院政について語ろう Part2
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摂関政治を打破し、その後300年にわたり続いた院政について語るスレその2です。
白河院政から武家の台頭、鎌倉開幕を経て南北朝時代までをのんびり語りましょう。
前スレ
院政について語ろう
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1317307160?v=pc 上皇を特使として北朝鮮へ派遣して、
生存中の拉致被害者全員を日本に返してもらおう
北朝鮮のメンツも保たれるし拉致被害者家族の高齢化で時間が少ないし
これが一番良い ただ白河上皇時代の院領荘園は最大にはなってるけど、
鳥羽上皇時代のような圧倒的割合ではなかったんだな 統治能力でみれば、白河上皇は天才、鳥羽上皇は並みのひと 後花園上皇の時に応仁の乱が起こって長講堂領荘園群が荘園としての機能停止 じゃあ後花園から明治までは天皇親政だったんだな、うん? それは超拡大解釈。
荘園も持たないで院政もなにもない。 方々の書物には江戸期の上皇が院政をやったと書いてあるんだけどね。
なにゆえお前はそんなに荘園にこだわるの? 荘園から見れば新たな院領荘園が立たなくなった時が狭義としての院政期の終わりか 後水尾上皇は退位してからも息子3人の代の実権を握り
あれこれ幕府に文句言ってたよね >>20
大宝律令によれば天皇と太上天皇は共同統治をおこなうと規定されているから
もともと上皇は政治参加権があるのだよ 後小松の称光に対する院政は実子だからわかるけど、後花園は直系尊属じゃない別の系統なのに院政やってる。猶子にしたらOKなの? 後花園は後小松の猶子にするのを義教に確認した上で後花園を猶子にしてるから
後小松的には後花園は後光厳皇統の嫡流
実父の貞成親王は認めたくなかったけれど >>25
御花園は後小松の猶子になったことで天皇になれたが
後小松が死んだら早速実父の貞成親王に対して
「天皇の実父」であることを理由として太上天皇号(院号)を贈った 院政とは要するに摂関家が脱税を満喫しているのを見て皇室が羨ましく思ったことに始まる
天皇が脱税することはできないので位を退いて上皇となって脱税することにしたのだ 天皇家の家督者であることが絶対条件で、実子への皇位継承はそこから出てくるんじゃないか?実子がいなけりゃ皇位継承者指名権になる。 「悔い返し」の慣習に見られるように、この時代隠居の権限は相当強かったようだ。 治天が当今を退位させて意中の人物を皇位につけるのも、広い意味で悔い返しの一種かも。 >>31 それは違う
治天の君=元社長の会長又は最高顧問
天皇 =社長 NHK出版新書 601
世襲の日本史 「階級社会」はいかに生まれたか
[著] 本郷 和人
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000886012019.html
院政に関する本郷氏の論も書かれている 中国でも似たような政治は時折にやっていたが良い結果に終わった例はほとんどないような
特に趙の武霊王とか 尊属を敬う傾向が強い中国のほうが上手く行きそうなもんなのにな。
でも母后が摂政になる垂簾聴政の例は日本より多いみたい >>36
最近の中国での院政といえば、ケ小平だろうな
江沢民はあまり尊敬されていないようだしw ケ小平自身は党や国家としての主席にはなってないんだよな
そのためスターリン後のソ連の共産党党書記長のように中国共産党の党軍事委員会主席が以後は実質的な最高ポストになっている
それ以前の林彪事件でもそこが決め手になったとも言われるだけに まあ日本だって即位しなかったのに治天の君になった院が2人ほどいるし 白河院政は遼の日本国王府だった。
白河院は自分が遼の皇帝の臣下であるという自覚を持っていた。 中華皇帝>>>日本国王なんだから、中華皇帝である北宋皇帝が遼に屈服した時点で、
遼の皇帝>>>日本国王になるのは当然。 遼の軍隊が日本海を横断して越前か若狭あたりに上陸してきた? 白河院政は遼の日本国王府で西日本を統治し、東日本は遼の直接支配下に置かれていた。
院政の武力たる北面の武士とは遼の北面官に基づく契丹系の武力。 天皇は儀式で時間を取られるし、人材の登用も貴族たちの家格による制限がある。
譲位して上皇になってこそ、時間も人材登用も自由になる。 律令体制のトップである天皇は建前上は荘園の寄進を受け取ることができない。
が、退位して上皇となればその制約から自由になる。
だから上皇となったのだ。 「せっかく天皇になったのだから、ずっと天皇でいたい」というよりも、「早く譲位して
上皇になりたい」という動機が強いことがあるね
天皇は上皇になる通過点で、上皇になって院政をすること、荘園経営や人材登用を自分の
意思でできるようになる利益が大きいように感じる 遼は南面官と北面官という政治組織を持っている。遼史の日本国王府は北面官に属している。
白河の北面の武士との名前の一致は、白河が日本国王府の長であったことを示している。
地政学的に、日本列島の北部は豆満江を通じて支配する方がたやすい。
豆満江の遼の女真大王府が奥州を版図にいれようとして前九年後三年がおきた。
1086に白河が院になり(日本国王府成立)、後三年の役は意味がなくなり、
朝廷は義家に戦費を返せと迫った。義家を白河が救った。
遼史大安7年の朝貢を密貿易事件として処罰した事件は白河と朝廷の二重権力構造をしめした。
白河が上だった。後世、院政と名付けられた。
白河は京の外で活動拠点を持った。鴨東の法勝寺、鳥羽離宮である。
院の近臣をはじめとする貴族から雑人に至るまで,鳥羽殿周辺に宅地が与えられ,「あたかも都遷の如し」といわれた。
北面の武士は、日本国王府の軍事組織。各地に配置され、源氏・平家になった。日本が急に武家社会に移行していった原因。
詳しくは「国際的視点からの古代史考」の「付録」を参照。
https://sites.google.com/view/jhistory 閉じこもって院政を考えても進まない。外国の侵入が契機なのだよ、あんぽんたん。 上皇陛下の仙洞御所にも北面の武士を配備し、守りを固めてほしい
北面の筆頭には田母神さんを配置し、五位の上臈に任じていただきたい じゃまず貴殿から名乗り出よ。
鎌倉時代の甲冑を着用して宮内庁に出向かれよ。 武者鎧が好きで金貯めて買った。付属品含めて20万也
んで届いた日の夜にすぐ装備。カッコヨスw
装着具合を確かめるために散歩してたら悪ガキ連中がタムロしてるのに出くわした。
周りは元は城の鬱蒼とした森で外灯の下にぽつんと鎧武者一人。
悪ガキ連中ダッシュダッシュ猛ダッシュwww一人など腰砕けて匍匐前進w
雰囲気を出しつつゆっくりと腰砕けに近付くと小便漏らして気絶したw
その後、あの森には落ち武者が出ると噂になったのは言うまでもない
今は反省してる 将門公を潰した連中が遼の配下だと?将門公は遼の太祖をリスペクトしたのに! 「高望王の三男平良将の子。第50代桓武天皇の5世子孫」は証拠があるのか? 貞信公記、将門記、今昔物語などに将門公の存在と素性は明らかなんだが?何を言っているんだ! もし将門が早死にしなければ、遼に朝貢して日本国王に冊封されたことであろう。
大陸の動向に目を向けたグローバルな史観が求められる。 >>62
そう書いてある今昔の成立年は新しい
将門紀は原本がない
藤原忠平死後貞信と諡号されたので貞信公記は書き直されている可能性あり 将門の正体は半島系の関東の土豪。平氏というのは僭称にすぎない。
だから遼に臣下の礼をとることには抵抗がなかった。 平氏だろ。関東東北に土着した平氏一族だから蝦夷に近い血筋で異端なんだよ。 平姓もある時代からは臣籍降下しても名乗らなくなったからな。プレミア姓。源氏ばっかりになっちゃった また・・・成り済ましの話、
日本の天皇(?)は偉いとかwそういう話だろう?
例えば、孫氏、何やら氏などには関係のないこと。
・・・そもそもが上だから。 中国からの渡来人()も、いるだろうという話。
渡来人は、そもそもが上の人々なんだよ、なぜわからないんだろう。 関東は高句麗とか騎馬民族系の渡来人が多く、坂東武者のルーツになっている。
この連中が平氏を名乗ったのが、関東に多い平氏の正体。将門もその一人。 現代においてもせっかく譲位が実現したのだから、本格的に院政を始めてほしい
天皇や首相は憲法の制約があるが、上皇は憲法に規定がなく、元々朝廷や既存の
秩序を超える存在だから、思い切ったことができる
災害時の非常事態宣言は、院宣で行えばいい とりあえず不徳を恥じて落飾し、法皇となり読経三昧の生活を送るべし 坂東武士は名誉ある平氏の家柄を誇るが、渡来人を家のルーツにしたことないけどね。 >>76
あそこは百済の亡命王族が移住したのではなかったか? 強制移住の部落民と鎮守府将軍として関東に土着した源平は違うだろw >>54
朝鮮人は、まだこんなに手間ヒマかけて、壮大な妄想歴史を書いているんだな(笑)
何十年たっても、変わらんねえ >>73
左翼と朝鮮人は、「平成上皇がアベと対立している」という妄想を信じて期待していたが、あれはどうなったのかね? 遼、金、元は「漢王朝」を引継ぐ志はなかったから北朝とも呼べない国。日本の知る中華王朝は宋で断絶した。 日本が文化大国として重んじたのは、やはり宋が最後だろう。
宋学(朱子学)はわが国の学問・思想に大きな影響を与えたし、文物も重んじられた。
南宋が滅亡した段階で、中華王朝の価値はなくなった。
元(蒙古)は儀礼をわきまえない蛮国であり、北条時宗によって討伐された。 いや江戸幕府って明の影響無茶苦茶強いから
いろいろ参考にしまくってるから 陽明学とか唐詩選とかが流行したし、明の文化に影響を受けたのは確かだが、唐宋に比べれば
文化としての評価が低いのでは?
清朝の文化はハイレベルだったが、異民族王朝だったので、「中国の文明は終わった。これからは
日本が中国の文明を継承しなければ」という考えになっていった ごく簡単に言うと、朱子学は勉強重視。朱子の注釈に従って儒学の経書を精読すること
によって、聖人(孔子や孟子)の領域に近づくことができる。ただし、猛勉強が必要。
陽明学は実践重視。勉強もするが、静座や日常の行為によって、聖人の領域に近づく
ことができる。 猛勉強が必要というのはわかるとして、それと聖人の域云々とはなんの関係も無いだろう 宋学(朱子学)では、聖人というのは雲の上の超自然的な存在ではなく、人間が努力して
至ることができるものとした。その手段が経書(儒学)の勉強だったということ。
当時の世界全体を見渡しても、おそらく最も人間の理知を重視し、超自然や迷信を廃した
合理的な思想だったと思われる。 自分が生きている時代に上皇が出現して院政が始まるとは夢にも思わなかった
うまくいけば摂関も復活して、再び権門が大きな力を持つのではないか?
院御所、摂関、鎌倉殿、天台座主などが君臨する錦絵のような世の中になれば面白い 鎌倉殿もとい征夷大将軍も氏姓制度廃止されてるから復活させない限り無い >>95
権門復活、つまり貴族が存在出来るように改正したら出来るよ 院、摂関、鎌倉殿は律令が想定した秩序を乗り越えて出現したのだから、今の世の中でも
憲法が想定する秩序を乗り越えて存在することは可能
天皇の地位や国事行為は憲法で定められているが、上皇は定められていないので、憲法に
囚われず何でもできる 第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受けるものの一代に限り、その効力を有する。 院政は律令を超えて実施されたから、憲法も超えて実施されるってことでしょ 養老律令を残したまま摂関政治も院政も始まったから、憲法を残したまま院政は始まると思う 院政が法的制度というより事実上のシステムだったことを考えると、ロッキード後の角栄みたいなのがそれでは?あるいは旧憲法下の元老とか。
まあ、制定法より慣習や前例を重んじる中世社会の実情がないとしっくりこないね。 慣習法の面で言うなら現状一番近いのは元首と規定されていないが事実上の立憲君主という扱いである天皇 養老律令を変えなかったので、律令に合わない新しい制度や慣習がどんどん出てきた
憲法もおそらく同じ運命をたどる
摂関や院政、鎌倉殿のような存在が現憲法の時代にも出現する 内閣の閣僚は専門知識のある学者や実務家にさせたほうがいい
その上で、政府の最高意思決定は、摂関を中心とした公卿議定で行うようにすればいい >専門知識のある学者や実務家
大企業にしばしばある、経営者の出身部門や専門ばかりを重視しがちになるのはOK? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています