凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part37
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荒れないためのルールを作っておきます。
・城壁の議論や城壁以外の議論を妨害・規制することを禁止
両者とも双方敬意を表して尊重し共存してマターリ進行すること。
・中世の城スレッドなどの他のスレッドへレスするか
当城総合スレッドに書き込むかは各人それぞれの自由な選択に基づき任意である。
・他のスレッドへの強引な勧誘、誘導は差し控えて、レスする当人の自由な選択を
スレッドの住人間相互に尊重すること。
・落とし格子に関する議論をスルーしたりして妨害するのは禁止です。
以上のルールを立てておきます。
城総合スレッドですので城壁の議論だろうがそれ以外の議論だろうが、
規制する行為は荒らし行為と見なし、両者相互に尊重してマターリ共存していきましょう。
また、上記ルールを否定、批判するのも荒らし行為といたします。
前スレ
凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part36
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1527053354/ 定期的に湧いてくる日本語が上手な外国人。
日本ヘイトのコピペを大量に所有しているが、
城壁厨当人に、城にかんする知識は皆無。 富山県の高岡城址に行ってきた
1615年に廃城になったのに水堀他遺構が残ってる
幕府が見逃したのならどんな理由があったのだろう? 連休に広島の三原城行ってきた
新幹線ホームの下に石垣が残ってて無理矢理感が楽しめました >>7
加賀前田家は街道から城が見えないように街道の付け替えという隠蔽工作も行っていたけど、幕府は実状は当然掴んでたでしょ。
そもそも一国一城令自体が各家で解釈は曖昧(島津始め)なので、大身の前田家は加越能三国にまたがるから、三城は持てなくもない理屈だしね。
で、実際に加賀には金沢城に加えて小松城、越中には高岡城の他に同様に蔵扱いでさらに魚津城も在った訳で。(加えて分家の越中前田家の富山城、大聖寺前田家の大聖寺城) 加えて加賀前田家は徳川と姻戚関係を重ねているので、実質的には準親藩的な立ち位置だったのもあるかな。 紀伊徳川家は
和歌山、田辺(安藤)、新宮(水野)、田丸(城代)、松坂(城代)と、5城も必要だったのか 最近、本に帯が付いてることが多いけど、かなりの本に春風亭昇太師匠の写真と文章が載っている
春風亭昇太師匠が執筆に関わってるかと思ったらそんなことはなく、一部の本だけなんだな >>13
有名人だからでしょ
研究者じゃなくてただのファンだしな
中井先生、斉藤先生と城歩き本出してたけど
全然話について行けて無かったw 松代城て立地を見ると大雨のたびに浸水冠水してたんじゃないのかね 大坂の夏の陣以降に建てられた城は次の3つくらい?
徳川大坂城
五稜郭
龍岡城 ← これだけ異質 福山城は伏見城の遺構が移築されたんだよね
すごい距離だ >>27
もし西股総生も加わっていたら城郭界のスターが勢揃いしていたな 西股先生は結論ありきでしか話せない人だからな
近代軍事学の概念を中世に投影するのはいくら何でもバカすぎると思うわ 障子堀って攻めにくいってマジ?
桟の部分を通ればよくない? >>33
赤瓦や赤い壁は中国風だから止めろとネトウヨが反対
白と黒の純和風建築で復興されるんじゃないか? 首里城が中国風とか言ってる奴ってまだいるの?
本土の寺院建築が元になってると言うのが定説ですが
唐破風も日本西から見られない様式だし
とりあえず沖縄出身の歴史家である上里氏の見解を挙げておく
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2005/04/post_956c.html
>15世紀頃(日本では室町時代)から、日本本土から禅宗の僧侶がさかんに琉球に渡来していた事実があります。
>彼らは琉球国王のサポートのもとに寺院をつくり、琉球で禅宗を広めていたことがわかっています。
>当時の国王も仏教を信仰していて、そのなかで首里城をはじめとしたグスクにも寺院の様式が取り入れられたの
>ではないかと推測されます。 【建設進捗報告】安土城天主閣の鯱が取り付けられました
美術館内部に建設中の安土城天主閣の鯱が取り付けられました。
いよいよ安土城は完成間近となりました。
お披露目の日が待ち遠しいです。
http://www.taiyo-collection.or.jp/archives/886 2 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2019/08/28(水) 11:48:18.69
テンプレ、頭使え
城壁って何だよ?
3 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2019/08/28(水) 17:05:20.83
定期的に湧いてくる日本語が上手な外国人。
日本ヘイトのコピペを大量に所有しているが、
城壁厨当人に、城にかんする知識は皆無。 火災回数
松山城 6回(天守閣は焼失せず)
首里城 5回
落城の首位は岐阜城か 小田城は落ちまくってる
でもそもそも落城の定義がよくわからんし、どこまで記録されてるかもわからんから、正確な数字なんてわからん 城壁って荒れる話題なのか
ごめんごめん
地元に南北朝のころのお城の跡っていう小山があって平地に丸いお椀を伏せた格好だから
これがお城?これって城壁なかったのかな?って疑問に思っただけなんだ >>42
謝ることはないよ。普通名詞のソレについて語ってもかまわんでしょ。
で、疑問のは、麓に地元の土豪の居館があって、いざというときのその逃げ城・詰め城の類じゃないのかな。
城壁といっても近世城郭のような石垣に土塀なんかは元より無いけれど、掻き揚げ土塁や切岸に板塀か木柵くらいはあったかもね。 はー。なるほど。板塀や木柵で防御してたんだね。
ここでどうやって守ったんだろうって疑問だったんだ。
ありがとう。
こんな平地の居館じゃそりゃ全滅するわ。
相手は大内弘世だし。 そうか。居館は別なのか。
土塁があったのかまだ残ってるか今度は見に行ってみる。
これがお城?ってかなり疑問に思ってて昔の人すまんかった。 >>46
一般には天守=城で、さらに石垣もなけりゃもう城扱いされてないけど、
戦国末以前の日本の城は基本的に土を掘ったり盛ったり削ったりの
土の城なので、山城をいくつか回ってると、ローカルな小さな城でも
地形に応じて色々縄張りの工夫を凝らしているのが判るようになって
面白いよ。 杉山城、飛田城、山中城あたりが伐採整備されて素人目でも旧態がよくわかるから
一度直に目にしてみたら当時の城がどんなもんかよくわかると思う
沖縄は例外として基本的に本土は安土桃山時代に入るまで基本的には土塁で
石垣は使われたとしても土止め程度が精々だから城跡と気づかれずに開発されてしまってるところも多い 市内で唯一の古戦場だからかほとんど手つかずで放置されてるけど
確かに木が茂ってて分かりにくい
雨が降って停戦した夜に忍び込んで火をかけられたんだって
不意打ちで混乱して完全に壊滅
それで城壁ってなかったのかなとか思ったわけ
まあ有っても戦力差が大きすぎてどのみち負け戦だったと思う
こんな小さな山城に全力でかからなくても良かっただろうにと思う その城についての書物を調べるのがよろし
手付かずなら多少の土塁ぐらい残っててもおかしくないし まぁ、唯一の古戦場というなら市の教育委員会あたりで調査してそうなものだしな。
ただ、南北朝時代なら、もうあまりはっきりした遺構は残ってないかもしれんけど。
しかし、市レベルの範囲で本当に唯一の戦跡なのなら、えらく平和な土地柄だったんだなぁ、と思うわ。 宮古島市みたいな南海の孤島ですら島内に城跡が少なくとも3つはあるからな
残るは蕨市ぐらいしか思いつかない 滅茶苦茶平和な土地だったのは否定しない
太平洋戦争中は空襲に遭ったけど人対人は有史以来南北朝時代の一回だけだよ
もうちょっと保存状態の良い山城が川向うにあって山城マニアの人が調査してくれてるけど
あいにく一回も使われていない それ以上ボロがでないうちに書き込みは止めたほうが・・・ このスレ研究者レベルだったりするしなぁ
素人が一人紛れ込んできた感じ うん。素人だよー。
総合スレなのにここは研究者用ですってことは専用スレはもっと難しいんだろうね。
いつか山城とか史跡を歩いてめぐりたいから分かりやすく教えてくれる人を探さないといけないな。 そんなにぷりぷり怒るぐらいなら最初からわかるようなウソつかなければいいのに オマイラ、ご新規さんをよってたかってイジメんでも別によかろーに。総合スレは広く浅くでナンボだろうし。
でもま、折角盛り上がってるわけだし、ここで具体的な城名を示してくれれば、また話が広がるかもね。 たぶん過去のスレで何度もでてきてる話題なんだろうけど、あえて質問させてくれ
日本の城ってなんでレンガ(磚)を使わなかったのだろうか? 飛鳥・奈良時代に使われていたレンガが使われなくなったのは何故?
古墳時代に使われていた手盾が使われなくなったのは何故?
平安時代まで使われていた弩が使われなくなったのは何故?
制度としての奴隷(生口)がいなくなったのは何故?
この手の質問は質問者の年齢や偏差値を教えてもらえないと
どういう言葉や説明の仕方で質問者が理解できるのか分からないし
くどくど説明するのも面倒だし…… レンガは出土数が少なすぎるからごく少数の渡来系の連中が作っていた程度ですぐ廃れたんじゃない?
制度としての奴隷ならそれこそ戦後入ってしばらくまで農村部では現役だった
有名なとこではおばろく、おばさとか被官百姓や名子とか奴隷労働や人身売買の対象とされた人々がつい最近まで普通にいた 質問(回答)にかこつけて演説をはじめる奴って
低偏差値並みの理解(文章)力しかないとアピールしないといけない決まりでもあるの?
渡来系礼賛や日本語を理解できないのは、城壁厨の特徴でもあるけど 渡来系ガーとか誰もそんなこと言ってないのに
国士様ってすぐ半島とシャドーボクシングしはじめるよね 祖国の為に不自由な日本語を使い
今日も独りで戦う国士様!
やっぱ城壁厨かw
久しぶりだな もしかして、「城壁厨」なんて存在しないってことはないのか?
「城壁厨」厨とでも言うべき基地外が騒いでるなのでは? 俺が思うに
レンガ・石垣を使用→要塞 駐屯地 居城
土を掘っただけ→野戦築城 臨時基地 陣
・・・なんだろうな
土の城=竹槍・100均のカッパみたいなもんじゃないかな
竹槍も100均のカッパもそれなりに性能はあるけどすぐに破損してしまう・・・みたいな
レンガ・石垣を使用=金属の槍・ゴアテックスのレインスーツ・・・・みたいなもんかな
性能も耐久性も十分 ただし調達コストがかかる こんなことはたぶんものすごく既出なんだろうけどな
語り尽くされた・・・みたいな 常連は「またか」と思ってるんだろうな 大量の薪を焼いて煉瓦を造ってちまちま積み上げるより版築土塁のほうがてっとり早そうだが まぁ版築は定期的に土叩きなおさないといけないから維持メンテナスが大変だけどね
中国の羅城も基本は版築土塁で表面だけ磚ってのが多い
そもそも織豊城郭以前の城って戦があるときだけ建てて終われば解体することが多かったし
磚とか使う必要性がなかったと思う 「土心磚皮」ってヤツな。
本当の磚城は明代になっての南京城からで、それに使った条磚が3億5千万個で、同一規格で長江沿いの152の州県に割り当ていうから、おいそれと真似が
出来るわけがない。 https%3A%2F%2Fdictionary.goo.ne.jp%2Fword%2F%E7%A3%9A%2F https://dictionary.goo.ne.jp/word/磚/
せん【×磚/×塼/×甎】 の解説
東洋建築に用いられた煉瓦 (れんが) 。正方形や長方形の厚い平板で、中国周代に始まり、漢代に発展、城壁・墓室などに用いられた。 煉瓦じゃないが瓦で造った土塀ならあったな
熱田神宮の信長塀みたいなやつ そもそも海鼠がそうだしね
日本城郭で磚って言ったら磚敷きのことだぞ? 駿府城で小天守台が発見されたようだが、これが『家忠日記』で確認できる小天守台なら、
天正期の徳川家が石垣技術や金箔瓦を有していた可能性が高くなり、後世のものとされた
名護屋城の家康陣屋にある虎口の再評価も必要になるのだが 一年前の金箔瓦も小和田加藤が秀吉のものとか言ってたけど、他の研究者からは批判されまくってたしなぁ
そもそも豊臣政権トップの家康が金箔瓦使わないほうが不自然だしね
天正期家康の城についての考察が進んでほしいね 駿府城の天正期天守台が徳川のものとなると、東海道の城にある石垣は全て再検討の対象になる 岐阜城跡発掘調査? @GifuCityHistory
今回の調査で一番の大発見は天守閣西側で見つかった信長期の天守台石垣でござる!
岐阜城で本物の天守台石垣が見つかるのは今回が初めてでござるよ!天守の起源を考えるうえで貴重な発見になったでござる!
信長の城造りの歴史、その一端をぜひご自身の目で確かめて下され!
https://twitter.com/GifuCityHistory/status/1214500562206461953
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 天守閣
信長期となぜか断定
楽田や伊丹や多聞山を無視
もうめちゃくちゃだよぉ… 駿府城は駿府城で徳川の築城技術を思い込みで低く見積もり、文献資料を無視する学者達 城専門スレでも、天守のこと「天守閣」って書く奴いるんだww 城専門スレでも、天守のこと「天守閣」って書く奴いるんだww 駿府城の石垣問題は、真面目に織豊系城郭の前提がひっくり返る可能性が高いからね >>84
例の発掘箇所付近
今はどうだか知らんが昔は天守台裏に入れたので、この写真内容に問題はないと理解する
https://i.imgur.com/gtHSifQ.jpg
https://i.imgur.com/zXHwWLT.jpg
天守左手に小さく張り出した石垣があるが、これは明治の模擬天守建造以前に陸軍が作成した測量図にもあるので、
近代の模擬石垣などではないと思われる >>87
まだこんなニワカいるんやな
天守閣の初出は寛永三年の「江戸城御本丸御天守閣建方之図」
https://www.library.metro.tokyo.jp/collection/features/digital_showcase/044/08/
江戸時代の指図見ると天守閣とか割と使われる語なんだが一体どこのバカが明治になってできた俗語とか言い始めたのだろう 城ってどこの業者(ゼネコン?)が建てたのかな?
現代でもビルなどを建てれる業者って限られてるし
・中井家
・法隆寺集団(金剛組)
・穴太衆 現代だって下請けしまくるし、基本はビルだけ
昔は土木工事から石垣、普請等様々なことをやる必要があった
そもそも戦国以前は基本は武士も普段は農民
工事があればそこに従事
戦争があれば武器を持つ
だから陣城含めてみんなで作る
江戸以降は各部署で役割分担
とはいえ江戸以降は天下普請がメイン
というか現代みたいに一般人が指咥えて見てるなんてことがそもそもない
農作業も昼までには終わるし、冬はすることないし この際、誰が設計して誰が施工したかはっきりしてもらいたい
記録が残っているのであれば 築城の名人 戦国武将の○○!とかよく話題になるけど、そうじゃないと思う
ちゃんと設計・施工した技術者がいると思う
京都の御土居とかも誰が設計して誰が施工したのか興味深いな ほとんどが戦時中だから大名自身が指示した文章が残ってないと無いだろうね
識字率も低いし、同じ城でも時期によって違うだろうし
気になるなら調べたらいいんじゃない?残ってるのも少しはあるでしょう
御土居は無いみたいだけど アホか?
城の縄張り(基本設計)は家中でやるに決まってるじゃん
縄張り者捕まえたら城の弱点まるわかりになるんだから けど、中井家が建てた建物ってだいたいわかってるやんけ
昔も今も大手ゼネコンじゃないとできないレベルの仕事があるということだわ
弱点いうけど、名古屋も大坂も直線の道路を敷いて「どっからでもかかってこい」
という姿勢やったんとちゃうんか そもそも城郭と一言でいっても弥生期の環濠から江戸期の陣屋や関所まで多岐に渡るからそれぞれで作り方も全然違う
何が聞きたいか結局さっぱりわからん
というか地域性や個別性も高過ぎる 誰もだしてこんということは調べてるやつがいないんだろうな 質問が悪過ぎる
自分で調べろ
そもそも質問スレじゃない 技術者とか技術の系譜というのは誰も関心を払わないんだな
中国・朝鮮・日本は技術者軽視の国だからな 彦根城なら藩士の
横地吉晴
石原吉次
孕石泰時
早川幸豊
が縄張したとある(特に早川) >>104
内藤昌氏や宮上茂隆氏などは建築考証をするときに中井家や岡部家などの大工の作風を調べていたはず 名古屋城のコンクリ天守閣はこのまま解体もされず野ざらし状態が続くのだろうか? 垂直に動く床板を導入して、実質的にエレベーター派に妥協するらしいな。 おもてなしマッチョ隊が必要だな。
天守閣の下でパワードスーツを着た筋肉ムキムキのマッチョたちが
「マッチョいかがっスかーマッチョいかがっスかー」と観光客に声をかける。 そりゃカープってな具合に広島市民のシンボルだからな 広島城天守は爆風で吹き飛んだのではない
天守の上から三層は原型をとどめたまま崩れ落ちたとの証言がある
爆風が低層部分を南から襲って柱を破壊
上から三層が一旦、石垣の北東側へずり落ち、間もなく支える柱が耐え切れずに崩壊したと広島城学芸員は結論づける 駿府城と関連して広島城の小天守はいつ頃に造られたのだろう >>126
広島型原子爆弾の爆風風速知ってて語ってんの?そもそも爆心地近くの広島城を目視出来る範囲は即死だから 証言と倒壊後の写真で結論付けたとある
被爆から倒壊まで時間があって、他所から駆けつけてきた人の証言かな
あと割合近くでも地階に居たりしたら助かっている
証言を得たと言っているんだから得たんだろ 毛利元春「どうも吉田の代官が年貢をごまかしているようだっちゃ
ウチが自ら現地に出向いて城でも作るだっちゃ」 倒壊した木材を利用して本物の天守閣を再建できたかもしれないのに、現場から持ち去った奴らがいたせいでコンクリに。 最も焼けた城は松山城
首里城は3回だからまだマシだな 明暦の大火で江戸城天守の締め忘れた窓から火が入って燃えてしまったというが、
昭和20年5月14日、名古屋城は金鯱疎開のため組まれていた足場に焼夷弾が直撃し、その衝撃で窓が開いて火の粉が飛び込んで天守は炎上した
https://shirobito.jp/assets/img/upload/article/2019/08/5d4a9309accff1565168393.jpg 今月末刊行でしょうか、
「信長と家臣団の城」「肥前名護屋城の研究」は購読しますか? >>136
本屋だって、何十年何百年前の作品を売って飯を食っているのだ。
このスレだって、皆の周知のことを書き込んでも罰は当たるまい。
お金はとらないのだからな。 天知茂「城がなければただの町」
なごやん「なんだとお!」 名城大学というのがあるが名古屋城大学をつづめて言ったものだよな
名古屋駅も名駅と言うし、東京駅は東駅、大阪駅が大駅だからな / ∩ ∩ ヽ
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ヽ、  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / 土の城=バリケード 臨時要塞 臨時基地
石垣の城=恒久的要塞 恒久的基地 館 宮殿
・・・・なんだろうな >>153
土の城はメンテナンスが大変だからな。
特に日本の気候風土だとすぐに草や木が生えるしな。 水捌けの良い天正期の野面積みだと、石垣を内部から突き破って出てくるド根性杉もあるから、水捌けの良さを犠牲にしても、割り石積み(打ち込みハギ)→切り石積み(切り込みハギ)にしていったのかもね 野面積みは石が不均一だから積むのに技能を要するので、石の規格化が図られた しかし、宮上茂隆の子息と思しき「立て板の書き込み」は、誰も支持者がいなくてワロタwww
宮上の天守復元案は安土城、秀吉大坂城、慶長&元和江戸城、駿府城、すべて外していて、逆にスゴイねw 立て板はWikipediaでも宮上案ゴリ押しだから、立て板とすぐ判るんだけど、みんなスル―してる >>157
津軽指図(後世の再建案のひとつ)を元和度に比定してしまったのが運の尽きだったね。 最上階の東照宮だけが根拠だろうね
領内に有り余る良質な青森ヒバ(檜)を献上して幕府内での発言権を増したい津軽藩だけでなく、6代家宣の側用人・新井白石も天守再建案を出している
http://archive.library.metro.tokyo.jp/da/detail?tilcod=0000000002-00006931
その後も再建計画は持ち上がり続けたが、結局、大奥の反対や、飢饉の発生、ペリーの来航で国防の危機を迎えて天守どころじゃなくなり、明治維新を迎えてしまった... 後世の再建案の中から、明暦の大火で焼失前より1間低くなった、現在の天守台にそのまま建てられる案で、令和度天守を再建してほすぃな。
石垣を弄ると、奈良から厄介な城郭学者が出てくるだろうからw >>161
明暦の明暦の大火後、すぐに再建されると読んだ前田家が積んだ(現在の)天守台に合わせて設計されたであろう家宣天守は、そのまま建てられるだろう
https://cleanup.jp/life/edo/100.shtml
再建イメージCG
https://youtu.be/5DSqUsqGMRs?t=232 >>160
関ヶ原の戦い1600(慶長5)年から、大政奉還の1867(慶応3)年までの267年間に、江戸では49回の大火が発生した。その間他の大都市では、京都が9回、大阪が6回、金沢が3回と比較しても、江戸の大火の多さは突出している。
天守閣再建より、城内各御殿や城下の復興が最優先された訳がよく判るyo!
江戸の大火
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E7%81%AB%E4%BA%8B まぁ、冬の関東平野には、乾燥した強い「からっ風」が吹くから、あっという間に風下に燃え広がる
金沢は雪国で冬は湿ってるし、京大阪にはからっ風は吹かない。都が京にあったのは大火が少なかったからかもな
とにかく新井白石再建案で江戸城天守建ててほすぃわ 千田のハゲ、ぴょこぴょこシャシャリ出て来やがってほんとウザい。
磯田と平山と小和田にぶっかけ(造り)されてろ! >>162
寛永江戸城・第四層の四方唐破風出窓の内側に座って、城下町を観ながら温泉饅頭が喰ひたい
南→東→北→西
https://youtu.be/5DSqUsqGMRs?t=193 大内裏はでかすぎて不便だったそうだが、江戸城などはどうだったのだろうか?
大坂城もたいがいでかいし
https://datazoo.jp/tv/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%BF%E3%83%A2%E3%83%AA/1301742
>大内裏があまりにも広かったのが天皇の住まいが移った理由で、平安時代後期1112年に白河法皇が述べた言葉として、
>「内裏の殿舎は甚だ広博なり」と紹介。この大内裏は、政治や儀式を行う場所も一緒になっていたため、もっとコンパクトで
>快適な生活をしたいと考えたという。 将軍と御台所の食事は暗殺を予防するため、一口一口膳や汁、焼魚を替えていたらしいが、実はその後使用人に与えるためだったらしい。
庶民感覚で一人前5000円もするような高級魚(今なら神戸牛や松阪牛)の一口だけ食べ残しを毎日一回食べさせ、クビになって、大奥の内情を漏らされるのを防ぐ目的もあったようだ。 津軽指図は寛永天守を前提にしてるから後世の天守再建案 >>176
津軽指図と新井白石再建案は、天守台石垣高がほぼ同じの胴長短足プロポーションだしね
青森ヒバを江戸に集う全国の大名家に売り込みを図るべく、津軽藩が張り切って描いた再建案 マスク2枚全国に配って466億円
江戸城天守が再建できるよ 名古屋城は500億かかるらしいが
あっちはコンクリ天守解体費や石垣修復費がかかるからか 名古屋城の場合は本丸御殿建てちゃったから、工事やりにくいだろね
解体した膨大な瓦礫を搬出して、再建用の巨大材木を搬入してだから
家康がまず天守を上げろと正清を急かした理由が判る、、、 >>176
史実には反するかもしれないが、津軽指図は良く出来た(現天守台にそのまま建てられる)再建案だから、それで再建して欲しい!
平側に切妻出窓×2+入母屋出窓+唐破風なんて、アバンギャルド!
ある意味、豊臣大坂城と徳川大坂城(退屈)を合わせて再建した、現・大阪城天守みたいなもん。 津軽指図は小天守台が無く天守入口は北側で天守台に鉄砲狭間が有るだろ 安土城はもちろん、江戸城も駿府城も二条城も天守再建は無理だよ これで復元できるぞ
てか、今まで古代・中世の遺跡では推定復元できて、近世城郭が厳しすぎただけだが
城の天守、復元しやすく 史跡の魅力向上へ新基準
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58202690X10C20A4CR8000/ 大阪城みたいなのが増えるってことか
観光的にはいいんだろうが、後世に馬鹿にされるのは避けられないな 当時の歴史観や資料数、更にはそれを現実に反映させる限界を鑑みるサンプル
法令・建材の問題、当時の耐火性追求の背景、展望台や見た目の重視による各種改変 石垣部会の千田先生がぴょこぴょこシャシャリ出てきて、障害者を焚き付けてバリアフリーにしろだの難癖付けて、天守再建を潰しにかかるよw むしろバリアフリー化が必要だから再現性落とさざるを得ないってことみたいだが
千田も最初はバリアフリー反対してたけど、実際彼等も税金払ってる以上無視するのはお門違いだしな
そもそも世界的にもそうなってるし 税金払っている以上に
あいつらに健常者の税金使っているだろ
入場料に関していえば、ほとんど無料か割引 >>191
コンクリ・エレベーター付きならバカされるけど
木造ならそこまで批判されないだろ
郡上八幡、伊賀上野、掛川はかなり適当だけど
そこまで評判悪くない >>197
生まれながらのハンデに対する保証だから当然
いい加減、現代で復元するなら現代の社会に適応しなけばならないことを理解しろ 生まれながらじゃない奴なんていくらでもいるだろ
不摂生で糖尿病になって足切断とか
無謀運転で事故ったとか 糖尿病が贅沢病という考えが時代遅れだし、交通事故も様々な理由で起きる そのうち、寝たきり老人でも上がれるエレベーターを!とか言い出しそうw インチキ城
墨俣城(美濃)
岩崎城(尾張)
大草城(尾張) >>202
寝たきりなら拘縮していない限り、車椅子対応で十分 時代の要請に応じていろんな設備を付加していったら
もはや何時代の遺跡だか訳わからんものができあがるわ
史跡には極力手を加えず、
新技術によって車椅子の方を段差や階段に対応させる方向で考えるべきだ 安土桃山時代の天守にエレベーターを設置するのは、弥生時代の竪穴式住居にガスコンロとテレビを設置するようなもの。
姫路城・彦根城・松本城・犬山城・丸岡城を参照 天守を鉄筋コンクリートで再建するのは、茅葺古民家を最初から鉄板葺きで再現するようなもん 伊勢神宮ですら材料の枯渇で正確な再現が不可能なので改変しているのに >板違い復元バカ
一瞬、板張りの復元ミスのことかと思った >>204
墨俣城はこらえてやれwww
もともと一夜城は秀吉のはったりみたいなものだからww
徹底的に俗悪趣味に徹するべきだよww
ただ一夜城伝説は秀吉が生きている間から言われていたのは
確実だ。
本人も小田原城攻めでは明らかにその種のパフォーマンスを意識して
演出をしているし。 秀吉って一貫して戦わずして勝つ事考えてるよな
手下に慕われるのも分かる気がする 長期戦前提の兵糧攻めの方が敵味方の経済的損失は大きけどね >>218
少なくとも最初のうちはみんな大歓迎だったと思うぞ。 >>220
そうなの?えー天下統一してせっかく平和になったのに〜くらいかと思ってた 戦後パヨク教育の成果だわな。晩年の秀吉は誇大妄想のボケ老人設定。
大河なんかもそういう大前提でやるから戦国モノもつまんなくなる。 自分の部下に分け与える領地が日本にないならそりゃ海外行くしな
部下も領地ほしいし
惜しむらくは明と日本という世界二強がぶつかったこと
そして兵站にするはずの朝鮮半島が不毛の土地すぎたことだよね >>222
平和が何事に増しても優先される世の中になったのは
戦後になってからだ。
あの時代は戦争で飯を食っていた奴らは
戦争がなくなれば、飯の食いっプチがなくなってしまったとの
感覚だったのだろうて。
もっと戦争を、
俺たちはもっと戦争で稼ぎたい。
秀吉様にあやかって、一国一城の主になりたいとの
感覚だったのでないの? >>226
マジで平和の構築者なんだろうな。
あの時代の人は戦争しか知らない大人たちだったからな、
平和と言うのがどういうものか理解できない人たちに
平和と言うのを教え込むことができたのだからものすごい天才だよ。 >>227
俺は模擬天守は好きだがこれは全てにおいて駄目だな 熊本城なら、芋がらやらかんぴょうやらあるから籠城できるな 米沢城「籠城?何それ、食べられるの?」
岐阜城「また落城か?ガクブル((凸))」 土壁の中に干瓢(かんぴょう)を入れてたり、畳の芯材が芋茎(ずいき)だったり…
虫が湧きそう… 当時は兵糧が死活問題だったのがわかるな
食える物ならなんでもという思想だったんだろう
三木城とか鳥取城の渇え殺しとか地獄絵図 京都新城の発掘箇所って仙洞御所内?
それとも周りの砂利道のところ? >>245
いや、その地図じゃ全くわからんけどね
仙洞御所の場所は京都新城見に行ったことあるから知ってるし
今日の朝刊見てたら内部での工事に合わせて発掘したみたいね
さすがに現説は無しか
世紀の大発見なのに 最後期の京都新城ですら野良積みだから、打込み接ぎ・切込み接ぎは本当に関ヶ原合戦以降なんだな 打ち込みと野面も境目曖昧だしな
分ける意味がほぼ無い
古代山城にさえ打ち込みっぽいのあるし 前に聚楽第つくってたのに、また作り直したから皆が新城って呼んでたんじゃねーのか 二条古城(信長)
二条新御所(信長)
妙顕寺城(秀吉)
聚楽第(秀吉)
京都新城(秀吉)
二条城(家康) >>255
僭越ながら、補足。
慶長期二条城(家康)
京都新城を廃して仙洞御所(家光)
寛永期二条城(家光) 太秦に東映城というのもあった
伏見桃山城天守は倒産したが、たしかまだ残っているか 255が何を示してるかわからんから補足のしようもない
文献上「二条城」といわれたものなら聚楽入ってるのはおかしいし、
京都市内の城跡なら100はゆうにあるし 江戸城再建話、
漫画を作ったり、いろいろと工作をしているよな 再建と復元の違いが分からない
名古屋城は復元で江戸城は再建? 空襲で失われたオリジナル名古屋城天守を復(ま)た元のとおりに建てる
慶長度天守、元和度天守、寛永度天守と建て直され、新たな天守台だけ用意して再び建築はされなかった江戸城天守を、令和度天守として今再び建設する 古写真が残っているのに萩城天守閣はなかなか再建の気運が高まらないな 萩は観光資源の宝庫だから、いまさら要らないだろ
いまある街並みの保存のほうが優先だ 日本中の城を廃城に追い込んだのは長州のせいやんけ
どの面下げて再建できるんや 封建主義を廃したのだから真っ先に廃城しただろうな
城に籠って内戦をやっている時代ではない ♀_(`O`)♪何も持たない
馬鹿者たちの無力無縁の赤貧が
日本の明日をつくるのだ〜
松の雫は草下に宿り
今も生きてる 萩の城 >>262
そもそも復元復興模擬ってのはちょっとした歴史用語で天守の分類の仕方
人によって違いはあるけどある程度決まってる
詳しくは調べて
再建ってのはただの日本語
もっかい作るってだけのこと
だから江戸城でいうと「復元天守を建築する機運がある。火災で焼失した天守を再建するのが目標である。」となる。 今ある江戸城の天守台は火災のときのものではない
形状、大きさが異なる石垣の上に往時と同じものは建てられない 往時、若しも御天主を上げなばかくや有らんとするを復元、復興、模擬‥、いづれと申すか いまさら江戸城に天守閣はいらない。
大阪城みたいなインチキ天守閣になるだけ。
それよりは萩城に再建してほしい。 萩城は天守近くの素人が積み上げたであろう見苦しい石垣をなんとかしろよ 大阪城は当時の研究の最先端を結集した結果だからしゃーない
今や有形文化財 大坂城は先ず、徳川の城として伏見櫓を復元してほしい それな
大阪人が徳川の城と認めりゃ色々と復元できるのにな
もったいない 今の天守台をぶっこわして、寛永度天守台を構築すればよい お堀の外ならともかく、今の位置(東御苑)に西の丸(皇居宮殿)を見下ろすようなのは無理じゃない
東御苑まで一般立入禁止にするならともかく 東京ディズニーシーの横に大江戸キャッスルランドを開園して、そこに天守を建てればよい >>286
西の丸のすぐ西のビルからいくらでも皇居を見下ろせるのに
もっと遠い場所の浅い角度になる天主から見下ろせることの何が問題かわからない 何にしても、300年ほども存在して空襲で焼失した天守ならともかく、
江戸初期にほんのしばらく存在しただけの天守を再建する必要性は
なさげ。
東京なら、吉原を再現して花魁エレクトリックパレードでもした方が
賑わうんじゃね。 城の模型って天守ばかりで内堀や外堀込みのがないのは
むやみに大きいと売れないからなのかなぁ 姫路城のプラモに範囲が広い(大きいとは言ってない)のなかったっけ いや、あるかないかで言えばあるんだけどビミョウなんだよな、安いのは↓
パートナー産業 お城ジオラマ復元堂 1/1500 城ラマ 三河長篠城 特装版1 [城郭復元シリーズ] 大体博物館にいいのある
もしくは自作がほとんど
うりもんにするにはほとんど労力が見合わんからな 太平記の脚本を書いた人だから久しぶりに大河を見たけど
主人公以外は全部バカって、ラノベかよw
打ち切りでいいよ、あんなゴミ >>299
幕末の荒廃した城みたいだな
有名所はともかく田舎の城は復元しても維持が大変だろうな 成瀬氏は維持ができなくなり遂に犬山城を売却した
上杉氏は館山城は依然として私有地ではあるものの、国の史跡に指定された事により
管理・調査を日本国(および県と市)に移管 >>203
清洲城もインチキ城だがや
by豊臣朝臣左衛門大夫市松正則 城の主役は石垣と堀です
櫓や天守は飾りのようなもの
だからというわけでは無いですが、江戸時代のものと全く同じに再現する、という考えは変えて良いと思う
なにせ、現存している天守や櫓も、江戸時代にちょいちょいリフォームされてますからね
木造建築なんてそんなもんです、ってことは、必ずしも史実に基づく必要は無い、という事
資料が残ってないので再現できない、ではなく、当時このような感じの天守が建っていたのではないか
という推測に基づいて、新たに「令和天守」を建てる、その目的はあくまでも、往時の雰囲気の再現、に留まるが
それで良いのではないか、要するにですね、可能な限り全国の城をイメージで復元するべき、という事
そもそも令和時代に城を建てたって良いじゃない、全国の石垣と堀だけの城跡が寂しすぎる
そんな朽ち果てたままの状態で放置してるのは勿体ない
櫓も、門も、天守も、御殿も、できる限り建てる、ま建物に関しては歴史的な価値は皆無になってしまいますが
それだって100年後、200年後には価値が出てくるでしょう 例えば、○○城 復元 みたいな感じで検索すると画像が出てきますが
そこには当時あったであろう天守閣や多くの櫓、門、そして御殿、二の丸、三の丸、城下町
凛々しい姿が見られる
何しろそれは、江戸期の日本人が毎日目にしていたであろう、風景であるし
ちょっと高台から見下ろした城の姿は、どれほど美しかったのか
山城であれば、見上げるたびに天守の姿が目に入っただろう
そういった風景が、人々に与えた印象というのも無視できないはず
天守や櫓は、いわば街のシンボル的な、象徴であったのかも知れない 技術継承である程度建て直しや再建はやった方がいいよね 技術を受け継いでいないと、また戦さが起きて築城が必要というときに困る >>308
>技術を受け継いでいないと、また戦さが起きて築城が必要というときに困る
それはやっているではないかww
さっぽろ雪まつりで野戦築城の訓練を。 ヨーロッパとかと違って島国は弾道ミサイルで核ぶち込まれて終わりだからなぁ 現在の江戸城天守台にインチキ天守をでっち上げるくらいなら、名古屋城の木造天守をさっさと復元してほしい。 堀江氏 都に緊急37提言「大麻解禁」「妖精さんリストラ」過激案も…著書で 5/19(火) 17:58
https://news.yahoo.co.jp/articles/b934b368540dc3bb89c8f85140a393b0e9caf75a
>実業家の堀江貴文氏が5月30日に発売する著書「東京改造計画」の情報と、堀江氏が東京都に緊急提言したいと
>いう37項がネット上で伝わり、堀江氏本人もこれをリツイートしている。
>経済面では「満員電車は高くする」「現金使用禁止令」「江戸城再建」など15項目。
ホリエモン的にアリ!今こそ東京に天守閣を!『江戸城再建』 堀江 貴文 2020年03月10日
https://www.manga-news.jp/article/38281/ 琵琶湖に浮かぶ島の5棟 秀吉大坂城の豪華な橋を移築?
朝日新聞デジタル 6/2 07:00
https://news.headlines.auone.jp/stories/domestic/culture/13422294?genreid=4&subgenreid=13&articleid=13422294&cpid=10130000
>琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)(滋賀県長浜市)の宝厳寺(ほうごんじ)の唐門(からもん)(国宝)など4棟と隣接する
>都久夫須麻(つくぶすま)神社(竹生島神社)の本殿(国宝)の計5棟が、豊臣秀吉が建てた大坂城の極楽橋を移築した
>可能性が高いことがわかった。滋賀県によると、1615年の大坂夏の陣で焼失した大坂城の建物はほかに現存せず、
>派手好みの秀吉らしさが伝わる貴重な遺構という。 江戸城天守再建なら(明暦の大火直後に加賀前田家が積み直した)現天守台の上に建てるわけだから、新井白石再建案で建てるしかない罠w
https://ameblo.jp/yooi-don/entry-11737867082.html 江戸城にいまさら天守閣はいらない。
それよりは幕末の西丸仮殿舎を再建してほしい。 明治初期の古写真に写っている櫓や門を木造でズラリと復元してほしい。
その方がインチキ天守閣一棟より、はるかに壮観だろう。 >>320
たしかに。天守はお金も掛かるから、ホリエモン都知事にまかせるとして、とりあえず確実な二ノ丸外堀の3櫓(左から蓮池三重櫓、寺沢二重櫓、百人組二重櫓)は再建してほすぃ。
https://www.yamakawa.co.jp/images/product/TcqsQji87Y9IgYgI.jpg
これだけでも江戸時代のお城を楽しめそう。 >>320
熊本城は元熊本市長(現在熊本城顕彰会会長)が構想していたけど税金の無駄遣いと批判もされたし前市長(朝鮮人を優遇したクズ)に再選を阻まれて中途半端な復元に終わった
まあ結果論だけど熊本地震でそれどころじゃなくなるんだけどね >>321
安政の大地震始め、大地震が相次ぎ、城下の復興を優先させたせいか、幕末の江戸城の櫓は漆喰壁が剥離し、屋根瓦は草茫々…orz 漆喰壁を修理しているそばから、次々に大地震じゃ、しばらく様子を見ようということになる。
そうこうしているうちに、龍馬が大政奉還を実現させてしまったがじゃ! 漆喰は防水性は兎も角、耐久性が
そりゃ黒板壁や海鼠壁が流行る 龍馬はただの武器商人であって大政奉還なんてして欲しくないと思ってた口なんだが
偉人でもなんでもなかったことがバレてきてるよね 土佐藩御用達の近江屋(四条河原町)と永井玄蕃頭の屋敷(二条城北西300m)を往復していた龍馬は、二条城火の見櫓を見ていただろうね。
http://dadeken.blog130.fc2.com/blog-entry-520.html 姫路城と破風配置が同じ加納城御三階は誰の天守だと思う?
A.織田信忠 B.池田輝政 C.織田信秀(三法師) シナ人朝鮮人大好き細川家
陶芸家だからしゃあないか 転生内親王、他国へ嫁に出さないため女性も軍に入れるように憲法改正 栃木で障子堀が発見されたけどこれって埋め戻されるのか? >>340
埋め戻して土で保護しないと、遺跡はどんどん風化して元の地形に戻っちゃうよ...orz 天下普請の城は外様雄藩が築城を手伝ってるので内部構造がバレバレだけど
要塞の意味はあったのかな? >>343
ふ〜ん天下普請だとこんな巨大で立派な城塞ができるんだね
天下様が大きな力を持つのがよくわかるね
けど、現地見たからなんとか攻略できるんじゃね
謀反、行ってみよか〜
‥こういう大名が出てくると困ると言うんだね
見せることで威嚇し、謀反の芽を摘む効果を狙っても、知らんぷりの大名が出てきたら確かにイヤね
‥叩き潰すけど 構造わかってても城内部に侵入された時点で終わりじゃね? 真っ白けのほうがカッコイイってんで復元天守には鉄板を張らなかったんだろうな 「信長と家臣団の城」(KADOKAWA)、「肥前名護屋城の研究」(吉川)はどうでしたか?読むべきですか? 「肥前名護屋城の研究」は、築城技法の本だから、建築・土木工学の知識がないと読解困難では? >>350
肥前名護屋城の研究は気にはなっているが地元の書店には置いてないので保留
ここ最近は城の新刊は買ってないなあ
買ったのはこの辺の古本ばかり
高山城総合学術調査報告書
安土山御天王図像乃記
特別史跡名護屋城跡 < 佐賀県立名護屋城博物館調査報告 第1集 > 迷惑系YouTuberが首里城の寄せ書きを台無しにして炎上ってニュースがやってた
最近流行りの◯◯の母ですとか迷惑系全般、本当に罰して欲しい 広島城小天守はここ最近では一番多種多様な想像図が発表されてる >>350 >>354
名護屋城は一見の価値があるが、近くにある朝鮮博物館はやめた方がいい 石垣で城壁を作り、天守台を作ったのは織田信長が初めて。
織田信長以降に多くの城らしい城が作られた。
それ以前は砦みたいなもの。 琉球王国時代に築城された首里城は日本固有の城ではなかった。
なぜなら琉球王国は日本の領土ではなかったから。 チベットのラサのポタラ宮殿が中国と無関係なのと一緒だよな 上杉琉球守「余のポケットマネーで学校でも建てよ」
うちなーんちゅ「みんな酒を買って呑んじゃえ」 くまもんて熊本のゆるキャラであって
肥後の象徴じゃないよな
清正公はともかく相良や阿蘇からみたら細川は侵略者とちがうん サライで首里城正殿ペーパークラフトが付録されておます。 人吉の被害地図出てるけど上手いこと各城跡は免れてるな
人吉城は北側が一部やられたみたいだけど 首里城って東大寺大仏殿みたい。
ウッディジョ―の安土城、内藤案で出してくれないかな? 教えを請いたく参りました。
下記url(書籍試し読み)の表紙の次のページ、
お堀にかかる橋と櫓と石垣の写真、
これがどこなのか判りますでしょうか?
https://booklive.jp/bviewer/?cid=699029_001&rurl=https%3A%2F%2Fbooklive.jp%2Fproduct%2Findex%2Ftitle_id%2F699029%2Fvol_no%2F001
おそらく江戸城のどこかだとは思うのですが、
google map等を用いても特定出来ませんでした。
何卒お力添え賜れますよう。 だな。橋はかつて廊下状になっていて本丸と二の丸の両御殿を繋いでいた。 >>381,382
素早いお応えを頂き有難うございます!!
門外漢ながらボランティア活動の為に必要な情報だったのですが、
江戸城ですらありませんでしたか。
そりゃ判らない筈ですよね。
本当に助かりました! 重ねて有難うございました!!!! 二条城(現・本丸)を拡張した理由は、3代家光の将軍就任上洛に合わせて、御水尾天皇行幸のため。
行幸した御水尾天皇(家光の妹・東福門院和子の夫)は、まず二ノ丸庭園南側の行幸御殿に入り、将軍家光(義兄)と大御所秀忠(義父)から歓迎の挨拶を受けた後、本丸御殿・続いて天守に渡るために築かれた。
https://kojodan.jp/castle/13/memo/928.html
https://kyotolove.kyoto/I0000120
ちなみにこの時、東大手櫓門を解体し、臨時の平屋の門を建て、元に戻した(警備上の理由)。
https://youtu.be/a5EoBMINpU4?t=4389
徳川大坂城も家光上洛に合わせて、現在の天守台に建てられた。 ここのスレ民みんな知ってることいちいち書いてまで宣伝しなくていいよ しかしまぁ、大江戸を名乗る本の表紙に二条城ってのは
暴れん坊将軍並に大概だなw >>385 >>387
悔しいのおw 悔しいのおw >>389
福知山城天守の古写真が見つかったって! https://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20200715101.htm
金沢は10月に東京の国立美術館工芸館が移転開館する。
金沢城からも歩いて行ける距離だし一緒にどうぞ。 9時からラジオ第2で
千田先生の城の講演を聴こう! >>391-392 >>402
福知山城天守の復元に際しては、写真が皆無で史料が少ないため、
復元とは言えないとして、国や県から援助が得られずに苦労したという話を本で読んだ記憶があります。
わずかな史料と石垣の構造を元に議論を重ねて設計されたとか。
細部は不明瞭ですが、ほぼ合っていますね。
写真では大天守最上階の窓が火灯窓だったのが残念ですが、
復元天守の姿は既に市民に馴染んでいます。
当時の設計者、関係者の方々は、今回見つかった写真をご覧になって「してやったり!」
の心境ではないかと思います。
本当に素晴らしい天守を復元していただき、有り難うございます。
正直、3万2千石の小さな大名が丘の上にあんな立派な天守(しかも小天守との連立)がある城を持てたのか?
と疑問さえ抱いていました。
近くの篠山藩はほぼ5万石でも城に天守なし。(三重櫓2基(今はない)と石垣が立派だが)
柏原藩は2万石で陣屋(信長の子孫なのに)
隣国播磨では、龍野藩はほぼ5万石でも城に天守なし。(今の二重櫓は模擬で元は単層櫓、しかも山麓で陣屋と大差ない構え)
明石藩はほぼ10〜6万石でも城に天守なし。(三重櫓4基(今は2基)と石垣が立派だが)
但馬では、出石藩はほぼ5万石でも城に天守なしで山麓。
豊岡藩は3万5千石〜1万石で陣屋(江戸初期は城だったが詳細不明) 明智光秀が築城した福知山城は元は「福智山城」と書き、明智に福があるという意味だった 天守がまともに維持できるかどうかは石高と関係なくはないけど、作れるかどうかはまた別だしなぁ
江戸期には大砲の砲撃目標になるから作らないようにしたり、武家諸法度の関係もあるし
それこそ明石城は好例 >>406
漏れの実家の辺りを治めていた三草藩が抜けてるぜ?
三草藩は1万石で陣屋(天守はおろか、藩主も定府でいない)
やしろ国際塾壊して陣屋復元してくれよ。 福知山城天守の写真発見 再建前の姿、明治初期撮影か 京都
今年のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の主人公で、
戦国武将の明智光秀が1579年ごろに築いた福知山城(京都府福知山市)の天守について、
明治初期に撮影したとみられる写真が22日までに見つかった。
専門家は「天守の姿が初めて確認でき、第一級の貴重な史料だ」と評価した。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3e795b05e95eabe73136548c894a07f1f709b52b 肥前の有馬が丸岡に来て摂津の有馬が九州に
この辺面白いよな 最近駿府城の話題が無いのは、先走りした中村(豊臣)の城という見解を無かったことにするために
必要な時間と空白なんだろうなと思っている 加藤理文氏は折れないだろうと思う
石垣の編年で論文まで書いちゃっているし 伏見城
秀吉が築城、地震で倒壊、秀吉が再建、関ヶ原前哨戦で落城
この後再建したのは秀頼ですか? 関ヶ原合戦後、伏見城は一貫して徳川の城
ぶっちゃけ徳川時代の方が長い 家光は将軍宣下を伏見城で行っている。徳川が江戸に正式に定住する事になったのも伏見を廃城し駿府を忠長の居城にし秀忠の隠居所を江戸城内西の丸にした事による。 >>424
豊臣の城をどういう理屈で徳川の城にできたのですか? 関ヶ原合戦の緒戦で焼け落ちた時点で価値は無くなったものと見なし、
その後の徳川家による再建で徳川家の所有になったという感じかと 伏見は秀頼を後見する名目で入城したんじゃなかったっけ? 伏見城は天下の政務を見るため、大坂城は秀頼後見のため 家康は内大臣秀頼は権中納言秀吉の政権は取り敢えず京都に近い伏見で家康が継承しなければならなかった 結局、まともな回答がない
秀頼が家康に下賜したのかいな
ちゃちゃはあくまでも家康を家臣と見ていた
伏見城を横領されてのほほんとしてたのか 秀吉が家康に伏見での政務を任せたわけだから秀頼淀殿の出る幕はない 説明になってない
秀吉は家康に伏見城を与えたのか
秀吉死後、家康が伏見城に入ったことで非難されたことと矛盾する 矛盾しない伏見城は公人太閤の隠居所豊臣家の私領の本城は大坂城 つまり内府違いの条々と言うのが誰の立場からも出せない言い掛かり 家康が豊臣政権の大老として伏見城で政務を執ったので
城の所有も家康に移った
こんなバカな論理があるか バカなのは秀頼が関白になるまで公家を含め一切の政務を中止させようとした秀吉 豊臣政権なんてものは秀吉の死で消滅するもの。秀頼が関白に就任すれば豊臣政権受任の正統性を主張の上、伏見城も京都の高台院御所となってる新城も所有できるがそうならなかった。 慶長4年の段階では家康は西の丸に入っているので、豊臣家に遠慮している
関ヶ原合戦後は燃えた時点で伏見城は豊臣家の手から離れたも同然だし、
家康が自身の命で再建した時点で徳川の城になったと言える
実効支配した上に元主が何も言わないのなら所有は認められたことになる >>441
小学館の少年少女日本の歴史ってマンガの11巻で家康が大坂城西の丸に乗り込んで来て天守を築くって言ってた記憶があるんだけど実際はどうだったの? >>442
西の丸云々は伏見城のことね
大坂城西の丸天守は「「内府ちかひの条々」」に記載がある 関ヶ原〜征夷大将軍就任…内府(7歳の秀頼五大老)としての家康の城
正一位征夷大将軍となってから(特に秀忠に譲ってから)は、将軍家(徳川)の城(察しろ!)ってこと。
利家、秀長、三成亡き後、もはやそのことに文句を言える武家は存在しない。 文句を言えない空白が出来るのを事前に考慮しなかった秀吉の不覚 関ヶ原後、伏見城再建だけでなく、山陰道に丹波亀岡城、山陽道に姫路城、北陸道に福井城、東海道に膳所城、彦根城、岸和田城、和歌山城、次々に天下普請で徳川幕府の城を築いている最中に、「亡き太閤殿下の伏見城を内府様が私するとゎケシカラン!!65万石に減らされた秀頼様のモノです!!」なんて言ったら、どうなるのでせうか? >>451
家康様は内府(Daifu)と呼ばれるのを好んだ、と宣教師の記録にあるのは、そのためだね。 >>450
伏見城という豊臣家の私物を横領してもOKなら
家康は65万石も横領できるわけだが 秀頼は叔父秀長の大和郡山城(天守は家康が慶長二条城に移築したので、ナシ)に移っても良いと言ったが、淀殿が天下の台所、大坂商人から入る莫大な税収こそ、豊臣の力の源と知ってたから、頸を縦に振らなかった…orz
https://youtu.be/GsUxwhFti_8?t=1610 三法師は秀吉により安土3万石から岐阜13万石に加増だろ
官位も関ヶ原の時点で秀頼と同じ中納言 大坂城を幕府に渡せば、秀頼が関白になれなくなるのは明白だからな。
妹・江との確執もあっただろう。 >>460
「貧乏公方」と呼ばれて都落ちした将軍義昭の記憶に新しかった頃だからな 大坂城を徳川幕府に明け渡しちゃえば、天下の台所から舞い込む莫大な税収もなくなり、内裏や式台社、豊国廟も修復維持できなくなるよ。 秀頼出陣を淀殿が止めたのは、秀頼が大野治長や幸村など家臣や浪人にそそのかされたってことにして、治長や幸村の切腹と引き換えに、秀頼の助命を嘆願しようとした淀殿の意向らしい。
かつで秀吉が、備中高松城攻めで家臣や領民の助命と引き換えに切腹した清水宗治と違って、なんと女々しいことだ。 武士の風上にも置けない。 水戸城の角櫓がほぼ完成したみたいだな
二階の平面規模が古写真と違って見えるのが気になるがな 御三家なんだから水戸はもっと力入れろよな
高校移転させろ 水戸城には天守はなかった事にしといてやるのがマナー 情熱大陸【粟田純徳/「石の声を聴けー」戦国の石垣づくりの技を継ぐ石工】
9/6 (日) 23:00 〜 23:30 (30分)
番組概要
石工/粟田純徳▽戦国時代に活躍した400年の系譜を受け継ぐ石工集団『穴太(あのう)衆』第15代目当主。
教えを守り、歴史を背負った男の“石と向き合う日々”とは
番組詳細
織田信長の「安土城」の石垣をつくった石工集団・穴太衆。美しい石垣が残る滋賀県坂本に居を構え全国で、
時には海外でも技を披露。粟田純徳は建築家・隈研吾に請われ、アメリカで石垣をつくったこともある。文化財の
修復として貴重な古い石垣の再建には、当時の技を熟知した粟田の技が欠かせない。 だが今回は、岡山県の
寺院から長さ100m新規の石垣造りを受注。一体どんな石垣が完成するのだろうか。
「石の声を聴け。石の行きたいところで持っていけ」というのが穴太衆に伝わる教えだ。 歴史を背負った男の
“石と向き合う日々”を取材した。
【石工/粟田純徳】 1968年、滋賀県生まれ。地元の中学校を卒業後すぐに、祖父・粟田万喜三氏に師事。
2005年に父で14代目の粟田純司より会社を受け継ぎ15代目を継承。現在、株式会社粟田建設代表取締役。
趣味は、サッカー教室に通う息子の試合観戦。仕事終わりの一杯が至福のひととき。 水戸城は幕府によって石垣も5重の天守も建造許可されなかったからあんな門でもあるだけまし 朝日新聞連載の千田嘉博のコラムによれば大坂城真田丸の位置も形ももうわかっているという
・町中にあったので四角い
・明星学園のある場所
こういうのはもう誤り
https://i.imgur.com/8FEwNQ7.jpg
これが正しい
https://i.imgur.com/wGohd2G.jpg 朝日新聞休日版の歴史旅記事によると、秀吉の大返しは「御座所」を作っていたので可能だったとのこと
提唱者は千田嘉博教授である
「御座所」とは出陣する信長を迎えるための施設
出陣した信長がスムースに移動できるように
・宿泊施設の設営
・兵糧の備蓄
・道路の整備
を各派遣軍の武将たちが行っていた 宿泊施設と言っても江戸時代の本陣のような民家・旅館ではない。
城郭もしくはそれに匹敵するものだ 兵庫城はその一例
兵庫城跡地
https://www.shirofan.com/files/5D4A5510.jpg
秀吉はこの移動システムを活用したとのこと >>475
なるほどー
完全に独立して付け城みたいにしてたのか
囲まれたら大阪城から救援して貰えば良いし、攻めるのも楽だし良いことづくめだな 『真田丸』やってた頃には香川氏が描いてたな>四角い真田丸 >>476
それで賤ケ岳のときもその「御座所」を造っていたから
50kを五時間なんていう高速移動ができたと? >>479
各方面軍の武将が作ったそうなので北陸方面も当然整備されてたと思う
結局、いつの時代も権力者って軍隊を素早く動かすために道路を整備することを考えるんちゃうんか
古代の七道
https://i.imgur.com/897PyB8.jpg
https://i.imgur.com/vGRiiPi.jpg
東山道武蔵路
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/touzando-m/t-mimage_Folder/Troute_Folder/kodairaMP.gif
古代の駅家 布勢駅家(播磨)
http://gunsight.jp/c/image5/huse-m111.jpg 何周遅れだよw
その“正しい”イラストでは更地だが、寺はそのまま陣屋・兵舎として使ってただろ。 水戸城主は常に江戸にいたから立派にする必要もなかったし、カネもなかった
付家老の城も尾張の成瀬や紀伊の水野の城は立派だったのに、水戸の中山ときたら 和歌山も天守を五重にする計画があったが幕府に却下された れきしクンって言う作家(?)がYouTubeで水戸城
紹介してる。大手門可なりデカイ! れきしクンって言う作家(?)がYouTubeで水戸城
紹介してる。大手門可なりデカイ! 城のジオラマ模型「城ラマ」を製造販売、パートナー産業(神奈川)が事業停止 >>490
ということは、城ラマは在庫限りなのか
俺も買おう買おうと思いつつ、置く場所がないので買ってなかったんだが >>491
規制緩和の流れでも江戸城は無理やろ…場所的に 天守は要らんから関東大震災で消滅したままの和田倉門下梅林門をまず再建しろ 首里城再建で沖縄県が国産ヒノキを調達するそうな
はやくしないと争奪戦に負けるぞ 高天神城の模型を見ていて思ったんだが・・・・
崖とかモロそうなんだが、台風・豪雨で御殿・櫓ごと崩れたりしなかったのだろうか? >>500
ホムセンのホビークラフトコーナーにこういう砂や木売ってる >>501
中世の山城跡を見て歩くと明らかに崩落したとみられる箇所が結構ある
石垣なり版築なりで補強するという概念はなかったのだろうか?と思うわ ヒノキも戦前、戦後に植林(民材)したのが頃合いに成長してるからね。
ただし、昔の城に使われた様な官財(天然木)は手に入らないんだわ
官財と民材の何が違うかと言うと木目の細かさが違う
厳しい自然の中で生き抜いてきた天然木は成長速度が遅く
木目が詰まっていて樹脂も多く硬くて粘りがあり丈夫
この貴重な天然木を戦国末期から江戸初期に大量消費してるんです。 琉球右翼「鬼畜米軍とやまとんちゅはちゅら海から出ていけ」 那古野//network2010.org/contents/files/mado/nagoya_mado_photo/2067_09.jpg
清洲//item-shopping.c.yimg.jp/i/l/lanui_f9c0gqu8dbmsvrho
小牧//i.ytimg.com/vi/lgSls19U7SQ/maxresdefault.jpg
岐阜//blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-7c-da/senapi93/folder/989363/31/29496531/img_13?1338207644
安土//travel.watch.impress.co.jp/img/trw/list/1054/677/01.jpg 鮎貝//blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-e7-31/kanezane/folder/1292844/34/60542334/img_40?1357478442
大森//blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-50-97/aganohito/folder/903255/21/21958721/img_6?1256087805
//kofun.info/files/photo/spot/0001/6000/00016040.jpg
保原//blogs.c.yimg.jp/res/blog-10-50/tendomaru2000/folder/351870/36/10399036/img_0
梁川//blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-10-50/tendomaru2000/folder/351870/16/9027116/img_0 皇居本丸跡で展示されている江戸城天守模型の案内図
https://i.imgur.com/cOF9xdc.jpg
>確かな時代考証に基づく復元が可能な寛永期の天守を1/30スケールで製作したものです。
復元する気満々だな 琉球守を名乗った人で実際に琉球に行ったことある人いる? 掃部頭を名乗ったからと言って実際に皇居の掃除をやるわけではないしなあ・・・・ >>521
ほほぅ
かなり位高そうだね
けど蝦夷じゃ左遷か 亀井琉球守を自称した時には沖縄人は激怒したが
上杉茂憲が琉球守と称した時には
誰も怒らなかった
島を去るときにこれは退職金だ学校でも建てろと言ってカネをくれたから その上杉茂憲が実際に現地の城を撮影した写真が現存し
首里城は赤くないのではないかという議論を生んだ 蝦夷管領は安東氏だったが
現地の武田氏(蛎崎氏)に下剋上を起こされ
さらに、津軽の拠点も大浦為信に浪岡北畠氏、石川南部氏らと共に個別撃破され
秋田まで撤退
蝦夷と津軽(十三湊)を失う
加えて関ヶ原で西軍に属し、久保田(秋田)の城も失う >>524
何故朝廷の官職を名乗る必要があるのかさっぱりわからない
やっぱり日本国王=天皇 という意識があったからだろうか?
・・・ってスレチだな 「なぜ光ってるんだろう?」
↓
「○○デーのライトアップなのか!」
↓
「○○に関心をもったぞ、予防/対策/寄付しよう」
という反応がある、ということになっている(関係者の頭の中で) >>529
一応信長は天守閣のイルミネーションをやったからな。
まあなぜか信長以外は天守閣のイルミネーションはやらなかったけど。 >>531
寺沢櫓や百人櫓は、櫓台石垣残ってるんだっけ? >>532
夜空に浮かび上がる金閣の扉が開き、信長がそこから鳩時計のように現れたんじゃね?
安土城図屏風、早く見つかってほすぃな… >>535
マジで信長ならその種の演出をやりそうだからな。
秀吉だって、北の大茶会みたいなお祭りと言うか演出を
やっていたしな。 名古屋って信長、秀吉のお膝元だけど
三河産の徳川が一番好きなのな
名古屋城って信長が生まれたとされる那古野城と同じ場所にあるけど
再建するのは尾張徳川家の城だもんな >>542
天主台の北側は、もはや丸い瓦礫と化しているからね。天主は北側に倒れたみたいだね。 那古野城を再建したら小牧山城みたく
瓦葺きでもなく石垣もないしょぼい
(本当はしょぼいのではなく当時はそういう城が普通だった)城になるからだろ >>545
名古屋生まれの信長に愛着があるならそうするだろ
立派ならよそ者の城でいいってw >>544
って優香、望楼が南にずれてる。実際に見ていない人が想像で描くと、>>539みたいに望楼をど真ん中に描いてしまう。
実際に見ていないと描けない、この望楼のズレ(北棟長し)によって、天守指図が1582年焼失後の創作じゃないことが判る。 木割りは内藤案で良いとして、外壁はあの黒い下見板貼りで良いのだろうか?
「頂上の階の金と青を塗りたる以外は、ことごとく甚だ白く、太陽に反射して驚くべき光輝を発せり」「建物は悉く木造であるにもかかわらず、石(天主台)および石灰(白漆喰)を用いて造ったかの如く見える」
ウィンゲの版画からも真壁だったと思われ、福井城(1602)同様の、長押柱型出し白漆喰塗籠と思われる。
http://8787pc.com/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E5%9F%8E.html >>546
> >>545
> 名古屋生まれの信長に愛着があるならそうするだろ
徳川様の方がより愛着があるんだろ
250年も治めたらもう余所者じゃない 安土城天主と同じ天正7年に出来た明智光秀築城の福知山城天守の
古写真が発見され、安土城をコンパクトにしたような感じだが、
麒麟がくるの後半で登場したら鉄筋で復元した天守じゃなく
この写真を元にしたCGが使われるだろう 「頂上の階の金と青」ってどうゆうこと?ベランダの上が金で、下が青? 坂本城(1571)から赤瓦が出土したらしいよ。たぶん天守の最上階のだろう。
ということは、安土城(1576-1579)の最上階にも吹かれていただろう。
「瓦は一官に仰せ付けられ唐様(赤?)」「瓦頭に金を塗った薔薇色の瓦」とあるのはこれだろう。 つまり内藤案を福井城にして、最上階に赤瓦を葺き、高欄上を金、下を青に塗れば、良し 豊臣期大坂城はオーストリアの城館に壁紙として貼られていたから、あるいは安土城図屏風もグレゴリオ13世の遺産相続人が売却して、貴族の手に渡って、壁紙として貼られているかも。
構図は左隻が城下町、右隻は安土山ということも判っているのに…
「少年使節団が携えて来た、そのうち最も善きものは、屏風(beobi)とよばれる装飾家具の二つ(一双)であった。其の一(左隻)には新しい都市と、他の一(右隻)には安土山の不落の城を筆を以て描いたものであって、それは信長がヴァリニヤノ師へ、其の愛情の記念として贈ったものと同物である」
実物を見ていないと描けない天守指図
−天主台北側の形状…現状は丸い瓦礫
−望楼の中心からのズレ「北棟ながし」
−本丸御殿への渡り廊下の位置
−玄関真上の石打棚(床板を剥がして頭上から敵を攻撃)
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/c8/e15803c5d81cf855f9ccde0a3ee9a105.jpg
特に玄関の石打棚は松江城とそっくり
https://blog.goo.ne.jp/mugiide/e/06b2233775038a51359a4f608b1b7052 日本の屏風は、西洋だと医者が診察室の目隠しにと買うかもしれないが、芸術性が高過ぎる。
エッゲンベルク城みたいに壁紙として貼り付けちゃった方が、全体をくまなく歪みなく見れる
バチカンをあれだけ捜索して見つからないってことは、イタリアのどこかの領主の城館に壁紙として貼られている可能性はある。 もう名古屋城天守閣の木造復元は絶望的かな
せめて水戸城の三階櫓は復元してほしい 水戸城御三階、金沢城御三階、江戸城蓮池三重櫓はぜひお願いしたいね
名古屋城天守や寛永江戸城は、首里城全焼の例もあることだし、鉄骨コンクリート耐震補強で十分。
建て替える(復元する)となると、天守台石倉地下から岩盤まで杭打ちした後、厚さ5m(!)のコンクリート床を設置しないと、耐震性を確保できないとか。
別の場所に、ディズニーランドのシンデレラ城みたいに新規に建てるなら桶だけどw 江戸城の天守閣はいらない。
江戸時代の大部分は天守閣なかったんだから今さら歴史的景観を捏造しないでほしい
高い建物なら都庁とスカイツリーで十分 江戸城天守は東京湾の埋立地が小高い丘になっているから、そこに復元すれば良い やはり、みんな考えることはだいたい一緒なんだねw
寛永江戸城天守は、大江戸温泉とかお台場に1/2か1/3縮尺で再建すれば十分w
>>554
安土城も札幌雪まつりみたいに1/3縮尺で城郭考古博物館の屋外スペースに再建すれば良いと思うよ 仙台城の最新VR-Go!結構よくできてるし、駿府城も大和郡山城も、VRと1/3スケール模型で良いんジャマイカ? 江戸城は幕末期に存在していた三重櫓や門を復元するだけで十分。
それだけでも、かなり壮観になる。
できれば御殿の一部も復元してほしいが。 >>561
>>566
オフ会で一緒に入ってきた観光バカの寺井半兵衛が名古屋城で写真撮ってたよw
大天守北面の石垣の孕みがすごいから、崩れちゃうんじゃないの? >>566
駿府城の石垣についてなにか新しい情報はない? >>570
無いから聞いたのだが?
知らないなら知らないと言いなさい。 >>560
やらないでいいよ
鉄筋エレベーターで台無しにされるくらいなら価値ある石垣だけ残しておけばいい
こだわりないミーハー向けに駅前に城の絵描いたエレベーター付き鉄筋ビルでもポンと用意しておけばいい
シーズンごとに時代ごとの名古屋城とか関係ないけど人気ありそうな他所の城とか適当に貼り付けておけばいい観光名所になるだろう 江戸城天守は再建する可能性がある
皇居東御苑で天守模型を展示してるのは再建について
国民の反応を探る為の観測気球じゃないかと思う 姫路の人たちは築城の
際の池田家による重税と働き手を築城に駆り出されて苦しい思いもしてる どこぞの国のように、四百年前の恨みは千年経っても忘れないニダ、ですか?
今は姫路市民の誇りなんじゃないですかねぇ。 アタマ韓国で一杯のキモチ悪いヤツだなあ
池田家の圧政に地場の神が怒って祟りをなしたとまで言われたのに 赤穂城でも池田は火病して何人も切り殺し
岡山城では男色に狂って鍵屋の辻へと発展する 丘への通路の整備と、丘へ上がるエレベーターだろ?
観光地として普通だと思うが 築城の名人と言われる加藤清正とか藤堂高虎はどの程度の実務をこなしたのですか?
縄張り、普請、作事、なんでも先頭に立てるわけないですよね 縄張りとかまず軍隊の指揮経験がある人でないとできないと思うが
近代でも野戦築城は前線指揮官にとっては必須技能だし >>585
いや、彼らの場合はマジで現場作業が好きだった可能性が高いと思うぞ。
戦国武将でも自分で料理をしたり、武具を作ったり見たいな
細工物が好きな人は大勢いたしな。 今年福知山城の古写真が出てきたのは
明智光秀の大河に合わせて公開されたんだな
今まで秘蔵してた持ち主がタダで見せるのは惜しいから
オークションで研究者に売り渡して公開した
城の古写真は個人で秘蔵しているものが結構あるみたいで
たまに公開したり流出したりするが、幕末に存在した
江戸城本丸御殿の写真も誰かが秘蔵してるかもしれん たけし「歌を歌ったり映画やる気力もねえや、馬鹿やろう」 >>574
あの場所に天守など再建したら皇居が丸見えになるからNGだろ
皇居周辺はビルも高さ制限あるぞ 江戸時代も本丸御殿に面した方は窓を閉めていたらしいね >>592
建設作業中や清掃の際には足場組んで
作業している間ずっと丸見えになるから無理だと言ってるだろ 天守台から宮殿まで直線でも600mはあるのに何が見えるんだよw 天守台が往時のものとは違うので、そこへ天守を建てても「再建」に当たらなくなってしまう >>600
天守より御所の西に立ってるビルの方が近くて高いんだけどな >>606
>城に入居する博物館(現在は休館)も改修に合わせて展示を一新。館内にはエレベーターを設け、
>高齢者・障害者も訪れやすい施設を目指す。
また発狂する奴が出そう 現存ではなく木造ですらない、さらに外観すら往時のものではない
発狂なんかするかよ 天守って櫓をでかくしたものと考えがちだが、専門家によれば
御殿の大屋根の上に展望台を乗せた望楼型天守が始まりで、
それ故初期のものは内部が御殿になっていた
その後建築術の進歩で巨大化高層化するが、居住性が悪くなって
殿様が住まなくなり、中に何も無い只の大櫓になる
御殿天守だと中を明るくする為に窓を大きくしたようだが、
只の櫓、倉庫なら薄暗くてもよいので窓は小さく、
熊本城天守の最上階は座敷のある御殿部屋で古写真でも窓が大きいけど
住むようになってない名古屋城や姫路城の天守は窓が小さい >>610
北面だからいつも日陰で陽が当たらない
更に北側に木だらけの神社があるから鉄板を貼り付けてもろくに見えない >>607
広島名物だからな。
お城を新幹線の駅に改装するのはww
それから考えたら、原爆で吹き飛んだ時広島城が
住宅地にされなかったのが奇跡だと思うよww だって平地が少ないもの、それで中心部に空き地があれば使われるのは当然の話 1966年コンクリート天守完成というならギリギリ許可された時期で貴重、ラッキー
その後は歴史遺産である城跡を破壊する行為だとして許可されなくなった
福山城天守の北側は防御力アップのため、鉄板が張られていた
鉄はくろがねと呼ばれるくらいで、黒々としていたから、今度も黒い金属板を張 >>609
熊本城天守って早々に不便すぎるって住まなくなった所じゃん 銅は緑青で華やかに見えるようになるけど
鉄は錆びたら見苦しいだろうな 江戸城天守以降の徳川の天守は、大仏様の貫を多様しているから特にその傾向がある どの建築物をどのゼネコン・工務店・建築家が請け負ったのかそういう一覧表はないのか
「○○を建てたのは誰でしょう」「大工さん」ってギャグがあるけど、これは間違ってなくて
この点ははっきりさせてもらいたいものだ 上級武家屋敷は子孫が引っ越したりすると跡すら残ってないパターン多いね
残ってるところに何建ってるか見るのも楽しみなんだけどな 岡山城(岡山市)で今月18日、天守閣や国指定重要文化財の「月見櫓」などに硬いものでひっかいたような傷が計30カ所見つかった事件で、岡山県警が近く文化財保護法違反などの疑いで、別事件で逮捕していた愛知県に住む40代の無職男を再逮捕する方針を固めたことが29日、捜査関係者への取材で分かった。
捜査関係者によると、事件から数日後に岡山市内の駐車場で車に傷をつけたとして、県警が器物損壊の疑いで男を逮捕。防犯カメラの映像などで、傷が見つかった時期に岡山城を訪れている可能性が高いことが分かった。
天守閣の傷の中には、男の名字とみられるものがあったという。
https://this.kiji.is/727872967654637568 >>609
望楼型天守と層塔型天守は違うという話だろ
望楼型は信長の叔父が建てた犬山城やら信長が建てた安土城が望楼型天守で
もともとは御殿の上に小さな楼閣をのっけたもの
犬山城はこれが顕著で普段は一階部分の御殿で過ごし
接待や余興として楼閣部分に登った(安土城を除けば上層の楼閣部分で生活していたわけではない)
それに対して層塔型天守はシンボルとして建てられた天守
外装重視で大変豪華だが内装は居住しないため簡素、上へ行くほど面積が小さくなる
時代的には層塔型天守のほうが新しいが望楼型が発展したというものでもない 犬山城の望楼部分は後の時代にのせたことがわかってるしね
層塔型は藤堂高虎が量産にせまられてつまらないものにしてしまった 層塔型は量産よりも大型化と工期の問題
モダン建築の評価と同じだね ラジオで被害場所が「岡山城、高知城、松・・・」てきたからうちンとこの松江城かと思ったら松山城だった 加藤清正の子孫は秋田で庄屋
福島正則の子孫は津軽で石田三成の子孫に仕えた゛
大名再興を幕府に直訴しようとして謎の急死を遂げた 城郭界のスターと言えば
・小和田哲男
・千田嘉博
・中井均
・春風亭昇太
・ロンブー淳
・西股総生
・萩原さちこ なんかいっつも昇太、萩原、中井、加藤の4点セットを見かける気がして、新鮮味がなさ過ぎる城郭界。 >>638
>広島城天守閣の木造復元案 耐震補強より費用9倍で賛否
>https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20210220-OYO1T50009/
>
>国費で復元すればいい
>首里城に2度も金を出すのに不均衡
アメリカ人の富豪に原爆の罪滅ぼしで寄付求めたら? そういえば、岡山城天守も耐震補強するんだってね
https://www.sanyonews.jp/article/988640
その代わりということなんだろうが
「岡山城本丸の正門と太鼓櫓復元へ 伝統工法で往時の姿、構造を再現」
https://www.sanyonews.jp/article/1100450
ということなんだそうだ
せっかく実測図が残っているというのに
名古屋城天守復元が難航していることと無関係ではあるまい ど田舎の山の中の民家が100年崩れない立派な石垣だ
やはり石垣職人はすごいなと思う 甲府城武田氏館へ行ってきた。
3時間コースでしたが武田神社は宝物館が閉まってしまい見れませんでしたが荘厳でしたは。
神社はスタンプをまた取りに行かないと。 >>647
実質降伏したんで二度と謀反起こさないように総埋めて、
それで国替えで処置完了と思いきや、国替え拒否でまさかの二度目の謀反だもんな。
家康もまさか総掘り埋めてんのに蜂起されるとは思わなかっただろ。 _.。ャぁて丕刀フ7ゎ。._
,.ィ炙ヲi≠┴⇒弍j込ス>。
. ,ィ升ヲナ'´ `゙'<弖心、
. ;夕フア´ / ̄ ̄⌒⌒ ̄\ \ホi心.
んfiУ | __λ_ | ▽ij∧
从j'Y | ノ ヽ 〆| | ∨iハ
. 斤W | ノ \| kい
|友カ | / ノ(_)( ) }ソ川
. い叭 \___ / ̄| / 仄ガ
. Wi从 \ | ++| / 从ノリ
. ∀t△ \  ̄( ∧fリ/
゙マじへ、 |__| /リiУ
\夊id、_ ,.イ!刋/
`マ才i「≧ェ。。.。。っ夭テ少'゚
`゚'' ミ芝玉竺壬云=‐'´
まーる描いてチョン 今知ったが武田氏館って茨城県にも有ったんだな
模擬っぽい御殿と厩が造られてる /二ニ>、 祖先は支那や倭国に輸入されてたニダ
//__ __Yヘ お母さんは日本軍人相手の売春婦ニダ
.{ { -'_i_-' } .| ウリはベトナム経由で北米進出ニダよ〜
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| |
| |
|_________|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 第5種補給品 |
| 韓国陸軍 |
|_________|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ∧_∧ ∧_∧
( APA) <l|l;`Д´>
三 ( つ つ 三(つ ,ノつ
三 人 ヽノ 三 / ゝ 〉
(__(__) (_(__)
∧_∧ ∧_∧
<`Д⊂彡 三 DHC )
⊂ ノ 三G( こつ
人 Y 三(_,\ \
し (_) 三___)
∧_∧
( 高須, )
∧_∧ (`つ⌒ ) ∧_∧
( フAPA)フ : ∧_∧ ⊂(DHC ,)
( )ノ ::< ∩∩>: \ )
/ / / ::(´ ノ ノ::シクシク… ( ( |
(_)_) ::( ̄__)__):: し(_) 上杉家が琉球統治時代に撮影された写真をみると
首里城はやはり赤くなかったらしい 「琉球の風」放送だが世界遺産申請だかで首里城を再建した時に赤く塗ってしまった。 スレ違いだけど、
金閣寺でも、炎上前はあそこまで金ぴかではなかったはずだろう?
かなりくすんでいただろう?
今もし復元作業をすると、くすんだ色で復元したかどうかは気になるな。
ちなみに姫路城の場合は新品になりすぎで、白すぎ城だと言われていたがww >>658
え〜と、数百年も経た侘び寂び状態での復元でなければならない。というのが君の主張?それは何の為?
今、ギリシャでパルテノン神殿を復元してるけど、アレも建設当時の彩色された状態への復元は反対なの?
ルネサンス期に定められた「白い文明」でなければ認めない。ということかな? さすがに水戸城で最近作った(再建した)門は
木が新しすぎてつくりもん感が半端ない 金閣の再建は1952年だが、今のようには金ピカではなかった
1987年バブルに向かう金満ニッポンは大改修を行い、漆の塗り替え、天井画・義満像復元
なにより金箔を5倍もの分厚いものに張り替えて今の輝きを得た ググってコピペしただけの簡単な作業ですw
特に意味はないです 半万年続くチョンコ唯一のの伝統職
〃⌒⌒ヽ、 お兄さん遊ばな〜い?
( ノハヾ ゝ(同胞の9cmじゃ物足りないの)
<`∀´*> ノ 安くしとくニダよ〜!
m/^〜し~ (あとで謝罪と賠償を請求するニダ)
(__/ / ウェー、ハッハッハ
ノ~ ̄\___
| γ⌒) ノ
| γY レ^つ
|〃 .|、__/
`| |
. | |
(__シ 金閣寺は2階だけ金箔だったってのは聞いたことあるな 文献に基づいて建築当初の色彩で修復したら派手すぎると総スカンにあった建物があってね スレとは少し違うけど、
金閣はあの時代だとコンクリ復元をしてもおかしくなかったと思うぜ。
今から考えるとあの時代の為政者に感謝だよ。 日本はウリたちが作っ・・・
/\
, @ イテッ / .※ > ))
ノ) ∧..∧ ゞ \__/
ノヘY!ヽ / iつ;`∀´> * ミ
〃 ` ,.・ 彡〈 丿y⊂}__) @、 o
(___,,_,,___,,_) ∬
彡※※※※ミ !匹 ミ
 ̄出てけ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄9cm ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 嘘つき
\ 捏造!! / \ 何それ! / ボケー
寄生虫 \ /バカヤロー \ 泥棒詐欺師
l|||||||||||||| ∩,,∩ ∩,,∩ ∩,,∩ ミ∩ハ∩彡
(, )(,, ) ,,)( )( ) 自然にくすんだものを作り直しでわざと同じ状態にするってのはプラモのウェザリングと同じなんだけどな
姫路城だって真っ白けだったのは修復後数年だけでもう自然な色になってるし
だが何年経っても映画のセットみたいな安ピカの岡山城は許せん
他のコンクリ城は古くなればそれなりの落ち着いた見た目になるのになんで岡山城天守は何年経ってもあんなんなんだ? >>676
岡山城天守は2021年6月1日から2022年11まで耐震改修で休館らしいけど、
外観ももうちょっと旧観に近づけてくれればいいんだけどね。
福山城天守は改修で旧観に近い形にするようだし。 川は簡単に突破しているイメージだが、総構えを突破できないのは何故か?
要は濠があってその後に壁(土塁 石垣等)があったら戦国時代の装備ではもう突破できない? >>680
川は浅いところもあったけど、深いところもある。
しかも洪水のたびに流路が代わることもあったし、浅瀬の位置も変わることがある。
上杉謙信が関東に遠征する前に地元の豪族に利根川の浅瀬の位置や
舟橋等の用意を要請した文書が数多く残っている。
内通者等がいたら簡単に突破されたりして、固定的な防衛線としては使いづらかったの
ではないかな? ,,;|||||||||!!"
|||||| ,||||" ,,;;|||||||!" ,,,;;;||
`||||||、 `|||、 ||||| ,||||" ,,;|||||||" ,,,;;;||||||
`|||||、 |||| |||| ,|||" ,,;;|||||" ,,,,,;;;|||||||||||
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!!|||||||ii、 `|||,,;||||||||||||||||||||" ,,,,;;;;||||||!!!""
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 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
-−_─ - ─_−_─ - ─ - ─_−_─ - _−-
-  ̄─_─ ̄─ -−-- = ─− ̄-
─ ̄ -−-- ─−--− ̄−-
-  ̄─_─ ̄─ -−-- = ─− ̄-
─ ̄ -−-- ─−--− ̄−-
なんということニダ!!
. ∧_,,∧ ∧_,,∧ ∧_,,∧
アイゴー・・・ <; 三 > <; 三 > <; 三 > 太陽もネットウヨだったニダ!!
U 三) (| 三) (,l 三)
..,,,. ...,,..し―-J..,,,...,し―-J..,,,. ..,, ...,,.,し―-J..,. ..,,
━━ ━━ ━━ 派手好き秀吉が大坂城天守にギヤマンの窓でも設置してたら・・・ 最上階が開放的な天守は雨風が吹き込むのを防ぐために雨戸を立てていたのが多い
コンクリートで再建となれば内外の見通しを良くし、天守本来の意匠を見せるためにガラスを使わざるを得ない ガラスといっても色々あるからな
再現に気を遣ってるところは木枠の窓にガラス窓を引っ掛けて取り外し可能にしたりしてるけど
熊本城は一眼見た途端に、温室か!とツッコミ入れざるを得ないほど強烈なガラスアピール
まあ、あそこは宇都櫓と石垣があるから温室天守くらい許されるんだろうが >>686
安土城なんかは明かり取りにステンドグラスがあったかもしれん ガラスの器は正倉院御物にあったり、江戸のビードロ屋が器に切り子細工を施したりしていたが、大きな板ガラスとなるとわが国では明治になってからでないと作ることが出来なかった そりゃ世界的にそうだ。ヴェルサイユの鏡の間もちっちゃいのを集めて貼ってるだけだ。 >>678
>川は簡単に突破しているイメージだ・・・・・・
〇〇川の話しをされているの?渡河の難易は深浅次第。
>濠があってその後に壁(土塁 石垣等)があったら戦国時代の装備ではもう突破できない・・・
何故突破できないと思うの?
濠を渡りその後に障壁があったら登攀侵攻すればよい。装備の新旧に関わらず
邪魔をする守備兵は征圧すれば突破できるよ。 名古屋市長選で河村が再選したようだが城はどうなるのかねえ
石垣の調査は進んでる? 千田ってラッツ&スターを上品にしたような顔しちょるな >>694
それこそ維新が天下を取らないと、
名古屋城は何事も進まないだろうな。
完全の放置プレイ状態になったww
横浜かどこかの駅が100年たっても完成しないと話題になったがwww
名古屋城はそれこそ100年たっても、木造再建をするかしないかで
もめていると思う。 江戸時代は城の修復は必ず幕府の許可を得ていたけど
その都度目付が来て修復を見張ってたのかね? まぁね、なんでもない時に隠密に見に来るのもあるからね
油断できないね 越後屋と名乗るちりめん問屋が来たらそいつは隠密だぞ 福島正則の改易に懲りた浅野家は
備前の三原城を三原要害と称し幕府に一城令違反だと因縁をつけられないようにした
陪臣(家老)の城なので大名で無城の広島分家に遠慮もあった 福島正則の改易に懲りた浅野家は
備後の三原城を三原要害と称し幕府に一城令違反だと因縁をつけられないようにした
陪臣(家老)の城なので大名で無城の広島分家に遠慮もあった 三原城は総石垣なのに「要害です」って言い訳よく通せたなw幕府が浅野家に甘かっただけかもしれんが。 あれ天守が現存してたら日本一新幹線から近くに見える天守だったんだろうか 毛利は岩国城を破却しているが
伊達は白石城を
上杉は福島城を(半知後は板倉の福島藩が使用)
佐竹は横手城を保持している 尾張は名古屋、犬山、今尾
紀伊は和歌山、田辺、新宮、田丸、松坂 有馬は一城令で田中吉政に久留米城を破壊されてしまった 家康が総理大臣に就任すれば、東京城、静岡城、愛知城、京都城、大「阪」城の修築、再築だな 弘前城の天守を見た人が、
「天守閣ちっさ」って言うんだわ…
あれ、天守閣じゃなく、「天守閣の四方に4つあった物見櫓のひとつだけ」なんだがなぁ。
天守閣そのものは、明治から昭和にかけて、2、3度雷が落ちて焼けて、
その度に再建して来たのに、戦時中も燃えずに済んだのに、
戦後に国立指定公園に指定された後に、また雷で炎上。
指定公園になっちゃったから、再建を市や県で行えなくなっちゃって、
今に至ってる……
図面は残ってるから、再建はできるのになぁ 五層の天守があったのは事実だが焼けたのは江戸時代初期 >>720
4行目以降ってどこの天守の事??
確かに今の弘前城天守は櫓を解体して天守として作り直したもんだけど、
文化年間のものが焼けずにそのまま残ってるはずなんだけど。 >>722
いや、残った櫓だけを見て、
弘前城ちっさって、桜祭りに来た観光客に言われるのよって話。
実際はもっと立派なのがあったのに、再建もできなくなっちゃって残念っていうね >>720の住む世界では明治以降も文化財建築物へ避雷設備は導入されていないのか 熊本城を焼いたのは西郷かと思ってたが
駐屯してた官軍だったのか 江戸時代の大坂城は城代がいたにしても
薩摩〜大坂を海路で千人単位で参勤する島津家中がいきなり襲ってきたら
守備兵が足りません 大坂には8千人の武士がいたとされているよ
城内だけでも3千人居住していたらしいから、そう簡単に落とせるものではないよ 1660年7月25日(万治3年6月18日)、城内青屋門近くにあった土蔵造りの焔硝蔵(火薬庫)に落雷して大爆発が起き、
貯蔵中の2万1985貫600匁(約82.4t)の黒色火薬のほかに、鉛弾43万1079発、火縄3万6640本が焼失した。
爆発の威力はすさまじく、城内では29人が死亡、およそ130人が負傷した。
天守や御殿、櫓、橋など、多数の建造物が損壊。
城外でも3人が死亡、家屋1481戸が倒壊し、多数の家屋の屋根が破損した。
また、青屋門の扉が城から約14km離れた暗峠まで飛ばされたとの記録(「板倉重矩公常行記」)もある 「火災で焼けた」って「落馬して落ちた」みたいだな
>>726はその火災の原因が駐屯軍の意図的な放火って言いたいんでないの
通説?従来説?は原因不明で非意図的なものだっけ 安土城はトチ狂った織田信雄が焼いた
「三助どののなさる事よ」と別段ビックリもされなかったとか どの城も基本的に残すつもりはなかっただろうし焼けてちょうどよかった・・・・くらいの気持ちだったのでは? きっと城内に恥ずかしい手紙とか残してて、探しても見つからなかったから城ごと焼いたんだよ 別に熊本の天守閣や本丸御殿は焼けても
本陣に西郷軍を侵入させなければ政府軍の勝ち >>735
信雄も立ち回り次第では自身が安土城の主になる可能性もあったのになぁ。まぁ秀吉がそれを許さないかもしれんけど。
まぁ安土城天守が無くなって一番喜んだのは秀吉でしょ。
織田家乗っ取りしようってのに前主君の城がそのままじゃやりにくいからだろうしね。 斎藤義興「父上も秋田城介信忠も死んだうえは
岐阜城も美濃国も今からは俺のものだ」
禿げねずみ「黙れ、こわっぱ!」 >>738
意外と井沢の説が正しかったのではないかねぇ。
安土城天守閣は信長教の神殿みたいな感覚だからな。
中二病丸出しの信長の妄想博物館みたいになっているのではないかねぇww
例えば金箔髑髏を目に付くところに飾っていたりとかww
閻魔大王の顔を信長の顔に似せて描いていたりとか 呉座が失脚したからってお前が復権出来るわけじゃないぞ井沢 >>744
何をもって、勝ち組、負け組認定しているのかさっぱりわからんww
この業界は基本的に飯は食えないけど、
一度名前が売れて、固定客がつけば何十年も飯が食えるからな。
呉座にしても、これから生活に困って野垂れ死にすることだけはないと思うのだ。 >>747
> 明治中期の国・郡で分けた日本地図、無償でデータ公開
「国」を使ったのは明治「中期」じゃないよね 徳川慶喜の追討を命じた高札を岐阜で発見
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1625097922/
鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜の追討を命じる高札が見つかった
戦いの数日後に中山道の大湫宿に掲げられたとみられ、高札を見つけた学芸員は
「全国指名手配のような感じで新政府側の正当性をPRする狙いがあったのではないかと話す。
慶喜追討の高札は国内で数点見つかっているが、掲示場所がわかるものは珍しいという。 五輪 小山田が障害者にうんこ食わせてた時、米呂はまだこの世にいなかった
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1626687653/
息子を巻込むのは織田信成に比叡山焼き討ちの話する様なものだ 肥前名護屋城は秀吉の死後、朝鮮から撤兵した後は、
朽ちるにまかされたんですか? 資材は関ヶ原後に寺沢広高によって唐津城に転用された あれだけの建造物の資材再利用しないともったいないもんな。
大手門って仙台城に転用されたのって伝承レベルなのかね。
戦災で焼失しているけど。 伏見城は廃城後、
伏見の御香宮、西本願寺、福山城に門が移築されたね
神、仏、城 名護屋城の天守はどこに行ったんだろう
唐津城に天守はなかったというし 移築する予定だったが、放置された影響で使用に耐えられないと判断されたのかもしれない
海風が強い場所な上に突貫工事だったから >>757
元伏見城のパーツってあちこちにあるからな
全部一箇所に集めたらいい感じに復元できるかもしれん
肝心の土地は使えなくなってるけど 余談ながら、鈴木長吉さんは、ながよしと読むんだね。
木原方、浜松の大工、ちょうきち。
そう思っていました。
すいません。 >>760
素晴らしい発想!ぜひCGでやって貰いたい 個人的に右手小指を骨折した。色々と不便だわ
これで思い出したのがタモリ倶楽部の石積みの回
https://i.imgur.com/SfMZeFR.jpg
https://i.imgur.com/3Eq6zul.jpg
https://i.imgur.com/8fhQTZf.jpg
最初に指導役の先生が言ったことは「簡単に指の骨が折れる」ということだった。
1本でも指が折れたら最初は安静にせんといかんし仕事によってはできなくなる。
昔、雇われて石積みしてた人は指の骨を折ったらどうしてたのだろうか?
無給で窮地に陥った?
そうか無理やり仕事したのだろうか?
なお、石の値段はものすごく安いんだが、運搬費がものすごくかかるらしい。
番組の中で石の調達費用を言っていたかもしれないがだいぶ前の放送なので内容を忘れた 火事で燃失した城については、仕方がないからCGのやつでも見るかと画像検索しても油絵タッチの模型が大量にヒットしてしまう >>754
だれが許可したんすか?
秀頼本人なら文句なしながら若年、家康か三成の許可なくと言うわけにもいくまい 名護屋城って朝鮮の役終結で役割終えた後は一応豊臣家が管理してたのかね。
関ヶ原終わって摂津河内和泉以外の豊臣家の直轄領は徳川家が持っていちゃったし、
その徳川家からしたら名護屋城なんて無用の長物だから、「廃城にするから好きなもん持っていっていいよ」って感じだろうね。 普請も担当した寺沢広高が管理したかと、この人関ヶ原合戦後に唐津城を築くまで居城がなかったようだし、
城代という形で名護屋城にいたかもしれない 九戸一揆が終わるまでは小田原城の大久保忠隣が管理、その後に廃城かと >>772
先月肥前名護屋城に行ってきましたけど
半端じゃないおおきな城だったんですね・・ 一番水城っぽい感じというか、現存の縄張りが川か海湖に繋がっているところってあったっけ?
全部埋め立てられちゃってるかな 荒木村重の謀反と穴太衆の石垣について触れられてる本だとか。面白そう 大分で大地震があったけど
江戸時代には石垣が崩落するような大きな地震はなかったのだろうか
その場合、城主は幕府の許可を得て即座に復旧してきたのだろうか
熊本城がやられたのは築城後400年経過してた >>783
崩落箇所の絵図を作成して、江戸に提出して許可を貰った >>783
宝永地震
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%B0%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87
>宝永地震は、江戸時代の宝永4年10月4日(1707年10月28日)、東海道沖から南海道沖を震源域として
>発生した巨大地震。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、
>記録に残る日本最大級の地震とされている
南海トラフ地震、次は「宝永タイプ」? 津波の痕跡から予測 毎日新聞 2021/5/31
https://mainichi.jp/articles/20210531/k00/00m/040/390000c
>過去に沿岸を襲った津波の痕跡の分析から、次に起きるのは江戸時代の1707年に起きた宝永地震と
>同じタイプのものになる可能性があるとの研究結果を、政府・地震調査委員会委員で産業技術総合研究所
>名誉リサーチャーの岡村行信氏が5月31日、日本地球惑星科学連合大会で発表した。
>次の南海トラフ巨大地震は「宝永型」 津波被害大きく交通網寸断…専門家警鐘「『歴史に学ぶ』ことが重要」
夕刊フジ 2021.6.7
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/210607/dom2106070002-n1.html
「被害は東日本大震災の10倍超」2030〜40年に想定される西日本大震災という時限爆弾
南海トラフ巨大地震は確実に起きる
https://president.jp/articles/-/43402
https://president.ismcdn.jp/mwimgs/9/0/500/img_903706d0b387907255a6fa868e098a49402192.jpg
https://president.ismcdn.jp/mwimgs/6/2/500/img_62949a373f203846d8b45d20138b4572108927.jpg 江戸時代初期ならともかく
中期以降は貧乏で普請できないとかありそう 俺、ジャンボ宝くじの一等に当たったら
伊豆の別荘地に理想の家を建てて
引き籠るんだ……
地震地帯じゃなくてよかったよ 地方豪族が戦に破れて落城し、その近くで帰農して庄屋になったような話を見ますが、それは勝った側から許されて土地を与えられたということでしょうか? 庄屋は旧家が多い
今の殿様がやってくるよりも前にいっぱしの領主を張っていたような由緒ある家
今はもう武士屋さんではないが、だと言ってそこらの百姓屋さんとは違う存在
落城してというか、降伏してということもあろうしの 7世紀、大和朝廷が唐と新羅の侵入に備えて対馬に築き人気テレビゲームの舞台ともなっている「金田城」の魅力を知ってもらおうと、対馬市は城のジオラマやAR=拡張現実の最新技術で歴史を学ぶアニメーションを完成させました。
金田城は対馬市美津島町にある山城で7世紀、大和朝廷が朝鮮半島で行われた白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた後、敵の侵入に備えて築いたもので、最近は鎌倉時代の元寇をテーマにしたテレビゲーム「ゴースト・オブ・ツシマ」の舞台ともなり注目度があがっています。
対馬市は7日、金田城の魅力をわかりやすく伝えようと「観光情報館ふれあい処つしま」に実物の550分の1の大きさの城のジオラマを完成させ、報道関係者に公開しました。
…続きはソースで(動画あり)。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20220308/5030014267.html
2022年3月8日 10時59分 名城というのはこういうのを指す。
朝廷の城だけが正統性がある。 とある軍勢が通るたびに現地の人はその都度、禁制をもらわんといかんし、
国人・土豪も大勢力が来ると自立できず被官にならざるをえなかったようやな。
西岡被官衆
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nisioka_syu.html
・鶏冠井氏
西軍→三好党→織田方の革島氏の攻撃で没落
・物集女氏
細川藤孝がやってきても本領安堵を拒否して自立しようとして滅亡に追い込まれる
・神足氏
細川管領家被官→細川藤孝家被官→細川藤孝の転封により当主は西岡にとどまり、
息子は丹後に同道
・能勢氏
東軍→将軍直臣→二条城で織田方の攻撃で戦死して没落
・革嶋氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kawasima.html
将軍直臣→三好党によって追放される→織田信長について所領を回復→西岡一帯が
細川藤孝に与えられてこの細川藤孝によって革嶋氏先祖伝来の所領を安堵される
(+被官化)→細川藤孝が丹後に転封になるが同道せず西岡に残る(そういう選択が
許されたらしい)→明智光秀について山崎の合戦に参加して豊臣秀吉によって所領を
没収される→江戸時代は郷士として認められた 「兵と農の分離」という本を読んだら、
・中世に土地を開発して領主(地主)となる→大名(どこか失念)の勢力がやってきて被官に
なることを要求され、具体的には軍役を課せられて武装して出陣することを要求されるが
武装+出陣を拒否して代わりに金銭を納めた→豊臣時代に太閤検地によって(江戸時代だった?
失念)所領を認められず一般農民として登録されるが、地主として住民から地代を徴収し続ける→
江戸時代中期から?これに関して「もう地代を払わないという裁判を起こされる」という事例が載っていた
領主と言っても皆が武装して武士化するわけではないし、色んなケースがあったということやな >>796
信長は配下の兵士の略奪暴行厳禁にして守らないやつは即斬首してたし、
当時当たり前にやってた人身売買も禁止していたから、
プーチンとは全く違う 信長の野望のパッケージめで思ったのだが、
上杉の上洛は、信長への無言のメッセージだと思うんだよな
曰く、奇知なんかに囚われず、目前のことへ必死になれと。それでこそ、奇知も活きると。
それでも、上杉謙信の才能、徳は、
楠木正成の三分の一しか無いらしいんだが、、、
俺はなんとなく謙信のシュッとかっこいいとこ好きなんだけども 曰く、常奇両知両道であって、
得意であっても、奇知奇道に囚われたことは、魔にやられていたと思う。
信長の魂を冷やし、目を冷ました、上杉謙信。
さすが、北陸。 「信長公記」より、残酷シーンを抜粋
比叡山焼き討ち
鎮護国家の大道場は、叫喚のるつぼと化した。織田勢は僧俗・児童・智者・上人の別を問わずことごとく首をはね、
信長公の御前に差し出した。また山上では名僧・貴僧の呼び声高い高僧たちとともに美女・小童のたぐいが数をも知れず捕らえられ、
御前に引き出されてきた。かれらは口々に「悪僧を誅伐なさるにおいては是非もなし。しかしわれらは助け候え」と哀願したが、
信長公は聞き入れず、彼らはすべて首を打ち落とされた。まことに目も当てられぬありさまであった。
焼き討ちは完遂され、信長公は胸中のしこりをとりはらった。信長公の怒りに触れた比叡山の山麓には数千の屍が散らばり、
この世のものとも思えぬ情景が広がっていた。哀れなことであった。
※婦女子大量(数千人)虐殺・この世とも思えぬ風景 長島攻め
観念した一揆勢は降伏赦免を求めてきたが、信長公は断固として許さなかった。
信長公はかれら奸悪の徒を干し殺しにすることで、年来の乱妨狼藉の報いを受けさせようとしていた。
そのような状態が続く中、8月2日夜大鳥居に籠城していた一揆勢が夜間風雨に紛れて脱出を図った。
しかし織田勢はそれを見逃さず、追撃して男女一千ほどをなで斬りにした。
長島の陣は、一揆勢の思いもよらぬ長陣となった。7月13日に貴賎数知れぬ男女が長島・屋長島・
中江の三ヶ所に逃げ入ってからすでに三ヶ月が経過し、過半はその間に餓死していた。
もはや抵抗する力も尽き果てた一揆勢は、9月29日ついに降伏開城した。
降伏を許された一揆勢は、めいめい船に乗って城砦を出ようとした。
しかし織田勢は彼らに鉄砲を掃射し、逃げた者は白刃をもって追い、際限なく川へ斬り落としていった。
織田勢の違背を知った一揆勢は怒り狂って死を忘れ、
心ある者七、八百ばかりが裸体に抜身一本のみをたずさえて織田勢の中へ突入していった。
かれらは大軍の中を死兵となって荒れ狂い、陣所を切り崩し、御一門衆をはじめ数多の将兵を討死に追い込んだ。
彼らは大軍の中を切り抜けて無人の陣小屋に駈け入り、そこで支度を整え、川を越えて多芸山・北伊勢口へ散り、
そこから大坂へ逃れた。この失態をみた信長公は、残る中江・屋長島の両砦に対しては周囲に柵を幾重にも廻らして
砦の男女二万人を取り籠め、四方より火をかけて焼殺してしまった。
年来の鬱憤を晴らした信長公は、29日岐阜へ帰陣した。
※1000人をなで斬り・降伏した20000余人も砦に押し込めて、
人間バーベキュー。信長は大量虐殺の成果に溜飲をさげる 越前一揆掃討戦
国中の一揆勢は壊乱し、右往左往しながら取るものも取りあえず山中へ逃げ入っていった。
しかし信長公は殲滅の手をゆるめず、「押し進みつつ山林を尋ね探り、男女を問わず斬り捨てよ」
と厳命したのであった。
織田勢が進撃を開始した8月15日から19日の間に諸方から捕縛され引き立てられてきた男女の数は、
記すところによれば一万二千二百五十を数えたという。そして信長公は御小姓衆に命じ、
これら搦め取った男女を余すところなく誅戮したのであった。このほか国外へ奪い去られた男女もその数を知れず、
生捕・誅殺された人々の数は合わせて三、四万にも上ると思われた。
※12250人を捕縛のうえ、合わせて3〜4万を殺す。
山に逃げた人々も容赦なく探索し、残らず処刑。
荒木一党惨殺
12月13日辰の刻に尼崎近くの七松という地で百二十二人が磔にかけられることとなり、
刑場へ向け人質たちが引き出されていった。さすがに歴々の上臈衆であり、いずれも美々しき衣装を身にまとい、
すでに命叶わぬを悟って美しき姿で静かに居並んでいた。
やがて、その身を荒々しき武士たちが引き掴み、あるいは母親に抱かせて台に引き上げ突き殺し、
あるいは鉄砲をもってひしひしと撃ち殺し、あるいは槍と長刀で刺殺して処刑していった。
百二十二人の女房衆が一度に上げる悲鳴は天にも響くばかりであり、
見る人は目もくらみ心も消えて涙を抑えきれなかった。処刑の様子を目にした者は、
二十日三十日の間はその有様が瞳に焼きついて忘れられなかったということであった。
この他にも端侍の妻子とその付々の女三百八十八人と、歴々の女房衆に付いていた若党以下の
男百二十四人の合わせて五百十余人が矢部家定検使のもとで家四軒に押し込められ、
周囲に乾き草を積んで焼き殺された。男女は風向きに従って魚の群れのように上へ下へと並び動き、
灼熱の炎にむせび、躍り上がり跳ね飛び、その悲鳴は煙とともに空へと響きわたった。
その有様は地獄の獄卒の責めもかくやと思わせるもので、みな肝魂を失い、
二目と見ようとする者がなかった。
※直臣の家族510余人を人間バーベキュー。
その惨状に誰もがふた目と見ようとはしなかった。 女であることを気にせず、
頭部強殴打した過去を考えると、
俺は織田信長かな?
ほかにも、男女の差を考えず、
攻撃している。 でした。
しかし、戦で死んでいくだけの人生っていうのも、哀れですね。
上から下までこれですもんね 出張ついでに和歌山城に行ってみた。天守は3層だし小規模なのかと思ってたが、凄い広大な敷地でびっくりした。
天守も、階数は多くないが連結式なのでかなり大きく感じた。
やはり徳川家の城は規模が違うんだな。 海外には金持ち向けにゲート(門)を設け周囲を塀で囲むなどして住民以外の
敷地内への出入りを制限する地区があってこれをゲーテッドコミュニティと
呼ぶらしい
https://i.imgur.com/bQDOOgD.jpg
https://i.imgur.com/FkpTvt5.png 和歌山は静岡から国がえの代わりに整備が認められたけど謀叛疑惑がたって
天守は黒いやつのまんま残ったらしい。のち吉宗が再建計画だした途端に将軍になって白紙
で幕末に燃えたから晴れて再建ってところで幕府に三層しかだめってなった >>813
続き
それでこれはうちの近所にあった高槻城だが、城内に何があるのかというと
屋敷がびっしりと並んでいる。御殿と屋敷と通路しかない。
https://i.imgur.com/JnvJ7jo.jpg <高槻城復元模型>
城内に重臣の屋敷があるのは普通だ
厩(うまや)、詰所、倉庫あたりだろうか長屋建物も見えるな 明治維新後、鎮台予定以外の城の存続、解体、払下げはどういう基準で決められたんですか? 陸軍省管轄以外は全部大蔵省からの払い下げの対象。維新の混乱が収まった後文化財としての価値見直し機運が高まり旧藩士による資金集め等で存続 城にあまり詳しくないんですが、気になることがあるので質問させて下さい。
検索した程度ではわからなかったので
和歌山城の天守閣の回りの塀の中に通路があるんですが、昔(30年くらい前)は途中に地下牢があったんです。
でも10年ほど経ってから行くと入口の壁が埋め立てられてました。
あれは焼けて立て替えられた時に作られた、見せ物的な物だったから埋められたんでしょうか?
わかる方いたらお答え下さい。 明らかに牢だったはずなんですが
壁ごと塗り込められてまして
当時も説明書きとかは無く、柵があって入れないようになってるだけでした
かなり前なので、記憶違いが無いと言い切れないのが申し訳ないです あんな所に牢なんか作る訳ないだろ。最終決戦場で兵糧も貴重なのに 自宅をちょっとずつ修理してるんやけど、同じ部材がなくて修理した箇所は
前とは変わってしまう。
ということは、城郭・寺院・その他古建築というのは何度も小修理・中修理・
大修理を経ているだろうし、創建当初の姿とは結構違っていたりするのではないか? 尾張徳川家が財政難で金のしゃちほこの金含有量を下げたとき
城の修築だから幕府に届けて許可を得たということですか? 名古屋城って焼失前の色とか形って分かってるの?特に内部 >>833
どうして欲しいんだよ?
空襲前に襖など移動できるものは疎開させたくらいだから
可能な限り記録は残しただろ >>561
わかる
現存天守みたいに完全復元が可能な状態ならともかく名古屋城は完全復元無理なんだからコンクリのままでいいだろと思う 名古屋城天守はあれはあれで馴染んでいるからなあ
改修で俺も賛成だが、ただあの排水管だかなんだか忘れたが太いダクトはなんとかならんのか
見栄えが悪い 観光的にもいきなり覆うのは問題あるから
次の地震で崩れるまで待てばいいんじゃね 愛媛に行って二日で百名城4つ取ってきた。
宇和島泊まったけど、松山よりいいとこやん。
御城印と城カードも集めてるんだけど、結構な出費になった。 四国の丸亀城はかつてはあの立派な石垣も樹木で覆い隠して廃城を装っていたというからそういうふうに復原するのが歴史的に正しいだろう 河村市長は「初めて聞いた」と反発…名古屋市が木造復元を目指す名古屋城天守閣 “建物外部にスロープ”の案
名古屋市は、木造復元を目指す名古屋城の天守閣の外部に、新たにスロープを設置する案を示しました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/ccc3934a6d2bdfa2b6df63d12ae9d6a26e3c3014 早稲田大学法学部卒
名古屋大学大学院法学研究科博士課程単位認定満期退学処理
名古屋大学助手
民主主義沢学副理事
名古屋大学大学院法学研究科教授 大阪城とか姫路城、日本のでかい城 子供にピッタリ
大人には似合わない 彦根城のバカッぽいところ小学生にベストマッチ
学校なんかなくなって住み込めると良いな 天守はないけど天守台はあった城 江戸城、大坂城、駿府城など 天守焼失後再建されてない 事情はわかる
最初から天守台のなかった城 鶴丸城、仙台城など 必要なかったんだろうね 事情はわかる
天守台だけあった城 篠山城 天守があると堅牢になり過ぎる? 事情がわからない 次の天下普請である名古屋築城が始まっても篠山城が完成に至らず、徳川としても、充分過ぎる堅固な縄張りもできたのだからこれ以上の作事で遅延相成らずと断じた 東京の江東4区に葛西城があったことを知ると葛飾区が統括拠点のように思えるんだよなあ
新宿とか亀有上宿のような城下の名残もある
世田谷の上町やボロ市も世田谷城下の名残かな 天守が無くても、石垣、櫓、壁、堀などの縄張りそれなりに残っている城を知りたいのですが、どう調べたら良いでしょうか。 堀でUターンするのはキリンとか怪物で
人間ならもちっとなんとかしそう 元は「き」らしいけど、なんで「木」「黄」と同じ音なんやろ?
あと、なんで「き」は廃れたんやろ? >>858
中国語の「黄」は、日本語で言えば木の色、きいろという意味だということで黄を「き」と訓読みした
城はもともと「き」と言ったが、古代には木を示す「き」とは発音が少し違っていた(キ乙類)
桓武天皇が平城京から平安京に遷都する時、新しい都は山背(やましろ)国にあるが、背(うしろ)という名前は良くないし、新たに都城を構えるのだから、国名を山背から山城に改めさせた
「山城」と書いても読み方は今まで通り「やましろ」とした
ここから城の字を「しろ」と読むようにもなった 福岡城天守閣復興へ 復興図も披露 気運高めようとシンポジウム開催される 福岡市
https://news.yahoo.co.jp/articles/c8ab83f2eab7ee5793e42220e49eb57750451808
実際に建てられたかどうか不明なのに、他の城を参考に天守再建なんてやめてくれ >>860
そうなんや
「城」と「木」「黄」は音が違っていたのか
しかし、天皇の権力って絶大ですなあ
「山城」の「城」を「しろ」と読めって命令したら日本中でこの読みが定着してしまって、「き」をほぼ駆逐してしまうとは・・・ 黄色(コウショク)とは「きのいろ」(木の色)と理解したので、黄(き)と木(き)は同じ音やがな 宮城県秋保の紅葉城がこうならば仙台城だって同じタイプだろうが
城に詳しいやつだれもいねーのかよ歴史学者なんつってにわかがいるだけか?
紅葉城の別名知らなくても仙台城の別名くらいは知ってんだろうがよ
東北大の大量の人間って何やってんだ毎日 あいつら何なんだよJRの乗客風エキストラかのろのろぼんやり お城だけが有名だった八王子滝山が死亡率の高い精神病院で有名になってしまった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています