邪馬台国畿内説 Part474
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1561528938/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※
)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) 畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「前方に氷山発見!!!!!!」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!全速後退!!」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだ!!!船長のくせに!!!このハゲェェェ〜ッ!!!」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン爆発四散!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に乗り上げ衝突し、再び着水する畿内説タイタニック号)ガッツン!ドッカン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザッブン!!ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野寺澤橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(大量の布留式土器と三角縁神獣鏡と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=3i7rDgy-aOY
一方、九州説オリンピック号でゎ…
「九州」説A「畿内説タイタニック号から遭難信号S・・・O---S・・・傍受!!」
「九州」説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿→箸墓〜Ω王墓担当の物部氏)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
「九州」説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は帰港できなくなるからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 >>284
大和説の人は、自分たちがアホだからって
周りの人もみんなそうだとは思わん方がいいぞ ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値を示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。 ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇田川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 20,69に加筆 ついに「陸行一月」の謎が解けたyo!
1.西晋司馬懿(秀吉)は明帝曹叡(信長)の後見人指名がなければ皇帝になれなかった(大恩人・明帝が特別厚遇した倭国王卑弥呼)→明帝曹叡の(自分を後見人に選んだ)聡明さを強調したい。
2.魏の帝都・洛陽から見て呉との戦いにおいて最高の牽制となる背後にあるためには、倭国「女王之所都」が
蘇州の「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東の海上にある必要(読み手にそう思わせたい)。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
4.倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳・朱崖に似ている。
そこで陳寿が考案した苦肉の策が、九州島(倭国)が海南島(儋耳&朱崖)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に長大な「一つの山島」であるように思わせるテクニック。
まず、帯方郡からの放射描きで、正解の【1.奴国ルート】と、喧伝したい「當在会稽冶之東」に合わせた【2.邪馬台国ルート(幻)】を設定。
次に「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【1.奴国ルート】を暗示しつつ(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)、
九州島が南北に「陸行半月」であることを倭人から聞き「夷人不知里数、但計以日(7世紀隋書倭国伝)」、
それを南に2倍して東シナ海に浮かぶ幻の「陸行半月」九州島(南部)を付け足し、「陸行一月」として、【2.邪馬台国ルート(幻)】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
ちなみに卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」(上皇明仁)の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王の神託を聞くことができると信じられ、北部九州30カ国から共立された巫女(愛子内親王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南熊本の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 >>70の図解(模式図)だyo(スマホ&タブレットのみんな、ズレ杉スマソ!)
【魏志倭人伝の倭国観】
洛陽┏━┓帯方郡 ┏〜〜〜〜〜〜東→✖畿内説TITANIC沈没地点(†乗客乗員>>50)
┃〜〜〜↓※南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜〜▲対馬〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 §琵琶湖
┃〜〜〜↓〜〜〜〜_+南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜〜〜▲壱岐〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
┃〜〜┃▲奴国【♀女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
┃〜〜┃▲狗奴国▲▲▲▲▲投馬国┛┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┃↓「陸行半月」(正)▲▲┛〜〜〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島〜
東治┃〜〜│〜東シナ海(正)〜│〜〜↓幻の九州島南部(陳寿の創作)
┃〜〜│△△▲△△△△△│←奄美大島(正)
┃〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜〜〜〜〜〜〜
福州┃〜〜│△▲△△△△△△│←沖縄那覇(正)
東冶┃〜〜│♀女王之所都(幻)│…「當在会稽東(冶)之東」(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←台湾(正)
香港┃〜〜│△△△△△△△△┘〜「自女王國以北其戸数道里可得略載
澳門┃〜〜└△△△△△△△┘〜〜【其余旁国遠絶 不可得詳】」
┏▲海南島〜└九州島(幻)┘〜〜〜
┃↖儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア「複在其(↖幻の女王之所都の)東南 船行一年」 この畿内説は糖質が流しているフェイクニュースです。
騙されないようにご注意ください。 >>287
>古墳3基ピックアップしただけでも畿内の鉄器600点くらいあるんだけど<
ピックアップした3基は、いずれも3世紀末〜4世紀のホケノ以後だから、
卑弥呼の時代ではないし、
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
600点位では、まだまだ北部九州よりも少ないし。
>そして畿内に古墳は7200基 <
ここでも「畿内」なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言で、
世間の人々を騙そう、としているし。
また、何故、北部九州の古墳数を挙げないの?。 史書の記述に反し東海、伊勢との関わりが深い纒向遺跡を邪馬台国と比定する理由は何ですか? >>75
東海、伊勢と関わりが深いと何が問題なのか
説明してくれますか? >>76
史書に反しと書いてあるじゃないかw
女王国と東の倭種の国とは疎遠のはずだろw 桃もカエルも古代から現代まであった(いた)。しかも全国に存在した。
例え卑弥呼の年代とドンピシャ重なっても、
その出土物が卑弥呼に由来っするかどうかの決め手にはならないというのが学者・学問の常識、畿内説の非常識。 >>290
>3女性の合葬=箸墓・後円部(直径160m)の断面図(北側)・・・<
「南≠東」などに拠って、×。 >>292
>7200基ある畿内の古墳3基だけで鉄器600点
あとは言わんでもわかるだろっつー事だ <
畿内なんて存在もしなかった文言であるし、
その範囲も時期も恣意的であるし、
古墳3基の名前を挙げないのもインチキだし、
大和ではない古墳を入れている可能性もあるし、
また、北部九州の古墳数を挙げないのもインチキだ。 論理学を理解しているのであれば、頭の悪い奥山氏が作製したテンプレートの、、、
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。。。。
という、3つの物事の全部を証明するためには、
まず、古墳時代とは何なのかを、はっきり定義し、古墳時代の最初の古墳はどの古墳なのかを、はっきりさせることが、必要なのだったな。。。 >>300
>>会稽やその東の治域は、
中国に「九州」という概念が発生した頃から、揚州の属した地域であったのであり、
その「東の治域」の直接的支配は、
会稽郡であったり、呉郡であったり、揚州直轄地になったり、〈
>ありもしない「東の治域」を捏造したうえ <
「治域」は、「治の範囲」という説明文言だ。
>その直接的支配が 会稽郡であったり、呉郡であったり、揚州直轄地になったり
などと ありもしない歴史を空想して捏造するのもダメ<
Wikiの説明を踏襲しているだけだ。
大和説よ、捏造はダメ
相手の説明の捏造はダメよ。 >>70
>>72
卑弥呼の魏帝への朝貢理由は要するに狗奴国戦争における援軍要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置(比定)であることに留意されたい。
狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸(35万石)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万石)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万石)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地(狗古智比狗の本拠)+熊本+八代の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(上方下円墳)を比定。
祇園山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
https://sora07.exblog.jp/26083348/
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12288771975.html >>304
>(陳寿の行程説明の解釈)ただのトンデモ歪曲読みだろ
事実でも実態でもない ただの捏造だ<
いや、行程や旅程の説明に関する「普通の人類の常識」に沿った解釈だ。 奥山氏は、論破されてしまったテンプレートを貼り付け、疲れてしまって、眠ったのではないのかな。。。 狗奴國(=拘奴國)は「女王國東度海千餘里」(後漢書) >>318
「南→東」などのウソ付き騙しと同じような、世間常識に反することを、
ただ事実だ実態だと叫ぶだけでなんの証拠も出さなかったら
世間からは当然まったく信用されないし
頭のおかしい男だと避けて歩かれるだけ 邪馬台国畿内説の宣伝係員は、物事を調べるのは得意だが、理解することが不得意なので、劣った文章を作製してしまうのだったな、、、 纒向には西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考える理由となった、
纒向遺跡の発掘状況とは、木の仮面と桃の種とカエルの骨が発見された状況のことだろうか、、、 >>86
奥山氏は、論破されてしまったテンプレートを貼り付けることに疲れてしまって、自殺体になってしまったのではないのかな。。。 邪馬台国畿内説を宣伝する係員の奥山氏への弔辞を発表します。。。
奥山氏、今、僕達はあなたにお別れを告げようとしています。昨日、討論していた時はあんなに元気だったのに、、、突然、自殺体になろうとは、誰が予想できたでしょうか。
振り返ってみれば奥山氏と僕達との出会いは、5ちゃんねるの掲示板でした。偶然に僕達がスレッドを覗いた事がきっかけで、魏志倭人伝時代についての討論会で一緒に過ごしました。
奥山氏は、あの時からずっと変わらず卑劣な論敵でいてくれました。そして、奥山氏はいつも僕達に論破されましたね。。。僕達にとって奥山氏は、頭の悪さを楽しませて貰え、笑えてリラックスさせられる存在です。
奥山氏が頑張っているから、僕達が癒される、、、いつもそんな思いで生きてきました。
奥山氏、どうぞ安らかに眠ってください。また、天国であなたと討論できる日までお別れです。
奥山氏、本当に心よりありがとう。 >>328
>>このスレを見る限り、証拠を提示できないのは畿内説の方だし。<
>という証拠を出さないで馬脚をあらわす 九州説の愚 <
「このスレ」と証拠の存在している場所を示されているんだから、
「証拠を出さない」事になっておらず、
証拠を確認したければ、邪馬台国畿内説のスレのPart1〜Part473まで自分で読めば済む事であり、
それを「証拠を出さないで馬脚をあらわす」としたこの大和説男が、
馬脚をあらわした」事になる愚。 >>77
>史書に反しと書いてあるじゃないかw
どう反してるの?
具体的に説明プリーズ >>80
>古墳3基の名前を挙げないのもインチキだし、
挙げないって証拠は? >>331
>そもそも「九州説」なんて「説」が存在しないだろ
博多説とか朝倉説とか糸島説とか 宇佐説とか熊本説とか宮崎説とか 鹿児島説とかとかとか
雑多な零細説の総称 つまり群であって「説」じゃない 雑兵の竹槍部隊だよ <
いや、元々、倭国は30の国があったのであり、
それから(狗奴國以外の)九州島付近の29国が、
卑弥呼を共立して女王國と呼ばれたのであり、
その29国にも、零細な国画有って、当然。
>数あつめてもメジャーにはなれない<
メジャーな国は、女王之所都のある邪馬壹國と、
狗奴國と投馬國と奴國と、軍事的な伊都国。 鬱モードへ移行中ですか?
そろそろお薬の時間ですねw 邪馬台国畿内説を宣伝している頭の悪い者が出現したので、討論が始まるのではないのかな。。。
94日本@名無史さん2019/06/28(金) 14:13:14.45
>>77
>史書に反しと書いてあるじゃないかw
どう反してるの?
具体的に説明プリーズ
95日本@名無史さん2019/06/28(金) 14:14:57.35
>>80
>古墳3基の名前を挙げないのもインチキだし、
挙げないって証拠は? >>94
史書に反しと書いてあるじゃないかw
女王国と東の倭種の国とは疎遠のはずだろw 史書という物に反しているので、邪馬台国畿内説は破綻してしまったのだな、、、
そして、追い詰められた邪馬台国畿内説の宣伝係員は、古墳3基の名前を挙げていないのだな、、、
94日本@名無史さん2019/06/28(金) 14:13:14.45
>>77
>史書に反しと書いてあるじゃないかw
どう反してるの?
具体的に説明プリーズ
95日本@名無史さん2019/06/28(金) 14:14:57.35
>>80
>古墳3基の名前を挙げないのもインチキだし、
挙げないって証拠は? >>338
このように
「南→東」などのように史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをして、
桜井茶臼山の鏡片には全く書かれていない「正始元年」を読み取る嘘つき騙しをして、
現代考古学を完全曲解捏造しないと
大和説はまったく立ち行かないという
現実 そういえば、女王国から東に千里渡海した倭種の国は、畿内説では、どの国なのだろうか、、、 >94日本@名無史さん2019/06/28(金) 14:13:14.45
>>>77
>史書に反しと書いてあるじゃないかw
>
>どう反してるの?
>具体的に説明プリーズ
といいながらフリーズしていく奥山氏は、
脳の一部に血管が詰まるという欠陥がある、可能性が99%あるな。。。 >>102
畿内説では、南は東に変換されるので、東は北に変換される可能性があるな、、、 >>101
>桜井茶臼山の鏡片には全く書かれていない「正始元年」を読み取る嘘つき騙しをして、
>現代考古学を完全曲解捏造しないと
その現代考古学が桜井茶臼山の鏡片を正始元年銘鏡と判定したんだが?
九州説はまた現代科学を否定するの? >>104
畿内説では、北部九州から桜井市まで1500里なので、その2/3の距離を畿内から北に渡った土地が、倭種の国ではないのかな。。。 >>103
説明できないわけだ
九州説支持者の学力は随分と低いのだな >>107
京都の日本海側から、北に進めば良いのではないのかな。。。 >>109
桜井市から北の陸地であれば、日本海側は福井になるね。。。 畿内の北の日本海側の何処からも、北にはロシアがあるな。。。 >>111
距離が少し遠すぎるが、畿内説では、ロシアが倭種の住んでいた場所になるのだな。。。 >>343
>>九州探題などの九州の独立的地位を示す身分が残っていた事など。<
>??? 「九州探題」が 「九州の独立的地位を示す身分が残っていた」 ことを示す?
じゃあ、六波羅探題があるから 六波羅に独立的地位を示す身分が残ってたのか?
九州説って、どこまで歴史音痴なんだ?<
いや、「探題」は、
朝廷の支配に反抗する可能性がある氏族がいる、と思われた地に於かれるがいるものであり、
九州探題が置かれた、という事は、九州が独立しようとする可能性がある、と思われた、
という事。 邪馬台国建日向日豊久士比泥別論では、女王国から東に千里渡海した倭種の国は四国で良いのだったな。。。 >>354
>>>321が大ウソばれて赤恥
321 名前:日本@名無史さん :2019/06/27(木) 09:06:23.63
このスレを見る限り、証拠を提示できないのは畿内説の方だし。<
しかし、まだ、誰が、何を根拠に、纏向や箸墓の年代を、
240年とか260年とか280年とか4世紀とかの推定をしたのか?の、
説明を提示して貰った事が、記憶にないねえ。 >>360
自分らの主張の証拠を必死に隠す大和説の、
「南→東」などのウソ付き騙しのアホさが
マジウケる >>113
>いや、「探題」は、
>朝廷の支配に反抗する可能性がある氏族がいる、と思われた地に於かれるがいるものであり、
探題って、誰の家来だと思ってんの?
九州って、ばか? >>364
>卑弥呼の共立で纏向の建設が始まり、卑弥呼の治世の間に整備されたんだよ
だから、纏向遺跡の最盛期は卑弥呼の死後になる<
「南≠東」などのウソ付き騙しになるから、×。 箸墓周濠で出土した布留0式土器の年代について
<とある人の見解:誰しもが疑問に思うこと>
「古式新羅伽耶陶質土器は、その名前からして4世紀半ば頃と考えられます。
新羅の建国は356年ですから。
布留0式と古式新羅伽耶陶質土器は、九州などでは並行するとされますから、これからすると布留0もその頃になります。
しかし、布留式の開始を3世紀終わり頃とし、こちらの年代を優先すると古式新羅伽耶陶質時もその年代になるというわけです。
個人的には、布留式の開始を3世紀代まで持っていくのは全然、無理があると思います。
その年代観は、庄内期をどうしても卑弥呼時代に持っていかなくては成立しない邪馬台国畿内説の年代観だと思います。
箸墓古墳は、4世紀後半でしょう。」 これ見てると九州説から南とったら何も残らなそうだね >>119
>「古式新羅伽耶陶質土器は、その名前からして4世紀半ば頃と考えられます。
おばか決定 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、頭の悪い係員が、薬の副作用が弱まって、元気になってきたのではないのかな。。。
120日本@名無史さん2019/06/28(金) 15:01:52.41
これ見てると九州説から南とったら何も残らなそうだね >>121
根拠は?
ソースの提示や根拠の説明はできないのかな?
畿内説は学者でも同じように現実逃避してるよなw >>366
>>箸墓が卑弥呼の墓だという話も、言い出しっぺの学者も現在は否定してる。<
>この話も出所をゴマカシ続けてるね
九州説による捏造ってことでいいの?<
「出所をゴマカシつづけている」と言える、という事は、
この男は、「箸墓が卑弥呼の墓だ」と言った大和説学者の名前を知っている、
ってことだな。
それならキミは、何故その名前を出さないの?。
出さずに騙して、相手を誹謗している、ってことでいいの?。 僕達は併行関係という物事を最近研究したのだが、備忘録が倉庫に送られてしまったな。。。 >>369
「南→東」などのウソ付き騙しの大和説は、すぐ論破される
そしてスレ主や類スレ主らが現れら、口先騙し論法で、ログを流して誤魔化す
この繰り返し 世の中には、文学の研究を実行している学部があったな。。。 >>120
いまだに「南」が実は「東」であることを証明できていない畿内説は、
永遠に「妄想」と呼ばれ続けるわけですねw >>370
「南→東」などのウソ付き騙しの大和説者は、
当たり前のように嘘をつくし、史料事実の捏造をするな
この辺が普通の人間ではない証なんだよな 文学の研究を実行している学部に、入部するための試験では、あまり論理の能力が試されないのではないのかな。。。 邪馬台国畿内説の宣伝係員は、物事を調べるのは得意だが、理解することが不得意なので、調べたことを他の者に伝達することができないのだったな、、、
123日本@名無史さん2019/06/28(金) 15:05:29.52
>>121
根拠は?
ソースの提示や根拠の説明はできないのかな?
畿内説は学者でも同じように現実逃避してるよなw 謎の『チェーンソーのゲーム』の話?
最初のほうに出てくるBOSSキャラはメーソンでしょ、
311なども人工地震だぞと言っている人がいたり >>123
テンプレ読め
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。 >>125
問題が作製されました、、、
Aという物体が1950年から1969年まであったとします。
Bという物体が1960年から1979年まであったとします。
Cという物体が1970年から1989年まであったとします。
Dという物体が1980年から1999年まであったとします。
だからAとBは、同じ年代に存在しました、、、
そしてBとCは、同じ年代に存在しました、、、
そしてCとDは、同じ年代に存在しました、、、
AとDは、併行したでしょうか、、、
381 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/12(水) 02:20:56.40
◆FAQ 43
塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008) 文学の研究を実行している学部に、入部するための試験では、あまり論理の能力が試されないのではないのかな。。。 >>134
それ、奥山説だろw
畿内説の提示する根拠を書けよ。
ソースへのリンクを貼るとか。 735日本@名無史さん2019/06/16(日) 09:14:40.62
考古発見物体の式が複数あって、その式同士の時間的な始点や終点が一致することを、その時代の文章なしで証明することは、不可能に近いのではないのかな、、、
736日本@名無史さん2019/06/16(日) 09:18:10.06
塼室墓1B II型式新段階、楽浪木槨墓V期、西新(I式)、庄内という4つの物事が、併行するという意見は、
塼室墓1B II型式新段階、楽浪木槨墓V期、西新(I式)、庄内という4つの物事の、時間的な始点と終点が、それぞれ全て一致するという意見と等価なのだろうか、、、
それとも、あまり頭の良くない者が考えつく詐欺の手法なのだろうか、、、
381 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/12(水) 02:20:56.40
◆FAQ 43
塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008) >>139
じゃあ奥山説は30年以上前の説なんだなw FAQ 42 のことで、討論が発生している可能性があるな。。。 >>142
このFAQを、論理学者がどう考えるのか、考古学にも論理学にも詳しくない僕達も、考えてみれば良いのではないのかな。。。
134日本@名無史さん2019/06/28(金) 15:16:00.78
>>123
テンプレ読め
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。 >>375
>ホケノと箸墓の古墳造営基地局だったという説の方がはるかに信憑性が高いがなw
出土品がそれをまるまる証明しているだろw <
またた、意味も根拠も不明な話を出して来て、何やら世間の人々を騙そう、としているな?。 ベンツ、Aのようなマークが何やらと言っている人がいたり、
BOSSのアクセサリー?
メーソン? >>143
お前がよく言ってる事じゃないかw
九州説は30年前の情報にしがみついてる
・・とかwww >>144
FAQというのは、あからさまな自作自演のことなのだが、密やかな自作自演がある可能性もあるな。。。 古式新羅伽耶土器の出る、地層から桃の種を2400個掘り出してきて、AMSで年代測定する必要性が、あるのだな。。。 >>395
>逆質問で誤魔化す九州説はいつも中味なし<
証拠を言ってあっても、なかったようにして、
「証拠は?」と質問してくる「南→東」などのウソ付き騙しの大和説者の質問は、
いつも中身なし。 >>83の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」分家=狗奴国・王卑弥弓呼の子孫/八代淡海→近江)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(卑弥弓呼、帯方郡張政の説諭で、卑弥呼に服従)、伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床を抑えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国系(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…息子の垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を神功皇后が暗殺、政権を奪還)
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺(百済本紀531辛亥年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去)、筑紫君と史実歪曲→阿蘇邪靡堆へ遷都・倭王阿毎多利思比孤へ)
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)(唐新羅連合軍の脅威現実味→欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)大和東遷、飛鳥疎開宮造営)
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→崇神朝・応神朝・継体朝の倭王権(九州王朝)内の抗争が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲。畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)→欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>150
奥山氏が真実だと考えていることだけを書きだせば、気持ちよく読めるので良いな、、、 >>396
今回もまた
「南→東」などのウソ付き騙しの大和説は、
九州説に対して具体的な反論をまったくせず
ただ「なにもない」「なにもない」と
連呼するだけじゃないか
それは反論でない >>156
FAQ42で、奥山氏が真実だと考えている1番目のこと
新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器と、初期の布留式が見つかっている。。。 >>153
いや、だから
どこで「言ってあっ」たのか
証拠だせよ
そこまでして証拠だしたくないの? >>156
FAQ42で、奥山氏が真実だと考えている1番目のこと、、、
新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器と、初期の布留式が一緒に見つかっている。。。
FAQ42で、奥山氏が真実だと考えている2番目のこと、、、
弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされている土器と、初期の布留式が一緒に見つかっている。。。 『無政府主義者 メーソン』
調べてみると「A」のような・・・? 根拠を示した文章の意味が理解できないのは、キナイコシがコミュ障だからだよ。 >>156
FAQ42で、奥山氏が真実だと考えている1番目のこと、、、
新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器と、初期の布留式が一緒に見つかっている。。。
FAQ42で、奥山氏が真実だと考えている2番目のこと、、、
弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされている土器と、初期の布留式が一緒に見つかっている。。。
FAQ42で、奥山氏が真実だと考えている3番目のこと、、、
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。。。。 土蜘蛛〜と言っているのも、メーソンと言えばメーソン >>156
FAQ42で、奥山氏が真実だと考えている1番目のこと、、、
新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器と、初期の布留式が一緒に見つかっている。。。
FAQ42で、奥山氏が真実だと考えている2番目のこと、、、
弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされている土器と、初期の布留式が一緒に見つかっている。。。
FAQ42で、奥山氏が真実だと考えている3番目のこと、、、
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。。。。
FAQ42で、奥山氏が真実だと考えている4番目のこと、、、
弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代は、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。。。 >>399
>> という証拠は?
>と言える根拠は?<
>おいおい、また発狂したのか九州説 質問に証拠は要らんぞ<
おいおい、また発狂したのか?大和説。
質問をするんなら、何故質問をしたのか?の理由や根拠がいる。 家の老婆も詳しかったんだけどw何なんだろう
歌舞伎や芝居が〜、クモスケが〜、とか >>400
>テンプレに示してるから終わってるだろう<
「テンプレに示してある」では終わっていない。
テンプレの該当部分を全部転写紹介して貰わないと、根拠や証拠の説明にならない。
そして、大和説は聞かれた証拠をなにも出さないから
やはり終わってる >>168
つまり、奥山氏は、弁辰韓V期(後期瓦質土器)と初期の布留式が一緒に見つかっていないという主張をするためだけに、頭が悪くない者であれば、もう少し短くできるFAQを作製したのだな。。。 >>172
だが、奥山氏は、なぜ、弁辰韓V期(後期瓦質土器)と初期の布留式が一緒に見つかっていないという、あまり、魏志倭人伝時代の討論とは関係が無いことをFAQにしたのだろうか、、、 >>168
物理的理論で「時間や順序は存在しない」という話もある。
もちろん奥山氏の10KBの脳では理解できない話だから関係ないけどw >>173
そうだな、、、
僕達が、奥山氏の立場なら、弁辰韓V期(後期瓦質土器)と初期の布留式が一緒に見つかっていないという主張よりも、
新羅と伽耶の地域性が発現する以降の時代の土器と、初期の布留式が一緒に見つかっていないことを、力説するな。。。 新羅と伽耶の地域性が発現する以降の時代の土器と、初期の布留式は一緒に見つかっていないのだろうか、、、 >>403
>経験上旅行先でどちらが北ですかと聞いても答えられる人はそんなに居ないな
大抵の人はランドマークで道なりの地理を把握してるだけで地図は頭に入って無い<
ランドマークではあてにならない。
やはり日の出や日の入りや太陽位置や高さで北が大体わかるし、
夜は、北極星の探し方を知っておれば、北は大体分かる。 >>405
>南は南だよ
投馬国は宮崎鹿児島
天武のルーツ
誤魔化そうとしても無駄 <
ふーん。 >>162
相手を罵倒すると自分は証拠を出さないで済むと思ってる犯罪的妄言集団
それが九州説 そもそも、新羅と伽耶の地域性が発現したのは、何時のことなのだろうか、、、 >>178
投馬国は宮崎県の当麻だと九州論スレで判明してた。 >>144
このFAQは、テンプレートの他の部分と同じく、論理学者にとっては、意味がある意見ではない可能性が高いな。。。
134日本@名無史さん2019/06/28(金) 15:16:00.78
>>123
テンプレ読め
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。 >>420
>>普通の人ならそうかもしれんけど、
魏から送られてきた使者がそこまでいい加減なわけないだろう<
>それなら末盧国から伊都国に向かう方位を間違えたりしないよな
実際は間違ってるけど <
末盧國からや途中からは、伊都国は見えないんだから、
魏の役人は、方向を計測出来ず、記録出来ない。
そして、「東南」は冒頭に書かれたから、出発時点での出発方向説明であり、
それなら、魏の役人たちは方向を計測出来る。 >>83の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」分家=狗奴国・王卑弥弓呼の子孫/八代淡海→近江)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(卑弥弓呼、帯方郡張政の説諭で卑弥呼に服従)、伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床を抑えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国系(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…息子の垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を神功皇后が暗殺、「倭の五王」へ)…魏>晋>「宋>斉>梁」南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任命される。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と史実歪曲→阿蘇邪靡堆へ遷都・倭王阿毎多利思比孤607へ)
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)(唐新羅連合軍の脅威現実味→欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)大和東遷、飛鳥疎開宮造営)
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→崇神朝・応神朝・継体朝の倭王権(九州王朝)内の抗争が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲(安閑・宣化→多利思比孤系を抹消)。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)→欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)→欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>77
>女王国と東の倭種の国とは疎遠のはずだろw
何度も書くが、東渡海千余里「皆」倭種だ
渡海前も渡海後も、変わらず同じ倭種の国と書いてあるだけ
「疎遠のはず」と読み取るべき事柄は一切書いてない
そもそも「邪馬台国の向こう側」に斯馬國以下21カ国の余傍国が記されており
大和の東側も21カ国分は女王国連合の範囲内
そこから多くの人々が王都に集まるのは当たり前 >>144
このFAQは論理学者にとっては、、、、
布留式土器がオオカミの骨と一緒に発見されたので、布留式はオオカミが生きていた時代に作製されたのだ、、、
ということと、あまり違わないな。。。
134日本@名無史さん2019/06/28(金) 15:16:00.78
>>123
テンプレ読め
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。 >>78
>その出土物が卑弥呼に由来っするかどうかの決め手にはならない
カエルや桃が、ではなく、倭国最大級の大規模祭祀跡は、時代が一致する以上
王である卑弥呼に由来すると考えるのが当然
畿内説でカエルが出たからとか、桃の種が出たからとか言ってるやつはいないだろ? 新羅と伽耶の地域性が発現する以降の時代の土器と、初期の布留式は一緒に見つかっていないのだろうか、、、 新羅と伽耶の地域性が発現する時代の土器と、畿内馬具はどちらが古いのだろうか、、、 >>81
>まず、古墳時代とは何なのかを、はっきり定義し、古墳時代の最初の古墳はどの古墳なのかを、はっきりさせることが、必要
何度もきちんと定義してあるんだが、学校で居眠りしていた程度のおつむの軽い人には読み取れないのかな?
古墳時代とは何なのか
⇒ 卑弥呼の共立に伴い、広範囲の首長の間で祭祀連合が成立した後の時代
古墳時代最初の古墳
⇒ 纏向型前方後円墳(前方後方墳も可)で各地域で最初の古墳
祭祀連合が成立した後、大体年齢順に各地の首長が死に、死んだ順に古墳が築かれるので、
各地域最古は言えても、倭国全体で最古はそれほど意味がない
纏向古墳群では、纏向石塚古墳が最古で、列島全体でも最古級(3世紀初頭、庄内0式期) これは、奥山氏の意見なのだろうか、、、
それとも、75パーという別キャラクターの意見なのだろうか。。。
190日本@名無史さん2019/06/28(金) 16:34:54.77
>>81
>まず、古墳時代とは何なのかを、はっきり定義し、古墳時代の最初の古墳はどの古墳なのかを、はっきりさせることが、必要
何度もきちんと定義してあるんだが、学校で居眠りしていた程度のおつむの軽い人には読み取れないのかな?
古墳時代とは何なのか
⇒ 卑弥呼の共立に伴い、広範囲の首長の間で祭祀連合が成立した後の時代
古墳時代最初の古墳
⇒ 纏向型前方後円墳(前方後方墳も可)で各地域で最初の古墳
祭祀連合が成立した後、大体年齢順に各地の首長が死に、死んだ順に古墳が築かれるので、
各地域最古は言えても、倭国全体で最古はそれほど意味がない
纏向古墳群では、纏向石塚古墳が最古で、列島全体でも最古級(3世紀初頭、庄内0式期) >>436
>その権力の中心が見つからないから、九州説は雑魚の集まりなんだろ?
権力の中心と目される遺跡を見つけてから、アプローチしてくれ <
遺跡は当然何本もの「大道」がある弥生銀座が首都圏だな。 >>191
テンプレートを作製した奥山氏の意見だということが明確にされなければ、テンプレートの骨子を証明するための準備段階である、、、
古墳時代とは何なのかを、はっきり定義し、古墳時代の最初の古墳はどの古墳なのかを、はっきりさせること、、、
には、全くならず、ただ、敗北宣言と同じ意味にしかならない悪口を言い放ったことと等価だね。。。
190日本@名無史さん2019/06/28(金) 16:34:54.77
>>81
>まず、古墳時代とは何なのかを、はっきり定義し、古墳時代の最初の古墳はどの古墳なのかを、はっきりさせることが、必要
何度もきちんと定義してあるんだが、学校で居眠りしていた程度のおつむの軽い人には読み取れないのかな?
古墳時代とは何なのか
⇒ 卑弥呼の共立に伴い、広範囲の首長の間で祭祀連合が成立した後の時代
古墳時代最初の古墳
⇒ 纏向型前方後円墳(前方後方墳も可)で各地域で最初の古墳
祭祀連合が成立した後、大体年齢順に各地の首長が死に、死んだ順に古墳が築かれるので、
各地域最古は言えても、倭国全体で最古はそれほど意味がない
纏向古墳群では、纏向石塚古墳が最古で、列島全体でも最古級(3世紀初頭、庄内0式期) >>80
>古墳3基の名前を挙げないのもインチキだし、
ザラゴキや、お前がわざと周回遅れにしてリンクがたどれないようにしているだけで、
直前のレスで古墳3基の名前は明記してあったぞ
前スレ>263
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1561528938/263
ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、」鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品がでている。
黒塚古墳 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品 前スレで答えの出なかった課題w
土器様式によって勢力圏を判断する畿内説によると、
東海政権がTOP政権となってしまう件w
■畿内説曰く
3世紀に入ると九州で畿内式土器が出現する。
これは畿内政権が北部九州を傘下においていた事を意味する。
■九州説曰く
それは畿内が北部九州に納品(献上)していた物であり、
逆に纏向では九州産の土器は出土しない。
畿内は北部九州の傘下にあったとも考えられる。
■東海説曰く
同時期の纏向遺跡からは東海式土器が大量に出土するので
纏向は東海政権の傘下にあったと考えられる。 >>111
>畿内の北の日本海側の何処からも、北にはロシアがあるな
そういう見方をするなら、渡海千里は隠岐の島や佐渡でよいことになる
どちらもがんばれば1日の航行でたどり着けるし、記紀の国産みでも出てくる倭種の国だ >>438
ことあるごとに注意してるんだが、人種的蔑視や身体的な不自由を示す差別用語を
能力不足の文脈で使うのはやめろ。
こういうところでも大和説は下卑た表現を好むから嫌い 。 >>190
>古墳時代とは何なのか
>⇒ 卑弥呼の共立に伴い、広範囲の首長の間で祭祀連合が成立した後の時代
いやあ、ひどい妄想だ。
卑弥呼の共立からなら、2世紀の末には古墳時代ということか?
それはどの古墳のことだ?
そもそも卑弥呼と古墳時代を関連づけること自体が根拠がないけどね! >>439
>残念ながら辻地区の大型建物は、柱の抜き取りあとに埋められた土器の編年から
3世紀前半には廃絶されて卑弥呼の頃には既になかった、というのが公式見解だぞ<
どこの誰の、どんな表題のレポートだ?。 >>193
とりあえず、骨子に、その頭の悪そうな者の意見を反映してみれば良いな。。。
【骨 子】
・3世紀中葉には、卑弥呼の共立が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・纏向石塚古墳が出現した時期(3世紀初頭、庄内0式期)に、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。 >>197
おいおい
それが九州説なことは証拠が出てるじゃないか >>194
>ホケノ山 畿内 3世紀中葉
>椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
>黒塚古墳 3世紀後半
卑弥呼の死後に九州から鉄器を持った人達が畿内に侵入したのだね。 まったく畿内説に反論できず
ただ悪質な悪口をわめき散らすだけ
それが論争の敗者九州説 >>195
>これは畿内政権が北部九州を傘下においていた事を意味する
傘下とは言っていない
北部九州最大国の奴国と畿内が協調関係にあったことを示している
>同時期の纏向遺跡からは東海式土器が大量に出土するので
>纏向は東海政権の傘下にあったと考えられる。
東海説なんてないww
大量にと言っても、7%程度で纏向遺跡では畿内様式土器が7割
どこにもよその傘下とみなすべき理由がない
また、その直後の時代に、北部九州も東海地域も祭祀用供献土器を含む形で
畿内様式土器で統一され、祭祀の共通化が生じたことが確認できる
>>195のような意見も、要はチェリーピッキングに過ぎない
纏向遺跡で出土する外来土器(は15%程度)で、
(そのうち)最も多いのが東海地方の土器であり49%
このカッコ内を除くことで、纏向遺跡出土土器の半分が
東海土器で占められているように見せかけているww >>205
>また、その直後の時代に、北部九州も東海地域も祭祀用供献土器を含む形で
だから、後世の話を持ち出すなよ。
最後は奈良盆地に都が置かれるのはわかっているが、問題はその前の卑弥呼の時代だろ? つまり、畿内説では新潟県も島根県も、カエルの骨や木の仮面や桃の種を使用する祭祀の女王の国だと考えているのだな。。。
そして、北部九州から畿内の港には二日もかからないと考えるのだな。。。
196日本@名無史さん2019/06/28(金) 16:47:30.07
>>111
>畿内の北の日本海側の何処からも、北にはロシアがあるな
そういう見方をするなら、渡海千里は隠岐の島や佐渡でよいことになる
どちらもがんばれば1日の航行でたどり着けるし、記紀の国産みでも出てくる倭種の国だ >>205
>纏向遺跡で出土する外来土器(は15%程度)で、
>(そのうち)最も多いのが東海地方の土器であり49%
要するに閉鎖的な田舎だが、たまに出かけていく先は東海方面だったんだよ。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、完全に論破されてしまった奥山氏が、反論を諦めて嘘の誹謗中傷を言い放つだけになってきたな。。。
204日本@名無史さん2019/06/28(金) 16:57:32.27
まったく畿内説に反論できず
ただ悪質な悪口をわめき散らすだけ
それが論争の敗者九州説 >>181
>投馬国は宮崎県の当麻だと九州論スレで判明してた。
地名だから何とも言えないが、本来「当麻」で「タギマ」と読むんだぞ
投馬国dug-magとは一致しない
ぱっと見、宮崎県には当麻の地名が見当たらないんだが、
現代の地図ではどの辺に当たるんだ?
日本書紀の垂仁紀には當麻邑の當麻蹶速が出てくるが、この當麻邑は
奈良県葛城市當麻寺付近
読みは、タギマの子音gが弱声化した「タイマ」だ >>205
>傘下とは言っていない
テンプレ読めwww
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7) >>205
それさあ、外来土器のみで判断すべき事項だろ馬鹿か?w
お前マジで文系未満?w >>450
>>畿内の土器は福岡で見つかるが、逆はなく、一方的に畿内が献上する立場だった。<
これは、ちょっと微妙な問題があります。
明大佐々木の説明では、筑紫の庄内は、3世紀前半であり、
それも(米田の言った)大和や播磨の胎土ではなく、
筑紫の自前の胎土であった、というような説明であり、
柳田も、弥生銀座地域の庄内よりも、三雲の庄内の方が古い、
という説明をついうっかりしてしまっており、
ところが、大和の庄内の始まりは、石塚の庄内1であり、
その年代は撥型前方後円墳であるから3世紀第4四半世紀頃になってしまうので、
筑紫が大和の庄内を模倣した、という論理は全く成立せず、
逆に大和が筑紫の庄内を模倣したとになる事と、
筑紫に僅かに残っていた河内や播磨などの胎土の庄内は、
河内や播磨から筑紫への貢納のような形である事になる事です。 >>204
反論出来ないからと言って、他人に迷惑をかけるようなことをしちゃダメだぞw
川崎市民ならなおさらw >>198
>いやあ、ひどい妄想だ。
妄想じゃないよ
箸墓再考というシンポジウムでのディスカッションの記事でも読んでごらん
http://artray.jugem.jp/?eid=70
>卑弥呼の共立からなら、2世紀の末には古墳時代ということか?
卑弥呼の共立によって祭祀連合が成立し、その祭祀連合の成立を以って古墳時代の開始とする考え方
卑弥呼の共立が2世紀末というのが通説だが、その根拠は実は薄弱
梁書の「霊帝光和年中」が根拠だが、梁書は7世紀636年の成立
また、後漢書にも「桓靈間」という表現があるが、これは三国志東夷伝にも「桓靈之末、韓濊彊盛」という文言があるように、
後漢末の混乱期を示す決まり文句のようなもの
後漢書に倭國大亂 更相攻伐 歴年無主とあるように、無主=王の居ない状態が歴年=何年も続いたとあるのだから、卑弥呼の共立を2世紀末に求める必要はない
まあ、いずれにせよ庄内0式土器の時代から古墳時代だと思えばよい
>それはどの古墳のことだ?
そして、最初の古墳は、各地域の首長が死んだ順番で前後するので一番最初にこだわる意味はあまりない
纏向であれば、纏向石塚古墳となる
>そもそも卑弥呼と古墳時代を関連づけること自体が根拠がないけどね!
卑弥呼と古墳時代が関連付けられるというより、
卑弥呼の「共立」に伴う「祭祀連合の成立」が、「各地で同一規格の墳丘墓=古墳が一斉に作られ始めること」と関連付けて考えられるんだよ
卑弥呼を抜きにしても、「各地で同一規格の墳丘墓=古墳が一斉に作られ始めること」から
「広範囲の祭祀連合の成立」が想定されるし、史書の記録にその契機を求めるなら、
年代の一致からしても卑弥呼の共立を想定するのがある意味当然 >>211
>ぱっと見、宮崎県には当麻の地名が見当たらないんだが、
>現代の地図ではどの辺に当たるんだ?
地元宮崎の年配者とか史家には知られた地名さ
西都市妻の旧国府のすぐ南だ、海岸ではなく、やや山寄りというか山すそ。
たしかまだ集落名として残っているのではなかったかな。訛るとタイマ、タッヒマ。 邪馬台国の話ではないんだけど、
家の話をしているんだろう?と聞いているんだよ
川崎区の南部のほうに住んでいる >>209
>要するに閉鎖的な田舎だが、たまに出かけていく先は東海方面だったんだよ。
相変わらず見ない聞こえないしか言うことがないんだなww
https://i.imgur.com/Eoyi8mm.jpg
西からもたくさん入ってるだろ?
そして全国の人の動きはこうなっている
https://i.imgur.com/TRmurSB.jpg
各地が独立無干渉で、倭国は九州のみという九州説の言い分はまったく通らない
各地の人が北部九州に来ている状態で、北部九州のローカル首長が魏王朝をだまして
倭王に除正されるというのは妄想にすぎない >>217
>卑弥呼の「共立」に伴う「祭祀連合の成立」が、
卑弥呼は政治の為に鬼道を行う巫女である事は書かれているが、祭祀を統一する女王などという記録は一切無い。
妄想を根拠としてしまう病気は治らんのか?
一般社会でのやり取りでも支障が出るレベルだぞw >>213
>それさあ、外来土器のみで判断すべき事項だろ馬鹿か?w
お前、底抜けのバカだな
「ある遺跡で、外来土器が全出土土器の0.3%確認できました
その外来土器の95%が北部九州由来です」
となったときに、その「ある遺跡」が北部九州の傘下ってことになるのか?
お前バカだろう?
ごく薄い付き合いが九州とあったということにしかならない 奥山くん、くすり飲み過ぎたようですねwww
1回3錠じゃないですよ、1日3錠ですからねw 何の病気なのか知らないけど、
病院(入院?)に行けと言っているんだよw
何度も書いているでしょ >>2111
取り急ぎyahooの地図では見当たらないな
西都市から南の国富町へ向かう旧官道ぞいだった、
当麻ではないが、この官道沿いに「平群」という地名もあって、これは現存する。たしか大和にもあったような記憶がある・・。 家の話だと言っているんだよ
老婆が言っていた、
クモスケが何やら〜、うちだ・ゆーや〜のバンドが・・・とか
住んでいるところ?川崎区 >.456
>邪馬台国は領域の名前だよ。 国邑ではない。<
邪馬台国なんて史料に存在しなかった文言であり、根拠にならないし、
邪馬壹國は、卑弥呼共立の29国の中の一国であり、
その中に、女王之所都が置かれた、という関係になるのです。
つまり邪馬壹國の官以下の支配組織と、
女王國の男弟佐治や大夫の政府組織は別組織だ、という事です。
そして、卑弥呼と大夫の中の何人かと次使の都市牛利は、
魏からも官位を貰っている、という関係です。 >>217
>「各地で同一規格の墳丘墓=古墳が一斉に作られ始めること」から
それは、「忌部はん」 の全国展開によるもの。 簡単な話。
>「広範囲の祭祀連合の成立」が想定されるし、
卑弥呼の時代に、「広範囲の祭祀連合の成立」など有り得ない。 畿内説を成り立たせるためのコジツケ。 @阿波 >>464
>>纏向の政権が九州を傘下におさめていたのであれば
纏向から九州の土器が出てこないとおかしいんだよな<
>筑紫で作られた庄内甕が出ているが、何か?<
何時頃のどこの遺跡で、どこの胎土で造られたもので、何個位出ていたのかい?。 >>218
>西都市妻の旧国府のすぐ南だ、海岸ではなく、やや山寄りというか山すそ。
>たしかまだ集落名として残っているのではなかったかな。訛るとタイマ、タッヒマ。
とりあえずありがとう
でも結局見つけられていない
http://kiyotan.net/img_arts/08_okura/kodai.jpg
この地図の当麻の上の四角が日向国府だから、その辺だとは思うけれど >>222
>卑弥呼は政治の為に鬼道を行う巫女である事は書かれているが、祭祀を統一する女王などという記録は一切無い。
この時代は祭政一致
鬼道が宗教儀礼であることを否定する人はいない
祭政一致の時代の王の共立は、祭祀の一体化を意味する
卑弥呼が祭祀を統一したのではなく、共立という行為が祭祀の統一を伴うんだよ >>221
北部九州一強だな
次点で関東、北陸、諏訪 >>233
証明のしようの無いことをあたかも史実のように言うのは一種の病気てすから。
現場、現物、再現の3現則を全うしてくれ。 >>483
>畿内の土器がたくさん出てくるから、じゃなくて九州の地場の土器がなくなって
畿内様式土器(祭祀用供献土器を含む)に統一されるからだよ <
やはり問題点は3点だな。
まず、「出ている畿内土器」の胎土がどこのものなのか?、と、
佐々木は、九州の地場土器がなくなった、とは言っていない事と、
やはり、大和の石塚の庄内1は3世紀末で、筑紫の庄内が3世紀前半であれば、
筑紫の土器が無くなって畿内様式に統一される、という事など、有り得ない、
という事だ。 >>226
>当麻ではないが、この官道沿いに「平群」という地名もあって、これは現存する。たしか大和にもあったような記憶がある・・。
再度、ありがとう
平群も當麻も、大和葛城の地名なんだよね
むしろ後世の移入地名ってことはないかね? >>235
邪馬台国の会の安本美典氏に言ってあげてくれww >>211
>地名だから何とも言えないが、本来「当麻」で「タギマ」と読むんだぞ
>投馬国dug-magとは一致しない
>読みは、タギマの子音gが弱声化した「タイマ」だ
畿内の地名に当てはめる時は音の変化に寛容なのに、九州の地名には厳格だな。
ダブルスタンダードというんだよ。
ちなみに田島なら九州の地名に相違ない。
九州北部から南九州と西日本のそれぞれのルートで地名が移転されたのだろう。
投馬国は当麻ではなく、そのすぐ北にある都万または妻だろう。
日向国の国府だ。
つまり投馬国は宮崎県。 お前たちの言っている人間(学者?不明)
なんて聞いたこともないんだけど、どこの池沼なんだ? >>217
また「魏志倭人伝は信用できない」
邪馬台国を語る資格はないよ。
畿内説が追い求めているのは空想の国だ。 >>217
>卑弥呼の「共立」に伴う「祭祀連合の成立」が、「各地で同一規格の墳丘墓=古墳が一斉に作られ始めること」と関連付けて考えられるんだよ
結論先にありきの妄想。
それにあわせて編年をいじる詐欺。 >>217
このレスが畿内説の狂気を代表しているね。 >>221
>各地が独立無干渉で、倭国は九州のみという九州説の言い分はまったく通らない
現代の日本と中国は互いに交流が大きいが、それぞれ独立国だ。 >>237
>むしろ後世の移入地名ってことはないかね?
九州から畿内への地名の移転はいつものこと。 >>217
>「各地で同一規格の墳丘墓=古墳が一斉に作られ始めること」から
それは、「忌部はん」 の全国展開によるもの。 簡単な話。
>「広範囲の祭祀連合の成立」が想定されるし、
卑弥呼の時代に、「広範囲の祭祀連合の成立」など有り得ない。 畿内説を成り立たせるためのコジツケ。 @阿波 >>246
>九州から畿内への地名の移転はいつものこと。
九州にそんな、大それた力はないよ。 畿内や九州への地名の移転は「忌部はん」 によるもの。 @阿波 >>221
この図出したの畿内説の人だと思うけど、なんで出してんの?
北部九州が強いようにしか見えない図なんだけど
畿内は東日本と九州の間を結ぶ中継貿易みたいなことをしていたようにしか見えんな
で、北部九州が全部吸い上げる形 >>249
>で、北部九州が全部吸い上げる形
「丹」の採れない北部九州に、そんな力は、絶対ない! 以上。 @阿波 >>239
西都市から東南の海岸方向へ下ると、隣接の佐土原に「上田島・下田島」という地区がある
ここはゴルフ場かなんかあってよく知られた地区。 >>249
なるほど。
ばかばかしくてよく見ていなかったが、言われてみるとそうだな。
しかも、物流の東側の起点がいずれも東海(尾張)なのも興味深い。
西日本の中心は尾張だったのかもしれない。
奈良盆地は中継地点にすぎないな。
そして尾張と言えば物部であり、纒向が物部の宮、前方後円墳が物部の墓制という見方とも一致する。 田島はそもそもは博多湾沿岸の地名で、田島神社などで知られる。
宗像とも縁が深く、博多湾を挟んで西に田島、東に宗像が配置されている。
というよりも、田島宗像の領域に甕棺墓の天孫族が割り込んで博多湾沿岸を占拠したように見える。
すると田島宗像は天孫族より前の世代の倭王であり、綿津見大山積に符合すべきか。 邪馬台国畿内説の宣伝係員の奥山氏は、物事を調べて情報を発見することは得意だが、理解することが不得意なので、調べた情報を利用して、他の者に何かを伝達するときに利用する情報で却って失敗するのだったな、、、
249日本@名無史さん2019/06/28(金) 19:32:46.59
>>221
この図出したの畿内説の人だと思うけど、なんで出してんの?
北部九州が強いようにしか見えない図なんだけど
畿内は東日本と九州の間を結ぶ中継貿易みたいなことをしていたようにしか見えんな
で、北部九州が全部吸い上げる形 >>255
>で、北部九州が全部吸い上げる形
「丹」の採れない北部九州に、そんな力は、絶対ない! 以上。 @阿波 >纒向遺跡の発掘状況等から、
>ここには西日本の広域に影響力を持った
強いて言えば西日本ではなく東日本だなw
あと「に影響力を持った」ではなく「から影響を受けた」だなw
>宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
妄想全開w
>その死亡時期は3世紀中葉とみられる。
根拠不明w
>畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
まったく浸透していないw 僕達は、今夜は、ガウスについての研究や、大阪のトラックが、どのようなトラックなのかを研究するので、
疲れたら、このスレッドを読んで、笑いリラクッスして、疲れを癒やせば良いな。。。 ・軍司事件。
・何者にもなれない お前たち。
・川俣町という掲示板。
同じような話をしているんだけど、なぜだと思う? 包丁、寿司職人?そういう話をしていたり
家も、むかーし、住んでいたことがあるんだよと言っていた、
川俣町(伊達郡)というところ 田島や宗像は西日本や東日本の各地に勢力を拡大するが、それと同時に南九州にも勢力を拡大したのだろう。
宗像の末社としては安芸の宮島(厳島神社)や湘南江ノ島神社が有名。
上古においては、神社が支配構造の中核をなしていたのだろう。
住吉、大三島、加茂など、九州北部を起源とする西日本の神社は枚挙にいとまがない。
一方の但馬といえば開化天皇の末裔に由来するとのことなので、宗像三女神を祭る唐津の田島神社の方が古いのは明らか。
神社に絡まない地名も多く九州北部から西日本または南九州に移転されている。
日向国は国衙と都万神社が一致しており、魏志倭人伝の投馬国まで遡ることができる地名となる。 注意)読み方が難しいので思考回路を参考にしてください。
タイトル:やまたいこくのなぞ@
所 属:5チャンネル日本史板
著 者:おくやま
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
※思考回路:WEB閲覧→妄想→派生した妄想→史実挿入→幻覚見ながら結論。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
※思考回路:史料曲解→事実歪曲→妄想→妄想に関する結論 注意)読み方が難しいので思考回路を参考にしてください。
タイトル:やまたいこくのなぞ@
所 属:5チャンネル日本史板
著 者:おくやま
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
※思考回路:WEB検索→電波受信→事実誤認→妄想ジャンプして結論
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
※思考回路:飛蚊症による視力低下→妄想→妄想分裂→大きな方の妄想についての結論 結局のところ、福岡の卑弥呼がひたすら中国との関係を求めたのに対し、西日本に降臨したニギハヤヒら天神が、卑弥呼の在位中は雌伏の時を過ごしていたのだろう。
3世紀中頃の卑弥呼の死と同時に倭国は不安定化し、西日本にも大きな変革が訪れたのだろう。
だがそれは畿内に卑弥呼がいたことを意味しない。
遠い九州の戦乱の余波なのだ。 テンプレじっくり読むとマジで逝ってるのが分かるぞw 蚕を飼い、機織りをしている家の話もしていたし、
当時住んでいた家に凄い刀()が飾ってあった
とか >>235
>証明のしようの無いことをあたかも史実のように
まともな反論どころかイチャモンすら付けられなかったんだねww 注意)読み方が難しいので思考回路を参考にしてください。
タイトル:やまたいこくのなぞ@
所 属:5チャンネル日本史板
著 者:おくやま
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
※思考回路:史実+捏造史→誤字発生(流入→納入)→誤字発生(人口流入→難民流入)
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
※思考回路:薬服用→受け売り→コピペ
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
※思考回路:うわごと >>239
>投馬国は当麻ではなく、そのすぐ北にある都万または妻だろう。
>日向国の国府だ。
>つまり投馬国は宮崎県。
じゃあ當麻は要らなかったね
だがその前に投馬国は戸数道里略載の女王国以北の国だから、
宮崎に比定するなら北部九州説とは相容れないww
邪馬台国の会にお帰りw 注意)読み方が難しいので思考回路を参考にしてください。
タイトル:やまたいこくのなぞ@
所 属:5チャンネル日本史板
著 者:おくやま
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
※思考回路:VRゴーグル着用→Loading now.....
それは桜井市纒向以外にありえない。
※思考回路:5chゲーム開始 >>241
武烈天皇と争って滅ぼされた平群氏の本願だな >>242
>また「魏志倭人伝は信用できない」
?
信用できないって言ってるのは梁書の霊帝光和中なんだが?
魏志倭人伝に書いてあるのは
住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。だけで、
倭国乱が2世紀末などとはどこにも書いてないし、卑弥呼の共立が2世紀とも書いてないぞ? >>243、>>244
まともな反論ができないんだなww
矛盾点を指摘するとか、推論の穴を指摘するとか一切できていないww
この辺が邪馬台国の会の限界だなww >>271
>だがその前に投馬国は戸数道里略載の女王国以北の国だから、
>宮崎に比定するなら北部九州説とは相容れないwwww
そういうことだ、
投馬国は戸数日数略載で里数は書かれていないから、女王国以北の国ではない。だから宮崎でよい。。。 >>245
日本と中国で、前方後円墳祭祀を共有してるなんてことはないだろ?
目が二つなのが共通って言ってるのと同じだぞww>>245の言い分はww 僕達の研究では、投馬国は豊国であり、女王国には含めないのだが、、、
頭が悪すぎる奥山氏の意見では、北に隠岐がある投馬国も、女王国の一部にしていたことになるので、投馬=宮崎が女王国以北でも良いな、、、
271日本@名無史さん2019/06/28(金) 20:48:38.79
>>239
>投馬国は当麻ではなく、そのすぐ北にある都万または妻だろう。
>日向国の国府だ。
>つまり投馬国は宮崎県。
じゃあ當麻は要らなかったね
だがその前に投馬国は戸数道里略載の女王国以北の国だから、
宮崎に比定するなら北部九州説とは相容れないww
邪馬台国の会にお帰りw >>249
>北部九州が強いようにしか見えない図なんだけど
九州だけの倭国を否定するための図だから、九州が倭国の他の地域と結びついているのを
九州説の>>249でも認めざるを得ないならそれでOK
北部九州がザコなのは、別の指標で明らかだから「北部九州が強いようにしか見えない」というのは
ただの主観でしかないしww
弥生終末期の王墓級墳丘墓の大きさ
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある
纏向型前方後円墳は、
纒向石塚古墳で全長96メートル、
東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の王墓としては、
どうしても見劣りする
伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態
3世紀の北部九州はザコ
他地域の比較で王の地位は回ってこない 奥山氏は、頭が悪すぎるので、論理構成ができず、観察者にとっては、笑えてリラックスできるので良いなw >>278
当麻(タイマ)は投馬(都万)とは起源が違うのか、はたまた当麻が投馬の元の集落だったのか。
ところで、iOSの辞書ではタイマで当麻に変換できるね。
それくらいには知られた地名の読み方だというわけだ。 >>276
>投馬国は戸数日数略載で里数は書かれていないから、女王国以北の国ではない。だから宮崎でよい。。。
そういうバカがいるからテンプレが長くなるんだよww
つ >>60
FAQ78
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 奥山氏が、長文を発表したが、倭国と古墳王国が国際貿易をしただけなのではないのかな、、、
279日本@名無史さん2019/06/28(金) 21:10:15.24
>>249
>北部九州が強いようにしか見えない図なんだけど
九州だけの倭国を否定するための図だから、九州が倭国の他の地域と結びついているのを
九州説の>>249でも認めざるを得ないならそれでOK
北部九州がザコなのは、別の指標で明らかだから「北部九州が強いようにしか見えない」というのは
ただの主観でしかないしww
弥生終末期の王墓級墳丘墓の大きさ
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある
纏向型前方後円墳は、
纒向石塚古墳で全長96メートル、
東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の王墓としては、
どうしても見劣りする
伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態
3世紀の北部九州はザコ
他地域の比較で王の地位は回ってこない >>281
>卑弥呼が魏と外交したり初期の神社を作っていた頃、天皇家は何をしていたの?
ヒコ王の方は邪馬台国七万戸のローカル首長だよ
ヒメ王の方が倭国全体の祭祀王の地位にあった
どちらも皇統の王
ちなみに天皇家という家はない 奥山氏は、頭が悪すぎるので、論理構成ができず、観察者にとっては、笑えてリラックスできるので良いなw >>282
>iOSの辞書ではタイマで当麻に変換できるね
つまり當麻を見て、投馬国があったなどというのはもの知らずの所行ってこと
でも九州説の連中は読めないんだよなw >>285
卑弥呼と同時代に神武が東に落ち延びてニギハヤヒの世話になっていた。 >>287
当麻と都万は別だと言っておる。
都万国は国府であった都万神社の方だ。 つまり、邪馬台国畿内説という仮説では、祭祀王という立場の卑弥呼は、邪馬台国の政治とは独立していたのだな、、、
285日本@名無史さん2019/06/28(金) 21:17:47.18
>>281
>卑弥呼が魏と外交したり初期の神社を作っていた頃、天皇家は何をしていたの?
ヒコ王の方は邪馬台国七万戸のローカル首長だよ
ヒメ王の方が倭国全体の祭祀王の地位にあった
どちらも皇統の王
ちなみに天皇家という家はない >>290
さすがに、その空想は、ヒメヒコ制度という物事の存在を肯定し研究している学者からも反論が、ありそうだな、、、
285日本@名無史さん2019/06/28(金) 21:17:47.18
>>281
>卑弥呼が魏と外交したり初期の神社を作っていた頃、天皇家は何をしていたの?
ヒコ王の方は邪馬台国七万戸のローカル首長だよ
ヒメ王の方が倭国全体の祭祀王の地位にあった この空想では、ヒメヒコ制度の二つの中心が及ぼす影響の範囲が、重ならないのだな。。。
285日本@名無史さん2019/06/28(金) 21:17:47.18
>>281
>卑弥呼が魏と外交したり初期の神社を作っていた頃、天皇家は何をしていたの?
ヒコ王の方は邪馬台国七万戸のローカル首長だよ
ヒメ王の方が倭国全体の祭祀王の地位にあった 論破された奥山氏が、訳のわからないことを呟きはじめたな、、、
292日本@名無史さん2019/06/28(金) 21:27:11.19
連続句読点は半角草生やし >>293
この空想では、ヒメヒコ制度の二つの中心が及ぼす影響の範囲が、重ならないのだな。。。
という部分は、
この空想では、ヒメヒコ制度の二つの中心が及ぼす影響の範囲が、一致しないのだな、、、
と直した方が、誤解を受ける可能性が低いな。。
285日本@名無史さん2019/06/28(金) 21:17:47.18
>>281
>卑弥呼が魏と外交したり初期の神社を作っていた頃、天皇家は何をしていたの?
ヒコ王の方は邪馬台国七万戸のローカル首長だよ
ヒメ王の方が倭国全体の祭祀王の地位にあった >>283
>『九章算術』巻第六「均輸」に
>「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
>続けて
>「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
ま、読む人によっては、そういう解釈もあるだろう。
ただ、ここで甲県の衰125(今でいう「商」)は、1里あたりでなく、1日あたりで算出されている(125戸/日)。
つまり、道・里=里数当りではなく、遠・近を表す日数を用いて計算されていることから、「行道八日」とは「遠・近」のこととわかる。 >>212
これは酷いwww
okumura wwwwwwww 連続句読点はこれだけスレ荒らしてるのに自身の悪評は割と気にしてるのが不思議 >>282
>iOSの辞書ではタイマで当麻に変換できるね。
誤入力に対する予測変換w 奥山氏は、攻撃目標にしかならない長いテンプレートを発表したので、意見が完全には一致しない複数人の邪馬台国九州論の立場の者達から、討論を仕掛けられるので、
討論会の勝者になる確率は、0.5パー以下なのではないのかな、、、 当麻は北海道にもありトウマ。
大和の当麻はなんと読むのかな。
で、宮崎の当麻は、日向訛り(宮崎地方の発音)に従うのが良いのではないかな。 論破された奥山氏が、訳のわからない呟きを繰り返しているな、、、
298日本@名無史さん2019/06/28(金) 21:37:57.37
連続句読点はこれだけスレ荒らしてるのに自身の悪評は割と気にしてるのが不思議 土器様式によって勢力圏を判断する畿内式脳回路を使うと、
東海政権がTOP政権となってしまう件w
■畿内説曰く
3世紀に入ると九州で畿内式土器が出現する。
これは畿内政権が北部九州を傘下においていた事を意味する。
■九州説曰く
それは畿内が北部九州に納品(献上)していた物であり、
逆に纏向では九州産の土器は出土しない。
畿内は北部九州の傘下にあったとも考えられる。
■東海説曰く
同時期の纏向遺跡からは東海式土器が大量に出土する。
これは纏向が東海政権の傘下にあった事を意味する。
よーく読んで考えてみてくださいw >>299
>誤入力に対する予測変換w
おい、そこまでバカなのか?
日本にある「当麻」の地名はみんな「タイマ」だぞ
奈良葛城の当麻寺もタイマだし、神奈川県相模原の当麻もタイマ
タイマが本来の読みであって誤入力ではない 奥山氏は、攻撃目標にしかならない長いテンプレートを、骨子だけに削り、骨子に使用している言葉の定義をはっきりさせれば良いな、、、 >>301
北海道のは知らなかったが、やまとことばではなく
「地名は、アイヌ語の「トオマ」(湿地の多いところ)からとされる。」
トオマに対する当て字だな >>305
それは何度も書いてるだろ?
投馬国はdug-mag国だ >>221より
https://i.imgur.com/TRmurSB.jpg
確か、魏志倭人伝で収税は「大倭」を使って管理させるとか書いてあったなw
大倭は事務員国家だったのかな?w 日向訛りだと、タイマ→ タヒマ、タッヒマ(田島に近い) >>308
本当にそう読むのかは分からんぞ?
ちなみに上海人の田舎の老人に読ませれば、当時の発音に近いらしい。 >>296
>ただ、ここで甲県の衰125(今でいう「商」)は、1里あたりでなく、1日あたりで算出されている(125戸/日)。
その日で表された距離が、道里遠近と表現されている
日数が道里の表現として普通ということ 田島にある宗像社は、豊国だろうか、、、
それとも、豊国ではないのだろうか、、、 注意)読み方が難しいので思考回路を参考にしてください。
タイトル:やまたいこくのなぞA
所 属:5チャンネル日本史板
著 者:おくやま
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、
また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
※思考回路:誇大妄想→事実歪曲→宇宙電波受信→受信内容文字化 >>311
>ちなみに上海人の田舎の老人に読ませれば、当時の発音に近いらしい。
そういう出所不明の情報は無価値
ソースなり典拠を具体的に示さないとw
こっちのはここで確認できるよ
古今漢字音資料庫
http://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/ccr/# 宗像社は、投馬国王の国際貿易の為の出先だった可能性が急激に高まってきたな、、、 >>310
>日向訛りだと、タイマ→ タヒマ、タッヒマ(田島に近い)
>>211は読んだのか?
當麻の本来の読みは「タギマ」だ
「タヒマ、タッヒマ」なら、タジマではなくタギマの訛伝だろう >>312
>その日で表された距離が、道里遠近と表現されている
>日数が道里の表現として普通ということ
古代において、「道里遠近」というような四文字熟語用法は理解しがたい。
むしろ当時は一文字ずつで表現されていることが多い。陳寿の場合はとりわけそうである。
よって倭人伝を読むときは、道(方角)、里(里数)のように一文字ずつ切り離して、、あるいは戸数(戸の数)のように、あいだに「の」を挟んで読むと理解しやすい。 だが、なぜ、投馬の発音についての討論が始まったのだろうか、、、
もし、僕達がこのスレッドを活発化するために、雇用された係員であれば、選択しない話題だな、、、 >>303
バカなの?
未来予想やってるんじゃないぞ
過去の話であって、九州も東海も畿内の傘下に入ったんだよ
結果がすでに判明してること 九州北部でも関西でもタジマなのに、宮崎だけタヒマ、タイマに変化するのであれば、やはり九州の南北で重複する地名は北が起源と考えるべきだろう。
それは日向についても言える。
筑紫の日向は博多湾、伊都を含む倭国の王都、女王の都するところ。 >>324
>結果がすでに判明してること
それは後世の状況をそれ以前に投影してしまっているだけ。
弥生時代は圧倒的に九州が優勢だよ。 結局、畿内説は「神武が即位したヤマトが日本の都だという妄信から抜け出していない。」 >>324
考古学的事実に基づき、結果は以下のように判明してるね。
東海
↓海運
伊勢センター
↓納品
纏向倉庫
↓出荷
瀬戸内運輸
↓納品
北部九州 やはり 、対称性についての研究は、ガウスからだったのだな、、、 >>323
宮崎・日向の古地名(当麻、平群)と、大和葛城の地名に同一のものを発見したので、賑わっているようだな。
安本の筑紫ー大和の地名類似性に匹敵するからな。 >>492
>畿内第V様式土器までは、九州で畿内様式土器の出土は少ない<
これも問題だな。庄内と同じ問題が起きる。第X様式でも、
例えば大和と筑紫とで、時系列的に大和が先行した、という根拠は何なのだ?。
佐々木に拠れば、筑紫の第五様式が3世紀前半であり、
大和の第五様式の始まりの明確な時期やその根拠がない。
>庄内式期になって、祭祀の統一とセットで畿内様式土器を九州まで届ける必要が出てくると
九州で畿内様式土器の出土が増え、比恵那珂遺跡群で畿内様式土器の作製が始まる<
だからそれがおかしい、と言っているのだ。
筑紫の庄内が3世紀前半で、大和の庄内が石塚の3世紀末では、筑紫の方が大和よりも早く、
だから比恵那珂で庄内が始まって、それが大和に齎されて、
それを大和が筑紫に逆に貢納した、という事になるではないか。 邪馬台国畿内説という仮説では、破綻した要素還元主義が前提になってしまったのだろうか、、、
それとも、要素還元主義が前提になってしまってはいないと反論する者が出現するのだろうか、、、 もうここは完全に奥山妄想説でしかないよ。
奈良の人は怒ってるんじゃない? 瀬戸内運輸という運輸にも関わっている可能性を否定しきれない、大阪トラックという運輸会社が、求人広告を出しているな、、、 この分布は前方後円墳と関係あるのではないだろうか。。。
乾燥耳垢:半島・中国北部がルーツ
湿潤耳垢:縄文系がルーツ
https://i.imgur.com/Cnk5sKO.jpg >>327
国の大きさも、連合の範囲も、王墓の大きさも、中国鏡の取引も、全部畿内の圧勝
九州が自慢してた鉄も、畿内が北部九州に進出してすぐに逆転されてる
3世紀中頃の時点で、九州に優位性はない >>503
>外国製品の独占的輸入代理店でボリまくってた伊都国が・・・
畿内人が博多に住み着いて韓人と直接取引始めちゃったから、伊都国倒産
これが三世紀に起こったことさ<
これもないな。
伊都国は、仲哀の4世紀にもまだ健在していたんだし、
倭國王珍の時の平西将軍も伊都国であった可能性が高いし、
隋書の竹斯國も伊都国であった可能性が高い。 >>514
>この図を見ると畿内や東海あたりを奈良がおさえていて、それをさらに北部九州が吸い上げているように見えるな<
ダメだ。米田に拠れば、河内の方が大和よりも大都会だ。
だからその地図、を書いた男は、米田に拠って否定された。 >>515
>>あっ、畿内は「絹」を知らないんだよなw<
>なんで畿内は「絹」を知らないとか妄想するのかな 九州説妄想しすぎ<
確か、絹が見つかった古墳は、庄内1の石塚以後であるから、
早くても3世紀末かそれ以後、になってしまった筈だ。 >>328
神武即位に関しては九州説の方が拘りがありそう >>517
>近畿の弥生遺跡で九州の土器片初確認 奈良の唐古・鍵遺跡 瀬戸内海通じて交流か
https://www.sankei.com/west/news/131115/wst1311150014-n1.html
「唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡」(奈良県田原本町)から出土した土器片が、
同時代中期中ごろ(約2200年前)に九州北部で作られた土器と判明し、
町教委が15日、発表した。同遺跡を含む近畿の弥生時代の遺跡から
九州の土器が確認されたのは初めて。
専門家は「瀬戸内海を通じて直接交流があった可能性がある」としている。
須玖(すぐ)式と呼ばれる土器の破片で<
弥生中期なら、倭奴國からの神武ら東征の時期であるし、
唐古鍵は、出雲銅鐸祭祀部族系であったし、
吉備も元は出雲系であったが、神武らの東征で神武らを応援した経緯があったし、
須玖岡本系の土器が唐古鍵に来ていても、何らおかしくない。 >>343
米田の書いた文章も読んだことないくせに
有名人の名前かってに借りるの好きだね >>347
おまえの名前は絶対使われない
安心して逝け >>527
>吉野ヶ里では絹を紡ぐ時に使う丸いボタンみたいなのも出てたな。<
ふーん。 >>304
当麻は、曲がりくねった道を古くは「タギ」といい、
もともとは、「當岐麻(たぎま)」といった。
後に「タギマ」が「タイマ」に転じ、「當麻」となった
https://folklore2017.com/timei900/547.htm >>544
>じゃ、なんで弥生後期に激減しとるん? 支離滅裂や<
激減していない。須玖岡本や一貴山では、鏡を絹で包んでいた。 >>545
>絹は残りにくいものだから 絹を作る道具の出土で作っていたと考えられてるんだろ<
いや、布目氏らは絹そのものを確認しているし、
須玖岡本や一貴山では鏡を絹で包んであった。 >>341
>3世紀中頃の時点で、九州に優位性はない
3世紀中頃に何らかの変動があったらしいことは否定しない。
だがそれは、むしろ2世紀末に成立した卑弥呼政権の所在地が九州北部であったことを印象付けるだけだ。
数世代に渡り君臨した長寿の女王の死が西日本の勢力地図に何らかの変動を与えたようだ。 >>321
また適当なウソをww
道里遠近は「道里の遠近」だよww >>568
>畿内が万全で九州ぼろぼろだけど?<
大和の絹は、4世紀の二つの古墳にあった絹の破片だけ。 >>578
>絹生産地が弥生時代中期には9個で広く作られてたけど
後期には福岡市内2ヶ所と甘木市の合計3ケ所になる<
那珂八幡や一貴山は、前方後円墳だよ。 >>579
久留米と宮地嶽からは、金刺繍の絹織物が出ている。 >>582
「南≠東」などの嘘吐き騙しや、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘吐き場まし文言がバレて、」」
「大和が倭国中心」という言い分が通用しなくなったから
今度は大和が九州を支配してたって話を作ってるのか。
大和説者のトンデモは、限度を知らんな。 >>584
>「倭人の習俗がない畿内」って なんか証拠あるわけ? また発狂?<
大和付近の絹は、4世紀以後の前方後円墳であったから。 >>588
>>魏志倭人伝には畿内の描写が一つもないのでアウト。<
>じゃ、糸島の描写も熊本の描写もなくてアウトだな? で?
どこの描写があるんた?<
伊都国の糸島の描写は「皆臨津搜露」など。
狗奴國の熊本には、魏使らは行っていないが、素不和や、戦闘の応援や 、
「男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王」の説明がある。 >>593
>ちなみに纒向は絹も鉄もあります <
鉄は3世紀末〜4世紀で、3世紀には殆どないし、
絹は4世紀。 >>595
>そもそも絹が出たとこってほとんど奴国だろ?<
いや、伊都国〜奴國〜邪馬壹國や狗奴國地域だ。
>奴国が九州にあるから邪馬台国は九州だというのは屁理屈<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、この男は×だ。 >>596
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、
証拠をすべてあきらめ、
分裂幻覚の妄想に耽る大和説 >>599
また「南≠東」や「鉄や絹」に反論できなくて、
罵倒中傷専門に戻っちゃったね
負け犬大和説 >>603
>>学者がフェードアウトしていったのも理解できるw<
>おまえ同じこと何度も言ってるが、どこからの情報だ?
嘘も100回言えば真実になると思ってるのか?<
そりゃ当然、殆ど掲示板での情報だったな。 >>606
>ソース出せないのは嘘だと自白してるのと同じ<
ソースも殆ど掲示板での情報だ。
「南→東」などの嘘吐き騙しの、大和説学会や、教育委員会や教科書会社や、
人種差別戦争狂の右翼マスコミや文部省のソースなんか、
何の価値も信頼性も確率もあるもんか。 >>607
>>纏向には鉄鏃がでてないからウソ<
>ホケノ山から出てるけど?<
ホケノは、 3世紀末〜4世紀以後の古墳であり、
3世紀前半の女王國の根拠にならないの。 >>609
>>学者がフェードアウトしていったのも理解できるw<
>畿内説から学者がフェードアウトとか どっから湧いた妄想なんだ?<
当然、掲示板情報。 >>614
「南→東」などの史料事実の否定曲解をするような、
嘘吐き騙しの大和説の公的機関から出てる調査報告や
専門学部の大和説教授らの論文は、完全に犯罪者的であり、
危険な情報であり、価値が 全くない。
ネットで拾った玉石混交の情報の方が、
史料批判を十分する事に拠って、確率や信頼性の高い情報がいくらでも見つかる。
出所不明の呟きやトンデモ本だけ妄信 や、
あとはオレ様正しいンダで言い張るだけの大和説者の情報は、
0.1%位の価値に受け止めておくべし。 >>615
>布留0かどうかの議論はあった
報告書の結論は三世紀第二四半期<
卑弥呼の墓は「冢」であり、前方後円墳はそのずっと後の那珂八幡などからであり、
大和の庄内1の撥型前方後円墳は、那珂八幡などより更に後であるから、3世紀末。
そして、有棺有槨の前方後円墳のホケノは、「庄内3〜布留」であるから、
3世紀末〜4世紀。
だから、ホケノを「三世紀第二四半期」とした報告書の大和説学者は、
嘘吐き騙しの・・・・アホ詐欺師。 >>619
>畿内説にはソースがある<
「畿内」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
そんな詐欺師のソースなんて、信頼性なし。
>九州にはソース無いんだろうな <
九州説は、知り得て史料批判された史料事実や史料実態がソース。
>誰が書いたレポートか聞かれたら逃走するくらいだから <
当然、嘘吐き騙しの詐欺師である事がはっきりした大和説者の名前やレポート名は、
覚える価値がないから、原則として、覚えない。 >>623
>畿内説が空想だという証拠は?<
畿内なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
「南→東」などの嘘吐き騙しをやっている事が、余りにも明らかであるから。 >>83の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」分家=狗奴国・王卑弥弓呼の子孫/八代淡海→近江)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(卑弥弓呼、帯方郡張政の説諭で卑弥呼に服従)、伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床を抑えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国系(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…息子の垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を神功皇后が暗殺、「倭の五王」へ)
…魏>晋>「宋>斉>梁」南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任命される。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)
…阿蘇邪靡堆へ遷都・倭王阿毎多利思比孤「日出処天子」隋へ朝貢
隋煬帝「日没処天子」に対等外交=宿敵高句麗との同盟成立を楯に「独立宣言」607年)
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)唐新羅連合軍の脅威現実味…欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)大和分家となり、飛鳥疎開宮造営
推古厩戸→大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→崇神朝・応神朝・継体朝の倭王権(九州王朝)内の抗争が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲(安閑・宣化=狗奴国系の多利思比孤を抹消)。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)→欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>625
>>鉄がなければ農業生産も狩猟もまともにできないのだから、
この場合どっちの立場が上かは明白<
>おいおい、縄文文明なめるなよw
縄文人は一万年以上鉄なしで狩猟も農業生産もやってたぞww <
縄文をなめてはいないよ。
九州の弥生倭人でさえ、まだ、
「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」
のレベルであったんだから。 >>628
>鉄を使いこなすのも大事だな。
長崎県大村市 富の原遺跡(弥生中期〜後期)
気になる個所
「磁鉄鉱が用いられ、錆分析から推定される鋼の炭素量は0.5から0.6パーセントで、
刃部には真鍮を削れる程度の硬度」<
ふーん、磁鉄鉱か。 >「日出処天子」
また、この話をしているの?
池沼理論 >>376
阿毎(天孫)氏の多利思比孤は、伊都国平原女王(天照大神)の子孫でもある。
479年倭王武が「安東大将軍倭王」任じられ、隋の煬帝に対等外交「日出処天子」への変化に着眼されたい。
倭王武「将軍479」→多利思比孤「天子607」 ←この違いが着眼ポイント!
長年戦ってきた高句麗が人質を寄越したことから、多利思比孤はつい調子に乗ってしまったので、
618年唐王朝の成立、660年唐新羅連盟成立、668年高句麗滅亡と共に、超大国唐との親和政策に舵を切らざるを得なくなった倭国は、
(唐大帝国に難癖を付けられる可能性が出て来た)阿毎多利思比孤の存在を大和分家の厩戸皇子と合成し聖徳太子として(金融庁の老後2000万円必要問題同様)歴史から抹消されたw
また水銀に限らず金属鉱床は、地下物質が地上に押し出される大陸同士のプレートの境目に集中していることに留意されたい。
日本の中央構造線はまさにそれで天皇家の重要神社・聖地が集中しており、まさに「天皇制は道教(水銀)の賜物」と言われる由縁である。
阿蘇山〜四国(山岳修験道=山伏の水銀鉱床探し)〜紀伊半島(高野山&伊勢神宮)〜豊川稲荷〜諏訪大社〜氷川神社〜鹿島神宮
神社聖地ネットワークで日本列島の水銀鉱床を完全独占→天皇制の成立(九州王朝内の内紛の原因)
https://passy-and-bossy.com/pewer-spot/ 新羅と伽耶の地域性が発現する時代の土器と、布留1式の層から発見された畿内馬具はどちらが古いのだろうか、、、 >>381
ちなみに徳川家康が息子たちを御三家(紀伊・尾張・水戸)として聖地(高野山・伊勢神宮・鹿島神宮)を守らせたのも、
富の源泉(佐渡&伊豆で採れる金メッキに必要な)水銀鉱床を徳川家が独り占めするためで、死後「東照大権現」を自称したのも、
伊都国平原女王(天照大神)の子孫、神武・崇神による天皇制誕生(水銀鉱床の独占)の秘密を知っていたからである。 主婦の便利グッズ・布留式土器なんかじゃなくて、金属を制した者が国を制するってことだね。 日本の戦国時代の大名や武将など?
騙ったりして・・・、
みたいな話ばかりなのは、なぜなんだろう?
日出と同じ理論
自称、天子 >>632
>それと同じように、日本の考古学の最も強い分野が土器の鑑別
細かな部分の特徴抽出が得意なので完形ではないものでも、
どの地域のどの時代のものかきちんとした判定ができる<
ダメだ。土器編年には重大な欠陥が二つある。
一つは、紀年土器でない限り、その出土場所における「相対編年」の史料にしかならない事と、
もう一つは、不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
場所や時が違えば、無限に近い可能性が発生して、
他の場所との時の違いに関する絶対的根拠には、全くならない、という事だ。
>一瞬公表されて、その後ほぼ言及されていない14C年代較正曲線 J-CALは、
年輪年代法から想定される絶対年代をそれまでの土器編年と齟齬が出ないように
修正したもの
年輪年代法の絶対年代よりも、土器の相対編年の方が信頼度が高いとみなされている
(大声で言う人はいないけれど)
というレベルの日本の土器研究をすべて無視しないと成り立たないのが九州説
というところがポイントなんだよww<
日本の土器研究は、
重大な欠陥を持っている、という事をすべて無視しないと、
使い物にならない、
というところがポイントなんだよ。 >>385
同意。
古今東西、金属重工業こそ国家的体制でなければ維持できないし、倭国のような戦乱が多かった地域ならなおさら金属器が重要となる。
纒向のような金属器を持たない集落がめいしゅとなることはない。 すでに畿内説にはまともに反論する中身がない。
中傷と揚げ足取りばかり。
ザラコクを叩いて反論した気分に浸っているだけ。
デコイみたいなもの。 自称だろう・・・誰にでも出来ることだから、
そういう話をしているんだろう?
騙り テンノウなども同じ
自称するとしても
渡来人、渡来系〜でないとダメ、通用しない 芸能人などについて調べてみた?
私は日本人ではない(ではなかった)みたいな人が増えてきたとか
テンノウなどと同じ、
そもそも外から〜という話だからだろう >>300
攻撃とやらをしている時点で九州説負けだろ 日本列島というのがあるでしょ、
そしてテンノウ、神仙〜、仏・・・その他・・・外から入ってきた >>300
> 発表したので、討論を仕掛けられるので、 カレーの話をしている人がいたでしょ、
発祥の地まで行き、カレーを(レシピ?)持ち帰ってきた カレーの話の続き
その後、カレー発祥の地から・・・、
日本列島まで渡ってきた人々がいて・・・・・❓ >>642
>現在平原遺跡の鏡が古い伝世鏡2枚を除き『全て仿製鏡』とされている以上、
まったく根拠がないことになる<
そりゃ、当然、
「2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」での「40枚」への修正を反映したものだと考えられる
2000年の報告書の内容が、2002年の季刊邪馬台国に反映されているので問題はないように見えるが、
この2000年の報告書で平原1号墓の鏡は「漢鏡5期の雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡と漢鏡3期の四螭二朱雀龍虎鏡のの2枚以外は
『全て仿製鏡』」とされている 」
の「全て仿製鏡」と判定した事がおかしかったのであり、間違っていたんだよ。
その「前原市文化財報告書」の担当学者の名前を出してみな。 >>383
> 死後「東照大権現」を自称したのも、
死後に自称するのは不可能じゃないのか? カレーのレシピを持ち帰ったではなく、
カレーを取り入れたでも同じ
その後、日本列島に来たの、カレー発祥の地からw
誰が来たのか?とか、そういう話ではない 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する奥山氏の作製したテンプレートが、論理や知性に基づいて攻撃されてしまったので、完全に叩き潰されてしまったな。。。 >>406
冒頭の骨子を証明できないので、仕方ないのではないのかな。。。
11 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:22:31.49
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。 神仙、キリスト教・・・その他・・・の人々も来たでしょ、
参加、参戦でも良い
国譲り? 新羅と伽耶の地域性が発現する時代の土器と、布留1式の層から発見された畿内馬具はどちらが古いのだろうか、、、 日本人なんだけど渡来系〜、
むかーしからいたでしょ?
そういう人たちは知っている、
ほとんど外の国から入ってきたんだよとか 奥山氏は、折角、トリップ付きで、テンプレートの骨子を貼り付けたのだから、論理的にテンプレートを擁護するために、
テンプレートの骨子を擁護する者の意見に賛成できるのならば、トリップ付きで出現して賛成したり、
奥山氏自信が、トリップ付きで出現してテンプレートの骨子に使われている言葉の定義や日本列島の最古の古墳がどれかを発表すれば良いのではないのかな。。。 好字令(好字二字令)以来、日本のかんじ文化は二文字熟語を基本に構成されてきた。
このため、先祖代々、二文字熟語で読み、書き、理解し、考えるクセが染みついている。
このクセは、基本一文字で構成される中文(中華文)・漢文を読むときも抜けきれい、。
「畿」を、あえて畿内といいかえて悦に浸るのもそれである。
倭人伝を二字熟語で読みながら、解読したつもりになって得意がるのもその好例である。 あ〜、それね(例えば、なんでも良いけど)、私が教えてあげたんだよ
みたいな事も知っている
だから、いまさら他の人から教わる、習う必要もないとか、
本当に、凄い人は学校にも行っていない〜、何やらという説があるでしょ
アニメの曲ではない いつ頃からなのかわからないけど、
山奥、山の上のほうに住んでいたり、いつの間にか、テレビ、ラジオ・・・
何かの曲の元ネタだという説 つぶやきは随分サブカルチャー好きだな
深夜アニメなんか見てそう テンプレートを完全に論破された奥山氏が、正々堂々の討論を避けて、トリップ無しで出現し、誤変換をしたことを指摘したり、呟き荒らしでスレッドを進行したり、嘘の誹謗中傷を言い放つだけのスレッドになってしまったな。。。
412日本@名無史さん2019/06/29(土) 09:29:52.29
九州説は嘘しかついてないのではないかな。。。
413日本@名無史さん2019/06/29(土) 09:30:43.33
奥山氏自信
415日本@名無史さん2019/06/29(土) 09:37:38.59
あ〜、それね(例えば、なんでも良いけど)、私が教えてあげたんだよ
みたいな事も知っている
だから、いまさら他の人から教わる、習う必要もないとか、
本当に、凄い人は学校にも行っていない〜、何やらという説があるでしょ
アニメの曲ではない
416日本@名無史さん2019/06/29(土) 09:38:48.15
外国の国籍の方が考える事はよくわからんのう >>649
>祇園山は段築、葺き石を備えた古墳時代の古墳だと何度教えればww
九州には墳丘墓に葺き石、貼り石を施す伝統がないんだよ <
祇園山は、列島での「高塚」的墳墓の最初であり、
葺き石貼り石も必要があったから、大陸などの技法を採用下ものであり、
那珂八幡などや大和付近の前方後円墳に先行するmonoda.
>測定不能な長距離が、現実と関係ない設定値で書かれている分、
頭の悪い人が短里を想定するのはしょうがない(バカの証明でしかないけれど)<
都立大の野上氏も書かれたように、測定不能ではない。
「里数」記録は、魏の役人らの実測だ。
>しかし、簡単に歩測可能な100メートル単位の長さが、
6分の1サイズだと思ってしまうところがバカの極致ww<
周以前の皇帝が大陸の東西長の歩測を命じた時も1歩25cm位であったし、
一寸千里もそれ位であったから、
始皇帝の命令の「1歩=6尺」を妄信してしまうお前が、バカの極致。 >>419
冒頭の骨子を証明できないので、仕方ないのではないのかな。。。
11 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:22:31.49
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。 中二病でもないんだけど、同じような話?
寒いな・・・? 『ボーボボ』のキャラも同じじゃなった?どらごんぼーる?
『方言 おら』 このような曲も同じでしょ、なんで知っているんだろう
『筋肉少女帯 山の上でも 魚が 泳ぐ』 邪馬台国畿内説という仮説では、破綻した要素還元主義が前提になってしまったのだろうか、、、
それとも、要素還元主義が前提になってしまってはいないと反論する者が出現するのだろうか、、、 「好字二字令」以来、日本のかんじ文化は二文字熟語を基本に構成されてきた。
このため先祖代々、二文字熟語で、読み、書き、理解し、考える文化が染みついている。
だからこれは、基本一文字で構成される中文・漢文を読むときも、抜けきれない。
畿(みやこ)を、あえて畿内といいかえて悦に浸るのもそれである。
また倭人伝を二文字熟語で読みながら、万事解読したつもりになって得意がるのも、その好事例である。 同じ話でしょ?
日本の曲『海』
あと1000%という曲も同じ テンプレートを完全に論破された奥山氏が、正々堂々の討論を避けて、トリップ無しで出現し、呟き荒らしでスレッドを進行したり、嘘を言い放つだけのスレッドになってしまったな。。。
430日本@名無史さん2019/06/29(土) 10:14:46.29
同じ話でしょ?
日本の曲『海』
あと1000%という曲も同じ
431日本@名無史さん2019/06/29(土) 10:21:49.15
九州説もうやる気ねえな
432日本@名無史さん2019/06/29(土) 10:23:56.93
『トロロ』 『トトロ』
偶然にしては、おかしな話ばかり、
むかーし山のほうに住んでいたと言っているし
人参やイモ類を似たもの、そういうのが好きで、
という話とか、何かの宗教関係の家だったのかな? >>433
奥山氏には、トリップ付きで出現してテンプレートの骨子に使われている言葉の定義や日本列島の最古の古墳がどれかを発表し、テンプレートの骨子を証明する自信がないので、
仕方ないのではないのかな。。。
11 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:22:31.49
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。 『福島県 天王宮 山王院』
家と同じ名前の家なんだけど、
どういうことなんだろう、むかーし住んでいたというところも、
いまの福島県だしな・・・? 家の写真だと言っているわけなんだけど、
『葱の華』・・・などの写っている写真
いま住んでいるところ? 311 放射能〜被災地・・・?
そこにも住んでいないし、何があったんだろう 妹がいるんだけど5月15日生まれ、
ほとんど合致している 何かを偽造〜?盗んだ?系図、戸籍?
そういうことをした人がいるんだよと
言っている人がいたり、いたでしょ?
とあるスレ参照 何かの家の?生まれた日なども知っていて・・・みたいな話 >>650
>ホケノ山は3世紀前半だよ それで矛盾がない<
ホケノは、
前方後円墳だから、卑弥呼の「冢」とは違っており、卑弥呼の「冢」よりも後であり、
「有棺有槨」であるから、卑弥呼の倭國の「有棺無槨」よりも後の進化型であり、
「庄内3〜布留」であるから、3世紀末の石塚の庄内1の後である事になって、
3世紀末〜4世紀の墓。 >>652
>日本列島がヤマト王権によって統一されたという古代史の通説さえも否定する<
大和が統一したは、白村江の後。
通説学者が、アホ。 ホンモノだと思われる家があるでしょ?
そういう直系が何やらなどの家
漫画やアニメ(ゲームなど)に登場させて・・・、
殺している、殺そうとしたり? 何かの家の人なんだけど、
現在、一般人のような人たちがいるでしょ 何かしたやつがいるんだろう?
と言ってる人がいたり、どのスレだったかな テンプレートを完全に論破された奥山氏が、正々堂々の討論を避けて、トリップ無しで出現し、呟き荒らしでスレッドを進行したり、嘘を言い放つだけのスレッドになってしまったな。。。
444日本@名無史さん2019/06/29(土) 11:33:09.34
ホンモノだと思われる家があるでしょ?
そういう直系が何やらなどの家
漫画やアニメ(ゲームなど)に登場させて・・・、
殺している、殺そうとしたり?
445日本@名無史さん2019/06/29(土) 11:34:51.78
何かの家の人なんだけど、
現在、一般人のような人たちがいるでしょ
446日本@名無史さん2019/06/29(土) 11:37:45.09
九州説
終わってるな
447日本@名無史さん2019/06/29(土) 11:37:48.90
何かしたやつがいるんだろう?
と言ってる人がいたり、どのスレだったかな >>448
邪馬台国九州説が、仮説としては、完全に消滅し、一段上のレベルの邪馬台国九州論に変換されたので、
仕方がないのではないのかな。。。
446日本@名無史さん2019/06/29(土) 11:37:45.09
九州説
終わってるな >>654
>そうだな
鉄を使いこなしたから、纏向大溝の大量の矢板も用意できた訳だ<
うん?。
大和説の誰かが、少し前にレスで、
鉄鏃よりも、石英か?何かの石鏃の方が、貫く力が強い、とか何とか、言っていたぞ。
黒曜石を使えば、矢板も削れるんではないか?。 >>655
皇国史観で精神論ばかりなのは大和説矢板東遷説だけどね
九州説は関係ない。 邪馬台国畿内説は、土器を分析して、空想されてしまった可能性が高いな。。。
11 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:22:31.49
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。 >>658
大和説は罵倒と中傷しかできないの?
あ、「南→東」などのウソも、つけたっけ そうだな
九州説という「仮説」を通り過ぎて、
九州論、つまり「具体的な議論」の段階に入ってきたということだな 優れたザラコク氏が、頭の悪い奥山氏の意見を逆用して、真実を発表してしまったな。。。
450日本@名無史さん2019/06/29(土) 11:52:24.50
>>654
>そうだな
鉄を使いこなしたから、纏向大溝の大量の矢板も用意できた訳だ<
うん?。
大和説の誰かが、少し前にレスで、
鉄鏃よりも、石英か?何かの石鏃の方が、貫く力が強い、とか何とか、言っていたぞ。
黒曜石を使えば、矢板も削れるんではないか?。 日本は終了するんだけど、気づいているだろう?
なぜだと思う >>660
>それ以前に、開墾技術、灌漑技術の方が重要
そして弥生時代には、深さ1メートル以上の川は堰が作れないので
灌漑には利用できなかった<
変な男。
「纏向大溝の大量の矢板」は、1メートル以上位あったんではなかったのか?。 >>452
ガウスは頭が良いので、一つの体系で何かを証明することは、経験に照らされなければ嘘つき騙しになる可能性が高いことを、見抜いたのだったな。。。 >>670
大和は土木技術が低いから、
筑紫のような何本もの「大道」が作れず、
ショボいのような「大溝」しか造れなかったのだな 『ボーボボ』『姥清水』『』・・・、
妹がいるんだけど、5月15日生まれ どこだったかな、
なぜか家の話をしている人がいたり、親戚?
チェーンソーのゲームも家の話 大和は住居の数や墓の数からすると筑紫よりはるかに人口が少なかったからね。
発展のしようがない。
おっと、一大都市であった奴国の支援を受けられる伊都と一緒にするなよ?
伊都と奴国はあわせて女王国として発展していたからな。 そのゲームの話、
このようなゲームが、あると教えてあげたとき
お前は、どこのキチガイなんだ!!
と怒っているような人がいたり、どのスレだったかな
実在の人物の話なんだろう たしか歌舞伎(芝居)〜という話でしょ?
弟(次男)?だと言っている人がいたり >>671
>そしてこの青色の部分まで弥生時代にはまだ海だから、筑紫平野や山門に
邪馬台国七万戸があったというのはこの時点で無理
https://i.imgur.com/XMjxUoa.jpg
黒線が縄文海進の時期の海岸線だが、吉野ヶ里遺跡や佐賀川上の惣座遺跡などは、
この縄文海進の線よりも高いところに作られている<
弥生期から古墳時代の「海進」と「海退」の時期や大きさを、
もう少しはっきり書き分けて貰わないと、
卑弥呼の頃の海岸線の位置がはっきり、しないな。 陛下が〜w
とか言っている池沼もいるけど、何なんだ >>448
なんでそんなウソをつくの?
ウソまみれだから
九州説終わった >>468
絶対年代は難しいと思う。
畿内説みたいに年代を確定的に語る方がおかしいわけで。 >>673
>>邪馬台国七万戸があった<
>里数を見ればわかる通り、魏志倭人伝の邪馬台国に関する数字はモリモリの数字だらけ
そんな数字を真に受けてんの?<
東夷伝の国々や三韓の「戸数」とくらべても、
そんなに「モリモリ」の異常な数字とは思えず、
また難升米や都市牛利や掖邪狗らは、魏の臣下も地位を受けており、
「戸数」は、魏への「兵役納税」単位の戸数でもあり、
魏の役人たちが実地に見聞計測した有効数字1桁概数である、
と受け止めて、十分。 >>675
なんで大和説は、
いつも、「南→東」などの理由を言わないし、
「いくら理由を言ってあっても、知らん振りして、理由を言わない」と、
誹謗し続けるの?。 >>677
>こうして、きちんとしたエビデンスによって、筑紫平野が広いから邪馬台国説は
否定される訳だww <
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
邪馬壹國の古田さんの比定は、「福岡平野中央部〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地」だよ。
>まあ、その前に筑紫平野では九州説お得意の鉄も絹もほぼ出てないんだけどね<
福岡平野地域から筑後や久留米に遷宮したのは、317年頃だよ。
>というと、吉野ヶ里遺跡がーって言うんだろうけれど、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だとは
九州説でも主張する人はいないww <
吉野ケ里は、「其餘旁國」であったのか?、
邪馬壹國内に組み込まれていたのか?は、微妙だよ。 >>680
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
理由も言わずに、倭人伝の記述を無視する、大和説 >>356
バカはお前だw
まともな説明ができずに詭弁以前の誤解釈を繰り返しているだけの無能
道里遠近を道里の遠近以外の読み方をしないといけないってのが根本からおかしい
道里は「距離」とほぼ同じ意味だよ
ついでに言えば陸行、水行は、 「陸路」「海路」だと思えばいい >>369
>ソースも殆ど掲示板での情報だ。
九州説が掲示板にウソデタラメ捏造インチキを書き込み、
ザラゴキがそれをソースに真実だと言い張るww
マッチポンプ以前の稚拙さだなw
九州説の実態ww >>700
>テンプレにも書いてあるように、邪馬台国七万戸の範囲は
畿内第V様式土器が共通して出土する「大和+河内〜環大阪湾」の範囲だって
何度も教えているだろうにww ・・・<
邪馬台国も畿内も、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
いくらウソをしゃべっても、始めから全部×ね。 >>431
>九州説もうやる気ねえな
やる気ないんじゃなくて、既にできることが何一つ残ってないんだよ
九州説の根拠で代表的なものは
短里で萬二千里なら九州から出ない
鉄がー、絹がー
銅鏡がー
南は南に決まってるにだ
これくらいしかない
これが全部テンプレで否定されてるし、平原1号墓を持ち上げるのも仿製鏡38枚では無理がある
で、今ここで書き込みを続けているのは、他人とコミュニケーションの取れないザラゴキ、連続句読点、
つぶやき荒らしと、邪馬台国の会の>>465のようなやつだけww >>701
「南≠東」などの指摘に、
反論できないと罵る
それが、大和説者の、顔の醜いところだ >>476
>道里は「距離」とほぼ同じ意味だよ
「道里遠近」を、日本語の二文字熟語、或は四文字熟語として読むからわけがわからなくなる。
中文は、一文字づつ切って、或は各文字間に「の」を入れて読むべし。
例えば「道里」とは、書いて字のごとく「道の里=道の里数」のことである。
則ち「道里遠近」とは、「道の里数、及び道の遠い近い(所要日数)」のことである。 >>479
>短里で萬二千里なら九州から出ない
>鉄がー、絹がー
>銅鏡がー
>南は南に決まってるにだ
これでもう邪馬台国が九州だったのは確定した。
しかも倭国大乱後の女王墓である平原遺跡まで見つかって、揺るぎない説となった。
だから九州説はあまりやることが残っていない。 >>705
>いや、マジで出てるから、鉄も絹も
鉄は纒向石塚古墳の北東200m、居館域の発掘調査地点からは北西に約400mの地点で
鉄器生産がおこなわれていたことを示す鞴の羽口や鉄滓、鉄片などが出てる<
でも鉄鏃などの製品として出るのは、3世紀末〜4世紀頃のホケノ古墳。
>絹は尾崎花地区で出てるよ
この尾崎花地区は辻地区大型建物が廃絶されたあとの居館域と想定されていて <
庄内3の大型建物が廃絶された後なら、やっぱり4世紀であり、
卑弥呼の3世紀前半ではない。
>このあたりの発掘が進めば、本当の卑弥呼の宮殿が特定出来るかもしれない。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>465
>伊都と奴国はあわせて女王国として発展していたからな。
女王国連合の一員だが邪馬台国ではない
伊都国奴国を除くと、3世紀の北部九州に邪馬台国も投馬国も置く余地が一切ない
北部九州の繁栄は伊都国奴国の繁栄であって邪馬台国ではない
この単純な事実だけで九州説は死んでしまうw >>709
だから「南≠東」って、普通の成人人類の常識だ、反論してるけど、
大和説が無視して逃げ回ってるだげだろ?。 >>710
「南≠東」などの方角については、大和説者は、
人類の常識を無視して逃げ回ってるとか、
ウソつきと連呼する事で、
誤魔化してるわな >>481
>「道里遠近」を、日本語の二文字熟語、或は四文字熟語として読むからわけがわからなくなる。
>中文は、一文字づつ切って、或は各文字間に「の」を入れて読むべし。
素人のデタラメ理論を振り回されてもねぇ
例えば「道」をグーグル翻訳で英語に翻訳するとその説明に
road
路, 道路, 道, 马路, 途, 陌
path
路径, 路, 通路, 道路, 径, 道
way
方法, 路, 途径, 办法, 道路, 道
Taoism
道教, 道
doctrine
教义, 学说, 主义, 教条, 道
circuit
线路, 道, 流程, 周, 环行
method
方法, 办法, 模式, 作法, 术, 道
principium
原理, 原则, 初步, 道理, 道, 信念
principle
原理, 原则, 道理, 信念, 学说, 道
と出てくるんだが、原理、原則、道理、信念、学説とか、
これも全部間に「の」を入れて1文字ずつ読むのか
遠近は「遠の近」と間に「の」を入れるとどういう意味になるんだ?
デタラメ捏造ではダメだってことww >>711
>尾崎花地区の柵列・・・
これが、居處宮室樓觀、城柵嚴設の「城柵」かもしれない
発掘面積がごく限られた狭い範囲なのがもどかしい <
「南≠東」などに拠って、×。 >>713
「南→東」などのウソ付き騙しの大和説者は、
ウソばっかりだ
異常なくらいに >>716
>畿内説は根拠の図示を何度も貼ってるよな?・・・<
畿内なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言だし、
「南→東」などの史料事実を否定曲解のような嘘つき騙しの投稿は、
幾ら貼っても、何の価値もなく、×だよ。 >>483
>仿製鏡だとダメな理由は何?
平原1号墓出土の舶載鏡は平原遺跡の鏡のナンバリングで
16号鏡 18.8センチ 漢鏡5期 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡
17号鏡 16.5センチ 漢鏡3期 四螭二朱雀龍虎鏡 虺龍鏡
の2枚のみで、卑弥呼の遣使よりも100年以上古い伝世鏡しかないんだ
仿製鏡のみがダメというより、後漢末や魏晋鏡が一枚もないのでは
どうやっても卑弥呼の墓という主張は無理だろう >>482
>しかも倭国大乱後の女王墓である平原遺跡まで見つかって、揺るぎない説となった。
成人男子が10人もいれば1週間で作れる程度のしょぼい墳丘墓がどうしたって?
卑弥呼は北部九州の女酋だというのが九州説だってのは知ってるけど、
配下は成人男子10人くらいしかいないのか?ww
否定されてるし否定の論拠もテンプレにバッチリ書かれているのに
反論一つせずに「これでもう邪馬台国が九州だったのは確定した。 」とかドヤるのが
典型的な九州説w
こいつが「邪馬台国の会の人」だろ?www >>284
>九州だけの倭国を否定するための図だから、九州が倭国の他の地域と結びついているのを
>九州説の>>249でも認めざるを得ないならそれでOK
認めざるを得ないならそれでOK、って何を負け惜しみみたいなことを言っているのか
違う国同士、離れた地域同士で交易するのは当たり前
縄文時代ですら行われていた >>371
つまり、九州説はまたウソついてたんだな >>720
>広瀬和雄「前方後円墳国家」21ページ 首長の出現と形成された首長層
「この時期の堰の構造からすれば、深さ1メートルを大きく超える河川は利用できなかった」<
広瀬が何を言いたいのかは判らんが、
私が以前の説明した事があるように、大河からの水の取り入れ堰の設置には、
普通の導水路の掘り込み設置以外に、
本流の川底に礫を敷き詰めて水面高を上げてやれば、容易に導水路が出来る。
広瀬は、知らなかったのか?。 >>372
>ネットで拾った玉石混交の情報の方が、
>史料批判を十分する事に拠って、確率や信頼性の高い情報がいくらでも見つかる。
こんなこと本気で思ってんだから
九州説を信用すれば馬鹿を見るって
誰にでも解るね >>721
>何をって、実際言ったことをだろ あなたは
畿内説が奈良盆地に七万戸あったって、いつ主張したか 証拠を出せばいいの<
何を誤魔化してんだい?。
大和説者は、邪馬壹國を邪馬台国と読み替え、
更に、邪馬台国を「ヤマト国とか大和国」と読み替えて、
結局「7万戸の邪馬壹國」を「大和国」としているんだから、
「奈良盆地に七万戸あった」と主張していた事になるではないか。 >>722
>テンプレのFAQ4に
「邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、
考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。 」
ってばっちり書いてあるんだから、それは通らないよww <
スレ主も、「七万戸の邪馬壹國」に変えて、
「邪馬台国」なんて存在もしなかった文言をでっち上げて、
それを「→ヤマト国→大和国」という言い換え連鎖をしているんだから、
「七万戸が大和にあった」と主張した事になる。 なんか政治絡みくさいから信用できないんだよ(°▽°)
バカはこれが事実→違うバカらが損得で靡く→死人続出 負け惜しみ?
そんなん唱えてる時点でぶっとばされんぞ
思考停止者(°▽°) >>724
>こっちがきちんと実証的な研究成果を引用して示してるのに、
そういうのには一切反論できずにふわっとした「反論もどき」だけを書いて
満足している九州説の方がよっぽどお気楽だと思うよww<
いやダメだ。
そっちは、「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しをし、
「邪馬壹國」を「→邪馬台国→ヤマト国→大和国→第X様式範囲」という、
嘘つき騙しのすり替えをしている。 >>494
>縄文時代ですら行われていた
だろ?こっちはずっとそう言い続けているのに、
「幅600メートルの関門海峡を隔てただけの本州を渡海千里の倭種の国だから無関係
倭国は九州のみ」っていってる九州説がバカだってこと
密接な交流があって人もたくさん行き来している範囲により大きく繁栄している地域、首長がいるのに
小物の北部九州首長が倭王に認定されるって思ってるところがご都合主義だっていう話 >>494
都合の悪い後半部分はいつもの「見ない聞こえない」かなww
北部九州がザコなのは、別の指標で明らかだから
「北部九州が強いようにしか見えない」というのは、ただの主観でしかないww
弥生終末期の王墓級墳丘墓の大きさ
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある
纏向型前方後円墳は、
纒向石塚古墳で全長96メートル、
東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の王墓としては、
どうしても見劣りする
伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態
3世紀の北部九州はザコ
他地域の比較で王の地位は回ってこない >>730
>魏の使者が見たわけでもないから、これは伝聞でしょう<
いや、「戸数」は、(家数とは違って)、魏への兵役や納税の計算単位、
という数え方になっていたようだから、
魏の役人たちは、ある程度の正確な数値を報告しておかなければならず、
自らも目測で概数を求め、倭人にも質問して、大体の「戸数」を求めていた、
と思うよ。 >>496
>本流の川底に礫を敷き詰めて水面高を上げてやれば、容易に導水路が出来る。
深さ1メートル以上の川に礫を入れても流されるんだよ
礫が敷き詰められるなら堰が作れることになるが、弥生時代の土木技術ではそれは無理ってこと >>736
>なんの経緯をどう考慮したって
畿内説が奈良盆地に七万戸あったって主張してる って執拗に言ってるの
それ、捏造でしょ それが九州説のやり方なわけで w <
大和説者がまた発病 。 >>509
九州説はやることが汚いな
嘘をついて
バレて追求されて
それを罵って誤魔化す >>744
>魏志倭人伝に九州北部の描写が多いのは
そこが目的地じゃなくて通過地点だから <
それはないね。
原則は、目的地が最も「描写が多い」ものであるし、
各通過点も、原則は、皆平等に説明するものであり、
必要な通過点は少し詳述するもの。 >>488
日本語の「道」を解説した英語のそのまた日訳を取り出してきてどうする気だ。
なにか完璧に誤解しているようだな。
つまり、中国語(漢の字)は、そのまま一字ずつ中国語の意味をとらえて解釈せよといってるのだ。
>遠近は「遠の近」と間に「の」を入れるとどういう意味になるんだ?
この字句も、融通の利かぬ無理やり解釈をするな。
衰を算出する計算例、
すなわち割り算の練習問題における「道の里」の具体的な数字化表現は「里数」であり、
「道の遠・道の近」の具体的な数字化表現は「日数」であるということだ。 >>485
>女王国連合の一員だが邪馬台国ではない
魏志倭人伝の書き方からは、邪馬台国と投馬国がそれぞれ国邑ではなく領域国家であることがわかる。
つまり邪馬台国の中には複数の国邑が入る。
これは畿内説だって同じ立場だろ?
その中心国邑が記載されていないのはおかしいわけで、それは魏志倭人伝の中で求めるなら伊都の奴国しかない。 >>516
九州説とは
驚くべきことに
熟語の存在すら否定するトンデモ説
なのだ >>520
だから言っておるだろう。
中國の王朝名はすべて一文字、氏族名、氏名も一文字だ。
日本語の熟語というのは、好字令(好字二字令)以来の田舎ジャパン文化なのだ。 >>508
湿地帯が広がり支流がたくさんあれば、本流に咳など作らなくても取水できる。
筑後平野は水利は悪くないよ。
筑後川に咳など作るわけがない。 熟語というものはないが、漢字が多義的だから二字つづけて意味を限定させる
使われ方はシナでもされてる >>520
例えば、「九州王朝」があったと唱えた人物がいた。
日本語の「九州」という二文字熟語を前提にして、「九州地方」に王朝があったという意味だが、
中国人が読めば、天子様の下にある九つの州に一つづつ王朝があったとなるであろう。
中文の倭人伝を解釈するのに、文字文化の違いを知らずに、日本語の二文字熟語の「九州」を使うなんて滑稽だとは思わぬか。 >>525
だから二文字続くときは、・・の・・、と読めといっている。
つまり、和製熟語、日本熟語でなく、シナの使い方に限定せよといっているのだ。 >>519
こんどは「伊都の奴国」とか不可解なことを言い始めたな
伊都国と奴国は別の国だろうが
これだから九州説はトンデモなんだ >>528
そんな理不尽な命令されても困る
「道里」は古代中国人の使った熟語だ 先住民の王(不明)という意味の王族と
中国の氏名の王氏という意味の王族?
違うと言いたんだろう
王母〜龍宮〜は何の家なの?凄い人物とか? >>819
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説考古学者が「正しい」と言ったから「正しい」は、
、いつも笑える >>825
>5パーだろが8パーだろが卑弥呼の在世当時最高の建築物が出たら倭王の宮殿と思うだろ<
「南≠東」などに拠って、×。 >>827
「南→東」などの嘘付き騙しをする学者が、
幾ら自分は「専門の学者だ」と威張ったって、
そんな学者のいう事は、当然だれも信用しない >>528
>だから二文字続くときは、・・の・・、と読めといっている。
貴君は・・・無知で横柄で、言行が滑稽です >>530
>「道里」は古代中国人の使った熟語だ
熟語だから特別な意味を持つと、田舎ジャパン的に反応するのが間違いなのだ。
単純に「道里」とは、道の里数のこと、
だから先の例題でも、道里八日とは書いてない、「行道八日」とされているであろう、念。 >>882
「南≠東」などの嘘付き騙しの指摘に、全く反論出来ず、
仕方なく妄想と悪口を言うだけの大和説 >>894
>推論の根拠が「考古学的な実物証拠」と、「記紀の神話」では
どっちが信頼度が高いかってのは分かりきったことだろう?
考古学的な発掘成果や理化学的計測結果は、今後も情報が増え続けるし、
情報の精度も向上していく
というか、これまでの情報更新や確度の向上により、畿内説が正しいと
見做されるに足るところまで既に来てるんだよ<
幾威張った講釈をしても、「南→東」などの嘘付き騙しに拠って、
大和説は始めから×。 >>896
>まさにそれ 「こういう調査結果と違うから間違っている」と具体的に言ってくれれば
こちらも資料を提示して議論することができるんだけどね
九州説のやっていることは
「こういう妄想・捏造と違うから間違っているはず」と具体性に欠くことを言って
具体的な調査結果で否定されて、誹謗中傷と荒らしに走る、の繰り返しなんだよな <
はい、大和説者の言っている事は、「南≠東」などに拠って、始めから、×です。 >>543
>単純に「道里」とは、道の里数のこと、
現代日本人のあなたが理由も言わずに
そんなこと一人で決めても
誰も信用しないよ 537
王号はね〜
まあ天皇の話題が記紀中心なんだが奈良平安は天皇の子と孫までが名前のあとに王が付いた
古代はまだ皇子とか使っていたがな 長い間の研究の蓄積で
畿内説は息の根を止めた。
もう畿内説を提唱する学者はおらず
2014年以降、畿内説でググっても
畿内説の終焉とか、
畿内説はなかった、とか
そういうのばかりです。 547
信用?
信用をとる必要すらない
問われてんのそこじゃないんでな >>899
>>末盧國からの出発時点での出発方向。<
>つまり、「末盧国から東南方向に伊都国はない」というのがザラゴキの主張だろ?
ということは「北部九州から南方向に邪馬壹國」はないという主張に反対する理由は
どこにもないよな?ww<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
「南至邪馬壹國」の「至」の前に途中移動が書かれていないから、
「至」は(移動説明ではなく)位置説明になり、
だから、邪馬壹國は不彌國のすぐ南にある事になる。
>畿内なんて言葉はこの主張に含まれていないから「畿内なんてない」は通用しないし
東だとも主張していないから「東≠南によって×」も言えないぞww <
この男は、日本海説であったから、「南≠東北」に拠って、×。 >>550
もう九州説はウソをつくのが平常運転なんだね
畿内説の学者がいないとか
そこまで行き着くともう
正気が疑われる >>476
道里8日って書いてないから誤解釈なのはあなた 九州説には、基礎的な読み書きもできないレベルの下層信者だけが残ったのだな やっぱ九州説はアンケート結果通り多いんだな
参考になった >>566
戸数と道里で計算するんだと説明して
1000戸÷8日で計算して見せてるんだから
道里が8日と書いてるんだよ >>1
畿内で7万戸は無理です。
■可住地面積
奈良県 853(km2)
福岡県 2773(km2)
佐賀県 1332(km2)
熊本県 2732(km2)
■耕作可能な土地の面積
奈良盆地:450km2
河内平野:200km2
福岡平野:250km2
筑紫平野:950km2
中津平野:180km2
宮崎平野:800km2
7万戸を約30万人として700km2は必要。
奈良と河内を合わせても足りない。 卑弥呼の鬼道とは
■魏志倭人伝、晋書倭人条
「骨を焼いて占う」
■隋書倭国伝
「筮竹を使って占う」
■推測されること
桃をお供え物として穴に埋め、
カエルをかじって占います。
■考古学者
「カエルは祭祀の供物で、
祭りが終わった後に出席者が食べ、骨を穴に
捨てた可能性がある。
ttps://www.sankei.com/life/news/190425/lif1904250019-n1.html
↑
奥山氏と同レベルの根拠なき妄想でワロタ >>572
テンプレートを読めば良いのではないのかな。。。 >>574
そういえば、僕達は、テンプレートを飛ばし読みしたことしかないな。。。 >>571
>7万戸を約30万人として700km2は必要。
>奈良と河内を合わせても足りない。
畿内って、どこだか知ってる? 3世紀前半のものと公式発表した者達の意見は、別の意見に変換されていないのだろうか、、
21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:23:40.62
◆1(女王所都)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。 >>105
>>桜井茶臼山の鏡片には全く書かれていない「正始元年」を読み取る嘘つき騙しをして、<
>その現代考古学が桜井茶臼山の鏡片を正始元年銘鏡と判定したんだが?<
桜井茶臼山の鏡片には正始元年銘はなかったの。
そして、その鏡片にあった別の一つの文字が、
群馬蟹沢の(正始元年の文字とは違う)別の文字の形とほぼ一致したの。
という事は、その文字同士は「同じ字型の版」を使ったというだけであり、
鏡全体が同范鏡同士であったのか?は判らず、
だから、桜井茶臼山の鏡にも「正始元年」と刻まれていたのか?という事は、
全く判らない、という事になるの。 僕達が、テンプレートを読み続ける気力を一気に失ってしまう部分だな、、、
21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:23:40.62
◆1(女王所都)
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。 >>580
僕達は、この意見を読む度に、奥山氏の頭の悪さに、笑いリラックスしすぎ、満足してしまうのだったね。。。
21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:23:40.62
◆1(女王所都)
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。 >>579
素人オジンが反対意見をいくら力説しても
現代考古学は桜井茶臼山の鏡片を正始元年銘鏡と判定したんだが? 卑弥呼が魏の皇帝に、魚拓を送った可能性がある年は、西暦何年だろうか、、、
21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:23:40.62
◆1(女王所都)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。 萌芽的馬匹文化とは、畿内馬具のことだろうか、、、
21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:23:40.62
◆1(女王所都)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。 >>120
これ見てると、大和説から「南→東」などの嘘付き騙しをとったらを、
何も残らなそうだね 桃の種が埋められた時期が、2世紀後半なのではないかという意見に100年から150年足すと、3世紀後半から4世紀になるのだったな、、
31 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:24:00.88
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。 >>589
奥山氏も、桃の種の炭素の同位体比を検査した結果の年代推理は、受け入れなかったのだね。。
31 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:24:00.88
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。 魏志倭人伝時代の畿内が、血統による相続原理が未確立な社会だったというのは、奥山氏の空想ではないのかな、、、
31 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:24:00.88
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。 >>179
相手を罵倒すると自分は証拠を出さないで済むと思ってる犯罪的妄言集団
それが「南→東」などの嘘付き騙しの大和説。 >>591
血統による相続原理が未確立な社会というのは、奥山氏が理想とする共産主義の社会ではないのかな、、、 >>594
疲れが、癒やされてきなね。。
という部分は、
疲れが、癒やされてきたね。。
とタイピングしたかったのではないのかな、、、 この文章は、奥山氏が忠誠をしていることが疑われる、北朝鮮の指導者の葬儀をモデルにした可能性があるな。。
31 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:24:00.88
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。 >>185
>そもそも「邪馬台国の向こう側」に斯馬國以下21カ国の余傍国が記されており <
そもそも「邪馬台国」なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であり、
「斯馬國以下21カ国の余傍国」も、
「邪馬壹國の向こう側」とは」限られていないから、×。
>大和の東側も21カ国分は女王国連合の範囲内
そこから多くの人々が王都に集まるのは当たり前<
大和は、「南≠東」などに拠って、始めから×。 笑いリラックス出来たので、ガウスについて研究すれば良いな、、、 >>187
>カエルや桃が、ではなく、倭国最大級の大規模祭祀跡は、時代が一致する以上
王である卑弥呼に由来すると考えるのが当然<
倭国(≒女王國)は、ほぼ九州島付近であり、
女王國の東渡海千余里が「皆倭種」であった、と言っているだけだし、
だから、箸墓が倭国であった、とは言えず、
また、箸墓は、布留であり、
伽耶の陶質土器は285年頃かそれ以前であり、それは大和や河内では庄内期であるから、
卑弥呼の時代とも一致せず、
「南≠東」も相まって、
「倭国最大級の大規模祭祀跡」が卑弥呼の時代である、という説は ×。、 >>190
>古墳時代とは何なのか
⇒ 卑弥呼の共立に伴い、広範囲の首長の間で祭祀連合が成立した後の時代<
成程。卑弥呼の冢を「古墳時代」に含めるインチキ騙し定義をしていたのか。
>古墳時代最初の古墳
⇒ 纏向型前方後円墳(前方後方墳も可)で各地域で最初の古墳<
成程。ここで、卑弥呼の墓を前方後円墳であった、という刷り込み騙しをしていたのか。
>祭祀連合が成立した後、大体年齢順に各地の首長が死に、死んだ順に古墳が築かれるので、
各地域最古は言えても、倭国全体で最古はそれほど意味がない
纏向古墳群では、纏向石塚古墳が最古で、列島全体でも最古級(3世紀初頭、庄内0式期)<
成程。石塚を3世紀初頭に設定して、
箸墓を卑弥呼の墓にする伏線を張っておく騙しをしていた訳か。
でもダメだな。
卑弥呼は、「南≠東」に拠って、九州の女王だし、
その墓は「冢」であって前方後円墳ではないから、×だし、
だから、設定そのものが騙しであった。 >>514
>畿内説は歪んだ自己評価の高さから修正しろ
自己評価ww
「自己」じゃなくてその領域の専門家「全員」が、現状で知りうる全情報を総合して、
大和朝廷の最初期が三国志に描かれた邪馬台国だって判断してるんだからw
素人の畿内説はその断片を紹介しているだけw >>516
>日本語の「道」を解説した英語のそのまた日訳を取り出してきてどうする気だ。
バカだなぁ
グーグル翻訳で「中国語(簡体字)」から英語に翻訳したものだぞww
引用部分も簡体字になってるだろ?
お前の言い分は崩壊、破綻してるんだよ
無能な詭弁使いは邪馬台国の会にお帰りww ユークリッドという者が、空間を規定した可能性があるな、、 >>516
>すなわち割り算の練習問題における「道の里」の具体的な数字化表現は「里数」であり、
>「道の遠・道の近」の具体的な数字化表現は「日数」であるということだ。
お前、とことん頭が悪いんだなw
『「道の里」の具体的な数字化表現は「里数」』の里数は、この問題に一切
徹頭徹尾、出てこないんだが? この時点で、お前のインチキ詭弁説明は成り立たない
道里を分解して考えるなら、「道」が移動する道筋、「里」が距離・長さであり、「道里」で進むべき距離だ
それを里で表すことも日で表すこともあるし、日で表すのも道里の表記法としてごく普通のこと
里数と日数の同居している表現も普通にある
>>49 ◆FAQ 60
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) >>606
ユークリッドという者が、規定した空間は、思考実験のためには、有用だったのではないのかな、、、 >>519
>その中心国邑が記載されていないのはおかしいわけで、それは魏志倭人伝の中で求めるなら伊都の奴国しかない。
この邪馬台国の会の御仁は、とことん頭が悪いな
その中心国邑の名前が投馬国(出雲)であり、邪馬台国(ヤマト)なんだよ
七万戸の邪馬台国はヤマトだけではなく、河内や環大阪湾の範囲を含むが、
その中心国邑の名前でヤマト国と書かれているんだよ
邪馬台国と伊都国は重なっていないww >>609
発見された土器を分析して、魏志倭人伝時代に何が起きたのかを空想する道具にしたことに似ているな、、、 >>522
>中國の王朝名はすべて一文字、氏族名、氏名も一文字だ。
三国志が書かれた時代の晋王朝の司馬氏に全力でケンカを売ってるなww
あと公孫氏にもww
どうして一瞬でウソだとバレることを本気で書き込むかねぇ
まあ、ソースは邪馬台国の会(ドヤァ)ってやつだから、バカなんだろうなww >>612
ガウスは、何かに気付いたのだったな、、、 >>524
>筑後川に咳など作るわけがない。
堰も作れず、治水もできなければ、雨が降るごとに流されちゃうんだよ
そんなところに水田は作れない >>613
司馬が王朝名だと思ってるアホがここにいるな
キナイコシはとことん誤読するね、脳認知障害者だね >>540
>だから先の例題でも、道里八日とは書いてない、「行道八日」とされているであろう、念。
>>607を再掲
「「道」が移動する道筋、「里」が距離・長さであり、「道里」で進むべき距離だ 」
「行動」が「道」であり「八日」が「里」に当たる
合わせて「道里」の表現だよ >>614
ガウスは、ユークリッド空間が現実世界とはかけ離れた、空想の空間の可能性があることに気付いた、最初の者だった可能性があるな、、、 >>618
頭が悪すぎる者達が、発見された土器を分析して、魏志倭人伝時代に何が起きたのかを空想する道具にしていることを、僕達も見破ったのだったな、、、 >>616
>司馬が王朝名だと思ってるアホがここにいるな
>>522は「中國の王朝名はすべて一文字、『氏族名』、氏名も一文字だ。 」
司馬氏が氏族名じゃなかったら何になるんだ?ww 邪馬台国畿内説という仮説では、破綻した要素還元主義が前提になってしまったのだろうか、、、
それとも、要素還元主義が前提になってしまってはいないと反論する者が出現するのだろうか、、、 何かの討論が、進行しているが、スレッドを備忘録として使えば良いな、、、 >>616
>司馬が王朝名だと思ってるアホがここにいるな
>キナイコシはとことん誤読するね、脳認知障害者だね
ブーメランだな
「中國の王朝名はすべて一文字、氏族名、氏名も一文字だ。」
への反証だぞ
九州アタマ悪すぎ
脳認知障害? やはり、邪馬台国畿内説という、頭が悪すぎる者が宣伝している仮説は、破綻した要素還元主義が前提になってしまっているな、、、 何かの討論が、進行しているが、スレッドを備忘録として使えば良いな、、、 >>610
>その中心国邑の名前でヤマト国と書かれているんだよ
畿内説お得意の屁理屈が出たぞ。 >>615
堰がないと治水ができないわけではない。
中国で黄河に堰を作ったか?
堰が作れないから治水できないなどというのは詭弁だよね。
支流を利用して平野を灌漑すればいい。 >>626
いや、常識として国邑と言ったら首都のことか領邦全体のことだから >>194
>>古墳3基の名前を挙げないのもインチキだし、<
椿井か?桜井か?が判らなかったが、椿井であったんだな。
しかし、椿井は、大和ではなく、山城だから畿内だ。
だから、古墳3基だなんて、変な言い方をしたんだな。 >>1
あたの見解をお伺いしたい
{{五色の賤
{{貴賤・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
地方公務員上がりの学者モドキは、邪馬台国畿内説におけ
賤民とは??????????????????????????? >>630
頭が悪すぎる奥山氏が、絶対に辿りつけないレベルにある言葉だね、、、 やはり、邪馬台国畿内説という、頭が悪すぎる者が宣伝している仮説は、破綻した要素還元主義が前提になってしまっているな、、、 >>631
また九州説はウソをついていたんだな
どこまで腐ってるんだろう >>204
「南→東」などの嘘吐き騙しの指摘や、
邪馬台国や畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であった事などに、
大和説はまったく反論できず
ただ悪質な悪口をわめき散らすだけ
それが論争の敗者など大和説 >>586日本@名無史さん2019/06/29(土) 19:37:26.11
九州説って異常でない人いないの?
☝
あなたねー.−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ウーーーン 続けて下さい >>636
ザラコクって論破されすぎて発狂しちゃったの? 奥山氏は論破される以前に、論破されるだけのコミュニケーション能力が足りないので、僕達がいつまでも笑いリラックス出来るので良いな、、、 奥山氏は、折角、トリップ付きで、テンプレートの骨子を貼り付けたのだから、論理的にテンプレートを擁護するために、
テンプレートの骨子を擁護する者の意見に賛成できるのならば、トリップ付きで出現して賛成したり、
奥山氏自信が、トリップ付きで出現してテンプレートの骨子に使われている言葉の定義や日本列島の最古の古墳がどれかを発表すれば良いのではないのかな。。。 新羅と伽耶の地域性が発現する時代の土器と、布留1式の層から発見された畿内馬具はどちらが古いのだろうか、、、 >>645
奥山氏は、ベジタリアンだということを、トリップ付きで発表していたな、、、 >>205
>傘下とは言っていない
北部九州最大国の奴国と畿内が協調関係にあったことを示している<
おや?、ちょっと言葉を変えて、言い直したな?。
しかし、畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
北部九州最大国は、邪馬壹國であった事をこっそり隠して、
世間の人々を騙そう、としている。
>大量にと言っても、7%程度で纏向遺跡では畿内様式土器が7割
どこにもよその傘下とみなすべき理由がない
また、その直後の時代に、北部九州も東海地域も祭祀用供献土器を含む形で
畿内様式土器で統一され、祭祀の共通化が生じたことが確認できる<
畿内様式土器、という表現が疑問。
第X様式も庄内も、筑紫と、河内大和とは共通しているが、
筑紫の庄内が、3世紀前半であるに対して、
河内大和の庄内は、3世紀末であるから、筑紫が先行しており、
「筑紫様式土器」と呼ぶべきであった、という事になる。 >>648
>北部九州最大国は、邪馬壹國であった事をこっそり隠して、
いや、公然と否定してるから
畿内説だから
そんな嘘つかれても困る >>1=oluyamaで
は過去スレ確定なのはわかるが
なんなの石野さんや寺澤さんも断定してないのを
なぜ 非難ごうごうの・・・・・・・・・・・・・・5ちゃんで何??
>>1 最近の橿考を除いてごらん
彼等はまともだよ >>648
>筑紫の庄内が、3世紀前半であるに対して、
>河内大和の庄内は、3世紀末であるから、筑紫が先行しており、
なら、どうして庄内式が筑紫に「搬入」されたの? >>629
ほう。
畿内説では領邦全体を国邑と呼ぶのか。 >>650
このスレを読んでいると、橿考は妄想癖の人間の集まりか詐欺師の集まりのように思えてしまう。 世間の人には、理由の言えない主張をする九州説が、詐欺師に見える 日本列島に稲作を持ち込んだ者達は、何者達だろうか。。。 それにしても、このスレッドは、レベルが低いな。。。 >>646
奥山氏は、ベジタリアンだということを、トリップ付きで発表し、
カラフルなロシアのサラダを食べたのではなかったのかな。。 >>655
バカ?漢字の意味と用法を事典で確認してこい >>660
プロ固定の頭の中の脳の活動の限界が、このスレッドのレベルになってしまうので、仕方ないな。。。 真実のオリヴィエ・サラダの味は再現されたのだろうか、、、 邪馬台国畿内説では、魏志倭人伝時代には、倭人がロシアでもサラダを食べていたのだったね。。。 >>667
邪馬台国畿内説では、畿内の北の海の向こうにも、サラダをたべる倭人がいたのだったね、、、 真実のオリヴィエ・サラダの味は再現されたのだろうか、、、 >>626
九州説のバカの間では、邑と国と国邑を同じ意味で使っているのがいるみたいだが、
邑と比べられるのは国ではなく都だ
凡邑有先君之廟曰都,無曰邑
凡そ先君の廟の有る邑を都と曰う、無きを邑と曰う
都市国家段階では城壁に囲まれた邑がそのまま国だったが、領域国家段階になると
邑がそのまま国を指すのではなくなる
国の中心となる城壁に囲まれた邑が国邑、国都(首都)になる
邪馬台国七万戸の中心がヤマト国で、邪馬台国七万戸の範囲には河内や和泉も入るんだよ >>628
黄河の治水はひたすら堤防を積み上げたんだよ
そんなことは弥生時代の筑後川ではできてないだろ?ww
不適当な比較を例示しても無意味
詭弁にすらならない
イネは春に田に植えてから秋に収穫するまで何ヶ月もかかる
ちょっと大雨が降ったら筑後川が溢れてすべての田圃もイネも押し流すようなところでは
水田稲作はできないんだよ
そもそも弥生末期でも青いところまでは海だし、筑後平野が広いから人口も多かったってのは
ただの夢物語、空想の産物だから諦めなww
http://i.imgur.com/XMjxUoa.jpg 668
どこの倭国それ?
シナのやつらかなりい加減だからな
名前の付け方がな
そのこた書いたことあるが >>638
>ザラコクって論破されすぎて発狂しちゃったの?
ここで論破される前から頭おかしくてYahoo掲示板でも出禁にされてたらしいよw 667
ロシアって
日本から行ったのは沿海州沿岸くらいまでだぞ
いたのはほとんど漁業民だよ あたまおかしいあたまおかしいって他人の意見には必ず食いついてくるキチガイはよく見るぞ >>662
九州説は矛盾を突かれてぐうの音も出ない状態になると
反論一つできずに一言レスで反論した気になってごまかすww
本質が間違っていて中身がないというのは惨めなものだな
詭弁ですら論破されてしまうw >>673、>>675
とりあえず、連続句読点「>>666-669」、キウス「>>632、 >>637、 >>641、 >>650」
ザラゴキ「東≠南、> <」には触らなくていいから ザラコク氏は、完全に狂人だろ。
1年365日ずっとこのスレに張り付いて、
一日20時間くらい、「南≠東」何とかという、最早誰も見なくなったレスを、
ひたすら投下し続ける。
これ、狂人の仕業だよ。 >>672
>黄河の治水はひたすら堤防を積み上げたんだよ
つまり堰の説明は誤りなんだ。 >>671
>都市国家段階では城壁に囲まれた邑がそのまま国だったが、領域国家段階になると
>邑がそのまま国を指すのではなくなる
勝手に定義を変えるなよ。
それだから畿内説は屁理屈だと言われる。
弥生時代の環濠集落はそれぞれが国邑だよ。
そして邪馬台国と投馬国が国邑を包含する領域を示していた。
畿内説では邪馬台国の中心国邑が記載されていないことになる。 日本三大暴れ川の一つである筑後川流域の氾濫原では
大規模水田跡は見つかっていない 有明海の後退から次第に筑後川が生まれた,こ
の地域の水田は,筑後川の河口の周辺の小さな洲
に満潮時の上水である淡水を貯めて引き潮のとき
に淡水が漏れないように土上げした土地を造り稲
作がおこなわれた.このようにして得られた淡水
(アオ)を利用して稲作を行ったのである.この ような技術を「アオ取水」といい,吉野ヶ里遺跡 で確認されている農耕技術である.
「有明海と筑後川の歴史と文化」より引用
http://portal.dl.saga-u.ac.jp/bitstream/123456789/122375/1/ohyano-1_201408.pdf キナイコシは勝手な理屈で決めつけた妄想を振りまくばかり。
その言葉にはかけらほどの真実もない。 倭国の国邑では城壁の代わりに堀や柵が用いられるが、中国の国邑と同じく境界を持っていた。
例外が二万戸という空前の規模の奴国であり、もはや環濠を持つことなく広がる栄華を極めた貿易都市だった。
その姿は東夷においてはさぞかし特異だったろうし、それを実質的に支配する小さな伊都国との組み合わせが、女王国として一つに機能していたと考えられる。 >>680
>つまり堰の説明は誤りなんだ。
論破されるとそうやって話をそらし始めるww
堰が作れないと灌漑に利用できないんだよ
いずれにしても筑後川下流域に弥生時代の大遺跡はないだろ?
現実問題として、筑後川下流域に大人口の大国があったとするのは
ただの空想、夢物語
筑後平野の遺跡は縄文海進の黒い線よりも高いところにあるんだよ
http://i.imgur.com/XMjxUoa.jpg 畿内はと見ると、纒向に河内の土器がほとんど出ないことからわかるように、いくつかの領域に分断された状態であったろう。
畿内の交通の主力は淀川であり、琵琶湖を介して日本海と瀬戸内海を結びつけていた。
近江や摂津が水運を得意とする倭人らにとって重要な土地であったことは明白だ。
しかし、その主要交易路から離れた纒向は尾張と結びついていた。
纒向は九州北部や大陸との交易の痕跡に乏しく、魏との交流が深かった卑弥呼の王都である邪馬台国とは考えられない。 >>687
論破済みだから、引用文献を読んでくれないか? >>680
>そして邪馬台国と投馬国が国邑を包含する領域を示していた。
>畿内説では邪馬台国の中心国邑が記載されていないことになる。
やっぱり「国邑」を思いっきり適当に使っているバカじゃん
早良国はどこに行ったんだい?ww
環濠集落=国だったのは、旧百余国の頃の話
邪馬台国七万戸は多くの集落を含む広域で、それが中心集落を含む小領域名≒中心国邑の
邪馬台国・ヤマト国で代表させてあるんだよ
中心国邑の名前が書いてないとかいうのが、最初から的外れだ
「邪馬台国の中心国邑が書いてないのは伊都国奴国が中心国邑だから」って
よほどのバカでもそんな読み方はしないぞww
そうであるなら、「邪馬台国に中心国邑は奴国です」と書いてなきゃおかしいだろうがww
邪馬台国の会のウェブサイトしか、情報源として認めないと、こんなバカができあがるんだなwwwww >>686
農具が出土している。
ただし吉野ヶ里そのものは青銅器生産や穀物などの集積といった、佐賀平野の中核都市としての機能に移行しており、それを支えた稲作地域はすぐ周辺だけではなく、佐賀平野全体で捉える必要がある。
佐賀平野は単位面積当たりの収量が高い良好な稲作地域として知られている。 >>689
>論破済みだから、引用文献を読んでくれないか?
>>683のpdfのことかい?
この文献の第3図の表題は「図3 江戸期になると中流域に水田が広がった」
江戸期でやっと中流域に水田が広がっているんだが?
図2の表題が「図2 堰と用水による水田開発」
水田開発には堰が重要ってこの論文でも強調されてるな
吉野ヶ里遺跡はhttp://i.imgur.com/XMjxUoa.jpgの黒線よりも高い地域だぞ?
何を論破したつもりでいるんだ?この無能は?ww >>691
>早良国はどこに行ったんだい?ww
それは俗称だろw
もちろん奴国二万戸の一部だ。
弥生時代の集落の密度で、二万戸がどれだけの面積に対応するか考えればわかること。
>邪馬台国七万戸は多くの集落を含む広域で、それが中心集落を含む小領域名≒中心国邑の
同様に、7万戸の広さを考えれば、奴国を含む北部九州全体が邪馬台国となる。
その中心国邑がもともとヤマトであったなら、それは筑後にあったことになるだろう。
伊都国の代々の甕棺墓一族に代わって、肥国(後の筑後を含む)から卑弥呼が共立されたのだろう。
>そうであるなら、「邪馬台国に中心国邑は奴国です」と書いてなきゃおかしいだろうがww
伊都国に代々の王がいると書いてある。
伊都国と奴国が高祖山を挟んで一体となって繁栄し、東西で役割を分担していたのだろう。 >>692
弥生時代の水田跡が見つかってから考えないと
現在の米の生産量は新潟1県だけで九州7県全体の85%くらいある >>688 九州説
>>690 畿内説
このように九州説は事実誤認で物事をねじ曲げて考えているのがよく分かる >>693
堰ができる前から、筑後川流域では独自の灌漑方式があり、稲作が行われていた。 >>693
>吉野ヶ里遺跡は http://i.imgur.com/XMjxUoa.jpg の黒線よりも高い地域だぞ?
だからなんだ?
何を論破したつもりでいるんだ?
この無能は?ww >>695
なぜ新潟県を持ち出すんだ?
苦しくなると関係ない話を持ち出すのは良くない癖だぞ。 >>694
>もちろん奴国二万戸の一部だ。
>弥生時代の集落の密度で、二万戸がどれだけの面積に対応するか考えればわかること。
でも早良国のことはまったく触れられてないだろ?
中心たる奴国の名称で二万戸の領域を代表させている訳だ
邪馬台国も同じだよ
七万戸に領域を中心の邪馬台国・ヤマト国の名称で代表して書いてあるだけ
もうグダグダで自分が何を言ってるのか分かってないだろww >>698
吉野ヶ里遺跡が稲作をしていても、
筑後川下流域に水田地帯が広がっていたなんてことにはならないってこと
何が論点なのか、理解できない程度の無能なんだよなこいつはww
反論することだけが目的化している九州説の典型 九州の弥生式土器の中心が紀元前後を境に、那珂川流域の須玖式土器から、筑後川下流域南岸の高三潴式土器に移っている。
このことは、奴国の領域である那珂川流域より、筑後川流域のほうが、稲作が盛んに行われ豊かな実りがあることを示している。 >>699
>佐賀平野は単位面積当たりの収量が高い良好な稲作地域として知られている。
というのが弥生時代とは関係がない
コマビト人種の良くない癖 >>700
>でも早良国のことはまったく触れられてないだろ?
「早良国」のような造語を持ち出したのはそっちだろ。
奴国は魏志倭人伝においてはいちおう、他の国邑と同列に国邑として扱われている。
しかし邪馬台国は投馬国と並び領域として扱われている。
邪馬台国の中心国邑として倭国最大の国邑であった奴国を想定することに何の問題もない。 >>702
素人さんのブログのパクリではなくて
学者の論文を読むべし >>701
筑後川下流域の稲作の様式についての文献を紹介しただろ?
中流域はむしろ流れが速くて稲作が遅れたことも書いてある。 >>701
>反論することだけが目的化している九州説の典型
ブーメランか?
とりあえず反論しないと負けた気にでもなるのか?
でも的外れな反論はかえってマイナスイメージだぞ。 そもそもキナイコシが「早良国」のような俗称を持ち出した時点で、畿内説は学問じゃないんだなと思った。 >>691
>邪馬台国の会のウェブサイトしか、情報源として認めないと、こんなバカができあがるんだなwwwww
妄想か? >>707
古代有明海の図では筑後はほとんど海になっている >>671
>凡邑有先君之廟曰都,無曰邑
>凡そ先君の廟の有る邑を都と曰う、無きを邑と曰う
伊都のことか。 >>713
久留米大学の大矢野栄次(中央大卒)は経済学部の教授なので
考古はずぶの素人 >>715
弥生時代の水稲栽培の話だから
お前は農協にでも相談に行け 4世紀に神功皇后が筑後平野で暴れまわっているから、3世紀にも筑後平野はかなり陸地になっていただろう。 神功皇后が盗賊を成敗したのは甘木のあたりだな
心安しと言ったので夜須となった >>381
調子に乗って煬帝相手に「天子」を名乗って「対等外交」を志向しながら、「対唐外交」の火種になりそうだからヤバいって、記紀に消された阿毎多利思比孤にワロタw
マルコポーロの黄金の国ジパングも、東から太平洋プレート、南からフィリピンプレート、北から北米大陸プレートが、ユーラシア大陸プレートを押し合い圧し合いして、
金属鉱床を地上付近に押し上げてくれる中央構造線のおかげだぬ。東日本大震災(原発事故)もプレゼントしてくれたが…orz 筑紫平野も山に近いところは
農耕が行われていただろうが
まだ丘陵地域での雑穀や陸稲栽培が多かっただろうね。
灌漑技術が発達して
筑紫平野が開発されるのは
三世紀後半から四世紀以降になり
邪馬台国の時代より後。
その頃に景行天皇の筑紫平野開発が始まり
久留米高良大社に仮宮を築く話が出てくる。
丘陵地帯は太宰府を中心とする
福岡平野と
広大な熊本平野。
水稲以前は熊本のほうが
広大な生産地域だった。 >>719
天子煬帝相手に、日出処天子…戦争(おっぱい!おっぱい!)発言の丸山穂高議員みたいなもんか? >>212
>テンプレ読めwww
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)<
テンプレも、この男も、
「南≠東」に拠っても、
倭王武の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠っても、×。 蛮夷の書に、無礼なる者有り、復(ま)た以て聞する勿(なか)れ
(帝国が冊封した)属国からの親書の中に、無礼なものがある。朕に2度と奏上してはならない。 >>215の部分訂正
「それも(米田の言った)大和や播磨の胎土ではなく、」は、
「それも(米田の言った)河内や播磨の胎土ではなく、」の間違い。
後で「(米田が言った)」を加筆したので、大和の訂正を忘れていた。 >>216
>反論出来ないからと言って、他人に迷惑をかけるようなことをしちゃダメだぞw
川崎市民ならなおさらw<
この男も、「川崎」という奇妙な文言を使っての、
人種差別的ヘイトスピーチ、という犯罪行為をする・・・・キョクウか。 >>381 >>722
宋の順帝への倭王「武」の上表文ではあれほど遜(へりくだ)ってたのに、倭王阿毎多利思比孤の上表文では天子を自称(タメ口)
漏れらの感覚で言えば、令和天皇に「徳仁君、嫁の雅子と娘の愛子元気!?」話しかけるようなもん。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E8%A1%A8%E6%96%87 >>720
逆に言うと、壹與の時代に邪馬台国は本格的に筑紫平野の開拓を進める。
これは南の狗奴国を再統合したからだと考えられる。
さらには、卑弥呼が卑弥弓呼と同郷の肥国王家の出自であったという推測とも一致する。 あちゃー今上さんを元号でよぶなかれ?
つーか皆さまアホループ乙です >>217
>箸墓再考というシンポジウムでのディスカッションの記事でも読んでごらん
何を「再考」したのか?がふと気になったが、
後の説明では、大和説学者が「南→東」などの嘘付き騙しをした、
という事が見え見えであったから、時間の無駄であり、やっぱり読まない。
>無主=王の居ない状態が歴年=何年も続いたとあるのだから、卑弥呼の共立を2世紀末に求める必要はない
まあ、いずれにせよ庄内0式土器の時代から古墳時代だと思えばよい<
大和説者は、「布留0」というインチキ騙しを設定した時と同じように、
「庄内0」なんてインチキ詐欺設定をしているんだな。
共存期や移行期であれば、そのように書けば済む事なのに、
「庄内0期 」という庄内の文言を付ける事が、大和説学者らのインチキの表れ。
そういえば、武末も、「古式新羅伽耶土器」なんて、インチキ文言を設定した詐欺師であったな。
>そして、最初の古墳は、各地域の首長が死んだ順番で前後するので一番最初にこだわる意味はあまりない
纏向であれば、纏向石塚古墳となる<
卑弥呼の墓は前方後円墳ではなく「冢」であり、
最初の前報後円墳は、3世紀後半中頃の那珂八幡などの筑紫の前方後円墳群であり、
大和の撥型前方後円墳の庄内1の石塚が3世紀末になる事は動かせないよ。 >>221
>相変わらず見ない聞こえないしか言うことがないんだなww ・・・
西からもたくさん入ってるだろ? そして全国の人の動きはこうなっている ・・・
各地が独立無干渉で、倭国は九州のみという九州説の言い分はまったく通らない
各地の人が北部九州に来ている状態で、北部九州のローカル首長が魏王朝をだまして
倭王に除正されるというのは妄想にすぎない<
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」があり、
征服地には「市」が造られ、「大倭」職が支配監督した、というだけだ。 思い出すとまた笑えるwww
トリつき>>1のベイズ推定 倭人伝に書かれた卑弥呼の時代の「国の大きさ」に、個人差を感じる。
1は、環濠集落程度の大きさの集落邑(住民数百人程度)
2は、多数の環濠集落を包含する地域国家像(住民千人〜万人オーダー)
旧百余国から30国になったというのは、
2の、地域国家の出現を意味しているのではないか。
半島大陸に使いを送ったのであるから、各国は数千〜数万人レベルの政治経済基盤を擁していたのであろう。、 萌芽的馬匹文化とは、畿内馬具のことだろうか、、、
21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:23:40.62
◆1(女王所都)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。 >>733
論破されて笑ってるマゾ変態の九州説
www 奥山氏は、卑弥呼が魏の皇帝から馬をプレゼントされたと考えているのだろうか、、、
21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:23:40.62
◆1(女王所都)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。 列島が魏晋と通交したしたのは、晋の時代のいつ頃までなのだろうか、、、
21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:23:40.62
◆1(女王所都)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。 ベジタリアンの奥山氏が、起床しているな、、、
737 名前:日本@名無史さん 2019/06/30(日) 09:04:58.26
>>733
論破されて笑ってるマゾ変態の九州説
www >>735
>旧百余国から30国になったというのは、
>2の、地域国家の出現を意味しているのではないか。
30はまだ多すぎる。
魏志倭人伝の書き方は、交流が失われた地域があったことを示しているように思える。
具体的には出雲など本州日本海沿岸地域だろう。
筑紫が代表となることで、これらの地域との直接交流が失われたのだ。
領域国家の名前としては、邪馬台国と投馬国が相当する。
つまり邪馬台国の中にはいくつかに国邑があったはずで、中心国邑に該当する大都市は奴国しかない。
それと行政中心である伊都国を合わせて女王国というのだろう。 畿内説スレが気になるあまり何か書き込まずにはいられない時点で
九州説の負け おwww思わず反応しちゃったのww
九州説ダサwwww >>741
>魏志倭人伝の書き方は、交流が失われた地域があったことを示しているように思える。
三国志を念頭に書いていたのであろうから、そんなネガテイブを陳寿は書かない。
又、原稿をチェックしたであろう朝廷の役人の身になれば、盛り上がりに欠ける失われた国交などスルーして当然。
旧100国、今30国の記述は、明らかに隆盛倭国の枕になっている。
、 列島が魏晋と通交していたのは、木製の鐙が発明されるよりも前の時代のことだったのだな、、、
21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:23:40.62
◆1(女王所都)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。 >>746
列島が魏晋と通交していたのは、木製の鐙が発明されるよりも前の時代のことだったので、
僕達は、また、テンプレートの嘘を発見したのだな、、
21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:23:40.62
◆1(女王所都)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。 新たな土木技術や萌芽的馬匹文化という部分は、、、
馬を使用した新たな土木技術を含む萌芽的馬匹文化、、
にした方が、全体的には間違ったままだが、部分的には少し真実に近くなる可能性があるな。。。
21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/06/28(金) 11:23:40.62
◆1(女王所都)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。 >>745
>又、原稿をチェックしたであろう朝廷の役人の身になれば、盛り上がりに欠ける失われた国交などスルーして当然。
個人の主観です。 要するにテンプレは文に読点がありすぎて曖昧になってるのが理解できない情緒的な表現だから自己陶酔の極みとして嗤われているのだな、、、 >>704
>奴国は魏志倭人伝においてはいちおう、他の国邑と同列に国邑として扱われている。
>しかし邪馬台国は投馬国と並び領域として扱われている。
これが、根拠なしの思い込みなんだよww
駢儷体って言葉知ってるかい?
魏志倭人伝の倭国の地誌記事は2国ずつ対で記述形式を揃えてあり
2国ごとに書き方が変えてある
始度一海、千餘里至對馬國。(官名)所居絕島、方可四百餘里。
土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戶、無良田食海物自活、乖船南北巿糴。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。(官名)方可三百里、
多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
又渡一海千餘里、至末盧國。(官名なし)有四千餘戶、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國。(官名)有千餘戶。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南至奴國百里。(官名)有二萬餘戶。
東行至不彌國百里。(官名)有千餘家。
南至投馬國、水行二十日。(官名)可五萬餘戶。
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。(官名)可七萬餘戶。
この書き方の変化を過剰に大きな違いだと誤読しているのが>>704
思い込みを根拠に間違ったことを延々と書いている無能だww
>邪馬台国の中心国邑として倭国最大の国邑であった奴国を想定することに何の問題もない。
その前に陳寿の書き方を理解していないから、バカげた誤読を言い張っているだけ
問題ありなんじゃなくて、そもそも無意味な誤読 >>749
三国志といえば全編全文陳寿作と思うかもしれない。
しかしそんなことはない。
中華朝廷の面目にかかわることである。
当時朝廷の優れた役人多数が手分けして念入りにチェックし、そして極上の国史(国書)に仕上げたことであろう。 >>706
>筑後川下流域の稲作の様式についての文献を紹介しただろ?
>中流域はむしろ流れが速くて稲作が遅れたことも書いてある
吉野ヶ里は下流域じゃない
いろんなところに思い込みの間違いが埋め込まれているんだよなこの人は
邪馬台国の会だけが情報ソースだとここまでのバカができあがる 【四六駢儷体】しろくべんれいたい
〔「駢儷」は馬を二頭立てで走らせる意で、対句構成の文を形容したもの〕
漢文の文体。四字と六字から成る対句を多用する華麗な文体。
誇大で華美な文辞を用い、典故のある語句を繁用し、平仄ひようそくを合わせて音調を整えるのが特徴で、朗誦に適する。
漢・魏ぎの時代に起こり、南北朝時代に盛んに行われ、中唐の韓愈かんゆ・柳宗元が古文の復興を提唱してから衰えた。
日本では奈良・平安時代の漢文によく用いられた。四六駢儷文。四六文。駢儷体。駢儷文。駢体文。駢文。 >>709
吉武高木遺跡のある室見川流域、早良平野には
早い時期から威信材の埋納が行われるだけの繁栄があったことが
考古学的に確かめられており、そこに一つの国を想定して「(仮称)早良国」と呼ぶのは
ある程度古代史に詳しい人には常識だぞ
九州説の人こそきちんと押さえておかなければならない地域、遺跡群なんだが
邪馬台国の会では甘木、朝倉の方に興味が向いているから、あまり気にしてないみたいだなww >>710、>>712、>>713
こういう無意味な一言コメントが九州説の病理だなw
邪馬台国の会の広報も大変だなw >>754
>吉野ヶ里は下流域じゃない
まあ、そう反射レスするな。
鳥栖ー久留米ラインから下流の筑後・佐賀平野分は下流域、
このラインより上の朝倉・浮羽など筑紫平野分は中流域、さらにそれより上の山間部は上流域。 >>712
>>671
>凡邑有先君之廟曰都,無曰邑
>凡そ先君の廟の有る邑を都と曰う、無きを邑と曰う
新都には、王の宮殿とご先祖様の廟(と官衙)を新造営した。これを都という。
特に、新造廟なきときは都とはみなされなかった・・・。 >>734
あれはベイズ推定の意味や原理も分からず、やり方を誤解した人が
意味のない間違った前提をスタートにして、表面的に計算をなぞっただけのお粗末なんだよ
ベイズ推計には
true positive とfalse positiveの二つの確率が既知であることが必要
つまり安本美典氏流のベイズ推定を行うには
鉄が出土するところに邪馬台国がある確率と
鉄が出土しないところに邪馬台国がある確率の両方が必要だが
これを無視している
これも何度も教えているのに、九州説の連中は見ない聞こえないを続けている
まあ、理解できてないんだろうな >>745
>又、原稿をチェックしたであろう朝廷の役人の身になれば、盛り上がりに欠ける失われた国交などスルーして当然。
また、おかしなことを書いてるな
三国志は陳寿の私撰史書
朝廷はチェックしてないよ まあ後で正史として採用した時点で校閲とか削除とかあったかも知れんが
それを言い出したらキリがないし確認手段もない 鉄が出土するところに邪馬台国がある確率、、、
というのは、数学を討論する場では、あまり、厳密な表現ではないな。。。 >>756
福岡平野ではその反対側の
香椎宮周辺も重要地域ですね。
そして太宰府周辺の筑紫野エリアや
春日エリア
いくつかの集中地帯がありますね。 >>763
そうだな、、、
数学を説明するためには、頭が悪すぎる者が使用する、曖昧な表現だね。。。 筑後川は、現在の定義だと
夜明けダムから上が上流部
筑後大堰までが中流部
それから下が下流部
という定義になっています。 >>760
それ以前に、ゴミを入れればゴミが出るというのが統計の基礎の基礎
統計手法の問題以前にすでに、考古学を無視して私見データばかりを入れた安本統計から出てきたのは、結局ゴミ統計結果なんだよ >>763
つまりベイズ統計を使った安本は根本から失敗だったってことだな まあ、文系の人がそういった数学的
ネタを出すときはハッタリや
錯誤の可能性があるので、
よく理解してから利用しましょう。
逆にこちらできっちり理解して
反撃の材料にしたりすると
面白いと思います。 >>763
「丹」を採掘するところに邪馬台国がある確率、、、
というのは、数学を討論する場では、非常に、厳密な表現ではあるな。。。 ワハハハハは @阿波 >>741
>30はまだ多すぎる。
>魏志倭人伝の書き方は、交流が失われた地域があったことを示しているように思える。
個人の感想ですねw
こういう思い込みをベースに間違ったことを捏ね上げるのが九州説の基本の作法となりますw >>763
「丹」を採掘するところに邪馬台国がある確率、、、
というのは、数学を討論する場では、非常に、厳密な表現ではあるな。。。 ワハハハハは @阿波 >>741
>領域国家の名前としては、邪馬台国と投馬国が相当する。
これは誤読
>>752を参照
むしろ奴国も領域国家なんだよ
福岡平野だけだと2万戸はきびしい
福岡平野から太宰府付近の低い分水嶺を超えて甘木、朝倉、久留米、八女付近まで奴国の領域だと
考えれば、のちに筑紫君磐井の本拠地が八女の辺りというのと整合性が取れる 倭国は百カ国でそのうち30カ国使者の往来があるとかは
後漢からの伝承をそのまま採用したんだろう
魏志倭人伝の記述はかなり後漢書の元文書に拠っているのではないだろうか >>758
そういう現在の区分じゃなくて、この図を基準に考えなさいってこと
http://i.imgur.com/XMjxUoa.jpg
3世紀の広大な穀倉地帯の筑紫平野というのは、ただの幻想
深さ1メートルを超える大河には堰が作れないから灌漑に使えないし
治水もできないから周辺の開拓開発は遅れる
筑紫平野に7万戸の邪馬台国を置くのはただの空想 >>769
つか、安本は心理学者だから
ベイズとかそれらしい看板掲げたり
文系相手に数字振り回してみたり
そういう民衆心理の意図的操作を社会実験してるんと違うかね >>774
磐井の6世紀頃なら
現在の筑前と筑後の領域の
筑紫の統一もあり得るな。
本拠地を筑前から筑後に移して
大丈夫か心配にはなるが。 >>754
吉野ヶ里そのものは工業都市だから、それを支える耕地は筑後川下流域なんだよ。
少しは思い込みで批判ばかりせずに、相手のレスをよく読んで理解してから反論しろ。
頭の中の仮想敵に反論しても、説得力ないぞ。 >>776
筑後川というのは、現代の呼び名だ。
古代と現代で、その上流・中流・下流の区分が違うというのなら、
単に上流域だ、下流域だ、などと安易・不明確な用語を用いて食ってかかっては混乱する。
具体的な時代・地名・地域名・地区名を用いtレスすべきだ。 >>760
>鉄が出土するところに邪馬台国がある確率と
>鉄が出土しないところに邪馬台国がある確率の両方が必要だが
1と0だよ。 >>756
>考古学的に確かめられており、そこに一つの国を想定して「(仮称)早良国」と呼ぶのは
>ある程度古代史に詳しい人には常識だぞ
もちろん知っているが、正式名称ではない。
史書における名称は倭だよ。
早良国というのは、そこにいた三種の神器を持つ王が倭王であるということを認めたくない人による歪曲史観による捏造用語だ。 >>764
普通の国邑のような境界がなく、福岡平野全域が奴国2万戸なんだろう。 >>763
「丹」を採掘するところに邪馬台国がある確率、、、
というのは、数学を討論する場では、非常に、厳密な表現ではあるな。。。 ワハハハハは @阿波 >>767
魏志倭人伝の記事をゴミと呼んで、史書にない妄想の国を夢想しているのが畿内説 畿内説は魏志倭人伝の記事じゃなくて
九州説をゴミと呼んでいるのだよ >>774
>むしろ奴国も領域国家なんだよ
伊都国からの距離を明示してあるから、奴国は国邑の扱いだよ。
他の国邑と違い、境界となる環濠がないだけ。
しかし八女まで奴国だと言い張らなくてはいけないなんて、畿内説を主張するというのは過酷な修行なんだなあw 畿内説自身がゴミだから
それに合わない記紀や中国書
各地の発掘遺物が全部ゴミに見えるだけ。 >>771
正史っていう「概念」は、唐が隋王朝を簒奪して立てた王朝(形式的には禅譲)であるがために、
唐王朝の正統性を主張する目的で国家事業としての正史編纂を始め、それに合わせてそれまでの
旧王朝に対する正史を選定したんだよ
それまでの三国志は細々と写本が伝世しているだけの私本
まあ、晋の恵帝の時に宮廷の書庫に写しが入れられて、
晋朝公認の三国時代の史書という扱いにはなっているけれど >>776
論破済みだから。
筑後川は堰を用いずに治水していたのが特徴。
そしてその図は卑弥呼の時代よりかなり前のもので、3〜4世紀の海岸線は今と大きく変わらないことが日本書紀などの記述からわかる。 >>780
>古代と現代で、その上流・中流・下流の区分が違うというのなら
それ以前の話
3世紀には>>780の想定する広大な筑紫平野はそもそも存在しない
この図に対するコメントを一切しない、できない時点でお察し
http://i.imgur.com/XMjxUoa.jpg >>781
>1と0だよ。
これが九州説が非科学であることを端的に示しているww >>778
高良玉垂宮とか老松宮とかがあるからねえ。
4世紀には筑後にも宮があったんだよ。
磐井ではなく壹與の頃でもいいわけだ。
狗奴国と邪馬台国が壹與の共立で統一したならば、むしろ大宰府あたりに王都を置くほうが合理的かもしれない。 九州説に合わない資料や遺物
史書を全部無視するのはゴミクズ説の方じゃないのか 日本書紀によれば、3〜4世紀の筑後は陸地化していた。
史書を無視しているのは畿内説だ。 鉄が取れるんで有名なのは朝鮮半島
日本からは銅がわりかし取れた
関東にもある >>782
>もちろん知っているが、正式名称ではない。
>>709のバカを一切非難しないやつは同類
「そもそもキナイコシが「早良国」のような俗称を持ち出した時点で、
畿内説は学問じゃないんだなと思った。」
>早良国というのは、そこにいた三種の神器を持つ王が倭王であるということを
>認めたくない人による歪曲史観による捏造用語だ。
これはデタラメww
中華王朝からの倭王の除正も受けていないし、いかなる意味でも倭王ではなく
吉武高木遺跡をもって倭国と呼ぶというのは安本美典氏ですらしていない暴論ww
多鈕細文鏡のような小さな後の世にその系譜が繋がらない鏡を重視するのは為にする議論にすぎない >>775
>魏志倭人伝の記述はかなり後漢書の元文書に拠っているのではないだろうか
逆だよ
後漢書の方が三国志の記述を参考にして書いてる 仏教なんかの釣り鐘に使うのも銅だろ
大仏もほとんど銅製や
東北からは砂金が取れた
砂金を使って銅製の大仏にメッキしたみたいなんが流行った >>797
>日本からは銅がわりかし取れた
伊邪那美が眠る、「高越山」でも採れた。 @阿波 >>796
記紀には景初三年に卑弥呼が魏に使いを送ったと
当時の魏志倭人伝を引き写してあるけれど
そして景初三年と記銘されている三角縁神獣鏡も畿内で見つかっている >>791
>3世紀には>>780の想定する広大な筑紫平野はそもそも存在しない
また安易に不明確なレスをしてるな。
広大な筑紫平野とは、どの範囲を言っているのか。
ちなみに>>780の自理解では:
(縄文海?期の黒線は基本的に縄文期の海岸線であり、弥生も後半になると黄色に塗られた地帯まで陸地化。)
(三世紀にはこの黄色部分の開拓が盛んだったのであろう。) >>799
後漢書の元資料は後漢と倭奴国の交流記事になるはず
後漢書が編集されたのは5世紀だとしても
書かれている内容は後漢代に書かれた資料によるものだろう
なので書かれている内容的には後漢書→魏志倭人伝になるのではないだろうか 中国みたいな完全に鉄を溶かして型に流しこんでの製鉄作りは日本ではできなかった
なんせ鉄を溶かすまでの技術がなかったからな
低音で鉄を熱しながら叩きながら伸ばしていく治金から始まった
つまり磁鋼鉄あたりからそのまんま叩きのめして鋼まで作り上げた >>803
いずれにせよ、「丹」の採れない筑紫平野に、邪馬台国は、絶対無い。 @阿波 >>783
>普通の国邑のような境界がなく、
普通の国邑って何のつもりで書いてる?
一つの政体としてのまとまりなら「国・クニ」
その中心となる集落なら「中心集落」とした方が誤解がない
邑は「集落、村、町、都城」を示す言葉
国邑は「ある国の中心となる都城」、今風の言い方に直せば「首都」を示す
九州説の人で「二万戸の国邑」などという書き方をする人がいるが
バカすぎて読むたびにクラクラする 九州説はクズ説とも読めるな
もうこれは決まったようなもんだな >>805
「倭国(阿波)は鉄器王国」
倭国(阿波)では遺跡発掘が少ないにも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地7か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」 @阿波 >>787
>伊都国からの距離を明示してあるから、奴国は国邑の扱いだよ。
本当にバカでかつ邪馬台国の会の二次資料しか目を通していないんだなww
大陸史書の地誌記事は、国や地域間の距離をそれぞれの「中心となる都城=国邑」間の
二点間距離・方角で示すのが標準
「距離を明示してあるから国邑」って、>>787がもの知らずのバカという自白でしかない >>807
(お前が)バカだからクラクラする の間違いだろ >>806 名前:日本@名無史さん 2019/06/30(日) 12:23:13
>>803
>いずれにせよ、「丹」の採れない筑紫平野に、邪馬台国は、絶対無い。 @阿波
なんだ、阿波ともあろうものが、丹は邪馬台国に産すると読んでいたのか。
正しくは、倭国に産する・・、駄。 >>814
>803
>正しくは、倭国に産する・・、駄。
いずれにせよ、「丹」の採れない筑紫平野に、倭国は、絶対無い。 @阿波 >>788
具体的な根拠も理由も典拠もなしに思いつきの罵声を並べてもムダだってw >>810
>阿波こそ鉄器出てないだろ
じゃ、取りあえず。 @阿波
鳴門板野古墳群 西山谷2号墳
萩原1号墓の近隣地に所在する尾根を削り出して整形した、墳丘の長径20m、短径18m、高さ約2mの不整形の円墳である。
墳丘の中央部に長さ4.72m、幅 北端で1.05m、南端で0.83mの南北方向を主軸とする長大な竪穴式石室がある。
竪穴式石室は、南北6.5m、東西4.8mの墓壙全体が結晶片岩と呼ばれる阿波特有の青い石で覆うように造られている。
石室内には、粘土床があり、その上に朱を敷き詰めたU字形の刳抜式木棺を安置していたものと推定されている。
斜縁上方作銘獣帯鏡と呼ばれる中国製の青銅鏡1面をはじめ、鉄剣・鉄槍・鉄鏃・土器などが出土している。
鏡は面径12.5cm、重量約157.6gで、右回りに「上方乍鏡竟大工青龍白虎子」の銘文と神仙像と5体の獣形のレリーフがある。
鏡は一部を欠損するが、当時は完全品として副葬されたものとみられる。
同種の鏡は数例出土しているが、そのうち、広島県広島市中子田1号古墳出土鏡が最も類似している。
出土した土器から、3世紀中葉の築造と考えられ、徳島県内をはじめ、畿内でも最古段階の竪穴式石室を持つ古墳として、竪穴式石室の出現過程を考える上でも重要な古墳である。 >>817
>丹なんて別に国内のどこで採れたって構わないだろ
「丹」が採れるところが、女王国であり、倭国であり、邪馬台国であるわけだがね。 ワハハハハ @阿波 >>815
>いずれにせよ、「丹」の採れない筑紫平野に、倭国は、絶対無い。 @阿波
阿波ともあろうものが、みみっちく、筑紫平野の30国の倭国を比定してどうするのだ。
倭国は九州島全体なんだよ。もしかして中四国も含まれていたかもしれない大倭国。 >>790
>筑後川は堰を用いずに治水していたのが特徴。
取水の方法と治水は別の概念
筑後川下流域の治水は江戸時代まで待たないといけない
>そしてその図は卑弥呼の時代よりかなり前のもので、
>3〜4世紀の海岸線は今と大きく変わらないことが日本書紀などの記述からわかる。
本当に>>790の主張は非科学のデタラメそのものだな
http://i.imgur.com/XMjxUoa.jpg
黒い線が縄文海進の線
青塗りの部分がおおよそ弥生末の頃の海岸線までの海の領域
これらはボーリング調査の結果を総合したもの
日本書紀の記録は卑弥呼の時代より数百年のちのことをさらに数百年後に記したもの
細かな海岸線の推定にはまったく無力だよ >>796
>日本書紀によれば、3〜4世紀の筑後は陸地化していた。
>史書を無視しているのは畿内説だ。
日本書紀のどの記事だ?
具体的に原文を引用してみな! >>818
少な
阿波がいつも言ってる忌部はんって大したことないんじゃないの >>803
筑後平野の弥生遺跡を地図上においてごらん
低いところには全然無いんだよ
それを無視してグダグダ言ってるのが痛ましい さては阿波は古代四国はデカい国だったとウソをついてるな? >>812
意味のある反論ができなくなると根拠なしの罵倒を書くしかなくなるのが九州説のデフォw
本当に惨めな人たちだ
邪馬台国の会に帰って、身内で好きなだけ九州説(東遷説)を捏ねてればいいよw >>817
>丹なんて別に国内のどこで採れたって構わないだろ
それがな、丹の取れる地域まで倭国だとすると北部九州以上に国力のある地域が含まれてしまい、
北部九州に倭王が居たと言えなくなるから、九州説では「倭国は九州のみ」ってことにしてるんだよ
となると、九州のみの倭国では丹のある山がないことになるww >>827
三世紀当時、吉野ヶ里の南には筑後川が蛇行しており、海水も遡上していた。
吉野ヶ里一帯は微高地で、安全だったが、海岸には近いところだった。
海までは4-5qで、その間は魚介豊かな芦原水路湿地だったのだろう。
目ぼしい弥生遺跡なんぞ、期待するほうが無理というもの。。 >>823
>少な
新規来場者がまた、やって来たようだ。 ベテラン去り、初心者登場す。 @阿波 >>828
>さては阿波は古代四国はデカい国だったとウソをついてるな?
卑弥呼の時代の倭国は、 せいぜい阿波・讃岐・南淡・吉備? ぐらいのものだろう。 @阿波 >>824
また不明確なことを云ってるな。
筑後平野の海側半分は、今でも牟田というくらいの湿地クリーク帯だ。
概ね西鉄大牟田線の西側がそうだ。
弥生時代の主力は佐賀平野で、現在の佐賀城下・市街地付近は広い微高地であり、三世紀に開拓がすすんだ主力穀倉地帯だったのだろう。
倭人伝に出てくる伊都国(佐賀川上)の東南百里の奴国をここに比定すれば、距離方角共に好適する。 >>834
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水により、 灌漑水田稲作は壊滅です。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。 @阿波 筑紫平野で遺跡が多く出るのは
八女とか、高良山の麓とか
吉野ヶ里とか、代々山の麓だね。
城島あたりも出るけど
そのへんもちょっと隆起してたみたいだ。 >>760
鉄のないところに邪馬台国がある?
アホの言うことだな >>836
そのとおりだ。
八女・広川からは、西鉄大牟田線を越えて微高地が城島まで伸びており、
ちと大げさだが、城島半島のような地形だった。(城島から吉野ヶ里までは筑後川を渡って僅か数q)
此の微高地周辺は早くから開けていたのではないか。
そして、筑後・佐賀平野間の重要な交易路の役目も果たしていたのではないか。 >>833
そこに7万戸もある国はあったのかな
畿内の戸数はそのくらいなりそうだけど >>797
ただし銅山が開発されるのは卑弥呼より後。
九州で早くて4世紀、関東で遅くて8世紀。 >>798
鏡は漢から下賜されたものであり、倭は定期的に朝貢していた。
漢書などにきちんと記録されている。
後漢書では倭の南限が倭奴国とある。 >>807
>一つの政体としてのまとまりなら「国・クニ」
>その中心となる集落なら「中心集落」とした方が誤解がない
勝手定義、勝手造語
魏志倭人伝における国の用法で書けよ。
お前の勝手な言葉の定義に浮き会う気はない。 >>807
>一つの政体としてのまとまりなら「国・クニ」
>その中心となる集落なら「中心集落」とした方が誤解がない 倭の周囲に毛人國がある
中国史の文献
そいから倭を日本全部なんて書いてあるのはない 【稲作の分布】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920
律令時代にはすでに肥前佐賀は穀倉地帯だよ。
何が江戸時代の治水だ。
史料を無視して妄想にばかり浸るなよ。 >>821
>日本書紀の記録は卑弥呼の時代より数百年のちのことをさらに数百年後に記したもの
>細かな海岸線の推定にはまったく無力だよ
そんなに離れていないよ。
神功皇后の筑後での戦いは、日本書紀の年代は3世紀の卑弥呼の時代だ。
実年代でも4世紀だよ。 >>831
>海までは4-5qで、その間は魚介豊かな芦原水路湿地だったのだろう。
その上澄みの淡水を水路に導くのが弥生時代の治水灌漑なんだよ。 >>836
>八女とか、高良山の麓とか
>吉野ヶ里とか、代々山の麓だね。
山門(ヤマト)だよ。
それを中国人が邪馬台と表記した。 >>839
鉄鏃の矢を持った兵士が卑弥呼の宮城を警護していたと書かれている。
畿内説は少しは魏志倭人伝を真面目に読めよ。
妄想ばかり振り回すな。 唐の連中は都から中国大陸沿岸部にいた海洋民の連中を全て倭←と呼んだ
武将らで倭人と同じ装束を好む連中らすら現れた
そいから安東大将軍だのは倭(海洋民)王からでてる
これつまり大陸で東夷って呼ばれて後々は中国の武将らになった連中らのこと指す言葉だよな〜?
日本じゃ倭の五王を日本の天皇に当てている
だがそおなると日本にそのときの天皇不在
これはまったく確証ない話
そいから部民だのほざいてるやつらは何もんだ? >>846
律令時代なら畿内は稲作より都の居住スペースになってるはずだろ
恣意的なデータを持ち出して勝った気になるバカハゲチャバネゴキブリ九州説 都合よい引用は都合よい連中らにとっては都合よい引用にすぎない >>845
>そいから倭を日本全部なんて書いてあるのはない
その通り。
中国から見た倭とは九州北部のことだ。 鉄が出土するところに邪馬台国がある確率と
鉄が出土しないところに邪馬台国がある確率
という、頭が悪すぎる奥山氏の表現は、
古墳が出現するまでの時代の鉄が出土した市町村に卑弥呼の城があった確率と
古墳が出現するまでの時代の鉄が出土しない市町村に卑弥呼の城があった確率
という表現に変換して討論すれば良いのではないのかな、、、 古墳が出現するまでの時代の鉄が出土した市町村に卑弥呼の城があった確率と
古墳が出現するまでの時代の鉄が出土しない市町村に卑弥呼の城があった確率は、
どのようにして、予想すれば良いだろうか、、、 >>856
弥生遺跡の住居跡から出る鉄製品を比較すれば良い
古墳から出る畿内に勝ち目はないフハハ >>836
日本列島の古墳が出現するまでの時代の鉄が出土した全ての量に対して、各市町村の鉄の出土量の割合を、各市町村に卑弥呼の城があった確率にするしかないな、、、 >>858
つまり、鉄という要素だけで全体を予測する一つの独立した根拠では、桜井市に卑弥呼の城があった可能性は、全く無いのだな、、、 僕達以外に、同じ意見の者が出現したな、、、
857日本@名無史さん2019/06/30(日) 14:08:24.74
>>856
弥生遺跡の住居跡から出る鉄製品を比較すれば良い
古墳から出る畿内に勝ち目はないフハハ 鉄という要素で全体を予測することは、土器や古墳要素で全体を予測することと同様に、要素還元主義だな、、、 日本列島の古墳が出現するまでの時代のある考古発見物体が出土した全ての量に対して、各市町村のその出土量の割合を、各市町村に卑弥呼の城があった確率にする方法は、
ロシアのルーレット会場と北朝鮮の処刑場の、どちらの思考実験に似ているのだろうか、、、 >>862
ロシアのルーレット会場と北朝鮮の処刑場の思考実験が、どのような思考実験だったか忘れてしまったし、
どちらかが、ベジタリアンの思考実験になるのだったか、ならなかったのかも、忘れてしまったな、、、 >>852
証拠は?
今みたいに1億人も住んでいたわけじゃないんだし、
居住スペースと言ってもたいした面積とも思えない ところで、なんで邪馬台国から鉄が出土しないといけないと思ってるの?
理由ある?
誰かからそう吹き込まれただけで
理由も知らないんじゃないの? >>866
魏志倭人伝を読んだことないの?
邪馬台国についての情報はほぼ魏志倭人伝に書いてあるから、読んでみるといいよw >>868
ほら、理由も説明できない
だから九州説は廃れたんだよ 魏志倭人伝で鉄の語が出て来るのは、
「竹箭或鐵鏃或骨鏃」(竹製の矢には、鉄まはた骨の鏃がついている)
の部分。
なので倭国のあるクニでは鉄の鏃が使われ、
別のあるクニでは骨の鏃が使われていれば良いのであって、
女王国や邪馬台国から何が何でも鉄が豊富に出なければならない、
鉄が豊富にない場所は、女王国や邪馬台国に該当しないと言う理由などない。 >>870
ほら、九州説はいつもゴマかす
なんと書いてある?
説明出来ないんだよね
誰かがキミにそう囁いたから盲信してるだけだろ
でなきゃ説明できる筈だからね
思考停止しててダメダメ
だから九州説は廃れた いまどきの九州説は「こう反論すれば畿内説を撃破できる」的な安物本を騙されて買っちゃた愚鈍爺ちゃんたちだけで、倭人伝なんか読んじゃいないよ >>872
よしよし畿内説。
最期に云いたいだけ云え、よ〜く聞いておいてやろう。。。 魏志倭人伝時代には、女王国と男王国の合戦場だった、今日の緑川は 、氾濫を免れたようだな。。 魏志倭人伝時代の女王国と男王国の合戦では、鉄の鏃が飛び交ったので、緑川には、戦死体が浮かび流れて行った可能性があるな、、、 >>871
当たり前だ
畿内から鉄の鏃が出てないでしょ >>876
女王国の兵士達は、熊本平野から出勤したので、忘れてしまった鉄の鏃が、竪穴式住宅から今でも発見されるのだったのだな、、、 鉄の鏃が発見された竪穴式住宅の家主は、女王国と男王国の合戦では、鉄の鏃が飛び交ったので、突き刺ってしまい、緑川の戦死体になって、浮かび流れて行った可能性があるな、、、 人民の住宅から鉄の鏃が発見されない桜井市からは、人民の住宅からは、代わりに、骨の鏃が豊富に発見されるのだろうか、、、
それとも 、そもそも、人民の住宅が無かったのだろうか、、、 >>877
出ないといういけない理由を聞いたが、九州説からは何も返事がない
死んでいるようだ >>880
ホケノは住居じゃないからその指摘は無意味 >>871
出てないところは魏使が来てないってことさ
と言うことは畿内まで魏使は来なかったってことだね >>886
普及度 九州>畿内で
九州説が優位ということよ >>881
魏志倭人伝時代の桜井市は、大溝があるかないかもはっきりしない、墓も建物も無い荒れ地だった可能性が、そうではない可能性よりも高いな、、、 >>871
>なので倭国のあるクニでは鉄の鏃が使われ、
女王の王宮の警護に当然用いるだろ。 >>877
全然反論になってないw
九州説って最後はいつも言い張るだけ
倭人伝に書かれてる倭国の産物や習俗が、すべて邪馬台国のものとは言えないの
は
真珠や青玉、丹の記述からも明らかだろ
倭国の中のどこかの場所という意味なんだよ >>887
出てないところは魏使が来てないっていう理由は?
??? >>891
>倭国の中のどこかの場所という意味なんだよ
女王の王宮を兵が守っている。
兵は鉄鏃や骨鏃を用いる。
どこかではなく、女王の王宮においても当てはまるんだよ。
畿内説の言い逃れは見苦しいよ。 >>890
>女王の王宮の警護に当然用いるだろ。
という理由は? >>893
>どこかではなく、女王の王宮においても当てはまるんだよ。
必ず鉄鏃があるって根拠は? >>892
畿内で使われたのを見てないということは
畿内に至るまでのどこかで見たのだろうということ
九州島に上陸したのは確実だから
これによって
九州説が畿内説よりも優位ということ
わかった? >>893
九州説は嘘をつき、嘘を指摘されるとまた捏造するw >>893
>女王の王宮を兵が守っている。
>兵は鉄鏃や骨鏃を用いる。
>どこかではなく、女王の王宮においても当てはまるんだよ。
鉄鏃じゃなくても、いいんだよね? 畿内説は元々4世紀崇神天皇の頃と見られていた箸墓の築造時期をゴッドハンドでどんどん早めることによって成立した似非学問だから、最初から九州説しか存在しないんだよ。 >>896
その論理、わからないな
なんで優位なの? よしよし畿内厨、
最期に云いたいことはそれだけか、よ〜く聞いておいてやるからな。。。 九州説が、自分の主張を論理的に展開できてない件について >>899
なんと?
九州説はまだ何も説明出来ないの? >>900
>畿内説は元々4世紀崇神天皇の頃と見られていた箸墓の築造時期をゴッドハンドでどんどん早めることによって成立した似非学問だから
はい、証拠だしてね >>901
倭の兵は鉄鏃を使う
鉄鏃を持った兵は鉄鏃の出てない畿内でであってない
あるいは畿内は倭でない 卑弥呼時代に合わせるべく、編年基準を変更した理由
<石野さんの説明>
布留1式のはじまりを、安本先生の言われるように
350年とすると、布留式の行われた期間が50年に満た
ない短い期間になってしまう。これはおかしいと思う
ので、布留式は290年頃から始まったと考える。
そして、布留式が始まる前の庄内式の時代のホケノ
山古墳の年代は250年ごろと考えている。
<理由は畿内的都合です>
「布留式の行われた期間が50年に満たない短い期間に
なってしまう。これはおかしいと思う」 箸墓が卑弥呼の墓だという話は学者も研究所も否定しているな。
「箸墓古墳=卑弥呼の墓」というのはいったい誰が言ってるんだろう?
以下、参考記事
白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの
可能性は低い、というよりは証明しがたい。」と述べる
石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓、
箸墓を寿陵と考える寺沢薫は壹与の墓説やミマキイリヒコ
(崇神)などの男王の墓説も浮上してこようと評価している。
奈良県立橿原考古学研究所自体は築造時期を
280〜300年(±10〜20年)と推定しており、
卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。
またC14炭素年代測定法による推定は100年程度古く
出ることがわかっており、この墓が卑弥呼の墓で
ある可能性は低くなっている。 >>906
ところで、九州の弥生時代後期の集落遺跡からは、 「鉄鏃」出土してないのでは? @阿波 >>906
ところで、九州の弥生時代後期(卑弥呼の時代) の集落遺跡からは、 「鉄鏃」出土してないのでは? @阿波 >.>911
もし、出土していないのであれば、九州説も鉄器、鉄器 言わないほうがいいよ、 @阿波 >>914
>なんだ阿波でも鉄は少ないから嫉妬してんのかw
初心者は、これだからwww @阿波 >>913
>吉野ケ里でしこたま出てるだろ
環濠集落は卑弥呼の時代じゃないよ。 @阿波 >>898
王宮を鉄製の武器で守らずにどこで鉄の武器使うんだよ
一番大事なところなんだぞ 魏志倭人伝時代というのは、5世紀の畿内馬具の時代よりも、150
年から200年も前の時代なので、庄内土器がまだ無かったのだったな、、、 >>918
確かに、九州でも弥生時代後期の集落から、鉄鏃出土しているようだね。 了解しました。
では、九州での弥生時代後期の鍛冶炉遺構はどうなの? @阿波 畿内説は魏志倭人伝を無視しないと成り立たない。
それは、畿内は魏志倭人伝に記録された邪馬台国ではないということだよ。 >>921
どこを無視?
方角と里数なら九州説も同じだし、テンプレにも書かれてる
南国風の気候風土の記述も沖縄説以外すべての説で不一致
それ以外の記述は畿内説にはとくに問題ない
九州説は魏志倭人伝に矛盾だらけだけど >>279
>伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態
3世紀の北部九州はザコ 他地域の比較で王の地位は回ってこない<
巨大化は、「セレモニーの進化拡大」の原則と、「必要」と「人手」。
大和での巨大化は、「東征毛人五十五國」での「必要」と「墓守り人の獲得」。 ここまでの鉄鏃の話が頭から抜け落ちる◯頭のキナイコシ
さすがはコミュ障と言われるだけのことはある >>283
> 『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している<
「道里」という文言の意味や使用法が、九章算術と陳寿が同じであったのか?の保証がない。
文言の使用意味は、原則としては、その筆者の文書に中から例証を求めるべきである。 >>285
>>卑弥呼が魏と外交したり初期の神社を作っていた頃、天皇家は何をしていたの?<
>ヒコ王の方は邪馬台国七万戸のローカル首長だよ<
邪馬台国なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
また、七万戸は、不彌國に南にある女王之所都の邪馬壹國であり、
大和のようなローカル首長ではないから、×。 邪馬台国畿内説では、女王国と男王国の合戦場の周りにも、鉄の鏃が、発見されていない可能性が高いのではないのかな。。。 >>843
何でもいいけど、お前は言葉の定義もいい加減で、ごまかすことばかり考えている無能だってのは
明確になったな
邪馬台国の会だけがソースとかいう情けない状態で出てくるなよなw >>846
>律令時代にはすでに肥前佐賀は穀倉地帯だよ。
3世紀とは時代のかけ離れた律令時代のデータでドヤ顔されてもw
弥生時代の土木技術ではむりってずっと言ってるんだが?
古墳時代に土木技術が進んで、多少のところまで開拓できるようになったその成果が
律令時代の記録
江戸時代の筑後川の治水記録とか読んだことないんだろ?
邪馬台国の会のウェブサイトにはそんなこと書いてないからなww >>847
実年代でも100年以上後だろ
そして、日本書紀の原文を示してみろっていうのは無視か?
能力不足でできませんってか? >>921
魏志倭人伝には邪馬台国は会稽東冶の東
現在でいうと沖縄とか台湾の辺りと記されてるんだけど 畿内で見つかってる鉄器
ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、」鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品がでている。
黒塚古墳 畿内 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品 >>900
>畿内説は元々4世紀崇神天皇の頃と見られていた箸墓の築造時期を
>ゴッドハンドでどんどん早めることによって成立した似非学問だから、
>最初から九州説しか存在しないんだよ。
お前の頭の中ではなww
九州説はとにかく編年研究を否定し続けるしかない
そして九州説の編年観は同じ土器様式が北部九州と畿内とで50年違わなければならないという
30年以上前に否定された合理性を欠くもの
結局、九州説は新しい知識を受け入れられない頑迷な老人たちの世迷い言というのが現状だ >>324
>バカなの? 未来予想やってるんじゃないぞ
過去の話であって、九州も東海も畿内の傘下に入ったんだよ
結果がすでに判明してること<
アホなの?。
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
未来予想やってるんじゃなく、過去の話であって、
九州倭國の「東征毛人五十五國」に拠って、大和も東海も九州の傘下に入ったんだよ。
史料事実で、結果がすでに判明してること。 >>330
>九州説はやたらに神武天皇に拘るね<
阿毎は、
アマ=天や海、
イ=伊、壹、五、怡、委、倭などの音韻との関係があるから。 >>935
魏志倭人伝にそう書いてあるんだよ
邪馬台国の場所はまさに会稽東治(冶)の東に当たるって
読んだことないの? 畿内説は関西勢力だでしょうが、
坂田三吉先生(将棋棋士)の「「銀が泣いている」を噛みしめるべき
桂春団治も良いでしょうが・・
今の畿内説は、春団治も演じられない 将棋に詳しくない方も多いと思いますが
坂田三吉先生の「銀が泣いている」で調べてください
纏向遺跡の手を打った方も「銀が泣いている」は、噛みしめて欲しいものです。
まだ5%の纏向遺跡調査で王手を打つ必要がどこの有るのでしょう?
>>1さんは素人だから致し方ありませんが、、、、、、、、、、、、 >>939
魏志倭人伝に邪馬台国の場所は
まさに会稽東治(冶)の東に当たるって書いてあるだろ
つまり九州北部とは書かれてないわけだ
そして九州は畿内との遺跡比べになって破滅 >>341
>国の大きさも、連合の範囲も、王墓の大きさも、中国鏡の取引も、全部畿内の圧勝
九州が自慢してた鉄も、畿内が北部九州に進出してすぐに逆転されてる
3世紀中頃の時点で、九州に優位性はない<
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、
倭國の中心は、唐代(の白村江)まで北部九州であった事が確定。
畿内なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和は、九州倭國の「東征毛人五十五國」に参戦で来たから、文化の花が開いた。
。 >>342
>米田の書いた文章も読んだことないくせに
有名人の名前かってに借りるの好きだね <
米田は、古田史学会の本に投稿し、掲載されているの。 >>929
>弥生時代の土木技術ではむりってずっと言ってるんだが?
無理だという根拠は? >>938
畿内説は関西勢力だでしょうが、
坂田三吉先生(将棋棋士)の「「銀が泣いている」を噛みしめるべき
⇧
纒向は「銀」じゃなく「歩」だよ
「歩」が「成金」になる可能性もあるが、今段階では「歩」でしょう
先走る、一部の学者もどきは悔い改めるべきだとでしょう 今はどうかは知らないが
当時 千日手は関西将棋では常識だったよ
坂田三吉がそれを身をもって反省して正攻法に変えたのだよ
>>938
「銀が泣いている」とは坂田さんの関根さんへの賛辞だと思う >>398
>九州説は何がしたいのかよくわからんな <
九州説者は、
知り得た史料事実や史料実態からの帰納に拠って、
出来るだけ確率の高い歴史の実態を知りたいだけ。 >>932
鉄と離れないか
九州説は鉄を振りかざすが
てつがもたらした文明の遺跡が九州にあるのか? >>947
>纒向は「銀」じゃなく「歩」だよ
「歩」が「成金」になる可能性もあるが、今段階では「歩」でしょう
先走る、一部の学者もどきは悔い改めるべきだとでしょう <
畿内説の学者は纒向は断定していない
寺澤さんは研究者で学者でも無いよ・・資格試験はどうでもよいが >>951
ちょっと井の中の蛙になり過ぎずに、少しは九州の遺跡を勉強した方がいいよ。 >>947
>纒向は「銀」じゃなく「歩」だよ
「歩」が「成金」になる可能性もあるが、今段階では「歩」でしょう
先走る、一部の学者もどきは悔い改めるべきだとでしょう <
畿内説の学者は纒向は断定していない
寺澤さんは研究者で学者でも無いよ・・資格試験はどうでもよいが >>951
九州は機内より見つかってる鉄器が少ないから
資料見せてやれば敗北を悟って逃走する
けど九州説は懲りずに主に邪馬台国の会のページの古い古田や安本説見て書き込んで来るから
何度だって撃退ができる 纒向が古代交通の要所なら
現代も交通の要所?
別に現代は別にして
桜井市が交通の要所なら、もっと発展した都市でもいいのだが?
なぜ? 三重は巻き込まないで欲しいのですが・・・
其れなりの反論はしますが・・・勉強してからにしてください >>954
寺澤さんは地方公務員だし、学者って自分でも言ってないと思う
でたがり屋は分かるけどな >>946
>無理だという根拠は?
ループさせるなよ
広瀬和雄「前方後円墳国家」21ページ
首長の出現と形成された首長層
「この時期の堰の構造からすれば、深さ1メートルを大きく超える河川は利用できなかった」
「広瀬和雄 堰」でググれば、グーグルブックスで該当部分が読めるよ
畿内説側は、いちいち根拠を示してるだろ?
こっちは科学的な討論をしようとしてるんだよ >>446
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説
終わってるな 古田史学二回にザラゴキも鬱陶しいけど、邪馬台国の会の>>843もうざいな やはり、邪馬台国畿内説は、破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を前提にしなければ、宣伝活動が不可能なのだな、、、 >>470
「南→東」や「冢→前方後円墳」などの嘘付き騙しのように、
なんでそんなウソをつくの?
ウソまみれだから
大和説終わった 僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低いスレッドとは全く異次元の、
僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかギリギリの勝負を、お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、
魏志倭人伝時代の真実についての討論を闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに持ち出さずに、正々堂々の討論を闘っているのだったな、、 >>960
あんた、広瀬和雄さん知ってるの?
あいつしょうもねーー同志社だよ
アイツが悪いわけではないけど 巻き込まれやすいし・・
互助会だよ それにしても、このスレッドは、レベルが低いな、、、 >>967
邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定の頭の中の脳の活動の限界が、このスレッドのレベルになってしまうので、仕方ないな。。。 >>477
>>ソースも殆ど掲示板での情報だ。<
>九州説が掲示板にウソデタラメ捏造インチキを書き込み、
ザラゴキがそれをソースに真実だと言い張るww
マッチポンプ以前の稚拙さだなw 九州説の実態ww<
いや、掲示板であっても、文献記載であっても、考古史料紹介であっても、
全て、知り得た情報は、その他の情報との間に矛盾がないか?の史料批判をして、
信頼性や確率で受け止めているの。 阿南市加茂町にある加茂宮ノ前遺跡のは発掘調査では注目すべき成果がいくつもあった。
その一つに縄文時代後期(約4千〜3千年前)の集落跡の発見を挙げることが出来る。
集落跡からは、竪穴住居2軒のほか、屋外炉(火を燃やした跡)、土坑などが見つかった。
注目されるのは、県内で初めて確認された円形配石遺構16基だ。
1基の円形配石遺構は、直径が1〜3m。
人の頭よりやや大きい砂岩の河原石を円形に並べたもので、円の内部には小石や、白色の小円礫(砂利)が敷き詰められていた。
また、16基あるサークルが一部重なり合っていることや出土した地層に高低差があることから、全ての円形配石遺構同時期に作られたのではなく、長期間にわたって順に造られたと考えられる。
配石遺構は、主に祭祀施設として利用されたと考えられる。
縄文時代前期から中期(約7千〜4千年前)ごろ、中部地方を中心として直径が50mを超えるような環状列石(ストーンサークル)が造られるようになった。
後期に入ると、その分布は東北地方にまで広がる。
一方、西日本では、こうした大型の環状列石は造られることはなく、代わりに小型の円形配石遺構が造られた。
しかし、発見された遺構は極めて少ない。
円形配石遺構が竪穴住居に近接している加茂宮ノ前遺跡の場合、日常生活と祭祀をした場所が一体として発見された稀な例として、全国的に注目されている。(県埋蔵文化財センター事業課長・氏家敏行)
2019年(令和元年)6月30日 徳島新聞朝刊 論破されすぎた老人たち
九州説はとうとう
人間として最低限の能力
そう・・他人と会話する能力さえ
捨て去った
終わったな >>479
>短里で萬二千里なら九州から出ない <
長里で萬二千余里なら、赤道付近にまで行ってしまう
>鉄がー、絹がー 銅鏡がー<
大和はいずれも、3世紀末以後。
>南は南に決まってるにだ <
有難う。
>平原1号墓を持ち上げるのも仿製鏡38枚では無理がある<
仿製鏡説の間違い。
21枚の「尚方作」方格規矩鏡は、明帝の下賜鏡が元になった鏡。 「この時期の堰の構造からすれば、深さ1メートルを大きく超える河川は利用できなかった」 という意見を発表した人物は、
どのような理由で、
「この時期の堰の構造からすれば、深さ1メートルを大きく超える河川は利用できなかった」 という意見を発表してしまったのだろうか、、
そして、河川は、年間を通して、深さは常に一定なのだろうか、、、
そして、土木や物理に詳しいかどうかはっきりしない広瀬氏や頭が悪すぎる奥山氏より、魏志倭人伝時代の頭が良い者達はいなかったのだろうか、、、 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定が、完全に論破されたので、反論を諦めて、嘘の悪口を言い放ってきたな、、、
971日本@名無史さん2019/06/30(日) 21:45:25.43
論破されすぎた老人たち
九州説はとうとう
人間として最低限の能力
そう・・他人と会話する能力さえ
捨て去った
終わったな >>960
堰なんか要らなかったんだよ。
>>683
>有明海の後退から次第に筑後川が生まれた,こ
>の地域の水田は,筑後川の河口の周辺の小さな洲
>に満潮時の上水である淡水を貯めて引き潮のとき
>に淡水が漏れないように土上げした土地を造り稲
>作がおこなわれた.このようにして得られた淡水
>(アオ)を利用して稲作を行ったのである.この ような技術を「アオ取水」といい,吉野ヶ里遺跡 で確認されている農耕技術である.
>
>「有明海と筑後川の歴史と文化」より引用
>http://portal.dl.saga-u.ac.jp/bitstream/123456789/122375/1/ohyano-1_201408.pdf >>485
>女王国連合の一員だが邪馬台国ではない<
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言である。
>伊都国奴国を除くと、3世紀の北部九州に邪馬台国も投馬国も置く余地が一切ない<
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南にある。
投馬國は、不彌國から「水行二十日」の南方であるから、ほぼ南九州。
大和の繁栄は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の応援をしたから。
この単純な事実だけで九州説は死んでしまうw 有明海は広い方が漁業が儲かったので、効率が悪かった可能性もある魏志倭人伝時代の稲作より、人口が多かった理由になった可能性もあるな、、、 >>966
このように根拠なく専門家を扱き下ろすのが九州説の特徴 >>975
>>「アオ取水」といい,吉野ヶ里遺跡 で確認されている農耕技術である.
だから、吉野ヶ里より低いところでは、稲作は行われてないってこと >>979
この記述を信じるなら、吉野ヶ里まで海が来てたんだよ >>977
有明海沿岸には、現代にも、何万戸もの水産業者がいる可能性があるな、、、 >>969
>信頼性や確率で受け止めているの。
掲示板の書き込みなんて信頼性ゼロだよww
信頼性を担保するには誰でも確認できる一次情報をソースとして示す以外にない
そのソースを求められて答えられない時点で、信頼性はゼロだ >>972
魏志倭人伝にある邪馬台国の位置とされる会稽東治の東は沖縄とか台湾
それともう一つ書いてある帯方より南1万2千里はパプアニューギニア
両者の情報が合致しないので
魏志倭人伝に書いてる邪馬台国の位置情報は間違いという事になる それともう一つ情けないのが、ソースを示されたときに
そのソースの中身を具体的に検討するのではなく、
出身校などで根拠なく貶す人格攻撃に逃げるやつだ
お前だよ>>966 >>976
女王国、邪馬台国の位置は沖縄かパプアニューギニアと魏志倭人伝に書かれているので
不弥国の南と断定する事はできない 僕達は、何種類ものソースを揃えることは無駄な事だと見破ったので、お好み焼きにも、たこ焼きにも、卵焼きにも、コロッケにも、他の物にも、かけるのは全て、豚カツソースにすることにしたのだったな、、 >>975
大矢野栄次先生のこの一文、弥生時代の筑後川流域に田んぼが展開していたソースにはならないだろう
古有明海として海面を9メートル上げただけの図を出しているし、古地形に詳しくないのは歴然
アオがーって一生懸命言っているが、
「その淡水の貯水池として,用水路として,また排水路として機能してきたのが,この地独特の
水利施設が堀(クリーク)である.
西から東へ流れ,巨勢川,城原川,中地江等の河川を集めて筑後川へ流れている佐賀江は,
近年まで,佐賀市と筑後川を結ぶ運河として物資輸送の大動脈の役割も果たしてきたのである.
そして,水源を持たぬ川・佐賀江には,この川から水田へと大量の水を取水したのである.」
というのは近現代の水利法であって、それを吉野ヶ里にも当てはめて想像しているだけだ >>986
何かの専門だと宣伝されたので、試してみたが、美味しくなかったソースにも、頭が悪すぎる者が作製したソースにも、懲りてしまったのではないのかな、、、 938 942 947 948 952 953 954
956 957 958 959 966 僕達は、何種類ものソースを揃えることは無駄な事だと見破ったので、お好み焼きにも、たこ焼きにも、卵焼きにも、コロッケにも、他の物にも、かけるのは全て、畿内馬具についてのソースにすることにしたのだったな、、 >>990
>というのは近現代の水利法であって、それを吉野ヶ里にも当てはめて想像しているだけだ
吉野ヶ里の名前を出したかっただけのょうだな。 >>998
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