邪馬台国畿内説 Part512
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1569823448/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 奥山氏がスレッドの作成を開始したのではないのかな。。。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 >>8
何度も論破されたテンプレートを、貼り付け始めたな。。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 奥山氏は、お昼ご飯を食べずに、破綻したテンプレートを貼り付けるのだろうか。。。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8−1(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 >>22
奥山氏は、労働をしないので、お腹が空かないのではないのかな。。。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、
ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 奥山氏は、頑張って、テンプレートを貼り付けて下さい。。。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 奥山氏は、数学や物理の事を、まるで知らないのだったな。。。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) >>51
つまり、奥山氏は方角が分からないのだね。。。 (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 >>53
だから、南を東と区別できなかったのだな。。。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png ◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。 ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。 ◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬がある。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし >>1
邪馬台国畿内説が、完全に破綻しましたね。。。 いい加減に、纒向は尾張の傘下のマイナー拠点だと認めたらどうだ?
近畿地方は尾張氏と物部氏の祖である饒速日の王国だったんだよ。
纒向を宮と見なすなら垂仁天皇の纒向珠城宮や景行天皇の纒向日代宮に比定するべきだろう。
邪馬台国を持ち出すのは筋違いも甚だしい。
日本史の史書とも魏志倭人伝とも全く整合性が取れない畿内説など、妄想だとしか言いようがない。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→伊勢→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg >>1
頭の悪さがバレてしまう文章を、発表してしまいましたね。。。 ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(ベトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 奥山氏は、インターネットで集めた情報を、よく理解しないまま発表する悪い癖があるのだったな。。。
751日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:49:09.62
数学も物理学も
厳密に言えば一定の条件下でしか成り立たない非決定的で暫定的なもの
前提条件が変われば全ては成り立たなくなるものだから
相対性理論も高重力下などの特異点にあっては破綻するとアインシュタインも言う
数学や物理学が決定的で史学は否決定論というのは原理的には間違いで
本質的にはどちらも同じもの
そして考古物と書物に書いてある歴史記述と場合によっては科学によって
より蓋然性の高い結論を導き出すのが史学
そして考古物と史書と科学観測結果は邪馬台国は畿内だったという事に高い関連性が見出される
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1569823448/751 >>141の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行1月」(幻).│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│(沖縄亶州)〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│(台湾夷州)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 >>141
>>143
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾する。
また、軍事力(鉄製武器)も通信手段(文字・駅伝制=早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
魏志倭人伝を史料として採用する以上、消去法によって九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>788
>卑弥呼の墓は標高435m、日本神話の原点・高天原(御所市高天)にあったのだ。<
「南≠東」などに拠って×だ。 >>794
魏志の「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の渡海は、
北部九州の東への出発地になる東海岸から東渡海千余里であり、
到着地点は、松山〜今治付近であり、
魏の役人たちは、それから南に三千里陸行して、侏儒國付近に着いた。
ここを通っていくのが、
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」なんだよ >>144すると、欽明(現皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼末裔/八代淡海→「近江」)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>795
>というか、天皇の住む東京都千代田区に武器があまりないであろう事と同じように、
鉄がないから邪馬台国ではないという理由は成り立たない。<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」であるから、
魏使らは「鐵鏃」を見ている。
>BC3世紀ころ、出雲から畿内に銅鐸が拡散している。<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言である。
>そして九州瀬戸内には銅剣等武力が展開。 これは統一中国への対策で有ろう。<
九州倭人の「国生み植民や東征」の結果であろう。
>つまり、すでに畿内に王権があったことを意味する。<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和は、出雲系銅鐸部族と毛人蝦夷部族の共存であったのであり、
そこへ九州倭人の侵略があったんだろう。 >>800
>卑弥呼の墓を祇園山だとして、2世紀前半の男王の墓はどこ?<
井原や須玖岡本付近。吉野ケ里も可能性がある。
>そして60人の殉葬らしき石室があるそうだが、<
合計六二基(甕棺3、石蓋土壙32、箱式石棺7、竪穴式石室13、構造不明7)
にも及ぶ小型埋葬施設
>奴婢を石室に埋葬するのかという問題がある。<
複数埋葬の墓が沢山あるらしい。
>zarakokuのいうように百歩譲って奴婢長だとするのは数がおかしいね。
同時期に60人もの「長」がいるわけないのだから。
一クラス40人に学級委員長が36人いるような話になる。<
奴婢長と思われるのは第一号甕棺であり、
成人女性の人骨や鏡片・勾玉・管玉・刀子も出土した。 祇園山も、どことなく妄想畿内説の末期症状に似てきたな、、、 >>812
>(祇園山古墳)石棺は一部だけだよ。
かの古墳は2/3ほどが発掘されて、約60の墓があったので、
墓の総数は100と推定されている。<
ふーん、成程。 >>824
>筑紫はニギハヤヒに随伴した筑紫物部がいた一つの有力地域だが、
吉備より力は落ちる。
そのニギハヤヒが神武に屈服してるのだから、筑紫が大和を征服したなんて話はあるわけがない。
脇役の分際で主役になってると思い込んでる韓国人の様な発想だ。<
根本的に、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭國は北部九州であり、
その倭王武が「自昔・・・東征毛人五十五國」をしたと上表したのだから、
吉備も大和も九州倭国の東征の支配下になった。 >>136
>纒向を宮と見なすなら垂仁天皇の纒向珠城宮や景行天皇の纒向日代宮に比定するべきだろう。
崇神の纏向瑞垣宮、垂仁の纒向珠城宮、景行の纒向日代宮に比定した上で、
この三代の大王も邪馬台国の王だったというのが、畿内説なんだが?
人によって多少異同はあるが、卑弥呼の佐治国の男弟が崇神、
邪馬台国の官筆頭の伊支馬が垂仁(イクメの大王:活目入彥・紀、伊久米伊理毘古・記)で
固有名詞レベルで対応が見られる >>139
>摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後
弥生の古い遺跡がいくらでもあるんだけど?ww
https://i.imgur.com/BLXBMuy.gif
九州説は事実誤認と情報リテラシーの欠如、それに妄想を振りかけてできている >>155
出典がないという証拠は?
むしろ九州説の方がよく根拠を添えて発言しているぞ?
お前はいつも野次るだけの能無し。 NHKが高校生に教えている講座では、邪馬台国畿内説を宣伝する者には、宣伝の為に出典とする具体的な証拠が、全く、見つかっていないのだったな。 奥山氏は、インターネットで集めた情報を、よく理解しないまま発表する悪い癖があるのだったな。。。
751日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:49:09.62
数学も物理学も
厳密に言えば一定の条件下でしか成り立たない非決定的で暫定的なもの
前提条件が変われば全ては成り立たなくなるものだから
相対性理論も高重力下などの特異点にあっては破綻するとアインシュタインも言う
数学や物理学が決定的で史学は否決定論というのは原理的には間違いで
本質的にはどちらも同じもの
そして考古物と書物に書いてある歴史記述と場合によっては科学によって
より蓋然性の高い結論を導き出すのが史学
そして考古物と史書と科学観測結果は邪馬台国は畿内だったという事に高い関連性が見出される
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1569823448/751 >>158
奥山氏は、数学が、どのような前提条件で破綻すると考えているのだろうか。。。 >>156
>むしろ九州説の方がよく根拠を添えて発言しているぞ?
でも、その出典が「邪馬台国の会」と「邪馬台国大研究」くらいじゃんw
素人の個人ブログが根拠ってww
それ、左側スロープ君の「この尾根が径百歩の塚」と同じレベルの根拠ってことだよw
つまりはでたらめww >>147
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 >>125
ウソついたまま逃げてるな
「いまの揚州市付近の江都、儀徴一帯には、古く銅鉱があり」と王仲殊氏が書いてる
そして、三国時代には、「江都」「儀徴」などの地域は、呉の領域内にあった
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm >>163
ダイワとしか読めない大倭(後漢書東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(特に唐)に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
また7世紀の隋・唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台+阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トルーマン大統領)との外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として遂行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである! 真実である物事であっても、数学では、必ずしも証明されなければいけないとは、要請されていないのだったな。。。 >>161
お前の畿内説はお前の妄想じゃんかwww >>158
奥山氏は、数学が、どのような前提条件で破綻すると考えているのだろうか。。。 「邪馬台国の会」を根拠とすることのいい加減さは、前にも示したよな
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htm のページの
「県別・卑弥呼がもらった可能性の大きい「10種の魏晋鏡」の数」というグラフ
これだと福岡県が37枚になっているが、このうち32枚は平原1号墓の方格規矩鏡
しかも2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」で全て仿製鏡とされているのを
参照した上で数に入れている
これを抜くと福岡県は5枚でしかない
漢鏡6期以降、北部九州の優位などない >>164
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて九州島を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(時間の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智の倭京(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A新羅からの朝貢で調子に乗って、宇宙の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)
-継体による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html >>168
4世紀の国産三角を卑弥呼と関連付けようとゴットハンドを駆使する畿内病患者よりマシだなwww 奥山氏の脳内には、数学が破綻する世界が広がっているのだろうか。。。 >>167
1、2、3、という自然数は、自然界には存在しないのだな。。。
それを無理やり存在すると考えて構築されてきたものが数学なのだな。。。
もう引くに引けないのだな。。。 奥山氏の脳内に展開する、数学が破綻する時空には、3世紀の桜井市に卑弥呼の城があるのだな。。。 数学は、数学では証明不能な物事の存在すらも証明したのだったな。。。 奥山氏の脳内の理論では、奥山氏の脳内の理論では証明不能な物事が存在しないことを証明できてしまうのだったな。。。 >>166
九州説はどうやっても「九州には大古墳がない」という事実に勝てないんだよw
弥生終末期に栄えていたところは、古墳時代にも大古墳を作っている
>お前の畿内説はお前の妄想
どこが妄想なのか「具体的に論証」できない時点で、無意味な戯言なんだよ
具体的っていうのは、
「邪馬台国の会の十種の魏晋鏡の集計は仿製鏡を入れて嵩増ししたインチキ」と
いうように示すんだよw >>175
だから、数学は破綻しないのだったな。。。 >>177
だから、奥山氏の脳内の理論は、完全に破綻したのだな。。。 >>170
>4世紀の国産三角
これがイカサマ論法
三角縁神獣鏡に、3世紀の舶載鏡と4世紀の国産鏡が両方あるのを
「三角縁神獣鏡」とだけ呼ぶことで一緒くたにして議論をそらすのが九州説の常道 奥山氏は、集合論という物事を理解していないので、奥山氏の意見に反対する者を、全て、「九州説」と呼んでしまう、頭が悪いことがバレてしまう悪い癖があるな。。。
182日本@名無史さん2019/10/03(木) 16:31:37.79
>>170
>4世紀の国産三角
これがイカサマ論法
三角縁神獣鏡に、3世紀の舶載鏡と4世紀の国産鏡が両方あるのを
「三角縁神獣鏡」とだけ呼ぶことで一緒くたにして議論をそらすのが九州説の常道 >>163
>ウソついたまま逃げてるな
>「いまの揚州市付近の江都、儀徴一帯には、古く銅鉱があり」と王仲殊氏が書いてる
テンプレには王氏に対する反論が書いてあるのに
その王氏の文章丸写しして
テンプレがウソだと言い張るのは
論理的におかしいな
というか異常 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだな。。。 159,160,171-177,179-181みたいな意味のない連投荒らしを
するくらいしかやることがないほど、九州説には語るべきことが何一つ残っていないw 論破されたテンプレートが、邪馬台国九州学に対しての反論になっていないことが、完全に証明されてしまいましたね。。 奥山氏の脳内に展開する、数学が破綻する時空には、3世紀の桜井市に卑弥呼の城があるのだな。。。
751日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:49:09.62
数学も物理学も
厳密に言えば一定の条件下でしか成り立たない非決定的で暫定的なもの
前提条件が変われば全ては成り立たなくなるものだから
相対性理論も高重力下などの特異点にあっては破綻するとアインシュタインも言う
数学や物理学が決定的で史学は否決定論というのは原理的には間違いで
本質的にはどちらも同じもの
そして考古物と書物に書いてある歴史記述と場合によっては科学によって
より蓋然性の高い結論を導き出すのが史学
そして考古物と史書と科学観測結果は邪馬台国は畿内だったという事に高い関連性が見出される
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1569823448/751 >>182
>3世紀の舶載鏡と4世紀の国産鏡が両方ある
証拠は? 奥山氏の脳内に展開する、数学が破綻する時空には、3世紀の船載三角があるのではないのかな。。。 この時代に九州と縁があった地域はせいぜい山陰ぐらいまでだろうな。
そのころの奈良盆地は霊園だw
<魏志韓伝より>
「國出鐵韓?倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡」
(韓国は鉄が出るので、韓国、?国、倭国がこれを採っている。
諸の市で買い物をするときは中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪と帯方の二郡にも鉄を供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は市で通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を使えるほど潤っていた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
↓鉄の出土状況
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png
■推測されること
・畿内政権は鉄を取りに行っていない
・畿内政権は九州に鉄を分けてもらえなかった
■結論
・3世紀の北部九州と畿内の関係は希薄だった
・一大率は畿内政権とは無関係
・倭国として認識された範囲に畿内は入ってなかった
■裏付け
・纏向遺跡では鉄器は出土せず、釘一本すら見つかっていない
・纏向遺跡では九州産や半島産の土器は出土していない
・もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
(畿内説の有名な迷言) 三角縁神獣鏡について複数の研究者が同じ見解を示すこれ
→「三角縁神獣鏡以外の古墳出土〓製鏡の大部分はB-1、B-2、B-3にまたがって分布し、さらに少数は弥生時代の前漢鏡タイプの鉛を含む。つまり、一定の原料で作られていない」
が暗示している事実↓を直視しよう→「必要に応じて手持ちの銅鐸などを溶かして鏡に変換していた」 >>192
三角縁神獣鏡 は、「魏の水銀朱」が使われた「天河別神社古墳群」出土の「斜縁二神二獣鏡」を倭国(阿波)で?製したものだろう。
三角縁神獣鏡は倭国(阿波)で作られた?製鏡で、全国へ配られている可能性が高い。
根拠:気延山古墳群の宮谷古墳から特異な異種3面もの「三角縁神獣鏡」が出土しているが、その異種3面の「三角縁神獣鏡」と同笵鏡が、
それぞれ大分(赤塚古墳)・岡山(鶴山丸山古墳)・京都(内里古墳・椿井大塚山古墳)・奈良(黒塚古墳)・群馬(前橋天神山古墳)・富山(富雄丸山古墳)で出土している。 @阿波 三角縁神獣鏡の鉛同位体比は、同時期に同じ原料で一斉に作られたものというには程遠い結果を示す。
へたすりゃ本物のの卑弥呼の鏡もリサイクルされてしまったのかもしれない。 謎の311があったでしょ?
なぜか老婆談と同じ、
扇(?)のようなものを持っている人物が現れ・・・。
とあるドラマの話なんだけど、
なぜか日本の〜ではない、KPOP? >>192
三角縁神獣鏡 は、「魏の水銀朱」が使われた「天河別神社古墳群」出土の「斜縁二神二獣鏡」を倭国(阿波)で仿製したものだろう。
三角縁神獣鏡は倭国(阿波)で作られた仿製鏡で、全国へ配られている可能性が高い。
根拠:気延山古墳群の宮谷古墳から特異な異種3面もの「三角縁神獣鏡」が出土しているが、その異種3面の「三角縁神獣鏡」と同笵鏡が、
それぞれ大分(赤塚古墳)・岡山(鶴山丸山古墳)・京都(内里古墳・椿井大塚山古墳)・奈良(黒塚古墳)・群馬(前橋天神山古墳)・富山(富雄丸山古墳)で出土している。 @阿波 東四国(徳島・香川)では、古墳時代前期でも古手の古墳に漢鏡(とくに後漢晩期のもの)が副葬される例が多い。
通常は単数副葬例が多いが、東四国(徳島・香川)では、2面副葬される例が複数ある。
例:天河別神社5号墳(上方作系浮彫式獣帯鏡・斜縁神獣鏡) @阿波 阿波は、銅鐸→銅鏡に変換していた、当時最大のリサイクル工場だったのだな。。。 老婆談というのは関東大震災、
どこか(東京)に出かけたときに〜。
老婆は舅、姑?から聞いた話だと言っていた、
おそらく姑だろう。 >>199
朝鮮半島出土の同向式神獣鏡(伝楽浪大同江面)と萩原1号墳の画文帯神獣鏡が同笵鏡だってこと、知ってるかい? わははははは @阿波 倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。 @阿波 その作品を調べてみた?
>バー「海賊船」を訪れた
『バー』
このような作品があったでしょ?
手に扇のようなものを持っている人物が・・・。 頭の悪い奥山が、松傾に逃げる行為は、頭の悪い奥山にとっての、敗北宣言のようなものなのだな。。。 >>199
朝鮮半島出土の同向式神獣鏡(伝楽浪大同江面)と萩原1号墳の画文帯神獣鏡が同笵鏡だってこと、知ってるかい? わははははは @阿波 >>205
確か三角からも半島産の鉛が検出されていたぞ。
阿波工場は半島にある本家リサイクル工場の下請けでもやっていたのだろう。 漫画やアニメ、ゲームなど・・・、
仮名なんだろうという話 頭の悪い奥山が、松傾に逃げる行為は、頭の悪い奥山にとっての、 「倭国(阿波)に対する」 敗北宣言のようなものなのだな。。。 @阿波 川俣町というところの話もしているし、
同じ名前の人が住んでいるでしょ?
老婆談の世代の・・・・・息子、孫? >>207
洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作だってこと、知ってるかい?
また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と同じく徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作だってこと、知ってるかい? @阿波 >>191
>■推測されること
>・畿内政権は鉄を取りに行っていない
>・畿内政権は九州に鉄を分けてもらえなかった
ただの推測であり、間違い
3世紀時点で国内最大級の鉄加工遺跡は、淡路島の五斗長垣内や
彦根の稲部遺跡など畿内周辺に展開している
山陰までしか鉄が届いていないというのは、新しい発掘成果から
目を背けた時代遅れの妄想に過ぎない
古墳時代に入ると、弥生時代全期間の北部九州よりも多くの鉄器が
畿内の古墳から出土するようになるが、その時期でも古墳以外からの出土は
ほとんどない
古墳の高く盛り上げた墳頂近くの埋葬主体以外では鉄が残りにくい理由を
考えていくのが、学問としての常道 当時、住んでいた家に飾ってあった刀(剣?)の話とか、
ほとんど同じ >>212
>古墳時代に入ると、弥生時代全期間の北部九州よりも多くの鉄器が畿内の古墳から出土するようになるが
「忌部はん」 のお陰。 わははははは @阿波 山の上のほうに住んでいて、馬に乗り・・・という話も同じだし、
何なんだろう >>204
>松傾
書き込みの並びを見ると「単発のつぶやき荒らし」は連続句読点の仕業と見てよいw
例えば前スレのこれとか
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1569823448/186-190
つぶやきは基本的に連投なのに、連続句読点の連投の中に単発の「つぶやき」が入っていたりする
186日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:10:47.46>>188
コウヤマキの木棺が樹齢500-600年の巨樹古木で作られたのだということは、材木の半径は、相当長いのだな、、、
187日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:14:04.61
>>182
中をくりぬくにしても、両端のいくらかは中心部まで残る。
そこまででなくても、厚み部位が12p違えば百年の時間差になる、で、ホケノの測定部位は??
188日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:14:16.70
>>186
つまり、材木としては大きすぎるので、測定された棺の年輪は、外側の物ではない可能性が高いのだな、、、
189日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:15:32.13>>202>>222
なぜ、奥山氏は、証拠が全く見つからない邪馬台国畿内説を宣伝しているのだろうか。。。
190日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:19:23.92
『姥清水』
ほんとーに・・・画像をググってみて、
紫の〜みたいな画像も出てきたり
なぜか?あの山の上のほうの話 >古墳から出土する
古墳の副葬品で鉄の普及度が示せるなどという非論理思考を展開するのは奥山ぐらいなものだな。
そもそも纏向では生活空間を示す事が出来ないから根本的に無理だがw 川崎区にも同じような名前の親戚が住んでいるんだけどw
その人の話なのかな >>154
九州説だけど、畿内の開拓の拠点は摂津河内で間違いない。
纒向を持ち出す畿内説こそ事実誤認の妄想。 >>161
>それ、左側スロープ君の「この尾根が径百歩の塚」と同じレベルの根拠ってことだよw
そいつ、畿内説だよね。 本当の名前
王母〜龍宮〜・・・寒いな〜?
このような名前でしょ >>216
その文章からすると、連続句読点ぽくないぞ?
ちなみに「。。。」で終わるタイプは俺の他にも居るしw
本物は「、、、」だけじゃないのか?w 『うらしま太郎』(仮)でしょ
>バー、海賊船を訪れた?
ほんとーに、このような話がわからない、 本当のことを教えてやろうか ?七世紀まで日本とは九州王朝のことで、古事記も日本書紀も神武天皇も
九州王朝の話だ。それを乗っ取り歴史ごと九州王朝に成り済ましてるのが...おや誰か来たかな? >>167
三角形の内側の角を全部足せば180度だろ?
しかし外側に膨らんだ三角形の内角は全部足せば180度より大きくなる >>232
相変わらずレスが幼稚だなw
文系未満w 出かけたときに地震(関東)、
下駄を履いていたから、転びそうになったと言っているだけなんだけど、
本当に自作自演なのかな? >>233
そして、話してる相手も識別できない九州説モーロックは猿未満 当時(?)、あの辺りの、山の上のほうに住んでいたと言っているし >>825
>鉄があるから王権が成立すると言ってるのではないよ。
博多から大和まで一元的な政権が成立していたのなら、その政権の所在地である大和に博多から鉄が運ばれ、<
ダメだ。「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や「南≠東」などに拠って、
「その政権の所在地」は、筑紫であって、大和ではない。
>そこで鉄器が加工成形されていて当然だといっているのだね。
大和で鉄器が3世紀中頃以前に出ないのは、その時期には博多から鉄が運ばれて大和で加工成形されるということがなかったからだろうというわけ。
鉄が加工成形されて鉄器が大和で造られていたのなら、大和で鉄器は出土しているはずよ。
王権所在地で鉄器が出ないというのは不自然だからね。
しかしながら鉄器は出ていないのは事実だから、そのような博多から大和まで一元的に管理を行うような政権は大和にはなかったと考えるのがごく自然だね。<
大和の鉄鏃などは、東征毛人五十五國の将軍らが九州から持ち込んだものだ。 >>217
>古墳の副葬品で鉄の普及度が示せるなどと
普及度などとは言ってないだろ?
副葬品にする=利用できる鉄の供給量の純減、だぞ
それがほんの古墳3つ分で、北部九州の弥生全期間の鉄器より多い
それだけ鉄を贅沢に死蔵するだけの余裕がありまくりなんだよ
ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本 素環頭大刀 1口 鉄製刀剣類 10口
椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品が出ている
黒塚古墳 畿内 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品
纏向遺跡の範囲内でも出てる
「ほとんどは纒向遺跡の最盛期である3世紀代のものです。それらの遺物の中には、近辺で鉄器生産がおこなわれていたことを
示す鞴(炉に空気を送り込む道具)の羽口や鉄滓、鉄片など特筆すべきものがありました。」
「調査地は纒向石塚古墳の北東200m、居館域の発掘調査地点からは北西に約400mの地点」 >>239
ホケノ山古墳も椿井大塚山古墳も黒塚古墳も全部、阿波人のお墓。
古墳の構造(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を見れば、一目で「忌部はん」 のお墓と判るのに、いつまでもwww @阿波 >>219
>九州説だけど、畿内の開拓の拠点は摂津河内で間違いない。
それ、弥生時代の一番最初のごろの話
縄文時代晩期後半の突帯文土器様式の物が、奈良盆地で出ている
纏向遺跡が作られるまで500年以上かけて、奈良盆地は開拓されている
纏向に新しい王都が作られる前の段階で、河内側は亀井遺跡周辺、
大和側は唐子鍵遺跡周辺の、二つの中心を持つ秩序が作られている
九州説は、常に時系列がおかしいんだよ >>241
畿内説の時系列が狂ってるんだからそう見えるんだろうよw >>220
>そいつ、畿内説だよね。
いや?
左側スロープ君は、葛城説であって、畿内説ではないww
ザラゴキ説まで九州説に入れなきゃいけない、
有象無象ごった煮の九州説とは違うんだよw 何かの家の?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、
直系なんだろうみたいな説(伝説)もあったり >>223
「前スレの>187」以外は全部連続句読点だよ
連続句読点が荒らし目的で立てた荒らしスレを見れば、連続句読点がどんな書き方を
するかすぐに分かる
文末だけではなく、文章が読点で細切れになっているのも連続句読点の特徴
たぶん、学校教育で習った言語が発音記号みたいな表記で単語ごとに分かち書きに
なってたから、日本語を書く時でもその癖が出てるんだろうと思ってる
あと、無意味に同じことを繰り返しコピペしてるのも連続句読点だよw
その一手法として、つぶやきのコメもコピペに使っているようだ >>243
残念だか葛城説が畿内説であり、お前の言う畿内説は纏向説というファンタジー作品なんだよ。 >>242みたいなのが難しい
まあ、「邪馬台国の会の中の人」だと思うけれど いや、。で終わってる奴は別人だぞ。
ちなみに俺が真似した書き込みはその中には無い。 >>826
>>(祇園山)石棺は一部だけだよ。<
>石棺ではないところからも人骨が見つかってるのか。<
残存した第一号甕棺だけから、
成人女性の骨盤付近の人骨や鏡片・勾玉・管玉・刀子が見つかった。
>ならば石棺は奴婢ではないでいいな。<
殉死してくれた奴婢も、丁寧に扱われ、殉葬された。 でも、その後、アキバ(不明)に乗っ取られたとも言える、
調べてみるとわかる >>834
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の方こそ、
頭の正常な人間が一人も居なくなったように見えるよ >>238
前のページの954もそうだが、鉄器は王権を支える貴重財の一つで、これを掌握することは重要なことだった。
だから、5世紀になると纏向の北の天理あたりに鉄器工房ができる。
これは物部氏が運営したものだとみられている。応神王権がそれを命じたわけだな。
ただ、3世紀後半には大和にはこうした工房はまだ設けられていないが、古墳には鉄器がどっさり副葬されるようになる。
つまり、3世紀後半の大和はその手立てを確立したということになる。
しかしながら、3世紀前半には、こうした鉄器の副葬は全然みられないし、一般住居跡からも鉄器は出土しない。
ということは、3世紀前半には鉄器は大和に運び込まれてなかったということになる。
政権は2世紀末から大和に成立していたが、まだ鉄器を入手できていなかったということなのよ。
鉄器なしの地方政権だったということだな。
したがって、鉄器が副葬され始める3世紀中頃の大和に何が起こったのか明らかだね。
鉄器を大和に運び込む手立てができたということ。
つまり、大和が鉄器の輸入元である博多を掌握したということになる。 >>840
一度でいいから見てみたい
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が
まともにしゃべるとこ >>253
だからそれはお前の100%想像だからw
断言してたらバカにされるか、最悪は詐欺罪に問われるぞw >>848
そもそも九州説は、史料事実や史料実態のままだから、宣伝も何もしてないよ
「南→東」などの嘘付き騙しで気の触れた大和説者が、狂って、
有ること無いこと言いまくるから、それを訂正してるだけ 古墳から出土ってさ、わざわざ寄せ集めた副葬品なんだからまとまった量が出るのは当然だろ。
生活跡のある任意の場所から出土して初めて鉄器文化が到達していたと言えるんだよ。
農具や工具とか、吉野ケ里で出た金具とか。 >>854
テンプレもやっつけられた大和説
「南≠東」などで倒されたスレに 夜も眠れず >>258
>生活跡のある任意の場所から出土して初めて鉄器文化が到達していたと言えるんだよ。
その通り。
古墳の副葬品ではなく、「集落遺跡」から出土した鉄鏃
・矢野遺跡(弥生時代) 徳島県最大級の弥生時代の集落
・樋口遺跡 弥生時代後期〜近世にかけての複合集落遺跡 @阿波 >>871
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
ホンモノのパー >吉野ケ里で出た金具
あれは地味だが凄いな。知った当時は本当に驚いた。 >>258
>生活跡のある任意の場所から出土して初めて鉄器文化が到達していたと言えるんだよ。
その通り。
古墳の副葬品ではなく、「集落遺跡」から出土した「鉄鏃」
・矢野遺跡(弥生時代) 徳島県最大級の弥生時代の集落
・樋口遺跡 弥生時代後期〜近世にかけての複合集落遺跡 @阿波 >>256
九州説を喧伝する気がないなら畿内説スレに書き込まない事も出来るだろ?
そう出来ないのは自らの不利を察しているからだ で、纏向で何が出土したの?
桃の種?
蛙の骨?
箸墓の馬具?
あと何? >>241
>纏向に新しい王都が作られる前の段階で、河内側は亀井遺跡周辺、
>大和側は唐子鍵遺跡周辺の、二つの中心を持つ秩序が作られている
中心が二つあるなら、大和と河内は別の勢力だろ。 うらしまマリン(仮)というキャラ
テレビ観ないじゃーんと書いてあるでしょ、
観たいものがないだった?
『氷の世界』 畿内説の書いてる事にオウム返しをすれば論破した事になる
オウム返しが九州説を真理とするという九州説の信仰形態
その名もオウム真理教 >>212
よそじゃ、住居跡からも鉄器が出土しているがなあ。
これどう解釈すんのよ。 >>268
本当は天理教のようになりたかった畿内教信者の妬みですかw >>191のこの図のグラフは棒2本がセットになっていて左が「集落鉄製農耕具」右が「副葬鉄製武器」と書いてあるね。
時期は弥生中葉〜終末期まで。
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png
学会はホケノを4世紀の古墳時代と見なしているので、この図には含まれていないんだよ。 じゃ九州説は天理教のようだとでも言うの
畿内説は宗教ではなくて学説だから
そして九州説は宗教の一種 >>248
>ちなみに俺が真似した書き込みはその中には無い。
ここからしておかしいよな
他人の書き込みを「真似して書き込もう」なんて思わないのが普通の日本人ww
やはり九州説は根本から心根が腐ってるんだな
まあ、揶揄するためにパロって書くことはあるけれど、
その場合は揶揄であることが分かるようにあからさまに書くし >>272
>畿内説は宗教ではなくて学説だから
畿内説が学説? 学説ってお粗末なもんなんだね。 わははははは @阿波 >>272
>畿内説は宗教ではなくて学説だから
それじゃあ、阿波説も学説になれるかもだね。 わははははは @阿波 >>253
>ただ、3世紀後半には大和にはこうした工房はまだ設けられていないが、古墳には鉄器がどっさり副葬されるようになる。
>つまり、3世紀後半の大和はその手立てを確立したということになる。
>しかしながら、3世紀前半には、こうした鉄器の副葬は全然みられないし、一般住居跡からも鉄器は出土しない。
>ということは、3世紀前半には鉄器は大和に運び込まれてなかったということになる。
ここの論理がおかしいんだよ
古墳で大量に鉄器が出る頃になっても、一般住居跡からは鉄器が出ないんだよ
そして、古墳時代草創期で埋葬主体が発掘された墳墓はない
古墳時代草創期(纏向石塚古墳など)の埋葬主体が削平されておらず
発掘できていれば大量に鉄器が出ただろうし、
住居跡で鉄器が出ないのは、古墳時代もそれ以前も変化はない
つまり、大和では住居跡の鉄器は発掘されないんだよ >>272
何でも曲解釈するのかな?
天理教がうらやましいにだー!って叫べよw
畿内説妄想症候群の学者どもに踊らされ、市税を食い物にされ、捨てられてゆく桜井市.....
https://i.imgur.com/pGRxBEf.png
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。 >>258
>まとまった量が出るのは当然だろ。
「まとまった量」どころじゃないぞww
古墳三つで、北部九州の600年分(弥生時代全期間)よりもたくさん出る
しかもこの3つの古墳は、数十年程度の間に相次いで造営されている
九州にこの時期に王権があったと考えるのは不可能だな
ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本 素環頭大刀 1口 鉄製刀剣類 10口
椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品が出ている
黒塚古墳 畿内 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品
纏向遺跡の範囲内でも出てる
「ほとんどは纒向遺跡の最盛期である3世紀代のものです。それらの遺物の中には、近辺で鉄器生産がおこなわれていたことを
示す鞴(炉に空気を送り込む道具)の羽口や鉄滓、鉄片など特筆すべきものがありました。」
「調査地は纒向石塚古墳の北東200m、居館域の発掘調査地点からは北西に約400mの地点」 真似をしている〜?と言っている人がいるけど、
老婆談というのはテレビ、ネットなども無かった頃の話
家は・・・本物だと言っているんだけど、
寒いな〜?の家 2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
<木製倭鐙の出土状況>
濠の底に埋められていました。
つまり箸墓古墳完成時期の物だということですね。
<箸墓古墳の年代>
間違いなく三世紀ですニダ!
<参考1>
半島で見つかった最古の鐙が5世紀のもの。
国内各地で出土した鐙も5世紀のもの。
<参考2>
鐙のルーツは西晋時代の中国もしくは満州に在り、確認できる最古の物は
各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、
実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。
そのため鐙が発明されたのは西暦290〜300年頃とされる。
5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。
↑
世間知らずの畿内説は矛盾してますねw >>276
>住居跡で鉄器が出ないのは、古墳時代もそれ以前も変化はない
つまり、大和は碌な住居跡のない阿波人の墓地だったんだよ。 @阿波 >>266
>中心が二つあるなら、大和と河内は別の勢力だろ。
どうしてそうなる?
東京と名古屋と大阪と栄えていても、日本はひとつの国だろ?
河内の亀井遺跡と、大和の唐子鍵〜纏向遺跡は、連動して土器形式が変遷していく
これが別勢力だと考える理由の方がない とあるスレ
川崎に住んでいる〜何やら〜とか、
言っている人がいたり >>280
><木製倭鐙の出土状況>
>濠の底に埋められていました。
>つまり箸墓古墳完成時期の物だということですね。
相変わらず捏造三昧だなw 傾いた松の木?
松の木が立てられている写真
川崎区の南部のほう 暴力団、関係者ではないんだけど、
白い服の写真もあったでしょ?着ていたわけではなのかな? >>278
未だに理解できないのかよ?w
残る可能性の高い墓の中に、意図的にかき集めて埋葬してたんだぞ?
他の遺跡で発見されるものは、その辺に落としたり、置き忘れたようなものであって、それこそ発掘確率はかなり低いわけだ。
それでも相当数が出土している。
つまり発掘調査した場所の総数に対し、何箇所から鉄が出土したかというのが、指標と言えるわけよ。
奈良盆地の発掘調査場所数は全国トップだろ?
だから学者は畿内では鉄が出ないと認めてるわけよ。
頭の悪い奥山くんには難しい話なのかな?w >>277
天理教がうらやましいって感覚がさっぱりわかんねー
九州説は天理教がうらやましいの 九州説は天理教がうらやましいなら九州教とでも名乗ったら >>281
阿波も纒向の霊園管理サービス業者を利用してたのかw 頭の悪い奥山氏の意見を読んで、笑いリラックスし、労働での疲労を癒やせば良いな。。。 >>288
天理市は天理教のおかげで相当金持ちだぞ?w
佐賀の吉野ケ里もガッツリ儲けてるよな?w
何十年も掘って意味不明な物しか出て来ない桜井市の纏向・・・w バンビシャスは、今週末、信州を迎え闘うのだったね。 バンビシャスは、天理でも闘っていたのではないのかな、、、 「農具が鉄器化される北部九州の弥生後期後半から終末期、すなわち畿内V様式から庄内式の段階に は、瀬戸内・畿内はもちろんのこととして関東でもかなり鉄器が普及している。
畿内ではIII様式の鉄器はきわめて少なく、IV様式で若干増え始め、V様式から庄内式の段階では北部 九州の中期後半頃と同じような普及の状況を示している。 」
「古墳時代にはいると前期古墳には鉄製武器・農工具を多量に副葬するのは一般的であって、鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中したことも示している。」
橋口達也 >>298
桜井市は、教育費の比率は高いが、アリーナがないのではないのかな、、、 >>287
ここの畿内説は反日韓国人と一緒。
論理性なんて全く考えられない脳なんだから。 真実や真理はいつも悪しきもの愚かなものから迫害を受けるものよ 桜井市の教育費は、どのような物事に消えてしまっているのだろうか。。 >>303
学者のキャバクラ費用。
「動物園」という店w 最近の九州説の厚かましさは目に余るな
九州説が倫理的思考のできない儒教脳鮮人だろ >>271
>学会はホケノを4世紀の古墳時代と見なしているので、この図には含まれていないんだよ。
誤「学会は」
↓
正「邪馬台国の会は」 >>287
>残る可能性の高い墓の中に、意図的にかき集めて埋葬してたんだぞ?
前にも書いたけれど、墓に副葬するということは死蔵することを意味する
つまりその分の鉄は使えなくなるんだよ
かき集めなきゃいけないような状況になるほど、鉄が貴重だったら大量副葬なんてできない
こういう単純な論理すら理解できずに、暴論を振り回すから九州説は学説にならないんだよ アキバでしょ
神仙、神話、邪馬台〜そういう作品(テーマ)もあるでしょ、
仏教関係〜その他も >>300
>論理性なんて全く考えられない脳なんだから。
それを具体的に示せや!
「副葬したらその分の鉄は使えなくなる」とか、
誰にでも理解できるレベルで具体的になww 鉄器は普及する時代のほうが集落からは出土しなくなる >>255
テンプレ主の2世紀末〜3世紀前半に博多から大和までの一元的王権が大和に成立していた説よりはリアリティがあるだろ。 >>11
>敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう
逆だろうな。
7世紀の朝廷は魏志の卑弥呼という存在を充分意識して、
あえて箸墓=女性墓という話を「取って付けた様に」記載した。
また神功皇后紀に魏志の卑弥呼の記事をわざと挿入、
そして弟がいて独身で別命オオヒルメというアマテラスも創作。
モモソヒメ、神功皇后、アマテラス、これらを卑弥呼と匂わすことで、
真の卑弥呼からわざとずらすというテクニックを駆使してるわけさ。
それほど真の卑弥呼を悟られたくなかったのだ、悟られれば卑弥呼より100年前の倭国王帥升が誰なのか分かってしまうからだ。 九州説はさっぱり意味の通じない妄言たれ流し放題しといて
相手を倫理的思考のできない朝鮮人と罵る
はたから見てる人にはこれは奇妙な動物にしか見えないな >>311
古墳に全て詰め込んでしまったので集落からは鉄が出土しないのだー!
と叫べば?www
また新たなトレビアを生み出す畿内説www >>272
>畿内説は宗教ではなくて学説だから
それじゃあ、阿波説も学説になれるかもだね。 わははははは @阿波 >>310
どこが苦しいのか、具体的に示せやww
呼子上陸バカも、具体的に無理だって示されたから最近は
「伊都カントリークラブが伊都国の入り口」とかは言えなくなっただろ?w
https://i.imgur.com/ihiyGSO.jpg
https://i.imgur.com/h2ujlEL.jpg >>315
どうしたんだ奥山くんw
僕たちは奥山くんが興奮するとぎこちナイ自演になるのをよく知っているぞw >>280
><木製倭鐙の出土状況>
>濠の底に埋められていました。
>つまり箸墓古墳完成時期の物だということですね。
九州説はニセ情報を流すので
全く信用できない
ほんとうの情報
「輪鐙が出土したのは幅約10mの箸墓古墳周濠の上層に堆積した、厚さ約20〜25pの植物層の中層からで、古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます。」
http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html 帥升:Shuai sheng =スサノオ
これを避けるために、
モモソヒメ、神功皇后、アマテラス、これらを卑弥呼と匂わしたわけだ。
帥升:Shuai sheng =スサノオと仮定して逆算してみ、
卑弥呼なんて一発で分かるから。
卑弥呼:Bei mei hu=比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉
つまりヒメ后(ヒメ蹈鞴五十鈴姫)だ。
邪馬台国の都は葛城なのだ。 桜井市は、邪馬台国畿内説を完全に放棄し、人員を整理し、奈良県立アリーナを誘致すれば、商業が発展するのではないのかな、、、 アレだな
九州説はとっくに負けてるのにイヤだ負けてないと延々ダダ捏ねてるだけだな >>322
>帥升:Shuai sheng =スサノオと仮定して逆算してみ、
・・・
>邪馬台国の都は葛城なのだ。
つまり、そう仮定しただけ こういう曲も同じ、なぜか繋がっているし
『小椋佳 君はそれ以上』
>僕の歴史と思い出 >>324
ダダ捏ねるだけじゃなくて捏造ウソ情報をたれ流すところがミソ >>326
>そう仮定しただけ
スサノオの5世代100年後にヒメ后がおり、トヨ津姫もいる。
簡単な話なのだ。
「神武の時代が実は女王国だった」
発想を地動説に変えた者のみ、真実を悟るのだ。 >>297
近畿地方では、近江、木津川、大和に鉄器が現れるのは3世紀中頃から。
河内や摂津、播磨などではすでに弥生の後期には鉄器がみられる。
つまり、鉄器禁輸ラインは近江・大和ラインであって、そこから東も鉄過疎地帯で、東北も同様に鉄器過疎地帯だった。
しかし、唯一、弥生後期後半になってピンポイント的に関東へ鉄刀・鉄釧が流入する。
これに泡食った尾張、大和、近江の三角同盟が発起人になって鉄器独占入手のための組織が作られた。
それが纏向の祭祀施設を造った連合政権。
したがって、纏向連合政権は博多から強制的に独占入手した鉄器を加盟各国へ配布分配する組織だったの。
これがやがて加盟各国のその本国を振り切って独立し、ヤマト王権へと発展して行くのよ。
だから、ヤマト王権の元々の姿は農協組織みたいなもので、いわば全農がヤマト政権だったわけだ。
まあ、そういうことだね。 誰の話なのか知らないんだけど、
なぜ結婚しないのですか?みたいな事を言ってる人がいたり、そういう書き込み
誰々さんに、子供はいるのですか?とか、
氷の世界 断絶〜? 桜井市は、邪馬台国畿内説を完全に放棄し、人員を整理し、奈良県立アリーナを誘致すれば、商業が発展するのではないのかな、、、 畿内説はさながら桜井教だなあ。
天理と仲良くやってくれ。 桜井市は、教育費の比率は高いが、アリーナがないのではないのかな、、、 『姥清水』
山の上のほうの話でしょ、なぜか同じような? 桜井市の教育費は、どのような物事に消えてしまっているのだろうか。 >>276
>古墳で大量に鉄器が出る頃になっても、一般住居跡からは鉄器が出ないんだよ
それ、畿内限定だろ
古墳時代になっても畿内は貧しいまま
もしくは、九州からやってきた支配者だけが鉄を占有していた >>308
>かき集めなきゃいけないような状況になるほど、鉄が貴重だったら大量副葬なんてできない
ではなぜ古墳の外から鉄が見つからないのか 奥山氏が、非ユークリッド幾何学の入門コースに、入門した可能性が、高いな。。 >>329
>スサノオの5世代100年後にヒメ后がおり、トヨ津姫もいる。
答えがそうなるように設定を作っただけ >>340
>ではなぜ古墳の外から鉄が見つからないのか
きちんと管理してるから >>330
>河内や摂津、播磨などではすでに弥生の後期には鉄器がみられる。
>つまり、鉄器禁輸ラインは近江・大和ラインであって、そこから東も鉄過疎地帯で、東北も同様に鉄器過疎地帯だった。
もっと簡単に、九州から入植したのが河内や摂津であり、大和はそもそも貧弱な荒野だから魅力がなかったのだろう。
開拓の主役が、三島の神や住吉の神などを祭る志賀島や博多の海人族だったことも関係するだろう。 >>343
それ、想像でしょ?
管理していたという証拠は? >>280みたいな嘘をついて
もう死んでる九州説を
生きてるみたいに擬装しても
死体に頬紅をさしただけ
腐臭が漂ってる
それが九州説の卑しさだ >>345
>管理していたという証拠は?
鉄生産をしていた証拠があって
古墳主体部からしか鉄製品が出ないのが
管理されてた証拠 寒いな〜の家があるでしょ?
ほんとーの直系の家は・・・断絶とか? >>877
>Aは、唐代の顔師古に拠る「魏略の内容説明的引用紹介」の部分であったのか<
>ウソ ガンシコがシコシコ説明したのはあくまでも漢書の楽浪海中有倭人であって
魏略の説明をしたわけじゃない <
そりゃ、当然そうだろうよ。
>だから倭人のことを説明するために魏略から抜粋したんであって
魏略にあの文章があの順番で書いてあったんじゃない<
そうか。
類スレ主は、自分が、魏略の文だとして、
「倭在帯方東南大海中 依山島爲國 (A)度海千里復有國 皆倭種」
という嘘吐き騙しの語順の文の紹介をした事を白状してしまった、という事か。
それで、「度海千里復有國 皆倭種」は、本来は、魏略の文の中の、
どこに書かれていた、という事になるんだい?。 『サイバーパンクSPECIAL』
なぜか川崎区の南部のほうの話だしな・・・、
ロトちゃんというキャラが出てくる作品w >>345
>それ、想像でしょ?
一流の学者が言ってることだ
「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中したことも示している。」 >>351
>九州にいた倭王の奥津城だったから
と、決め付ける理由は? >>349
>そうか。
>類スレ主は、自分が、魏略の文だとして、
>「倭在帯方東南大海中 依山島爲國 (A)度海千里復有國 皆倭種」
>という嘘吐き騙しの語順の文の紹介をした事を白状してしまった、という事か。
嘘吐き騙しの語順の文の紹介をしたのは九州説儲
畿内説側はその文の順当な読みを提示しただけ >>879
>なんで66名以上の殉葬と決めつけてるんだよw<
墳裾の主体群には、いくつかの「複数埋葬」が確認出来る墓もある事と、
墳裾には、未発掘区域が3分の1位あるらしい、から。
>竪穴式石室まで奴婢にするなw<
遺族は、殉死してくれた奴婢を、粗末に扱う筈がないし、
筑紫では、大和に先駆けて 「竪穴式石室」墓は既に始まっていたから。
>じゃこの王の親族はどうした、墓はないのか。<
100m位離れた場所に「祇園山古墳群」と呼ばれる共同墓地がある。
>この王の親族より奴婢の方が地位が上だったとか?<
遺族としては、卑弥呼が死後の世界でも奴婢に仕えて貰った方がよい、
と思ったんだろう。 >>355
>墳裾には、未発掘区域が3分の1位あるらしい、から。
そんな怪情報、どっから出てきた? >>355
>筑紫では、大和に先駆けて 「竪穴式石室」墓は既に始まっていたから。
それ、どこの誰が言い出したの?
根拠は? 桜井市は、破綻した邪馬台国畿内説を完全に放棄し、人員を整理し、奈良県立アリーナを誘致すれば、商業が発展するのではないのかな、、、 >>355
>遺族は、殉死してくれた奴婢を、粗末に扱う筈がないし、
殉死ではなく殉葬。
王の死に際して自らの意思で死を選んだのではなく、何らかの理由で奴婢が大量に殺されたの。
だから殉葬された奴婢は粗末にあつかうものなの。
そこ大違いだから。
>筑紫では、大和に先駆けて 「竪穴式石室」墓は既に始まっていたから。
竪穴式石室のルーツは吉備だ。(岩永省三) ホンモノは知っているんだよ
『アキバ 邪馬台』でしょ、ビルを建てたり、電気〜電波とか >>920
>>倭の最南端は「奴国(倭奴国)」だ。
(建武中元二年、倭の奴国が朝賀を奉貢す。使者は大夫を自称す。倭国の極南界なり。)<
>このような訳は、日本語の習慣による和製解釈で、誤りと云わざるを得ない。
それはここの「之」の意味を理解していないからだ。
つまり中国語では、「之」のうしろにくる極は他動詞用法であることを示すので、
「極める(倭国の南界までを極める)」と読むことになる。
有名な「宣帝之・・・」の文例も同様。<
成程。 >>361
そうだよ
ほんとうの九州説は20世紀で消えて
いまいる連中はニセモノなんだよ
海賊版みたいなもんだ >>342
>答えがそうなるように設定を作っただけ
国宝中平銘鉄刀のの和邇氏系図でもヒメ后とトヨは明らかだが。 >>929
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレ、脳が停止して、
「オウム返され」ばっかりしてる大和説って
死に体だね >>367
オウム返しするのは脳が停止した人
一種の自傷行為だ
された人には被害はない 寒いな〜は・・・上の人間だと言っているのに、かみたま? >>941
>半島から九州に渡った後、列島が沖縄あたりまで連なっていると陳寿は認識していたけれど、
それは単なる情報不足による方角の錯誤なんだよ<
陳寿は、女王國の位置推定を、
「計其道里、當在會稽東治之東」とはっきり書いているから、
九州島付近だと推定している事になり、
「列島が沖縄あたりまで連なっている」という事にはなっておらず、
間違っていないから、この男は、×。 >>371
>陳寿は、女王國の位置推定を、
>「計其道里、當在會稽東治之東」とはっきり書いているから、
>九州島付近だと推定している事になり、
「會稽東治之東」は鹿児島よりはるか南だから
九州島即死してます
w >>945
>「3世紀」の九州ではそんなに鉄器は出てないよ
九州説の主張するたくさんの遺物は「3世紀」「伊都国・奴国以外」という当たり前の
条件をつけると何も残らない<
そうか。
この男も、3世紀の伊都国や弥生銀座付近は、鉄器が多かった事を認めていたのか。 >>946
「南≠東」などに拠って、
大和説はとっくにもう死んでるんだよ みなみだ南だミナミなんだぁー
しか無い九州説って
死んでるよね >>948
>>(大和)古墳の外には鉄器なし<
>古墳の中にはあるんだから、古墳の外で「見つからない理由」を考えなきゃいけないんだよ
まあ、鉄は朽ちやすいから、で十分なんだな<
古墳の中だけにあるのは、九州倭國の東征将軍らにとっては、
鉄鏃などの鉄器で東征征服が出来たんだから、鉄鏃がお宝になったし、
毛人たちには渡してはいけないものだったから、副葬された。 >>951
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の拠り所は、
けっして証拠の出せない嘘と妄想だけですか?。 >>952
>祇園山古墳は発掘調査時には、ほぼもぬけの殻の石室が墳頂にあるだけだぞ <
盗掘を受けたの。
>約60とか言っているのは、その周囲の弥生時代の集団墓地<
100m位離れた場所に「祇園山古墳群」という共同墓地があるし、
祇園山の墳裾の主体群は、
1号甕棺などのような直前〜同時期埋葬がはっきりしている墓もあるから、
後代に渡る集団墓地ではない。
>殉葬ではないと結論されている<
通説大和説学者らに拠る発掘報告書などは、
発掘事実の報告はある程度信用出来ても、
その発掘事実の年代比定や解釈になると、全く信用出来ない。 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだな。。 800円で1年間に200回、外食していた者には、外食では、消費増税によって、年間、800×200×(0.1-0.08)=3200円程の増税になるのだろうか、、、 バンビシャスは、今週末、信州を迎え闘うのだったね。 >>970
>考古学的に見て、
北部九州は初期に渡来した大陸系民族による武闘派政権だった。
ここに中期渡来人により祭祀文化が流入し、女王国制度が誕生した。
これと並行して若狭湾に渡来した半島人によって出来た祭祀中心型の政権がヤマト政権だ。
すなわち北部九州の弥生時代と、より東側の古墳時代とが並行して存在していたということだ。<
倭国の中心は、唐会要の倭国伝の「正北抵新羅」に拠って北部九州にあり、
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
更に九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国だ、という事だ。 邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、松のことや、キュウリのことを、呟き出すのだったな。 >>977
>古代行政区分の五畿七道の五畿を
卑弥呼の時代に文化的繋がりがあるとして便宜的に邪馬台国=畿内としているだけなので<
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
はるか後代の大和政権が九州倭国を併合吸収継承して天皇を称した、
という事を示す「畿内」なんて文言を使ったら、
そりゃ…・インチキ詐欺師そのもの。 >>977
>畿内説は魏志倭人伝の南を東とはしていなく
魏志倭人伝には邪馬台国の位置を会稽東治の東つまり沖縄か台湾に相当する位置と書いてある<
書いていない。
勿論、畿内も邪馬台国も存在もしなかったし、これも類スレ主の…・インチキ詐欺。
>ゆえに魏志倭人伝の邪馬台国までの距離や方位は正確なものではなく<
ほぼ正確なものだ。これも類スレ主の・・・・詐欺。
>一方考古学的証拠から見れば邪馬台国は畿内が妥当と見る何度も説明している <
「南≠東」である限り、×だ。 悪く言うと、ストーカーがいるのかな?
まさか、親戚に、そういう人がいるとか 宇宙王子(皇子)という作品があるでしょ、
たしか従兄が読んでいたような? ほんとーに、家の誰の話なんだろう
大島の劇場(川崎区)の裏のほうにある、
寺院にも通ったりしていたとか
母親が言うには、そうなんだけど 詳しいことは、わからないんだけど、
軍人ではないみたいなことも言っていたしなw
宇宙や天帝を警備? >>356
これは知っている。
2/3掘って66の墓があったから、全体では100の墓があったと考えられている。
全部掘っていないのは、道路工事の関係。 河童、河伯〜、何なのかわからないけど、霊山の大将?
むかーし住んでいたというところも同じだしな ゴーストライターのようなものなのかな
「☆勝」スター?
勝?父親の名前でしょ 父親は弟(次男)だしな・・・、芸能人(不明)ではないというだけ?
老婆が結婚するときも、
何かの家の人だと言われたとか
☆の家? もれ(仮)も弟、次男だしな・・・、
・・・・・・・・・・・・・・・。 もれ(仮)も弟、次男だしな・・・、
・・・・・・・・・・・・・・・。 『小椋佳 君はそれ以上』☆勝?
『河童 仏教』寒いな〜の家? >>354
横からだが、
「度海千里復有国 皆倭種」の文章が魏略のどこにあったのかについて、答えがないな。 本当に頭の悪い人がいるんだろう、
当時の朝鮮半島などがあるでしょ、倭国の下(支配下)という話ではないんだけど。 (百済の人?)寒いな〜・・・の人がいるでしょ、
下の人間だとか、捏造をしている人もいたり、思い込み? 実際は百済の人ではない、
どこかに同じことを言っている人がいたでしょw きゅうりのような葉、葱の華、
寒いな〜の家の写真なんだけど
『河伯』? 近代の話があるでしょ?
軍人だとか、家は、そういう家、職業ではない
知っている人は知っているんだよ 戦争をしているときも、
川俣町のほうに行っていたと言っているし、
むかーし住んでいた家?親戚の家? ほとんど同じ話ばかりしているでしょ
伊達郡の川俣町という謎の掲示板も同じ なんでも良いけど、
捏造のような事はするなと言っているんだよ
家は人を殺したりする?軍人(近代)でもないし、
それとも上の家だったとか? あのスレなども同じ、
近代(明治時代の頃〜)の〜〜何々〜〜の話はしていないと言っている人がいたり それと、お前の名前は?と聞いても答えないし、
他のスレも同じ 中国、朝鮮半島終了みたいな事を言っている人たちがいるけど、
実際は日本のほうが終了しそうだろうwなぜだと思う?
『河童 仏教』? >>220
>左側スロープ君の「この尾根が径百歩の塚」と同じレベル
場所の謂れの問題。
モモソヒメの墓としか謂れのない箸墓。
いっぽう俺の指摘する場所は神話の原点・高天原。
御所市高天が普通に高天原であった根拠は平安・鎌倉・時代の文献でもわかる。 ほんとーに、もれ(仮)の父親の名前、このような名前でしょ?
『勝義 意味』
あの写真の家なんだけど、写真の人は肉なども食べなかったと言っていたり 当時、家にあった
本や書なんかも誰かにあげたりしたのかな〜と言っているし
仏教関係の本なのかな? >>388
九州説は畿内説に向かって詐欺詐欺言うだけか? その後・・・老婆が創価に入ったからのかな?
ありがとう、ありがとうケンジ君、ケンジ君(筋肉少女帯)
老婆談というのも、なぜか、こういう曲と同じような話ばかり、
当時住んでいたというところから、引っ越しをするときの話?
ありがとう、ありがとう、いままで、お世話になりました、と挨拶にまわって
ほとんど同じ? 老婆なんだよな・・・誰かに話をしたりしていたのかな?
創価に入ったと言っているし、創価の集まりがあったり? もれ(仮)の父親はニンジンが嫌いだしな、
むかーしから食べなかったとか 当時、住んでいた家に飾ってあったという、
謎の刀(剣?)も掘り起こされていて〜
そのときの話なのかな?
ありがとう、ありがとう(ケンジ君、ケンジ君)と、
みんなに挨拶を むかーし住んでいたのかな、
それとも一時期住んでいただけなのかな?
いままで住んでいたところ(川俣町?)から、
引っ越しをするとき〜
ありがとう、ありがとう、
いままで、お世話になりましたと挨拶をして
筋肉少女帯の曲でしょ? 川俣軍司〜小手子の像
同じような画像が出てくるし
『川俣軍司』『小手子の像』 『これでいいのだ 筋肉少女帯』
オジギソウ、シダ類?
家の・・・・・と同じような植物が写っているし >>138
「南→東」などの露骨な嘘つき騙しのテンプレを読むと、
大和説の・・・・詐欺性や稚拙さがよくわかる >>153
>崇神の纏向瑞垣宮、垂仁の纒向珠城宮、景行の纒向日代宮に比定した上で、
この三代の大王も邪馬台国の王だったというのが、畿内説なんだが?<
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言なんだが?。
〉人によって多少異同はあるが、卑弥呼の佐治国の男弟が崇神、
邪馬台国の官筆頭の伊支馬が垂仁(イクメの大王:活目入彥・紀、伊久米伊理毘古・記)で
固有名詞レベルで対応が見られる<
「南≠東」などに拠って、×。 >>155
大和説者って人種は、全員「南→東」などの嘘付き騙しばかりであり、
その人間性からして信頼性が全くないんだよね。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している、朝鮮人である奥山氏の、頭の悪さを、楽しむだけのスレッドになってしまったな。。 >>161
でも、大和説者の出典とやらは、
「南→東」などのように史料事実や史料実態の否定や曲解の嘘つき騙しばかりであり、
そんなものは確率が非常に低く、殆ど0%なので、
出典根拠には全くならない代物。 >>143
帯方郡
↓↓
↓東治≒投馬国(宮崎)
↓↓…580q「水行十日(奄美大島)陸行一月」
東冶≒女王国(12,000里)
中国大陸の道里の、倭国への転用か(納得)! 『捲簾大将』(かっぱ、河伯?)
けんじ君(?)は、
このキャラに監視されているんじゃないの?
けんじ君が産まれてくる以前から、ほかの人々も、そうとか? そのキャラがいるでしょ、
額に「目」のような・・・? 『飛影』?
三つ目、天津飯(あまつ?)
ほとんど同じような >>168
>「県別・卑弥呼がもらった可能性の大きい「10種の魏晋鏡」の数」というグラフ
これだと福岡県が37枚になっているが、このうち32枚は平原1号墓の方格規矩鏡
しかも2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」で全て仿製鏡とされているのを
参照した上で数に入れている これを抜くと福岡県は5枚でしかない <
平原には21枚の「尚方作」方格規矩鏡が副葬されているから、
(渡来の呉系楽浪鏡師らの関与もあったかも知れないが)
間違いなく、魏の明帝鏡が元になった鏡であり、ホウ製鏡ではなく、
だから、他の平原鏡も殆ど魏鏡であった可能性が高く、
「平原遺跡(前原市文化財報告書)」の方が嘘つき騙しであり、インチキである。
>漢鏡6期以降、北部九州の優位などない <
大和は、ようやく3世紀末〜4世紀のホケノの画文帯一個以後であり、
3世紀全体に渡って、北部九州の優位は動かない。 『ドラゴンボール 天津飯』(あまつ?)
『三つ目がとおる』 もともと帝位簒奪者王莽がインチキ宣伝して世界の果てから朝貢が来たと自慢したのが始まり
光武帝の晩年に取り巻きが忖度して、楽浪に輸入品買い付けに来てた博多の倭人ボスを国王にでっち上げた
さらに漢皇の威光が衰えた安い帝の取り巻きが、光武50周年記念にまた楽浪に来てた倭人をつかまえて楽浪から千里も遥かな遠くの異国王にでっち上げた
そしたら魏にホンモノ倭国王の朝貢使が来ちゃった
それでこれはチャンスだと魏のロビイストが頭を使ったんだよ
宗族のエース曹爽が呉の背後にある南国の島の強力な王と国交を結んで大殊勲って宣伝してね
呉は台湾出兵とかやって無駄に国力浪費してるから良い揺さぶりになってグッジョブよ
司馬氏の遼東征伐も霞めとフカシ話したんだよ >>178
大和説はどうやっても、
「3世紀末の石塚以前には大和には大古墳がない」という事実に勝てないんだよな。
筑紫は、卑弥呼の祇園山や3世紀後半の那珂八幡などがあり、
一貴山などに繋がって連続している。 3世紀第3四半期(西暦275-300)になって、やっと吉備の特殊器台(殉葬なし)を備えたホケノ山、その後継者の墓と思しき箸墓が出来上がる。 >>182
>>(大和)4世紀の国産三角 <
>これがイカサマ論法
三角縁神獣鏡に、3世紀の舶載鏡と4世紀の国産鏡が両方あるのを
「三角縁神獣鏡」とだけ呼ぶことで一緒くたにして議論をそらすのが九州説の常道<
これがイカサマ論法。
大和の△は、3世紀には全く出土せず、全て4世紀以後。
そして、列島としての△は、
最も古いのは筑紫の糸島水道の志登であり、その後の祇園山や藤崎西新町に出土し、
紀年△も、渡来の呉系楽浪鏡師の関与鏡として、
3世紀末頃から(大和以外の)列島各地の豪族や王らの墓から出土する。 倭国大乱の痕跡皆無の畿内説は、鉄製武器も通信手段もなしに、どうやって先進の北部九州から倭王権という漁夫の利を得たか?説明できなきゃね。
結局(半島派兵の古墳時代を通じて倭国における鉄の輸入権を独占していた)倭王@北部九州の奥津城(畿内鉄は副葬品のみ)だったという結論になるんだよw 畿内説はテンプレのようにダラダラと妄想を垂れ流しているが、これが現実↓
・畿内説の主張はどの文献記録にも該当する記述が無い
・箸墓古墳で調査されたのは外観と周濠の一部だけで実質何もわかっていない
・纏向遺跡で出土した遺物で3世紀のものは「桃の種」だけ
・出土した数ミリの蛙の骨の詳細についてはまだ調査中
畿内説は「古代」ではなく「誇大」妄想ワールドなんですよ。 >>452
ホケノ山…神武陵(東征中に吉備王を従えた伊都国王)
箸墓…綏靖陵
西殿塚…安寧陵
ってことで桶? >>452
>3世紀第3四半期(西暦275-300)になって、やっと吉備の特殊器台(殉葬なし)を備えたホケノ山、その後継者の墓と思しき箸墓が出来上がる。
時代飛びすぎ
つまりそのことで、九州説の年代設定がデタラメなのが丸バレなんですけど >>457
お前が飛んでるんだぞw
いい加減気づけw >>184
>>「いまの揚州市付近の江都、儀徴一帯には、古く銅鉱があり」と王仲殊氏が書いてる<
>テンプレには王氏に対する反論が書いてあるのに その王氏の文章丸写しして
テンプレがウソだと言い張るのは 論理的におかしいな というか異常 <
根本的には信頼性の問題。
スレ主は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の前科もあり、
徐州北部の彭城付近の銅を、魏の支配地内であった、としたい方。
王氏は、中国の鏡のトップクラスの学者として、
3世紀頃には徐州の銅としては、南部の呉や揚州市の近くの銅山がとして採掘されていた、
という中国側からの事実関係を説明しただけ。 >>454
>倭国大乱の痕跡皆無の畿内説は、鉄製武器も通信手段もなしに、どうやって先進の北部九州から倭王権という漁夫の利を得たか?説明できなきゃね。
しっかり説明されてますが、何か? >>186
「南→東」などの嘘付き騙しや、「王仲殊氏誹謗」みたいな、
意味のない荒らしをするくらいしかやることがないほど、
大和説には語るべきことが何一つ残っていない >>458
>お前が飛んでるんだぞw
理由を全く説明できないところがニセ者らしくてイイ >>455
>・畿内説の主張はどの文献記録にも該当する記述が無い
>・箸墓古墳で調査されたのは外観と周濠の一部だけで実質何もわかっていない
>・纏向遺跡で出土した遺物で3世紀のものは「桃の種」だけ
その主張・・・一つも証拠が出せないよね
九州説ってミジメだね
w >>464
北部九州は自滅没落ずみ
倭女王卑弥呼は平和的に共立された宗教者なので、武器は不要なのは史料的にも考古学的にも明らか
北部九州ー畿内間は一ヶ月で移動できるので通信手段も無問題
(89字) >>468
信用ゼロの荒らし爺さん連続句点が言い張ったら九州説の方がダメになるよん @倭国大乱の痕跡
A楼観城柵厳設
B大量の鉄鏃骨鏃
C文書の使用(封泥金印)
D殉葬の習慣
これらを満たす地域は、2世紀末の倭国のどこ? これが畿内説の本当の姿↓
・唐古鍵遺跡を邪馬台国候補から外した理由は「近くに墓が無い」から。
・箸墓古墳を卑弥呼の墓だと比定する理由は「大きな古墳」だから。
・纏向遺跡を邪馬台国候補にあげる理由は「箸墓古墳に近い」から。 >>462みたいな確実にバレる露骨なウソをつけば
九州説が不利になるだけなのに >>472
その証拠出してね
出せなけば妄想と確定する >>454
倭国大乱の痕跡が戦闘の痕跡を意味してるなら、そんなのは九州にもない
殺傷人骨が大量に見つかった山陰のみ
高地性集落も倭国大乱と関連があるかもしれないし、倭国大乱が畿内を含む可能性は十分ある
むしろ、倭国大乱の痕跡が全くないのが北部九州 >>471
ひとつも満たす必要がない
理由がないものね >>472
吉備の特殊器台を使ったホケノ山・箸墓に殉葬なし…畿内説死亡 魏志倭人伝には対馬←→壱岐が南北と記述されています。
邪馬台国はさらにこの南に存在します。
https://i.imgur.com/t1La2wr.png
狂人でも無けりゃ奈良盆地だなんて思いつきませんね。 >>475
確か白石さんか寺沢さんが言ってた。
なんで唐古をあきらめるのか?という問いに対して。
そしてなんで中西でなく纏向を選んだのか?という問いに対して。 >>480
結局「南」しか言えない九州説って
貧困すぎるよね >>479
つまり、我々は死人と狂人>>476の話し相手になっていたってわけだな
>むしろ、倭国大乱の痕跡が全くないのが北部九州 >>482
だから、証拠出してね
出せないから今日も九州説がまた死ぬわけだが >>480
図上の南・西が、東に45度ずれてるぞえ。おまいも半分方向オンチじゃないの。 >>471 >>482
大和盆地ではなさそうだね… 15年間、毎日新聞とゴッドハンドを展開しての成果がこれ。
・九州説支持:54.4%
・近畿説支持:35.7%
・その他:9.9%
https://i.imgur.com/iEhi8FB.png 九州説の特徴
根本の情報がいいかげん
出所も示せない >>488
笑えるよ
畿内説の圧勝だな
九州説は比定地がバラバラだろ?
宮崎単体とかで畿内説に勝てる?
糸島説単体で畿内説に対抗できる?
無理だな
連合くめない野党が政権取れないのと同じだよ >>487
このように、まったく理由を言わないのが九州説
つまり妄想だと自白してるのと同じ >>488
マスコミがいなかったら、畿内説死亡だね… >>491
つまり、魏志倭人伝の方角は間違ってると言いたいわけだな
畿内説のアシスト乙 >>491
なら倭人伝記載の方位を盲信する九州説が
圧倒的に不利になるね >>492←まさにチョンの思考回路と同一w
引きこもりのチョンは通名使用禁止になったから社会復帰も難しいらしいなw >>192
>三角縁神獣鏡について複数の研究者が同じ見解を示すこれ
→「三角縁神獣鏡以外の古墳出土〓製鏡の大部分はB-1、B-2、B-3にまたがって分布し、
さらに少数は弥生時代の前漢鏡タイプの鉛を含む。
つまり、一定の原料で作られていない」
が暗示している事実↓を直視しよう
→「必要に応じて手持ちの銅鐸などを溶かして鏡に変換していた」<
ふーん。 >>494
ほら、また九州説は理由を言わない
だからトンデモと言われるんだよ >>497
そうやって
なにも反論ができず中傷ばかりする九州説が
社会の信用を失ったのは当然の結果だったな >>501
ほら、また理由が言えない九州説
惨めだねえ >>493
日本語読めないの君?
それとも幻覚症状の真っただ中? >>500
自分が書いただろ
倭人伝記載の方位が現実と違う事実を >>504
ほら、また理由が言えない
九州説は妄想であると自分で絶賛証明中 畿内説の自作自演がヒドいw
>>482
金印は文書(木簡)の封泥に使うものだから、硯が大量に出土しなければならない。
したがって纏向遺跡ではありえない。 >>476
>むしろ、倭国大乱の痕跡が全くないのが北部九州
筑後平野にあったはず。
山陰のは、出雲国譲りの前段階に見せしめにされたのだろう。 >>491
倭人伝じゃねえよ、オマイが書き込んだ図面上の方位が狂ってんの。 >>211
>朝鮮半島出土の同向式神獣鏡(伝楽浪大同江面)と萩原1号墳の画文帯神獣鏡が
同笵鏡だってこと、知ってるかい?
>洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、
神像表現が同じであり、同じ工人作だってこと、知ってるかい?
また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と同じく
徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、
神像表現が同じであり、同じ工人作だってこと、知ってるかい?<
ふーん。 >>469
>倭女王卑弥呼は平和的に共立された宗教者なので、武器は不要なのは史料的にも考古学的にも明らか
考古学的にって、何いっているか不明。
史料的には、卑弥呼の宮城は兵が厳かに守っていると書かれているから、武器があったのは間違いない。
つまり纒向は落第。 >>512
それさ、対馬壱岐ラインを基準として考えろってやつだろ。
日本語読解無いのか?w 殉葬を奴婢を古墳の周りに埋める事とカン違いして喜んでいる不幸な九州説 奥山氏の頭の悪さを楽しんでいる先客が、いるのではないのかな。。。 奥山氏は、奥山氏にとっての数学が破綻すると考えている非ユークリッド空間に漂っている可能性が高いな。。。 >>515
あかんって理由は?
説明能力ゼロな人? >>511
>筑後平野にあったはず。
また「はず」ですか
ホント
九州説は絶対に証拠出さないんですね 奥山氏は、数学がある数を0で割ることを禁止していることを知らないのだったな。。。 >>516
>対馬壱岐ラインを基準として考えろってやつだろ
何この曲解w
九州説の頭の構造ってこうなってるんだ 邪馬台国畿内説を信じるから頭が悪いのではなく、、頭が悪いから邪馬台国畿内説を信じるのだったな。。。 九州説さん
筋道立てて説明できないというのは
頭が悪い証拠なんですよ >>511
>筑後平野にあったはず。
それなら証拠出して
>山陰のは、出雲国譲りの前段階に見せしめにされたのだろう。
ただの妄想 アインシュタインという物理学者の考えた方程式の解には、0除算でしか求められない解があったのだったな。 邪馬台国畿内説を宣伝する者達は、物事への理解を疎かにしたまま、意見を発表してしまうので、笑われてしまうのだったな。。。 邪馬台国畿内説を信じるから頭が悪いのではなく、、頭が悪いから邪馬台国畿内説を信じるのだったな。。。 具体的なことが何も言えないで悪口ばかり言ってると
あなたの頭が悪いという評判が定着しますよ >>527
史料的考察ですよ。
出雲における決戦を回避して大国主が降伏したのはなぜか。
息子が敗退していたからだけではなく、高天原がその武力を見せつけるために山陰のいくつかの集落を襲ったからではないか。 邪馬台国畿内説を宣伝する者達は、物事への理解を疎かにしたまま、意見を発表してしまうので、笑われてしまうのだったな。。。 どうやっても畿内説に勝てない九州説は
畿内説スレを荒らすのみ 連続句読点=川上バカ=1トリ使用成りすまし=半角さげ=全角あげ やはり畿内説は救い難いチョンだよなw
思考パターンで丸わかりw
普段の生活どうしてんだろ?
人と会わない生活だから心配ないかw 九州説も昔は説のフリしてたけれど
実態は歴史や真理に対する理解不能な狂的怨念という事が明らかになった 奥山氏の考え付いた方程式は、0除算を含む方程式と似ているな。。。
538日本@名無史さん2019/10/04(金) 12:47:18.72
連続句読点=川上バカ=1トリ使用成りすまし=半角さげ=全角あげ 確かにそうだなw
455 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2019/10/04(金) 11:02:37.08
畿内説はテンプレのようにダラダラと妄想を垂れ流しているが、これが現実↓
・畿内説の主張はどの文献記録にも該当する記述が無い
・箸墓古墳で調査されたのは外観と周濠の一部だけで実質何もわかっていない
・纏向遺跡で出土した遺物で3世紀のものは「桃の種」だけ
・出土した数ミリの蛙の骨の詳細についてはまだ調査中
畿内説は「古代」ではなく「誇大」妄想ワールドなんですよ。 正直九州説がなぜこんなに意味不明な狂的行為を行うのかは理由が不明
しかし背景に何か政治的なものが関わっている可能性がある >>546
曲解釈だと指摘されたときの畿内信者の反論がこれまた曲解釈だからだろw
ジャンル問わず証明論とか読んで勉強してこいw 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人が、完全に論破され、反論が不能になったので、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放ってきたな。。。
546日本@名無史さん2019/10/04(金) 12:57:19.57
正直九州説がなぜこんなに意味不明な狂的行為を行うのかは理由が不明
しかし背景に何か政治的なものが関わっている可能性がある >>545
それ、現実だって証拠出せないんでしょ?
連呼しても自分の傷ひろげるだけだよ >>548
ほら、また証拠が出せない
だから九州説はダメなの 邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が、全く見つかっていなのだったな。。。 >>552
NHKや高校生たちには、もう、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が、全く見つかっていないことは常識なのだったね。。。 >>553
BBAの好きな「証拠」という言葉がブーメランとなって、BBAに突き刺さってしまったね。。。
550日本@名無史さん2019/10/04(金) 13:03:58.46
>>545
それ、現実だって証拠出せないんでしょ?
連呼しても自分の傷ひろげるだけだよ
551日本@名無史さん2019/10/04(金) 13:05:27.95
>>548
ほら、また証拠が出せない
だから九州説はダメなの 魏略冒頭の「…依山島為国度海千里復有国皆倭種」の「度海千里復有国皆倭種」は本来冒頭部分にはなく、
別の個所にあったものだとする意見がみられるが、そうではなく、やはり冒頭にあったとするのが正しい。
魏志倭人伝の「…依山嶋為国邑」の次に続く「旧百余国漢時有朝見者」は漢書地理志の「分為百余国以歳時来献見云」を転写したものであり、
この部分と「今使訳所通三十国」を新たに挿入したために魏略にある「度海千里復有国皆倭種」と文章上の意味がうまくつながらなくなり、
また「次の従郡至倭…」とも連絡がつきにくくなったことから、そのためにずっと後段の部分に移して独立させて書き入れる結果になったと思われる。
魏志倭人伝は卑弥呼の倭国に重きを置いた編集をしたために、倭国と倭種の国を並べるような魏略の書き方とは異なるものになったのだろう。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人のBBAが、完全に論破され、反論が不能になったので、敗北宣言の意味にしかならない、無意味な嘘を言い放ってきたな。。。
556日本@名無史さん2019/10/04(金) 13:10:17.02
結局また九州説は何も反論してないね 纏向の滑稽節はいつまで続くのやら
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人のBBAが、完全に論破され、反論が不能になったので、敗北宣言の意味にしかならない、日本語を理解できない者に対して、僕達には答える義務も必要性も全く無い、無意味な質問をしてきたな。。。
558日本@名無史さん2019/10/04(金) 13:13:12.40
>>554
どこがブーメランなんだね?
560日本@名無史さん2019/10/04(金) 13:13:47.22
>>557
なら、どれが畿内説への反論なんだ? 確かにそうだなw
@外交交易の要所伊都国から殆ど大和の土器は見つからない。
A纒向かの外来土器には北部九州の土器は殆ど無い。
B北部九州の弥生は甕棺墓全盛。
C纒向は槨墓の文化圏
D祇園山古墳からは100人規模の殉死が認められる。
E纒向に殉死の例は皆無
F帯方郡から7000里が狗耶韓国ならば、12000里は山門八女
G6世紀に北部九州を支配していたのは山門八女の勢力であり、
福岡の糟屋に屯倉を持っていた構図が一大卒を置いて北部九州を支配していた邪馬台国と重なる。
HE狗奴国の狗古智碑狗はククチ彦=菊池彦であり、
菊池に隣接する山門八女が邪馬台国として狗奴国と争っていた事が地図上に再現できる。
I当時の鉄器の発掘状況から、山門八女vs熊本び戦いが再現できる。
J女王国から1000里海を渡ると倭種の国
K箸墓古墳は出土物から見て4世紀前期〜中期の築造時期。 >>561
貴方は、見事に、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人のBBAを、完全に論破してしまいましたね。。。
あなたの言う通り、頭の悪い者が思い付いた疑問には、もう、答える必要はありませんね。。。 >>554みたいな言い草を見れば
九州説側に最初から証拠を出す気がなく、ただ流言飛語を流してると
見る人聞く人誰にでも判るだろうね >>563
やはり、判る人には判るのですね。。。
卑劣なBBAが、また嘘を言い放ってきましたが、討論の勝者として僕達は、負け犬の遠吠えを笑いリラックスしながら、聞き流します。。。
564日本@名無史さん2019/10/04(金) 13:19:54.37
>>554みたいな言い草を見れば
九州説側に最初から証拠を出す気がなく、ただ流言飛語を流してると
見る人聞く人誰にでも判るだろうね >>562
かなり「今さら」な九州説だなあ
テンプレで論破されてない項目、ある? 邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が、全く見つかっていなのだったな。。。 そもそも古墳時代が畿内から始まったなどというのも妄言だよなw
昔からあって当たり前の風習だから時代の境目なんて存在しないわけで。
https://i.imgur.com/49UBvoP.png >>552
NHKや高校生たちには、もう、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が、全く見つかっていないことは常識なのだったね。。。 さて、畿内説はどっちをとるのかな?
・纏向に王朝があったとして、その王朝が渡来人を迎え入れたというのであれば、纏向遺跡は4世紀後半の遺跡となる。
・纏向が4世紀半ばに消滅したというのであれば、新たな渡来豪族に奈良盆地を乗っ取られたというとになるな。
<ソース>
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。 >>567
そういう詐欺も九州説の信用おとすだけだ >>545
>・纏向遺跡で出土した遺物で3世紀のものは「桃の種」だけ
どちらかというと2世紀らしいよ。 >>571
言ってることワケわからん
さすが妄言の九州説だ
纒向は2世紀末から4世紀前半どまりだし
高取に渡来人が来たくらいで畿内が乗っ取られるなら、北部九州なんて昔から韓国の植民地ってことになっちゃうぞ 畿内説は、たくさんの亡霊に取り囲まれ、日夜おののいて暮らしているようだな・・。
どのレスを読んでも連続句読点とその影帽子に見えるらしい・・。 >>574
九州説さん、たわごと言ってないで
証拠だしなさい >>538日本@名無史さん2019/10/04(金) 12:47:18
連続句読点=川上バカ=1トリ使用成りすまし=半角さげ=全角あげ >>576
いや、あんな低脳が何人もいたら九州説の悲劇でしょ 畿内には、
亡霊におののいて暮らした崇神天皇の先例もあることだし・・。 連続句読点の川上説に対抗する術もなく、よほどこたえているようだな・・。 邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が、全く見つかっていないのだったな。。。 >>572
「詐欺」と言われ続けてきたから、言い返したかったのかな? 松浦市から伊万里市ルート説の、連続句読点使用者がいることも、忘れてはいけないのではないのかな。。。
582日本@名無史さん2019/10/04(金) 13:58:46.12
連続句読点の川上説に対抗する術もなく、よほどこたえているようだな・・。 >>571
こんな変な選択肢しか思いつかないの?
九州説の人とは話が噛み合わないは当たり前だわな 松浦市から伊万里市ルート説の、連続句読点使用者は、邪馬台国熊本城説ではないのかな。。。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、高校講座で数学や物理や化学を勉強する前に、分度器の使い方や外接円の性質という、義務教育で学習する物事を、学習しなければいけなかったのだったな。。。 来週の高校講座の日本史は、また、邪馬台国畿内説には証拠が全く見つかっていないことを、発表する回なのではないのかな。。。 >>592
そこまで知能の低さを晒さなくても良かろうに 高校講座の日本史は、2元的に繰り返し繰り返し進行し、何度も、放送するのだったな。。。 BBAが、焦っているな。。。
593日本@名無史さん2019/10/04(金) 14:27:10.08
>>592
そこまで知能の低さを晒さなくても良かろうに 来週の高校講座の日本史は、また、邪馬台国畿内説には証拠が全く見つかっていないことを、発表する回なのではないのかな。。。 纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法だったな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html 高校講座の日本史は、2元的に繰り返し繰り返し進行し、何度も、放送するのだったな。。。 九州説さん、あなたの
>>567は
掛け値なしの詐欺ですよ
さらに悪評高めてます 纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法だったな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html >>552
NHKや高校生たちには、もう、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が、全く見つかっていないことは常識なのだったね。。。 放送の中身は邪馬台国の所在地論争について
「九州説、近畿説、いずれも具体的は証拠が見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです」
金印が出るとかレベルの話をしてるんだろう
今日も九州説は事実を歪曲し詐欺してる つまり、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が、全く見つかっていないのだな。。。 纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法だったな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html >>212
>>■推測されること ・畿内政権は鉄を取りに行っていない ・畿内政権は九州に鉄を分けてもらえなかった<
>ただの推測であり、間違い 3世紀時点で国内最大級の鉄加工遺跡は、淡路島の五斗長垣内や
彦根の稲部遺跡など畿内周辺に展開している 山陰までしか鉄が届いていないというのは、
新しい発掘成果から 目を背けた時代遅れの妄想に過ぎない <
「南→東」などと同じく嘘つき騙しのただの妄想。
筑紫では卑弥呼の3世紀前半には鉄鏃が沢山あったが、
大和に鉄鏃が入ったのは、3世紀末〜4世紀のホケノからであり、
淡路や彦根は、当然九州倭国の東征毛人五十五國の軍が征服支配したところ。
>古墳時代に入ると、弥生時代全期間の北部九州よりも多くの鉄器が
畿内の古墳から出土するようになるが、その時期でも古墳以外からの出土は
ほとんどない<
九州倭國の東征毛人五十五國の軍が、大和などにも入って来たから。
>古墳の高く盛り上げた墳頂近くの埋葬主体以外では鉄が残りにくい理由を
考えていくのが、学問としての常道<
第1級史料事実である倭王武の「東征毛人五十五國」を念頭において考えて行くのが、学問としての常道。 マイナスの重力とは、どのような物事なのだろうか。。。 >>340
>ではなぜ古墳の外から鉄が見つからないのか
これを考えるのが科学なんだよ
見つからないから、ないに決まってる
鉄が禁輸されていた、とか言うのは不合理なでたらめ
なぜ鉄が見つからないのかは、
「鉄が朽ちやすく奈良がずっと人里で土壌の擾乱が続いたから」で十分だよ
これを雑な言い方に落とすと、鉄が溶けるから、になる訳だ
そんなにおかしなことを言ってる訳じゃないんだよ
それを理解できないバカが騒いでいるだけww マイナスの重力が無限に存在する領域と、プラスの重力が無限に存在する領域は、情報が等価なのだろうか。。。 一番「バカ」な者が、あまり意味のない意見を発表したな。。。
609日本@名無史さん2019/10/04(金) 14:40:28.22
>>340
>ではなぜ古墳の外から鉄が見つからないのか
これを考えるのが科学なんだよ
見つからないから、ないに決まってる
鉄が禁輸されていた、とか言うのは不合理なでたらめ
なぜ鉄が見つからないのかは、
「鉄が朽ちやすく奈良がずっと人里で土壌の擾乱が続いたから」で十分だよ
これを雑な言い方に落とすと、鉄が溶けるから、になる訳だ
そんなにおかしなことを言ってる訳じゃないんだよ
それを理解できないバカが騒いでいるだけww >>351
>九州にいた倭王の奥津城だったから
これが気に入ったらしくて、九州説は繰り返し書いているけれど、
縁の薄い遠地に大墳丘墓を作る理由がないんだよ
逆に言えば、大墳丘墓を作れるだけの労働力が、王権の中枢から遠く離れた場所に
存在するなら多くの場合はその労働力が兵力となって王権はひっくり返される
九州に王がいて、その大墳丘墓が畿内に作られるというのは、
ファンタジー以上のものにはどうやってもならない 纒向の古墳の外からは、鉄が見つからないという真実は、重大な真実ではないのかな。。。 >>227
ほら、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
「何の話?」なのか?を書かないから、読む気も起きない。」 >>614
纒向に古墳が出現した4世紀になっても、纏向は都会ではなかった可能性が高まってきたな。。。 >>607
>第1級史料事実である倭王武の「東征毛人五十五國」を念頭において考えて行くのが、学問としての常道。
九州説のような珍妙な解釈は念頭に置かないのが学問 >>235
そして、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説しゃは、
話してる相手も識別できないほどのもーろくであり、
猿未満 山海に沿い4000戸があった末盧国には優れた港が沢山あった。
中でも唐津港と伊万里港は、伊佐早や佐賀平野にも通じる重要な港だったのではないかな。。。 >>387
>畿内説の根拠は大作塚だけwww
王権の所在は、最大の墳丘墓の存在だけで事実上確定する
九州説がそこから逃げているだけ
北部九州最大の権力者は、福岡県細大の前方後円墳である岩戸山古墳の被葬者
筑紫君磐井であるのと同じ文脈で理解できる、至極単純なこと >>606
>・・・九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
王のいない吉野ヶ里には宮室は無いな
もちろん女王の都の候補にならない場所だけで楼観や城柵が見つかっても九州説にはマイナスなだけだが 前方後円墳が初めて出現した4世紀の纒向は、銅鐸王国を滅ぼした倭王が、後の時代に天皇という称号で呼ばれることになった崇神天皇に、銅鐸王国の王家の者達の怨恨が充満した死体や魂を封印させ祭らせた場所だったな。。。 纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法だったな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html 纒向の古墳の外からは、鉄が見つからないという真実は、重大な真実ではないのかな。。。 纏向で古墳以外の場所から鉄が出ない理由は、そもそも人が住んでいなかったからだよなw
大型の共同墓地だからw マイナスの重力とは、どのような物事なのだろうか。。。 マイナスの重力が無限に存在する領域と、プラスの重力が無限に存在する領域とでは、情報が等価なのだろうか。。。 f(x)=tan xが連続であることは証明する必要がないのだったな。。。 なるほどねえ。
箸墓古墳は、墳長が約278メートル、後円部の直径が約150メートルであり
「百余歩」よりも桁違いに大きい。
長里なら、「百余歩」は、180メートル強だから、後円部の直径にほぼ等しいが、
墳長としては短い。だから、箸墓古墳は、最初円墳として築造され、後に
前方部分が付け加えられたという後円部先行説がかつて唱えられた。
『三国志』魏書東夷伝倭人条を含む『三国志』では、「塚(冢)」と「墳」が
区別されていたことに注意しよう。
『三国志』には「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」という諸葛亮伝
の発言や、通常、大君公侯の墓が「墳」であったという記事があり、高さのある
人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を
「冢」というように区別していたことが窺える。 テンプレを読んで、エベンキは自分たちの子孫だと言ってた韓国人を思い出したよ。。。
負の重力が支配する世界に住む畿内説の言う事は、その真逆に読み替えればよいのだな。 >>239
>それがほんの古墳3つ分で、北部九州の弥生全期間の鉄器より多い ・・・<
ダメだ。大和の鉄鏃などは、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らの墓であったからであり、
九州倭国から持ち込んで副葬んでされたものであり、そのため、九州倭国で少なくなったのだ。
>ホケノ山 畿内 3世紀中葉 ・・・<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、3世紀末〜4世紀であり、
鉄鏃が多いのは、東征毛人五十五國の大和への別動隊の将軍だ。
>椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉 鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品が出ている <
大和ではなく、4世紀であり、
九州倭國の東征毛人五十五國の本隊の将軍の一人の墓だ。
>黒塚古墳 畿内 3世紀後半・・・<
4世紀であり、大和への別動隊の将軍の墓だ。 >>420
>場所の謂れの問題。
左側スロープ君の尾根には、謂れなんてまったくないじゃないかw
「尾根に小さな塚がある」というのと、
「尾根が150メートルの塚だ」というのは、
頭のおかしい人以外は同一視しないんだよ 左側スロープ君は日本語が通じる分奥山より遥かにマシだぞw 1: 1#okuyamakouyou (93)
2: 邪馬台国畿内説 Part512 (634)
3: 先祖探しのエピソードを語る但し血族先祖に限る6 (255)
4: 邪馬台国四国説 part3 (642)
5: 邪馬台国は畿内だけど卑弥呼は九州説 (494)
6: 倭の五王の正体についてじっくり検証するスレ [無断転載禁止]©2ch.net (969)
7: 信長の正室濃姫・まむしの娘の謎 2 (969)
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15: (田川)邪馬台国福岡説(みやま志賀島) 其のニ (434)
16: 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬捌 (762)
17: 武士ほど素晴らしい支配者はいない [無断転載禁止]©2ch.net (161)
18: 歴ドルの小日向えりとかいうおばさん (5)
19: ポンコツ広島世界一 [無断転載禁止]©2ch.net (110)
20: 坂東武者のルーツは半島から渡来系 (222) >>455
>・畿内説の主張はどの文献記録にも該当する記述が無い
卑弥呼の共立と多数・広範囲の搬入土器
記紀のイクメイリヒコと、三国志の邪馬台国の官伊支馬
大作冢、徑百餘步にあたる巨大墳丘墓は「古墳」であり、その最大のものが畿内にある
>・箸墓古墳で調査されたのは外観と周濠の一部だけで実質何もわかっていない
唯一の4段築成で最初の定形型前方後円墳
吉備と同様の特殊器台
出雲の四隅突出墓の特徴である葺き石を備える
周濠の底から大量に出る故意に壊された布留0式土器⇒完成時の祭祀・造営年代の基準
現在「外濠」と呼ばれている周提帯の存在
主軸がまっすぐ夏至の日の出方向で、かつ穴師山山頂横を指している
いろいろ分かってるぞ
>・纏向遺跡で出土した遺物で3世紀のものは「桃の種」だけ
桃の種を基準にして、同じ祭祀土坑の遺物年代の定点が得られるということ
つまり、桃の種を使った祭祀が行われたのが2世紀後半から3世紀前半だと「確定」
>・出土した数ミリの蛙の骨の詳細についてはまだ調査中
まあ、調査中だが「カエルの骨だと分かった」以上のことは分からないだろうな >>241
>>九州説だけど、畿内の開拓の拠点は摂津河内で間違いない。<
>それ、弥生時代の一番最初のごろの話
縄文時代晩期後半の突帯文土器様式の物が、奈良盆地で出ている
纏向遺跡が作られるまで500年以上かけて、奈良盆地は開拓されている<
大阪側には池上曽根があり、奈良盆地よりもはるかに先進的。
>纏向に新しい王都が作られる前の段階で、河内側は亀井遺跡周辺、
大和側は唐子鍵遺跡周辺の、二つの中心を持つ秩序が作られている<
米田によっても、久宝寺や加美は庄内3であるから3世紀末であって、
奈良よりもはるかに先進的。
おそらく大阪地域は、奈良盆地よりも先に、東征毛人五十五國の本隊が入った。
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、常に時系列がおかしく、インチキなんだよ。 >>457みたいな名前欄の使い方、誰だろう?
以前はキウスか連続句読点の二択だったんだが、キウスよりは書き込み頻度が高い
まあ、呼子上陸バカのバカ度合いが高まったか、
邪馬台国の会の中の人が一段と壊れたかどちらかだろうな
もし、佐賀川上バカなら、そう名乗ってくれればいいから
たぶん違うだろうけど 何故記紀には銅鐸が出てこないのに畿内出土数が少ない矛が出てくるの? >>471
>D殉葬の習慣
これだけで、考古学的には「日本のどこにもない」で終了なんだよ
記紀や六国史に殉死・殉葬の禁止がちょろちょろ見られるから、なかったとも
言い切れないのだけれど、弥生時代、古墳時代の考古学的な遺跡・遺物で
殉葬と認められるものはない
九州説の大好きな平原1号墓も祇園山古墳周辺も、公式報告書で殉葬は否定されている 俺様は、雑技団の団長だ。特技は玉を頭に乗せて座禅を組むことだ、、、 >>511
>筑後平野にあったはず。
ないよ
九州説がよく持ち出す殺傷人骨は、甕棺墓時代で2世紀末と想定される倭国乱とは
年代が合わない
九州説が時系列無視のチェリーピッカーと呼ばれる所以でもある 邪馬台国畿内説は時系列を無視して、畿内馬具を4世紀の初頭にしてしまったのだったな。。。 >>538
佐賀川上バカと連続句読点は別人
別のスレで佐賀川上バカとだいぶやりあったことがあるけれど、彼は
受け答えができるし会話が成立する
荒らし専業の連続句読点とは異なる 頭のレベルが低い奥山氏と話が通じると勘違いされた人物が、気の毒だな。。。
646日本@名無史さん2019/10/04(金) 16:35:40.59
>>538
佐賀川上バカと連続句読点は別人
別のスレで佐賀川上バカとだいぶやりあったことがあるけれど、彼は
受け答えができるし会話が成立する
荒らし専業の連続句読点とは異なる >>539みたいに差別用語連呼するやつは誰だろう?
ちゃんと通名を名乗って欲しいな >>253
>政権は2世紀末から大和に成立していたが、まだ鉄器を入手できていなかったということなのよ。
鉄器なしの地方政権だったということだな。<
神武東征の後の、出雲銅鐸祭祀部族国と、毛人蝦夷部族国と。
神武の後裔の欠史八代の「市を監督する大倭職」の国の混在であったんだろう。
>したがって、鉄器が副葬され始める3世紀中頃の大和に何が起こったのか明らかだね。
鉄器を大和に運び込む手立てができたということ。<
3世紀末であり、九州倭國から、東征毛人五十五國の征服軍が入って来た。
>つまり、大和が鉄器の輸入元である博多を掌握したということになる。<
つまり、筑紫の鉄鏃や鉄器を大量に持っていた東征毛人五十五國の別動隊の将軍らが、
入って来た。 >>645
邪馬台国畿内説は時系列を無視して、畿内馬具を4世紀の初頭にし、掘立柱の穴を、3世紀中盤にしてしまったのではないのかな。。。 >>636
そこじゃなくてさ、
箸墓周濠の布留1式の破片の下に輪鐙が埋まってたんだよな?
これは古いものが新しい時代に埋められ(埋め戻され)る可能性を示してるんだよ。
それは畿内説としては全てが水の泡になるような出来事なのでこれは困った。
よし輪鐙をより古い物として編年するしかない。
これは一例だが、こうやって年代が古い方へと前進してきたわけ。
それの繰り返しw チョンというのは差別用語なので、「頭の悪い朝鮮人の奥山氏」と呼んであげれば良いのだったな。。。
648日本@名無史さん2019/10/04(金) 16:37:23.19
>>539みたいに差別用語連呼するやつは誰だろう?
ちゃんと通名を名乗って欲しいな >>555
大体同意だが、最後のここが不十分
>倭国と倭種の国を並べるような魏略の書き方とは異なるものになったのだろう。
魏略も魏志倭人伝も、倭種の国をそのまま倭国と呼んでいるだけ
ただ、三国志の方は親魏倭王という称号を伝えるために「倭種の国=倭国」の中の
卑弥呼を共立倭王と仰ぐ範囲を区別する必要があり、それを女王国と呼んでいる >>648
レス番抜けてた。
奥山と申しますキリッ 倭種のいる国々全体は、倭国と呼んだのではなく、倭地と呼んだ可能性の方が高いな。。 倭国というのは、女王国以北と男王国を合わせた国なのだったな。。。 >>258
>古墳から出土ってさ、わざわざ寄せ集めた副葬品なんだからまとまった量が出るのは当然だろ。
生活跡のある任意の場所から出土して初めて鉄器文化が到達していたと言えるんだよ。
農具や工具とか、吉野ケ里で出た金具とか。<
賛成。
4世紀頃のホケノや椿井や黒塚から出た大量の鉄鏃は、
九州倭国の東征毛人五十五國の将軍の墓であったから、
九州倭国から持って来た鉄鏃や鉄刀などの武器を副葬した。 >>562
とことん捏造体質だな
>@外交交易の要所伊都国から殆ど大和の土器は見つからない。
IB期から出てるよ
「IB期の標識資料としてあげられるのが三雲サキゾノ1−1区1号住居床面出土資料である[czr−37,
pp.17−31]。重要な遺構であるため,やや詳しく記述すると,広口大型壺,頸部に刻み目突帯を有す
る直口壺,在地の中型甕,山陰系二重口縁甕,庄内大和型甕,直口壺4点,在地の小型甕11点,鉢9
点,厚手の小型丸底紺(5号住居の可能性も),椀形手捏土器3点,高杯13点,在地の器台2点,朝
鮮半島からの陶質土器片2点,小型手捏勾玉形土製品,小型手捏甕形土製品,小型手捏壺形土製品2
点が出土した(上層の資料は省いている)。手捏土器・手捏土製品が存在することから,生活のため
の住居ではなく,祭祀遺構と考えられる。実際,庄内甕も煤が一切付いておらず,煮沸に使用された
痕跡はないので,この点からも「祭祀遺構」という解釈を補強できる。」
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」
佐々木 憲一
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312 「倭地」の中に「倭国」があり、倭国の中に、「男王国」と「女王国」と「女王国を除く女王国以北」があるのだったな。。。 >>660
そして、女王国の中に熊本城の周辺にあった邪馬台国があるのだったな。。。 IB期というのは、魏志倭人伝時代が終わった後の時代だったな。。。 >>659
それ出どころ不明のコピペだよ。
たまたま手元にあったもの。
阿波が作ったのかな? IB期というのは、癌と闘っている者が登壇するステージの事なのでは、ないのかな。。。 >>562
>A纒向かの外来土器には北部九州の土器は殆ど無い。
胎土分析で北部九州からの搬入土器が確認されている
>B北部九州の弥生は甕棺墓全盛。
それはおおむね1世紀までで、卑弥呼の時代とは100年以上離れている
ほぼ無意味な主張
>C纒向は槨墓の文化圏
「槨」という用語が混乱しているだけで、初期古墳は全て「無槨」
「槨」は、祭祀を行うために人が立って入れる構造物
https://i.imgur.com/EhvwxiD.jpg
https://i.imgur.com/Hc9f7Bb.jpg
「漢墓の変容:槨から室へ」横暁芬
https://dpi.org/10.14989/shirin_77_667 >>276
>古墳時代草創期(纏向石塚古墳など)の埋葬主体が削平されておらず
発掘できていれば大量に鉄器が出ただろうし<
石塚は、土器や鉄器が出ようと出ないとに関係なく、古墳の形で3世紀末なんだよ。 >>658
それで行くと東遷説の根拠の一つとなるな。
鉄の成分分析とかで何か分からないかな。 >>562
>D祇園山古墳からは100人規模の殉死が認められる。
デタラメ
公式報告書は殉死・殉葬を否定している
否定の根拠は周辺の弥生墓で、祇園山古墳造営時の地山成形で
上部を削り取られているものが存在すること
殉死殉葬であれば、作った直後に殉葬墓を壊す理由はない
殉葬墓だと勝手に九州説が考えている墓群が、祇園山古墳造営時には
忘れられ無視されていたことを意味している
>E纒向に殉死の例は皆無
考古学的に大規模殉死・殉層が認められる遺跡、遺物は日本に存在しない
>F帯方郡から7000里が狗耶韓国ならば、12000里は山門八女
七千里は倭国(本土上陸)まで一万里、渡海一回千里×3から逆算して作られた数字
萬二千里は淮南子にも見られる漢土の端から世界の果てまでの観念的な距離
七千里も萬二千里も、現実の地理とは無関係な設定値であり、これを根拠にした時点で
現実との接点がないことを意味する >>669
>否定している
否定はしていない。
よって、
>デタラメ
とは言えない。 >>609
>>ではなぜ古墳の外から鉄が見つからないのか
言い訳を根拠なく考えるのが妄想なんだよ
畿内説は妄想を積み上げているだけ >>620
>王権の所在は、最大の墳丘墓の存在だけで事実上確定する
別の勢力だろ >>562
>G6世紀に北部九州を支配していたのは山門八女の勢力であり、
> 福岡の糟屋に屯倉を持っていた構図が一大卒を置いて北部九州を支配していた邪馬台国と重なる。
「6世紀に北部九州を支配していたのは山門八女の勢力」
これは正しい
その首長墓が八女古墳群であり、北部九州でも最大勢力が最大の古墳を作っていることが
確認できる
小さな古墳しかない地域に、倭王は存在しない
>HE狗奴国の狗古智碑狗はククチ彦=菊池彦であり、
> 菊池に隣接する山門八女が邪馬台国として狗奴国と争っていた事が地図上に再現できる。
魏略では拘右智卑狗であり、河内彦と読む説も根強い
菊池の地名が比較的新しい(古くまで遡れない)ことも、菊池彦読みの妥当性を低くしている
山門八女を邪馬台国に比定する場合、女王国より以北の国である投馬国の比定地がない
結局、単なる語呂合わせの上のチェリーピッキング以上のものではない
>I当時の鉄器の発掘状況から、山門八女vs熊本び戦いが再現できる。
これは無理
無根拠
>J女王国から1000里海を渡ると倭種の国
北部九州から本州はどうやっても渡海千里にならない
https://i.imgur.com/LEf95qW.jpg
渡海千里は倭国内の海峡を渡った先も変わらずに倭種の国であるというだけの記述
倭種の国が倭国であり、皆倭種という記述から別国の存在を想定するのは単なる妄想 >>562
>K箸墓古墳は出土物から見て4世紀前期〜中期の築造時期。
箸墓の年代は周濠堆積物最下層(地の土の直上)で大量に出土した布留0式が基準
布留0式の標準年代は3世紀後半
4世紀前期にしたがるのは単なる九州説の願望 女王国の南は狗奴国=狗奴国の北側に女王国=邪馬台国。
わかりますね?簡単ですよね?
<ソース>
卑弥呼の邪馬台国と争った国が熊本に 九州説に新解釈
2019.9.2
魏志倭人伝によると、狗奴国は女王・卑弥呼が君臨した国々の南に位置し、卑弥呼とは抗争状態にあったとされる。
考古学者らはその勢力圏の中心が熊本県内にあったとし、狗奴国の位置から卑弥呼の邪馬台国は福岡県域にあったと主張している
https://special.sankei.com/a/life/article/20190902/0001.html >>636
>つまり、桃の種を使った祭祀が行われたのが2世紀後半から3世紀前半だと「確定」
リテラシーの低さが滲み出ているな。 >>644
>九州説がよく持ち出す殺傷人骨は、甕棺墓時代で2世紀末と想定される倭国乱とは
>年代が合わない
甕棺が使われた時代は長いよ?
他の墓制と並行していただけ。 >>665
>「槨」は、祭祀を行うために人が立って入れる構造物
>https://i.imgur.com/EhvwxiD.jpg
また嘘をついている。
人が入れるようになった槨を室と呼んで区別するんだよ。 >>678
甕棺は古墳時代でも使われてたよね。
あ、畿内は知らんけどw >>669
>七千里も萬二千里も、現実の地理とは無関係な設定値であり、これを根拠にした時点で
>現実との接点がないことを意味する
意訳「(畿内説に)都合が悪い数字は認めたくありません」 >>278
>「まとまった量」どころじゃないぞww
古墳三つで、北部九州の600年分(弥生時代全期間)よりもたくさん出る
しかもこの3つの古墳は、数十年程度の間に相次いで造営されている
九州にこの時期に王権があったと考えるのは不可能だな<
九州倭國の東征毛人五十五國の将軍らの4世紀の墓だ。 >>673
>菊池の地名が比較的新しい(古くまで遡れない)ことも、菊池彦読みの妥当性を低くしている
遡れないという根拠は?
逆に魏志倭人伝の3世紀まで遡れるとも取れるのだが? >>629
九州説はいつも文献の読み方に基礎的な間違いがあるね
遺言は命令なんだ
そんな定義なんかしないんだよ
常識では大きいはずの冢を大きくするなと遺言してるのさ >>673
>山門八女を邪馬台国に比定する場合、女王国より以北の国である投馬国の比定地がない
勝手に北に捏造しないように。 >>582
>連続句読点の川上説に対抗する術もなく、よほどこたえているようだな・・。
いや、佐賀川上バカは陳寿が間違って記述した東南陸行五百里のとおりに行けば
間違った伊都国=佐賀川上に行くって言ってたぞ >>593
>そこまで知能の低さを晒さなくても良かろうに
連続句読点は、小学校時代から授業中に寝ていたと自白するくらい、
義務教育時代からまともな学校教育を受けていないからしょうがないんだよ 台湾のとあるお宅にお邪魔したら玄関の段差は無かったが、ここでスリッパに履き替えてと言われ、その辺りが玄関なんだなと認識した。
-省略-
よって、箸墓古墳は「槨有り」との認識で間違いないです。 >>689
佐賀武雄ライン徐福伝説も有り昔からある説だろ。
多久の人が言ってたな。 >>651
>そこじゃなくてさ、
>箸墓周濠の布留1式の破片の下に輪鐙が埋まってたんだよな?
どこからそういうデタラメを仕入れてくるんだ?ww
>これは古いものが新しい時代に埋められ(埋め戻され)る可能性を示してるんだよ。
これはないと断言できる
掘り返した場合、土層の擾乱が確認できるが木製の輪鐙(とされるもの)の
埋まっていた植物質の多い堆積層には掘り返しの痕跡は認められていない
見たいものしか見ない九州説の人のブログなんかの中でだけ
再生産され続けているでたらめだよ >>688
本当に理系だったら日本史は学ばない。
お前文系確定だなw
いや体育会系だったっけw >>693
>これはないと断言できる
>掘り返した場合、土層の擾乱が確認できるが木製の輪鐙(とされるもの)の
>埋まっていた植物質の多い堆積層には掘り返しの痕跡は認められていない
見ても無いのになぜ断言できるのかな?w >>663
>それ出どころ不明のコピペだよ。
出典が明記されているのに、何を言ってるんだ?
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」
佐々木 憲一
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
pdfで読めるから確認してごらん?
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
これの282ページ、32枚目にあるから >>663
ごめん、出所不明は>>562のことだねw >>691
わかるわかるw
中国の様式と一致していなくても槨は槨だよなw >>672
>別の勢力だろ
「同じ祭祀用供献土器」「同じ前方後円墳という墳形を盟主分に採用すること」により、
別勢力だという言い逃れは否定される 末盧國は官がいないから
倭国の構成国ではなくて津を通っているだけ
日本の文献でもコマビト(肥人)は異人 そもそも卑弥呼が住んでいた場所に古墳を造るとは限りませんね。
むしろ古墳を設置する場所はあらかじめ決められていた、もしくは故人が指定した場所である可能性の方が高い。
例)歴代天皇陵墓 >>640
銅鐸文化は銅矛文化圏に制圧されたから。
簡単ですねw >>678
>甕棺が使われた時代は長いよ?
子供用の小型の土器棺墓は比較的長く残存するが、上下で1メートルを超bヲるような
大型の甕棺墓は卑弥呼の時代より100年以上前に衰退している
もともと成人用の大型甕棺墓を作る地域はそれほどの広がりを持たないが、
この地域での大型甕棺墓は弥生時代後期前半(1世紀)に基本的には終焉し、
その後は箱式石棺墓に取って代わられ、土坑墓も多くなる
甕棺墓についてはこの辺が詳しい
https://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan.html >>704
銅鐸出土圏から銅矛は出ない
記紀では広矛は国を譲った側 >>679
>人が入れるようになった槨を室と呼んで区別するんだよ。
その「室」が「槨」の進化系であること
https://i.imgur.com/EhvwxiD.jpg
後漢時代の槨が、既に人の入れる構造だったことが
https://i.imgur.com/Hc9f7Bb.jpg
きちんと示されているんだから、ちゃんと原典を読めよ
「漢墓の変容:槨から室へ」横暁芬
https://dpi.org/10.14989/shirin_77_667 >>703
九州説が言うところの倭種が住んでる地域には造らんだろ? >>680
>甕棺は古墳時代でも使われてたよね。
それは小型の土器棺墓であり、甕棺墓の盛行時代とは区別されている
同じ言葉だからと、ごっちゃにしてごまかすのもチェリーピッキングの常法ww
最初期の斜縁神獣鏡と仿製鏡で粗製コピーの後期の三角縁神獣鏡をごっちゃにするのと同じ >>651
>これは古いものが新しい時代に埋められ(埋め戻され)る可能性を示してるんだよ。
また九州説が基礎知識不足を晒したな
そういう撹乱の有無も調べるのがふの考古学なんだよ
むかしからね 最終型の甕棺は4世紀初の博多では
石棺方形周溝墓の周溝隅に埋められる程度の地位 >>685
>勝手に北に捏造しないように。
南至投馬國、水行二十日。官名略、可五萬餘戶。
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。官名略、可七萬餘戶。
自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。
次有斯馬國、次有已百支國、
これで、戸数道里官名記載の投馬国が女王国より以北の国として
書かれていることが分からないなら、魏志倭人伝を根拠に何かを言うのは無理だよ
知的能力(読解力、語学力)が足りない >>686
>じゃあ大きな箸墓はアウト
遺言したのは諸葛亮だから、箸墓は諸葛亮の墓としてはアウトだなww >>694
>本当に理系だったら日本史は学ばない。
>お前文系確定だなw
バカだなぁ
理系でも、中学までは歴史習うだろ?
それに、漢文も高校まで習う
その後は、趣味の独学でも「九州説のでたらめがでたらめであると分かる程度」には
すぐに十分な知識が得られるんだよww >>695
>見ても無いのになぜ断言できるのかな?w
公式報告書 >>666
>石塚は、土器や鉄器が出ようと出ないとに関係なく、古墳の形で3世紀末なんだよ。
素人のおじいさんが理由もなく独断で決めても
誰も信じないよ >>698
台湾に玄関なしという文献がどこにある?
比喩としての体を成していない >>706
鉄器が出るのは、前方後円墳や軽量薄型土器とおなじ時期。
前方後円墳や軽量薄型土器が出現する以前には、鉄器は絶対に出ない。 「忌部はん」が全国に、鉄器や前方後円墳、軽量薄型土器などを広めたんだから。 @阿波 >>715
>公式報告書
考古学で公式報告書というものは存在しないw
畿内説の報告書は身内の回覧板みたいなもんだw >>701
>末盧國は官がいないから
>倭国の構成国ではなくて津を通っているだけ
それよりも、末盧國に官の記載がないのは古い時代の記録を転写しただけで
ほかの国の官を記録した時の魏使が直接伊都国に向かっていて末盧國には
行っていないとする方が妥当だと思う
旅程記事とされているが、本質は倭国の地理の紹介であり地誌記事だから
魏使が訪問しているのは当然のこととするべきではない >>668
>それで行くと東遷説の根拠の一つとなるな。
ザラコクの作り話を根拠にしたら
困るのはお前だぞ >畿内説の報告書
身内の回覧板というか、、、交換日記だろ >>702
>そもそも卑弥呼が住んでいた場所に古墳を造るとは限りませんね。
王権の勢威を誇示する巨大モニュメントは、人の目に触れることが目的だから
首都、首都近郊、首都へのメインルートのいずれかに作られる
エジプトのピラミッドも当時の首都の近郊にある
何百キロも離れたところに巨大モニュメントを作る理由はない >>723
>身内の回覧板というか、、、交換日記だろ
九州説の根拠 ⇒ 九州説の個人ブログの考察ww >>707
そっちこそちゃんと読め。
倭はまだ槨の段階であり、魏志倭人伝は室について記載していない。
陳寿はその分類を用いていなかった可能性もある。 >>678
>甕棺が使われた時代は長いよ?
きちんと編年されてるので九州説のデタラメは通用しない >>709
>それは小型の土器棺墓であり、甕棺墓の盛行時代とは区別されている
お前が勝手に区別しているだけ。
九州ではずっと後世でも甕棺は甕棺。 >>725
能無し社会不適合組の交換日記 vs 社会経験のある博士によるブログ >>711
使われていたという事実から目を背けないでね。
畿内説は、勝手な定義を振り回して事実をねじ曲げている。 >>681
>意訳「(畿内説に)都合が悪い数字は認めたくありません」
それを歪曲とか捏造と言うんだよ >>721
>魏使が訪問しているのは当然のこととするべきではない
末盧国はまわりの道の様子も記録しているから、通過したことは確実。 >>727
きちんと編年されていないと言いつつ1世紀までとか言い切る詐欺師 どうして畿内説は1行で嘘だとわかることを書くのかなあ >>680
>甕棺は古墳時代でも使われてたよね。
福岡県のごく狭い地域で細々とね
それが、何か?
銅鏃の刺った受傷人骨なんて出てないぞ >>736
使われていたことを隠すなら嘘つきだろ。
簇が何の関係がある?
話を逸らすなよ詐欺師 >>685
>勝手に北に捏造しないように。
戸数・道里の判明してる国は女王国以北だぞ >>738
鉄器が出るのは、前方後円墳や軽量薄型土器とおなじ時期。
前方後円墳や軽量薄型土器が出現する以前には、鉄器は絶対に出ない。 「忌部はん」が全国に、鉄器や前方後円墳、軽量薄型土器などを広めたんだから。 @阿波 >>686
>じゃあ大きな箸墓はアウト
倭王が諸葛孔明の遺言を守る必要はさらさら無い >>322
>邪馬台国の都は葛城なのだ。<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠って、×。 >>691
>よって、箸墓古墳は「槨有り」との認識で間違いないです。
この爺さんは「夕焼けが赤いから邪馬台国は九州だ」とか言い出しかねないなー >>695
>見ても無いのになぜ断言できるのかな?w
報告書にそう書かれてるからさ、 頭の悪い奥山は、頭が悪すぎて自ら左遷を希望し、妄想世界へ単身赴任してしまったのでは、ないのかな。。。 >>698
>中国の様式と一致していなくても槨は槨だよなw
それを中国人は槨と言わないよ ホケノ箸墓 小枝と馬具、葺石
三角縁神獣鏡 鉛同位体
大型建物 各地で発見
土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上
学術的に決着がついてる
キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか? >>748
周りはみーんな気づいてるけど、韓国式脳を持つ奥山には、理解が出来ないのだよ。。。 >>747
中国人が見たら槨ありに分類するだろうね。
室(人が入れる)ではないが、槨(人が入れるかどうかは問わない)ではある。 >>704
根拠の出せない思い付きを口走るだけ
それが九州説
銅矛だって存続してないだろ 頭の悪い奥山は、自分の主張を否定された場合、相手の主張していない事に対し、それを否定することが、反論だと思っているのだろうか。。。
753 日本@名無史さん 2019/10/04(金) 18:43:36.61 ID:
>>704
根拠の出せない思い付きを口走るだけ
それが九州説
銅矛だって存続してないだろ 銅鐸は存在すら忘れられた存在。
銅矛は国産み神話の重要なアイテム。
国産み神話に出てくるということは、これで国土を獲得したということ。
倭国は銅矛で征服戦争を繰り広げたのだろうな。 >>330
>近畿地方では、近江、木津川、大和に鉄器が現れるのは3世紀中頃から。<
東征毛人五十五國の別動隊の将軍らの、大和の鉄鏃副葬は3世紀末〜4世紀。
>河内や摂津、播磨などではすでに弥生の後期には鉄器がみられる。
つまり、鉄器禁輸ラインは近江・大和ラインであって、
そこから東も鉄過疎地帯で、東北も同様に鉄器過疎地帯だった。
しかし、唯一、弥生後期後半になってピンポイント的に関東へ鉄刀・鉄釧が流入する。<
東征軍は、大和へは別動隊だが、
瀬戸内→摂津河内→近江→東海→南関東は主力軍。 神社からも銅矛出土するから明らかだな日本人なら納得できる >>745
で、箸墓の公式報告書とやらを本当に見たことあるのか? 銅鐸は割られたり、溶かされたりして、三角縁神獣鏡へと、姿を変えていったのでは、ないのかな。。。 鉄器禁輸ラインてw
あえて禁輸してたんじゃなくて
倭人がいないから鉄器が配分されなかっただけ >>760
ホケノ箸墓 小枝と馬具、葺石
三角縁神獣鏡 鉛同位体
大型建物 各地で発見
土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上
学術的に決着がついてる
キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか? >>339
>>それ、畿内限定だろ 古墳時代になっても畿内は貧しいまま
もしくは、九州からやってきた支配者だけが鉄を占有していた<
>証拠があるなら出してね<
倭王武の「自昔・・・東征毛人五十五國」。 >>728
>九州ではずっと後世でも甕棺は甕棺。
九州説は考古学を完全否定しないと立ち行かなくのね
w >>732
九州説はなw
甕棺の編年も知らんのだから >>735
>どうして畿内説は1行で嘘だとわかることを書くのかなあ
嘘だと決め付ける理由は? ここに書き込んでる畿内説派は重障だよ。
放置放置。 >>737
>使われていたことを隠すなら嘘つきだろ。
>簇が何の関係がある?
>話を逸らすなよ詐欺師
おいおい
倭国乱の痕跡の話だろ
受傷人骨の話だろ
話を逸らしてるのは異常九州説の側だぞ >>740
九州説よ
まず理由を言うんだな
詐欺師と思われたくなかったらな >>743
>投馬国は里程の記載がない。
ないと何かね? >>767
反論できなくなって
九州説また逃亡か?
痴呆痴呆 >>763
>倭王武の「自昔・・・東征毛人五十五國」。
フルタ説の独自説は証拠になりません >>656
654では倭国に倭種の国を包括する考えだが、倭種の国は倭地に含めている可能性があるとする考えのほうがよいと思われる。 >>763
古田説の根拠は古田説だけである
という
永遠のタマネギ九州説が悲惨 >>770
郡使は通過していない。
つまり投馬国は邪馬台国の北にはない。 ホケノ箸墓 小枝と馬具、葺石
三角縁神獣鏡 鉛同位体
大型建物 各地で発見
土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上
学術的に決着がついてる
キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか? >>773
どっちにせよ
倭国を九州、倭種を畿内にしたいという
九州説の歪んだ欲望には
なんら根拠がない >>776
>学術的に決着がついてる
そう発言する学者がいないのは何故?
それはね、九州説が妄想だからだよ 北部九州の朝鮮から伝わったアンドロノヴォ系銅矛系列は
日本列島には拡がらなかった 自分では読んだこともない箸墓の公式報告書にあれが書いてある、これが書いてあると
デマカセを言うやつがいるそうですね >>781
箸墓の公式報告書に鐙の話が書いてあるなんて、誰も言ってないぞ >>777
魏志倭人伝が根拠だよ。
郡使は九州北部までしか来た記録がないのに、卑弥呼に会っている。
そして邪馬台国の東には海の向こうにまた倭種の国がある。 >>726
>倭はまだ槨の段階であり、魏志倭人伝は室について記載していない。
本当に情報を読み取る能力が低いんだなww
「人が入れるもの全てが室」じゃないんだよ
大陸中華の後漢から魏晋代の人間の認識する「槨」は既にこのレベル
Hc9f7Bb.jpg >>707から追って
これを「槨」と認識している人(魏使)がホケノ山古墳の埋葬主体の構造を見て
「槨」とは思わないってこと
ホケノ山の木囲い構造を、「槨」だと言い張るとしてもこの図で言う箱型1式T型に
無理すれば入るかなくらいで、そのような春秋戦国時代の様式は王莽の新より前に
なくなっている
EhvwxiD.jpg >>707から追って >>673
古の行書体は右字に似る。
魏略では右字になっているが、これは古の行書体を右字と見誤った可能性もある。 >>783
>魏志倭人伝が根拠だよ。
>郡使は九州北部までしか来た記録がないのに、卑弥呼に会っている。
魏志倭人伝のどこに、そんなこと書いてある?
「おれさまの妄想が根拠だ」ってヤツ? >>784
ああ言えばこう言うキナイコシ
誰もお前の妄言を信用していない >>784
>これを「槨」と認識している人(魏使)がホケノ山古墳の埋葬主体の構造を見て
>「槨」とは思わないってこと
根拠なし >>728
>お前が勝手に区別しているだけ。
>九州ではずっと後世でも甕棺は甕棺。
きちんと物事を考えられる人は、甕棺墓時代といえば1メートルを超える成人用
大型甕棺を特別生産していた時代に限定されるんだよ
http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/kyureki/_common/pdf/kaisetu/kaisetu02.pdf
「この甕棺葬は弥生時代中期に盛行しますが、弥生時代後期前半(1世紀)には
基本的に終わりを向え、その後は箱式石棺墓や土坑墓が多くなりますが、墓の
数自体は甕棺墓に比べ激減します。」 >>783
乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
-卑弥呼の宮殿の様子↑は詳細で実際に見ていなければ書けない情報
-魏使が実際に足を踏み入れたのは里数表記、末盧国、伊都国、奴国、不弥国の4カ国のみ
つまり卑弥呼の宮殿はこの4カ国のどれか。消去法により、奴国(博多)となる。 >>729
>社会経験のある博士によるブログ
だれ?
具体的に固有名詞であげてくれww
具体的なURLでもいいぞw >>733
>末盧国はまわりの道の様子も記録
その記録が、倭面土国王の遣使のときの記録の転載なんだよ
逆にそのときには、奴国、不彌国にはルートが異なるので行っていないのだろう >>734
>きちんと編年されていないと言いつつ1世紀までとか言い切る詐欺師
おいおい、>>727に書いてあるのは
「きちんと『編年されてる』ので九州説のデタラメは通用しない」
だぞww
本当に、日本語の読み書きが苦手なんだなw >>788
なしって?
中国人が知ってる「槨」と似ても似つかないだろ?
それとも
あれを見て中国人は「槨」と呼ぶのだと言い張る根拠でもあるのか?
ないなら黙るよろし >>790
なるほど。
卑弥呼の記述は、倭面土国王の時の転載じゃないね。 >>790
>-魏使が実際に足を踏み入れたのは里数表記、末盧国、伊都国、奴国、不弥国の4カ国のみ
そんなこと決め付ける根拠は? >>790
>-魏使が実際に足を踏み入れたのは里数表記、末盧国、伊都国、奴国、不弥国の4カ国のみ
渡海千里した先の名も知らぬ倭種の国は >>737
>使われていたことを隠すなら嘘つきだろ。
既に大型甕棺の生産は終わっていて、小型の日用品の甕に
幼児や子供が入れられたものが残存しているだけだぞ
それは、甕棺墓時代とは言わない
「また、この後期段階では成人墓とともに乳幼児墓が以前より広い間隔で配置されて
います。すなわち、墓に埋葬される人、されない人という階層分化が進展したことを
示していると考えられ、この社会構造は古墳時代へつながる基盤となります。」
この「後期段階」は弥生時代後期で、>>789の
「その後は箱式石棺墓や土坑墓が多くなりますが、墓の
数自体は甕棺墓に比べ激減します。」
の時期の話
この時期には「甕棺墓の王国」ははっきり衰退している >>143
帯方郡
↓↓
↓東治≒投馬国(宮崎)
↓↓…580q「水行十日(奄美大島)陸行一月」
東冶≒女王国(12,000里)
中国大陸の道里の、倭国への転用か(納得)! >>743
>投馬国は里程の記載がない。
チェリーピッカーは、似た言葉を混同することでごまかすww
略載されるのは「道里」であって、「里程」ではない
女王国以北は戸数道里略載があり、邪馬台国も当然、戸数道里が略載されているが
道里 戸数
南至投馬國、 水行二十日。 官名、可五萬餘戶。
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。官名、可七萬餘戶。
自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。
次有斯馬國、次有已百支國、
となっている。
まともに文献の読める人には、投馬国が女王国より以北の国であることは自明 ホケノ箸墓 小枝と馬具、葺石
三角縁神獣鏡 鉛同位体
大型建物 各地で発見
土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上
学術的に決着がついてる
キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか? >>751
>中国人が見たら槨ありに分類するだろうね。
>室(人が入れる)ではないが、槨(人が入れるかどうかは問わない)ではある。
大間違いww
3世紀時点で、槨は人が入って祭祀を行う構造
ホケノ山の木囲いは「槨」には当たらない
人が入れるかどうかが「槨」と「室」の区別ではない >>802
>まともに文献の読める人には、投馬国が女王国より以北の国であることは自明
だから女王国が九州だと以北に投馬国があると汗かきまくりの国出身のキナイコシが
必死になるわけだw >>775
>郡使は通過していない。
これ、まったくの無根拠で、思いつきのでっち上げ、でたらめww
>つまり投馬国は邪馬台国の北にはない。
1行目と2行目がまったくつながらないww
どこまでもでたらめ捏造体質ww
魏使が訪問(通過)した邪馬台国までの国、及びそれ以前からの記録のある国は
戸数道里が略載できるんだよ
倭国が遠絶だから、魏使(及びそれ以前)の訪問記録のないところは
戸数道里も略載できない >>780
>>776みたいに無根拠で繰り返されるコピペは、最初の製作者はともかく
貼ってるのはほぼ連続句読点w ホケノ箸墓 小枝と馬具、葺石
三角縁神獣鏡 鉛同位体
大型建物 各地で発見
土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上
学術的に決着がついてる
キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか? >>805
九州説おじいさん
あなたの日本語わからない
アセッテル? >>785
>古の行書体は右字に似る。
>魏略では右字になっているが、これは古の行書体を右字と見誤った可能性もある。
逆もまた真なりww
本来が右で魏略で右字になっているものを、古の行書体と見誤った可能性もある
狗古智卑狗を菊池彦と読む根拠は実は非常に希薄なものでしかない >>809
やっぱり九州説の病気の人ですね
連呼は心の病気です ホケノ箸墓 小枝・槨と馬具・葺石
三角縁神獣鏡 鉛同位体比
大型建物 各地で発見
土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上
学術的に決着がついてる
キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか? >>787
>ああ言えばこう言うキナイコシ
>誰もお前の妄言を信用していない
具体的な反論はできないんだな?w
私の書き込みを信じろ、と言っているのではなく
具体的な専門家の論文を示しているのだから、その内容を読みなさいってこと
「漢墓の変容:槨から室へ」横暁芬
https://dpi.org/10.14989/shirin_77_667
専門家の論文の内容が信じられないというなら、信じられない理由を
「具体的な根拠」とともに「具体的に示して」ね! >>788
>根拠なし
具体的な「魏晋代に槨と認識される構造の図」が>>707に示してあるだろ?
「根拠として」ww
どこまでもバカなんだなw ホケノ箸墓 小枝・槨と馬具・葺石
三角縁神獣鏡 鉛同位体比
大型建物 各地で発見
土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上
学術的に決着がついてる
キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか? >>815
>右の根拠も希薄だけどね。
魏略逸文が右で記録されている
また、崇神紀のタケハニヤスの乱が、河内を根拠としたものなので
河内彦と読んだ方が記紀との整合性は高くなる
まあ、この時代の記紀はあてにできないから、これ以上のことは畿内説の人は
言わないけれどw >キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか?
考古学者は考古学者であって歴史家ではないけど
考古学者で畿内説を掲げてる人って三角縁の人以外でいたっけ? だから考古学者の誰だ
畿内説を名乗るのが問題ないなら
ここで名前を挙げればいいだろ 考古学者は九州の学者も含めてほぼ畿内説だと思っていい
心理学者が九州説
実際はイベント業だけど >>822
だから誰だ?
ほぼ畿内説なのが当たり前なら、
畿内説と思われる考古学者の名前を挙げてみなよ
なにコソコソ逃げ回ってるの? >>824
質問を質問で返すな
勝者の貫禄で名前を列挙すればいいだろ >>813
>学術的に決着がついてる
今までの流れから、これ書いたの九州説のやつだろ?
こんなこと書いてるんだから、どうやって九州説で決着がついて
九州説を唱えてる学者がどれだけいるかを示すのが先 >>811
狗古智卑狗(ココチヒコ)を河内彦と読むのはなお無理。
また、魏略の拘右智卑狗(クウチヒコ)は河内彦(カワチヒコ、コオチヒコ)とは読めないし、そもそも3世紀前半頃に大阪の河内(カワチ、コオチ)の地名があったのかどうか怪しいけどね。 ホケノ箸墓 小枝・槨と馬具・葺石
三角縁神獣鏡 鉛同位体比
大型建物 各地で発見
土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上
学術的に決着がついてる
キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか? >>826
だよねー
名前なんか挙げられないよねー
勝手に畿内説支持学者に決めつけたら
訴えられかねないもんねー >>828
この九州説さんはなんで
聞かれたら自分が嘘をついてるとバレるURL
を貼るんだろう
泊地なんだろうか >>821
>だから考古学者の誰だ
>畿内説を名乗るのが問題ないなら
>ここで名前を挙げればいいだろ
福永、佐々木、車崎
松木、東、北條
西本、白石、石川
久住、武末、西谷
まだ必要? >>833
「若杉山辰砂採掘遺跡」や「加茂宮ノ前遺跡」も知ってて知らぬふり。 これが、今の考古学者の現実。 @阿波 >>829
まあ仮に大阪の河内がOKなら、熊本市西区に河内町河内があり、狗古智卑狗はこの河内彦でぴったんこになるね。 >>833
「若杉山辰砂採掘遺跡」や「加茂宮ノ前遺跡」も知ってて知らぬふり。 これが、今の考古学者の実体。 @阿波 毎年、河内彦の蜜柑を送ってきてくれていた、僕達の叔母は、昭和の終わり頃に、亡くなってしまったのだったな。。 河内彦は、狗奴国に寝返り、卑弥呼の熊本城を山の裏から脅かしたのだったな。。 >>818
魏略の右は写本を重ねるうちに古を右に誤ったものだろう。
狗奴国を大阪河内とした場合、魏略、倭人伝に「邪馬台国の南」となっているのをむりやり大和(邪馬台国)の西と変えなければならなくなる。
それとも、邪馬台国は大和ではなく摂津だったという新説をたてるのがいいかもしれない。
熊本河内の場合は、北に邪馬台国を持ってこれるので、菊池の場合と同じでまったく無理がない。 有明海沿岸の異人はどうしても自分を歴史の中心にしたがる >>845
拘右智卑狗=大阪河内彦とした場合、邪馬台国と狗奴国は3世紀前半終わり頃に戦争してるからその頃交流なかったことになるが、
しかし、実際には、纏向には3世紀初頭頃から河内の土器が出ており、それが3世紀後半にも引き続き出ているので、とても戦争が行われたどころではないような友好的な様子となっている。
こういうこともあるから、拘右智卑狗=大阪河内彦は無理だな。 >>833
そのメンバーは純粋な畿内説じゃないぞw
畿内説の振りをしながら他所を探してる連中だw 九州説の学者まだ〜?
学術的に決着してるんでしょ
だったらすぐに学者の名前挙げられるだろ? ホケノ箸墓 小枝・槨と馬具・葺石
三角縁神獣鏡 鉛同位体比
大型建物 各地で発見
土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上
学術的に決着がついてる
キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか? 惨敗を繰り返し、もはやウソを連呼するくらいしか手のない九州説
悲惨だよ それよりも、なぜ家の話しばかりなんだろう。
某まいく・おーの曲(MV)があるでしょ?
△、天津飯と言ってる人がいたり、
某まいく・おー、妹と同じ5月15日でしょ? 河伯(河童)・・・家の写真と同じだしな、
龍宮〜の家なんだけど 『三つ目がとおる』も、ムーが何やらと書いてあったり このようなシーンがあるでしょ
『気功砲 ドラゴンボール』
某まいく・おーの曲
△の陰謀というスレに貼り付けたとき
「天津飯」(あまつかみ)そのよなレスがあったり うらしまマリン・・・ムー帝国(ムー大陸)
ほとんど同じ、三つ目、河伯〜など だから言っているんだよ、
もともと日本の話ではないんだと よくわからない掲示板の話
おまえは、おかしな宗教(日本のという意味だろう)に入ってるんだろう?
みたいな書き込みをしている人がいたり
中国の〜よりも、
はにわ(日本の)のほう凄いみたいな事を言ってる人がいて、それ対するレスなのかな? もれ(仮)と同じような考えなのかな?
それとも、つーちゃんなどを読んでいて、もれ(仮)の書き込みのあとに・・・? ホケノ箸墓 小枝・槨と馬具・葺石
三角縁神獣鏡 鉛同位体比
大型建物 各地で発見
土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上
学術的に決着がついてる
キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか? もはや
ニセ情報流しが
九州説に残された
唯一の生きる手段という
この、あまりに悲惨な末路 本当の話だったのかな、
老婆が結婚する前、何かの家(寒いな〜の家)の人みたいだよと言われたとか きゅうりの葉、ねぎの華の写真、
老婆も生まれていない頃のものだから、詳しいことはわからないとかw
こっちの人が、父親で母親、兄と妹(それとも弟?)・・・?
そういうことは知っている、母親は姉妹だったようなとか 後の〜〜(写真の時代?)〜〜という家の話なのかな、
子供がいるでしょ、兄と妹(それとも弟)
母親というのは、姉妹なんだよとか、
姉妹のどちらだったかなみたいな話 馬に乗り、寒いな〜の家も、
兄と妹じゃなかった?それとも他の家だった?
あとガンダムもw 捲簾大将?河伯・・・、
あと飛影というキャラでしょ、兄妹? どらごんぼーる・・・、
惑星の王子の子供も兄妹だしな・・・w違った? 凄い刀、謎の刀を持っていたと言っていたり、
ほとんど老婆談と同じ? ほんとーに、
もれ(仮)は知っているんだけど、
髭が濃いとかw剃った後の写真とか
松の木・・・・・・立っている人の写真の話 伊達郡というところの山の上のほうの話も・・・しているし、
本当の河伯の大将? 母親談によると、
髭を(伸ばしている)生やしているところは
見たこともないと言っているし、髪の毛も短くしていて・・・とか
伸ばしたりすると、
実際は????????????なのかな でも局(テレビ、アニメなど)も違うしな、
どうなっているんだろう
日本昔話、飛影、エヴァンゲリオン、・・・、・・・、・・・。その他 みつめがとおる。ヱヴァンゲリヲン。うらしまマリン。
亀仙人、河伯。? 忍者アニメでいうと写輪眼?
そういう家なのかな・・・阿羅漢、阿頼耶識?
かなり詳しかったり 後の〜(写真の当時)〜家の話なんだろう、
王母〜龍宮〜寒いな〜w 『河童 仏教』
たしか山の上のほうに住んでいたと言っているし、
老婆談によると伊達郡 父親、山守?
材木の話をしていたこともあるし、知り合い?親戚がいて〜とか、
神社、お寺とか、そういう関係の話? 戦争をしているときも、
伊達郡〜、老婆の家のある二本松?に疎開したと言っているし、
謎の制服の子供も軍人ではないのかな?
なぜか、ほとんど同じような話だし、
戦争にも行こう()としたんだけど、あまり背が高くなくて?
親の背は高かったとか (参加)行っていればな〜・・・みたいな話なのかな、
本当に残念な話? 4、5歳くらいの頃の写真で・・・w
設定も同じだし、どこかの王? それともカミタマ、仙、仏?、何かの直系の家?
しかし・・・・・・・本当に残念でしたみたいな話 川俣 軍司というのは何者なんだろう、
なんとなく川俣町、この辺りのことのような? 九州説だけどさ、纒向かあまりにも叩かれて可哀想だからプラスの評価をしてあげよう。
あれはやはり指導者層がいことを示す宮だよ。
つくりが神社建築そのものだもの。
本殿と拝殿が一列に並び、玉垣で囲ってある。
一部の建物だけ棟持柱があるのが特徴的だったはず。
だけれども、現地指揮官が一人いただけなんだよ。
伊勢遺跡みたいにそれが何棟も並んではいないから、ここに首長層が集まったということはない。
ここは王都ではあり得ない。
家臣に訓示を述べる建物はあっても、貴人達を迎える構造にはなっていない。
もちろん帯方郡からの使いを饗応した痕跡(建物も土器も)もない。 箸墓は真の神武陵、纏向の大型建物Dは、倭迹迹日百襲姫の祭殿だよ 箸墓・後円部の断面図(北側)
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追加
4段目…………/ ̄ ̄磐 ̄余 ̄彦 ̄ ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 奈良盆地全体が共同墓地だったのです。
纏向遺跡はいわゆる墓の維持管理センターの跡です。 妹の話なんだと言っているんだよ、
5月15日生まれ
『河童 仏教』?
きゅうりのような葉、ねぎの華・・・あの写真の家、
だから騙り、成りすましがいるんだろうと言っているわけなんだけど >>890
全国各地の土器が出土してるけど、あれはどういう解釈? >>790
明治天皇が発掘して、卑弥呼の王宮を発見したが、飛行場にしてしまった(一般人が近づけないw)。
卑弥呼の宮殿は、福岡空港の滑走路の下。
もう未来永劫見つからないよ(残念でした)w >>897
畿内説の大勝利!証拠を上手に隠してくれた明治大帝、万歳\(^o^)/ >>340
>>かき集めなきゃいけないような状況になるほど、鉄が貴重だったら
大量副葬なんてできない<
>ではなぜ古墳の外から鉄が見つからないのか<
遺族らにとっては、故人の生前の功績や特徴になる者を副葬するんだから。
東征毛人五十五國の故将軍らにとっては、鉄鏃や鉄剣などが個人の専有物であり、誉れであったから、
遺族は副葬した。
当然、被征服民らは、殆ど持ってもいなかったし、持つことさえが危険であったから、
副葬も出来ないももの。 『小椋佳 君はそれ以上』
なぜか・・・オウムの某と同じようなことを言っていたり、
ゴーストライター、それともシンクロ現象なのか >>897
九州説死亡www
さぁ畿内説について語れ! >>346
「南→東」などみたいな嘘をついて
もう死んでる大和説を
生きてるみたいに擬装しても
死体に頬紅をさしただけ
腐臭が漂ってる
それが大和説の卑しさだ オウムの某がいるでしょ、
娘が生まれたときの話、エピソード? >>141
>>143
帯方郡
↓↓
↓東治≒投馬国(宮崎)
↓↓…580q「水行十日(奄美大島)陸行一月」
東冶≒女王国(12,000里)
中国大陸の道里の、倭国への転用か! 兄と弟でしょ・・・あと妹がいるんだけど、
ほとんど同じ、合致しているし >>897
ニコラス・ケイジの「ナショナル・トレジャー」みたいw 何度言えばわかるんだ?
はやく刑務所に行け、べつに自殺でも良いんだけど、
ネットなどで、調べてみてわかっただろう 『何者にもなれない お前たち』
こういう作品も同じ、本当は、家の妹の話でしょ >>897
よいか、みなの衆!
天皇家によるおとぎ話・記紀を始め、なかったことにされた森加計問題、老後2000万円試算など、
この国では権力者の保身のため、いとも簡単に歴史が書き換えられてしまう国なのだ
つまり民主主義など絵に描いた餅で、我々は納税奴隷にすぎないのである!
ちなみに安倍総理は、饒速日側近の長脛彦の、津軽に逃れた兄・安日彦の末裔である! うらしまん王子、国王(後の?)・・・、
娘なら女王、王女でしょ >>897
その時に見つかった金印「親魏倭王」は、今も宮内庁・三の丸尚蔵館が地下金庫で厳重に隠し持ってるってこつ??? まさか・・・ほとんど合致していて、
『❓』このような状態とか? >>359
>>筑紫では、大和に先駆けて 「竪穴式石室」墓は既に始まっていたから。<
>竪穴式石室のルーツは吉備だ。(岩永省三)<
岩永も、「南→東」などのし嘘つき騙しの通説大和説者であるから、
発掘事実なら信用してもよいが、それに対する歴史的解釈は、全く信用出来ない。
それに、祇園山の墳裾に「竪穴式石室が13個あった」という事は史料実態であり、
そんな事は、その前から筑紫で竪穴式石室がある程度出現していなければ起こり得ない事であり、
また、この掲示板でも、どなたかの紹介を検索していたら、
九州北岸地域に竪穴式石室墓があった事を紹介してあった。 >>916
津軽に逃れた安日彦が、地元の狩猟採集民・蝦夷の酋長たちを組織して蝦夷の王となり、その末裔が阿弖流為で、大和朝廷に抵抗するようになるんだっけ? >>362
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
ガセネタで出来ているのだ そういう作品のストーリー(話)などは、
お前?お前たちの妄想 >>364
そうだよ
昔の大和説は、20世紀で既に消えて
いまいる連中は、キョクウの戦争皇国史観にクルった・・・・アホ詐欺のニセモノなんだよ
オームやナチスやISイスラムや白人至上主義者や安部自民みたいなもんだ 天王というのは東北地方の話なのかな?
本当の末裔は東北地方のほうに住んでいたとか >>372
つか、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
かんたんに論破されすぎ
鎧袖一触 本当に、おかしな話ばかり、
あの写真(キュウリの葉、葱の華?)も東北地方のほうの・・・?と言っているし >>376
「南→東」だ、ひがしだ、ヒガシなんだぁーしか言えない大和説って
死んでるよね 『姥清水』『わんぴーす 粉雪』なども、あの忍術のことでしょ? >>895
飯を食わなくてはいけないが、奈良盆地は不毛だから、本拠地の尾張から補給を受ける。
その中に各地の産物が含まれる。
しかし土器の分布からはかなり供給元に偏りがあり、とても畿内説が主張するような「各地の産物」ではない。
特に、最も物資が豊かだった筑紫から入ってきたものがほぼ皆無、さらに楽浪など海外からの輸入品も皆無。
まあ、尾張の出張所ていどの場所。 あと蚕、機織りなどの話しw
『七夕』
ほとんど、合致している
『牛郎 織女』
本当に末裔のような家があるとか? >>389
「南→東確定」などの嘘付き騙しがバレて、
負け組確定の大和説さん・・必死ですね オリオン(星座?)〜何やらと言っている人もいたりw >>395
>(祇園山)これは知っている。
2/3掘って66の墓があったから、全体では100の墓があったと考えられている。
全部掘っていないのは、道路工事の関係。<
成程。 >>927
それ賛成!
左手でB2ポスターに拡大コピーして、右手で拝むような仕草をしてみよう!
でも、どういう風に公表する?今まで隠してたんだけど...って? もう出さ(せ)ないでしょう。
漢委奴国王の時みたいにはいかないし。
ああ、この国の最高権力者って、どうしてこうなんだろう…orz >>423
>九州説は畿内説に向かって詐欺詐欺言うだけか? <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南→東」などで国民を騙すのは、嘘付き騙しの詐欺だから。 >>939
やっと解ったか?www
九州説などとっくの昔に死亡しているのだwww
さぁ畿内説について語れ! 木製仮面などは縄文系東日本の文化であり、纏向遺跡は鉄文化の浸透が遅れた原住民文化の名残りだ。
弥生時代の特徴である鉄文化が浸透していた証拠と言えるのはこういう遺跡。
↓
富の原遺跡/長崎県大村市
(弥生中期初頭〜後期前半)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E3%81%AE%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1
特に鉄戈の分析から得られた情報は大きく、原料鉱石として磁鉄鉱が用いられ、
錆分析から推定される鋼の炭素量は0.5から0.6パーセントで、刃部には真鍮を
削れる程度の硬度があり、別の鉄戈の棟部の錆びから調べられた炭素含量は
0.1から0.2パーセントであり、棟部が軟鋼であることが確認されている
すなわち刃部に高炭素の硬鋼を使用し、棟部に低炭素の軟鋼を組み合わせる
「合わせ鍛え」の技法(日本刀や農工具に用いられる技法)が弥生期から確認された >>790
昭和天皇が発掘して、卑弥呼の王宮を発見したが、飛行場にしてしまった(一般人が近づけないw)。
卑弥呼の宮殿は吉野ヶ里隣接の不彌国で、今自衛隊目達原駐屯地になってる旧特攻隊飛行場の下。
もう未来永劫見つからないよ(残念でした)w 『王母 龍宮 鳳 松傾 寒いな〜』
本当は家の妹という意味なんだよな、
『馬』という文字でしょ、家の写真に・・・、5月〜生まれで?
『何者にもなれない お前たち』 >>442
「南→東」などのような、全く嘘である事が明らか過ぎる、
という実に大和説者らしいウソ >>443
>帯方郡
↓↓
↓東治≒投馬国(宮崎)
↓↓…580q「水行十日(奄美大島)陸行一月」
東冶≒女王国(12,000里)
中国大陸の道里の、倭国への転用か(納得)!<
「邪馬台国」や「畿内」などと同じように、
「東冶」なんて魏志倭人伝に存在もしない文言を使った嘘つき騙しの大和説者の、
文言すり替え詐欺か。
納得。 『河童 仏教』?『氷の世界』?
家の真似をしている人がいる?という話(曲)なんだろう >>450
「南→東」などの嘘付き騙しだけではなく、
石塚やホケノの「3世紀末」以後の時系列などまでもを、
メチャクチャにするのが大和説の特徴 >>942
とても九州と畿内〜東海が同じ国とは思えないな。 〜直系なのかな?なぜか詳しいし、
当時、住んでいたところも・・・・・・だと言っていたり >>465
>>・畿内説の主張はどの文献記録にも該当する記述が無い
・箸墓古墳で調査されたのは外観と周濠の一部だけで実質何もわかっていない
・纏向遺跡で出土した遺物で3世紀のものは「桃の種」だけ<
>その主張・・・一つも証拠が出せないよね 九州説ってミジメだねw<
この投稿・・・、一つも「反論論理や根拠」を出していないよね。
大和説ってミジメだね。 >>469
大和は、神武が侵略植民を果たして、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の別動隊の征服で、
3世紀末以後に巨大墓を作れた、という事や、
「南≠東」などに拠って、
(卑弥呼の頃の)大和説は自滅ずみ 本当は日本の話、ガンダムの話?
某と某、某・・・は同じ人物(存在?)なんだろう
みたいな事を言ってる人がいたり、言ってるわけではない? >>933
すごいね
矛盾だらけの妄想
それに誰も主張してない架空の畿内説に対する反論 >>469
>北部九州は自滅没落ずみ・・・<
大和は、神武の侵入植民に拠って共存を果たし、
3世紀後半の九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」で 、
3世紀末に巨大墓を造れたもの。
九州の没落は、7世紀以後。 >>951
同じ国じゃないからね。
弥生時代に山陰ルートで日本に渡った半島政権の天下りが畿内政権の源流かと。
九州:縄文時代→弥生時代→古墳時代
半島政権流入
↓
畿内:縄文時代→古墳時代ー古墳時代 >>473
「南→東」や「王仲殊誹謗」みたいな、
確実にバレる露骨なウソをつけば
大和説が不利になるだけなのに 『何者にもなれない お前たち』
紫色の服のキャラの画像・・・馬、そのキャラは弟? それとも兄(キャラ)?
ペンギン、キュウリ、馬の文字に、紫色の服 >>476
>倭国大乱の痕跡が戦闘の痕跡を意味してるなら、そんなのは九州にもない
殺傷人骨が大量に見つかった山陰のみ
高地性集落も倭国大乱と関連があるかもしれないし、倭国大乱が畿内を含む可能性は十分ある
むしろ、倭国大乱の痕跡が全くないのが北部九州 <
「倭国大乱」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」であるから、
この大和説者の主張は、始めから×。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→伊勢→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ >>479
>吉備の特殊器台を使ったホケノ山・箸墓に殉葬なし…畿内説死亡 <
成程。 >>483
結局「南→東」などの嘘付き騙ししか言えない大和説って
貧困すぎるよね >>961
これ一部の九州説のやつらが企ててる日本の歴史改竄計画だな
日本は半島政権によって建国されたことにしたいんだろ >>485
だから、「南→東」などの証拠出してね
「嘘つき騙しの証拠」を出せないから、
今日も大和説がまた死ぬわけだが >>489
大和説の特徴
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをする
根本の情報がいいかげん
出所も示せない >>971
考古学的事実です。
勘違いしているようだが、半島人も倭人も同種の時代だ。 纏向の次の時代がこれだ。
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。
(証拠隠滅) 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1570239943/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 紫色の老婆、うらしまんと同じような話、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜若返ったとか? >>492
笑えるよ 九州説の圧勝だな
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言
大和の中でも纏向付近の極小地域支配。
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「石塚は3世紀末」や、
九州倭国の「東征毛人五十五國」があった。
「史料事実の否定曲解」では無理だな 。 >>975
4世期末以降だと纒向の次とは言い難い。
すでに応神朝の時代に突入している。 河伯(かっぱ?)〜浦島太郎〜若返り?
どういう事になっているんだろう >>496
普通の成人人類は「東西南北」はほぼ間違えないんだから、
倭人伝記載の方位を否定論を盲信する大和説が
圧倒的に不利になるね >>975
>検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
>施設があったことは間違いない」とみている。
古墳時代の大和は半島文化のエリアか。
九州北部が大陸の王朝と交流していたのと少し雰囲気が違うな。 それとも〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜後の話なのかな?
紫色の老婆・・・・・・ユカリという名前とか? >>502
そうやって
「南→東」などの嘘付き騙しの指摘に対して、
なにも反論ができず中傷ばかりする大和説が
社会の信用を失ったのは当然の結果だったな 私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)
畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)
大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)
関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)
熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長) >>961と>>975は関連があるとしか思えない。
纏向時代から知り合いが居たから渡来してきたんだよな。
そうでなきゃあんな辺鄙な土地へ引っ越して来るわけが無い。 なぜか知っているような気がするんだけど、
川崎区辺りの話?
むかーし住んでいたというところも、
いまの福島県の山の上のほうだしな >>506
>自分が書いただろ 倭人伝記載の方位が現実と違う事実を<
普通の成人人類は、東西南北をほぼ間違えないから、
魏の役人らの「方向」記録もほぼ間違っていないな。 >>507
ほら、また、
既に数え切れない位「理由を言って来てあった」のに、
「理由が言えない」と嘘つき騙しをして、
世間の人々を騙そうとする大和説者。
大和説は・・・・アホ詐欺師であると、自分で絶賛証明中 江南から稲作を持ち込んだ九州北部を中心とする弥生人、半島からやって来た古墳時代の畿内の渡来人たち。
倭国と日本国の違いなのだろうな。 >>511
>>むしろ、倭国大乱の痕跡が全くないのが北部九州<
>筑後平野にあったはず。
山陰のは、出雲国譲りの前段階に見せしめにされたのだろう。<
ふーん、成程。 >>991
免疫遺伝子の違い=人種の違いでわかる。
この乾燥耳垢圏がまさにヤマト色に染まった地域w
(もちろん北海道を除く)
湿潤耳垢:縄文系
乾燥耳垢:半島(ツングースク)系
https://i.imgur.com/VqqGojH.png >>993
なるほど。
狗奴国が東と書かれたり南と書かれたりする理由が分かったよ。 >>990
やっぱり理由を言わない九州説って、ばか? つまりヤマトが狗奴国とも考えられるということだね。 姥清水?
紫の老婆や母親・・・に対するストーカー
(女のストーカー?)なのかもしれない >>517
>殉葬を奴婢を古墳の周りに埋める事とカン違いして喜んでいる不幸な九州説<
張政らは、卑弥呼の冢で、
「jun葬者奴婢百餘人」があった事を実際に見たから、
記録出来たの。 >>526
大和説さん
「南→東」などの嘘付き騙しがバレたように、
筋道立てて説明できないというのは
頭が悪い証拠なんですよ 今回のスレッドでも、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人達が、完全に論破されてしまった。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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