邪馬台国畿内説 Part505
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1567762784/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>109
>優れたザラコク氏
109自身がザラコク氏なんでしょ どこかで見たんだよな〜、
別人のふりをして、自分を援護するような書き込み・・・とか それよりも凄い話
川俣グンジと、あのゲームやアニメなど、
角□? グンジを応援している、
そして応援している人物自身も何か()を使用しているとか
『川俣軍司』
すこし読んでみて あの謎のチェーンソーのゲーム、角□ゲームス
??????????????のようになるでしょ 魏史倭人伝はずっと九州の話をしてるのに突然関西に飛ぶわけねぇだろと俺は何度も言いましたよ!
新幹線どころか馬も無い時代に関西の勢力が伊都国まで支配していたなんて本気で思ってるんですか?
畿内説優勢とか考古学者はアホですか? 土器などの流通を見ると、尾張から東西に文物が運ばれたことがわかる。
大和纒向はその中継地に過ぎない。
そして生産品の最大の消費地が筑紫であることがわかる。
https://i.imgur.com/TRmurSB.jpg
また、海外交流の拠点が出雲と筑紫であったことがわかる。
倭国の対外交渉権の変遷が出雲の国譲りと筑紫への天孫降臨の伝承に反映されているもしれない。
魏や帯方郡と交渉していた可能性があるのは出雲と筑紫しかなく、3世紀においては筑紫の他には邪馬台国の候補はあり得ない。
そして、7万戸という東夷の世界で最大の消費地も、筑紫に求めるしかない。 出雲王国について、おじいちゃん達は伝説に過ぎないと教わって大人になったから
未だに受け入れられないんだろうね >>96
>893
>別のものだとしようにも、2つの別の秩序・枠組みが入る領域が、列島上に取れないんだよ、物理的にww
投馬国は女王国より以北の国ってのも、結局は同じ文脈になるのだけれど、<
>北部九州には、奴国二万戸、投馬国五万戸、邪馬台国七万戸を容れられるだけの
スペースがない <
トンデモの北部九州説によほど恨みがあるんだろうな
ま、トンデモ同志で差し違えも悪くなかろう 恨みというより嫌悪感かな
醜悪なものは見たくないという >>120
南部九州説だって投馬国を一体どこに差し込むのさ >>122
横からだけど、
畿内説みたいに都合の悪い記述は誤情報等で通せば可能だよ >>123
それ、やらかしたら二度と畿内説批判できないぞ
わかってる? >>1
FAQ4の
>邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、
考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の{近畿第V様式分布域}を想定する。<
畿内説では無く、近畿説でいいのですか?
{近畿第V様式分布域}の図等があれば張り付けてもらいたいのですが・・・
蛇足
テンプレの長いのは主の勝手として
テンプレ作成中の投稿も勝手だが止めてもらいたい。読みづらいので・・ >>123
>畿内説みたいに都合の悪い記述は誤情報等で通せば可能だよ
「都合が悪い」記述ではなく、「現実に合わない」記述は、
誤情報として考えていくのが合理的だってこと
末盧国から伊都国の方角が東南というのは現実に合わない
それを「魏志倭人伝の記述が正しい」を大原則にしてしまうと
現実を魏志倭人伝に合わせようとする本末転倒なバカにしかならない
曰く
「末盧国を名護屋浦にすればいい」⇒上陸地を国とする用例はない
「末盧国を志摩半島にすればいい」⇒五百里がとんでもなく短くなる
「日の出が東で夏には北にずれる」⇒夜に北極星を見れば方角は大きくずれない
「伊都国は唐津の東南の佐賀平野」⇒そんなところに国はないし臨津搜露もできない
ことごとく、無理なデタラメにしかならない
魏志倭人伝の記述が正しいとする原理主義は理性的ではない
畿内説では不合理な記述は外して考える、というだけ >>1
>考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の{近畿第V様式分布域}を想定する。
近畿第V様式分布域}を想定しても意味がない。
畿内第V様式土器はあくまで、厚型重量弥生式土器。 そんなものの文化斉一性に意味はない。
文化的斉一性が見られるのは、軽量薄型丸底土器。 いわゆる「東阿波型土器」なのである。
鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。 土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。 @阿波 >>127
「末盧国は福津市(万津浦)周辺」
>畿内説では不合理な記述は外して考える、というだけ
トンデモだから、逃げているだけ。 @阿波 >>125の投稿は畿内説のご都合主義を表しているww >>1は、これに答えられず、逃げてばかり。 @阿波 【歴史】邪馬台国の卑弥呼がもらった?曹操墓出土と同型の鏡 「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に?
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1568210099/
これはどういうことでしょうか? >>126
>テンプレ作成中の投稿も勝手だが止めてもらいたい。読みづらいので・・
連続句読点という荒らし専業の九州説の人がいるんだよ
何を言っても聞かない(効かない)
>{近畿第V様式分布域}の図等があれば張り付けてもらいたい
案外まとまったいい図がないんだよ
この辺りを読んでもらうと、概要が理解できると思う
「畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開」田中 元浩 2005年
日本考古学12 巻 20 号 p. 47-73
https://doi.org/10.11215/nihonkokogaku1994.12.20_47
>畿内説では無く、近畿説でいいのですか?
これは、陳寿が可七萬餘戶と書いた一つの勢力圏の範囲として
畿内第V様式土器の範囲を考えるということ
概ね「大和+河内〜環大阪湾の範囲」となる
近江や紀国、丹波、伊勢は入らないので、近畿とすると広くなりすぎる >>132
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ひれ伏すばかりなり。 @阿波 >>133
>考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の{近畿第V様式分布域}を想定する。
近畿第V様式分布域}を想定しても意味がない。
畿内第V様式土器はあくまで、厚型重量弥生式土器。 そんなものの文化斉一性に意味はない。
文化的斉一性が見られるのは、軽量薄型丸底土器。 いわゆる「東阿波型土器」なのである。
鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。 土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。 @阿波 >>1は、これに答えられず、逃げてばかり。 @阿波 >>129
>トンデモだから、逃げているだけ。
これがトンデモだから相手にしていないだけ
↓
「末盧国は福津市(万津浦)周辺」
万津浦が末盧という語呂合わせだが、その万津浦の記載がある「永島文書」が
昭和より前に遡れない出所不明の怪文書で、それが伝わるとされる年毛神社も
古い由緒などない地元でも大事にされていない神社 >>137
「火のない所に煙は立たぬ」 わははははは @阿波 >>137
煙も立たぬトンデモ説。 わははははは @阿波 >>116
魏志倭人伝に出てくる物が畿内で出るから仕方ないだろ >>128
成程ネ
畿内説は阿波も含めようとしているトンデモだな >>132
鏡なら卑弥呼が魏と交流していた景初三年や正始元年の魏の年号が入ってる
三角縁神獣鏡が畿内で見つかっているよ >>127
>畿内説では不合理な記述は外して考える、というだけ
なかなか歯切れがいいじゃないか。畿内説は、不都合な真実は除外して考えると明言しておる。
まるきりのモラルハザード、何でもあり、破れかぶれ居直りの畿内説。 畿内説に合致しない物事は全部除外して考えるというのだから、
まさに暴君暗君極道の発言ですな。 >>145
>畿内説に合致しない物事は全部除外して考えるというのだから、
それ、誰の考え?
暴君暗君極道の九州説さんが思いついたんだよね >>127
「末盧国は福津市(万津浦)周辺」
>畿内説では不合理な記述は外して考える、というだけ
トンデモだから、逃げているだけ。 @阿波 >>130
>>>125の投稿は畿内説のご都合主義を表しているww
ご都合主義だという理由は?
??? >>143
>「魏の年号が入ってる」三角縁神獣鏡
畿内のどこから? >>149
纏向の出土品で魏志倭人伝の記述と合致する遺物を列記してくれない? >>18
>>102
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し混乱が生じる。
また、軍事力(鉄製武器)も通信手段(文字・駅伝制=早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
魏志倭人伝を史料として採用する以上、消去法によって九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は扇状地の最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>152すると、欽明(現・皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の末裔/八代淡海→「近江」)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) 倭人伝をこねくり回すより
畿内に倭種の別国があったでいいんでねーの >>146
>>127 >畿内説では不合理な記述は外して考える、というだけ< >>152
>「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
「偉大な皇帝陛下、卑弥弓呼には鉄を輸出しないでくださいね 卑弥呼より」 今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう、、、 >>133
>近江や紀国、丹波、伊勢は入らないので、近畿とすると広くなりすぎる <
別に広くなっても構わないと思うが、なぜ広くなるとダメなのでしょうか 畿内説教徒の言い分:
畿内は不滅です。畿内は永遠です。・・・そのとおり永遠の黒歴史に成ったねえ >>153の続き
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 >>160
>畿内説教徒の言い分:
>畿内は不滅です。畿内は永遠です。・・・そのとおり永遠の黒歴史に成ったねえ
そんな「言い分」が実在するという証拠は?
なければ>>160の捏造なのだが >>124の続き
ダイワとしか読めない大倭(後漢書東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐帝国に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
また7世紀の隋・唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との友好親善を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として遂行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。 >>144
こいつがいま一番質が悪い詭弁使いだな
>なかなか歯切れがいいじゃないか。畿内説は、不都合な真実は除外して考えると明言しておる。
末盧国から伊都国の方角が正しくないというのは、畿内説に不都合な真実ではないぞww
こいつは捏造上等という立場の本格的な悪意の嘘つきだ >>152 >>153 >>161 >>164
以上まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の京都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて九州島を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝〜応神朝〜継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆〜天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(時間の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智の倭京(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A新羅からの朝貢で調子に乗って、世界の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)
-継体による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html >>145
>畿内説に合致しない物事は全部除外して考えるというのだから、
「末盧国から伊都国の方角が正しくない」というのが、九州説にとって
この上なく不都合な真実だってのが分かるなww
この取り乱しようったらないww >>154
>畿内に倭種の別国があったでいいんでねーの
魏志倭人伝には「倭種の別国」なんてどこにも書いてないぞ
書いてあるのは「皆倭種」だ
卑弥呼は倭種の王だから、倭王なんだよ >>127
「末盧国は福津市(万津浦)周辺」
>畿内説では不合理な記述は外して考える、というだけ
トンデモだから、逃げているだけ。 @阿波 >>159
>別に広くなっても構わないと思うが、なぜ広くなるとダメなのでしょうか
ダメかどうかではなく、畿内説の主張と合致しない表現だということ
「近畿」が邪馬台国だったという主張ではない >>169
もちろんその意味もある。
しかし、倭王がいたのは九州で、本州にいたのはただの倭種。 尾張が西日本の流通の中心であったのなら、完全に畿内説は終了かな。 魏志倭人伝の、、、女王國東渡海千餘里復有國皆倭種、、、という文章は、
女王国の東へ海を千里余り渡れば、また国が有り、全て、人種は倭種だ。。。
という意味だということが、頭の悪い者には分からないのだな。。。
169日本@名無史さん2019/09/12(木) 08:21:04.29
>>154
>畿内に倭種の別国があったでいいんでねーの
魏志倭人伝には「倭種の別国」なんてどこにも書いてないぞ
書いてあるのは「皆倭種」だ
卑弥呼は倭種の王だから、倭王なんだよ >>170
泡は他人とコミュニケーションをとらず、すぐに同じ短文の連投を始めるからただの迷惑目的
自分のスレでやれ!
>トンデモだから、逃げているだけ。
トンデモは泡!
つ>>137
万津浦が末盧という語呂合わせだが、その万津浦の記載がある「永島文書」が
昭和より前に遡れない出所不明の怪文書で、それが伝わるとされる年毛神社も
古い由緒などない地元でも大事にされていない神社
永島文書の信憑性を示さない限り、万津浦が末盧国というのはただのデタラメ
永島文書以外に「万津浦」は『一切知られていない』 西日本の中の拠点を挙げると、出雲、吉備、尾張、近江、摂津、、、
畿内?
夢でも見てる? >>152 阿波説を消してスッキリしたねw まぁ、当然だがw 奧山氏、つまり、◆n7jxAxKCBhb6 は、頭が悪いな。。。 朝鮮人の奥山氏は、配管工としては解雇されたので、今は無給で5ちゃんねるのプロ固定として活動中なのだったな。。。 >>179
朝鮮人の奥山氏は、素人よりも水道工事が上手なことを自慢していましたね。。。 >>175
「火のない所に煙は立たぬ」 わははははは
煙も立たぬトンデモ説。 わははははは @阿波 >>176
みごとなスルー技。 わははははは @阿波 僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
最近明らかにされてきた空気シャワーの威力や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。 >>177
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ひれ伏すばかりなり。 @阿波 >>169
それさぁ 差別ジャネーノ
関東 東北には異人種が住んでてたにならないか >>127
>>畿内説みたいに都合の悪い記述は誤情報等で通せば可能だよ<
>「都合が悪い」記述ではなく、「現実に合わない」記述は、
誤情報として考えていくのが合理的だってこと<
いや、「南」などは「現実になど十分合う」のに、大和説者は、「東」の間違いだ、として、否定曲解の嘘つき騙しをしている。
>末盧国から伊都国の方角が東南というのは現実に合わない <
魏の役人たちは、原則として、知り得た事実を記録しているのであり、
末盧國から伊都国は、出発時点や途中では全く見えないので、案内人に従って行くしかなく、
記録も出発時点での出発方向の記載をしており、
「東南」は現実に合う。
つまり、大和説の類スレ主は、史料事実を否定改竄する悪質な人種。 >>176
例えば亀井遺跡では正確な分銅(石製)が出ていて、
「性格に秤量」して取引する必要があるものを取り扱っていたことが分かる
唐古鍵は青銅器生産の中心だし弥生後期で列島最大級の遺跡
その前代には池上曽根遺跡もある
間違いなく大和+河内の地は、弥生終末期の列島において中心的存在だよ >>133
>これは、陳寿が可七萬餘戶と書いた一つの勢力圏の範囲として
畿内第V様式土器の範囲を考えるということ
概ね「大和+河内〜環大阪湾の範囲」となる<
「南≠東」などに拠って、×。 >>188
碌な集落遺跡や資源の無い「大和+河内の地」に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>189
また理由をひとことも言わない
そんな九州説が消えていくのは当然だ >>140
>魏志倭人伝に出てくる物が畿内で出るから仕方ないだろ<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
魏志倭人伝に出て来る物も、大和からは殆ど出ず、
出ても3世紀末〜4世紀のホケノ頃以後であるから、×。 >>187
>末盧國から伊都国は、出発時点や途中では全く見えないので、案内人に従って行くしかなく、
事情聴取もしないの?
道すがら調べたりもしないの?
そんな杜撰な報告をした人は
何で首が飛ばないの?
要するにまた九州説はチェリーピッキングしてるわけだ
杜撰な説だね >>193
>畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
↑
これも
魏志倭人伝に出て来る物も、大和からは殆ど出ず、
↑
これも
出ても3世紀末〜4世紀のホケノ頃以後であるから
↑
これも
なんで九州説は全く立証しようとしないの?
世間常識から外れた結論だけを言い張るの? >>188
>例えば亀井遺跡では正確な分銅(石製)が出ていて
その分銅も、「若杉山辰砂採掘遺跡」で採れた水銀朱を計るものだよ。 ごくろうさん。 わははははは @阿波 >>143
>鏡なら卑弥呼が魏と交流していた景初三年や正始元年の魏の年号が入ってる
三角縁神獣鏡が畿内で見つかっているよ<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
景初三年や正始元年の鏡は、明帝の詔書の景初二年12月以後であるから×であるし、
大和からは出ていないから×であるし、
△も、魏の敵国の呉系の鏡であるから明帝の下賜鏡に選択されない鏡だから×であるし、
△には「海東」鏡があるから、
渡来の呉系楽浪系鏡師らの関与鏡である可能性が高い事でも、×。 >>188
>例えば亀井遺跡では正確な分銅(石製)が出ていて
その分銅も、「若杉山辰砂採掘遺跡」で採れた水銀朱を計るものだよ。 ごくろうさん。 わははははは @阿波 >>146
>>畿内説に合致しない物事は全部除外して考えるというのだから、<
>それ、誰の考え?<
大和説学者や、スレ主や、類スレ主や、
大和説シンパのアホらの考え。 >>148
>その畿内説に不都合な真実とは何かな <
例えば、「南→東」などの嘘付き騙しの「南」や、
「卑弥呼の墓は冢」や、
「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」などの史料事実や史料実態。 >>188
>例えば亀井遺跡では正確な分銅(石製)が出ていて
その分銅も、「若杉山辰砂採掘遺跡」で採れた水銀朱を計るものだよ。 ごくろうさん。 わははははは @阿波 >>18
>>102
帯方郡
↓↓
↓東治
↓↓580q 陸行一月
東冶=倭国「女王之所都」12,000里
中国大陸の道里の倭国への転用か! >>177
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ひれ伏すばかりなり。 @阿波 >>149
>>>>125の投稿は畿内説のご都合主義を表しているww<
>ご都合主義だという理由は?<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使っている事や、
「南→東」などの嘘付き騙しや、
「卑弥呼の墓は冢」や「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」などの、
史料事実の否定曲解のチェリーピッキングをしている事。 >>204
それ、あんたの我流珍説と合わないってだけだろ
畿内が存在しないとか言い張っても
世間はあんたをバカと思うだけだ >>186
事実だよ。
関東の古い地名の多くはアイヌ語。 >>167
>「末盧国から伊都国の方角が正しくない」というのが、九州説にとって
>この上なく不都合な真実だってのが分かるなww
北部九州説は畿内説の異母兄弟だからそうかもしれんなあ。
だが、熊本説にとっては「末盧国から伊都国の方角・・」はこの上なく好都合なんだけど。。。 >>188
>間違いなく大和+河内の地は、弥生終末期の列島において中心的存在だよ
海に開けた河内と、内陸の大和を同列で語るなよ。
しかも纒向では河内の土器が出ないから、時代によっては大和と河内は分断されていたことになる。 >>159
>>近江や紀国、丹波、伊勢は入らないので、近畿とすると広くなりすぎる <
>別に広くなっても構わないと思うが、なぜ広くなるとダメなのでしょうか<
九州倭國の「東征毛人五十五國」があったのだから、
近畿位の範囲で一国だ、などという計算では、
中部山岳付近まででは、数国〜10国位しか入り切れず、
55国はとても入り切れない、という矛盾が発生してしまうから。
だから、大和と河内や摂津や山城は、別国だった、としなければならない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています