邪馬台国畿内説 Part506
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1568200811/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>629
>つまり前提となる仮説に誤りがあるんだよ。
>君の論議は誤った仮説をいくつも積み上げている。
その誤りを一つたりとも「具体的に指摘できない」のが、>>629と九州説の限界
もう、無理なんだよ
たくさん誤りがあると「いうだけ」
誤りの提示すらできない
バカ丸出しww >>630
>魏志倭人伝を読む限り、奴国は人口が多いだけで、その首長にそれほどの意味はない。
>せいぜい福岡の有象無象の勢力の中に畿内と縁のある一族もいた程度。
>それら全ての上に伊都が君臨していた。
これすべて>>630の「個人の考え」を正しいとした前提の上でのできの悪い作文ww
まず「魏志倭人伝を読む限り」というのが古代史へのアプローチとして間抜け
考古学的な発掘成果から、比恵那珂遺跡群が北部九州でもっとも栄えた場所なのは確実
それを過小評価する理由が魏志倭人伝というのは本末転倒
魏志倭人伝の倭国地誌記事は駢儷文を意識しているので、
奴国の記述は不彌国の記述に合わせてある
不彌国の情報が少ないため奴国もあっさりしている
「せいぜい福岡の有象無象の勢力の中に畿内と縁のある一族もいた程度。」
福岡の有象無象というのがただの想像
比恵那珂遺跡群には、那珂八幡古墳という卓越した墳丘墓があり、
それに対抗するようなまたは同等と言えるようなものは存在しない
那珂八幡古墳は奴国の首長墓なのは確実
これを否定するやつは、古代史を考えるだけ無駄
「それら全ての上に伊都が君臨していた。」
伊都国でえらかったのは一大率であって、伊都国王ではない
伊都国王は諸國畏憚之と、一大率を畏れ憚る側だ
そしてその一大率を派遣しているのが、ヤマトの卑弥呼 >>630
お前のようなバカの言うことを認めて、伊都国に卑弥呼がいたとして
お隣のお膝元ともいえる奴国で平原1号墓の100倍以上大きな畿内様式の大墳丘墓を
作るのを許すって、どういう論理で説明できるんだ?
この議論から逃げ続けて、一文字たりとも返事ができてないじゃないか
この無能が!ww >>631
>割わいで示して0%にしかならない。
それは、形態での分類での話で、胎土分析の分は比率には反映されていない
そして、北部九州代表は地域最大国の奴国のはずだし、奴国はこの時期
既に庄内甕を受け入れているので、形態分類では奴国のものと
認識されていない可能性がある >>637
「完全に破綻した」っていうのは、連続句読点が使う語法なんだよ
これは、連続句読点が自分以外の投稿の体で書いている荒らしの一環 >>637
>纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
>邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない
土器ってのは消耗品だから、遠くのものはその分少なくなるのが道理
九州から吉備に来るまでで壊れれば吉備で新しい甕を手に入れて先に進むだけ
だから、「少ない」ことは理由にならない
出ていることは交流があったことの証明
残念でした
お前のはできの悪過ぎる詭弁だww 原田大六の孫弟子が、祖師と同じように威張っておるな
日本書紀を後生大事にしながらな、、、、 >>109の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)▲▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行1月」(幻).│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 >>641
>那珂八幡古墳は奴国の首長墓なのは確実
それは主観
>伊都国でえらかったのは一大率であって、伊都国王ではない
伊都国にいた人物が奴国を含めた周辺諸国から恐れはばかられていたわけだろ。
だから奴国の首長とやらがどこの人物であろうが、その人物が九州北部の実権を掌握していなかったことは確実。 >>642
>お隣のお膝元ともいえる奴国で平原1号墓の100倍以上大きな畿内様式の大墳丘墓を
>作るのを許すって、どういう論理で説明できるんだ?
那珂八幡の年代比定が違うんだろう。 >>643
「可能性がある」を事実であるかのようにすり替えているだけ。
形態でも纒向から九州北部の様式の土器は出ていない。それが事実。 >>643
>そして、北部九州代表は地域最大国の奴国のはずだし、奴国はこの時期
「はず」というのは君の個人の主観
そして魏志倭人伝では、最大の国は奴国だが、実権は伊都国の大率にあったと書かれている。 >>645
>土器ってのは消耗品だから、遠くのものはその分少なくなるのが道理
でも尾張の土器が筑紫から出たりするわけだろ?
筑紫の土器が纒向から出ないのは、少なくとも直接の交流はなかったんだよ。
筑紫は尾張とも吉備とも出雲とも大量に土器をやり取りしている。
纒向はおそらく尾張とだけ交流し、その他の地域の土器は尾張経由だった。
しかも目と鼻の先の河内とさえ物資のやり取りはなかった。
尾張は関東とも北陸とも九州北部ともやり取りしていた。纒向は尾張に従属する立場だったと考えるのが妥当。
>出ていることは交流があったことの証明
だから、ほぼ「出ていない」んだよ!
ほんのわずかなカケラだけでは、それで支配関係なんて語れない。 >>645
>九州から吉備に来るまでで壊れれば吉備で新しい甕を手に入れて先に進むだけ
これこそ詭弁であり、そんな証明のしようがないことを持ち出せば、九州から纒向どころか中東とも人が行き来していたと主張できるぞ?
そんな主張は意味がないし、物証の根拠がないんだよ。
だから君はこのスレで嘘つき呼ばわりされるんだ。 >>648
>それは主観
主観だと断定する理由は?
理由も言わずに決めつけるの? 以前からこのスレでは、畿内説のアホが「九州北部には周辺の勢力の侵入があった」と書いているが、それは土器などが全国各地から集まるという事実からの類推だろう。
そこには筑紫が王都であるはずがないという先入観の上に立った判断が挿入されている。
事実としては、筑紫には内外から広く多種多様な物資が集められていたということしかない。
一般的には、それは筑紫が王都であったと考えるべきなんだ。
筑紫には国内全国の物資が集まっていたし、伊都国には中国からの物資も集積していた。
「筑紫はそれを再分配していない」ということを「周囲に影響を与えていない」という主観的な判断にすり替える詐欺もいるが、権力者が富を独占するのは古代ではむしろ当然で、筑紫それも伊都が内外の富を独占した権力の所在地であったことが考古学的には明らかなんだよ。
奴国は人口が多いから物資も多く繁栄していたことは確かだが、伊都ほどには威信財がない。その奴国の墓が大きいから云々ということは無意味だね。 >>654
主観でないという根拠をそちらが示せよ。 >>651
>「はず」というのは君の個人の主観
だから、「個人の主張」だと決めつける根拠は? 根拠おじいちゃん
自分で証明しないとダメよ
掲示板の見物人に振るなよ 古墳や土器の年代を比定するのは簡単ではない。
例えば那珂八幡が240年か250年かで、もうその解釈は大きく違ってくる。
それなのに、卑弥呼の年代の墓だという仮定のもとに論を進めるのは、詐欺に近い。 根拠もなく魏志倭人伝と食い違う主張をしているのはこいつ。
>>643
>そして、北部九州代表は地域最大国の奴国のはずだし、奴国はこの時期 >>656
>主観でないという根拠をそちらが示せよ。
おやおや
やっぱり理由も言わずに決めつけるのか
じゃあ「主観だ」という断定は単なる主観だったということでいいのね
w
w
w マキムク遺跡は最近 たいした新情報もなく
推理が先行した根拠で邪馬台国の王都と言う
これは、各説や畿内説内部からも非難の対象となるのは当たり前である
あまり先走ることなく、長い目で調査しその後に結論を出せばよい
現在は功を焦る似非学者がほざいているだけである
畿内説はマキムクから距離をおくことも肝要 畿内説が淀川水系のどこかを拠点にしていたら、すごく説得力があっただろうね。 >>658
>根拠おじいちゃん
>自分で証明しないとダメよ
>掲示板の見物人に振るなよ
アンタ発狂してるよ
>「はず」というのは君の個人の主観
って主張しといて
自分で証明しないダメ人間 九州説に拘っている奴って、いったい
何に拘っているんだい? 崇神から応神まで3〜4世代とか言ってたやつがいるけれど、
稲荷山鉄剣の系譜と比べても記紀の系譜はそんなに世代数おかしくないだろう
応神・仁徳同一あるいは兄弟説を採れば、世代数は合う
崇神 意富比垝 彦
垂仁 多加利足尼 宿禰
景行 弖已加利獲居 別
倭建 多加披次獲居 別
仲哀 多沙鬼獲居 別
応神 半弖比 −
仁徳 加差披余 −
允恭 乎獲居臣 臣
雄略 >>645
>土器ってのは消耗品だから、遠くのものはその分少なくなるのが道理 <
その通り、消耗品なのだ そんなに価値が無いものを市場で売る必要はない
土木作業員がもちこんだとみるべきだ >>649
>那珂八幡の年代比定が違うんだろう。
那珂八幡古墳は葺き石・円筒埴輪・段築を持たない段階で後円部も不整円形
卑弥呼の遣使により魏朝からもたらされた測量技術を利用できるようになる前の形態
箸墓では後円部は整円形になる
こうやって考えれば、那珂八幡古墳の編年は間違いなく卑弥呼の治世に入るよww
「年代比定が違う」と言いながら、自分の想定する年代やその根拠を一切言わない無能が
この「個人の考え」連呼君ww
本当にバカ丸出しの無能ww その前に、「個人の考え」連呼君は
「奴国は有象無象の勢力の集まり」っていうのを証明して見せてくれよww
妄想なんだろ?ww >>662
>ここまでキナイコシは何も証明できてない。
という証拠は? >>648
>>那珂八幡古墳は奴国の首長墓なのは確実
>それは主観
これを否定する人には古代史は無理だよww >>652
>でも尾張の土器が筑紫から出たりするわけだろ?
ソースは? 横からごめんよ
「はず」と
テンプレの
「あろう」 「おそらくは」 「とも言えよう」
「と推察される」 「可能性がある」 「と考えられる」
・・・・・・
おのおのどう違うのスレぬしさんよ・・・ >>652
>だから、ほぼ「出ていない」んだよ!
遠い過去のもの、遠い距離を隔てたものは、当然に数が少なくなるのが道理
そして「実際に出てる」のが「確認」されている
個人の考えでも、推定でもないww
これが現実だww
>ほんのわずかなカケラだけでは、それで支配関係なんて語れない。
畿内説は共立による祭祀連合という立場なので、
「支配関係」なんて最初から語っていない
交流は証明されているし、交流があるなら北部九州よりも強大な国が
倭国にあることは北部九州諸国にも公知の事柄
その状態で北部九州代表が倭王になることはない
伊都国を必死で持ち上げてるが、一大率はヤマトからの派遣官だぞww >>653
>そんな証明のしようがないことを持ち出せば、
すごいブーメランだなww
九州説が短里を証明しているのを見たことがないんだが?ww
>九州から纒向どころか中東とも人が行き来していたと主張できるぞ?
できないよ? 何を言ってるんだ?
中東からの土器の欠片なんて、胎土分析でも確認されてないだろ?
本当に詭弁すら使えない無能だなw スレッドの者達に、挨拶します。
初めまして。
僕は、趣味で邪馬台国畿内説を研究している人物です。
今、スレッドをpart1から順番に、全て読みました。
邪馬台国畿内説が、完全に破綻したことが、わかりました。
有難う御座いました。 >>653
>だから君はこのスレで嘘つき呼ばわりされるんだ。
されてないよ? 何を言ってるんだ?
無能呼ばわりされているのが、>>653
うそつきとして有名なのが、ザラゴキ
迷惑行為専業なのが、連続句読点
キウスと左側スロープ君も、バカで有名 >共立による祭祀連合
これがそもそも根拠ゼロの妄想 あんなしょぼい土器しか出てないんじゃよほどへんぴな田舎なんだな桜井市 >>659
>例えば那珂八幡が240年か250年かで、もうその解釈は大きく違ってくる。
>それなのに、卑弥呼の年代の墓だという仮定のもとに論を進めるのは、詐欺に近い。
そんなに変わらないだろ?
240年でも250年でも、その人物の在職期間は卑弥呼の治世と重なる
そして、>>669にも書いたように那珂八幡古墳は
卑弥呼の遣使により測量技術が魏朝からもたらされるよりも前だ
卑弥呼の死248年より遅くにはならないから、どうやっても卑弥呼の時代だよ ああ、九州説がしどろもどろで意味のない一言書き込みしかできなくなってるww
効いてる効いてるww 「纒向遺跡への搬入土器」という言い方あまり好きじゃないな・・・
なんとなく、取り寄せたイメージ戦略のような気がするけど・・・・ ヤマト王権なるものの実態すら明らかではないのに
無理やりコジツケるからこうなっちゃうんだよな 畿内説とか言ってるけど一般人で畿内説の人見たことないわそう言えば >>679
やはり、わかりますか。。。
僕も、このスレッドを読んで、すぐに邪馬台国畿内説が、完全に破綻したことが分かったので、このスレッドを、邪馬台国畿内説を宣伝する者達の頭の悪さを笑いリラックスするために、利用しています。。。 なんで畿内説の工作員ってこんなに必死なの?
論破されるとバイト代がもらえないのかな? なんで畿内説の工作員ってこんなに必死なの?
論破されるとバイト代がもらえないのかな? なんで畿内説の工作員ってこんなに必死なの?
論破されるとバイト代がもらえないのかな? 前方後円墳文化圏なんてねーよ
もしそれを言うなら墳丘墓文化圏はもっと古くからあったことになるよ・・・ >>681
>これがそもそも根拠ゼロの妄想
墳形はヤマトから、円筒埴輪(特殊器台)は吉備から、葺き石は出雲から、と
各地の墓制の要素を持ち寄って、かつ、各地域はそれまでの墓制を捨てて、
新しい前方後円墳祭祀に統一されている
これが、卑弥呼の共立の結果だと考えるのが普通の論理的思考のできる人間の共通認識
卑弥呼は共立倭王だと魏志倭人伝に書かれており、その後前方後円墳及び墳墓祭祀での
供献土器の広範囲での統一が見られる
一方で各地の首長、のちの豪族の自立性も明確であり、支配ー被支配の関係ではない
であるなら、祭祀を関係の基盤とする祭祀連合の存在を想定するのが、
まともな思考力のある人間にとっては当然の帰結
これだけの根拠がある、というかテンプレにもたっぷり書いてあるのに
「根拠なしの妄想」って書ける人は、「脳内妄想」だけで生きているんだろうねwwwww >>62
>白村江まで九州王朝とかいうのが、寝言以前だという証明 <
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の大和は、
欠史八代の内の4人に倭国の地方の市を監督する「大倭」の呼称が冠せられており、
崇神が九州倭国の「東征毛人」軍に参戦協力して新規領地を広げ、
景行も、九州倭國の南九州征伐に一将軍として参戦して、浮羽に凱旋し、
倭建命も熊襲討伐に参戦し、
仲哀や神功も新羅討伐に参戦して、神功が逆に大和も自家のものとして応神仁徳に継がせ、
その頃から九州倭国とは別に南朝への派遣もし、
顯宗や仁賢の「ヲケ」という名前が、
「齋永元元年、其國有沙門慧深來至荊州」の慧深によって南朝に伝えられて梁書に記録され、
梁代には、継体が九州倭国の(同じ阿毎氏の)磐井を倒して倭国王家に参画できるようになり、
扶桑國と称して、独立国的になり、九州倭国の秦王國や執政の太宰になり、
欽明之十一年、直梁承聖元年で中国とのコンタクトを取り、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」で初めて小野妹子を派遣して、
日本國を名乗らせたが失敗し、唐の武徳中になって初めて「日本國を認められたの。 >>694
>前方後円墳文化圏なんてねーよ
また頭の悪いのが湧いてるなww
「前方後円墳文化圏」なんていう用語も概念もないよww
一般に使われるのは「前方後円墳体制」だ
広瀬和雄先生は一歩踏み込んで「前方後円墳国家」という言葉を使うけどね >>681
>>共立による祭祀連合
>これがそもそも根拠ゼロの妄想
そんなこと決めつける理由は? >>655
卑弥呼の時代3世紀の遺跡規模において畿内に劣る筑紫が
王都であった筈がない 畿内箸墓説の元祖:
糸島中学の代用教員であった原田大六は、戦後昭和の頃、糸島伊都国説を引っ提げて邪馬台国論争に参入し、
倭人伝の卑弥呼と、日本書紀の倭トトヒモモソ姫には類似点が多いから、箸墓が卑弥呼の墓であると断じた。
類似点:
1.邪馬台国の女王と、倭の名を冠する最高位の姫
2.鬼道に仕える卑弥呼と、天皇の請いで神懸かりする姫
3.奴婢100人を殉葬したという卑弥呼の大墓と、人と神が日夜を分かたず作ったという箸墓、
経緯をたどると、原田大六がよりどころにしたのは、実は日本書紀であり、
そこに卑弥呼似の「姫と墓」を見出したというわけである。
つまり、今の畿内説は糸島の原田大六の末流、もしくはパクリということになるのである。 >>700
こういうのを「還元論法」といって
ヘタクソな詭弁の典型として古くから知られています そんなことよりも、謎のゲーム(チェーンソーとか)などの話、
ほとんど老婆談と同じでしょ、なぜなんだろう
小椋某の曲、虹が〜と言っていたり >>669
箸墓の年代ありきの詭弁。
前提が間違っているんだと何度言ったらわかるんだ。
間違った仮説の上に詭弁を上塗りするから、誰も畿内説を信じないんだぞ。 『超越』
河童、水神?かみたま(後の〜)という意味だしな・・・。 >>677
>交流は証明されているし、交流があるなら北部九州よりも強大な国が
いつ誰が証明した? >>677
>一大率はヤマトからの派遣官だぞww
はい、ここも証明されていない仮説を元に説明しようとしているね。
畿内説を前提とした循環論法だよ。
これだから畿内説は支持されないんだよ。
いい加減に自分たちで畿内説の墓穴を掘っていることを自覚したほうがいいよ。 >>678
>中東からの土器の欠片なんて、胎土分析でも確認されてないだろ?
君の説明だと、土器は途中で交換してもいいんだろ? >>627
>その後4世紀まで存続しているんだから、卑弥呼の時代にも
人々が集まる中枢域だぞww<
ダメだよ。
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って倭國の中心は北部九州であったのであり、
大和は、白村江の後まで、九州倭国の別種の附庸國という地位だ。
>何度も書いているが、その当時の畿内から北部九州の奴国まで含む広域秩序が
邪馬台国じゃなかったら矛盾するんだよ
この前方後円墳体制とは別の邪馬台国30国体制は、列島上に入る余地がない<
何度も書いているが、
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って倭國の中心は北部九州であったのであり、
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国の附庸國であったのであり、
白村江の後の701年になって、母国の九州倭国を併合吸収継承出来たのだ。 >>706
北部九州の多数の考古学者たちが証明している
とりあえず久住くらい読んどけ 『小椋 君はそれ以上』(超越)
このような曲・・・同じ、ガンダムなどの元ネタ? >>684
>そんなに変わらないだろ?
>240年でも250年でも、その人物の在職期間は卑弥呼の治世と重なる
大違いだよ。
250年なら、卑弥呼の死後の乱で流入した外部勢力の墓だとかもあり得てしまう。
つまり那珂八幡は奴国が九州を代表したという根拠にならない。
まして、魏志倭人伝に伊都の大率を周辺の国がおそれはばかったと書かれているのに、それを平気で無視するのが畿内説なわけだ。 >>684
>卑弥呼の遣使により測量技術が魏朝からもたらされるよりも前だ
ええと、遣使に対する返使の時は、もう倭国に測量技術があり、その上で対馬海峡を三千里という短里を使っていたということになるね。
畿内説っていうのは、その場限りの言い訳が多いからすぐ矛盾するよねえ。 確実に明治時代?
そのころの写真なんだけど、後の〜人物の写真なのかな? >>688
出雲よりも尾張の方が多いから、大国主から権力を奪った天孫である天照国照ニギハヤヒ(物部氏と尾張氏の祖)の一族のものだろうねえ。 >>695
>これが、卑弥呼の共立の結果だと考えるのが普通の論理的思考のできる人間の共通認識
年代もわからないのにそんなわけあるかよ。 >>695
>まともな思考力のある人間にとっては当然の帰結
典型的な決めつけ、個人の主観だね。 >>697
つまり用語は適当にそれぞれの個人が決めるので、あくまでも主観的な判断が加わっている。 >>628
>胎土分析で北部九州からの搬入土器は確認されてるぞ 集まってるなww<
北部九州のどこからだ?。
筑紫の土器は纏向には行っていない筈だ。
>>楽浪帯方からも来ていない。<
>韓式土器も出てるよ 来てるなww <
そうか。やっぱり楽浪帯方土器は来ていなかったか。
>その当時の畿内から北部九州の奴国まで含む広域秩序が
邪馬台国じゃなかったら矛盾するんだよ
この前方後円墳体制とは別の邪馬台国30国体制は、列島上に入る余地がない <
矛盾しない。
大和は、九州倭国の別種の旧小国だ。勿論邪馬台国なんて存在もしなかった騙し文言。
>奴国が女王国連合30国に参加しているのに、畿内様式の前方後円墳を
北部九州の伝統を破棄して奴国首長墓として採用しているという現実が
説明できなくなるんだよ<
弥生銀座は奴國ではないし、
「冢」は「前方後円墳」ではないし、大和は九州倭国の別種の旧小国だ。
いい加減に諦めろ >>699
どの遺跡を見て3世紀と決めつけるのか。
また、仮に3世紀だとしても、248年より前と後では全く意味が違ってくる。
しかし現在の考古学では240年の土器や古墳と250年の土器や古墳を区別することはできない。
それどころか300年とも区別できない。 >>704
>箸墓の年代ありきの詭弁。
>前提が間違っているんだと何度言ったらわかるんだ。
何度結論だけ言っても
一度も理由言ってないだろ
どう「前提が間違っている」のか
具体的に説明してくれよ
具体的にな 『天財若子』
調べると出てくるでしょ、上の名前?
その家の写真なのかな >>710
引用もできない無能
はい、ここまで証明皆無w >>721
>しかし現在の考古学では240年の土器や古墳と250年の土器や古墳を区別することはできない。
>それどころか300年とも区別できない。
できないと断定する理由は? >>722
君が十分に理由や根拠を示していないと指摘されているのだが、理解している? >>725
区別できるという科学的根拠を是非示してください。 >>724
引用なんてする必要がないからしないだけだよ
テンプレでもう引用されているからな
三世紀前半の北部九州に庄内式が搬入されている
纏向遺跡に筑紫産の庄内甕が出ている
それでFA >>642
>お隣のお膝元ともいえる奴国で平原1号墓の100倍以上大きな畿内様式の大墳丘墓を
作るのを許すって、どういう論理で説明できるんだ?<
東征毛人五十五國の将軍らが、
征服した毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を墓守り人にして、
巨大墓造りを強制したの。 >>727
簡単なことだ
景初三年銘が出れば239年より後と判定できるだろ? 水分神・・・?
水神関係の話だしな、何かの家だったのかな >>730
240年と250年の区別ができないという話をしているのだが? >>727
君が質問されてるんだよ
質問で質問を返すのは反則 >>688
地元も含めて、全部「東阿波型土器」様式土器。 これ、今の常識。 @阿波 >>728
少数だけしか搬入されていないから、直接ではなく、尾張に搬入されたものが分配されたと考えるのが「普通の考え方」かもね。 >>734
いや、君が区別できるようなことを書いているから、その根拠を聞かれているんだよ? >>737
乱がいくつもあるのに、どうしてそうわかるの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています