邪馬台国畿内説 Part506
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1568200811/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>156
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘付き騙しのように、
大和説者らは発狂してるな。 >>393
出発方向が東南なら伊都国は北東でもいいと言い張るトンデモに比べたら詐欺成分少なくて吉 >>161
>卑弥呼(Bei mei hu)=比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉こと
ヒメ(踏鞴五十鈴)后は葛城にいた。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>394
九州説は史料批判ってなんだか解ってないだろ
我々がやってるのが史料批判だ >>169
>九州説の人の書いた「具体的な」反論って、どこにあるの?
具体的に教えてね <
「南≠東」など。 >>382
>あれはあれで困りものだが、魏志倭人伝に忠実であろうとする態度はまだ評価できる。
>畿内説よりはマシ。
>川上は壹與の都だよ。
倭人伝の通り、卑弥呼の時代には肥後熊本に女王の都があったとしても、
次の壹與の時代には、帯方郡との往来実績のあった佐賀川上の伊都国に都を移したということは大いに有り得るねえ。 >>400
それ、具体的じゃなくて
単なる教条だから 本当の話
宗教団体の話と同じ、
乗っ取られたりしたのかな? 材木の話もしていたしな、
いま住んでいる家は・・・とか >>359
yahooジオスティーズ「土器の編年」というサイトにあった。
お前も何回も見ながら今は見れないものをなかったってアホなのか。
見たことを忘れてるのはお前がバカだからか痴呆が始まってるからだ。 老婆の知り合い、親戚?それとも家なのかな・・・?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、
知り合いがいて、そこの木を使用したとか >>401
>倭人伝の通り、卑弥呼の時代には肥後熊本に女王の都があったとしても、
だから、そこにも佐賀川上にも、邪馬臺の地名も遺跡もないって
何度言ったら理解できるんだ?
地名はともかくとしても、遺跡が発掘されてからもう一度来てくれ
それまでは来なくていいよ 箸墓が卑弥呼の墓という根拠は円墳部分が径百余歩におおよそ合致するというその一点だけ。
あとはもう時代も合わないし、円墳先作りでもないし、卑弥呼が誰なのかも言えないし、
実にぶざまな説になり下がった。 川上は 伊代ちゃんの都だった可能性が出てきたのではないかな。。。 自分が証拠が出せないことをわかってて
それでも言い張ってる>>405が
異常なんでは? >>407
みなさ〜ん、畿内の遺跡原理主義者 ですよ〜〜ん >>411
えっと纏向石塚がAD177+18というのは覚えてるか?
もちろん森井さん森岡さんもそのように編年していた。
そのなかに二口かみあれた258年もあったわけだが、
君は都合の悪いことはすっかり忘れるタイプのようだな。 >>409
>箸墓が卑弥呼の墓という根拠は円墳部分が径百余歩におおよそ合致するというその一点だけ。
>あとはもう時代も合わないし、円墳先作りでもないし、卑弥呼が誰なのかも言えないし、
ウソばっかし
「箸墓=卑弥呼の墓」説は
時代が合うことと
各地の墓制を統合してる(共立のあらわれ)こと
工事が円丘先行な可能性が高いこと
女性の墓という伝承があること
卑弥呼がモモソヒメのモデル説の説得力
などなど根拠はたくさん山盛りだ >>413
>そのなかに二口かみあれた258年もあったわけだが、
はい、証拠だしてね詐欺師さん >>414
それで、臺與の墓はどこだ。これも女性の墓という伝説があるのだろうな。 >>409
>箸墓が卑弥呼の墓という根拠は円墳部分が径百余歩におおよそ合致するというその一点だけ。
それがそもそもの認識の誤り
最大の根拠は、それまでの列島上のいかなる墳丘墓からも隔絶した
画期となる巨大墳墓だからなんだよ
新しい王権の始祖王の墓、以外の説明は難しい
>あとはもう時代も合わないし、
合わないと思っているのは九州説だけ、標準編年で造墓に10年程度を見込めば
まさにぴったりといってよいくらいに合致する
>円墳先作りでもないし、
円丘先造なのはほぼ確実
テンプレにも詳しく書いてある>>25 FAQ23を参照
まあ、それ以上に「後円部が墓と認識されていた」で十分だろう
https://i.imgur.com/yYNv3Ht.jpg 明治9年撮影
>卑弥呼が誰なのかも言えないし、
纏向遺跡が、崇神・垂仁・景行の宮処だと考えられるのだから、その頃の
ヒメ王と考えられる皇女を想定すればよい
倭迹迹日百襲姫命で特段の問題はない
>実にぶざまな説になり下がった。
意味のない文句を書き付けるだけの九州説は無様で惨めだな 「個人の考え」連呼君は、反論の体をなしていないことに気づいたんだろうか?
