、、、
0652日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:19:51.70
>>648
本読まずにテレビばっか見てるのはボケた後期高齢者だろうからなあ
0653日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:21:06.29
神宮皇后という、仲哀天皇の妻も、未亡人だったのでは、ないのかな、、、
0654日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:22:42.82
日本の近隣では半島南部、金海太成洞の地下式木槨墓に十代の少女の殉葬例があるようだ。
とはいえ一人。

王が死んで100人も殉葬するわけがないし、だいたい日本で殉葬はない。
ならば魏志の記述は奴婢を大量に殺戮した一つの事件であろう。

4世紀前半の崇神天皇以前に奴婢を大量に殺戮した事件がある。
神武軍の土蜘蛛制圧だ。

つまり日本書紀の神武の記述と魏志の卑弥呼墓の記述は合うのだ。

卑弥呼の墓の場所は高天原だ。

発見者は俺だからな。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:22:55.18
この番組、畿内説の代表に俳優の苅谷俊介って時点で意図があるわ
0656日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:23:08.06
倭国を滅ぼしたのは、日本武尊だったのだろうか、、、
0657日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:25:36.20
仲哀天皇は、なぜ、熊本城を攻めようとして、死んでしまったのだろうか。。
0658日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:27:11.98
神宮皇后という、仲哀天皇の妻は、何者だったのだろうか、、、
0660日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:29:43.42
中國から伝わった「方位」という考え方を取り入れて、
纒向の3棟の建物は東西一直線に建てられていた・・、
と橋本は明言し、ご丁寧に図も示していた。
ということは、倭人伝の南至は東の間違いだ〜なんてことは、今後は主張しないつもりなんだな。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:33:54.72
>>185
>纒向遺跡は巨大な兵の駐屯地<

駐屯し生活した建物がない。

>兵を束ねるのが女祭祀王の役割 巫女、鏡、櫛、兵はセット <

兵や墓守り人を束ねたのは、東征軍の将軍や武将。

>ヤマトは都でもあり対狗奴国の前線基地<

「南≠東」などに拠って、×。
0662日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:34:44.66
>>186
>繰り返すが、貧しい寒村では見る人が少ないので、そのような大きな構築物を作る目的にそぐわない
これも繰り返しだが。貧しい寒村ならそれだけの大人員を食べさせるだけの食料が調達できない
大古墳が造営されている時点で、貧しい寒村というやつがバカという状況になる<

当然「墓守り人」たちは、貧しかった。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:35:28.59
>>187
>狗奴国とは攻撃し合っているんだよ 狗奴国との境界、前線に兵が集結するのは当然<

大和説は、「南≠東」などによって、×。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:35:32.61
橋本の目の動きは下向きかげん、、
もう箸墓から降りちゃった感がちらちらしてたわ。。。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:36:33.42
>>191
>おいおい、箸墓の造営には10〜15年かかるっていう試算も知らないのか?
郷里から10から15年分の食料持参で古墳を作りに来るなんてありえないって分かるだろ?
それは、王都周辺から調達するんだよ そして、王都だから、それだけの食料が用意できる <

纏向は王都ではない。
地方の市を監督する大倭職であったから、食料を調達出来た。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:37:29.74
>>197
>>寒村で自給自足だな<

>自分で、農作業はしていないって言ってただろ? 自給自足は無理だよww<

捕虜になった墓守り人たちは「半自給」状態で、苦しかったんだろうなあ。
0667日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:38:21.29
>>198
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、反論一つできなくなると、
根拠なしの一言コメントで、 反論したという体だけ取り繕う。
惨めなものだな。
判断した「具体的な理由や根拠」を書かない限り、 無意味な戯言以下だ。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:38:22.16
今日のTVに出ていた考古学の先生も、巻向遺跡が邪馬台国とは一言も言っていなかったな。
0669日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:38:27.22
>>665
また結論先にありきか九州説
0670日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:39:10.33
>>203
>これが邪馬台国、初期のヤマト政権の起源かもしれない
>倭国大乱でそのいくつかは謀反を起こしたのだろうか? <

邪馬台国も倭国大乱もなかったから、×。
0671日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:40:05.71
>>207
もう、まともに議論もできない不調法者しかいないんだな、大和説には。
根拠もなく「王都がー」「大集落だ」と言い続けるだけ
相手にする必要すらもうないのかな?
0672日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:40:29.57
>>660
2009年の時点で発見されている建物3棟の説明だが、その3棟の方位を揃えていると言ってただけ
3世紀に「東」とか「南」の概念があったなどと言ってない
捏造はダメ
0673日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:40:57.57
畿内説を主張してくれる学者が見つからなかったんだろうね。
で、やむなく石原プロになっちゃったのではないだろうか、、、
0674日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:41:54.18
倭国は狗邪韓國まで領土であったことが分かっている。
もし仮に邪馬台国が奈良なら、
奈良から朝鮮半島南部まで、
強大な勢力を有していた事になり、
狗奴国との争いで魏の助けを借りるはずが無い。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:43:55.16
まあいいさ
九州説死にそうすぎるから
投薬やむなし
0676日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:44:45.49
>>671
根拠なら言ってるよ
反論がない
0677日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:45:36.64
>>213
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説やスレ主は、
また何も理由を言わないの?。
トンデモはこれだから。
0678日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:46:27.21
>>674
>倭国は狗邪韓國まで領土であったことが分かっている。

そんなトンデモ、認める学者は一人もいないよ
0679日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:47:06.45
>>215
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説は、
もう存在すらしないんだよ。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:47:55.27
>>672
何をトンマな。
「方角」でなく、「方位」という考え方を取り入れて・・・、といってたが、
もちろんすでに北斗七星信仰もあったことからわかるように、方位といえばその基本は東西南北のこと、。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:48:14.61
100人中98人は九州説だね。
誰でも頭悪い人たちにはついていきたくないからねえ。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:49:45.67
>>216
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、
そうやって罵るだけというのは、
あなた方大和説者やスレ主が論破された証拠 。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:51:24.27
また、纒向遺跡の外来土器には、
朝鮮半島由来を示す土器はない。
纒向政権が朝鮮半島に進出していなかったことは100パー間違いない。
考古学的に見て、纒向が邪馬台国で無い事は間違いないだろう。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:51:55.03
>>681
妄想がお医者必要なレベルだぞ
0686日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 20:52:15.67
若い考古学者達が、邪馬台国纒向遺蹟説から関わりあいを避け、古い考古学者達も、静かに、離れていくのではないのかな、、、
0687日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 20:56:23.12
発掘が、進行した分、纒向遺蹟は、ベジタリアンからも見放された可能性が、高いのでは、ないのかな、、、
0688日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 20:57:11.32
静かに静かに、畿内説の幕が降りつつあることを示す番組でした(涙。。。。。
0689日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 20:57:13.40
>>220
>大人口がそこにあったのは確実
なぜなら、大きな労力が必要な大墳丘墓が現存しているから <

九州倭国の東征軍は、征伐した出雲系銅鐸祭祀部族や毛人蝦夷部族を、
「墓守り人」という半奴隷民的部落民にして、労力に使えたから。

>そして、大人口がある場所が貧しい寒村であるというのは破綻している
なぜなら、寒村はその大人口を支えるだけの食料調達ができないから<

古事記に書かれた欠史八代の中の四人には、
九州倭国の地方の市を監督する「(使)大倭」の称号が付けられていたから、
その「市」を介して、食料調達が出来た。
0690日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 20:58:32.98
>>684
瓦質土器出てるよ
0691日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 20:59:33.71
ベジタリアンの計算は、残酷なのだな、、、
0692日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:00:54.45
>>228
あんたらの「南→東」などの嘘吐き騙しのトンデモ九州説者やスレ主は、
昔も今も笑い者だよ。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:01:12.52
それにしても偶然、
あの写真に写っている人がいたでしょ、
なぜベジタリアンだったのか?なんだよな・・・
0694日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:01:12.63
発掘が進めば進むほど、真実の纒向に一歩づつ近づいていく(涙。。。。。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:02:06.79
>>694
王都という史実にな
0696日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:02:42.06
『姥清水』

寒いなー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、
むかーし、この辺りに住んでいたんだよと言っていたし
0698日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:05:45.57
>>694
纒向は邪馬台国の王都ではなくヤマト王権の王都という結論へと向かっていくようだ
0699日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:06:08.60
松の木が立てられていて・・・『松傾』?
このような名前の家w

他にもいるでしょ、同じような名前の家だけど?
家は長州(不明)のほうの出身ではないと言っているし
0700日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:06:29.43
九州に主人がいて畿内は家来ってザラコク説は笑いもの
東西がぜんぜん別の国として説も博多見れば不可能
九州説詰んでるだろ
0701日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:08:17.98
このスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。

真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。

架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、

ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、

拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。

拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身を調べました。。。
頭部が、緑と青と赤のものが作製されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
0702日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:09:50.61
まあ九州にある邪馬台国が畿内まで制圧してたと言うのは無理があるな
畿内には邪馬台国とは関係ない別の王権が存在してた
0703日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:10:39.52
連句点はそんなに自分の知能低さをアピールしなくてもいいのに
0704日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:11:46.54
>>702
だから、それも無理でしょ
0705日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:14:33.59
邪馬台国畿内説を宣伝しているプロ固定が、論破されたので、討論会での反論を放棄し、悪口を言い放ったな、、

703日本@名無史さん2019/05/06(月) 21:10:39.52
連句点はそんなに自分の知能低さをアピールしなくてもいいのに
0706日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:15:30.87
>>678
え?
0707日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:17:07.25
>>660
北部九州から水行30日だから
北部九州の可能性はゼロ
0708日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:17:08.34
魏志倭人伝時代には、纒向遺蹟は、無かった可能性が高いのではないのかな、、、

702日本@名無史さん2019/05/06(月) 21:09:50.61
まあ九州にある邪馬台国が畿内まで制圧してたと言うのは無理があるな
畿内には邪馬台国とは関係ない別の王権が存在してた
0709日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:17:38.78
>>252
「南=東」で確定だと思う理由は?
「南→東」の史料事実の変更が正しいって理由も書いてね

大和説はいつも理由を言わない

ふさわしくないって理由も書いてね

九州説はいつも理由を言わない
0710日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:19:35.04
大河内氏の、ブラックボックスに関する業績は、どのような業績なのだろうか。。。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:20:36.15
>>702
三世紀にはもう畿内を中心とした全国的連合政権があったことが教科書に載っちゃってるからね
九州説にはそういう逃げ方しか無いのはわかるが
それ、不可能だって自分でも解ってるんでしょ?
0712日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:20:53.71
>>708
アホ?
魏代の出土品が多いのに
0713日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:21:49.62
>>706
いない

一人もいない
0714日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:22:29.70
>>709
記述が正確だとすると
邪馬台国は沖縄あたりになるから
どっか間違ってるのは明らかだろ
0715日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:22:42.54
>>255
>不定形だと冢では全くない って理由は?<

豚の顔は「錐体台」的な形だから。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:22:43.67
>>713
え??
0717日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:24:02.28
>>709
ザラコクが自分はウソついてるって明かし始めたぞ

笑いながら見守ろう
0718日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:26:18.15
>>716
いない
0719日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:26:59.43
>>718
ぷっ
0720日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:27:51.28
やはり、邪馬台国畿内説は、韓国人考古学者達に操られた、闇の勢力によって、砂の山の上に、建築されていたのだな、、

678日本@名無史さん2019/05/06(月) 20:46:27.21
>>674
>倭国は狗邪韓國まで領土であったことが分かっている。

そんなトンデモ、認める学者は一人もいないよ
0721日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:29:52.45
>>720
テンプレートには、なぜ、韓国人考古学者が何度も、登場するのだろうか、、、

678日本@名無史さん2019/05/06(月) 20:46:27.21
>>674
>倭国は狗邪韓國まで領土であったことが分かっている。

そんなトンデモ、認める学者は一人もいないよ
0722日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:30:53.88
大河内氏の、ブラックボックスに関する業績は、どのような業績なのだろうか。。。
0723日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:31:40.86
>>257
>>墓の「形」の形容や、「冢」や「墳」の区別は、「全体の形」で決めるものなの。<

>だと思う理由は?<

「冢」は地面から突き出すような尖った形。
「墳」は地面からむくむくと丸く盛り上がるような形。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:31:47.29
このスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。

真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。

架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、

ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、

拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。

拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身を調べました。。。
頭部が、緑と青と赤のものが作製されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
0725日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:32:33.69
調べてみると、同じような名前ばかり出てくるし

老婆の旧姓というのがワタナベで・・・w
0726日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:34:53.27
架空の世界で、1800年前に使用された拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が現代の奈良に
出現し、巻きぴょんだけの中身を調べました。。。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:35:52.90
大河内氏の、ブラックボックスに関する業績は、どのような業績なのだろうか。。。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:35:53.68
>>721
日韓交差編年を扱ってるからだな
0729日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:36:50.82
『チョン州 長州』

こういうスレでも、
渡辺某という人物の話が出てきたり、
家の老婆も東北地方のほうの出身だしな・・・二本松のほうw
0730日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:36:56.23
>>723
>「冢」は地面から突き出すような尖った形。
>「墳」は地面からむくむくと丸く盛り上がるような形。

だと決めつける理由は?
0731日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:42:47.20
>>721
つまり、韓国人考古学者達の発表を無条件に信用してしまった可能性が、高いのだな、、
0732日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:44:26.36
キナイコシが、キャラクターを変換しようとしているな、、、

729日本@名無史さん2019/05/06(月) 21:36:50.82
『チョン州 長州』

こういうスレでも、
渡辺某という人物の話が出てきたり、
家の老婆も東北地方のほうの出身だしな・・・二本松のほうw
0733日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:44:30.43
家の老婆は『福島 民家園』というところの話をしている
0734日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:45:38.34
>>261
>おいおい 「自昔」は 「西服衆夷六十六國」にも掛かってるだろ
九州説は文法からきしだな<

おいおい、
「東征毛人五十五国」の「征」や「渡平海北九十五國」の「平」は、
始めから他動詞だから、「自昔〜倭王武の頃」の間はずっと他動詞でもよいが、
「西服衆夷六十六國」の「服」は本来は自動詞なんだから、
「自昔〜」の頃に「征服」が終わっていて、倭王武の頃は「既に服属している」状態だ、
という意味に解する事になる、
って事が、スレ主には分からなかったんかな?。

スレ主は漢文解釈がからきしダメだな?。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:51:48.78
>>263
>>渡海という文言も、水行という文言の中に含まれる。<

>じゃあ、なんで書き分けられてるの?<

水行というよりは、渡海とはっきり判る時は、
はっきり渡海と書いた方が、
明確な説明になるから。
0736日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:54:42.98
>>734
また漢文を勉強したことも無い素人じいさんが
デタラメを書いているな
証拠も出さずに
0737日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:56:01.52
>>611
>>>>>
注目されている
とも考えられる
候補地の一つ
と考えられる。>>
0738日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:57:01.42
>>737
唯一な


w
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:58:15.31
>>274
>鎮魂歌 卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、
石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える・・・ <

台与も邪馬台国存在もしない嘘つき騙し文言であるから×であるし、
「南≠東」などによっても、×。
0740日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 21:59:33.70
>>737
教科書にそこまで書かれる
確定ですね
0741日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:01:22.46
>>527
>つまり邪馬台国は楽浪郡から何里なんだ?
>そしてそれは実際の地理でどこに当たる?

つまりも何も、邪馬台国までの距離は「書いてない」
ここから、九州説は思い込みベースの捏造をしてるんだよ

萬二千里は淮南子の東方之極まで距離の転用であり、
具体的な場所までの実測値ではない
0742日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:01:47.21
>>278
「会稽東治之東」は、全く九州島付近じゃないか。
世界地理まで破壊する「南→東」などの嘘吐き騙しの、大和説者やスレ主って
狂ってるな
0743日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:07:52.79
このような事を言ってる人もいるでしょ

>会津、会津とパカにすな。
>おなじ人間、トコちがう。


『光のネットワーク』
という曲、どういうことなんだろう
0744日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:10:33.46
>>279
>>1 しばらく静かにしてくれませんか
短里の矛盾を九章算術で解説してるが飛んでしまう
話題が飛んでレスが速いのは>>1の責任もある<

九章算術の学者の計算が、魏朝採用の周髀算経の短里ではなく、
民間の始皇帝の「1歩=6尺」の長里で計算を民間のしている、
という事は、Yahoo時代の議論でも確認済み。
民間の使用度量衡は、魏朝や西晋朝の使用度量衡の根拠にならない。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:11:24.43
>>529
>上の文章は、倭の政治的中心から楽浪郡まで一万二千里、
>倭の国境から楽浪郡まで七千里という意味であり、
>対馬海峡が三千里とあわせると、楽浪郡から一万二千里では九州を出ることはない。

政治の中心までではなく、観念的な地の果てまでの距離が萬二千里で、
倭国本土上陸までが一万里に設定されているだけ
そして渡海は距離を測る手段もないから、渡海1回で一律で千里
楽浪郡から狗邪韓国まで七千里ってのは、倭国上陸まで一万里から渡海3回三千里を引いただけ

後漢書では楽浪郡から拘邪韓国まで七千里
三国志では帯方郡から狗邪韓国まで七千里

「政治の中心から」だったら距離が短くなってないとおかしいだろ?

萬二千里も一萬里も、渡海千里も、どれも実測値じゃないし、測定手段もない
観念的な値が当ててあるだけ

実測値じゃないものを実際の地理と比べるのは無意味だよ

理性的で論理が追える人ならこれで理解できるんだがね

「短里を使う理由のある人がどこにもいない」ことに対する反論はないのかい?ww
0746日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:11:35.77
創価(不明)関係なのかな?

『創価  阿部』
このような人物がいたり
0747日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:15:49.75
>>297
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者もスレ主も、
具体的な反論反証を何も言えないから、
だいたいがトンデモな大和説。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:16:19.90
当時(昔)のことは知らないけど


たしか広瀬川という川が流れていて、
その辺りに広瀬座というのがあって・・・。


『老婆談』
0749日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:17:04.43
>>534
どうして冠位十二階の部分は引用しないんだ?ww

唐代(正確には武則天の武周長安三年)に、倭国から日本国への国号変更が
中華王朝に報告されたから、その前が倭国伝、それ以降が日本国伝として伝が立てられているだけ
唐代には倭国も日本国も奈良の朝廷だよ

一つの民族の別の国号が「別種」という言い方をされるだけ
0750日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:18:27.43
>>300
今はっきり確信できるのは、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者やスレ主らは、
知能がとても低い・・・・アホ詐欺師ってことだな
0751日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:19:01.69
決定的に脳が悪かった三寸男と、普通より少し悪い75パーは、同じ人物なのだろうか、、
0752日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:24:33.67
>>612
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。

またウソを書いてる!
その国は「倭国」だって何度教えたら理解するんだ?
九州説は自説の都合で、捏造解釈をしてそれを本当だと思い込むからダメなんだよ!
0753日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:33:04.33
>>627
>倭奴国が博多なら出雲も吉備も大和ももっと北だから

普通は東と表現します。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:36:25.55
>>313
>>「自昔・・・」なんだから、「昔から倭王武の頃まで」である事になり、
「東征毛人五十五國」と「渡平海北九十五國」が、「自昔〜倭王武」の間にずっと行われ、
「西服衆夷六十六國」は、
「昔に征服が終了していて、倭王武の頃は既に服属した状態である」という意味になり、
何ら問題はない。<

>で、西服衆夷の服が動詞だってのはいいな? で、その服の主語は何だ?
明確に答えてみなさいww<

自昔の頃は主語は「(自昔の頃の)倭國王」。 倭国王らが衆夷を服した。
倭王武の頃は主語は倭王武ら。
倭王武らは、衆夷を服し終わっている状態になっている。
0755日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:37:14.39
>>672
そりゃあ、隣り合った建物を全然別の方向に建てるのも不自然だしなあ。
ていうかさ、纒向遺跡の建物は普通に神社と同じ本殿と拝殿のセットに見えるんだよね。
だから宮なんだろうとは思うけど、柵も楼閣もないから、卑弥呼とは関係ないだろう。
崇神か物部の宮でいいと思うよ
邪馬台国を絡めるのは筋違いだ。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:39:48.95
>>315
>これを無視してんじゃねえよ!
https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg

「南≠東」や「南≠東北」などを、
無視してんじゃねえよ。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:40:02.72
>>745
>倭国本土上陸までが一万里に設定されているだけ
>そして渡海は距離を測る手段もないから、渡海1回で一律で千里

つまり短里だろ。

九州上陸まで一万里なら、一万二千里は九州から出ない。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:41:53.73
>>745
>後漢書では楽浪郡から拘邪韓国まで七千里
>三国志では帯方郡から狗邪韓国まで七千里
>「政治の中心から」だったら距離が短くなってないとおかしいだろ?

イミフ
後漢の頃にはまだ帯方郡がなかったから楽浪郡と書いただけだろ。
実は後漢書が魏志倭人伝より後に書かれているから、一万二千里は魏志倭人伝の情報なんだよね。
でも後漢の頃にはまだ帯方郡がなかったから楽浪郡と書いたんだ。
だから距離は変わらない。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:42:54.94
いつの どこの教科書?
出典も問題だな
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:43:13.37
>>749
冠位十二階は隋の時代の話だぞ。
だからまだ筑紫倭国の時代だ。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:44:34.82
>>757
九州説は考えずにすぐ短絡する
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:45:05.79
>>318
>>話題が飛んでレスが速いのは>>1の責任もある<

>違うよ
ザラコクと連続句読点が話題を飛ばす目的で意味の無い大量の荒らし投稿をするからだよ<

違うよ。
スレ主や大和説者や大和説シンパの脳のおかしいのが、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しが目的で、
大量の荒らし投稿をするからだよ。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:46:09.24
>>752
倭国だが、距離はその王都からのものなので、邪馬台国としても同じことなんだよ。
そうでないと国境の話と混乱するからね。
一万二千里を倭との国境までだと言い張るクズがいるからね。
倭の国境は楽浪帯方から七千里、倭(の王都邪馬台国)までは一万二千里という意味だよ。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:46:32.88
>>639
>何組もの、何人もの「東征」将軍や武将らが、繰り返し何組にも分れて、

例えば、後の世でも征夷大将軍は1人だよ?
大墳丘墓が作れる将軍がたくさんいるなんて、設定めちゃめちゃじゃないかww

複数の大古墳が並行して作られてるって教えただろ?w

その場その場で思いつきのでまかせを書いても、意味のある説にはならない
九州王朝説は九州説の中でもザコw
0766日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:46:44.91
>>762
対馬海峡が三千里と表現されているわけだから。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:47:41.34
>>322
別にどん人が書き込んでもいいんだけど、科学板なんだから
きちんと根拠を挙げて論証できるレベルの人じゃないと恥ずかしいよってこと

「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
根拠なく思い込みを書き込むだけで、
議論に堪えるだけの知的能力に欠けているのが問題
0768日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:49:26.02
>>765
将軍とは限らないんじゃない?
神武も饒速日も大和で天神の子を名乗っていたように、筑紫からやってきた王族がぞろぞろいたんでしょう。
その下にいた鴨族だって大国主や大山積らの末裔の王族だし。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:50:07.87
まくろす、ガンダム(例えばサングラス)の話?

『遮光器土偶』

偶像 アイドル、スターと書いてあるでしょ
0770日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:51:34.51
>>654
>王が死んで100人も殉葬するわけがないし、だいたい日本で殉葬はない。
>ならば魏志の記述は奴婢を大量に殺戮した一つの事件であろう。

はい、注目!
ここが勝手な憶測を推論だと思い込んだポイントです!

こうやって、トンデモはあり得ないことを自ら信じ込んでしまうんですよ!
時代も時系列も無視したチェリーピッキングも散りばめて一丁上がり、てなもんだww

左側スロープ君は誰にも認められないことをグダグダ書きに這い出してこないで、
自分の巣へお帰り
0771日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:56:05.02
1回や2回ならともかく、すべて間違ってるからそもそも分かってないんだろうなw

日本人ならあり得ないシリーズw
宗神
關連
遺蹟
イダル
蒔絵
神宮 ←new
0772日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 22:58:34.14
>>662
>当然「墓守り人」たちは、貧しかった。

墓守しかいないようなところに、「見る権力誇示施設」は作らないんだよ
論理のない人間はダメ人間
0773日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 23:03:02.96
>>766
だから何?
論理がないの?
0774日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 23:12:55.04
>>709
>「南=東」で確定だと思う理由は?

会稽東治之東に日本列島が無いからだよ
シンプルかつ確実だろ?

それと水行二十日は、沿岸航行
北部九州からの長距離の沿岸航行は「日本海側を東へ」が一番妥当
http://i.imgur.com/63gSUj1.jpg
0775日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 23:17:08.73
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県妻)までは水行20日
0776日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 23:27:19.46
>>734
>本来は自動詞なんだから

この時点で間違っているが、本来がなんであったとしても、
この文では衆夷という「目的語がある」以上、他動詞なんだよ
そして、繰り返すが主語は「祖禰」だ

ザラコクのように解釈するためには、衆夷が主語で自ら服したとするしかないが、
漢文では動詞の後ろに主語があるなんていう解釈は無理wwww
0777日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 23:35:59.22
>>754
>倭国王らが衆夷を服した。

おいおい、ザラコクさんや、これまでの「服は自動詞」ってのは何だったんだ?
その読み方は「他動詞」だぞww

倭王が毛人55国を征(服)し
倭王が衆夷66国を(征)服したんだよ
これで決着だなww
0778日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/06(月) 23:49:42.12
キナイコシのくだらん投稿が多すぎる
0779日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:01:44.81
>>755
>柵も楼閣もないから

辻地区の建物周りに柵はあるよ、調べてごらん
それから纒向遺跡第80次調査で、尾崎花地区の区画溝の縁にも柵(柱穴の列)が見つかってる
0780日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:05:25.85
>>757
>つまり短里だろ。

現実の地理とは「無関係に設定」された距離だっていってるだろ?

「短里を使う理由のある人がどこにもいない」ことに反論せずに逃げ回ってるじゃないかww
短里なんてないんだよ
周髀算経の話もザラコクが爆散してただろ?

短里は20世紀の九州説の「発明」であり捏造!
0781日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:08:04.24
邪馬台国に関連する出土品ゼロの畿内説っていくら賭けてもゼロだから。
算数弱いしw
0782日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:09:31.83
>>759
>後漢の頃にはまだ帯方郡がなかったから楽浪郡と書いただけだろ。

楽浪郡の中心(楽浪郡治)と帯方郡の中 (帯方郡治)は別の場所
それなのに狗邪韓国までの距離は変わらず七千里だ

ということは>>529の「政治的中心からの距離を示すのが普通」というのが的外れで無意味ってこと

短里なんてないし、邪馬台国までの距離も「書かれていない」
0783日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:09:37.02
『光のネットワーク』と同じ


誰しもがヒミコ(ヒミオでも良い)、
いまはそういう世界、世の中だから


むかーしから気づいているはずなんだけどw
0784日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:12:21.69
頭の良い人は気づいている

特定の人物〜(このスレで言われている、全一症?)〜
どうこうという話でもない
0785日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:13:27.66
[纏向遺跡]
3世紀を通じて搬入土器のがあるが、出土土器全体の約15%が駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備など
で生産された搬入土器で占められるものの、九州北部からの土器は少ない。
祭祀関連遺構ではその割合は約30%に達しするが、大陸との交流を示す銅鏡や刀剣類が非常に少ない。
このことは当時に北九州や大陸には関係の薄い地方王権がこの纒向地域にあったと考えられる。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:13:48.69
>>780
>現実の地理とは「無関係に設定」された距離だっていってるだろ?

願望?
0787日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:13:58.12
>>761
>冠位十二階は隋の時代の話だぞ。

ヤマトを訪れた裴世清が報告しているから、隋の時代の大和朝廷の話だね
それが唐会要巻99の倭国伝に
倭國古倭奴國也。在新羅東南。居大海之中。世與中國通。其王姓阿每氏。「設官十二等。」
と書いてあるんだから、この「倭国は確実に大和朝廷を指している」ことが分かる訳だ

九州説には、バカしかいないの?
0788日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:14:30.39
結論:
奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、
また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、纒向遺跡の搬入土器は
北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で
大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な
半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無意図している。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:15:53.49
>>764
>倭国だが、距離はその王都からのものなので、

これが、ご都合主義の捏造だって教えてるんだよ!
王都までの距離(王都からの距離)はどこにも「書いてない」
0790日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:16:32.02
中国と交流していたのは九州北部だけであり、纒向はその恩恵には預かっていない。
もちろん、中国から見た倭とは九州北部になる。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:19:10.56
>>766
>対馬海峡が三千里と表現されているわけだから。

これもゴマカシ
倍も距離の異なる3渡海を一律で千餘里としている時点で、実測値ではないのが明確で
客観的にも当時海上距離を実測する手段はなかった
渡海の千餘里は「一日で漕ぎ渡れる遠い距離」というだけ

短里なんてないんだよ
0792日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:20:01.87
>>787
>倭國古倭奴國也。

畿内説にはバカしかいないのか?
倭とは九州北部の博多湾沿岸のことだろ。
その呼称が変わっただけ。
0793日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:20:57.86
>>791
>渡海の千餘里は「一日で漕ぎ渡れる遠い距離」というだけ

そういう大雑把な基準としては存在していたわけだ。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:22:12.95
>>768
>将軍とは限らないんじゃない?

それが揃いも揃って、軒並み本国の倭王よりでかい墳丘墓を作ってるってのは
どういう了見だ?ww

そんな想定は「下手な言い訳」にすらなっていない
ザラコクの思いつきに同意するなんていうのは、人としての尊厳を自ら放棄するような行為だぞww
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:24:01.87
隣にあるわけではないから、大きさなんて比べない。
墓を大きくした理由はわからないが、そうしたというだけ。
勝手な理屈で現実から目を背けるなよ。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:25:48.89
>>775
>帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)

帯方郡から九州まで10日で到達するのは物理的に不可能
渡海と水行は別の概念
陸行1日なら書く必要が無い

>また、帯方郡から投馬国(宮崎県妻)までは水行20日

投馬国が戸数道里略載の女王国以北の国であることと矛盾

何度書いても妥当性の欠片もないデタラメだ
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:29:32.22
>>795
>隣にあるわけではないから、大きさなんて比べない。

例えば、九州説の卑弥呼の墓最有力候補、平原1号墓は墳丘が長辺で12メートルしかない
並べなくても一目見て、畿内の大古墳とは比べようもないほど小さな墓だって分かるよ

言い訳も苦しくなってきたなww
0798日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:31:28.74
>>793
>そういう大雑把な基準としては存在していたわけだ。

基準じゃなくて、「設定」なんだよ
機械的に数字が「当ててある」だけ
「現実の地理とは無関係」の値
0799日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:34:09.22
>>786
>願望?

出た!ww
困ったときの「根拠一切無しの一言レス」ww

何をもって願望だと思ったのか「具体的な理由や根拠」を付けて論じないと無意味だって
何度教えればいいんだ?ww
0800日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:36:50.04
>>792
>倭とは九州北部の博多湾沿岸のことだろ。

これがすでに間違い
九州北部の博多湾岸は、会稽東治之東ではない

つまり陳寿の想定する倭は、北部九州の博多湾岸ではない(含まないとは言わないが)
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:38:43.19
今でいうステージ、舞台(祭壇のようなもの)を建てて




そういう動画(芸能関係)などを観てみた?
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:50:20.08
数年前の、とあるスレ

むしろ逆だろう、100%逆だろう

と言ってる人がいたんだけど、
立場が逆転しているという意味なのかな?

カミ、スター、アイドル・・・?
0803日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 00:58:05.61
何も、おかしくはない、
立場が逆転しているわけでもないw
みたいな事を言ってる人もいたでしょ


ステージ、アイドル・・・スター・・・かみ、
動画などを観てみた?
0805日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 01:47:27.83
都合が悪いからだんまりしてるだけだろ
0806日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 02:16:53.16
事実じゃないのがバレただけだよ
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 02:41:36.39
>>805
だんまりじゃなくて
掲載されてた本から訂正文つきで削除された説な
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 03:01:22.21
昨日のTV、橋本が出てきたのに邪馬台国とも卑弥呼とも口にしなかったな
箸墓は誰の墓かと聞かれて、わかりませんだとw
纏向説に乗りたい視聴者はトーンダウンしただろうな。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 03:06:17.62
>>808
以前から自分はそういうことは言わんと言ってた人だから
何の違和感もない
0810日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 03:21:07.94
一般視聴者はそんなこと知らんしw
だけど橋本良いこと言ってた、誰の墓と書いてないからわからないと
これが結論なんだな
邪馬台国卑弥呼は永遠の謎で終わると松木もTVで言ってたしな。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 03:32:26.86
贈られた塩で塩漬けになる九州説w
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 03:43:25.73
>>810
つまり学問とは関係なくTVプロデユーサーの意図ってことだな
0813日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 04:32:55.07
>>788
>結論:
>奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、

とっくに定年になって研究所にはいないぞ
肩書き詐欺か?


>また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で
大量に出土しているのに対し、

魏との国交の話してんじゃなかったの?
ズレまくってない?
0814日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 05:19:03.22
考古学者の世界って縦社会って聞いたけど本当?
0815日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 05:34:31.10
>>796
>投馬国が戸数道里略載の女王国以北の国であることと矛盾

そんなことは書いてない。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 05:35:00.31
>>798
>「現実の地理とは無関係」の値

個人的な主観
0817日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 05:36:23.11
>>800
>九州北部の博多湾岸は、会稽東治之東ではない

短里と長里を取り違えば、実際より南にあると思い込んでしまう。
畿内こそ当てはまらない。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 05:38:45.15
>>814
同じ大学だと人事権持ってる教授が絶対になるけど別組織だったら研究実績が全てだわ
寺澤なんか師匠に逆らってたから大成した口だろ
0819日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 05:42:00.12
>>817
取りちがえるわけないだろ
具体的にどんなケースがありうると思うの?
可能性が存在しないわ
0820日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 05:45:40.45
>>815
>そんなことは書いてない。

理由も言わずに否認することは真犯人でも出来る
意味がない

「投馬国が戸数道里略載の女王国以北の国である」
と立証している相手に反論一つしないのは
自分が間違ってると認めてるも同然だ
0821日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 05:49:13.70
>>816
>個人的な主観

「理由を示さずに決めつけ」するあなたは
朝から妄想してますね
0822日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 06:06:23.96
>>817
>短里と長里を取り違えば、実際より南にあると思い込んでしまう。
>畿内こそ当てはまらない。

そういう起こりえないケースを想定しなくちゃならない状況って
学説として終わったってことでしょ
0823日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 06:12:09.23
>>814
知らんけど、関川が出世しなかったのは上司に嫌われたからじゃなくて論文がボロクソだったせいだと思うぞ
0824日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 06:30:57.61
>>817
>畿内こそ当てはまらない。

当てはまらないという理由が全く説明ないんですけど
0825日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 06:34:18.89
>>781
>邪馬台国に関連する出土品ゼロの畿内説っていくら賭けてもゼロだから。

出土品ゼロだっていう根拠は?
0826日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 06:38:59.32
>>392
>>魏使らは、おそらく、都市牛利らの案内に拠って、渡海出来た。<

>都市牛利かどうかは知らんが、倭人の案内で渡海できた、まではいいが、
それが1日航海の命懸けなんだよ 海の上で夜明かしできないのは変わらない<


列島人は、旧石器や縄文の時代から、南洋系の渡来があり、
南洋系部族は、小舟に拠って、太平洋や南シナ海や東シナ海をかなり自由に渡海しており、
当然、何日もの洋上航海をして来ており、洋上泊を知っていた筈であるから、
半島との海峡でも、洋上泊が出来た筈。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 06:42:13.41
>>826




なんにも根拠がないのね九州説
0828日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 06:47:19.79
>>393
>>イギリスから別れたアメリカや、扶余から別れた別種の百済や、
倭国から別れた別種分家の旧小国の大和が、
母国よりも大きな建造物を造る事は幾らでもあり得るの。<

>それは交流もない遠く離れた別の国での話だし、東征将軍でも配下でもない <

交流はあったし、当然半独立国的な自由な関係でもあった。

>北部九州、比恵那珂遺跡郡がヤマトカワチと祭祀が共通化するほど密接な関係にある状態で
ヤマトカワチ側により大きな構造物がある時点で、中央はヤマトカワチ側にある<

植民的な住民は当然、
母国よりも大きな立派なものを作りたいしなりた、なりたい、
という願望を持つもの。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 06:50:35.06
>>828
>交流はあったし、当然半独立国的な自由な関係でもあった。

じゃあなんで九州の土器や九州系の文物が出ないの?
0830日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 06:58:49.54
>>818
寺澤さんの師匠って誰
0831日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:00:03.51
森浩一な
0832日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:01:58.37
>>398
>ザラコクは検証無しの思いつきによる畿内否定しかしないが
九州のどこに邪馬台国があったかの目処は付いて無さそうだ <

邪馬壹國の範囲は、古田説と同じで、福岡平野中央部〜筑紫平野、およびその周辺丘陵地の7万戸の範囲。
卑弥呼の「女王之所都」は、松野氏姫氏系図に、姫氏の卑弥呼の先祖が、
一旦「委奴」の地で倭奴國王家の天孫族と合同?したように書かれ、
それから卑弥呼の先祖らが分かれて「大野」の地に移った、という事が書かれており、
従って、卑弥呼の所都は「大野」の地であった可能性が高く、
大野付近で一番可能性のある遺跡は、「安徳台」。
そして、卑弥呼は、姫氏の郷里付近に近い祇園山に葬られた。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:14:52.83
>>407
>この文は 主語が「祖禰」 動詞が「服」 目的語が「衆夷」
と、目的語を持つ以上は、ザラコクがどれだけ駄々を捏ねても、
インチキ解釈を百回書いても、この文中で他動詞なのは「絶対」に正しい
東の55国と、西の66国の対比は明確であり、倭王武の政権がその間、
つまり中央に存在するのもまた明確だ
したがって、西に66国を置くことのできない九州は、倭王武の政権所在地の候補にはなりえない
九州王朝説なんて、トンデモもいいとこww <

ダメだ。
唐会要の総括説明の倭國伝の、「正北抵新羅」は、
倭国の位置を「北部九州」であった、と決定づけている。
従って、倭国王武の上表文の「西」は、
「東征毛人五十五国」の「東」に対比しての、「自昔」において、
九州北部の筑紫付近の倭国が、他の九州島内の中部や南部や西部の国々を服属せしめた、
という実態を、上表したものだ。
0834日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:19:39.59
>>815
>そんなことは書いてない。

恥ずかしいやつだな、おいw

南至投馬國、水行二十日。←道里
(官略)可五萬餘戶。  ←戸数

南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。←道里
(官略)可七萬餘戶。  ←戸数

「自女王國以北、其戶數道里可得略載。」

邪馬台国が戸数道里略載の国なのは確定事項
投馬国はその前に、同じ書式で書いてあるんだから、
戸数道里略載してある国でありそれは女王国以北だと明記してある

南の女王国(ここでは邪馬台国)に向かっていく途上の国として投馬国が描かれているのだから
邪馬台国以北なのは当たり前
0835日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:24:37.86
>>407
>>唐に説明が可能な人間が遣唐使に選ばれた。<

>つまり、倭国伝に書かれている「則天時」=「長安三年」の遣唐使、粟田真人の
派遣主体は奈良の朝廷だと認めるんだな?ww この時点て、倭国=奈良の朝廷だぞww<

認めない。
唐会要の日本國伝の粟田や仲麻呂は、
日本国使を名乗ったから、日本国伝に記載された。
しかし、唐会要倭國伝の、「則天時」の「自言、其國近日所出故號日本國」の使節は、
「倭國使」を名乗ったから、倭國伝に記録された。

則天以後の双方の遣使は、
名乗った国名で、倭國伝と日本國伝とにはっきり書き分けられている。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:27:24.21
>>816
>個人的な主観

相変わらず、根拠なしの一言レスしかできないんだなww

途中に測定不能な区間があり
最後の水行陸行区間の里数も書いてないのだから
途中区間の積み上げで萬二千里が出てこないのは明確に分かるだろ?

現実の地理とは無関係に、遠くの国であることをさらに誇張する目的で、
世界の果てまでの距離、淮南子に見られる東方之極までの萬二千里が使われているんだよ

「短里を使う理由のある人がどこにもいない」ことには、一切反論しないのかい?ww
短里があると言いたいのなら、「誰が」「どんな目的で」「何を基準にして」短里を使ったのかを
「具体的に論証」しないと意味がないんだよww
0837日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:32:47.89
>>817
>短里と長里を取り違えば、実際より南にあると思い込んでしまう。

取り違えるも何も「短里なんてない」んだから、間違えようがないだろ?ww

何度も繰り返すが、
「短里を使う理由のある人がどこにもいない」んだよ
存在しない単位を使ったっていうのがどんなにバカな主張だか、よく考えてごらん
0838日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:32:59.48
>>820
>と立証している相手に反論一つしないのは

いつどこで立証した?
勝手に言い張っているだけ。
0839日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:34:03.88
>>822
>そういう起こりえないケースを想定しなくちゃならない状況って
>学説として終わったってことでしょ

ブーメランだろw
一万二千里が意味のない数字だとか、無茶な設定を駆使してなんとか畿内にしたいだけ。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:34:39.13
>>410
このように
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、あらゆる分野で
基礎的史料事実の知識すら欠いた半人前未満の学者や政治家や素人詐欺師らが
九州説への反論根拠を示す意思も能力もないままに
野放図に妄想を垂れ流してきたので
その報いを受けて昭和末年ごろ?に、
国民の7割に否定される事になったのだ。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:36:38.08
>>838
>いつどこで立証した?

何度も立証してるよ
繰り返しも厭わず、>>834にも再度書いてあるし

その前に
「短里を使う理由のある人がどこにもいない」ことに反論しないとww
0842日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:36:50.61
>>834
>「自女王國以北、其戶數道里可得略載。」

しかし投馬国への里数は書いてないから、北ではない。
邪馬台国は一万二千里と明記されている。
水行1日が千里だから、帯方郡から九州上陸までの一万里が水行10日に対応する。
つまり邪馬台国は上陸後二千里のところ。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:37:16.11
>>836
>途中区間の積み上げで萬二千里が出てこないのは明確に分かるだろ?

そう信じたいだけだろ。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:38:19.32
>>837

論破されたことを蒸し返しているだけ。
言っていることに全く整合性がない。
都合のいい部分をつなぎ合わせているだけ。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:38:53.97
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある
女王国とは倭奴国のことである

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:39:25.94
>>412
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説者らには、
天皇家のお気持ちに反する皇国史観の、
唯我独尊宗教にクルった偏執者ばかりが残った。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:39:36.44
>>835
>しかし、唐会要倭國伝の、「則天時」の
>「自言、其國近日所出故號日本國」の使節は、
>「倭國使」を名乗ったから、倭國伝に記録された。

おい、いま「日本国」って名乗ったじゃないか
九州説はどこまでデタラメなの?
0848日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:40:43.66
>>837
>取り違えるも何も「短里なんてない」んだから、間違えようがないだろ?ww

魏志倭人伝は信用できないというのが畿内説の唯一の論拠なんだね。
魏志倭人伝に基づく邪馬台国論争に首を突っ込む必要はないのでは?
0849日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:41:30.50
>>414
古代史の学問的研究が進んで
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の存立基盤が、すっかり抉れちゃったので
大和説がどんどんトンデモの世界方向に流れていったのは
これも歴史の必然なんだな
0850日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:43:48.39
>>844
>論破されたことを蒸し返しているだけ。
>言っていることに全く整合性がない。
>都合のいい部分をつなぎ合わせているだけ。

いつ、どこでなんと言って論破したの?
何と何が整合性ないの?
都合のいい部分とは何?

全く具体性がない
つまり九州説の言うことは無意味だ
0851日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:44:10.20
>>833
>「東征毛人五十五国」の「東」に対比しての、

対比になってることまではザラコクでも理解できるんだww

だがここは、単なる対比ではなく、対句として東、西、北が対等な表現になってるんだよ
すべて「祖禰」が、東、西、北の諸国を支配するようになったというだけ

この文では衆夷という「目的語がある」以上、服は他動詞で、征も平も他動詞
そして、繰り返すが主語は「祖禰」だ

ザラコクのように解釈するためには、衆夷が主語で自ら服したとするしかないが、
漢文では動詞の後ろに主語があるなんていう解釈は無理wwww
0852日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:45:08.46
>>848
>魏志倭人伝は信用できないというのが畿内説の唯一の論拠なんだね。

魏志倭人伝に短里など書かれていないと言っているのだが
0853日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:48:23.29
故森浩一 同志社大学大名誉教授

古墳や遺跡の研究・調査などを基に、卑弥呼が魏の皇帝から下賜された鏡を「三角縁神獣鏡」とする説に疑義を投じ、
大きな論争を呼んだ。宮内庁が管理している陵墓についても、同庁による被葬者の指定が必ずしも裏付けられないことを問題提起し、
天皇名などではなく所在地名で呼ぶことを提唱した。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:48:46.78
>>835
>「倭國使」を名乗ったから、倭國伝に記録された。

つまり、奈良朝廷の貴族、粟田真人が倭国使であり、
奈良朝廷が倭国だってことじゃないかww

漢文もまともに読めないバカ爺がいくら「認めない」とほざいたところで
現実には何の影響もないww

この件にコメントするのがザラコク以外誰もいない時点でお察しだ
九州説でも粟田真人を遣唐使として派遣した倭国が奈良朝廷なのは否定しようがないww
0855日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:49:08.20
>>845
>淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。

つまり立論の出発点がその「想定」なわけだ
しかし、そんな単位が使われた形跡はないんだよ
0856日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:49:38.22
>>417
そもそも『隋書』の認識が、
7世紀の俀国の都・邪靡堆は、竹斯國や秦王國の南にあったのであり、
隋書の魏徴注は、
後代での「前史の自己解釈に拠る書き換え」をするインチキ学者であったんだし、
結局、唐会要の倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、
俀國も北部九州にあった事が確定してしまったのだし。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:50:51.27
故森浩一の提唱により現代では考古学では、
陵墓は天皇名などではなく所在地名で呼ぶこととなった
0858日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:54:07.24
>>839
>一万二千里が意味のない数字だとか、無茶な設定を駆使してなんとか畿内にしたいだけ。

地の果てまでが萬二千里というのは、淮南子の数字
その前の山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える

また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元であり
倭国上陸まで一万里というのは漢代にこれに合わせて想定されたものだろう

これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少?、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。

五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている

誰も行ったことのない世界の果てまでの距離なんだから、
現実とは関係ない観念的な数字に決まってるじゃないか
0859日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:54:21.85
>>415
それはウソ。
「則魏志所謂邪馬臺者也」の魏徴らは、
「前史の記載を自己解釈に拠る書き換え」をするインチキ後代人種であり、
そんなものは証拠にならないの。

だから 「魏志が記述した邪馬臺そのものだ」 と書いてある、
というスレ主らも同じ穴のムジナなの。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:56:35.43
>>845
>淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある

淮南子のどこにある?
0861日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 07:59:12.87
>>842
>しかし投馬国への里数は書いてないから、北ではない。

道里であって里数略載だなんてどこにも書いていない
邪馬台国が戸数道里略載の国なのは絶対で、そこでも水行十日陸行一月の日数表記になっている

日数表記が道里の記載方法なのは九章算術でも確認できる
>>84 FAQ78

>>842はまったく反論にもなっていない
九州説ではまともな投馬国の比定地は設定できないんだよ
0862日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:00:01.19
>>859
個人を理由もなく嘘つきにしないと
九州説が滅ぶのだね?
0863日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:01:03.65
この、頭の悪い意見を発表した人物は、何者だろうか。。。

861日本@名無史さん2019/05/07(火) 07:59:12.87
>>842
>しかし投馬国への里数は書いてないから、北ではない。

道里であって里数略載だなんてどこにも書いていない
邪馬台国が戸数道里略載の国なのは絶対で、そこでも水行十日陸行一月の日数表記になっている

日数表記が道里の記載方法なのは九章算術でも確認できる
>>84 FAQ78

>>842はまったく反論にもなっていない
九州説ではまともな投馬国の比定地は設定できないんだよ
0864日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:01:44.73
>>844
>論破されたことを蒸し返しているだけ。
>言っていることに全く整合性がない。
>都合のいい部分をつなぎ合わせているだけ。

お前がなww

「短里を使う理由のある人がどこにもいない」ことに反論できない限り、
最初から短里なんてないで終わりだ

さあ、逃げてないで早く答えろよww
0865日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:02:09.91
>>845
>淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。

その淮南子は1里=1800尺を明記してるんだから
あなた最初から間違ってますよ
0867日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:03:41.20
ある人物が、戸数道里略載できると宣言した、その同じ文章の中に、戸数道里略載する必要性は、ないな。。。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:04:00.57
>>845
>淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。

このコピペもいい加減にしなよ
淮南子に準じている時点で、観念上の数字であり、「縮尺」は定義できない

後漢書の誤訳コピペを繰り返してるやつと同じやつだろ?ww
0869日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:04:16.96
森浩一氏とは、何者だろうか。。。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:05:09.63
淮南子とは、何だろうか。。。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:06:04.77
>>422
>邪馬台(ヤマト→大和)国であって、北部九州にあったのなら筑紫国と記述されたハズ。<

邪馬台なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
勿論、大和説は、「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠って×であるし、
隋使らは、「自竹斯國以東、皆附庸於俀」によって、
秦王國以東へは行く理由も必要もなく、秦王國で出迎えを受けた後、
(北は海だから行けず)「後十日」で南の久留米付近の「都於邪靡堆」に着いた、
って話なの。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:06:25.48
>>860
>淮南子のどこにある?

そんなことすら知らずにここにいるのか?
無能だなwwww

すぐ上の>>858に整理してあるから読んでおけw
0873日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:07:02.03
この、頭の悪い意見を発表した人物は、何者だろうか。。。

861日本@名無史さん2019/05/07(火) 07:59:12.87
>>842
>しかし投馬国への里数は書いてないから、北ではない。

道里であって里数略載だなんてどこにも書いていない
邪馬台国が戸数道里略載の国なのは絶対で、そこでも水行十日陸行一月の日数表記になっている

日数表記が道里の記載方法なのは九章算術でも確認できる
>>84 FAQ78

>>842はまったく反論にもなっていない
九州説ではまともな投馬国の比定地は設定できないんだよ
0874日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:08:24.93
短里の否定は基本だから、どんなにごねてもムダだよww

九州説は短里が否定されたらその時点で破綻するw
0875日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:08:41.67
>>424
>ビフォー遷都:邪馬台、 アフター遷都:ヤマト(→大和)国であって、<

「南≠東」から「正北抵新羅」まで、
倭国は北部九州にあったの。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:08:50.89
五行説とは、何だろうか。。。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:09:44.72
この、頭の悪い意見を発表した人物は、何者だろうか。。。

874日本@名無史さん2019/05/07(火) 08:08:24.93
短里の否定は基本だから、どんなにごねてもムダだよww

九州説は短里が否定されたらその時点で破綻するw
0878日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:10:29.45
そろそろ、次回のスレッドを作製した方が良いのでは、ないのかな。。。
0880日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:12:07.57
行程の記事を書いた本人である陳寿は
その行程どおり進めば
実際の日本よりはるか南に当たる位置だと認識してる
つまり彼は短里など知らない
晋が保管する魏朝時代の記録を自由に閲覧できる西晋の史官が短里を知らない
ならば、そんな単位を使って魏朝に報告する魏の役人などいない
0881日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:12:29.76
この、頭の悪い意見を発表した人物が、九州説は短里が否定されたらその時点で破綻する、という、国民の99.5パーセンテージに意味が分からない考えを、持ってしまったのは、なぜなのだろうか。。。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:12:47.69
そろそろ、次回のスレッドを作製した方が良いのでは、ないのかな。。。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:14:42.87
キナイコシが出現した可能性が、あるな。。。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:16:27.91
キナイコシが、頭の悪い者が作製したテンプレートの、貼り付け係なのだろうか。。。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:17:17.05
TV視聴後感
箸本の発言を聞くにつけ、
大畿内説といえど、時代の流れには逆らえないのではないであろうか、、、
0886日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:18:54.38
また論破された九州説が正気を失ったぞ
0887日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:19:47.59
箸本氏という人物は、TVに出場していた人物のことなのだろうか、、、
0888日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:20:55.38
箸本氏という人物は、時代の流れには逆らえないので、重大な発言を実行してしまったのでは、ないのかな。。。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:22:15.98
箸本という苗字は、珍しい苗字なのでは、ないのかな。。。
0890日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:24:32.48
「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「考えられる」
などの主観的な判断の表現を禁止しよう。
テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになるだろう。
畿内説はほぼ想像の産物なのだ。
0891日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:25:00.55
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
105年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらってから、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
0892日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:27:02.65
>>890
それが主観的だと言う根拠は?

あなたの主観?


ww
0893日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:27:10.62
箸本という珍しい苗字の者達は、清和天皇の子孫なのでは、ないのかな。。。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:28:18.36
やはり、キナイコシが、出現していたな。。。

880日本@名無史さん2019/05/07(火) 08:12:07.57
行程の記事を書いた本人である陳寿は
その行程どおり進めば
実際の日本よりはるか南に当たる位置だと認識してる
つまり彼は短里など知らない
晋が保管する魏朝時代の記録を自由に閲覧できる西晋の史官が短里を知らない
ならば、そんな単位を使って魏朝に報告する魏の役人などいない

892日本@名無史さん2019/05/07(火) 08:27:02.65
>>890
それが主観的だと言う根拠は?

あなたの主観?


ww
0895日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:30:07.13
>>891
畿内説が何も説明することができない
という証拠は?

あなたがそうやって
「根拠を示さずに決めつけ」するのは
あらぬ妄想してる証拠
0896日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:35:04.18
やはり、テンプレートに書いてあることは、75パーセンテージ、デタラメだったのだな。。。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:36:08.05
箸本氏という人物は、時代の流れには逆らえないので、重大な発言を実行してしまったのでは、ないのかな。。。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:37:03.16
箸本という珍しい苗字の者達は、清和天皇の子孫なのでは、ないのかな。。。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:37:05.74
>>891
>金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
>それには卑弥呼も含まれる。

それ、なんの根拠もなく言ってない?
0900日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:39:03.49
900
0901日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:39:05.44
>>891
>105年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらってから

いや、もらっとらんし
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:41:24.53
>>891

「吉武高木遺跡から始まる多数の王墓」も

勾玉や水銀朱などの副葬品から、倭国(阿波)を発った筑紫忌部のお墓と分かる。   @阿波
0903日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:43:24.81
九州説の人は基礎的な歴史知識がない
0904日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:43:43.44
>>899
すぐに荒ぶる王の決断は戦争ばかりなので、それを卑弥呼女王に任せる事にしたんだよな。
遠く離れたしかも文字のない奈良盆地でどうやってコントロールするのかな?
畿内説の人は弥生時代を現代感覚でとらえてるんじゃない?
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:47:57.65
>>904
九州説はまた妄想か・・・
0906日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:50:38.33
75パーが反撃してこないので、このスレッドの楽しみが減った可能性があるな。。。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:52:11.90
>>906
キナイコシが頭が悪すぎることに、呆れ、75パーは援護を実行することがバカバカしくなったのでは、ないのかな。。。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:52:52.21
奈良説なんてのは地球感覚で宇宙を想像してるようなものだな。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:53:41.45
大量に発見された骨は、墨袋を持たない生物の骨だったな。。。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:56:02.29
カエルや桃から、墨汁を作製する、化学の方法はあるのだろうか、、、
0911日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 08:57:08.49
>>910
国立の学部に通う、僕たちの頭の良い孫に聞けば良いな。。。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:00:20.57
箸本語る
墓誌の習慣がなかった箸墓の被葬者なんて、この箸本にもかわかりましぇん
0913日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:00:33.14
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:01:13.17
>>905
畿内説が妄想ばかりだと批判されているのが理解できないのかなあ
0915日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:04:40.07
>>914
いつ、どこで?
批判する理由は?
0916日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:05:39.61
箸本という人は、モモソヒメの曾孫だったのではないかな、、、
0917日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:19:24.93
>>913

「吉武高木遺跡から始まる多数の王墓」も

勾玉や水銀朱などの副葬品から、倭国(阿波)を発った筑紫忌部のお墓と分かる。   @阿波
0918日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:23:42.17
>>913
考古学的な裏づけはあるよ
奈良の出土品は漢代ものが非常に少なく、魏代の出土品が多いことから
漢が衰退直後に奈良が中心都市化したことは明らかだが
漢が衰退したのは黄巾の乱(184年)で
卑弥呼が女王になった年(184年頃)と一致してる
0919日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:29:54.59
阿波説ってまじで信じてるのかネタなのか
0920日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:31:45.28
九州説は、たまに議論しようとする人が出てくるが、
結局、畿内説側からの問いかけに答えられなくなって消える

今回も、
「短里を使う理由のある人がどこにもいない」に反論は?
から逃げ続けたまま消えた

そして、何を言われても知らぬ存ぜぬで意味のないことを書き続ける恥知らずの
ザラコクと連続句読点だけが大量投稿して、スレ流しをして議論をごまかす
呟きも出てきたりする

その繰り返し

そして、ほとぼりが冷めたころに、
意味のない後漢書コピペや縮尺コピペを、飽きもせずに繰り返し貼る

いい加減にして欲しいわ
0921日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:31:45.95
テンプレからコピペ

漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
0922日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:32:12.85
奈良の出土品は漢代ものが非常に少なく、魏代の出土品が多いことから
漢が衰退直後に奈良が中心都市化したという、
意見は、全余事象のことを、理解できなかったキナイコシらしい意見では、ないのかな、、、

918 名前:日本@名無史さん 2019/05/07(火) 09:23:42.17
>>913
考古学的な裏づけはあるよ
奈良の出土品は漢代ものが非常に少なく、魏代の出土品が多いことから
漢が衰退直後に奈良が中心都市化したことは明らかだが
漢が衰退したのは黄巾の乱(184年)で
卑弥呼が女王になった年(184年頃)と一致してる 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)
0923日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:33:40.28
>>921
テンプレのここ、誤植だな

◆FAQ 36
威信財供給者として影響力を「行為」することがない。
              
威信財供給者として影響力を「行使」することがない。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:33:50.06
全余事象のことを、、、、というのは、全く、余事象のことを、、、と書きたかったのでは、ないのかな。。。

922日本@名無史さん2019/05/07(火) 09:32:12.85
奈良の出土品は漢代ものが非常に少なく、魏代の出土品が多いことから
漢が衰退直後に奈良が中心都市化したという、
意見は、全余事象のことを、理解できなかったキナイコシらしい意見では、ないのかな、、、

918 名前:日本@名無史さん 2019/05/07(火) 09:23:42.17
>>913
考古学的な裏づけはあるよ
奈良の出土品は漢代ものが非常に少なく、魏代の出土品が多いことから
漢が衰退直後に奈良が中心都市化したことは明らかだが
漢が衰退したのは黄巾の乱(184年)で
卑弥呼が女王になった年(184年頃)と一致してる 👀
0925日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:34:13.11
>>919

「吉武高木遺跡から始まる多数の王墓」も

勾玉や水銀朱などの副葬品から、倭国(阿波)を発った筑紫忌部のお墓と分かる。   @阿波
0926日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:37:42.13
九州の考古学者七田忠昭は語る
福岡や糸島、唐津の平野都では、中期後半から後期に豪華な副葬品を有する墳墓の存在が注目され、しばしば「王墓」と呼ばれてきた。
しかし、これらの地方では、漢鏡等の威信財を副葬して葬られた首長層の後期後半に至る間の存在や連続性を認めがたい。
0927日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:38:13.72
頭の悪い、75パーが出現し、頭の悪い意見を発表していたのではないのかな。。。

920日本@名無史さん2019/05/07(火) 09:31:45.28
九州説は、たまに議論しようとする人が出てくるが、
結局、畿内説側からの問いかけに答えられなくなって消える

今回も、
「短里を使う理由のある人がどこにもいない」に反論は?
から逃げ続けたまま消えた

そして、何を言われても知らぬ存ぜぬで意味のないことを書き続ける恥知らずの
ザラコクと連続句読点だけが大量投稿して、スレ流しをして議論をごまかす
呟きも出てきたりする

その繰り返し

そして、ほとぼりが冷めたころに、
意味のない後漢書コピペや縮尺コピペを、飽きもせずに繰り返し貼る

いい加減にして欲しいわ
0928日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:40:28.20
>>927
そうだね。。。
「短里を使う理由のある人がどこにもいない」ということの是非以前に、「短里を使う理由のある人がどこにもいない」ということに、反論する必要性がない九州説もいることが、頭が悪いから、気づけないのでは、ないのかな。。。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:41:32.14
「短里を使う理由のある人がどこにもいない」ということの是非は、どうなのだろうか、、、
0930日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:42:40.58
物的証拠をまとめるとこういうことだな

・一世紀の倭国の首都は伊都・筑紫
・四世紀の倭国の首都は奈良

奈良の出土品は漢代ものが非常に少なく、魏代の出土品が多いことから
漢が衰退直後に奈良が倭国の中心都市化したことは明らか。
漢が衰退したのは黄巾の乱(184年)で
卑弥呼が女王になった年(184年頃)と一致してる。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:44:05.75
>>929
「短里を使う理由のある人がどこにもいない」ということの是非は、「短理というものが存在したのかどうか」の討論に変換されるだけだな。。。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:44:30.42
>>926
>しかし、これらの地方では、漢鏡等の威信財を副葬して葬られた首長層の後期後半に至る間の存在や連続性を認めがたい。

まさに、「豪華な副葬品」を携えて、筑紫忌部が颯爽と九州に登場したからね。   @阿波
0933日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:45:15.32
阿波だけは可能性がないことはわかるw
0934日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:46:50.38
>>933
そう思いたい気持ちはわかるw   @阿波
0935日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:49:20.58
>>931
「短理というものが存在したのかどうか」の討論は、さんざん実行されたので、結局、目新しい意見では、ないのだな。。。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:51:50.83
>>930
>・四世紀の倭国の首都は奈良
>漢が衰退直後に奈良が倭国の中心都市化したことは明らか。

嘘つき
0937日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:53:19.53
>>929
>「短里を使う理由のある人がどこにもいない」ということの是非は、どうなのだろうか、、、

だから、「九州説の立場で、その是非を論じてくれ」って言ってるんだが?
連続句読点は、議論するだけの知的能力に欠ける
0938日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:54:20.20
「短里を使う理由のある人がどこにもいない」ということの是非は、「短理というものが存在したのかどうか」の討論に変換されるだけだな。。。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:55:47.70
>>936
ほら、九州説がもう反論不能になった
0940日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:57:00.42
単位を使うのに理由がいるのか?
0941日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:57:09.54
>>932
>まさに、「豪華な副葬品」を携えて、筑紫忌部が颯爽と九州に登場したからね。

その登場はおそらく、縄文後期まで遡るだろう。   @阿波
0942日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:58:04.18
短里が使われていたという事実から目を背けたがっているだけだね。
実際の地理と比較すれば、一里が100メートル前後であることは明らかだからね。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:58:04.24
短里は、僕たちが、計算して、この偽のホームページのシリーズの随分以前に、その計算方法と結果をm単位でを発表したが、倉庫送りにされてしまったな。。。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:58:31.60
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美)   10km/100里=100m/1里

統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:59:43.30
九州は先進地域とか言ってるけど文章一つ遺さなくて大陸から離れた畿内の方が文明に目覚めたんだよね
0946日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 09:59:49.14
>>943
ザラコク氏が紹介した、宗費産経と誤って変換されてしまう、書物の一部分に、一寸千里の法というものが、あったのでは、ないのかな。。。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:00:57.30
>>915
レス番を追えよ。
すぐ上で批判されているのに、理解できていないのだな。
だからコミュ障とか言われてしまうんだぞ。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:01:22.05
>>942
九州説はまた結論ありき理由なしの対応ですか
0949日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:01:29.50
>>918
>漢が衰退直後に奈良が中心都市化したことは明らかだが

井の中の蛙
0950日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:02:23.51
>>920
>「短里を使う理由のある人がどこにもいない」に反論は?

使われていたという事実と向き合って、それから理由とやらを自問自答してくれ。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:02:49.18
>>948
君が文脈を追えていないんだよ。
0952日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:04:08.23
>>913
中国史書のポリシーからすると、変化のあった部分についてのみ追記される形式だから、遷都したら必ず記載されているはずだよな。
0953日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:04:49.98
>>938
「短理というものが存在したのかどうか」の討論は、
宗費産経と誤って変換されてしまう書物の一部分にある、現在の人が読めば完全に破綻していることがわかる、一寸千里の法を信じて、短里を決めてしまった中国人がいたかどうか、
という討論に変換されるだけだな。。。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:05:47.32
>>944
>帯方郡(ソウル)

前提から破綻してますな
0955日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:05:51.67
>>947
ほら、また九州説は具体的な指摘が出来ない
0956日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:08:08.77
>>950
言い張るだけで事実を提示できないから九州説は破綻した
0957日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:13:22.60
プロ固定の雇用主は、韓国政府なのだろうか、観光業界なのだろうか、公立学芸会なのだろうか、、、、
0958日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:14:50.68
>>956
説明があやふやだというのは、世間では畿内説の事だから。
だから支持されないんだよ。
いくら5chで頑張っても。
テンプレみたいな記事を他で出すとフェイクニュースとして訴えられるかも。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:15:10.09
宗費産経と誤って変換されてしまう書物の一部分にある、現在の人が読めば完全に破綻していることがわかる、一寸千里の法を信じて、短里を決めてしまった中国人は、いたのだろうか、いなかったのだろうか、、、
0960日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:16:28.13
960
0961日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:18:28.07
256 日本@名無史さん 2019/05/07(火) 09:02:00.40 ID:
石野博信「墓から出てくる三角縁神獣鏡について土器で年代がわかる例を見ると、四世紀の「布留式土器」と近畿で呼んでいる土器と出てくる例はありますが、その前の、三世紀の土器といっしょに出てくる例は一つもない。
それは埋葬年代を示すのであって、製作年代は示さないということはあるんでしょうが、それにしても、ひとつもないのはおかしい。新しいんだろう。」

森浩一「神獣模様や三角縁を持った鏡は長江下流の江南地方に多く発見され、明らかに呉があった地方と関連している。」

白石太一郎「三角縁神獣鏡の変遷過程は極めて連続性が高く、各段階によって製作地が異なるという前提はとても考えることができない。第四段階が日本で作成されたものなら、第一段階も日本で作成したと言わざるをえないだろう。」

菅谷文則「それでは日本への輸出、厳密には卑弥呼への下賜品として特別に鋳造(特鋳)されたものであろうか。これはまず成り立たない仮説といえよう。
魏より前代ならびに魏と同時代の呉、魏に続く晋代においても日本にのみ出土し、中国に出土しない中国鏡はない。三角縁神獣鏡のみがそうであるとする特別の根拠もない。」

原口正三氏「あくまであれは魏でつくったのだと言い張っているのは、もう信仰にも近い考えだろうと思っています」
0962日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:19:45.26
例へば帶方郡即ち臨津江口より狗邪韓國即ち金海に至る海上の距離は、大約二百餘里なるを、『魏志』には七千餘里となす。
故に此間の三十五里は我が一里に當る。
又狗邪韓國より九州の末盧國即ち松浦郡に至る海上の里程は、大約六十餘里に過ぎざるを、『魏志』には之を三千餘里となす。
故に此間の五十里は我が一里に當る。
又末盧國より不彌國即ち太宰府の附近に至る陸上の距離は大約三十里を出でざるに、『魏志』には之を七百里となす。
故に此間の二十三、四里は我が一里に當る。

此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる上に、普通の支那里に比してもまた大に短縮せり。
・・・
此の如く『魏志』の里程に處によりて甚しき伸縮を示すが故に、不彌國より南方一千三百餘里とあるを根據として、邪馬臺國の所在を的確に推知することは、殆ど不可能の事に屬す。
(白鳥庫吉)

昔は九州説にもマトモな人が居たんだよね
0963日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:26:16.87
白鳥庫吉という謎の人物の意見を、誤解した可能性があるプロ固定が、意見を発表したな。。。

962日本@名無史さん2019/05/07(火) 10:19:45.26
例へば帶方郡即ち臨津江口より狗邪韓國即ち金海に至る海上の距離は、大約二百餘里なるを、『魏志』には七千餘里となす。
故に此間の三十五里は我が一里に當る。
又狗邪韓國より九州の末盧國即ち松浦郡に至る海上の里程は、大約六十餘里に過ぎざるを、『魏志』には之を三千餘里となす。
故に此間の五十里は我が一里に當る。
又末盧國より不彌國即ち太宰府の附近に至る陸上の距離は大約三十里を出でざるに、『魏志』には之を七百里となす。
故に此間の二十三、四里は我が一里に當る。

此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる上に、普通の支那里に比してもまた大に短縮せり。
・・・
此の如く『魏志』の里程に處によりて甚しき伸縮を示すが故に、不彌國より南方一千三百餘里とあるを根據として、邪馬臺國の所在を的確に推知することは、殆ど不可能の事に屬す。
(白鳥庫吉)

昔は九州説にもマトモな人が居たんだよね
0964日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:27:02.42
>>961
故人や80歳超えばかりの古い情報しかない九州説
情けない情弱ぶり、ワラタ
0965日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:27:06.30
>>958
そういう証拠が出せないであやふやな説明しちゃった九州説がオウンゴールで自爆だな
0966日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:30:23.13
>>961
もう黒塚が三世紀って公式調査報告書でちゃったからね
0967日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:31:28.84
まだ短里の話してんの?
韓国が4千里四方なんだからそれも含めて考えりゃ、単に誇大表記されてんだな、で済む話なのに。
白髭三千里が当たり前の国だろ?
南京事変の被害者数だって当時の人口超えてんだから。
0968日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:33:48.22
>>963
そうだな、、、
白鳥庫吉という謎の人物の意見は、魏志倭人伝に記録された里程が、甚しき伸縮があるので、比例という関係性から一里が何mかを的確に計算し、邪馬臺國の所在を的確に推知することを、諦めた、という以上のことは発表していないな。。。
プロ固定は、それを拡大に解釈して、短里はないという意見を、白鳥庫吉という謎の人物が発表していると誤解した可能性が、あるな。。。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:34:00.11
>「短里を使う理由のある人がどこにもいない」

主体が良くわからないあいまいな文章のうえに、
「理由のある人がどこにもいない」という断定がどこからきている断定なのか良くわからないねえ
0970日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:39:10.61
970
0971日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:41:56.66
>>969の理解力がないだけ
晋の史官が知らない単位だから魏の公式ではない
魏の役人は報告に使わない
使う理由のある人がどこにもいない
0972日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:49:02.42
>>963
>此の如く『魏志』の里程に處によりて甚しき伸縮を示すが故に、不彌國より南方一千三百餘里とあるを根據として、
>邪馬臺國の所在を的確に推知することは、殆ど不可能の事に屬す。
(白鳥庫吉)

白鳥が云う上陸地点は、松浦郡ではあるが最も西端の平戸付近で、奴国は博多付近としているから、
「處によりて甚しき伸縮を示す」ことになったのは当然。
上陸地点を唐津・中原とし、、南して東して、則ち東南500里の佐賀川上に伊都国到り、
更に東行百里して吉野ケ里・不彌国に至れば、「方角は一致し、甚だしき伸縮もなし」と云えたのではないであろうか、、。。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:51:49.87
やはり、魏の公式をしらない謎の人物が、倭国を測った記録を、魏の役人が報告に使ってしまった可能性が、高まってきたな、、、
0974日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 10:54:06.84
松浦郡は松浦市の可能性が、高いので、奴国が佐賀市のことを指していた確率も、高いのではないのかな。。。
0975日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 11:03:09.54
宗費産経と誤って変換されてしまう書物の一部分にある、現在の人が読めば完全に破綻していることがわかる、一寸千里の法を信じて、短里を決めてしまった中国人は、いたのだろうか、いなかったのだろうか、、、
0976日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 11:05:07.33
大量の桃やカエルは、墨になったのだろうか、ならなかったのだろうか。。。
0977日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 11:13:50.70
>>973
>やはり、魏の公式をしらない謎の人物が、倭国を測った記録を、魏の役人が報告に使ってしまった可能性が、高まってきたな、、、

正解
0978日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 11:20:53.25
驚いたな。。。
カエルは膠の代用品になってしまう可能性が、高まってきた。。。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 11:26:36.37
木材と、カエルの膠と、桃の香りがあれば、墨汁がつくれるんじゃねえの、、、という、僕達の頭の良い孫からのメールを受信したので、発表します。。。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 11:28:31.21
大物主の夫婦は、桃とカエルの墨汁を使用していたことが、究明されたのではないのかな。。。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 11:34:17.62
>>974
武雄ルートも考えられるからね。
植生で楠が強調されているあたり、そのルートを通ったのかなと感じる。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 11:40:21.83
タケオンという、架空の着ぐるみの中身を、調べればよいな。。。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 11:50:28.89
>>981
情報に新旧が無いとか非現実的なことを思ってるから
時代に取り残されるんですよ

いつまでも新しい研究成果や発見に目を向けずに脳が朽ち果てていく

w
0985日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 11:53:02.51
まきぴょんの中身が、インターネットにアプローチし、あまり中身のない意見を発表した可能性が、高いな。。。

984日本@名無史さん2019/05/07(火) 11:50:28.89
>>981
情報に新旧が無いとか非現実的なことを思ってるから
時代に取り残されるんですよ

いつまでも新しい研究成果や発見に目を向けずに脳が朽ち果てていく

w
0986日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 11:57:12.34
おしくらマンのデザイナーはあまりセンスが、良くないな。。。
0987日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 11:57:53.33
新しい研究成果とはカエルの骨のこと?
0988日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 12:12:21.50
>>985
研究成果w
畿内説を研究しつくした結果は妄想の塊ってことかw
昔の畿内説の方がマシだったのにな。
0989日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 12:15:25.89
学芸会が、カエルで膠を作る残酷な実験を実行する可能性が、高いので、この夏は蚊取り線香が大量に必要になる確率も、高まるのではないのかな。。。
0990日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 12:17:02.98
990
0991日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 12:22:05.18
佐賀川上を伊都国とすれば、
その東南百里の奴国は佐賀城下であった可能性が出てきたようだな、、。
0992日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 12:27:57.17
古代の佐賀平野は、東の鳥栖サガンから西の武オンまで、楠林が続いていたらしいから、
松浦末盧国から邪馬台国へ向かう道はこの楠林の下を通過していたのではないかな、、。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 12:28:31.95
>>981
九州説のおかしな世界では新しい発見とかは無いの?
0994日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 12:29:45.06
奴国が2万戸なので、佐賀市だけではなく、武雄市までに広がっていた可能性も、否定できないのでは、ないのかな。。。
0995日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 12:31:44.05
伊都国を探しあてるには、伊万里んももーという、架空か実在かよくわからない、着ぐるみのことを、研究する必要性があるな。。。
0996日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 12:40:22.26
佐賀の河上には、
毎年初夏になると巨大鯰が産卵に上ってきて、そのたびに巨大地震が起きていたらしいな、、。
0997日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 12:41:14.19
九州王の年表

(紀元前2世紀) 福岡平野に吉武高木遺跡 ←最初の王都
(紀元前2〜1世紀) 奴国と考えられている須玖岡本遺跡
(紀元前1世紀の王・王妃墓)糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡 ←伊都国に遷都
(紀元1〜2世紀の王墓)伊都国。井原鑓溝遺跡 ←九州王が権力を失い漢鏡流通の核としての機能を停止した時期
(紀元2〜3世紀の女王墓)伊都国。平原遺跡 ← 邪馬台国の一大率に支配されて平原遺跡が衰退した時期

※『日本書紀』によると九州王は仲哀天皇の時代(4世紀頃の人物)に完全に家来になった。 ←九州王滅亡
0998日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/07(火) 12:41:26.72
弥生時代から文字を使っていた事が判明した
10011001
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