3世紀の纏向で鉄が使われなかった理由
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なぜ、3世紀の纏向では、鉄が使われなかったのだろうか、、、 邪馬台国畿内説を宣伝する係員の奥山氏への弔辞を発表します。。。
奥山氏、今、僕達はあなたにお別れを告げようとしています。数時間前、討論していた時はあんなに元気だったのに、、、突然、自殺体になろうとは、誰が予想できたでしょうか。
振り返ってみれば奥山氏と僕達との出会いは、5ちゃんねるの掲示板でした。偶然に僕達がスレッドを覗いた事がきっかけで、魏志倭人伝時代についての討論会で一緒に過ごしました。
奥山氏は、あの時からずっと変わらず卑劣な論敵でいてくれました。そして、奥山氏はいつも僕達に論破されましたね。。。僕達にとって奥山氏は、頭の悪さを楽しませて貰え、笑えてリラックスさせられる存在です。
奥山氏が頑張っているから、僕達が癒される、、、いつもそんな思いで生きてきました。
奥山氏、どうぞ安らかに眠ってください。また、天国であなたと討論できる日までお別れです。
奥山氏、本当に心よりありがとう。 3世紀の纏向は、石器の時代だったのではないのかな。 目と鼻の先の淡路で2世紀頃のどでかい鉄器製造施設の遺構が見つかってるのにか >>4
その淡路の遺構は九州から来た海人族のものだからね
奈良盆地は関係ないよ
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml
>エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
>ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
>弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
>愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
>「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
>今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。 巻向大溝の矢板は、100年前に石器で切り出され、石器で加工された床板を転用したのだったね。 神道で鉄なんて使われへんやろ
青銅ちゅーか真鍮やで
今でもそうや 纒向の祭祀道具が青銅製なのは纒向の祭祀こそ神道の原初形態という証拠やろ
出土するの神鏡やし
北九州の祭祀道具が鉄というのは今の神道とは違う廃絶した宗教という証明 九州の祭器は紀元前から青銅器だよ。
平原遺跡の超大型内行花文鏡「八咫の鏡」がその代表だね。
畿内は後世にそれを真似たというか、九州北部の文化が伝播した=九州北部からの入植者が持ち込んだ。 アカデミックの学会では、邪馬台国畿内説の根拠とされる物事は、全て、具体的な証拠としては、完全に否定されたのだったな。
そして、国が公式に設置した協会が、「アカデミックの学会では、邪馬台国畿内説の根拠とされる物事は、全て、具体的な証拠としては、完全に否定された」という真実を、高校生をはじめとする全国民に向けて放送したのだったね。 書紀にかかれてる6世紀初頭に筑紫に屯所を移したという記述に注目してる
そのころちょうど畿内でも古墳の築造をやめてしまった
つまりそのころに朝鮮半島南部にあった倭の本拠が筑紫に移ってきたことを示唆してるのであろう >>1
未だに纒向は全体の5%位しか発掘調査できてないから慌てるようなことはない。
同時代、近隣の唐古鍵遺跡からは出てるので、そのうち出てくるだろうし。 唐古鍵からは海人の装身具である銅釧が出ちゃってるんだよなぁ
つまり九州海人に征服された土地ってこと >>13
そりゃ神武天皇がやってきてるんだから、海人が進出してきてるに決まってるだろ。 1キナイコシ:蛙の骨は齧ってるのに桃の種は齧っていない
2キナイコシ:稲はそれまで石包丁の穂摘みだったのが鉄鎌で根刈りになった
3キナイコシ:住居がない
征服された生口が住居も与えられずに稲作するだけ
食料はわずかしか与えられず蛙を貪る日々
征服者が収穫時に根刈りで全回収して大型倉庫へ保管
桃も全回収して大型倉庫へ保管
稲は保存が効くから征服者の本拠地へ大量輸送
桃は腐るから腐ったぶんは廃棄 九州邪馬台国七万戸の胃袋は
キナイコシがカエルを齧りながら育てた米俵で満たされていましたw 鉄器が九州北部で作れるようになったのは1C頃だろ
3Cの畿内では鉄器はまだ馴染みが薄いものだったに違いない >>14
つまり畿内は九州北部の海人族により征服された土地。 >>18
邇邇芸が住み着いたのは吾田の笠沙岬
つまり神武は隼人の系統のインドネシア系海人族
北九州の海人族だけが海人族ではない。 そもそも魏より前、後漢の頃光武帝に朝貢した倭奴国は倭国の極南にあると後漢書東夷伝にもある。
倭国の極南=九州南部であるわけだから、初期の九州の4区分で言えば熊襲国であり、その後の7区分で言えば日向国となる。
九州が9区分になった後で言えば薩摩国となる。
中国三国時代よりも前、後漢の頃の倭国の覇者は北九州ではなく南九州の隼人だったわけだが
魏志倭人伝にしても、北九州に邪馬台国があったとして、倭国100国程の国の内の3割しか支配下にないし南から攻められてる。
倭国100国の残り7割が敵対勢力側だが、地の利を生かして帯方郡に朝貢できたに過ぎない。 そもそも淡路島の垣内遺跡が1世紀後半の日本最大の製鉄所跡なのに、鉄がないない言ってる方がヤバい。 >>21
そんなものがこの世に存在するとは露知らずカエル食ってたんだから 朝鮮半島 <狗邪韓国倭人が鉄採掘>
↓ ↑
壱岐対馬
↓ ↑ <絹・青玉を輸出!>
北部九州邪馬台国
<武力> <鉄原料独占> ⇔海上輸送⇔ 淡路島<鉄器加工>
<大量の鉄器>
↑↑↑ <搾取!> 庄内式土器の流れ!
キナイコシ<稲桃その他全てを献上>
>>>蛙の骨まで齧る!<<< 五斗長垣内遺跡
遺物の鉄器は、矢尻、鉄片、鏨(たがね)、切断された
鉄細片など75点が出土した。
方保田東原遺跡
合計500点以上の鉄が見つかっていて、その多さは全国でも際立った数です。
種類は斧やナイフなどのほか、鎌や釣り針など非常に多彩です。
注目されるのは、製品ではない塊や棒や板状の破片です。
これらは鉄器の素材となった物と考えられます。
出土数は全体の約半分を占めているので、この遺跡ではかなりの規模で
鉄器づくり(鉄鍛冶)が行われていたようです。
西弥護免遺跡
弥生終末期(581点の鉄器、細い針状の鉄滓など) >>19
インドネシアから渡来したなら、アウトリガーカヌーが伝わるはずだろパッパラパー 纏向は弥生文化に馴染めなかった東日本の縄文系先住民にとっての西の砦だったんじゃないかな >>28
当時アウトリガーカヌーがすでにあったかどうかは不明じゃない? >>30
アウトリガーカヌーがなかったら来れないだろパッパラパー 畿内では鉄はすぐ溶けるので使い物にならなかったのです
纏向の矢板を削った鉄器も2週間ほどで溶けたそうです(奥山談) >>35
世界最古の丸木舟は韓国で出土した8000年前のもの
だから丸木舟はせいぜい1万年くらい前から
だから旧石器時代にはまだない 木製品がいつからあるかなんて判断できるわけがないのに >>36
1万2000年前の丸ノミが南九州の遺跡で出ている。
この丸ノミは丸木舟を作るための道具とみられているよ。 巻向古墳群のホケノ山古墳から鉄類は出てんじゃね?
他の古墳からは登り窯の筒とかも出てるわな。
安本センセーも内行花文鏡が出てきてからダンマリだし .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>4
鉄加工であって製鉄ではないよね
半島から買った鉄を加工したんでしょ
その時代まだ日本では製鉄できないよ
>>8
古墳のルーツは吉備の楯築なんじゃないの
>>17
やっと製鉄できるようになったのは6世紀前半
それまでは交易で鉄を仕入れてた 1.纒向で鉄が使われなかったのは、まだヤマト王権が鉄利権を得ていなかったから(当時は壱岐が交易で鉄を入手し九州で使用&ギョクやヒスイの地域に鉄を融通していた)
2.纒向で鉄が使われなかったのは、そこはヤマト王権の物ではなく吉備関係の墓であったから >>38
>>36
38000年前に黒曜石めあてで日本に上陸した人は石器を持ってた
それで丸太舟を作ったのではという推測が出ている
なんせ古代に船として使える素材なんて樹ぐらいしかない .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. 九州説脳にはまともな判断力がないことを示すゴミレス .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>1
北部九州邪馬台国=王都は伊都=対馬海峡を押さえて鉄器を独占
と、敵対したからさ なんでキチガイ荒らしが巣食ってんだ?
マジでキチガイを措置入院させる方法ないかな .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 荒らしに構うのも荒らし
NGワードで透明あぼんするか逐一あぼんしろよ荒らし 使われなかったのではない。鉄がなかっただけ
3世紀までの畿内では墓の中からしか鉄器は出てこない
つまり限られた有力者だけが使う貴重品だったということ
纏向では鉄も人骨もなかなか出てこないが、カエルの骨はたくさん出てくる
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていない」は大嘘です! 3世紀の纏向には、鉄どころか、まだ、前方後円型の物体も出現していなかった可能性も、あるな。 纏向、つまり前方後円墳の初期と言うことは仏教の伝来を記念する時だったということでは?
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Buddha%27s_ashes_Stupa,_Vaishali,_Bihar.jpg
この前方後円墳は仏陀の遺物を埋葬したものとされてるが紀元前6世紀のものという。これを見て分
かる通り、日本の前方後円墳は初期の仏教由来であり、土を主体にして墓を造ったということは、日
本の信仰の根底に大地母神への崇拝があり、それは土への信仰であり、鉄器のような硬い塊を拒否し
たののではないか? 情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
弥生時代各時期における受傷人骨数
<弥生時代早期>
福岡1
高知5
<弥生時代前期>
福岡1 熊本1
兵庫5
<弥生時代中期>
九州52 (福岡39佐賀11長崎1熊本1) ※宝満川流域33
山口2
関西15 (大阪12奈良2兵庫1)
長野1
<弥生時代後期>
九州7 (福岡5佐賀1鹿児島1) ※宝満川流域4
鳥取10
関西0 情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
受傷成人人骨数の出土全成人人骨数に占める割合
<弥生時代中期>
九州 総1374出土中48 3.49%
福岡904出土中36 3.98%
佐賀409出土中10 2.44%
山口 187出土中2 1.07%
関西 95出土中15 15.79%
大阪 87出土中12 13.79%
奈良 4出土中2 50.00%
兵庫 4出土中1 25.00%
<弥生時代後期>
北部九州 187出土中7 3.21%
福岡 166出土中5 3.01%
佐賀 21出土中1 4.76%
鳥取 36出土中10 27.78%
関西0
弥生時代中期に関西でやばいことが起きた。
後期の関西は無風。
北部九州は甕棺墓制度の終了に伴って遺骨が溶けやすくなり、出土人骨総数が減った。
出土人骨総数に対する、殺傷人骨の割合は変わっていないから、
人口に対する戦乱自体は中期も後期も変わらず起きていたことがわかる。 >弥生時代中期に関西でやばいことが起きた。
北部九州銅戈勢力による東征だな。
白人によるアフリカ大陸侵略やアメリカインディアン征服。
その後生口として西へ運ばれ、同じく船荷用の尖り底の庄内式土器も開発された。
揺れる船倉では平底だと転がって倒れるから、木枠に尖り底を嵌めて固定した。
大漁連行されたから住居も無い荒れ地に。 >>129
> 本の信仰の根底に大地母神への崇拝があり、それは土への信仰であり、鉄器のような硬い塊を拒否したののではないか?
こじつけにも程がある
いくらなんでも無理しすぎ >>135
日本書紀の神代の冒頭の創世神話は、泥土が
創世の元とされてる。
泣き澤女の神や宇迦の御魂は極めれば、すべて土の神だ。
神奈川の真土神社の存在や、高知に100以上もある神母神社の
神母は大地母神そのものを指してるが。神母神社は高知では畝
丘樹下神社とも書く。これは奈良県の畝尾都多本神社の高知版
だろうが、やはり、土との関りを示してて、神社の神木の樹の下
周りの土を支持する信仰であるようだ。
大地母神の信仰、つまり樹その他の植物の繁栄を願ってる。 本日、「邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が無い。」という真実が、
日本国政府が設置した公式機関から発表されます。
Eテレ 10:20 <後漢書韓伝>
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國
馬韓 「其北與樂浪南與倭接」馬韓の北は楽浪郡と接し、馬韓の南は倭と接す
辰韓 「其北與濊貊接」
弁辰在辰韓之南 「其南亦與倭接」弁辰の南もまた倭と接す
どう見ても後漢時代から朝鮮半島南部は倭領。
<三国志魏志韓伝>
「韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
最初にドンと韓全体の南が倭と接することが明記されている。
馬韓を構成するのは55國。弁辰はたったの12國。
・馬韓の構成国のうち倭と接する国が多すぎて字数を割いていちいち列挙してられない。
・弁辰には金印倭人が鉄を取りに入っているので、情報価値が高い。「國出鐵 韓濊倭皆從取之」ことから、弁辰瀆盧國だけ特別に触れた
朝鮮半島南部にあった倭領=投馬國。その中心地が「到」狗邪韓國。
<三国志夫餘伝>
「南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接」
<三国志高句麗伝>
「南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接」
<三国志東沃沮伝>
「北與挹婁夫餘南與濊貊接」
<三国志濊伝>
「南與辰韓北與高句麗沃沮接」 新しいスレッドが出現したので、紹介します。
なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻するのかを、魏志倭人伝を翻訳し、理解するスレッド。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/kobun/1652411716/l50 >>1
和泉では紀元前後の製鉄遺跡出てるじゃん
逆に九州なんて邪馬台国時代の鉄は鍛治遺跡しかなく、材料は持ってきただけの話し >>1
良いぞ。良いぞ。
4世紀になるまで、巻向には鉄の道具がなかった事が分かった。
良いスレッドだ。
良いスレッドなので、掲示板での順番を、上げるぞ。
そして、>>141で紹介されたスレッドも、邪馬台国畿内説が、完全に破綻したことがわかる良いスレッドだ。
だが、魏志倭人伝を含む三国志という文章の作者が、
「人生を賭けて作成した文章のために、魏の存亡の状況や時期とは、完全に無関係に、魏の公文書以外の資料を、自由に、利用した。」
という当たり前の真実を理解出来なかった奥山氏には、理解出来ない可能性もあるな。 >>145
鉄器の話でしょ?銅製品の話してどうする?
それなら銅鐸の話をきちんと纏めてからにしたら? なぁ、例えお前がクラスの嫌われ者でもさ。俺はお前が好きだから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています