邪馬台国畿内説 Part490
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1564685667/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
(本項 続く) ◆3ー2
(承前)
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く) (承前)
◆7ー2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8−1(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
(本項 続く) 支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスで (承前)
◆8−2
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であること ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 0009 1 ◆UiepmfCeDJqf 2019/08/04 08:25:07
(承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 (承前)
◆8−2
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 (承前)
◆7ー2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) 972
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973
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◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他 ◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 972
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ま、一種の悪役商法・・。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 972
他賢の否定で小銭を稼ぐ桜井のバイト
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他賢の否定で小銭を稼ぐ桜井のバイト
ま、一種の悪役商法・・。 >.974 名前:日本@名無史さん 2019/08/04(日) 08:20:16
>短里と言わずに
>韓伝や魏志倭人伝から 実距離÷里=1里は80M前後でいんでねーの
その通りだ
韓伝や魏志倭人伝に依らいするんだから、「倭韓里=1里」は80M前後でいんでねーの ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 0043 日本@名無史さん 2019/08/04 08:42:17
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ま、一種の悪役商法・・。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 0043 日本@名無史さん 2019/08/04 08:42:17
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Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 0 日本@名無史さん 2019/08/04 08:44:01
0043 日本@名無史さん 2019/08/04 08:42:17
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Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
返信 ID:(47/52)
0048 日本@名無史さん 2019/08/04 08:43:20
0043 日本@名無史さん 2019/08/04 08:42:17
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973 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。 ◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 米、ロシアに追加制裁へ 化学兵器使用を非難
2019年8月3日 14:35
【ワシントン=中村亮】米国務省は2日、ロシア政府が化学兵器の使用停止を確約していない ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 韓国「日本をホワイト国から除外」対抗策も影響は限定的 激しい口調で日本を非難も「日本の翻意」「米の説得」頼み
2019.8.3
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2日、ソウルの韓国大統領府で開かれた臨時閣議で発言する文在寅大統領(同府提供・共同)
2日、ソウルの韓国大統領府で開かれた臨時閣議で発言する文在寅大統領(同府提供・共同)
【ソウル=名村隆寛】韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は2日、輸出管理で優遇措置をとる「ホワイト国」から韓国を除外する日本政府の政令改正決定を強く警告し、韓国側の「相応の措置」による日本の被害にも言及した。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 日本政府は今回の決定が対抗措置や禁輸措置ではないことを明言した。だが、韓国は「報復」と断定し、日本の説明を聞き入れない。
文氏が開いた同日の緊急閣議の後、洪楠基(ホン・ナムギ)経済副首相兼企画財政相は韓国政府の方針を発表。日本をホワイト国から除外し輸出管理を強化するほか、食品や廃棄物などの(輸入での)安全措置
強化や世界貿易機関(WTO)への提訴準備を表明した。また、大統領府の金鉉宗(
キム・ヒョンジョン)国家安保室第2次長は日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄検討を示唆した。 文氏に劣らぬ激しい口調で日本批判をした洪氏らだが、対抗措置は想定内のものだ。
むしろ「日本政府に措置撤回を強く求め、協議再開を促す」(洪氏)と対日要求が目立った。韓国国会も、日本に輸出規制措置の撤回を求める決議案を全会一致で採択した。
韓国がとれる日本への対抗措置は限られ、日本自らの翻意か、「唯一日本を説得できる米国」(専門家)に期待するしかないのが実情だ。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。
(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 日本に輸出規制措置の撤回を求める決議案を全会一致で採択した。
韓国がとれる日本への対抗措置は限られ、日本自らの翻意か、「唯一日本を説得できる米国」(専門家)に期待するしかないのが実情だ。
恫喝の半面、動揺も隠せない。ただし、文氏は日本と徹底的に戦う姿勢を見せ、当面の困難にも触れ、国民に協力を訴えた。韓国では日本製品の不買運動が広がり、政府やメディアはこれを評価している。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 いわゆる徴用工訴訟で韓国最高裁から賠償判決を受けた日本企業の資産は差し押さえられ、売却(現金化)は時間の問題だ。資産が売却されれば、日韓関係はさらに悪化する。
リスクを覚悟の上で、文氏はそれを黙認する可能性がある。(産経新聞) 999 名前:日本@名無史さん 2019/08/04(日) 08:48:38.69
短里と言えば、並行して長里もあったということになる
フルタの命名ミスの典型。
そもそも倭人伝、韓伝に由来するのだから「倭韓里(一里≒80m前後」)が適切だ。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 売却されれば、日韓関係はさらに悪化する。リスクを覚悟の上で、文氏はそれを黙認する可能性がある。(産経新聞) ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 リスクを覚悟の上で、文氏はそれを黙認する可能性がある。(産経新聞)
返信 ID:(71/75)
ここから新着レス
0072 日本@名無史さん 2019/08/04 08:52:03
999 名前:日本@名無史さん 2019/08/04(日) 08:48:38.69
短里と言えば、並行して長里もあったということになる
フルタの命名ミスの典型。
そもそも倭人伝、韓伝に由来するのだから「倭韓里(一里≒80m前後」)が適切だ。
ID:(72/75)
0073 1 ◆UiepmfCeDJqf 2019/08/04 08:52:22
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 韓国で「最大の反日イベント日」というべき「8・15光復節」まで2週間ほどになった
。日本製品に対する「官制」の不買運動は、とりあえず8・15に向けて、トータルな反日運動との区分がなくなる様相を見せながら勢いを増し
ている。憂慮されるのは“着火マン”が火の勢いを制御不能に陥り、とんでもない逃げ道に突入する事態だ。 屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
返信 ID:(78/79)
0079 日本@名無史さん 2019/08/04 08:54:25
韓国で「最大の反日イベント日」というべき「8・15光復節」まで2週間ほどになった
。日本製品に対する「官制」の不買運動は、とりあえず8・1 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 「これは下から自然に盛り上がった運動であり、官制運動では断じてない」と韓国人は目をつり上げるだろう。
では、韓国・中央日報(7月24日)に載っていた、
「韓日関係が悪ければ韓国大統領の支持率が上がり、良ければ下がった」との見出し記事を韓国人は、どう読んだのか問いたい。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 では、韓国・中央日報(7月24日)に載っていた、「韓日関係が悪ければ韓国大統領の支持率が上がり、良ければ下がった」との見出し記事を韓国人は、どう読んだのか問いたい。
記事には、金大中(キム・デジュン)政権で大統領府秘書室長を務めた朴智元(パク・チウォン)氏(=現在は左翼野党・民主平和党の国会議員)の回顧談が載っている。
「2001年、金大統領の三男が不正に関連し ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 では、韓国・中央日報(7月24日)に載っていた、「韓日関係が悪ければ韓国大統領の支持率が上がり、
良ければ下がった」との見出し記事を韓国人は、どう読んだのか問いたい。
記事には、金大中(キム・デジュン)政権で大統領府秘書室長を務めた朴智元(パク・チウォン)氏(=
現在は左翼野党・民主平和党の国会議員)の回顧談が載っている。
「2001年、金大統領の三男が不正に関連したという疑惑が浮上した。私が『ちょうど日本の歴史歪曲(わいきょく)問題で世論も良く
ないから、民間で日本製品の不買運動を行ってみる』と提案」したというのだ。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 回の不買運動の口火を切ったのは、中小商人自営業者総連合会。ソウルの日本大使館の前で、日本メーカーのロゴを付けたパッケージを踏みつけた連中だ。その指導者は、それと知られた文在寅(ムン・ジェイン)支持派の人物だ。
不買運動が、ジワジワと盛り上がってきたところで、政権ベッタリの新聞ハンギョレ(7月20日)は「安倍政府は『日本製品不買運動』の拡散の意味を直視せよ」との社説を掲げて、猛烈に煽った。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。 ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 記事には、金大中(キム・デジュン)政権で大統領府秘書室長を務めた朴智元(パク・チウォン)氏(=現在は左翼野党・民主平和党の国会議員)の回顧談が載っている。
「2001年、金大統領の三男が不正に関連し
返信 ID:(84/89)
0085 1 ◆UiepmfCeDJqf 2019/08/04 08:56:26
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。 東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
返信 ID:(90/92)
0091 1 ◆UiepmfCeDJqf 2019/08/04 08:58:49
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ! ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) マスコミ報道やネットを見て「自主的に」不買運動に追随している韓国人とは、踊らされている自覚がないまま踊っている哀れな存在ではあるまいか。
今回の不買運動の不幸は「これこそ日本の輸出管理強化への有効な対抗策だ」と、参加者たちに信じられていることだ。 (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
返信 ID:(95/96)
0096 日本@名無史さん 2019/08/04 09:00:16
マスコミ報道やネットを ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 それで韓国紙は「日本製ビールが大幅売り上げ減」と盛り上げる。日本にも「不買運動による日本の被害は甚大」であるかのように書く「反日新聞」がある。
だが、ビール会社のもうけが減ろうと、トヨタ車が韓国で売れなくなろうと、韓国人観光客が減ろうと、日本政府が「安全保障に絡む国策」を変えることはない。 だから不買運動の行きつく先は、国力大浪費の揚げ句の果てに“国民的大挫折”でしかない。それは政権浮揚力の劇的低下に直結する。
そうした見通しが立つ中で、不買運動は日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の延長阻止運動と結びつき、「トータルな反日運動」の色彩を強めつつある。北朝鮮も「韓国はGSOMIAを破棄しろ」と“指令”している。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 従北ポピュリズム政権にとっては、「GSOMIAの自動延長を拒否して日本に大打撃を与えてやった」と
喧伝することが唯一の逃げ道かもしれない。
■室谷克実(むろたに・かつみ) 1949年、東京都生まれ。慶応大学法学部卒。
時事通信入社、政治部記者、ソウル特派員、「時事解説」編集長、外交知識普及会常務理事などを経て、評論活動に。著書・共著に『悪韓論』(新潮新書)、『崩韓論』(飛鳥新社)、『韓国リスク』(産経新聞出版)など多数。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 「親日=悪、反日=善」という素朴で伝統的な“国民的信仰”を刺激するため、「附倭(ブウェ=日本と利益を共有する者の意味)」「新・親日派」、さらには「利敵行為者」といったレッテルを振りまいている。左翼全体主義型の言論弾圧だ。
口火を切ったのは、左翼が社内を掌握しているMBCテレビの「あなたが信じていたフェイク」という番組(7月15日)で、朝鮮日報と中央日報の日本語サイトの見出しを取り上げ、日本の嫌韓派におもねるものだとの批判を展開した。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 次は大統領府民情首席秘書官のチョ国(チョ・グク)氏だった。MBCの放送画面をキャプチャーして、フェイスブックで「嫌韓日本人を誘引して、日本国内の嫌韓感情の高まりを煽るタイトル」と決めつけた。
民情首席秘書官とは、司法部門の統括者であり、政権内部の権力序列でいえば3位か4位だ。
このフェイスブックを引き取るように、大統領府報道官(元KBSアナウンサー) ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 対日に関しては“政権が考える国益”を少しでも損なうような記事を書いてはいけないと言っているようなものだ。
政権ベッタリの新聞であるハンギョレは7月20日の社説で「安倍政府は一部の韓国紙の日本語版が伝える歪曲(わいきょく)
された報道に惑わされず、韓国人の“真の民心”を重く受け止めなければならない」と、上から目線の説教を垂れた。虎(大統領府)の威を仮(か)る狐の姿だ。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 た俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 れた報道に惑わされず、韓国人の“真の民心”を重く受け止めなければならない」と、上から目線の説教を垂れた。虎(大統領府)の威を仮(か)る狐の姿だ。
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0112 1 ◆UiepmfCeDJqf 2019/08/04 09:06:09
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 が河野太郎外相に単独紙面インタビューをした内容を「そのまま伝えた」ことを非難して「附倭」だとする大学教授の発言を伝えた。
インタビュー内容を改竄(かいざん)すべきだったとでも言いたいのだろうか。
政権サイドの「主敵」は朝鮮日報だ。韓国のネットには「朝鮮日報を廃刊に追い込もう」などとする書き込みがあふれている。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 その朝鮮日報は、対日関連の本記(=中心となる記事)に、事実上の国営通信社である聯合ニュースの配信記事を使い始めた。
そして、同紙は21日、「質問をたくさんすると変人?」という見出し記事を掲載した。東京新聞の女性記者の肩を持つ内容で、サブ見出しは「独裁政権のような日本政府の言論観」。この記事は“韓国の独裁政権の言論観”に対する「従順の意」の表明なのだろうか。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 さすがに日本ではここまでの“被害”は生まれていないのではないかと思われるが、いつかどこかで起こり得ると想定はしておくべきなのかもしれない。中国の情勢に詳しい拓殖大学海外事情研究所教授の富坂聰氏がレポートする。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) 日本では、アルバイトのスタッフが不適切動画をSNSに投じて経営者が火消しに走り回る、いわゆる“バイトテロ”が花盛りである。こうした行為はモラルの低さの象徴であるが、お隣の中国でも同じような事件が世間を騒がせている。
5月末、中国東北部都市・長春発で流れたニュースは全国の人々を震えさせた。21日付で報じた『観察者ネット』のタイトルはこうだ。
〈女性客 息子のおしっこをレストランのお椀で処理 その後ウィチャットのグループでクイズ「中身は何でしょう?」〉 ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。 5月末、中国東北部都市・長春発で流れたニュースは全国の人々を震えさせた。21日付で報じた『観察者ネット』のタイトルはこうだ。
〈女性客 息子のおしっこをレストランのお椀で処理 その後ウィチャットのグループでクイズ「中身は何でしょう?」〉 ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 5月末、中国東北部都市・長春発で流れたニュースは全国の人々を震えさせた。21日付で報じた『観察者ネット』のタイトルはこうだ。
〈女性客 息子のおしっこをレストランのお椀で処理 その後ウィチャットのグループでクイズ「中身は何でしょう?」〉 て「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
返信 ID:(112/127)
0113 日本@名無史さん 2019/08/04 09:06:27
た俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台
ID:(113/127)
0114 1 ◆UiepmfCeDJqf 2019/08/ 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆なし 〈女性客 息子のおしっこをレストランのお椀で処理 その後ウィチャットのグループでクイズ「中身は何でしょう?」〉 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆なし
〈女性客 息子のおしっこをレストランのお椀で処理 その後ウィチャットのグループでクイズ「中身は何でしょう?」〉 畿内スレを荒らせば九州に邪馬台国がわいてくると思い込んでる異常者の集団 前スレ>967
>そもそも北九州と畿内でそれぞれ別の勢力が並立していたとすれば、
>邪馬台国畿内説の論拠にはならない
残念ながら、大陸渡来の特注品が畿内で出土してるから、畿内が大陸と交流を持っていたことが確定
3世紀時点では祭祀連合だから、北部九州と畿内にそれぞれの首長がいたし、それを別の勢力と
呼ぶことは可能だが、畿内が大陸と交流した諸国の中で最大勢力なのだから、倭王は畿内にあったと
考えるのがもっとも自然な推論となる
大陸渡来の特注品
黒塚古墳のU字型鉄製品(黃幢か?)
下池山古墳の羅張りの夾紵製容器 >>133
>小学生に嘘を教えようとする九州説
それは違う
連続句読点は頭脳の発達が小学生以下なので、小学生のフリをするのが精一杯なんだよ! 前スレ>974
>韓伝や魏志倭人伝から 実距離÷里=1里は80M前後でいんでねーの
それ、実は半島ー対馬間、対馬ー壱岐間がそれに近い数字になるだけで、壱岐ー末盧間はその半分
末盧ー伊都間、伊都ー奴国間は、50メートル、200メートルで、九州説の言う短里に近いところの方が少ない
しかも、一見合うように見える区間が渡海であり、測量していないことが確実なところというオチがつく
短里という特定の決まった長さなどないし、測量して記録された長さでもない
観念的に設定された現実の地理とは無関係な数字が書いてあるだけ
短里なんてない! 短里と言えば、並行して長里もあったということになるから揉める。
フルタの典型的な命名ミス。
そもそも倭人伝・韓伝に由来するのだから、短里でなく、「倭韓里」(一里≒80m前後)といえば、何の問題もなかった・・。 ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代皇帝・司馬炎は、祖父・司馬懿(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを誤魔化し、呉を滅ぼす先鞭を付けたことにしてあげたかった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て宿敵孫呉との戦いにおいて、最高の牽制となるその背後に倭国「女王之所都」があるためには、
ライバル孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡(蘇州)「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、九州島(倭国)が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(南越の北)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる【奴国A(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島をベースに、幻の邪馬台国島を、そして東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して、幻の【奴国A】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 短里と言ったのはフルタのチョンボ
倭・韓共通の「倭韓里」は、倭人伝・韓伝にあった・・。 畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向、左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=CJN8oxJIelc
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿→箸墓Ω前方後円墳墓担当の物部氏へ)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 >>140の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>143)
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↖木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作↓〜〜
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」〜〜
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶 不可得詳」〜〜
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 >>140
>>145
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」(リンク参照)同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管轄する「伽耶の鉄」の入手を容易にするため。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置(比定)であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国「A東渡海」千里「複有国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡B本州、〇四国説…A紀伊水道B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈?B北海道?)
−其南有狗奴國 不属女王(◎九州説…熊本もしくは薩摩、✖四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海↑と完全に矛盾)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南→東)」が重複し混乱が生じる上、鉄製武器も文字も駅伝制(早馬)もない3世紀畿内で、遠隔の北部九州を支配下に置くのは不可能。
また3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)は無理がある(後述)。消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸(35万石)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万石)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万石)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 九州説はもう
道里の一件で
滅亡したんじゃないの? >>146の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の説諭で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国系(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏>晋>「宋>斉>梁」南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
倭王阿毎多利思比孤「日出処天子」隋煬帝「日没処天子」に対等外交=(隋の悲願、高句麗遠征の鍵となる)新羅からの朝貢を機に「独立宣言」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…前方後円墳の大連物部守屋を滅ぼす。大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種・九州年号&多利思比孤を抹消すべく、崇神朝・応神朝・継体朝の歴代倭王権(九州王朝)内の交代が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) 反論できずに笑って誤魔化す
それが九州説クォリティ >>148の続き
台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」から倭王権を奪還した邪馬台国王・応神(胎中天皇)は、仲哀の子供ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と読者を混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(自分の子)D仁徳(自分の孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
磐井の乱で、その筑紫応神朝(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を乗っ取った阿蘇狗奴国王・継体は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図っている(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教による国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、強硬な廃仏派である大連・物部氏長者の守屋を滅ぼし、その妹推古が摂政厩戸と大臣・蘇我馬子と共に仏教を国教化するも、
官寺建設で国家予算を恣にした蘇我氏が大和分家を乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智と中臣氏が飛鳥に下向。板葺宮で三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝&「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、奥津城大和に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 >>152の続き、
ダイワとしか読めない大倭(後に大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐帝国に、新益藤原京694を建設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったから、なのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号+「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったたからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!(日本初の中国式都城=新益藤原京から「大和」と改称)
魏晋南北朝〜唐までは、倭国は九州島のみと認識されていた。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった。(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭国と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との連携外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として実行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
大王宮が1つも出土しない古墳時代の畿内は、一貫して九州にいた倭王の霊廟奥津城に過ぎなかったのである! >>153
ダイワとしか読めない大倭(後に大和)を「ヤマト」と読ませるのは
中国の歴史書で「大倭」を採用してるからだよ >>153の続き
まとめると、統率のとれた大艦隊を擁し、その気になれば日本を殲滅できる唐(リンク参照)との外交への忖度で生まれた古事記・日本書紀が消そうとしたのは、
https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
A.史上初めて九州島を出、近江大津京に東遷した天智以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)が九州にあったこと→畿内にあったことにした(歴史テーマパーク「大倭」)。
B.筑紫応神朝を乗っ取った阿蘇継体朝がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(時の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智の倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長以前は全て抹消!
A新羅からの朝貢で調子に乗って、煬帝相手に「日出処天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤
→大和分家・欽明朝、推古摂政厩戸皇子に仮託!
B白村江海戦惨敗663年で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族の全員処刑)に恐怖した九州本家・天智@倭京(太宰府)の、(同盟国となっていた)高句麗に脱出できる近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草w)
→天武の母・皇極(斉明)の皇太子として大和分家に接続!(斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)
-継体朝による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 >>156
だからそれは中国がヤマトという音を無視して
ヤマトに大倭という文字を当て字した証拠だろ >>156
もし中国の当て字じゃない場合を考えてみて
・中国はヤマタイコクを大倭と表現した
・日本はヤマトの漢字に大倭を採用した
この2つが偶然の一致ってことになる
ありえないだろ NHKの朝ドラ、なつぞらで強調していた言葉
牛若丸、白蛇姫、奥原なつ >>157
>大倭王は邪馬台国にいる。
中国語では別物
日本人が意味と発音をすり替えた
まあ、半分は洒落っ気なのだろうけど >>137
ルートを自己流に解釈してるからそうなるよ >>164
そうだね。
下のようにルート比定すれば、短里(韓倭の里)と一致する
壱岐ー松浦中原津(末盧国)は55q(700里)でまあまあ
松浦中原津ー佐賀川上(伊都国)は東南38q(500里)でドンピシャ、
佐賀川上ー佐賀市街(奴国)は東南至7.5q(100里)でドンピシャ
佐賀川上ー吉野ヶ里(不彌国)は東11q(145里)で、四捨五入すれば100余里 弥生墳丘墓が巨大化した地域ってどこ?
丹波(丹後)と近江と出雲と吉備?
ヤマトはしてないように見えるけどな。
まあ、女王を共立した訳だから、巨大化した地域の豪族たちが共立したんだろうけど。 文献は同時代の複数の資料を読み合わせてその内容を探っていくもの
裏の取れない本一冊の珍解釈で「真実を見抜いた!」とか言い出す時点で学問でも何でもない
まぁだから素人が「我こそが真相を解き明かした!」とか意味不明な妄想を引っ提げて群がってくるんだろうな
ここに居座ってるバカ九州説とかな
本だけじゃ話にならないから考古学と併用していく事になるわけだ >>169
それが出来てないの奥山ww
知ったかぶりのベイズ確率・九章算術の珍解釈で裏を取ってるつもり (笑笑笑) 2世紀後半から奈良の纏向に祭祀施設として大型建物群が建設され、それと並行して当時列島最大の前方後円型墳墓が連続して築造されたことから、2世紀末〜3世紀前半にかけて列島最大規模の連合政権が奈良に出現していたことは歴史事実とされる。
一方、この3世紀前半の倭地について書かれた魏志倭人伝では、邪馬台国から東へ舟で千余里行ったところに倭種の国があると特別な記述がみえる。
この倭種の国が奈良の纏向連合政権とぴったり重なることから、卑弥呼の邪馬台国ではこの奈良に出現した連合政権を特別に注視していたことが分かる。
倭人伝のこの一行程度の記述から、大和邪馬台国説は倭人伝のこの記述とまったく一致しないことが判明する。
大和邪馬台国説は、あり得ない古い説に転落したということになる。
大和邪馬台国説は、お終いになった。 488>>793
>なぜ不明だとか思っちゃうの?
均輸法は行道日数を使うのが決まりなのに<
九章算術が、
「行道日数」を「道里」だ、
とした事が、悪い。 488>>804
>つまり九州説とは
史料批判を許さない非学問的素人考え
ってことだな <
つまり「南→東」などの史料事実や史料実態を否定曲解する嘘つき騙しの大和説とは、
史料批判さえも許さない非学問的な狂気の宗教思想だ、
ってことだな 488>>805
いや、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説という人種は
自分の欲しいものがあれば絶対盲信を他人に強要
都合悪いものがあれば
キョクウ宗教権力者の捏造歪曲を根拠にして否定し
あるいはヘイトスピーチ的罵詈讒謗で否定 という手法で、
欲しくなったらどんな情報でも作り出す
ウルトラチェリーピッカーだよ >>142
>黒塚古墳の築造年?
築造年自体が台与の遣使より遅くとも、その後古墳時代中期の倭の五王の時代まで
大陸との交流はいったん途切れるので、古墳時代前期の大陸遺物、特に特注品は
魏あるいは西晋との交流で得たものと考えざるを得ない 488>>809
んで、無理やりにでも
不彌國の南の水行二十日の位置にある投馬国が、
女王国の「以北」である、
ということにしてやらないと、
大和説は壊滅するんだよね
たいへんだね >>154
>ダイワとしか読めない大倭(後に大和)を「ヤマト」と読ませるのは
>中国の歴史書で「大倭」を採用してるからだよ
もともとヤマトという地名があって、それに大倭の文字を当てたということだ >>157
しれっとまたインチキに戻してやがる
最低だな
>大倭王は邪馬台国にいる。
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
>倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
>倭奴国は倭国の極南界である。
「その国(邪馬台国)」
これがインチキでたらめ
ここの「その国」は「倭国」でなければならない!
「其」大倭王居邪馬臺國
樂浪郡徼 去「其國」萬二千里
去「其西北界」拘邪韓國七千餘里
「其地」大較在會稽・東冶之東
この4連続の「其」はすべて「倭の」でなければ意味が通らない
こういうインチキをやらないと論立てができないのが九州説
恥を知れ! >>158
>だからそれは中国がヤマトという音を無視して
>ヤマトに大倭という文字を当て字した証拠だろ
もともとは、日本列島の住人を、論衡に出てくる百越の流れの倭と、
「大陸東方海上にいるというだけで同一だと誤認」して、列島の民族も倭人と
呼んでしまったのが発端なんだよ 488>>818
>>魏や郡の役人らが記録し、陳寿が書き留めた、 という事以外の可能性や確率が、
殆どない。 <
>その可能性や確率とやらが 単なる思い込み決め付けでない という可能性が殆どない
根拠提示ないからな <
陳寿は、卑弥呼の女王之所都まできていないから、
魏や郡の役人たちの報告を見ないでは、
行程や方向などを記載する事が出来ない。 >>165
>松浦中原津ー佐賀川上(伊都国)は東南38q(500里)でドンピシャ、
そこに伊都国はないと何度言えばw >>171
>邪馬台国から東へ舟で千余里行ったところに倭種の国があると特別な記述がみえる。
これが単なる誤読
単に、日本列島周辺の島嶼にも倭人が住んでいると書いてあるだけ
特別でもなんでもない
>この倭種の国が奈良の纏向連合政権とぴったり重なることから
これも悪意の誤読
九州からどう読んでも、東渡海千里で近畿に至ることは不可能
そもそも、九州から本州へは渡海ではなく水行になる
これが、九州から本州への水行のときの景色だよ
https://i.imgur.com/LEf95qW.jpg 488>>823
>渡海と水行は別だと何度教えればいいんだ?
こういうインチキをいくら重ねても、意味のある論説にはならない <
「渡海と水行の中に含まれる」と、何度教えてあげればいいんだ?
こういうインチキをいくら重ねても、意味のある論説にはならない >>170
>それが出来てないの奥山ww
知ったかぶりのベイズ確率・九章算術の珍解釈で裏を取ってるつもり (笑笑笑)<
畿内説とは関係ない。奥山の自業自得。 488>>825
>>出発時点や途中からでは、 伊都国が見えていないから、方位計測が出来ない。<
>出発地点から可也山が見えるだろ 可也山まで方位と距離の計測が出来る<
可也山の計測が出来ても、可也山へは行っていないんだから、
可也山→伊都国の距離方向計測出来なないし、
末盧國など→伊都国の方向は、解らず、記録出来ない。 488>>827
>>>北は大海が限界
>>正北は新羅と抵触
>>この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。<
>この記述は、倭国全体の地勢であって、都である邪馬台国の位置情報じゃないぞ?
近畿が倭国の中なんだから、何も問題ない 阿蘇山が倭国の中なのと同じこと<
いや、大和は倭国の別種の旧小国の附庸國であり、
「正北抵新羅」となるのは、倭国の中心だ。 488>>830
>不明瞭あいまいな書き方をしてるのは おまえ一人なんだが
だからおまえは その都度、都合の良い解釈に変更しようという魂胆だと
疑いの目で見られてるよ <
不明瞭あいまいな書き方をしてるのは九章算術なんだが
だから九章算術は
その都度、都合の良い解釈に変更しようという魂胆だと
疑いの目で見られてるよ
まるで「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者と、そっくりだ。 スレの人に聞きたい
邪馬台国が大和にあるのであれば、その勢力は北部九州まで支配をしていたことになる
ではなぜ纏向遺跡に九州の土器が出てこないのか
なぜ九州を支配していながら鉄器の出土が殆どないのか
納得できる説を聞かせてもらいたい >>142
>黒塚古墳の築造年?
天理市教育委員会の公式発表では、4世紀初頭から前半 488>>831
>>古墳から出る鉄鏃に価値はない<
>でもその「価値はない」という理由は「僕がそう考えた」から、だよね?ww
卑弥呼の時代と、ホケノ山古墳、椿井大塚山古墳の時代は重なるよw<
ホケノ山古墳は、卑弥呼の「冢」ではなく、有棺有槨で、庄内3〜布留であるから、
3世紀末〜4世紀であり、
椿井大塚山古墳も「冢」ではなく「竪穴式石室」であるから、4世紀であり、
重ならない。 >>188
畿内近隣で土岐は賄えるから
畿内は戦場の地では無いから 488>>835
>「文帝期の出土物とされる阜陽漢簡の断片の諸簡中、算術と関連があると考えられ
たものは、整理後『算術書』と仮名が与えられた。この中の一片に「□萬一千二百
戸行二旬各到輸所」(28号簡)と書されたものがあり、これが本題の「丁縣一萬
二千二百戸、行衟二十日、各到輸所」の文にほぼ対応する。」
『九章算術』訳注†稿(17) 大川俊隆 <
「□萬一千二百戸行二旬各到輸所」と、
「丁縣一萬二千二百戸、行衟二十日、各到輸所」とは、
「戸数が一致していない」から、
大川俊隆の解釈失敗の例だな。
263年の「九章算術の注」を書いた人物のミスであった可能性もある。 488>>843
>九州のウソが暴かれたので罵って誤魔化す貴方 それ、醜態だから <
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、
大和説者のウソが暴かれたので、誤魔化す貴方
それ、醜態だから >>845
明らかに、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をやっている大和説者が、
嘘ついてて異常なんですけど >>188
大和の地では鉄は分解されて消滅するからw 488>>846
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しだけじゃなくて、
良心も知能も人類の常識もないだけだろう?、
大和説者。 >>178
>樂浪郡徼 去「其國」萬二千里
>去「其西北界」拘邪韓國七千餘里
楽浪郡はその国の国境から七千里なのだから、「その国から一万二千里」はその国の首都を意味すると解釈しないと論理的に矛盾するんだよ。 >>182
>単に、日本列島周辺の島嶼にも倭人が住んでいると書いてあるだけ
そんなことをいちいち書くわけがない。
そこにそれなりの勢力がいたから記録した。 >>847
今どき大和説をやるには、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の騙しのように、
「議論に勝つためにはウソをいってもいい」
「勝ったものが正しいのだから、ウソをついても勝てば正しいことになる」
という、
どこぞの文部省や学会教育界や、右翼マスコミや、
殺人戦争狂キョクウの価値観を身に着けてないと
やってられないんだよ
だから、大和説者はうそをつく
でも、それが大和説にとっては正常なのだ、と思っているらしいんだよ >>182
>そもそも、九州から本州へは渡海ではなく水行になる
これは検討に値する。
投馬国が宮崎県なら、九州を反時計回りに回るので、そこから本州に渡ったのかもしれない。 488>>850
ほら、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者は、
理由を言わない
いかなる時も理由を言わない 488>>851
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者は、
なぜか、俺の説(大和説)が正しいから九州説は間違いだって論理を使う
これでは九州説に勝つのは原理的に無理なのだ
九州説側は、大和説が客観的史料事実と違うとか、自己矛盾するとか、
という視点から反論する
だから、大和説の人がよく「対案を出せ」とか言う事の、
意味がわからない 女王国は、ほぼ、建日向日豊久士比泥別であり、
東の倭種は、四国の可能性があるな。。。 488>>853
>韓伝では辰韓、弁辰が合わせて24国並べて書かれているので、
弁辰諸国を区別するために弁辰狗邪国などという書き方になっているんだよ
狗邪韓国も同様 あくまで国名は「狗邪」国
それを倭人伝内に書く時に、これが韓の国であることを示すために
狗邪韓国という表記になってる<
それなら、狗邪韓國も「韓狗邪國」となっていなければならない筈。
しかし、実際には「狗邪韓」國となっているんだから、
この男の論は、×。 >>181
>>松浦中原津ー佐賀川上(伊都国)は東南38q(500里)でドンピシャ、
>そこに伊都国はないと何度言えばw
どことなく@あわっぽいな。
ま、他人のことまで心配するな、どうせ四国に伊都国はない、、。 >>205
銅鐸王国には、奥山氏という武将がいた可能性もあるのではないのかな、、、 >>165
架空の里を創作して、一里を好きな長さにして、出発地を好きなように決めて、
地図上にモノサシで線を引いて行けば、何をどこにだって、
好きな場所に比定出来ちゃうじゃないか。
それをドンピシャとか言って喜ぶなど、滑稽極まるね。
最初から全部、自分の好きなように創作してるんだから。 一里の長さを、淮南子を読んだ者が実際に測った可能性があるな。。。 >>188
>邪馬台国が大和にあるのであれば、その勢力は北部九州まで支配をしていたことになる
また「藁人形論法」だ。
畿内説は、三世紀の倭国にそんな強大な統一国家があったんなんて、
全く主張していない。
倭国乱の後に卑弥呼が「共立」され、ヒメ王が司る祭祀の統一がなされたのだと、
縷々主張している。 >>188
>邪馬台国が大和にあるのであれば、その勢力は北部九州まで支配をしていたことになる
支配はしていない
卑弥呼は共立で、ヒメヒコのヒメ王の領分=祭祀を共通化した祭祀連合
>ではなぜ纏向遺跡に九州の土器が出てこないのか
出てるよ 胎土分析で九州の土で九州で作った土器が確認されてる
>なぜ九州を支配していながら鉄器の出土が殆どないのか
鉄器も出てるよ
ただ九州説が、古墳時代の始まりの編年を認めないにだーって言ってるだけ
ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本 素環頭大刀 1口 鉄製刀剣類 10口
椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品が出ている
黒塚古墳 畿内 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品
纏向遺跡の範囲内でも出てる
「ほとんどは纒向遺跡の最盛期である3世紀代のものです。それらの遺物の中には、近辺で鉄器生産がおこなわれていたことを
示す鞴(炉に空気を送り込む道具)の羽口や鉄滓、鉄片など特筆すべきものがありました。」
「調査地は纒向石塚古墳の北東200m、居館域の発掘調査地点からは北西に約400mの地点」 >>210
僕達が購入した淮南子の翻訳本には、一寸千里の法と同じ考え方の部分があったね。。 >>197
>楽浪郡はその国の国境から七千里なのだから、「その国から一万二千里」はその国の首都を意味すると解釈しないと論理的に矛盾するんだよ。
しないよ
単に魏志倭人伝の「自郡至女王國、萬二千餘里」を引き写しただけの二次史料
そして、魏志倭人伝の女王國は、卑弥呼が王である範囲≒倭国だから
ここでのその国も当然に倭国となる 488>>866
>行道日数を道里として記載しているよ<
だから、九章算術の筆者は、
漢字や言葉の基本的な意味がよく分かっておらず、
「道里」を「行道日数」にしたように、
「里=日数」としてしまった、アホであった訳だよ。 >>203
この人は自分が受けた批判を丸写しして
主語や固有名詞などだけ書き換えて
捏造歪曲したとうこをする常習者だ
つまりいつも意図的に嘘をつく
異常だ >>188
>なぜ九州を支配していながら鉄器の出土が殆どないのか
「鉄が豊富に出ないと邪馬台国ではない」と言う主張もおかしい。
魏志倭人伝中に「鉄」の文字が見えるのは、
「兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鉄鏃或骨鏃」
という記述であり、
(兵士は木弓と盾を用い、その木弓は下が短く上が長く、竹の矢の鏃には、鉄あるいは骨を用いる)
と言う、これだけだ。
倭国のどこかの国では鉄の鏃を用い、別の国では骨の鏃を用いる。
ただそれだけのことであり、邪馬台国の比定地から鉄が豊富に出なければならないとは、
そもそもの最初から全く読めない。 488>>872
>逆に、多少近くても遠くても、
1日で渡る距離を実距離と関わりなく千余里としている<
「余」があれば、
何らかの「実測」数値からの近似がなされた、
という事を示している。 >>198
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、こんにちは
チェリーピッキングのご精が出ますねww
魏略(漢書所引)では同じ表現が、冒頭にあって
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
と続いている
これで読むと、「帯方郡から東南大海中に進み、そこの山島に倭国があり、
島の間の海峡を千里渡ってもそこも変わらずみんな倭種が住んでいる」という
当たり前の文章になる
この、「依山島爲國」と「度海千里復有國」の間に、別史料からの倭国の説明を
長々と魏志倭人伝では挿入されているから、九州説のチェリーピッキングのもとに
なっているだけ
隠岐の島や佐渡のような渡海千里で行く島もみんな倭種と読めば言いだけ
北部九州から本州はどうやっても渡海千里にならないぞww
https://i.imgur.com/LEf95qW.jpg
https://i.imgur.com/2LF3mHt.jpg >>215
>だから、九章算術の筆者は、
>漢字や言葉の基本的な意味がよく分かっておらず、
>「道里」を「行道日数」にしたように、
古代中国人が書き、ほかの古代中国人が普通に読んでる
そんな文章に
上記のようなクレームをつける
ど素人の現代日本人
それは確実に異常な人である >>201
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、こんにちは
>投馬国が宮崎県なら、
それは既に否定されつくしている
投馬国は戸数道里略載の女王國より以北の国だよ 邪馬台国問題について調べたり、考えたりし始めて、
(考えてみれば、デカい古墳のないところには、邪馬台国は存在しないよな?)
って、最初の1日とか、遅くとも1週間で気づくだろ、普通は。
で、(三世紀のデカい古墳はどこにあるんだ?)と、本やネットで調べてみれば、
ものの30分もかからずに、(あ…。奈良盆地にしかないんだ)と分かる。
ここで完結だよ、普通は。 488>>876
>おなじみの九章算術均輸にも
重車日行五十里、 空車日行七十里とあるね
まあ、この辺が大陸中華の人にとって常識なんだろう<
九章算術は、始皇帝の「1歩=6尺」の命令を妄信し、
周髀算経や淮南子や魏朝などの「一寸千里」の度量衡や計測が存在した事も隠蔽した、
少し脳が狂ったアホの算術書であった、という事だろうね。 488>>878
「南≠東」などの指摘に反論出来ない、
ということは、大和説今日もピンチか 投馬国が女王よりも南ではあり得ないことが理解できれば
九州説はおのづと消滅ですな 488>>879
いいえ、「里≠日数」が標準的な書法だ、と言及しているのですよ
これが分からない時点で、「類スレ主はバカです」と自分で主張しているだけ
いい加減無理筋の話題そらし、論点ずらしは止めたら?
まともな日本人や、東大理系大学院博士号なら、そんな惨めなことはしないよ?。 大人口を養えない草深い山の中だとか、
平地ではあっても、大きな遺跡も古墳もない場所だとか、
そんなところに邪馬台国が存在する訳がない。
邪馬台国のある場所は、大きな古墳が、ずっと昔からモニュメントとして
誰の目にも見えていた平野。 奥山氏が、完全に論破され、吊るし上げられた話題に、再挑戦しているのでは、ないのかな、、、
223 名前:日本@名無史さん 2019/08/04(日) 16:58:03.26
>>201
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、こんにちは
>投馬国が宮崎県なら、
それは既に否定されつくしている
投馬国は戸数道里略載の女王國より以北の国だよ 488>>882
東大理系大学院博士号の類スレ主は、
また「南→東」などの嘘付き騙しや、
「里≠日数」という基本的な史料実態を否定して、
まだ話題そらし、論点ずらしをするんだね
「道里≠行道日数」である、
これが史料事実であり、人類の常識であり、九章算術のミスであった、
という事だよ。 >>228
>いいえ、「里≠日数」が標準的な書法だ、と言及しているのですよ
そりゃアタリマエ
しかし実際に指摘されて九州説が窮地なのは
「道里は日数で表わすこともある」
だから
九州説は九州説は窮地から逃れるられない >>230
奥山氏は、邪馬台国も、自女王国以北に含め、
一大率が、邪馬台国にも置かれたという意見に変換したのだろうか、、、
223 名前:日本@名無史さん 2019/08/04(日) 16:58:03.26
>>201
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、こんにちは
>投馬国が宮崎県なら、
それは既に否定されつくしている
投馬国は戸数道里略載の女王國より以北の国だよ >>231
>「道里≠行道日数」である、
>これが史料事実であり、人類の常識であり、九章算術のミスであった、
>という事だよ。
史料を書いた人のミスだというなら
あなたの主張のほうが
史料事実に反してる
んだがね 何度でも、吊るし上がっている奥山氏の意見を貼り付けて、笑いリラックスすれば、良いな。。
766日本@名無史さん2019/08/03(土) 14:46:52.04
>>761
そうだね、、、
奥山氏は、頭が悪すぎるので、矛盾してしまったな。
奥山氏は、投馬国への日数が、道里だから、女王国以北だと考えたが、
邪馬台国が、女王国以北でないなら、7万戸数の邪馬台国は、其戶數道里可得略載には、あてはまらないので、日数が道里の略載でないことになるね。。
753日本@名無史さん2019/08/03(土) 14:26:08.93
>>730
>畿内説だと大卒が検察した「女王国から北」がどこだかわからなくなるしね。
どうして?
対馬国から投馬国までの国だよ?
投馬国まで女王国より以北の国なんだから、当然だろ? 何度でも、吊るし上がっている奥山氏の意見を貼り付けて、笑いリラックスすれば、良いな。。
766日本@名無史さん2019/08/03(土) 14:46:52.04
>>761
そうだね、、、
奥山氏は、頭が悪すぎるので、矛盾してしまったな。
奥山氏は、投馬国への日数が、道里だから、女王国以北だと考えたが、
邪馬台国が、女王国以北でないなら、7万戸数の邪馬台国は、其戶數道里可得略載には、あてはまらないので、日数が道里の略載でないことになるね。。
753日本@名無史さん2019/08/03(土) 14:26:08.93
>>730
>畿内説だと大卒が検察した「女王国から北」がどこだかわからなくなるしね。
どうして?
対馬国から投馬国までの国だよ?
投馬国まで女王国より以北の国なんだから、当然だろ? 何度でも、吊るし上がっている奥山氏の意見を貼り付けて、笑いリラックスすれば、良いな。。
766日本@名無史さん2019/08/03(土) 14:46:52.04
>>761
そうだね、、、
奥山氏は、頭が悪すぎるので、矛盾してしまったな。
奥山氏は、投馬国への日数が、道里だから、女王国以北だと考えたが、
邪馬台国が、女王国以北でないなら、7万戸数の邪馬台国は、其戶數道里可得略載には、あてはまらないので、日数が道里の略載でないことになるね。。
753日本@名無史さん2019/08/03(土) 14:26:08.93
>>730
>畿内説だと大卒が検察した「女王国から北」がどこだかわからなくなるしね。
どうして?
対馬国から投馬国までの国だよ?
投馬国まで女王国より以北の国なんだから、当然だろ? 488>>886
>魏志倭人伝の道里略載も同じこと
道里が里数または日数で書いてあるから、それでいいんだよ<
陳寿の「道里略載」でも同じ事。
「道里」は、原則として、
女王之所都までの行程途上や、侏儒國の「魏使らの移動計測」の、
それぞれの計測里数として書かれて完結しており、
「日数」は、
「郡から女王之所都」や「投馬國」や「裸國や黒歯國」への所要日数の付加的説明だ、
として書かれているだけだよ。 >>237
あんたが一人で中傷やイヤガラセを何百本投稿しても
それは吊るし上げではない
九州説を卑しめてるだけ 488>>888
>残念でしたww 逆算じゃないよ
水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ<
「南≠東」などに拠って、始めから×。 >>240
九州説いろいろあれど
どれも素人の独特の珍読で出来ている
根拠は「オレ様の考え」だから 滅亡しかけの九州説は、笑い、リラックスしてる場合じゃないな。。 488>>88
>それが道里って書いてあるんだから 「道里は日数で表現できる」というのが事実ww <
九章算術の筆者が、
「道里=日数」という確率の殆どない嘘つき騙しを書いた、
という事が、史料事実であり、史料実態。 448>>892
>>車などの乗り物ならいざ知らず <
>舩は乗り物にしていいの?<
「車」は、原則「車駕」であり、「 舩」ではない。 >>244
リラックスしないと
九州説終了の焦燥感で
発狂するんだよ
しかたがない 488>>897
>>時代が重なってればなおさら価値はない<
>なぜ?
魏志倭人伝は卑弥呼の時代の倭国の様子が書いてあって、鉄鏃があると書かれている
そして、卑弥呼の時代と重なる=まさに卑弥呼の時代のホケノ山古墳、椿井大塚山古墳で
大量に鉄鏃が出る<
ホケノも、庄内3〜布留の有棺有槨の前方後円墳であるから、3世紀末〜4世紀であり、
椿井大塚山も、竪穴式石室墓であるから、ホケノや箸墓よりも後の4世紀であり、
「卑弥呼の時代に重ならない」から、
この大和説男も、×人間。 >>246
>「車」は、原則「車駕」であり、「 舩」ではない。
「車」って言ったら普通は牛に引かす荷車だろ
「車駕」とはぜんぜん別のものだ >>211
>倭国乱の後に卑弥呼が「共立」され、ヒメ王が司る祭祀の統一がなされたのだと、
そんな広域でどうやって情報交換するのか。
また、そのようなことが仮にあったとして、魏志倭人伝の邪馬台国と関係したという根拠がどこにあるのか >>212
>ただ九州説が、古墳時代の始まりの編年を認めないにだーって言ってるだけ
なぜ古墳時代と無理やり絡めるのか。
セットで無理筋を通そうとする天動説を聞かされているかのよう。 >>248
>ホケノも、庄内3〜布留の有棺有槨の前方後円墳であるから、3世紀末〜4世紀であり、
九州説は考古学を完全無視して
根拠のないオレ様年代を
ひてすら結論だけ言い張るから
世間から相手にされなくなった >>214
>ここでのその国も当然に倭国となる
その国が本来は倭国を意味することはその通りだが、それは倭国の国境ではない。
倭国の国境は七千里と書かれているので、この「その国」は、倭国の王都を実質的に意味する。
神奈川県と東京都の距離を聞かれて、神奈川県庁から多摩川の河川敷までの距離と都庁までの距離の二つがそれぞれ明示されている状態。 488>>906
>古墳が作られた時期が卑弥呼の時代だぞ?
卑弥呼の時代に畿内に鉄鏃が潤沢にあったってことだよww<
卑弥呼の墓は「冢」であり、前方後円墳ではないし、
大和のホケノは3世紀末〜4世紀であるから、卑弥呼の時代ではなく、
椿井大塚山は、竪穴式石室であるからホケノよりも後であって卑弥呼の時代ではなく、
それらの前方後円墳の「鉄鏃」は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らの墓だから。 >>251
無理だと言い張るけど、理由は?
なんで九州説はいつも理由を言わないの? >>217
>この人は自分が受けた批判を丸写しして
>主語や固有名詞などだけ書き換えて
畿内説が、自分たちがやっている詐欺まがいの行為を理解しているかのごとく、それを九州説に無理やり当てはめている。
九州説を畿内説と書き換えると面白いように事実に合致する。 >>205
銅鐸王国には、奥山氏という武将がいた可能性もあるのではないのかな、、、 >>219
>倭国のどこかの国では鉄の鏃を用い、別の国では骨の鏃を用いる。
>ただそれだけのことであり、邪馬台国の比定地から鉄が豊富に出なければならないとは、
倭国の辺境の土地の様子ではなく、長期滞在した王都の風物を記録したと考えるのが妥当。 488>>908
本当に、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
謝ったら負けの腐れ儒教で生きてるから
傍から見て惨めな生き物にしか見えない 銅鐸王国に、奥山氏という頭の悪すぎる武将がいた可能性を、否定出来る者がいないのだったな。 >>223
>それは既に否定されつくしている
あなたの頭の中でだけ。 当時の日本列島の大部分は殷文化の影響が強かったんだろう
獣の肩甲骨を使った卜占、動物や人の生贄、殉葬、酒を使ったトランス状態で神託をきく、太陽神の末裔、
邪馬台国の記述や纒向遺跡の祭祀遺構に合致する
殷では女性は巫女として政治に参加し、戦争の最前線で活躍するなどその地位は非常に高く、飲酒は神事であった
桃の種は大量の酒を作った跡だろう
卑弥呼のいた邪馬台国、ヤマトは戦争の最前線
纒向遺跡は、対狗奴国の前線基地
河内、和泉の狗奴国と争っていたんだろう >>256
ほらな
このように九州説は
具体的事実をまったく出さない
詐欺な証拠だよ >>224
>ものの30分もかからずに、(あ…。奈良盆地にしかないんだ)と分かる。
そこまで魏の使いがたどり着いていたという根拠がないのです。
里程は九州北部までで終わっています。
帯方郡(朝鮮半島北部)から邪馬台国まで一万二千里、そのうち九州上陸までで一万里です。
そして弥生時代の王墓は九州北部に集中しています。
邪馬台国が古墳時代だという根拠はありません(古墳の絶対年代は比定が難しいので)。 銅鐸王国な奥山氏という武将が、倭国の軍隊に討ち取られたときには、まず、どのような武器が使用されたのだろうか、、、 銅鐸王国の奥山氏という武将が、倭国の軍隊に討ち取られたときには、まず、どのような武器が使用されたのだろうか、、、 >>261
このように具体性のない言い返しだけで
きちんと反論ができない九州説が
邪馬台国論争に負けるのは
当然だな 銅鐸王国の奥山氏という武将は、どのような武器で、反撃したのだろうか、、、 >>229
>邪馬台国のある場所は、大きな古墳が、ずっと昔からモニュメントとして
その古墳は卑弥呼より後の時代のものではありませんか?
仮に卑弥呼の時代と被っていたとしても、魏の使いがそこまでたどり着いていなかったら、意味はありません。 488>>915
>・・・てな感じで、鉄器の量は九州優位なんてのは軽く吹っ飛ぶ訳だw<
ホケノも椿井も黒塚なども、3世紀末以後の墓であり、
卑弥呼や壹與の後の「東征毛人五十五國」の将軍ら墓であった事にしかならない。 >>232
>「道里は日数で表わすこともある」
でも魏志倭人伝では使い分けられています。 >>235
>投馬国まで女王国より以北の国なんだから、当然だろ?
畿内説では投馬国は出雲のはずだが、出雲は女王国に含まれないのか?
女王国は九州北部ということでよろしいのか? >>264
>里程は九州北部までで終わっています。
という根拠がないのです。 畿内説が都合の良いオレ様年代を振り回しているように見えますね。 >>262
>纒向遺跡は、対狗奴国の前線基地
卑弥呼はどこにいたのですか? >>273
本文2行目と3行目に論理的なつながりが無い
書いた人の知性が極度に低いことを示している >>262
>河内、和泉の狗奴国と争っていたんだろう
そこは畿内なので、あなたは畿内説に反対という立場でよろしいか? 488>>917
>事実 「道里は日数で示すことができる」<
事実、魏志は「道里」と「日数」説明とを書き分けており、
また、九章算術の「道里=行道日数」という解釈がおかしかったのであり、
「日数=道里」である、という事の確率が低く、
そんな確率の低い事を根拠にする事が、×。 >>278
多くの矛盾を含むことを畿内説が主張しているので、個別に指摘していくとそうなります。 >>272
物理や化学の力で、研究されている邪馬台国九州学に対して、フッサールのいうエポケーの態度を忘れた田舎学芸会の頭が悪すぎる者が、石斧で奮戦しているのと似ているな、、、 >>275
見える、という理由は?
九州説はいつも理由が言えない
だから知的レベルが低いと思われるのも
仕方ないことだ 畿内説の主張はその場限りの言いつくろいが多いから、矛盾だらけ。 畿内説もまともに説明できていませんよ。
(理由を説明した気でいるのは本人だけ) >>277
きちんと理由の説明ができない九州説は
知的レベルが低いと思われても
仕方ないな 邪馬台国と狗奴国とは、緑川で合戦していた可能性が高いな。。。 488>>921
>事実 「道里は日数で示すことができる」
事実には勝てないよww<
事実は、「道里は日数で示すことができるが、「日数は道里ではない」。
事実には勝てないよ。 488>>923
妄想癖のありそうな人だというのが分かった
このスレには新参なんだろ? この言葉を送るよ
根拠は、
僕の大和説の先生が「南→東だ」と言ったから、そう思った
「南→東」などの嘘付き騙しの学者編年であっても、その「編年」説は信じる
「南≠東」などノートパソコン文献解釈はアクロバット
考古遺物は、弥生全期間で見ないし、
古墳時代のものであっても、弥生終末期限定のものしとして見る >>209
なに焦ってるの
あんたのルート示せば良いじゃん >>251
>なぜ古墳時代と無理やり絡めるのか。
>セットで無理筋を通そうとする天動説を聞かされているかのよう。
逆だよ
九州説の人の方が、邪馬台国の時代に古墳時代が始まっていたことを
無理やり否定したがっているだけ
纏向遺跡が特別な遺跡なのは九州説でも異論がない
そして、そこで纏向石塚古墳を皮切りに列島最大の墳丘墓が作られ続けている
つまり、纏向遺跡が古墳時代の始まりの遺跡であり、纏向遺跡の建設開始をもって
古墳時代の始まりとする見解が通説になりつつある
纏向遺跡の建設開始は、土器編年で畿内第V様式末から庄内0式期であるのは問題ない
そして、土器編年に絶対年代を与えるものとして、大型祭祀土坑から出土した
桃核の14C年代を測定することで、3世紀前半には纏向遺跡が大型土坑祭祀を行う状態で
存在することが確定している
https://i.imgur.com/qOswdpR.jpg
ここまで来れば、邪馬台国の時代が古墳時代であること
古墳時代の中心が畿内大和にあったことが確定するんだよ 488>>926
まあ「南≠東」であり、「水行二十日≠道里」だと
大和説が滅亡するんだから
大和説学者や文部省や学会教育界や右翼マスコミは、
発狂もするさ >>277
>里程は九州北部までで終わっています。
が正しいなら九州説一択なんだからな
それを理由にするなら
「九州説が正しいから九州説が正しい」
と言ってるようなもの
それが北部九州で終わっているという理由を聞かれたら
答えが
>魏志倭人伝をお読みください。
だからな
バカですと自己紹介されたようなもんだな 根拠は僕がそう思ったから
編年研究は信じない
文献解釈はアクロバット
考古遺物は弥生全期間で見るが弥生終末期限定のものは見ないww 488>>931
大和の3世紀末以後の前方後円墳出土の鉄器を見ようとしないで、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の方が
現実逃避してるのでは? >>209 >>291
>165
>架空の里を創作して、一里を好きな長さにして、出発地を好きなように決めて、
>地図上にモノサシで線を引いて行けば、何をどこにだって、
>好きな場所に比定出来ちゃうじゃないか。
俺、165本人だ、
架空の里を創作して、一里を好きな長さにして、出発地を好きなように決めて、好きなように地図上にモノサシで線を引いて、
それでドンピシャの比定ルートができるのなら、ぜひそれを示して見せてくれ。
いいな、ドンピシャの奴をだぞ、、。 >>293
根拠を示されなければ鼻でせせら笑うだけ
九州説のように発狂することはない 488>>933
>もちろん、素人さんがそんなことを言っても認めてくれる考古学者はいない<
もちろん、
現代日本の「南→東」などの嘘付き騙しを妄信する考古学者が、
何に賛同しようと、
そんな事には何の価値も信頼性もないもの。 >>253
>その国が本来は倭国を意味することはその通りだが、それは倭国の国境ではない。
>倭国の国境は七千里と書かれているので、この「その国」は、倭国の王都を実質的に意味する。
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、そろそろこんばんは
其国の国境がその次に書いてあって、そこでの「其」が邪馬台国ではないことが確定したから
しばらくは「その国(本来は倭国だが〜)」って言い訳してたのにww
そもそも、萬二千里は観念的な遠い地の果てを示す数字だから、
倭国・女王国のどこかを指してる訳じゃないんだよ
何度も教えてるだろ?ww
後漢書の「樂浪郡徼去其國萬二千里」は
魏志倭人伝の「自郡至女王國、萬二千餘里」の焼き直しの二次史料でしかない
後漢の時点ではまだ卑弥呼が共立されていないので、女王國と書けずに其国・倭国と
書いてあるだけ
其国は地の果てに匹敵するほど遠くにあると書いてあるだけなのに、
短里で萬二千里しか九州説に有利(に見える)根拠がないから大変だな >>261
>あなたの頭の中でだけ。
そう思うなら、否定する論陣を張ればいいじゃないかww
でも、九章算術という同時代資料で「道里が日数で表される実例」を示されて
3世紀の大陸では「道里は日数で表記可能」なのが確定
これによって、FAQ78のQ&Aが正当なものだとはっきり示されたから
「魏志倭人伝の記述」にしたがって、投馬国は女王国より以北の国であることが確定するんだよ
反論したければ、具体的な根拠とともに論じてくれ
九州説に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む九州説の人はね
九州説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり 488>>948
>つまり 渡海したと書いてある距離は
実際の距離と関係ない過大な数字だという意味だろ<
いや「余」があるから、
魏使らの実地の見聞計測記録を陳寿が近似値記載をしたもの。
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
いつも極めて非論理的な主張をするな。 >>264
>そこまで魏の使いがたどり着いていたという根拠がないのです。
畿内が大陸と交流を持っていたのは考古遺物で確かめられる
大陸渡来の特注品が畿内で出土してるから、畿内が大陸と交流を持っていたことが確定
3世紀時点では祭祀連合だから、北部九州と畿内にそれぞれの首長がいたし、それを別の勢力と
呼ぶことは可能だが、畿内が大陸と交流した諸国の中で最大勢力なのだから、倭王は畿内にあったと
考えるのがもっとも自然な推論となる
大陸渡来の特注品
黒塚古墳のU字型鉄製品(黃幢か?)
下池山古墳の羅張りの夾紵製容器 >>269
>その古墳は卑弥呼より後の時代のものではありませんか?
ありません
纏向遺跡が特別な遺跡なのは九州説でも異論がない
そして、そこで纏向石塚古墳を皮切りに列島最大の墳丘墓が作られ続けている
つまり、纏向遺跡が古墳時代の始まりの遺跡であり、纏向遺跡の建設開始をもって
古墳時代の始まりとする見解が通説になりつつある
纏向遺跡の建設開始は、土器編年で畿内第V様式末から庄内0式期であるのは問題ない
そして、土器編年に絶対年代を与えるものとして、大型祭祀土坑から出土した
桃核の14C年代を測定することで、3世紀前半には纏向遺跡が大型土坑祭祀を行う状態で
存在することが確定している
https://i.imgur.com/qOswdpR.jpg
ここまで来れば、邪馬台国の時代が古墳時代であること
古墳時代の中心が畿内大和にあったことが確定する >>300
>其国は地の果てに匹敵するほど遠くにあると書いてあるだけなのに
だから、其の地の果てに匹敵するほど遠い国までが萬二千里なのだ。
きちんと里数が示されているではないか。、 488>>956
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
また論破されたのだな >>273
>畿内説では投馬国は出雲のはずだが、出雲は女王国に含まれないのか?
>女王国は九州北部ということでよろしいのか?
陳寿の認識における、想定上の経路は帯方郡から順に南へ進むことになっている
北部九州から先へ進む方向が「南と書いてある」のであって、現実の地理での南ではない
言葉を変えれば、投馬国は北部九州と邪馬台国の経路の途中にないといけない、ということだよ
これが、投馬国は女王国より以北の国で確定、ということの意味 横からスマン
FAQ78の
Aの
>「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。<
「行道八日」=「道里遠近」
「距離の日数表記」=「道里」
「距離の日数表記」は「行道八日」だから
「行道八日」=「道里」でいいの・・・・・・ >>302
>いや「余」があるから、
>魏使らの実地の見聞計測記録を陳寿が近似値記載をしたもの。
だという理由は?
「オレ様の考え」かな? >>284
>畿内説の主張はその場限りの言いつくろいが多いから、矛盾だらけ。
その矛盾とやらを具体的に指摘すれば、
畿内説をきちんと論理的に否定できるんじゃないのかな?
どうして、それをせずに無駄な一行コメントで
スレを進ませるだけという愚を繰り返すんだい? 488>>964
>事実 「道里は日数で示すことができる」
事実には勝てないよww <
事実は、日数は里ではなく、
道里とは「道の里」であって、「行道の日数」」ではない、という事。
史料事実や人類の常識のような事には勝てないよ。 >>305
>だから、其の地の果てに匹敵するほど遠い国までが萬二千里なのだ。
>きちんと里数が示されているではないか。、
それは淮南子にも見える「世界の果てという観念」に紐付けされた「設定値」なんだよ
現実の地理とは無関係に設定された値
九州説が萬二千里を根拠にするためには、
「短里が存在すること」
「短里で測定されたこと」
を証明しないといけないが、既に両方とも具体的に否定されている
残念でした 「水行20日」=「道里」としても
FAQ78のQとどういう関係があるの?
「水行20日」で移動してるのは確かだし、
「自女王國以北 其戸數道里可得略載」でも証明できるし
なんで九章算術を引用する必要があったのか理解に苦しむ >>297
そんな無意味な行為は、あなた一人で好きなだけやってくれ。
畿内説スレで、無意味な行程パズルの話を延々聞かされるのには、飽き飽きしてるんだよ。 畿内説で
近江はどういう位置づけなのだ
琵琶湖はなんなのだ 海? >>314
あんた 熱くなるのはよくないよ
あんたの考えるルートを示せばいいだけじゃん >>314
理論的な本論しないと・・・・・・・・・・・・・・
いつも 畿内説はこんなもんだと思われるよ・・・・ >>314
なーんだ、派手なカキコの結末がそれか。
好きなようにやれと言ってやったのに、結局ドンピシャのルート比定はギブアップい。
佐賀川上ルートにはとうてい及ばなかったようだな、、。 >>312
自女王國以北 其戸數道里可得略載のあなたの考えをお聞きしたい 女王国まで萬二千余里、
投馬国はこの女王国の以北にあるというが、なぜ投馬国だけには里数が書かれていないのか
畿内説の根拠説明を求む。 >>313
「道里は日数で示すことができる」
と言う事実を証明するためだが、何か? >>312
「具体的に否定されている」という具体的な根拠は? >>321
女王国まで萬二千余里、
この女王国の以北に投馬国はあるというが、なぜ投馬国だけには里数が書かれていないのか
その根拠説明を求む。 東大寺二月堂のお水取り、『若』狭の水、『若』草山の山焼き、若草山の山頂にある牛塚
若、水、火、牛
牛の火を若の水で鎮めるということかもな
若、【ワカ】
インカ帝国では、【ワカ】は川や泉などと結びついた聖なる存在
アイヌ語で【ワッカ】は清らかな水
インカ帝国はy染色体ハプロタイプはQ系
殷もQ系だったらしい
日本にもQ系は1%弱いる
インティはインカ帝国の太陽神
殷の王族は太陽の末裔
殷の王はシャーマンであり鬼神を崇拝していた
稲荷はイネカ→インカ
廣瀬大忌神、若宇加能売命、稲荷は殷系の渡来人と関係あるのだろうか?
若と牛、若と牛頭天王の関係は?
牛鬼伝説
古い海神であった牛鬼は石に敗れ、以後牛鬼の娘は石の子を産むようになる
牛頭天王の原型じゃないか?
母は古い海神、父は石
古いという言葉
インカ文明のケチュア語ではマチュ、
アイヌ語ではマク
マチュは年老いた
マクは奥、時間的に奥、古い、年老いた
『松』のことなんじゃないか?
八坂神社などで見られる天王祭、蘇民祭
牛頭天王、鬼子(殷は鬼神を信仰)、牛玉紙を奪い合う(牛鬼の娘を奪い合う?)
牛鬼伝説や殷と関係がありそうだ 488>>968
「南→東」などの嘘付き騙しに対してのように、
「具体的な根拠」なしの反論はバカにされるだけだよ?
大和説学者らは総じて無能 >>219
>「鉄が豊富に出ないと邪馬台国ではない」と言う主張もおかしい
そういう九州説レベルの程度の低い話じゃない
土器を見ると庄内式が色濃く北部九州を席巻していて倭人伝でもかなり強力な支配を及ぼしていると描かれている
それなのにもかかわらずに九州との交流の痕跡が薄すぎるのはなぜかという問い >>327
>なーんだ、根拠薄弱、論理希薄、、。
反論もできないんだから
論拠が強力で論理的ということだ 488>>969
>>「循海岸水行」や「3か所の渡海」は、 「水行」であって「陸行の道」ではないが、
常時の往来路として使われておれば、「道」として認識されていた可能性はある、
という意味だ。<
>ならば(倭王武が)宋皇帝への上表文で
「道」と書いたのが「循海岸水行」のルートの話
である場合があるのだから
「韓地陸行」の根拠になんてならないこと わかりますね?<
倭王武は、
「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫。而句驪無道、圖欲見呑、掠抄邊隷、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風、雖曰進路、或通或不」
と書いているのだから、
「句驪無道」で「雖曰進路、或通或不」が起こった、という事を言っているのであり、
海路であれば、「或通或不」が殆ど起こる筈もなく、
陸路が高句麗に拠って「雖曰進路、或通或不」になった、という事を言っているのであり、
だから、「道kei百濟」は、陸路での話であった事になり、
魏志での韓国陸行説の根拠になる。 土器の広まりを見ると弥生時代後期後半くらいから畿内の影響は北部九州に及んでいる
卑弥呼の時代まで100年ほどの間があるが双方向的な動きがあまりない
経済的にしても軍事的にしてもこれだけの期間があればもっと多くの痕跡が表れてもおかしくないはず
鉄や土器の九州からの動きが見えないのは何故なのか >>971
>逆に、多少近くても遠くても、1日で渡る距離を実距離と関わりなく千余里としている<
「1日で渡る距離を実距離」なんて、
風や海流の強い海峡地域では一定する筈もなく、
3渡海が全て千余里と書かれた、という事は、
一寸千里などのに拠る計測が行われた、という事の方が可能性が高い。 >>970
>だとしたら、ホケノ山古墳に全部副葬してしまった後、
椿井大塚山古墳が造営されるまでの短期間にまた、北部九州の弥生全期間で見つかるほどの
鉄材を入手しそれをまた全部副葬して、下池山古墳が造営されるまでの短期間で
また北部九州の弥生全期間で見つかるほどの鉄材を入手できたんだね!
畿内王権、鉄がジャブジャブ手に入るんじゃんww<
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「東征毛人五十五國」の将軍らは、
既に倭国の支配下になって戦闘が終焉した後は鉄鏃などの武器は必要では無くなり、
東征で征服した毛人や出雲系銅鐸部族に勝ち誇るためにも、
九州倭国から持って来た鉄鏃などの武具を大量に副葬した。 488>>983
九州説を発狂させる呪文
「南≠東」や、
「道の里は日数ではない」。 >>294
>が正しいなら九州説一択なんだからな
里程の記録が不弥国で終わっています。 489>>90
結局大和説は、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」などの指摘に対して、
ずっと証拠もなく、九州説者を詐欺呼ばわりか
つまり大和説は議論で負けてるから 正面からでは勝てないと諦めて
意図的な中傷して相手の九州説の意見を抹殺しようとしてるのか >>301
>「魏志倭人伝の記述」にしたがって、投馬国は女王国より以北の国であることが確定するんだよ
>反論したければ、具体的な根拠とともに論じてくれ
根拠なく言い張っているのはそっち。 >>336
終わっていたら何?
断片的な発言ばかりだ
論理的に語れないの? 489>>99
論破された「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が
反論もできずに
毒づくだけの
みじめさ >>336
>里程の記録が不弥国で終わっています。
終わっていたら女王の都に着かないよ
だから、その読み方は間違いだ 489>>101
「南→東」や「冢→前方後円墳」などの議論に敗れて、
現実逃避して妄想に生きる大和説 >>102
>歩いて5分とか言い方するだろ?歩いて1日でもいいわけだ
距離は時間で表されるんだよ<
「里は時間ではなく、田畑などの長さの単位」である事が原則であり、
「日数を表す」事は、例外的。 >>303
>畿内が大陸と交流を持っていたのは考古遺物で確かめられる
モノだけ伝世して収められたのかもしれない。 >>104
>要するに用途にあった数を用いているだけ<
「道里」の原則は「道の里」であり、
「日数」の意味はなく、
「日数」の意味は例外的であり、
「行道の日数」に使った九章算術は失敗。 489>>108
>罵っても史実は変えられないよ<
「南→東」や「冢→前方後円墳」などの嘘付き騙しをし、
幾ら罵っても、史実実態は変えられないよ。 >>314
>畿内説スレで、無意味な行程パズルの話を延々聞かされるのには、飽き飽きしてるんだよ。
魏志倭人伝に邪馬台国の位置が書いてあるのに、畿内説に一致しないからそんなことを言うのだろう。 489>>109
>これもダメだな 本例は「車行」であつて人ではない
九州説はいつもダメ<
古田本での「三国志での裴松之の注」での、
車駕1日300里や強人一日200里の記載を紹介した筈。
「南→東」などのウソ付き騙しの大和説者は、
いつもクルっていて、×だな。 489>>138
>>距離は一緒じゃない <
>それがどうしたの? それでも史実は距離を時間で表しているんだよ<
陳寿や漢書は、「道里記載と所要日数記載」とを書き分けているが、
九章算術は、「道里を行道日数で書き換えた」から、×書。 >>144
>>平原1号は、(21枚の尚方作鏡の存在に拠って)最低、「248年頃以後」だ。<
>それ、まったく理由なく田舎の素人おじいさんが言い張ってるだけでしょ
意味ないです<
それ、「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師学者の大和説学者が、
言い張っているだけでしょ?。
そんな・・・・アホ詐欺師学者らの意見など、全く無意味であり、
無価値であり、むしろ「犯罪者的は害虫」です。 >>318
>佐賀川上ルートにはとうてい及ばなかったようだな、、。
そこには伊都国はないと何度言えば!ww
それは仮称米多国へのルートで、それが伊都国へのルートと紛れてしまうくらい、
倭国の地理に対する陳寿の知識・認識は不明確なんだよ
その佐賀川上ルートの弱点というか致命傷は、
三雲遺跡群や比恵那珂遺跡群が何なのか一切説明できないこと
現実に存在する遺跡を無視して、遺跡のない場所に国を比定するのは科学ではない >>316
>>317
>>318
>>347
架空の里を創作したくもないし、実地理に直線モノサシも当てたくない。
そんな行為は全く無意味で、無駄。
魏使たちは北九州諸国を歴訪した後、日本海ルートで出雲(投馬国)に至り、
丹後半島か若狭湾から陸行して奈良盆地(邪馬台国)に至った。
これが魏使たちの行程。 まともな遺跡のないところに伊都国を比定するとか、愚かな行程パズルの極み。
そんな行程パズルは、全くの無駄。無意味。 >>176
無理な言い訳しても、「南≠東」などに拠って大和説破綻だな
ご愁傷様
大和説の史料無視
ここに極まれりですな >>319
>自女王國以北 其戸數道里可得略載のあなたの考えをお聞きしたい
???
魏志倭人伝に書いてあるとおりだろ?
対馬国から邪馬台国まで帯方郡に近い方から順に、これが陳寿の想定する北から南の方角
で、対馬国から邪馬台国まで、全部の国に戸数と道里が略載されている
駢儷体を意識した書き方なので、二国ずつペアにして記載様式を揃え、
二国ごとに記載の仕方を変えてる
この二国ごとに記載の仕方を変えてるところを、必要以上に重視してチェリーピッキングに
使っているのが九州説ってだけ >>181
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
史料上にありもしない内容を 曲芸読みで作り出す
という作為で
近現代の・・・・アホ大和説学者らの日本人によって
捏造された架空の古代史なんだよ 489>>184
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
火消しに必死で藁 489>>195
「南→東」などの嘘吐き騙しの無理筋なの大和説を守るため
理由もなく
都合の悪い史料を間違いだと
強引に言い張る大和説の無道 >>321
>なぜ投馬国だけには里数が書かれていないのか
こんな認識だからバカにされるんだよ
道里 戸数
南至投馬國、 水行二十日 (官名)可五萬餘戶。
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。(官名)可七萬餘戶。
邪馬台国も里数は書かれていないだろ?
これを九州説は認識できていないんだよ
そして投馬国も邪馬台国も戸数道里ともに
略載された女王国より以北(ここでは女王国を含む)の国なんだよ
そして邪馬台国までの里数は萬二千里と書いてあるにだとかバカなことを言い出すww >>197
いくら駄々を捏ねても、
「道里≠日数」という人類の常識的な事実には、
勝てないよ。
九章算術は、漢書や三国志の記載に拠って否定された。という事。 489>>204
>日数で道里を示すのは普通の表現方法<
「日数は道里ではない」は、普通の事であり、人類の常識的な事。 >>312
テンプレを読めよ!
そのためのFAQだ!
FAQ17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
FAQ18のA
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、 多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
何より、3世紀に短里を使う人がいない
公孫氏は漢人だから漢尺を使う
公孫氏滅亡後の遼東、帯方二郡の郡吏は当然、魏尺を使う
東夷の夷人は里を知らない
短里なんてない 489>>207
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説派、
理由もなく、言い張るしかない
史料的根拠ゼロの曲芸読みで大和説が出来ているからだ >>329
>それなのにもかかわらずに九州との交流の痕跡が薄すぎるのはなぜかという問い
対等じゃないからだよ
現代でも東京キー局作製の番組は全国放送だが、
地方局製作のローカル番組が東京でオンエアされることは稀だ
畿内側に九州の影響は小さい(それでも胎土分析で九州の土器は確認されている)が
九州では祭祀用供献土器も墳墓形式も畿内様式に塗り替えられる
交流がなかったとするのは無理な強弁 489>>210
どうやら「距離は日数でも表せる」が、
「道里≠日数」であり、
「道里」は原則として「日数」ではなく、
「道里」説明の補完的な説明の場合に「日数」が使われる、
という意見が
支配的になって来たようですなあ 489>>211
でも、「南≠東」などと同じように、
「道里≠日数」なんだよね
大和説終了 >>338
「根拠付きでの反論」はないんだね!
いつもの無能九州説じゃんww
FAQ78で、道里は日数で表現できるってはっきりしただろ?
投馬国も邪馬台国も戸数道里ともに略載された女王国より以北(ここでは女王国を含む)の国だ
投馬国は女王国より以北の国で確定 >>344
>モノだけ伝世して収められたのかもしれない。
古墳の年代を遅くして伝世したことにしたところで、
倭の五王より前の時期は大陸との交流が途絶えているのだから、
入手の時期は魏晋朝、つまり卑弥呼から台与の時代に限られる
結局、卑弥呼の時代に畿内が大陸王朝と交流を持った物的証拠であることは動かない
残念でした! >>217
>つまり淮南子は普通の里で書いてあると解釈も可能って事ね<
ダメだね。淮南子の一寸千里を使っているから、短里も使ったらしい。
>もちろん実測値ではないけれど ><
勿論、実測値。
短里で距離を書いてあったと解釈するのは可能。 >>347
>魏志倭人伝に邪馬台国の位置が書いてあるのに、畿内説に一致しないからそんなことを言うのだろう。
意味のある行程論ならいいんだよ
>>314が否定しているのは「無意味な行程パズルの話」だ
水行、陸行をきっちり評価したこのレベルの旅程を九州説が出せるなら歓迎するよ
https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg
まあ、九州説は具体論に入った瞬間に爆散するのが常だけれどw >>359
>>>こんな認識だからバカにされるんだよ
道里 戸数
南至投馬國、 水行二十日 (官名)可五萬餘戶。
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。(官名)可七萬餘戶。<<
さぁ計算だ 50,000÷20=2,500
70,000÷40=1,750
この計算式何を求めるの???????? これからどうすんの????
道里と戸数とどういう関係あるの?? 投馬国の戸数が変わると距離も変わるの???? >>364
>九州では祭祀用供献土器も墳墓形式も畿内様式に塗り替えられる
これって、卑弥呼の死後の政変なんじゃない? >>339
メンドイ奴だな、日数表記=道里だろ
FAQ78{距離の日数表記を「道里」と称している}
なぜ、不弥国以降は里数で書いてないのと言うことなんだよ >>368
>入手の時期は魏晋朝、つまり卑弥呼から台与の時代に限られる
>結局、卑弥呼の時代に畿内が大陸王朝と交流を持った物的証拠であることは動かない
ここがすり替えのポイントかな?
卑弥呼の死後に状況が大きく変わるのに、それをごちゃ混ぜに語ることで卑弥呼の時代の話にすり替えている。 >>370
>水行、陸行をきっちり評価したこのレベルの旅程を九州説が出せるなら歓迎するよ
>https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg
九州から奈良まで行くルートとしては非合理的。 >>367
>FAQ78で、道里は日数で表現できるってはっきりしただろ? <
道里のあんたの解釈を詳細に言ってくれないか
距離?道のり?移動」?・・・ 距離=時間×速度も理解できない奴が
九章算術を語る資格なんてねーよww >>370
まず、奥村(瀬戸内ルート)と意見交換してくれねーか >>371
>道里と戸数とどういう関係あるの?? 投馬国の戸数が変わると距離も変わるの????<
いい質問です
奥山には理解できないだろうな
投馬国の戸数の増減と道里のメカニズムを教えてほしいなぁーーー >>359
戸数が変わると道里も変わると言うことでいいのだネwww 九州説論者は、行程記事にやたらにこだわる割に、
最後の「陸行一月」を、全く説明出来ない。
苦し紛れに「陸行一月」を「陸行一日」の誤記だと言い出して、
邪馬台国を伊都国に比定したりするが、
「陸行一日」など記事に書く意味が全くなく、
伊都国=邪馬台国などと言う無理に無理を重ねた上に、
投馬国の説明も出来ないという自己撞着に陥る。 何を考えてるんだ
奥山の阿保は
水行20日と五万戸から何を求めるのだよ 水行十日陸行一月
舩で行けば10日
陸で行けば1月 >>385
日本海ルートは完全に奥山から無視されてるか
それとも奥山はぐうの音も出ないのだろう 全英女子オープン
澁野さん頑張ってるね
笑顔がいいね 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
日本海VS瀬戸内海
やらないのww >>371
>投馬国の戸数が変わると道里変わるの????<
>>384
>水行20日と五万戸から何を求めるのだよ <
なるほどね おもろいからやってみよう
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
FAQ78
『九章算術』巻第六「均輸」に 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
---------------------------------------------------------------------------------------
「南至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸」
→「甲衰一?????」(これは倭人伝に記述が無いので無視)
とあるので
投馬国で50,000戸÷20日=2,500(約分 ???????どうするの????????
ああ ここで止まったしまった 489>>222
>九州説も里数は日数じゃないといくら頑張っても<
これも、このの大和説男が、
言語や叙述文の成立や構造をよく判っていない、という事の証拠。
九州説の主張は、「里数は日数じゃない」という事だけではなく、
「道里」という主格文言に意味は「道の里」などという意味であり、
その中に「行道の日数」という場合も僅かに含まれ得る、という事。
>どこかしら自らの主張に違和感を拭えないんじゃないだろうか
それもそのはず里表記は根本は歩行の日数を数値化したものだから
すなわち歩行日数こそ里の本質そのものだったのだ
地球の大きさを基礎としたメートル方とは異なり
人の歩行移動速度を基準にする里は日数に変換する事こそが主目的の距離表記<
だから、この男は、ここでも「叙述を逆転させる詐欺」をしている事になる。
「歩行日数こそ里の本質そのもの」なのではなく、
「道里の本質は、歩行日数ではなく、道の里である」であって、
「里」は、「田の下の土」という文字であるから、
「田畑の長さ」を単位とする一つの度量衡単位である、という事。 ちょっと待てよ
投馬国を1万戸として計算してみよう
10,000戸÷20日=1,000
2万戸の場合は
50,000戸÷20日=2,500
約分して 10:25 なんだろう?戸数が変わると何がかわる?
次水行を変えてみよう
50,000戸÷20日=2,500
50,000戸÷10日=5,000
約分して 25:50 これなんだろう?20日の道里が10日の半分???
ギブアップ
おーーーーーい 奥山くーーーん 教えてくれーーーーー 489>>225
>里には1日60里と目安があるのだ
メートルにはないけれど
これすなわち日数は容易に里数に換算できるという事<
関係なし。
「里」は、「一つの田畑とその耕作集落」を単位にして数える単位。 489>>227
>◆FAQ 60より
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。・・・<
漢書の西域伝のおける、「日数」記載の存在は、当然、
その区間の「里数計測計算記録」がなかったための、
その区間の所要日数の伝聞で示したもの。
だから「日数表記は補完的だ」と説明した。 >>228
>里数を日数で表すと投馬国が女王国より北になり 九州説は壊滅<
投馬國の説明は、先に行程説明のところで書かれたように、
不彌國やそのすぐ南の存在した邪馬壹國女王之所都からの側副傍線國説明になり、
その位置説明は「不彌國から南に水行二十日の位置にある」という説明である事になり、
だから、その後に書かれた「自女王國以北」の中には含まれず、
だから、投馬国が女王国より北にならず、
「南≠東」などに拠って、 大和説も壊滅。 489>>238
>距離の表現として、時間を使うのは普通の表現 <
「道里」の表現では、普通は里数を使うものであり、
「日数」を使うのは、「里数説明に対する補完的や補助的」な説明。 489>>266
「南→東」や「日数=里数」とか
また誰も言ってないことを
捏造するのがサギの大和説 489>>267
著しい誤読癖=認知障害がある精神疾患の患者のモノマネ=偽装をして、
難癖ビジネスに通じる、不自然な妄言、曲解を擦り付ける形で暴れるのが、
毒蛇というコードネームで呼ばれている、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説偏向工作者の特徴です。
京都アニメ放火大量殺人犯の精神構造に通じるものがあります。 >>219
倭国のどこかではなく
魏使が滞在した倭国でしょ
畿内は該当しないね 489>>273
>中国の日本についての記述を見ると九州説など全く存在していないのが分かる
簡単に書くとこうなる・・・<
また「南→東」などの嘘吐き騙しのアホ詐欺の・・・・大和説者が、現れたね。
隋書俀國伝は、明らかに「倭奴國や卑弥呼からの倭國の歴史だ」とした記載をしており、
旧唐書や唐会要などの、
「倭國の位置は正北抵新羅の北部九州」や、
「日本国は倭国の別種の旧小国で、白村江の後で倭国を併合吸収継承した」などの証言を、
全く無視隠蔽している・・・・詐欺師。
おそらく、京都アニメ放火犯人と同じような、・・・・仲間。 489>>274
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らは、
これほどまでに、正常な洞察推定力がない >>325
素晴らしい洞察
人名に現れる真若とは? 489>>275
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者が、
どう泣きわめこうとも どう珍説を繰り返そうとも
中国は「倭國中心は北部九州であった」と断定している
無駄な事 >>140の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>143)
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜瀚海↓↓〜玄界灘〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↖木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作↓〜〜
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」〜〜
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶 不可得詳」〜〜
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 九州佐賀川上ルート:
下記のようにルート比定すれば、伊都国・不彌国までの方角はもちろん
距離も短里(韓倭の短里)と一致する
壱岐ー松浦中原津(末盧国)は55q(700里)で渡海千里はまあOK、
松浦中原津ー佐賀川上(伊都国)は東南行38q(500里)でドンピシャ、
佐賀川上ー佐賀市街(奴国)は東南至7.5q(100里)でドンピシャ、
佐賀川上ー吉野ヶ里(不彌国)は東行11q(145里)で、四捨五入の100里は適切、 >>410
三国志・呉の孫権は亶州(せんしゅう)と夷州(いしゅう)に遠征を行っていたよ。
激しい抵抗に遭ったが勝利し、現地の兵士住人を3000人を生け捕りにし奴隷として連れ帰ろうとしたところ、船内で疫病が流行って結局失敗したが、亶州の現地長老からこんな話を聞きました。
「昔この地には、始皇帝の命を受けて、不老不死の薬を探しに徐福がやって来たのじゃ。
徐福はこの地にとどまり、今では私たち一族は、これ、このように一万戸に達しましたぞw」
https://hajimete-sangokushi.com/2015/02/19/post-1575/
秦皇帝大說 遣振男女三千人 資之五穀種種百工而行 徐福得平原廣澤 止王不來
今まで徐福伝説は日本各地にあり、どこに上陸し、(王となった)平原広沢がどこか判らなかったが、沖縄(琉球王家の始祖)だったことが判明!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E5%9B%BD%E7%8E%8B 女王国以北にあり、魏・帯方郡の遣いも通過したはずなのに、
投馬国だけには、なぜ里数が書かれていないのか??
南至投馬国、水行二十日。可五万余戸。
南至邪馬壹国、女王之所都。水行十日、陸行一月。可七万余戸。
自郡至女王国万二千余里。 >>392
>>394
ご苦労さんです 奥山の「知ったかぶり病」がうつるぞ >>371
九章算術の内容、まったく分かってないじゃないかww
漢文が読めないやつはこれだからw
だから情報リテラシーがないって言われるんだよww
九章算術の均輸1で衰の計算に使っているのは、粟の納め先である「輸所までの道里」
単なる移動距離で割り算しても意味がないww
バカすぎ
>>381、>>382、>>384、>>392、>>394は全部無駄なゴミ書き込み
大陸中華では、ある国、地域(県)の基本情報としての最低限が
「戸数と道里」だろうという推論ができるところまでだな >>372
>これって、卑弥呼の死後の政変なんじゃない?
全国規模の土器の規格化と墳墓形式の規格化が2段階で生じている
「庄内式土器と纒向型前方後円墳」が第一段階
「布留式土器と定形化前方後円墳」が第二段階
第一段階が卑弥呼の共立による政変
第二段階が卑弥呼の死に伴う政変 にそれぞれ対応していると考えれば理解しやすい
以前は第二段階以降を古墳時代つまり箸墓古墳遺構を古墳時代としていたが、
近年は第一段階から古墳時代草創期と、古墳時代として位置づけるのが通説化しつつある >>373
>なぜ、不弥国以降は里数で書いてないのと言うことなんだよ
単に陳寿が調べた資料に日数で書いてあったからってだけだよ
魏使さんは大陸人だから、船での沿岸航行で1日進んでどれくらいの里数なのか見当がつかなかったと
いうのが元々なんだろう
あと一日ごとの進む距離もバラバラだろうし、雨の日は進まなかった日もあるだろうし、
次に訪れる人への情報としては、日数の道里情報で十分だしね
あと、10日単位なのは元の記録が旬で書いてあったからかも知れないというのは
前にも指摘したとおり >>374
>ここがすり替えのポイントかな?
>卑弥呼の死後に状況が大きく変わるのに、それをごちゃ混ぜに語ることで
>卑弥呼の時代の話にすり替えている。
九州説はこうやって論点ずらしをするんだなww
ミラーリング乙
卑弥呼後の台与は邪馬台国にいなかったのか?
魏志倭人伝にはそんなことはどこにも書いてないだろ?
卑弥呼の遺体を故郷に運んで埋葬したなんてことも書いてない
卑弥呼の死後、台与が王に立てられるまでに混乱はあったが、
卑弥呼の墓があるのも台与の座所も邪馬台国だ
黒塚古墳のU字型鉄製品が黃幢であるなら難升米の墓であると想定されることになるが、
大陸まで派遣される難升米は、卑弥呼より若い人 だと想定されるし、その墓も当然
卑弥呼の墓よりあとになるだろう >>375
>九州から奈良まで行くルートとしては非合理的
倭国の政情調査が任務の魏使の経路としては倭国第二の大国である投馬国・出雲を通るルートが合理的
北部九州と出雲、出雲と大和を結ぶルートとして合理的な経路を連結しているだけだ
論理的かつ合理的だろ? 489>>281
>そもそも大和説は、「南≠東」の議論で負けるとか
そこんとこどうなのよ<
普通の成人人類は、太陽や北極星の方向に拠って、
ほぼ100%東西南北の方向を間違えないのであり、
先日のTV放送でも、中国人学者の殆どが「魏の役人らは東西南北を間違えない」らは、
という意見であったし、
そして、倭人伝には「女王國之所都は九州北岸の不彌國の南だ」と説明されているから、
九州北岸から東になる大和説は、×なの。 489>>289
>畿内説とスレ主と関係ないから畿内説を馬鹿にしなでほしい
馬鹿にするのはスレ主だからそこんとこヨロシク <
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であったし、
大和説者は、「南→東」などの史料事実の否定抹殺曲解の嘘つき騙しをするから、
・・・・アホ詐欺師であり、
京都アニメ会社放火殺人犯のような・・・・と同じように、怖いから、
「馬鹿」にする。 489>>290
もう大和説は手詰まりみたいだね。
「南→東」などの嘘付き騙しと同じように、
都合の悪い事は伏せて隠して、都合よく書き換えて、
意味のない書き込みしかしない ああ、いつものことか。
九章算術は、「道里=日数」というような「意味の曲解造作」の嘘つき騙しをした。
書いてあるのは日数であり、道里ではなかった
これが事実 >>418
投馬国は日数だけだが、
邪馬台国は、日数及び自郡至る女王国萬二千余里で、日数と里数が併記されてる。
>>418 の理屈と合わないぞえ??? >>297
このように
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説の根拠は
「オレがそう思うから」 >>416
それと
FAQ78のQとなんの関係があんのかね?
水行20日でも、移動(距離は進んでいる)はしてると言うことだろ
それ以外、何を言いたいの。
九章算術は賦役の計算だろ
FAQのQとアンサーと
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」) と関係ないじゃん
わざわざこんなの入れて☟ 何をするつもり
道里 戸数
南至投馬國、 水行二十日 (官名)可五萬餘戶。
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。(官名)可七萬餘戶。<< 547日本@名無史さん2019/07/23(火) 13:46:01.46
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 >>418
>単に陳寿が調べた資料に日数で書いてあったからってだけだよ
陳寿に会って確かめたのか。口から出まかせ、詐欺師の子。
>魏使さんは大陸人だから、船での沿岸航行で1日進んでどれくらいの里数なのか見当がつかなかったと
>いうのが元々なんだろう
>あと一日ごとの進む距離もバラバラだろうし、雨の日は進まなかった日もあるだろうし、
帯方郡から末盧国までは海の上で水行/都会だが、里数で書いてある。
>>418 のは道理が合わぬ。口から出まかせ、詐欺師の子。 邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
架空のロシアの会場の巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていることで、奥山氏かどうかを判定することは、、、
つまり、着色の可能性の全体を無視して、緑と青と赤という要素だけで、全体を予想する、、、
という、破綻した要素還元主義が前提になっているのだったな。。。 >>416
水行20日で距離を移動を出してごらんよ
それができたら納得するけどね
目的地の戸数なんて距離と関係ないし 489>>298
>算出できないと何なの? 出来ようと出来まいと
現に「道里」を日数で書いてある実例がある <
実態は、
九章算術が「道里=行道日数」という嘘つき騙しになる記載をした、
という実例がある事。 訂正
>>416
水行20日で南(東でもいい)に移動した距離を出してごらんよ
それができたら納得するけどね
目的地の戸数なんて距離と関係ないし 邪馬台国
水行10日すなわち水行一万里(帯方郡から福岡上陸まで)
投馬国
水行20日(帯方郡から鹿児島周りで宮崎まで) >>431
九章算術が「道里=行道日数」と記載したという解説は不正確。
各県の道の長さや道行きの難易による「道里の遠近の違い」を考慮し、行道日数として統一的に記載した。
これによって相互比較ができるようにして、公平な賦役を算出することとする・・。このように正確な解説をすべきだ。 >>434
邪馬台国までの陸行1月が抜けてないか?
(水行10日で末盧国に上陸して、更に陸行1月) >489>>307
>寒冷な2世紀であれば、C14濃度が高まり続けていたため崩壊速度と均衡してしまった
という原理が分かってないからトンチンカンを言っている<
まず、寒冷であればC14濃度が高まり続ける、という事の根拠は何だ?。
また、卑弥呼の頃の3世紀中頃まで、寒冷期が続いたのか?。
また桃の種が形造られるのは、1年毎であり、
その1年毎の種のAMS法検査の結果が110年間にもバラける、
という失敗をした事に関しては、寒冷期の存在なんて、関係もない事だよ。 489>>309
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説の奴らがら、
何で5chにいんの?
スレ荒らし?
行動が普通のまともな日本人じゃないみたいだな >>312
>太陽黒点活動の活発化<
太陽黒点活動の活発化があれば、普通は、太陽熱エネルギーや宇宙線も増加し、
地球は、温暖化するのではないのか?。 489>>324
>>太陽黒点活動の活発化<
>それ、逆だよ
太陽黒点活動の活発な時期は、太陽風による荷電粒子の供給が多くなり、
地球の電離圏、バンアレン帯が強化され、高エネルギー宇宙線の遮蔽効果が高くなる
そうすると14N→14Cの転換が減るので14Cが減っていくことになる <
成程。 >>386
>舩で行けば10日
>陸で行けば1月
そのような並列併記だと考えるべき理由が、「そうじゃないと九州説が困るから」以外に何もないww
同時代の大陸文書で、その手の併記があるならともかく、ないだろ?
インチキ読みだよ
九州説は解読と言いながらインチキ読みするからでたらめになる >>395
>「里」は、「一つの田畑とその耕作集落」を単位にして数える単位。
そうだな
一里=九夫で、9家族が暮らせるだけの耕作面積が1里だ
長さの単位としてはその正方形の1辺が一里となる訳だが、
こう考えてくれば、75メートルとか80メートルの短里では
9家族が飢え死にしてしまうからありえないって分かるな?
短里は捏造
短里なんてないw >>403
>実例じゃないし
今有均輸粟:
甲縣一萬戶,行道八日;
乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;
丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,各到輸所。
凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。
欲以道里遠近,戶數多少,衰出之。問︰粟、車各幾何?
道里遠近、戸数多少を以って、衰これを出づを欲す
「道里」の遠近と「戸数」の多少を使って衰を求め、
粟と車をどれだけずつ割り当てればよいかを求める問題
ここで各県に与えられているのが
戸数 道里
甲縣 一萬戶,行道八日;
な訳だ
「道里が日数で与えられている」「道里は日数で表記できる」という実例だよ
訳文を見れば、小学生でも分かること
小学校で授業中に寝ていた落ちこぼれには分からないかもしれないけどねw >>331
>事実 「道里は日数で示すことができる」
事実には勝てないよww<
事実は、
「」
事実には勝てないよww またPCの誤作動によっての失敗投稿であったから、書き直し
489>>331
>事実 「道里は日数で示すことができる」
事実には勝てないよww<
事実は、
「日数≠道里」であって、完全「=」ではなく、
九章算術の説明の失敗は、明らか。
史料事実や人類の常識には勝てないよ。 >>407
>人名に現れる真若とは?
大と若は、親子関係を示すのが基本だね
大タラシヒコ景行天皇と若タラシヒコ成務天皇とか
外国の例だと、大ピピン、小ピピンのようなもの
Pippin der Ältereと、Pippin der Jüngere 倭人伝の航路をあてはめるには出雲しかないわな、しかしそのあと10日の所に国或いは官が居ないのが不自然、吉備河内難波はどうすんのよ? >>409
>うそ
どうしてそんなに自らの無能さをひけらかそうとするのか?
反論したければ、具体的な根拠とともに論じてくれ
九州説に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む九州説の人はね
九州説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり >>412
何度も言わせるなよ
佐賀川上に、3世紀の遺跡はない
三雲遺跡群と比恵那珂遺跡群の説明ができない
現実に存在する遺跡を無視して、遺跡のない場所に国を比定するのは科学ではない 20日に10日、そんで陸路で行くと1ヶ月かかる所と解釈するのが普通でないの? >>443
>「道里は日数で表記できる」という実例<
本当に馬鹿だね、日数で労役(労務者の稼働日数)を出しているのよ。
九種算術均輸4の設問では道里(距離、道のり)は計算上関係ないのだよ
関係あれば実数を載せてるよ
距離を考慮に入れる設問は4なのだよ
投馬国は女王国より以北の国であることを証明するのには、
不適切なのだよ・・
簡単だろ
南に水行20日で投馬国だろそこからまた、南に向かい邪馬台国だから
女王国から北に投馬国はあるという説明でいいじゃん・・・・畿内説の場合は西
あと、水行等の距離は「自女王國以北 其戸數道里可得略載」とあるから把握していたでいいじゃん
知りもしない九章算術なんて持ち出すからチンプンカンプンになるのだよ >>414
>南至投馬国、水行二十日。可五万余戸。
>南至邪馬壹国、女王之所都。水行十日、陸行一月。可七万余戸。
>自郡至女王国万二千余里。
このインチキは前にも指摘した
南至投馬国、水行二十日。可五万余戸。
南至邪馬壹国、女王之所都。水行十日、陸行一月。可七万余戸。
「自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。」
「次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、
次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、
次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。」
「此女王境界所盡。」
「其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。」
自郡至女王國、萬二千餘里。
この「 」の部分をカットしてごまかしているだけ
「自郡至女王國、萬二千餘里」は倭国全体の地誌情報を書き終えてからの
まとめの一文で、この自郡至女王國の「女王國」は卑弥呼が王をつとめる倭国のこと
倭国内の特定の場所までの距離ではなく、倭国が地の果ての遠い国という意味 日本国内に陸行一月が妥当な土地はなく、陸行1日の間違いなんだろうねえ。 >>424
>投馬国は日数だけだが、
>邪馬台国は、日数及び自郡至る女王国萬二千余里で、日数と里数が併記されてる。
併記ではない
>>441を参照
また、萬二千里は邪馬台国までの距離ではない
>>452を参照 >>426
>FAQ78のQとなんの関係があんのかね?
FAQ78のQは
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
の2行目の「里数が書いてない」だけを根拠としている
この「里数が書いてない」が、戸数道里略載にあたるかどうかだけが論点
それに対し同時代資料の九章算術のテキストをもって、日数が道里なのでの表記なので、
「里数が書いてない」がまったく根拠にならないことが示されている
Korea fatigueってっ知ってるかい
まったく同じことをやってるぞww >>428
>陳寿に会って確かめたのか。口から出まかせ、詐欺師の子。
三国志の他の部分の分析から、陳寿は参照元の表現をそのまま尊重する傾向が強いことが
確かめられており、参照元が里数のところは里数、日数のところは日数で書いたとするのが
多数説
陳寿に会ったがどうか、ではなく、現代の研究動向からの帰結だ
こういうところでも、九州説の情報量の少なさ、情報リテラシーの低さが明らかになるww >>428
>帯方郡から末盧国までは海の上で水行/都会だが、里数で書いてある。
渡海部分は測定不能だから、一律千余里とする設定値
循海岸水行部分は、倭国上陸までを万里とする設定値と渡海3回で3千里という設定値の
単なる引き算
測定したものではない
>>418 のは道理が合わぬ。口から出まかせ、詐欺師の子。
こうした道里に関する道理の通った説明を何度もしてあるのに
見ない聞かない認めないで逃げ続けて駄々を捏ねているだけなのが、
>>428のような九州説の無能 >>430
>目的地の戸数なんて距離と関係ないし
お前、バカだろ?
戸数と距離は関係ないぞ?
戸数と距離が、それぞれ独立に書いてあるんだよ
それが戸数道里略載だぞ? >>455
>それに対し同時代資料の九章算術のテキストをもって、日数が道里なのでの表記なので、
陳寿の書き方とは違うな。
根拠にならない。 >>455
>「里数が書いてない」がまったく根拠にならないことが示されている
里数が書いていないのは事実 >>456
>多数説
お前の中ではそうなんだろう。 >>434
>邪馬台国
>水行10日すなわち水行一万里(帯方郡から福岡上陸まで)
帯方郡から九州まで3世紀の船ではどうやっても遠すぎて
水行10日では物理的に届かないんだって!
つまり、その読み方は物理的に否定される
>投馬国
>水行20日(帯方郡から鹿児島周りで宮崎まで)
どうがんばったところで、投馬国は戸数道里略載の女王國より以北の国だから
帯方郡から邪馬台国への経路の途中にないとだめだよ
つまり九州説は一部のトンデモ説を除いて壊滅だ >>435
>各県の道の長さや道行きの難易による「道里の遠近の違い」を考慮し、行道日数として統一的に記載した。
つまり、道里を行動日数として統一的に記載したんだろ?
「道里が日数で記載されている」『実例』だな >>439
>太陽黒点活動の活発化があれば、普通は、太陽熱エネルギーや宇宙線も増加し、
>地球は、温暖化するのではないのか?。
霧箱による量子検出実験は分かるか?
太陽黒点活動の活発な時期は、太陽風による荷電粒子の供給が多くなり、
地球の電離圏、バンアレン帯が強化され、高エネルギー宇宙線の遮蔽効果が高くなる
そうすると、大気の水蒸気過飽和領域を通る素粒子が減り、それによって雲が少なくなるんだよ
逆に太陽黒点活動の沈静化した時期は、雲が多くなり地球全休で見たときの
アルベド平均(白さの指標)が高くなり、太陽光が地球を温める前に雲で反射されるエネルギーの
比率が高くなる
それによって、太陽黒点活動の沈静化した時期は地球が寒冷化するんだよ >>462
>帯方郡から九州まで3世紀の船ではどうやっても遠すぎて
>水行10日では物理的に届かないんだって!
でも対馬海峡の渡海1区間千里は海上で一泊したりしないよな?1日で漕ぎ切るんだよな?
なら朝鮮半島の沿岸航行7千里もいけるよな? 489>>333
>大気中の14C濃度の増減速度が固定された炭素試料のベータ崩壊の速度と近い
値になると、長い期間の炭素試料が同じ14C年代を示すことになるんだよ <
関係ないんだよ。
例の図は、12個の桃の種のそれぞれの、
(1年以内分のC14の)AMS法の検査結果のグラフなんだから、
その12個の数値がほぼ全てが110年位の間になってしまった、という事は、
AMS法検査自体が、「1年以内→110年」となってしまうような、
欠陥検査であった、という事を示している、
と言っているの。 >>463
>つまり、道里を行動日数として統一的に記載したんだろ?
ただし郡使が通過したところは里数も併記されている。 つまり里数と日数がどちらもあるのが郡使が通過した区間、日数だけなのが倭人からの聞き取り。
邪馬台国は帯方郡から一万二千里、水行10日、陸行一月。 >>140の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>143)
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃「瀚海」↓↓〜玄界灘〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↖木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作↓〜〜
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」〜〜
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」〜〜
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 >>447
>しかしそのあと10日の所に国或いは官が居ないのが不自然、
上陸地点として、丹波を書いておいてくれれば問題なかったんだけどね
ないものねだりをしてもしょうがないが
庄内土器の出土する地域が丹波の籠神社周辺まで経路沿いに伸びているので
案外この辺までヤマトのうちと数えているのかもしれない
>吉備河内難波はどうすんのよ?
河内・難波は、畿内第V様式土器圏だから、ヤマト(邪馬台)七万戸のうちってだけ
吉備に関しては、
1. 通らなかったから知らない
2. 吉備の特殊器台が出雲でも出ているから出雲(投馬国)五万戸のうちと考える
3. 余傍国のうちのどれか
といったことが考えられるが、情報が少なすぎてこれ以上のことは言えない >>435
(詳細追加)
道の長さや道行きの難易によって同じ里数でも所要時間が異なること、
則ち「道里の遠近の違い(所要時間の違い)」を考慮し、各県ごとの所要日数として記載している。
これが九章算術の行道日数であり、単純に里数を言い換えたものではない。 >>453
>日本国内に陸行一月が妥当な土地はなく、陸行1日の間違いなんだろうねえ。
陸行1日ならわざわざ書かない
水行が終わって上陸した当日に着くってことは、海岸に着いたところでもうその国だから
実際末盧国にも投馬国にも陸行1日なんて書いてない
陸行1日の間違いとするのは、解釈ではなく捏造
実際、陸行1月で妥当な経路はある
https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg 489>>349
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説信奉者に、
正常な知能を求めるのが間違い >>450
>20日に10日、そんで陸路で行くと1ヶ月かかる所と解釈するのが普通でないの?
普通じゃないよ
じゃあ、投馬国までは陸行だと何日かかるの?
書いてないし、そんなこと考えるほうがおかしいでしょ? 489>>351
情報検索能力と、情報の精度、真偽を判断するだけの基礎知識(いわゆる情報リテラシー)と、
通常の史料批判の論理的思考能力さえあれば、今どき「まともな日本人」なら、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は支持しない
そういうことだよ 【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg >>470
>上陸地点として、丹波を書いておいてくれれば問題なかったんだけどね
不弥国から先へは行かなかったのではないか。 >>472
>水行が終わって上陸した当日に着くってことは、海岸に着いたところでもうその国だから
当日ではなく翌日夕方だろ。 >>459
>陳寿の書き方とは違うな。
陳寿の書き方と違うという根拠は?ww
陳寿は「計其道里、當在會稽東冶之東」と、計算してみたと書いている
そして、その計算を何で学んだかといえば九章算術が
当時の算術教科書のスタンダードなんだから、九章算術は読んでる
というか、計算に使う道里の表記法のスタンダードが九章算術の表記法ってこと
陳寿も当然、九章算術の表記法は知ってるし、それに従って書いてる 489>>352
つまりは、「南→東」などの嘘付き騙しの、今の大和説の人は
・情報リテラシーに欠ける
・論理的思考能力がない
・まともな日本人ではない
のいずれかにカテゴライズされる人たちということだね >>460
>里数が書いていないのは事実
そして、道里が略載されているのも事実なんだから、
「つまり投馬国は「女王国以北」ではない!」が間違い
結局「投馬国は南九州でよいのだ!」は否定される
Korea fatigueってっ知ってるかい
まったく同じことをやってるぞww >>468日本@名無史さん2019/08/05(月) 11:07:24.03
>つまり里数と日数がどちらもあるのが郡使が通過した区間、日数だけなのが倭人からの聞き取り。
>邪馬台国は帯方郡から一万二千里、水行10日、陸行一月。
ここのところは、書き手により食い違いがあり、邪馬台国は日数だけとも、日数+里数の併記だともいう。
どちらだが正しいというのかな。 >>461
引用部分を削ってごまかしてるなww
何度でも書いてあげるよ
陳寿は参照元の表現をそのまま尊重する傾向が強いことが確かめられており、
参照元が里数のところは里数、日数のところは日数で書いたとするのが多数説 >>465
>でも対馬海峡の渡海1区間千里は海上で一泊したりしないよな?1日で漕ぎ切るんだよな?
>なら朝鮮半島の沿岸航行7千里もいけるよな?
行けないよ
その渡海の一日のために体調を整えて疲れを取って臨むんだから、
それを毎日続けるのは無理 カス、ゴミw
なんだか知らないけど、偉そうなことばかり言わないほうが良いぞ >>467
>ただし郡使が通過したところは里数も併記されている。
うそをついちゃいかんな
里数で書いてあるところと、日数で書いてあるところがあるだけ
併記されているところはどこにもない
邪馬台国に行ってないというのは、金印と皇帝詔書を預かる魏使の立場から
ありえない
そして邪馬台国行きが「水行十日、陸行一月」と日数で道里が書いてあるんだから
投馬国も戸数道里略載の郡使が通過した女王國より以北の国というのは確定事項だ 489>>358
>それは通らないww ここがダメ
「情報の精度、真偽を『判断するだけの基礎知識』(いわゆる情報リテラシー)」
九州説に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む九州説の人はね<
それは通らないよ。
何せ、大和説者に、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの「具体的な根拠」を、
幾ら尋ねても、まともな返事が返って来ないなんだよ。
基本的な基礎知識や史料批判能力や史料事実からの帰納的確率的な推論をする能力が、
決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む大和説の人はね >>468
>つまり里数と日数がどちらもあるのが郡使が通過した区間、日数だけなのが倭人からの聞き取り。
>邪馬台国は帯方郡から一万二千里、水行10日、陸行一月。
九州説はこの嘘にしがみつくしかない
惨め極まりないなww
何度も書くが、邪馬台国に行ってないというのは、金印と皇帝詔書を
預かる魏使の立場から ありえない
そして邪馬台国行きが「水行十日、陸行一月」と日数で道里が書いてあるんだから
投馬国も戸数道里略載の郡使が通過した女王國より以北の国というのは確定事項だ
「自郡至女王國、萬二千餘里」は倭国全体の地誌情報を書き終えてからの
まとめの一文で、この自郡至女王國の「女王國」は卑弥呼が王をつとめる倭国のこと
倭国内の特定の場所までの距離ではなく、倭国が地の果ての遠い国という意味
萬二千里は邪馬台国までの距離を表すものではない >>478
>根拠なし
だから反論したいなら、具体的な根拠をつけて書けと何度言えば
九州説に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む九州説の人はね
九州説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり 帯方郡から九州上陸までの水上行は里数で明記されている。
しかし投馬国は水上行なのに里数は書かれていない。
投馬国は女王国以北で道里も書かれているというんだから、魏・帯方郡の役人が通過しなかったというのは理屈に合わない。 根拠の代わりに屁理屈を並べ立てる人に言われる筋合いはない。 >>479
>当日ではなく翌日夕方だろ。
上陸後1泊したら、陸行2日だよww
必死で考えた言い訳がそれかいww
それに、九州説の短里だと100里でも7キロくらいにしかならないぞ
百里といえば、伊都国と奴国の距離、奴国と不彌国の距離だ
翌日の夕方まで歩いたとして、何キロ歩くつもりだ?
20キロも歩けば3百里くらいになって、間に国が二つ三つあってもおかしくないぞww
どうやっても、「陸行一月は一日の間違いにだ」っていうのは、通らないよ >>480
>チェリーピッキングの典型
どこが?
チェリーピッキングっていうのは、都合のいいところだけ拾って、
都合の悪い所を見て見ないふりをすることだぞ
拾われていない都合の悪い情報がどこにあるか具体的に指摘してごらん?ww
倭国の政情調査が任務の魏使の経路としては倭国第二の大国である投馬国・出雲を通るルートが合理的
北部九州と出雲、出雲と大和を結ぶルートとして合理的な経路を連結しているだけだ
論理的かつ合理的だろ? >>481
>文脈を理解していない0点
反論したければ、具体的な根拠をつけて!
この場合なら、どのような文脈なのかを具体的に示さないと!
九州説に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む九州説の人はね
九州説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり
Korea fatigueってっ知ってるかい
韓国とまったく同じことをやってるぞww >>492
>「自郡至女王國、萬二千餘里」は、、、
>倭国内の特定の場所までの距離ではなく、倭国が地の果ての遠い国という意味
>萬二千里は邪馬台国までの距離を表すものではない
では問うが、倭国の範囲は九州だけか、本州西日本も含むのか、はっきりしてほしいな。 日本でも、どこでも良いんだけど・・・国の仕組み?
など知らないだろう、テレビに出てくる人間がTOP? >>495
>帯方郡から九州上陸までの水上行は里数で明記されている。
それは設定値であって、測定値ではない
設定値だから、機械的に出てくる数字
地理的な推定の根拠には使えない
>しかし投馬国は水上行なのに里数は書かれていない。
投馬国に対する設定値がないからね
魏使の記録にしたがって「日数で道里が記載されている」だけ
>投馬国は女王国以北で道里も書かれているというんだから、
>魏・帯方郡の役人が通過しなかったというのは理屈に合わない。
道里は書かれているだろ? きちんと日数で?ww
もちろん、魏・帯方郡の役人は投馬国を通過しているよ、
だから戸数も道里も記録され略載されている
というかわざわざ投馬国を通るルートで邪馬台国まで行ってる
この>>495のように、里数で書かれていないからおかしいと言い出す人がいるから
FAQ78は必要ww >>496
>根拠の代わりに屁理屈を並べ立てる人に言われる筋合いはない。
屁理屈だといいたいなら、屁理屈であることを具体的な根拠とともに示せばいい
屁理屈なら、理屈に合わない部分がある訳だから、そこを突いて反論するだけで
簡単に否定できるはず
それをせずに、逃げ口上を書くだけなんだから、九州説は総じて無能ww
九州説に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む九州説の人はね
九州説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり
Korea fatigueって知ってるかい
韓国とやってることがまったく同じ!ww >>500
>では問うが、倭国の範囲は九州だけか、本州西日本も含むのか、はっきりしてほしいな。
はっきりしてるだろ?
この範囲だよ
https://i.imgur.com/pOB095u.jpg >>452
>南至投馬国、水行二十日。可五万余戸。
>南至邪馬壹国、女王之所都。水行十日、陸行一月。可七万余戸。
「自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。」
「次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、
次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、
次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。」
「此女王境界所盡。」
「其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。」
>自郡至女王國、萬二千餘里。
>この「 」の部分をカットしてごまかしているだけ
其餘旁國遠絕、不可得詳。
この不要部分関連をカットしたからといって、主題に何の影響があるのか。
反論に困って、やみくもに噛みつきまわってるのではないかな・・、 489>>383
「南≠東」などの批判に、
反論が、まったく出来ない大和説 もれ自身(仮)が日本なんて応援していないんだよ、
何度言えばわかるんだ、どこかの池沼なんだろ? >>458
>戸数と距離が、それぞれ独立に書いてあるんだよ <
じゃあ水行の里に戸数関係ないじゃん
ご丁寧にもFAQで戸数入れてるじゃん 日本が〜w
成り済まし、騙りというのがいて、
そいつが勝手にやっているだけなんだろう?
人の家(名などを)を騙っていて >>497
>上陸後1泊したら、陸行2日だよww
1日がかりで渡海した後に陸行することはない。
翌日の朝から夕方まで歩くんだよ。 >>499
>Korea fatigueってっ知ってるかい
>韓国とまったく同じことをやってるぞww
韓国の肩を持つわけではないが、ヘイトスピーチには反対だ。 FAQ78の
>甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」) <
この計算式 何が言いたかったの? >>505
なんだい、それを早く云え。
ま、言えば言うほど現実離れのワコクだが、
陳寿は、九州上陸までを1万里、残り二千で富士山以西全部をワコクとして語ったというのか。
良く覚えておこう。 【倭国】
弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭国が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことであるという説がある。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
連合国家である倭国の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は一貫して筑紫が独占していた。
卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 ザコ、カス・・・何だか知らないけど、
なぜ、すべて知っているかのような事を語っているんだ 早朝にキウスが「渋野」ではなく「澁野」と書いてるなw
やはり日本語文字入力ソフトがデフォの機器を使っていないようだ カスみたいな話題ばかりだな、
何が面白いんだろうw お前の言っている澁〜?どう見ても朝鮮人だろうw
日本人なの? 畿内説も九州説も四国説も同じことを繰り返し言っているだけ
たいした根拠にもならないことを客観的な根拠だと言い張り「俺が正しいと思っているから正しいに決まっている」という感じ
全く議論になってない。
特にキナイコシと呼ばれている人はひどい。客観的な証拠とも思えないものをなぜそこまで「客観性がある」と言いはれるのか不思議 本当に日本人なのか?
モレ(仮)から言わせて貰うと大爆笑なんだけどw
池沼の頭の中「❓」? 畿内説に根拠はあるぜよ
大和 三角縁神獣鏡 前方後円墳 九州説は言いがかりをつけに来てはあえなく論破されて追い散らかされる >>505
陳寿は九州上陸までを1万里、残り二千で、関東・富士山以西の全部をワコクとして語ったというのか
それで畿内説は頭と両肩に力が入り過ぎているのだな。
荒唐無稽とはこのことだ。 畿内説は脳が筋肉だからなあ。
先輩に逆らったら飯が食えなくなるんだよなw
これは、他に何も取り柄のない能無しということの証でもあるw 畿内説は、 「オレたちゃ、古代三世紀の日本国をしょって立ってる」、という思い込みと自負心でいっぱい。
だから、何が何でも九州と四国をやり込めなくては・・、といきり立って
大本営発表式のカキコをしてくるんだな。道理で、学術論議・論争にならないわけだ。 大本営参謀長・奥山某
周りから見ればアレだが、本人はこのように思い込んでいるのだろうな・・・ 戦争、軍人の話?
死んでも良いような人間ばかりを集めて・・・という話でしょ 489>>393
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、今ごろ、
あれー何で否定しても否定しても里≠日数である事が事になるんだろう、
と不思議に思っていることだろう
それは里≠日数である事は、人類の常識であり、この世の普遍的原則だからだ
わかったね >>458
>戸数と距離が、それぞれ独立に書いてあるんだよ <
じゃあ水行の里に戸数関係ないじゃん
ご丁寧にもFAQで戸数入れてるじゃん 489>>403
まともに議論できない人
それが「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者 FAQ78の
>甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」) <
この計算式 何が言いたかったの? 『ドリフターズ』という作品、
家と同じ名前(上の名前)の人物が出てくるんだけど、
戦闘機に乗っている人物w
なぜか老婆も同じようなことを言っていたり
当時あった戦争に参加?行こうとしたんだけど、
何やらとか、 家は・・・キュウリの葉、葱の華・・・、
写真があるでしょ、この写真の家
軍人、警官の家でもないと言っていたし 陳寿は、九州上陸までを1万里、残り二千で関東・富士山以西の全部をワコクとして語ったというのか
当人以外は、誰が読んでも聞いても物笑いのタネだ 老婆の夫という人がいるでしょ、
わかりやすく言うと、家のおじーちゃん(おずぼーん)?
でも年齢も違うしな・・・老婆が大正の一桁生まれ、
オズボーンはもっと上、何なんだろう >>494
根拠なく妄想をひけらかしてるから
「根拠なし」だよ? 何度でも、吊るし上がっている奥山氏の意見を貼り付けて、笑いリラックスすれば、良いな。。
766日本@名無史さん2019/08/03(土) 14:46:52.04
>>761
そうだね、、、
奥山氏は、頭が悪すぎるので、矛盾してしまったな。
奥山氏は、投馬国への日数が、道里だから、女王国以北だと考えたが、
邪馬台国が、女王国以北でないなら、7万戸数の邪馬台国は、其戶數道里可得略載には、あてはまらないので、日数が道里の略載でないことになるね。。
753日本@名無史さん2019/08/03(土) 14:26:08.93
>>730
>畿内説だと大卒が検察した「女王国から北」がどこだかわからなくなるしね。
どうして?
対馬国から投馬国までの国だよ?
投馬国まで女王国より以北の国なんだから、当然だろ? 奥山氏は、邪馬台国を、自女王國以北だと考えているのであれば、道里に対しての奥山氏の意見は、矛盾しないが、
邪馬台国は、一大率に検察されていることになるね。。。 >>453
>日本国内に陸行一月が妥当な土地はなく
そんなバカな。 ちゃんと有りまっせ。 @阿波
「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道) 途中の河川は川船で渡河
投馬国(土佐国宿毛) ? 魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 ? 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日 @阿波 >>453
>日本国内に陸行一月が妥当な土地はなく
そんなバカな。 ちゃんと有りまっせ。 @阿波
「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道) 途中の河川は川船で渡河
投馬国(土佐国宿毛) → 魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 → 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日 @阿波 489>>410
>古代中国では1日で歩く距離は60里と目安がありました<
三国志の裴松之注では、1日の歩く距離は200里だ、という説明がありますから、
×です。 >>447
>しかしそのあと10日の所に国或いは官が居ないのが不自然、
それは、「10日 or 一月」 だからだよ。 @阿波 >>470
>河内・難波は、畿内第V様式土器圏だから、
それを言うなら、「東阿波型土器圏」と言うべきだろ? ワハハハハ @阿波 >>421
書き分けられていたから、不彌國や邪馬壹國女王之所都で萬二千余里がほぼ終了し、
投馬國も不彌國の南へ水行二十日の位置にあった事になる。
投馬國も、女王国より北の国々に含まれず、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が終了するという事に代わりはないんだぞ… 489>>423
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が、
不利を自覚するあまり
道理≠日数は不利でした、
と宣言をし始めた >>553
ないよ
九州説の好きな
捏造だ
あるなら出してみろ
出せないだろう
捏造だから 489>>424
しかしこうなると、道理≠日数を大和説は認めた事になり
投馬国は女王国より南になって
「南≠東」によって女王之所都をを大和に設定できなくなって
大和説はこれにて終了 489>>428
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
邪馬壹國女王之所都を大和にしなきゃならないというセルフ縛りが
愚かすぎ
「南≠東」も視野に入れれば多少はマシなのに 489>>435
○里と書いてあれば、そりゃ道里。
○日と書いてあれば、そりゃ日数。
日数は道里でない、という事には、違いがない。 >>506
日本語理解できるか?
>この不要部分関連をカットしたからといって、主題に何の影響があるのか。
>反論に困って、やみくもに噛みつきまわってるのではないかな・・、
「自郡至女王國、萬二千餘里」が邪馬台国の記事の直後にあるなら、この
女王國が邪馬台国を指すという読み方もないではないが、倭国の地誌をすべて
書いた後の女王國だからここでの女王國は倭国そのもののこと
倭国の中の特定点を指した表現ではない 陳寿は、
九州上陸までを1万里、残り二千で富士山・関東以西の全部をワコクとして語ったというのか
当人以外、誰が読んでも聞いても物笑いのタネだ >>509
>じゃあ水行の里に戸数関係ないじゃん
>ご丁寧にもFAQで戸数入れてるじゃん
魏志倭人伝の原文は、自女王國以北、其戶數道里可得略載で、戸数も入っている
これが第1点
次に、「道里遠近と道里は別だ」とか、「『道里』と『遠近』は別だ」という言いがかりを
否定するのに「道里遠近」と「戸数多少」をセットで解説する必要がある
これが第2点
この二つの理由で、バカにも分かる説明をするのに戸数も必要なんだよ
Korea fatigueってっ知ってるかい
まったく同じことをやってるぞww それで、日本は終了するんだけど?
どう思っているの >>511
>1日がかりで渡海した後に陸行することはない。
>翌日の朝から夕方まで歩くんだよ。
朝から夕方まで、何キロ歩くつもりだ?ww
7キロ歩いたら、次の国に着いてしまうぞw >>512
>韓国の肩を持つわけではないが、ヘイトスピーチには反対だ。
どこがヘイトなのか、具体的に説明してくれるか?
九州説に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む九州説の人はね
九州説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり >>514
>卑弥呼の死後に古墳時代となるんだね。
いいえ、卑弥呼の共立時から古墳時代です
全国規模の土器の規格化と墳墓形式の規格化が2段階で生じている
「庄内式土器と纒向型前方後円墳」が第一段階
「布留式土器と定形化前方後円墳」が第二段階
第一段階が卑弥呼の共立による政変
第二段階が卑弥呼の死に伴う政変 にそれぞれ対応していると考えれば理解しやすい
以前は第二段階以降を古墳時代つまり箸墓古墳遺構を古墳時代としていたが、
近年は第一段階から古墳時代草創期と、古墳時代として位置づけるのが通説化しつつある 中国、韓国、朝鮮が〜と言っている人がいたりするでしょ、
お前が想定(その国が終了するとか)しているような事にはならないんだけど FAQ78の
>甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」) <
この計算式 何が言いたかったの? >>562
>女王國が邪馬台国を指すという読み方もないではないが、倭国の地誌をすべて
>書いた後の女王國だからここでの女王國は倭国そのもののこと
ワコク全体が女王国といっても、それは九州から富士山・関東までの其の余の傍国を含んだ広大な地域になるだろ。
其のどこまでが萬二千里だというのか、そんな文章はない。
倭国まで萬二千余里なら、自郡至倭国萬二千余里である。 >>522
>特にキナイコシと呼ばれている人はひどい。客観的な証拠とも思えないもの
どれがどうして「客観的な証拠と思えない」のか、具体的な例示、
具体的な根拠とともに論じてね!
九州説に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む九州説の人はね
九州説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり
Korea fatigueってっ知ってるかい
韓国とまったく同じことをやってるぞww >>528
>荒唐無稽とはこのことだ。
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、こんにちは
どうして荒唐無稽なのか、具体的な根拠とともに論じてね!
九州説に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む九州説の人はね
九州説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり
Korea fatigueってっ知ってるかい
韓国とまったく同じことをやってるぞww 日本語には「情報リテラシー」なんて言葉の使い方は無いw 489>>436
>14Cなどの放射性物質の崩壊速度は周りに影響されることなく、
放射性物質の量は一定の比率で減衰していく<
当然の事ながら、その原子核内での「場の相互作用」の場に、
周りからの電磁場や重力場や核力場の侵入があれば、その影響を受けて、
放射性物質の種類や量の増減が発生する。 『軍師様』というネット用語があるんだけど?
『倭猿』と同じ意味でしょ >>529
>関係ある根拠をどうぞ。
そうやって逃げまくるだけのダメ人間の集まりが九州説
3世紀時点で
全国規模の土器の規格化と墳墓形式の規格化が2段階で生じている
「庄内式土器と纒向型前方後円墳」が第一段階
「布留式土器と定形化前方後円墳」が第二段階
https://i.imgur.com/pOB095u.jpg
第一段階が卑弥呼の共立による政変
第二段階が卑弥呼の死に伴う政変 にそれぞれ対応していると考えれば理解しやすい
以前は第二段階以降を古墳時代つまり箸墓古墳遺構を古墳時代としていたが、
近年は第一段階から古墳時代草創期と、古墳時代として位置づけるのが通説化しつつある
この中心が、畿内大和の纏向遺跡なのは確実
そして、3世紀に纏向遺跡が存在したことは
大型祭祀土坑出土の桃核の14C年代計測で確定
https://i.imgur.com/qOswdpR.jpg
これで、関係している確実で客観的な根拠だぞw
反論したかったら、具体的な根拠を付けて論じてね!
「僕ちんは信じないにだー」じゃダメだよww
根拠は僕がそう思ったから
編年研究は信じない
文献解釈はアクロバット
考古遺物は弥生全期間で見るが弥生終末期限定のものは見ないww 日本に天皇という人(家)がいるでしょ?
自体が工作員だと言っている人がいたり >>544
>根拠なく妄想をひけらかしてるから
「根拠のない妄想」だとどうして判断したのか、具体的な根拠とともに論じてね!
例えば、こちらの書き込みをそのまま引用して、
どこに根拠がないのか具体的に指摘するなどしないとww
九州説に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む九州説の人はね
九州説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり
Korea fatigueってっ知ってるかい
韓国とまったく同じことをやってるぞww 陸行や水行の日数は、道里の略載ではありません。
頭が悪すぎる、破綻した邪馬台国畿内説の宣伝係員の大人は、小学校から勉強をやり直して下さい。 >>575
>陳寿は九州上陸までを1万里、残り二千で、関東・富士山以西の全部をワコクとして語ったというのか(どう見ても里数が釣り合わない)
畿内説のステークホルダーさんは、英語には強いが、「根拠」という日本語の意味は分からないのではないであろうか >>547
>文脈は既出
ならどこで既出なのか、具体的に示してよ
こっちはいちいち、具体的に引用して説明してるぞww
まあ、既出ってことは既に否定されていて、それを引用しないことでごまかしてるんだろう?
違うというなら、具体的に示しなさいな
九州説に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む九州説の人はね
九州説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり
Korea fatigueってっ知ってるかい
韓国とまったく同じことをやってるぞww このスレでも同じことを言ってる人がいたりw
日本の天皇は工作員のような家で〜 489>>437
>高エネルギー粒子(宇宙線)の侵入で生じる粒子シャワーが影響するのは、14Nから14Cへの転換、
つまり14Cが増える方の反応であって、減る方のベータ崩壊には影響しないよ <
14Cが増えた、と自分で言っているアホ。
>それに粒子シャワーで局所的に14Cの濃度が上がっても、すぐに拡散してしまうから
その時代の14Cの量が激変したりしないよ <
拡散では、増えた14Cの量は変らない。
>というか、全球で見れば粒子シャワーはほぼ常に生じてるよ<
つまり、14Cの量が増えた。 >>548
>倭人伝と何も関係ないな
残念ながら、>>579でも示したように考古遺物で伊都国、奴国まで含む祭祀連合が
既に成立していて、その中心が畿内大和であることが示されてしまっている
同時代のことを考古学的アプローチと、文献史学のアプローチで研究して、
時代と地理が重なるなら、無関係と考える方がおかしい
これを否定する理由が、
「根拠は僕がそう思ったから」
「編年研究は信じない 」
「文献解釈はアクロバット 」
「考古遺物は弥生全期間で見るが弥生終末期限定のものは見ないww」
だっていう時点で、九州説は終わっているw
九州説に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む九州説の人はね
九州説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり
Korea fatigueってっ知ってるかい
韓国とまったく同じことをやってるぞww >>587
奥山氏の部屋には、エアコンディショナーが無く、熱中症対策が出来ていない可能性があるな。。。 近代、最近まで?
「倭」と呼ばれていたと言っている人もいたでしょ >>561
>○日と書いてあれば、そりゃ日数。
>日数は道里でない、という事には、違いがない。
でもザラゴキ自身で、九章算術では道里が行道日数で書いてあるって言ってるなw
Part488 >569
『「道里」を「行道日数」で書いた九章算術』
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1564455616/569
これ書いたのザラゴキだろ? 古代日中関係を語るのに、情報リテラシーとか、日英チャンポン語を繰り出して笑いを誘ってる。
畿内説≒お笑い吉本 489>>438
>里を日数で表すことができる、ではなく 道里を日数で表すことができる、でよい<
漢書や陳寿は、日数説明は、道里説明での補助的補完的な使用であり、
メインの説明ではない。
>今問題にしているのは、戸数道里略載の道里が日数で表せるかどうか、だからそれだけでいい<
陳寿の「戸数道里略載」の道里は、原則として「里数」記載。
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者の、
論点そらしにつきあう必要はないよ 奥山氏が、壊れてしまい、同じ個所を繰り返すレコードになってしまったな。。 >>571
>其のどこまでが萬二千里だというのか、そんな文章はない。
そりゃそうだ
萬二千里ってのは倭国の特定点を指しているものではないからな
東京から北海道まで900キロって言ったときに、
北海道のどこかまで900キロってことじゃないのは分かるな
そりゃあ、北海道のなかに東京から900キロ地点というかラインはあるけれど
萬二千里という極端に大きく観念的な数字は、倭国が世界の果てに
匹敵する絶遠の地に存在するという表現だよ
短里で萬二千里しか、九州説が頼りにできるものがないから必死だな
九州説が萬二千里を根拠にするためには、
「短里が存在すること」
「短里で測定されたこと」
を証明しないといけないが、既に両方とも具体的に否定されている
残念でした >>592
>○日と書いてあれば、そりゃ日数。
>日数は道里でない、という事には、違いがない。>これ書いたのザラゴキだろ?
それは、畿内説の自作自演。 489>>439
>その萬二千里も一万里も現実の地理と関係ない設定値だから気にしなくていいよ<
陳寿の「余」の有無を付けて区別した記載は、全て、
魏使らの実地の見聞計測記録の里数からの近似値説明。 脳内(妄想)〜軍師様?は、
お前の創作だけにしておいたほうが良いぞ >>446
>全く同意します。 北九州から出雲まで、山陰の日本海側を航行する場合<
「南≠東」だから、×です。 >>592
>萬二千里という極端に大きく観念的な数字は、倭国が世界の果てに
>匹敵する絶遠の地に存在するという表現だよ
九州上陸まで一万里なのに、あと二千里で世界の果てに>匹敵する絶遠の地に行けるものか。
陳寿さまを小ばかにする帰化。 >>576
>日本語には「情報リテラシー」なんて言葉の使い方は無いw
はあ〜(ため息)
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情報リテラシーとは
情報リテラシー論
情報リテラシー 例
情報リテラシー レポート
情報リテラシー 意味
情報リテラシー 具体例
情報リテラシー 必要性
既に普通に使われる用語だよ
近年の情報に触れていない、キャッチアップができていないことを自白していくスタイルなんだねww
まあ、九州説ってのは30〜40年前からまったく進歩してないから、あたり前かw >>583
>畿内説のステークホルダーさんは、
>>575は九州説の人の書き込みだよ?
畿内説は>>575のような、そんな頭の悪そうな書き込みはしない >>602
根拠はググるw
英文では読解力の意味だからググればいくらでも出てくるんだぞw
実社会では使いません、無職には理解できないんだよなw むかーしの渡来人がいるでしょ?
確実にいるんだけど、仏教関係でもいるでしょ >>603
小学生の悪ガキみたいな言い訳するな。頭の悪そうな自作自演の畿内説。 九州上陸まで一万里なのに、あと二千里で世界の果てに匹敵する絶遠の地に行けるものか。
陳寿さまを小ばかにする帰化。 >>601
>九州上陸まで一万里なのに、あと二千里で世界の果てに>匹敵する絶遠の地に行けるものか。
>陳寿さまを小ばかにする帰化。
光武帝の頃、後漢の初期には世界の果ては漢土の端から一万里だったんだよ
それが淮南子で萬二千里にバージョンアップされたから、
倭国に着くまで一万里、倭国・女王國まで萬二千里という設定になってる
昔、朝貢してきたのが奴国で、そこまで=九州上陸まで一万里ということ >>581
え?あなたがやってることですよね
根拠を書いてないのに根拠があるなんて嘘ついてるからね >>605
>実社会では使いません、
世間が狭いんだねww
まあ、九州説をやってるくらいだからしょうがないかww >>584
まともに引用もしないキナイコシに従ってるだけよ >>612
>根拠を書いてないのに根拠があるなんて嘘ついてるからね
だから、どの部分が根拠なく書かれているのが、具体的に指摘しなさいって!
こっちの書きこみの該当箇所をそのまま引用して指摘するだけの簡単なお仕事だよ?
それすらしない、できないから、九州説は無能ってのが定着してるんだよww
九州説に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む九州説の人はね
九州説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり
Korea fatigueってっ知ってるかい
韓国とまったく同じことをやってるぞww >>588
鉄鏃が古墳からしか出ない畿内はお呼びでないよ >>613
だから日本猿って言われてんだよお前らはw
英国人が気持ち悪がってたぞw
英語っぽい変な言葉並べたがる猿だとさw >>611
>倭国に着くまで一万里、倭国・女王國まで萬二千里という設定になってる
>昔、朝貢してきたのが奴国で、そこまで=九州上陸まで一万里ということ
そんなら倭国・奴国から倭国・女王国まで二千里ではないか。
自ら語るに落ちた畿内説。、 >>614
>まともに引用もしないキナイコシに従ってるだけよ
いちいち批判箇所は引用してるぞ?
言い逃れができないようにねww
九州説には、無能力者が多すぎる、というか無能しかいない
根拠は「一切の根拠を示さない>>612、>>614のような書きこみ」←具体例の提示w 489>>455
>>則ち、行道日数を用いて、道里を略載することはできないのである。<
>あほ
婆利国、自交阯浮海、南過赤土・丹丹、乃至其国。
国界東西四月行・南北四十五日行。(隋書)<
あほ?。
「国界東西四月行・南北四十五日行」は、
其国の大きさの「行の日数」説明であって、
「自交阯浮海、南過赤土・丹丹」の途中移動の距離説明になっていないではないか。 漢人というのは中国人のことなんだけど、
あの人は・・・中国人(むかーしの渡来)だったの?みたいなことにもなるんだけど 489>>457
「南→東」などの嘘付き騙しをして、言葉尻を曲解捏造して、
いくら荒らそうとしても無様に負ける大和説者。 >>619
>そんなら倭国・奴国から倭国・女王国まで二千里ではないか。
>自ら語るに落ちた畿内説。、
だーかーらー、萬二千里は倭国・女王国の中の特定点を指していない
東京から北海道まで900キロって言ったときに、
北海道のどこかまで900キロってことじゃないのは分かるな
そりゃあ、北海道のなかに東京から900キロ地点というかラインはあるけれど
萬二千里という極端に大きく観念的な数字は、倭国が世界の果てに
匹敵する絶遠の地に存在するという表現だよ
「自郡至女王國、萬二千餘里」は倭国の地誌をすべて述べた後の、
倭国の全体的な位置を示す描写なんだから >>615
元文にはどこにも根拠を表現する言葉がないから
小学生で習うはずだけど
根拠を言うときはどう応えればよかったか? 奥山氏は、一度も、淮南子での世界の果てまで萬二千里と魏志倭人伝の自郡至女王國萬二千餘里が、同じ概念だという証明しないので、
他の者から見れば、奥山氏の空想でしかない、、、
淮南子での世界の果てまで萬二千里と魏志倭人伝の自郡至女王國萬二千餘里が同じ概念だ、、、
と言い張る、他の者から見れば発狂者でしかない者になってしまったな。。。 漢人(渡来人)という人(家)がいるでしょ、
なぜ日本の先住民なんだ? 萬二千里厨は、これに具体的な反論ができない時点で終わってるってことを十分に噛み締めなさい
九州説が萬二千里を根拠にするためには、
「短里が存在すること」
「短里で測定されたこと」
を証明しないといけないが、既に両方とも具体的に否定されている 489>>459
>大月氏国、治監氏城
去長安万一千六百里。不属都護。戸十万、口四十万、勝兵十万人。
東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。(漢書)
行道日数を用いて道里が略載されてますが <
「行道日数」で書かれたのは、里数の実測的情報が無くて、
「日数情報」しかなかったから、補助的補完的な説明での使用。 淮南子での世界の果てまで萬二千里と魏志倭人伝の自郡至女王國萬二千餘里が、同じ概念である証拠も必要性もないな。。。 489>>460
>常識的に考えれば 日数=道里との解釈でいいんでねーの<
日数≠道の里数、であるから、厳密には×。 淮南子には、一寸千里の法と同じ考え方で、一里の長さを規定している箇所があったな。。。 当時の話、先住民だと言っている人物から見てw
先に、その地に住んでいたんだろうというだけ
例えば東京でも同じ、北海道から来た人から見ると、
東京に住んでいる人でも先住民(東京のw) >>624
>倭国の全体的な位置を示す描写なんだから
おかしいではないか、
始めは、萬二千里は世界の果てという意味の概念といっていたのに、
先には倭国女王国までの里数と云い、こんどは倭国の位置を示す描写というのか。
おい、下っ端バイトじゃ相手にならん、親分バイトと替われ、、。 >>463
>これも、里数が書いてあるところまでは役人(調査団?)が行ったということ。<
そうでしょうね。
日数で書かれた箇所は、おそらく現地の人からの伝聞情報。 >>568
>近年は第一段階から古墳時代草創期と、古墳時代として位置づけるのが通説化しつつある
みんなで言い張っているだけ。
畿内説は儒教の世界に浸かっているから、先生に逆らえない。 >>620
まともな引用もできないキナイコシともいう 邪馬台国畿内説に、論破されていない根拠は、なくなってしまい、
残っている可能性は、もう殆ど無いのではないのかな、、、 もしかして・・・頭が良いんじゃないのか?と思っているでしょ?
土民(不明)から見ても同じ、
例えば土民が中国大陸(先進国)に渡るでしょ・・・そこに住んでいたのは先住民 >>571
>ワコク全体が女王国といっても、それは九州から富士山・関東までの其の余の傍国を含んだ広大な地域になるだろ。
>其のどこまでが萬二千里だというのか、そんな文章はない。
キナイコシ、答えてやれよ。 >>605
情報リテラシーって言葉が「分からなかったから」
これだけ煽られてるのに無反応だったんだww
すごいなww >>575
>邪馬台国の会のステイクホルダーさん、こんにちは
根拠なし。
キナイコシの適当な反論めいたものはいつも的外れで笑い物のタネ。 >>632
太陽の高さと関係がある部分だったね。。。 >>579
>「庄内式土器と纒向型前方後円墳」が第一段階
>「布留式土器と定形化前方後円墳」が第二段階
ああ言えばこう言う 489>>468
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説
ついに発狂 例えば、日本から英国に渡っても同じ、
そこに住んでいたのは先住民
日本から英国に渡った、日本人視点 このスレを見たら、畿内説がいかに狂っているか、誰もが理解するだろう。 >>611
畿内説は変な妄想に浸り始めたな。
いくらどうやっても、畿内は魏志倭人伝にあるような帯方郡から一万二千里にならないもんな。 >>611
>倭国に着くまで一万里、倭国・女王國まで萬二千里という設定になってる
>昔、朝貢してきたのが奴国で、そこまで=九州上陸まで一万里ということ
その縮尺で残り二千里でどこまで行ける? キナイコシは考古学的な成果をいろいろチェリーピッキングしてるだけ 489>>474
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説にとっては、
そうかも知らんな
九州説は、大和説者や嘘つき騙し文言の「畿内説」者が、
どうやっても乗り越える事のできない高山。 >>644
天文に関係する章の、終わり近くだったな。 先住民だと書いている人がいるでしょ?
実際は未開人、ただ先住民だと・・・w >>624
>東京から北海道まで900キロって言ったときに、
>北海道のどこかまで900キロってことじゃないのは分かるな
バカだろ。
普通は都庁から道庁までとか、羽田から新千歳空港までとか、基準点で示すもの。
キナイコシは畿内説をごり押しするためにここまででまかせを言うのか。 489>>477
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
まるで京都アニメ放火犯のように、
ナメた態度で何も持たず短パンにサンダルで山に挑み
遭難して彷徨ったあげく谷底に転落死亡する者のごとし >>611
>倭国に着くまで一万里、倭国・女王國まで萬二千里という設定になってる
>昔、朝貢してきたのが奴国で、そこまで=九州上陸まで一万里ということ
その縮尺で残り二千里でどこまで行ける? 489>>478
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者に、
「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む大和説の人はね
大和説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり アイヌ、えみし〜でも同じ、
現在、東京に来たり(引っ越しをしてきた)するでしょ?
先住民ばかりだな・・・・みたいな話 489>>487
大和説者の「南→東」などの嘘付き騙しは、屁理屈でもリテラシーではなく、
史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの、・・・・アホ詐欺だな。 例えば、
モマエ(あなた、おまえという意味)が、
モレ(仮)の家の近所に引っ越してきたとしようか
もれ(仮)は先住民 489>>485
主張しているが何かな
道理≠日数 日数≠道理
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、破綻 先住民は先住民なんだろうけど、
本当の意味では・・・? 489>>486
必死だねえ
不彌國から南の投馬国の「水行二十日」を「道里」と認められなかったら、
大和説死亡確定だから 奥山氏が、朝鮮半島の先住民族であることを、主張しているのではないのかな、、、 >>645
土器と墓制に相関関係がある、という根拠は何? 489>>487
バカだよなぁ、「南→東」などの嘘付き騙しの類スレ主は。
これまで何度も「道里≠日数」も「里数≠日数」も、「日数≠道里」も、
それに値を与えたっても、×だ、と教えてるだろうが! お前たちは三國志が好きなんだろうw
例えば、とある地の話。
某(土、未開人?)という人がいて、
その某さんが劉さんの家の隣に引っ越しをしてきた、
某さんから見ると劉さんは先住民。 >>669
南は東ではありませんでした。
気のせいでした、すみません。 >>673←おまわりさん、コイツです。
逮捕して下さい。 >>1
この時代の話?
倭何やら〜という人物がいたみたいなんだけど、
その倭何やらの家の人物が〜〜〜〜□氏の家の近所に引っ越しをしてきた、
または見回り、見学でも良い そもそも弥生時代における、倭人というのは、危険な海を渡って貿易を営める一定の人種で主に韓国と九州を行き来していた。
卑弥呼時代の大陸の覇権国家はそんな危険な海へ出る必要はなく技術も知識も乏しいため、海の向こう側にある大陸の情報源は非常に興味深く覇権争いの対象ではなかった。
しかし大陸の覇権争いが激化したことで、韓国側に住む倭人は日本側へ追いやられたが、大和を建国して力を蓄え、韓国側の利権を拡大すべく努力した。
これが大和朝廷と近畿が急速に発展した理由。
なので邪馬台国は大和朝廷の前の時代の別組織のお話。 489>>493
>渡海と水行は別の概念<
渡海は、水行の一形態であって、水行に含まれる概念。
類スレ主は、・・・・アホ詐欺師。 >>668
>土器と墓制に相関関係がある、という根拠は何?
それは、ともに「忌部はん」 がもたらしたものだからさ。 ワハハハハ @阿波 清水 眞一氏
私は20年間、大和の中央部・桜井市で、
「邪馬台国は何処(いずこ)」とのテーマを持って、発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して、女王卑弥呼を擁立するまでの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐古・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上曽根遺跡や田能遺跡などと比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に100メートル以上もの巨大古墳が、なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと考えざるを得ない状況であるとみた。
では、誰が何処からきたのか? 考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。 489>>495
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者に、
「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む大和説の人はね
大和説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり >>681
>卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。
「丹」の採れない北部九州に、卑弥呼の邪馬台国などある訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>680←おまわりさん、コイツです。
私刑にして下さい。 頭が悪すぎる事が判明した、朝鮮人のベジタリアンである奥山氏は、、、
例えば、150日の農閑期の間に、各地の100程の村の村長に率いられた、10kg以上の3週間分の自分達の食料を担いだ30人づつが来訪し、道里遠近での食料消費に応じて労役期間を決定し、平均で7日づつ、交代で労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、140人程度でしかないという真実は、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然で、卑弥呼の都の可能性があるのだという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのだ、、、
という僕達の真実の発表に、反論しないので、やはり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました。。。 >>683
>そもそも畿内には女王が居た痕跡が無い。
九州も同じ穴のムジナ。 ワハハハハ @阿波 その倭猿(不明)というのも、
kingの家に近所に引っ越しをしてきたという話なんだろうけど
だからking(王)のほうが先住民?のようになっていたりするでしょ、
kingは先住民だと言っている人がいたり 九州チョン
:_ ..、 ..__ 、___
_jllll′ ョ- 4il||l "lll'、 ‐ 、 _..-''lllliin 、 _ `''||ゞ'
,ョ广 ゙廴_j=冖゙゙'ll'、 .llll′ `||li '''l 、 ,j广 l|! "ll'、 、 __ョ=ョ 、 ,,_、 、 ..,,_
、l|′ :、_uil||l' _ __'||l |lll′ lll _. |ll'、:lll′ _lll′ lllll ゙'il|l′ "lll| ゙llll| l||l l||l′
'llL_ "'´ |ll、゙゙''冖′ lll 、 llll 〃 ..ulll!' ‖ ,jlll′ _|lll′ ||l ゙llll ./゙l||| l||′
゙l||li、 |ll、 'll'、 ,__〃 ゙||lli ゙゙ 'l|l'′ ,,._lll′ ,,lll′ .|lll’ `'l|||′
`il|l' il|l `'ill||lll''~ ~~ ` -‐'~~ ..l广 .`'' ゙''′
; ∧,_∧: 悔しいニダァァアーーッ!!!
:<;l|l;`田´>;
(6>>6859):
:ム__)__) >>656
>バカだろ。
>普通は都庁から道庁までとか、羽田から新千歳空港までとか、基準点で示すもの。
>キナイコシは畿内説をごり押しするためにここまででまかせを言うのか。
ここまで説明しても、理解できないんだ
九州説やってると、とことん頭が悪くなるんだな
これなら分かるか?
東京からハワイまで6000キロって時に、ハワイの特定の場所まで
6000キロっていう想定は誰もしないだろ?
帯方郡から女王国まで萬二千里って言うのは、そういう遠くであることを
ざっくり示すだけの表記なんだよww >>690
>帯方郡から女王国まで萬二千里って言うのは、そういう遠くであることを
>ざっくり示すだけの表記なんだよww
違うよ。 帯方郡から女王国まで直線距離で、萬二千里を示しているだけ。 @阿波 >>634
>おかしいではないか、
>始めは、萬二千里は世界の果てという意味の概念といっていたのに、
>先には倭国女王国までの里数と云い、こんどは倭国の位置を示す描写というのか。
>おい、下っ端バイトじゃ相手にならん、親分バイトと替われ、、。
>>634の理解力が極低で、理解できてないだけだよ
倭国・女王国の位置を、世界の果てだと示す描写であり、
そのために観念的な萬二千里という数字を使ってる
倭国の中の特定の場所を示す数字ではない >>687
被葬者が女性と見られる古墳は畿内も阿波にもありません。
妄想はご遠慮願います。 >>692
違うよ。 帯方郡から女王国まで直線距離で、萬二千里を示しているだけ。 @阿波 >>637
>みんなで言い張っているだけ。
>畿内説は儒教の世界に浸かっているから、先生に逆らえない。
そういうことにしたいんだねww
根拠のない九州説は憶測でものを考えないといけないから大変だww
学者だって名誉欲はあるから、分があると見れば逆張りしたりもするし、
論争上等の世界だよ
森浩一先生なんかは、弟子筋がまったく言うこと聞いてないじゃないかw
先生に逆らえないなんていうのは「低レベルの妄想」だよww >>638
>まともな引用もできないキナイコシともいう
引用一つしないのは九州説だろ?
そして根拠も示さない
無能の極み 489>>499
>>これも、里数が書いてあるところまでは役人(調査団?)が行ったということ。<
>邪馬台国まで金印を運んでいるから、魏の役人が言っているけれど、
水行十日陸行一月と里数は書いてないよ はい論破w<
「水行十日陸行一月」は、その直前の文言である「女王之所都」の説明文になるから、
郡から女王之所都の所要日数説明文であり、
その行程里数に関しては、既に萬二千余里になる「部分行程の里数」説明が済んでいるのであるから、
はい、類スレ主は論破。 >>693
>被葬者が女性と見られる古墳は畿内も阿波にもありません。
大間違い! 倭国(阿波)には朱に染まった女性を埋葬した古墳があるよ。 倭国(阿波)とは、大概の物が存在するところ。 わはははは。 @阿波 >>696
「南至邪馬壹國」
南と書いてあります。 >>641
>>其のどこまでが萬二千里だというのか、そんな文章はない。
>キナイコシ、答えてやれよ。
キナイコシじゃないけど答えてあげるw
「萬二千里が倭国の特定点までを示している訳ではない」んだから
「そんな文章」がある訳ないだろ?
倭国までどれほど遠いか、どれほど遠絶かを示すための「設定値」なんだから、
具体的な場所は指してないぞ >>698
ミス阿波の墓の事かw
同じ時代に人が住んでいた証拠には、なるなw >>643
>根拠なし。
>キナイコシの適当な反論めいたものはいつも的外れで笑い物のタネ。
この、少し冷笑的な書きこみでしかも基本知識に欠け、九州説オンリーの書き込みをしながら
自分は九州説ではないという必ず文末に句点を付けるのが
「邪馬台国の会のステイクホルダーさん」の特徴だよww 489>>500
>いくら荒らしても無駄だよ 「道里」は日数でも表せる
欲以衟里遠近、戸數多少、衰出之。
臣淳風等謹按、 縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行衟日數約戸爲衰。<
いくら、九章算術を出して来ても無駄だよ。
九章算術は、「里」と「日数」とが区別出来ず、
「里数=日数」となる嘘つき騙しを書いたアホ学者の算術書なんだから。 >>645
>ああ言えばこう言う
そして、具体的な反論一つできないのが九州説ww
九州説に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む九州説の人はね
九州説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり
Korea fatigueってっ知ってるかい
韓国とまったく同じことをやってるぞww >>647
>キナイコシは根拠もなく言い張るだけだな
これもそうww 具体的な反論もできない無能力者
九州説に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む九州説の人はね
九州説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり
Korea fatigueってっ知ってるかい
韓国とまったく同じことをやってるぞww >>650
>いくらどうやっても、畿内は魏志倭人伝にあるような帯方郡から一万二千里にならないもんな。
後漢のときから、北部九州まで一万里という概念があって、
そこから水行20+10日、陸行1月の遠地まで行かなきゃいけないんだから、
地の果てまで行くくらいの距離になるだろ? >>702
>ミス阿波の墓の事かw
まぁ、これが卑弥呼とは言わんがね。 いぜれにせよ、こういう根拠を示せるのは、倭国(阿波)のみ。 ワハハハハは @阿波
徳島市・犬山天神山古墳 石棺から水銀朱で彩色された女性埋葬骨を発見
https://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/f617dcd9430bb88875f8dfd27726cb09 >>651
>その縮尺で残り二千里でどこまで行ける?
その「縮尺」というのが、まず勘違いなんだよ
魏志倭人伝の、九州まで一万里、女王國・倭国まで萬二千里
渡海一回で一律千余里というのはすべて、現実の地理とは無関係に設定された値
現実の地理との比較に意味はない
この「縮尺」というのも、短里の亜流だってのはばれてるww
無意味な足掻きだなw 倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 反論・で・き・る・人・は、はい、どうぞ。 @阿波 489>>520
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しがバレて、
敗れた大和説がまた発狂 >>652
>キナイコシは考古学的な成果をいろいろチェリーピッキングしてるだけ
チェリーピッキングだといいたいなら、チェリーピッキングしている部分および
都合が悪くて伏せられている部分を「具体的に指摘」して否定して見せればいいんだよ
でもできないんだよな、九州説はww
そして、九州説には卑弥呼の墓の候補となる径百歩の墓すらない
残念だねぇww 489>>525
あのー、「南→東」など嘘つきの騙しがバレた大和説者さん、
悪いことは言わんから、
少し休んだら >>693
>被葬者が女性と見られる古墳は畿内も阿波にもありません。
大間違い! 倭国(阿波)には朱に染まった女性を埋葬した古墳があるよ。 倭国(阿波)とは、大概の物が存在するところ。 わはははは。 @阿波 >>668
>土器と墓制に相関関係がある、という根拠は何?
祭祀用供献土器だからね
墳墓祭祀の場で土器が出ている
つまり、墓制とセットで列島の広い範囲に拡散しているんだよ
この図を何だと思ってるんだ?
https://i.imgur.com/pOB095u.jpg
色がつけてある部分は畿内様式土器が多く出る範囲だよ >>702
>ミス阿波の墓の事かw
まぁ、これが卑弥呼とは言わんがね。 いぜれにせよ、こういう根拠を示せるのは、倭国(阿波)のみ。 ワハハハハは @阿波
徳島市・犬山天神山古墳 石棺から水銀朱で彩色された女性埋葬骨を発見
https://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/f617dcd9430bb88875f8dfd27726cb09 489>>526
>奥山はもやもや病・・
脳内の二酸化炭素濃度が低下して脳血管が収縮しさらに血流不足になることが原因です<
ふーん。 >>716
>色がつけてある部分は畿内様式土器が多く出る範囲だよ
その範囲は、「忌部はん」 が進出したところ!! @阿波 >>693
>被葬者が女性と見られる古墳は畿内も阿波にもありません。
あるよ?
島の山古墳とか
西山塚古墳とか
やっぱり情報リテラシーに欠けるから、きちんとした情報も知らず、
それで30〜40年も前の情報にしがみついているんだな、九州説はw >>699
>「南至邪馬壹國」
>南と書いてあります。
北部九州から、南へ南へ行くのだから、北部九州ではないねww
バカ? >>720
それ、「忌部はん」 のお墓だよ。 ざんねん!! @阿波 489>>537
>ザラゴキの「イオン化するとベータ崩壊速度が上がる」と <
「イオン化」なんて言わないよ。
「プラズマ化」だよ。 >>700
>不十分
ほら、またこれだww
反論したかったら、どこがどのように不十分なのか具体的に論じなさいって
何度教えたら分かるんだ?ww
そして十分な情報は>>716に書いてあるぞww
九州説に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む九州説の人はね
九州説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり
Korea fatigueって知ってるかい
韓国とまったく同じことをやってるぞww 489>>541
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説のバカは、
あいもかわらず「ぼくちゃんの妄想したすごい行程」を喚いてるだけか >>703
>反論できなくなったら中傷か
ギャグなのか?
反論できていないのは九州説の方ww
そして、「無能の極み」というのは事実であって中傷じゃないぞw >>693
>被葬者が女性と見られる古墳は畿内も阿波にもありません。
大間違い! 倭国(阿波)には朱に染まった女性を埋葬した古墳があるよ。 倭国(阿波)とは、大概の物が存在するところ。 わはははは。 @阿波 >>723
>「イオン化」なんて言わないよ。
>「プラズマ化」だよ。
ザラゴキの言っているのは、電子軌道から電子がなくなるとその分の電磁場の変化で
ベータ崩壊が加速するってことだから、正しくはイオン化だ
ザラゴキが理解できていないだけw >>702
>ミス阿波の墓の事かw
まぁ、これが卑弥呼とは言わんがね。 いぜれにせよ、こういう根拠を示せるのは、倭国(阿波)のみ。 ワハハハハは @阿波
徳島市・犬山天神山古墳 石棺から水銀朱で彩色された女性埋葬骨を発見
https://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/f617dcd9430bb88875f8dfd27726cb09 >>716
>色がつけてある部分は畿内様式土器が多く出る範囲だよ
その範囲は、「忌部はん」 が進出したところ!! @阿波 >>720
それ、「忌部はん」 のお墓だよ。 ざんねん!! @阿波 489>>554
>魏志倭人伝その他史書に日数で行程を示している箇所なんて沢山見られるぞ<
九章算術以外の史書は、大体、「行程や距離は里数説明」が原則であり、
「日数」で示すのは「里数」説明に対する「補助的補完的」な説明になる場合だな。 >>720
時代錯誤w
ことごとく時代のずれた話をあれこれ掻い摘んでこなければ会話すら出来ない畿内説w 489>>562
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
里数≠日数も認めて、
静かに滅んだらどうだい >>693
>被葬者が女性と見られる古墳は畿内も阿波にもありません。
大間違い! 倭国(阿波)には朱に染まった女性を埋葬した古墳があるよ。 倭国(阿波)とは、大概の物が存在するところ。 わはははは。 @阿波 >>702
>ミス阿波の墓の事かw
まぁ、これが卑弥呼とは言わんがね。 いぜれにせよ、こういう根拠を示せるのは、倭国(阿波)のみ。 ワハハハハは @阿波
徳島市・犬山天神山古墳 石棺から水銀朱で彩色された女性埋葬骨を発見
https://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/f617dcd9430bb88875f8dfd27726cb09 >>716
>色がつけてある部分は畿内様式土器が多く出る範囲だよ
その範囲は、「忌部はん」 が進出したところ!! @阿波 >>720
それ、「忌部はん」 のお墓だよ。 ざんねん!! @阿波 >>734
すみません、私畿内説の勘違いでした。
静かに滅びますzzZ 九州チョン
:_ ..、 ..__ 、___
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`il|l' il|l `'ill||lll''~ ~~ ` -‐'~~ ..l广 .`'' ゙''′
; ∧,_∧: 悔しいニダァァアーーッ!!!
:<;l|l;`田´>;
(6>>7399):
:ム__)__) チョン式畿内説としては悔しい思いで一杯ですが、所詮畿内説なので仕方ないと思っております。
@奥山 >>739
>無いから候補にもあがらないんだよw
:_ ..、 ..__ 、___
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; ∧,_∧: 悔しいニダァァアーーッ!!!
:<;l|l;`田´>;
(6>>7399):
:ム__)__) 新羅からの天下りにそそのかされて、中国とタメを張ろうと反中化した田舎者が畿内及び東海政権でした。
当時、九州の邪馬台国からは狗奴国と呼ばれていたようです。
後漢時代までは仲良しだったのです。 シンラ〜何やら〜?
お前たちの説を信じるなら、ただのコジキなんだけどな >>746
九州の遺跡と同様に、ショボい遺跡だからね。 ワハハハハ。 @阿波 >>733
>時代錯誤w
また話をずらして悦に入る
バカじゃん?
>>693の
「被葬者が女性と見られる古墳は畿内も阿波にもありません。」
に対して、古墳時代の女性被葬者の古墳を示すことのどこが時代錯誤なんだ?
九州説は、無能 九章算術の道里が日数で書いてある話(FAQ78)をキウスが蒸し返してから、
九州説の踊りっぷりがハンパないなw
自女王國以北其戶數道里可得略載を、きちんと認識してなかったのが
はっきり強調されて、投馬国が女王國より以北ってだけで九州説が壊滅することに
改めて気づいたから焦って踊りまくってるww
本当に面白い人たちだw 日本にもいるでしょ、
シンラの何やらを拝んでいるとか、
それとも別物なのかな >>748
>九州説は、無能
畿内説も同じ穴のムジナだよ。 ワハハハハ。 @阿波 キウスとしてはテンプレの間違いを見つけたってことで勝ち誇ってたのに、
実は九州説の急所へのひと突きだったんだよなw
道里と遠近は違うとか、めちゃくちゃな無理読みの連続で面白かった >>529
魏志倭人伝に卑弥呼の墓は径百歩
魏から銅鏡百枚下賜 道里のことでも、完全に論破された認知症の奥山氏が、論破された記憶を失って、優れたキウス氏に、再挑戦しているな。。。
752 名前:日本@名無史さん 2019/08/05(月) 18:54:13.32
キウスとしてはテンプレの間違いを見つけたってことで勝ち誇ってたのに、
実は九州説の急所へのひと突きだったんだよなw
道里と遠近は違うとか、めちゃくちゃな無理読みの連続で面白かった 何度でも、吊るし上がっている奥山氏の意見を貼り付けて、笑いリラックスすれば、良いな。。
766日本@名無史さん2019/08/03(土) 14:46:52.04
>>761
そうだね、、、
奥山氏は、頭が悪すぎるので、矛盾してしまったな。
奥山氏は、投馬国への日数が、道里だから、女王国以北だと考えたが、
邪馬台国が、女王国以北でないなら、7万戸数の邪馬台国は、其戶數道里可得略載には、あてはまらないので、日数が道里の略載でないことになるね。。
753日本@名無史さん2019/08/03(土) 14:26:08.93
>>730
>畿内説だと大卒が検察した「女王国から北」がどこだかわからなくなるしね。
どうして?
対馬国から投馬国までの国だよ?
投馬国まで女王国より以北の国なんだから、当然だろ? >投馬国まで女王国より以北の国なんだから、当然だろ?
そうかい、吉備は北じゃないよな。
糸島も博多も北じゃないよな また、連続句読点の無様さもまた浮き彫りになったし
九州説を一切論じずに、畿内説の正しい書きこみを「間違っていると誤認して」
ただコピペして貼り付け続けるというバカさ加減 >>756
>そうかい、吉備は北じゃないよな。
>糸島も博多も北じゃないよな
こういうのを「文脈が読めない」って言うんだよw
これまでに何度も、
「陳寿が日本列島を南へ長く続く洲島だと誤認しており、
帯方郡から離れる方向を南として記述している」
って繰り返し書いてあるだろ?
吉備が北じゃない、とかいうのは何の反論にもなってないんだよ
>>307に、九州説にも分かりやすいように書いてあるだろ?
「言葉を変えれば、投馬国は北部九州と邪馬台国の経路の途中にないといけない、ということだよ
これが、投馬国は女王国より以北の国で確定、ということの意味」 >>755
奥山氏が、考えを改め、邪馬台国を、自女王國以北だと考えるのであれば、
投馬国も邪馬台国も、戸数が略載されているだけではなく、日数が道里の略載だという奥山氏の考えに基づいて、どちらも略載されているのだ、
ということになり、日数と道里に対しての奥山氏の意見は、矛盾しなくなるが、
邪馬台国は、一大率に検察されているということになり、王の都が、九州に派遣先の部下から検察されるという、別の矛盾が発生するな。。。 女王国の位置は沖縄付近に当たる会稽東治の東と魏志倭人伝に書いてある時点で
行程論は全て終わり 奥山氏が、完全に論破され、反論を諦め、敗北宣言にしかならない悪口を言い放つしかなくなったな。。
757日本@名無史さん2019/08/05(月) 19:10:34.72
また、連続句読点の無様さもまた浮き彫りになったし
九州説を一切論じずに、畿内説の正しい書きこみを「間違っていると誤認して」
ただコピペして貼り付け続けるというバカさ加減 伊都国から南に歩いていけるところに邪馬台国があるんだってね このスレッドは、邪馬台国畿内説が完全に叩きつぶされたか、それとも、
完全には、叩きつぶされずに、虫の息ほどの息をしているかのスレッドなので、
邪馬台国九州学を講義する場所では、ないのだったな。。
757日本@名無史さん2019/08/05(月) 19:10:34.72
また、連続句読点の無様さもまた浮き彫りになったし
九州説を一切論じずに、畿内説の正しい書きこみを「間違っていると誤認して」
ただコピペして貼り付け続けるというバカさ加減 >>692
>倭国の中の特定の場所を示す数字ではない
そう考えないと畿内説が即死するからねw 伊作のころから、里数の無い投馬国は以南で決定だったんだから、とっくに畿内説は滅亡してる。
ミイラの再生はむつかしかろ。。。 奥山氏が、考えを改め、邪馬台国を、自女王國以北だと考えるのであれば、
投馬国も邪馬台国も、戸数が略載されているだけではなく、日数が道里の略載だという奥山氏の考えに基づいて、どちらも略載されているのだ、
ということになり、日数と道里に対しての奥山氏の意見は、矛盾しなくなるが、
邪馬台国は、一大率に検察されているということになり、王の都が、九州に派遣先の部下から検察されるという、別の矛盾が発生するな。。。
753日本@名無史さん2019/08/03(土) 14:26:08.93
>>730
>畿内説だと大卒が検察した「女王国から北」がどこだかわからなくなるしね。
どうして?
対馬国から投馬国までの国だよ?
投馬国まで女王国より以北の国なんだから、当然だろ? >>704
>「邪馬台国の会のステイクホルダーさん」の特徴だよww
的外れな中傷ほど情けないものはない。
そうは思わないか? 博多湾のすぐ近くから、船で1ヶ月、歩いて1ヶ月って、
そんな遠いところ、何をどう考えても九州の訳ないじゃん。
自動的に本州のどこか。
で、最後に1ヶ月も歩く訳だから、海岸沿いではない。
てことは自動的に、奈良盆地か、琵琶湖周辺か、濃尾平野の北の方。
そのうち三世紀のデカい古墳があるのは奈良盆地。
はい。これで行程記事の議論は終わり。邪馬台国は奈良盆地。 日本の天皇の話
神代〜直系(一系)ではありませんと言っている人がいるでしょ、
有名な話(定説)なのかな
ただ系図として、繋げていたりとか >>707
>Korea fatigueってっ知ってるかい
>韓国とまったく同じことをやってるぞww
キナイコシという人物が平気でヘイトスピーチをするということはわかった。 奥山氏は、頭が悪いので、邪馬台国畿内説への情熱が無駄になり、可哀想だな。。 >>758
全てを陳寿の妄想にしないと気が済まないようだ。
畿内説が追い求めているものは、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国ではなく、それこそ妄想の大きな「大和」なのかもしれない。 >>768
>博多湾のすぐ近くから、船で1ヶ月、歩いて1ヶ月って、
日程と里程をつなげていいわけがない。
日程は帯方郡からの所要日数。 >>773
奥山はいじめると面白いこと言い出すからだろう 489>>564
>渡海距離は計測不能だから一律千餘里だし、<
魏使らは、一寸千里が使えるし、簡易三角測量も出来るから、
計測可能であり、計測出来る場所で実地に計測している事になる。
>九州上陸後の距離も区間ごとにグダグダで四倍くらい違い長さになってる<
簡易三角測量や記里車や歩測や目測などで計測出来るから、
4倍なんて間違える筈もなく、
「四倍くらい」になったのは、
類スレ主らの「計測起点や終点」の比定の失敗や曲解捏造が原因。 >>768
>そのうち三世紀のデカい古墳があるのは奈良盆地。
そのデカい古墳が、「忌部はん」 のお墓というお粗末。
古墳の構造(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を見れば、一目で「忌部はん」 のお墓と判るのに、いつまでもwww @阿波 489>>566
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説が、
嘘つき放題やって得意になってた行程論で
逆に九州説からブチのめされる気分は、
どうだ?. >>768
>そのうち三世紀のデカい古墳があるのは奈良盆地。
そのデカい古墳が、「忌部はん」 のお墓というお粗末。
古墳の構造(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を見れば、一目で「忌部はん」 のお墓と判るのに、いつまでもwww @阿波 >>569
行程論は、今や、
「南→東」などの嘘付き騙しをした大和説の弱点であり、
九州説の武器。 >>774
>日程は帯方郡からの所要日数。
こんなアクロバット読みなど全くあり得ないのだが、
最後の陸行1月でどちらにせよ自動的に、大きめの盆地か平野の内陸部になるので、
奈良盆地か、琵琶湖周辺か、濃尾平野の北の方の選択になる。
で、三世紀の古墳の大きさで、自動的に奈良盆地になると。 嘘つき騙しの九州説は、行程記事をちゃんと読め!
行程記事には「陸行一月」と書いてある。 「陸行一月」を「陸行一日」に改ざんする嘘つき騙しの九州説は、
行程記事をちゃんと読め! 「陸行一日」×
「陸行一月」○
行程記事をちゃんと読め! >>768
>そのうち三世紀のデカい古墳があるのは奈良盆地。
そのデカい古墳が、「忌部はん」 のお墓というお粗末。
古墳の構造(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を見れば、一目で「忌部はん」 のお墓と判るのに、いつまでもwww @阿波 学者も国造りの話をし出しても4世紀5世紀からなんだよな、つまり現の説明をしてるだけだよね。 >>774
すると里程の所に出てこなかった投馬国が日程の所に唐突に出てくる事になるんだけど 頭が悪すぎる事が判明した、朝鮮人のベジタリアンである奥山氏は、、、
例えば、150日の農閑期の間に、各地の100程の村の村長に率いられた、10kg以上の3週間分の自分達の食料を担いだ30人づつが来訪し、道里遠近での食料消費に応じて労役期間を決定し、平均で7日づつ、交代で労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、140人程度でしかないという真実は、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然で、卑弥呼の都の可能性があるのだという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのだ、、、
という僕達の真実の発表に、反論しないので、やはり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました。。。 >>762
>伊都国から南に歩いていけるところに邪馬台国があるんだってね
だったら水行の必要がないだろ? >>762
>そう考えないと畿内説が即死するからねw
これもミラーリングだなw
九州説は
短里があると考えないと即死
投馬国には道里が書いてないと考えないと即死
纏向遺跡は北部九州と無関係と考えないと即死
もう、即死しまくりで説として成り立たないww >>767
>的外れな中傷ほど情けないものはない。
邪馬台国の会のステイクホルダーさん、というのの、どこが中傷なの?
>>767は邪馬台国の会の関係者だと考えられることが、中傷だと思うの?
それって、邪馬台国の会の人に対する侮辱だとは思わないの? >>770
>キナイコシという人物が平気でヘイトスピーチをするということはわかった。
どこがヘイトスピーチなのか?
具体的に説明してごらん?
韓国の人を韓国人と呼んだらヘイトスピーチなのかい?
そんなはずはないだろ?ww
そもそもヘイトスピーチなんて言葉を使うのは、
半島の人との連帯感が強すぎる日本市民のパヨクの人たち限定だぞww
>>770もそのお仲間なんでしょ?ww
だから、日本の歴史を貶めようとするw >>772
>全てを陳寿の妄想にしないと気が済まないようだ。
妄想じゃなくて、当時の大陸の常識に沿った考え方だ
陳寿が列島を南北に長く、会稽東冶の東まで続く洲島だと考えていたことは
「計其道里、當在會稽東冶之東」「所有無、與儋耳朱崖同」という魏志倭人伝の
テキストそのものからも分かる
こういうきちんとした具体的な論拠を示した上でこちらは論じているのに
邪馬台国の会のステイクホルダーさんは、根拠なくただ否定するだけ
情報のアップデートができず30年前から進歩のない九州説は、
本当に中身がなくて畿内説を理由なく否定して見せることしかできない
本当に惨めだよね! >>774
>日程と里程をつなげていいわけがない。
これの根拠は「僕がそう考えたから」ですね!
そうではないと言うなら、具体的な根拠を付けて論じてくださいww
できなければ、ただの無能!
>日程は帯方郡からの所要日数。
これは、水行10日で北部九州まで物理的にたどり着けないので、それだけで却下だ
本当に何度具体的に否定されても、同じことを書き続けるだけの無能
Korea fatigueってっ知ってるかい
まったく同じことをやってるぞww 489>>572
>概念 具体的表現
「顔」 「写真」
「道里」 「日数」 <
主題的主語 説明文言的な述語
「顔」 「写真」:写真は顔ではない
「道里」 「日数」:日数は道里ではない
要は、九章算術は、少しインチキになる記載をした、という事。 丸木舟やサバニは、一日100km以上で進み、季節を選ぶマッチョな者なら10日で帯方から松浦まで、余裕で、漕げるのだったな。。。 韓国人の奥山氏を韓国人と呼んでも、ヘイトスピーチにはならないな。。 >>578
>地上に届く頃には粒子シャワーの個々の粒子のエネルギーは減衰しているから、衝突した粒子を放射化することはほぼない<
何故「地上に届く」必要があるんだ?。
大気圏で十分だろ?。 なぜ、もれ(仮)の書き込みが反映されるんだろう、
もれ(仮)が読んだり、見たりしたものなのかな?
『UFO 牛』
グーグルで画像を検索してみて、
なぜか奥山という人物の画像も出てきたり 『奥山英 UFO』
失踪?奥山英□という人物の事件とか、
何なんだろう 粒子シャワーという、奥山氏が使用した言葉は、僕達には馴染みのない言葉だが、僕達の頭の良い孫が教えてくれた空気シャワーと関係あるのだろうか、、、 489>>588
>魏志倭人伝にある女王国の位置は
九州北部の不弥国から南に水行20日の投馬国を経由してさらに南に水行10日陸行1月
どう見ても九州北部ではないね<
この大和説男は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている、という事を隠し、
また投馬國には魏使らが移動を実行した記載がないから側副傍線国説明である事を隠し、
だから、邪馬壹國女王之所都が、不彌國のすぐ南にある事になる、
という事も隠している詐欺師。
>その位置は会稽東治の東の沖縄や台湾の辺りと書いてある<
勿論、書いていない。
>九州説は女王国は九州南部にあったとすれば行程論敵に少しはマシだろうけれども
九州説は宗教上の理由で女王国を九州南部とする事ができない<
この男の大和大和説は、「南≠東」などに拠って、始めから×。 >>797
>纏向は実際九州とほとんど関係ないやろ
理由も根拠もなく、これを書き続けるのがKorea fatigueを感じさせる某国のやり口と同じだっての
北部九州と畿内とが同じ祭祀用供献土器、同じ墓制を取っていて無関係という方がおかしい
胎土分析で九州の土で九州で作った土器も確認されてる
関係ないことにしないと九州説が死ぬからそう言い張っているだけ >>800
>何故「地上に届く」必要があるんだ?。
それは九州説のお仲間の連続句読点に言えww
連続句読点が、粒子シャワーが地上の遺物に降り注ぐことで、
14Cの比率が激変するって言ってるんだからww
素粒子物理をまったく理解していないのにでたらめばかり書くww
九州説同士で絞めといてくれw UFO?『あまつかみ』〜とか、そういう意味でしょ
あとモンハン(シリーズの・・・?)というゲームだったかな、
UFOが山の上に降り立ったという話があり、先だって降り立った? >>758日本@名無史さん2019/08/05(月) 19:14:32
>「陳寿が日本列島を南へ長く続く洲島だと誤認しており、
> 帯方郡から離れる方向を南として記述している」
>って繰り返し書いてあるだろ?
陳寿が誤認していたなどと、自分勝手な診断を下すのは論外、網走番外地だ。
天下の内藤湖南に始まる京都帝国大学の畿内説がそういうことを口走っては学閥の名誉に瑕がつく。、
陳寿が気に入らないのなら、倭人伝を語る資格はない、
旧帝大系学者でも無い、ろくでなし。 >>724
一緒に出るだけじゃ不十分だよ
>>716くらいの回答じゃないと
とはいえ716も不十分だね
複雑な話すぎて1レスに収めるには必要な情報が全然足りない >>594
>破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する卑劣で頭の悪い朝鮮人の奥山氏には、中性子が地表に届くだけで、地表付近の炭素14に捕獲される可能性が発生することが、分からないのではないのかな。。。<
成程。 489>>598
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
ものの道理よりも国粋皇国史観儒教が優先
自覚あるなしに関わらず儒教そのものであり、
もはや自分の意思で棄教も不可能 奥山氏は、やはり、理系の大学院を卒院したのではなく、
大学病院の精神科のセンターを、卒院したり、入院しているのだな、、、
806 名前:日本@名無史さん 2019/08/05(月) 21:00:24.25
>>800
>何故「地上に届く」必要があるんだ?。
それは九州説のお仲間の連続句読点に言えww
連続句読点が、中性子が地上の遺物に降り注ぐことで、
14Cの比率が激変するって言ってるんだからww どの奥山氏のことなのか、わからないんだけど、
死んでいないと言いたいんでしょ?
一時、失踪ということにしておいて(入院)・・・、 >>805
離れていると言ってもたいした距離じゃないし関係がゼロってことはあり得ないだろ?
ほとんど関係ないというのは、深い関わりがあるようには見受けられない、という意味だと思うが
ゼロじゃないけど実際九州の土器はあまり出てこないわけだし >>813
この話だよ
〜業界を引退、または消息もわからない・・・。 奥山氏が、僕達が言ってもいないことを、いつものように卑劣に捏造したので、
訂正して、再掲すれば、良いな。。
806 名前:日本@名無史さん 2019/08/05(月) 21:00:24.25
>>800
>何故「地上に届く」必要があるんだ?。
それは九州説のお仲間の連続句読点に言えww
連続句読点が、中性子が地上の遺物に降り注ぐことで、 C12とC13とC14の比率が激変するって言ってるんだからww
素粒子物理をまったく理解していないのにでたらめばかり書くww
九州説同士で絞めといてくれw 489>>601
>九州南部が狗邪韓国なら中部にしないのは何故かな
九州北部は伊都国や奴国で邪馬台国が載ってない事からも
北部に邪馬台国はなかった事は明らかなのに<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
そのすぐ南にある邪馬壹國女王之所都は、筑紫付近になるので、
この「南→東」などの嘘付き騙しの大和説男も、×男。 >>817
邪馬台国畿内説を宣伝する、奥山氏という、大学病院の精神科センターに入院している患者は、卑劣で頭が悪いですね。。。 もう(死亡、死去)そういう事にしておこう?
・・・実際は生きているんだけど、・・・その後、病院で安楽死? 知ったかぶりが癖になってしまった奥山氏が、頓珍漢がバレ、恥ずかしくなってしまったので、反論を諦め、卑劣な捏造をするだけになってしまったな。。。 万葉集、梅の歌序やな
どのような勢力がいてどのような攻防があったのかよく分かる
新羅と松
霧島と天武 奥山氏が、失踪した後、入院していることを、告白しましたね。。。
814日本@名無史さん2019/08/05(月) 21:32:01.80
どの奥山氏のことなのか、わからないんだけど、
死んでいないと言いたいんでしょ?
一時、失踪ということにしておいて(入院)・・・、 489>>614
>陳寿は日数も道理に含めているので ・・・<
陳寿は日数を行程説明道里に含めておらず、書き分けているので、
この大和説男が、×男。 オイトマンによると
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
芸能人などにもいるでしょ?一時、失踪(引退?)、
そういう扱いにしているけど 丸木舟やサバニは、一日100km以上で進み、季節を選ぶマッチョな者なら10日で帯方から松浦まで、余裕で、漕げるのだったな。。。 今日もキナイコシは壊れたスピーカーで
根拠なく言い張るだけの1日だったな平和なことだ キナイコシが物理学を理解していないことはわかった。 >>791
>>>767は邪馬台国の会の関係者だと考えられることが、中傷だと思うの?
単に事実と異なるというだけ。 エイトマンだなんて、キナイコシはいったい何歳なんだ。 マンモスコング、
マンモスコングという書き込みをしている人物もいたしなあ 頭が悪すぎる事が判明した、朝鮮人のベジタリアンである奥山氏は、、、
例えば、150日の農閑期の間に、各地の100程の村の村長に率いられた、10kg以上の3週間分の自分達の食料を担いだ30人づつが来訪し、道里遠近での食料消費に応じて労役期間を決定し、平均で7日づつ、交代で労働すれば、古墳が1基、完成してしまい、
その間に、纏向に居る労働者は、平均で、140人程度でしかないという真実は、
古墳があったから巻向に都市機能があることが必然で、卑弥呼の都の可能性があるのだという頭の悪い者が考え付く考えを、完全に破綻させてしまったのだ、、、
という僕達の真実の発表に、反論しないので、やはり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました。。。 UFOについて調べてみた?
福島県のほうの話も出てきたり、むかーし住んでいたところの・・・? エイトマン知ってるのは
昭和三十年代に小学生だったくらいのもう70代だろう ほとんど同じ話?
老婆によると伊達郡に飯野という町があって・・・、
家の誰(祖父母、曾祖父母、その前?・・・?)だったかな、そこに住んでいたと言っているし
『飯野 UFO』 70代の僕達にも、エイトマンという物事が何なのか、分からないな。。 >>808
>陳寿が誤認していたなどと、自分勝手な診断を下すのは論外、網走番外地だ。
この人はどこまでも頭が悪いなぁ(呆れ)
誤認していないというなら、>>808は誰にも見えない会稽東冶の東沖の巨大島の実在を信じてるんだなww
現実の地理と合わないことを陳寿が書いてるのに、それは誤認じゃないっていうだけ虚しいぞw 老婆談w
その辺りに蚕を飼って、機織りをしている家があったんだよ、
もう少し離れているんだけど、広瀬川という川が流れていて、芝居小屋・・・、 僕達の予測では、奥山氏は、氷河期の年代だったな。。。 >>815
>ほとんど関係ないというのは、深い関わりがあるようには見受けられない、という意味だと思うが
それまで別々の土器、別々の墓制だったのが、同じ祭祀用供献土器を使い同じ墓制に移行する
これで深い関わりが無いってのは無理だろ?
互いに関わりのほとんどないところで偶然同じような土器様式になって、
偶然同じ同じ墓制になったとでも言うのかい?ww
それまでの墓制とはまるっきり異なるものに変わるのに?
九州説の主張は考古遺物で明確に否定されるんだよ >>831
>単に事実と異なるというだけ。
それを>>767で「中傷」だって言ってたのは誰だ?w
邪馬台国の会の人を侮辱していると取られるのがそんなに嫌なのか?ww >>840
>誤認していないというなら、>>808は誰にも見えない会稽東冶の東沖の巨大島の実在を信じてるんだなww
少なくとも陳寿は信じていただろうね。
だから魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州に求めるしかない。 畿内説が追い求めているのはヤマト王権(w)の萌芽であり、魏志倭人伝に記録された邪馬台国ではないんだよ。 なぜなのか?わからないんだけど、
当時、住んでいた家があるんだけど、その家には本や書なんかが沢山並んでいて・・・
「❓」? 前方後円墳は、魏志倭人伝時代が完全に終わった後に、出現したのだったな。。。 >>829
>今日もキナイコシは壊れたスピーカーで
やはり日本語の言い回しが不自由なんだなw
それを言うなら壊れたレコーダー
スピーカーが壊れてたら、音は出ないぞw >>845
>少なくとも陳寿は信じていただろうね。
あれ? 言うこと変えるんだww
なら、>>758の
「陳寿が日本列島を南へ長く続く洲島だと誤認しており、
帯方郡から離れる方向を南として記述している」
をそのまま認めるってことだなww 『仮面ライダー』という作品があるでしょ?
UFO、また基地に連れていかれ、改造される。
生まれ変わるという話、勇者として(戦士でも良い)、 489>>628
>常識的に考えても 旅歩きの1日の移動距離が60里=30km程度は妥当な数値<
「1日の移動距離が60里」は、始皇帝の「1歩=6尺」の長里を採用しており、
魏朝や陳寿や裴松之らが採用した周朝の一寸千里の短里ではなく、
また、
車駕の1日300里が歩行と水行を含めた平均速度とした場合の、
郡から女王之所都の萬二千余里が、割り算して40日になり、
「水行十日陸行一月」の40日とピッタリ一致し、
陳寿の説明が短里であった、という事の証拠になる。 489>>630
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らの記録は、
同時代に倭地に実際に来て実地に見聞計測した魏使らの記録に拠った陳寿の倭人伝を、
ウソつき呼ばわりして魏志倭人伝を否定するひどい連中だ 対馬〜壱岐までが千里、壱岐〜唐津までが五百里と記載がある、
船を早朝から夕方まで漕いで到達したら千里、昼頃つけば五百里と言うような
大まかな数字だな。倭国と倭種の国との千里は豊予海峡あたりを指しているから
倭国は九州で倭種の国は四国や本州となる訳だ、従って邪馬台国は九州内にあると
倭人伝にはっきりと書いている。 当時の中国の船は帆があって手漕ぎより早い
ただ、魏志倭人伝は帯方郡の役人が書いたから
帯方郡から南に水行20日の投馬国=殺馬国=薩摩国
帯方郡から水行10日で九州北端。そこから馬も橋もトンネルも無い時代、前も見えないくらい草木が生い茂った中を歩いたと書いてあるので、川の上流の日田まで行って細い川を渡り、東に海がある宇佐まで歩くと一月かかる。 489>>631
>>女王国まで1万2千里と道のりの合計を出すことができないではないか<
>合計なんて出してないからw
萬二千里は世界の果てまでを示す観念的な設定値<
「余」が付いているから、魏使らの実地の計測記録を陳寿が近似値表記した事になり、
だから、「観念的な設定値」ではなく、
類スレ主は、魏使らや陳寿を悪者に仕立て上げた、京都アニメ放火犯のような、
・・・・犯罪者。 >>861
1万2千里だと倭奴国だから邪馬台国は1万2千余里 489>>637
「南→東」などの嘘吐き騙しをして、
陳寿に魏志倭人伝で殴られてしまうだろう大和説 >>839
>70代の僕達にも、エイトマンという物事が何なのか、分からないな。。
ザラゴキも後期高齢者だし、九州説消滅も時間の問題だなw >>859
>壱岐〜唐津までが五百里と記載がある、
はい、また事実誤認だ
又渡一海「千餘里」、至末盧國。有四千餘戶、濱山海居。
五百里じゃなくて千餘里だな
これまでさんざん「三海峡は距離が違うのに全部一律で千餘里になってる」と
いう話が出ているのにこれだ
そして間違った認識を前提に話を作る
九州説は常にデタラメ
そして、九州から本州へは水行で行くときに地続きにしか見えない
本州を渡海千里とするのは無理読みだ 489>>637
>1万2千里で女王国そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国
今で言うなら 1万2千里で日本これで分かる事は
北部九州は女王国の範疇にさえもない一大卒に監視される属国と言う事実だけ<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
そのすぐ南の筑紫に邪馬壹國女王之所都がある事になり、
だから、この「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説男も、×人間。 >>860
>帯方郡から水行10日で九州北端。
これが物理的に無理
水行の起点を帯方郡にするのはご都合主義のインチキ読み 確実に何かに狙われている人物がいるんだろな〜、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本にw
某オズボーンの曲
おまえの頭をいじり、頭に何かした(改造)?
みたいな事を言っている曲があるとか
そういう事を言っている人がいたでしょ >>866
じゃあ邪馬台国の会は嘘つき騙しって事だな しかし嘘つき騙しって変な言葉よの
嘘つきを騙すのか 卑弥呼の墓が土を盛っただけと書いてあるのに石積みの箸墓を卑弥呼の墓とか言ってるのは詐欺師しかいない
卑弥呼死後に戦乱が起きているし狗奴国に攻められて魏に助けを求めてるポロポロの邪馬台国が巨大な前方後円墳を作る余裕があるわけない
箸墓は戦乱のない圧倒的な勢力が支配していなければ造成不可能なので情勢的にも5世紀が妥当 纒向最古級とされるホケノ山古墳の石室床面から布留1式からしか出現しない小形丸底壷が出土していることも重要である。
小形丸底壷が出たホケノ山古墳の築造時期を、庄内式土器期にすることはできない。ホケノ山古墳は 4世紀後半である。
また、『魏志倭人伝』に卑弥呼の都のようすを「居所、宮室、桜観、城柵を厳重にめぐらして、人が居て、武器を持って守っている」と記述している。城柵などの記述があることからこれは環濠集落である。
纒向遺跡をはじめ近畿では、弥生時代後期後半以降には環濠集落は存在しない。この記述に適合するのは九州の弥生時代後期後半の環濠集落がふさわしい。 邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓との説もある
奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(3世紀中ごろ〜後半、全長約280メートル)の後円部頂上部分が、
全面に石を厚く積んだ特異な構造だとわかった。
同古墳を管理する宮内庁がこれまで公開していなかった発掘調査の記録を朝日新聞が情報公開請求で入手し、判明した。
公開された文書は、築造当初の古墳の姿を確認するため、
1968年に同庁が前方部と後円部の頂上付近で実施した発掘調査と、
71年、74年の追加調査の記録と写真。
写真に写った後円部最上段は、全面がこぶし大の丸石に覆われていた。写真を見た複数の専門家が、
最上段は大量の石を積み重ねて築かれていると推定。ほかの古墳には見られない構造だという。
宮内庁は同古墳を皇族の墓に指定して立ち入りを厳しく制限している。
76年に「書陵部紀要」で同古墳で出土した土器を報告したが、詳細な発掘の記録や現場の写真は公開していなかった。
古墳の測量図は公表されていたが、墳丘の構造はほとんど不明のままで、
今後は過去の調査成果の公表や新たな調査を求める声が高まりそうだ。 UFO関係のサイトがあるでしょ?
催眠が何やらというテーマのところ、
催眠に、かからない、通用しない人もいると書いてあったりw 思想弾圧、改造?
通用しないという意味
ちなみに家?は軍人でもないし・・・、
戦争などにも行っていないと言っているしw 【福岡】伊都国と奴国テーマに論議、邪馬台国の謎に迫る 飯塚で古代史講座 「伊都国の平原遺跡の被葬者が卑弥呼ではないか」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1565015420/ 催眠などをかける相手を間違っているんだよ
みたいな話なのかもしれない わかりやすく言うと、
お前が(催眠など)かけられる側、
頭を改造されたり、いじられたり 例えば企業
TOPがいるとするでしょ、創業した人物、
あと国なら、国をつくった家(人)の〜とか 神話、歴史なども同じ
捏造、偽造〜・・・(改造?)など、
通用しない人物、家があったりw
なぜそんなに自信があるんだと?
『黒夢』のwikiにも書いてあるし 他人が、これは(何々)だと言っていたり、
あれは(何々)だと書いていても、
そのテーマとされている本人が、
それは違うと言っているんだから、違うんだよ
なぜ、そんなに自信があるのか?みたいな話、
黒夢というwiki UFO〜福島県?
なぜか家の老婆と同じ話をしていたり、
伊達郡(川俣町)というところのスレ (当時)ブラジルに渡った・・・みたいな話もしているし、
伊達郡という掲示板 謎の川俣町という掲示板
川崎に住んでいるので〜(その地)〜については詳しいですよ
と言っている人もいたり、家は川崎市の川崎区に住んでいるんだけどw
法廷速度、下院カインとか(アベル?) 読んでみたUFOのサイト?
>江戸時代の雷獣(猫科動物)のミイラ人魚のミイラ;カッパの手のミイラ;長野の仙人伝説、地震押さえの要石ほか
>空飛ぶ謎の物体;福島県針生はUFO目撃のメッカ、民宿経営の湯田与作さんが赤と青の光を付けた5mのドーム型UFOを目撃
蚕を飼い、機織り、針子(裁縫)が何やらという話?カッパとか 家の写真の話でしょ?
キュウリのような葉、葱の華w
あと寺院が何やらとも言っていたし・・・。 ちなみにカイン、アベル・・・というのは兄弟でしょ?
あと雷獣というのもポケモソでいうと・・・。 何の話なんだろう、
確か『伊達郡川俣町』というところの話をしていたw 別の方法?
他の箇所をも読み替えるという主張ではない?
☟
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る
海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。 >>887
何も考えず
とにかく否定したいとき
「根拠なし」と呟くのは
池沼
三世紀にどうやって時速100km以上で走れるんだ
九州説はみんな頭が変なのか? だから、もう寝ろと言っているんだよ
それと「まさか・・・・」みたいな話でしょ? UFO・・・『遮光器土偶』、湯田という名前の人物とか? 『老いたる素戔嗚尊』
刀を授かった若者〜、裏切ったりはしないと誓った
とか
すさのお〜?本当は日本人ではないんだろう 『Yngwie Malmsteen - Best of [HQ]』? >>894
いやしかし、3世紀前半の纏向には東海地方から人がやってきていて纏向の工事に多数が従事しているから、東海地方の事情は奈良ではよく知られていただろう。
そういう状況下で、倭人伝が舟で伊勢の鳥羽から千余里のところに倭種の国があるとわざわざ書く理由はなに?
第一、鳥羽から千里だと千葉の房総半島越えて太平洋に出てしまうのだが。
倭人伝のこの「女王国東渡海千余里」の記事と、奈良邪馬台国説は整合性がまったくない。 >>876
後円部の最頂部に葺石がほどこされていることが、どうして卑弥呼の墓の決め手になるん? >>875
小型丸底壺は3世紀中頃から造られているという研究もあるけどな。 どう考えても家の話なんだけど、
刀(剣?)の話もしていたし >>894
あんたがキウス?
纒向を邪馬台国の王都としたから南を東にしたともとれるな
FAQ8
>A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果
「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した< ザラコクさんの
南≠東の答えが
FAQ8
>A
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果
「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した<
これじゃ、誰も納得しねーな FAQ3−1
>行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、
所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる<
纒向王都決め打ちかい FAQ28のAも畿内説の立場からこれで良かったかも
FAQ58
南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。 >>904
ってか・・>>875は歪んだニセ情報そのものでしょ
まず、「布留1式からしか出現しない小形丸底壷が出土」がミスリード
これ、「(小形丸底壷は前からあるけど)布留1式からしか出現しない(形のやつに似た)小形丸底壷が出土」だわ
全然ニュアンス違う
似てる似てないの水掛け論だったのを確証みたいに宣伝してる
ちなみに今は「古くからあった形だった」で決着
さらに「小形丸底壷が出たホケノ山古墳は 4世紀後半である」に至ってはデタラメもいいとこ
後半だってさ
こんなことを言ってる学者は皆無
「『居所、宮室、桜観、城柵を厳重にめぐらして、人が居て、武器を持って守っている』と記述している。城柵などの記述があることからこれは環濠集落」
もメチャクチャ
集落に環濠がある話を全く書いてないで居館の城柵だから、考古学から見れば明らかに環濠集落廃絶、方形区画独立後の非弥生 の話だ
まさに素人だまし テンプレを今一度読んでみたが
畿内説(奥山説)は
1、纏向王都・箸墓卑弥呼を主張
2、他説批判
この2点で構成されている
畿内説は倭人伝に基づく証拠が乏しいからであろう >>907
>これじゃ、誰も納得しねーな
納得いないのは
「ぜったい南だ南だもんもんもん」と臙脂病を拗らせてる九州説信者だけだろ >>911
だから、それを立証してみ
結論だけ言い張るんじゃなくてさ 489>>639
>なら魏志倭人伝の日数表記は道里には含まれない?<
陳寿は、移動行程道里と、日数表記とは、はっきり書き分けている。 489>>640
>嘘を書いてたんじゃなくて、当時の大陸中華の観念、常識に従って記述してるんだよ
ただそれが、現実の倭国の地理とは無関係なものだったというだけ<
陳寿は、魏使らの実地の見聞計測記録を中心として、自分の判断も含めて記載しただけ。 狗奴国は邪馬台国の南にある強大国。
北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)は、粟国(旧吉野川流域北岸勢力・旧吉野川流域南岸勢力・鮎喰川下流域勢力)
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は、長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力・海部川流域勢力)
狗奴国も邪馬台国に勝るとも劣らない強大国だよ。 その源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。 @阿波 下のようにルート比定すれば、短里(韓倭の里?)と良く一致する。
帯方郡
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 489>>643
>なら陳寿は水行10日陸行1月の日数行程を含めて
その道里を合計すると帯方より南1万2千里と書いたわけだな<
ダメだ。
陳寿は、「水行10日陸行1月」を郡から女王之所都への総所要日数、として、
(部分行程説明とは区別して)書いている。 キウス氏は奥山の算術の出来の悪さに辟易し、
次なる奥山指導に入ったようだ
894 906 907 908 909 「矢野遺跡(弥生時代)」
徳島県最大級の弥生時代の集落、銅鐸(重要文化財)が出土
1992年(平成4年)から始まった徳島南環状道路建設に伴う発掘調査により、徳島県では最大規模の弥生時代の集落遺跡であることが判明した。
現在までに、竪穴住居跡約100棟が見つかっている。
大量の遺物の中で、とくに注目されるのは銅鐸である。鰭と呼ばれる縁の部分を太い線で飾る突線鈕式と呼ばれる銅鐸の中でも最新型式。1992年12月18日に発見された。
銅鐸は木製容器に納めて埋められたと考えられ、土坑の周りには、7本の柱穴が確認されている。このような埋納状況が判明した銅鐸は非常に珍しく、銅鐸の謎を解く鍵となる。
1995年6月15日に重要文化財(考古資料)に指定された。
そのほか、鉄器を製作したと考えられる鍛冶遺構も見つかっており、集落内での鉄器生産を考える上で興味深い。 489>>644
つまり「南→東」などの嘘付き騙しの類スレ主や大和説者らは、
認知障害の状態にあるんだね!
むしろ認知バイアスの方が適切な表現だとは思うけれど
具体的な根拠を付けた反論は結局一つもできないまま逃げを打つ、と
大和説者に「その判断の具体的な根拠は?」と訊いても、返事が返ってこない
基本的な基礎知識が決定的に欠けているんだよ、ここに書き込む大和説の人はね
大和説の人は情報リテラシーを欠いている人ばかり 「矢野遺跡(縄文時代)」
徳島南環状道路建設に伴い1992〜98年に行われた発掘調査で、縄文時代後期初頭(約4千年前)の遺構面から見つかった。
このうち、土面は縦15.8センチ、横16.7センチ、厚さ1センチのほぼ円形で、粘土で作られている。穴を開けて目や口を作り、鼻や眉も付けている。
用途は定かではないが、祭祀で使われた可能性がある。土面としては国内最古で、最も西の地域の出土例となっている。
土器は煮炊き用の深鉢や盛り付けに使われた鉢、つぼなど。関東の土器に見られる文様だけでなく、近畿から九州北部の広範囲で確認された文様が混じっている。
祭祀で使われた赤色顔料「水銀朱」が付着しているものもあり、国内最古の水銀朱の使用例として注目されている。
石器にはやじりなどの狩猟道具や食物加工用具がある。最も多いのは石の重りの石錘で、網にくくりつけて漁労に使ったほか、編む際の重りなどに使われたとみられる。
文化審議会は「縄文時代最古級の土面や、水銀朱の使用例が含まれ、西日本における縄文時代中期末から後期の生活の様子を示す資料として貴重だ」としている。
2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊 489>>648
>「顔=写真」ではないように、 「道里=里数」でも「道里=日数」でもない
「道里を日数でも里数でも表現できる」 これが事実だよ <
「道里」は、原則は「道の里」であり、「日数」ではなく、
「日数」は補助的補完的な使用文言。 >>910
賛同する
ホケノは3世紀 石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、ホケノ山古墳
纏向より古いのは通説(橿原考古学研究所)
よって、箸墓は円丘墓では無く、前述同様前方後円墳であり卑弥呼の墓ではない 「加茂宮ノ前遺跡(弥生時代)」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡は、那賀川の右岸、標高24〜26mの自然堤防上に立地している。
発掘調査で弥生〜古墳時代集落の中心部を確認した。
それ以前の調査成果と合わせ、竪穴住居が約100軒発見されたことになる。
県内の他の弥生時代集落では、鉄器が製作されたとみられる竪穴住居は各集落の中で1,2軒程度しかない。
ところが、加茂宮ノ前遺跡の弥生時代中期末〜後期初頭の竪穴住居の約半数では、鉄器を生産していたことを示す鍛冶炉が複数設けられていた。
生産に関わる道具類と鉄鏃などの製品も出土した。
背景には、水銀朱の生産との関連が考えられる。
これまでの発掘調査で、石臼や石杵といった水銀朱の生産に使った道具類のほか、原材料となる辰砂が大量に出土している。
その流通ネットワークを通じて、当時の最先端技術だった鉄器の製作法とその原料の鉄が持ち込まれたと推測できる。
加茂宮ノ前遺跡の弥生時代中期末〜後期初頭の竪穴住居からは、稀少な装飾品も多数発見された。
この時期の県内の他の遺跡からは、ガラス小玉や凝灰岩製管玉などが数点しか出土していない。
加茂宮ノ前の集落が繁栄していた証といえる。
県内の弥生時代中期末の鍛冶炉の発見例は、県内では加茂宮ノ前遺跡が初めてだ。
それ以外は鳴門市大麻町の光勝院寺内遺跡、徳島市名東町の名東遺跡、徳島市国府町の矢野遺跡など、いずれも吉野川下流域の遺跡に限られていた。(県埋蔵文化財センター専門研究員・田川憲)
2019年(令和元年)7月 1日 徳島新聞朝刊 「加茂宮ノ前遺跡(縄文時代)」
阿南市加茂町にある加茂宮ノ前遺跡のは発掘調査では注目すべき成果がいくつもあった。
その一つに縄文時代後期(約4千〜3千年前)の集落跡の発見を挙げることが出来る。
集落跡からは、竪穴住居2軒のほか、屋外炉(火を燃やした跡)、土坑などが見つかった。
注目されるのは、県内で初めて確認された円形配石遺構16基だ。
1基の円形配石遺構は、直径が1〜3m。
人の頭よりやや大きい砂岩の河原石を円形に並べたもので、円の内部には小石や、白色の小円礫(砂利)が敷き詰められていた。
また、16基あるサークルが一部重なり合っていることや出土した地層に高低差があることから、全ての円形配石遺構同時期に作られたのではなく、長期間にわたって順に造られたと考えられる。
配石遺構は、主に祭祀施設として利用されたと考えられる。
縄文時代前期から中期(約7千〜4千年前)ごろ、中部地方を中心として直径が50mを超えるような環状列石(ストーンサークル)が造られるようになった。
後期に入ると、その分布は東北地方にまで広がる。
一方、西日本では、こうした大型の環状列石は造られることはなく、代わりに小型の円形配石遺構が造られた。
しかし、発見された遺構は極めて少ない。
円形配石遺構が竪穴住居に近接している加茂宮ノ前遺跡の場合、日常生活と祭祀をした場所が一体として発見された稀な例として、全国的に注目されている。(県埋蔵文化財センター事業課長・氏家敏行)
2019年(令和元年)6月30日 徳島新聞朝刊 「加茂宮ノ前遺跡」
朱の生産国内最大・最古
Q 遺跡ではどのようなものがみつかったのですか。
A 水銀朱を生産したとみられる石臼や石きねが約300点。辰砂原石や表面に水銀朱を塗った土器の破片、耳飾りなどの関連遺物も多く、出土数の合計は約1000点になりました。
また、祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構16基と住居跡2基も見つかりました。
Q どのぐらい珍しいのでしょうか。
A 非常に珍しいものばかりです。縄文後期の石臼や石きねは三重県度会町の森添遺跡などでも見つかっていますが数十点程度で、1000点規模の発見は他になく、
加茂宮ノ前遺跡が当時国内最大規模の生産拠点だったと考えられます。過去の発掘調査で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)に水銀朱が精製されていたことは分かっていました。
今回の発見で、生産の起源は1500年ほどさかのぼることになります。
また、円形配石遺構の発見は西日本でほとんどなく、居住域と祭祀の遺構がひとまとめに確認できたのは西日本で初めてです。
Q 阿南市内では他の遺跡でも発見がありました。どのようなものですか。
A 加茂宮ノ前遺跡から約5キロ離れた若杉山遺跡は弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての辰砂の採掘遺跡で、坑道は国内最古であることが分かりました。
遺跡の時代は異なりますが、加茂宮ノ前遺跡で見つかった辰砂原石は若杉山遺跡から産出されたと考えられています。
那賀川中流域で辰砂の採掘から水銀朱の精製まで一体的に行っていたのでしょう。 「交流を示す出土品」
縄文時代を研究する県埋蔵文化財センター・湯浅利彦専務理事の話
矢野遺跡(縄文時代)の出土品は、関東や九州から伝わった文化と県内で育まれた文化が混ざり合っており、地域交流の結節点だったことを示している。
西日本を代表する出土品で、徳島の歴史を県民に知ってもらいたい。
2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞 縄文の「朱」生産拠点
阿南・加茂宮ノ前遺跡
国内最大、最古級
祭祀と居住一体出土
「極めて重要な発見」
同志社大学文学部・水ノ江和堂(かずとも)教授(考古学)の話
縄文時代の遺跡が東日本や九州に比べてかなり少ない中四国の状況を示す極めて重要な発見。当時の水銀朱の生産、利用状況や集落構造を総合的に確認できる遺跡は他に例がなく、
今後の研究につながる。遺構を切り取って復元などしてもらいたい。 鳴門・板野古墳群について 「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋
鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
主な古墳は、西山谷2号墳 池谷宝幢寺古墳(県史跡) 天河別神社古墳群(6基・県史跡) 萩原1号墓(消滅)・2号墓 大代古墳(県史跡) 板野の愛宕山古墳(県史跡)
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、
鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする
摂津・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。
「板野・鳴門古墳群」
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm >>912
九州説が言ってるのでなく
倭人伝
そこんとこヨロシク 489>>651
>手ぶらで人跡少ない土地に出かけたら、飢え死にするよね?
車がなくても荷がない移動はないし、結局は60里程度だろう<
九章算術の記載は、始皇帝の「1歩=6尺」の度量衡の採用であり、
魏朝や陳寿らの度量衡とは全く違っていて、根拠にならず、
三国志の度量衡は、裴松之注にあるように、
車駕で1日300里で、陸歩行は1日200里であり、
それに拠った古田計算では、水行は1日450里平均位であり、
魏使らは、大事な詔書や金印や大量の下賜品を運ぶ事が仕事であるんだろうから、
おそらく陸行は車駕であり、記里車も当然拐帯しており、
狗邪韓國からの渡海でもその車駕や記里車を同乗させて、
倭地でもそれで陸行していたのだろう、と考えられる。
そして、郡〜女王之所都は「萬二千余里=水行十日陸行一月≒40日」であり、
40で割り算して、一日平均300里であり、
車駕の陸行の一日里数の300里とほぼ一致する。 稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。
斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に 讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、
石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。
蛇紋岩の製作遺跡 : 東みよし町稲持遺跡・徳島市矢野遺跡・上板町七条経塚遺跡
原石産出地 : 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩
徳島県で勾玉が出土された遺跡 : 稲持遺跡、矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡など。
井手上遺跡(徳島県三好市井川町西井川)(弥生時代後期終末〜古墳時代前期初頭の集落)出土の翡翠製勾玉は、
新潟県糸魚川で産出する翡翠を使用し北陸周辺で加工されたものであることがわかっている。
出土した遺物は、吉野川下流域、讃岐、吉備等の搬入土器が含まれており、
当時の交易の範囲を知る上で貴重な発見となっている。
「稲持遺跡」
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023036/ 鳴門板野古墳群 西山谷2号墳
萩原1号墓の近隣地に所在する尾根を削り出して整形した、墳丘の長径20m、短径18m、高さ約2mの不整形の円墳である。
墳丘の中央部に長さ4.72m、幅 北端で1.05m、南端で0.83mの南北方向を主軸とする長大な竪穴式石室がある。
竪穴式石室は、南北6.5m、東西4.8mの墓壙全体が結晶片岩と呼ばれる阿波特有の青い石で覆うように造られている。
石室内には、粘土床があり、その上に朱を敷き詰めたU字形の刳抜式木棺を安置していたものと推定されている。
斜縁上方作銘獣帯鏡と呼ばれる中国製の青銅鏡1面をはじめ、鉄剣・鉄槍・鉄鏃・土器などが出土している。
鏡は面径12.5cm、重量約157.6gで、右回りに「上方乍鏡竟大工青龍白虎子」の銘文と神仙像と5体の獣形のレリーフがある。
鏡は一部を欠損するが、当時は完全品として副葬されたものとみられる。
同種の鏡は数例出土しているが、そのうち、広島県広島市中子田1号古墳出土鏡が最も類似している。
出土した土器から、3世紀中葉の築造と考えられ、徳島県内をはじめ、畿内でも最古段階の竪穴式石室を持つ古墳として、竪穴式石室の出現過程を考える上でも重要な古墳である。 489>>660
>不弥国から邪馬台国までの道のりは南に水行計30日陸行1月で
九州北部よりかなり南にある想定
こう書いてある以外に解釈しようとすると色々と矛盾が起こってくる
無理を通せば道理が引っ込むと昔から言ってな<
「水行十日陸行一月」は、
出発からの目的地である「女王之所都」に対する説明になるから、
「郡から女王之所都」の所要日数説明になり、
だから、この大和説男の解釈が×。 「集落遺跡」から出土した鉄鏃
・矢野遺跡(弥生時代) 徳島県最大級の弥生時代の集落
・樋口遺跡 弥生時代後期〜近世にかけての複合集落遺跡 489>>661
>九州説は早いとこ負けを認めて 畿内説にひれ伏さんかい <
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師にひれ伏すのは、
嫌だ。 「倭国(阿波)は鉄器王国」
倭国(阿波)では遺跡発掘が少ないにも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地7か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」 「名東遺跡(縄文時代)」
縄文時代晩期の土器「突帯文土器」が出土
1987年(昭和62)年徳島市教育委員会によって、天理教国名大教会の建設地点の調査が行われている。調査区からは溝状の窪地が検出されており、縄文時代晩期終末の「突帯文土器」がまとまって出土している。
その他に石鏃・石棒などの石器類も出土しており、徳島の縄文時代の終末期を考える上で重要な資料である。 「弧帯文土器」
徳島県内では、銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる思想を表現した弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)
が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土した土器にみられる。 489>>662
>道里は行道日数でも水行日数でも表せるし表されてるよw <
陳寿は、
「道里」は、魏使らの実際に移動した「道の里」として、はっきり「里数」で記載し、
「日数」は、「道里」とは違う説明であると区別して書き分けているから、
類スレ主は、ここでも×男。 >>663
敗者となった大和説は奴婢となり
古墳の周りの溝に埋められる?。 「樋口遺跡」 弥生時代終末期の集落遺跡
眉山の南西の麓、園瀬川の自然堤防上に営まれた集落遺跡。1983年(昭和58年)以降数次にわたる発掘調査により、
弥生時代の終末期の竪穴住居跡や奈良時代の掘立柱建物跡などが見つかっている。
竪穴住居跡からは土器や石器など多数の遺物が出土しており、中でも東阿波型土器が多く含まれる点は遺跡の大きな特徴である。
そのほか注目すべきは、赤い顔料である朱が付着した土器が多数出土していることである。これらの土器の分布範囲は広く、人々の交流が活発であった様子がわかる。
樋口遺跡の集落内には、幅広い交易に関わった人々が暮らしていたのであろう。
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%C8%F5%B8%FD%B0%E4%C0%D7 鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。 「土器生産における分業と交流」
https://kaken.nii.ac.jp/d/p/13610469/2001/3/ja.ja.html
土器焼成残滓資料を収集し検討することで、土器生産の拠点を特定し、生産された土器の形状や胎土の特徴を抽出し、
その分布状況から、次のような土器生産における分業と交流の具体的な様態を明らかにできた。
「弥生時代終末前後」には、「四国東北部の下川津B類土器や東阿波型土器」など、限られた器種と胎土をもつ土器が
一定の地域で集中的に生産され地域をこえた広域供給システムが指摘されているが、
そうした土器生産の拠点の一つとして「徳島県石井遺跡群や矢野遺跡群」を特定できた。 489>>665の一部訂正
平原は、「破鏡副葬」用としての、おそらく渡来呉系楽浪鏡師らの製作鏡が中心。
椿井や黒塚は、九州倭国王から「東征毛人五十五國」の将軍らへの下賜鏡であり、
明帝鏡と呉系楽浪鏡師鏡の両方の可能性がある。 失礼
>>946
ザラコク氏は好きだなー
間違いがあれば訂正する
この謙虚さが奥山には無い
知識的にも人間的にもザラコク氏が数段上 489>>684
>魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東
沖縄とか台湾の辺りと書いてあるぞ <
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているし、
陳寿の位置推定も、「会稽東治之東」であるから、
「沖縄とか台湾辺り」とは書かれていないので、
この大和説男も、・・・・アホ詐欺師。 489>>685
ここまで証拠を突きつけられても 現実を認めないのが
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説 >>913
奥山なら教えてあげる 常時コテつけたらね >>912
九州説が言ってるのでなく
倭人伝
そこんとこヨロシク 907日本@名無史さん2019/08/06(火) 05:46:44.02>>912
ザラコクさんの
南≠東の答えが
FAQ8
>A
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果
「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した<
これじゃ、誰も納得しねーな 489>>686
>道理を日数で表してる例が沢山あるのに? 九章算術とか <
「道里≠日数」が原則であり、
漢書や九章算術では、補助的補完的な使用例。 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 489>>687
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
とっくにウソがバレて滅んでるのに
まだ気づいてなくて空しくうろつき回る
やはりどう考えても人間というよりは、
ゾンビか、京都アニメ放火犯人。 奥山さんは、思考回路がずれてる
外へ出てもコミュニケーションができないから
一日中、家に引きこもり5ちゃんで必死にコミを図ろうとしてるが
ずれてるから、常に反撃を受ける
自覚症状が無いのも彼を窮地に貶めている 桜井市民だけど
纏向は何もないよ ウソで塗り固めた市民の恥
長谷寺へおいで 国宝もあるよ 嘘偽りない歴史もあるよ 489>>689
>倭人伝も女王国まで水行何日陸行何日含んで
その道里を計算すれば帯方より南1万2千里と書いている<
倭人伝では、「水行何日陸行何日」は道里としては書かれていないから、
この大和説男も、×。 馬台国畿内説を宣伝する係員の奥山氏への弔辞を発表します。。。
奥山氏、今、僕達はあなたにお別れを告げようとしています。数時間前、討論していた時はあんなに元気だったのに、、、突然、自殺体になろうとは、誰が予想できたでしょうか。
振り返ってみれば奥山氏と僕達との出会いは、5ちゃんねるの掲示板でした。偶然に僕達がスレッドを覗いた事がきっかけで、魏志倭人伝時代についての討論会で一緒に過ごしました。
奥山氏は、あの時からずっと変わらず卑劣な論敵でいてくれました。そして、奥山氏はいつも僕達に論破されましたね。。。僕達にとって奥山氏は、頭の悪さを楽しませて貰え、笑えてリラックスさせられる存在です。
奥山氏が頑張っているから、僕達が癒される、、、いつもそんな思いで生きてきました。
奥山氏、どうぞ安らかに眠ってください。また、天国であなたと討論できる日までお別れです。
奥山氏、本当に心よりありがとう。 489>>693
>古代の距離感を現代のもので見るからそんな錯誤に陥る
古代の里測定は基本的に歩測<
いや、3渡海の各「千余里」が「余」を使って記録されており、
渡海は歩測出来ないから、魏使らは実際に計測しており、
だから、一寸千里や簡易三角測量が使われた。 奥山さんは、思考回路がずれてる
外へ出てもコミュニケーションができないから
一日中、家に引きこもり5ちゃんで必死にコミを図ろうとしてるが
ずれてるから、常に反撃を受ける
自覚症状が無いのも彼を窮地に貶めている \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
つまりテンプレの計算式 10,000÷8=1,250 は
九章算術の例題の答えを導き出す工程での比率計算式の一部を引用したものあるが
◆FAQ 78 のQとの整合性から
アンサーとして無意味な計算式であるだけでなく九章算術を持ち出すのは不適当
強いて言えば水行20日は 水行10日の2倍だ程度の計算式である
よって
FAQ78は削除するかアンサーを変える必要がある
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\ このスレの人達も気づいているのかな?
芸能界などの話w
チンピラか何かなんだろう・・・、
みたいな事を言ってる人達がいたり B Z〜が何やら〜の話とかw
『B 部落 Z 在』
調べて読んでみると、そういう話ばかり 埋葬形式は細かに区別されtるね
魏志
韓伝,夫余伝:「槨あって棺なし」
高句麗伝:「石を積みて封となす」
東沃沮伝:「大木の槨を作る、長さ十余丈」
倭人伝:「棺あって槨なし。」
ホケノは?前方後円墳は? どこの池沼なんだ?
『松傾』
実際は何の話だと思う? 松の木が立てられていて、
コンクリートのブロックが置いてあるでしょ
でも、その前は、
そういう仕事をしていたわけではないと言っていたしなw
電線?日本電〜何やら? 489>>701
「南→東」などの嘘つき騙しで論破されたで大和説は、
末期症状です 伊達郡の川俣町という掲示板
香野という家(当時、結婚した家)があって・・・・、
なぜか家の話をしていたり 日本のカミタマ〜、
仕事をするようになってからの話?
発電、電気を起こしていたりしている
と言っている人がいたでしょ
テラス? 蚕を飼い、機織り・・・あと仏教関係?
ほとんど同じ、ガンダムの話? 違うと思うんだけど、かると、なのかな?
『進んで明かりをつけましょう』 オームではないんだけど、同じような?
何なんだろう 老婆が言うには
りゅーま、りょーま?
そういう話をしていたことがあったり 489>>702
>畿内説は魏志倭人伝の女王国までの距離を
はるか遠くにあるという政治的祭事的な記述であり現実の場所は指してないとしてるので平気<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和説は、「南≠東」などに拠って始めから×であり、権利なし。
撃沈するのは主に大和説。 むかーし、老婆よりも前の世代の話、
亀戸天神に行ったりもしたんだよ
と言っていたし、受験などではないとかw
川俣町という掲示板でも、
同じような事を言ってる人がいたり、
おかしな話ばかり うまかろう安かろう
河童(本当は河童ではない)の役を演じた人物の話も出てきたり、 それにしても、
家の写真(あと、そういう話などもw)なんだけど、
おーむ関係のスレの人なら知っているのかな、
でも、おーむも無かった頃の話だしな・・・。 何かの家の話で、
家以外ニセモノみたいな話なのかな
ニセモノというわけではないんだけど、
そういう話? 『チョン州 長州』と同じ話なのかな、
明治頃に〜?と言っている人たちがいたり
家は軍人でもないし、警官でもない?
戦争などにも行っていないとか むかーし住んでいたというところも、
いまの福島県のほうだと言っているしな・・・w たしか仏教?という話をしていたしな、
それとも神仙の話なのかな 芸能関係のwikiも読んでみるとわかる
『ボーボボ』
このような話(エピソードなど)が出てきたり 家は芸能人でもないしな
『伊達の桃太郎』
神仙〜仏教関係の話 本当に創価()か何かなんだろう?
と言っている人がいたような? 家も老婆自身も創価ではなかったと言っているし、
数十年前に入っただけだとか、ストーカー? 489>>714
>方位よりも考古物証を重視した方がいいよとその中国人に言っといて<
考古物証でも、大和説は×であり、九州説が〇だよ。 キュウリのような葉、葱の華・・・、
当時、創価にも入っていないし、
老婆も生まれていなかったので、詳しいことはわからない
とかw 489>>717
>>萬二千里は世界の果てまでを示す観念的な設定値 <
>自女王國以北 其戸數道里可得略載<
成程。 ザラコクさんの
南≠東の答えが
FAQ8
>A
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果
「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した<
これじゃ、誰も納得しねーな 964荒すな奥山2019/08/06(火) 07:47:03.35
スレ立て既知害晒しage
965荒すな奥山2019/08/06(火) 07:47:48.83
既知害連続句読点晒し上げ >橿考研では他の研究機関の協力を得て、これまでに銅鏡約1100面、銅鐸約80点を
>3D計測し、データを蓄積してきた。これは国内で出土した古墳時代の
>銅鏡の2割超、三角縁神獣鏡に限れば半数を超す。
>奥山は「鏡の製作過程などを解明するうえで、大きな役割を果たしていくだろう」と意義を語る。
銅鏡1100面、三角縁神獣鏡に限ればその半数を調査して、僅か1点1字の同鋳型判定というのはおかしい。
同鋳型製法が常用されていたのであれば、もっとたくさんの事例が検出されるであろう。
上の例は、ただの他人の空似ではないのか。 当たってるなww
>>966
>>奥山さんは、思考回路がずれてる
外へ出てもコミュニケーションができないから
一日中、家に引きこもり5ちゃんで必死にコミを図ろうとしてるが
ずれてるから、常に反撃を受ける
自覚症状が無いのも彼を窮地に貶めている このスレッドは1000を超えました。
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