まあ、反安部・反日の工作員さんみたいだから、懲りずに続けるんだろうなww >>414
>「箸墓=卑弥呼の墓」説は
時代が合うことと
強引に建造開始を3世紀中ころにして、
高齢の女王が死んで慌てて完成まで10年の墓を作りましたってか?
ドアホ。
>各地の墓制を統合してる(共立のあらわれ)こと
2世紀前半からはつづく男王の王権が2世紀末に女王を擁立して、相対してた側が納得しただけ。
あくまで主語は「2世紀前半の男王の王権が」であって「各地の首長が」「ではない、ごまかすな。
>工事が円丘先行な可能性が高いこと
誰がそんな都合の良いこと言ってるんだ。
>女性の墓という伝承があること
>卑弥呼がモモソヒメのモデル説の説得力
ならばモモソヒメと言い切れ。
言った時点で時代的に撃沈だろ。 >>418
そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地のような平地の湿地帯なんぞに築かない。
ましてや、前方後円墳など何をか言わんや。 @阿波 箸墓も西殿塚も、2013年の立ち入り調査以降、肯定発言をする調査関係者無し。
ネタ間違い! >>419
反論は必要ないよ。主張する側が証明すればいいだけ。
あと、ここはいろいろな立場の人が書き込んでいるから、右翼とか左翼のレッテル貼りは意味ないよ
私なんかは嫌韓板にもたまーに書き込むし笑 少なくとも初期の天皇陵は、山の尾根や丘を利用して築かれた。
初代〜第五代天皇の陵墓の記事(『古事記』『日本書紀』『延喜式』)には
まず神武陵が畝火山の北方白檮尾上、綏靖陵は衝田岡、懿徳陵は畝火山の真名子谷上、孝昭陵は掖上の博多山上とあるように、
初期の天皇陵は、 山の尾根や自然の丘陵の一部を利用して築かれている。 @阿波 >>422
>箸墓も西殿塚も、2013年の立ち入り調査以降、肯定発言をする調査関係者無し。
証拠は? >>418
>新しい王権の始祖王の墓、以外の説明は難しい
となると、崇神のほうがピッタリじゃないの >>418
>纏向遺跡が、崇神・垂仁・景行の宮処だと考えられるのだから、その頃の
ヒメ王と考えられる皇女を想定すればよい
倭迹迹日百襲姫命で特段の問題はない
そうすると君は崇神が2世紀末だといううわけか。トンデモな年代観だな。
崇神は行灯山で問題なし、時代は4世紀前半。
>最大の根拠は、それまでの列島上のいかなる墳丘墓からも隔絶した
画期となる巨大墳墓だからなんだよ
無理、大きさは関係なし。
被葬者の埋葬場所の高さ、言い換えれば「気高さ」が問題。
箸墓ごとき瀬戸内下人の墓は標高435mの高天原にはかなわない。 >>423
>反論は必要ないよ。主張する側が証明すればいいだけ。
お前は「畿内説でも九州説でもない」とのたまわっていたんじゃなかったっけ?
そして、自分の主張はゼロで「個人の考え」は「仮説」だから〜しか言ってない
>私なんかは嫌韓板にもたまーに書き込むし笑
嫌韓板まで行って、韓国擁護論を書いてくるんだろ?
ウソは言ってないなww >>418
そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地のような平地の湿地帯なんぞに築かない。
ましてや、前方後円墳など何をか言わんや。 @阿波 >>420
>ならばモモソヒメと言い切れ。
なんで卑弥呼がモモソヒメのモデルだというと
モモソヒメと言い切らんといかんの?
どういう論理?
その思考が理解出来ない
それとも、ただの駄々コネ? 少なくとも初期の天皇陵は、山の尾根や丘を利用して築かれた。
初代〜第五代天皇の陵墓の記事(『古事記』『日本書紀』『延喜式』)には
まず神武陵が畝火山の北方白檮尾上、綏靖陵は衝田岡、懿徳陵は畝火山の真名子谷上、孝昭陵は掖上の博多山上とあるように、
初期の天皇陵は、 山の尾根や自然の丘陵の一部を利用して築かれている。 @阿波 >>425
ない発言録は出せない。
肯定発言があるなら出してくれ。よく読んでみよう。 >>430
モモソヒメなのか、モモソヒメではないのかどっち?
上の方でモモソヒメで問題はないと出てるが。 >>430
>それとも、ただの駄々コネ?
そりゃ、ご自分にぴったりの言葉だよ、畿内の駄々こね君! >そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地のような平地の湿地帯なんぞに築かない。
>ましてや、前方後円墳など何をか言わんや。 @阿波
訂正
そもそも、卑弥呼のような大王墓は纏向のような平地の湿地帯なんぞに築かない。
ましてや、前方後円墳など何をか言わんや。 @葛城 w 証拠出せないとわかってること主張する>>432は
あたまヘン >>428
誰と戦っているんだ?
掲示板で戦ってる相手が一人に見える病気だね?w
君、邪馬台国以前に議論のセンスがないわ
おじいちゃんで脳が回らないんだろうね >>420
>強引に建造開始を3世紀中ころにして、
全然強引じゃないよ?
九州での大陸からの渡来遺物を定点とした土器編年を基準に
14C年代など理化学的方法を組み合わせて矛盾なく説明できているから
>高齢の女王が死んで慌てて完成まで10年の墓を作りましたってか?
慌ててないよ?
粛々と大墳丘墓を作っているだけ
もがりの期間がなぜ必要なんだと思ってるんだ?
>ドアホ。
余裕がなくなると罵声に走るww
知性の低い人はこれだからww >>435
九州説がまた幼稚園児程度の発言してるね
オウム返しするのは、おばかの証拠だよ >>437
なんだ、おまい肯定発言の証拠出せないのか、、、 >>434
>上の方でモモソヒメで問題はないと出てるが。
その理由は? >>420
>2世紀前半からはつづく男王の王権が2世紀末に女王を擁立して、相対してた側が納得しただけ。
>あくまで主語は「2世紀前半の男王の王権が」であって「各地の首長が」「ではない、ごまかすな。
あれれー? おかしいなー?
三世紀時点では統一王権はなくて、各地で分立状態だったっていうのが九州説の言い分じゃなかったっけ?ww
ご都合主義がすごいなww >>434
>モモソヒメなのか、モモソヒメではないのかどっち?
モモソヒメのモデルだと主張してる人に
モモソヒメそのものだと主張を変えろと強要する
理由はなんなの? >>440
おバカには、おバカのオウム返して上等以上。 >>443
だからここは九州説だけでなく色んな人がいるのよ
勝手に特定の説と戦ってないで早く自説を証明してくださいよ >>420
>誰がそんな都合の良いこと言ってるんだ。
テンプレのFAQ23に、根拠がきちんと具体的に書いてあるから、
反論したいなら具体的に反論しなさい
>ならばモモソヒメと言い切れ。
>言った時点で時代的に撃沈だろ。
記紀は編纂された時代が新しすぎるから3世紀の事柄の典拠とするのは
最初から無理がある
そして、倭迹迹日百襲姫命は、崇神紀に記載されているから、
纏向遺跡の時代でまったく問題ないぞww >>441
>なんだ、おまい肯定発言の証拠出せないのか、、、
イミフな文章だな
肯定発言とは誰が書いた何番だ?
>>441は知能が異常に低い人のカキコに見えるんだが >>426
>となると、崇神のほうがピッタリじゃないの
実際、崇神の陵だと考える人もいるよ
まあ、記紀の箸墓の造墓記事をどこまで重視するかっていう程度のことだけれどね
個人的には、卑弥呼と崇神が姉・弟のヒメヒコ制で
二人セットで始祖王だったでいいと思うけれど >>427
>そうすると君は崇神が2世紀末だといううわけか。トンデモな年代観だな。
なぜそうなる?
崇神の年代は、纏向の年代に合わせればいいだけだぞ? >>427
>無理、大きさは関係なし。
>被葬者の埋葬場所の高さ、言い換えれば「気高さ」が問題。
ああ、ごめん 左側スロープ君じゃないかww
相手をして悪かったね
早く巣に帰れよ! >>445
このレス、おばかの典型だな
園児がよくやるやつ >>439
>14C年代など理化学的方法を組み合わせて矛盾なく説明できているから
14C年代で20年幅なんてわかるわけないだろ。
だから俺は年輪年代の二口かみあれた258年=庄内3を言ってるのに、
お前は逃げ回ってるわけだ。 >>446
自説って?
ここは畿内説のスレだよ
ほまくらの「自説」なら畿内説だ >>446
>勝手に特定の説と戦ってないで早く自説を証明してくださいよ
それブーメランだろ?
「俺の自説」ってどれのつもりで言ってるんだ?
畿内説の基本はテンプレにきちんと書いてあるぞww
畿内説は、細部で意見の違いはあるが大筋はテンプレと同じ >>450
>なぜそうなる?
>崇神の年代は、纏向の年代に合わせればいいだけだぞ?
だから纏向は2世紀末からだろ。
それが崇神だというのがお前のアホ理論。 >>453
>だから俺は年輪年代の二口かみあれた258年=庄内3を言ってるのに、
その「年輪年代の二口かみあれた258年=庄内3」って
どっから湧いた?
根拠出せない詐欺師くん、まだ言い張るの? >>455
>畿内説は、細部で意見の違いはあるが大筋はテンプレと同じ
碌な集落遺跡や鍛冶炉遺構や資源の無い畿内に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>453
>14C年代で20年幅なんてわかるわけないだろ。
だから、14C年代だけで決めてるんじゃないってww
土器様式の変遷は、作っている人の代替わりで様式が変わると考える(自然な想定)と
一様式20〜30年程度となるし、現在の編年もその程度になっている
>年輪年代の二口かみあれた258年=庄内3
年輪年代法を信じるなら、ホケノ山の年輪年代を信じればいいだろ?
それで解決だ >>449
>個人的には、卑弥呼と崇神が姉・弟のヒメヒコ制で
>二人セットで始祖王だったでいいと思うけれど
応神が百済王統のアケ王擁立から、あるいは須恵器に編年からも390年元年はガチ。
ならば崇神はその3世代ほど前、まぁ4世紀前半。
それは各豪族の系図からもわかる。和邇氏に至っては2世代前。
その崇神が2世紀末から3世紀初頭になる事はない。 >>459
>ホケノ山の年輪年代
そんなんあったっけ?
年輪年代で3世紀前半の勝山ではなくて? 碌な集落遺跡や鍛冶炉遺構や資源の無い畿内に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>456
>だから纏向は2世紀末からだろ。
>それが崇神だというのがお前のアホ理論。
2世紀末は纏向遺跡の建設開始年代だ
なぜ崇神が、纏向遺跡の建設開始と同時に死ななきゃいけないんだ?ww
崇神は卑弥呼の末弟だから、卑弥呼の死248年よりもあとに死んでるぞ >>457
>その「年輪年代の二口かみあれた258年=庄内3」って
どっから湧いた?
だから森井、森岡編年だと言ってるだろうが、このハゲ。 >>456
ああごめん、これも左側スロープ君だ
相手をして悪かったね
自分の巣に早く帰れよ! >>463
ならば纏向石塚を誰の墓だと考えてるのか。
あと崇神の墓はどれなんだ。
俺は崇神の墓を4世紀前半の行灯山と考える。
古事記の記述にも合う。 >>460
>それは各豪族の系図からもわかる。和邇氏に至っては2世代前。
それ、和邇氏の系図に抜けがあるだけ 『後方不敗』
グーグルで検索してみた?画像?
どう考えても日本(後の日本?)の話 >>467
そうだとしても3世代。
だいたい福島の会津に前方後円墳ができるのが4世紀になってから。
崇神時代の四道将軍ゆかりと考える以外にない。
あと稲荷山鉄剣のヲワケさんの7世代前がオオヒコ。
これも4世紀前半になる。
従って崇神は4世紀前半。 >>185
>年輪年代ね。 纏向石塚がAD177*18 <
年輪年代には、まだいくつか問題がある。
一つは、やはり、基準材の生育環境の年次変化と、
検体材(この場合はヒノキ?)の生育環境の年次変化との同一性が保証されるのか?、
という点。
特に冬の積雪の有無や、年平均気温や日照時間の年次差異。
また、伐採年から材として使用するまでの年次の長短が問題。
柱としての使用では、ある程度伐採直後や短期間内に使用された可能性が十分あるが、
板としての使用では、当然、伐採から使用まで、何年か?の「寝かせ」期間や、
他所での柱などとしての使用期間がある筈であり、その年数が全く不明。
勿論、樹皮から板の最外端までの年数(この場合は18年らしい)も推定しなければならない。
また、墓の板としての使用の場合などでも、鉄器が十分になければ、
綺麗に削るのにまた年数がかかってしまう可能性もある。
いずれにしても、177+18=195(年)だとしても、
50年位以上寝かせてしまう可能性もあり、
また、卑弥呼の墓とするのは、「冢≠前方後円墳」という問題があるために、×。 『蒼狗』(フェンリル〜?)
『伊達の桃太郎』とかそういう話でしょ、
なぜ詳しいんだろう、未来から来たのかな
小椋〜(不明)の曲なども聴いてみた?同じような曲があったり >>401
河上神社に淀姫様がいらっしゃるからだよ。 有名な大河内隆之氏は、上司の研究を裏付ける研究結果を発表したのだったね。。。 >>470
>年輪年代には、まだいくつか問題がある。
中塚武教授の酸素同位体比を使った新しい年輪年代法とも合うらしいよ。
年輪年代は100年古く出るとか言ってた人は撃沈w 天皇が発見したという手蔓藻蔓は、どのような手蔓藻蔓なのだろうか。。 >>427
>崇神は行灯山で問題なし、時代は4世紀前半。
ちょっと無理がないか? >>430
>なんで卑弥呼がモモソヒメのモデルだというと
>モモソヒメと言い切らんといかんの?
そもそもモモソと卑弥呼なんて似てないだろ。
モデルにしたとか、根拠のないアホだろ。 >>439
>九州での大陸からの渡来遺物を定点とした土器編年を基準に
貴重な品々は伝世するからね。
ズレるかもしれないねえ。 >>477
>>469に書いた以外にも吉備津彦の墓としか考えられない中山茶臼山が4世紀前半。
崇神に反抗した武埴安彦の墓としか考えられない椿井大塚山が4世紀前後。
崇神に絡む人物がことごとく4世紀初から前半になる。
古事記の没年干支が正しいとして崇神はAD318年没であろう。 >>185
>二口かみあれた258年=庄内3式<
二口かみあれたでは、どういう材の使用(柱か?板か?)だったのか?が判らないから、
258年の後何年後であるのか?が判らないが、
庄内3なら、筑紫の庄内の伝播や東征将軍らによる伝来の庄内であった、という可能性もある。 年輪年代は、樹皮付近のサンプルがなければ、伐採時期が何時以降なのかが分かるだけなのだが、
例え樹皮付近のサンプルがあって伐採時期が分かっても、サンプルが使用されたり、埋められ年代は、伐採された時期より、後だということが、
頭の悪い奥山氏には、理解できないのだな、、、
475日本@名無史さん2019/09/14(土) 19:45:46.44
>>470
>年輪年代には、まだいくつか問題がある。
中塚武教授の酸素同位体比を使った新しい年輪年代法とも合うらしいよ。
年輪年代は100年古く出るとか言ってた人は撃沈w >>482
単純明快なことなのだが、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、脳を破損した奥山氏には、理解できないのだな、、、 >>470
>卑弥呼の墓とするのは、「冢≠前方後円墳」という問題があるために、×。
これは大賛成だわwww 例えば 南の島〜?
浦島マリンのような曲もあったりw >>450
>崇神の年代は、纏向の年代に合わせればいいだけだぞ?
論理が無茶苦茶だ。 >>459
>土器様式の変遷は、作っている人の代替わりで様式が変わると考える(自然な想定)と
勝手な仮説。
現代だって、20-30年前と食器なんて変わっていないぞ。 このような曲も、あるでしょ?
『小椋 例えば遥か 南の島の 』
うらしまん? >>190
>>悪いことに卑弥呼が死んで大急ぎで墓をつくり <
>塚は一日でできると思う。<
例えば、一つの殉葬墓の葬儀であっても、
甕棺、石蓋土壙、箱式石棺、竪穴式石室などは、
いずれも埋葬作業も大変で1日かかりそうで、百余人では百日位は掛かると思うし、
それに長径25.5m以上の葺石の高さ5m位もある「冢」では、
一月位はかかる、と思うよ。 >>481
>
二口かみあれたでは、どういう材の使用(柱か?板か?)だったのか?が判らないから、
>258年の後何年後であるのか?が判らないが、
とかいう以前に
「二口かみあれた258年=庄内3式 」
がガセネタ
w
w
w >>490
>理由のない賛成をするのは愚か者
諸葛亮伝「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」
君の大好きな箸墓は墳。
冢ではない。 >>493
森井、森岡編年はおまえに何度も見せたが。
お前は反論できなかった。
ついに痴呆症が始まったか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています