【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
九州に決まっとろうが?
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
邪馬台国畿内説の根拠は「邪馬台=大和=奈良(完)」だけやん笑
ここはそんな言葉遊び程度の学説を論理的に反論するスレやで
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
※泡チョンコは駄レスが伸びるだけやけん自スレでホルっときーよ
邪馬台国四国説 part3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1560747609/
推奨NGワード… 「阿波」「忌部」
前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬玖
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1570409525/ 泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ 泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww 思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れ 泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww ♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ 筑紫平野の謎。
玄界灘沿岸各地では3世紀中頃から前方後円墳が造られて行き、大和政権との関連が注目されるものとなっているが、一方、筑紫平野側にはこの3世紀後半には前方後円墳が見当たらない。
筑紫平野最古の前方後円墳とされるのは佐賀市の銚子塚古墳で、4世紀末の築造とされる。
では、この時期に筑紫平野各地は大和政権との関わりがなかったのかというとそうでもなく、前方後円墳は造られないながらも埴輪や副葬品には明らかに大和政権との関わりを示すものが出ている。
円筒埴輪や三角縁神獣鏡などがそれである。
つまり、筑紫平野の謎というのは、3世紀中頃から4世紀後半にかけて大和政権の象徴である前方後円墳がまったく造られていないことなのである。
そして、応神政権が始まる4世紀末頃から前方後円墳の築造が筑紫平野においても行われるようになる。
これは何を意味しているのだろうか。
つまりは、筑紫平野は大和政権から公式的にはハブられていたということになってくる。
では、なぜにハブられたか。
おそらく、筑紫平野は倭国の中の筑紫平野連合勢力の地であり、卑弥呼や台与の邪馬台国が盟主となっていた地方だったからだろう。
筑紫平野をハブっていたその大和政権が応神政権に代わるととたんに筑紫平野に前方後円墳が造られだすのをみると、ハブられた理由はそういうことだったのだろう。
つまり、大和政権は玄界灘連合を傘下に収めて、その一方では筑紫平野連合をハブっていたということになる。
筑紫平野に3世紀中頃〜4世紀後半まで前方後円墳がないのは、そういうことだったという歴史の真実。 >>7
応神天皇の前にあった筑紫平野等での大きな出来事といえば、
景行天皇の巡幸と熊襲征伐ではなかったかな。
つまり、景行天皇及びその流れの影響下にあったから、そのぶん前方後円墳への移行が遅れたのではないか?? >>8
>景行天皇の巡幸と熊襲征伐ではなかったかな。
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
九州に在る温泉への天皇行幸が、明治天皇行幸まで無いこと。
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>9
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>8
>景行天皇の巡幸と熊襲征伐ではなかったかな。
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
九州に在る温泉への天皇行幸が、明治天皇行幸まで無いこと。
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>11
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>8
>景行天皇の巡幸と熊襲征伐ではなかったかな
景行天皇は大和へ帰るについて、どういうわけか宮崎から有明海に出て熊本などを観光しながら進むが、なぜか山門を素通りして久留米への藤山の峠越えをする。
そして、その際に南の方を振り返って粟岬(あわのさき・所在不詳)を望見して八女の重畳とした山々の美しさに感激するのだけど、この八女の山々の西側の先端が女山であり、ここが粟岬ではないか。
女山は山門のやや北に位置している。
つまり、景行は山門の方角を見て感慨にふける描写となっているのだ。
日本書紀の編纂者は山門の「や」も書かずに、その山門を感慨深く景行に望見させているわけ。
この描写に、大和が山門の卑弥呼の死に関わった秘密が隠されていると思われる。
つまり、夏草や兵どもが夢の跡ということだ。
ここに、日本書紀の編纂者が景行を宮崎からすぐに大和へ帰らせずに、ぐるりと西回りさせた隠された理由があるとみる。
卑弥呼の死について大和はその理由をちゃんと知っていたということになってくる。
筑紫平野が4世紀末まで前方後円墳を造れなかった理由がそこにあったと思うよ。 >>9
>なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか
単に大和から遠かったから。^^ 前スレ>>993
>物部は、あくまで臣下物部であり、物部が邪馬台国の王族だったとは考えにくい
誰も物部が邪馬台国の王族だったなんて言ってないわけだが
問題は物部が「大連」の地位にあった氏族だということだ
ウジ・カバネ制では連の姓は神武東征以前から天皇家に仕えていた譜代の臣を表す
https://kotobank.jp/word/氏-34455
> 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
> 臣姓豪族は皇別すなわち天皇の後裔(こうえい)と称するのが一般であり、連姓豪族は神別すなわち神代の昔から皇祖の神々に奉仕した
> 神の後裔と称しているが、これは江戸時代における外様(とざま)大名と譜代(ふだい)大名との違いにも比せられる。
> すなわち、臣姓豪族は天皇家と連合して大和政権を構成した有力豪族、連姓豪族は大和政権の盟主としての天皇家の地位、実力の向上に伴って頭角を現した
> 家政機関のおもだった役人あがりであり、その家政機関が拡大改組されて大和政権の中枢機関となったのである。
神代の昔から皇祖神に仕えた、つまり神武東征以前からの譜代の皇室の臣下が連の姓を与えられているわけだ
この天皇家の家政機関の人間が九州人であることはそのまま皇室が九州出自であることの根拠となる
たとえば伊都国で邪馬台国に臣従していた安曇氏も連姓だ
その連姓の中でも大連として連の中の連であった物部氏が筑後山門出身であることは、当然彼らの主である天皇家がここにいたということになる
つまり筑後山門の邪馬台国が東遷したのが後の大和朝廷であると考えるのが自然 前スレ>>993
>物部は、あくまで臣下物部であり、物部が邪馬台国の王族だったとは考えにくい
誰も物部が邪馬台国の王族だったなんて言ってないわけだが
問題は物部が「大連」の地位にあった氏族だということだ
ウジ・カバネ制では連の姓は神武東征以前から天皇家に仕えていた譜代の臣を表す
https://kotobank.jp/word/氏-34455
> 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
> 臣姓豪族は皇別すなわち天皇の後裔(こうえい)と称するのが一般であり、連姓豪族は神別すなわち神代の昔から皇祖の神々に奉仕した
> 神の後裔と称しているが、これは江戸時代における外様(とざま)大名と譜代(ふだい)大名との違いにも比せられる。
> すなわち、臣姓豪族は天皇家と連合して大和政権を構成した有力豪族、連姓豪族は大和政権の盟主としての天皇家の地位、実力の向上に伴って頭角を現した
> 家政機関のおもだった役人あがりであり、その家政機関が拡大改組されて大和政権の中枢機関となったのである。
神代の昔から皇祖神に仕えた、つまり神武東征以前からの譜代の皇室の臣下が連の姓を与えられているわけだ
この天皇家の家政機関の人間が九州人であることはそのまま皇室が九州出自であることの根拠となる
たとえば伊都国で邪馬台国に臣従していた安曇氏も連姓だ
その連姓の中でも大連として連の中の連であった物部氏が筑後山門出身であることは、当然彼らの主である天皇家がここにいたということになる
つまり筑後山門の邪馬台国が東遷したのが後の大和朝廷であると考えるのが自然 >>8
>景行天皇の巡幸と熊襲征伐ではなかったかな。
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
九州に在る温泉への天皇行幸が、明治天皇行幸まで無いこと。
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>8
>景行天皇の巡幸と熊襲征伐ではなかったかな。
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
九州に在る温泉への天皇行幸が、明治天皇行幸まで無いこと。
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>7
247年迄の卑弥呼時代と300年代との根本的違いは瀬戸内海ルート。
本州もBC200年以降は青銅器の移入は有るが、出雲~丹後経由の日本海ルート。
宗像以東の遠賀川地域は経由しても、博多湾に入る必要は無かった。
九州と本州の青銅器文化の違いは、これが原因だろう。
247年迄の卑弥呼は、糸島、博多、筑紫平野21国の王。
これ以降に本州勢力と連携して半島進出、牛馬の移入などが始まるが、
313年の漢四郡撤退までは、246年に帯方郡に潰された馬韓辰韓王国の復興支援
半島南部での、魏晋との衝突は控えた富国強兵時代だったと考える。
この246〜313の間、魏晋の楽浪帯方の馬韓辰韓支配によって、青銅の輸入元が絶えているはずで、
荒神谷の青銅集積はこのころの青銅商人豪族に何らかの事件が有ったのではないかと推測する。
筑紫内陸に後の大和政権勢力=前方後円墳の登場が遅かったのは、
玄界灘〜半島方向以外には、軍事支配の徹底を必要としない、
わりと平和的な統合だったことを意味する。
支配層本家筋等は中央豪族化して、九州の栄華は終わる。 >>20
>247年迄の卑弥呼は、糸島、博多、筑紫平野21国の王。
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
九州に在る温泉への天皇行幸が、明治天皇行幸まで無いこと。
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>20
>筑紫内陸に後の大和政権勢力=前方後円墳の登場が遅かったのは…わりと平和的な統合だったことを意味する
筑紫内陸部では3世紀中頃に久留米市域に祇園山古墳(方墳)が造られ、そのあと3世紀後半に鳥栖市域に赤坂古墳(前方後方墳)が造られ、
その後3世紀末〜4世紀初頭にみやま市瀬高町域に車塚古墳(円墳)が造られている。
鳥栖市の3世紀後半の赤坂古墳が前方後方墳であることは注意を要する。
これより前の3世紀中頃には大和では前方後方墳のメクリ1号墳が造られており、
前方後方墳は前方後円型の墳丘墓とは系統を異にし、大和政権の象徴ではないことから、鳥栖市域の勢力は大和政権そのものには同調していなかったことが考えられる。
このような視点でみると、3世紀中頃に造られた久留米の祇園山古墳が方墳であることも注意を要することだといえる。
みやまの瀬高町の3世紀末の円墳の車塚古墳もこの視点からみると、微妙な墳形だと言えそうだ。
このようにみると、玄界灘沿岸では大和政権の傘下であることを示す前方後円墳がみられ、一方、筑紫平野では大和政権に同調しない墳形がみられるということになってくる。
この双方の墳形の在り方は、卑弥呼のあと男王が立てられたことと、そしてすぐに形成が逆転して卑弥呼の後継の台与が立てられたことと、かなりよく類似しているようにみえる。
筑紫平野連合は大和傘下の玄界灘連合と対立して大和傘下に入ることに同意しなかったとする視点が成り立つように思う。 >>15
なるほど、つまり天皇家の大番頭がみやま市瀬高町にいたのは天皇の祖先がそこにいたからってことね >>17
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>19
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>21
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>23
>なるほど、つまり天皇家の大番頭がみやま市瀬高町にいたのは天皇の祖先がそこにいたからってことね
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
九州に在る温泉への天皇行幸が、明治天皇行幸まで無いこと。
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>7
>つまり、大和政権は玄界灘連合を傘下に収めて、その一方では筑紫平野連合をハブっていたということになる。
>筑紫平野に3世紀中頃〜4世紀後半まで前方後円墳がないのは、そういうことだったという歴史の真実。
これは、同意。
その筑紫平野の政権こそ、邪馬台国の後嗣だろう。
壹與に比定され得る與止日女や、神功皇后に倒された田油津姫などの女性首長の伝統が残っていた地域だ。 >>15 >>23
天皇家の大番頭がみやま市瀬高町にいたからといって、天皇の祖先もそこにいたかどうかは不明だな
例えば、江戸に徳川が居たから、譜代大名も全て江戸市中にいたわけではない。
全国各地の要衝に配されていた。
倭国の時代も、それと同じような配置ではなかったか。
特にみやま市瀬高は、肥後・日向など九州中南部にとって北の難関函谷関とも言うべき交通防衛の要衝であり、
だからそこに軍事刑部に長けた物部連が陣取って、
倭女王たる肥後の卑弥呼体制を守っていたのではないか。
だからみやま市は山門郡(ヤマのト)、つまり邪馬の門(邪馬台国の門)と称されたのであろう。、 >>29
>例えば、江戸に徳川が居たから、譜代大名も全て江戸市中にいたわけではない。
日本国が全国に拡大していた時代と比べても意味がない。 >>30
つまり倭国という国体が九州島全域に拡大していった時代、
それこそが倭国大乱以降の三世紀九州だったということさ。 >>27
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れ >>28
>その筑紫平野の政権こそ、邪馬台国の後嗣だろう
応神天皇の時代になると佐賀市域に前方後円墳がつくられ始めることをみると、大和政権に同調しなかったこうした勢力が台頭して応神政権の支持層を形成していくという構図が考えられる。
宗像が応神政権に同調して頭角を現すのも、そうした流れだろう。
そして、その頃には博多は宗像に圧倒されて行くことになる。 >>27
>なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
阿波には、流刑で天皇が二人来ているけどね。 >>33
>応神天皇の時代になると佐賀市域に前方後円墳がつくられ始めることをみると・・、
なるほど・・、
逆に見れば、邪馬台国東遷後の九州・佐賀〜筑後〜熊本平野は一時的に空白域となった。
で、そこに群雄割拠した地方豪族の熊襲らを、景行天皇及びその皇子オウス(ヤマトタケル)の一族が征伐して、、
応神朝までの短い時代を抑えていたからということではないのかねえ >>34
>阿波には、流刑で天皇が二人来ているけどね。
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
九州に在る温泉への天皇行幸が、明治天皇行幸まで無いこと。
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 つまり、
九州で活躍したという景行天皇ーヤマトタケルー仲哀天皇ー神功皇后は、
実は古より、博多那の津を根拠地とした倭奴・九州王権の血筋の王族であり、
新渡来王族の邪馬台国勢力とは相いれないところがあったのではないか。
で、両派閥が覇権をかけて争ったのが倭国大乱であり、
この時は優勢勝ちとなった邪馬台国勢力ではあったが、まもなく東へ新天地を得て、去って行った。
その残党の熊襲や土蜘蛛たちを、景行天皇らが征伐して失地回復した。
が、それも束の間で、
東遷後、勢力を増して前方後円墳文化を広めつつあった近畿勢力に取り入った銅財閥の応神天皇に、
その後は名を成さしめることになった・・・、 >>29
物部は大連なんだから江戸時代でいえば老中とかのポジションだろ
老中が江戸詰めじゃないわけがない >>39
問題は、
その老中の出身であり、そして懐具合を支えた譜代の藩がどこにあったかだわな。 だから出身は筑後国山門郷なんだろ
もうそこが邪馬台国で確定じゃん >>39
そもそも大連の意味について、後世の誤解やら捏造やらが含まれているのではないか? >>38
いつもよく出てくる九州王権の東遷説のその東遷理由がどうも薄いような。 >>43
縄文時代から文物すべてが西から東へ拡散して行ったので、九州では東遷することがごく自然現象のように考えられているのでは? >>42
お前に都合が悪いからって根拠もなく否定とかw 人々が大量に移動するなら、そこに理由があるはず。
押し出す要因か、引っ張る要因。
九州で迫害や戦争があったのか、近畿に人を引き寄せる何かがあったのか >>37
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww お天気と文化は西から東へ、人の流れも又然り
ま、アメリカ東岸に上陸した移民は、西へ西へと幌馬車を走らせたけどな、、。 (>>48 続)
東遷/東征と称した学者が誰かは知らぬが、
そういう言い方をするから仰々しくなり、要らぬ波風・憶測もたつのであろう。
銃でインデイアンを追っ払いつつ、西へ西へと向かったアメリカ開拓移民と同じノリで、
古代渡来人も、鉄製武器で縄文/弥生人を追っ払いつつ、東へ東へと、新天地を開拓していっただけのことだろうな、、、、。 虚構の持つ効果性
天皇天孫降臨説
イエス処女生誕説
大ウソを信じる
大ウソが必要だった 大勢の人が組織を作るため
ウソを媒介して 多数の人が 仲間になる
ウソが言えない人は 仲間を作れない 少数派で 敗北していった
一神教こそが 多数の人を団結させられた
日本の多神教は 天皇という一神教でもあった >>49
>古代渡来人も、鉄製武器で縄文/弥生人を追っ払いつつ、東へ東へと、新天地を開拓していっただけのことだろうな、、、、。
それ、誰が主役なんだよ?
弥生人の中でも後期に乗り込んできた筑紫の一族が東へ東へと進出したんだろ。
だからシンボルが内行花文鏡。 >>41
そうそう、それがごく自然。
なんの理屈もいらんね。 >>51
遠賀川式土器が東へ拡散した以降に、九州系の土器が東へ拡散した例はないんとちゃう?
誰かも、九州人は出不精とか言っているし。 遠賀川だって弥生だろうに。
九州勢だとか弥生だとかは大雑把すぎるのでは? >>41
出身はそれでいいけど、王都は伊都なのでは?
倭国大乱で王統が交代して乗っ取ったのだろう。
倭国の王である条件は博多湾沿岸を制することだっただのだろう。
そう考えると、卑弥呼の前の男王も、その前の政権から王位を奪ったのだろう。 >>55
九州の地名と大和の地名がよく似ているから、九州から移住した人が相当いたのだろうといっているのは安本だが、
それにしては山門の地名がないよね。 >>56
>倭国の王である条件は博多沿岸を制することだったのだろう
地盤的にはその通りでしょう。
その上にやはり金印の権威の引継ぎも条件の一つではないか。
つまり、博多の承認がものを言ったとか。
なので、乗っ取りではなく、ある種の“禅譲”を必要としたと。 >>56
伊都はたぶん倭国大乱前までの王都だったんだと思う
光武帝から金印を貰って以来北部九州の国々の盟主の地位にあったけど、倭国大乱が起きてそれを鎮められなかった責任を負わされて
北部九州連合の盟主の座を筑後山門の卑弥呼に明け渡したんだと思うね >>59
思う、思うと妄想ばかり。 妄想はそんなに楽しいかい? わははははは @阿波 >>56
伊都は女王国に属している国であって女王国ではないと魏志倭人伝に明記されてるが >>60
泡チョンコロの思い込みによるトンスルフィクションより状況証拠と物証が揃ってるのが九州説 >>60
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>59
しかし金印そのものは志賀島にあったんだろ?
そうすると都もそれほど動かなかったのではないか。 ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国1】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国2】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 >>65
志賀島は安曇の聖地だから
金印は伊都国伝来の宝として渡さなかったんだろう
邪馬台国としても伊都国の協力は必要だから無理強いはできなかったんじゃないか >>66の模式図だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻)〜│★『(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】東南 船行1年」 >>67
だろう、だろうと妄想ばかり。 妄想はそんなに楽しいかい? わははははは @阿波 >>66
>>68
倭王卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書簡の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東→渡「海A」千余里 複有「国皆倭種B」(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南↓有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾が生じる。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>70
安本美典先生を囲む「卑弥呼会」のお姉さま、おはようございます!!! >>67
金印を最後に使ったのは卑弥呼だったはず。
ならば卑弥呼も志賀島にいなければいけない。 >>70すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>70
どうやら、九州の土地勘にうといお人柄だね。
仙台平野なんてのはちっぽけな半農半魚の川辺のど田舎
肝心の肥後の南半分を占める広大な球磨盆地の重要性がスッポリ抜け落ちてるな
肥後国11郡の中では球磨郡が最大勢力を誇っていた。
その主邑は球磨盆地(人吉盆地)だが、奈良平野と同じだけの広さがある。
しかも弓武術に優れた古代久米族の本拠地で、三世紀・呉製造の鍍金銅鏡が出土し、呉との太い絆・交流も想定されている。
狗奴国(球磨国)はここに比定すべきだよねえ。 >>73
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が1世紀前の邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国)の@景行A成務B仲哀、応神朝(邪馬台国)C応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、超巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 倭人伝に照合すれば、記紀の崇神〜神功皇后までに関する
卑弥呼に重複した九州の話については、存在しえないファンタジーw
応神時代に、九州は東遷ではなく本州勢力と統合し、
この本家筋は中央貴族として、纏向建国に参入した。
これが魏の半島侵略による卑弥呼時代の
239年公孫氏滅亡、246年馬韓王朝滅亡という、東夷覇権の危機感によって
富国強兵に向かった、古代日本の姿であることは明らかである。
邪馬台国の従魏晋政策では、313年の漢四郡消滅は無理で
楽浪帯方軍は余裕で南下してしまう。 >>76
>この本家筋は中央貴族として、纏向建国に参入した。
時代錯誤の妄想は楽しかろう。
まったく無意味だが。 >>58
>ある種の“禅譲”を必要とした
その禅譲を受けずに楽浪郡へアポなしで朝貢願いしたのが帥升、ということで。 >>74
肥人と隼人が組んだことがあるかどうかだね。
人吉の久米は神武と同行したように隼人系。
菊池、熊本、八代は肥人系。
人吉の久米が筑後の山門を攻めようとしたら、どうしても熊本などの肥人と組む必要がある。
隼人系と肥人系が組んだかどうかだよね。 >>79
そういうことだね
つまり、倭人伝の舞台だった三世紀において、
組んでいたのであれば味方同士。対立してれば、まさしく肥人の邪馬台国 対 隼人の狗奴国。 中国史書による半島の歴史
箕氏朝鮮は衛満に追われ韓に渡って韓王を名乗った。
この韓王は馬韓にあったが、246年に魏の帯方郡に討たれ断絶
以降、魏は馬韓、辰韓の王を廃して、臣智以下による直轄領とした。
この時、帯方太守は戦死し
魏の将軍位にあった難升米は、魏の正規軍としての檄を受けたが参戦しなかった。 卑弥呼は狗奴国との戦争で忙しいと言い訳したら、張政が視察に来たwww
この韓への魏の直轄は、漢四郡撤退の313年迄続いたが、
倭人国だった弁韓(後の加羅、任那)には王が有り
この後馬韓辰韓の復興を後援し、高句麗を追いつつ350年百済新羅を建国した。
この倭人伝での経緯では従魏晋の筑紫王卑弥呼が半島進出を企てられる道理は無い。
247年卑弥呼以降の九州は、本州勢力と軍事統合し、
対魏晋の防衛の為、統一日本は半島進出と富国強兵政策に転換した。 >>81
隼人は投馬国(宮崎)だから、魏志倭人伝からは中立に読める。 >>82
>魏の将軍位にあった難升米は、魏の正規軍としての檄を受けたが参戦しなかった。
儀礼的な位だろ。
>倭人国だった弁韓(後の加羅、任那)には王が有り
倭王とは別に王がいたなら、倭の領土ではない。 >>83
「大者自名為臣智」
と韓伝にあるので自称ですね >>85
隼人が宮崎とは初耳だ。
九州では薩摩隼人で通っているからね。 邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=筑紫の日向=天皇家の祖である山幸彦の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権 >>86
倭と言うのが国名ではなく海の東南の列島全ての事。漢時、百国以上。
だから、倭人伝は村でも港でも何でも国。 で、30国。
240年梯儁の印綬での調査時は女王国加盟参問21国で可7万戸が女王国。
この総称は無かったから、倭国王ではない邪馬台国の王が女王卑弥呼だった。
範囲は、
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
糸島〜福岡〜筑紫です。
三国志の難升米将軍?
魏の将軍位は、戦国時代であって、儀礼的ではなく同盟。
これで後方の東夷安定で、蜀を滅ぼした。
戦国時代の王と言うのは、
筑豊薩長土佐でも上信越奥でも領主の事。
古代は、半島は未統一の韓であって朝鮮じゃない。
地域名の朝鮮は、遼東半島周辺。
漢四郡設置で半独立の朝鮮王公孫氏も韓には不可触。
半島南部は朝鮮じゃない。 韓半島が正しい。
つまり、朝鮮民族なんて無い。 >>88
文献などでは大隅隼人がいるが、都萬(宮崎)隼人は聞かんな。
都萬あたりは景行天皇が大隅隼人の討伐の根拠地にしているくらいだから、宮崎隼人はないのとちがう? >>91
それは時代が違うから。
景行は敵味方の区別が怪しい暴れ者だし。
隼人は海幸の末裔だから、天孫や天照の末裔でもある。 倭人伝に日本神話を張り付けているのか。
ま、楽しいだろうな・・・、 同じ倭での出来事を記録しているのだよ?
どこかに接点がないとおかしいだろ。 同じ倭でも、数世代時代が違えば接点には乏しいが、時代が同じなら多くの接点はある。
問題は、ほんとうに時代が同じだったかどうかに絞られるな。 倭猿はカエルを喰ってやがったwギャハハw
あまりにも惨めw
やっぱり邪馬台国は畿内で決定www
思いあがった日本人どもに本当の歴史を教えてやるぜw
by キナイコシ >>72
卑弥呼が使ったのは魏からもらった新しい金印だろ
後漢の古いのは用済みだから伊都国が持ってても問題ない >>66
そうやって水行陸行をひと繫がりのルートとするのは誤読だってすでに判明しているのにそのテンプレもどき必要か?
> 73 :日本@名無史さん :2019/08/22(木) 23:45:04.55
> 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
> 水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
> これを押さえておかないと正解には辿り着かない
>
> 【用例】
> 通鑑釋文辯誤卷六
> https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
> >沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
> 江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
> 江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
>
> 【嘉興府志】
> https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
> >{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
> 嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
> やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
> また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし >>98
それは間違ってるね。
A地点→B地点を水行陸行それぞれで記した文章と、
A地点→B地点を水行、B地点→C地点を陸行、で別々に記した文章とを混同している。
あんたの負けだ。 >>97
畿内纒向説の破綻に伴い、
原田大六が唱えた伊都国糸島説も連鎖破綻した。 死せる孔明 卑弥呼を… 古賀 英毅
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/548439/
魏志倭人伝は約2千字の漢字で記される。正史「三国志」にある各国伝の中で最長だ。
渡邉教授によると、三国志以外の中国正史では倭の記述が最長のものはないそうだ。
「邪馬台国という“大帝国”がはるばる貢ぎ物を持ってきたのは仲達の功績。だから編者の陳寿は倭人伝をいっぱいまとめなければならなかった」と渡邉教授は言う。
三国志は仲達の孫、司馬炎が建てた西晋の時代に作られる。仲達は「高祖」と追号され「王朝の創始者」になる。皇帝と同格だ。
中国の皇帝はその徳を慕って異民族が貢ぎ物を持ってくるとされる。邪馬台国の遣使は、仲達が皇帝と呼ぶにもふさわしいことを証明する
絶好の素材だった。仮に公孫氏を滅ぼしたのが仲達でなかったら、倭人伝は重視されず、卑弥呼は歴史に残っていないかもしない。 >>99
そんな意味不明な負け惜しみを書かれましてもw >>69
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>98を踏まえて魏志倭人伝をよく読むと、倭人伝は行程を放射読みにする箇所はちゃんと他とは書き方を変えていることに気付く
わざわざ記述法を書き分けてあるということはそこは他とは違う読み方をしなければならないということ
連続読みの行程部分は全て動詞が至や到よりも前に書かれているが、
放射読みの箇所は動詞が至より後ろにあるか動詞そのものが無い
・從郡至倭 循海岸水【行】 歴韓国 乍南乍東 七千餘里┃到 其北岸 狗邪韓國 ・・・・・【動詞は前】
・始【度】一海 千餘里┃至 對海國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又南【渡】一海 千餘里・瀚海┃至 一大國 ・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又【渡】一海 千餘里┃至 末盧國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南 陸【行】五百里┃到 伊都國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南┃至 奴國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞なし】
・東【行】┃至 不彌國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・南┃至 投馬國 水【行】二十日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞は後ろ】
・南┃至 邪馬壹國 女王之所都 水【行】十日陸【行】一月 ・・・【★動詞は後ろ】
動詞が後ろまたは無い三箇所は距離と方位の起点が前段から移動しない
つまり並列の箇条書き文章であり、地図上では前段から放射読みとなる
上の行程文に照らすと放射読みの起点は全て伊都国である
まとめると
帯方郡 → 狗邪韓國 → 對海國 → 一大國 → 末盧國 → 伊都國
. . . . . . . . . . . . . . . . . . ┃
ルート分岐@ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┣→ 奴國 → 不彌國
ルート分岐A ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┣→ 投馬國
ルート分岐B ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┗→ 邪馬壹國
という構造 >>102
文章がまるきり雑然としてるな。
散らかし放題のごみマンション暮らしみたいな感じだ。少し整理整頓したらどうだ。 104
> 動詞が後ろまたは無い三箇所は距離と方位の起点が前段から移動しない
> ルート分岐
>@ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┣→ 奴國 → 不彌國
奴国の場合は、距離と方位の起点が前段の伊都国から移動しなかったのであるから、
移動しなかったはずの奴国を起点にしてその次の不彌国を決めるというのは論理矛盾で解せぬ。
キミの原則に従えば、だれが読んでも伊都国から東に行くと不彌国でなくてはならぬ。
ま、どうせ想定される現地に合わせて小細工してるんだろうけどな。 >>102
あんたが示しているのは
2点間の移動について、水行と陸行を並記したもの。
A→(水行陸行)→B
魏志倭人伝の行程は、
A→(水行)→B→(水行)→C→(陸行)→D
のように、地点が連なっている。
文法すら理解できずに
間違った引用をして恥ずかしくないのかね? >水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
魏志倭人伝のどこに、「水行●●陸行▲▲」という表現があるのだろうか
赤っ恥〜♪ >>64
反論するなら最低限の漢文読解力を身に着けてからにしたほうが良いぞ無能 >>110
>伊都は女王国に属している国であって女王国ではない
どの部分のこと? ♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>93
おっと。
まあ、倭人伝の投馬国は、鹿児島県の今の南さつま市阿多だよ。
万之瀬川の河口あたりだ。
そして、ここが伊弉諾が禊して天照や素戔嗚の神さんを生んだところだ。
倭人伝と日本神話がクロスする唯一の舞台だ。
ちなみに、宮崎の日下部さんはここの出身だけどな。
とすると、日下部さんは隼人の出だということになる。
おっと、倭人伝だったな。 >>113
「日下姓の起源」
古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある。
日下姓は、聖徳太子様の時代には存在していた名前である。
「古事記 中つ巻」の冒頭に日下の名前が登場するので、神代の時代から人代の時代に入った時には、もう既に存在していた名前である。
勿論、日本書紀にも出てくる。
阿波国(あわのくに:徳島県)の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られる。 また、隣の香川県も日下姓が多く、高知県高岡郡日高村にも日下の地名がある。
徳島県全体としては、徳島市に集中しており、日本一「日下姓」が多い地域である。
香川県全体としては、高松市に集中しており、日本一の徳島市に続いて「日下姓」が多い地域である。
このことから、西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県や香川県等、四国地方を起源にしていると考えられ、
この日下姓をとってみても、記紀は四国地方を記したものと言える。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 司馬懿のドラマで昨日とうがいが屯田の為、田を計ってたけど一歩は1・38だったから百歩は138メートルだよ > 73 :日本@名無史さん :2019/08/22(木) 23:45:04.55
> 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
> 水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
> これを押さえておかないと正解には辿り着かない
中国大陸においては、これを分断する大海はないのであるから、
水行○○、陸行○○の記述は、事実上、河川水行もしくは陸上陸行のケースに限定されるといっても過言ではない。
しかし倭は帯方東南大海の中であるから、倭へ至るには大海を渡らざるを得ない。
また島国であるから、海を渡り、川を渡った後に、また島を歩いたかもしれない。
中国大陸のしかも他の時代の文章をベースにおき、
これを絶対のものとして、安直に倭人伝を従わせようとするのは妥当な思考方法ではない。 だから卑弥呼の墓は百位無いとダメだね。行程は伊都国到で後は至るだから共立の首都は伊都、で伊都から水行なら十日、歩いて行けば一月が都 、だからたぶん宇佐。現実三月で陸一月は統治出来ない。宇佐なら西日本の中心位だし、やがて東遷して中心をずらしたんだよ。 間違えた水30日陸一月ね。舟漕ぐしかない時代に 畿内は遠すぎるし、百か国の時代デカすぎる。 >>114
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>120
どのみち、記紀は倭国(阿波)の記述だから。 @阿波 邪馬台国には南水行20日の投馬國から、南水行10日で上陸した。
末盧國、伊都國、奴国、不彌國は、九州北岸域である。
これらが想定できる場所から、いずれも南に水行は出来ない。
そもそも、船は末盧國で下船しているから無い。 瀬戸内海フェリーの想定かwww
文法論の張先生説の末盧國起点はある意味正しいのだが、
文法をこじつけても南を読み替えちゃったら畿内説以下だ。
帯方郡から
南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸
この2国は、都市間の距離を里程で示した地名ではなく、
人口も有ではなく可で示した国名。
邪馬台国は筑紫、次有21国で7万戸で此女王境界所盡。
女王国=邪馬台国には投馬国入国地点から、水行10日で上陸した。
女王の都とする処には、さらに陸行1月を要した。
都市間を里程で示した行程とは明らかに別の話であって
これは、240年の梯儁と247年の張政の記録が併記されている。
倭人船で寄港地の里程を残した張政は伊都までしか来ていないし、
魏の軍船で半島西岸も初探検の梯儁は、卑弥呼王宮で金印を渡している。
日本の王が瀬戸内海を往来できるようになったのが
これ以降なのに、梯儁が自前の魏の軍船で畿内の王に謁見できてたら
日本は不沈空母でもなんでもなく、半島同様の奴隷収奪地だろ?
日本古代王朝ってのは、魏が公孫氏と韓王を滅ぼした
250年でも湾岸から奈良に遷都するほど臆病なんだぞ?
難波に降りたのは、313年漢四郡撤退以降だよ。 >>122
>これらが想定できる場所から、いずれも南に水行は出来ない。
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 伊都ってのは、博多の西麓で多分湾岸含む早良。
末盧国ってのは、糸島北岸しかない。
そんなとこで張政が降ろされた理由は
卑弥呼の墓があった、首都港を軍事上見せたくなかった。の二択。
卑弥呼の墓は、150m日本史上最初の巨大古墳。
しかし、1年かかってないw 最初だし・・・
この後、日本は対魏晋の富国強兵政策で半島進出
牛馬の移入、鉄の国内生産を成功させているのである。
梯儁の軍船は、呼子唐津どころか糸島でもマヌケであって
博多湾に入るに決まってる。
風で宗像?土井ヶ浜〜呼子についても、徒歩の必要は無い。
船は海流や風と無関係に最後は博多湾に入るに決まってる。
@阿波は、相手にしないで良いから。。。 >>124
>船は海流や風と無関係に最後は博多湾に入るに決まってる。
対馬海流に流されて、末盧国は福津・宗像方面に決まっている。 わははははは @阿波 船は目的地が何処か?
壱岐を出ると自然条件で、呼子〜出雲としても
博多に帰ってこないと、仕事じゃ無いし帰る港は釜山だろ?
基本的には経験値で帰国が難しいだけの話だけど
呼子から流されても良いけど、
呼子まで行けば、五島から済州島、長江河口ルートも有るんだよ?
邪馬台国に丹の輸出は無い、でも言ったけど、
@阿波は相手にしない方が良いw 【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。
ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif.html >>126
大陸からの行きと帰りのルートは異なる。
大陸からの往路は筑前(宗像)・豊前経由 末盧国(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路は豊前・筑前・肥前(松浦)経由 大陸への出航地(平戸市周辺)
大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 >>126
大陸からの行きと帰りのルートは異なる。
大陸からの往路は筑前(宗像)・豊前経由 末盧国(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路は豊前・筑前・肥前(松浦)経由 大陸への出航地(平戸市周辺)
大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。
因みに、朝鮮半島からの出航地は、狗邪韓国(順天)で、
一方、対馬からの朝鮮半島着岸地は、対馬海流を利用して渡った釜山である。 @阿波 >>107
>奴国の場合は、距離と方位の起点が前段の伊都国から移動しなかったのであるから、
>移動しなかったはずの奴国を起点にしてその次の不彌国を決めるというのは論理矛盾で解せぬ。
君が論理を理解できてないだけ
起点というのは距離と方位の測定起点であって測定者の移動を意味しない
伊都から不彌国まで移動するのであれば間に奴国を挟む意味が無い >>109
南至邪馬壹國 女王之所都 【水行十日陸行一月】
恥晒しは君一人だよ >>108
>魏志倭人伝の行程は、
>A→(水行)→B→(水行)→C→(陸行)→D
>のように、地点が連なっている。
南至邪馬壹國 女王之所都 【水行十日陸行一月】
連なってませんが何か?
最近湧いてきたこの糞レベルの低いアホは畿内説なのかね? >>116
地形がどうであろうとも文法が変わるものではない
でないと地形を知らない者には読めない文章となってしまう
複数の実例が示されている以上、水行●●陸行■■は
「水行ならば●●掛かり、陸行ならば■■掛かる」以外の読み方はできない 筑紫神社
https://genbu.net/data/tikuzen/tikusi_title.htm
> 祭神は、五十猛神とも白日別神とも云われ筑紫の国魂である筑紫大明神。
> 後に、玉依姫命と坂上田村麿の霊を配祀した。
>
> もとは、筑紫の城山山頂に鎮座していたが、後、麓に移転したという。
>
> 『筑後國風土記』に、「筑紫」の語源として以下の話がある。
> 昔、筑前と筑後の境の鞍韉盡坂(したくらつくしのさか)に、
> 麁猛神(荒ぶる神)がおり、往来の人々の半数を殺してしまう。
> 筑紫の君と肥の君らが占いによって、甕依姫を巫女として、その神を祀らせた。
> それ以後、人々が殺されることはなくなった。
五十猛が安曇磯武良と同一神であることは過去スレで既出だが、この神が筑紫の国魂として祀られている
そしてこの神が荒ぶって大勢の人が死んだので、筑紫と肥の君らが巫女を立てて鎮めたたというのは
まんま倭国大乱からの卑弥呼共立を指しているように思える >>121
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>123
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば >>125
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>128
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>129
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>114
>古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある
この(くさか)に「日下」の字を当てるその理由が不明らしい。
いろんな説があるが、日本書紀神武紀の初めのほうに「河内国の草香邑の…」とあり、この草香邑は現在の東大阪市日下町あたりだとみられていて、日下(くさか)の元々の字はこの草香(くさか)だとされている。
草香になぜ日下の字が当てられたのかが学者の頭を悩ませている難問なのだ。
この難問に挑戦すると、日下の字が当てられた理由としては、次のことが考えられる。
埼玉県に草加市があり、草加の読みは(そうか)だが、これは元々は(くさか)だと思われる。東大阪市の草香(くさか)と同じだ。
この草加市の地形をみると、中川や綾瀬川などの大河の堤防に囲まれた土地だという。
東大阪市の草香も生駒山から流れ下る川の堤防の間にできた扇状地で、昔はすぐ西に河内湖の港があった。
つまり、この草香邑は生駒山と川の堤防と海に囲まれた場所だということになる。
埼玉県の草加市も東大阪市の草香邑も高い土手に囲まれた低地なのだ。
そして、その低地の土手の上には日が射していて、そして低地部分はやや暗い日陰になる。
この日陰という意味が(土手の上にある日よりも下にある低地)、つまり日下(ひのした)という表現になる。
これが日下の字の由来だろう。
このことからすると、草香(くさか)、草加(そうか=くさか)という地名は(川の土手に囲まれた低地)という意味であることが推測されるのだ。
この推測が正しいとすれば、ではなぜ川の堤防に囲まれた低地のことを(くさか)というのかという語源については、おそらく(くさ=草、か=場所)であり、(草が生い茂る場所)という意味だろう。
まあ、日下→草香→謎の語源は、たぶんこういうことだろうな。 このところ、九州説は元気が良いらしい。
いつ見ても上位にかおを出してるじゃないか。結構なことだ。 >>129
>狗邪韓国(順天)
倭人伝の「狗邪韓国に至る」の停泊地は固城。^^ 倭人伝の「狗邪韓国に至る」の停泊地は順天。^^ @阿波 >>134
筑前と筑後の境界っていうと現在の筑紫野市、太宰府市あたりか
その北側は伊都国の一大率が監督していたエリアだな
それがイソタケル=伊都王か
またひとつパズルのピースが埋まったな >>127
>此の地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり
この「笠沙の御前を真来通り」の主格がよく分からないな。
「韓国に向ひ」の主格は「此の地」であるので文章としては問題ないが、それに続く「笠沙の御前を真来通りて」とはいったい何が「真来通る」のか、文意が伝わらないへんな文章だ。
この古事記の文章の整合性のなさと比べると、日本書紀のこの箇所の記述はごく普通に文意が通るものとなっている。
古事記のこの文章は、日本書紀の文章を故意に変更したもののようにみえる。 >>127
福岡の高祖山が高千穂だとすると、天孫はどっから来たんだ? >>147
>「この地」は、笠沙岬に道が通じている
笠沙の岬を真木通りて→笠沙岬に道が通じている。
上の訳からすると、「真木(まぎ)」の意味が不明になる。
この古事記の「真木(まぎ)」と同じ発音は、日本書紀では「頓丘(ひたお)から国覓(くにまぎ)行去(とおりて)」の「覓(まぎ)」となっていて、
この日本書紀の「覓(まぎ)」は(求めて)の意味だとされている。
そこで「国覓(くにまぎ)」は(国を求めて)の意となる。
古事記の「真木(まぎ)」は日本書紀のこの「覓(まぎ)」と同じだと思われるので、「笠沙岬を真木通りて」は(笠沙岬を求め通りて)となり、
主格の「この地」を付けると(この地は笠沙岬を求めて通り)の意となり、文意が不明ということになる。
そして、このあとに続く「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」の文にもつながって行かないへんな文章となってしまう。
古事記の文がちゃんと意味が通じるものであるのなら、「真木(まぎ)」の意味をどのようなものとして使っているのかということになり、
「真木(まぎ)」の意味を明らかにしなければならなくなる。
「古事記(現代語訳・口語訳の全文)」のサイトでは、この箇所の「真木(まぎ)」を(まっすぐに)と訳している。
しかし、古語の「真木」はスギやヒノキのことであり、「真木柱(まきはしら)」は(太く立派な柱)のことだという。
なので、「真木(まぎ)」には(まっすぐに)という意味はみあたらず、
古事記の「真木通りて」は、どうにもヘンだということになってくる。 >>142
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>149
大陸からの行きと帰りのルートは異なる。
大陸からの往路は筑前(宗像)・豊前経由 末盧国(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路は豊前・筑前・肥前(松浦)経由 大陸への出航地(平戸市周辺)
大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。
因みに、朝鮮半島からの出航地は、狗邪韓国(順天)で、
一方、対馬からの朝鮮半島着岸地は、対馬海流を利用して渡った釜山である。 @阿波 >>127
>此の地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり
此の地は、(北は)韓国に向ひ、(南は)笠沙の御前を真来通り、(東側は)朝日の直刺す国、(西側は)夕日の日照る国なり
意訳だが、要するに上のようにのべているのではないか。
つまり此の地とは九州島のことで、降臨したのは九州島ほぼ中心の阿蘇東麓・高千穂邑
で、真来通りは、韓国に向ひと対をなす句(向かひの別表現)であろう。 >>127
天孫降臨の場所は古事記と日本書紀で記述が異なり、どっちがどうなのかなんて決めようがないが
そもそも大和言葉では多気は岳で使う場合もあるが、滝で使う場合もあり、久士布流多気が岳なのか滝なのか推測することすらできない。
宮崎県高千穂説だと、高千穂峡の真名井の滝にでも当てるのではなかろうか?
古事記にしろ日本書紀にしろ、その後の話しまで読めば、筑紫の日向の高千穂が北九州ではないことは理解できる。
天孫降臨の地とは何か?
天孫であるニニギが高天原から天降り着地した地点であって、それ以上の意味はない。
ニニギは天降った後嫁取りをしているが、ニニギの妻のコノハナサクヤヒメは別名カムアタツヒメ。
吾田の都(もしくは津)の姫という意味。
吾田というのは、今で言う鹿児島県を指す地名。
日本書紀ではもっとはっきりと、ニニギが天降り定住したのは鹿児島であることがわかるが
ニニギの一族は南九州を拠点とした一族であり、卑弥呼や邪馬台国に絡めるなら、卑弥呼と敵対した側の勢力だろう。 ひた‐お ‥を【頓丘】
〘名〙 「お」は丘の意で、 ひたすらに続いた丘。ただ丘ばかり続く地形。
阿蘇から
北を見れば韓国に向かい、南はひたすら丘の続く山道を笠沙まで(国覓(くにまぎ)行去(とおりて)・・・ >>154 つづき
154のように読めば、
南はひたすら丘の続く山道を笠沙まで(国覓(くにまぎ=杉)行去(とおりて)・・・となり、
ひたすら続く南九州特有の巨大な縄文スギの林の中を通りて笠沙に至る・・、というような意味ではないか。 >>153
>ニニギが天降り定住したのは鹿児島であることがわかるが
剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>156
瓊瓊杵尊笠狭宮跡
ttps://goo.gl/maps/dpMqb1aMz1Yz7pk4A >>157
地図など、どうでもいいからwww わははははは @阿波 >>153
>ニニギが天降り定住したのは鹿児島であることがわかるが
剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>150
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば >>156
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば >>158
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば >>160
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>158
諦めろ
古事記、日本書紀のどちらもニニギが居を定めたのは吾田で揺るがない。 >>152
>真来通りは、韓国に向かひと対をなす句(向かひの別表現)であろう
ウェブの古語辞典をみると、真木に(向ひ)の意味はみあたらない。
この真木(まき・まぎ)と同じ発音の語彙は、日本書紀の古事記と同じ文脈の個所にある覓(まぎ)。
この覓(まぎ)は、求めて、あるいは探しての意味。
日本書紀のこの一節を古事記が故意に書き改めたと考えれば、真木の意味が文脈上解釈不能である理由が分かる。
この視点からすれば、古事記の「韓国(からくに)」は日本書紀の「空国(からくに)」の故意の書き換えだとすることができる。
とすれば、古事記の天孫降臨のこの一節に立ってする地理的比定は無駄ということになってくる。
天孫降臨の地の地理的比定は日本書紀の記述に基づいて行うのがよく、その比定地は霧島連山に当てるのが正解。 >>152 の
>真来通りは、韓国に向かひと対をなす句(向かひの別表現)であろう
「韓国に向かひ」は、この地の北面はかくかくしかじかであるという説明である。
依って、これに対をなすとは、
「また、この地の南面は斯く斯くしかじかである」という地理的あるいは地誌的説明なのであろう。 >>167
>かくかくしかじか…
とはいうものの、(真木)の解釈が不能であることに変わりがない。
天孫の由来に関わる重要な一節で、古事記ともあろう史書が意味不可解な語彙を用いるのは極めて不可思議なこと。
唯一理解可能な解釈は、古事記のこの一節が故意に日本書紀の同箇所を書き換えたものであるということ。
なぜ書き換えたのかという点はまた別の話になるが、書き換えたことが事実であれば、古事記による天孫降臨の地理的理解は誤りだということになってくる。
この(真木)の語彙は、かくかように極めて重要な一語となっている。 一般には、古事記が先で、
これをもとに日本書紀が時の朝廷の都合に合わせて手を入れ、完成されたとされている。。
で、真木(クニマギ)は、、
南九州特有の古代巨木杉に覆われた山丘ということで良かろう
これは阿蘇谷杉、飫肥杉、都城杉などのように、今もその面影を見ることができる >>169
普通に歴史の時間に寝てなかったら、古事記が日本最古の歴史書で、その8年後が日本書紀ってのは学校で習ったろ。
古事記と日本書紀の編纂過程の違いも授業で聞かなかったか?
古事記は稗田阿礼が誦習した帝紀と旧辞を筆録したもの。
日本書紀はもっと大量の古い記録をひとまとめにしたもの。 >>169
>一般には、古事記が先で
古事記はダイジェスト版なので完成が早かった。
出発点は同じ。
古事記の編纂者は、日本書紀の編纂所に出入り自由だったようにみえる。
日本書紀が編集完了した天孫降臨や日向神話などを自己の編集目的に沿って書き換えたり、資料選抜を行ったフシがみえる。
だから、天孫降臨や日向神話を独自に日本書紀のそれよりも早く完了していたようには思えない。
むしろ、日本書紀のその部分のほうが古事記のそれよりも先に編集が完了していたと思うね。
それを見ることができた古事記の編纂者は、自分の都合によって、その日本書紀の記述を書き換えたことが推測される。 >>170
江戸時代の国学者が古事記を崇拝したから、教科書を編した学者も古事記のほうを持ち上げただけ。
そして、それを教えた先生もそれを教えてもらった生徒たちも、単にそう思い込んでいるに過ぎない。
古事記の序文が疑わしいとの指摘は、前からあるし。
しかし、それをしつこく追及していると、いろいろとややこしい話になってくるので、それ以上詮索しないようにしているわけ。 >>153
>ニニギは天降った後嫁取りをしているが
この点が最重要の部分。
日本書紀では、ニニギは吾田族の土地に住んで、そこの神の娘と婚姻して婿入りする。
一方、古事記では、ニニギは降臨した山上に留まってそこに宮殿を造営し、笠沙御前に遊んだおりに木の花咲くや姫と出会って婚姻して嫁取りする。
吾田が鹿児島県にあることは賛成だが、上の通り、日本書紀と古事記ではこれだけの違いがある。
婿入りと嫁取りではその在り方に雲泥の差がある。しかも、ニニギの宮が浜辺にあるのと山上にあるのとでは、もう設定が別の話となってくる。
そして、そのように、古事記は日本書紀とは別の物語を書いたということになってくるわけ。 「木花咲耶姫」を祀る、右が阿波町側の「明多意神社」、左が脇町側の「妙体神社」 @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/9380898/ >>153
>ニニギが天降り定住したのは鹿児島であることがわかるが
剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/
邇邇芸命の后「木花咲耶姫」を祀る、右が阿波町側の「明多意神社」、左が脇町側の「妙体神社」 @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/9380898/
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 さが平野をさがせ、、
さが平野をさがせ、、
さが平野をさがせ、、 日本(日本人)の話ではないんだけど、どういう事なの?
ほとんどウラシマンの家の話でしょ。 >>160
徳島の山の上から麓に降りたのが天孫降臨なのかな?
自分の天孫降臨のイメージは、武装して外地から侵入してきた
というものだから・・うーんw >>179
>徳島の山の上から麓に降りたのが天孫降臨なのかな?
その通り。 @阿波 >>177
奈良を掘りまくってあれだったから勢いづいてるんだろうけど
佐賀平野なるものが作られたのも邪馬台国より後でしょうよ >>169
>真木(クニマギ)は、南九州特有の古代スギに覆われた山丘ということで
そんなのマギ?
マジ?ノシャレナ。 >>183
唯一マジは
剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/
大吉野川をはさんで
邇邇芸命の后「木花咲耶姫」を祀る、右が阿波町側の「明多意神社」、左が脇町側の「妙体神社」
https://sueyasumas.exblog.jp/9380898/
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>183
マギーさんというわけではない。
古代史というと、とかく王朝の政治・軍事というような王権文化的な思考で読みたがるようだ。
しかし記紀や倭人伝を読んでみると、
古代人が巨大な恩恵を受けていた、或は、脅威を被っていた大自然に対する畏敬の部分もたくさんある。
現代人がすっかり忘れてしまっているぶぶんだ。
古代の佐賀平野は、その東端から西端まで、巨大なクスノキの杜が連なっていたようだ。
古代人はその樹幹の下を通り、日照りや雨や草を避けて行去(往来)できた。
(今も佐賀平野筑後平野には、小さいけれどもクスノキの杜を見ることができる)
みなみ九州も同様だったのであろう。
雨が多くて湿潤温暖な南九州では、水気の多い場所には良く杉が立つ。今でも都城は全国トップレベルの杉の産地である。
伐採する人も道具もなかった古代には
数百年・数千年の巨大杉の森が見渡す限り連なっていたことであろう。
古代人はその景観の中、巨樹の下を通り抜けて笠沙行去することを「真木通る」と記載したのであろう。、
。 おまいは偽を(奉って)祀っているんだよ、
というのも有名な話みたいだしな。
ネットなどでも、
どこそこ()は偽の〜〜〜を、まつっているとか。 佐賀中心部にある与賀神社には
樹齢1400年以上
一説には1600年以上と言われる
クスノキが天然記念物として
指定されていますね。 日本書紀だったかな、
佐賀平野の中央にはクスノキの巨大な古木があって、朝日の影は平野の西端に届き、夕日の影は東端まで届いた・・、という旨の記事がある。
これは1本の巨大樹のことではなく、楠木の杜が東西に連なっているさまを劇画的に述べたのであろう。
与賀神社の推定樹齢1600年委禱ともいわれるクスの古木は、卑弥呼のころに芽を出した若木だったというわけだ。
歴史の証人に感激!! >>189 の訂正
与賀神社の推定樹齢1600年以上 1400年だったら西暦600年
サバ読んで1600年でも西暦400年じゃないか
卑弥呼だと1770年前だぞ
100年以上もちがう そうかそうか、気になるか。
ま、いずれにせよ、そのタネをもたらしたクスノキの親樹の並木は、当時既に相当の古木ばかりだったことであろう。
樹の下を行去する弥生時代・古墳時代の人々を見下ろしつつ、タネを撒き続けてきたのであるが、
其のうちの壱の若木が、運よく今の与賀神社に至ったというわけだ。 >>185
>古代人はその樹幹の下を通り、日照りや雨や草を避けて行去(往来)できた…「真木通る」と記載した
クスノキの幹下の薄暗い獣道をずっと佐賀平野から都城を通って、屋久島まで詣でに行くのが「真木通る」かもな〜。 >>192
>運よく与賀神社に至った
与賀神社の祭神の与止日女神は神功の妹だそうじゃないか。
北部九州では神功が人気だな。
枕詞みたいに神功を神さんに箔付けしているし。
新羅を討った神功は北部九州では英雄なんかもな。 >>176
>こういう事実を…
阿波人(忌部)は異常な収集癖だな。
阿波には収集癖の神さんはいないのか? ^^ >>148
>しかし、古語の「真木」はスギやヒノキのことであり、「真木柱(まきはしら)」は(太く立派な柱)のことだという。
杉や檜は真っ直ぐな木なので建材に用いられる。
まっすぐという古来からの解釈はおおむね外れていないと思う。
ならば、天孫降臨後は韓国からまっすぐ上陸した博多湾沿岸で良いだろう。 >>172
>古事記の序文が疑わしいとの指摘は、前からあるし。
昭和の末期に著書の安麻呂の墓が見つかって、序文の正しさは証明されたぞ。
何周遅れの議論をしているのか。 >>173
>婿入りと嫁取りではその在り方に雲泥の差がある。しかも、ニニギの宮が浜辺にあるのと山上にあるのとでは、もう設定が別の話となってくる。
高祖山なら博多湾に面している。
そしてその麓には木花佐久夜毘売を祭る細石神社がある。
高祖神社の祭神は、日向三代の称号である彦火火出見だ。
母親である木花佐久夜毘売の細石神社まで御神渡りする神事もある。 >>179
>自分の天孫降臨のイメージは、武装して外地から侵入してきた
天孫は戦わずに王として迎えられた。
猿田彦が途中まで船で迎えにきたので、敵か味方かわからず緊張した場面もあったようだ。 >>188
逆に言うと、邪馬台国の時代に開発により一度全て伐採された。
邪馬台国にとって佐賀平野は手頃なフロンティアだった。 【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。 それで
>>1よりも後の時代になり、渡ってきたと言われている渡来系の人々がいるでしょ、
なぜ先住民(日本の)のような事になっているの? ★弘仁新羅の乱(渡来朝鮮民族 新羅難民部落の騒乱)
弘仁11年(820年)2月13日、遠江・駿河、両国に移配した
新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし
日本人達を殺害して奥舎を焼いた。
両国では兵士を動員して攻撃したが制圧できなかった。
賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
しかし相模・武蔵等七国の援兵が追討した結果、全員が降服した。
新羅渡来人難民部落の禍乱の経緯から新羅からの帰化人対策に
熟考した藤原衛は新羅との最前線である太宰大弐を勤めていた承和9年(845年)
新羅人の日本への来航・帰化申請の禁止を朝廷に進言した。
朝議の結果、以後は日本に帰化を申請してきた場合でも即座却下することになる。
難民、漂着民、亡命を希望しても緊急の食料衣服を与えても追い返すこととされた。
これは『貞観格』にも収められ、以後の朝鮮半島及び新羅人対策の基本方針になった。
かつて朝廷(日本国)は、すべての流民の新羅人に口分田まで与えて
帰化を認め寛大に遇して恩を与えたが朝鮮渡来の流民たちは
恩を仇で返し博多などに土着して本国と違法な交易を目論み
それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みした。
この渡来朝鮮人の乱以降、北九州各地に住んでいた新羅難民は
埼玉、群馬を中心に関東各地、東北にも少数住まわせる事になった。 どう考えても漢人〜中華なのに、
日本の先住民(あの記紀神話、国譲り?とか)のような話になっていたり。
後の時代(かなり最近)に創作された話なんだよwみたいなことを言っている人もいたり。 ほとんど逆の話をしているんじゃないの?
謎の神話、当時の話
中国、朝鮮半島←日本・倭(不明)、このような感じで国譲り? 誰が作ったのか、わからないんだけど、
あの謎のチェーンソーのゲームによると・・・、
(主人公、渡来人?)となっているでしょ?
どらごんぼーるのレーダーのようなものも出てきたり
『ドラゴンレーダー』 『ドランゴンレーダー』
知らない人もいると思うから、調べてみて。
『ドラゴンレーダー』 >>198
>高祖神社の祭神は…彦火火出見だ
古事記読んだ神主が深く思うところがあったのだろう。 邪馬台国の頃までは、まだ鉄斧が豊富でなかったので、うっそうとした森はいたるところにあった。
当時九州の30国余は、街道で結ばれていたが、
末盧国の地元道のように、先行く人の背も見えずの草ぼうぼうでは不便極まりないので、
こうした巨木古木の森伝いに雑草や笹竹の少ない獣道共用の街道が通じていたのであろう。
後世、日光の杉並木とか東海道の松並木とか出雲大社の黒松参道などは、
いわば古代の「真木通り」の心地よさ・便利さを、小規模ながら復活したものだったのではないか。
>>210
>いわば古代の「真木通り」の心地よさ…
ついに新語義の誕生だなぁ。 >>176
>邇邇芸命の后「木花咲耶姫」を祀る…
親の大山祇の神も近くに祀っている? >>209
鹿児島神宮の主祭神も彦火火出見尊だよ。 >>214
>鹿児島神社も祭神も…
鹿児島神社の神主は日本書紀派だったらしいな。 >>213
>親の大山祇の神も近くに祀っている?
阿波国板野郡上板町の大山に所在する大山寺奥の院の「波切不動尊」「黒岩大権現」
黒岩大権現は「大山住大明神」 @阿波
http://taisanji.jp/ ついでに、
日本で阿波にしかない、オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の妻を祀る「鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)」 @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/10006573/ さが平野をさがせ!
さが平野をさがせ!
さが平野をさがせ! @伊作 史実とごっちゃにして低能ほど神社うんぬんに引っ掛かるからな
お話にならない知的レベル 邪馬台国時代あたりの倭国の故事来歴は、
景行王朝(景行天皇ー日本武尊(オウス)ー仲哀天皇ー神功皇后)時代の土蜘蛛・熊襲退治で、完璧に上書きされてしまったように思える。
特に肥前・肥後・日向は、ことのほか徹底的だったような気がする。
しかし故事来歴は失われても、或は建造物は破壊されても、
その遺跡・遺構・街道の痕跡は残されているのではないか。とりわけ道は往時のままに使われ続けてきたのではないか 無知な大衆をいいように洗脳する史実と作り話を織り交ぜた
捏造洗脳書だからな古事記日本書記の記述は
その辺を注意深く理解する必要がある >>211
序文が嘘なら、架空の人間をでっちあげても良かった。 >>222
神功皇后がそのいい例だ。
実際には卑弥呼より120年ほど後の人物だ。
九州にいた卑弥呼の足跡を消すのに躍起になっていた当時の大和政権が持ち上げた偶像だ。 >>216
>黒岩大権現は「大山住大明神」
阿波大山の地主神じゃね。
波切不動は三重大王崎の神さん。 くまモンのくまもとも、お忘れなく、、
くまモンのくまもとも、お忘れなく、、
くまモンのくまもとも、お忘れなく、、 かんじんの伊作もお忘れなく。 @伊作 >>223
>序文が嘘なら…
蘇我入鹿暗殺の際に天皇の来歴や古い出来事を書いた史書が失われ、残った記録や諸家が持っていた帝紀、旧辞などを天武天皇が稗田阿礼に読み習わせたとされる。
古事記の編者はその稗田阿礼の誦習したものを筆記して古事記を編纂したというのであるが、
とすると、その当時、稗田阿礼が読み習わした文字資料があったはずで、稗田阿礼の誦習よりもその文字資料をもとに古事記を編纂すればよかったのであり、
日本書紀の編纂は実際にそのようになされたのだろうから、わざわざ稗田阿礼から聞き取る必要がないということになる。
それを稗田阿礼の誦習のみから古事記を編纂したとする序文は、どうもへんだと思われてもしようがないな。 でも、焚書の言いつけを守らずこっそり書物を残していました
なんて書けないでしょ
焚書の後、何年も経ってから古事記を書き始めたんだから >>229
稗田阿礼のプロジェクトの方が日本書紀のプロジェクトより先に始まったという証拠だろ。
その上で、日本書紀の完成後は他の書物は焚書したんだよ。 >>174
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって笑 >>175
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって笑 >>176
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって笑 >>180
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>184
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>216
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>217
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>220
どの口がそんな生意気なこと抜かしてんだよwww
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってw >>1
> ※泡チョンコは駄レスが伸びるだけやけん自スレでホルっときーよ
> 邪馬台国四国説 part3
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1560747609/
>
> 推奨NGワード… 「阿波」「忌部」
>>2
> 泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ
>>3
> 泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww
>>4
> 思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れ
>>5
> 泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
> ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
> 無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>6
> ♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
> ♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
> 〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
> └i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
> ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
>
> ♪ /.i /.i. /.i
> ♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
> 〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
> └i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
> 〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
>
> ♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
> ♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
> 〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
> └i===|┘i===|┘.i===|┘
> ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
>
> ♪ /.i /.i. /.i
> ♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
> 〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
> └i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
> 〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ 編纂時期が天武天皇の命令からやが書かれた時期が持統天皇の時期からでその持統天皇の副臣参謀格って言われたが不比等やからな
古代の怪物って呼ばれとるだ 不比等が相当、自分の田んぼへバイアスかけとるしな。
そんな不比等は日本書紀でニ二ギを降臨させる役目を高御産巣日神に担わせているが、その高御産巣日神は6文字、
一方、古事記ではその役目は単に高木神として、3文字に下げている。
不比等が自分に似せて高御産巣日神を描かせたのが、古事記は気に食わなんだのだろうな。
6文字から3文字に降格して書いた。
古事記がどんな意識を持っていたか分かるというもんよ。 出雲風土記の研究者によれば、
とりあえず各国で編纂された風土記の草稿を朝廷に差し出し、
朝廷はそれをもとに(都合よく書き換え編集して)日本書紀を完成させた。
その後、各国に日本書紀を示して、整合性が取れるように書き直させた、と考えられるらしい。
古事記と日本書紀の関係も似たような関係にあり、だから古事記には、出雲国のくだりが特に多いということだ。 >>246
>だから古事記には、出雲国のくだりが特に多いということだ。
「出雲」のくだりはあるが、「出雲国」のくだりは一切、ない! @阿波 >>248
阿波にちょっかいを出しても無駄! トンデモは妄想を楽しんでいるのが分相応。 わははははは @阿波 >>247
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>249
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>245
古事記は皇統、皇族、皇族系氏族第一主義だからな。 まあ、なんだ、真木通るがクスノキの下の獣道を通り抜ける際の慣用句だったというのが、本スレの今年のワードに決定決だな。 「倭は帯方東南大海の中に在り」の一文の「東南」は、狗邪韓国から対馬や壱岐に渡航する際の方角であることは、まず確定事項だ。
その「東南」が渡航ルートにぴったしなのは、固城→対馬→壱岐→呼子加部島ルート。
魏の使節団が倭の方角を確定したのは、このルートで倭へ渡ったからだよ。
このルートがまさに東南の方角だからね。 >>254
昔のことだから、王族も獣同然だったということさ。 >>254
古代においては、
王族と云えどクスノキの下の獣道を我が物顔に行くのがらくちんだったということさ
だから、借り物の道を堂々と行くことを「真木通る」といい、後世これが訛って「罷り通る」となった!? >>255
「帯方」東南大海の中に在り
なのに、帯方郡を無視するのは違うくね? >>258
皆、そのダマシにひっかかる。
中国史書では楽浪、帯方、韓、百済・新羅と変化するも、東南の方角は帯方以降変化しない。
つまり、帯方など半島の政体は飾り物ということになるよ。
飾り物だからあれこれ変わってもいいけど、方角については一向に変わらないの。 倭人伝を解読すれば佐賀ルートになる・・、といってみても、
それは文章上のことにとどまる。
やはり、
地元科学者の調査・発掘による学術的・考古学的な証拠根拠が不可欠だよねえ。
そしていつの日か、古代三世紀のように佐賀平野を東西に貫く大クスノキの森が復活してほしいなあ。 >>262
佐賀ルートもあったはず。
半島の固城から対馬、壱岐、呼子加部島と東南に進んだ方角は、さらにそのまま東南に進めばその線は柳川の東の山門に達する。
この山門も含めての東南だから、必ずしも伊都、奴、不彌から山門へ行く北回りのルートだけではなく、佐賀平野を通るルートもあったと思うよ。 >>262
古代三世紀の「佐賀平野」の遺跡はどれ? >>262
>地元科学者の調査・発掘による学術的・考古学的な証拠根拠が不可欠だよねえ。
その通り。 倭国(阿波)のようにね。 わははははは @阿波 >>261
魏志倭人伝の冒頭なんだから、当時の地名で書いてあって当たり前ですやん。 毎回同じ港に着けると思うかな?
列島に接岸なら、どこでも良いわけで博多湾に帰るだろ?
末盧國が、謎なのは反論する気も無いが?
壱岐から筑紫銀座を目指す時、博多湾に入らない理由は有るか?
博多湾に入らない、ためには、@阿波
みたいな異常者以外なら別の理由が必要だろ?
247年の張政は糸島北岸の卑弥呼の巨大古墳を見て伊都に駐留。
240年卑弥呼の王宮を見た、初探検の梯儁は、邪馬台国と命名した。
魏が公孫氏を滅ぼしたけど、
韓西岸初探検の梯儁が九州から奈良に行く方法なんて
日本人にも無いヨ? >>268
>壱岐から筑紫銀座を目指す時
それがそもそもの間違い! そんなところに、魏使に用はない! 以上。 @阿波 >>267
中国史書で倭に関する地理的な記述は漢書。
それ楽浪海中に倭人有り
この漢書の記述には、まだ倭の方角はない。
方角が現われるのは次の魏略。
倭は帯方東南大海の中に在り
この二つの文章を見れば、帯方は楽浪から置き換えただけのものであることができる。
次の倭人伝も同じ。
倭人は帯方東南大海の中に在り
魏略が倭としたものを、いや漢書は倭人としてるでしょ、と注文つけたわけだけど、倭人伝も楽浪を帯方に置き換えただけの魏略の記述を踏襲し、魏略が初めて書いた地理的な東南方角も踏襲している。
そして、次の後漢書は魏略や倭人伝の帯方をさらに韓に置き換えているが、東南の方位は変えていない。
倭は韓の東南大海中に在り
ただ、倭人伝の倭人については、いや違うでしょ、漢書の倭が正しいのよ、と注文をつけている。
そして最後の隋書は、いやいや倭は俀であって字が違いますよ、と注文つけて気を吐くが、他の部分は皆と同じ。
俀國は百済新羅の東南水陸三千里の大海の中に在り
こういう流れとなっている。
つまり、楽浪から帯方、韓、百済新羅とその時々の政体を次々と置き換えていることが分かる。
しかし、どの政体になっても東南は変わらず皆これを踏襲している。
ということは、この東南は帯方とも韓とも百済新羅とも関係がなく、帯方などの政体は単に置き換えてあるだけということになってくる。
とすると、では東南の方位はいつ確認されて倭の所在地についての公式の方位になり、その方位の起点はいったいどこなのかということが論点となるわけ。
要するに、帯方は単に楽浪から置き換えたものであって、東南の方角とはそもそも無関係ということになるのよ。 >>265
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば >>269
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww 畿内スレ>>436
>帯方から東南に900km余りだと阿波になっちゃうな
>方位を少し曲げて九州島にすると宮崎以南
韓国巡りでは、南に4000里し東に3000里して狗邪韓国で、この間は7000里だが、
帯方から直線で見た東南狗邪韓国までの距離は、ピタゴラスの定理によって5000里となり、海岸巡りより2000里ほど短い。
因って、帯方から直線で計った女王国までは、12000里−2000里=10000里(750q)以内であるから、
阿波には届かぬ、宮崎にも届かぬ。 >>1
> ※泡チョンコは駄レスが伸びるだけやけん自スレでホルっときーよ
> 邪馬台国四国説 part3
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1560747609/
>
> 推奨NGワード… 「阿波」「忌部」
>>2
> 泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ
>>3
> 泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww
>>4
> 思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れ
>>5
> 泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
> ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
> 無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>6
> ♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
> ♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
> 〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
> └i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
> ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
>
> ♪ /.i /.i. /.i
> ♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
> 〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
> └i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
> 〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
>
> ♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
> ♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
> 〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
> └i===|┘i===|┘.i===|┘
> ((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
>
> ♪ /.i /.i. /.i
> ♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
> 〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
> └i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
> 〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>275
>阿波には届かぬ、宮崎にも届かぬ
その総計の1万2000里を75mで計算したら、大隅半島の付け根付近に届くのだが。
また宇佐もその圏内になってくる。
そこらに邪馬台国があったのか?
宇佐ファンは喜ぶだろうがな。 >>271
そこで、東南の方角が倭のある方角だと誰によって、いつ認定されたのかということになるわけだが、
魏略が書いた帯方は魏が領有した帯方郡であって、公孫氏が領有していた帯方郡でないことは、魏略が書かれたのが魏末晋初とされることで明らか。
魏が帯方郡を領有したのは公孫氏が滅亡した238年後半。
そして、翌年早々に魏が倭へ使節を派遣して、倭の朝貢を求める交渉をしたのが239年と考えられる。
そのあと239年の6月に卑弥呼の使節団が帯方郡へ到着する。
魏が帯方郡を領有した238年後半の翌年の前半には魏の使節団が倭に渡ったことが考えられる。
この際の渡海ルートは魏略によると、狗邪韓国から対馬、壱岐、末盧となっている。倭人伝はそれを踏襲している。
で、魏の使節団が初めて倭に渡ったこのルートの狗邪韓国の出発地がどこかを推測すると、小伽耶の中心地であった固城が想定される。
そして、この固城から外洋に出たあたりから対馬の南端、壱岐の西端、呼子加部島のコースがちょうど東南の方向に当たるのだ。
魏の使節団がこの南東方向のコースで海を渡ってちゃんと倭に到着したことで、初めて倭が東南の方向にあることが公式に認定された。
したがって、魏略が編纂のための資料から採録した東南の方角は、魏の使節団が作成した報告書に記されていたものであったと考えることができる。
そして、その倭に渡る東南方向の起点は停泊した固城の外洋であったと思われる。
この「倭は固城の東南に在り」の報告書の「東南」を、漢書の「楽浪大海の中に倭人有り」を書き改めた「倭は帯方大海の中に在り」の文章に挿入したのが「倭は帯方東南大海の中に在り」だったのだと想定するのである。
つまり、魏の使節団が倭に渡るまでその倭の所在地の方角がはっきりしなかったのが、使節団によって初めて倭の所在地の方位が確定されたということになる。 古来より、都はツと読むのが習わし
・都久津美神…つくつみのかみ
・都久豆美命…つくつみのみこと
・都怒我阿羅斯等…つぬがあらしと
・都麻津比賣命…つまつひめのみこと
・都麻耶美豆比賣命…つまやみづひめのみこと
・都味歯八重事代主神…つみはやえことしろぬしのかみ
・都留支日子命…つるぎひこのみこと 古来より、都はツと読むのが習わし
・都農神社…つのじんじゃ
・都万神社…つまじんじゃ
・都我利神社…つがりじんじゃ
・都弁志呂神社…つべしじんじゃ
・天都賀佐彦神社…あまつかさひこじんじゃ
・布都神社…ふつじんじゃ
・鴨都神社…かもつじんじゃ
・気都和既神社…きつわきじんじゃ
・許世都比古命神社…こせつひこのみことじんじゃ
・都祁水分神社…つげみくまりじんじゃ
・佐用都比売神社…さよつひめじんじゃ
・伊和都比売神社…いわつひめじんじゃ
・比都仕神社…ひつしじんじゃ
・阿志都彌神社…あしづみじんじゃ
・丹生都比売神社…にゅうつひめじんじゃ
・都麻津姫神社…つまつひめじんじゃ やはり伊都国は、イツコクとよむべきなんだろな、、。 古来より、都はツと読むのが習わし
(ア行のみ)
・阿蘇都彦…あそつひこ
・阿田都久志尼命…あたつくしねのみこと
・天比登都柱…あめのひとつばしら
・伊勢都比古命…いせつひこのみこと
・伊勢都比売命…いせつひめのみこと
・伊都許利命…いつこりのみこと・・・・・・・・ まさに伊都をイツと読ませる事例
・伊都尾羽張神…いつのおはばりのかみ・・・・・ 同上
・伊波都久和希…いわつくわけ
・宇沙都比売…うさつひめ
・宇都志国玉神…うつしくにたまのかみ
・宇都志日金折命…うつしかなおりのみこと
・大気都比売神…おおげつひめのかみ 上古音(しょうこおん、又は、じょうこおん)
上古音とは、
周代・漢代頃の中国語および漢字音の音韻体系をいう。
字音を、古音(古代音)と今音(現代音)とに分け、古音を上古・中古・近古の3つに分けたものの1つである 中古音(ちゅうこおん)
中古音は、中国音韻学上、南北朝時代(439-589)の後期から、隋・唐・五代・宋初にかけて使用された中国語の音韻体系。
南北朝後期から、隋、唐代初期までの中古音を前期中古音、
唐代中期から五代・宋にかけての中古音を後期中古音に分ける。 >>285
そう。
日本の地名を中国人が中国人の都合で漢字をあててるだけ。
日本の古来の読みに中国語で漢字をあてるのは万葉仮名等でも使われる手法ではあるが
都をトやツにあてるのは万葉仮名の甲類、乙類どちらにもないあて方。
都に日本古来の縁を見出すことはちょっと無理がある。 >>282
日本語の読みばかりを並べて何言ってんだ?
伊都国と記したのは中国人だぞ クスノキについて
http://wp1.fuchu.jp/~kagu/mokuzai/kusu.htm
> クス、クスノキ 【樟・楠】 camphor wood
> クスノキ科の常緑広葉樹。散孔材。
> 学名 : Cinnamonum camphora
> 関東以南の暖地、特に海岸に多い。また、台湾・中国にも分布。なお、「楠」は南国から渡来した木を意味する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%82%AD
> 世界的には、台湾、中国、ベトナムといった暖地に生息し、それらの地域から日本に進出した。(史前帰化植物)
> 日本では、主に、本州西部の太平洋側、四国、九州に広く見られるが、特に九州に多く、生息域は内陸部にまで広がっている。
> 生息割合は、東海・東南海地方、四国、九州の順に8%、12%、80%である。人の手の入らない森林では見かけることが少なく、人里近くに多い。
魏志倭人伝でも倭国に生えている植物としてクスノキが記録されているが、上記の通りクスノキは圧倒的に九州に多い木で、
特に九州以外の地域では沿岸部に偏って分布している
植物について解説するサイトではクスノキが暖地の植物であることをその理由としていることが多いが、実際には関東でも北側の埼玉県に
有名な大クスがあり、気候が問題で分布を広がらないというのは説得力に乏しい
特に黒潮に直面する四国南部や紀伊半島南部などは気候の暖かさにおいて北部九州と大差ない
ではなぜ九州以外では沿岸部に偏って分布しているのか?その答えは日本書紀に書かれている
書紀によれば素戔嗚命が日本に浮宝(=船)が無くては困るだろうと、体毛を抜いて木に変え、息子の五十猛命に各地に植えさせた、とある
この中に眉毛から作られたクスノキもあり、その用途として「船に使え」と素戔嗚命は述べている
クスノキは防虫剤の樟脳が採れる木なので虫害に強く、また腐りにくいという性質を持つ
丸木舟の時代には虫食いで船体に穴が開くのは致命的なので、クスノキは船の材料として最適なのだ
そしてこの木を植えるように指示された五十猛命が安曇磯武良と同一人物であることは過去スレで既出のとおり
つまりクスノキは元々九州の木であり、五十猛=安曇磯武良の命を受けた海人族が本州、四国各地の沿岸部に植えてまわったから分布が沿岸に偏っているのである ちなみに九州のクスノキは6300年前の縄文時代にはすでに内陸部まで分布していたようである
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kokankyo/ronbun-jusho.htm
> 約65,000年前以降の最終氷期の種子島ではシイ属などの照葉樹林が継続して存在し、約11,000年前には薩摩半島でクスノキ科が拡大し始め、
> 約6,300年前までにはシイ属やクスノキ科を主とする照葉樹林が南九州の沿岸部から九州の内陸部にまで拡大していたと推定された。
クスノキの用途にまで精通していた素戔嗚命が九州人であることに疑いの余地はあるまい 倭、奴あたりは上古音かな
対馬あたりは倭人が充てた漢字かしら >>294
文盲なのか
しつこ過ぎる性格なのか
はたまた無能朝鮮人なのか… >>289
都 上古音 tag
中古音 to
中世音 tu
現代音 tu(du)
(学研漢和大字典)
倭人伝の頃は上古音から中古音への過渡期の時代。
中古音で表されているとするも良し。
上古音は現在まだ確定していず、上古音は不安定。 >>291
よって、北部九州や畿内は、魏志倭人伝でいうところの倭国に該当しない! @阿波 >>291-292
クスノキが九州の樹だというのは何気に重要だな
https://books.google.co.jp/books?id=CvtDSRS_lFwC&pg=PA74&lpg=PA74&dq=クスノキ 古墳時代#v=onepage&q=クスノキ 古墳時代&f=false
>大阪を中心とする発掘では、古墳時代の舟は殆どクスノキであった。千葉県東金付近で発見された鰹節型のくり舟はクスノキで、
>安房鉈切神社の割竹型に近いくり舟もクスノキであつた。
九州海人族が古代の倭国を席巻していたことがよく分かる >>298
よって、北部九州や畿内は、魏志倭人伝でいうところの倭国に該当しない! @阿波 >>284
・天比登都柱…あめのひとつばしらの事例
トに・・・登、
ツに・・・都、を当てている。
同様に、大和のトに都を当てなかったのも、古代には古代の理由あってのことであろう。 伝説上の故事として、
肥前国風土記は佐嘉郡の名の由緒を以下のように記している。
昔者 樟樹一株 生於此村。幹枝秀高 茎葉繁茂、朝日之影 蔽杵島郡蒲川山、暮日之影 蔽養父郡草横山也。
日本武尊 巡幸之時、御覧樟茂栄、勅曰 此国可謂栄国。因曰栄郡。後改号佐嘉郡。
(佐賀市史第1巻より)
古代、当郡のある村には楠(クスノキ)の大木が生い茂り、朝日の影は杵島郡蒲川山、夕日の影は養父郡草横山にまで届いたという。
当地を巡幸した日本武尊は楠樹の栄え繁る様を見て、「この国は『栄(さか)の国』と呼ぶがよかろう」と述べ、
そこから「栄郡(さかのこおり)」と呼ばれるようになり、後に栄の字が佐嘉に転じたとする。 >>300
大倭→大和 倭→和は、中国が付けた「倭」を捨て、新生日本(奈良大和朝廷)が新たに「和」としたのだろう。 @阿波 >>300
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>302
日本の地名の変遷を理解してないんだな。
古い地名は基本的に、日本語で意味を持つ。
あてた漢字は好字令で意味の好ましい漢字二文字に置き換えが行われた。
阿波国は粟が取れたのであわのくにだし、吉備国は黍が茂っていたのできびのくに。
近江国は琵琶湖が昔あわうみ=淡海だった事から来てる。
ヤマトは元々は山門が盆地や山に囲まれた土地を指す言葉から来てる。
九州にも山門郡があったし、丹波にもあったり、古く山門を名乗る土地はいくつかある。 >>304
>九州にも山門郡があったし、丹波にもあったり、古く山門を名乗る土地はいくつかある。
そりゃ、お寺の山門があった所だわ。 わははははは @阿波 >>297
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>299
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>302
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば >>303
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば >>305
お前が笑いでごまかすときは、大抵言い逃れできないときだもんなぁ >>305
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば 楠なんて未生で生えやすいから何処にでも生えるぞ。水行中に見やすい木だよ。 >>309
>九州にも山門郡があったし、丹波にもあったり、古く山門を名乗る土地はいくつかある。
そりゃ、お寺の山門があった所だわ。 わははははは @阿波 >>284
・天比登都柱…あめのひとつばしら(伊伎島/壱岐島、及びその島の神)の事例
トに・・・登、
ツには・・・都、を当てている。
帝都であった大和のトに「都」を当てなかったのも、古代には古代の理由あってのことであろう。 徳島県知事、徳島市長、徳島市議会の足を引っ張る@阿波、
いいぞ、もっとやれ。 >>315
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>316
古中国語読みと古日本語読みをごっちゃにする無能 魏志倭人伝に書かれた伊都が何と発音されていたかだろ? 古日本語発音(?) → 古日本語漢字(?) → 古中国語漢字(伊都) → 古中国語読み(?)
問題は、古日本語(九州弁)で「都」を何と発音していたかだが・・・、 現代中国語のピンイン表記は伊都 yidou
地名に関しては倭人が呼んでいたものに漢字を当てただけだろうから、yidou かそれに近い読み方だったのだろう
イトあるいはイトウと呼んでいたのではないか? >>298
それぞれの木の性質はよく分からんが、
スギ、ヒノキは少し水に漬けておくと水が浸み込むのではないか。
その点、クスノキは防水性が高く、船底に潮が浸み出してきにくいとか。 硯が出土して倭人が文字を使っていたことがわかったんだから
伊都とかは倭人が自ら当てた文字だろう。 >>324
当時は、まだ文字がなかったと決めてかかるのはいかがなものか
唐津屋博多からは、古代の硯も出土しているし、倭人伝にも文書伝送とか、檄文とかが登場するくらいだから、
既に倭地でも文字化(漢字化)は進んでいたのだろう。
それは翰苑を読んでもわかる。
だから基本的には、国名・官名・人名などの固有名詞は、
倭地で成立していたものを、中国側がそのまま書き写したとみるべきではないか。
(なお、後世の写本の過程での誤写や書き換えは別のお話し) >>325
厳島神社の鳥居はクスノキで、これはクスノキが耐水性が高いためだとする意見がみられる。
検索欄に「木智塾 4月クスノキ」と入力し、開いた画面の一番上を押す。
その61行目の厳島神社の冒頭に耐水性が高いと書いてある。 >>326
自らあてた文字ではないだろ。だとしたら卑弥呼とか邪馬台国とか奴国とか変じゃないか?
そんな悪い意味の漢字使わないだろ?
>>328
当時の音は誰にもわからない。現代音から類推していくしかない >>331
>自らあてた文字ではないだろ。だとしたら卑弥呼とか邪馬台国とか奴国とか変じゃないか?
初心者・新米か???
倭人での編集時、或は写本時に、わざと卑字を当てたのではないかという論は昔から多々ある。驚き慌てることはない。
それにつけても、伊都国の「都」は最大級の誉め言葉だ。
同じ倭の国だが、これもおかしくないか。 >>331
あれか、
昔、コテハン取っかえ引っかえして、畿内説や九州説を荒らしまわってなかったか。
三角縁の踏み返しがどうのこうのとか、定型化古墳はああだこうだとか、得意げに説教ばかりしてたような・・・ >>331
それからよ、
熊本県のなんちゃら委員を務めてたこともあったとかなかったとか・・、 >>334
まあ、卑字で書くとすれば、夷屠か。
しかし、海外各国からの使節団の迎賓所があるところだから、格好のいい字を使ったというところかもな。 >>325
https://ja.wikipedia.org/wiki/クスノキ
>枝分かれが多く直線の材料が得難いという欠点はあるが、虫害や腐敗に強いため、古来から船の材料として重宝されていた。
>古代の西日本では丸木舟の材料として、また、大阪湾沿岸からは、クスノキの大木を数本分連結し、舷側板を取り付けた古墳時代の舟が何艘も出土している。
>その様は、古事記の「仁徳記」に登場するクスノキ製の快速船「枯野」の逸話からも窺うことができる。
九州の木であるクスノキが大阪湾岸からも盛んに出土するのも、北部九州の海人が瀬戸内海を制していたことの裏付けとなるだろう
仁徳天皇が詠んだ淤能碁呂島の和歌も福岡で小呂島や能古島を見て詠んだという説があるね
和歌中に出てくる檳榔が九州北限で瀬戸内海地域には生えていない木だし >>339
>九州の木であるクスノキが大阪湾岸からも盛んに出土するのも、北部九州の海人が瀬戸内海を制していたことの裏付けとなるだろう
ならない! 阿波だよ。 @阿波 巨大なクスノキと云い、その長大な並木道と云い、佐賀平野には何かでかい古代ものが有りそうだな
さが平野をさがせ・・
さが平野をさがせ・・ >>341
阿波よりずっと、探してるんじゃないの? わははははは @阿波 >>291
もっと北の栃木県内陸部にもクスノキの大木があるよ
https://blog.goo.ne.jp/hanako1033/e/393c3ff15b6a071e0f51aa277f856ea5
>八幡山のクスノキ
>宇都宮市指定天然記念物
>江戸時代からっこに生育していたと思われる、クスノキの巨木である。クスノキは主に関東地方より西の温かい地域に分布している常緑高木で、
>これだけ大きいものは、栃木県内では珍しい。
大木は珍しいにしても、栃木県内で他でも普通に生えてるから、植えさえすればそれなりに育つみたいだね
https://www.city.tochigi.lg.jp/soshiki/40/174.html
>くすのき公園
>所在地 栃木市片柳町2丁目
>シンボルツリーとして楠の大木が植えられていて、公園名の由来ともなっています。また、公園全体が大きな芝生広場となっていて多目的な利用が可能です。
関東でも北の方の栃木県内陸部で普通に育つなら、西日本の内陸部でクスノキが見られないのは気候の問題じゃないね
あなたの言うように本州に植えてまわったのが海人族だから海人族の縄張りである沿岸部に分布が偏っていると考えるのが自然だろう ちなみに関東で内陸にクスノキがある理由は、海人族が川を遡って内陸まで行ってたからだろうね
貝輪の分布がそうなってる
https://pbs.twimg.com/media/DsWScScV4AEIsU0.jpg >>340
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>342
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>344
貝輪ってさ、北九州の海人族ではなく、南洋系の南九州の海人族がルーツなんだがね。
北九州はインドチャイニーズ系海人族で、中国南部から朝鮮半島経由の越族由来
南九州はインドネシア系海人族で、黒潮にのっての沖縄経由
勿論混血や文化交流はあったろうけど、海人族にも二つのルートがあったことはお忘れなく。 >>331
中国人が多数滞在していた伊都では漢字の細かい使い分けもわかっていたのだろう。 >>349
後漢書倭伝では、倭國之極南界也とある。
伊都国が糸島であるなら、倭国之極南ではない。
倭奴国と糸島は場所が違う。 だから倭奴国は糸島もしくは糸島を含む福岡県西部、すなわち筑紫の日向 倭奴国の本拠地は倭国=九州の南端である鹿児島県だな。
一度後漢の頃南九州の隼人が九州制圧し、後漢に朝貢したんだよ。
その後倭国で内乱があり九州が南北に分裂したのが倭国大乱。
倭奴国は魏志倭人伝では狗奴国と名前を変えられ、九州再統一の為に邪馬台国と和せず戦争してたわけだ。
戦力比は北3、南7と南有利であったため、壱与に代替わりした後、いつの間にか消滅してる。 >>352
九州島が筑紫島、筑紫州と呼ばれていたという、日本史の常識を無視した古田史学の罪は深い。 >>354
まったくそのとおりだ
古田のアタマのなかには、倭国とは全ニッポンの事であり、
九州には女酋に率いられたちっぽけな地方(反乱)王朝しかなかったという先入観があったのだろう。
結局、畿内育ちのボンボンで、地方蔑視の小人物だったということだ。 倭国大乱にせよ、その後の磐井の乱にしてもそうだが、結局の所南方系隼人と越人系北九州の覇権争いがベースにあるのだろう。
今日本最古の稲作遺跡が紀元前10世紀の菜畑遺跡とされているが、朝鮮半島の稲作開始時期との不一致から
稲作は南方系ルートでもたらされたとする考えが主流になってる事も失念してはいけない。
古田史学による北九州マンセー説というのは、根本的に日本古代の朝鮮起源説に近い思想的な世迷言成分を含んでいる。 倭奴国は極南界だー、糸島は伊都国だー、と大声でいうヤカラも古田に同じ。
要するに、
九州の先進地とは、福岡県博多と九州帝国大学であり、
その他の諸県・諸大学は未開の蛮族の地にすぎぬという偏見で成りたっているのがミエミエ・・。 なんでもかんでも、福岡博多、糸島地方に誘致しようとするのは、
言い換えれば、九州版畿内説といってよかろう。
九州版奥山、九州版キナイコシは、もしかして畿内から出張して来ているのかもしれぬな。 >>358
古田史学ってのは北九州版朝鮮起源説だよ。
幻の九州王朝とか言い出すんだぜw 無理やり島めぐりさせて、福岡博多に落とし込んだのは、
そういうことだったんだろな。 渡来王朝だよ、何れにしろ。中国五斗米道か?新羅か、百済、月支国辺りかの違いだけで。共立王朝なんて3韓のやり方出し、武内宿禰300年なんてのも嫁を使って支配する半島のやり口だよ。 >>361
その渡来王朝ってのは、いつ頃どこから日本に渡ってきて、その後どこに土着して、その後どうなったんだ? >>363
残念だがオクキョン遺跡の年代測定はまだされてないよ。
土器片からの推測だけだ。 そもそも朝鮮半島の稲と日本に広がった稲のDNAが一致してないって言う、どうにもならない壁がある。 サンプル数がわずかなくせに
DNAが一致してない
なんていいきれるわけがないし 前11世紀頃と考える まぬけもいるけど
弥生早期の始まりに
決定的な影響を与えていることだけは否定できない >>365
>稲作は南方系ルートでもたらされたとする考えが主流になってる
で、その頭のおかしな考えの考古学者の氏名は?
今すぐ言ってみろよクッサイ汚らしい醜悪極まる華南ニグロブタチンコロのおまえ >>365
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>370
唐古鍵の炭化米と菜畑の米が別ルーツだとでも言いたいのか? 【其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽
斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好?没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾
諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東
其風俗不淫 男子皆露? 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連略無縫 婦人被髪屈?
作衣如單被 穿其中央貫頭衣之】
郡から女王国まで12000余里としたうえで、続いて海洋民族としての特徴、魚貝食、断髪、蛇の咬害避け目的の
入れ墨の説明のあとに「計其道里 當在會稽東治之東」としている
その中で「夏后少康之子封於會稽」のくだり夏王朝少康の子(無余)が會稽に封じられて初代越王になった話を
交えてからの「當在會稽東治之東」であるので「會稽」は越国の首都(現在の紹興市)であろう
それと倭人の入れ墨が今や飾りの意味合いになっている、がそれは越人の文様に酷似している事をも暗に示して
いると見る
東治は東冶であれば福州市の古名でかなり離れているが、幅を取って紹興市?福州市からの東方位としても、
机上では琉球?種子島であるが海流・風で流される事を考慮して九州島南西部に相当すると見る
それは倭人から聞いた話(先祖が実際に呉・越から東に向けて直接渡海上陸した)なのであろう
そうでなければワザワザこのくだりを倭人伝に盛り込む意味が無い
遥か彼方の見えない陸地の方位を当時の計算で割り出せるならその方法を教えていただきたい
先祖が渡海上陸した時期より数百年のタイムラグあると思われるが大きく位置を変えていれば記述しているはず、
なればズバリ隈本の近辺だろう(大隅薩摩は狗奴国か)
※倭人伝の上記部分だけで推理してみました
あちらのスレで話題になってますが荒れてるのでこちらに >>370
稲作縄文時代開始説をヒステリックに否定する稲作弥生時代起源説盲信者たちの背後には、いたっい誰がいるのか。
菜畑より古い水田跡が朝鮮半島で出ているのか。
答えは明らかだろ。
縄文時代があってこその弥生時代なのを忘れるなよ。 >>373
このゴホウラ貝腕輪の分布範囲と貝殻文土器の分布範囲は完全に一致している。 >>375
西日本の縄文弥生文化の基層にある海人文化がどこから来たか明らかだ。
それは南九州。
そして、その南九州の海人文化の半分は1万2000年前の百越にルーツがある。
もう半分のルーツは細石刃文化で、これはアルタイ地方が起源地だ。
南北の二重構造が西日本の文化の基層にあるのだよ。 だから、日本文化稲作起源説は無駄。
弥生の土器に縄文の模様が継続していることがそれを証明している。
また、銅鐸の流水紋は北陸あたりの縄文模様が起源とされる。
稲作文化はそうした縄文文化の上に乗っかっているだけに過ぎない。 >>350
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>354
>>>352
>九州島が筑紫島、筑紫州と呼ばれていたという、日本史の常識を無視した古田史学の罪は深い。
そんなのは、王都筑紫(福岡)から離れた関西の田舎者が九州の地理もよくわからずに十把一絡げにした妄想だよ。 >>377
土器はそうだが、祭祀は稲作を中心に組み立てられている。
神無月、新嘗祭などは基本的に稲の収穫祭だ。
庶民の生活の基盤である土器の文化と、まつりごとを行う首長層は別なんだよ。
九州北部の稲作銅鏡銅矛文化が列島の支配者層の基盤なんだ。
だから今でも天皇は稲の収穫が終わると新嘗祭を行い、筑紫からもたらされた三種の神器を敬い、天孫が筑紫にもたらしたという八咫の鏡を祖先神の魂として即位の報告をするんだよ。 ◇◆◇ 創価学会の「不都合な真実」◇◆◇
十数年ほど前、創価学会は外資系のコンサルティング会社・アクセンチュアと契約して、
今後の布教活動の方針等について助言を求めた(高橋篤史著『創価学会秘史』による)。
それに対するアクセンチュアの提案は、「三代の会長」即ち、初代・牧口常三郎、第二
代・戸田城聖、第三代・池田大作への個人崇拝を教義の中核とし、創価学会にとって不
都合な過去を「無かったこと」にすることで、教団の正統性を訴えるというものだった。
創価学会が無かったことにしたい過去とは、牧口常三郎が戦争に賛成し、特高警察とも
協力していたこと、戸田城聖の詐欺まがいのビジネス、池田大作が高利貸しだったこと
や女性スキャンダル、「護符」と称するマジナイを大々的に行っていたことなどである。
こうした過去を封印するため、創価学会は「精神の正史」と位置づけている『人間革命』
を改訂したり、戦時中に発行していた機関誌を『牧口常三郎全集』から削除したりした。
不都合な真実を隠すことで正統性を偽装する宗教が「正しい信仰」と呼べるのだろうか? >>380
祭祀が稲作を中心に組み立てられているというのは誤りではないか。
神を祀ることは米の収穫にかぎらず、いろいろな事柄に対して行われるので、祭祀行為が稲作を中心に組み立てられていることはない。
新嘗祭はそうした神祭りの行為の一つであり、コメ、ムギ、アワ、ヒエ、マメの五穀が神に奉げられる。
コメだけが対象ではない。
ただ、そうしたいろいろな事柄において行われる祭祀を一元的に行うようになるのは、やはり律令からではないか。
祭祀を国家的に管理するようになって、神の系列化や神の位階を国家機構が取り仕切るようになる。
縄文弥生の頃には、このような一元的な祭祀の管理はまったく生じていない。
そして、3世紀の頃の政権は明らかに海人系の勢力が担っており、その文化は基層もなにもなく全体が縄文文化の延長上にあったといえる。
弥生時代を描いた絵などには必ず水田で稲作に従事している光景が描かれて、弥生は稲作だとの印象付けが行われるが、あの光景は江戸時代のものだろう。
キビやムギ、ヒエ、陸稲などはそれぞれの収穫時期に祀りを行ったのではないか。
水稲は10月くらいの収穫で、やはりその時期に祀りが行われたはず。
新嘗祭は五穀を神に奉げる神事で、コメ、ムギ、アワ、ヒエ、マメがその五穀。
なので、それぞれの祭りを一つにまとめて秋に行うようになったのは稲の収穫が最大に重要だったからだろう。
この >>380
>だから今でも天皇は稲の収穫が終わると新嘗祭を行い
阿波忌部は今も天皇家と繋がっている。 天皇家の出身地だから。
宮中祭祀第一の祭典である大嘗祭(だいじょうさい)、新嘗祭(にいなめさい)の起源が『日本書紀』の斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅に示されている。
福岡や佐賀なんて天皇家となんの関係もないんだから、論外である。 @阿波 http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=16019
「発掘された日本列島2014」(文化庁編)
P21
縄文時代に稲作はあったのか
縄文時代にも陸稲などの稲作が行われていたと考えられていました。
縄文時代の堆積層や土器の中に、イネのプラントオパールが確認されたこと、
土器についた籾(もみ)の圧痕の発見から、縄文時代後期まで稲作はさかのぼると
みなされていたのです。しかし、籾圧痕にシリコンを注入して顕微鏡で観察した結果、
籾にあるはずの針状の突起、「禾(のぎ)」を確認できませんでした。
また米を食べるとされるコクゾウムシ圧痕の有無も調べられましたが、じつはコクゾウムシは
コメ以外の雑穀類も食べることが判明し、現在のところ、確実な稲作は弥生時代早期からと
いうのが最近の研究者の大方の見解です
http://imgur.com/a/JL0VPTK >>384
ふーん
では、この写真のブツは何なのだろうか?
イネそっくりだが、ほかに該当する植物は思い当たらぬぞ。
またノギのない品種もあるし、ノギがあっても食用のためスリコギを用いてモミすりすればノギは取れる。
人為の結果も考慮すべし。 >>382
>ただ、そうしたいろいろな事柄において行われる祭祀を一元的に行うようになるのは、やはり律令からではないか。
新嘗祭は律令制より確実に古い。
神無月はもっと古い。
>縄文弥生の頃には、このような一元的な祭祀の管理はまったく生じていない。
根拠なし。
出雲はおそらく弥生の話だろう。
>>382
>なので、それぞれの祭りを一つにまとめて秋に行うようになったのは稲の収穫が最大に重要だったからだろう。
つまり主に稲の収穫を祝ったんだよね? >>384
縄文時代にも稲作そのものはあったが、陸稲であり、食糧調達の中心ではなかった。
弥生時代の特徴は、水田耕作を中心に集落の形態や、暦や灌漑のための指導体制まで含めて、社会全体が稲作を中心に構成されていた点にある。
単に稲作があっただけではない。 >>383
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>387
暦が来たのは6世紀だとされてるぞ。
弥生に中国の暦は存在しない。 >>387
弥生は部族社会であって、それらの部族が一元的に統制されていたことは弥生時代にはない。
古墳時代になっても氏族が誕生するのは5世紀頃からだ。
この氏族がヒエラルキー的に関係づけられるようになってくるのが応神難波政権からというのが常識。
弥生は部族の社会なんだということを忘れずにな。 >>391
遣隋使が倭人は暦も里程も知らんと書いてるよな。 >>387
縄文時代に稲作はない。
菜畑遺跡より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)が一粒もないからだ。 >>391
ところがどっこい。
弥生後期には農耕暦の二十四節気が入って来ている。
まあしかし、これはいわゆる暦、太陰太陽暦とは違うものだがな。 >>394
文化庁の回し者か。
菜畑の炭化稲籾にはノギがあるのか。 >>394
証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)が「一粒もない」というのはいいすぎというものだ。
無いのではなく、見つかっていないと認識すべきだろう。
縄文期の水田/陸田跡はあちこち見つかっているのではないのか???
で ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 ま〜たその話題か、
畿内説が瀕死に陥ると現れる弥生オタク、つまり弥生倭種は天から下ってきたと云いたいのだろうな・・・、 縄文稲については、文化庁系は何が出ようともイチャモンつけて、縄文稲を葬るつもりだろう。
邪馬台国大和説者が、鉄が出なくても、いや鉄はあった、錆びて溶けてしまったのだと言い張るのと同じで、文化庁の背後にはコメの統制で権力を維持している勢力が幅広くあるのではないか。 >>402
問題は稲作があったかどうかではなく、それが社会の形態を変えるような位置づけとなっていたかどうかだ。
弥生時代は権力構造を含めた社会全体が稲作を中心としていた。 二千数百年前、
(縄文人ではなく)古弥生人の祖が稲穂を携えて天から降臨して以来、我が豊葦原瑞穂の国を制してきたと云いたいのだろう。
神話を奉り、利益を期待する者にとっては、縄文の時代から稲穂・イネ粒があったのでは困るからな。
ま、そんな程度さ。 >>404
稲作ってさ、紀元前10世紀に九州に上陸後日本列島を北上していったわけだが
紀元前3世紀には畿内まで、ADが始まる頃には本州最北端まで伝わったと言われてるんだぜ? 縄文焼き畑(稲作・穀物作)に比べ、
並外れて生産力の高い弥生式稲作社会を統率していった者(氏族)が居たのだろう、
銅鐸銅剣を奉る大国主もその一族だったが・・、
まもなく、鉄製農具を大量に供給できる巨大氏族が渡来してきた、
その氏族こそが大国主らを服従させ、やがては古墳文化を構築し、ヤマトに都のようなものを建てることに成功したのではないか。 越の国だよ。
出雲よりさらに古い倭国の最大勢力だった。
倭国の中枢である福岡に次々に新しい勢力が成立した結果、古い勢力は日本海沿岸を東に追いやられていった。 >>408
概ね正しい。
その氏族が天津神、天孫族だ。 縄文稲作なんかない。
菜畑遺跡より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)が一粒もない。 >>403
そう、部族連合の大部族長だな。
出雲山陰が本領で、北陸が属領。
近江、大和はアメリカのフロンティアみたいなものだった。
しかし、これ弥生後期では列島最大の部族連合だった。
それに反旗をひるがえして大和に結集した他の部族連中が、大国主に国譲りさせて後の大和の王権へとつながった。
出雲にとって痛手だったのは北陸が大国主から離脱して、大和へ集まったこと。
冬には雪が積もる出雲自体は今と変わらぬ人口過疎地帯なので、連合大和に太刀打ちできなかったのだ。 畿内厨はもはや根拠ゼロの妄想を並べることしか出来なくなったのか
哀れな・・・ >>413
根拠を示せるのは、九州厨も含めて倭国(阿波)だけだよ! @阿波 >>412
出雲、筑紫は記紀に詳しいが、越は記述が少ない。
これは越がさらに古い勢力だったからではないか。
香椎が越から転じたという説もあるくらいで、そもそもは日本海沿岸は福岡まで含めて越だったのではないか?
そして政権は出雲、豊、筑紫と変遷し、前政権は次々に東に追いやられ、地層のように重なって律令時代の国割りとなったのだろう。 >>412
>冬には雪が積もる出雲自体は今と変わらぬ人口過疎地帯なので、連合大和に太刀打ちできなかったのだ。
日本海は大陸との広範囲の交易で栄えた土地だ。
弥生時代前期には水稲栽培は日本海沿岸を東北まで到達していたから、筑紫平野から筑後平野まで達する越は豊かな国だったろう。
山間部の後進国の大和など、名もなき寒村だったろう。
しかし弥生時代にそのような広域を統合することは困難で、王都福岡に新たな政権が成立するとあっけなく越は東方に追いやられた。
続いて出雲が西日本を治めたが、高天原は国を譲るように強要し、後漢代に筑紫政権が誕生した。 >>416
大和に各地の勢力が集まって連合政権を置いたのは弥生終末期。
このすぐあとが古墳時代。
この連合大和が古墳時代を開いたのだよ。
この時期、卑弥呼と台与は九州だからね。
大和は倭種の国。
魏略倭国伝の冒頭を飾っているくらいだ。 >>411
菜畑や板付で籾圧痕のついた土器が出ているが、この籾圧痕にはノギがついてるんだろうな。 >>414
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れってば 魏略や倭人伝の前に成立したとされる謝承の後漢書には「楽浪郡儌去其国萬二千里」と書かれている。
倭人伝の萬二千余里が魏使による実測だと胸を張っても、
この萬二千里はすでに後漢時代に定着していた観念の可能性もあるからなぁ。 >>420
>魏略や倭人伝の前に成立したとされる謝承の後漢書には「楽浪郡?去其国萬二千里」と書かれている。
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 >>420
>魏略や倭人伝の前に成立したとされる謝承の後漢書には「楽浪郡?去其国萬二千里」と書かれている。
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 >>423
この謝承の後漢書では萬二千里となっていて、魏略と倭人伝では萬二千余里と書かれている。
とすると、魏略がもっともらしく萬二千余里と書き、倭人伝もそれを踏襲したことが考えられる。
余があるから実測だと胸張っていた短里説者は顔色をなくすね。 >>415
いくら筑紫東遷の根拠が薄いからと言って、出雲からトコロテン式に元筑紫が大和へ押し出されたなんて、よくも考えたもんだ。 >>426
大和はまた別の話
きちんと整合性があるのは日本海側だけ
大和はもっと後の話 >>421
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>423
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>424
もはや虚偽を並べるしかなくなった畿内厨アワレwww
どうせそんなマイナーな書物なんて誰も確認できないと思ってデマカセを並べたんだろうが残念賞
ここのサイトで現存分は全文読めるし単語検索もできるw
https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=90570
もちろん萬二千里なんて単語は全くヒットしないがなw >>431
これは電子記録化した分だろ。
膨大な書籍の記録化をしているときに、逸文の記録が手につくかよ。
まだ何十年とかかる作業だ。
載ってるわけないわ。 >>431
「朝鮮半島からの里程-飯山の昼行灯U」と検索欄に入力して、
画面の一番上を開け。
原文が載ってるぞ。 >>424
>余があるから実測だと胸張っていた短里説者は顔色をなくすね。
意味がわからない。
一万二千里が概念だとする畿内説が顔を真っ青にするところだろう。 >>432
それは八家後漢書の全逸文だよ
たぶんお前の言ってるのは某氏の推測による説だろう >>420
>魏略や倭人伝の前に成立したとされる謝承の後漢書には「楽浪郡?去其国萬二千里」と書かれている。
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 >>434
畿内説は別に長里でいいんだから、萬二千里が概念だとか言う必要なくないか? >>435
隋書も萬二千里だな。
魏略、倭人伝だけが萬二千余里なんか?
もっともらしく余分なもの付けるからよ。 >>437
萬二千里を一里430mで計算してみろよ。
ニューギニアあたりだぞ。
だから、萬二千里は遠いところという慣用句だよ。 >>439
>だから、萬二千里は遠いところという慣用句だよ。
朝っぱらから頑張っているではないか、よしよし!
たしかに「萬二千里」は慣用句でも良かろう。しかしそれと「萬二千余里」では字ズラも意味合いも違うからな、、。 >>439
短里を認めたくないのかw
仮に萬二千里が慣用句だとして邪馬台国は
どこにあるのだと思うか教えてもらえないだろうか?
後学のためにw >>439
>だから、萬二千里は遠いところという慣用句だよ。
だから、帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 >>437
>>>434
>畿内説は別に長里でいいんだから、萬二千里が概念だとか言う必要なくないか?
言っているバカに言ってやってくれ。 たしかに「萬二千里」は慣用句でも良かろう。
しかし、それと「萬二千余里」とでは、字ズラも意味合いも違う、こっちのほうは短里であることを意味しているのだ、。 >>445
その通り。
だから、帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 短里ってのは何で三国志魏書の中国国外の東部にだけ存在するのかが意味不明なんだよ。
他は中国国外でも短里なんて使ってない。
魏の東に広大な国があり魏に朝貢しているとする偽装工作なんてことは、中国がもっと昔から大陸を支配してる事を考えると
そんな幼稚な偽装工作が罷り通ると考えるようなおめでたいやつはいない。
帯方郡から朝鮮半島の端の狗邪韓国まで7千里。
当時の中国人の1里の常識は400m程度だから2800km
朝鮮半島の長さが、台湾を突き抜けてフィリピンくらいまであると書いてる訳だ。
そこから更に5000里ほど。
中国本国を凌駕する国が魏に従ってますと。
1里70mでピッタリ合う!という短里の発想と言うのは、秦の始皇帝も万里の長城を諦めて裸足で逃げ出すビックリ超大国が
魏の東に存在すると言う夢物語を真面目に考えるというアホ臭さ。 >>447
まーたこういう周回遅れが湧いてきた
魏志倭人伝だけじゃなく、ずっと後の時代の隋書でさえ部分的に短里が使われてる
隋書百済伝に「其南海行三月有耽牟羅國 南北千餘里東西數百里」とあり
耽牟羅國は済州島のことなので、この大きさは短里でしかあり得ない
長里(短里の約5倍)だとすると「方可四千里」の朝鮮半島より東西幅が大きくなってしまう
ちなみに隋書では南北や東西とは方の南北辺、東西辺の長さを表すので上記は横長の範囲となる
https://blogs.yahoo.co.jp/furutashigaku_tokai/55410148.html
https://blogs.yahoo.co.jp/furutashigaku_tokai/55416161.html もう一つ短里の実例がある
三国史記新羅本紀の中の鬱陵島の大きさについて
「于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里」(『三国史記』巻第四 新羅本紀)
鬱陵島は突出部を除くと10km弱四方ほどの小さな島なので、方一百里は短里となる
http://livedoor.blogimg.jp/wildhorse38/imgs/9/7/9793bc97.jpg グダグダと屁理屈を並べても実際に短里が複数の史書で使用されているという事実には勝てないのであった
畿内厨残念無念 >>447
>短里ってのは何で三国志魏書の中国国外の東部にだけ存在するのかが意味不明なんだよ。
何故そうなったのかは不明だが、だからといってその事実から目を背けてはいけない。
事実を受け入れ、それからその原因を探るしかない。 >>451
その通り。
だから、帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 >>447
>短里ってのは何で三国志魏書の中国国外の東部にだけ存在するのかが意味不明なんだよ。
歴史というのは、考えたら意味がわかるってもんじゃないんだよ
速攻で、あきらめるんだな、 >>448
魏書にしても隋書にしても、その記述の全てが新規に書き起こしたわけではないって事は理解してるかい?
魏書にせよ隋書にしても、過去の他の記録から書き写して一纏めにしてるだけだ。
隋書に関しては、当然先に成立してる魏書から引用してるに過ぎない。
魏書は魏本国や帯方郡の公文書と、魏略や前漢書など他の文献の引用で纏めてるだけに過ぎない。
魏書でも隋書でも使かわれてるから正しい。ではなく、誰も出典元が正しいか検証しないまま転記されてるからこうなってるだけだ。
魏志倭人伝最大の無責任投げっ放しの、船で一年の裸国、黒歯国なんか、紀元前4〜3世紀に書かれたビックリ妖怪大百科の山海経からの転記だしね。
正史にあるから物凄く正しくて正確に違いないなんて、幻想はさっさと捨てましょう。 >>453
>畿内説にとっては、辛い事実ばかりなんだろうなあ。
九州説もね。 わははははは
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。
なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>451
目を背けずに考えたら、萬二千里は実測ではないという結論にしかならんよ。
逆に途中で思考停止するから、短里に逃げざるを得なくなる。
魏志倭人伝全文や、他の正史の倭国の記載も見比べ、正史以外も拾っていくと、魏志倭人伝に正しくない。正確でない事が混ざってるのがはっきりわかる。
魏志倭人伝を正しく読む。と言うのは、字面を額面通りに読むことではなく、正誤をなるべく多く嗅ぎ分けて本当の所はどうなのか?を読む事だろ? >>457
方角も違う、距離も合わないということか?
じゃあ魏志倭人伝なんて読む価値ないんだな。
すくなくとも畿内厨の人は。 到其北岸狗邪韓国 七千余里 始度一海 千余里 至対海(対馬)国
-------------
参問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千余里
-------------
自郡至女王国 萬二千余里
千余戸、四千余戸、七万余戸etc.と
ここでは戸数も「余」付けて表現してるのだからさ
グーグルマップ開いて帯方郡から狗邪韓国まで7000として、そこから対馬まで1000の距離比
でもって遠目で眺めて島をぐるっと一周ざっくり5000の対比関係になり得そうな陸地は九州島くらいしか
無いんだがね・・
そして帯方郡から女王国まで12000だから狗邪韓国までの距離の12/7掛けするとだいたいのところが出るよ
そうすると・・・ゴクリ >>458
>じゃあ魏志倭人伝なんて読む価値ないんだな。
>すくなくとも畿内厨の人は。
まさにその通り。読む価値もないが、畿内厨自身も価値なし。 「男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中国 皆自称大夫」
男性は大人も子供も、みな顔や体に入墨をしている(黥面は顔の入れ墨、文身は体の入れ墨)
古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している(訳文by wiki)
実はこの一行だけで畿内説を粉砕できるのです
魏志倭人伝の作者にとって倭人とは「みな顔や体に入れ墨をしている」人々なのですよ
入れ墨してない倭人は作者(または魏の使者)にとって別種の倭人という認識
倭からの使者と何十人もの男女「生口」が大陸に渡っているので証人多数
少なくとも渡来してきた魏使者の張政一行は入れ墨人しか見ていないぽい
「4世紀以前奈良盆地の民は入れ墨習俗あるのか
イレズミ渡来人が半島から大挙して来た記録・物証あるのか」
なんかを問うて見ればいいかと、しょぼい土器でなんちゃら言うかもしれないが
倭人、倭国、邪馬台国の定義は魏志倭人伝の作者(伝聞なら伝承者)の定義が全てであって
現代の我々がかってに定義するもので無いという基本的な事がわかってない
自分たちの考えにそぐわない都合の悪い事実は見なかったことにするし
>>372をあっちのスレに貼ってもほぼほぼスルー >>458
さぁ?正しいとするだけの根拠は足りないだろうな。
倭国に百くらいの国があったと言うのも、前漢書地理志の燕地条に出典元が見られるが、前漢書の成立はAD1世紀頃。
少なくとも魏書よりも早い時期に編纂された記録から魏書が転記した証明にはなる。
調べもせずに過去の記録を丸写しするのが中国歴史書のスタイル。
漢代では楽浪郡から萬二千里で倭国に着いたのに、魏の時代になると、楽浪郡よりも南の帯方郡からも萬二千里かかるって、適当なコピペするからミスをしたりね。
書いてあるから正しいと鵜呑みにするのではなく、その文面の出典元まで辿ってみる必要がある。
身長90cmの侏儒国とか、鵜呑みにしないよね?
それと同じ様に、正史だからと鵜呑みにせず、疑ってかかるほうが良い。 >>464
帯方郡はソウルの辺りで、楽浪郡はその北だろ。 >>449
朝鮮里は1里420m程度だそうだ。
百里だと42kmになる。
実際の地図上の鬱陵島は一辺10km程度なので、
朝鮮里による百里42kmは実際の鬱陵島の一辺10kmの4倍ということになる。
そこで、1里420mの4分の1を計算すると、1里105mになる。
この計算では、キミらが主張している75mとは合わんじゃないか。
30mも差がある物差しなんて物差しとは言えんよ。
つまり、普通に考えたら、鬱陵島一辺百里は実際よりも4倍に盛った過大な長さだということなんだがなぁ。
李氏朝鮮時代に描かれた朝鮮半島が異常に大きいのも、こうした史書の盛り過ぎの里程に起因していると考えるのがOKよ。 >>441
だからよ、萬二千里でもって邪馬台国の位置を割り出そうとする試み自体が、方法論として間違っているということなのよ。 >>440
謝承後漢書の萬二千里の慣用句を、魏略はあたかも測量を見てきたかのように余をつけて、もっともらしくしただけ。 >>469
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
行ったことも、見たこともない遥か彼方の大海に浮かぶ国や島が現実に描かれている。 なんらかの測量法があったことは確実。
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf.jpg あのー
1里の実距離に関係なく地図、定規、コンパスで割り出す方法書いたんだけど>>459
わかってもらえてない俺涙目 >>463
>漢代では楽浪郡から萬二千里で倭国に着いたのに、魏の時代になると、楽浪郡よりも南の帯方郡からも萬二千里かかるって、適当なコピペするからミスをしたりね。
後漢書が最後に書かれたんだよ。
でも後漢の頃には帯方郡がなくて楽浪郡だけだったから、後漢書ではあえて楽浪郡としたんだ。
写し間違いではなく、論理的にそうせざるを得なかった。 >>472
比率から言えば九州北部の他に選択肢はない。
それはもうずっと九州説が主張していることなんだ。
それを畿内説が無視し続けているだけ。 >>473
謝承が書いた後漢書が最も早い。
魏略より早い。
魏略や倭人伝はこの謝承が書いた後漢書を参考にしたのだろう、というのが学者の説。 後漢書の時代:
楽浪郡→金印の倭奴国・・・萬二千里
魏志倭人伝の時代:
楽浪郡〜帯方郡・・・(二千里)
帯方郡→女王国(邪馬台国女王之所都)・・・萬二千余里
つまり差し引きすれば、倭奴国〜女王国(邪馬台国女王之所都)は、二千余里であった。 >>478
やっぱりねw
あいつの理屈は間違ってると思うよ >>459
5千は倭地のぐるり周囲の距離だからね。
倭人伝は倭種の国も倭地としているから、まあ福岡から瀬戸内海沿岸を通って伊勢まで行き、それから紀伊半島と四国南岸を廻り、そのあと鹿児島から長崎、福岡へ戻るのが5千里。
魏1里430mでぴったんこの一周距離。
遠いところを意味する萬二千里を地理的に割り振っただけの記述を元に地図上の距離と整合性をとろうとするから、1里75mなんていう夢にうなされ続けることになるのよ。 >>480
福永信三の田川説はトンデモだけど、彼の漢文能力は評価に値する。 >>481
よほど周旋五千里にうなされ続けてるようだな、お気の毒に、、、、 >>482
彼は翰苑中の後漢書が三國志より前にあるから謝承が書いたものに違いないって言ってるだけなんじゃないの >>441
実際の邪馬台国は筑後山門にあったのじゃ。
このことは誰にも言うな。
秘密じゃけんの。
一方、萬二千里は単に謝承後漢書の受け売りだから、取り上げる必要はまったくない。
しかし、地理的に沖縄あたりにあるとする倭人伝の記述については、
これはそのあたりの海域に扶桑などと呼ばれる仙人の住む理想郷があるとする古代中国人の固定観念が原因となっており、
そのような理想郷の固定観念と先行の史書の奴国が倭国の極南界にあるとする記述を組み合わせたのが沖縄邪馬台国の陳寿説なわけだ。
この陳寿説は古代中国人の固定観念に発する荒唐無稽なものであるから、陳寿によるトンデモ説としておくのがよい。
そういうわけだから、邪馬台国は筑後の山門にあったのだよ。 実際の邪馬台国は安芸の宮島にあったのじゃ。
このことは誰にも言うな。
秘密じゃけんの。 松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州—釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津—小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城—佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀—大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川—玉名 47km
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名—緑川 26km
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川—人吉 86km
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域—屋久島 315km
裸国、黒歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2 >>479
>つまり差し引きすれば、倭奴国〜女王国(邪馬台国女王之所都)は、二千余里であった。
対馬海峡より短いということですな。 >>485
>実際の邪馬台国は筑後山門にあったのじゃ。
奴国から二千里程度ということかな?
一万二千里でも全く問題ないようだ。 >>489
萬二千里は捨てなよ。
伊都国から奴国までの百里と奴国から不彌国までの百里は同じ。同じ間隔ということ。
そこで、地図上の伊都国から奴国までの間隔と同じ間隔を東に取ればいいの。
そしたら、その間隔は筑紫野市から小郡の中間くらいの位置になる。
で、この地点と狗奴国である熊本の北に当たる大牟田との間が焦点になる。
小郡から南のあたりは筑後川付近が地理的に境界になるから、この筑後川の南の八女から大牟田までが邪馬台国ということが弾き出されるのだ。
邪馬台国はこのあたりにあって、八女は政治経済の中心、山門は卑弥呼の祭祀所があったところ。
倭国大乱の頃に八女と山門は合併したのだろう。
八女では、日本書紀神功紀に出てくる夏羽が仕事しており、山門では田油津媛が豊作を祈っていたということだよ。 >>486
安芸の宮島邪馬台国説はハツミミ。
そんじや、宮島と戦争した狗奴国は伊予か。
倭人伝は上陸戦の様子は書いてないけどな。
それに、水行三十日はどこからどこまでよ? >>455
>隋書に関しては、当然先に成立してる魏書から引用してるに過ぎない。
魏書に耽牟羅國なんて出てこねえよw
負け犬の言い訳はいつも愚かしいな
>>450を百回読めカス >>467
鬱陵島の一辺は10kmもない
東西は10km近いが南北は8km程度でしかない
10km弱を=10kmと読むそのアホさは救いがたいな >>490
筑後川流域でも一万二千里を満たすだろってこと。 萬二千里が慣用句ならば対馬までの千余里、
壱岐までの千余里、末盧国までの千余里とは
どう解釈するんだ?比定できる地名と距離から
魏里とは違う短里の存在が昔から言われているだろう?
短里が幻想ならば對海国、一大国、末盧国とはどこになるのか
教えてくれないか? 倭国内の伊都〜水30日陸一月の往復4ヶ月で頻繁に往来がなされてるわけは無い。半島南まで入れたら何ヵ月かかり潮の流れで秋は無理らしいじゃないか?都が遠すぎて助けてくれなぞ卑弥呼も言わんだろ? それに一大率は相当暇だと思うよ、畏怖する理由も解らん。 吉野ヶ里の重要性と位置づけも見逃せない。
いったい、倭人伝の行程のどこに位置したのであろうか。 【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg 「邪馬臺国」は呉の後背を襲える福建省の真東にあるというデタラメから
逆算したのが三国志魏志の「行程」記述
「行程」がどうのと垂れてる連中は全員白痴 畿内説の方角・距離無視というデタラメ行程論もあるが、
九州には、問題を解決できるきちんとした行程論もある。ま、気に入らないだろうけどな・・・、 >>502
九州説でもチョコチョコ方角や距離を誤魔化さないと無理だけどね。 ありもしないとんでもない場所に到達するための「距離」だの「方角」だのに
意味があるわけねーだろうが
三国志魏志の記述でわかるのは当時の中国人は九州北岸までの
地理の知識はあったということだけ
他の「地理」関連は全部デタラメ >>503
やっぱり気に入らない様だな
ま、其のうち、倭人伝の行程記事の正確さを裏付ける発掘事業も進むことだろう。 >>505
>ま、其のうち、倭人伝の行程記事の正確さを裏付ける発掘事業も進むことだろう。
とっくに、倭人伝通りの行程は、決着済み!
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 >>505
一大国から末盧国までの工程がそもそも九州説だと千里ないじゃん?
九州上陸前から恣意的に歪めてるのは認めようよ。
別にそんな事位大昔の記録なんだからあってもいいんよ。
それを九州説は完璧で間違いないなんて思ってるのが間違いなだけ。 >>507
>一大国から末盧国までの工程がそもそも九州説だと千里ないじゃん?
実態として、
壹岐から末盧国の港(古唐津港の中原遺跡)までは、700里くらいある。
それを概数千余里というのは適切の範囲内だろうな。
また、西接の伊万里港までならドンピシャ千里となる。また帯方郡からは1万里で、ゆえにここをイー・マン・リーと称した。 イー・マン・リーの伊万里から、
東南陸行500里到る伊都国といえば、そりゃ、どう考えたって佐賀平野じゃろうもん・・・、 >>507
松浦國の場所を恣意的に歪めておいて、間違っていると批判しているマッチポンプだろ。 >>509
対海国から一大国までの距離とえらい違うのに?
千里、五百理の行程とあるならまあそんなもんかな?の範囲ではあるが、流石に盛りすぎだぞ。 >>512
松浦ならいいと思うが、九州説でも松浦支持なんて少数派でね? >>515
ごめん、末盧国と書いたつもりだった。
松浦かどうかはわからん。 >>504
じゃあ、邪馬台国がヤマトとも読める(しかも漢・魏音じゃなくて唐音でギリギリw)という
脆弱な理由しかない畿内説ってデタラメ以前だろw >>516
>松浦かどうかはわからん。
末盧国(四千戸)は、万津浦(福津市辺り)だよ。 わははははは @阿波 新井白石以来、言い習わされた通りで、松浦川の中原津で決まりだよ。
後世までワンドになっていたこともあって、今は唐津競艇場になってるが、
それくらい船溜まりとしては好適な場所だったということさ。
この競艇場の正門向かいに中原津の遺跡がある。
帯方郡のお役人も、昼間っからアワビをかじりつつ、接待競艇にトチ狂ってたのかもしれぬ。 >>518
万津浦なんて実在しないぞ無能チョンコwww >>520
末盧国(四千戸)は、万津浦(福津市辺り)だよ。 わははははは @阿波 東へ東へ心が流れる者たちは、
結局は、南にあった投馬国や邪馬台国には達することができなかったのだな、、、 始度一海 千餘里 至對海國
狗邪韓国のあったとされる釜山から対海国まで千里
対馬北端なら50km、南端なら100kmの距離
又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國
対海国から南に千里で一大国
対馬北端から壱岐までなら90km
南端からなら50km
又渡一海 千餘里 至末盧國
また千里で末盧国
壱岐から呼子(名護屋)だと25km
松浦なら45km
志賀島直行の方が50kmとまだマシ。
一大国から末盧国は方角の記載もないので何が何でも直南下しなきゃならん理由もない。
これを誤差だと言い張れるのが、古田信者の頭のおかしさ。 >>523
>一大国から末盧国は方角の記載もないので何が何でも直南下しなきゃならん理由もない。
これも既知のことだが、
対馬も壱岐の島民も、糧食を求めて南北に市櫂したとある。
(実際には南北に限定されないのだが)、わざわざ、南北市櫂と書いてあるからには、
ここは、南北に渡海した、或は南北に渡海すべしとの暗黙の指示・指令であろう。
このあたりが、陳寿の筆の巧みなところである。
(これを読み取れない者は、即刻退場!!) 東南陸行 五百里 到伊都国
これも方角の改変が必要な所
呼子から平原遺跡までは南東方向ではなく、南東に進んだ後、北東に進む必要がある。
直線方向なら真東。
距離や方角を歪めないと糸島にはたどり着けない。 >>525
その通り、
だから、ここは素直に東南への道を進めば何の問題もないのだ。其の東南500里で到るとは、さていずこでしょう?? (参考図)
末盧国から、素直に東南への道を進めばいずこ??
http://imgur.com/WRATyrS >>527
なるほどこれは実に貴重な図だ。 倭人伝そのまんま東南。。。 >>526
名護屋から南東に行くのがそもそも間違い。
たった25kmを千里と強弁するのは、距離の歪曲って言うんだぜ? 上陸したまつらには官名が無い上に伊都まで500里ってどんだけ歩くんだよ、其処が立ち寄る場所か?流されとるし500里は歩かん。 >>529
末盧国の港は名古屋ではない。壱岐の島に近すぎる。
どう見ても唐津中原だろうな。(壱岐から唐津中原まで約700里だからな)
だがその唐津からは海沿い北東への道ではない。東南の道を500里進んだところ、それが伊都国だ。 >>530
>其処が立ち寄る場所か?流されとるし500里は歩かん。
倭人伝の通り読めばよいのだ。
唐津から東南への道を500里だ。実際には南へ300里、そこで東へ転じて200里だ。
500里は遠すぎるというが、
倭人伝には、一大率が(唐津の中原の)津まで見聞に出向くとある。
別の見方をするなら、わざわざ唐津まで、出迎えと警護にやって来てくれてたのだろうなあ。
それが役人同士の仁義というものだ。 福建省の真東にあると書いているんだから
そこに至る行程は福建省の真東のどこかへの行程になってなきゃおかしいだろうが
福建省の真東には琉球しかない
よって距離だの方向だのはまったくのデタラメ 短里にしろ50キロと200キロだぞ舟乗り捨てて歩く距離じゃ無いだろ流されてる。 >>535
一般に言う短里で500里は、およそ37.5qだ。
昔の人の足で、なおかつ一大率のような案内人ありなら、朝出発して夕方には到着できる距離だな。
逆に言えば、1日で着けるよう、伊都国の駐在が出迎える習わしだったのだろう。
その出迎えが唐津に来るまで、
客人たちはアワビやサザエを肴に飲んだくれては、唐津の競艇場で遊び呆けていたのではないかな。 帯方郡から邪馬台国まで水行10日陸行1月は、水行10日陸行1日の誤りだろう。
なぜなら日本国内で陸行1月が必要な土地などないから。
つまり伊都こそ倭の都、倭都(いと)だったのだろう。
倭が卑字だったのを知っていたから、伊の字に変えたのかもしれない。 >>523
>狗邪韓国のあったとされる釜山
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 >>523
>志賀島直行の方が50kmとまだマシ。
福津市辺り(万津浦)直行の方が70kmとずばり。 @阿波 >>524
>ここは、南北に渡海した、或は南北に渡海すべしとの暗黙の指示・指令であろう。
無理! 対馬海流に流されて無理! それは、それぞれの島内を、「南北市櫂」。 @阿波 短里だと不弥国に海が無い。かといって馬に慣れとるであろう魏の役人が立ち寄る場所なら海に近いとこだろ、海から37キロは検閲する場所じゃない。 >>540
アホか。
島に農地が足りないから南北に渡海するんだよ。
島の中で移動しても解決しないだろ。 >>542
>島に農地が足りないから南北に渡海するんだよ。
アホか。
対馬海流に流されて無理! それは、それぞれの島内を、「南北市櫂」。 @阿波 >>525
それもう過去スレで論破されてる
> 354 :日本@名無史さん :2019/09/24(火) 00:17:24.76
> 奈良文化財研究所のブログより
>
> https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2013/06/20130601-1.html
> >古代の方位測定法
> >いまの私たちなら、方位磁針(コンパス)を使うのが簡便です。ただし、よく知られているように、磁針が指す磁北は、
> >地球の自転軸の延長方向である真北とは一致しません。
> >奈良や京都では、真北から7度ほど西にずれています。この差は地域や時代によって異なりますが、6〜8世紀ではさらに大きく、
> >西日本では平均して10〜15度も西へずれていました。したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。
> >
> >ではどうやって方位を測ったのかというと、まず間違いないのは太陽を利用する方法です。地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。
> >午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。
> >この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。
>
> 太陽を利用する方法は精度が高いが定点観測しなきゃいけないので都市計画にはいいが移動時には使えない
> 魏使は方位磁針で方角を測ったが磁北が西に大きくずれていることに気づかなかったため魏志倭人伝の方位にずれが生じた
> と考えるとすっきり解決するのではないか >>521
万津浦なんて実在しないぞ無能チョンコwww >>538
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>539
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>540
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>543
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>523
>志賀島直行の方が50kmとまだマシ。
福津市辺り(万津浦)直行の方が70kmとずばり。 @阿波 >>531
唐津から何も考えず南東に35km進むなら、伊都国は佐賀平野側に突き抜けるわな。 >>544
>ところが、北極星はずっと同じ位置にあったわけではありません。コマが首を振るように、
>地球の自転軸は約25,800年の周期(歳差さいさ運動)で動いており、
>現在の北極星が北の指標となったのは大航海時代(15世紀)以降といわれています。
>それ以前は、紀元前1,100年頃にコカブ(こぐま座β星)、紀元前2,800年頃にはトゥバン(りゅう座α星)が
>北極星の役割を果たしていました。
>しかし、古代の日本に、北極星にあたる星は存在しなかったのです。
この奈良文化財研究所のブログは、都市計画において超正確に真北を定める場合の事のようであり、
これを倭人伝の行程論に援用するのは、全く意味がないことである。
古代と現代で、北極星の位置は数度しか違っていなかったので、ブログの都市図においても、
「良く見れば、北の方角がなんとなく西にずれてないでもないねえ・・・」程度のことである。
数度の違いは、一般人にはほとんど感知されない。
ましてや
「>古代の日本に、北極星にあたる星は存在しなかったのです。」のくだりはトンデモ無知無能の類だ・・・、
現代と同様、日常的な方位であれば、古代においても北極星で定めて何の問題もなかったのである。 >>544
> 魏使は方位磁針で方角を測ったが磁北が西に大きくずれていることに気づかなかったため魏志倭人伝の方位にずれが生じた
> と考えるとすっきり解決するのではないか
現代と古代の北極星のズレは数度から〜せいぜい十度の範囲である。
これに対し、倭人伝の北部九州説や畿内説では45度〜90度のズレになっている。
その大きなズレを少しばかりの北極星のせいにするのは全くのお門違いであり、言い掛かりと言わざるを得ない。
非科学的で安直である。 魏志倭人伝の内容が正確ではない。
だから文面の分析で当たりをつけるだけでは不十分で、発掘調査で現物を確認する必要があるし
書いてあるから正しい、書いてないから正しくない。という論調自体がナンセンスだと考えたほうが良い。 >>555
>発掘調査で現物を確認する必要があるし
その通り。 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 >>555 名前
>魏志倭人伝の内容が正確ではない。 ←正確ではない△ さほど精密ではない○
>だから文面の分析で当たりをつけるだけでは不十分で、発掘調査で現物を確認する必要があるし
現状では、
文面で当りをつけたと称して、多くの場合がトンデモ距離・トンデモ方角を発掘しているのではないか。
倭人伝の文面を精密に解釈して、なるべく確率の大きい当りをつけることが必要。
その後に発掘で確かめることは当然大事で必要不可欠。 >>557
>卑弥呼の墓は?
卑弥呼の墓は
「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。
この矢野神山には200基近い古墳があり、江戸時代、神陵(古墳)の一部を削り本殿を造営。
この本殿裏の神陵(古墳)が卑弥呼の陵墓だと伝え、神社に伝わる由緒には、塚に"金印"が埋められたことまで記されているという。
後円部の直径は約35m、頂上部には五角形の祭壇が築かれ、祭壇の上には永遠の生命を象徴するという鶴亀の石が祭られている。
天石門別八倉比売神社:徳島県徳島市国府町西矢野 矢野神山 @阿波
「矢野遺跡と天石門別八倉比売神社」
https://sueyasumas.exblog.jp/9415763/
http://www.genbu.net/data/awa2/yakurahime_title.htm >>560
無い物ねだりのひがみ節! わははははは @阿波 魏志倭人伝に書いてある内容のうち、どの部分が本当に当時の事実なのか判別する事自体も難しい作業なのよな。
魏志倭人伝には色々な出典元が混ざってる訳で、本当に当時の事実だけを書いたわけではない。
最もわかり易い例
身長1m以下の侏儒国や船で一年かかる裸国や黒歯国も魏志倭人伝の記述である事には変わりないが、誰も信じちゃいない。
魏志倭人伝の成分は、以下が推測される。
陳寿の解説、補足
魏略からの引用
梯儁の出張報告
張政の出張報告
裴松之の加筆
魏の公文書
魏書よりも古い記録からの転記や引用
邪馬台国が実は全然明後日の場所にあったとしても不思議ではない。 >>554
磁北の位置が現在と違ったというのが趣旨だろ
北極星の話じゃない
こういう日本語も理解できないバカが話に混ざろうとするからどんどん議論がおかしくなる >>563
磁極は南北逆転を繰り返したり、移動速度も一定じゃない。
3世紀の北磁極なんて記録があるわけでもないのにわかってるの? 白痴老人共のウワゴトがわんさか
中国で正確な緯度計測の手法を確立させたのは
「令和」の種本として最近名前が挙がった後漢の科学者張衡
磁北なんてものは緯度計測にはまったく使っちゃいないんだよ >>564
文字が読めないの?
>奈良や京都では、真北から7度ほど西にずれています。この差は地域や時代によって異なりますが、6〜8世紀ではさらに大きく、
>西日本では平均して10〜15度も西へずれていました。 >>566
それがどうやってわかったのか?
ここ最近ですら北磁極の移動速度が推定してたものよりもかなり速いと話題になってる。
信憑性あるのかと、問うているんだが? >>554
90度は畿内説が南を東と言いくるめるための方便だろ。 >>562
>魏志倭人伝には色々な出典元が混ざってる訳で、本当に当時の事実だけを書いたわけではない。
それはいい。
>邪馬台国が実は全然明後日の場所にあったとしても不思議ではない。
しかし邪馬台国へは直接郡使が訪問しているのだから、そこまでの道程は信頼すべき情報だ。 >>563
この磁北論旨は、奈良文化財研究所のブログから、
>>磁北の部分と、>>太陽の部分を抜き出して、「磁北は不適当だったから、太陽で計った」となっている。
しかし、ちょうどその中華にあった「北極星」のことは、ごそっとスキップしての結論だ。
小細工をするでない。
(・・・前省)
>>西日本では平均して10〜15度も西へずれていました。したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。
>>544 の引用はこの行まで↑
>>553 の引用はここから↓
「次に思いつくのは、北極星を測ることでしょう。
現在の北極星(ポラリス=こぐま座α星)は真北にかなり近い位置にありますので、
これを利用するのが真北の測定法としてはもっとも簡便です。
実際、古代にも北極星で真北を求めたと主張する人がいます。
ところが、北極星はずっと同じ位置にあったわけではありません。コマが首を振るように、
地球の自転軸は約25,800年の周期で動いており(歳差さいさ運動)、
現在の北極星が北の指標となったのは大航海時代(15世紀)以降といわれています。それ以前は、
紀元前1,100年頃にコカブ(こぐま座β星)、紀元前2,800年頃にはトゥバン(りゅう座α星)が北極星の役割を果たしていました。
しかし、古代の日本に、北極星にあたる星は存在しなかったのです。」
>>553の引用はここまで↑
>>544の再引用はここから↓
>>ではどうやって方位を測ったのかというと、まず間違いないのは太陽を利用する方法です。以下略・・・ マツラは官使もおらんし上陸するような場所じゃない、人が歩けば草はない。流されてる 。そっから短里だと40キロも歩いておる で七キロ先に奴国でまた七キロ先に不弥国で海。伊都は普通に短里なら福岡辺りだろ。 >>567
奈良文化財研究所のブログでさえ、
磁北で計ったのではないだろうといってるんだよ。
>>西日本では平均して10〜15度も西へずれていました。したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。 >>562
>邪馬台国が実は全然明後日の場所にあったとしても不思議ではない。
「邪馬臺国」の場所はとっくに「阿波」と解明されている と、何度言えばw @阿波 >>571
郡司が正しく正確に書いた保証もないし、郡司の行程に陳寿が加飾してない保証もない。
国邑の長官、副長官の名前ぐらいは正しいかもしれないが、国邑の戸数も本当なのかどうかは分からない。
魏志倭人伝よりももっと後の時代。
日本は黄金でできた国だと書いたヴェネツィアの詐欺師にヨーロッパ中が騙されたという笑える実例もあるよね?
程度の差こそあれ、同じようなことが魏志倭人伝に起こってないとは言い切れない。
前述したように侏儒国なんてかなり突飛なことが、同じ魏志倭人伝に書かれており、それが中国の正史とされてるんだよ?
話半分、眉唾と思った方が良い。
だからそこ、実際に発掘して探す必要がある。 >>572
やっぱり日本語が読めない白痴だったな
> 太陽を利用する方法は精度が高いが定点観測しなきゃいけないので都市計画にはいいが移動時には使えない
> 魏使は方位磁針で方角を測ったが磁北が西に大きくずれていることに気づかなかったため魏志倭人伝の方位にずれが生じた
> と考えるとすっきり解決するのではないか
>>574
それはまさしく都市計画の話だろ白痴 >>577
> 太陽を利用する方法は精度が高いが定点観測しなきゃいけないので都市計画にはいいが移動時には使えない
> 魏使は方位磁針で方角を測ったが磁北が西に大きくずれていることに気づかなかったため魏志倭人伝の方位にずれが生じた
> と考えるとすっきり解決するのではないか
↑この部分は、 奈良文化財研究所のブログ↑の内容にはないぞ。
ブログを引用した>354↓のコメントだろ。引用したのは君か↡?
> 354 :日本@名無史さん :2019/09/24(火) 00:17:24.76 >>576
邪馬台国人口盛りすぎ問題だな。
するっと読んでしまうと気にならないけど、よくよく考えるとおかしな事は結構書いてある。 >>551
>>543
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>523
>志賀島直行の方が50kmとまだマシ。
福津市辺り(万津浦)直行の方が70kmとずばり。 @阿波 松浦半島までですでに1万里。
さらに五百里で糸島。
松浦半島から糸島までの行程を三倍したものを半径として
コンパスで円を描く。
その中にヤマダイ国はあると言うことになるね。 >>582
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 >>562
しかし、狗奴国が熊本というのはほぼ確かだろう。
邪馬台国はその北だから。 >>584
>邪馬台国はその北だから。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い北部九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 張衡以降中国の役人は現地に行きさえすれば
その地の緯度は正確にわかるようになった
経度について測定が可能になるのはずいぶん先だけど
三国志魏志の緯度の比定がデタラメ
=中国の役人は一度たりともその地を訪れていない
海の上なんだからそもそも訪れようが無いんだが 熊本といっても広い。
北半分の主邑は山鹿・菊池・合志だが、
南の半分は旧肥後国11郡のうち最大の郡で球磨郡(クマ郡)と云った。その主邑の球磨平野は奈良平野と同じ広さがある。 >>582
奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の解釈に独特のものがあるようだが
奴国だけでも2万戸、10万人
投馬国で5万戸、25万人
邪馬台国で7万戸、35万人
そんな範囲に収まらんだろ。 邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている
1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)
斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算
陳寿はマメなやつだ。 >>555
かといって、南は東の誤りとは言えんわな。 >>589
その合算計算方式だと、邪馬台国が全体の総称となるが、では邪馬台国の官と三名の副官の名前があることと整合性が取れないし何も根拠がない。 >陳寿はマメなやつだ
遂周觀諸國、采其法俗、小大區別、各有名號、可得詳紀
と陳寿が宣言しているところを実際に文字におとしたものだから
当然のこと緻密だな 倭人が多数暮らす大国家群を魏の勢力圏下に収めたというのは
陳壽に三国志を書かせた初代晋皇帝司馬炎の祖父である司馬仲達の
生涯最大のトロフィーなんだよ
だからその記述は三国志正史では異例の微細にわたりかつフカしも多い
というよりそもそも仲達自身がそのフカしの張本人だった
司馬仲達はこれ以降群臣の中で圧倒的な地位を確立し
自身の帝国樹立に残る障害は曹家のみとなった 短里ってのは魏本国の1里435mと大きくかけ離れてる。
統治の基本中の基本である度量衡にダブスタを用いたと言う時点で、短里はとんでもない暴論なのよ。
統治者は本来逆に度量衡を統一する事に腐心してたんだからな。
魏志韓伝では朝鮮半島は4千里四方とある。
4千×435mは1740km
グーグルマップでても距離測定をしてみるといい。
当時の中国大陸の漢民族支配地域すら凌駕する広大な朝鮮半島があったなんて、当時でも誰も信じるはずもない。
国外のことだから測量もしてないし、適当にでっち上げて書いただけって方がまだマシな言い訳。 >>589
ひとくくりで言えば、倭国=福岡県という説か。
ま、フルタもヤスモツもそうだからな、珍しくもない。 >>578
>↑この部分は、 奈良文化財研究所のブログ↑の内容にはないぞ。
>ブログを引用した>354↓のコメントだろ。引用したのは君か↡?
そんなことすら理解できてなかったのかお前は
奈良文化財研究所が言ってるなら最初から>>354のコメント部分なんて引用するかバカ
俺が>>354のコメントに賛同しているのでなければ>>544が論として成り立たないだろうが
頼むから日本語を読めないバカは書き込まないでくれよ >>594
畿内厨見苦しすぎ
約5倍も差があればどんなに適当であろうと誰にでも分かってしまう
短里が存在した以外に合理的説明はない
>>448-449に他史書での用例もある
諦めなさい >>596=痴呆老人のウワゴトにおれは賛同した!!と威張る白痴老人さん >>594
>統治の基本中の基本である度量衡にダブスタを用いたと言う時点で、短里はとんでもない暴論なのよ。
>統治者は本来逆に度量衡を統一する事に腐心してたんだからな。
言っておくが、東夷は、南蛮などと同じく格下異民族の外国種であり、中華帝国の外。統一も何もない。 >>599
完全に論破されてぐうの音も出ないから悪口だけ言うのか
みっともない負け犬だなw >>598
少なくとも俺は畿内「だけ」はないと思ってるが?
適当によその文献からコピペして、検証してないだけだ。
複数文献に乗ってるから正しいとかお目出度すぎる。 バカ「複数の文献に載っていても認めない!なぜなら俺様の考えと一致しないからだ!」 >>600
度量衡は同じものを広めてこそ意味があるんだよ。
当然国外でも同じ度量衡が通用するようにする方が、統治者にとっては重要な事。
国内の文書記録に、別の尺度を持ち込むなんてナンセンスも甚だしい。
中国国外だからノーカンとか、度量衡の意味を考えよう。
魏志倭人伝の事は一旦忘れて、現代人として想像してみてくれ。
国ごとに1mの長さが違ったらどうなる?その時の統治者はどうすると思う? >>603
複数の文献に間違いが乗ってたら正しいする方が頭おかしいわ。 5倍に誇張表現していたのだろう。
だから邪馬台国は九州北部。 >>604
>中国国外だからノーカンとか、度量衡の意味を考えよう。
陳寿は書類上の記録を載せただけだよ。
結果として、東夷の短い里の記録がそのまま収載された。 >>604
>魏志倭人伝の事は一旦忘れて、現代人として想像してみてくれ。
>国ごとに1mの長さが違ったらどうなる?
おもしろいことをいうね。
1mは国際標準だから、日本人はとりあえずそう思うかもしれないが、
それを云うならヤード・ポンド法はどうなの。
この地球上で、メートル法とは別にちゃんと通用してるじゃないの。 取り敢えず遭難したまつら沖から命からがら上陸して200キロは歩かない。だからここは短里。 倭人伝行程を考えると阿波のオジサンはいい線、しかしその後直ぐにおこる神仙思想巨大古墳に繋がらない、滅び無いと辻褄合わなくない?。 >>612
>滅び無いと辻褄合わなくない?。
申し訳ないが、意味不明。 @阿波 距離があっていないのだとしたら、
方角くらいはあっていて欲しいところだな >>551
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>556
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>559
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって >>561
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>575
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>581
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>583
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>585
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって >>613
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>614
梁書諸夷伝 東夷条 倭
其南有侏儒國 人長三四尺
複数文献に載っている以上は間違いなく事実しかありえないと? 魏志倭人伝の内容が、検証もされてない間違いだらけだと言うことを認める事から始めないと、結局ただの暗号解読遊びで終わる。 >>627
じゃあ魏志倭人伝なんて信用しなくていいから、邪馬台国関連のスレに来ないでくれ。
君は都合が悪いことを「信用できない」とレッテル貼って議論を撹乱するすることしかできない。
クズだ。 >>627
文献は信用ならん、考古資料が大事といいつつ巻向の矢板は鉄器で削られたと胸張る大和説者。 (畿内説)
倭国の主邑は奈良平野にあったとする・・・奈良県説(石、寺、箸、奥)
(北部九州説)
倭国の主邑はほぼ福岡県内にあったとする・・・福岡県説(糸クズ、フルタ、ヤスモト)
(肥前肥後日向説)
倭国の主邑は佐賀・熊本・宮崎県内にあったとする・・・九州三県説(新説) >>628
文献だけこねくり回せば良いのではなく、物証を揃える必要があると言ってんだが?
魏志倭人伝を正しく読むってのは、文献に誤りがあるから、正誤の見極めが大事だってことだろ?
文献に誤りがない前提でやれば邪馬台国が見つかるわけではない。 >>632
>文献だけこねくり回せば良いのではなく、物証を揃える必要があると言ってんだが?
だから、文献も 物証も、倭国(阿波)でとっくに決着済み だと、何度言えばw @阿波 >>631
倭国、倭王の定義が記紀ソースになっているのかな?
それらの、邪馬台国論争には、
古墳時代、前方後円墳までの日本には軍事的統一国家は出来ていない。
という、考古学上の常識が なぜ適用されていない?
倭人伝の卑弥呼は、
およそ190年から247年迄筑紫の21諸国が共立し代表とした宗教的女王。
邪馬台国は次有21国此女王境界所盡、可七萬餘戸であって、地理上では、
自郡至女王國 萬二千餘里 其南有 狗奴國不屬女王 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
倭国は、倭人 在帶方東南 大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國
であって、対馬海峡の南の周旋可五千餘里(九州島3分の1程度)の一小国ではない。
この筑紫王卑弥呼を王とするなら、統一された大倭国は247年までに成立していない。
この時期、魏による239年公孫氏の滅亡、246年韓王朝廃絶による東夷危機、
BC200年からの青銅器輸入元の中華属国化での富国強兵政の必然によって、
銅鐸銅矛、銅鏡銅剣文化の統合と古墳の発生は同期しているし、卑弥呼以降に半島進出も始まる。
九州勢も出雲、吉備、阿波、丹後、越、美濃、などの遺跡地域勢力と合流し古墳時代となる。
検証もされていない間違いだらけ? 記紀は当然、ほぼ検証不能のファンタジーだらけだが、
考古学は既に倭人伝が正しく読めることを立証できているんじゃないのかね? >>634
>考古学は既に倭人伝が正しく読めることを立証できているんじゃないのかね?
その通り。 「「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」で立証済み! わははははは @阿波 卑弥呼の墓は100歩計算間違いだとしても100メートルは無いと駄目よ。 >>632
でも君の場合は言い訳にしているだけでしょ 熊本県といっても広い。
北半分の主邑は山鹿・菊池・合志だが、
南の半分は、旧肥後国11郡のうち最大の郡であった球磨郡(クマ郡)で占められていた。
その主邑の球磨平野は、なんと奈良平野と同じ広さがある。 >>629
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>633
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>635
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって >>638
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww ♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ (畿内説)
倭国の主邑は奈良平野にあったとする説・・・奈良県説(石、寺、箸、奥)
(北部九州説)
倭国の主邑はほぼ福岡県内にあったとする説・・・福岡県説(糸クズ、フルタ、ヤスモト)
(肥前肥後日向説)
倭国の主邑は佐賀・熊本・宮崎県内にあったとする説・・・九州三県説(本命新説) >>634
>考古学は既に倭人伝が正しく読めることを立証できているんじゃないのかね?
その通り。 「「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」で立証済み! わははははは @阿波 >>625
それは明らかに出どころが魏志倭人伝だろアホかよ
独立した複数の史書に出てくる短里と一緒にするとか論理的思考のできないクズには畿内説がお似合いだぞ
あっち池 >>636
一里=三百歩
倭人伝は短里で書かれているので百歩は30メートル弱 >>636
一里=三百歩
倭人伝は短里で書かれているので百歩は30メートル弱 >>649
卑弥呼の墓は
「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。
この矢野神山には200基近い古墳があり、江戸時代、神陵(古墳)の一部を削り本殿を造営。
この本殿裏の神陵(古墳)が卑弥呼の陵墓だと伝え、神社に伝わる由緒には、塚に"金印"が埋められたことまで記されているという。
後円部の直径は約35m、頂上部には五角形の祭壇が築かれ、祭壇の上には永遠の生命を象徴するという鶴亀の石が祭られている。
天石門別八倉比売神社:徳島県徳島市国府町西矢野 矢野神山 @阿波
「矢野遺跡と天石門別八倉比売神社」
https://sueyasumas.exblog.jp/9415763/
http://www.genbu.net/data/awa2/yakurahime_title.htm (畿内説)
・倭国は奈良県内説(石、寺、橋、奥)
(北部九州説)
・倭国は福岡県内説(糸クズ、フルタ、ヤスモト)
(九州三県説)
・倭国の主邑は佐賀・熊本・宮崎県説(・・・本命新説) >>646
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>650
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ グーグルマップ便利ですね、大まかな外周とか簡単に出せます
>>459続き
えっともっと分かり易く
同一文書内での数値は同じ基準なのが大原則なので
まず「帯方郡から狗邪韓国まで」の実距離をグーグルマップを使って割り出しておきます(km距離)
次に「帯方郡から女王国まで」12000/7000にそのkm距離を掛けるということです
直線曲線とか条件ありますので帯方郡から前後3割くらいのプラスマイナス値で地図上に落としてみれば
いいんじゃないですかね(自分はやってないけど) 続き
次に女王国に南接しているとされる狗奴国の当たりをつけます
http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
鉄製品出土が九州の中で薩摩大隅だけ少ない
次に九州の方言分布〜大きく3グループに分けられるという
薩隅グループ
肥筑グループ
豊日グループ
薩摩大隅は犬狼縄文人色の強い地域と見ればここが狗奴国で不思議ありません
豊日グループは本来肥筑薩隅グループだったのが半島渡来人の影響を強く受けたと見れば
わかりやすいです
とすると女王国は熊本か宮崎
宮崎だったならばのちの自称天孫族に蹂躙上書きされた可能性があるのでほぼ絶望的 続き 【大陸・半島からのルート解析】
自分が魏の張政一行の案内人の立場だったらどうするかを考えてみます
女王国は越の末裔の国です(>>372)
半島から対馬まではよしとして次にどうするか
左(東)に舵を切ると超難所の関門海峡があるうえに周防は呉の末裔のテリトリーなので避けたい
最短ルートの陸行を選ぶと、この時期は政情不安定で襲撃される恐れがある友好国以外は通りたくない
つまりたとえ遠回りになったとしてもより安全な西回り長崎沿岸ルートを選びたいと考えるはず
よって対馬国→一大国(壱岐)→末廬国(松浦市)→伊都国(糸島市)までは通常通り
その次の「東南、奴国」と「東行、不弥国」が問題国と思われる、記述が素っ気ない
この不弥国に南接して戸数五万余戸の大国投馬国がある、これは佐賀平野と見る
そうすると「南至投馬國 水行二十日」
この水行は方角が記されてない、長崎の沿岸をくねくね曲がるからだろう
伊都国から複雑な長崎沿岸を航海して有明海北端(佐賀平野南端)に着く
ここも同じ投馬国、ここまで二十日、寄港できるということは敵性国家ではない
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」
投馬国に南接している女王国、王都の位置まで有明海北端から水行十日
自国内なのでもちろん陸路でも通行できて陸行一月
広大な熊本平野を含み戸数七万余戸もありえます
こんな感じで如何でしょうか、方位・距離ともそれほど矛盾無いと思います
結論としては女王国邪馬台国は肥後国熊本県で、王都は熊本県南部のどこか
ちなみに大隅薩摩は鹿児島神宮内に日本唯一呉の太伯が祭られている(wiki)等、呉の末裔ゆかりの土地柄
でしかも縄文色が強いとあって、越の末裔国である邪馬台国と相性が悪いのも当然かと思われます
またどなたかのレスにあったようにこの頃九州の東側はまだ自称天孫族の存在は確認できません
魏からは以前に何回か使者が来訪しているようですが、張政一行は女王国末期壱与の代に訪ねて来た
よって魏志倭人伝内の倭人、倭国、邪馬台国の定義は張政の脳内にあるものと同一と言ってよいかと
張政は本州四国以遠を見ておらず、海人族以外の倭人に会っておらずのちのヤマト王権など知る由も無かった 邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=筑紫の日向=天皇家の祖である山幸彦の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権 >>656
>よって対馬国→一大国(壱岐)→末廬国(松浦市)
対馬海流に流されて、末廬国(松浦市)は有り得ない! 以上。 @阿波 >>657
>邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=筑紫の日向=天皇家の祖である山幸彦の国
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。
なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 熊本県といっても広い。又、北半分と南半分でも趣が違う。
北半分の主邑は山鹿・菊池・合志で、低地の水田・畑が続く。、
南の半分は、旧肥後国11郡のうち最大の郡であった球磨郡(クマ郡)で占められていた。
その主邑の球磨平野(クマ平野)は山間の水田地帯ではあるが、なんと、奈良平野と同じ広さがある。
ここは記紀に登場する一大勢力・クナ族(久米族)の本拠地であり、倭人伝のクナ国だったとみると万事納得いく。 神武東征の際に活躍した「大久米命(おおくめのみこと)」が黥面だったことが古事記に記載されている。 「大久米命」は神武東征に随行した久米一族の祖神にあたる。
久米一族については、徳島県石井町の久米勝夫氏による、全国の久米氏を調査した資料「久米一族の調査研究」によれば、昭和55年現在、全国の久米姓は5461戸。
一般的に言われる久米氏の本拠地は大和国久米(奈良県橿原市)であるはずだが、奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっていた。
一方、徳島県内では徳島市と石井町に集中している。
さらに言えば、矢野遺跡や観音寺遺跡などのある国府町の気延山付近を「気延の庄」、気延山を挟んだ北を「久米の庄」と呼んだそうである。
まさに、全国の久米姓の本拠地は徳島県石井町近辺なのである。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>651
>>655 関連
無アクセント(出典: ウィキペディア(Wikipedia)) ←検索キーワード
>無アクセント(むアクセント)とは、
>日本の方言学上、アクセントのきまりを持たないことを言う。
>京阪式アクセントや東京式アクセントなどの有アクセントには、語と語を区別する弁別的機能がある。
>しかし、無アクセントでは弁別的機能を持たず、
>「橋」と「箸」、「型」と「肩」、「一語」と「苺」、「歯医者」と「廃車」など同拍同音語を同じアクセントで発音し、区別しない。
(添付の日本地図あり)
この添付図でわかるように、
九州には、白地で示さた無アクセント方言という特殊な地帯がある。
それは、佐賀、熊本、宮崎の三県で、九州島を左上から右下へ斜めに貫き、島を上下に分断している。 マツラの上陸地点は官使が居ない上に人が歩くような所じゃない、漂流しとる。目的地伊都まで500里、で奴国が100里、不弥国が東に100里で海沿いじゃなきゃだめ、倭人伝を信じるなら、そういう意味では阿波のおじちゃん一歩リード? マツラの上陸地点を汽水域に設定しているところがすでにまぬけ >>663
>マツラの上陸地点は官使が居ない上に人が歩くような所じゃない、
つまり上陸地点は、官吏が居ない上に人が歩くような所じゃなかった、と倭人伝に書かれているわけだ。
その殺風景な港は、まさに「唐津の津」にぴったりだったわけだ。 >>662
>九州には、白地で示さた無アクセント方言という特殊な地帯がある。
>それは、佐賀、熊本、宮崎の三県で、九州島を左上から右下へ斜めに貫き、島を上下に分断している。
狗奴国と投馬国か。 >>666
そのように見れば佐賀も唐津も狗奴国だったことになるし、狗奴国と投馬国は親戚筋だったことになる。
ま、見方はいろいろあるだろう、
今は資料集めの段階で、クニの割り振り・貼り付けは今後の課題だな・・。 >>667
いくらやっても、妄想は妄想でしかないよ! わははははは @阿波 卑弥呼ももともと火の国の出身で、卑弥弓呼とは王位継承争いをしていたのだと思う。
卑弥呼は倭国(筑紫、肥国、豊国の総称)の女王に共立されたので、王都である筑紫にいたけれど、本来は有明海沿岸の豊国の女王だったのだろう。 >>669
いくらやっても、妄想は妄想でしかないよ! わははははは @阿波 女王国より東、海を千余里渡ると倭種。西、東を間違える奴は居ない。よって国東か阿波。その傍ら国遠すぎて情報も無し、畿内だと傍らの情報がないのは変?。 >>671
>よって国東か阿波。
比べるまでもないだろう。 わははははは @阿波 >>646
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>650
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>658
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>659
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>661
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって >>668
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>670
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>672
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>666
投馬国は薩摩だとナンベンイウタラワカルノよ。 宮崎県の日向国一宮は都万神社だ。
神社神宮は古代の王宮の名残りだと考えられるので、これが隼人の祖である海幸彦の宮だよ。 >>683
宮崎の都万神社の日下部は薩摩から移住したの。
だから、神武が宮崎から出発したなどと言ってるわけ。
神武が出発したのは薩摩の吾田、すなわち阿多だからな。
神武は吾田に住んでいたのよ。
この吾田=阿多が投馬国。
有明海からずっと南下すんだから、宮崎に行くわけないヨ。 >>684
鹿児島経由で宮崎に行っただけ。
それを福岡や熊本から見ると、区別がつかない。 卑弥呼の都とするとこは国東か、阿波か、伊勢位しか話に合わない。 >>686
>卑弥呼の都とするとこは国東か、阿波か、伊勢位しか話に合わない。
比べるまでもないだろう。 わははははは @阿波 倭人伝を読む限り、漂流して500里も歩き100里、100里と進むと水行出きる場所に出てそっからさらに行くと卑弥呼の都が有り、傍らの国達は遠く情報も得られない 、で女王国の東には海が有り倭種がいる。国東か阿波か伊勢の他に日本地図上にないよ >>689
>倭人伝を読む限り・・・、女王国の東には海が有り倭種がいる。
いうまでもなく、倭人伝は歴史書である。
だから歴史年表の如く、年次(時代)を追って箇条書きにしてあると思えばよい。
自女王国以北、特置一大率、檢察諸国、諸国畏憚之。常治伊都国、於国中有如刺史。
王遣使詣京都帶方郡諸韓国及郡使倭国、皆臨津搜露。伝送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。
・・・・・この年次(時代)の女王国は、邪馬台国女王之所都=女王国、である。
本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。事鬼道能惑衆。
年已長大無夫婿、有男弟佐治国。
自為王以来、少有見者。以婢千人自侍。唯有男子一人、給飲食伝辞出入居処。宮室楼観、城柵厳設、常有人持兵守衛。
・・・・・この年次において、卑弥呼は倭30国から共立され、倭女王となった。故にこれ以降は、女王国=倭国である。
女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種。又有侏儒国在其南、人長三四尺。去女王四千余里。又有裸国、黒歯国。復在其東南、船行一年可至。
・・・・・よって、この段の女王国の東とは「倭30国の東」の事であり、女王とは「倭女王」のことである。
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏将送詣京都。
其年十二月、詔書報倭女王曰
・・・・・であるからして、ここでは倭30国の倭女王が朝献し、魏王朝は倭女王に詔書を以て報じたとなる。 卑弥呼の都より北以外の共立国が傍らだろ、これ以上は遠くて情報が定かでないよといってんだろ、 傍ら国で変なのは斯馬国と伊邪国と都支国ね、得に都支、これ十市でしょ?畿内だと遠くて絶とは思えない。 >>687
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>687
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>687
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって >>687
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>687
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ 女王國の東に海がありその向こうに和種がいる。
ここで言う女王國はヤマダイ国であり、倭国のことではない。
卑弥呼のいるヤマダイ国は海に面しているわけだ。
しかしヤマダイ国に行くには陸行一月とある。
海に臨んでいるにもかかわらず船ではいけない場所もしくは
投馬国ルートを取った場合水行では行けない場所にヤマダイ国はある。
琵琶湖西岸か伊勢あたりが候補になろう。 >>698
>ここで言う女王國はヤマダイ国であり、倭国のことではない。
まずこれが根拠の無い妄想
>投馬国ルートを取った場合水行では行けない場所にヤマダイ国はある。
これはただの誤読
>>98のとおり水行10日のみで邪馬台国に到着
出発点は>>104の通り伊都国
そして伊都国から陸行も可能でなければならないので地続きでない九州外は全て不可 伊都国から陸行一月
一体どこなんだい卑弥呼がいたのは? >>698
>ここで言う女王國はヤマダイ国であり、倭国のことではない。
まことに初歩的な誤読。 >>703
道なき道を行けばそんなもんだ
末廬国内でさえ前を行く人間の背が見えないほど草木が生い茂っていただろ >>704
>末廬国内でさえ前を行く人間の背が見えないほど草木が生い茂っていただろ
草木が生い茂っっていたのは、八木山峠越えのときだね。 @阿波
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り) 伊都国を起点に陸行10日または水行1月かあ
伊都国の南に海ありましたっけ? >>706
> 309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
> >>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
> 総合的に考えた結果こうなった
> https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
> https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg >>707
> 総合的に考えた結果こうなった
いくら妄想を考えても、妄想にすぎんよ。 わははははは @阿波 >>704
伊都国から邪馬台国までジャングルみたいな道なき道だったと考えてんの?おいおい 末盧国上陸は良いとして、
わざわざ倭人伝に逆らい逆らって、北東の糸島へ進んでは迷宮入りになる。
が、過去300年間の悪弊を捨てきれぬのだろうな、あまのじゃく博士たちは・・。
何も難しい事はない。倭人伝の記事通り、末盧国唐津から東南へ向かえばよいのだ。たったそれだけの事、、、。 >>710
>末盧国唐津から東南へ向かえばよいのだ。
対馬海流に流されて、末盧国唐津は有り得ない。 と、何度言えばw @阿波 阿波大卒、阿波博士課程卒たちは、
でっかいメンツを大切に大切に抱えていらっしゃるのだな。。 ま、それも一度しかない人生か・・・、 >>712
>でっかいメンツ
でっかい「実証」だよ。 わははははは @阿波 そうか
でっかい「実証」を大切に大切に抱えていらっしゃるのだな。。 ま、それも一度しかない儚い人生か・・・、 >>714
>でっかい「実証」を大切に大切に抱えていらっしゃるのだな。。
その通り。
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波 >>700
陸行一月などという土地は列島にない。
陸行1日の誤記であろう。
伊都から千五百里(対馬海峡の半分)しかないから、やはり九州北部のどこかだ。 >>716
>陸行一月などという土地は列島にない。
あるよ。 @阿波 末盧国から二千里、伊都からは千五百里(対馬海峡の半分)しかないから、阿波ではない。
やはり九州北部〜中部のどこかだ。 >>718
>末盧国から二千里
なにそれ? わははははは @阿波 ※@阿波がどう転んでも、
必ず四国の阿波に転がり着く。 わははははは 末盧国から二千里、伊都からは千五百里(対馬海峡の半分)しかないから、どう転んでも阿波ではない。
やはり九州北部〜中部のどこかだ。 わざわざ倭人伝に逆らってまで、北東の糸島や福津へ進んでは迷宮入りになる
が、過去300年のメンツを捨てきれぬのだろうな、帝国大学出のあわのじゃく博士たちは・・。 >>718
>末盧国から二千里
なにそれ? わははははは @阿波 郡から12000里を重視すれば九州説
南水行20日、水行10日陸行1月を重視すれば九州島以外のどこか説
九州説に立つなら、陸行1月を1日の誤記とする、起点を不弥国ではなく郡とする、
起点を松浦國もしくは伊都国にして水行で10日陸行したら1月と読む、糸島から筑後川流域までジャングルなので1月かかっても特におかしくないとする、
投馬国邪馬台国への旅程記事は後世の加筆か陳寿の混乱、、、
以上のように考えるのかな? >>724
>郡から12000里を重視すれば九州説
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m @阿波 >>724
>南水行20日、水行10日陸行1月を重視すれば九州島以外のどこか説
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺) @阿波 >>709
お前がおいおいだよ
当時は環濠集落が主で集落と集落の間はほぼ無人地帯だぞ
当然誰も草刈りなんてしないし荒れ放題
しかも筑後平野は大小の河川が無数に存在するからいちいち渡るのも大変
今のようにそこいら中にコンクリの橋が掛かった状態と比較しちゃ駄目 >>727
>当然誰も草刈りなんてしないし荒れ放題
違う! ちゃんと倭国(阿波)までの鍛冶材料や漢鏡・魏の水銀朱などが届いている。 交易路はしっかり存在していたよ。 @阿波 >>727
畿内と一緒にするなよ。
それに当時はむしろ水路は交通網だ。 >>724
>郡から12000里を重視すれば九州説
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m @阿波 >>724
東行至不彌國 百里 ------ ----- 有千餘家
南至投馬國 水行二十日 ----- ------ 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 --- --- --- --- 可七萬餘戸
不弥国に南接して投馬国、(伊都国から)水行二十日で投馬国の港(筑後川河口付近)に着く
つまり投馬国は北は不弥国、南は有明海の北端という立地で佐賀平野の大部分含む領域と見る
戸数約50000、吉野ヶ里が投馬国の都の可能性あり
筑後川河口は今より北にあったと思われる、伊都国から長崎回りで筑後川河口まで二十日は妥当な線
また投馬国の南に接して邪馬台国がある、熊本平野含む領域で戸数約70000
女王の居城まで有明海を南下して十日、陸路で行くと一月かかる距離
当時は牛馬無しだから徒歩で一月だと王都は熊本中部〜南部か
当時の海岸線や陸路の状況が色々あるので小国の位置・方位はピッタリでなくても可
平原遺跡がある重要拠点伊都国は確定、伊都国からの陸路と遠回り&安全策海路の2ルート表記と見る
※熊本の丹生関連
城南町 宮地神社(近くに丹生宮と言う地名が残る)
人吉市 矢黒神社 祭神 丹生神
球磨郡多良木町 槻木菅原神社 摂社 四所神社 祭神 丹生都比賣命 >>705
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>708
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>711
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>713
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>715
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>717
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>719
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって >>723
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって >>725
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって >>726
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>728
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>730
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww 末盧国の松浦ではない、万津浦だー・・、と叫ぶのは、
「マツラ」の読みを正統とみているからに他ならない。
ま、マツラ論議はそれとして、
わざわざ倭人伝に逆らってまで、北東の糸島や福津へ進んでは迷宮に入る。
何も難しい事はない。倭人伝の記事通り、マツラ国唐津から東南へ陸行すればよいのだ。たったそれだけの事、、、。 >>731
現代のモータリゼーションを基準に考えるなよ?
縄文に始まり、昭和の中頃までは水路は日本の主要運送手段だ。
覚えておけ、ゆとり。 >>745
>倭人伝の記事通り、マツラ国唐津
対馬海流に流されて、マツラ国唐津は有り得ない と、何度言えばw @阿波 ここで流されるようでは、
阿波にもたどり着けまいよ、 わはははは >>748
対馬海流に乗って、魏使の手漕ぎ舟は楽々、末盧国(福津市辺り・万津浦)に到着とさ。 わははははは @阿波 >>750
対馬海流に乗って、魏使の手漕ぎ舟は楽々、末盧国(福津市辺り・万津浦)に到着とさ。 わははははは @阿波 魏志倭人伝を読むとか言ってる割りにツッコんだ文法の話出来てる奴がまるいでいないな
漢文もろくに読めない奴があれこれ言いあってもトンでもにしかならんだろ >>747
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>749
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>751
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww 万津浦なんて実在しないものを信じる泡チョンwwwww 思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって 泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww ♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>756
もし、唐津や呼子が大陸からの玄関口だったら、もっと大陸の遺物が出土していなければならない。
福津(万津浦)や宗像のようにね。 もっと冷静に現実を見るべし! @阿波 魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津や呼子に上陸していない。
あとは推して知るべし。 @阿波 >>760
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって 福津(万津浦)や宗像は、四世紀の沖ノ島ルート開拓以降の遺跡・遺物さ。
後世、この種族が、銅で財を成した応神天皇一族(秦氏)と呼ばれているわけだ。 >>761
万津浦なんて実在しないものを信じる泡チョンwwwww >>763
万津浦なんて実在しないものを信じる泡チョンwwwww >>763
>福津(万津浦)や宗像は、四世紀の沖ノ島ルート開拓以降の遺跡・遺物さ。
もし、唐津や呼子が大陸からの玄関口だったら、もっと大陸の遺物が出土していなければならない。
福津(万津浦)や宗像のようにね。 もっと冷静に現実を見るべし! @阿波 >>766
万津浦なんて実在しないものを信じる泡チョンwwwww
現実を直視できない泡チョンが他人に冷静さを求めるというコントwwwww >>763
>福津(万津浦)や宗像は、四世紀の沖ノ島ルート開拓以降の遺跡・遺物さ。
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって唐津周辺が「世界文化遺産」になっているよ。 わははははは @阿波 倭人伝には、
末盧国の港付近は、草ボウボウで前を行く人が見えなかったとある。
渡来人による開拓の手が入ったばかりの片田舎で、道の整備も追いついていなかったわけだ。
もっと冷静に倭人伝を読むべし。
大陸の遺物がドッサリ出てくる福津(万津浦)や宗像は、これだけで失格なのだ・・・。 >>770
>末盧国の港付近は、草ボウボウで前を行く人が見えなかったとある。
それは、末盧国(福津市辺り・万津浦) から 伊都国(直方辺り)へ向かう道中の峠越えの場面だよ。 わははははは @阿波 >>771
こういう詳しい説明が出来るのは、倭国(阿波)への行程だけ。
対馬海流に乗って、魏使の手漕ぎ舟は楽々、末盧国(福津市辺り・万津浦)に到着とさ。 わははははは @阿波 たまたま郡使の乗った船が予定外に末盧国についてしまったけれど、普段は伊都の近くの別の港を使っていたのかもしれないなあ。 >>773
>末盧国の港付近は、草ボウボウで前を行く人が見えなかったとある。
それは、末盧国(福津市辺り・万津浦) から 伊都国(直方辺り)へ向かう道中の峠越えの場面だよ。
こういう詳しい説明が出来るのは、倭国(阿波)への行程だけ。 わははははは @阿波 >>746
ゆとりはお前だよ知恵遅れ
陸行する旅人が舟を担いで移動してるとでも思ってんのかカス
船を持ってる奴は伊都国から回路で行くから、わざわざ3倍も時間をかけて陸行するやつは船を持ってない人間だけなんだよカス >>776
妄想は、いくらやっても妄想に過ぎないんだよ。 わははははは @阿波 こりゃあ親魏倭王の金印が発見されるまでは決着がつきそうにないなぁ >>778
「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」
倭国(阿波)でとっくに決着済み! わははははは @阿波 なんか、泡レコードの回転があがってきたようだ
バブルがはじけて神に召されるのも、そう遠くはあるまい。 ゆっくり待つことにしよう。 >>776
宮崎県都万が南とあるのは、鹿児島周りだったのではないか?
関門海峡が通過できるようになったのは4世紀らしいし。 >>780
>ゆっくり待つことにしよう。
そうだね。 君が倭国(阿波)を認めるのは時間の問題だから、ゆっくり待つことにしよう。 わははははは @阿波 >>781
そうだね。
関門回りだと、海流の関係で大分からの南下も困難だったと思う。
古代には九州西岸を南北するルートがあり、その先の奄美群島・沖縄までの往来があったらしい。
だから、鹿児島周りの宮崎行きは妥当な考え方と思う。(なお、宮崎日向からの北上は潮に乗るだけで良いので、神武もそうしたのだろうね) >>783
>なお、宮崎日向からの北上は潮に乗るだけで良いので、
南下も潮に乗るだけだよ! わははははは @阿波 >南下も潮に乗るだけだよ!
阿波でうず潮に乗ると地獄へ行くだけだよ。 うわははははは >>785
>阿波でうず潮に乗ると地獄へ行くだけだよ。
鳴門の渦潮? 阿波の海人族に任せなさい! わははははは @阿波 コミックも書かずにこんなところで他説の人に迷惑掛けてるのか邪馬台国哀説は >>787
わははははは 「目の上のたん瘤」だね。 ごめんね。 わははははは @阿波 阿波君は、もう少し、ビューテイフルなカキコをできないのかねえ
米津玄師の足を引っ張ってくれるな〜〜〜 >>770
木でなく草で遮られているのだから、背の高い草が生えるところ。
たぶん川沿いに動いたんじゃないかなと。
海沿いに移動したのではなく、川沿いの内陸の方向じゃないかと想像する >>790
>阿波君は、もう少し、ビューテイフルなカキコをできないのかねえ
じゃあ、私のカキコをビューテイフルに修正してみて。 @阿波 >>791
>たぶん川沿いに動いたんじゃないかなと。
だから、谷川沿いの峠越え だと、何度言えばw @阿波 魏志倭人伝を正しく読めば邪馬台国は会稽東治の東と書いてある
これは沖縄や台湾のあたりに相当
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置は正確なものではなし 倭人は里数を知らず、日数で距離を測る(未開人である)。
(隋書)
もちろん、中華文明の人間はそのような無知なことはしないから、
(郡使が通過した)女王国から北は道里を略載できる。
(魏志)
そして伊都国が(女王国の中でも)常に郡使が駐在するところである。
(魏志)
伊都に駐在した郡使が卑弥呼に謁見して金印を渡しているのだから、女王の都である邪馬台国は九州北部しかあり得ない。 淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。
淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある。
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある。
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある。
女王国とは倭奴国のことである。
一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で書かれている)。 >>794
畿内説に都合が悪いからといって、里数があてにならないと言い張るのは諦めろよ。
もう畿内説が成り立つ余地はない。
同じことを何度叫んでも、嘘は真実にならない。 >>797
畿内説は学会で定説として成立しているのだけれど
つまり九州説で論文書いても相手にされないという事だ 纒向学会というのがあってだな、そこでは畿内説でなければ説でもないし学者でもないらしい・・・ >>769
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>771
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>772
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって >>774
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>777
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>779
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>782
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>784
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって >>786
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>789
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>792
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>793
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww 里数は400メートルじゃないことは確かよ、上陸して伊都まで200キロも歩く馬鹿おらんよ。 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる)から一万二千里である。
その西北界(倭国の西北の国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif 1位:九州説 54.4%
2位:近畿説 35.7%
その他 9.9%
https://i.imgur.com/UNP7rJ5.jpg 「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。 @阿波 >>793
道中はほとんどの距離で川沿いでないとおかしくないか
ということを言いたかった。
途中で山道をしばらく歩く、みたいな想定はない。 >>817
>道中はほとんどの距離で川沿いでないとおかしくないか
そればっかりだと、目的地(阿波)には辿り着けないよ。 峠越えもあるわね。 @阿波 >>817
同意。
山を越える必然性はない。
特に九州北部なら山を越えるくらいなら海を回り込んだほうがいい。 >>819
>山を越える必然性はない。
そうはいかない。 出入国管理局(伊都国)へ出頭しなけりゃいかんからね。 わははははは @阿波 >>812
いいや学者が研究する学説だけれど
短里とか嘘ついて相手にされてない九州説と違って >>821
>あいかわらずブサくないか?
じゃあ、私のカキコをビューテイフルに修正してみて。 @阿波 畿内説はなくなって
それをやってた学者は纒向学に移行している。
2014年くらいで畿内説の肯定的な
出版は無くなり、
いまググっても、
畿内説はなかった、とか畿内説の終焉、とか
否定的な本ばかり。 論文ならともかく本って
ノストラダムスを信じてた人か 畿内説の論文とはっきり書かれたものは少ないが
あえて探せば2011年が最後っぽいな。 >>818
そこ気になってるんだよねえ
距離が長いなら、状況が変わるときには記述があるんじゃないかと。
距離が長い場合、道なり海なり川なりに行っても迷わない道程になっているか、
でなければ記録しておくかって感じになるんじゃないかなと思ってね。
唐突に方向転換とか移動手段が変わるとか考えにくいでしょ >>827
>距離が長いなら、状況が変わるときには記述があるんじゃないかと。
だから、魏志倭人伝に、ちゃんと倭国(阿波)への行程記述がなされているでしょ? わははははは @阿波 >>816
中国史年表220 二世皇帝一 陳勝・呉広挙兵 前209年(前)
下相(現在の宿遷市)の人の項梁は会稽郡守の慇通を殺し、甥の項羽と共に呉で挙兵する。
項梁、項羽は会稽郡の役所があった所の実力者であった。
すなわち、宿遷市宿城区(下相)に、文献上は会稽の治所があったことがわかる。 @阿波
「項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見」
http://japanese.china.org.cn/japanese/231067.htm >>791
>至一大国・・、亦南北巿糴。・・・・(一大国に至る。ここの島民は南北に市櫂している)
>又渡一海千余里、至末盧国、有四千餘戸。・・・・(末盧国に着いた、四千余戸あり)
>濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之。・・・・(あたりを見回せば、かくかくしかじかの風景/習俗だ)
>東南陸行五百里、到伊都国・・・・(で、ここから東南へ歩けば、(途中で到して=折れて)、五百里で伊都国に到る)
つまり、「草木茂盛、行不見前人」とは、
寒冷の大陸とは大違いで、前を行く人が見えないほど大草が茂っている!人々は海に潜って魚介を手づかみにしている!・・、という感嘆の描写である。
次の伊都国への行程に関連・限定して述べたものではない。 >>816
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって >>818
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>820
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>823
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>828
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>829
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって >>830
>次の伊都国への行程に関連・限定して述べたものではない。
それは無理がある。
倭国の習俗は他に枠があるので、やはりここは末盧国の周りが発展していなかったということ。
船が誤って末盧国についてしまったのかもしれないけどね。 >>837
>船が誤って末盧国についてしまったのかもしれないけどね。
それは、ない!
対馬海流に乗って、魏使の手漕ぎ舟は楽々、末盧国(福津市辺り・万津浦)に到着とさ。 わははははは @阿波 もう学会でも邪馬台国畿内説を主張する人間はいないだろ。
纒向詐欺のせいで邪馬台国そのものが眉唾な感じになっている。
畿内説を唱えたアホどものせいだ。 すでに学会で主張する者がないのは
学者が0人の九州説 >>830
行(レ) 不(レ) 見(二) 前人(一)
「前人を見ずを行く」
でないかねこれ。実際に見えていないしその上、行動している
特段→【如】行不見前人 みたいになっていないし。
このあとで「好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之」とくる。
大きな川の河口付近っぽくないかなと。
【河口付近を歩くと海の様子は見える・前は見えない】つまり草の高さは海側よりも陸側の方が高い。
だから川沿いに内陸方向に行った、と解釈してみた。
どうだろう >>840
邪馬台国そのものがイロモノになっているってこと。 >>842
上陸後蘆がうっそうと茂る岸部を歩いて末盧の中心に寄ってから伊都って流れっぽいよね。
末盧から伊都までの道中と言うよりも。 そう信じたいだけだよね。
畿内説なんて魏志倭人伝を無視してこじつけているだけ。 >>845
議論に負け尽くしてそう言い張るしかなくなった敗残畿内w 畿内説()の言い分
Q.帯方郡から萬二千里では畿内まで届かないが?
A.関係ありません、とにかく畿内なんです。
Q.倭国の産物として記された絹や鉄製品が見当たらないが?
A.関係ありません、とにかく畿内なんです。
Q.方角が南と記されているが?
A.関係ありません、とにかく畿内なんです。なので東の誤記に決まってます。
Q.畿内の遺跡からカエルの骨が見つかったが?1
A.これぞ邪馬台国の動かぬ証拠!ほらやっぱり畿内だった!畿内!畿内!
畿内説は学問ではありません
頭の病気の病名です うっそうと茂るのは蘆ではなくしてふつうに照葉樹のジャングルだろ 陸行の結果による描写がもう1箇所ある
「土地山險 多深林 道路如禽鹿徑」
対馬では道路の整備がなされていなかった
水運が主だから当然のことだろうが 豊葦原中国だろ。
豊葦原中国の王となるため、天孫は筑紫に降臨しました。
中国の史書で倭王にあたります。 タケミカヅチが平定したという葦原中国は筑後山門のあのあたりなんだよな
記紀では出雲となっているけど、出雲を譲られたのなら後にニニギが天孫降臨するのがどうして九州なのか説明がつかない
せっかく譲らせた土地を経営していなかったのかよ、となる
そうではなく、元々筑後山門周辺にいたオオクニヌシを退去させてそこに卑弥呼(アマテラスのモデル)が邪馬台国を作ったのが国譲り神話であり
出雲はオオクニヌシの国替え先なわけだ
だから出雲国風土記には国譲り神話が載っていない、地元で起きた話ではないからだ
おそらく筑後国一宮・高良大社に伝わるお話、元々この地には高木の神がいたが高良の神が一夜の宿を求めてそのまま居座ってしまい
高木の神は追い出されたという逸話が国譲り神話を指している 国名にある邪馬とか蘇は、阿蘇山のことなんでしょうね。 >>853
そうなると高良の神は武内宿禰だと言われているから、武甕槌の相方の経津主命が武内宿禰なのかな
武甕槌のほうは安曇磯良だと八幡愚童訓に書いてあるし >>849>>850
ジャングルを通るのさすがになくないかね
・道がわからない
・もし道があったならその表現するかどうか
大河川の岸なら歩ける場所があると思うのだが
>>844
なかなか表現は難しそうなところかも。
>>850が言う感じの川岸もあるだろう(←これに当てはまりそうなところは候補でなくなる)から、
それも参考にして絞っていけばよいかなと。 >>855
フツヌシは物部なんじゃないかな?
刀剣の神だし マツラは官がおらんし、島民等南北交流痕跡も感じないから本来のルートではなくながされとる、密航者のような上陸。そもそも北九州に来るなら博多が普通、で伊都が大宰府。 >>858
>本来のルートではなくながされとる、密航者のような上陸。
違う違う! 対馬海流に乗って、魏使の手漕ぎ舟は楽々、末盧国(福津市辺り・万津浦)に到着とさ。 わははははは @阿波 倭本島にいよいよ上陸で津に官が居ない訳がない。流されてますよおじちゃん。 津に官がいないからこそ、ラクラク上陸できたということもありうる。
決めてかかっては道を誤る。ご用心!
なお、魏もしくは帯方郡の遣いは4回往来している。そのたびに同じところに流され、帰りもそこからというのは不自然だな。 >>838
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>859
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww 思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって 泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww ♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ 松浦郡の唐津に降りて
多久から小城に降りると伊都国付近の位置になる。
小城なら、北は唐津、南の長崎
西の佐世保、東の佐賀、その先の鳥栖
肥前領域の要所と言って差し支えない。
一大卒が周囲に睨みを効かせていても
おかしくない。
肥後国が邪馬台国
肥前国がまだ統治途中の女王国。
邪馬台国本国から委託されたのが
肥前女王国代理統治の一大卒だ。 そもそも遣隋使や遣唐使が九州からとりあえず西の方へ航海して大陸のどこかに流れ着いてから徒歩で都に行ってたことから考えて、
魏のヤツらが倭はスッゲー南方にあるものと思ってたとしても何の不思議も無い
というわけで魏志倭人伝の記述から邪馬台国の場所を特定するのは無理がありまふ
(´・ω・`) >>858
海岸線が今より内陸寄りにえぐれてるだろうから伊都が大宰府ありうるな、うーむ >>867
なるほど、倭人伝の行程記述と、九州の現地地理とが良く適合している。
伊都国は肥前の要であり、筑紫・筑前への睨みだったからこそ、一大率の強権が必要だったのではないか。 >>861
>そのたびに同じところに流され、帰りもそこからというのは不自然だな。
大陸からの行きと帰りのルートは異なる。
大陸からの往路は筑前(宗像)・豊前経由 末盧国(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路は豊前・筑前・肥前(松浦)経由 大陸への出航地(平戸市周辺)
大陸への渡航出航地として考えられるのは度島(浦小川遺跡)・的場大島(朝鮮井戸海岸遺跡)など。
因みに、朝鮮半島からの出航地は、狗邪韓国(順天)で、
一方、対馬からの朝鮮半島着岸地は、対馬海流を利用して渡った釜山である。 @阿波 古代二、三世紀の大宰府は、
佐賀平野の一大率を恐れおののきながら暮らしていたのではないか。
そして後世、筑紫との共立が定まると、一大率は大宰府に乗り込んでそこを本拠地にするようになったのではないかな。 魏あるいは帯方郡の遣いが、
そのたびにちがうところに流され、帰りの出港地もその都度てんでんバラバラというのは、さらに不自然だ。 >>684
そうかイワレ彦は薩摩にいたのか、だから近代に至るまで隼人は中央政府に近いのか
隼人 = 薩摩、大隅、日向 = 狗奴国
熊襲 = 肥後、豊国 = 女王国(邪馬台国)
肥前、筑後の筑後川流域 = 投馬国
たぶんこんな感じだわ氷解した
熊襲の女王国は新田神社〜阿蘇神社〜宇佐神宮ライン上の丹を押さえていたから交易によって強国になったのではないか
その後倭国大乱のスキに強大化した新興ヤマト王権によってその後何度も叩かれ弱体化したのだな
熊襲(女王国)はヤマトの名を奪われ、女王のモデルをアマテラスとして使われたのではないか >>877
>流されたら
流されるんじゃないよ。 対馬海流を利用して「乗る」んだよ。 わははははは @阿波 >>872
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>875
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>878
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって >>879
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww ♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>877
>流されたら
流されるんじゃないよ。 対馬海流を利用して「乗る」んだよ。 わははははは @阿波 一大卒が本来の倭国の旧勢力の地である対馬海峡に睨みを効かせていた
筑後国が邪馬台国
肥前国がまだ統治途中の次世代の女王国の中心
女王と敵対していたのが有明海沿岸の女王の火の国(筑後を含む)から独立した肥後 邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=筑紫の日向=天皇家の祖である山幸彦の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権 【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg >>847
議論に負けて学者が全員逃げ出してしまったのが九州説 >>889
議論に負けて(隠れ畿内説の)学者が全員逃げ出してしまった残が正味の九州説 >>885
流されて、流されて・・、
と長年言いふらしてきたのに、年の瀬の今頃になって言い訳がまし・・、やかまし・・。
>流されるんじゃないよ。 対馬海流を利用して「乗る」んだよ。 わははははは @阿波 >>891
>流されて、流されて・・、 と長年言いふらしてきたのに
対馬海流に流されて、末盧国が唐津や松浦は有り得ない!
唐津や松浦は、対馬海流に流されて辿り着けない!
流されるんじゃないよ。 対馬海流を利用して「乗る」んだよ。
対馬海流に乗って、魏使の手漕ぎ舟は楽々、末盧国(福津市辺り・万津浦)に到着とさ。 わははははは @阿波 >>848
ここに書いてるのはほぼ九州説の都合とく作り出した脳内畿内説な
そうやって敗北の現実から目を逸らして自ら慰めるしかない九州説 >>885
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>891
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>892
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって 泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww ♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>891
>流されて、流されて・・、 と長年言いふらしてきたのに
対馬海流に流されて、末盧国が唐津や松浦は有り得ない!
唐津や松浦は、対馬海流に流されて辿り着けない!
流されるんじゃないよ。 対馬海流を利用して「乗る」んだよ。
対馬海流に乗って、魏使の手漕ぎ舟は楽々、末盧国(福津市辺り・万津浦)に到着とさ。 わははははは @阿波 >>899
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>899
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>899
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって >>899
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>899
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>891
>流されて、流されて・・、 と長年言いふらしてきたのに
対馬海流に流されて、末盧国が唐津や松浦は有り得ない!
唐津や松浦は、対馬海流に流されて辿り着けない!
流されるんじゃないよ。 対馬海流を利用して「乗る」んだよ。
対馬海流に乗って、魏使の手漕ぎ舟は楽々、末盧国(福津市辺り・万津浦)に到着とさ。 わははははは @阿波 >>891
>流されて、流されて・・、 と長年言いふらしてきたのに
いまごろになって「対馬海流を利用して「乗る」んだよ」、などと前言翻して、やかまし・・・、 >>907
流されるのは、唐津や松浦! わははははは @阿波 >>907
唐津や松浦は、対馬海流に流されて土左衛門! わははははは @阿波 >>891
>流されて・・、流されて・・、 と長年言いふらしてきたのに
いまごろになって「対馬海流を利用して「乗る」んだよ」、などと前言翻して、恥逃げやかまし・・・ >>910
唐津や松浦は、対馬海流に流されて土左衛門! わははははは @阿波 >>893
どれも事実じゃん
敗残畿内は一言の反論すら出来ずにレッテル貼りしか出来ません
なぜならそれが事実だからですw 一大率 → イチの大率 → イツの大率 → 伊都(イツ)の大率 → 伊都(イツ)の大の率 →→ 太宰の師 天率 → 一大率 (海峡を仕切る海の率衆王) = 爾支 太宰の【宰】は【𡨧】の異体字
太宰が大率に文字化けするのは容易 官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:p帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)
大率は高位の中央官僚であり、都から出かけて地方を検察する様子が魏志倭人伝において刺史のようだと記載されているのである。
大率そのものが置かれた伊都が倭の王都である。
魏志倭人伝においては、女王国以北すなわち倭の生命線とも言える対馬海峡を検察していたと書かれている。 大率そのものが置かれた伊都は倭を構成する伊界の王都である
伊界すなわち伊國は一國・壱國・壹國と綴ってもよろしい 倭國の率衆王=伊都國王の発足は魏帝からの叙任によるもので
238年の年末のことである
銀印青綬は郡太守クラスが預かり得る帝権代行ツールで
半島の大酋長でもせいぜいが貰えたのが銀印 倭國の率衆王=伊都國王の直接支配域はわずかに1萬戸に満たないが
死の商人よろしく鉄の交易の独占
そして暴力そのものによって「諸國畏憚之」
いまひとりの倭國の率衆王が
五萬戸を配下に置く投馬のぬしであったことはこれは否定しがたい 爾支の発音は[ni-qi]
これをききなせば にし・にち
これは記紀の言葉遊びのねたになっている 爾支は邇邇芸の同族だろ。
伊都にいたのは筑紫の日向の天孫族。 >>920
女王国(伊都国+奴国)以北(対馬海峡)が大率の支配域だろ。
対馬国 1000余戸、一大国 3000余戸、末盧国 4000余戸、伊都国 1000余戸、
奴国 20000余戸、不弥国 1000余戸
ここまでが大率の管轄地域であり、後漢書に記された倭国の範囲と一致する。 >>906
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>908
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>909
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって 泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww ♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ やっぱり普通に陸地の最短距離を目指して漕いだ方が確実な感じ。
この辺の潮流は大体0.2[kt]くらい https://imgur.com/LnuII2Q
(1[kt]=1.852[km/h]だから 0.2[kt]≒0.4[km/h] ∴時速400[m])
島伝いに距離を測ってみた https://imgur.com/BdnrvnF
もし舟をこぐスピードが2[km/h]あれば十数時間(明るいうち)程度で渡れることになる。
このとき、東に流されるのは 400[m]×10時間=4000[m] ∴東に流されるのは4〜5[km]くらい
【流されても目的地から東に4〜5[km]ずれるだけ】
一方で、流れに乗る感じで宗像や北九州市あたりだとかなり時間がかかりそう。
距離が60[km]くらいある。流れに乗って漕いだとしても2.4[km/h]にしかならない。 >>933
>やっぱり普通に陸地の最短距離を目指して漕いだ方が確実な感じ。
大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから「世界文化遺産」に選ばれたのも当然と言えば当然。 @阿波 >>933
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし @阿波 >>931-933
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>934
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>935
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって 泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww ♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>934>>935
宗像は海流に乗った上で1日漕ぎっぱなしでようやくだよ
多少海流に逆らっても明るいうちにつく方に行かないか
しかもそこまで流されない
推してみたのだが弱いだろう宗像は >>893
帯方群から南に1万2千里の女王国のある地点は会稽東治の東
現在の福建省福州市の東でその位置は沖縄か台湾の辺り
魏志倭人伝にはそう書かれているので1万2千里は短里で九州北部を指すと言っている九州説は
存在しない単位を捏造している嘘説
>>848に書いてるような主張は畿内説はしてないよ
これも九州説が嘘ばっかりついてる証拠 >>888
伊都国は港があると魏志倭人伝にあるので海に面していなくてはならない
「王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露」
"津"は渡し船の船着き場という意味
伊都国の記事に帯方郡からの使者が倭国に来ると一大率が港まで来て調査、確認するとある >>942
いや、畿内説の主張そのものだよ
嘘ついてるのはお前だな >>942
嘘をついてばかりいる畿内説
過去スレを読んでみろ >>942
会稽東治は浙江省紹興市だぞ嘘つき
お前が言ってるのは東冶の方だが、永安三年(260年)の分郡により東冶は会稽郡から外れて建安郡に所属が変わっている
陳寿の執筆時点では既に東冶は会稽郡ではない
ちなみに一寸千里の法を使って帯方郡から南に万二千里でちょうど紹興市にあたる
陳寿は万二千里という数字から一寸千里の法で計算してそう言ったが、実際には倭国は帯方郡から真南ではなく
もっと東寄りだから誤差が出ただけ 畿内説で水行十日の後の陸行でいきなり進行方向が変わっているんだけど
あれはどうしてだったっけ。 >>941
大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから「世界文化遺産」に選ばれたのも当然と言えば当然。
もし松浦や唐津や呼子が大陸からの玄関口だったら、もっと大陸の遺物が出土していなければならない。
福津や宗像のようにね。 もっと冷静に現実を見ないとw
また、魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。
あとは推して知るべし @阿波 >>943
>伊都国は港があると魏志倭人伝にあるので
嘘はイカンぜよ! @阿波 >>942
>現在の福建省福州市の東でその位置は沖縄か台湾の辺り
「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。
中国史年表220 二世皇帝一 陳勝・呉広挙兵 前209年(前)
下相(現在の宿遷市)の人の項梁は会稽郡守の慇通を殺し、甥の項羽と共に呉で挙兵する。
項梁、項羽は会稽郡の役所があった所の実力者であった。
すなわち、宿遷市宿城区(下相)に、文献上は会稽の治所があったことがわかる。
「項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見」 @阿波
http://japanese.china.org.cn/japanese/231067.htm えーと「投馬国」の位置が判明しました
>>656,>>732,>>876で推測した通りの位置です
by 井上政行ホームページ「ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/index.html
40福岡県の地名(17)筑後(ちくご)国
(24)上妻(こうつま)郡 a上妻(こうつま)郡
古代から明治29年までの郡名で、筑後国の南部、矢部川、星野川の流域に位置し、北は三瀦郡、御井郡、山本郡、
竹野郡、生葉郡、東は豊後国、南は肥後国、西は山門郡、下妻郡に接します。明治29年に下妻郡と合併して
八女(やめ)郡となりました。おおむね現在の八女市、筑後市の北部、八女郡の地域です。
『和名抄』は、「加乎豆万(かをつま)」と訓じます。郡名は、古くは景行紀18年7月条にみえる八女津媛が
統治した八女県、八女国が上、下に分かれたことによる、「カム(上)・ツマ(詰。つまった地形の場所)」から、
「カム(上)・ツマ(ツバ(潰)の転。崖地。または自然堤防、微高地)」からとする説があります。
この「かをつま」は、
「カオ・ツ・ウマ」、KAO-TU-UMA、
「斧の本体(水縄山地から筑肥山地の山々)に・付属して・いる(地域)」(「ツ」のU音と「ウマ」の語頭のU音が連結
して「ツマ」となった)の転訛と解します。
(25)下妻(しもつま)郡 a下妻(しもつま)郡
古代から明治29年までの郡名で、筑後国の南部、筑後川の支流花宗(はなむね)川の流域に位置し、北から東は上妻郡、
南は山門郡、西は三瀦郡に接します。明治29年に上妻郡と合併して八女(やめ)郡となりました。おおむね現在の筑後市の
南部の地域です。
この「しもつま」は、
「チモ・ツ・ウマ」、TIMO-TU-UMA、
「斧の本体(水縄山地から筑肥山地の山々)を・鳥がつついた(起伏のある平らな)場所に・位置している(地域)」(「ツ」のU音と
「ウマ」の語頭のU音が連結して「ツマ」となった)の転訛と解します。
※八女市辺りから南へ徒歩一月(又は水行十日)の距離が邪馬台国女王の居城位置でほぼ確定と言っていいと思います
※自分の役目はここまで(北の蝦夷土民なので)あとは皆さんの調査力に期待します、年内に終わって良かった(^_^)v >>942
>現在の福建省福州市の東でその位置は沖縄か台湾の辺り
「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。
中国史年表220 二世皇帝一 陳勝・呉広挙兵 前209年(前)
下相(現在の宿遷市)の人の項梁は会稽郡守の慇通を殺し、甥の項羽と共に呉で挙兵する。
項梁、項羽は会稽郡の役所があった所の実力者であった。
すなわち、宿遷市宿城区(下相)に、文献上は会稽の治所があったことがわかる。
「項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見」 @阿波
http://japanese.china.org.cn/japanese/231067.htm >>952
下相城は項羽の故郷
始皇帝の死後、会稽郡守の殷通は反乱を起こすために
櫟陽(西安市)に住んでいた項梁を招き寄せた
項梁は項羽を呼び寄せ、項羽が殷通を殺した
だって。 @阿波 >>944
畿内説は魏志倭人伝に邪馬台国の位置は沖縄や台湾あたりになる場所とあって
正確な位置は書かれてないとする立場
なので畿内の考古発掘物や古墳と魏志倭人伝の一致を見て
3世紀には畿内は魏と交流があって中央集権的な政治機構が存在していたと推定している >>945
九州説は存在しない通常の里より短い短里という物を捏造して
魏志倭人伝には女王国・邪馬台国は九州と書いてあると
無理やり解釈しているのはすでに周囲にバレている >>955-956
>畿内説は魏志倭人伝に邪馬台国の位置は沖縄や台湾あたりになる場所とあって
お前のその嘘はもう>>946でバレてるんだよマヌケw >>946
魏志倭人伝の会稽東治、後漢書だと会稽東冶
会稽東「治」という地名は存在した事がなく会稽東冶の誤字が定説
後漢書には会稽郡は海南島の近くとあり
海南島とは中国最南部に位置しハワイと同じ緯度にある
会稽郡がその近くなら当然会稽郡東冶県は相当南方にある事になり
通説通り会稽郡東冶県は今の福建省福州市辺りで
その東は沖縄や台湾
魏志倭人伝には女王国の位置は道里を計算するとそこにあると書いてあり
行程もちゃんと九州北部を通り過ぎて南に水行20日…と
邪馬台国の位置をはるかな南方に想定した書き方になっている
九州説のいう様に短里を使って九州北部までを記したものではなし >>957
嘘でも何でもないよ
会稽東治は現在の福建省福州市に相当
その東は沖縄とか台湾
魏志倭人伝に女王国、邪馬台国の位置はそこと書いてある
魏志倭人伝を読んでみたらわかる >>959
>会稽東治は現在の福建省福州市に相当
「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。
中国史年表220 二世皇帝一 陳勝・呉広挙兵 前209年(前)
下相(現在の宿遷市)の人の項梁は会稽郡守の慇通を殺し、甥の項羽と共に呉で挙兵する。
項梁、項羽は会稽郡の役所があった所の実力者であった。
すなわち、宿遷市宿城区(下相)に、文献上は会稽の治所があったことがわかる。
「項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見」 @阿波
http://japanese.china.org.cn/japanese/231067.htm >>960
下相城は項羽の故郷
始皇帝の死後、会稽郡守の殷通は反乱を起こすために
櫟陽(西安市)に住んでいた項梁を招き寄せた
項梁は項羽を呼び寄せ、項羽が殷通を殺した
だって。 @阿波 >>958-959
>会稽東「治」という地名は存在した事がなく会稽東冶の誤字が定説
ハイ完全に嘘
>>946にあるとおり陳寿の時代、東冶は会稽郡ではありませんw
やはり嘘つきは畿内説だけだったね 既にバレたウソを必死に百回言い続ける畿内厨であった >>959
「治」と「冶」 サンズイとニスイで全然違ってくるの 何だまたキナイコシの嘘が暴かれたのか
やはり江戸時代の人国記で大和人は嘘つきばかりと言われているだけのことはあるな 取り敢えず阿波でさえなければ畿内だろうが九州だろうがどっちでも良い >>968
>取り敢えず阿波でさえなければ畿内だろうが九州だろうがどっちでも良い
わははははは。 ついに阿波もそこまで出世したか! やはり、根拠満載の説は妬まれる運命だな。 わははははは @阿波 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は別の国である。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので中国は倭国の使者の話を信用しなかった。
さて、日本国がした説明はどれでしょう?
おそらく、Aが日本国がした説明(嘘)。
真実は、倭国が日本国に改名したのではなく、日本国が倭国の別種であり、倭国を併合した。
倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は別の国である。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので中国は倭国の使者の話を信用しなかった。
さて、日本国がした説明はどれでしょう?
おそらく、Aが日本国がした説明(嘘)。
真実は、倭国が日本国に改名したのではなく、日本国が倭国の別種であり、倭国を併合した。
倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。 >>948
「流されて」っていうのがおかしいと言っているのだよ >>948
「流されて」っていうのがおかしいと言っているのだよ >>973
対馬海流に「流されて」、松浦や唐津には着けないと言っているのだよ。
対馬海流に「流されて」行き着くところが、福津市(万津浦)辺りと言っているのだよ。 わははははは @阿波 >>948
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>949
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>950
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって >>952
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>954
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>960
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>961
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>969
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンは首を吊れって >>975
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww ♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>973
対馬海流に「流されて」、松浦や唐津には着けないと言っているのだよ。
対馬海流に「流されて」行き着くところが、福津市(万津浦)辺りと言っているのだよ。 わははははは @阿波 分かっているのは、魏志倭人伝では邪馬台国の位置は分からないこと。
考古学の力を借りないといけないんだなぁ。 >>987
畿内説に都合が悪いからそんなことを言い張るだけだろ?
九州説だと何にも矛盾はないからね。 邪馬台国は連合国家で魏志倭人伝時点の首都は伊都国
伊都国に到着したって書いてあるからね
あと万二千里ってのは果てという意味 >>987
>考古学の力を借りないといけないんだなぁ。
その通り。
考古学の力を借りて、決着してしまった! 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 わははははは @阿波 万里の長城とは中華天下の北の境界に築かれた長城のことで、長城までが1万里、その外は北荻。
南の1万里とは、倭国の港に到着までであり、その外は東夷の倭人のクニ。
さらに、その1万里の境界の南二千里に、女王之所都の邪馬台国はあった・・。 つまり、倭国上陸後、
さらに二千里で女王の都があったってことだ。 >>987
>考古学の力を借りないといけないんだなぁ。
その通り。
考古学の力を借りて、決着してしまった! 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 わははははは @阿波 >>995
その後の記載は通り過ぎるのでなく、伊都国を基点とした記載だよ >>962
>>965
会稽東「治」という地名は存在した事がなくて
あったのは会稽東冶で現在だと福建省福州市
その東が魏志倭人伝に邪馬台国の位置と書いてる沖縄とか台湾
魏志倭人伝の記述を見ると
邪馬台国を相当南方に想定している記述になっている
帯方郡より南に1万2千里の1万2千里というのは
漢の時代に書かれた淮南子という書に出てくる世界の果てを意味する距離
魏志倭人伝はそれに合わせて邪馬台国を世界の果ての遠い国で
皇帝の徳がそこまで届き使者が朝貢にやってきたという世界観によって書かれているもの
魏志倭人伝の邪馬台国までの行程は実際のものではない >>996
ここは魏志倭人伝を正しく読むスレじゃなかったの >>997
同じ嘘を何回繰り返してるんだよキチガイ
>>946にあるとおり陳寿の時代には東冶は会稽郡ではなく建安郡
会稽東冶は存在しない
会稽東治とは、伝説の王、禹が会稽山の東を治めたという意味で、現在の浙江省紹興市にあたる >>998
正しく読んだら通り過ぎてない
伊都国以降は放射読み このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 24日 2時間 30分 38秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。