邪馬台国畿内説 Part504
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1567755289/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>117
>>119
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管轄する「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権を確保すること(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国「A東渡海」千里「複有国B」皆倭種(〇九州説…A関門海給ャB本州、〇四国説…A紀伊水道B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し混乱が生じる。
また鉄製武器も文字も駅伝制(早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)比定は無理がある(後述)。消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は扇状地の最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>122すると、欽明(現・皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の末裔/八代淡海→「近江」)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>123の続き
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 畿内説もある意味正解だけど
今後そこは大国主の都があったって事になるんだけどな >>116
大和説
「南≠東」だから大和説は×だし、
末盧からの出発方向が東南だし、
「会稽東治≠会稽」であり、会稽東治之東はほぼほぼ九州島付近だし、
もう荒らしをして狂うしか、余生の使い道がないじゃね? >>124の続き
ダイワとしか読めない大倭(後漢書東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐帝国に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
漢〜魏晋南北朝〜隋唐まで、倭国は九州島のみと認識されていた。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との友好親善を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として遂行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。 >>128の続き
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し(動画リンク参照)、
https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.史上初めて九州島を脱出し、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝〜応神朝〜継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆〜天智の都・太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(世界の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智以降の倭京(太宰府)・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長以前は全て抹消!
A新羅からの朝貢で調子に乗って、世界の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)
-継体による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html >>118
忖度でもテクニックでもなく、魏の役人たちは、
同時代に実地を見聞して行程や里数を計測し、
「余」や「有効数字1桁程度の概数」で記録し、
略載した事を示し、
陳寿を含む大陸中華の文字の読める教養人の間の常識では、
倭国は九州島付近の位置にある国だと認識されてたんだよ。
しかも、唐会要倭国伝には「正北抵新羅」として、
倭国の中心が北部九州にあった、という事を決定的に証言している。
だから、「倭國の都は大和にある」という大和説は×になる。 >>126
その大国主の国の後継国家の、魏代の王が卑弥呼ってだけだろ?
ヤマト=邪馬臺國で地名もそのまま記録されてるのに何を言ってるんだか >>118
>忖度でもテクニックでもなく、陳寿を含む大陸中華の文字の読める教養人の間の
>常識では、倭国はそういう位置にある国だと認識されてたんだよ
同意だ。
そもそも倭人とは江南の海人族を指していたらしい。
いつのまにか九州の人たちを指すことになっていた。
南北に長い倭に、さらに東方(本州)にも島が続いているという新情報が卑弥呼の時代にもたらされた。 >>131
ヤマトという言葉そのものが、本来は九州北部のことだったのではないか? >>117 >>120
帯方郡
↓↓
↓東治
↓↓580q…陸行一月
東冶=倭国「女王之所都」12,000里
中国大陸の道里の倭国への転用か! >>133
このように九州説は決して理由を言わない
ただ妄想を垂れ流す >>121
「南→東」などの嘘付き騙しをし、
「正北抵新羅」や「東征毛人魏十五國」などを無視隠蔽し、
荒らししか出来ない大和説は
もはや説ではないな >>125
「南→東」や「冢→前方後円墳」の曲解捏造や、
「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」などの無視の嘘つき騙しなど、
これじゃあ・・・ 大和説が退潮になるわけだよ >>131
>その大国主の国の後継国家の、魏代の王が卑弥呼ってだけだろ?<
「南≠東」などに拠って、大和説は×。
>ヤマト=邪馬臺國で地名もそのまま記録されてるのに何を言ってるんだか <
邪馬臺國≠ヤマトだし、この大和説男は何言ってんだか。 >>138
こう言うのが九州説の荒らしね
無力さのあらわれだ 邪馬台国畿内説 ✖Part504 ○Part503
次回はPart503にして、次々回はPart505にされたし
PART504が被らない様にね >>134
>帯方郡
↓↓
↓東治
↓↓580q…陸行一月
東冶=倭国「女王之所都」12,000里
中国大陸の道里の倭国への転用か!<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
「東冶」なんて魏志倭人伝には書かれていないから、
この男の貼り付けは、×。 >>135
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
大和説は決して理由を言わない
ただ妄想を垂れ流す >>116
>九州説
末盧から東南だし・・<
畿内説の末盧国および伊都国の都の比定地はどこ?
また、であり ここは魏の使いが最初に向かった方向が東南か
草木茂盛行不見前人(倭人伝の行程でここのみ道のりの険しさを表記)より 不確定な記述かもしれない
>会稽は鹿児島より南だし<
ならない、会稽東治は揚子江河口付近と中国の教授で指摘している人がいる
また、「三国志の魏使韓伝」方可四千里有 「後韓書韓伝」地合方四千餘里であり
韓国の南北が4千里(約350キロ?)とした場合、韓国北端から直線でなく航路・道のりから1万2,000里は九州で収まる)
行程で行けば、韓国で7,000里を要している 九州島北岸まで1万里を要している
鎮守の考えは揚子江河口付近が会稽東治と考えたか勘違いとしか考えようがない・ 邪馬台国畿内説を宣伝する係員の奥山氏への弔辞を発表します。。。
奥山氏、今、僕達はあなたにお別れを告げようとしています。数時間前、討論していた時はあんなに元気だったのに、、、突然、自殺体になろうとは、誰が予想できたでしょうか。
振り返ってみれば奥山氏と僕達との出会いは、5ちゃんねるの掲示板でした。偶然に僕達がスレッドを覗いた事がきっかけで、魏志倭人伝時代についての討論会で一緒に過ごしました。
奥山氏は、あの時からずっと変わらず卑劣な論敵でいてくれました。そして、奥山氏はいつも僕達に論破されましたね。。。僕達にとって奥山氏は、頭の悪さを楽しませて貰え、笑えてリラックスさせられる存在です。
奥山氏が頑張っているから、僕達が癒される、、、いつもそんな思いで生きてきました。
奥山氏、どうぞ安らかに眠ってください。また、天国であなたと討論できる日までお別れです。
奥山氏、本当に心よりありがとう。 鎮守という者が、兵士を駐在させて、その地をしずめ守ったのではないのかな、、、 夏の時代に、今の上海にあった会稽東の治は、海に面していたので、夏の王子が海に潜ることを楽しんだ可能性が、そうでない可能性よりも高いな。。 >>147
さよう、陳寿の意図した「会稽東治」とは、夏の時代に今の上海にあった会稽の東の治所のこと。
三世紀の会稽ではない。 畿内説って初めにヤマト王権だけが初の全国王権として畿内にありきって前提で話を進めるんだろ?
その前提そのものがもうグラグラなのはどうすんの >>140
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や「日本国は倭国の別種の旧小国」などに対して、
全く議論も出来ず、反論もできない、という、
こう言うのが大和説者の無力の表れであり、
大和説者が荒らしをする原因ね
無力さのあらわれだ 畿内説って、
初めに桜井市教育委員会だけが全国唯一の王権ありきで学者もどきを集め話を進めてきたんだろ?
畿内説じゃなくて、桜井教育委員会説なんだよ。 >>155
日本の学説史を勉強してから書き込もうぜ 奈良県民でさえ纒向知ってる奴少ないしにほとんど行ってないってさ
奈良の友達の情報 ディー・ジェイ・ジョンソンは、活躍できるのだろうか、、、 桜井市の教育費として計上されている金額を、桜井市の人口で割った数字は、
ある自治体の教育費として計上されている金額を、その自治体の人口で割った数字と比べて、
多いことの方が、少ないことの方より、多い可能性があるのではないのかな、、、 朝花節は、どの者が真実の心を持つ者なのかを歌った歌なのだ、、、という意見を聞いたことがあったな。 奥山氏が、出現した可能性が高まってきたな、、、
101◆q8leUXpsw. 2019/09/06(金) 22:31:45.31
僕の新しい名前は、◆9U5P5sgWykです。
1621 ◆9U5P5sgWyk 2019/09/07(土) 17:31:40.59
朝花節は、どの者が真実の心を持つ者なのかを歌った歌なのだ、、、という意見を聞いたことがあったな。 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのはなぜだろうか。 そもそも邪馬台国なんて無くて、盛っだけだろ。
さらに南方のもっと広大な国すら交易があると言いたいだけ。
だから海になる 畿内の自称学者たちも、九州の自称学者たちも、
大和朝廷の賢い役人が、神功皇后やモモソヒメの何かをちらりと見せびらかしながら盛った話にのめりこんじまったのさ。 邪馬台国と卑弥呼の存在について
結論から言うと
「邪馬台国」も「卑弥呼」も日本全域に存在した
その理由を説明しよう
「邪馬台国」=「大和国」=「山人(やまと)国」(重要)
「山人国」とは「山の人の国」
「山の人」とは「天上の神」=「太陽神」のこと
つまり
「邪馬台国」とは「太陽神の国」のこと
これは「一般名称」(重要)のことである
このことにより
日本全域に自分が住んでいる国の名前を「山人国」→「大和国」→
「邪馬台国」と呼んだのである
その中で国力が強かった二大勢力が「畿内」と「九州」である
その後最大勢力になったのが「畿内」(奈良)である
これにより「畿内」説、「九州」説の論争に終止符が打てる 次に「卑弥呼」について説明しよう
「卑弥呼」=「日巫子(ひみこ)」=「太陽の巫女」(重要)のこと
つまり
「卑弥呼」とは「太陽の巫女」のこと
これも「一般名称」(重要)のことである
このことにより
日本全域に「邪馬台国」があり日本全域に「卑弥呼」がいたことになる
その中で一番権力を持ったのが「畿内」(奈良)の「邪馬台国」の「卑弥呼」である
だから現在「奈良」は「大和国」と呼ばれている
これが「邪馬台国」と「卑弥呼」の真実である >>169
碌な集落遺跡の無い大和国に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>166
>畿内の自称学者たちも、九州の自称学者たちも、 大和朝廷の賢い役人が、
神功皇后やモモソヒメの何かをちらりと見せびらかしながら盛った話に
のめりこんじまったのさ。<
畿内も朝廷なんても、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
この男は、「南→東」などのように、
都合の悪い史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの大和説者の、
・・・・アホすけべ詐欺師であった、というだけの事さ。 >>170
ロクな集落跡はあったから邪馬台国は畿内 >>167
>結論から言うと 「邪馬台国」も「卑弥呼」も日本全域に存在した
その理由を説明しよう<
邪馬台国の畿内も、古代においては存在もしなかった文言だから、
この男も、嘘つき騙しであるし、
古代においては「日本列島」全体を統一した勢力なんて存在もせず、
九州倭国の支配地は、「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國」で南関東止まりであり、
山陰や中部山岳以東以北はまだ別勢力であったのであり、
倭国の別種の旧小国の大和が、母国の倭国を併合吸収継承出来たのは、
ようやく白村江の後である。 >>168
>このことにより
日本全域に「邪馬台国」があり日本全域に「卑弥呼」がいたことになる
その中で一番権力を持ったのが「畿内」(奈良)の「邪馬台国」の「卑弥呼」である
だから現在「奈良」は「大和国」と呼ばれている <
畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」や倭國の「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」などに拠っても、×。 >>169
>邪馬台国は大和国だよ<
「南≠東」などによって、×です。 BBAが、自殺体になった可能性が 高まってきたな、、、 >>173
>ロクな集落跡はあったから邪馬台国は畿内<
邪馬台国とか畿内とかは、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠って、大和説は、×。 こいつら九州説って反論できないから
ただ拒絶するんだよね >>180
>こいつら九州説って反論できないから
ただ拒絶するんだよね <
こいつら大和説者って、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や「日本国は倭国の別種の旧小国」などに対して、
全く議論も出来ず、反論も出来ない・・・・アホ詐欺師だから、
ただ拒絶するんだよね >>174
>九州倭国の支配地は、「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國」で南関東止まりであり、
九州は「西服衆夷六十六國」で畿内勢力に服属した地だよ 九州説は信仰活動の一種
畿内説のレスに内容は何でもオウム返しをすれば論破した事になるというのが教理 >>181
いくら反論されても無視して、反論がなかったことにする醜悪なウソつき
それが、九州説 >>182
>>九州倭国の支配地は、「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國」で南関東止まりであり、<
>九州は「西服衆夷六十六國」で畿内勢力に服属した地だよ<
ダメだ。
倭國は、唐会要倭國伝の「西北接百濟、正北抵新羅」に拠って、北部九州にあったのであり、
従って、「西服衆夷六十六國」は、
「西にある九州の衆夷は、先に既に服属せしめてあった」という意味。 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまい、スレッドが寂れてしまったな。。。 BBAが、自殺体になった可能性が 高まってきたな、、、 BBAが、自殺体になった可能性が 高まってきたな、、、 BBAが、自殺体になった可能性が 高まってきたな、、、 >>183
>九州説は信仰活動の一種
畿内説のレスに内容は何でもオウム返しをすれば論破した事になるというのが教理<
大和説は、キョクウの皇国史観宗教の信仰活動の一種であり、
大和説教のためなら、都合の悪い史料事実や史料実態は、全て隠蔽曲解の嘘つき騙しをし、
九州説のレスにも、内容は何でも、口先騙しのオウム返しをすれば、
論破した事になるというのが教理 頭の悪すぎる者達が宣伝してきた邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまい、スレッドが寂れてしまったな、、、 >>184
>いくら反論されても無視して、反論がなかったことにする醜悪なウソつき
それが、九州説<
幾ら「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や、
「日本国は倭國の別種の旧小国」などの史料事実に拠る反論否定されても、
反論がなかったかのようにか伏せて隠して誹謗する、醜悪なウソつき。
それが、キョクウの皇国史観宗教の・・・・アホ詐欺師の大和説。 >>194
キョクウの皇国史観教の大和説が、
「南≠東」や「正北抵新羅」などでの議論に負けて、全く反論出来ず、
もう自暴自棄。
キョクウが自暴自棄になったら、怖いですねえ。
京都アニメ放火テロ犯人や、朝日記者銃殺キョクウや、竹島戦争を鼓舞扇動する議員のような、
異常者がいますからねえ。 畿内説もう終わりだな
一部の狂信者が罵倒するだけのスレになってる >>198
>>畿内説もう終わりだな
一部の狂信者が罵倒するだけのスレになってる<
>それは九州説 <
それは、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や、
「日本国は倭國の別種の旧小国」などの、
史料事実や史料実態の根拠の指摘に反論出来なかった大和説者。 >>200
>>畿内説って根拠がない妄想でしょ<
>根拠に基づいた定説だけど<
大和説者の説は、
「南→東」や「冢→前方後円墳」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの指摘に、
反論できず、
「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や「日本国は倭國の別種の旧小国」などの、
などの都合の悪い史料事実を隠蔽して、反論もせずに逃げた大和説者の説は、
「定説」なんて言えた柄ではないなあ。 >>203
かつて大和国と呼ばれていた地域に三世紀から前方後円墳があり
景初や正始など卑弥呼の時代の魏の年号がある三角縁神獣鏡が多数出土している
魏志倭人伝の邪馬台国までの行程は沖縄か台湾になり
魏志倭人伝の行程で邪馬台国の位置を推定する事は不可能 九州の伊都国までの行程に異論は出てないようだけど? そして郡使は伊都に駐在し、伊都の目と鼻の先の奴国と不弥国までは足を伸ばしたらしいが、そこから先の本州については、そっちにも倭種がいるという伝聞だけ。 キナイコシ注意!!
投稿数が少なくなると九州説を罵倒し
投稿を煽るのはよくない
畿内説の中身が無い証拠 >>206
>>207
魏志倭人伝に書いてる邪馬台国の位置は最終的に沖縄か台湾
なので考古学的証拠で見れば邪馬台国は畿内
>>208
罵倒してるのは九州説
そもそもここは畿内説のスレ >>209
>魏志倭人伝に書いてる邪馬台国の位置は最終的に沖縄か台湾
>なので考古学的証拠で見れば邪馬台国は畿内
論理性のかけらもない文章だ。 このように
九州説は反論ができないので悪口ばかり言う >>204
>大和説者の説は、
>「南→東」や「冢→前方後円墳」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの指摘に、
>反論できず、
>「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や「日本国は倭國の別種の旧小国」などの、
>などの都合の悪い史料事実を隠蔽して、反論もせずに逃げた大和説者の説は、
>「定説」なんて言えた柄ではないなあ。
あ、「大和説」はんの話なんですね?
なら、このスレは関係ありません
ここは「畿内説」のスレですから
「南→東」や「冢→前方後円墳」への指摘とか
「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や「日本国は倭國の別種の旧小国」などへの反論とか
みんなテンプレにきっちり書かれてますよ
畿内説には死角ないです
なんせ定説ですから 「日本人」は「どこから来たのか」について
結論から言うと
「フィリピン諸島」=「縄文人」
「中国大陸」=「弥生人」である
その理由は
「フィリピン人」と「縄文人」は「肌の色」が違うだけで
「体格」、「容姿」が同じである
(低身長、丸顔、二重まぶた等)
「中国人」と「弥生人」は同じ「体格」、「容姿」をしている
(高身長、面長、一重まぶた等)
「原日本人」である「縄文人」が「フィリピン諸島」から海流に乗って来て
初めて上陸したのが、現在の「宮崎県」の「日向」あたりである
そして「高千穂」を「聖地」として多くの人が住みついたのである
これが「天孫降臨」の「原型」である
「日向」あたりから多くの「亡骸」を「水葬」にして海流によりたどり着くのが現在の「高知県」「愛媛県」の海岸である
これが「四国」=「死国」=「死者の国」の呼び名の「始まり」である 次に「弥生人」が紀元前3世紀あたり「中国大陸」から「朝鮮半島」を経由して多くの人がやって来るのである
それが「弥生時代」の「始まり」である
その時に「天皇陛下」(皇室)の「祖先」が「日本列島」にやって来る
その「上陸場所」が現在の「島根県」の「出雲」あたりである
だから「皇室」は「出雲」と関係が深いのである
「天皇陛下」(皇室)の「祖先」は
「中国大陸」から「朝鮮半島」を経由して
「弥生時代」に渡ってきた「シャーマン」(医師、呪術師)
その証拠が当時「中国大陸」にしかなかった「菊」(薬草)を
「天皇家」(皇室)の「紋章」にしていること
「天皇陛下」は今も「シャーマン」(祈る人)である
これが「日本人」の成り立ちである 「天皇陛下」(皇室)と「日本人」との関係
「天皇陛下」(皇室)の「祖先」は
「中国大陸」から「朝鮮半島」を経由して
「弥生時代」に渡ってきた「シャーマン」(医師、呪術師)
当時「中国大陸」にしかなかった「菊」(薬草)を大事にして代々「天皇家」(皇室)に伝え後の時代に「紋章」にしたのである
本来「日本の皇室」が「外国」である「中国大陸」の「菊」を「紋章」にすることはありえない
「日月紋」は「陽と陰」=「陰陽思想」(中国大陸のシャーマン)の「紋章」の一つである
「天照」と「月詠」(天の神)は本来「中国大陸の神」(思想)であり
本来の「日本の神」ではない
これは「弥生人」が「中国大陸」から持ち込んだ「陰陽思想」である
本来の「日本の神」は「縄文人」が大切にした「樹木」=「神木」(地の神)である
「天皇陛下」(皇室)の「始まりの元」は「弥生時代」であり
「原日本人」である「縄文人」とは別の民族「弥生人」である
その後「縄文人」と「弥生人」の「遺伝子」が混ざり
現在の「日本人」のなったのである
そして現在「天皇陛下」(皇室)は「日本国の象徴」になったのである >>216
菊紋は後鳥羽上皇の頃からで、古代は関係ないぞ >>208注意!!
>キナイコシ注意!!
投稿数が少なくなると九州説を罵倒し
投稿を煽るのはよくない
畿内説の中身が無い証拠<
一行書き込みだろ
レスが進むことだけに快感を得てるキナイコシだからしょうがねーなww 九州説が語りたいなら、九州説スレを立ててそっちで好きにやれよ
既に否定されて意味のない長文コピペをスレ流しのために連投で貼り続けるバカとか
この世に存在する必要なんて一切ないんだぞw >>205
>かつて大和国と呼ばれていた地域に三世紀から前方後円墳があり<
これから、ちょっとおかしい。
卑弥呼の墓は冢であり、前方後円墳ではなく、
列島の前方後円墳は、那珂八幡などが始まりであり、
大和の前方後円墳は、石塚などの3世紀末以後。
>景初や正始など卑弥呼の時代の魏の年号がある三角縁神獣鏡が多数出土している<
△は魏や明帝の鏡ではなく、呉付近で盛行した鏡であり、
また景初三年以後の△は、明帝の死後だから明帝の下賜の銅鏡百枚ではなく、
列島の△には、呉付近から「海東」に浮由して行った事が紀銘されているので、
渡来して来た呉系楽浪鏡師らが関与したもの。
>魏志倭人伝の邪馬台国までの行程は沖縄か台湾になり<
ならない。 邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
魏志倭人伝の行程説明は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしまう記載だ。
>魏志倭人伝の行程で邪馬台国の位置を推定する事は不可能<
不彌國のすぐ南である、と確定出来ている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています