邪馬台国畿内説 Part481
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1562892619/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで
「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。 ◆4−2
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、
その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、
あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7ー2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※
)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照) ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること 『三貴子』の真似だと言ってる人もいたり、血の繋がりもないとか (承前)
◆FAQ 23−3
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 河内湖の水が干上がるのは2世紀頃、
奈良湖の水が干上がるのは4世紀頃です。
畿内では5世紀頃まで鉄製農具は普及してませんでしたから密林を伐採するのは極めて困難、奈良盆地・京都盆地はまだその頃は焼畑農業だったはずです。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。 >>33の続き
しかし淡水湖が干上がった直後なら鉄製農具無しで容易に水田開発が可能になります。つまり、農業生産高から言って、3世紀の畿内の中心は河内だったと考えるのが自然で、馬の無い時代にわざわざ内陸の奥地に首都を置く経済的メリットはありません。 ’(承前)
◆30−2
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
(続く) (続き)
◆FAQ 38−2
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。 ◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」
などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、
直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が
秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、
「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。 ◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。
想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。
釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
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以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
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【追加・変更点】 なし ついに「陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋司馬懿(秀吉)は魏・明帝曹叡(信長)の後見人指名がなければ皇帝になれなかった。大恩人・曹叡の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまったミスを誤魔化し、孫呉を滅ぼす先鞭を付けたことにしてあげたい。
→曹魏の帝都・洛陽から見て孫呉との戦いにおいて、最高の牽制となるその背後に倭国「女王之所都」があるためには、
孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡(蘇州)「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、九州島(倭国)が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(べトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に長大な「一つの山島」であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽冶之東」となる【奴国A(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、九州島が南北に「陸行半月」であることを倭人から聞き「夷人不知里数、但計以日(隋書倭国伝)」、
それを南に2倍して東シナ海に浮かぶ幻の「陸行半月」九州島(南部)を付け足し、「陸行一月」として、【邪馬台国=奴国A(幻)】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「前方に氷山発見!!!!!!」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!全速後退!!」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだ!!!船長のくせに!!!このハゲェェェ〜ッ!!!」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン爆発四散!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に乗り上げ衝突し、再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野寺澤橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(大量の布留式土器と三角縁神獣鏡と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=3i7rDgy-aOY
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿→箸墓〜Ω王墓担当の物部氏)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の「九州」説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 >>99
父親もw同じような話をしていた、
大島(川崎区)のほうに海員会館というのがあるんだよ
とか >>97の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜
洛陽┃ ┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>99)
【魏】┃〜〜〜↓↓南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜対馬▲↓〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓〜〜〜_+南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
【呉】┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
建業┃〜〜┃↓「陸行半月」(正)▲▲┛〜〜〜
会稽┃〜〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島
東治┃〜〜│〜東シナ海(正).〜│〜〜↓幻の九州島南部(陳寿の創作)
蘇州┃〜〜│△△▲△△△△△│←奄美大島
↓ ┃〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」
福州┃〜〜│△▲△△△△△△│←亶州(沖縄)
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜│△△△△△△△△┘〜〜〜
澳門┃〜〜└△△△△△△△┘〜〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└九州島(幻)┘〜〜〜〜〜
┃↖儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 >>98
>また論破済みのテンプレ貼ったんか
九州説をな
便利だ >>97
>>101
卑弥呼の魏帝への朝貢理由は要するに狗奴国戦争における援軍要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置(比定)であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国「東渡海」千里「複有国」皆倭種(◎九州説…豊後水道、◎四国説…紀伊水道、✖畿内説…鈴鹿山脈?)
−其南有狗奴国(◎九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海?)
畿内説はいずれも当てはまらず、3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)は無理がある(下記参照)。消去法によって、九州説が正しい。
狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸(35万石)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万石)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万石)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地(狗古智比狗の本拠)+熊本+八代の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(上方下円墳)を比定。
祇園山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
https://sora07.exblog.jp/26083348/
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12288771975.html あの写真の母親の話だったかな?
母親談によるとw
その辺り(会員会館)に寺院があって・・・、
本当は、そこに通っていたみたいだよという話を
聞いたことがあるとかw まあ九州説が何を言ってもすでにテンプレで論破されてるんだけどね >>105の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(卑弥弓呼、帯方郡張政の説諭で卑弥呼に服従)、伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国系(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺→籠坂忍熊の乱)…魏>晋>「宋>斉>梁」南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国(九州)年号創設。
阿毎多利思比孤「日出処天子」隋煬帝「日没処天子」に対等外交=(隋の悲願、高句麗征伐の鍵となる)新羅からの朝貢を機に「独立宣言」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家となり、飛鳥疎開宮造営。
推古厩戸…前方後円墳担当の物部守屋を滅ぼす。大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種=九州年号&多利思比孤を抹消すべく、倭王権(九州本家)内の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>102
ここは、邪馬台国畿内説という、頭が悪すぎる者達が思いついた仮説が、成立するかどうかを討論するスレッドなので、
邪馬台国畿内説という、頭が悪すぎる者達が思いついた仮説が、成立するかどうかを討論すれば良いのではないのかな、、、 >>108の続き、
伊都国系・崇神朝を乗っ取った邪馬台国系・応神(胎中天皇)は、仲哀の子供ではなく、三韓征伐のため筑紫大本営にいた神功皇后と大臣・武内宿彌の子供説がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(?坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の景行・成務・仲哀、続く応神(自分の子)・仁徳(自分の孫)に仕えた彼は、筑紫邪馬台国・卑弥呼の男弟の末裔なのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
また、阿蘇邪靡堆の狗奴国王・継体は、磐井の乱で、筑紫応神朝(邪馬台国系♂武内宿彌&♀神功皇后)を乗っ取った後、武烈の妹・手白香皇女を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図っている(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教による国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝→「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、奥津城大和に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳畿内には、記紀伝承地に王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
-継体朝による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html それにしても、テンプレートを作成した朝鮮人の奥山氏は、頭が悪いな、、、
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 川崎区の中島だったかな、
大島のほうにある寺院?だと言っていたしな・・・、
何だったんだろう >>110みたいなコピペを畿内説スレに貼ってないで、九州説スレを立ててテンプレとして
まとめればいいんじゃないかな? >>112
>九州説は議論を避けてコピペに走り出したな
仕方なかろう
すれば確実に負けるから >>111
その頭が悪すぎる者しか考えつかない、、
確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。。。
という発表は、テンプレートを読むまでもなく、
奥山氏による推定の合理性を、否定するしかない状態にしてしまったね。。 浜町二丁目(一丁目のかな)というところがあるんだけど、
そっちのほうの、お寺の話もしていたり
「❓」 邪馬台国九州論の優れたスレッドは、卑劣な嘘つきの5ちゃんねるのサクラで、朝鮮人の奥山氏による著作権を無視した悪質な転載行為で、倉庫に押し込められたな。。。
114日本@名無史さん2019/07/14(日) 14:41:27.47
>>110みたいなコピペを畿内説スレに貼ってないで、九州説スレを立ててテンプレとして
まとめればいいんじゃないかな?
115日本@名無史さん2019/07/14(日) 14:43:32.37
>>112
>九州説は議論を避けてコピペに走り出したな
仕方なかろう
すれば確実に負けるから >>116
>合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、
これ誤変換というかミスタッチのまま変換してるだろ
正しくは
合理的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、
だろ 全体が間違った考え方なので、部分的に直しても、仕方ないな。。
120 名前:日本@名無史さん 2019/07/14(日) 14:51:21.56
>>116
>合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、
これ誤変換というかミスタッチのまま変換してるだろ
正しくは
合理的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、
だろ >>119
???
またスレ立てすればいいだけだろ?
連続句読点が大量の荒らし投稿で畿内説スレを流しきったのも一度や二度じゃないが、
その度に>>1はスレ立てしてるぞw 確実に知っているのは、
たしか観音寺というところだったような、
川崎区の・・・・・・・w >>121
>全体が間違った考え方なので、部分的に直しても、仕方ないな。。
連続句読点の考え方、生き方、人生そのものが、全体として間違っているのは同意ww
独立した複数の根拠が同一の結論を整合的に指すならそれが正しいと判断するのはごく普通の論理過程だ 奥山氏は、ホーリズムという物事を理解しなければ、間違った方法論を前提とするテンプレートを貼り付け続けるので、恥を掻き続けるのではないのかな、、、 このスレ同じ話の繰り返しばかりで読むのアホらしくなるな
どちらもいかにも根拠ありそうな言い方ばかりしているが、どちらの側にも根拠といえるほどのものがない 朝鮮人であるからという理由で頭が悪すぎる分けではない、頭が悪すぎる朝鮮人の奥山氏は、一度完全に論破された物事でも、立ち向かってくるので、
何度でも、楽しむことができるのではないのかな。。
124日本@名無史さん2019/07/14(日) 14:57:56.58
>>121
>全体が間違った考え方なので、部分的に直しても、仕方ないな。。
連続句読点の考え方、生き方、人生そのものが、全体として間違っているのは同意ww
独立した複数の根拠が同一の結論を整合的に指すならそれが正しいと判断するのはごく普通の論理過程だ 調べてみると曹洞宗と書いてあるし、
予言スレでも
そうぞうしゅ、
騒動宗〜と言っている人がいたり >>129
朝鮮人であるからという理由で頭が悪すぎる分けではない、頭が悪すぎる朝鮮人の奥山氏は、一度完全に論破された物事でも、立ち向かってくるので、
何度でも、楽しむことができるのではないのかな。。
という文章は、
朝鮮人であるからという理由で頭が悪すぎる訳ではない、頭が悪すぎる朝鮮人の奥山氏は、一度完全に論破された物事でも、立ち向かってくるので、
何度でも、楽しむことができるのではないのかな。。
という文章の方が、正しいのではないのかな。。 奥山氏は、朝鮮人の儒教を憎む朝鮮人なので、
僕達日本人が、全く知る可能性がない、朝鮮人の儒教に詳しいのだったね、、、 奥山氏は、ホーリズムという物事を理解しなければ、間違った方法論を前提とするテンプレートを貼り付け続けるので、恥を掻き続けるのではないのかな、、、 >>133
リサイクルされにくい土器や石器という、残り易い物体だけで歴史を推定し、全体を見失う、頭が悪い者達が多い可能性があるな、、、 なぜ知っている人がいるのか?なんだよな、
あの謎のコミック・・・・・・・・・・・とか
あと、
一人で造ったのですか?(聖造?)と言っている人がいたり
正確には親戚もいるんだろうけど むかーし住んでいたというところの周辺に、
小手子の像が建てられていたり
『小手 神社』
・・・・・・・この辺りの話をしているし 相変わらず九州説が荒らしてるね
九州説自体スレは盛り上がらないのに不思議 なぜ詳しいんだろう・・・?となるでしょ
『王母 龍宮 輿 寒いな〜』
このような名前の家の写真w
『葱の華』 画像を調べてみるとわかる
『葱の華』・・・『輿』
王母〜寒いな〜の家の写真 九州説は息をするように嘘をつくのではなくて
嘘をつかないと窒息する 家は、もう少し横のほう(〜丁目?)に住んでいるんだけど、
その家の写真、ホンモノなんだろう・・・? つかなくてもいい嘘をついて
しなくてもいい不正をしてないと九州説は不安になる気質
ラオスのダム崩壊も起こるべくして起こった事故 庄内式と布留式の年代を
令和の最新科学を用いて見直すべき たまーに意味のわからない事を書いている人がいるけど、
相手にされていないし、知っている人は知っている
実際は、ほとんど家の話 松の木が立てられている写真の話
セメント、コンクリートのブロックのようなものも写っていたでしょ、
セメント通り(現在・・・?)というところがあって 家の後ろのほうに道路(横羽、産業)もあるでしょ?
なぜか『姥清水』 家の話なのかな
母親という人がいて・・・肉なども食べなかったと言っているし、
むかーし住んでいたというところも 【九州邪馬台国説の真実】
魏志倭人伝に書かれていたヤマ大国の人たちは女性を立てて女性に優しい男性が暮らしていたと書かれている。
これは日の巫女が女王になっていたことからも解る。
しかし九州男児像はこれと全く異なる。
九州男児は女は3歩後ろを歩け、女は殴らなければ3日で狐になるとばかりにDVが多く、魏志倭人伝に書かれていた男児像と全く異なるのだ。
これに関し
例えば日本昔話で登場する鬼は先住民族の縄文系日本人を叩き潰した話を、勝った官軍が悪役にして安定に繋げた。
例えば明治維新で勝った明治政府は江戸時代の士農工商など本当は無かった差別を流したり、名家を部落落ちさせ悪役にして反撃を防いだり、国家神道に邪魔な旧神道の神社を燃やしたり廃城令などで再起不能にした。
例えば中東ではメッカ侵攻の時に多神教を悪魔崇拝として叩き潰した話を、勝ったムハンマド軍がコーランにしたためた。
例えば西欧ではギリシャ神話を信仰するヨーロッパ原住民を魔女狩りと称して、勝ったキリスト教会が皆殺しにした。
つまり、勝った者は負けた者を徹底的に潰しておかなければ安定はない。
ここで思い出すべきは九州説や偽の金印が出来たのが江戸末期という点である。
江戸末期に突如として浮上してきたヤマ大国九州説。
これは、歴史を塗り替えるために九州に渡来してきた者が流布した??を公式にしたと考えるのが自然。
そのために明治維新を起こし、廃仏毀釈で関係のある遺跡を壊し、何万社もの神社を日本各地で取り壊し(三重県だけで4万社)
廃城令で渡来系九州人に不都合な人たちの城を潰し、廃藩置県で各地の地名を渡来系九州人に都合の良いように改名したのだ。
渡来系九州人が歴史を塗り替えるために明治維新を起こしたのは大久保利通が高麗町出身と言う点からも理解できる。
https://i.imgur.com/tdcMvzh.jpg
https://i.imgur.com/V5UAb11.jpg
https://i.imgur.com/cugZEAR.png 創価が何やら〜とも言っているし、
家自体(自身)は創価ではないとか 『サイバーパンクSPECIAL』
ほとんど同じような話 稲(イナリ、田?)・・・などを祀っていたとも言っているし、
なぜ知っているんだろう 九州説の精神の源泉である嘘がこのスレでは通用しないからな
嘘は事実を前にすれば消滅するのみ このスレで行われているのは畿内説VS九州説のように見えて実は
真実を信奉VS嘘を信奉という宗教論争のようなものだ
九州説の精神構造はまさに非常識
向こうからすれば畿内説がそう見えるんだろうけど >>154
そうか?
九州説、嘘ついてる自覚がなかったら病気だろ >>545
>>>纒向大溝からは纒向1類・畿内第V様式末期(2世紀後半)から <
>>畿内第V様式末期を、2世紀後半、と断定出来た理由は何なんだ?。<
>九州の編年だよ 北部九州で畿内第V様式土器が出るからね<
そりゃダメだ。
九州の第X様式土器が、大和の第X様式土器と同じ年代であった、という保証がない。 >>156
相変わらず九州説は支離滅裂だな
九州で畿内第V様式が出るのは畿内から移住してきた人々が持ってきたからなんだがね
畿内より先に九州に第V様式があったなら
彼らはどこから来たんだ? 最近わかったことなんだけど
父親は氷見(ひみ)建設〜、
そういうところで仕事をしていたと言っていたり、
もしかして富山県関係なのかな?
はじめて働いたところは、
そこだとか 聞いたこともない・・・会社だな・・・となるでしょ?
めーそん? >>546
>>この図で、12個のモモ核のC14年代が、殆ど個々のいずれもが、
AD130〜240年という110年の間になってしまっているのは何故なんだ?。<
>ばらけずに一定の値を示してるってことだよ <
一つのモモは、その桃の木の桃の花が咲いた後に出来たんだから、
その桃の種のC14は、(一年草の種と同じように)、
その年次内に葉っぱから吸収されたものだ。
だから、AMS法が完璧な年次を計測出来るんなら、一個のモモの種で計測すれば、
ほぼ1年単位の年次を計測出来る筈であり、110年もの長い年次を計測する筈が無く、
という事は、AMS法のプラズマ化が、110年位のバラツキを発生する欠陥計測法であった、
という事だ。 九州説というのは元々がまつろ(服)わぬ民説だからな
メディアが商売のために種々雑多な主張を十把一絡げにした総称だから
何に対しても服わないので永遠に九州の比定地が一つにまとまることはない 氷見興業、工業だったかな?
東京のどこだったかな〜・・・
あの辺りに、あった会社だよと言っていたり
めーそん? >>547
>土器編年は九州説の久住編年でも大差ない<
wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/wasi/wazu3.gif
には、久住編年は載っていないし、久住編年が「九州説」なんて、聞いていないぞ。
>問題は石野氏みたいにすべての古墳の最古を大和に設定して箸墓を卑弥呼時代に持ってくる事
しかし現在では纏向型と那珂八幡はほぼ同時期ということで特に問題にならない <
ダメだ。
那珂八幡と石塚を比べれば、明らかに石塚は那珂八幡よりも進化しているから、後だ。
>要は九州は初期段階から邪馬台国連合の影響下にいましたというだけのこと
倭人伝の記載を裏付けてるだけ<
そんな「結論先にありき」なんか、証拠になるもんか。 【九州人は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている】
九州人、特に福岡、佐賀、長崎は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている事が多く、現在でも近い身内に朝鮮人の血が混じっている人が多いそうです。
DNAを調べると日本古来のDNAとかけ離れていて、朝鮮系DNAに近いとのデータもあるようです。
そんなのが関係しているのか、九州では、特に福岡県などでは暴力団の抗争が絶えませんよね?
抗争といっても、テロ組織的な過剰で突撃的な抗争の仕方で日本中を震撼してますよね。
まさしく、これも朝鮮人の血筋も関係しているとネットでは騒がれていますね。
そのせいか九州男児と言えば「嘘つき」「男尊女卑」として有名ですが、これ朝鮮人と全く性質が一緒なんですよ。
やっぱり血は争えませんね。
https://i.imgur.com/TmDoc9t.png
https://i.imgur.com/rwCCPSW.jpg
https://i.imgur.com/8FWpPsN.jpg >>164
>那珂八幡と石塚を比べれば、明らかに石塚は那珂八幡よりも進化しているから、後だ。
真っ赤なウソ
https://i.imgur.com/zJCqyag.png >>548
>九州といっても博多湾沿岸を中心に 筑後北部までだね
これが二萬餘戸の奴國<
二万戸の奴國は、伊都国の「東南百里」であるんだから、
「日向峠西麓」付近に入り口がある 事になり、
「博多湾沿岸を中心に 筑後北部まで」というのは、×だろうねえ。 【渡来系九州人と朝鮮人】
東京大学の遺伝子研究チームによると
現代日本人の44/43は渡来系九州人
この渡来系九州人の遺伝子は現代の朝鮮人と酷似していることは研究で明らかになっている
天皇の顔見てみろよ
朝鮮耳でエラ張りツリ目だろ?
たまに古代朝鮮人と現代朝鮮人は違うとか言うバカいるけど
それ違うなんて学説は世界のどこにもないから
是非東京大学に入学して論文発表してもらいたいね
https://i.imgur.com/8vIwAxZ.gif >>554
>九州説は 最早このように 理由のない決めつけで 考古学を否定するしかない <
「南≠東」というのは、
正常の教育を受けた人間では99.9%以上の「理由になる」論点であり、
「南→東」などとする人間は、考古学者であろうと、
教育委員会や文化庁や文部省や教科書や大学教授であろうと、
「嘘つき騙しの・・・・詐欺師である」という事は避けられない実態だ。 なぜか
さかきばら事件と同じような気がするんだけど、
実際は労働者(肉体)の家の人ではないんだろう?
みたいな話とか >>555
大和説者という人種は、基本的に、
大和説にとっては都合の悪い史料事実は、文献であれ考古であれ、
全て「否定抹殺」や「否定曲解」のインチキの対象だからね 仏教、寺院の話をしていたり・・・、
稲(イナリ、田)そういうのを祀っていて、肉も食べない・・・、
・・・、???。 >>167
>二万戸の奴國は、伊都国の「東南百里」であるんだから、
>「日向峠西麓」付近に入り口がある 事になり、
「日向峠西麓」の高祖って細石神社の真東で3lmも離れてないね
今度は伊都国をどこに移動する気なんだ
九州説はデタラメ過ぎる 他の人物もいたでしょ?
肉体改造〜何やらで、体つきも変化して〜とか
事件などを起こした人物? 隙もなく 作りあがった 畿内説
九州説の 嘘は通じず 九州説はひどい嘘つき集団だ
自分でWikiから「浙江省南部」が会稽郡から分郡されたというコピペを拾ってきておいて
だから上海付近が会稽東治になったとうそぶく
支離滅裂というか異常な嘘つきだ >>575の訂正
九州説側は、面倒くさがりながらも、いちいち大和説の嘘をきちんと指摘してるだろ?
ここに来ている大和説者は、
人間的にもダメな人しかいないからしょうがないんだろうけどさ 松の木wが立てられていて、
そこに立っている人は父親ではないんだけど
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ネタ的に言うと、おずぼーん(おじーちゃん?)
その人物の話なのかな? >>178
理由も言わずに「嘘つき騙し」と連呼するのじゃあ
「嘘をきちんと指摘してる」
事にならない >>585
>仮に九州に邪馬台国があったとしたら、<
「邪馬台国」なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この男は×。
>それは支店のようなもんでしょ 本店は奈良<
旧唐書も唐会要も、
大和の日本国は、「倭國の別種であり、旧小国」であった、
と書いている。 >>173
だいたい九州説は短里なんていうインチキを信じてるから、
短里70メートルに100里をかけても7キロにしかならない
小学校の学区くらいの大きさで、同じ平野の中で自然国境もなく別の国になるっていうんだから
どうやってもデタラメにしかならないんだよww 嘘が通じないというだけで九州説は萎えてうつ病を発症する
歴史を嘘で変えられるなんて甘すぎな考え
歴史こそ公的私的に色んな記録が残り考察に熱心な人間も存在し
嘘は結局バレる仕組みになっている 確実、むかーし山の上のほうに住んでいた・・・。
『姥清水』 >>184
伊都国が糸島平野、奴国が福岡平野でいいだろ。
高祖山と日向峠という自然国境もある。 >>589
>【歴史は勝者が作った物語】<
「勝者」なんて、全く関係がない。
魏志倭人伝は、
3世紀の同時代の魏の役人たちが倭地にやって来て、
実地に見聞計測の記録を元にして、
陳寿が紹介記載したもの。 歴史は人を引きつけてやまない
九州説の適当にチャラチャラ嘘ついとけば騙されるっしょーというナメた儒教的態度は
人の真理を求める熱意によって粉砕 >>188
>実地に見聞計測の記録を元にして、
こんなふうに
何も根拠のないことを
ひたすら言い張るのが、
九州説 歴史の探求は真理への探究
九州説は非人類だからそれが本能的生来的に邪魔臭くてしょうがないのだろう >>592
>天皇のいる所が都だよ<
京都の泉涌寺の「天皇の墓」は、天智から。
また倭王武は、常陸風土記では「倭武天皇」と記録され、
書紀が引用の百済本記には、
「日本天皇及太子皇子、倶崩薨日本天皇及太子皇子、倶崩薨」と書かれる。 アイザックアシモフだかのエッセイに書かれてたと思ったけど
思考力が一番必要とされる学問は歴史学だそうな 九州説は異常
纒向石塚が那珂八幡よりも進化しているので時代が後だとか
誰にでもすぐバレる嘘を平気でたれ流す 話を創作している人がいるんだろう
老婆の話によると、
仏教や寺院関係の話?なんだけど >>602
>記紀の時代設定は実際よりも前の時代に設定してあるだろうから、
神夏磯姫は実際にはもっと新しい時代の人なのだろう
ただ、その時代は九州北部は大和朝廷には服属していなかったことがわかる記述ではある<
「大和朝廷」なんて、存在もしていなかった。
大和の王が天皇を称したのは、京都の泉涌寺の墓では「天智」から。 >>196
関係ないね
漢字表記なんて中国から借りて来てるだけだろ 思考力・・・洞察力がふんだんに
湯水のごとく必要になる歴史学
古田尊師が短里があるって言ったから短里はあるの九州説にはとても付いてこれない領域 >>627
「南→東」などの史料記載の否定曲解の嘘つき騙しをして、
そうやって史料を勝手に改造して読めば
どんな偽史だって作り放題だね
それが大和説者の基本技のようだが >>202
そんなこと呟いてるから、九州説には異常者しかいないと言われる 天智の陵は京都の山科にある
泉涌寺に墓があるとか書いてるやつは嘘つきかバカ >>184
>伊都国が糸島平野、奴国が福岡平野でいいだろ。
>高祖山と日向峠という自然国境もある。
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、こんばんは
それでいいんだけど、それで行くなら短里は70メートルくらいってのは通らなくなるがそれでいいな?ww
ザラゴキは、それを避けるために日向峠を越える前の西側まで奴国だって言い張るんだぜww 鉄の出ない畿内
鉄の出る九州
圧倒的武力をもつ九州に畿内は奴隷になるしかなかった >>205
『ザ・モモタロウ』という作品を読んでみた?
ウラシマンと一緒にいる老婆だったかな、
タツノオトシ号のセリフ?べんけー?
若返り、押せば命の泉湧く・・・みたいなことを言っていたり、
なぜだと思う?
『❓❓❓』このようになるでしょ 鉄だけで単純に考えると
鉄を産しない九州は韓の奴隷になることになる うらしま、老婆・・・タツノオトシ号?
たしか、そのような事を言っているw 産出の問題にすりかえる畿内説
相当痛いところをつかれたとみえる 福岡弥生人のゲノム解析では日本列島で飛び抜けて韓国人と近い
半島から鉄を持って逃げてくれば北部九州が鉄を持つことになる 『王母 龍宮 輿 寒いな〜』
どういうことなんだろう 神仙界のような話・・・、あれは何なんだろう
普通のwikiなどには載っていない? >>630
>>その時点で、類スレ主は、
唐会要倭國伝の「西北接百濟、正北抵新羅」に拠って倭国は北部九州にしか有り得ず、
九州倭國の「東征毛人五十五國」という事があった事を無視隠蔽しており、
旧唐書などの「 日本國者、倭國之別種也」や「或云日本舊小國、併倭國之地」であった事も、
無視隠蔽するインチキ騙しをしているから、×。<
>それはウソ
だってテンプレに否定する理由が書いてあるもの<
類スレ主は、自分は「スレ主ではない」とは主張したから、
テンプレは関係がない。
しかし、テンプレに書いてある、と、
(南→東などの嘘吐き騙しの)テンプレを根拠にするんなら、
該当する箇所を転写してみな。 >>634
>魏志「倭人」伝であって、「倭国」伝ではないことで分かるように、
倭人の国を便宜上倭国と呼んでいるだけで、倭王朝というのは3世紀当時にはなかったと
思った方がよい <
陳寿は、魏志倭人伝においておいて、
「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國・・・」と、
「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年」と、
「正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王・・・」の、
3か所で「倭國」という国名呼称を使っている。
また後漢書以後の文書にも「安帝永初元年、倭國王帥升等」などと、
「倭國」という呼称が使われた。
>卑弥呼の共立した首長たちの代表であったのは確かだけれど、中央集権の権力者で
あった訳ではない
全国(東国を除く)規模の王権といえるのは倭の五王の頃を過ぎてからだ
日本書紀の編纂が当初、雄略紀から始まったように、萬葉集の第一巻最初の歌が
雄略天皇の御製であったように、最初の大王は雄略とみなされていた
ただ、卑弥呼の頃(記紀の皇統譜では崇神の代)から大和には同じ血筋(一系ではない)の
皇統が続いているけどね<
九州倭國の存在や歴史や卑弥呼の呼称を隠蔽盗用造作した記紀は、半分偽書であり、
九州倭國の存否の証拠にはならない。 じゃあ九州倭国たら言うもんは、どっから出てくるんだ?
・・・歴史のゴミ箱? >>637
>拘邪韓國は倭の西北界、つまり西北の端の国境を接するとことだ
拘邪韓國が倭国の内側だったら、拘邪倭国と書かれる
本来は拘邪(狗邪)・伽耶であって、後の金官伽耶だ<
後漢書自体が、はるか後代の5世紀での、
前史を「自己解釈による書き換え」を実行している半分×書であるから、根拠にならない。
そして、魏志では、「狗邪韓國」であり、
同じ「狗邪」部族が韓伝の「弁辰狗邪國」と書き分けられており、
韓の南は倭とはっきり書かれていて、「其toku廬國與倭接界」と書き分けられているから、
「「狗邪韓國」は、「韓地に向き合う狗邪部族の国」というような意味であり、
倭人の支配地である事になる。
>畿内は邪馬臺國=ヤマト国として地名までばっちり出ている <
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
邪馬臺國は、萬二千里や「南≠東」などに拠って、
大和の国ではなく、筑紫の中の国だ。 >>216
>類スレ主は、自分は「スレ主ではない」とは主張したから、
>テンプレは関係がない。
どこまでバカなんだろうね、ザラゴキは!
誰が書いたものであっても正しいものは正しいんだよ!
テンプレを書いた本人ではなくても、テンプレが正しい根拠だと認識している人は
テンプレを根拠として引用するのは当然
ザラゴキの言い分が通るなら、例えば遺跡の発掘調査をした人以外はその遺跡の発掘成果について
何も言えないことになる
バカすぎ おうおういいのかザラコクさんよ
そんな程度の低い理論で
先輩方を差し置いて九州説の幕引き役になっちまうぞ ここをご覧になっている九州説の会の方
九州説が終わるのは主にザラコクのせいです あとは徳川がどおたらアメリカがなんちゃらとんでもない発言してり連中も現れたな あとは支那ッカスみたいなんがこんなの記録文に書かれてるだよ!みたいなこん言っとるだろ
だからなんちゃら(°▽°)
んなん日本にきた支那ッカスかチョンコロか知らんが書いたもんを向こうに記録として流したんだろ
普通ありえないからな(°▽°) >>224
>ここをご覧になっている九州説の会の方
>九州説が終わるのは主にザラコクのせいです
それは間違いだよ
九州説は30年ほど前には既に終わっているんだからw >>227
>学者らの造語に決まってんだろ
学者でそんないい加減なことをいう人はいないだろw
古田史学の会系の戯れ言だよ、九州倭国ってのはね >>643
>末盧国から東南陸行の経路はある<
「東南」は、陳寿や人類の行程説明の原則に拠って、経路ではなく、出発時点での出発方向だ。
>だが、それは伊都国への経路ではない<
伊都国は、出発時点でも途中デモンズソウル見えていなかったから、方向説明はされていない。
>「現地の地理を理解していれば」、末盧国(唐津平野)から伊都国(三雲遺跡群)への陸行が不合理の極みであることはすぐに分かることだ
つまり、別の経路、地誌情報がごっちゃになってるんだよ<
人類の常識を判断基準にすれば、ごっちゃになんかなっていない。
>陳寿の倭国に関する知識というか得られた情報の精度はその程度ということ
それを「正しいに決まっている」という魏志倭人伝「原理主義」は、
科学的探究のできない人間が陥る陥穽の一つだ<
人類の常識に反して、「大和説原理主義」に陥れば、
史料事実や史料実態からの、学問的科学的な帰納的確率的な推論なんて、
出来る筈がない。 近日発売 乞うご期待!
古谷健彦著:「九州王朝はなかった」 >>644
>>一国だから筑紫国だね。<
>周防娑麼が筑紫だというなら、本州が倭国の外の倭種の別国という主張は死ぬなw <
「筑紫」と「筑紫国」とは、違う概念であり、
邪馬壹國之所都の所在は、福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地付近であり、
筑紫は、出雲が盟主であった頃からの筑前付近の地域呼称であり、国名ではなく、
女王國は、ほぼ(狗奴國を含まない)狗邪韓國〜九州島付近であり、
倭國は〜、狗奴國を含む30国付近の地域だ。 >>647
>>里(距離)の旅程と日(時間)の旅程を加算するバカまだ生きてるの?<
>それ、単にどちらも道里の表現だからね<
陳寿も、「道里」は「見聞や実測された道の里」として使っており、
「日数」は「里の実測ではない」所要日数や、伝聞日数、として、
書き分けている。 ついに「陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋司馬懿(秀吉)は魏・明帝曹叡(信長)の後見人指名がなければ皇帝になれなかった。大恩人・曹叡の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまったミスを誤魔化し、孫呉を滅ぼす先鞭を付けたことにしてあげたい。
→曹魏の帝都・洛陽から見て孫呉との戦いにおいて、最高の牽制となるその背後に倭国「女王之所都」があるためには、
孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡(蘇州)「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、九州島(倭国)が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(べトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に長大な「一つの山島」であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽冶之東」となる【奴国A(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日に奄美大島があり、それをベースに、幻の邪馬台国島、そして東治⇔東冶間を「陸行一月」として、幻の【奴国A】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 近日発表の驚きの新真実 乞うご期待!
「九州説に脳みそはなかった」 >>235の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜
洛陽┃ ┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>99)
【魏】┃〜〜〜↓↓南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜対馬▲↓〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓〜〜〜_+南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━九州島━━━┛↓〜〜〜〜
東治┃〜〜〜〜東シナ海〜〜〜↙南「水行十日」
蘇州┃〜〜┌邪馬▲台国(幻)┐←奄美大島〜〜〜↓陳寿の創作
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」
福州┃〜〜│△▲△△△△△△│←亶州(沖縄)
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
香港┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
澳門┃〜〜└△△△△△△△△┘〜〜〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜
┃↖儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 中国の日本についての記述を見ると九州説など全く存在していないのが分かる
簡単に書くとこうなる
邪馬台国は台与の後にも滅んで等おらず男性王が立ち継続して晋、宋、斉、梁、隋と使節を送り続けている(梁書、北史)
↓
隋の時に使節を送ってきたアメノタリシヒコ=用明天皇と断定(新唐書)
↓
アメノタリシヒコは筑紫城から大和州に都を移したと記載される神武天皇の後なので都は大和(新唐書)
↓
アメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じなので邪馬台国は大和(隋書、新唐書)
↓
アメノタリシヒコは一大卒を各地に派遣して地方を支配している(魏志、旧唐書)
一大卒のいる場所=邪馬台国の被支配地
↓
アメノタリシヒコ(用明天皇)はその後の桓武天皇などにも系譜が連続していると認識されている(旧唐書、新唐書)
白村江の戦いの当事者である唐の記録でこう記載されている
このため、王朝交代など起こってないと確定
倭から日本への変化は定説通り壬申の乱であることが確定
↓
宋の太宗が「日本は小国だが王も貴族も古代から同じ系統が維持されていて素晴らしい」と称賛(宋史)
中国は邪馬台国は大和でそれが継続していると当然のことのように了解している >>662
>それ、投馬国についても同じ形式で書いてある時点で通らないって理解できないかな?<
「同じ形式」ではない。
投馬國は、行程途中の不彌國からの側副傍線国説明としての記載であり、
邪馬壹國女王之所都は、行程の目的地である女王國の説明として、
両者は、書き分けられている。
>投馬国行きは、何里になるんだ?<
魏使らは行っておらず、だから里数計測はされていない。
>それが言えないなら、萬二千里の言いかえが水行十日陸行一月で言い換えているものだと
いう九州説の主張は通らないぞw<
関係がない。萬二千余里は、ほぼ、女王之所都までの「折れ線的道のり距離」の合計だ。 >>239
投馬国から邪馬台国までも水行10日の陸行1月と書いてるぞ
魏使は邪馬台国に行かなかったのか? それに水行十日陸行一月が萬二千里の言い換えだとすると
帯方から倭国に上陸するまでの1万里を10日
残り二千里が1ヶ月かかる事になる
船は早すぎで陸路が遅すぎないか >>663
>九州説は、投馬国の記述をほぼ無視することで成り立っている <
無視していない。
会稽の海外にいて、後漢最末期にまで後漢に朝貢していた東テイ人の後と思われ、
20余国もあって卑弥呼の共立に参加した投馬國は、
史書として欠く事が出来ない重要情報。
>投馬国が宮崎都万だと、女王國以北に抵触することも無視している <
無視していない。
先に投馬國が不彌國の南方へ水行二十日の位置にある事を書いていて、
その後で書かれた二つの「自女王國以北」の文は、いずれも、
原則として、投馬國を含まない、という事になる。 満州先生のご本が絶賛発売中です。
「馬韓も百済も満州にあった」
邪馬台国論争を解く上でも必読本です。 >>666
>>会稽東治は、257〜258年の会稽郡の分郡に拠って、
陳寿執筆時には、会稽郡の東方の「揚州の治所の海岸地域」を指している事になり、<
>これが真っ赤なウソ さすが九州じいさんウソまみれ
その年に分郡されたのは浙江省南部
九州はウソつき続けることで成り立っている つまりサギ<
Wikiに拠れば、(会稽郡からの)浙江省南部の臨海郡の分郡で、
臨海郡が(揚子江の北に中心がある)揚州に所属した、と書かれているのだから、
当然、浙江省〜上海付近〜江蘇省海岸が全部揚州の支配下になっていた、
という事になる。 また畿内説の悪口大会か
休日にしょうもないことでよく盛り上がれるな 【九州人は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている】
九州人、特に福岡、佐賀、長崎は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている事が多く、現在でも近い身内に朝鮮人の血が混じっている人が多いそうです。
DNAを調べると日本古来のDNAとかけ離れていて、朝鮮系DNAに近いとのデータもあるようです。
そんなのが関係しているのか、九州では、特に福岡県などでは暴力団の抗争が絶えませんよね?
抗争といっても、テロ組織的な過剰で突撃的な抗争の仕方で日本中を震撼してますよね。
まさしく、これも朝鮮人の血筋も関係しているとネットでは騒がれていますね。
そのせいか九州男児と言えば「嘘つき」「男尊女卑」として有名ですが、これ朝鮮人と全く性質が一緒なんですよ。
やっぱり血は争えませんね。
https://i.imgur.com/zqNUtlZ.png
https://i.imgur.com/vJjsr5Z.jpg
https://i.imgur.com/LbW1uHx.jpg >>695
>日本の世間の人は荒らしたり 日本人学者を詐欺師呼ばわりなどしない <
日本の7割の国民は、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者を信用していないし、
いずれ、嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説学者や、
学会や教科書会社や教育委員会や、文化庁や文部省も、
駆逐されるだろう、と思っている。 >>696
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説学者らは、
いずれ詐欺がバレて、死んでいくんだろうなあ。 >>244
>Wikiに拠れば、(会稽郡からの)浙江省南部の臨海郡の分郡で、
>臨海郡が(揚子江の北に中心がある)揚州に所属した、と書かれているのだから、
>当然、浙江省〜上海付近〜江蘇省海岸が全部揚州の支配下になっていた、
>という事になる。
浙江省〜上海付近〜江蘇省海岸は
もともと揚州に所属している
それがどうした?
上海付近〜江蘇省海岸は臨海郡の分郡前も後も会稽ではないぞ
九州説はいつまで嘘をつき続けるんだ? >>249
>いずれ、嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説学者や、
>学会や教科書会社や教育委員会や、文化庁や文部省も、
>駆逐されるだろう、と思っている。
実際は現在もう
九州説が駆逐されてるんだけどね
そう
詐欺がバレて、死んでいる 巻向詐欺と公的機関への圧力で学会を圧迫して
権威を利用して畿内説をねじこむってのが手法だからな、畿内説の >>234
>陳寿も、「道里」は「見聞や実測された道の里」として使っており、
>「日数」は「里の実測ではない」所要日数や、伝聞日数、として、
>書き分けている。
なら、その陳寿が道里を計算して「会稽東治之東」と書いているのだから
道里を合計して福岡県にまでしか来られない、という
九州説は間違いだと確定してるよ >>253
このように
追い詰められた九州説は
陰謀論に走り
月刊ムーの世界に去った
とっくに学問ではない >>256
その程度の火消しじゃ真実は覆い隠せないよ >>752
>トーハクの三国志展に行ってきたが、鏡の展示コーナーでの説明文に
卑弥呼がもらった鏡は三角縁神獣鏡が有力と書かれていた<
トーハクって何の略なのか?は知らんが、
どっち道、「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説学者が、
学会や教育界や教科書会社や、右翼マスコミや、文化庁や文部省と結託して、
中国の鏡の専門学者の意見を無視して、
国民を騙すイベントをしていたんだろうなあ。
>あと、方格規矩鳥文鏡が単独で展示されていて、
三角縁神獣鏡の共通する要素があることも説明パネルに書かれていた<
これも、おそらく、
魏朝の方格規矩鏡は、18〜19cmのサイズが多く、
三角は、22〜23cmの大きなサイズが多い、という事を隠した説明パネルであったんだろうなあ。 >753
>方格規矩鳥文鏡は確かに三角縁神獣鏡に似てるよね
偏が省略されて同出余州になってるけど三角縁神獣鏡お馴染みの銅出徐州の銘もあるし<
△には、「海東鏡」があって、
呉系楽浪鏡師らの渡来や製作であった事が強く推論される、
という事を隠しちゃ、ダメだよ。 >>257
証拠も出せないまま真実だ真実だと叫ぶ
九州説は空飛ぶ円盤の信者と変わらない >>754
>ヒメヒコ制をベースにして、男系直系に改ざんされた記紀を読み解くのは、
3Cの倭国を解き明かす上で重要ですよね。
自分の私見ですが、神武も、ヒメ女王(呪いと卜占担当)とヒコ男王(武力担当)が、
1人の人間にされています。<
史料事実の実態から逸脱して、自由自在な空想小説的な妄想を創作するのは、
学問や科学から逸脱する事になり、×だよ。
卑弥呼とその佐治の男弟とは、
別に「ヒメヒコ」と言える程の関係とは書かれていない。 >>758
宣伝活動をしてるんじゃなくて、
「南→東」などの大和説者の「ウソ・捏造・インチキ・デタラメ」を咎めてるだけ。
きちんと、史料事実や史料実態根拠を提示しながら、ね。
九州倭國の別種分家の大和が嫌いなんじゃなくて、
嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説学者らが嫌いなんだよ、
まともな判断ができないバカがね。 >>262
そんなに後ろめたいことがないなら疑惑を晴らしてみよ 【九州人は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている】
九州人、特に福岡、佐賀、長崎は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている事が多く、現在でも近い身内に朝鮮人の血が混じっている人が多いそうです。
DNAを調べると日本古来のDNAとかけ離れていて、朝鮮系DNAに近いとのデータもあるようです。
そんなのが関係しているのか、九州では、特に福岡県などでは暴力団の抗争が絶えませんよね?
抗争といっても、テロ組織的な過剰で突撃的な抗争の仕方で日本中を震撼してますよね。
まさしく、これも朝鮮人の血筋も関係しているとネットでは騒がれていますね。
そのせいか九州男児と言えば「嘘つき」「男尊女卑」として有名ですが、これ朝鮮人と全く性質が一緒なんですよ。
やっぱり血は争えませんね。
https://i.imgur.com/gS7Exxe.png
https://i.imgur.com/Oqv1CCu.jpg
https://i.imgur.com/xeU1P2D.jpg >>265
ふっ
文科省は国民を欺いてま〜す、って
疑惑なんか、どこにあるんだ 団塊世代の耄碌ザラコクが反政府ゴッコしたいだけじゃね? 文科省は認可くだすとこやからな
間違ったこと載せてるなら文科省が全責任を負わねばならない
それから韓国あたりがどおだの関係ないからよ
やつらが日本にいちいちクチを出すこと自体がおこがましい
つまりやつらは日本をそう扱ってもよいって考えてる話やからな そこまでやるならやつらにはいずれ相応の覚悟してもらわねばならない >>271
おまえが脳病だという疑惑がな
九州説はまず、教科書の記述を間違いだという証拠を出せばいいの
妄想わめいてる時間はないぞ
このままじゃ、おまえらの生前に畿内説が確定して教科書に載ってしまうからな
まあ、もう載ってるも同然だけどな 巻向詐欺で公的機関に圧力をかけている事実は覆しようがないな 現場はうすうす気づいてるよ
結論ありきでまとめられていく調査結果の異様さにね >>760
>>何時どこでどれくらい出たのか?を、根拠を付けて説明してほしいなあ。<
>何度も書いてるんだが、いつもの「見ない、聞こえない」で逃げるのかい?ww
「調査地は纒向石塚古墳の北東200m、居館域の発掘調査地点からは
北西に約400mの地点」
「そのほとんどは纒向遺跡の最盛期である3世紀代のものです。
それらの遺物の中には、近辺で鉄器生産がおこなわれていたことを
示す鞴(炉に空気を送り込む道具)の羽口や鉄滓、鉄片など特筆すべきものが
ありました。鉄器はその当時では貴重なもので、纒向遺跡の中でいつ・どの
くらいの規模で鉄製品の生産が行われていたか解明していくことが今後必要に
なっていきます。」<
何だ?。
前に提示してされていたものであり、
3世紀代の根拠や推論論理はなかったし、
結局鉄器製品も殆どなく、
そんなレベルでは、筑紫や弥生銀座に太刀打ちできる筈もなかろ?。 風が吹けば桶屋が儲かる的なテキトーな因果関係をつくって
調査結果を捏ねくりあげていく畿内説の異常さ
もはや看過できるような段階にはない >>273
>巻向詐欺で公的機関に圧力をかけている事実は覆しようがないな
事実なら証拠が出せるだろ
まず、証拠を出せよ >>275
>3世紀代の根拠や推論論理はなかったし、
テンプレに書いてあるが? 【渡来系九州人と朝鮮人】
東京大学の遺伝子研究チームによると
現代日本人の43/44は渡来系九州人
この渡来系九州人の遺伝子は現代の朝鮮人と酷似していることは研究で明らかになっている
天皇の顔見てみろよ
朝鮮耳でエラ張りツリ目だろ?
たまに古代朝鮮人と現代朝鮮人は違うとか言うバカいるけど
それ違うなんて学説は世界のどこにもないから
是非東京大学に入学して論文発表してもらいたいね
https://i.imgur.com/8vIwAxZ.gif >>282
証人を自称する謎の男への疑惑が高まっただけだよ >>108
>>110
畿内説どころかヤマト王権もなかった説がある。 奈良にはなんにもなかったからね
巻向という虚構をつくるまでは 元々4世紀の大王墓という定説を、何とか卑弥呼の墓にできないか?ということで
どんどん年代を繰り上げることで、成立したのが畿内説。
箸墓の実際の築造年代は300年代初頭である。 >>235の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜
洛陽┃ ┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>99)
【魏】┃〜〜〜↓↓南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜対馬▲↓〜玄界灘〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓〜〜〜_+南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌←←←←←┘南「水行十日」
蘇州┃〜〜┌邪馬▲台国島(幻)┐←奄美大島〜〜(↓陳寿の創作)〜
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」
福州┃〜〜│△▲△△△△△△│←亶州(沖縄)
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
香港┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
澳門┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜
┃↖儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 >>287
もちろん、その根拠は言えないんだよね?
それが九州説クォリティだ >>287
(5世紀に金属製に取って代わられる直前)4世紀末の木製輪鐙が周濠の20〜30年分の落葉層の下から出ちゃってるからね >>291
「(5世紀に金属製に取って代わられる直前)4世紀末の木製輪鐙」
って根拠が何も無いだろ?
おまえが勝手にそう妄想してるだけ >>291
それは捨てられたものだというのが畿内説の主張
女王の墓はゴミ捨て場だったらしいw >>291
落葉層の下からは出ちゃってないね
箸墓の木製輪鐙は周溝上層の植物層の中層 九州説が今度は国家権力を裏で操る謎の組織と戦い始めたぞ 九州説はウソの宣伝だけで生き残ろうとしている
達成不可能な恥辱と苦難の道を選んだのだな
おぞましいことだ 学問レベルでは福岡(筑後南部を除く)は畿内を中心とした倭国の構成国なので
有象無象九州説と福岡は何の関係もありません きっと畿内説のストレス発散用サンドバッグとして生まれてきたんだろう 学問レベルでは
福岡(筑後南部を除く)は畿内を中心とした倭国の入り口のイトコク、ナコクの位置づけなので
真正九州説と糸島・福岡とは、何の関係もありません 墓の周溝は弥生時代から土器が多く出る
古墳時代になると土器以外のものも出る 陳寿が編纂した正史でも
呂布が袁紹のとこにいた時に赤兎馬の名前がでるし
孫権と魯粛のやり取りとか
関羽と魯粛が対峙した時とか馬がでてくる
遺構としてはみつかってないが2世紀末〜3世紀初めには
一部の武将が馬を利用していたと可能性がある
4世紀初めの箸墓の馬具にもみえる形状のものは
実際に馬具だったかもしれない
纏向から引越しするのに馬に荷物を運ばせたとか ゴミはゴミ箱に、クズはクズ箱に
九州(クズ)説もクズ箱に 奈良県立橿原考古学研究所は炭素14年代測定法により280〜300年(±10〜20年)と推定している。
しかし土器は古墳自体から発見されたものではなく、陵墓指定範囲外の周濠の底から発見された
土器に付着していた炭化物が3世紀後半のものだとしても、この古墳が発掘された纒向遺跡には
縄文時代から古墳時代までの遺跡が存在しているのでそれが箸墓古墳の築造年を代表しているとは言えないし、
さらに魏志倭人伝では牛馬がいなかったと記述されているが、同じ周壕から馬具(木製の輪鐙)が出土していることも矛盾点である。 >>306
またこのニセ情報かよ
九州説がクズなのは確定したな 牛馬無し
というのは3世紀前半の情報だからな
半世紀後に馬がいるのは
矛盾ではない >>306
考古学者ってさぁ
組織的な主義主張や自分の功績にための論が多くて困るな
捏造の温床にならなければ良いのだが・・・
素人でも努力すれば考古学学者の域にすぐ達してしまうのが現状ではないかと思う
学者のように色のついてない人の意見が参考になるのは私だけだろうかな? >>761
>砂鉄を含む山は「鉄穴山(かんなやま)」と呼ばれ、砂鉄を選り分ける作業を「鉄穴流し(かんなながし)」と言い、
そこで働く人々を「鉄穴師(かんなし)」と呼びます。
古代の「穴」は「鉄穴」の意から「鉄」のことで、大己貴命は「大穴持命」・「大穴牟遅命」ですから「偉大な鉄穴師」という意味です。
大己貴命は「鉄穴」の神でしたが、大己貴命という名は製鉄の技術を持った族長が代々継承した名前だと考えられ、
播磨国における大己貴命とその一族は、 市川、夢前川、揖保川)、千種川などの砂鉄を使って鉄を作り、
武器や農具を生産して播磨国を治めていきました。
5月の終わり頃に投稿しました兵庫県立考古博物館の「たたら製鉄再現」に使用された砂鉄は
千種川で採取してきたものだと聞いています。
播磨風国土記に大己貴命とともに少日子根(少彦名命)が登場し、
2人が市川を北上し、播磨を開拓して行く様子が描かれています。
製鉄の神である大己貴命に対して、 少彦名命は、薬、養蚕、酒造りなどの神です。
古代の製鉄に関する地名には鉄の意味を持つ「穴」や、
鉄を溶かすタタラを意味する「室」という字がよく使われています。<
情報提供、有難う御座います。 平城宮大極殿を見に行ったが、思ったよりショボかった。 畿内説は悪口だけだな
肝心の反論は一切なし
これじゃあ誰からも支持されなくても納得だわ >>310
>考古学者ってさぁ
>組織的な主義主張や自分の功績にための論が多くて困るな
それ、なんか証拠あって言ってる?
ないよね
あれば出すもの
自分の主義主張に都合の悪い結果を出した学者を中傷してるだけでしょ
見え見え >>762
>(卑狗と卑奴母離問題)「設置」されてたんじゃなくて、
それぞれの地の首長筋が、祭祀連合の中での役割として 「名乗り」した職名だろ
魏志倭人伝のの書き方だと「個人名」として書いてあるけれど、明らかに職名あるいは職掌だからね
日本人ならヒナモリと聞けば個人名ではないのは分かるだろ<
馬韓の国名に、「卑」の文字が付く国名として、
卑離國、占離卑國、卑彌國、藍奚卑離國、内卑離國、辟卑離國、牟廬卑離國、
内卑離國、辟卑離國、牟廬卑離國、如來卑離國、楚山塗卑離國があり、
倭国の30国の官名に卑狗と卑奴母離と狗古智卑狗があり、
勿論個人の称号的な呼称として、卑弥呼と卑彌弓呼がある。
そうすると、「卑」というのは、卑という部族や氏族の名称であって、
それが、国名や役職名や出目を示す呼称として、書き分けられて使われた、
という可能性が高い。 >>763
>>(渡海は水行ではないのか?の問題)
確か、中国から沖縄へ行くのに、「水行」と書いてあった筈だが。<
>ちゃんと書いてあるだろ? 沿岸航行か「島伝い」だって<
隋書琉球伝では「流求國、居海島之中、當建安郡東、水行五日而至」だよ。
東シナ海を東に向かっているから、沿岸航行だなんて書かれていないし、
島伝いにしたって、宮古島から久米島付近までは200km位あって、
島伝いには、全くならない。 ザラゴキは新説を考えてるヒマがあったら上海を会稽東治にデッチ上げるサギを撤回して皆に謝罪しろよ >>319
>島伝いにしたって、宮古島から久米島付近までは200km位あって、
>島伝いには、全くならない。
隋書の頃には、船の性能と航海技術が上がっているから、島伝いも以前より長距離まで
可能になっているんだよ
ザラゴキの大好きな古田史学のページでも読んできなよ
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin15/ryukyumo.html >>319
隋書の記述は
「至高華嶼,又東行二日至鼊嶼,又一日便至流求。」
明確に島伝いだろ?w >>314
これ、いかに九州説が他者から受けた批判を無視してるか、という事を示す好例だね
平気でウソをつき、都合の悪いものは無かったことにしてクサい物にフタする九州説体質 僕達は、今、初めて、このスレッドを覗きました。
そして、邪馬台国畿内説が破綻していたことがわかりました。。。 >>326
このスレッドを、作成し、主導的に存続させている、頭の悪い者は、5ちゃんねるのサクラで、朝鮮人ですね、、、 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 >>329
◆UiepmfCeDJqf は、頭が悪すぎますね。 邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、 【九州人は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている】
九州人、特に福岡、佐賀、長崎は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている事が多く、現在でも近い身内に朝鮮人の血が混じっている人が多いそうです。
DNAを調べると日本古来のDNAとかけ離れていて、朝鮮系DNAに近いとのデータもあるようです。
そんなのが関係しているのか、九州では、特に福岡県などでは暴力団の抗争が絶えませんよね?
抗争といっても、テロ組織的な過剰で突撃的な抗争の仕方で日本中を震撼してますよね。
まさしく、これも朝鮮人の血筋も関係しているとネットでは騒がれていますね。
そのせいか九州男児と言えば「嘘つき」「男尊女卑」として有名ですが、これ朝鮮人と全く性質が一緒なんですよ。
やっぱり血は争えませんね。
https://i.imgur.com/38WwskV.png
https://i.imgur.com/eKJ9ddP.jpg >>329
◆UiepmfCeDJqf は、奥山氏という人物ですか。 >>334
バレましたか、、、
でも、奥山氏というのは、本名ではなく、或る在日朝鮮人の通名です。 >>332
巻きぴょんの頭部がカラフルになってしまっていても、それが奥山氏である確率は、分からないのだったな。。。 >>335
◆UiepmfCeDJqf の奥山氏という人物は、なぜ、日本人を憎むのですか、、、 >>811
>見聞で移動した距離を行程に加えてはいかんのう<
きちんと見聞計測した事を、勝手に忖度して記録しばなかった事がバレれば、
どこかの財務局員のように、生きて行けないだろうのう。
>さらに魏志倭人伝より前に成立した魏略には対馬国と一大国の方400里とかの「大きさ」の記載がない
対馬国と一大国の大きさの記載は陳寿があとから情報をつけ足したもの <
残っている魏略は、
後代史家が「自己解釈に拠って勝手な書き換えや取捨選択して書き換えた」ものだから、
半分×文書であり、存在しない事は、証拠にならない。
>会稽東「治」という地名は存在した事がない<
当たり前。「東治」は、地名ではなく、普通の名詞の組み合わせの「説明文言」。
>あったのは福建省福州市に当たる会稽東「冶」でその東は台湾や沖縄<
後代の後漢書の「自己解釈に拠る書き換え」の形になっている文字も、
根拠にならない。 >>337
日本が併合してしまった朝鮮半島の、朝鮮人だからだと思います、、、 >> 332
架空のロシアの会場の巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていることで、奥山氏かどうかを判定することは、、、
つまり、着色の可能性の全体を無視して、緑と青と赤という要素だけで、全体を予想する、、、
という、破綻した要素還元主義が前提になっているのだったな。。。 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 >>235の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜
洛陽┃ ┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>99)
【魏】┃〜〜〜↓↓南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜対馬▲↓〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘_+南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌←←←←←┘南「水行十日」
蘇州┃〜〜┌───▲奄美大島─┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」
福州┃〜〜│△▲△△△△△△│←亶州(沖縄)
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
香港┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
澳門┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜
┃↖儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 >>812
>世界の果てを示す仮定の数字に余がついた所でそれは実際の数字にならないし<
「仮定の数字」や「比喩的な数字」を示す時には、「余」なんて余計な文字を付けずに、
「1や2や5」などのような、有効数字1桁程度の簡単明快な近似値を使うものであり、
「余」が付いていれば、元情報に対しての「近似値」を使った、という事になるもの。
>帯方より南1万2千里は魏の里に換算するとパプアニューギニア<
だから、その「魏の里」という解釈が間違い。
魏使らは、「始皇帝の1歩=6尺」による「里」を使わなかった、という事になる。 >>332
架空のロシアの会場の巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていることで、奥山氏かどうかを判定することは、、、
つまり、着色の可能性の全体を無視して、緑と青と赤という要素だけで、全体を予想する、、、
という、破綻した要素還元主義が前提になっているのだったな。。。 邪馬台国畿内説が、また、敗北したので、奥山氏が、敗北宣言の代わりに、どのような悪口を言い放つのか、予測すれば面白いな。。 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 >>??
しつこい
>>1が阿保と認識したうえでカキコミしろよ
阿保を揶揄うのもいいが、やりすぎ
楽しむにもほどがある
>>1は阿保 >>813
>至の前に移動があった文言がないから移動していないというなら<
「移動があった文言がない」んなら、
「至」は、「四至」表現のような「位置方向を示す文言」になる。
>対馬国と一大国も行などの移動のあった文言がなくて
方400里とだけ書かれているので移動していない事になる<
史料事実や史料実態は、
「国内の見聞移動をした」という事の記載と、それぞれの国の一辺長表現の、
両方が記載されている事になる、
>一方投馬国のほうには水行と移動のあった文言がある<
「至」の前に「移動があった」事を示す文言がないから、
「至」は、四至表現での「位置説明」文字。 九州説の相手をし続けても、義務は義務として学術的には全く不毛だし、
知的好奇心も刺激されませんよね。
たまには、畿内説同士で議論してみませんか?
どなたかお題をお願いできませんか?
(以前に自分が出したお題「日本海航路か瀬戸内航路か」はレスポンスがなかったので) >>815
「南→東」などの嘘付きだましや、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使う大和説と違って、
九州説には、イカサマ教祖のスレ主や学会や文部省のような存在はおらんぞ。
九州説者は、一人一人が魏志倭人伝や考古学証拠や実態を確かめて、
九州説が「ほぼ真理だ」と知っている。 テンプレも5ちゃんだから私的意見でいいと思うが
但し、引用する畿内説の学者の論もマチマチ・・・を統一するのは無理がある
スレ主の見解が見えない理由であろう >>820
>1万里は1魏里430mで換算して4300km
韓国のソウル辺りとされる帯方より南に4300km進んだらフィリピンを超えて赤道付近に到達
魏志倭人伝にはそこが九州北部と書いてある事になる<
「1魏里430m」というのがインチキであり間違い。
魏の役人らの記録は、「1里≒60m〜90m」での記録であり、
周代の周髀算経や漢代の淮南子に書かれた「1寸千里」とほぼ同じ度量衡であり、
それが、「魏朝の採用の里」。 >>822
道理というものの概念が全くない、
「南→東」などの嘘付き騙しの異常思考の大和説。
人というよりは、・・・・アホ詐欺動物のほうが近い。 >>833
「南→東」などの嘘付き騙しばかりの「オウムされ」人間となり果てた大和説者。
人間とは言えない・・・・アホのケダモノ詐欺師。 僕は、頭が悪すぎる者ですが、邪馬台国畿内説を信じました、、、
僕は、卑弥呼の城が平城京の地下に埋まったという意見です。。
それが歴史における帰納である。。。 >>356だけど
纏向遺跡って誰が言いだしたの???
遺跡はね・・連続性があり
どうでもいいけど・・橿原市や天理市と議論したほうがいいよ >>833
大和説者が「南→東」などのウソをついたから、
悪いのは大和説者だな。 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 >>839
>昔は倭または大倭と書いてやまとと読んでいたぞ
漢字を理解するようになってから大和に変えたけれど<
それ、
大和は元は、九州倭国の地方の「大市」を監督する大倭職であったのであるが、
倭國が白村江で大敗して、大和日本国が九州倭国を併合吸収継承してからの話。 >>842
いい名前だとも思うけどな倭
倭国は決して大きな国じゃない
そして悠久の歴史の前で我々はほんのちっぽけな存在なんだという事を思い起こさせる
歴史なんぞ自分に都合よく変えてやるわの傲慢さの極地にある大和説と違って >>358
あなたは、頭が悪すぎるのでは、ないのかな。。。
邪馬台国畿内説は、南が東に変換されたので信用されまさせん、、、 現代階でだけど
纏向=邪馬台国の王都と確信してるのはキナイコシけでねーべーか
5ちゃんで学者ぶるのもいいが 馬鹿にされて当然だな >>367
はい。。
僕は、頭が悪すぎるので、邪馬台国畿内説を信じましたが、やはり、邪馬台国は熊本平野ですね。。
反省します、、 >>860
自分を大きく見せかけたって何にもいい事ない
そして「南→東」などの騙しの嘘をついて、
「九州倭国の別種の旧小国」であった事を伏せて隠して、
誇大広告したがるのは儒教大和説の、・・・・アホ詐欺の亜人間 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 356日本@名無史さん2019/07/15(月) 20:40:01.30
>畿内説の汚点は纏向だよ><
分かるけどさ
畿内説=纏向じゃない
纏向は未だ未解明 騒ぐ研究者がようわからん 今日は勉強に成る
奥山も改心したのだろう
>>374
ベイジアンの計算はそろそろ#okuyamaを勘弁してやれよ
あんたが正解だよ 奥山だって人の子だよ >>863
>纏向は新規に作った「都」だ。<
九州倭国の地方の「大市」を監督する大倭職の国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らの支配拠点になった。
>飛鳥板葺宮や難波宮のようなもの。
ムラがなくても当然。庶民は周辺のムラにいたのだろう。
というか、そもそもが発掘されたのはごくわずかしかない。
九州と違って、大規模工業団やニュータウンは作られていないからな。<
当然、大半の毛人や出雲系銅鐸部族は、逃亡し、一部は捕まって墓守り人にされた。
>不思議なことに、古墳時代の始まりとともに、環濠集落のような巨大な集落は
日本列島から消える。発掘で「ムラ」が見つかることはめったにない。
まるで住民が消えてしまったごとく。
弥生の末期に天変地変か伝染病かで一人残らず死に絶えたのではないか?と疑われそうなほど。
だけど、そのころから古墳が作られる。小人か妖精が作ったのか?<
九州倭国の東征で、在地の住民はかなり、「高地性集落」に逃避逃亡した。
>九州も同じだが、九州説の人間は「ヤマト」でだけムラがないことを問題にする。<
九州では、北方民族に依る西晋や楽浪の滅亡の大戦乱があり、317年の東晋の建国に合わせて、
九州倭国も糸島や弥生銀座から、筑後や久留米付近に遷宮遷都した。 >>1 ◆UiepmfCeDJqf
あんた畿内説なんてどでもいいんだろな
穴凹だらけのテンプレ作るなよ バーーか
各説100%はないよ
あんたの人生の末路は5ちゃん??
寂し過ぎるよ ヨコからゴメン
黄河文明とかナイル、インダス
川に関係するけど
大和川って何?
規模は世界的でないけど淀川の亜流じゃないの >>366
>倭国は決して大きな国じゃない
そういうことにしたいんだよなww九州説はw
半島がまだ小国分立で国家形成など影も形もない時点で、
日本列島に金印を贈られた広域国家があったというのが認められないんだろうw >>875
>道里で日数が普通に使われていること(>>88,FAQ78)も、
地誌記事で日数と里数が普通に混用されていること(>>74,FAQ60)も
大陸の同時代文献を根拠にきっちり示してあるだろ? <
「道里」の原則は、文字通りの「道の里数」であり、
日数で示すのは、「里数」記録がない場合などでの、
それの「補填的」な説明に使用される場合があるだけだ。 >>382
理由もなくアンタ個人の感想を聞かされても誰も納得せんよ >>382
>日数で示すのは、「里数」記録がない場合などでの、
>それの「補填的」な説明に使用される場合があるだけだ。
つまり日数でも「道里」でいいんだよね
okいただきました
投馬国は女王国以北で
九州説崩壊必至 >>373
ベイズはもういいよ
猿も木から落ちる程度
トリ付けたには人間らしくていいじゃん >>878
>あと魏志倭人伝の地誌記事は駢儷体になっているから、表現が代わっているという側面もある<
別に「駢儷体」になっている、と決めつけるほどでもない。
同じような行程であるから、似ている記載になっただけ。
>まあ、元の情報が北部九州から先は日数になっていたというのが本当だろうが<
不彌國〜投馬國の所要日数と、「郡〜女王之所都」の所要日数であり、
対象が全く違う。 >>385
なにが問題か指摘できない九州説が
恥かいてるだけだし >>386
>不彌國〜投馬國の所要日数と、「郡〜女王之所都」の所要日数であり、
>対象が全く違う。
同じ構文なのに意味が違うと言い張る
九州説がとても異常 >>380
中國の感覚じゃねーの
3世紀の中国の倭国への認識は
倭国=日本全土じゃないのだから比較するのはいけない
大きいか、小さいかは現代人の尺度であると思う 九州の主張は
相手が畿内説であるなしに関わらず
どれもすべて通説に反対してるという
この凄い事実 359日本@名無史さん2019/07/15(月) 20:45:45.58
>>356だけど
纏向遺跡って誰が言いだしたの???
遺跡はね・・連続性があり
どうでもいいけど・・橿原市や天理市と議論したほうがいいよ >>879
>でも1世紀初めには伊勢以外は支配地域だったし・・・青が畿内式 赤が三遠式銅鐸な
畿内式と三遠式が合体したのがあの有名な 滋賀県の大岩山遺跡銅鐸な<
歴史秘話?ヒストリアでは、「南→東」などの嘘付き騙しだから、根拠にならないし、
「畿内」と言って誤魔化しているが、実態は大和は少ない、という図dasi. >>390
九州説の主張を詳しく理解してるのか?
短絡的な指摘ではないの?
ここは畿内説のスレだから九州説の指摘はここ以外の歴史板でやった方が良い 376 378 379 385 389 391 393 ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。 中国の日本についての記述を見ると九州説など全く存在いないのが分かる
簡単に書くとこうなる
邪馬台国は台与の後にも滅んで等おらず男性王が立ち継続して晋、宋、斉、梁、隋と使節を送り続けている(梁書、北史)
↓
隋の時に使節を送ってきたアメノタリシヒコ=用明天皇と断定(新唐書)
↓
アメノタリシヒコは筑紫城から大和州に都を移したと記載される神武天皇の後なので都は大和(新唐書)
↓
アメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じなので邪馬台国は大和(隋書、新唐書)
↓
アメノタリシヒコは一大卒を各地に派遣して地方を支配している(魏志、旧唐書)
一大卒のいる場所=邪馬台国の被支配地
↓
アメノタリシヒコ(用明天皇)はその後の桓武天皇などにも系譜が連続していると認識されている(旧唐書、新唐書)
白村江の戦いの当事者である唐の記録でこう記載されている
このため、王朝交代など起こってないと確定
倭から日本への変化は定説通り壬申の乱であることが確定
↓
宋の太宗が「日本は小国だが王も貴族も古代から同じ系統が維持されていて素晴らしい」と称賛(宋史)
中国は邪馬台国は大和でそれが継続していると当然のことのように了解している 以前 奥山君は邪馬台国の西国との分岐点は淀川と言ってましたね >>379
omoroi
淀川ねーーー
畿内説では淀川解説が??
吉備説VS畿内説もいいね!
石野氏が吉備説に傾いてるのも良くわかるが・・ >>393
そう思ったら立証すれば良いだけ
しないから、九州説は負け組に定着した >>397
いつ、どこで?
九州説は絶対に証拠を出さないのかな
それは、ゴミだってことだ >>356日本@名無史さん2019/07/15(月) 20:40:01.30
>畿内説の汚点は纏向だよ><
分かるけどさ
畿内説=纏向じゃない
纏向は未だ未解明 騒ぐ研究者がようわからん
☝
騒いでるのは桜井市および畿内説互助会の一部だけと思う >>400
初心者ですか
テンプレの畿内の定義をよく読んでください >>398
と、言いつつ・・指摘出来ないのが
九州説の貧困 >>399
そうやって妄想に走るから九州説は衰退した 【文字から読み解く邪馬台国の場所】
まず元々日本には漢族の字の概念どころか文字言語はなく口語言語であったとされる定説を元に考えてみたい。
“ワコク”は“和の国”の意味で使っていたと推察されるのは有名な話。
魏志倭人伝での魏国の民は現代日本人のような和製英語のような感覚で魏製漢字を当て嵌めたのだろう。
“ワジン”とは“和の人々”の意味で自己紹介したと考えられる。
ちなみに魏の者に付けられた“倭”と言う文字は“いやしい者”と言う意味なので、漢字の意味を知らなかった当時の邪馬台国政権は魏にバカにされていたと考察される。
後の聖徳太子は、この時付けられた“倭”の文字が良いものでは無いのを知り“日出る国”から来たとわざわざ表現したと考察される。
ここで邪馬台国に戻ろう。
“ヤマタイコク”とは“山が台形の国”として使ってたと思われる。
なぜ“タイ”を“大”ではないかと言うと“大”を国名に付ける考え方としては中華思想の影響が大きいので当時の“和を大切にする民族”の考え方としては、考えにくいのだ。
ちなみに“ヤマト”は“山の戸の国”であると考察するが、後に漢字を知り“大きな和”に当て字を付け“大和”と名乗ったと考察される。
つまり台形の山の上に築かれた場所が邪馬台国のあった場所だと思われる。
これは魏志倭人伝に描かれていた表現とも一致する。
そもそも“ヒミコ”が“日の巫女”であることからも、より“天に近い場所”であり、かつ暮らしやすい場所を考察すれば“そこそこの台形の山”は地政学的にも暮らしやすく、かつ攻め落とし憎く、かつ宗教的にも最適解であると考察される。
このことから平地に邪馬台国があったとは考えにくい。 結局、なにがあっても証拠を出さないのが九州だな
だからこんなに落魄した 最近 奥村はテンプレの修復も無いし
意味のない罵り投稿ばかりだし
どうしちまったの 畿内説では出雲(山陰)は投馬国の範囲でいいですか? そもそも九州説の連中は何で九州説のスレで吠えずにわざわざ畿内説のスレ来てんの?
スレタイ読めない朝鮮人かな? >>412
九州人のDNAが現代朝鮮人と酷似しているから仕方ない >>415
それが病気だと何万回言われたら悟るやら >>410=奥山君なら 答えてくれないかな
3世紀の倉庫群の定義って何なのですか?
三輪と關係ある斎場でいいと思いませんか?
異論があればどうぞ・・
畿内説の一部の学者は纏向に集落跡が発見されないままに都市だとか言いますが
理論構成的に納得できますか 【邪馬台国の畿内説と九州説】
・古文書を解読するのが畿内説
・古文書を改竄するのが九州説
・??を暴くのが畿内説
・??を付くのが九州説
・説明するのが畿内説
・洗脳するのが九州説
・明治政府に葬られたのが畿内説
・明治政府に作られたのが九州説
・歴史に基づくのが畿内説
・歴史に基づかないのが九州説
・矛盾がないのが畿内説
・矛盾だらけなのが九州説
・朝鮮人が絡んでないのが畿内説
・朝鮮人が絡んでいるのが九州説 そもそも九州説の連中は何で九州説のスレで吠えずにわざわざ畿内説のスレ来てんの?
スレタイ読めない朝鮮人かな? >>418
>畿内説の一部の学者は纏向に集落跡が発見されないままに都市だとか言いますが
されてないってのは
誰が報告したの? >>338
対馬国、一大国は「方」400百里、300里
行とか至とかの移動を示す文言がなければ移動したことにならないと言っていたのは九州説
なら対馬国と一大国は国内移動はない >>344
淮南子に世界の果てを示す同じ概念的数字国境より1万2千里が出てくるので
魏志倭人伝の帯方より南1万2千里は世界の果てを示す数字としてこれを援用したもの
漢時代に成立した淮南子に出てくる以上
後の世代に成立した魏志倭人伝がこれを援用した可能性の消えることはない 頭がアッパッパーな畿内説が悪口に躍起になってるな
こうなると破綻した畿内説もますます収集がつかなくなるだろう
終わりは案外あっけなく来るものだ >>354
一寸千里は架空の数値
周の尺度で実測するなら一寸200里ほど
魏のモノサシの現物や律歴志などの資料からわかってる魏の里は1里約430m以外に見つかっていない
魏志倭人伝に単に里と書かれている以上それは短里ではない普通の里 >>425
万に千里の先がでてくる以上、その推測もただのぼや〜っとした概念にすぎないね
とらわれる必要なし >>325-326
九州説は何でこう見え見えの自演をするのか
バレないと思ってるのだろうか >>428
魏志倭人伝の1万2千里に南4000里の続きがあるのは
呉が国交を結んだ大月氏が1万6千里とされていたのでそれに対抗して陳寿が付け加えたと推察できる >>430
手前勝手な都合で世界の果てが増減すんのかよw
あてにならねーなおい 弥生時代後期に畿内は絹が出てない時点でアウト
卑弥呼が魏に献上してるのだから、卑弥呼が治めていた地域に絹が無いのは不自然過ぎる
描写されてるその他の風俗が九州に近いものが多い
養蚕をしていた事(同時代の遺跡からは北九州からしか出ない)
親子兄弟が別々の部屋で寝起きしていた事(該当するのはほぼ九州にしかない花弁型縦穴式住居のみ)
樟有りという描写(樟は九州に多い)
卜占の描写(弥生後期からは卜占は何故か九州と関東が主流になる。纒向からも卜占の骨が一応出てはいるが)
以上により邪馬台国は九州 395 397 398 399(自演) 402(自演)
403 408 409 415 418 422 >>432
>弥生後期からは卜占は何故か九州と関東が主流になる
九州説はこういうホラしか書かない 九州説の相手をし続けても、義務は義務として学術的には全く不毛だし、
知的好奇心も刺激されませんよね。
たまには、畿内説同士で議論してみませんか?
どなたかお題をお願いできませんか?
(以前に自分が出したお題「日本海航路か瀬戸内航路か」はレスポンスがなかったので) 九州説の相手をし続けても、義務は義務として学術的には全く不毛だし、
知的好奇心も刺激されませんよね。
たまには、畿内説同士で議論してみませんか?
どなたかお題をお願いできませんか?
(以前に自分が出したお題「日本海航路か瀬戸内航路か」はレスポンスがなかったので) >>437
九州島は弥生〜古墳初頭の全期を通して2ヶ所だけ
畿内の土器を模倣する末期になって初めて出土する
中心になどなっていない
花弁状住居は北部九州には弥生中期の2例だけで
南九州東部に多く分布する
始めに九州限定ありきで寄せ集めている >>438
日本海航路か瀬戸内航路か自分の案を書いてみたらレスポンスあるんじゃないの? >>432
>弥生時代後期に畿内は絹が出てない時点でアウト
なんでそうなるの?
仮に九州を支配してたとしたら、九州に作らせてただけじゃん 弥生時代後期後半に絹は九州では小集落の2ヶ所だけだよ 弥生時代後期後半に畿内に絹はありません
0でいくら言い張っても0なんですよ
0の1万倍は0です 0の1億倍も0です 北部九州説は弥生中期の出土遺物を根拠によく使うけど
甕棺墓集団はど没落したんだよ >>350
>(以前に自分が出したお題「日本海航路か瀬戸内航路か」はレスポンスがなかったので)
どちらも無理筋で成り立つ余地がなかったからでしょ >>379
>規模は世界的でないけど淀川の亜流じゃないの
畿内説は淀川を中心に論じなかった時点で非現実的となった。
もっとも、淀川水系は下流は筑紫の影が色濃く、上流と接続する琵琶湖水系は出雲の影が見え、筑紫vs出雲という記紀に沿った話になってしまい、畿内の独自性などなくなってしまう。 >>390
畿内説の主張があらゆる史書の記述に真っ向から対立する反歴史主義みたいなものなんだが >>423
>されてないってのは
>誰が報告したの?
報告されていないという意味だよ。
キナイコシは文盲か。
いや、わざとだなぁ。 >>447
>甕棺墓集団はど没落したんだよ
そして代わりに平原遺跡の木棺墓の女王卑弥呼が即位したわけだ。
めでたしめでたし。 >>452
北部九州は平原遺跡の影響をまったく受けていない 平原遺跡は北部九州にあるんだよw
キナイコシは錯乱中w それって、女王卑弥呼が贅沢品を全て独占していたからそう見えるのでは? >>456
影響を与えるのは贅沢品だけではないし
築造年代をちょろまかしたらだめだよ >>882
>1世紀の大阪には方角を意識して建物が配置された池上曽根遺跡<
銅鐸破片が出ているから、出雲系銅鐸祭祀部族。
>1世紀の静岡には8ヘクタールの登呂遺跡<
銅鐸も鉄もでなかったようだから、おそらく毛人蝦夷系の遺跡。
>九州は1世紀の畿内や東海が遅れてたと考えてそうだけど <
考えない。出雲系や越や侏儒國系や毛人蝦夷系が、それなりに発展していた。
>そうでもない そして卑弥呼が畿内に引越ししたから<
「南≠東」に拠って、×。
>九州の進んだ文化が日本の広域にひろがって後の発展に繋がった <
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五国」があったから。 >>884
>女王國まで戸数道里が略載されていて、
その前に書いてあり戸数道里も同じ形式で書いてある投馬国が女王国以北ではないというのは
恥知らずにも「見ない聞こえない」で生きてる人以外には通らないんだよw
九州説では「方角は間違えない」んだろ? ww <
先に、投馬國は、女王之所都のはるか南にあった事が書かれた、その後の記載であるから、
「自女王國以北」と書かれれば、それには投馬國は、含まれない。 >>886
>大倭ってのは天皇の異名あたりにつけられてる名前だけじゃん
大倭国なんて自称した歴史ないぞ<
「大倭」は、魏志倭人伝に「國國有市、交易有無、使大倭監之」に記録され、
(半分×書の)古事記の欠史八代の中の四人の大和王の称号の中に、
「大倭」の文字が含まれ、
同じく古事記の国生み神話などでも、本州に対して「大倭」の号を関した記載などがある。 >>451
>報告されていないという意味だよ。
報告されているか、報告されていないか
あなたは、どうやって知ったの?
報告されていないと断定してるんだから
それを知った方法があるわけだよね?
その方法を明らかにしないなら
あなたはウソをついていると断定されても
仕方ないことは理解できるね? >>235の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜
洛陽┃ ┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>99)
【魏】┃〜〜〜↓↓南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜対馬▲↓〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海┌←←←←←←┘南「水行十日」
蘇州┃〜〜┌──▲奄美大島─┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」
福州┃〜〜│△▲△△△△△△│←亶州(沖縄)
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜
┃↖儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 >>893
>畿内では土器様式が古くから統一されていることから分かるように
いろんなものを集中生産してるんだよ <
当然、毛人縄文人の縄文土器が基盤にあって、それに、出雲祭祀が流入し、
更に、九州倭人の「国生み神話」や「東征毛人五十五国」で、
九州の土器様式が流入した。
>鉄器に関しては、淡路島の五斗長垣内遺跡や滋賀の稲部遺跡が弥生時代最大級で
九州より大規模<
鉄の大規模流入は、弁辰の、
「國出鐵、韓wai倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡」
の存在が否定出来ず、九州の鉄が列島の初元。
しかし中国山地には、「鉄含有の茶色の温泉」が多く、
出雲系が、それを含んだ砂鉄からの鉄採取も行われていた可能性が十分にある。
従って、淡路島の鉄工房は、九州倭国の国生み神話や東征毛人五十五国と、
出雲の砂鉄からの鉄採取が、播磨や淡路に伝わっていたもの。 九州説では倭人伝の行程記事を
梯儁の帯方郡から邪馬台国までの道程だと考える人が多いけど、これは違うと思う
もっと後の郡使からの情報で
末廬→伊都→奴→不彌までは玄界灘沿岸の国を
西から東へ並べた地誌的なものだろう >>459
>先に、投馬國は、女王之所都のはるか南にあった事が書かれた、その後の記載であるから、
書かれていないが?
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」の
「南至」が不弥国からで
「水行十日陸行一月」が郡からだなんて
人類の常識wに外れた読み方をする者は
とても人類の脳が頭蓋骨の中に入っているとは
考えられない >>464
>梯儁の帯方郡から邪馬台国までの道程だと考える人が多いけど、これは違うと思う
>末廬→伊都→奴→不彌までは玄界灘沿岸の国を
邪馬台国まで記載しなければ意味がない。
玄界灘沿岸が邪馬台国なんだよ。 >>461
止めときな
報告されてる資料をあんたが提示すれば済む話だろ 簡単
纏向学研究センターや桜井市教委が公表した報告や
刊行物見れば済むよ
集落跡が発見されたという報告無いのでは
見つかったら教えてやればいいだけ 纏向の掘立柱建物の柱穴に基礎が無いのは有名だが
柱穴が等間隔に並んでいないのでは・・写真から
今は整地して等間隔の柱のみ復元されているが・・・ >>469
いいかげんなことを言って
傷つくのは
九州説 >>468
つまり自分では何も調べてなくて
思いつきでデタラメ言ってたのか
やはり九州説だな >>894
>卑弥呼の引越しがなければ九州が独占していた絹の製作や
反発が少なく民に納税させる方式とかの拡大が遅れて
大和政権の成立が遅れていたと思うよ<
「南≠東」などに拠って、「卑弥呼の大和への引っ越し」はなかったから、×。 2年前
桜井市埋蔵文化センターを訪ねた時「我々も本当に不思議なんですが、
集落跡がでていません」と聞いたよ >>895
>魏からのたくさんの豪華な返礼品を使者が持ち帰って
女王卑弥呼の権威はさらに上がったと思われる
そして大型前方後円墳の建設が計画された <
大和の大型前方後円墳は、卑弥呼の「冢」ではなく、
卑弥呼よりも50年位後であるから×であり、
筑紫の大型前方後円墳の那珂八幡などは、
266年の西晋武帝の「天円地方」の教唆に拠って、
3世紀後半半ば過ぎであった事でも、×。 >>902
>東西南北中央之極が全部萬二千里の世界観(淮南子)では
漢土の端(帯方郡)から女王國まで萬二千里 こういう観念的な数字なんだよ<
淮南子も、「一寸千里」を書いているから、記載里数は、原則短里。 いい加減と言う人がいるので一応
桜井市埋蔵文化センターの電話番号
0744−42−6005
に「纏向遺跡で集落跡が見つかってますか」と聞けばよろしいかと >>466
>邪馬台国まで記載しなければ意味がない。
>玄界灘沿岸が邪馬台国なんだよ。
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、おはよう
邪馬台国まで記載は北部九州を出て、そこから水行二十日で投馬国・出雲、
さらに水行十日陸行一月で邪馬台国・ヤマトってちゃんと書かれてるだろ?
「玄界灘沿岸が邪馬台国」ってのは、魏志倭人伝無視だよ
陸行を一日にするのは捏造だし、伊都国・三雲遺跡群も奴国・比恵那珂遺跡群も
港から数キロだから1日もかからない
また末盧国上陸だと伊都国、奴国まで1日で移動は無理
一月で移動というのはさらに無理だから、古田史学の会のように韓地陸行一月などと
いうさらなるデタラメトンデモになる
水行の起点を帯方郡にしたところで、萬二千里のうち一万里が水行(水行と渡海を
ごっちゃにする時点でインチキ読みだが)でそれが10日、残り二千里が陸行で1日でも一月でも
アンバランスがひどいだろ?
帯方郡から水行1万里を10日で移動は物理的に無理だし、魏志倭人伝の旅程から
北部九州だと主張するのは、デタラメでしかないんだよ
具体的に検証すればすぐに分かるのにww
九州説は具体論が苦手で逃げ続けるしかないww >>904
>前方後円墳は、首長継承儀礼の場
祭政一致の時代の葬令は、政治・マツリゴトそのもの
纒向で国家最高の葬令が行われたと認めるなら、 そこが国家第一の政治の中心ってこと<
纏向には、
「自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
のような、「政」をやった痕跡がないから、×。 石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)の話 「建物配置には計画性が感じられる。
大型建物跡は、卑弥呼やその後擁立された台与(とよ)の館の可能性があり、他に建物跡がないか、さらに確認することが必要だ」
問い合わせは市纒向学研究センター((電)0744・45・0590) >>905
>九州の優位さを誇示すればする程引っ越しの理由が無くなるな
そんな良いところを離れる訳無い<
あったのは、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」。 九州は西服衆夷だからな
ザラコクは意図的に記述を省略する嘘つき騙しだな >>908
>循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里
水行でも里数だなw 道里、行道、水行、陸行と、日数、里数はリンクしていない
日数でも里数でもどちらも普通の表現だ<
「歷韓國、乍南乍東」は、韓國陸行であり、
「七千餘里」は、「循海岸水行」と「韓國陸行」の合計里数だ。 >>477
>桜井市埋蔵文化センターの電話番号
>0744−42−6005
>に「纏向遺跡で集落跡が見つかってますか」と聞けばよろしいかと
その必要は皆無
同センターの人が纒向遺跡を「集落」と書いて発表ずみ 纒向で住居遺構の発掘が少ないのは年代の異なる遺跡が重層されているからだよ
有名な辻地区の大型建物跡でも、最大の建物の柱跡も後代の整地で半分は削り取られている
発掘できた範囲も少ないんだし、グダグダ言うのがバカ
出土している大量の飯炊き甕からもここに多数の食事を取る人たちが存在したのは確実だし
そこに存在する大墳丘墓からも、その造営に多くの人手が動員されそこに大人口が存在したことが
明確に示されている 文化庁が纒向遺跡を「極めて大規模な集落跡」と発表してるんだから
>>477はウソツキで確定してるよ >>909
>古代に王が引っ越しした例はないと思うが?<
古代にあっても、必要があれば「王も引っ越しをする」もの。
呉王夫差の遺民の渡来も、天孫降臨も、国生み神話も、神武らの東征も、
317年頃の筑後〜久留米への遷宮や、「東征毛人五十五國」も、「引っ越し」だ。
>畿内が遅れているというのは、50年前に否定された考え方<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和の庄内や前方後円墳の50年位の前倒しは、
卑弥呼の冢や、筑紫の胎土や、。プラズマ化の見逃し、などがバレて、
インチキ確定。 つまり、年代の異なる遺跡が重層されているのにもかかわらず、住居遺構の発掘は少ないのだな。。。 >>491
馬や馬主や奴隷たちが集められ、住居も無い場所で、古墳を作製したので、食事を取る人たちが存在し、大量の飯炊き甕が出土しているのだね。。。 >>492
つまり、韓国人が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に、破綻したのだな。。。 巻向には、都ではなく、墓場があったのだな。。。
そして、纏向に宮を建てた崇神天皇は、古墳に埋められた神の霊魂を祭ることが役目だったのではないのかな。。。 なぜ、在日朝鮮人や在日韓国人は、纏向に宮を構えた天皇家の祖先の真実の姿を冒涜するのだろうか。。。 >>492
馬や馬主や奴隷たちが集められ、住居も無い場所で、古墳を作製したので、疫病が流行したのだったね。。。 >>477がウソツキの確定したら
変句点が暴走を始めたな >>911
>倭とは紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域および
その住人を指す際に用いた呼称。<
倭は、元は、「燕の南」にいた部族であったらしく、
それが半島経由で、毛人蝦夷のいた九州に渡来し、
新たに紀元前5世紀に 呉王夫差の遺民が火の国に渡来し、
紀元前3世紀に徐福らも一部が?肥前方面の渡来して来たらしい。
>紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、
日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。<
九州倭國が、「自昔・・・東征毛人五十五國」して、
瀬戸内近畿東海南関東まで征服し、
大和は、その征服されて出来た「九州倭國の別種分家の旧小国」の一つ。
>倭の住人を倭人(わじん)という。和、?とも記す。<
大和は、6世紀に扶桑國と呼ばれて、梁代から独立的になり、
開皇末に隋に「日本国」を称して独立し、
白村江で大敗して亡国しそうになった九州倭国を併合吸収継承して、
701年の「大宝元年』の建元から列島盟主を宣言した。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の奥山氏が、論破されたので、訳の分からない勘違いをし、反論を諦め、悪口を言い放ってきたな。。。
497日本@名無史さん2019/07/16(火) 08:43:01.75
>>477がウソツキの確定したら
変句点が暴走を始めたな つまり、韓国人が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に、破綻したのだな。。。 国内に、疾疫多くして、民死亡れる者有りて、且大半ぎなむとす。 >>914
>>古事記の国産みでも筑紫國と豐國は別の国になってるのにご都合主義がすごいなww<
>だから、景行天皇の頃に筑紫が豊国を攻略していたわけだろ?<
だから、景行は、伊都国と同じ阿毎氏系の、(倭國の)東征毛人将軍であり、
おそらく倭國乱で「西服衆夷六十六國」将軍として働き、
だから、豊國と東テイ人を征服し、阿毎氏系の投馬國を造った。 馬や馬主や奴隷たちが集められ、住居も無い場所で、古墳を作製したので、疫病が流行したが、
天皇家は、自分たちが滅ぼした銅鐸王国の王を、大田田根子に祭らせたのだったな。。。 巻向には、都ではなく、墓場があったのだな。。。
そして、纏向に宮を建てた崇神天皇は、古墳に埋められた神の霊魂を祭ることが役目だったのではないのかな。。。 崇神天皇は、天皇ではなく、後の時代の者達に天皇と名付けられた可能性があるな。。。 崇神天皇は、天皇ではなく、後の時代の者達に天皇と名付けられた可能性があるな。。。
そして、纏向に宮を建てた崇神天皇は、古墳に埋められた神の霊魂を祭ることが役目だったのではないのかな。。。 ほっとくと九州説は死ぬまで際限なくウソをつき続ける 頭の悪い在日韓国人の奥山氏がキャラクターを、(°▽°)氏に変換したな。。。
510日本@名無史さん2019/07/16(火) 09:08:19.83
なになに脳内妄想爆発って感じかい(°▽°) 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の奥山氏が、論破されたので、反論を諦め、悪口を言い放ってきたな。。。
511日本@名無史さん2019/07/16(火) 09:09:41.01
ほっとくと九州説は死ぬまで際限なくウソをつき続ける 国譲りという物事が、あったのだったな。。。
崇神天皇は、天皇ではなく、後の時代の者達に天皇と名付けられた可能性があるな。。。
そして、巻向には、都ではなく、墓場があったのだな。。。
そして、纏向に宮を建てた崇神天皇は、巻向駅の北西にある正三角形の関係で作製された3つの古墳に埋められた、国を譲った神達の霊魂を祭ることが役目だったのではないのかな。。。 つまり、韓国人が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に、破綻したのだな。。。 >>235の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜
洛陽┃ ┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>99)
【魏】┃〜〜〜↓↓南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜対馬▲↓〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海┌←←←←←←┘南「水行十日」
蘇州┃〜〜┌──▲奄美大島─┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│△▲△△△△△△│←亶州(沖縄)〜〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜
┃↖儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 そんでこの貼り付けやってるバカなにがやりたいんだかな(°▽°) 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の頭が悪い奥山氏が、論破されたので、反論を諦め訳の分からない呟きを始めているな。。。
517日本@名無史さん2019/07/16(火) 09:49:10.80
どお見てもそおだからな(°▽°)
518日本@名無史さん2019/07/16(火) 09:49:50.12
そんでこの貼り付けやってるバカなにがやりたいんだかな(°▽°) >>519
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の頭が悪い奥山氏は、誰に向かって発言しているかをはっきりさせないので、発表が訳の分からない呟きになってしまうのだが、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の頭が悪い奥山氏は、誰に向かって発言しているかをはっきりさせないので、発表が訳の分からない呟きになってしまうことで、
正々堂々の討論を避けているのではないのかな。。。
517日本@名無史さん2019/07/16(火) 09:49:10.80
どお見てもそおだからな(°▽°)
518日本@名無史さん2019/07/16(火) 09:49:50.12
そんでこの貼り付けやってるバカなにがやりたいんだかな(°▽°) >>932
>3〜4世紀ごろの天皇が畿内の纒向に居を構えてるというのに?<
3〜4世紀には、天皇も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
纏向は、九州倭國の東征毛人五十五國の将軍らの征服地であったから、×。 魏志倭人伝だろ
日本からつてもないのに中国に文献みたいなん差し出すやつらいるか?
なら来たやつらが勝手に書いて向こうに記事として残した
それしかないんだよ 魏志だの魏あたりとまず繋がりがある人間らが日本にはいない
つまり中国人が書き中国人が伝えた(°▽°)
意味分かるか? >>486
纏向が斎場 墓地と思う理由
1、墓(古墳)が多い
2、集落跡が無い
3、古墳を作るための土木工具が多数発掘
4、祭器が見つかっている
5、古墳うお作る資材運搬用の水路がある
6、鉄が無い・・戦闘に備えていない
7、城柵に囲まれていない
8、供え物の桃核
9、斎場の建物と見られる掘立柱建物・・位置関係から言って三輪山信仰と關係ある
10.交通の要所であり、いろんな豪族が参拝に来やすい
11、古墳造営終了とともに消える つまり、韓国人が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に、破綻したのだな。。。 >>953
>邪馬台国の会のステイクホルダーさん、おはよう
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。
官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戶。
ここが邪馬台国のこと・・・<
「邪馬台国」なんて、存在もしていなかった嘘つき騙し文言を使った時点で、
類スレ主は、・・・・アホ詐欺師であり、
その投稿そのものも、×。 纒向の掘立柱は、馬小屋の柱だった可能性があるな。。。 >>528
柵は、馬が逃げることを防ぐために、作製された可能性が高いな。。。 >>958
>(纏向?)韓式土器は出てるよ
http://i.imgur.com/5F2PAL0.jpg<
破片だけか。胎土分析はどうしたの?。
>北部九州の土器も胎土分析で確認されている<
「北部九州」というのは、逃げだな。
筑紫の土器は、纏向から出土しなかった筈だからな。
それで、その胎土分析は、誰がどこの土器や胎土での分析であったんだい?。 古墳を作製するために集められた奴隷よりも、馬の方が大切にされたのではないのかな。。。 胎土分析では、布留式土器は、加賀温泉と関係があるのではなかったのかな。。。 >>530
論破されてもシランプリ
ひたすら妄言九州説 >>531
>筑紫の土器は、纏向から出土しなかった筈だからな。
「筈だ」と言うだけ九州説
証拠は絶対出さない見せない それにしても、邪馬台国畿内説を宣伝する奥山氏は頭が悪いな。。。 >>536
邪馬台国畿内説を宣伝する奥山氏は、論理という物事を理解できなかったのではないのかな。。。 >>524
ほぼ当たりであろう
畿内説のバカ学者より説得力がある 巻向は、5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないのではないのかな。。。 巻向は、5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった可能性が、高いな。。。 >>959
>その範囲がひと頃は近江守山の伊勢遺跡に集まり、
その後中心が新造の都、纒向に移るんだよ<
伊勢遺跡は、やはり、
淀川から近江に入って来た九州倭国の「東征毛人五十五國」軍と、
出雲と越の、三者の勢力の妥協政府だろう、という事だろうなあ。
この時点では、大和は全くの除けものであり、無関係。 >>966
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、
大和説がボッコにされて裸足で逃げちまったからなぁ〜 頭の悪い奥山氏に、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させた巻向には、
同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかったのだな。。。 >>1
あなたは、なぜ、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起したのですか。。。 胎土分析では、布留式土器は、加賀温泉と関係があるのではなかったのかな。。。 >>546
普通そう思うんじゃね?
場所知ってりゃさ >>975
特に意味もなく、皇国史観儒教の「南→東」などの嘘付き騙しの大和説をバカにしてやるか
大和説教は、
文部省や学会教育界や右翼マスコミやキョクウテロ組織の偉い人が絶対だから、
インチキ大和説学者のインチキ話を経典として、
原理主義的に崇め奉らなければならなくて笑われる信者が哀れな、
有害宗教 普通とは、何だろうか、、、
548日本@名無史さん2019/07/16(火) 11:11:30.36
>>546
普通そう思うんじゃね?
場所知ってりゃさ >>550
邪馬台国畿内説を宣伝する奥山氏は、普通という物事を理解していないのではないのかな。。。
548日本@名無史さん2019/07/16(火) 11:11:30.36
>>546
普通そう思うんじゃね?
場所知ってりゃさ >>979
>「行く道の里」なんて、九章算術にも三国志にも書いてないだろ?
日数は道里の表現として普通の書き方って言うのを否定する材料は何一つなかったんだよww<
「道里」という文言の原則は、「道の里」であり、「その里の数値」。
しかし、道の里が不明であれば、日数で代用する場合もあるし、
「道の里」を「日数で置き換える」場合もある、というだけ。 普通そう思うんじゃね?
という普通という物事を理解していない、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の頭が悪い奥山氏が、発表した文章が意味している物事は、真実なのだろうか、、、
548日本@名無史さん2019/07/16(火) 11:11:30.36
>>546
普通そう思うんじゃね?
場所知ってりゃさ 普通そう思うんじゃね?という文章は、現象学と関係がありそうだな。。。 >>980
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
相変わらず反論が尽きると一言コメで逃げ回る。
ただ、内陸の纒向は、九州倭国の東征毛人の中心的なルートではなく、
河内や伊勢遺跡などの周辺と比較しても後進地域なんだよ、
ってことでいいな >>552
>「道里」という文言の原則は、「道の里」であり、「その里の数値」。
独断で原則を作って強要するのが九州説 >>988
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説儒教人は、
自分らの最大の得意の嘘で世の中を支配したい
しかし嘘は事実には歯が立たない
それでも嘘を押し通そうとするなら、
最終的には暴力を振るうしかなくなる >>12
>この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が
畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、
邪馬台国九州説にとって絶望的である。<
弥生銀座の庄内が3世紀前半に筑紫の胎土で自前で造られ、
大和の石塚の庄内1が、3世紀末である、という展開が、
大和説にとっては、絶望的な実態である。 中國4000年の漢字の意味に逆らい。、
独断で原義を捻じ曲げて強要するのが纒向説 頭の悪い奥山氏に、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させた巻向は、5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかったので、都ではなく、
やはり、銅鐸王国の王家の者達の魂を、鎮めるために、天皇家の祖先が祭祀を実行した場所だったのだな。。。 邪馬台国畿内説を宣伝する奥山氏は、普通という物事を理解していないのではないのかな。。。
548日本@名無史さん2019/07/16(火) 11:11:30.36
>>546
普通そう思うんじゃね?
場所知ってりゃさ >>33
>河内湖の水が干上がるのは2世紀頃、 奈良湖の水が干上がるのは4世紀頃です。
畿内では5世紀頃まで鉄製農具は普及してませんでしたから密林を伐採するのは極めて困難、
奈良盆地・京都盆地はまだその頃は焼畑農業だったはずです。<
ふーん。 奥山氏の病は、エポケーを経て治療されるべき病なのではないのかな。。。 >>562
>畿内では5世紀頃まで鉄製農具は普及してませんでしたから密林を伐採するのは極めて困難
これは極めて重要な視点だね。
鉄の道具なくして大木、中木は伐採できない。
鉄斧と其の製造修理技術をもった者たちが奈良に入植して、初めて開発が進んだことは間違いない。 >>33
>河内湖の水が干上がるのは2世紀頃、 奈良湖の水が干上がるのは4世紀頃です。
これも嘘だし
九州説って困ったチャン >>565
>鉄の道具なくして大木、中木は伐採できない。
なら、どうして縄文時代に大木が伐採されてんの 河内湖の水が干上がるのは2世紀頃、 奈良湖の水が干上がるのは4世紀頃という真実は、
頭の悪い奥山氏に、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させた巻向が、5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、都ではなく、
銅鐸王国の王家の者達の魂を、鎮めるために、天皇家の祖先が祭祀を実行した場所だったことと、関係がありそうだな。。。 頭の悪い奥山氏は、エポケーという物事を出来るようにすれば、社会生活ができるようになるのではないのかな。。。
548日本@名無史さん2019/07/16(火) 11:11:30.36
>>546
普通そう思うんじゃね?
場所知ってりゃさ 普通そう思うんじゃね?という文章は、現象学と関係がありそうだな。。。 フッサールという優れた数学者の考え方は、奥山氏の病の治療法にも受け継がれていったのだったな。。。 >>567
根元を少しずつ焼いて倒すのさ、とても手間がかかる >>461
報告されているならそれを紹介してくれよ。
それだけのことなのに、なぜキナイコシはグジグジ言ってばかりなんだ? >>488
>そこに存在する大墳丘墓からも、その造営に多くの人手が動員されそこに大人口が存在したことが
墓を作るだけなら、一時的に労働者をかりあつめればいいだけだから、定住した人口とは言えない。 >>576
>墓を作るだけなら、一時的に労働者をかりあつめればいいだけだから
墓を作るのに10年からの年月が必要で、10年住んでたら普通は定住してるって言うだろw
平原1号墓みたいに成人男子が10人もいれば1週間で作れるような墓なら、
駆り集めるだけでいいけれどw
その駆り集めた人数が、0人くらいってところで、平原1号墓が倭王の墓ってのはない その駆り集めた人数が、10人くらいってところで、平原1号墓が倭王の墓ってのはない 奴隷は、次々に補充された使い捨てだった可能性があな。。。
577日本@名無史さん2019/07/16(火) 12:51:17.33
>>576
>墓を作るだけなら、一時的に労働者をかりあつめればいいだけだから
墓を作るのに10年からの年月が必要で、10年住んでたら普通は定住してるって言うだろw
平原1号墓みたいに成人男子が10人もいれば1週間で作れるような墓なら、
駆り集めるだけでいいけれどw
その駆り集めた人数が、0人くらいってところで、平原1号墓が倭王の墓ってのはない >>575
文化庁が「集落」って発表してるんだから
もう「集落ないない」横車は嘘だって確定してるよ
あがいても無駄 >>581
奴隷たちの食料は、捕獲された場所から奴隷たちが運んできたので、食料がなくなったら、解放され、次の奴隷と交代した可能性もあるな。。。
577日本@名無史さん2019/07/16(火) 12:51:17.33
>>576
>墓を作るだけなら、一時的に労働者をかりあつめればいいだけだから
墓を作るのに10年からの年月が必要で、10年住んでたら普通は定住してるって言うだろw
平原1号墓みたいに成人男子が10人もいれば1週間で作れるような墓なら、
駆り集めるだけでいいけれどw
その駆り集めた人数が、0人くらいってところで、平原1号墓が倭王の墓ってのはない 文化庁が「集落」って発表してるんだから、
頭の悪い奥山氏に、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させた巻向が、5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、都ではなく、
銅鐸王国の王家の者達の魂を、鎮めるために、天皇家の祖先が祭祀を実行した集落だったのではないのかな。。。 >>583
奴隷たちの食料は、捕獲された場所から奴隷たちが運んできたので、食料がなくなったら、解放され、次の奴隷と交代したということは、
奴隷というより、各地からの労役という言葉の方が当てはまるのでは、ないのかな。。。
577日本@名無史さん2019/07/16(火) 12:51:17.33
>>576
>墓を作るだけなら、一時的に労働者をかりあつめればいいだけだから
墓を作るのに10年からの年月が必要で、10年住んでたら普通は定住してるって言うだろw
平原1号墓みたいに成人男子が10人もいれば1週間で作れるような墓なら、
駆り集めるだけでいいけれどw
その駆り集めた人数が、0人くらいってところで、平原1号墓が倭王の墓ってのはない 最盛期の纏向全体には、廃絶された大物主の倉庫跡と、数個の古墳と、作製中の箸墓古墳と、同時に建っていた人民の住居が20件ほどと、天皇家の祖先の宮があった可能性があるな。。。 もう九州説にはウソしかない
八方塞がり行止りだから >>586
干上がったばかりの奈良湖跡の沼地があった可能性も高いね。。。 最盛期の纏向全体には、廃絶された大物主の倉庫跡と、数個の古墳と、作製中の箸墓古墳と、同時に建っていた人民の住居が20件ほどと、干上がったばかりの奈良湖跡の沼地と、天皇家の祖先の宮があった可能性があるな。。。
それが歴史における帰納である。。。 >>235の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜日本海〜〜〜
洛陽┃ ┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>99)
【魏】┃〜〜〜↓↓南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜対馬▲↓〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌←←←←←┘南「水行十日」
蘇州┃〜〜┌───▲奄美大島┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│△△▲△△△△△│←亶州(沖縄)〜〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜
┃↖儋耳・朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 胎土分析では、布留式土器は、加賀温泉と関係があるのではなかったのかな。。。 >>581
倭迹迹日百襲姫命は、加賀温泉に向かって出陣する武将が聞いた、暗号のような歌の意味を解いたのだったな。。。 最盛期の纏向全体には、廃絶された大物主の倉庫跡と、数個の古墳と、作製中の箸墓古墳と、同時に建っていた人民の住居が20件ほどと、干上がったばかりの奈良湖跡の沼地と、天皇家の祖先の宮があった可能性があるな。。。
それが歴史における帰納である。。。 >>582
で、何戸あったんだ?
ずっと前のスレから聞いているのだが? すべて本当の話
家は〜庁の人ではない、
調べてみても、家と同じ名前の人物はいないでしょ?
出家したりした家なのかな?
たしか伊達郡というところの話をしているし
川俣町という掲示板を読んでみても
奈良時代、平安時代が〜という話をしていたり ところで聞くが学ってなんだ?
知ってることを表すんか?
なれ他人がどおだ言う前にてめえらにはやることがある 595
しつけえ、同じ話を繰り返してるだけてめえがな 『葱の華』
家の写真だと言っているんだけど、
調べてみた? >>594
意味のない質問に答えてくれる者など居るまいて 文化庁が「集落」って発表してるんだから、
頭の悪い奥山氏に、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させた巻向が、5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、都ではなく、
銅鐸王国の王家の者達の魂を、鎮めるために、天皇家の祖先が祭祀を実行した集落だったことを、認めたな。。。
599日本@名無史さん2019/07/16(火) 13:35:33.78
>>594
意味のない質問に答えてくれる者など居るまいて 〜奈良時代〜平安時代〜?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜家(人物)の血を引いている人がいるんだろうという話w
しているでしょ、川俣町という掲示板 『王母 龍宮 輿 寒いな〜』
こういう名前の家なんだけどw 5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。 >>604
奥山氏が発表していたのでは、ないのかな。。。
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 UFO、宇宙船?みたいな話もしているし、
老婆の話によると白いウサギwを飼っていたことがあってとか
老婆の家の話ではない 家は伊達郡(いまの福島県?)というところには住んでいないし、
詳しいことはわからないけど、戦前〜それ以前からそうだった、
そこには住んでいない とあるスレ、
このような事を言っている人もいたでしょ
戸籍、系図のようなものを悪用〜ロンダリング?
そういう人たちが、いるとか、いないとか 5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。 >>606
ふーん
奥山はご都合主義かな
自説に都合のいい事例を3つあげれば
その説は96.4%の妥当性があるのか
馬鹿じゃねー つまり里レベルで存在していた!って話だろ
そんなとこだろよ あとは摂政だの関白だのそれいいとこどっかの地域に建っていた寺院あたりか小規模政権みたいなんの話やないの? フッサールという優れた数学者の考え方は、、、
どのようなことも厳密には証明することが不可能だ、、、
という発見に繋がっていったのではないのかな。。。 あと今の時代の雑誌なんかにもすげ〜こと書いてあら
文筆家の精神疑うレベルの話だがな(°▽°) 奥山氏が、また、スレッドの流れを変えようとしているな。。。
612日本@名無史さん2019/07/16(火) 14:12:31.21
つまり里レベルで存在していた!って話だろ
そんなとこだろよ
613日本@名無史さん2019/07/16(火) 14:14:33.22
あとは摂政だの関白だのそれいいとこどっかの地域に建っていた寺院あたりか小規模政権みたいなんの話やないの?
614日本@名無史さん2019/07/16(火) 14:15:14.69
そんなんが広く通用していたわけないからな 5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。 >>618
普通そう思うんじゃね?
場所知ってりゃさ 普通そう思うんじゃね?という文章は、フッサールという優れた数学者の考え方と関係がありそうだな。。。 普通そう思うんじゃね?
と考えた主体は、
普通そう思うんじゃね?
という考えを客体にできるだろうか、、、 普通そう思うんじゃね?
という考えは、奥山氏に含まれているのだろうか、、、
それとも、奥山氏に含まれていないのだろうか、、、 奥山氏が、巻向を見渡すとき、奥山氏が巻向と認識する物事は、真実の巻向なのだろうか、、、
それとも、奥山氏の脳の活動に含まれる「巻向」という、奥山氏の脳の活動の一部なのだろうか、、、
548日本@名無史さん2019/07/16(火) 11:11:30.36
>>546
普通そう思うんじゃね?
場所知ってりゃさ 咸陽と驪山陵というのは、秦の始皇帝と関係があるのだな。。。 >>624
秦の始皇帝は、最近、僕達が研究した物事にも関係していたが、僕達が研究した物事が何だったか忘れてしまったな。。。 くだらん話を繰り返してるだけのやつは切りゃあよいがまともな話になるんないんかい? 奥山奥山っててめえらちょっと頭おかしいぞ(°▽°) 477日本@名無史さん2019/07/16(火) 07:58:48.99>>487
いい加減と言う人がいるので一応
桜井市埋蔵文化センターの電話番号
0744−42−6005
に「纏向遺跡で集落跡が見つかってますか」と聞けばよろしいかと
☝
さっき電話で聞いたら まだ見つかって無いとさ なんだこいつら
普通に考えたらすぐでる意見だろがよ(°▽°) 舐めくさってんのかてめえらはよ(°▽°)
見ている人間らをまったく無視したことばかり書いてるな 僕達に対する殺害予告をした在日韓国人のBBAが、僕達が熊本出身だということを知ったようだが、鮮人という、朝鮮人を表す言葉で、日本人の僕達を認識しているので、僕達の住所はまだ安心できる場所なのではないのかな。。。
632日本@名無史さん2019/07/16(火) 14:49:04.03
連句点鮮人は熊本出身 『伊達の桃太郎』
家の老婆も同じ話をしているし、
(老婆は)なぜ知っているんだろう?
となるでしょ お前に言っているわけではないんだけど、
どこの池沼なんだ? 漫画、アニメ・・・ゲーム、その他
家の話でしょ?と聞いているだけ 何度、言えばわかるんだ?
はやく刑務所に行け、精神科?自殺でも良い 「悪いことする時は日本人と言うんだよな、必ずね」
これが熊本出身の連句点鮮人の母国の文化 べつに死んだりしなくても良いけど、挨拶くらいしたらどうなんだ?
家に来て・・・お世話になっていますとか、
人の家の話で、(商売)お金を儲けたりして、生活しているんだろう だから、実際は(直接?)会ったこともない
みたいな事を言っている人がいたでしょ 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人のBBAは、頭が悪すぎるので、討論の為の正々堂々の意見ではなく、嘘や、敗北宣言にしかならない悪口を言い放つだけなのだったな。。。
640日本@名無史さん2019/07/16(火) 15:14:51.15
「悪いことする時は日本人と言うんだよな、必ずね」
これが熊本出身の連句点鮮人の母国の文化 >>
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人のBBAは、頭が悪すぎるので、僕達が発表した、、
5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。
という意見に反論できないので、討論の為の正々堂々の意見ではなく、嘘や、敗北宣言にしかならない悪口を言い放つだけなのではないのかな。。。 >>644
>>
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人のBBAは、頭が悪すぎるので、僕達が発表した、、
5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。
という意見に反論できないので、討論の為の正々堂々の意見ではなく、嘘や、敗北宣言にしかならない悪口を言い放つだけなのではないのかな。。。
という発表は、
>>643
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人のBBAは、頭が悪すぎるので、僕達が発表した、、
5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。
という意見に反論できないので、討論の為の正々堂々の意見ではなく、嘘や、敗北宣言にしかならない悪口を言い放つだけなのではないのかな。。。
とタイピングしたかったのでは、ないのかな。。。 5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。 『かっぱっぱー』w
『浦島太郎』なども同じ、
謎のコミック・・・創作・・・その他 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人のBBAは、頭が悪すぎるので、僕達が発表した、、
5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。
という意見に反論できないので、討論の為の正々堂々の意見ではなく、嘘や、敗北宣言にしかならない悪口を言い放つだけなのではないのかな。。。
648日本@名無史さん2019/07/16(火) 15:33:11.31
熊本連句点鮮人は火病 5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。 信オンというゲームがあったでしょ、
そこにもストーカー(簡単に言うと犯罪者)がいたり >>650
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人のBBAが、嘘や、敗北宣言にしかならない悪口を言い放てば、言い放つほど、
5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。
という意見に対して反論が不可能なことが、強調されていくのではないのかな。。。 5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。 熊本連句点鮮人は荒らし目的で人権板から日本史板に来た 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人のBBAが、嘘や、敗北宣言にしかならない悪口を言い放てば、言い放つほど、
5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。
という意見に対して反論が不可能なことが、強調されていくのではないのかな。。。
654日本@名無史さん2019/07/16(火) 15:38:33.83
熊本連句点鮮人は荒らし目的で人権板から日本史板に来た ちなみにモレ(仮)が作成したキャラクター
あのサーバー、かぶき〜w 5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。 迷探偵、ボーボボ?
ほとんど同じでしょ、モンハンというゲームなども 5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。
という意見への反論を完全に諦めた、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人のBBAが、僕達が覗いたこともない人権板という板の事を知っているのは、何故だろうか。。。
654日本@名無史さん2019/07/16(火) 15:38:33.83
熊本連句点鮮人は荒らし目的で人権板から日本史板に来た >>660
5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。
という意見への反論を完全に諦めた、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人のBBAが、僕達が覗いたこともない人権板という板で、在日朝鮮人の人権のために、意見を発表しているのでは、ないのかな。。。
654日本@名無史さん2019/07/16(火) 15:38:33.83
熊本連句点鮮人は荒らし目的で人権板から日本史板に来た 5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。 探偵eye、迷探偵こなん、モンハン・・・、ぽけもそ?
どらくえ? 頭の悪い奥山氏に、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させた巻向は、5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかったので、都ではなく、
やはり、銅鐸王国の王家の者達の魂を、鎮めるために、天皇家の祖先が祭祀を実行した場所だったのだな。。。 箸墓
>墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られていた可能性があるという。
この石材は、大阪府柏原市の芝山の石であることが判明している。<
要するに 纏向の水路は古墳造営のための運搬用と考えていいだろう まさか、ホンモノだったとか?みたいな話
きゅうりのような葉、葱の華・・・写真など、 ボーボボってや?
アニメの話か?変な外人がポケモンで騒いでいたみたいなん見たが 最盛期の纏向全体は、廃絶された大物主の倉庫跡と、国民が遠くから集まって労役で作製した数個の古墳と、同時に建っていた人民の住居が20件ほどと、銅鐸王国の王家の者達の魂を鎮めるための
天皇家の祖先が祭祀を実行した宮だけがあった、まばらで物静かな集落だった可能性があるな。。。 これも同じw
『サイバーパンクSPECIAL』〜『ドラクエ』
『王母 龍宮 輿 寒いな』
サイバー〜、に登場するロトちゃん、
なぜか川崎区に住んでいるという話だしな、川崎区の南部のほう ジョーカーに打ちのめされたサイキバがアワビマンになった可能性はあるな。。。 『ザ・モモタロウ』
この作品も同じ、
某と某〜某などは同一人物(というか存在)なのでは?と言っている人がいたり 纏向古墳群
纒向石塚古墳・・・ヒノキの板材他
纒向矢塚古墳・・・板石他
纒向勝山古墳・・・ヒノキの板材他
東田大塚古墳・・・甕棺(周濠外堤部より東海系壺片で蓋をした西部瀬戸内系土器棺埋納
ホケノ山古墳・・・石囲い木槨、横穴式石室他
箸墓古墳・・・・・大阪府柏原市の芝山の石材他
その他 土、砂利類
纒向遺跡の水路は古墳造営のための運搬に使われた可能性がある 『河童バビィ』・・・『かっぱっぱー』
『うらしまマリン』・・・『』
『シュテンドルフ』・・・『』 また、
纏向の水路を生活用とした場合
規模のわりには
生活用品や、住居跡があまりにも少ない 邪馬台国九州説は、邪馬台国九州論を経て、邪馬台国九州学になったのだったな。。。 最盛期の纏向全体は、廃絶された大物主の倉庫跡と、国民が遠くから集まって労役で作製した数個の古墳と、同時に建っていた人民の住居が20件ほどと、銅鐸王国の王家の者達の魂を鎮めるための
天皇家の祖先が祭祀を実行した宮だけがあった、まばらで物静かな集落だった可能性があるな。。。 運搬のためだけの水路に製材したヒノキの矢板で護岸する必要がない >>679
ヒノキの矢板で護岸しないと水路として役に立たないよ
すぐに崩れるから
また纏向古墳群の全部の造営は100年はかかっているよ アワビマンが最終呼称であるキウスになった可能性が高いな。。。 九州説には日本の木の文化はわからないだろうが
我国では日本書記に桧は宮殿にと書かれているように
ヒノキは白木の肌が赤ばんで木目が整い美しく、芳香を放つ
土木工事の運搬のためだけの水路なら製材しない何の樹種でもごちゃまぜでいい >>682
あなたは、あの水路は何に使われたと思いますか 奥山氏は、夏のボーナスが、たったの0円だったので、やる気をなくしてしまった、のではないのかな。。。 >>104
>>また論破済みのテンプレ貼ったんか
>九州説をな 便利だ <
テンプレの大和説の「南→東」などの嘘付き騙しは、論破済みだ。
便利だったな。 5パーセントも発掘したのだが、古墳を作っていた100年程の間の人民の住居が、数件しか発見されていないので、
最盛期の纏向全体でも、同時に建っていた人民の住居が20件ほどしかなかった、、、、
それが歴史における帰納である。。。
という意見への反論を完全に諦めた、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人のBBAが、美しさを求めているBBAという意外な一面をもっているのだね。。。
684日本@名無史さん2019/07/16(火) 16:35:37.09
美しさを求めた都の水路 あの巨大な水路は物資運搬用でいいのだ
その物資が何なのかが問題なのだろ >>107
まあ「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が何を言っても、
すでにテンプレで論破されてるんだけどね。 >>112
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者やスレ主や類スレ主らは、
テンプレを貼り付けずに。議論を避けて、
口先騙しのヘイトスピーチに走り出したな 例えば吉野ヶ里のような日本の異文化の空環壕集落では
美しさよりも深いV字壕と外土塁で内から人や獣が逃げないことが重視されている >>115
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、議論やテンプレのコピペを避けて、
人種差別的ヘイトスピーチ文言の投稿に走り出したな?。
仕方なかろう
まともに議論すれば、確実に負けるから 美観を整える水路を作る前に
立派な集落つくれよwww あの水路は土木作業員がウンコや小便を垂れ流すために創ったのだ >>697
纒向は大規模な集落だと文化庁も纒向学研究センターも明言してるよ 北部九州は掘り込みが深く真ん中に便所にちょうどいい穴が空いた
朝鮮型住居が密集しているので、竪穴住居が理想の住居だと考えるのだろうが
3世紀の博多湾沿岸の中心地那珂遺跡は弥生末期の竪穴住居は数基しか見つかっていない
那珂八幡の南側に墓は多く作られている >>699
お前は見たんか?
見てそう感じたのか?
はたまた妄想か? >>699
それが問題なのだよ
根拠があまりにも無い
あれば、列記してください
テンプレでは王宮跡と比定してるが巫女や兵は纏向以外に住んでたと解説している
纏向を大集落とは言っていないが・・・・ >>702
>根拠があまりにも無い
どんな根拠が必要だと主張してるの?
それが実際に現場を調査した学者たちの判断や文化庁を否定するだけの理由になる? 中国史にでてくる倭の海人の話を日本の話だろ〜って妄想ぶっこいたやつらが打ち立てた話
事実は日本史と関係ないから否定させてもらいます(°▽°)
なんか間違ってるかおいこら どお見てもその倭人らのことを日本側から呼ぶなら
そいつらに対しては呉人らのことだろ(°▽°)
としか言いよ〜がないんだよ 学者の言うことは信用できないゾー
俺さま素人が正しいんだゾー
理由は言えないケドナー
が九州説だからな 707
てめえまだいたんか?
九州説自体が成り立たないんだよ(°▽°)
反対に回ればてめえが勝つって話にもならないんだよ >>705
お前が信じる理由は「学者や文化庁が言ってるから」だろ?
「理由」とは何か?
学問の基礎がなってないな。 >>705
あんたの主張はスレ主とやりあってくれんかのーー
他説は当然のことながら纏向を邪馬台国の王都と認めて無いのだから スピード違反しても「みんなが飛ばしてるから」と反論する畿内説。
信号が赤でも「誰かが渡っていたから」自分も渡ったと開き直る畿内説。 最盛期の纏向全体は、廃絶された大物主の倉庫跡と、数個の古墳と、同時に建っていた人民の住居が20件ほどと、銅鐸王国の王家の者達の魂を鎮めるための
天皇家の祖先が祭祀を実行した宮だけがあった、まばらで物静かな集落だったので、トイレは少なくても良かったが、
古墳を積み上げる労役で国民が遠くから集まっている時は、トイレや下水道が必要だったのだな。。。
698日本@名無史さん2019/07/16(火) 17:01:34.75
あの水路は土木作業員がウンコや小便を垂れ流すために創ったのだ 卑弥呼は糞まみれの水路に囲まれて住んでいたのかww
698日本@名無史さん2019/07/16(火) 17:01:34.75
あの水路は土木作業員がウンコや小便を垂れ流すために創ったのだ 畿内説をからかうのもいいが、これは???
719日本@名無史さん2019/07/16(火) 17:42:56.04
卑弥呼は糞まみれの水路に囲まれて住んでいたのかww なるほど、、、
延べ数十万人の労働者が、次々に交代で、自分の食べ物を故郷から運び、数日働いて帰れば良いが、ウンコや小便は必ずするのだな。。。
698日本@名無史さん2019/07/16(火) 17:01:34.75
あの水路は土木作業員がウンコや小便を垂れ流すために創ったのだ >>720
その糞尿に囲まれた環境で平気で暮らせる人種はワイ族だな >>124
>独立した複数の根拠が同一の結論を整合的に指すなら
それが正しいと判断するのはごく普通の論理過程だ<
ダメだ。
その「独立した根拠」とやらの確率が、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や、
「大和日本国は、倭国から別れた別種の旧小国」や、
「大和が列島盟主になったのは、大宝元年の建元から」などの史料事実や史料実態に拠って、
大和説を75%も肯定するような根拠は皆無であり、
確率はいずれも、1%あるかないか?程度。
その程度の証拠を3つ集めたって、確率は3%以下位にしたならない。
つまり、類スレ主の計算例はインチキ。 >>717
結局は説明する能力がない九州説
つまり自分の主張を自分でも理解できてない
つまり無能 ヒノキは白木の肌が赤ばんで木目が整い美しく、芳香を放つので、ウンコや小便の匂い消しになったのではないのかな。。 >>725
この人は昔あまりの下品さゆえ東遷脱糞厨と呼ばれた人物ではないのかな >>724
FAQ38
本当に読んだの
他説に振るなよ
テンプレより
>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。<
奥山よーーこいつと真実の探求してくれよ >>727
読んだら何なんだ?
説明能力ゼロ男くん、自分の無能さが恥ずかしくないの? >>712
>お前が信じる理由は「学者や文化庁が言ってるから」だろ?
現場を調査した専門家の見解にいちばんの信を置くのは
常識的 纒向に集落が無いと言い張ってるのは
たぶん一人だけだな うんこの話をし出せばその人は終わりが近いというジンクスがあってな >>719
>卑弥呼は糞まみれの水路に囲まれて住んでいたのかww<
卑弥呼が住んでたら何か問題でもあるのか >>126
>このスレ同じ話の繰り返しばかりで読むのアホらしくなるな
どちらもいかにも根拠ありそうな言い方ばかりしているが、どちらの側にも根拠といえるほどのものがない<
この男も、格好よく、大和説も九州説もどっちも否定しているが、
それは、結局、「南→東」などの嘘付き騙しの、確率の殆どない大和説、
という通説側にとっては、痛くも痒くもない事になり、
史料事実や史料実態からの帰納的で確率の高い九州説を誹謗否定している事になるから、
インチキ。 >>137
相変わらず「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が、
荒らしてるようだね
大和説の投稿内容自体も盛り上がらないから、
不思議 ないね >>139
大和説者にとっては、「南≠東」などのような史料事実や史料実態の、
真実真理は不快なもの 不快ってや?
勝手に属国認定みたいなもんだろ?
大量に支那人らの死体が上がるだけやな(°▽°) >>729
畿内説ありきの胡散臭いジジイを専門家とかw
信者は永久に妄想ワールドから出られないからなw ザラコクさん いいタイミングでの投稿です
糞 小便 の 話題替えしましょう
水路は運搬用でいいでしょう 真実真理って?
あまりバカな発言しない方がよいんじゃない? どこの池沼なのか知らないけど、
調子に乗るな(増長するなという意味)と言っているんだよ
池沼「❓」? >>588
>干上がったばかりの奈良湖跡の沼地があった可能性も高いね
淡水湖が陸化した所は、少ない労力で水田が作れるから水田耕作好適地になるんだよ
まさに、可美葦牙彦舅尊の坐す土地であり豊葦原瑞穂の国と呼ぶべき土地になる
出雲の出雲平野、神門水海や、河内の河内湖などがそれに当たる
奈良湖は既に弥生後期には陸化しているから、ちょっと時代がずれる
そこに、弥生時代の土木力でも堰が作れる程度の中小河川があれば、
さらに条件がよく、河床と河床の間の微高地に集落が発達するのが、
この時期の基本形
三角州よりも、ゆるい扇状地が弥生時代の拠点集落の立地として好適 漢人?
中国人だと書いてあるでしょ、どこの池沼なんだ?
邪馬台国の話ではない >>732日本@名無史さん2019/07/16(火) 18:28:51.87
>>719
>卑弥呼は糞まみれの水路に囲まれて住んでいたのかww<
卑弥呼が住んでたら何か問題でもあるのか
☝
そんなところへ魏の使いは行かないよ >>728
てめー嘘つき奥山だろ
自分の蒔いた種ジャン始末しろよ >>141
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
息をするように嘘をつくのではなくて
嘘をつかないと窒息する >>748
このように
いつ如何なる時も理由を言わない
それが九州説 日本の神話?(悪く言うとパクリ)
海底に行き〜・・・結婚して?
なぜ同じような話なんだと思う? どっちが正しいのか
>>699
>纒向は大規模な集落だと文化庁も纒向学研究センターも明言してるよ <
VS
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、
首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、・・・・・・
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。・・・・・・ ジンム〜何やら〜不明〜?
何だか知らないけど
直系、一系ではないというのも有名な話 このスレ 締めどきかスレ主交替するかじゃないか
スレ主 錯乱状態のようだし
悪いけど 全一病じゃ無いよ
一の病気を指摘してるだけだから 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 九州、天孫〜?
そういうのも関係ない、日本の話ではない 儒教九州説がオウム返しする心理が何となく理解できた気がする
これは一種の呪詛返しなんだろ
九州説のやってる事は怨念の篭った呪詛だからオウム返しされると込められた怨念が跳ね返ってくる事になる
しかし畿内説は呪詛してるわけでも何でもなくて事実を述べてるだけだから
オウム返しされてもさっぱりピンと来ないわけだ
朝鮮半島にこいう精神文化みたいなのあるのかな 751
盤古神話自体がそもそももしかしたらインドネシアあたりの神話かもな!ってくらい起源が不明な話だからどこの神話か分からないだろ >>756
>悪いけど 全一病じゃ無いよ
そうね
もう単なる全一病じゃないよな
全一病に、理由言えない病、説明できない病を併発した合併症だよな 病気の話ばかりだなおいこら(°▽°)
てめえら人をなんだと思って見てんだおいこら >>537日本@名無史さん2019/07/16(火) 10:50:55.59
>
>>524 11もウソ<
ーーー11、古墳造営終了とともに消えるーーーーーーーーーーーーー
纏向古墳群の築造年比定と一致するのだが 呪詛返し?
そじゃないだろ、てめえらのがかなり好き勝手書いてるぞ >>524の意見
纏向が斎場 墓地と思う理由
1、墓(古墳)が多い
2、集落跡が無い
3、古墳を作るための土木工具が多数発掘
4、祭器が見つかっている
5、古墳うお作る資材運搬用の水路がある
6、鉄が無い・・戦闘に備えていない
7、城柵に囲まれていない
8、供え物の桃核
9、斎場の建物と見られる掘立柱建物・・位置関係から言って三輪山信仰と關係ある
10.交通の要所であり、いろんな豪族が参拝に来やすい
11、古墳造営終了とともに消える >>766
>纏向古墳群の築造年比定と一致するのだが
という根拠は?
説明できない病膏肓 あと「龍宮 聖造〜」
古墳などを造ったという意味ではないよ、
ホンモノに聞いてみるとわかる
「古墳などではない」と答えるから 765
心の病人?
てめえかなりこちらが言ってること理解すらできてないなあ なんか顔面ぶん殴られて終わるだけの様な気がすんだがな〜おまえら(°▽°) >>758
ふーーん
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
と11 ◆UiepmfCeDJqf 2019/07/14(日) 12:45:32.91
一致するな
>>1馬鹿じゃねーか オレ格闘技経験者だから下らん脅しなんか何にも効果ないぞ 敢えて誰とは言わないが、興奮すると安価付けなくなる人を一人知っている 779
おいボケ(°▽°)
そんなんが自慢なるかアホ 779
アボーンになっちまったからも一回かくが
ならどんなんやっていたか説明してみ(°▽°) 窮鼠猫を嚙むならマシだが
負け犬の遠吠えにしか映らんよ
奥山君 やかましいぞおいコラ
なら聞くけとその奥山ってのはどの人物だよ ちなみに(°▽°)さんは何か格闘技の経験はおありで? こうして敗者九州説は今日も必死に
邪馬台国関連の話題から
逃げ回るのであった 武術、格闘の話?
もれ(仮)は漫画やアニメ、ゲーム・・?
などに登場したりするものを継承しているんだけど
正確に言うと、実際は何もしていない >>796
昨今は園児もやらない丸ミラーに失笑した 家の父親も祖父、曾祖父・・・も、
何か(武術など)やっていたとか聞いた事ないし
ただ、
むかーし山の上のほうに住んでいて・・・、
日本昔話とか、そういう話? >>795
弓道はやったことは無いが
鉄鏃ぐらいはわかるよ おいカス
人の話聞こえてるか(°▽°)
てめえ他人と話をしたことすらないんか? あほ
789日本@名無史さん2019/07/16(火) 19:34:27.25
アンカーもつけられんやつは書き込みするな >>789
隗より始めるか
過去の清算から始めたら ただ、刀などは飾ってあったと言っている、
クラの中にも沢山あったとか、よくわからない話
そういうのも、あげたり、売ってしまったりw ゲームや漫画、アニメの話ではない
偶然、同じ・・・?みたいな話ばかり いか私の投稿ですが 指摘があれば詳細にヨロシク
別に意見を変えることも可ですよ 真実が知りたいだけですから
纏向が斎場 墓地と思う理由
1、墓(古墳)が多い
2、集落跡が無い
3、古墳を作るための土木工具が多数発掘
4、祭器が見つかっている
5、古墳うお作る資材運搬用の水路がある
6、鉄が無い・・戦闘に備えていない
7、城柵に囲まれていない
8、供え物の桃核
9、斎場の建物と見られる掘立柱建物・・位置関係から言って三輪山信仰と關係ある
10.交通の要所であり、いろんな豪族が参拝に来やすい
11、古墳造営終了とともに消える このバカやろがほんとによ
顔面血だるまにしたろかい(°▽°)
そのくらいバカ丸出しだなてめえみたいなん ほれこちらも興味あってこのスレを覗いてるなああるからな
ただしてめえらかなりふざけたことそれから誹謗、都合よい解釈ばかり多いな
気をつけたらどおなんだおいこら(°▽°) そういう話があるでしょ、
老婆から聞いた後に調べてみたんだけど
むかーし住んでいたというところの近所に、
小手子の像などがあったり 今夜は、もう、食べ物を口にしないので、巻向大下水道についての討論を、再開すれば良いな。。
698日本@名無史さん2019/07/16(火) 17:01:34.75
あの水路は土木作業員がウンコや小便を垂れ流すために創ったのだ 他のスレでも書いてあるの見たって書いたぞ
オチ感覚でやってんのかおいこら(°▽°) 刀剣だけではない、
掛け軸、壺などもあったと言っている
何なんだろう やはり、疫病が怖いので、古墳を作成するためには、トイレが必要だな、、、
698日本@名無史さん2019/07/16(火) 17:01:34.75
あの水路は土木作業員がウンコや小便を垂れ流すために創ったのだ >>829
謎の優れた人物が発表した、優れた意見なので、何度でも貼り付けて、感心すれば良いな。。
698日本@名無史さん2019/07/16(火) 17:01:34.75
あの水路は土木作業員がウンコや小便を垂れ流すために創ったのだ てめえのは単なる独り言、自問自答かいいとこ(°▽°)
ならてめえがそれ説明してみな 実際は中国の話でしょ
『蓬莱』〜うらしま?機織りなどもしていたと言っているし 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の奥山氏が、論破されたので、反論を諦め、悪口を言い放ってきたな。。。
831日本@名無史さん2019/07/16(火) 20:04:50.37
独り言呟いてるだけやんこのアホ ほれ早くやれ
なにか言いたいことあるんだろ(°▽°)
てめえが告白しなきゃ誰も分からないなあ
てめえの家にその刀剣やらがあったって話か? 多分邪馬台国の会が精神的にアレな人間雇って荒らさせてんだな やはり、奥山氏だったのだな、、、
835日本@名無史さん2019/07/16(火) 20:10:33.85
ほれ早くやれ
なにか言いたいことあるんだろ(°▽°)
てめえが告白しなきゃ誰も分からないなあ
てめえの家にその刀剣やらがあったって話か? >>769 他いっぱい コピペだからねw
一度きちんと相手しておくかな 行数使いたくないからいつもと引用形式変えるよ
纏向が斎場 墓地と思う理由
1、「墓(古墳)が多い」
見せる権力である大墳丘墓は権力中心近くの人口の多い人目につくところに作られる
むしろ、王都そのものまたは王都近辺である根拠
2、「集落跡が無い」
オーソライズされた公式報告書その他で巨大集落とされている
たぶん言いたいことは「住居跡」だとおもうが、奴国中心部でも住居跡の発掘例は少ない
多数の飯炊き用土器により、多くの人口が存在したのは確実
3、「古墳を作るための土木工具が多数発掘」
古墳に限らず、計画都市であれば多くの土木作業が必要
これも墓地というより都市の根拠
4、「祭器が見つかっている 」
祭政一致の時代に祭器が見つかるのは祭祀を行う首長の存在を示すもの
墓ではなく首長の拠点である根拠
5、「古墳うお作る資材運搬用の水路がある」
水路の目的が古墳造営に限らないのは明白
纏向大溝は部分的にしか発掘されておらず、全貌は不明
6、「鉄が無い・・戦闘に備えていない 」
戦場になるような場所だったら、王都として不向き
鉄は発掘面積が増えればこれからいくらでも出土するようになる
7、「城柵に囲まれていない 」
遺跡全体を囲む城柵など魏志倭人伝には記されていない
辻地区の大型建物も柵列で囲まれているhttps://i.imgur.com/dg1h5jS.jpgし、
尾崎花地区にも明確な柵列があるhttps://i.imgur.com/DoW0DbB.jpg 8、「供え物の桃核」
祭政一致の時代の大規模祭祀跡⇒祭祀の主催者・首長(祭祀王)の存在の証拠
9、「斎場の建物と見られる掘立柱建物・・位置関係から言って三輪山信仰と關係ある」
斎場の建物と見る根拠がない
辻地区の建物群の軸線は三輪山ではなく穴師山を指している
三輪山は単に近場の有名なところだからというあて推量以上のものではない
日本人は 「關係」という仮名漢字変換をしない
10.「交通の要所であり、いろんな豪族が参拝に来やすい」
交通の要衝であるのは事実だが、それが墓地の理由にはならない
11、「古墳造営終了とともに消える」
纏向古墳群と事実上一体の、大倭・柳本古墳群はずっと造営が続いている
全部否定されたなww 833
蓬莱って名前くらいは知ってるぞ
中身は知らん、説明してもらえるならどんなものかは分かる
早くやれ
やらないならてめえのは単なる呟きだ(°▽°) 謎の優れた人物が発表した、優れた意見なので、何度でも貼り付けて、感心すれば良いな。。
698日本@名無史さん2019/07/16(火) 17:01:34.75
あの水路は土木作業員がウンコや小便を垂れ流すために創ったのだ そういやザラコクは邪馬台国の会に向かって
邪馬台国はなかったから邪馬台国の会は嘘つき騙しとか抗議したりしないのか おいボンクラ(°▽°)
てめえかなり舐め腐ってんだろ
ちゃんと人の話を聞くこともできん、ふざけた態度もかなり取ってるなあ(°▽°)
なんか変なもんに人を例えて話すのも好きみたいだしな そりゃてめえの顔面血まみれになるなあ当たり前だろ(°▽°)ちがうか?おいこら 親戚(遠い親戚でも同じ)だとしても、
家とオマエの家は別だと考えたほうが良い、
例えば、お前は、おかしな宗教に入っているとか
実際に日本の話ではないし、起源(発祥)でもない どちらも、奥山氏だということは、バレているのではないのかな。。
845日本@名無史さん2019/07/16(火) 20:15:57.31
あれ?
「(°▽°) 」と「アンカなし」は別人? 謎の優れた人物が発表した、優れた意見なので、何度でも貼り付けて、感心すれば良いな。。
698日本@名無史さん2019/07/16(火) 17:01:34.75
あの水路は土木作業員がウンコや小便を垂れ流すために創ったのだ 最盛期の纏向全体は、廃絶された大物主の倉庫跡と、数個の古墳と、同時に建っていた人民の住居が20件ほどと、銅鐸王国の王家の者達の魂を鎮めるための
天皇家の祖先が祭祀を実行した宮だけがあった、まばらで物静かな集落だったので、トイレは少なくても良かったが、
古墳を積み上げる労役で国民が遠くから集まっている時は、トイレや下水道が必要だったのだな。。。
698日本@名無史さん2019/07/16(火) 17:01:34.75
あの水路は土木作業員がウンコや小便を垂れ流すために創ったのだ 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の奥山氏が、論破されたので、反論を諦め、悪口を言い放ってきたな。。。
852日本@名無史さん2019/07/16(火) 20:21:14.47
九州説はどれだけ畿内説が憎いんだろ
やっぱ異常だ 『中国 蓬莱』
うらしまんの話なども同じ、
なぜ日本の話になっているのか、わからないんだけど ならはっきり言おうか?
その奥山とやらの自演ですらないがな俺は(°▽°) 荒らせば荒らすほど逆に九州説の立場は悪くなっていく 852
九州説がどおたら畿内説がどおたらそれで争ってるんか? 他の家の話なのに、
自分の家の話?みたいに語っている人がいたりするんだろう
実際は人(ホンモノだと思われる家など)から教わったり、
聞いたりした話なのにとか 858
そゆ話をしていたらいきなり変なんが湧いてきたんだろがよてめえらだよ(°▽°) 当時、家にあった本や書なんかも、
誰かに、あげたり〜?とも言っているし
確実に、そうだろう 本とやらをやったんか?
それからどおしたんだよ(°▽°) >>822
アンカー無いのに
反応するなよ
お馬鹿さん オマエは右翼、愛国〜とかw
そういう人間なんだろう それ否定すりゃてめえは勝ちみたいな話か?
どお見てもてめえ自身が場違いだ(°▽°)
消えろ!そんだけだ ここはおまえのいる場所じゃないの
おまえどっかに相応しいとこあるよ
そこ行け(°▽°)そんだけだ ヤベエー
畿内説が憎くてしょうがない邪馬台国の会がスレ荒らしまわるー 869
てめえなにまとわりついてんだよ
はっきり言えば邪魔 こりゃあ邪馬台国の会被害者の会を結成して裁判所に訴えなきゃ 871
そんな連中がどこにいるんだ?
なんか歴史的にぶったてて後戻りすらできなくなった連中の話か? 邪馬台国畿内説を宣伝してきた韓国人の頭が悪すぎる奥山氏が、呟き荒らしのキャラクターと、(°▽°)のキャラクターの両方を使用して、邪馬台国畿内説が叩きつぶされた討論の内容を倉庫に、押し込めようとしているな。。。 九州説邪馬台国の会は口が悪いな
しかもスットボケるのもタチ悪ー スレを荒らせば荒らすほど評判が悪くなっていく邪馬台国の会 邪馬台国畿内説を宣伝してきた韓国人の頭が悪すぎる奥山氏は、自作自演を辞めて、正々堂々と討論しなければ、邪馬台国畿内説が更に惨めになるな。。 同じことだけ呟き始めたよこのバカ(°▽°)
おまえネット越しでよかったなあ
目の前にいたら殴ってるぜその頭の悪い顔をな 『音楽の話 中国 神話』
中国の話だと書いてあるし、神仙の世界の話 九州説の邪馬台国の会さん
いくらこのスレが憎いからって荒らすのは良くない そんで中国がどおしたん?
やつらも最近かなりうざくなってきたな
日本では詐欺くさいんがのたうち回り始めただよ
日本でな 885
まったく的外れなこと言ってなにしてんだてめえ 884
おう!中国史はこれから排他していくぞ
やつら見てそお思ったぞ俺なんざもな(°▽°) 奥山氏が、3つのキャラクターを巧妙に変換するので、感心しました。。。 >>891
僕達が、キャラクターが似ているので自作自演の会話だと思われているのと、全く逆だね。。。 バカやろがほんとによ(°▽°)
キャラだの言ってる時点でおかしいなあてめえだよ どこ使い分けてるわけ?
まったく使い分けなんざしちゃいねえだろ なぜ家の老婆のほうが詳しいんだろうwという話
蚕を飼い、機織りをしていた家があって、
日本でいうと『浦島太郎』? 900
そなんか?
よかったな〜(°▽°)
聞きゃあ分かるんじゃねえの?知らんが それから邪馬壹国の会ってのは?
おまえやけにこだわっていたな(°▽°) またすっとぼけてるな
九州説団体邪馬台国の会がこのスレを潰そうと荒し回ってるのはとっくにバレているのだ 日本の神話・・・何代目テンノウ?
ウラシマタロウと同じような話
だと言っている人がいたり 荒らしは自動的に全部邪馬台国の会のせいになる
その可能性が十分あるから 邪馬台国畿内説を宣伝する、頭が悪すぎる無職の韓国人の奥山氏が、3つのキャラクターを使用して、自作自演を続けているので、ウンコや小便の澱む巻向大下水道のようなスレッドになってしまったな、、、 【邪馬台国九州説】
明治時代の大日本民国政府は九州推しと弥生人押しが酷かった。
明治政府は古事記や日本書紀の歴史を改竄し、その解釈をねじ曲げた。
これは高麗町出身者によって作られた大日本民国政府にとって朝鮮から鉄器をもたらした朝鮮人は神であり、その神の降り立った九州が日本の原点であると教育した。
https://i.imgur.com/HuQ0qyt.gif
この教育のせいで当時の縄文人は野蛮で穢らわしい蛮族という認識を当時の日本人は持つに至った。
もちろん、それは全くの間違い。縄文人は先住民族であり、弥生人は渡来系朝鮮人が真実である。
考古学者の森本六爾は1924年上京して大日本民国政府の命に背き弥生学の研究を始める。
彼のおかげで現在では古事記に書かれていた、始まりの地は淡路島と正しく認識する人が多い。
しかし今現在でも例えば邪馬台国についてでも魏志倭人伝の解釈を改竄し、ねじ曲げて理解している者が少なくない。
彼らは敢えて解釈をねじ曲げている。
それが祖国朝鮮のためでもあるからである。 【九州人は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている】
九州人、特に福岡、佐賀、長崎は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている事が多く、現在でも近い身内に朝鮮人の血が混じっている人が多いそうです。
DNAを調べると日本古来のDNAとかけ離れていて、朝鮮系DNAに近いとのデータもあるようです。
そんなのが関係しているのか、九州では、特に福岡県などでは暴力団の抗争が絶えませんよね?
抗争といっても、テロ組織的な過剰で突撃的な抗争の仕方で日本中を震撼してますよね。
まさしく、これも朝鮮人の血筋も関係しているとネットでは騒がれていますね。
そのせいか九州男児と言えば「ウソつき」「男尊女卑」として有名ですが、これ朝鮮人と全く性質が一緒なんですよ。
やっぱり血は争えませんね。
https://i.imgur.com/ZDOilxS.png
https://i.imgur.com/rRNBLFG.jpg 九州説は学問的な話になったら
畿内説にぜんぜん歯が立たないので
荒らしとデマ流しに徹してる
情けないことだ つまり、朝鮮人が主導的に宣伝してきた、邪馬台国畿内説という仮説は、完全に、破綻してしまったのだね。。。 祖国朝鮮なんか、帰っていいぞ
なんだ大日本民国ってよ(°▽°) 縄文人が先住民当たり前の話
そいから邪馬壹国だのでねつ造した九州あたりの話どおすんだ?
サヨだのウヨだのほざいてきたやつらの責任も同じく問う
群衆心理に見せかけてふざけた真似したやつらもいたわな 九州説の奴がなんで畿内説のスレにいんの?スレタイの日本語読めないの? 畿内説が畿内説スレ荒らして何になる
そもそも頼まなくても九州説邪馬台国の会が荒らしてくれるしな そもそも畿内説にぜんぜん反論しない九州説が滑稽すぎ
ザラコクの反論が更に滑稽なのは笑いのツボ >>921
テンプレを貼るバイトが儲かるんだろう。 つまり、朝鮮人が主導的に宣伝してきた、邪馬台国畿内説という仮説は、完全に、破綻してしまったのだね。。。 >>838
> 鉄は発掘面積が増えればこれからいくらでも出土するようになる
出土してから出直せよ。
これだから畿内札は妄想だと言われるんだ。 スレタイ読めないのか日本語読めないの知らないけど九州説の奴らスレチじゃん >>923
ほらな
こんなふうに畿内説には反論できない
デマと中傷オンリー
九州説はここまで落ちぶれた 邪馬台国畿内説を宣伝する、頭が悪すぎる無職の韓国人の奥山氏が、3つのキャラクターを使用して、自作自演を続けているので、ウンコや小便の澱む巻向大下水道のようなスレッドになってしまったな、、、 つまり、朝鮮人が主導的に宣伝してきた、邪馬台国畿内説という仮説は、完全に、破綻してしまったのだね。。。 >>929
ほらな
九州説はこんなデマと中傷しか出来ない
しかも下品 >>910
>明治時代の大日本民国政府は九州推しと弥生人押しが酷かった
日本人で「大日本民国」なんて言葉を思いつくやつはいねぇよ!
大韓帝国がどうして独立できたのか、歴史を知らない民族はどうしようもないなw >>925
>出土してから出直せよ。
>これだから畿内札は妄想だと言われるんだ。
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、こんばんは
出土しているんだけど、古墳時代だから関係ないとか必死でごまかしてるだけじゃんw
あと、纒向古墳群の100メートル級のが既に削平されてて埋葬主体部が発掘できてないだけだよ
纒向石塚古墳の埋葬主体部が残っていたら九州説なんて最初から存在しなかっただろうに >>143
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
つかなくてもいい嘘をついて
しなくてもいい不正をしてないと
不安になる気質 九州説を唱えるとスレタイ読めないのか
スレタイ読めない奴が九州説なのか >>934
北部九州では径百歩の墓は見つかりましたか?
見つかってから出直して下さい
北部九州では卑弥呼の鏡の候補となる魏晋鏡は見つかりましたか?
見つかってから出直して下さいww >>153
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の精神の源泉である嘘が、
このスレでは通用しないからな
嘘は、史料事実や史料実態などの事実を前にすれば消滅するのみ 【邪馬台国九州説】
大日本帝国(大とか帝とか付けるセンスも朝鮮人特有の感覚であり、このセンスは隣の大韓民国から見てもご覧の通り)政府は九州推しと弥生人押しが酷かった。
明治政府は古事記や日本書紀の歴史を改竄し、その解釈をねじ曲げた。
これは高麗町出身者によって作られた大日本帝国政府にとって朝鮮から鉄器をもたらした朝鮮人は神であり、その神の降り立った九州が日本の原点であると教育した。
https://i.imgur.com/HuQ0qyt.gif
この教育のせいで当時の縄文人は野蛮で穢らわしい蛮族という認識を当時の日本人は持つに至った。
もちろん、それは全くの間違い。縄文人は先住民族であり、弥生人は渡来系朝鮮人が真実である。
考古学者の森本六爾は1924年上京して大日本帝国政府の命に背き弥生学の研究を始める。
彼のおかげで現在では古事記に書かれていた、始まりの地は淡路島と正しく認識する人が多い。
しかし今現在でも例えば邪馬台国についてでも魏志倭人伝の解釈を改竄し、ねじ曲げて理解している者が少なくない。
彼らは敢えて解釈をねじ曲げている。
それが祖国朝鮮のためでもあるからである。 >>935
嘘だ嘘だと言い張るだけです
嘘だと立証などする気もない
そんな異常な九州説を
世間の誰が信じるの? >>154
このスレで行われているのは、九州説VS大和説のように見えて実は
史料真実や史料実態を信奉V「南→東」などのような嘘を信奉、
という宗教論争のようなものだ
大和説の精神構造はまさに非常識
勿論「畿内」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言だ。 >>155
そうか。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説、
嘘ついてる自覚がなかったら病気だろ >>941を見れば
九州説が嘘をついてることが
一目瞭然ですねえ >>157
相変わらず大和説は支離滅裂だな
大和で第V様式が出るのは、
九州から東征毛人五十五國をした人々が持ってきたからなんだがね つまり、朝鮮人が主導的に宣伝してきた、邪馬台国畿内説という仮説は、完全に、破綻してしまったのだね。。。 >>161
「南→東」などの嘘吐き騙しの八町説は
非科学の極致 >>910
>明治時代の大日本民国政府は九州推しと弥生人押しが酷かった。
>明治政府は古事記や日本書紀の歴史を改竄し、その解釈をねじ曲げた。
これに対して>>932で「日本人で「大日本民国」なんて言葉を思いつくやつはいねぇよ! 」と
批判されると
>>939
>大日本帝国(大とか帝とか付けるセンスも朝鮮人特有の感覚であり、
>このセンスは隣の大韓民国から見てもご覧の通り)政府は九州推しと弥生人押しが酷かった。
とごまかすww
明治政府批判に見せかけたいつもの日本sageのやり口w
パヨクの人脈は半島人と繋がっているw >>162
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説というのは、
元々が、毛人蝦夷や出雲系銅鐸祭祀部族という、
まつろ(服)わぬ民説だからな
「畿内」なんて7世紀末以後の文言も、
大和説学者らが商売のために吉備讃岐阿波播磨河内などの、
種々雑多な主張を十把一絡げにしようとし総称の一つだから
何に対しても服わないので、
永遠に大和説の比定地が一つにまとまることはない >>941
史料事実や史料実態を信奉と九州説が言うな
史料に書かれてる事実は都合が悪いから邪魔臭くてしょうがないくせに >>944
>大和で第V様式が出るのは、
>九州から東征毛人五十五國をした人々が持ってきたからなんだがね
では第V様式の本拠地たる九州で第V様式があまり出土しないのはどうしてなんだろうね?ww
デタラメもいい加減にしなよ
ザラゴキがバカなのはもうみんな知ってるんだからさw
で、ザラゴキはどこの理系の大学院に進んだんだっけ?ww
専門外でも電磁気力がβ崩壊の確率に影響しないことくらいは理系なら知ってるはずなんだがなw 九州説がここまで国民みんなが義務教育で習ってる日本史とかけ離れたものになった今、もう復権は無いだろうねえ >>174
大和説
「南→東」などの嘘は、
通用しないと言っただろ >>948
わざと大日本民国って書いてんだけど
朝鮮人に皮肉って言葉遊び無いの知ってるか?
何故なら皮肉を理解する文化が無いからなんだよ。
つまりファビョッてるおまえな。 >>177
隙もなく 「南→東」や「畿内」なんて嘘吐き騙しを作りあがった 大和説
大和説の 嘘は通じず 畿内説のスレっていつも九州説の奴が荒らしに来てますね。
これでは議論もまともに出来ない。 >>953
今どき畿内説は南→東なんて主張はしていない >>940
何も立証できていないのは畿内説の方では? 【九州人は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている】
九州人、特に福岡、佐賀、長崎は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている事が多く、現在でも近い身内に朝鮮人の血が混じっている人が多いそうです。
DNAを調べると日本古来のDNAとかけ離れていて、朝鮮系DNAに近いとのデータもあるようです。
そんなのが関係しているのか、九州では、特に福岡県などでは暴力団の抗争が絶えませんよね?
抗争といっても、テロ組織的な過剰で突撃的な抗争の仕方で日本中を震撼してますよね。
まさしく、これも朝鮮人の血筋も関係しているとネットでは騒がれていますね。
そのせいか九州男児と言えば「ウソつき」「男尊女卑」として有名ですが、これ朝鮮人と全く性質が一緒なんですよ。
やっぱり血は争えませんね。
https://i.imgur.com/ZDOilxS.png
https://i.imgur.com/rRNBLFG.jpg >>957
邪馬台国についての議論自体はもうとっくに畿内説の勝ちで決着がついている 本日夕方以降分
691 702 713 718 720 727 733
739 746 748 756 766 769 778
785 788 798 801 818 畿内に卑弥呼以前に何もなかったというのがあやしいよな >>965
kpopが世界でアンケートしたら人気とか言ってるアレみたいなもんか >>966
縄文期の黒曜石のナイフがある時点で縄文期の交流が盛んだったのは間違いないからな >>939
>大とか帝とか付けるセンスも朝鮮人特有の感覚であり、
>このセンスは隣の大韓民国から見てもご覧の通り
この前のBS-TBSで中国の学者が出してきた図が「大明混一図」で
有名なこれhttps://pbs.twimg.com/media/DoZetuXVsAIDq42.jpgは「大清國属高麗國旗」だよな
明や清は朝鮮人だったとでも言うのかい?
その前のモンゴルの王朝も、正式国号は「大元」だ
そして帝国の方は当時世界史的に帝国の時代だったというだけ
ロシア帝国、オーストリアハンガリー二重帝国、プロイセン帝国、オスマン帝国
大政奉還当時はフランスも第二帝政のフランス帝国だったし、日本が帝国を名乗ったのも、
列強に伍するためだよ
朝鮮人など毛ほども関係ない
大韓帝国という名乗りが、大日本帝国の真似っこってだけ
オリジナリティ皆無だからねw 畿内説のスレっていつも九州説の奴が荒らしに来てますね。
これでは議論もまともに出来ない。
彼らは本当に日本人なのか。礼儀をわきまえていない。 >>955
>わざと大日本民国って書いてんだけど
日本人にはそういう感覚ないからw
お里が知れるぞww
九州説の背景がよく分かるww 九州説の学者がいない史学会でアンケート取ったら
どういう結果になるかな というか一般人はもう邪馬台国問題なんて関心ないだろ 登場人物全員美少女にして深夜アニメでも作ればいいんじゃね >>976
>纏向古墳造営基地を
>推論で否定しても無駄だよ
相変わらず嗤わせてくれるなw
公式報告書や文部科学省、文化庁の大集落遺跡という見解を
「古墳造営基地という推論」で否定しようとしても無駄だよ
ミラーリングというか、自らを省みないブーメラン乙w しかし九州説も敗北が確定してるのにようやるよ
教科書も畿内説有利となるし世の中は畿内説を中心に議論が回る >>838
>>839
お疲れだが
論より証拠を示す必要があると思うよ 纏向を見てすぐにわかった。
古墳造営基地だと。
これは間違いない。 いや、正直さ、>>979とか>>980とかにまともに相手する必要を感じないんだが?
>論より証拠を示す必要があると思うよ
例えば
9、「斎場の建物と見られる掘立柱建物・・位置関係から言って三輪山信仰と關係ある」
斎場の建物と見る根拠がない
辻地区の建物群の軸線は三輪山ではなく穴師山を指している
三輪山は単に近場の有名なところだからというあて推量以上のものではない
日本人は 「關係」という仮名漢字変換をしない
これとか明確で具体的だろ?
反論があるなら個々、具体的に反論してごらん >>951
『ポケモソ』
に登場する学校のことなんじゃないの?雷神関係も同じ
天才、秀才〜というのも後付け、実際は、ほとんど中国の〜。 >>981
テンプレもしかり、モモソもしかり三輪山は引用してるよ 学校に行っていないのに(頭が良いというか)詳しい?
という人は何かの家の人なんだと思う
むかーしからの話などを知っていたり、
家の老婆も詳しかったり 1、「墓(古墳)が多い」
見せる権力である大墳丘墓は権力中心近くの人口の多い人目につくところに作られる
むしろ、王都そのものまたは王都近辺である根拠
☝
エジプトを参照
2、「集落跡が無い」
オーソライズされた公式報告書その他で巨大集落とされている
たぶん言いたいことは「住居跡」だとおもうが、奴国中心部でも住居跡の発掘例は少ない
多数の飯炊き用土器により、多くの人口が存在したのは確実
☝
土木作業員でも可 また報告書も推論であり物証たる住居跡群は見つかっていない
3、「古墳を作るための土木工具が多数発掘」
古墳に限らず、計画都市であれば多くの土木作業が必要
これも墓地というより都市の根拠
☝
でき上ったものは古墳と掘立柱建物 水路 だけで都市と言えるだろうか 4、「祭器が見つかっている 」
祭政一致の時代に祭器が見つかるのは祭祀を行う首長の存在を示すもの
墓ではなく首長の拠点である根拠
☝
吉備からの借り物で祭政かい・・石野氏が吉備説に傾くのはムリが無いのでは
また、首長は卑弥呼と言う証拠はない・・日本?の各国に首長は居る
5、「古墳うお作る資材運搬用の水路がある」
水路の目的が古墳造営に限らないのは明白
纏向大溝は部分的にしか発掘されておらず、全貌は不明
☝
これは理解できるが、古墳造営が主たる目的ではないという肉付けが必用 『神功皇后紀』に『魏志倭人伝』が引用されているが
『日本書紀』は完全に卑弥呼と台与に神功皇后を合わせにいってる。
『日本書紀』によると
170年 神功皇后が産まれた
200年 神功皇后が即位
238年 神功皇后が朝貢 (卑弥呼が朝貢した年と一致)
269年 神功皇后が死亡
卑弥呼が女王になったのは184年頃と考えられているので
卑弥呼が産まれたのは170年頃(神功皇后が産まれた年)と推測できる。
※台与は13歳で女王になった。卑弥呼もそれくらいの年齢で女王になったと考えられる。
『日本書紀』は一致させようとしてるので、台与が死んだのがおそらく269年頃(神功皇后が亡くなった年)だろう 調べてみた?
オマエは何やら教(日本の宗教)の人間なんだろう?
と言っている人がいたり
そのように(不明)教えられ、
神道、神仙、仏教なども日本の話(起源、発祥)だと思っているとか 6、「鉄が無い・・戦闘に備えていない 」
戦場になるような場所だったら、王都として不向き
鉄は発掘面積が増えればこれからいくらでも出土するようになる
☝
これも理解できるが、鉄は圧倒的に九州である
7、「城柵に囲まれていない 」
遺跡全体を囲む城柵など魏志倭人伝には記されていない
辻地区の大型建物も柵列で囲まれているhttps://i.imgur.com/dg1h5jS.jpgし、
尾崎花地区にも明確な柵列があるhttps://i.imgur.com/DoW0DbB.jpg
☝
6とダブるが 「兵用矛盾木弓」「以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛」
の説明が必用である 崇神天皇が亡くなったのは(戊寅年)であることから
崇神天皇の没年は258年か318年が定説になっている。
しかし、モモソ姫を卑弥呼とすると
崇神天皇は卑弥呼と同時代の倭王のはずで
崇神天皇の没年は198年(戊寅年)でないとおかしい。
198年 崇神天皇が亡くなった
200年 『日本書紀』によると神功皇后が即位
崇神天皇が亡くなって卑弥呼に権力が集中したのが199〜200年頃と考えられるのでこれも神功皇后が即位した年と合うんだよな 8、「供え物の桃核」
祭政一致の時代の大規模祭祀跡⇒祭祀の主催者・首長(祭祀王)の存在の証拠
☝
政治を行ったという根拠に乏しい・・集落跡が無い また前項と同じく
「兵用矛盾木弓」「以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛」
の説明が必用である
10.「交通の要所であり、いろんな豪族が参拝に来やすい」
交通の要衝であるのは事実だが、それが墓地の理由にはならない
☝
逆も真なり
交通の要衝であるのは事実だが、それが都市の理由にはならない >>990
その人物が半島や中国に進出したという話?
国を建てたとか 11、「古墳造営終了とともに消える」
纏向古墳群と事実上一体の、大倭・柳本古墳群はずっと造営が続いている
☝
理解できるが王都とは直結しない 『精神病院』(精神科?)
検索すると出てくるから、そこに行ったほうが良い 奥山君は新スレ作りに没頭
だから、ヘンテコマークの奴は来ない このスレッドは1000を超えました。
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