【阿曇・住吉】海人族 Part. 4 【宗像】
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謎多き海人族について語るスレ
海人族とは何者だったのか?
イザナキ・イザナミから生まれた海神
ワタツミ(古語で海はワタ、ワタツミ=海住み→アマスミ→アズミ)
スミヨシ(古代はスミエ、スミエ=住み江→スミノエ→スミヨシ)
出生地:筑紫日向小戸橘之檍原
アマテラス・スサノヲから生まれた海神
ムナカタ(倭人伝に見える”黥面文身”の胸形が語源、胸肩とも)
出生地:天之安河
※自説のゴリ推しはやめましょう。
持論の展開には根拠を明確にしましょう。
妄想や行き過ぎた推論はSF板でやってください。
※前スレ
【阿曇・住吉】海人族 Part. 3 【宗像】
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1558853954/
【阿曇氏】海人族 part2【宗像氏】
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1459603848/
【阿曇氏】海人族【宗像氏】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1317289551/ 自然神の神格としては ミ > チ で、
・「ワタツミ」等の "ミ" は神霊
・「ミズチ」や「ヲロチ」等の "チ" は精霊
というのが定説では無かった?
とりあえずパッと手元にある本で確認したら
三橋健の日本神様事典には、その見解で書かれてる
>>1の「ワタツミ=海住み」は何情報? 阿曇と住吉は同祖?兄弟神?だから名前のルーツは同一って考えじゃないかな?
てか前スレからのコピペだから深い意味はないと思われ >>1
ワタツミのミは神霊の意味だよ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%9F%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%B3%E3%83%9F
>「ミ」(霊)は神格を表す尊称(神霊の意)として「ワタツミ」(山つ霊)や「ヤマツミ」(海つ霊)等と用いられ、「ミミ」(霊霊)はその「ミ」(霊)を重ねたものとされる。 >>4
前スレでも指摘されてたけど暴言で応酬してたスミ信仰の本人じゃないかな…
ただのコピペじゃなく追加文を入れたりしてるし… これか
>>1が言うように根拠は明確にしてほしい
3 日本@名無史さん 2019/05/26(日) 17:36:33.18
>>2
えっ、ワタツミはワタ=海、ツ=の、ミ=神。
海神が定説。
なにそれ。
海住み、て。
4 日本@名無史さん 2019/05/26(日) 17:41:12.70
諸説あるからな無能 >ワタツミ=海住み→アマスミ
>スミノエ→スミヨシ
かなり無理がある >>1
綿津見の語源だけど、ミまたはミミが王族の称号だよ。
綿津見は「海の神」の意味で、大山積の「山の神」と対になっている。
「住む」という意味ではないはずだ。 >>5
記紀では神武の息子たちを始め、ミミという名の王族は多い。
古代の神はそのまま当時の王族のことだよ。
祖先神だから神であり王なんだよ。 >>13
アンカー間違ってない?ほぼ同じ見解の人に何故? 神格と書かれてしまったからだよ。
手研耳命が神格のある人物だとは言えないだろ? 当時の背景は誰も分からないけど、本人か関係者がそう思わせたかったんでしょ。
それに神格というのはチと対比した場合のことでしょ。
研究者もWikipediaも、語源として神霊であると言ってるんだから、文句があるならその方たちに手紙でも出して。 単にミミは王族(貴人)の意味でいいだろ。
その方が明確だ。
当時の人たちにとっては、それは信仰ではなく政治の話だったはずだからだ。 なんか16の人だけ話の的が違うね
そこは正直どうでもいいというか問題じゃないのに変な拘り方 ミは神のことだとする意見に同意するけど、
しかし、このミて魑魅魍魎のミなの? おもしろいね
>語源に関しては諸説あるが、古代中国の妖怪か精の一種とされる。『史記』(五帝本紀)によると、魑は虎の形をした山神、魅は猪頭人形の沢神とされ、ここから色々な獣の属性を併せ持った怪物のイメージが膨らんだ、と推測される。 ワダツミ(海の神)とヤマツミ(山の神)が対になるのは明白。
安曇は熱海や厚見などとも書き、アツミが原型である可能性がある。
すると、接続詞ツと神を意味するミの前にアがある。
つまり安曇は「アの神」という意味になる。
始まりの神という意味でも込められているのだろうか。 おまえらが、馬鹿。
中国語当て字で、和音語尾の彌は神であるか? というと
邪馬台国時代に神なんてものは無い。
安曇族はほぼ九州筑紫の卑弥呼系だが
卑弥呼は、神話のアマテラスや神功皇后ではない実在した人物である。
日本に神が必要になったのは仏教公伝からではないのかな?
氏族の長は、古墳で不死を信じてるんだろ?
成仏させてやれよ。 皇室にも黒門が有る。
日本で最悪の宗教改革は神仏分離である。
靖国神社に必要なのは、成仏した死者を供養する神宮司である。 ワダツミと同様に、天津神も海の神と読める。
どちらもイザナギの末裔とされている。
しかし同じ海をワタとアマと呼び分けているので、実際には別の氏族なのかもしれない。
その場合、イザナギの直系はおそらく天津神であるアマテルの方なのであろう。
天津神に対する概念は国津神であるが、実際には国津神もワダツミやムナカタといった海人である。
何度も渡来する弥生人を出自や世代で呼び分け、後の皇統から離れるほどに海人(アマ)から遠い呼び名がつけられたと考えることができる。 >>22
アマツミがアツミに訛った説と
アツミのアは意味のない接頭語説があるよね >>23
何だか時代感が滅茶苦茶な気がするな。
邪馬台国時代に神格はないが祖先を祭る習慣はあっただろう。
それを神と読んだのだ。
ところで卑弥呼が筑紫の女王であっても、その出自が安曇などの海人族だとは限らない。
むしろ肥後狗奴国の王である卑弥弓呼との関係を考慮すれば、肥国から出て筑紫と肥国を合わせた倭国の女王となったと考えられる。
つまり卑弥呼は国津神なのだ。
天孫族の歴史書である記紀に卑弥呼が記載されていない理由が説明できる。
そしてその肥国の発展は、後に筑後と呼ばれる地から始まったであろう。
卑弥弓呼「あんな天津神かぶれの女に祭り事を任せておけるか」 >>27
なるほど。
アマツミなら「海人の王」になるからね。
何だか限りなくアマテル「海(人)の王」と被るけど、おそらく世代が違うか、支配域が違うのだろう(天照は筑紫にいなかったからね)。 >>26
その逆もありえるんじゃないか?
ちょっと前スレの言い争いとかぶってしまって恐縮だが、アマテラス以前の登場人物は例外なくアメであるのは事実だし
アマテラス以降は圧倒的にアマを冠した神が増える
これはつまりアメ系をアマ系がその歴史ごと乗っ取ったとも読める
そうすると隋書の日本が倭国を征服した話と辻褄が合ってくるように思える >>32
アメ読みする言葉を持つ民族が
アマ読みする言葉を持つ民族に支配された? >>29
祖先を祀る?
妻問婚だろ? 家族? 氏族ってなんだ?
縄文の原始共産制は1万5千年以上不滅だった。
松菊里住居? そんなもんは自然発生する。
水稲耕作、開墾地私有、農業普及、穀物備蓄、配分可能性
私有資産の発生が、母系?家族、氏族を生んだ。
誰の子かわからん子は、原始共産制の部族の子、宝だよ。
これを作れるのは徴税経済であって、軍事的支配者だろ。
生口が貿易資産だった卑弥呼だろうが、縄文人は強制連行の人さらいだった、
ってのは、否定できないだろ?
仏教公伝以前に、信ずるに足る何の神が有る?
自然そのものに、地神、海神、天神みたいな名を与えるのが
天孫降臨以降の天皇だろ?
記紀厨は科学、歴史学、考古学とは無縁。 邪魔。 >>36
前スレの荒れ原因だったが、隋書と新唐書に残されたアメノミナカヌシを初王としたアメ氏の存在と神代最後に生まれた初めてアマを冠したアマテラスという存在の対比が、結構興味深かったではある 偉そうなことを語っているけど、
どこの基地外(池沼でも良い)なんだ?と聞いているんだよw せっかく平和な走り出しのスレなのに
馬鹿とか邪魔とか口汚い人間ほんと感じ悪いな >>32
こういうの面白くなってくると、いろんな方面で勉強が必要になるから時間が幾らあっても足りないな >>32
>ちょっと前スレの言い争いとかぶってしまって恐縮だが、アマテラス以前の登場人物は例外なくアメであるのは事実だし
>アマテラス以降は圧倒的にアマを冠した神が増える
いや、あのまとめはここから大嘘を並べ立てて書いてあった。 このスレを初めから読めば、アマだから議論ができるが、アメと書き換えると全くお話にならないことがわかる。
少なくとも、九州においてアマだったものが後世にアメに書き換えられていったのだろう。
古事記ではアマと明記されいているが、日本書紀では読みは一切指定されず、ずっと後世の注でアメと読ませているだけなんだよ。 『古典基礎語辞典』(大野晋氏)によれば、上代語では「あま」の方が「あめ」より多く、「あめ」は「天地」など新しく入ってきた外来語につけられたから、「あめ」の方が新しいと述べている。 アマ、アメ両方で読める単語が日本神話にあるということはアマがアメに音変した証拠だ。
そして天照、高天原のようにアマとしか読めない語があることが、天の原発音がアマであることの証拠。
これで完全論破だよ。 毎
上古音はmuag(ムア)だが、上古音は推定幅が大きく確定性が低い。
中古音ならはっきりしており、muai(ムアイ)だ。
中世音もmuai(ムアイ)。
現代音はmai(マイ)とmei(メイ)。
(学研大漢和字典)
阿毎は「アムア」となるが、子音の後の連続する母音は前の方が省略されることがあり、「アマ」となり得る。
「アメ」となるのは後世の訛り。 合成語で天、雨(アメ)の後に格助詞「の」をつけて読む場合、語尾の場合は母音は変化せず
続けて読む場合や「〜つ」の連語の場合にアマに変化するだけなんじゃないの >>46
日本書紀は海外向けなんよ
読み指定するわけなかろ >>51
だから日本書紀ではアメと読むいうこと自体がウソ >>50
アマテルもタカアマハラも当てはまらない。 日本書紀は海外の人に向けて漢文で書いてるんだからアメもアマもないよ
古事記は国内の人に向けて書いてるから変体なんだよ
それを>>48は都合の良いようにねじ曲げて解釈してると思う >>45-49
何をそんなにムキになってるのか知らないが、あのテンプレには一定の信用ができると思ったがな。
出典不確定な(ムア)より本場中国のサイトで確認できる古音(ムェ)のほうが説得力を感じた。 >>38
漢文だから、そこでアメノミナカヌシという読み仮名を振ること自体が結論先にありきの詐欺なんですよ。
アマノミナカヌシであった可能性もある。
蛇足ですが、神代の最後は神武の父、天照の5世孫であるウガヤフキアエズです。
神武が人皇の初めになります。 台湾人や韓国人に、日本のアイドルを日本読みしろとは指定しないから、向こうは向こうの読み方してるよね
漢字圏の国に対しては、アメだのアマだのよりも通じる表記を優先するよね >>57
神代最後に生まれたアマ(天の文字)を冠した神って書いてあるじゃん >>56
このスレを初めから読んで貰えば、海人がアマでなければ、まったく話が通じないのがわかる。
このスレのアマをアメに読み替えてみるといい。 兄弟
チョーデー
沖縄向けなら単にウチナー読み振ってるだけの話という可能性 >>60
神代の最後はヒコナギサウガヤフキアエズだから天はつかないですよ。 >>48
それこそ真逆ではないか?
アメでしか読まないもののほうが古く、アメ、アマ両方で読めるものが後世では? >>63
どうした?何か興奮してるようだからもう一度冷静になって読み返すことを勧めるぞ 絶対にアマ以外認めたくないマンの言い分が全部逆にしか読めない アメ読みする言葉を持つ民族がいた
アマ読みする言葉を持つ民族が来てアメとアマが混在
そういうことなんじゃないの? >>64
アマとしか読まない天照や高天原という語があり、その他は概ねどちらでも読めるのです。 なんで荒れてるのかが分からない
そういう説もあるねで済む話なんじゃないの 玄海は粛慎のおやっさんだからアマでいいんだけども
沖縄はアンマーがお母さんだから南方の海人は母なる海でアマだろう >>68
おそらくそういう事を言いたかったんだろうが、絶対にアマ以外認めたくないマンはアマのほうが古いってことに異常な執念を燃やして荒らしてしまったし、今後もこの論争が出ると荒らされるだけだろう。 >>68
安曇(アツミ)がアマツミの転化したものなら、もともとからアマと読む氏族しかいなかったことになります。 俺らはこう思う
それ面白い説だね俺はこう思うけど
それも有りうるかもね
こんな説もあるし
そういう建設的な話は出来ないのか >>73
逆に、アマのスレに来てアメをゴリ押しする理由を聞きたいです。 はいみんな
>根拠を明確に
決めつけた物言いする人は、きちんと研究論文や出典を示して 俺の思い込み以外は間違ってる!みたいな人、普段からコミュニケーションできなさそう >>69
まぁ前スレでも強引に天岩戸をアマノイワトとしか読まないだの
天浮橋もアマノウキハシとしか読まないと言い張ってた輩もいたくらいだから
そのうちアメテラスとしか読めない、タカアメノハラが本来の読みだと言い出す輩が現れるかもな 今後「絶対こうに決まってる!」したい人は根拠を示してね >>75
自説のゴリ押しにしか情熱をさけない奴のほうが多いのが現状 >>84
自己紹介は要らない
類は友を呼ぶ
私の周りはそんな不毛な攻撃する人いない 前スレのアメ論テンプレ持ってきたら?
全てに根拠を示してあったのはあれくらいだろ 対馬はハングルの看板だらけになってしまってるからな >>86
興奮しすぎ、現状とはこのスレのことだろうよ >>84
だから何なんだ?お前の環境はどうであれ荒らして良いことにはならないけど? >>90
興奮しすぎ、現状とはこのスレのことだろうよ・・・ >>81
実際、それに近いことを言い張って「まとめ」とやらを貼っていた人物がいた。 特定の二人がケンカしてるんでしょ?
このスレ全員なの? >>92
うん、リアルだったら顔赤らめてめっちゃ早口で言ってるんだろうなって文体。 >>87
アレが「日本書紀はアメ」などと嘘をてんこ盛りしたから荒れている。 >>94
アマスレなんだからアメネタを持ち込むな!ってのが一人いるだけでしょう 誰かを疑う人は自分が疑われることしてるからって良く言うけど、自演認定とか興奮認定とかも自己紹介なんじゃないのかな… 決めつけたがったり貶したがったりする住人は出てってほしい あのテンプレには根拠が示されてたから誰も反証できなかっただろ
せっかくだからみんなで改めて検証しようか? どれをNGすれば良いのか分からない荒れ方
せめてIDつけたい >>96
でも日本書紀の神代期に出てくる神様はアマテラス以前にアマはいなかったよね
まぁアマノミナカヌシだった!と言い張るのは自由だけど >>106
日本書紀は読み仮名を指定していないから、アメノミナカヌシが後世の読み方に過ぎないという仮説を否定できません。 アマしか認められない人はアマが優位であれば満足するんでしょう?
だったら上に書いてる人がいたけどアマを名乗る氏族?がアメを名乗る部族?を征服して歴史ごと乗っ取った勝者ってことで良いんでない? 高天原は今日ではタカマガハラという読みが多いと思うけれど、実は古事記ではタカアマハラなのですよ。
その他の名詞も、ことごとく後世の訛りが加わります。
1000年も経つと、いつしか変化形の方が本来の姿だと思い込む人も出るわけです。
摂津の安曇と同じパターンなんですよ。 どうなんだろうな。
俺個人の見解としては、和文表記が前提となってる古事記に「高天原に天之御中主神と言う名の神が成った」の後に
わざわざ「これ以降は天をアマと呼ぶことにします」と書かれているわけだから、それ以前、つまり古事記成立以前は
アマではなかったんだろうなと感じた。
8世紀には口語としてアマが一般的になっていたことは確かだと思う。 古事記のヒメタタライスケヨリヒメが、日本書紀だとヒメタタライスズヒメになる。
別にのっとったわけではなく、時代とともに変化しただけ。
そしておそらく古事記の方が古い形。 818 名無しさん@京都板じゃないよ 2019/06/09(日) 13:14:14.57 ID:qljZ/PK7r
今現在 出雲大社の御神座が西を向いてる理由で最も有力な説ってなに?竜蛇信仰がやっぱり一番?
819 名無しさん@京都板じゃないよ 2019/06/09(日) 18:13:52.25 ID:6luKy99Vd
竜蛇?それ知らないや、何?
単に御霊信仰的には、死者の怨みを鎮めるための社なら死者の国(日が沈む西または北)を向けるよね?そういうことじゃなくて?
822 名無しさん@京都板じゃないよ 2019/06/10(月) 18:09:42.12 ID:vW3gPubdr
>>819
千家尊統(出雲国造)が著書「出雲大社」で竜蛇が云々かんぬん言ってなかったっけ? それと死者の怨みを鎮めるために出雲大社は創建されたのか?そんなこと聞いたことがないんだけど...
831 名無しさん@京都板じゃないよ 2019/06/10(月) 19:29:05.25 ID:0fWS50TPd
>>822
それ読んだことないけど、
鼻ペチャの渡来系蛇族が稲作や製鉄で暮らしていた出雲に、あとから対馬経由で渡来して製鉄技術を奪ったとされる遊牧系氏族が出雲大社も乗っ取ったのだとしたら面白いかも
ヤマタノオロチ神話の話
答えになってなくてゴメン
840 名無しさん@京都板じゃないよ 2019/06/10(月) 21:17:24.73 ID:sB+PM5uur
>>831
原の辻 三雲ルートの貿易と関係がある山持遺跡とかあの辺から何か出てきたら証拠になりうるな >>115
時代変化だけの話じゃなくて
支配する人間や書き手の目的や読ませたいターゲットが変わってる
古事記も日本書紀も氏族の権力を示したいから作ったもの 一個ずつ検証しようや
■阿毎について 『隋書』の「阿毎字多利思北孤」ならびに『新唐書』「の阿毎氏」
毎の古音はmɯ:s=muɝであり、カタカナで音感表記すれば「ムェ」となる。 よって阿毎=アムェ=アメであると結論付けられる。 なお、現代音でもa-měi,すなわち「アメィ」となる。
また、『隋書』「俀國傳」には「都(ツ)斯(シ)麻(マ)國」という表記があるため「マ」であれば「麻」を使っていたはずである。
※ https://www.zdic.net/zd/yy/sgy/%E6%AF%8E
これの反証を頼む
学研大漢和字典や古典基礎語辞典の「あま」に関するページの画像でもアップしてもらえると助かるんやが >>114
「古事記成立後は」ではなく、「この文書ではここから先は」くらいの意味でしょ。
当時から読みに揺らぎが生じていたから、「正しい読みを残さなくては」ということでわざわざ記載されたのかと。 >>119
毎
上古音はmuag(ムア)だが、上古音は推定幅が大きく確定性が低い。
中古音ならはっきりしており、muai(ムアイ)だ。
中世音もmuai(ムアイ)。
現代音はmai(マイ)とmei(メイ)。
(学研大漢和字典)
阿毎は「アムア」となるが、子音の後の連続する母音は前の方が省略されることがあり、「アマ」となり得る。
「アメ」となるのは後世の訛り。 >>118
となるとやはり8世紀にアマと読ませたい者が実権を握っていたという傍証になるな 朝にレス伸びまくってたら読む気なくなるから
今日はこの辺にしときませんか >>122
コピペ連投は見飽きたよ。
>学研大漢和字典や古典基礎語辞典の「あま」に関するページの画像でもアップしてもらえると助かるんやが >>123
不労所得のAIトレーダーなんよ
続けんのやったらセブンで強強打破買ってくるわ >>122
それを強弁するならアマの頁のスクショ頼む >>124
ところがアマの古事記は、後から成立したアメの日本書紀の影に隠れてしまう。
近代になってからも古事記は偽書の疑いがかけられ、最終的に復権するのは昭和になって太安万侶の墓標が発見されて実在が証明されてから。 >>129
となるとアマ=倭国、アメ=日本か
新唐書の筑紫城から大和に東征した阿毎(アメ)氏の存在とは逆になるな 稗田阿礼が天武(大海人皇子)の舎人だからじゃないのか 取り敢えず、学研大漢和字典と古典基礎語辞典のスクショがアップされるまでアメ・アマ論争は保留にしよう。 >>130
いや、そもそも阿毎氏はアマ氏だろうというのが始まり。
筑紫倭国の読みがアマ、畿内日本国での読みがアメ。
アマ氏は玄界灘沿岸の海人族や天津神のアマだろうということ。
アメは8世紀の日本書紀以降の読みで、天として神格化されて海人から分離していったのではないかと。 >>133
いや、アメと言い出したのは九州勢だよ
アマの語感だけで海人族と天津神?天孫族を結びつけるのは乱暴だろうというのが始まりだった 中国人の聞き取りだからあんまり発音再現の正確性は期待できないだろう >>135
マだったら麻と書いたはずっていう>>119の解説はそれなりの価値はあると思うんだ。 >>135
そうだね
古語では神のミだけは他のミと発音が違ったのではって説があったくらいだしね
ゐやゑのことなのかな
わからないけど
>江戸時代に上代特殊仮名遣が発見されると、「神」はミが乙類 (kamï) 、「上」はミが甲類 (kami) と音が異なっていたことがわかり、昭和50年代に反論がなされるまでは俗説として扱われていた。
>ちなみに「身分の高い人間」を意味する「長官」「守」「皇」「卿」「頭」「伯」等(現代語でいう「オカミ」)、
>「龗」「狼」「髪」「紙」も、「上」と同じくミが甲類(kami)である。
>「神 (kamï)」と「上 (kami)」音の類似は確かであり、何らかの母音変化が起こったとする説もある。 >>137
毎度その北の字が気になるけど調べてなかった
書き間違えなのか敢えての北なのか >>135
狭い日本の中でも、東京のエビは秋田じゃイビだからな…
広い大陸では更に多くの訛りがありそうで 今でこそ5つしか母音ないけど
もっと昔は中国的な発音だったのかもと思う
中国語の母音は、あ、だけで4種類くらいあった
(なので挫折した) >>155が最新版か
もうアメでもアマでもなくなっちまったな笑 >>1
アマテラスとツクヨミが対になってるはずなのに
スサノオ目立ちすぎでツクヨミ空気なの可哀想 ツクヨミとされる奴らは
スサノオとされる奴らに乗っ取られたんじゃないのか >>158
太陽神(本来のアマテラス)と夜神(ツキヨミ)の伝承が
空神(アマテラス)と海神(スサノヲ)もしくは現世神(アマテラス)と死界神(スサノヲ)の話に擦り替えられたということだね。 アメはアマに乗っ取られ
倭国は俀国に乗っ取られ
俀国は日本に乗っ取られ
筑紫は摂津に乗っ取られ
ツクヨミはスサノヲに乗っ取られ
綿津見&住吉もスサノヲに乗っ取られ
一大率は筑紫都督府に乗っ取られ >>148
(毎)の上古音と中古音は、基本的にマイ。
一方、現代音はメイ。
隋書の時代は中古音。
なので、阿毎は、アマでよろしい。
グーグル翻訳で(毎日)と入力すれば、(毎一天)と出る。
現代語(毎一天)の発音は、meiyitian。 アマ派もアメ派も九州説なんだよ。
俺、アマ派九州説。 九州説に準拠するならば、玄界灘周辺の海人(アマ)族の頭領である志賀島のアマツミと博多のスミエがいて、さらにタカアマハラから伊都にアマツカミ(天孫)が来た。
この話はアメと読むと全く話が通じなくなる。
その話が畿内に伝わってアマがアメに訛って後世に伝えられた。古事記は訛りをよしとせず、ちゃんとアマと読めと指示している。 >>163
>>119を反証できずにウソでアマを押すのはもう見飽きた。 いくらでも反証されているのに、キナイコシが「あーあー聞こえない」とやっているだけだろ。 >>169,171
アマ派は声高に主張するだけで根拠が不明もしくは推論の粋を出ないから>>119程度の根拠の提示をしてくれっていうのが趣旨。 >>172
>※自説のゴリ推しはやめましょう。
> 持論の展開には根拠を明確にしましょう。
> 妄想や行き過ぎた推論はSF板でやってください。 >>119
> 毎の古音はmɯ:s=muɝであり、カタカナで音感表記すれば「ムェ」となる。
何で引用先にない変換が入っているんだ? 前スレで予言されてたが
学研大漢和字典と古典基礎語辞典は
ミンメイ書房だったのだな
証拠が出せないとなるや今度は
相手側の証拠にイチャモンをつけ始めた >>176
変換というか引用元のm??:sは大陸がよく使うタイ式フォニックスで、IPAだとmu??と表記 >>165
>>172
古事記は母音が多かった古い発音の時代に書かれていて
日本書紀は母音が少なくなってから書かれたものなんだよね
学者じゃないから細かいこと分からないけども あと何度も何度も言われてるけど、日本書紀は国外に読ませようした漢文だからね 日本書紀は読みが指定されていないから、天を何と読んでいたのかは不明。
それよりわずかに古い古事記では読みはアマと明記されている。 600年代初頭の隋書の阿毎は限りなくアメである可能性が高いわけだから、一世紀かけて音変したと見るのが妥当だろう。
古事記がわざわざ以下、天をアマと読むとしたのも当時の現代音ではアマになっていた傍証ではないか? 言語の大きな変化は、政権の移動とともに起こる。
日本語の文法の変化は2度あり、8世紀初と17世紀初にある。
後者は江戸幕府の開設によるものだが、前者は何だろうか。
アマからアメへの音韻の変化も、その中にある。 >>189
>古事記がわざわざ以下、天をアマと読むとしたのも当時の現代音ではアマになっていた傍証ではないか?
古事記の序文では、各氏族が勝手に史書などをまとめてしまうので、古い記録を正しく残そうというのが動機だとしている。
それならば、天の読みをわざわざ冒頭で定義しているのは、古来のアマという読みに対してアメと読むのが流行りつつあったので、是正しようとしたのではないか。 >>188
中国語に比べたら少ないだろうけど、
奈良以前は近かったんじゃないの
今の日本語よりは確実に多かったとされてるよ そもそも、高天原、天照など、アマとしか読めない語が多くある。
アマともアメとも読める語も多いが、アメとしか読めない語は稀である。 >>190
何がなんでも思い通りにしたい感じなのが気持ち悪いね >>189
だから、日本人向けに読みやすくしてくれただけのことじゃないの? このスレ、アマアメ論争しかしてない。
発音関係のスレないのかな?ちゃんと専門知識ある人つれてきてよ >>189
読み方が複数ある漢字だから、読み手が混乱しないよう示しただけなのでは 判明している確実な読みは、古事記のアマしかないじゃないか。 古事記の「訓高下天云阿麻 下效此」は
高(タカ)に続く天はアマと訓めということだから
同母音の連続で消音するタカマではないということだろ 天をすべてアマと訓むように指定している注ではないだろ 阿毎の音がアマである根拠がない以上、中国王朝に対してアメと名乗ったのは間違いない
そして古事記の編纂時期には確実にアマが主流となっていたことも間違いない >>203
あまつち×2、あめのみなかぬし、たかまがはら以降は天をアマと読めとしていしている。 学研大漢和字典と古典基礎語辞典が民明書房ではなかった証明がスクショなどでなされない限り、このネタは続く >>205
201の読み下しに従えば高の下に天がつく場合はアマと読むという意味
裏返せば、高の下につかない天はアマとは読まないということ スクショ待ちしなくても>>201で解決したんじゃないか?
訓高下天云阿麻下效此
↓
高の下に来る天は阿麻と訓む、此れより下はそれに効らえ。
つまり歪曲しない限り、高天原以外はアマとは読まないって事だろ 古事記には天照大御神の読み方に関する脚注はないのか? wikiの古事記を見ると、アマもアメも沢山ある。
ただ、どれも後世の変動を含んであるのだろうな。 倭王多利思比孤を九州にしたくないキナイコシの策略にまんまとかかってしまっている。 >>216
アメもアマも九州やろ
この時点では畿内の潜り込む余地なし 色盲同士で赤だ青だ言ってても不毛でしかないような。 縄文文化を色濃く残すアメを農耕主体のアマが駆逐した。 >>219
お前は逆さ色メガネを外す勇気を持とうな 古事記では崇神天皇の妃に尾張連の祖の意富阿麻比売
壬申の乱で天武を全面的に支援したのが尾張氏だからな >>189
漢典にみえる(毎)の発音mw:sは上古音だからね。
隋書の阿毎は中古音になるから、muai(aはeの反転形)の発音。
毎meiは現代音。
その現代音meiが、中古音の時代である隋書の毎の発音にはならないね。
隋書の時代には、毎にmeiの発音はなかったということ。
なので、聖徳太子の時代の天皇の姓として隋書に挙げられている阿毎は、アマイの発音。
その音写元である天皇の倭語発音は、アマだったということになる。 >>225
前スレで貼られたhttps://www.zdic.net/zd/yy/sgy/%E6%AF%8E
Google翻訳通せば読めるけど、中古音までが確定で、上古音は推測として例が挙げられてる。
mɯ:sが毎の中古音で、IPAで表記するとmuɝ
カタカナだとムェ >>229
董同?系統以外はカタカナにするとムェ、ムェイ、メイとなってるね。 [ɑ]は、唇の丸みを伴わない非円唇母音。
また舌の最も高い位置が最も後ろにある後舌母音であり、
舌が最も上あごから離れた広母音である。
[ɒ]は、非円唇後舌広母音 [ɑ] の舌の形で唇を丸めた円唇母音で発音したもの。
舌の最も高い位置が最も後ろにある後舌母音であり、
舌が最も上あごから離れた広母音である。
[ə]は、口の中をリラックスさせた状態で
唇を自然に開いた状態で
舌の最も高い位置が舌の真ん中にくるようにし
舌と上あごの感覚を中くらいにして発音する音です。
つまり、日本語には無い >>230
高木漢、王力、薫同〇は、muai。
周法高は、muei。
陳新雄は、miuei。
メイ→メに通じるのは陳新雄だけ。 忌部一族は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた、日本唯一無二の「祭祀族、海民族、産業・文化技術集団」なのである。 @阿波 >>222
この古事記の意富阿麻比売は、日本書紀では大海媛。
海をアマと読んだ例として提示されているもの。
しかし一方、天武天皇の名の大海人皇子は、オオアマ。
これは、凡海氏に養育されたことにちなむ名とされる。
凡海氏は丹後の海部氏の一族とされる。
したがって、凡海氏や海部氏のアマは、元々は海人と書くものであったことが推測される。
とすると、崇神天皇の妃であった大海媛の海も、本来は大海人媛と書くものであったのではないか。
しかし、大海人媛や海人部氏では字数が多くなるのと、まぎらわしいのとで、人の字が落ちたことが考えられる。 >>236
これらの系譜が書かれた平安時代頃から海の字をアマと読むようになり、その後、海(うみ)自体をアマと呼ぶようになったのではないか。 木簡での阿麻は、平城京では淡路国三原郡阿麻郷や
讃岐国三野郡阿麻郷が塩を調として納めている
藤原京、石神遺跡では人名らしき阿麻の字が書かれた木簡が出てる
尾張国知多郡に阿麻(字)地名がある >>238
ごくろうさん、阿波の阿麻だよ。 わはははは @阿波 >>237
なんで大海人皇子が平安時代なんだ。
バカか? >>236
なるほど。
これはもっともだ。
アマはもともと海人を意味していたが、表示からいつしか人が落ちて、海を意味するようになった。
これでワタとアマがまったく違う起源の言葉として両立していたことが説明できる。 >>238
平城京木簡の淡路国三原郡阿麻郷の阿麻は、海人(アマ)のことではないか。
天武天皇の即位前の名が大海人皇子だから、平城京から阿麻の字を書いた木簡が出てもおかしくない。
つまり、この平城京木簡の阿麻は、海(アマ)のことではないだろうな。 まあ、アメだかアマだかに天の意味を持たせたのが天武天皇であることはほぼ確実なので、それ以前はただのアマなんだろう。 つまり奈良時代はアマが一般的だったのであり、アメという読みがいつ成立したのかはわからないが、中世より遡れる史料はないわけだ。 >>241
ワタとアマがまったく違う起源の言葉というのは、同意。 白水郎は中国の地名が由来だから
アマも特定の地域の海人を呼んだのが広まった可能性はあるな >>248
>アマも特定の地域の海人を呼んだのが広まった可能性はあるな
だから、阿波なんだよ。 @阿波 忌部一族は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた、日本唯一無二の「祭祀族、海民族、産業・文化技術集団」なのである。 今日の結果としては、、、
阿毎の読み
中古音から学術的に推察される上古音はmɯ:sでIPA表記だとmuɝでカタカナだとムェ。
中古音は隋書から六種類の音が判明しており、カールグレン式はmuăiでムォイ、ワン式はmuɒiでムオイ、
ドン式はmuAiでムアイ、ジョウ式はmuƏiでムェイ、リー式はmuậiでムェイ、
チャン式はmiuƏiでミュェイ。
阿毎がアマの可能性 約14.3%、アミの可能性 約14.3%、アメの可能性 約42.9%、アモの可能性 約28.6%
古事記の脚注
訓高下天云阿麻下效此→高の下に来る天は阿麻と訓む、此れより下はそれに效らえ。
高の下に天が来る高天原はタカアマハラと読めと指定している。
つまり古事記編纂時にはタカアマハラ以外の天はアマとは読まなかったという事。
アマ派が根拠としてコピペ連投していた学研大漢和字典と古典基礎語辞典は民明書房刊の可能性が濃厚 >>252
>阿毎がアマの可能性 約14.3%、アミの可能性 約14.3%、アメの可能性 約42.9%、アモの可能性 約28.6%
根拠が不明
>つまり古事記編纂時にはタカアマハラ以外の天はアマとは読まなかったという事。
直前のくだりとつながらず、意味不明
>アマ派が根拠としてコピペ連投していた学研大漢和字典と古典基礎語辞典は民明書房刊の可能性が濃厚
意味不明
あなたは何か思想的な人なの?
もう少しフェアなまとめでないと、また紛糾するネタを追加しているだけですよ。 >>248
標準語化しやすいのは、都ないし都に近いところ。
3世紀半ば頃から都は奈良。
そうすると、奈良に近い海は河内。
河内の海人がアマ。
河内の海人がアマとすると、5世紀頃に馬飼いのためにやって来た満州人たちがその河内の海人を阿瑪(あま=父親・おやっさん)と呼んで、「それがええなあ」になった説。 >>255
>3世紀半ば頃から都は奈良。
根拠なし。
それとも、それは卑弥呼の死後に倭が東遷したとでも言いたいのかな? >>255
前々スレでさんざん批判されたのに、摂津を河内に変えて再登場? >>253
その通りです。
まったくその通りです。
まちがいありません。 >>209
するっと捏造すんのだめ。
原文
於高天原成神名、天之御中主神(訓高下天、云阿麻。下効此)
(高の下の天)は、高天原の天と天之御中主神の天。
なので、高天原の天、天之御中主神の天が(阿麻)。
そして、これらに続く天はみな(阿麻)と読めという意味。
天之はアメじゃなくてアマだよ、とことわっているの。
アマだよよ、アマ。 >>256
奈良が都になったのは、纏向に集まった各勢力が九州の邪馬台国を解体し、博多の鉄などの貴重材を独占して奈良に運び込むようになった時から。
つまり、奈良に集まった勢力が武力で北部九州にあった倭国を潰し、博多を制圧したの。
その纏向の連合政権は、まったく新しくできた連合政権であって、九州から東遷したものではないわけ。
それ以来、都は京都への遷都までずっと奈良にあったのよ。
まあ、一時的に天智が近江へ遷都したことはあるがね。 >>259
同意。
古事記は全文について天をアマと読むように求めています。 没落していた多氏(品治)も壬申の乱で天武についてるからな >>253
読解力がないの?上から順に読めば根拠不明なんて世迷い言出てこないと思うけど
> 阿毎の読み
> 中古音から学術的に推察される上古音はmɯ:sでIPA表記だとmuɝでカタカナだとムェ。
> 中古音は隋書から六種類の音が判明しており、カールグレン式はmuăiでムォイ、ワン式はmuɒiでムオイ、
> ドン式はmuAiでムアイ、ジョウ式はmuƏiでムェイ、リー式はmuậiでムェイ、
> チャン式はmiuƏiでミュェイ。
>
> 阿毎がアマの可能性 約14.3%、アミの可能性 約14.3%、アメの可能性 約42.9%、アモの可能性 約28.6%
>
>
> 古事記の脚注
> 訓高下天云阿麻下效此→高の下に来る天は阿麻と訓む、此れより下はそれに效らえ。
> 高の下に天が来る高天原はタカアマハラと読めと指定している。
>
> つまり古事記編纂時にはタカアマハラ以外の天はアマとは読まなかったという事。
>
>
> アマ派が根拠としてコピペ連投していた学研大漢和字典と古典基礎語辞典は民明書房刊の可能性が濃厚 まあ、海人(アマ)が弥生時代から原義であったが、天武朝において神格化を進めるために天(アメ)に読み替えていったのだろう。 >>259
読解力ないの?意図的に歪曲しなければ古事記 巻上-ニの冒頭の訓み下しと口語訳は以下の通り
【原文】
天地初發之時 於高天原 成神名 天之御中主神《訓高下天云阿麻下效此》
【訓み下し】
天地(アメツチ)初めに發(オ)こりたる[之]時(トキ)、
高天原(タカアマハラ)に於(オ)いて、成(ナ)りまし神(カミ)の名(ナ)、
天之御中主(アメノミナカヌシ)
《高(タカ)の下(シタ)なる「天」を訓(ヨ)み、阿麻(アマ)と云(イ)ふ 下(シタ)は此(コ)れに效(ナラ)ふ》
高(タカ) の 下(シタ) な る 「天」 を 訓(ヨ) み、 阿麻(アマ) と 云(イ) ふ 下(シタ) は 此(コ) れ に 效(ナラ) ふ
【口語訳】
天地が初めて発った時に、高天原に成った神の名は天之御中主(注:高に続く天はアマと読み、以下は此れに従う)
高に続く天はアマと読み、以下は此れに従う
高 に 続 く 天 は ア マ と 読 み 、 以 下 は 此 れ に 従 う
高+天の場合はアマと読む
高 + 天 の 場 合 は ア マ と 読 む >>267
逆、これだけ根拠が出てるのに何でウソつくの? 古事記はくどいほどへの高天原へのこだわりが特徴なので、アマツチ初めに起こりしときではなく、あえて高天原の方に読みを指定したかったのだろう。
しかし筆者としてはすべての天がアマのつもりだと思うよ。 天津神はアマでしょ?
天照はアマテル(またはアマテラス)でしょ?
高天原以外はすべてアメと読むと言う主張が誤りだと簡単にわかる。
こんなに簡単に反証が見つかるのに、なぜアメをゴリ押しするのか、教えてくれる? 天の原語がアメであった根拠
阿毎の古音には現在七つの解釈がなされており、五段母音に音階すればアメの確率が約50%であり、アマの確率は15%以下
古事記では編纂者によって高+天の場合のみアマと読むよう指定されている
日本書紀では天照大神の誕生以前にアマが付く神が存在しない
これまでなされた反論は個人的願望や独自解釈に終止しており、根拠を示せていない
唯一の文献根拠として提示された「学研大漢和字典」と「古典基礎語辞典」からの引用も虚偽である可能性が濃厚
アマ派のみなさん、もっと頑張れ >>271
天津神という語は古事記にも日本書紀にも存在しない歴史用語
そんなものを根拠にするの?
前スレから天照以前がアメ、以後がアマという議論なんだけど、経緯を知らずに首を突っ込むのは準備不足 ようは九州北部の先住アメ族が九州南部から勢力拡大していったアマ族に駆逐されたってことだろ。
そして歴史ごと奪い、略奪者である天皇家はアマに固執した。 >>274
安曇、住吉、宗像らが海人(アマ)だし、南九州が北九州を征服したなどという歴史はない。 筑紫にいた天孫族の中で、海幸と山幸が喧嘩をして、海幸が負けて逃げて行ったが、その海幸の末裔が隼人とされている。 追記
安曇、住吉、宗像は天孫族が筑紫に来るより前に成立したことになっている。 なら阿曇・住吉・宗像がアメで邪馬台国系統
隼人がアマで狗奴国系統なんじゃないの? 邪馬台国は筑紫でいいだろう。
隼人は投馬国だろうね。
狗奴国は本来はもっと邪馬台国と一体だったのだろうが、何らかの理由で不和となったのだろうと思う。 >>266
キナイコシは摂津阿曇の夢破れて敗走中だよ。 >>282
宮崎県妻の都万神社を投馬国と想定している。
宮崎から鹿児島の隼人の祖が海幸なら、投馬国が海幸の国となる。
山幸は、小舟に乗って綿津見の宮まで出かけて、海幸を追い出す方法を得た。
福岡から志賀島に渡ったのだろう。
この辺りは住吉や安曇など海人の領域でもあり、天孫族はその中で自由に行き来できる立場だったわけだ。 アメでもアマでも、どっちでもいいのではないかな。。。 @阿波 そもそもはアマという言葉の響きだけを頼りに海人族=天孫族とする論法への異議だからね 記紀を否定したくてたまらないキナイコシの屁理屈だろ。 >>272
確率の適用誤りなので主張は妥当でない、却下
part2より転載
98 :日本@名無史さん:2013/06/14(金) 11:16:37.40
宮本常一氏の研究によれば、三種類の海民が、瀬戸内海にみられるという。(「瀬戸内海文化の系譜」)
第一は、男女共漁をする海民で、北九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは宗像三神を信仰し、あわびや魚、海草を採取しながら移動する定着性の低い海民であった。
尼崎、海部などの地名が残っているのは、かれらの居住地と推定できる。
第二は、男漁女耕をする海民で、南九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは大山祇を信仰し、四国側を中心に定着し、後に村上水軍などの海上の武装勢力を形成した。
第三は、半農半漁をする定着民で、瀬戸内海に定着していた在来海民である。
かれらは、住吉の神を祀り、遠浅で磯漁の条件の良いところに居住した。
貝の採集に優れた技能をもっていたかれらは、あわびの採取、交易、製塩などに従事し、供御人などに任ぜられて朝廷との関係を結んだ。 >>291
まえに末盧は勝浦だって主張してたマヌケがいたが、戦後に養殖をはじめるまで福津〜宗像でアワビは自生してない
そして故人には申し訳ないが、常本氏は学位を持たない柳田國男信者の民間研究者でしかない
現在では評価の対象に値するとは言い難い 掲示板で学位がどうとか振り回して何の意味があるの? >>291
なるほど。
勉強になるな。
第二の大山積の海人は、三島の神、畿内においては鴨王の系統だね。
しかし大山積が綿津見の弟格であり、筑紫の日向の禊で生まれたのだから、これもやはり博多湾沿岸勢力だね。
第三の住吉の海人も、もちろん博多湾沿岸が起源だけれど、前二者より先に瀬戸内海を通過したという程度の話ではないか。
結局は摂津に落ち着いているし。
要するに、博多湾沿岸から西日本へ何波も植民が行われたが、時期が違うと祭る神も違うということだろう。 >>295
>博多湾沿岸から西日本へ何波も植民が行われたが、
うそ。 忌部の海人族以外、根拠なし。 @阿波 >>296
下請けの精肉屋さん&葬儀屋さんの話しは不要だよ
根拠だって昭和初期の趣味研究者や徳島大のキチガイ学者くらいしかないんでしょ >>295
>博多湾沿岸から西日本へ何波も植民が行われたが、
うそ。 忌部の海人族以外、博多湾沿岸海人族の痕跡 なし。 @阿波 西日本の文化集団は、いずれも玄界灘沿岸すなわち筑紫のアマの末裔だということだ。
もちろんこれにはアマ津神である天皇家も含まれる。
記紀において、天皇家の始まりは高アマ原またはアマ津国であるとされている。 >>299
>西日本の文化集団は、いずれも玄界灘沿岸すなわち筑紫のアマの末裔だということだ。
うそ。 忌部の海人族以外、玄界灘沿岸海人族の痕跡 なし。 @阿波 考古学では縄文後期に関東から和歌山西岸への移住し瀬戸内、四国との交流
弥生時代開始期の環濠集落周辺に東日本の石棒文化が流入してるな >>301
>考古学では縄文後期に関東から和歌山西岸への移住し瀬戸内、四国との交流
それは、水銀朱は勾玉などで、倭国(阿波)の「忌部はん」 と分かる。 @阿波 >>301
しかしそれらの痕跡は弥生時代の九州北部からの移民により塗りつぶされてしまう。 >>299
結論から言うと筑紫の海人集団がアメと名乗ってた原始集団で、天皇制はそれを駆逐したアマ集団 >>303
うそ。 忌部の海人族以外、九州北部からの移民の痕跡 なし。 @阿波 >>303
粛慎のおやっさん的一元史観だな
近畿地方は長江流域由来の環濠集落が多く作られるが
北部九州は朝鮮半島北部の空環壕がいくつか作られるくらいで
弥生後期にならないと環壕集落の数も増えない
中央に便所にほどよい大きな穴がある朝鮮半島の松菊里型住居は小郡から佐賀東部に密集する >>306
おそらくアマの台頭は弥生中期から後期の話だから、問題ない。 弥生中期に北部九州で盛行する甕棺墓は対馬、宗像、九州東部にも拡がらない
全羅南道では存続する >>306
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜
チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に
「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしているが、冗談は顔だけにすべきです。
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました。
一方、板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始しました。
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません。
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。
なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、炭化米出土に留まっており
朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です。
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが
現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています。
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと
1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです。
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、
朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です。
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません。
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます。
国際的視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、
むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます。 >>301
>考古学では縄文後期に関東から和歌山西岸への移住し瀬戸内、四国との交流
それは、水銀朱は勾玉などで、倭国(阿波)の「忌部はん」 と分かる。 @阿波 >>304
だから記紀で、記紀成立以前の歴史を語る馬鹿は 学問とは無縁のアマw
海神族というのも、所詮、記紀創作の都合で九州豪族の祖先が神ってことにしたんだろ?
日本の古代史ってのは、記紀ファンタジーの神が必要かよ? 韓半島最古の縄文遺跡はオクキョン遺跡であり、その推定年代は紀元前十一世紀。
倭国の縄文遺跡より遥かに古いことが証明されている。 >>308
>弥生中期に北部九州で盛行する甕棺墓は対馬、宗像、九州東部にも拡がらない
なぜ君が甕棺を持ち出すのかわからない。 弥生中期に北部九州で舶載品入れてるのは甕棺墓だから >>316
彼らの言い分では縄文文化の発祥地だから(笑) 朝鮮半島の中期無文土器時代の松菊里型文化が韓国が先か九州のどこか知らんが先かというのは
日本には関係ないので当該者間でやってくれ ヘドが出るほど口汚いが>>309が学術的には正解なのでこの話は終わり。 >>319
松菊里型文化なんてものは地球上に存在しない >>321
お前が知らないことは地球上には存在しないと思ってるのだろうが
韓国の考古学用語だから >>317
つまり甕棺墓に葬られていたのが倭王だということか。 縄文文化の担い手がオクキョン文明なのだから、当然のことながら海人族のルーツもオクキョンと見るのが妥当。
スレチどころか海人族の根幹に当たる重要な内容である。 >>323
たまごの親分でもチョナンカンでもなんでもいいが
北部九州では3世紀前にど没落した アマキチが消えたと思ったら今度はチョンキチの襲来かよ・・・
まともな議論ができるようになるのはいつのことやら >>314
なんかの間違い?
オクキョンは稲作遺跡だったような。
前11世紀と考えられている。
日本の縄文時代晩期に併行する時期ではあるが、最古ではないような。
なにせ、済州島では1万年前の遺跡があり、オクキョンと同じ蔚山では7600年前の遺跡がある。
いずれも九州縄文人系の遺跡とみる学者がいるくらいだね。 >>325
そして倭国大乱を経て筑紫において卑弥呼が共立された。 他のスレの動向見てれば、天=アマと主張していたのも朝鮮起源説を主張するのもほぼ同一人物と見て良い
個人的にはどちらも畿内説論者なのだろうと見てる >>299
西日本のそもそもの文化のベースは、南九州縄文人の北上で作られた。
弥生になってからも、西日本文化のベースは縄文系。
玄界灘沿岸がリードし始めるのは弥生前期末頃から。
青銅器と鉄器がその柱。
それでも沖縄産貝腕輪は南九州発祥。
弥生後期になって玄界灘沿岸の銅腕輪がようやく登場するが、その銅腕輪の形はもともとの沖縄産貝腕輪。
稲作と青銅器、鉄器だな、当初玄界灘がリードしたのは。 縄文文化を駆逐するのではなく、その上に重層するように玄界灘沿岸勢力つまり海神が弥生時代をリードしたわけですね。
弥生時代は玄界灘沿岸勢力による倭国創世の時代といってもいいでしょう。 >>332
>その上に重層するように玄界灘沿岸勢力つまり海神が弥生時代をリードしたわけですね。
うそ。 忌部の海人族以外、玄界灘沿岸勢力の痕跡 なし。 @阿波 【倭国】
弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭国が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことであるという説がある。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
連合国家である倭国の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は一貫して筑紫が独占していた。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 このように
玄界灘の離島民征服説が天=アマと主張している 根拠も出さずに同じことの繰り返ししかできないようだから「忌部」と「@阿波」はNG Wordに入れよう >>336
>根拠も出さずに同じことの繰り返ししかできないようだから
よく言うよw @阿波 >>335
アメでは何も説明できない。
すべてが8世紀以降の創作だと主張するのは、説明を放棄しているのと同じこと。 >>338
アマから何かを説明しようとするから妄想に走らざるを得なくなるんでしょうが・・・ オクキョン遺跡文化が倭の縄文文化の発祥なのは間違いないわけだから海人族は韓人であると言えよう。 >>335
離島とは言っても、沖ノ島あたりではないかと思う。
沖ノ島=高天原であれば、古代において長期にわたり畿内大和を含む国家的な祭祀が行われた理由が説明できる。
単に航路を守るだけであれば、関門海峡でも瀬戸内海でも同じ規模で祭祀が行われないと説明がつかない。
だからすぐに半島コンプレックスをむき出しにするのは止めるように。
アマテラスもまた他の海人と同様に筑紫の日向の生まれなのだから、韓人ではなく倭王に他ならない。 沖ノ島の漁師がまず北部九州を征服して日本列島を席巻したのかw 記紀は伝える。
筑紫の日向で多くの海人が生まれたが、アマテラスもスサノヲもツクヨミも、筑紫を離れてしまう。
筑紫に残ったのは阿曇の神、住吉の神らであったと。
しかしアマテラスは競争に勝利して、孫を倭王として再び筑紫の日向に送り込むことに成功した。
筑紫においては、考古学的には多くの氏族がひしめき合っていたことがわかっているが、その中で甕棺墓を持つ一族が天孫族なのかもしれない。
甕棺墓の中でも最も副葬品が豪華なのは伊都の王と王妃の墓である三雲南小路遺跡だろう。この遺跡は隣接する細石神社の祭神が木花咲耶姫であることから、木花咲耶姫と天孫ニニギの墓なのかもしれない。
ニニギの国見の言葉には、筑紫の日向の高千穂は日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。宮崎県では意味が通じないが、博多湾に面した高祖山なら地理的条件がピッタリだろう。
三雲南小路遺跡の天孫ニニギから始まり、三代の男王70〜80年の間、天孫族は伊都で栄えたが、倭国大乱で甕棺墓一族は没落した。
倭国大乱の後に、甕棺墓を持たない一族の女王墓が伊都に作られた。 >>314
倭王は縄文ではなく、弥生文化の担い手だから、半島のナントカ遺跡とは関係なさそうだね。
半島南岸にまでは到達していたことが後漢書や魏志倭人伝から明らかだが、あくまでも倭人の本拠地は筑紫の方だろう。 この伊都厨も糸島の土地勘がないので糸島とは関係ない人間なんだろうが
糸島人はいい迷惑だろうな 結論から言うと、筑紫の海人集団がアマと名乗ってた原始集団で、8世紀になり天武天皇(大海人皇子)のもとで天皇を神格化するためにアメ(天)と言い換えた。 煽りでも、事実に基づく内容なら役にたつのだけどね。
例えば
>>325
>>>323
>
>たまごの親分でもチョナンカンでもなんでもいいが
>北部九州では3世紀前にど没落した
天孫族の没落はまさしく神武東征のきっかけだろうし、代わりに筑後から抜擢された卑弥呼の共立につながるのだろう。
平原遺跡が甕棺墓ではなく木棺墓である理由も、天孫族の歴史書である記紀に卑弥呼が登場しない理由も説明できてしまうw 準構造船の基になってる丸木舟の出土は
南関東がもっとも多く、次いで近江
南西諸島は貝輪が多く北部九州に運ばれていることから
航海能力は高かったと考えられる >>346
しつこいぞキナイコシwww
逆だ!逆!
もう一回教えるぞ
逆だ!逆!
古事記がそれを証明している >>343
細石神社はネタな
三雲南小路遺跡と分けて考えないと伊都チョンコの妄想に引きずり込まれてしまう 玄界灘沿岸の考古学的に確認できる氏族と記紀などに記された氏族のする合わせでもできると面白いのだろうけれど、現在の歴史界では、神代どころか人皇さえも欠史八代はおろか仲哀や応神まで非実在にしようとしてしまっている。
それでは古代史は名無しの氏族と名無しの王の集まりだけになってしまう。 >>351
天武天皇が天皇制を整えて、遡って漢風諡号を与え、記紀をまとめさせた。
全ては天皇を神格化させるためであり、アマ(海人)をアメ(天)に言い換える動機としてふさわしい。
アメ(天)をわざわざアマ(海人)に言い換える理由は何もない。それでは皇祖の神格化に繋がらない。 今日はやたらと朝鮮ヒトモドキが日本史板で暴れまわってるな
朝鮮学校の授業で何か興奮するような妄想史でも教わったんだろうか? >>354
頭がオカシイんじゃないか?
全て逆だろ?
わざと笑わそうとしてやってんのか??? >>356
キナイコシや朝鮮系に何を説明しても無意味
彼らは論理的思考より自分が盲信するストーリーをしつこく書き続けてるだけ
かの国のことわざに「ウソでも百回言い続ければ事実になる」というのがあるらしい >>354
日本書記は独身の元正天皇、右大臣が藤原不比等、
左大臣物部石上麻呂が旧都の留守番にされた後死んだ後だろ >>359-360
貝塚にアワビの貝殻があったら鮑の磁性の証拠になるのかマヌケwww
だったら鯨の骨が大量に出土してる大森貝塚は東京湾に鯨が生息してる証拠になるのか無能www
お前は常に考察が浅いんだよゴミwww >>362
今の宗像市は結構デカいけん勘違いしとるんやろ。
古墳の分布から宗像氏族の領土は青柳川河口から釣川河口までと推測されとるし、魚介類の自生やら何やらは宗像JFに聞けば丁寧に教えてくれる。
俺の知ってる範囲でも鮑は戦後に養殖を始めるまで自生はしとらんかったと認識しとるばい。 >>361
見苦しすぎるww
>>357そのままだよ。無能で嘘つきでマヌケで常に考察の浅い自演ゴミ君。
知ってる範囲でって書くようになっただけ成長はしたみたいだけどね。 宗像の民が瀬戸内海でアワビなどを取っていたと書いてあるだけで、宗像にいる時からアワビを取っていたとは限らないだろ。
なんでそんなことで議論しているんだ?
またキナイコシが得意の揚げ足取りをしているのか? >>332
とにかく、海人の宗家は薩摩阿多族と憶えておこうね。 摂津を薩摩に言い換えただけ?
そんなに九州北部が怖いの? >>370
北部九州は、稲作渡来と金属器だけ。
海人は、薩摩阿多族が宗家。
書紀日向神話の里。
皇統のルーツ。 >>371
>北部九州は、稲作渡来と金属器だけ。
弥生文化の中核ですね。
あと、神武の生まれは、安曇や住吉らの海人と同じ筑紫の日向ですよ。
>>1
>イザナキ・イザナミから生まれた海神
>ワタツミ(古語で海はワタ、ワタツミ=海住み→アマスミ→アズミ)
>スミヨシ(古代はスミエ、スミエ=住み江→スミノエ→スミヨシ)
>出生地:筑紫日向小戸橘之檍原 >>367
相変わらずお前は思い込みの世界だけで生きている無様な朝鮮ヒトモドキ >>361お前はホント馬鹿だな
九州でワカメ海藻あればどこでもアワビはとれるぞ
対馬のアワビなんか大型で高額
東京湾に迷い混んだり追い込み漁で
取れた鯨もあって当たり前よ
お前もマキムクアキナイコシか? 朝鮮半島の金属器をもって北部九州に渡来しているのだが
篠田謙一のゲノム解析でも縄文時代に人がほとんど住んでいなかった
北部九州弥生人だけが現代韓国人にきわめて近い >>374
キナイコシ名物「妄想の押し付け」はお断り アワビは官がいない末盧國だけに書かれているが
黥面文身の倭の水人は魚、蛤を捕るを好むと書かれている 2000年後に最大のコリアンタウンが関西にあり
現在は首都東京周辺の関東に増えているが
遺伝子や遺物からすると弥生時代の北部九州が
日本列島の他の人たちと同じ言語を話していたとは考えられない
北部九州が最初のコリアンタウンと言っていいだろう
そして、没落した >>378
それは現生朝鮮人の話。
どういうわけか韓国は古代半島人の人骨の科学的調査を徹底的に拒んでいる。 >>380
そういう思いつきはチラシの裏に色鉛筆で書きなさい
人様に見せたいならもっと勉強して論理を構築できてから チョンコロの卑怯な部分だよな
半島に住んでたのは全部コリアンってことにする >>380
海人族は三種の神器を副葬する皇祖の一族だぞバカモン 海人が誕生した時の件は神道の祝詞に記録されている。
■ 祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに
禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち
諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば
祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと
恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす >>373が哀れすぎww
無能、マヌケ、常に考察の浅いゴミ、思い込みの世界だけで生きている無様な朝鮮ヒトモドキと言われ続けた人生なんだな。
嘘や自分の思い込みが正しいと平然と書き込み他を攻撃するのも仕方ないな。 現在の福岡の中心地は東証上場企業や九州各地からの人が住んでいるので
筑紫一元史観の人はほとんどいないが
どうしても旧炭坑付近などの廃墟地域は劣等感が強いので
関係ないくせに起源を欲しがる 半島南部から最近来た人は、民族習慣の連呼で半島の自分の先祖は
倭人であると主張している >>387
気持ち良くなってるところに悪いんだが祓戸の大神等は海人じゃないぞ >>392
住吉三神、綿津見三神(安曇)のことではないのか? ワイ宗像の地元民
天然アワビは玄界灘側にはおらんで全て養殖や
それまではアコヤ貝を食用にしとった
海流の影響らしい >>393
神直日神と大直日神が祓戸の大神。
綿津見と住吉のお兄さん。 穢れ自体が陰陽道と仏教の影響だろう
そんなに古い観念じゃない >>396
ケガレ思想はもっと古いし根深い。
忌部や武家、穢多・非人という身分の発生を見ても明らか。 >>396
根拠なしになんでも新しくするなよ、キナイコシ 日本人の思想の根底にケガレ思想があるから時代を超えてもソレを象徴する身分があるということだろ また >>394 偽宗像地元民が出たか
http://www.munakata-taisha.or.jp/infomation/singun09.pdf
お熨斗あげは知らんでも仕方ないとは思うけど宗像住民を騙るならまだまだ勉強してくれ。
確かに今はふくおか豊かな海づくり協会(旧福岡県栽培漁業センター)で養殖した稚貝放流や大島で中間養殖した鮑がほとんどとは思うけどね。
でも元々生息している環境でなければ放流しても住み着かんよな。
アコヤ貝は新宮の相島だ。うちの方じゃあんまり食べる話は聞かんよ。
昔はよく食べてたかどうかまでは知らんけど鮑の代わりに食べてたとかいう話は全く聞いたことは無いよ。 なんですぐバレる嘘を書きに出てくるのやら。
宗像って字が出たら落とさないかん仕事なんかね? >>407
ほんとそれ
宗像漁連に確認すりゃ鮑の自生なんてないのはすぐに分かることなのにね
畿内説信者たちは勝浦を末盧国にしないといけないから必死なんだろうけど >>410
なるほど!宗像に天然アワビが自生してる事にしたいのは末盧国の位置捏造ためだったのか。 畿内説は考古学者のほぼ通説だから、勝浦=末盧国はまずいないと思うぞ 横からだけど、沖ノ島くらいまで行けば岩礁に天然アワビくっついてるよ。
海女さんの活動範囲外だから宗像の貝塚で見つかるアワビは芦屋辺りのだろうけど。 大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。 @阿波 >>410
なんか勘違いしてるね。脊髄反射でレスしてるから仕方ないんだろうけどw
本当の宗像人なら小学校の社会科見学で栽培漁業センターに行ったことある人が殆どと思うけどねw
福間の人だとどうかは知らんし50歳以上とかだと行ったことない人の方が多いだろうけどね。
何であの位置に作られたかの説明もあるしな。
あと、広義の宗像エリア(遠賀川河口〜湊川河口)辺りまで鮑が獲れてたなら宗像では鮑は獲れていたと言うのは問題無いんじゃない? >>415
宗像氏族の領地と推定される地域の内、海人業を実施できる範囲に鮑は存在しないよ >>414
で、出たぁ〜www
九州三大インチキ神社の一つ『年毛神社』の社伝wwwww >>415
ネット情報丸写しやな(笑)
もっと上手に工作しないと丸バレだぞキナイコシ >>415
地ノ島のワカメが献上品、カジメの大島を考えるとアワビの餌だらけだよ >>421
猿芝居かな?
宗像沿岸の鮑は養殖しかないのは周知の事実 >>422
鮑が獲れないにもかかわらず神社や御上に献上する
鮑が獲れないにもかかわらず優れた加工技術で広範な地域にアワビを含めた潜水漁、加工品製造の指導や移住をする。
宗像の民って凄すぎる >>425
キナイコシ笑かさんで(笑)
何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョンおよびヅラチョン、海人族スレでは摂津チョンコ
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹き、様々なスレを逃げ回る
さらに突如として別キャラでネチネチと書き殴ることも少なくない
しばらくすると記憶喪失を発動させて懲りずに妄想を書きなぐるが、読解力に乏しく、
また思考に一貫性がないのでアルツハイマーの可能性が高い
朝鮮ヒトモドキ三種の神技
記憶喪失(論破されても半日で忘れる)
文盲病(前後の文脈や論の大局を読めない)
チョンコロ目(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) >>427
必死にググってて笑けるwww
宗像の海女業域にアワビはないって話を歪曲解釈するなよ無能 >>428
返礼品にアワビがあったの思い出したから見てみたら漁協が出してる「宗像産 天然活くろあわび」だったからね。
>>394が事実なら大問題だよなって思って載せただけよ。漁協も市も嘘書いて出品してたってなったらすごい騒ぎになるね。 >>429
頭の悪いキナイコシwwwwwwwwww >>419
大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。 @阿波 >>340
オクキョンじゃなくてオクヒョンな。
2004年に自分たちから最古ニダ〜と大々的にニュースにしたクセにナショジオから年代調査を申し込まれたら烈火のごとく拒否。
発掘が進んだ途端にダンマリを決め込み、2008年には埋め戻して放置。
江西省の洞窟遺跡で見つかった世界最古の土器と同じパターンをやる気満々なんだろうなって予言しとくわ。 無能、マヌケ、常に考察の浅いゴミ、思い込みの世界だけで生きている無様な朝鮮ヒトモドキと言われ続けた >>431
自分の思い込みや嘘が正しいと平然と書き込み他を攻撃するのも仕方ないけど、お前さんのその厚顔無ある意味羨ましいよ。
で、次の嘘はまだですか? >>436
>自分の思い込みや嘘が正しいと平然と書き込み
おいキナイコシよ
一度で良いから鏡を見てみろ
完全なるブーメラン自己紹介になってるぞ >>435
紛失したけど調査では1万8千年前で間違いない!って言い張ってるやつか(笑) >>437-439
ネタ切れか?また嘘書いてね。面白かった。 >>441
悔しさのあまり逃げ出すキナチョンコwww 大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。 @阿波 >>377が書いておられるように黥面文身の倭の水人は蛤を捕るのを好むと魏志倭人伝にはある。
蛤はハマグリだけを指すのではなく>>394が書かれたようにアコヤ貝を含む二枚貝のことだと思われる。
やはり現在もアワビやカキといった巻貝類が多く獲れる伊万里湾や唐津湾が末盧國にふさわしいのではないか?
少し調べたのだが、巻き貝の中でも一枚貝は湾内に生息しやすいらしく、宗像のアワビ養殖も人工の藻場ブロックで囲われた中で行われている。
やはり九州民の方々がおっしゃるように宗像に自生のアワビはないというのは間違いではないと感じる。 >>446
>伊万里湾や唐津湾が末盧國にふさわしいのではないか?
対馬海流に流されて、どんなマッチョでも、末盧国(伊万里湾や唐津湾)は有り得ない。 @阿波 >>446
まぁ宗像にアワビが自生してたかどうかに執着してるのは
邪馬台国への道程を近畿方面に向かわせたいキチガイだけの願望だからな 宗像にアワビは自生しとるニダー!は畿内パヨ
宗像にアワビは自生しとらんぜー!は九州ウヨ
歴史に思想を持ち込むなよ無能ども >>446
https://tizudesiru.exblog.jp/238872626/
湾なら釣川の入江と勝浦潟があるし、大島と地ノ島の存在で現在でも湾に近い地勢ではある。
>>423の例や海女の道具でアワビ〜〜と言った物が存在する以上( https://munahaku.jp/history/tools/maiden/ )自生したいなかったと考える方が無理がある。
ただし、海岸線は砂浜が多く磯場は波津〜鐘崎、神湊勝浦、渡半島周辺くらいしかないのでそんなに大量に居たとは考えづらい点は認める。
その結果、より良い漁場を求めるために各地へ散ったと考えられる。
あと、大島の中間養殖は3cmくらいになったら外に放流している。 >>448
大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。
対馬海流に流されて、どんなマッチョでも、末盧国(伊万里湾や唐津湾)は有り得ない。 @阿波 阿波説は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 反論ある人は、はい、どうぞ。 @阿波 >>450
上の方にも書かれてたが、遺跡分布から宗像氏族の沿岸領土は意外と狭くて、宗像大社の横を流れる釣川河口が北限とされてる
勝浦海岸も行けば分かるが、見渡す限りの砂浜で、岩場がないからアワビはおろか磯に生息する生物すらいない
まして魏志倭人伝ではアワビの素潜り漁を目撃してるわけだから、宗像ではないと言わざるを得ないのではないか?
神社への献上品は、遠洋漁業での収穫の可能性だって十分にあるわけだから根拠としては薄いし、リンク先の海人の道具だって、どう見ても近代の装備だし 宗像沿岸領土の南限は青柳川で向こう側の新宮は阿曇(or志珂)郷 宗像で海岸線にある山なんて標高100mの大峰山くらい(湯川山は現在は宗像市だけど、宗像氏族の領地ではない)
とても魏志倭人伝に残される「濱山海居」に当てはまる土地ではない 魏志倭人伝では、なぜ博多に上陸しないのか不思議だったが、宗像を見せたくなかったからかもしれないな。 >>453
弥生時代の勝浦潟は周辺地形を考えると岩場部分が多かった可能性が高く、勝浦浜は砂が堆積して渡半島が陸繋島になったからできた砂浜。
水深も10数メートルあるのでアワビの生息は問題無いでしょう。
道具に関しては展示してある物はそこまで古くは無いにしても養殖アワビの放流以降の昭和60年頃の物としては古すぎると思いますよ。名称はそれ以前からあった名前でしょう。
そもそもアワビが居ない地域として、他所に広まるほどのアワビの加工技術を持つことが可能なのか?という疑問は解消されません。
古賀の方?大根川を青柳川と言う人は珍しい。 >>457
ダイコン川河口は存在しないでしょうに・・・ >>458
どこに嘘があるのやら。推測部分の見解が分かれるのは仕方ないけどね。
あと、別にこの場で末盧国=旧宗像郡と認めて欲しいわけではないのでそこはお間違いなく。
ただ、判断材料とする物に対しての嘘は正さないとってだけですので。 宗像の海人が玄界灘沿岸を自由自在に行き来して漁をしていた可能性はある。
記紀のとおりなら、ある程度の制海権を持っていたわけだから。
まして、そのバックとなる天孫族は出雲まで制覇していたわけで、沿岸の遺跡の分布から決めつけるのは難しいでしょう。 >>460
知ってる。
今はどうか知らんけど線路のとこの河川名表示板は大根川ってなってたから古賀の川=大根川ってイメージでね。弘法大師の話もあるし。
高山の所から下流は花鶴川が正式だったみたいだから、古賀の人は花鶴川と呼ぶ人は居たけど知ってる範囲の古賀の人でも大根川と呼んでる人が多かったからちょっと気になった。 >>459
地質学的に見ても勝浦に岩場があった痕跡など皆無
なんでそんな見え透いたウソをつくの?
アワビの養殖が始まったのは昭和48年
なんでそんな見え透いたウソをつくの?
名称はそれ以前からあった→水中メガネが一般に普及したのは戦後です
なんでそんな見え透いたウソをつくの?
螺鈿加工はアコヤ貝でも可能、そもそも宗像の技術は素潜り漁でしょう
なんでそんな見え透いたウソをつくの?
ダイコン川は青柳川と合流して海に注ぎます
なんでそんな見え透いたウソをつくの? >>463
いつもの慌ててググった感丸出しだぞキナイコシwww ホラフキン
,へ
\/ ヽ ( )
_/*+*`、 ( )
<_______フ )
从 *`∀´> 〜
/゙゙゙lll`y─┛息を吐く様に嘘を言い
ノ. ノノ | 飯を食うが如くクソをすする
. `〜rrrrー′ これはキナチョンのことです
. |_i|_(_ 今も大根川の表示板だね
http://ur0.link/YrQF
>>464
@皆無と証明してくれ。長くなるし結局見解は別れるだけだろ。
A昭和48年に開始のソースは?昭和55年頃にアワビの放流をこれから本格化すると言ってたって記憶くらいしかこっちはない。
Bあわびかご、あわびおこしとかは無視?
C螺鈿加工ではなく、ノシアワビ等食品としての加工技術のことで書いてたんですけど。
Dはもう答えたね。 >>467
これ以上恥の上塗りとスレの無駄遣いはやめてくれ >>467
バカかよw
言い出しっぺが証明するのが筋だろマヌケ >>467
お前は>450と同一人物か?
だったら自生していたとしても僅かだったと認めたんだろ?
僅かしか捕れない物を「好捕魚鰒」とは書かないだろ?
言い負かされて悔しいだけなんだろうが、見苦しいから終わりにしろよ 縄文時代後期の宗像の貝塚からアワビが出てるなら
自生しない地形とまでは言えないだろうな
五島列島と沖縄にはアワビを副葬する共通した理葬習俗が見つかっている >>469
おかえり無能、マヌケ、常に考察の浅いゴミ、思い込みの世界だけで生きている無様な朝鮮ヒトモドキ君
>>470
そうだが、ちゃんと読もうね。わずかしか獲れないとは書いてない。大量には居たとは考えづらいと書いてるんだけどね。
全然居ないでも、「全く居ないと」「ほとんど居ない」では意味が変わって来るだろ。自分の都合の良いように解釈するのは勝手だけどね。 >>472
ん?お前がヒトモドキなんじゃなかったの? >>471
すでに上でも言及されているが、貝塚から出土したイコール自生してたとするのは乱暴ではないか?
沿岸の素潜り漁と遠洋漁、物々交換で得た食材を別けて捨てていたわけではないのだから。 >>473
幸い苗字的にも、あっちの血は入ってないみたいだね。 >>472
だーかーらー
魏志倭人伝に記されるほどメインで鰒は取れない環境なんでしょ?
それでこの話は終わりでしょ?
何をそんなに粘着してるんだか… >>476
うん、ガッツリ明記されてとるね。
宗像氏族の領土とされる範囲外やと。 >>477
単にアワビが獲れたか取れてないかってだけで魏志倭人伝は別に問題にしてない。
獲れない派が持ち出すからややこしくなっただけでね。なんでわざわざ持ち出したのか。
宗像でアワビが獲れるとなにがまずいのやら。 >>475
何でみんなに無能、マヌケ、常に考察の浅いゴミ、思い込みの世界だけで生きている無様な朝鮮ヒトモドキって罵られてるの?
鸚鵡返しで言い返すほど悔しいなら言われた時にちゃんと反論しなきゃダメだよ >>479
またチョンコの得意ワザ記憶喪失かよ
お前も本当に懲りないねぇ >>479
>宗像でアワビが獲れるとなにがまずいのやら。
宗像が末盧国になってしまうからだよ。 ワハハハハ @阿波 >>478
宗像の範囲がどこまでかの認識で変わるけどね。
鐘崎、大島、波津、志賀島だから志賀島以外は宗像の範疇と考えている人は否定派にも多いみたいだけどね。
益軒先生が書いてないあと4ヶ所はどこなんやろね。 宗像は末盧國ニダー
↓
違うぞキナイコシ
↓
証拠を出せニダー
↓
宗像氏族の居住範囲に岩礁はほとんどないからだぞ
↓
鐘崎ガー
↓
宗像氏族の居住範囲じゃないよね
↓
勝浦の干潟は岩礁だったニダー
↓
証明してごらん
↓
ぐぬぬ・・・
↓
多少は自生してたはずニダー
↓
だったら魏志倭人伝に好捕魚鰒とまで書かれないよね
↓
全く居ないとほとんど居ないは違うニダー
↓
だったら魏志倭人伝に好捕魚鰒とまで書かれないよね
↓
なんで魏志倭人伝のはなししてるニダか?訳わからんニダ〜
↑
イマココ 大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。 @阿波 大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。 @阿波 >>474
イコール自生ではないけれども
物々交換で得た可能性はどこでにも言える >>484
1行目から違うww
スタートは359な
渡、梅津の辺りはだれがどう見ても岩礁だろ、あと潟=干潟じゃ無いからね。 アワビ起こしは各地の遺跡で見つかってるから
現代よりも各地で捕れたんだろうが
アワビ貝を主体とした層は五島最北端の宮の首や千葉三浦の大浦山洞窟などで見つかってる
大浦山洞窟は倭人伝記載の卜骨も出ている >>490
頼むから現地行ってその目で確認してきてくれ
想像の話じゃいつまで経っても埒が明かん >>492
>現代よりも各地で捕れたんだろうが
でも、奈良盆地では捕れないわな。
>アワビ貝を主体とした層は五島最北端の宮の首や千葉三浦の大浦山洞窟などで見つかってる
>大浦山洞窟は倭人伝記載の卜骨も出ている
関東忌部の痕跡だね。 @阿波 >>495
今はね。 だけど祭祀自体は「忌部はん」 の専売特許だけどね。 @阿波 >>493
そのまま返すしかないわな。
20分くらいで行けるとは言ってもこの時間じゃ写真撮れんし、撮ってもいちゃもんつけるだけなのがわかるしな。 >>495
今はね。 だけど祭祀自体は「忌部はん」 の専売特許だけどね。 @阿波 宗像は末盧國ニダー
↓
違うぞキナイコシ
↓
証拠を出せニダー
↓
宗像氏族の居住範囲に岩礁はほとんどないからだぞ
↓
鐘崎ガー
↓
宗像氏族の居住範囲じゃないよね
↓
勝浦の干潟は岩礁だったニダー
↓
証明してごらん
↓
ぐぬぬ・・・
↓
多少は自生してたはずニダー
↓
だったら魏志倭人伝に好捕魚鰒とまで書かれないよね
↓
全く居ないとほとんど居ないは違うニダー
↓
だったら魏志倭人伝に好捕魚鰒とまで書かれないよね
↓
なんで魏志倭人伝のはなししてるニダか?訳わからんニダ〜
↓
現地に行ってこい
↓
写真撮りに行ったって文句言うに決まってるニダー
どうせウヨキチもチョンキチも主張を譲る気もなければ再考する度量もないんだから不毛な争いはやめろよ。 >>499
そもそもは >>359 の「戦後に養殖をはじめるまで福津〜宗像でアワビは自生してない」
これの正否なんだけどね。
これについては359が嘘書いたでOK? 訂正
>>292 が「戦後に養殖をはじめるまで福津〜宗像でアワビは自生してない」と嘘を書いた。好意的に言っても >>501
あんたは>>292を嘘つきだと思ってて良いし、>>292があんたを嘘つきだと思ってて良い
あんたら以外にはどうでも良いこと >>500
そもそもは末盧は勝浦だって主張してたマヌケの正否だろ
何でお前はいつもそうやって話をすり替えるんだ? >>503
すりかえようとしたのたのはお前さんだろ。
「戦後に養殖をはじめるまで福津〜宗像でアワビは自生してない」
これが論点なのに話を大きくしてごまかして。
無能、マヌケ、常に考察の浅いゴミ、思い込みの世界だけで生きている無様な朝鮮ヒトモドキの得意技だから仕方ないけどね。
嘘つかないと生きていけないんだろうし。 >>504
福岡在住を騙る無能朝鮮人は文盲だな。
>まえに末盧は勝浦だって主張してたマヌケがいたが、戦後に養殖をはじめるまで福津〜宗像でアワビは自生してない
前 提 は 「 末 盧 は 勝 浦 だ と す る 主 張 」 だ
そんだけ読解力もなけりゃ無能だ、マヌケだ、常に考察の浅いゴミだ、思い込みの世界だけで生きている無様な朝鮮ヒトモドキと罵られ続けて当然だろ
悔しかったら読書に励んで読解力を養えよ(大笑い) >>504
お前の称号に
「文盲」
が加わりました。
お前の現在のステータスは
「無能」
「マヌケ」
「常に考察が浅い」
「ゴミ」
「思い込みの世界だけで生きている」
「無様な朝鮮ヒトモドキ」
「文盲」
の7つです。 >>507
先に「話をすり替えようとして大変申し訳ございませんでした」だろ >>509
お前の称号に
「無作法」
が加わりました。
お前の現在のステータスは
「無能」
「マヌケ」
「常に考察が浅い」
「ゴミ」
「思い込みの世界だけで生きている」
「無様な朝鮮ヒトモドキ」
「文盲」
「無作法」
の8つです。 >>509
興奮し過ぎて安価先を未来にしてんじゃねぇよマヌケwww 間違えた。今回はマヌケだ。
>>508 >>509そのままだな >>507
で、じゃねーよ
過ちを改めて詫びるのが先だろウソツキ朝鮮人 半分以上が福岡チョンキチと福岡ウヨキチに占領されてるスレ 292 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2019/06/12(水) 15:03:00.98
まえに末盧は勝浦だって主張してたマヌケがいたが、戦後に養殖をはじめるまで福津〜宗像でアワビは自生してない
そして故人には申し訳ないが、常本氏は学位を持たない柳田國男信者の民間研究者でしかない
現在では評価の対象に値するとは言い難い
359 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2019/06/13(木) 01:51:49.96
>>292
また平然と嘘を書くww
https://munahaku.jp/wp-content/themes/munahaku/img/kiyou/vol03/pdf/137-148.pdf
考古学的に宗像が注目されるとそんなに困るのかな?
360 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2019/06/13(木) 01:58:42.02
勝浦に近い浜宮貝塚の資料もあるよ。
無能で嘘つきのマヌケ君はどう言い訳するのかな?
https://munahaku.jp/wp-content/uploads/2018/10/7250b9875b6bb7c0623dbc430f09589e.pdf
361 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2019/06/13(木) 02:28:53.03
>>359-360
貝塚にアワビの貝殻があったら鮑の磁性の証拠になるのかマヌケwww
だったら鯨の骨が大量に出土してる大森貝塚は東京湾に鯨が生息してる証拠になるのか無能www
お前は常に考察が浅いんだよゴミwww
この流れをどう読んだら、末盧は勝浦が争点と思えるのか。
福津〜宗像に天然アワビは居たかどうか…答えないってことは居たで問題は無いんだよね。 >>517
大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。 @阿波 >>361は>>359を全然読まずにレスしたってのは分かる >>520 穴から水吐いて意外と素早く動くけど鯨とか魚並ってわけにはいきませんわな。 >>516
海人といえば福岡だからしょうがない。
しかしそろそろ次の話題に行きたいなあ。 漁りする 海人の児どもと 人は言へど 見るに知らえぬ 良人の子と
漁をする海人の子だと言いますが、賤しからぬ良家の女性であることは一目見てわかります 本日の結論:縄文〜昭和中期まで宗像沿岸域には主要漁獲高になるほどのアワビはいませんでした。
地形的にも「濱山海居」と一致を見ませんので末盧國である可能性はほぼありません。
以上。 そりゃまあそうだ。
そうでないと伊都国がどうしようもなくなる。 官がいない、皆沈没して漁をしてるところを通ってるだけだからな >>525
ほぼと言って断言しない優しさがバカをつけ上がらせるんだよなぁ、、、 末盧の海人は舟で漁をしていない
末盧から不彌國までも海人が舟で案内していないということだな >>529
そもそも末盧に海人と呼べるほどの文化や集団がいたのだろうか 宗像に上陸したなら、沖ノ島の記述があったはず。
そもそも、伊都に行くなら那の津に上陸して日向峠を越えればいいのに、そうしなかったのは、沖ノ島をちらりとでも見せたくなかったのだろう。
志賀島の周辺の地形も、郡使に知られたくなかったかもしれない。
魏と友好関係を結ぶとは言っても、やはり警戒感はあったのだろうからね。 >>531
概ね同意できるが、末盧國(仮に松浦郡のどこか)に上陸する時に使った倭船で伊都國に向かうのが最も合理的。
何もわざわざグルリと奴國に回って陸路で行く必要なんてないと思われる。 日本書紀の日向神話の筑紫日向橘小戸檍原は、福岡県境の日向峠なんだって?
とすると、イザナギが禊した川は室見川の上流ということになるが、この川の河口は早良だから、那の津の博多じゃないし。
また、小戸のある十郎川の河口だと佐賀の今津湾ということになるから、やっぱ博多でにゃ〜わな。
そもそも筑紫の日向が日向峠のことだとはと〜て〜思えんから、イザナギの禊の海が那の津なんてファンタジー。
筑紫の日向は、薩摩・大隅なんだよ。 >>533
福岡県那珂川市仲が筑紫日向橘小戸檍原だよ >>532
最終目的地が奴国ではなく伊都国だからでしょう。 >>533
日向峠ではなく、高祖山の北の海側でしょう。
橘は岬を意味する立ち鼻だと言われています。
高祖山の周辺全体が日向なのです。
筑紫の日向の高千穂が高祖山、高祖神社が高千穂宮かもしれない。 >>536
伊都国が最終目的地???
何の話をしてるんだ? 宗形朝臣 大神朝臣同祖 吾田片隅命之後也 (右京)地祇
宗形君 大国主命六世孫 吾田片隅命之後也 (河内国)地祇 >>540
え?
海人=素潜り漁だよ?
倭人は素潜り漁をすると中国の歴史書に書かれているよね。 >>541
宗像の末裔が畿内にも住んでいたと。
住吉や安曇も畿内に進出していたし、畿内が筑紫の植民地であったことは間違いない。
もちろんその移動を担ったのは、海運を支配する海人族なわけだ。 >>544
>もちろんその移動を担ったのは、海運を支配する海人族なわけだ。
その海人族とは、「忌部はん」 。 @阿波 >>544
宗形氏は大国主命の子孫だから
玄海の粛慎おやじたちは違う名前だろう 海人の文化そのものが海人族が広めたものだという話が出ていなかったかな?
違いを説明したら? 石工は職業
その集団がフリーメイソン
海人は職業
その集団が海人族 >>535
安徳は仲の西隣りだにゃ。
現人神社の近くになるなあ。
奴国は住吉系か。 >>537
高祖神社側だと瑞梅寺川の上流だから、この川の河口は太郎丸。
今津湾の西詰になるから、笠沙岬は碁石鼻か。
どちらにしても今津湾がイザナギの禊の海ということになるな〜。 >>553
>どちらにしても今津湾がイザナギの禊の海ということになるな〜。
その今津湾に、イザナギの禊で生まれた神々を祀っているのかな? 倭国(阿波)の橘湾の「奥津三神」ように。 @阿波 しかし、日本書紀ではニニギが天降ったのは「日向の襲の高千穂峯」と書いてあるな。
高祖山の近くに(襲)らしきところあるん? 何が、ニギギだよ? 神話が歴史なのか?
歴史の話か?、ファンタジーなのか? はっきりさせてからが学問だなwww
なんで、学問にスサノオやアマテラスだよ? >>556
日向薩摩大隅説からすると、襲は小林市あたり〜霧島市あたりの地方名だから、何の問題もなくぴつたしかんかんだから。 >>557
>高千穂は剣山か〜。
違うよ。 イザナミが葬られている「高越山」。 @阿波 >>558
そんなところに何もない。
記紀の神代は、出雲を例外とすると、ほぼ博多湾沿岸の歴史なんだよ。 >>556
天孫族を甕棺墓の一族と比定するならば、それはファンタジーではなく歴史の問題となる。
ましてやこのスレのテーマである綿津見神や住吉神などの海人族は、ニニギよりさらに古い時代の話だ。
神代の話題が不満なら、どうぞ他のスレに行ってください。 >>555
ソの意味がわからないから、なんとも言えないですね。
字は当て字だろうし。 >>560
神武も空海もある。
イザナミも高千穂もあっておかしくないし、なあ〜んてな。
いっぱいあるぞ〜。
寄せ集め高千穂、それが高越山だよ〜ん。 >>563
ニニギは海神オオヤマツミに婿入りしたイマキノアマツミ。
どこにも、問題ない。 >>562
>他の九神も祀ってやれよ〜。
その九神は、今津湾に任せたいところだが、全くのお門違いのようだ。 そんな気配すらない。 @阿波 >>564
襲は「膂宍の空国」の膂(そ)に同じ。
背中の背、山の尾根のこと。 >>569
今津湾の諸君。
古事記十二神のうち九神は、君たちに任せられた。
祠作って祀ってやりたまえ。 >>572
しかし、今津湾付近は、なんとなく神社が少ないところだね。
糸島にかけての沿岸部も同様で、神社が少ない。
なんかの空白感が印象的。
やはり帥升の面土国か。 >>570
襲(そ)が背中の背(せ)であり、山の尾根のことだとすると、高祖山や日向峠のあるところは背振山をピークとする背振山地にあることから、高祖山のあたりを背(襲)とすることもできる。
しかし、(筑紫の日向の襲の高千穂)が日本書紀の記述であるので、襲は日向よりも狭い範囲を表していることになる。
背振山地の場合は、高祖山や日向峠あたりよりもずっと広い範囲に広がるため、表記とすれば(筑紫の襲の日向の高千穂)となるのが筋。
日本書紀とは逆の地理となる。
したがって、日向(高祖山)説は日本書紀の記述とは合わず、再考を要求される説ということがぴったりの筋違い説となる。 >>574
その「高祖山」 忌部の郷の「高越山」のパクリくさいね。 筑紫忌部の仕業か? @阿波 >>573
ヤフー地図でみたら今津湾あたりは神社が少なかったけど、別の地図でみると、結構鳥居印があるよ。
まあ、前言撤回だね。 禊の伝承がちゃんと残ってるのは那珂川の現人神社と西区の小戸神社だけ
今津湾は見当違い >>579
その「那珂川」 出雲(阿南沿岸部)の「那賀川」のパクリくさいね。 筑紫忌部の仕業か? @阿波 >>581
中臣氏も「忌部一族」のひとつ。 @阿波 ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 中央(橿原市忌部町)の忌部は天太玉命が祖で当初首(おびと)だから
蘇我氏の下で曽我玉作遺跡の原石産地(紀伊、安房、山陰)か北陸系
古語拾遺にみられる殺牛祭祀の新羅系渡来人を掌管したと思われる >>579
日本書紀を読むことができれば、誰にでも禊の伝承はできること。
なので、伝承があることをもって、そこが即記述の地であるとみなすことはできない。
やはり、この場合は、地理的整合性が必要。
那珂川も小戸も日向と襲が逆転してしまうので、無理。
(筑紫の日向の襲の高千穂)に合致しているのは、南九州の霧島連峰だけ。 >>585
蘇我氏も「忌部一族」のひとつ。 @阿波 忌部氏とは、物部氏衰退後に残党が名乗ったものでは? @阿波 本人が逆立ちしながら痛くも痒くもないって言ってるんだから相手せずに「@阿波」と「忌部」をNGワードに入れて触らないようにしようや。 >>589
>相手せずに「@阿波」と「忌部」をNGワードに入れて触らないようにしようや。
ハハハハハは。 どうしても、論破出来ないからかい? @阿波 >>586
「襲」の解釈はさまざまにできてしまうよな
自分はやはり北部九州支持だが、「襲」は「襲名」や「踏襲」と同じく、「繋がる」「連なる」「引き継ぐ」だと解釈し、
筑紫(=白日別)の日向(峠)の襲(=連なる)の高千穂(=高祖山)だと認識してる 加えて、日本書紀に最初に「日向国」が登場するのは巻三、神武紀であり、巻一、巻二の神代紀には存在していないという点も北部九州説を支持する要因 ふしぎ発見
今夜21:00から
シルクロードの親日国 青の都ウズベキスタン 喋るカラス 日本との知られざる交流の物語 黒柳徹子涙のわけ
おもしろそうだよ ちがうw
前スレで、シルクロード渡ってきたイラン人が秦氏だとか言ってた人いたから、Wikipediaとかに載ってない情報やるなら面白そうだなと思ったのw
一人で見ても説明できないし皆で見ようよって思ったのw
なんかごめんw >>600
いやちょっと突っ込みたかっただけやぞw
気にせんでくれ
そして録画で観るわ ナヴォイ劇場建設に参加した抑留日本人が称えられてる話なんじゃないのか >>602
多分そう
黒柳徹子はシベリア抑留者ネタに弱いからな >>594
筑紫の日向で生まれた海人についてのスレでよくそんなことが言えるよなぁ >>604
このスレで海人族と天孫族を同一視するのはキチガイキナイコシだけだぞぉ >>605
>>1
>イザナキ・イザナミから生まれた海神
>ワタツミ(古語で海はワタ、ワタツミ=海住み→アマスミ→アズミ)
>スミヨシ(古代はスミエ、スミエ=住み江→スミノエ→スミヨシ)
>出生地:筑紫日向小戸橘之檍原 アズミは、[アタ、アツ(暖かい、熱い)+ミ(水)]だろうね >>607
アスミはアマツミ(海の神)に由来するという説を支持したい。
それは安曇が奉斎する綿津見(海の神)と同じ意味だからだ。 >>603
親父さんが抑留されたけど
ヨーロッパで知名度が高いって理由で
3年で帰国できたんだよな
んで仲間を残してきたことを生涯悔やんでたんだんだよな アタ、アツ地名は
鹿児島、宮崎の吾田、愛知県の渥美半島、伊豆半島の熱海などの温泉が出る海岸地域
内陸の山形の温海川、長野の南安曇郡安曇村にも
焼岳や乗鞍岳といった火山に近いことから村の各地に温泉が存在する
縄文遺跡地域だな >>592
襲は、重ねる意。
襲衣は、服を重ねて着ること。
継ぐ意は、重ねることから生じた。
連なる意は辞書に見当たらんね。 >>612
みんな各々が読みたいようにしか読まない >>607
アズミは、安積と書くものも見られる。
これからすると、アズミは元々はアツミか。
ア+ツ(津)+ミ(神)=アの神。
住吉系では、このアは(現れる・在る)の(あ)だから、アの神とは(現れて在る神)というような意味か。 >>614
安積は信濃安曇がさらに北進してから名乗ったもの 「つ」が「の」の意味になるのは後の時代
本来の意味は「いる、ある」だよ
国津神(国にいる神)
天津神(天にいる神)
綿津見(海にいる神) >>616
それ別に
国の神
天の神
綿の神
でもいけるやん >>615
アヅミの読みは、ずっと一貫しているね。 >>618
安曇の読みは、元々はアド。
このアドは、住吉津守の(安人=アド)由来。
安曇と津守は同族。
このアドに漢字を当てたのが、安曇。
5世紀頃に朝廷の命でアド(安曇)氏が九州志賀のワタツミ(綿津見)を祀るようになったことから、アド(安曇)の氏にワタツミ(綿津見)を加上してア+ツミ(安曇)と名乗るようになった。
これが安曇(アヅミ)の読みの由来。 滋賀の安曇川は「あど」だな
万葉集でも「あど」と訓んでる >>622
おかえり摂津チョンコ
少しは勉強してきたんだろうな? >>622-623
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』 【即時】金券五百円分とすかいらーく券を即ゲット
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またウソツキ朝鮮人と罵られたくて帰ってきたのかよwww 宗形氏は大国主命の子孫の吾田片隅命の末裔
津守連は田裳見宿禰の子の豊吾団からで熱田神宮の火明命系尾張氏と同族
アズミは各地に地名が残るアタ、アツ(熱地名)+ミ(水)
雲は出雲の雲だな
アドはアタの変化か安曇の呉音読みだろう
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』 住吉神社のあるとこて海岸だったんだぜ
いまや内陸で面影ないけどな >>631
津守氏の氏神豊玉彦を(津守安必登神)、(津守安人神)と記す記録があり、これは現人神(あらひとがみ)と解釈されているようだ。
また別に、京都の賀茂神社の祭礼では(御阿礼神事)があり、この(あれ)は神が(現れること)とされている。
神が現れることを表す(あ)音が共通する音となっている。
現れることを意味する(現=あ)という言葉があったのかも知れない。
津守氏の安必登神の(あ)は、安曇(あづみ)氏の(あ)とつながっている可能性が高い。 「可能性が高い」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
などの主観的な判断の表現を禁止しよう。
テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになるだろう。
畿内説はほぼ想像の産物なのだ。
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
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庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
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なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』 >>641
阿礼(あれ)は安曇ではない神迎えの神事
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>643
阿礼のアと、安曇のアは同じ意味。
現れるのア。 >>645
安曇のアが御阿礼所のアだと
海神を表す語にならない >>647
アヅミもミアレも海神じゃないし。
海神はワタツミ。 海神は総称だよ。
豊玉彦もその一人だろうけど、全てではない。 みあれ祭は宗像の女神を迎える神事とされているけど、実は女神が連れていた天孫を迎える神事なのでは?
猿田彦が出迎えて筑紫日向に案内したとあるからね。
この猿田彦は福岡市早良区の猿田彦神社の主だから、奴国の末裔の一人だろう。
そして高天原とは、古来から国家的祭祀が行われてきた沖ノ島だということになる。
新たに倭王となった天孫を迎える行事がみあれ祭として伝わっているわけだ。
沖ノ島の説明で、抽象的な一般名詞で「神」が宿る島だとか呼ばれているけれど、宗像氏族が奉斎する神など、天照か天孫しかないではないか。
沖ノ島は、半島への海路を司る(支配する)神である天津神の本拠地として相応しい。
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>646
万葉集 巻2-116
但馬皇女の高市皇子の宮に在りし時にひそかに穂積皇子に接り、事既に形あらはれて御作りたまひし歌一種…
(あらはれて)とあるなあ。
万葉集て現代か? >>655
補正
上記の「事既に形あらはれて」は→「事既に形(あら)はれて」が正しい。 宗像大社のみあれ祭は田島放生会だから
魚殺してすまんかった祭だな >>657
原文
但馬皇女在高市皇子宮樋竊接穂積皇子事既形而御作〈歌〉一種
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. ワタツミのワタの語源が不明だな
ワダは湾曲した地形につけられているから
海というより湾や入江を指しているように思われる >>662
どこまで坂本太郎氏、家永三郎氏、井上光貞氏、大野晋氏を信用するかになるが、
岩波文庫刊の「日本書紀」では、巻一〜ニまでの海には全て「わたつみ」が読み仮名として当てられており、
巻三〜九までの海には「わた」が読み仮名として当てられている。(海辺=わたのほとり、海中=わたなか、海路=わたぢ、等)
巻十では海石=いくり、巻十一では海潮=うしお、南海=みなみのみち、巻二十二では泛海=ひろうみ、巻に十六では大海=おほうな、と読み仮名が振られている。
家永三郎・井上光貞の両氏は後の倭寇といった海賊集団が八幡(やわた)を名乗っていたことを根拠に海=わたと説いておられ
坂本太郎氏はインド・ヨーロッパ諸語の「水」=WOEDOR(ウワダー)が語源と説いておられる。
WOEDORはウォーターの語源でもある。 >>662
湾や入り江は、隈(くま)だろうな。
海をワタというのは、海のうねりを指したもの。
(うねりのあるところ)という意味でワタ=海の意味に発展した。 >>663
英語waterードイツ語wasserースウェーデン語vattenーポーランド語woda―ベラルーシ語―vadaーロシア語vody
スラブ語起源か。
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. 宗像と和邇が阿田賀田須でつながるのは、どんな関係?
和邇が朝鮮半島から渡来するときに、宗像の世話になったからか。
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. イザナギが禊をして日神などの神々を生んだのが南九州薩摩の阿多だと日本書紀は書き、また日神の子孫のニニギが薩摩吾田に行くために襲の高千穂に降臨したと日本書紀が書いて、
二度にわたって薩摩阿多を集中的に書いたのは、そもそもが大和の政権をつくった勢力が阿多を宗家とする南方系海人勢力だったからにほかならん。
つまり、日本書紀の日向神話は海人たちの皇統系図だということなのだ。
博多あたりの勢力がその皇統のルーツだとするのは、まじ誤り。
博多の勢力は、薩摩宗家の分家筋の海人勢力で、弥生になってから頭角を現した。
しかしその後、大和の政権に至るまでの海人政権の宗教的威信はゴホウラ貝腕輪に集約されており、ゴホウラ貝のそもそもの発祥は薩摩宗家にあった。
一時博多分家が勝手に青銅製のゴホウラ貝腕輪形の腕輪を作って広めたが、古墳時代に入ると再びゴホウラ貝腕輪が復活して、薩摩宗家に依然として宗教的威信のあることが示された。
そうした政権の正統性を示したのが日本書紀の日向神話であることは、先に示した。
要は、博多は薩摩の分家に過ぎんということなのだよ。 三種の神器を副葬する習慣は博多湾沿岸に特有なので、筑紫の日向とは博多湾沿岸のこと。
これは考古学的にわかる話。
宮崎県は隼人の祖である海幸彦の落ち延びた先だろうね。
魏志倭人伝における投馬国にあたる。
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>674
>これは考古学的にわかる話。
まことにお粗末な考古学だね。 わはははは @阿波
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>674
勾玉と石剣は縄文時代からあるもので、弥生になってから北部九州でこれらがガラス製、青銅製のものに変わった。
博多独自の威信財としては鏡だけ。
貝腕輪も縄文からあり、博多は弥生後期に貝腕輪を捨てて青銅製のものに変えた。
なので、博多のものは舶載の鏡だけということになる。
しかも、鏡を副葬する宗教的慣例は、すでに中国で発祥していたものなので、博多独自のものとは言えない。
つまり、三種の神器が博多で発祥したわけではないということだわな〜。 >>674
倭人伝の投馬国は、日本書紀の吾田。
この吾田(投馬国)から東の宮崎へ移ったのが、日下部。 >>678
博多においてそれらの組み合わせが様式として成立した。 福岡から宮崎へ、福岡から奈良へ、それぞれ別ルート。
どちらも起源が同じなので似ているから混同しているだけ。 >>680
>博多においてそれらの組み合わせが様式として成立した。
それが博多説の根拠かね? 実にお恥ずかしいレベルだね。 @阿波
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>396
し〜かし、倭人伝には、倭人が親族の葬儀の喪明けにそろって水に入って身を洗うと書かれているし。
中国の沐浴のごとしとかなんとか。
倭人伝は3世紀だからな〜。 >>680
三種の神器の組み合わせがみられる最初の墳墓だとして知られる吉武高木遺跡3号木棺墓だが、実はそうでもないようだ。
そこに副葬されていたのは、銅剣、銅矛、銅戈、銅鏡、勾玉、管玉の6点セット。
三種にまで絞り込まれていないのよ。
それに、これらは棺に副葬されていた葬送儀礼の品であって、政治的な意味合いを持つ三種の神器ではない。
三種の神器の有り様としては、日本書紀の景行天皇紀などにみられるように、榊に剣、鏡、勾玉を取り付けるもの。
葬送儀礼の副葬品とは異なる用い方となっている。
残念だけど、吉武高木遺跡の木棺へ副葬品は、まだまだ三種の神器にまで絞り込まれたものではないね。 吉武高木遺跡ではその通り。
しかし平原遺跡では、宝飾品の中に刀を一振りだけ加えて形式を整えており、3種の神器の様式が完成している。
続く4世紀の景行天皇においては、神夏磯姫により明確に権威の象徴として用いられている。 >>686
>3種の神器の様式が完成している。
それが博多説の根拠かね? 実にお恥ずかしいレベルだね。 @阿波 >>684
十餘日喪にとどまって肉を食さず、
その間澡浴も物忌してるのだろう
続けて記載の持衰は、頭を梳らず、蟣蝨を去らず、衣服は垢汚し、
肉を食らわず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむとある
墓も居住地のすぐ隣に作っている(吉野ヶ里は環壕内で、墓の上に住居を建てている) >>688
持衰については、例えば柔道の大会に向けて柔道着を洗わなかったり、髭剃らなかったりするのと同じで、これは一種の験担ぎ。
住居と墓については、現在でも普通に墓地に隣接して住居があるので、弥生も現在も何も変わらない。
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そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>689
持衰は喪人の如し、喪中は験担ぎとは違う
現代は、墓が先にあって近隣が宅地開発され、墓が郊外に移っている なんで四国の道後温泉へ一番最初に景行天皇(12代)が行幸したのだろうか?
なんで畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、四国よりずっと遅れたのだろうか?
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。 >>686
平原遺跡1号墳では銅鏡、太刀のほかにガラス製の勾玉、管玉、丸玉が副葬されていた。
鏡と太刀はいいとしても、勾玉に絞り切れていないようだし、玉類がガラス製というのも方向が異質。
また、耳飾りまで副葬されている。
この平原のケースをもって三種の神器の様式が完成したとは言い難い。
先も言ったように、これらは死者とともに副葬される葬送儀礼品であって、集団の最高位者がその権威を神から授かっていることを示すために身近に備える神器とは性格が異なる。
だからこそ、三種に限らず三種以外のものも副葬されることになる。
墳墓の副葬品に三種の神器の確立を求めるのは、筋が違うと思われる。
三種の神器の確立は副葬品ではなく、別の道筋からその成立が考えられるべきだと思う。 安曇氏。
、、、海部(海家、海カゴヤマ〜)の分家だそうです。
宗像(胸肩)。
、、、出雲王国第六代オオナモチ(主王)の御子(親王)のカタアタスが豊国宇佐王家(月神を信奉する)と婚姻(形は出雲王家の分家。実質的には宇佐王家に入婿)して建てた王家。
カタアタスさまの三人の娘がいわゆる宗像三女神 >>693
勾玉。
、、、出雲王国の王族、ならびに姻戚の豪族らが特権階級の者(=出雲神族)である証として
常に勾玉を身に付ける事が定められていた。
反対に勾玉を身に付けていないと出雲神族/特権階級とは見なされなかったようです
現代で例えると弁護士や国会議員等がその身分を証するバッヂをつけるようなもの。 >>696
命がけの渡海までして、平地の道後温泉へ? そんなに平地がお好きとは驚いたwww @阿波 なんで四国の道後温泉へ一番最初に景行天皇(12代)が行幸したのだろうか?
なんで畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、四国よりずっと遅れたのだろうか?
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。 山峡の源泉から湯を引くのが難しい時代に
平地なら穴掘れば出るから >>699
それで、命がけの渡海までして、平地の道後温泉へ? そんなに平地がお好きとは驚いたwww @阿波 >>699
お宅はどの海を渡って道後のお湯へ? @阿波 景行天皇が道後温泉に立ち寄ったというのは伊予国風土記逸文?
日本書紀は7世紀の舒明天皇からかな
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. 『日本書紀』や伊佐爾波神社(八幡宮)の社伝などによると、
厩戸皇子(聖徳太子)だけでなく、景行天皇・仲哀天皇・神功皇后・舒明天皇・斉明天皇(皇極天皇)・中大兄皇子(後の天智天皇)・大海人王子(後の天武天皇)
など多くの皇族方が病気療養のため四国の道後温泉に行幸、来湯している。
それは取りも直さず、道後温泉が倭国王都(阿波)と同じ四国に在り、湯治場として近かったからに他ならない。 @阿波
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%8C%E6%B8%A9%E6%B3%89 >>705
日本書紀の編纂者が温泉好きだったということにすぎないな。
それで、筆が滑った。 >>702
風土記はあまり厳密ではないらしいからな。 >>694
海部ー尾張ー津守(安曇)のトライアングルだね。
アタカタスの素性がよく分からんのよね。 >>707
>風土記はあまり厳密ではないらしいからな。
あまり厳密でなくとも、少なくとも。ウソを書く必要はまったくない。 ウソ八百を書けば天皇さんに怒られちゃうだろ? @阿波 >>710
もっとも、天地初発より記された風土記は阿波国風土記のみ、だがね。 後は推して知るべし。 @阿波 伊予国風土記の逸文だから鎌倉時代後期の釈日本紀だな
愛媛県では、
「さて、説話の後半部分にあたる天皇・皇后らの来浴については
第一章第三節を参照していただきたい。
ただ、そこで五度におよぶ天皇・皇后の来浴のなかで
舒明・斉明天皇の二回については史実として確認できる。
しかし、残り三回の来浴は疑問であろう。
このような事実でない部分はもとより『風土記』編者の創作・潤色によったものであるが、
その場合でも伊予国が大和朝廷の対外的拠点であったことを反映したものと考えられる。」としている
賢明な判断である
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>712
>このような事実でない部分はもとより『風土記』編者の創作・潤色によったものであるが
あまり厳密でなくとも、少なくとも、 ウソを書く必要はまったくない。 ウソ八百を書けば天皇さんに怒られちゃうだろ? @阿波
第34代舒明天皇は、四国道後温泉と播磨有馬温泉。
第35代斉明天皇も、四国道後温泉と紀州白浜温泉の両方に行幸している。
しかし、それ以前の天皇は、四国道後温泉だけしか行幸していない。
このことから、第34代舒明天皇の御代頃から 、倭国(阿波)から奈良大和への王都進出の関心が高まったとみられる。 @阿波
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. 風土記(出雲以外)では地名の由来のほとんどが天皇の巡行と結びつけられており
道後温泉の来浴も創作だけれども
卜骨や吉備型甕の分布からも伊予が瀬戸内海上交通の要所であったことは間違いない >>716
>道後温泉の来浴も創作だけれども
あまり厳密でなくとも、少なくとも、 ウソを書く必要はまったくない。 ウソ八百を書けば天皇さんに怒られちゃうだろ? @阿波
>卜骨や吉備型甕の分布からも伊予が瀬戸内海上交通の要所であったことは間違いない
倭国(阿波)に近いからね。 当然だね。 @阿波
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>716
どうしてあれもこれも創作と決めつけるの? >>191
それまでアマ発音の言葉は天(あま)だけだったのが、海人も(あま)と呼ぶようになってきたために、同じなのを避けて、天(あま)方が「んじゃ、わいはアメね」と自ら変えたというのが真相。 >>719
巡行した天皇側の日本書記に書かれていないから
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>722
省略しただけかもされない。
そもそも中国の史書には、先祖の頃から甲冑を被り自ら出陣して云々とあるが、それほど沢山の記録はなく、細かい巡幸は記載しなかったと考えるべきである。
現代でも、天皇の事績に細かい巡幸を書かなくても、現地では何年に御巡幸などと書いた記念碑を建てて写真など飾っていることが普通である。 >>724
伊予国風土記の逸文は鎌倉時代後期に卜部兼方が書いた日本書紀の注釈書である釈日本紀
平安時代に吉田社系と分かれた平野社系卜部家に伝わる家学にだけ
道後温泉の景行天皇の来浴が書かれているということ 伊予国風土記逸文では大山祇神は別名和多志大神と称し
仁徳天皇の御世に百済から渡来した神
大山祇神社は伊予国一宮、伊豆国一宮三嶋大社も大山祇命 >>728
>大山祇神社は伊予国一宮、伊豆国一宮三嶋大社も大山祇命
いずれも、忌部一族の海人族。 @阿波 >>722
景行は防府あたりから周防灘越えて宇佐渡ってるからなあ。
防府へ着く前に、松山に立ち寄ってひと風呂浴びたというコトにしたんじゃね。
ちょっとおいでませ、とかなんとかね。 >>730
>景行は防府あたりから
「防府あたりから」 という根拠は? @阿波 神祇大副及び神祇少副の卜部家(平野社系)には
日本書記とは違って、伊予国風土記に大山積神は仁徳期に百済国から渡来した神で
その4代前の景行天皇夫婦がひと風呂浴びに来たと書いてある
と伝わってるということだろ >>731
景行紀
八月に筑紫に幸す。
九月に周芳の婆麼に到りたまふ。
防府市佐波か。和名抄に周防国佐波郡佐波郷あり。 >>733
>八月に筑紫に幸す。
>九月に周芳の婆麼に到りたまふ。
八月に筑紫(福岡?)
九月に周芳(山口?)
順序、逆では? いったい、どこからどこへ行こうとしてるの? 景行天皇は。
それ、福岡や山口じゃないんじゃないの? @阿波 八月乙未朔己酉、幸筑紫
は筑紫(福岡) に到着したんじゃないよw >>734
景行は大和にいて、熊襲が背いたことから、鎮圧のために八月に筑紫に向けて出発。
そして、九月に周防に着いた。
これは日本書紀の記述。
景行が道後温泉でひと風呂浴びたと伊予国風土記が書いたのは、このときの景行の途中の立ち寄りを想定したのではにゃ〜のか、というわけ。
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>736
>景行は大和にいて
大和なんかにはいないよ。 倭国(阿波)。
>熊襲が背いたことから、鎮圧のために八月に筑紫に向けて出発。
>そして、九月に周防に着いた。
中国の三国(魏・蜀・呉)ならいざ知らず、景行の時代に大軍を率いて西日本一帯を戦い歩くことなど不可能。 あまりにも兵站を無視しすぎ。
これは景行天皇による、阿波南部地方の平定譚。
>これは日本書紀の記述。
日本書紀も、倭国(阿波)を記述したもの。 こんなことを言い切れるのは、倭国(阿波)だから。 @阿波
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>739
なんでも寄せ集め主義。
ミニミニ版で歴史つくるといいし。
3世紀中頃に大和から博多まで遠征してるくらいだから、4世紀頃の景行熊襲征討話はOK。
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>741
>3世紀中頃に大和から博多まで遠征してるくらいだから
考古学的根拠まったくなし。 妄想のかたまり。
中国の三国(魏・蜀・呉)ならいざ知らず、景行の時代に大軍を率いて西日本一帯を戦い歩くことなど不可能。 あまりにも兵站を無視しすぎ。
典型的な、思慮不足。 @阿波 >>744
これは、考古学的事実と歴史書の記述に立脚したごく普通の歴史推定だよ。
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>745
真の日本の古代史に到達しようと思えば、この歴史推定に立たない限り駄目。
ここに立脚すれば、夏また涼し、田の蛙。
結構毛だらけ猫も糞ひる田んぼのあぜ道なのだ。 >>748
妄想で塗り固められた嘘の歴史はいらない。 3世紀中頃に起こったのは、大軍団が大和から博多へと遠征するような大軍事行為ではなかっただろうな。
だから、膨大な軍需物資の補給は必要なかった。
おそらく、出雲型の恫喝を行うために少ない兵力とともに交渉団が博多に行ったのだろう。
博多は、出雲が大和の恫喝によって既に博多との同盟から離脱したことを知っていたから、博多は大和の要求を飲むよりはなかった。
そして、大和の要求は博多が輸入した貴重材はすべて大和が独占的に買い上げることだったので、それは自由販売権を失うものだったが、恫喝にはやむを得なかったのだ。
一方、大和はこの少数の兵員の一部を割いて、狗奴国の侵攻を避けて八女あたりに避難していた高齢の倭国女王卑弥呼を背後から襲撃させた。
卑弥呼の謎の死の真相は、大和の兵員による暗殺だった。
なお、この直前の狗奴国の邪馬台国への侵攻は、大和と結託した軍事攻撃だった。
この狗奴国を後押ししたのが、薩摩の海人宗家の阿多族であった。
薩摩の海人宗家は大和と連携して、はやくから分家博多を見限っていたのだ。
これが、3世紀中頃に起こった倭の歴史の大転換の真相なのだ。
これ以降、博多から独占入手した輸入貴重材を資本として、大和は順調に発展して4百年ほどのちにはついに律令制の国家を立ち上げるまでになったのだよ。
これが、歴史の真相なのだ。
わははははは。 >>751
ははははは、 ヤケはイカンぜよ。 @阿波 【倭国】
弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭国が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことであるという説がある。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
連合国家である倭国の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は一貫して筑紫が独占していた。
卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか? @阿波 なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
さあ、お得意の妄想を炸裂しよう、九州説。 @阿波 >>756
そんなの超簡単♪
例えば、有馬温泉ファンだった舒明天皇の場合、なんと86日も滞在したマニア。
近場の温泉ですらこんなに長い逗留になる。
大臣など引き連れてだから、一種の都の移転に近い。
たが、近場だからまあ、問題ない。
しかし、九州にまで行った日には、一年近くも都を空にすることになる。
都で何かあっても、使者は九州のいで湯にすぐに行けるわけではないので、問題の処理ができなくなる。
というわけで、温泉に入るために遷都しなければならなくなるわけ。
遠場の九州や東北の温泉に天皇が行けるようになるのは、無線ができてすぐ連絡がつくようになってから、というのが歴史の真実なのよ♪
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>757
なんで近場の畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、四国の道後温泉よりずっと遅れたのだろうか?
さあ、お得意の妄想を炸裂しよう、畿内説。 @阿波 なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
さあ、お得意の妄想を炸裂しよう、九州説。 @阿波 >>759
道後温泉は、まあ伊予国風土記だからね♪
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. まあ、このスレの肝は、九州や日本海、瀬戸内海、尾張・東海までの海人たちのルーツは薩摩阿多族ということだな。
そして、その薩摩阿多族縄文草創期から縄文早期末までに各地へ北上拡散して定着したのが、上記海人たちの根拠地というわけだな。
だから、2世紀後半に奈良の纏向に結集した近畿、北陸、東海、播磨・吉備などの勢力は、みなこの薩摩阿多を宗家とする海人勢力だったわけ。
その海人勢力が3世紀中頃に北部九州の博多など玄界灘の海人勢力を支配下に置いたのだが、この博多などの海人たちももともと同族であって、この勢力争いは一つの海人勢力の同族間抗争だったと考えるのがよい。
その抗争の際に、北部九州の海人勢力の連合体であった倭国の盟主であった筑後の邪馬台国が攻められて卑弥呼は闇に葬られ、倭国は実質的に解体し、北部九州は奈良纏向の連合勢力の傘下に入ったということ。
要するに、この3世紀中頃を歴史の分水嶺とする倭人の戦いは、実はひとつの海人族の内部抗争だったということなのだ。
そして、この抗争の結果成立した奈良の纏向連合政権は最初の広域海人政権となったのだが、それが歴史の真相なんよ。
最初の広域海人政権だな。
かっかっかっか。 伊予国風土記の逸文では、
出雲の大穴持命と少彦名命が伊予に旅した時に
少彦名命が急病になり、大国主命が速見から海底に管を通して道後に引き
小彦名命を手のひらに載せて温泉に浸し温めたところたちまち元気を取り戻した
だから、まず大穴持命が大分から温泉を引いて少彦名命がひと風呂浴び
後に景行天皇夫婦がひと風呂浴び、
4代後の仁徳天皇のときに大山積神が百済から渡来した
これが伊予国風土記逸文
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>765
この出雲は、出雲国(島根県)のことじゃ、ないから。 勘違いしないようにね。 @阿波
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. 薩摩にも伊予にも、九州北部のような遺跡が出ないのだが?
.
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さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>772
墓? 墓なんてどこにもあるしwww @阿波 >>773
そう、だから遺跡々々と言っても、墓ならどこにでもあるし、と。
副葬品がちょっと豪華か、そうでもないかの差だけ♪ 王たる者の証があるかどうかは大事だよ。
威信財、特に鏡などの三種の神器は九州北部に集中している。 裕福だったから鏡が買えた。
しかし、鏡が買えたことと、王位があつたこととは、別だにゃあ。 鏡は買うのではなく、漢との朝貢貿易の結果だよ。
つまり倭王である証でもある。
冊封体制に組み込まれていない南九州は、蛮族の地。
皇祖は筑紫の倭王だよ。 >>777
>皇祖は筑紫の倭王だよ。
「丹」の採れない筑紫に、倭王など居る訳がない。 @阿波 >>777
女王卑弥呼が魏皇帝から鏡を贈られたのと、博多の商人が普通に魏の商人から中古銅鏡を買ったのとは、根本的に異なる。
舶載中古銅鏡の99.99%が海外の古物商からの購入。
そもそも新品の銅鏡なんか倭国に入ってこなかった。
おそらく、盗掘した中古流れの古物商い品だったはず。 >>779
根拠のない妄想だね。
倭は前漢の頃から時季を違えることなく朝貢したとあるから、
数ある前漢鏡と後漢鏡は倭王に対して与えられたものだろう。
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そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
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庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. 「若杉山遺跡 国史跡に」 令和元年 6月22日(土) 徳島新聞朝刊
「辰砂採掘法の解明評価」
弥生時代後期から古墳時代前期に赤色顔料「水銀朱」の原料となった辰砂の採掘が行われた阿南市水井町の若杉山辰砂採掘遺跡が、国史跡に指定される。
国の文化審議会が21日、柴山昌彦文部科学相に答申した。
水銀朱は葬送儀礼などに用いられ、古代の西日本地域で重用された。
文化審は、原料の採掘方法が判明した全国唯一の遺跡として、歴史的価値が高いと評価している。
県内の国史跡は12か所になる。
指定されるのは、那賀川支流の若杉谷川の西側山腹斜面約1.2ヘクタール。
横穴状に岩盤を掘り進めた採掘抗跡と露天掘り跡の2か所の採掘場所が確認されている。
採掘抗跡は弥生時代後期に採掘が始まり、国内最古とされている。
採掘時に出た排石のほか、原石を砕いた石杵などの石器も見つかり、遺跡内で不要鉱物を取り除いて粉末にしていたことが分かっている。
また、石杵に香川県東部で産出する硬質の石が含まれることなどから、広範囲から辰砂を求めて人々が来ていた可能性が指摘されている。
遺跡は第2次世界大戦中に行われた水銀探索の最中に発見され、1969年に市史跡に指定。
市と県教委が2017〜18年度に行った発掘調査で2か所の採掘場所跡などを確認し、古代の採掘方法を解明した。
国史跡指定に当たり、遺跡の名称は従来の若杉山遺跡から若杉山辰砂採掘遺跡に変更される。
.
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さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>780
倭人で最初の朝貢は、漢時代の奴国。
それ以前は、楽浪郡への挨拶。
前漢皇帝から鏡が授けられたというのは、単なる推測にすぎん。
朝鮮半島に進出していた中国人の商人にしたら、倭人は中古骨董鏡などのいいお得意さんだったろうな。 最初の朝貢は周の時代。
前巻の頃はもう「楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」とある。
後にこの100国が30国に減ったと書かれる。
前漢鏡が国内から多数出土するから間違いない。 >>786
その前漢鏡が皇帝から下賜されたものだという証拠はない。
むしろ、倭人の墓に副葬された鏡は、中国商人から商い品として購入した可能性のほうが高い。
楽浪郡の役人はそのような倭人の鏡嗜好について知っていたからこそ、卑弥呼のときに魏皇帝が卑弥呼にわざわざ鏡を贈ったということだろう。 持ってるのが朝鮮の遼寧式銅剣系列だからな
辰韓人が秦の労役からの逃亡者だから
隣接した北部九州は盗品の持込も多いだろう
3世紀前には甕棺墓集団は没落した そして3世紀末に天孫族に代わり肥国から卑弥呼が共立された。
.
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さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
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. 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上大願寺にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。
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そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>788
魏志倭人伝
…無良田食海物自活、乗船南北市糴
私貿易はいくらでも行われた。 市糴と貿易や朝貢外交は別物だろ?
壱岐、対馬が市糴した相手は倭人であると記録されている。
これのどこが私貿易?
というか、楽浪帯方以南の朝鮮半島は
遺民で切り取り放題の開拓地だったようだが? 取り放題だったのは半島の鉄とかだろ。
漢王朝が配る銅鏡は朝貢貿易専用だよ。
あと、壱岐や対馬にいたのも倭人だろ。
倭人伝が狗邪韓国から始まるのは、半島南岸の村落は倭人のもので、対馬海峡の交易は倭人が独占していたということ。
伊都の大率が港で積荷を確認して、北(対馬海峡)を検察したというのは、対馬海峡の交易は倭王卑弥呼が独占して抜け荷も許さなかったということだよ。
それは民間交易でないということ(魏から見たら自国の管理下にないということになるが)。 >>796
朝貢でやり取りされる物品だけが交易品だったということはあり得ず、政府間交易ではない私交易も当然にあった。
3年に一回の朝貢による下賜品だけでは国内需要をみたせない。
満たせない分は私交易によるほかない。
また、交易相手が中国の政府だけとは限らない。
朝鮮半島から満州、モンゴル、アルタイ方面にも交易路はあり、こちらの交易については中国政府はまったく無関係。
そうした各方面との交易で鏡が扱われていなかったとは、けっして言えないな。 >>797
倭人伝が書いているのは、中国や朝鮮半島の国と倭国の政府間のやり取りにともなう文物については、きわめて謹厳な取り扱いをしているということですな。
一方、一般の民間交易品については、その限りにあらずということだね。
対馬海峡の船便については、これは確かに、倭の海人が取り仕切っていたのだろうね。 >>798
>そうした各方面との交易で鏡が扱われていなかったとは、けっして言えないな。
「〜の可能性がなかったとは言えない」的な意見は意味がない。
それでは何でもかんでも言えてしまう。
鏡は王宮の工房が独占的に生産するものだし、皇帝が下賜することによってはじめて価値が成立する(実用品ではなく威信財だから)。
私交易がなかったとは言わないし、他の国との交易だってもちろんあった。
しかし鏡は漢との交易の証であり、鏡が出ない南九州は漢が交流していた「倭」ではないことが明らかだ。
この点では畿内も同じ。
漢から見た倭は九州北部のことだ。
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>800
>鏡は王宮の工房が独占的に生産するものだし、
後漢代には民間工房がある
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>800
国同士の関係で鏡が贈られたことは魏志倭人伝に明確に記されている。
そうした関係による鏡の流入はあった。
しかし一方、中国で墓の盗掘がおびただしく行われていたのも事実。
副葬された鏡や剣などが中古骨董として古物商によって商いされたのも、現在と同じ。
そうした可能性をまったく否定するのはいかがなものか。
鏡の出土が時間差で九州から近畿へと移っているが、5世紀まで中国王朝と政治的関係のなかった近畿地方で鏡が多数出ているのは、私貿易の結果であったと考えるのが妥当だろう。
このように、鏡や剣などが古物として私貿易によって日本にもたらされていた可能性は極めて高いといわざるを得ない。 畿内の鏡は古物かもしれないが、九州北部のものは朝貢貿易により倭王の証として冊封体制のもとでもたらされたものだよ。
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>805
朝貢貿易でもたらされたのは、その一部だな。
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. 甕棺墓から出る前漢鏡は中国の墓からの盗品が流通したものだろう
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. 甕棺墓が天孫族なら倭王の証として漢から下賜されたもの。
それが三種の神器の鏡の起源だよ。
そして八咫の鏡が完成したのが卑弥呼の時代。
卑弥呼より後は、八咫の鏡は副葬せず伝世させることにしたのだろう。 >>811
(三種の神器)の成立は、5世紀頃からじゃないの。 甕棺墓は北部九州では3世紀前には没落して
石棺方形周溝墓の周溝に埋められるようになるので天孫族ではない
全羅南道では5世紀くらいまで存続する >>813
では天孫族の墓制についてはどう考える? 2世紀の倭国大乱で甕棺墓の天孫族が没落して神武が大和に脱出したんですね。
わかります。 >>816
で、神武は 大和のどこがよかったの? いつも、東遷説はこれに答えられない。 @阿波 天孫〜何やら〜とか、そんな話は関係ない、ほとんど後付け >>817
先に饒速日が開拓していたから、親戚を頼った。 >>813
>甕棺墓は北部九州では3世紀前には没落して
記紀は考古学的状況と一致するんだよな。
天皇の一代の長さを現実的な長さに補正すると、神武の年代は2〜3世紀だからね。 4世紀には、記紀に繰り返し三種の神器や八咫の鏡が登場する。 縄文時代には南九州から東へ拡散したし、弥生になると北部九州からやはり東へ拡散したから、九州人は天地がひっくり返ってもすべて東遷すると思い込んでいる。
だから、邪馬台国の東遷、神武の東遷が当たり前というオツム。
トラウマというかなんというか…。 >>826
>記紀が書かれたのは8世紀ね。
そして、記紀の舞台は倭国(阿波)ね。 @阿波 縄文時代には南九州から東へ拡散したし、弥生になると北部九州からやはり東へ拡散したから、それを担った人間の移動があったということ。 甕棺とか銅鏡の話は考古学的な話だが、記紀がそれに現実的な固有名詞を与えている。
年代以外は矛盾がない。
否定する根拠はない。 >>813
では天孫族の墓制についてはどう考える? 対論もなく
「信じられない。創作だ」
と叫び続けたら歴史の真実は明らかになるのか? >>828
倭国(阿波)では、縄文時代から西日本各地と交流していた事実がある。 @阿波 >>832
そりゃ全国ネットワークだったからね。
だから何だ?
阿波は特別でも何でもない。 >>833
>阿波は特別でも何でもない。
倭国(阿波)は特別だよ。 倭国(阿波)からの発進なんだから。 @阿波
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>828
倭国(阿波)では、縄文時代から西日本各地と交流していた事実がある。
縄文時代に南九州から東へ拡散した事実はないし、
弥生に北部九州からやはり東へ拡散した事実はない。 @阿波
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>828
倭国(阿波)では、縄文時代から西日本各地と交流していた事実がある。
縄文時代に南九州から東へ拡散した事実はないし、
弥生に北部九州からやはり東へ拡散した事実はない。 @阿波
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>840
倭国(阿波)では、縄文時代から西日本各地と交流していた事実がある。
縄文時代に南九州から東へ拡散した事実はないし、
弥生に北部九州からやはり東へ拡散した事実はない。 @阿波
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>840
倭国(阿波)では、縄文時代から西日本各地と交流していた事実がある。
縄文時代に南九州から東へ拡散した事実はないし、
弥生に北部九州からやはり東へ拡散した事実はない。 @阿波
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. ↑
これしつこいから摂津説の人さっさと答えて終わりにしてくれないか? >>845
なにが?と思ったら透明あぼんされてた
@阿波とかでNGワード非表示にしとけよ 庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥
生二、譽田皇子一
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定 >>845
この神代記の人が摂津チョンコじゃないの?
自分で読んでみせるのがいいと思うんだけど。 >>848
違うと思うけど、ここまで来るとどちらも迷惑かな。 >>843
徳島の加茂谷川遺跡群の押型文土器と大分の早水台式押型文土器は、よく似ているそうだ。
ともに縄文早期らしい。
加茂谷川遺跡群の押型文土器は九州から来たのじゃないの。
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
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そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>850
押型文土器は、8000年前の縄文早期に東日本から伝わったものらしいな。
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そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
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そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
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そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
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そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
.
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そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. 日本の海人族は、縄文時代草創期から南九州から北上を始め、縄文早期末までに西日本一帯に進出し、
また朝鮮半島南部から北は遼河地方にまで進んだとみられている。
この海人族の縄文前期からのさらなる拡散は、どうも海運交易が主軸となっているようだ。
新潟の勾玉が南方へ移動し、また南海産の貝殻が北方へと運搬移動しており、その移動を担った主体がこの海人族だったと考えられている。
海人族が海運交易に転じたきっかけは、
屋久島北海域の巨大カルデラの大爆発による大火砕流が薩摩半島にまで押し寄せ海人族の拠点だった今の鹿児島市付近一帯を壊滅させたことだったようだ。
生き延びて避難した宗家海人族は、危機を海運交易によって乗り切ったとみられる。
玄界灘の分家海人族が頭角を現すのは、朝鮮半島が大陸からの貴重財の搬入路となり、その海運を担うようになってからだ。
弥生時代を通じて玄界灘の分家海人族がその貴重材の販売元となり、貴重材の海上輸送は各地の海人族が行って交易ネットワークが形成された。
これらの各地の海人族は南九州の海人族を宗家とする同族であり、弥生終末期になって大和の纏向に連合政権を置いた各地の勢力もこの海人族であり、
纏向の政権は、南九州の海人族を宗家とする海人族政権だったというのが真相なのだ。
北部九州の海人族が作っていた倭国連合を解体し、博多の勢力が独占販売していた舶載貴重財の強制一括購入を行ったのがこの大和の連合政権だったのだ。
3世紀中頃に起こったことは、舶載貴重財入手方法についての海人族同士の内部抗争の結果だったということである。
これが、謎の海人族と言われる者たちの歴史の真相なのだ。
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そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>865
根拠ないだろ?
摂津を薩摩に書き換えれば通じると思った? 863
筑紫君て呼ばれた人物だろ(°▽°)
あれ確か新羅と手を組んで日本側と戦争やってるわけだが
記紀か朝鮮記か知らんが 大和にいたなあ三輪君て呼ばれた人物やなかったっけ?
その末裔が信州に三輪神道を創始した諏訪氏(神氏)やぞ あたあ関東からは毛野君てのがいてそれの討伐行ってべや 日本側が手を組んだのは百済だろ
百済と同盟を結んだから百済で盛っていた仏教を向こうの王さんが日本側にいろいろ仏教を伝えて奈良あたりに百済仏教系の寺院ができただのの話になったんだろ
日本で寺院の創建だの始まったん530年くらいからやなかった? 百済と交流していたのは筑紫倭国だろ。
畿内日本が新羅と組んだ。 日本における仏教寺院だのの創設が始まった時期なん簡単よ
百済と同盟を結んでから
それ以前からは向こうから渡来してきた人間らだけで仏教が信仰されていたみたいな話ならあるがな 本土側からは筑紫と戦争になったんは明らかなんだろけどな 古代律令制以前に栄えたみたいなんで古代に繋がりそ〜な国の名前が九州は筑紫、日向、豊(とよ)の三国
四国は分からん
中国地方に安芸、吉備、出雲の三国
畿内から和歌山あたりみな木の国
北陸に古志、関東に毛野、東北は蝦夷 あとは後々、分国令が出されてそれにつれて官衙が置かれた 官衙の役人として守、助、穣だのってよーするに年貢やな
それを取り立てる役人なんかがいた
飛鳥時代以前は確か蝦夷連中らを集めて田畑の工作だのやらせよ!としたみたいなんだったろ
これはっきり書くが中国あたりからきた連中じゃねえの?
なんかそんな気がするんだよな
なかなかふざけた真似してくれるからよ
かなり図に乗ってるだろ 歴史調査進んでるんだろ?
結果分かり次第やつらには責任追及しなきゃならんだろな
そいから神話だのなんだのは勝手にここはこれみたいなんで認定して特別な家みたいなん作り独占稼業みたいなんしてない?w 筑紫倭国は百済と組んで戦争したり、七支刀をもらったりしている。 やっぱり七支刀流れそっちかい?
唐に
初めて←
いったのが空海やからな
中国あたりから漂流してきた連中がいたのが九州やち言われとるで
紀元前前後くらいから漢字使用の証拠でとる 筑紫の君は新羅にお小遣いをもらって
ヤマト王権の近江毛野軍のじゃまをした
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. もし紀元前の日本あたりから朝鮮でもよいが向こうに行ったら新大陸発見くらいやぞ
船ち行けるな場所限られん
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>886
>縄文時代から倭人は広範囲を航海していた。
倭国(阿波)の「海人族」たちだね。 広範囲を航海し、交易していた。 @阿波
.
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>889
一段空白開けて、・打つのやめてほしい。
読みにくいし。 .
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. .
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. 890
中国史なら倭王とやらが治めた地域は東夷全域だぜ
単なる倭ならその一部だからよいが本家なんてのは否定さしてもらう 倭王つまり東夷全域の軍事支配権を握ったんが日本だってか?
ありえない
東夷ってな大陸の方だからよ
中国皇帝あたりの配下武将のほとんど中核だぞ
関羽だの張飛だのも下手すりゃ東夷人 中国史に出てくる倭王は東夷王と同じなんだよ
そんで魏志だろ
なら魏の軍団を成した中核の軍勢を率いた連中らだよ 日本から朝鮮半島に渡った連中らがいたみたいなんも史記みたいなんに書かれてるがとにかく初めは連戦連敗、途中から研究して勝ちだしたじゃなかったか?
百済、高句麗の連中らが日本に来たのは歴史の中で同盟を結んだからだろ 昔からおかしいとこあるんだよ
大陸にいる倭王(東夷王)あたりがこれ倭の五王なんだがそれを日本の天皇あたりに比定さしたりな
どんだけ権威付け好きなんだよ?としか思わん
邪馬壹は日本になかったが正解
倭人はいたかもしれない 東夷ってな古代の中国でも軍事的に中核成した連中らだろ
ならやつらがもし頼りにするならその東夷ね子孫の末裔らみたいなんだよ それを探しだして自分らが頼りにする宛先だよ存在がな
悪いが権威付けに利用するなやめてもらいたい 書いてあることなんか整理すればそ〜にしかならないん
なら喜び勇むバカが現れれば日本は利用されるだけされて終わるんだよ .
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. >>893
下も一段開けない。
・が飛んでしまって、わけわからんから。 .
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. 衆夷って呼ばれた連中らの女王が卑弥呼か?
それなら分かるよ
つよりこれ仕掛けた連中らはな .
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』 日本で天皇に比定してる倭の五王ってどおみても大陸にいるし安東府将軍も兼ねてる
公瑾讃だのそんなんで呼ばれた東夷諸国を取りまとめた将軍のこっちゃないんかい? .
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. .
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. .
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. .
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. 銅鐸を日本で作るの無理だべ
銅を溶かすまでのことができないからよ
日本で溶鉱炉の技術使った方法が開始されたん350年前← ハガネ作りは熱して叩いて薄く伸ばして折り曲げてカタチ成形もすぶて手作業でやったろ 日本刀なんかだって刃先と刀身じゃかなり分子構造違うみたいなこと書いてあったぞ
秘伝の技法使ったんだべな >>915
和同開珎は外国で造ってもらったのかよ。 918
平安時代あたりから出回り始めた銅銭は中国から輸入したもんだよ
貿易取り引きやったとき向こうの銅銭を大量に日本に持ち込んだの 銅を使ったハガネ←これまんま刃金作りなら日本は昔からやっていた
刃金からハガネと呼ばれるようになった
つまり青銅の刀剣作りくらいならできた 日本初の銀山言われたのが石見銀山やからな
金の場合は砂金で取り引きやったんだよ
重さでな、これが平安まで
金子にして使い始めた時期にそのあとはいるが形なんざ
ダンゴ←だよ 平安時代あたりの対中貿易の中身なんざだいたい中国からの輸出品が
銅貨だよ銅貨←
輸入品がこれなの(°▽°) それを日本に持ち帰り財産を表す目安に使い始めた
そのあとは貫目なんかも決まりようやく貨幣経済らしきもんが現れ始めた 銅鐸でてべ(°▽°)
日本と同じよなんフィリピンや東南アジアあたりにもでてるし日本からもでている
つまり海外から持ち込まれたもんだよ 918
常識の話じゃないかよ
勘合貿易のときに日本側が大量に輸入したのが中国の銅銭だぞ
こっからそれを利用して日本で貨幣取り引きが始まったんだよ
青銅製だの刀剣類やら調度品やらはでてるがな(°▽°) 向こうで出回ってたんだか作ってもらったか知らんがな(°▽°)
そのあと日本でも鉱床採掘が始まり自分らで作り始めた
最初は金は砂金だけだよ
銀はダンゴみたいに丸めた長銀を使っていた
重さで決めたんだよ 日本がまともな鋳造技術を手に入れたのは江戸時代に入ってから
支那大陸には2000年前から鋳造技術あったのにな(°▽°)
支那あたりから青銅剣だの出始めた時期ころから日本では似たよ〜な形の一体成形の石造剣が出てきてる
多分、模倣したんだろなって言われてるだ
古代の豪族あたりが身に付けていたのは石刀、石剣の可能性が強い
石剣ならその前の段階で石造りの長尺棒が出てきてる、あとは木剣とかもあったんだろがな
石剣で戦争やってもすぐ割れるからな〜 日本の場合は石剣からいきなり青銅剣あるいは鉄剣に変わったの(°▽°) 遺跡から鉄剣も銅矛も出るよね。
鉄剣は輸入品だったけれど、銅矛は国産化していた。
平原遺跡の超大型内行花文鏡も国産。 最初は一体形やがな
そのうち刃先だけに切り替わり木枠に嵌めこむ形になった 初めに大陸のやつらと戦争やったなら日本側は石の剣で挑みかかり大陸のやつらは青銅剣あるいは鉄剣だよ(°▽°) 石器時代の終わりころの話なんだろよど〜せな(°▽°) 青銅剣と鉄剣は両方でとる
ただし青銅剣が作られた時期自体が物凄い短い 作られ始めた時期がほとんど一緒なん
だが青銅剣はほとんど作られることなく短い時期だけ使用され廃棄された .
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. 倭王のカスとやらが皇祖みたいな話?
否定さしてもらうわ、んなカスなら日本にはいらん 中国から勘合貿易で銅銭を輸入した犯人が平の清盛だよ(°▽°) .
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. 弥生時代に密入国した連中らがいたんだろって結論
あの文化は日本にはない つまり弥生時代もっと遡れば縄文後期あたりから海上を行き来した連中らがいたんだよ 東南アジアでよいなら紀元前20世紀に銅文化入っとるん
そちらで出土する遺物と似てる
あとは銅文化があったのは中国の山西省の香炉文化
こちらもかなり古い
銅鐸鋳型と同じもんがでるのは中国史で記述されるなら南蛮と呼ばれた地域から出土している
西洋と東洋は銅文化的にはあまり差がないの 中国は香炉型、東南アジアは銅鐸型
どちらもかなり古い
紀元前7世紀あたりと推測されてるのがフィリピンからでとる
東南アジアあたりで推測されてる時代がだいたい紀元前20世紀 .
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
. そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』 いずれにしても、対馬海峡の海人たちが博多へ運んだ青銅器は、中古骨董品だったのは間違いない。
墓暴いたりして流通した中古の鏡や剣などを双方の骨董商が商いしたんよ。
倭人のためにわざわざ新鋳するかいな。
それを、皇帝からの下賜品だなんだと由緒つけて高く売りつけたの。
骨董品の由緒を捏造するのは、ごく普通に行われる。
今でも、骨董業界は由緒で値をつける。
前方後円墳から出る舶載鏡などの青銅器は、大陸の商人が倭人商人に売りつけた中古骨董品だわ。
そんなもんよ。 魏志倭人伝には、皇帝からの下賜品は伊都国で誤りがないか改めるとあり、封をして直送されていたことは確実。
郡使が都から荷が到着する様子を見ていたのだろうね。
その中には銅鏡100枚も含まれていたことが記録されている。 >>948
皇帝からの下賜銅鏡の数と、日本各地で出土する舶載銅鏡の数の比率は1:100くらいだろうな。
その100のほうは、私貿易の中古骨董品だよ。 根拠のない妄言はやめたら?
畿内説の表現が下がるだけだよ。
または、根拠を示したら? 銅鏡ならいっぱい日本からもでてるからな
いっぱいすぎるくらい 流行りあったんは間違いないべ
そんあと作ったんだろ、あんなんなら鍛造でも作れるわ なかなか歪みをとるなあ難しいがな
全部ハンマー🔨で叩きながら作るからよ 鍛造ってのは火で炙りながら銅や鉄を熱して金具で打ちつけて薄く伸ばしたり形を整形したりすべて手作業でやるんだよ
日本の刀鍛冶なんかもみなそおやで 不純物があったら叩き潰し燃やし尽くして不純物を除去する
まさに叩き上げ >>951
銅鏡が国産かどうかはそもそも判断が難しい。
500枚に登る三角縁神獣鏡が国産かどうか長らく論争となっているのを見ればわかること。
それなのに>>949はわかったかのようなことを書く。
畿内説が嘘つきの集まりであることを象徴しているかのようだ。 鉄を熱しながらまっキッキに高温状態のときにやるからな
成形まで手作業ニダ(°▽°) >>956
3世紀までに皇帝に朝見したのは、記録では奴国1回と邪馬台国2回の計3回だけ。
卑弥呼の時は特別扱いで銅鏡100枚の下賜。
奴国と邪馬台国台与が銅鏡もらったとしても、卑弥呼のと合わせて200枚にはならんだろう。
九州も大和もその他も合わせて、舶載鏡はいったい何枚出てるのか。
最大級の平原遺跡40面、三雲南小路遺跡57面、須玖岡本遺跡55面で合計152面。
このほかに鏡出土遺跡は、九州だけでも多数ある。
こうした弥生〜古墳前期の鏡が全部皇帝からの下賜品だと主張するのは、常識外れといえる。
とすれば、皇帝からの下賜鏡以外の鏡はどういう経路でもたらされたのか。
私貿易の交易品として売買されたと考えるのが妥当。
そして、その場合の交易鏡が倭国向けに新鋳されたと考えるか、中古品と考えるか、その答えも明らかだろう。
わざわざ新鋳しなくとも、市場には盗掘品や没落豪族の所持品が多数出回っていたのは今と同じ。
それらが倭国向けには高値で取引され、倭国は中国の商人にとっては大のお得意さんだっただろうということになる。
中古紀年鏡などは、非常な高値だっただろうな。 中国鏡が倭にもたらされた経緯について、次のような考えがみられる。
国立歴史民俗博物館研究報告第185集(2014年12月)
「日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期」(上野祥史)
「日本列島への中国鏡の流入は、漢王朝への遣使という政治交渉を契機としている」
「漢鏡5期鏡には、桜馬場甕棺や平原1号墓など、方規矩四神鏡や内行花文鏡など大型鏡が存在する。その流入の背景には光武帝中元二年(57年)や安帝永初元年(107年)の遣使との関係が想定できるが…」
これは、朝貢によって鏡の取引が許可されるようになったと読むのか、朝貢の時に鏡が下賜されたと読むのか微妙なところだ。
著者は、鏡が倭に流入するようになる理由を「政治交渉を契機として」と認識しており、朝貢時の直接的な鏡の下賜というよりも、
朝貢して皇帝政治の傘下に入るという政治的関係ができたことによって各種文物の取引が許可されるようになったと考えているようにみえる。
鏡の入手は、直接的な下賜もあったであろうが、このような交易の許可によって倭国側が中国業者から鏡を購入するケースが多かったのではないだろうか。
冒頭の表題を検索して、上野氏の論文を通読してみてはどうだろうか。 日本の話って証拠でてないの
勝手に妄想を膨らましてそれが事実のよ〜に既成化させてるだけ
それから古代は皇帝が貨幣にしろ独占で鋳造だのできる権限すら握っとらん
民間でそれぞれ勝手に自分らで作ってやっていた 調べりゃ調べるほど事実は明きらかになってきてんだよ
皇帝だの政府みたいなんはもともとあったものを規制などにより自分らで管理権のみ握った
これが正解 >>959
>こうした弥生〜古墳前期の鏡が全部皇帝からの下賜品だと主張するのは、常識外れといえる。
>私貿易の交易品として売買されたと考えるのが妥当。
それはあなたの頭の中だけの「常識」かな? >>961
>それから古代は皇帝が貨幣にしろ独占で鋳造だのできる権限すら握っとらん
>民間でそれぞれ勝手に自分らで作ってやっていた
根拠は?
鉱山や工房を権力者以外が勝手に営めるとは考えにくい。
私営のところがあれば、権力者は取りに行くだろうし。 >>964
>鉱山や工房を権力者以外が勝手に営めるとは考えにくい。
その通り。 若杉山辰砂鉱山を押さえていたのは、狗奴国の卑弥弓呼。 @阿波 そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』 >>963
銅鏡が九州にもたらされるのは、弥生中期後半からとされている。
弥生後期が始まるのは50年頃から。
後漢の皇帝に朝貢した最初が57年の奴国だから、銅鏡の流入はその奴国の朝貢以前から始まっているということ。
ということは、奴国の後漢への朝貢以前から九州に流入していた銅鏡は、私貿易でもたらされたものということになるのでは。
やはり、銅鏡の私貿易はあったとするのが、常識でしょ。 平原遺跡、三雲南小路遺跡、須玖岡本遺跡は弥生中期後半〜後期にかけての遺跡で、
ここから銅鏡が合計152面出ている。
この時期は卑弥呼の朝貢の前であり、中国史書の107年の帥升は朝貢できなかった可能性が高いことから、この時期に九州から後漢への朝貢があったのは奴国だけ。
この奴国が後漢皇帝から152面もの銅鏡を下賜され、それらが分配されたとは、ちょっと考えにくい。
また、平原の王が朝貢したようには見えないが、それでも平原遺跡では40面の銅鏡が出ている。
この40面の銅鏡は、どのような経緯で平原の王の墓に副葬されることになったのか。
私貿易の存在を想定するのは、妥当だと思われるのだが。 >>964
>鉱山や工房を権力者以外が勝手に営めるとは考えにくい。
その通り。 若杉山辰砂鉱山を押さえていたのは、狗奴国の卑弥弓呼。 @阿波 >>968
>この奴国が後漢皇帝から152面もの銅鏡を下賜され、それらが分配されたとは、ちょっと考えにくい。
卑弥呼が一回の朝貢で100枚も貰っていたことを考えると、長い後漢との交流で毎年のように行き来していたのだから、それくらいの枚数が倭王の手元にあって当然だ。 >>968
>また、平原の王が朝貢したようには見えないが、それでも平原遺跡では40面の銅鏡が出ている。
平原の女王は卑弥呼であった可能性が高い。
後漢鏡がほとんどないから、後漢滅亡後の王だからだ。 >>971
>平原の女王は卑弥呼であった可能性が高い。
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波 そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』 そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』 >>970
奴国が毎年皇帝に使節団を派遣して、皇帝に朝見できていたとの記録はないし、
仮に挨拶の使節を送ったとしても、楽浪郡どまりだろうな。
とすると、その使節団が楽浪郡から許可をもらって私的に市場で鏡を購入してきたということになる。
過剰なくらいの鏡数は、そうした私的交易の結果だろうな〜。 >>971
研究者の中には、平原銅鏡40面のうち2面は舶載鏡だが、その他は皆仿製鏡(中国鏡を真似て国内で造った鏡)だとする説があるなあ。
この説が真実なら、平原に関する従来の考古学がどっと崩壊する。
そして、中国鏡とされる2面も、中古鏡の可能性が真実身を帯びてくるし。 そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』 >>971
>平原の女王は卑弥呼であった可能性が高い。
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波 そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』 >>976
そして、当時仿製鏡があったということは、その仿製鏡を造る原材料になる鏡が外国からもたらされていた可能性を示している。
仿製鏡の銅などの材料が朝鮮半島出土の鏡と同じだという研究もあるので、仿製鏡を造るために鋳つぶした鏡は朝鮮半島からもたらされたことが推測されているわけだ。
要するに、このことは、当時私貿易があったことを示しているのよ。 そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』 >>982
自作自演の奥山ァァァァ〜。
奥山、はやく自分で住吉漢文、読み下したまえ。 そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』
そんなことより摂津ヒトモドキが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津ヒトモドキことキナイコシには容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉大社神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉大社神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、『住吉神社』が本来の名称
>>981
朝鮮半島から仕入れていたのは銅だよ。
妄想ではなく、ちゃんと史料を読もうね。
銅は中国から。 「蓮華谷古墳群(U)二号墳」
前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、 特に銅鏡は仿製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。
三角縁神獣鏡の仿製・古墳への副葬は、これ以降だろう。 @阿波 986
日本から朝鮮半島に渡ったやつらがこだわってたのは朝鮮半島で取れる鉄から作られる鉄器
最後は大敗喫して逃げだしただ 朝鮮半島で鉄が取れる
しつこいやつらはメシメシ言ってた能無しに似る
ぶち殺されてもまだ言ってそおや
人間がどんな行動を取るかくらい知っとる
そなったら、、、 986
日本から渡ったやつらがか?
そいからキチガイらの正体分かったから相手すんのやめだ >>986
「平原から三角縁神獣鏡へ」(新井宏)
「平原鏡に朝鮮半島産の鉛が添加されていることを明らかにし…」(5p目)
と書かれている。
>>981で「朝鮮半島から舶載した銅鏡を鋳潰した」としたのは、間違い。
正しくは「朝鮮半島産の鉛」だった。 朝鮮半島の鉛を中国が仕入れて銅鏡にしたものを倭に与えたとは考えないのかな?
そんなことより摂津ヒトモドキが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津ヒトモドキことキナイコシには容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉大社神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉大社神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、『住吉神社』が本来の名称
そんなことより摂津チョンコが真っ先にやるべき事は住吉大社(06-6672-0753)に電話確認すること
そして以下の住吉大社神代記を読み下すこと
漢文も古文も得意だと大ヅラこいた摂津チョンコことキナイコシ奥山には容易なことだろ?
さっさとやれマヌケ!
庚辰年、十二月、戊戌朔辛亥。
生二、譽田皇子一。
故時人、號二其産處一曰二宇瀰一。
筑紫大神、奉レ定レ社誨二皇后一曰。我荒魂、令レ祭二於穴門山田邑一。
時穴門直之祖、踐立、津守連之、祖手搓足尼、啓二于皇后一曰、軍三神欲レ居之地。必レ宜レ定。
なお、『住吉神代記』という名称は去年死んだ文学者の田中卓が言い張っただけ
原本は『住吉神社神代記』で『住吉神代記』は仮称
ちなみに『住吉大社』って名前も田中卓の主張に併せて昭和21年に改め、本来は『住吉神社』 例えば支那あたりから銅銭を輸入したとしよ〜
交換物はなにがありえると思う? それ無しなら無料で銅銭を作ってくれ船がきたら差し出してくれたってことやぞ
ずいぶん親切やな
じゃあ向こうに行けば家財やらタダでくれんだな? 実際には中国産の銅鏡は国内にたくさんあるわけだし。
卑弥呼はかわりに大量の財宝を貢いでいるし。 >>1000ならバレンタインジャンボ宝くじで1等+前後賞で3億円が当たってる! このスレッドは1000を超えました。
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