もとい

朝鮮半島の南西部は列島人との交流があったのは確か
しかしそれも百済の南下によって一瞬で痕跡が消え去る

おれの推論だと百済が遼東から朝鮮半島に南遷するのと前後して日本列島を調査してたのではないだろうか
その痕跡が百済形式で書かれた江古田や稲荷山古墳の金石文なのだろう

百済は倭と協力して筑紫を開拓してたのではないだろうか
八女古墳群の1基を覗いてほとんどが6世紀の築造であり
古いものの被葬者は筑紫開発の先遣隊のものであろう おそらく