漢委奴国王印 いわゆる金印part3
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明らかに倭国が九州であることの証拠だよ
いにしえの倭王は九州にいた 倭国大乱の時代だから倭の王は九州に限らずそこら中にいたんじゃない >>165
魏志倭人伝は後漢より200年は後のこと
後漢書に金印を下したと出てくるのは倭奴国
委奴国じゃなくてね
よって金印は倭の奴国に与えられたもの 江戸時代でも漢晋印章図譜 王厚之編などの書物は入手可能で
好事家たちの手によって作れる可能性を探ってみたが
鈕の形の蛇はどうも難しい
印字の部分は書物を調べれば作れそうではあるが
やはり真物を模倣して作ったと考えるのが自然
ただ封泥に使用するため彫り方が不味い
だから贋物 >>168
筑紫を取った者が倭王を名乗った。
椅子取りゲームのようなもの。 吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。 卑弥呼が初めて魏に国書を送るとき、それが倭王からの国書であることを証明するのは後漢の発行した印による封泥となる。
魏は後漢の禅譲を受けて外交プロトコルを継承しているから、魏に対しても後漢の金印は国璽として通用する。
文書は誰が書いてもいいが、印をするのは王の仕事だ。
そしてその印は福岡県にあった。
最後に使ったのは卑弥呼であるはずだ。 国書送ってたのにその後数百年国内文書ろくに残って無いのは不思議だよな >そしてその印は福岡県にあった。
>最後に使ったのは卑弥呼であるはずだ。
と、思わせるための偽造だろうな。 中国の考古学者は漢からではなく 漢に委ねる奴国王 と解釈している。
1954年発掘の銅印に 漢帰義羌長 がある。 これは漢の字があの金印
と全く同形で、同時期の後漢の印だ。 これは 漢に帰義する羌族の長
となる。 金印は何故帰義ではないのか、二文字では印面が混雑するので
同じような意味になる一文字の委とした という解釈。 >中国の考古学者は漢からではなく 漢に委ねる奴国王 と解釈している。
具体的に誰? >>187
このほうが納得できる。帰義、委など漢字の違いで格の違いを表すとか何かで読んだ 『続漢書』百官志によれば、蛮夷には、
「国王」「率衆王」「帰義侯」「邑君」といった規模等により称号が与えられた。 四夷國王、率衆王、歸義侯、邑君、邑長、皆有丞、比郡・縣。
(『続漢書』百官志五) 贈答品だし倭だと小さいという意味になるから委ねるという好字にした ゆだねるくらいの意味はあったと思うけど
用法として国王に使うかどうかわからんが 漢委奴国王 金印 part3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1557153670/
↑より前スレを踏襲している当スレに統合しましょう
色んな人の様々な意見が分散するのはもったいないと思う 舛添だっけ?ペキンからハンコをもらって帰ってきた都知事は。
あれは朝貢外交の印(しるし)だ。 伊都高祖宮の近くには先代の男王の祖である三雲南小路遺跡とその宗廟であり漢委奴国王印(金印、倭王の国璽)を管理していた細石神社がある。
そして倭国大乱より後の年代の女王墓と考えられている平原遺跡がある。
伊都国(糸島市)こそ、漢代から魏代まで継続して倭国の王都であった。
そもそも、弥生時代を特徴する稲作文化は玄界灘沿岸に上陸し、博多湾を中心に銅鏡銅矛文化が弥生時代をリードしてきた。
後漢書でも倭とは狗邪韓国を北限、倭奴国を南限とする対馬海峡国家であり、そこを支配するのが伊都に置かれた大率である。
魏の使いが滞在して外交の舞台でもあった伊都国こそ、倭の王都、卑弥呼の王城がある邪馬台国である。
そして三雲南小路遺跡が邇邇芸と木花咲耶姫の墓であるならば、伊都国は記紀における神代の倭の王都、筑紫の日向でもある。
三雲南小路遺跡や平原遺跡から日の出の方角にそびえる高祖山(クシフル山)にある高祖宮、怡土城は、高千穂宮の実体だろう。 >>202
細石神社ネタはとっくに破綻してるんだから諦めろん 当時のアジアは中華王朝を中心に存在しとったんやから、必要以上に卑下せんでもええんやで 実際に細石神社の遺跡は弥生時代では平原遺跡と双璧となる王墓だからな。
後漢との繋がり、後世の王権につながる三種の神器など。 >>208
三雲南小路遺跡と細石神社に因果関係があるのは間違いないが、そこに金印をつなげようとするのは糸クズの願望でしかないって話だろ >三雲南小路遺跡と細石神社に因果関係がある
いや、これすら妄想 >>210
三雲南小路の年代は金印を貰った年代にほぼ一致する。
その被葬者が金印の持ち主であった可能性はある。 妄想の上に妄想を積み重ねても妄想であることは変わらない >>212
三雲南小路遺跡は年代測定されてないのだから金印と同年代だというのは糸クズの願望でしかない。 >>216
後漢鏡が出土してるのは井原鑓溝遺跡だろ無能 三雲南小路遺跡と出土品の年代測定は実施されたことはない。
それが客観的事実。 結論から言うと
三雲南小路遺跡は年代測定されてないのだから金印と同年代だというのは糸クズの願望でしかない >>224
結論から言うと
三雲南小路遺跡は年代測定されてないのだから金印と同年代だというのは糸クズの願望でしかない 古文書を読んでたら、「長崎古今集覧付録名勝図絵」という文政年間発行の文書の中に金印の図絵が載っているらしい。
長崎の神崎神社に金印が宝物とされていたらしいが、天明年間に行方不明になったそうだ(なんと神社の地区一体は黒田藩
の警備地区だったとか)
つまり、黒田藩謀略説成立かも 伝説としては、訳の分からんものが残っているようだ
長崎県の神崎神社に神功皇后が三韓討伐で手に入れた金印を長崎に持ち帰った」伝説があり、
その長崎の金印が江戸時代に突如紛失した後に志賀島で発見されたので江戸時代に長崎から福岡に移された
http://blog.livedoor.jp/jingu2675/archives/1047527493.html 「神崎社珍宝形状図説明書」 「長崎古今集覧付録名勝図絵」中のものか不明
「黄金蛇紐漢ノ倭奴國王ノ印一顆
此金印神功皇后三韓時に持帰らせ給う所當社の珍宝として世々傅へ来りしに何のころにまがひ失せけん・・・
按ずるに此印の文字・・・滋賀島土中瓦石の下より出せしといふ金印と少しも異なることなし・・・・・・」 まあ一緒に神功皇后の「懐懐石一塊」も珍宝となっているところがあれなんだが。。。 うわあ、由来は激しく怪しいなあ。
しかし逆にそれ以前の何かを隠そうとした意図も伺える。
場所は長崎の入り口の要所と見た。
ただ、倭国の中ではあるけれども、非常に中心から離れているのが気になる。 江戸時代の文献がある時点で細石神社の100万倍はまし 細石神社は伝世の事実を隠そうとしたとされているからね。
文献など見つからなくて当然。
しかし伊都は倭国の王と出会ったのであれば、そこに金印があっても不思議ではない。
神崎神社であれば、そこが倭国にとってどのような場所であったのかを考察する必要がある。 糸クズスレ見て来いよ
細石神社は古田の希望的観測であり、糸クズの願望でしかない"ネタ"だって即座に分かるから 見つけた
上部左ページにあるのが、長崎名勝図絵にある黄金印の図絵だ
https://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/66427625.html
「由緒は古い神社であるが、永年荒廃していたのを、正保4年(1647)長崎の内田治郎助宗貞という者が、
旧記を調べ旧址を尋ねて、船魂猿田彦大神、住吉大明神を祀る小祠をここに建てた。・・・」 まあ、歴史学に対して真面目に興味持っていたら
こういう縁起・伝承の後付け・改変なんて
珍しくないことくらい知っているだろう
だから、神社の縁起では〜とか土地の伝承が〜とか
主張すると鼻で笑われることになる
細石神社は記載史料がない時点で
歴史学以前の噴飯ものだけどね 金印が見つかってから、実はうちに前からあって。。。とかいうパターンぽいね 細石神社に金印が保管されてたってネタは自説の信憑性を高めるために「地元民への聞き込み」というナゾ行動までした古田や、それを盲信しようと必死な糸クズが悪いんであって、細石神社自体に罪はない。 江戸時代は出版業界盛んで、各地名所旧跡観光案内は人気ジャンルだった。
中身は洒落本と同じネタ本で、歴史考古学の文献てもんじゃない。
長崎はもちろん学者文化人に人気の場所で、その頃金印の発見は学者文化人には
ビッグニュースだった。 で 長崎と志賀島はちょと離れとるけど、金印は古代九州のこと
なんでネタ書き出版した。 うそ書いても誰も問題にしないネタ本だから 結局、志賀島を拠点に持っていた安曇が倭王だったってことだろ >>244
それだとアメ姓を自称した倭王と矛盾してしまう。
やはり通説通り安曇は初期段階の海人王で次第に主権を住吉に取って替わられ、全国に散り散りになった悲劇の海人族と見るべき。 どうせ全員海人族。
その中で最も優勢だった者が倭王。
倭人はそれぞれに皆が王を自称していたんだっけ? 志賀島にいたのだから、倭王とは綿津見、大山祇兄弟のことであろう。これは兄弟相続の典型でもある。
天孫降臨に際してニニギは大山祇の娘を娶るが、先代の王家からの女系相続とも取れる。 志賀島にあること自体が不思議なんよね
わざと持ち込まれたのか持ち出す途中に落としたのか 通説では支石墓のようなものの下に箱に入っていたんだ。 >>248
どこが強引に感じるのでしょうか?
筑紫において天孫は外から来た婿であり、一貫して筑紫にいるのは志賀島の一族の方なんですよ。
しかもその後も同じ一族から婚姻しています。
記紀は男系社会になってから書かれているのですが、実は志賀島の綿津見王家(豊国王家)は日向三代と並行して女系相続をしているのです。 >>252
根拠のない妄想だから強引なんだろ
目を覚ませ >>254
根拠のない妄想だから強引なんだろ
目を覚ませ 贋作にここまで熱狂するとは・・世界じゅうの笑いものw >>255
具体的にどこがおかしいか指摘してください。 >>257
馬鹿か?根拠が一切ない妄想だろマヌケ
さては・・・
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ヽ__/ | | | 志賀島からは金印だけしか出てないのがおかしいんやろ 志賀島の古墳から三種の神器のセットが出てきたりしないのかな、ということだろ。 博物館があった時代じゃないからね。
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