漢委奴国王印 いわゆる金印part3
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>>137
川崎の重度統合失調症症患者「松傾」(笑)は午前中に首を吊れよ
前から何度も何度も何度も!
繰り返し繰り返し繰り返し!
「死ね!」と命令されているだろう?
むしろ松傾(笑)へのレスは「首を吊って死ね!」以外にないじゃないか
誰にも相手にされてない=存在する意味がない!という事だ
なぜ素直に命令をを聞いて首を吊ることができないんだ??
いくら無知無能な統合失調症症患者とは言え、
日本語くらい読めるのだろう???
これだけ多くの者達に首を吊れ!と命令されているのだから
さっさとセルフ絞首刑を実行しろよクソ松傾!
午前中に必ず実行しろ!
必ずだぞ!!! 韓国のオクキョン遺跡から見つかった水田跡は紀元前11世紀
一方日本最古の菜畑遺跡は紀元前10世紀なので1世紀ほど古い
菜畑遺跡から発掘された農具は韓半島と共通した大陸系磨製石器であった
日本の稲作が半島から伝来なのは間違いなく確定事項 チョンコロはソングンリ遺跡もマジョンリ遺跡もロシアの調査団が炭素年代測定するまで紀元前10世紀にだ!ってホラ吹いてやがったからオクキョンも信用に値しないんだよな。 そもそも玉峴(オクヒョン)遺跡をチョンコロどもが紀元前11世紀だと主張してる根拠は
孔列文土器と突帯文土器がほぼ完全な状態で発掘され、周代のそれに酷似していると言い張ってるからだけであって
中国、日本、ロシアが科学的検証の提案や共同研究を申し入れても全て拒否してる状態なんだよな
>>139の「菜畑遺跡から発掘された農具は韓半島と共通した大陸系磨製石器であった」なんてまるっきりの嘘だし 〜チョンコ(通称:朝鮮ヒトモドキ)ショック死?! 半島はもともと農耕民族化した縄文人に支配統治された地域だった♪〜
朝鮮半島南部は紀元前から菜畑・板付・金隈と同族の農耕縄文人が征服し、大陸からは辰国と認識されていました。
根拠として挙げられるのが、
@半島最古の住居遺構である松菊里住居跡が日本の竪穴式住居の劣化コピーであること、
A半島最古の水田遺構である麻田里の温帯ジャポニカ米が九州島由来であることです。
なお、北部は遼河文明領域であり、ウラル系やツングース系が住んでいたことも判明しています。
寒さに弱い農耕縄文人を尻目に、半島の北緯36度線以北にウラル系や後には漢族系などが流入し、
弥生人(元縄文人)国家である辰国の技術指導を受け入れながら形成されたのが馬韓・辰韓・弁韓・狗邪韓国です。
北緯36度線の壁によって倭人(元弥生人)の影響を直接受けなかった
ツングース系・穢族・プヨ族を併合して高句麗に、
漢族系であった馬韓は百済に、
辰韓と弁韓が併合して倭種の国新羅に、
狗邪韓国が倭人の国として伽耶を含む任那に移行しました。
https://i.imgur.com/cL5IUF5.jpg
百済は元漢民族であったにもかかわらず、倭国本土に媚を売り続けたため、中華化した新羅から大いに反感を買い、唐と組んで逐滅(現代語 絶滅)させられました。
高句麗も滅亡し、任那は本土に撤退、統一新羅になったのですが、白村江の戦いは朝鮮半島から倭人や倭種の引き揚げが目的だったのだろうと推察できます。
その新羅も高麗に滅ぼされ、民族としての倭種の国は半島から消滅してしまいました。
高麗はモンゴル帝国の侵略を受けツングース系とモンゴル系のハイブリッド国家へと変貌を遂げ、現在に至っているのです。 _人人人人人人人人人人人人人人人_
> チョンコロがいるぞ殺せ!! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
倭人
三 ( ´・ω)
三 ー(‐∪─→
三 / ̄ ̄ ̄ 》  ̄\
三三 | ナウマン象U ・ | 死にたくないニダ!!!
三 と| ι| | 三┏<;`Д´ >┛
三 /_∧∨ ̄ ̄/_∧U 三 ┛ ┓ | []_]∧∧
| | |/ 支\
| ( `ハ´) < 餌の時間アル
| ヽ( つと)
|ブリ || (ヽ ) ) ( ̄◎
| ブリッ )し'し' |~~~|
| ⊆=⊇  ̄゛
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ホルホルホル ♪ ̄ ̄ ̄; :  ̄ ̄|
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待ちわびたニダ♪ 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン、海人族スレでは摂津チョンコ
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹き、様々なスレを逃げ回る
そして突如として別キャラでネチネチと書き殴ることも少なくない
しばらくすると記憶喪失を発動させて懲りずに妄想を書きなぐるが、読解力に乏しく、
また思考に一貫性がないのでアルツハイマーの可能性が高い 個人的見解を言わせてもらうと
真正品を真似て作った贋物
それに遺構もないので考古学的には無価値に等しく
また手軽に持ち運べる点で出所が定まらないということを指摘しておく 後漢書に倭奴国に金印を下したと書いてあるから漢の倭の奴国王印
倭が委になってるのは倭だと小さいという意味になるから人偏を取って
贈答品だから委ねるという好字にしたため 金印がでた場所からして
奴国は糸島周辺なんだろうね 委奴国が委国と奴国に分裂したってのが現在の定説だろ
委国は後の伊都国 満州先生のご本が絶賛発売中です。
「馬韓も百済も満州にあった」
邪馬台国論争を解く上でも必読本です。 伊都国がワシントンD.C.、奴国がニューヨーク。
あわせて倭奴国、筑紫の日向、倭国の王都。 魏志倭人伝に伊都国は伊都国と出てくる
奴国は奴国
委奴国なんて存在しないのさ
そもそもイトと読めないし 「漢委奴国」は、漢に隷属する古の罪人の国という意味になる
小中華思想の李氏朝鮮通信使が非常に高く評価した亀井魯が
其始高麗人住せり唐人町の福岡藩西学問所の館長となった22日後に
志賀島で発見したと届出された金印を鑑定したが出土地、状況は不明
魯は不審火により焼死し、西学問所の教官は解職された >>162
現代の国会議員も中国に喜んで尻尾振ってるだろ >>159
委奴国=委国=倭国
後漢書にも魏志倭人伝にも奴国王なんて出てこない
倭国王しかいない。 明らかに倭国が九州であることの証拠だよ
いにしえの倭王は九州にいた 倭国大乱の時代だから倭の王は九州に限らずそこら中にいたんじゃない >>165
魏志倭人伝は後漢より200年は後のこと
後漢書に金印を下したと出てくるのは倭奴国
委奴国じゃなくてね
よって金印は倭の奴国に与えられたもの 江戸時代でも漢晋印章図譜 王厚之編などの書物は入手可能で
好事家たちの手によって作れる可能性を探ってみたが
鈕の形の蛇はどうも難しい
印字の部分は書物を調べれば作れそうではあるが
やはり真物を模倣して作ったと考えるのが自然
ただ封泥に使用するため彫り方が不味い
だから贋物 >>168
筑紫を取った者が倭王を名乗った。
椅子取りゲームのようなもの。 吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。 卑弥呼が初めて魏に国書を送るとき、それが倭王からの国書であることを証明するのは後漢の発行した印による封泥となる。
魏は後漢の禅譲を受けて外交プロトコルを継承しているから、魏に対しても後漢の金印は国璽として通用する。
文書は誰が書いてもいいが、印をするのは王の仕事だ。
そしてその印は福岡県にあった。
最後に使ったのは卑弥呼であるはずだ。 国書送ってたのにその後数百年国内文書ろくに残って無いのは不思議だよな >そしてその印は福岡県にあった。
>最後に使ったのは卑弥呼であるはずだ。
と、思わせるための偽造だろうな。 中国の考古学者は漢からではなく 漢に委ねる奴国王 と解釈している。
1954年発掘の銅印に 漢帰義羌長 がある。 これは漢の字があの金印
と全く同形で、同時期の後漢の印だ。 これは 漢に帰義する羌族の長
となる。 金印は何故帰義ではないのか、二文字では印面が混雑するので
同じような意味になる一文字の委とした という解釈。 >中国の考古学者は漢からではなく 漢に委ねる奴国王 と解釈している。
具体的に誰? >>187
このほうが納得できる。帰義、委など漢字の違いで格の違いを表すとか何かで読んだ 『続漢書』百官志によれば、蛮夷には、
「国王」「率衆王」「帰義侯」「邑君」といった規模等により称号が与えられた。 四夷國王、率衆王、歸義侯、邑君、邑長、皆有丞、比郡・縣。
(『続漢書』百官志五) 贈答品だし倭だと小さいという意味になるから委ねるという好字にした ゆだねるくらいの意味はあったと思うけど
用法として国王に使うかどうかわからんが 漢委奴国王 金印 part3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1557153670/
↑より前スレを踏襲している当スレに統合しましょう
色んな人の様々な意見が分散するのはもったいないと思う 舛添だっけ?ペキンからハンコをもらって帰ってきた都知事は。
あれは朝貢外交の印(しるし)だ。 伊都高祖宮の近くには先代の男王の祖である三雲南小路遺跡とその宗廟であり漢委奴国王印(金印、倭王の国璽)を管理していた細石神社がある。
そして倭国大乱より後の年代の女王墓と考えられている平原遺跡がある。
伊都国(糸島市)こそ、漢代から魏代まで継続して倭国の王都であった。
そもそも、弥生時代を特徴する稲作文化は玄界灘沿岸に上陸し、博多湾を中心に銅鏡銅矛文化が弥生時代をリードしてきた。
後漢書でも倭とは狗邪韓国を北限、倭奴国を南限とする対馬海峡国家であり、そこを支配するのが伊都に置かれた大率である。
魏の使いが滞在して外交の舞台でもあった伊都国こそ、倭の王都、卑弥呼の王城がある邪馬台国である。
そして三雲南小路遺跡が邇邇芸と木花咲耶姫の墓であるならば、伊都国は記紀における神代の倭の王都、筑紫の日向でもある。
三雲南小路遺跡や平原遺跡から日の出の方角にそびえる高祖山(クシフル山)にある高祖宮、怡土城は、高千穂宮の実体だろう。 >>202
細石神社ネタはとっくに破綻してるんだから諦めろん 当時のアジアは中華王朝を中心に存在しとったんやから、必要以上に卑下せんでもええんやで 実際に細石神社の遺跡は弥生時代では平原遺跡と双璧となる王墓だからな。
後漢との繋がり、後世の王権につながる三種の神器など。 >>208
三雲南小路遺跡と細石神社に因果関係があるのは間違いないが、そこに金印をつなげようとするのは糸クズの願望でしかないって話だろ >三雲南小路遺跡と細石神社に因果関係がある
いや、これすら妄想 >>210
三雲南小路の年代は金印を貰った年代にほぼ一致する。
その被葬者が金印の持ち主であった可能性はある。 妄想の上に妄想を積み重ねても妄想であることは変わらない >>212
三雲南小路遺跡は年代測定されてないのだから金印と同年代だというのは糸クズの願望でしかない。 >>216
後漢鏡が出土してるのは井原鑓溝遺跡だろ無能 三雲南小路遺跡と出土品の年代測定は実施されたことはない。
それが客観的事実。 結論から言うと
三雲南小路遺跡は年代測定されてないのだから金印と同年代だというのは糸クズの願望でしかない >>224
結論から言うと
三雲南小路遺跡は年代測定されてないのだから金印と同年代だというのは糸クズの願望でしかない 古文書を読んでたら、「長崎古今集覧付録名勝図絵」という文政年間発行の文書の中に金印の図絵が載っているらしい。
長崎の神崎神社に金印が宝物とされていたらしいが、天明年間に行方不明になったそうだ(なんと神社の地区一体は黒田藩
の警備地区だったとか)
つまり、黒田藩謀略説成立かも 伝説としては、訳の分からんものが残っているようだ
長崎県の神崎神社に神功皇后が三韓討伐で手に入れた金印を長崎に持ち帰った」伝説があり、
その長崎の金印が江戸時代に突如紛失した後に志賀島で発見されたので江戸時代に長崎から福岡に移された
http://blog.livedoor.jp/jingu2675/archives/1047527493.html 「神崎社珍宝形状図説明書」 「長崎古今集覧付録名勝図絵」中のものか不明
「黄金蛇紐漢ノ倭奴國王ノ印一顆
此金印神功皇后三韓時に持帰らせ給う所當社の珍宝として世々傅へ来りしに何のころにまがひ失せけん・・・
按ずるに此印の文字・・・滋賀島土中瓦石の下より出せしといふ金印と少しも異なることなし・・・・・・」 まあ一緒に神功皇后の「懐懐石一塊」も珍宝となっているところがあれなんだが。。。 うわあ、由来は激しく怪しいなあ。
しかし逆にそれ以前の何かを隠そうとした意図も伺える。
場所は長崎の入り口の要所と見た。
ただ、倭国の中ではあるけれども、非常に中心から離れているのが気になる。 江戸時代の文献がある時点で細石神社の100万倍はまし 細石神社は伝世の事実を隠そうとしたとされているからね。
文献など見つからなくて当然。
しかし伊都は倭国の王と出会ったのであれば、そこに金印があっても不思議ではない。
神崎神社であれば、そこが倭国にとってどのような場所であったのかを考察する必要がある。 糸クズスレ見て来いよ
細石神社は古田の希望的観測であり、糸クズの願望でしかない"ネタ"だって即座に分かるから 見つけた
上部左ページにあるのが、長崎名勝図絵にある黄金印の図絵だ
https://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/66427625.html
「由緒は古い神社であるが、永年荒廃していたのを、正保4年(1647)長崎の内田治郎助宗貞という者が、
旧記を調べ旧址を尋ねて、船魂猿田彦大神、住吉大明神を祀る小祠をここに建てた。・・・」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています