信長の正室濃姫・まむしの娘の謎 3
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>>950
作家の永井路子氏もその様な趣旨を述べられていますね。
政略結婚の姫君は家中から選ばれたエリートだったと。 マジレスすると
親の家柄と生まれ順で決まるんだから本人の資質は関係ない
嫁いできた奥さんが偶然賢妻だった山内一豊や前田利家は運が良い 濃姫は実家を滅ぼされてなんで抗議しないの?
仕方ないとしてもたつおきを引き立てるとか >>955
龍興は父の仇の片割れ
取り立ててほしいのは、弟の利治 義龍が道三の実子であることは六角文書にしるされており、龍興は濃姫と血縁 信長は恨み深い性質で何十年も昔の恨みを持ち出して家臣に仕返ししたりする
・・のわりに六角承禎はしつこく抗戦されて甲賀ものをつかい鉄砲で狙撃されてるが
それでも知らんふりをしてあとで和議してる
安土城のある南近江のもと領主だから気を使って生かしていたのかもしれないい
斎藤龍興もかなり執念深く反撃されながら、美濃の安定で
もし生きていれば登用したかも わたしは信長は龍興を意識的に追放にとどめたのかと思ってた。
すると信長の伊勢長島攻撃は龍興追討の意もあったのか? 道三は義龍が思っていたより有能だったことに気がつくのが遅すぎた
実際義龍が生きていた頃の美濃は手強かった
龍興の代になって内部から切り崩し有能な家臣団を引き入れてやっと攻略できた
道三が義龍を認めて後見してたら天下取りの歴史が変わっていただろう 一色式部大輔、龍興が北(越前)から、長島の門徒の支援を受けた弘就が南(伊勢)から、旧領である美濃に入国・挟撃する計画は上手くいかず
天正元年(1573年)8月龍興は死亡した
弘就は大湊に船を出させて足弱衆(女や子供)などを運ばせていたが、天正元年(1573年)9月20日付けの塙直政の書状では「日根野が
足弱を送ってきた船の件は曲事であるので船主共を必ず成敗すること」を信長御意の事として大湊に通達しており後に日根野の協力者が処刑された。
天正2年(1574年)9月29日の総攻撃をもって長島の一向一揆は壊滅、日根野一族は長島を脱出した。
しばらく後に、長年対抗し続けてきた信長の元に降った。織田家仕官後の身分は馬廻で天正3年(1575年)8月の越前一向一揆討伐に参加し、
越前国に攻めこみ、日根野隊はここを固めていた一揆を撃破した
弟・盛就を初めとして一門らが揃って安土に屋敷地を与えられており日根野一門も信長の馬廻に取り立てられている。
本能寺の変では静観して光秀につかず、美濃の佐藤秀方と書状を交わしてる。のちに秀吉に仕えてる
ノブは龍興にはそしらぬふりで攻撃せずやさしいねえ。家臣も召し抱えてる >>955
信長に美濃を任せるという道三の遺言を守り通した 「美濃一国譲り状」についてだが、真筆とするには、
道三は信長について「三郎殿」あるいは「上総介殿」といつも記すのに、本状ではそうではない。
筆致が江戸時代のもの
など怪しい点が多く特に後者は致命的で江戸時代の捏造とされてる >>963
>「美濃一国譲り状」
って、信長宛に、「あなたに美濃一国ゆずる」って明記した手紙が残ってるの? >>958
六角承禎には、桶狭間のとき援軍を送ってもらった恩義を感じていたのだろうか??(w)
しかし、その次男は、甲斐に逃げて、武田滅亡のとき恵林寺で焼き殺されてるからなー
もしかして、鉄砲狙撃の黒幕はこいつだったのかな >国譲り状
>>963が示すような疑問点もあるけど
3通も捏造するかな?
末子の日暁(?)への手紙も捏造かな?
美濃の国衆を調略するのには大いに役立ったと思うよね 近江75万石の大藩・六角家のきりまわしは家老衆がやっており、大御所・ご当主若君のように二派で別々の政治をしていたのでしぜんと方針は曖昧に
応仁の乱いらい六角当主に軍勢の指揮力はないのでなので、おそらく桶狭間におくられた兵士は蒲生などの有力な家老衆の決議による
蒲生貞秀は、守護の六角高頼をよく補佐し、六角氏の戦国大名化に貢献した
六角氏内部にて観音寺騒動が起こると、主君・六角義治を匿ってその調停と収拾に尽力した。
主従の力が逆転してむしろ定秀の力のほうが上であり、永禄7年(1564年)には観音寺騒動で居城を追われて生活苦に
あえぐ承禎に対して金銭を貸し、しっかりと返済の約束も取り付けたりしている
蒲生定秀は六角氏が織田氏に滅ぼされると、蒲生氏は織田氏に属し、蒲生氏郷が織田信長の娘婿に迎えられるなど重用された
信長横死の報がもたらされると、氏郷を日野城から呼んで、6月3日卯刻に安土城から信長の御台君達を日野城に避難させ、立て籠もった
女房衆から安土城内の宝物を持ち出すよう賢秀に言ったが断り、「欲にふけっている」と批判されるので、そのまま退城した
すじのとおった武士じゃん。 徳川は新田氏の分家っというふれこみだが家康関東入府のあと
新田氏に家系図を差し出すように命令し
「ちゃんとした家は家系図などない」と断られると家康は「当家にはある。偽の新田家に違いない」と無視した
幕府には求められたとき、証拠など差し出せねばならないので各大名は色々偽造した
美濃の譲り状もそのひとつ(3つだけど) 義龍の家督は道三をきらった重臣によって行われた強制的な当主交代、義龍は身長2メートルもあって体が弱かった。
実際道三をたおして5年後に死亡してる
からだのよわい義龍が死んだら誰が家督を次ぐかで、龍興がすで9歳でもちろん可愛いが
道三としては9歳ではたよりなく、既に成人した弟たちに継がせたがった。そこで一色を名乗らせて官位とるなど運動した
義龍の寵臣たちは隠居した道三がまたでてくるのは避けたかったので、先手を取って弟を殺した
道三が美濃奪還を目指して兵を挙げた。もともと義龍は道三の実子であり殺すつもりはなかった
忠義の家臣の長井道勝が生け捕りにすると道三に組み付き、小牧源太が首を斬り落とした。長井道勝は激怒した
義龍は道三の首実検をしてから自分の行ないを悔やみ、罪障消滅をねがったとする太田牛一も説明してる
家臣たちは、親殺しは外聞が悪いので義龍は道三の実子ではない、仇討ちと宣伝した 道三は喜平次がころされると驚いて美濃の北の山城にたてこもった
ドラマでは道三は自殺するように突撃して信長をまきこむのをさけたとあるが
じっさいのところ信長は迷惑であり、助けに来たものの、長良川と木曽川のあいだの中洲に布陣するのみで
義理を果たし身を守るだけにもみえる。テレビとはだいぶちがう
おそらく信長はさいしょから濃姫となかは悪く道三をみごろしにしており、義龍も連絡は受けていたと取れる 長良川の戦いで道三が死んだ一年後に織田信忠がうまれる
つまり道三が生きてる間ははばかってできなかった、ほかの女遊びを信長は開始して
めでたく信忠が誕生した >>967
譲り状の存在は兎も角、
そのような約束はあっただらうと
するのが大方の見方みたいですね。 道三が死んだとき濃姫は結婚7年目で嫡子をもうけることができなかった・・・
3年子なきはされ、という言葉があり、むしろ7年もよく信長は辛抱してたえたということができます
織田信行は弟でありながらすでに複数の側室に3人も子供を設けていた
比較して信長が子供が出来ないとなれば織田家督を次ぐ資格なしとなりかねない
ようするに浮気ではない大問題なのです
道三がいたころは濃姫に子供もなくても舅の支持があれば信長は援軍を得ることが出来ましたが
もはや美濃の応援はえられないどころか、義龍は信行を支持して織田家督争いを煽るでしょう
しかもじっさいこのあと家臣たちは織田信行を支持して家督争いになります
ここでノブがやさしいのは信行をころしても、その3人の子は助命して柴田勝家に養育を命令してることで
信行のむすこ津田信澄は織田家順位5列まで引き立てて寵愛してます
とはいっても信澄は非常に冷酷な、司令官で知られ、人を馬で踏り殺したり
庶民はみな憎んでいたと伝えられます。また信澄は明智光秀の婿でもありました 道三が死んだすぐ後に女踊りしてた場所は信長と濃姫の結婚を取り持った人の屋敷
当人はもう故人だったが繋がりはあったから信忠の母親はやはり美濃関係の人だろうね 信長は身内には概して甘いよね、信行なんて二度も裏切っているのに
本人はともかく家族はキチンと対処してやっている。
尾張や美濃の庶民達にとっても良い政治をしている。規制緩和の
パイオニアだね。鉄砲買うのに莫大な金がいるので自由な商売で金を
ざくざく尾張や美濃に落とさせたわけで。 妻には春日刑部の娘と和田備前守の娘ふたり
正室は二人らしいね 濃姫がふがいないせいで信長は弟を殺さざる得なくなり
斎藤道三・将軍義輝・織田信長の暗殺はすべて濃姫が犯人であるといえなくもない
近衛家の飼ってる女スパイだとしたら偉い仕事やね 織田信行にしばらく子供がなければ殺されることもなかった
といっても当時としては織田信長のとし(24)で子供が3人いるのは当たり前なわけで
なんで15で嫁もらって子無し >>972
女遊びというよりも、煙たい舅がいなくなったので
側室をたくさん囲って
後継者作りに本腰を入れ始めた、ということでしょう
信忠は1557年生まれ
弟の子・信澄は1555年生まれ(諸説あり)
松平信康は1559年生まれ
なかなか息子ができない信長は内心焦っていたかもしれない
(信忠の前に信正という子がいる説もあるけど)
たて続けに、信忠、信孝、信雄が生まれる まむしの娘の謎2は半年で1000超えしたのに、3はちょうど2年かかっている。
何だこの差はw 秀頼も23歳まで二人の庶子しかいなかった
でも対外的には非公式だったので公的には子無し
政宗も第一子の庶子が生まれたのは24才
同様に信長も正室との間の子を望んでいたのなら不自然ではない
すでに信正がいたし焦る必要もない
秀吉も出世し始めてから側室をもつようになったが当初は多くはなかったしとりあえず信長から秀勝をもらって一旦跡取りは決まっていた
信長や秀吉がやたら側室をもつようになったのは多くの政略結婚や養子を送り込む必要のある立場になったから
跡取り作りのためではない
秀吉晩年も鶴松や秀頼は想定外に授かったが跡取りは秀次に決まっていたから関白職に就がせた
主君の息子を嫡養子に押し付けられるケースも珍しくなく戦国期の跡取り問題は跡取りがいないことより誰を跡取りにするかのは方がはるかに大きな問題だった
江戸時代になり嫡子をあらかじめ幕府に届け出するよう制度化されてからのほうが跡取りをもって早く産んで決定しなきゃと大名家では死活問題だったろう
末期養子も間に合わなくお取り潰しというケースもあったからな 柴田勝家は一代で織田信秀に取り立てられたらしい
恩義は織田信秀にありこの家をのこすのが忠義でさきに安定して子を生んだ
信行さまに仕えるのは臣道
いきなり敵国女スパイのノー姫が連れてきた信忠など本当にウツケの子だねとも
判断しにくい 結局信行を裏切って信長に生涯仕えることになった。
まあ二度も兄を裏切っているんじゃ救いようがないね。 >>989
家臣が裏切り者ではなく家臣に逃げられるような無能な主君なんだと世間は判断したんだよ
だから主君代えは容認されてた
関羽は劉備に義理立てして美談になったが戦国期ならそこであっさり曹操に鞍替えしても裏切り者扱いはされずむしろ先見の明があったと称賛されていたろう 濃姫の弟の一人は、本能寺の変で、信長と一緒に逝った 帰蝶様あの豪華な打掛姿で司会して欲しい、出演者より目立っちゃうな。
来年の頼朝さんとコンビ?どうせなら義時の小栗旬氏とでもいいのに。
こっちも某ドラマの信長だよね。染谷氏や長谷川氏が審査員でこないかな。 このスレッドは1000を超えました。
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