邪馬台国畿内説 Part551
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1578066007/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし 邪馬台国畿内説は破綻しました
邪馬台国纏向説は妄想です
そしてキナイコシは無職です >>1-72
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。 それよりも、なぜ日本昔話、某音楽(日本のではない)・・・、
老婆談など同じような話なんだろう。 (1+(1/Ω))∧Ω=1/((1-(1/Ω))∧Ω) 浦島太郎(うらしまマリンw)、その他の漫画なども同じw
うらしま「ぼく、どざえもん」(ドラえもん)と言っていたり。
あと老婆の家の母親の話だったかな、クルマの事故で死んだとか。 クルマに轢かれて死んだんだよと言っていたのかな、
そのあとに創価に入ったという話とか・・・老婆の話。 創価なのか何なのか知らないけど、
嫌がらせのようなことばかりしているんだよな
と言っている人達もいたり。 偶然なのか何なのか知らないけど
『姥清水』とサンドマン・・・同じでしょ? 家自体(自身)は創価ではないと言っているしな・・・。
龍宮〜鳳輿・・・・傾いた松の木(モミの木?)・・・。 Metallica『Enter Sandman』
・・・・・同じような気がするんだけど。 その老婆談というのも、数十年も前の話なんだけど、なぜ知っているんだろう。
家の写真と同じような・・・でしょ?
松の木(モミの木?)が立てられている写真、後ろに木の板のようなものがあって。 『ふろ屋の福の神』観てみた?
「湯」という文字w・・・・・・・・『ドンバ』 『ドンバ』の写真自体・・・、
かなり昔のものだと言っているし、どういうことなんだろう。
実際はドンバ、河童というわけではないんだけど、
キュウリの葉が写っている写真。 何度も書いた、老婆が言うにはw
母親だという人だけが足袋を履いていない、
なぜか素足に下駄、草履?・・・葱の華のほうにいる人、椅子に座っていて、子供を抱いている。
サザエさんというわけでもなさそうだし。 >>965
ほら、まるで右翼の街宣車だ
「南→東」などの嘘つき騙しの指摘には知らん振りし、
ヘイトスピーチみたいなスローガン連呼しか出来ないだろ
大和説が終わってる証拠だ >>968
>九州説も終わったが、
畿内説も終わったのだ。 邪馬台国論争300年、終了、ちーん・・・。<
この男は、
「畿内」とか「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言である事が判らず、
大和説も終わったが、
この男も終了したのだ、チーン・・・。 ほんとーに・・・・・・・・・・・・・・これは父親談なんだけど、
田代まさしの話とか、(田代)タシーロ神がデビューしていない頃の話。
たしか大師、蒲田のほうで、よく見かけたとか。
おかしな話ばかり。 ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国1】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国2】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(鬼=死者)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 >>96の模式図だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻)〜│★『(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】東南 船行1年」 【 バージョン 】 1.52
【 スキン 】 default
【 IE & Flash 】 IE:11.535.18362.0 Flash:$(build.FlashMajorVersion),$(build.FlashMinorVersion),$(build.FlashBuildVersion),$(build.FlashPrivateVersion)
【 Windows 】 Windows 10 Home
【 OS詳細 】 10.0.18362 Core
【その他設定】 DOMStorage=0 ReloadType=1 IEw10=1 VS=0
【各認証状態】 US - 3 API - ON Ronin - ON BE - OFF
【 FWソフト 】 (ノートン、ウイルスバスター等)
【 不具合 】 (端的に何が起こったのか、何がしたいのか)
【 エラー 】 (ステータスバーの内容、ダイアログの内容等)
【詳しい内容 】
勝手に最新レスにスクロールされてしまう >>96
>>97
倭王卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書簡の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東→渡「海A」千余里 複有「国皆倭種B」(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南↓有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾が生じる。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおける三種の神器の一つである八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の中心は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘沿岸にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 >>978 名前:日本@名無史さん
畿内説のたわごと(言い分:A)
Q.帯方郡から萬二千里では畿内まで届かないが?
A.関係ありません、とにかく畿内なんです。
Q.倭国の産物として記された絹や鉄製品が見当たらないが?
A.関係ありません、とにかく畿内なんです。
Q.方角が南と記されているが?
A.関係ありません、とにかく畿内なんです。 なので東の誤記に決まってます。
Q.畿内の遺跡からカエルの骨が見つかったが?1
A.これぞ邪馬台国の動かぬ証拠!ほらやっぱり畿内だった!畿内!畿内! >>964
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>964
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>964
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>964
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>964
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>964
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>964
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! ザラゴキって、人工無能レベルのBotだと思えばいいよね? おい、奥山氏、僕達の研究用の余白に、貼り付け荒らしをすることを、止めなさい。 僕達は、除算を自由に行えるようにするために、Ωという数を定義し直したのだったな。 (1+(1/Ω))^Ω=(1-(1/Ω))^(-Ω) >>101
>Q.帯方郡から萬二千里では畿内まで届かないが?
>A.関係ありません、とにかく畿内なんです。
短里なんてないんだから余裕で届くだろ?
>>21-22 ◆FAQ 17〜20 参照
>Q.倭国の産物として記された絹や鉄製品が見当たらないが?
>A.関係ありません、とにかく畿内なんです。
絹については>>28 ◆FAQ 29
鉄については>>20 ◆FAQ 15
>Q.方角が南と記されているが?
>A.関係ありません、とにかく畿内なんです。 なので東の誤記に決まってます。
魏志倭人伝記載の方角は倭国上陸以降ほぼデタラメなのは確実
距離もおかしい
https://i.imgur.com/ihiyGSO.jpg
南という記載は、最後の陸行に引きずられた、https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg
または陳寿が倭国を会稽東冶の東という南国だと認識していたため
>Q.畿内の遺跡からカエルの骨が見つかったが?
>A.これぞ邪馬台国の動かぬ証拠!ほらやっぱり畿内だった!畿内!畿内!
カエルの骨については、個人的には原論文をまだ読めていないので保留
テンプレでは>>71 ◆FAQ 97
このように、九州説のいう「論拠がない」というのは妄想ww li(x)=(1/(ln(1-(1/Ω)))-(1/(ln(1/Ω))+(1/(lnx))-(1/(ln(1+(1/Ω))) >>99すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) 1-(1/Ω)から1+(1/Ω)を回避する、ずる賢いが、単純で見た目の良い方法もあるのだったな。 >>117
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が卑弥呼と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国)の?景行?成務?仲哀、応神朝(邪馬台国)?応神(息子)?仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、超巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 >>119
ダイワ・オオワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家の=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津京に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代の「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
特に前者は、記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と考古学の年代繰り上げ操作という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 >>123
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が南北朝の中国二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>978 名前:日本@名無史さん
畿内説の言い分(たわごと:A)
Q.帯方郡から萬二千里では畿内まで届かないが?
A.関係ありません、とにかく畿内なんです。
Q.倭国の産物として記された絹や鉄製品が見当たらないが?
A.関係ありません、とにかく畿内なんです。
Q.方角が南と記されているが?
A.関係ありません、とにかく畿内なんです。 なので「東」の誤記に決まってます。
Q.畿内の遺跡からカエルの骨が見つかったが?1
A.これぞ邪馬台国の動かぬ証拠! ほらやっぱり畿内だった! 畿内ガエル/ゲコゲコ! 畿内ガエル/ゲコゲコ! 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 九州説が、自分らがどんだけカスか
証明しに来るスレ 畿内説の言い分(たわごと:A)
Q.帯方郡から萬二千里では畿内まで届かないが?
A.関係ありません、とにかく畿内なんです。
Q.倭国の産物として記された絹や鉄製品が見当たらないが?
A.関係ありません、とにかく とにかく畿内なんです。
Q.方角が南と記されているが?
A.関係ありません。とにかく とにかく とにかく畿内なんです。
Q.畿内の遺跡からカエルの骨が見つかったが?1
A.これぞ邪馬台国の動かぬ証拠! ほらやっぱり畿内だった! 畿内ガエル・ゲコゲコ! 畿内ガエル・ゲコゲコ! /01/09(木) 13:51:13.16
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 邪馬台国畿内説が完全に破綻し、僕達が素数についての研究に集中できるスレッドになると思ったのだが、
邪馬台国畿内説が完全に破綻した結果、朝鮮民族の奥山氏が、炊飯方法が朝鮮から伝来したのだという、卑劣で活発な宣伝を開始してしまったな。 ご飯は、蒸し上げるより、炊く方が、燃料も節約でき、美味しいのではないのかな。 揚子江河口の漁民が米を食べるときは、魚介と一緒に煮て雑炊にする食文化があったのだったな。。。 >>147
つまり、5000年ほど前から揚子江河口から南西諸島ぞいに、九州に移住してきた者達は、米を蒸す習慣の無い漁民達だったのだね。 0<x かつ x≠1で
桜´(x)=1/lnx
と定義される桜(x)という関数を導入します。
0<x かつ x≠1で、xy平面におけるy=桜(x)の曲線は、点(奥,桜(奥))付近では、
直線y=(1/ln奥)x+桜(奥)-(1/ln奥)奥
に近似します。。。
116番の式は間違いなので、正しい式に定義し直します。
li(x)=桜(x)+桜(1-1/Ω)-桜(1+1/Ω)-桜(1/Ω) だが、Li(x)=桜(x)-桜(2)という方法もあるのだったな、、、 >>130
>>140
>>115に反論しないあたりで荒らし目的だってのが丸わかり カエルの骨を見たら卑弥呼の祭祀だと言い切る畿内説は頭がどうかしている。 >>154
>カエルの骨を見たら卑弥呼の祭祀だと言い切る畿内説は頭がどうかしている。
何もなければカエルの骨は出ない
カエルの骨が出た以上は、その理由を考えるのが学問
祭祀遺跡なのは間違いない 祭祀土坑だからね
となると、カエルの骨も祭祀の産物だろうとなる
それ以上となると、憶測込みでの解釈になる7 >>153
>キナイコシもbotみたいなものだ。
また具体的な根拠も理由もなしに書いてる
ザラゴキがbotだってのは、単語入れ替えのオウム返しというので誰が見ても分かるだろ?
九州説はカスしかいない 何もなければカエルの骨は出ない
カエルの骨が出た以上は、その理由を考えるのが学問
生ゴミなのは間違いない 生ゴミ土坑だからね
となると、カエルの骨も食べ散らかしの産物だろうとなる
それ以上となると、憶測込みでの解釈になる7 >>979
だから
どこが妄想でないのか?を、具体的に指摘しろって、いつも言われているのに、
一切具体論に踏み込めないのが大和説
ただ反論したつもりになるためだけの書きこみしかできない大和説の、
オワコンぶりが酷い 生ごみを食べに土抗へ飛び込んできたババぁガエルだろ、
祭祀がどうとか、呪われ過ぎてる ここは畿内説の妄想癖を公開するためのスレですね
わかります 「倭国(阿波)は鉄器王国」
倭国(阿波)では遺跡発掘が少ない後進県にも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地9か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「高川原遺跡」・「鮎喰遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」 @阿波
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>982
>九州雑多主張は人種的に日本の学術研究成果を拒絶するからね<
大和説学者らの「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの主張は、
人類や国民の常識的にも、学問的にも、学術的研究成果をも、拒絶するからね。 >>160
ここは畿内説の妄想癖を公開するためのスレ
という九州説の妄想を公開するスレではないぞ >>985
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者が、
何でもかんでも「根拠は?、理由は?」とする無限の質問応酬合戦に持ち込んで、
都合の悪い論点から議論を逸らして、世間の人々を騙そうとする、
すごい議論テクニックを使い出す件について
そもそもとっかかりの「南→東」みたいな捏造をするから、
大和説学者が信用をなくした >>987
>ホケノ山は炭素14C年代測定法で木棺のサンプル5つを計測したところAD120〜240年と判定<
寝かせ期間と「樹皮〜採取部位の年輪数」だけ50〜100年数100位のプラスが必要であり、
AMS法のプラズマ化の失敗に拠っても50〜100位のブラスが必要であるから、100〜200年位のプラスになり、
だから220〜440年位になり、中間値でも330年位になり、ほぼ4世紀になる。
>棺内に他の鏡はあれど240年に倭に渡来した三角縁神獣鏡が含まれない事から240年以前の古墳と判定<
△は、渡来した呉系楽浪鏡師の陳氏らがまず関与した鏡であり、
彼やその弟子らは景初四年鏡を造り、更に大和の鏡作り神社での粗悪な△作りにも関与した。
>三角縁神獣鏡は編年が進み現在では出土した古墳の年代判定の目安にも使われている <
考古編年など絶対年代の絶対的根拠にならず、大和の△が4世紀以後である事だけからでも、×。
>畿内の古墳3基だけでも500点以上の鉄器が出土<
ほぼ4世紀の古墳。
>三角縁神獣鏡は蛍光分析器Spring-8の調査によって中国鏡の魏鏡と同一素材のものが使われていると判明<
列島に来ていた呉系鏡師らの、手持ちの材料銅や、
列島内に残存していた銅器材料からの成分比が、 徐州銅などと近縁であった、というだけ。 以前は九州説なりに話をしようとするやつもいたんだが、言うこと考えることがすべて
具体的な根拠とともに否定され破綻してしまって、まともに考えようとする九州説はいなくなったなww
今残っているのは、Bot並みのザラゴキと、邪馬台国の話を一切できなくなった連続句読点と、
あと誹謗中傷日本下げの砥石で矢板君ぐらいかなw >>166
いまは、倭国(阿波)だよ。 わははははは @阿波 ホケノが。4世紀だといのは石も知ってる事実だろうに >>989
>洛陽でも1面出土があり<
0〜1枚では、列島の500枚位の△の根拠にならない。
>銘文に銅出徐州 師出洛陽 魏の徐州の銅で洛陽の鏡師が作ったとあり<
「洛陽の鏡師」である事にはならない。
洛陽以外の地(列島)にいたから「洛陽出身」であると自慢したもの。
>鏡にある景初三年や正始元年は
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧の倭人伝に卑弥呼が魏に使いを送った年と記載<
後代史書の魏志原本や写本記載に対する「自己解釈に拠る書き換え」の形になった文字は、根拠にならない。
>これが景初二年とされるのは誤字が多くなったと前文にある<
書いてないし、写本における「誤字発生率」は0.5%位であり、
その中に「景初二年」は校勘対象になっていない。
>11世紀に復刻された魏志倭人伝
三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏に使いを送った年と倭人伝に書いてある魏の年号が記銘されていて<
されていない。
>畿内で多数見つかり邪馬台国が畿内だった事の有力証拠 <
畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙し文言である事から、始めから×であり、論外。
>そしてそれだけではなく景初三年と記銘された画文帯神獣鏡も畿内で見つかっている<
勿論大和からは出土していない。 四国鉄器王国説か?
景行天皇が四国天皇説あるからな >>171
>景行天皇が四国天皇説あるからな
景行天皇は、九州くんだりまで行っていないからね。 @阿波 >>993
>>993
>>畿内説に根拠がない。 そのことが妄想であるという根拠になる<
>根拠のない論証があったとしたら、その根拠のない部分を「具体的に指摘」できるだろ?
それができない九州説は無能なオワコン
>だから、そういう無意味な憂さ晴らしを書いてないで、
「具体的な論点を挙げて反論」してごらんってww <
だから、
「南≠東」や、「日本國者倭國之別種也」や、「自昔・・・東征毛人五十五國」や、
「冢≠前方後円墳」や、「大和の庄内1の前方後円墳の石塚は3世紀末」や、
「纏向の鉄器は向3世紀末以後」や、「大和の△は4世紀」や、
「東治は地名固有名詞ではなく普通名詞の合成熟語である」など、
沢山の根拠を言って来てある。 >>146
>ご飯は、蒸し上げるより、炊く方が、燃料も節約でき、美味しいのではないのかな。
米を炊く場合は、その米がウルチ種である場合のこと。ウルチ種は蒸しても柔らかくならない。
「米を蒸す」場合とは、その米がモチ種である場合のことである。
モチ種はもともと軟弱で、80度ていどの蒸気で短時間蒸すだけで食べられるようになる。
甑がなかったというのは、
米がモチ種でなかったため、モチを食べる文化がなかったことを意味する・・、つまりウルチ種を常食していたからであろう。
ただそれだけのことだ。 >>996
このように九州倭国をとことん小さな国にして、
日本下げにつなげようとするのが大和説の根底 >>174
>「東治は地名固有名詞ではなく普通名詞の合成熟語である」など、
>沢山の根拠を言って来てある。
あのな・・
それ、根拠じゃなくて
意見だろ >>165
>考古編年など絶対年代の絶対的根拠にならず、
だから理由を言えっつーの
なぜ九州説は、まったく理由が言えないのだ? >>164
>何でもかんでも「根拠は?、理由は?」とする無限の質問応酬合戦に持ち込んで、
だから、なんか主張すんなら
理由聞かれるの当たり前だろーって
それに
聞かれて答えないのは応酬合戦じゃねーだろ
それに「無限」って何だよ
一回答えりゃいーだけだろ >>164
>そもそもとっかかりの「南→東」みたいな捏造をするから、
だから
捏造だって決め付ける理由を言えよ 九州説のやってる事は特殊な信仰に基づいた宗教活動
お経を唱えてるのと同じ 邪馬台国畿内教という朝鮮民族の宗教団体が、完全に崩壊してしまったね。 邪馬台国畿内説には、具体的な根拠が、見つからなかったのだね。 >>182
だから、それがお経だと指摘されている
九州説はそこまで醜悪なのか 新しい年が、本格的に始動しても、邪馬台国畿内説を宣伝する者達は、頭が悪いままだな。 大和説から畿内説に広めたのはどの学者か?
知ってるけど、律令は百済人の知恵かも
ヤマト王政は渡来人+倭だと思います
倭国は畿内には無いです >>185
そうやってただ罵り続けるだけって、自分の頭の悪さの証明じゃないのか? >>185
仕方ないよ、、、
頭が良い者達は、皆、フェードアウトしたのだからね。
200回程も発掘したが、日本国に公式に設置された機関から、具体的な証拠が全く無いと発表されたのだもの。 邪馬台国畿内教という朝鮮民族の宗教団体が、完全に崩壊してしまったね。 邪馬台国畿内教という朝鮮民族の宗教団体が、完全に崩壊してしまったので、このスレッドは、素数の出現の様子についての研究に使用すれば良いな。 2 3 2 2 5 2 3 7 2 2 2 3 3 2 5 11 2 2 3 13 2 7 3 5 2 2 2 2 17 >>186
>大和説から畿内説に広めたのはどの学者か?
>知ってるけど、律令は百済人の知恵かも
>ヤマト王政は渡来人+倭だと思います
>倭国は畿内には無いです
こうやって4行続けて書いて
どれも論理的つながりの無いランダムな文
こういうの書く人って
あきらかに、頭わるいだろ 7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 先行する研究者が、対数に注目したことは、自然な成り行きなのだな。 7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 >>115
>短里なんてないんだから余裕で届くだろ? ・・・◆FAQ 17〜20参照<
魏の役人たちの「里」記録には、
始皇帝の里(長里)の記録など全く存在しないんだから、大和に届く筈がないだろ。
>Q.倭国の産物として記された絹や鉄製品が見当たらないが?
>絹については◆FAQ、29 鉄については◆FAQ 15<
大和の絹も鉄も3世紀末〜4世紀であるから、始めから卑弥呼時代のものにはならないだろ。
>魏志倭人伝記載の方角は倭国上陸以降ほぼデタラメなのは確実<
魏の役人らが、倭国上陸前と以降で「方角がデタラメに変わる」筈がなく、類スレ主が、・・・・アホ詐欺師人間である事が確実。
>距離もおかしい <
魏の役人らの距離計測も、倭国上陸前と以降で「距離計測がデタラメに変わる」筈がなく、 類スレ主が、・・・・アホ詐欺師人間である事が確実。
>南という記載は、最後の陸行に引きずられた<
普通の人類や魏の役人たちは、どこにあっても東西南北を間違える事はほぼなく、
「最後の陸行に引きずられる」事もないから、
ここでも類スレ主は嘘つき騙しの詐欺師であり、・・・・アホの×人間。
>または陳寿が倭国を会稽東冶の東という南国だと認識していたため<
魏志では「東治」であり、「東治」は(地名ではなく)普通名詞の組み合わせ語であり、
後漢書の范曄は、それが判らず、高慢な自己解釈に拠る「東治→東冶」の書き換えを実行した・・・・アホ人間であり、
その范曄の間違いを踏襲した後代史家や現代大和説学者らやスレ主らも、・・・・アホ人間。
このように
ウソつくことと
荒らししか出来ない九州説
まともな論客の絶えたトンデモ説の
悲惨な末路だな >>199
>「東治」は(地名ではなく)普通名詞の組み合わせ語であり、
街宣車みたいに連呼してるけど
理由は? >>138
このスレは、
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者が、
自分らがどんだけカスか
証明しに来るスレ >>202
>「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者が、
だから、ウソだと決め付ける理由は? 天皇杯という闘いのために、リーグの闘いがないのだね。 >>155
>>カエルの骨を見たら卑弥呼の祭祀だと言い切る畿内説は頭がどうかしている。<
>何もなければカエルの骨は出ない
カエルの骨が出た以上は、その理由を考えるのが学問
祭祀遺跡なのは間違いない 祭祀土坑だからね となると、カエルの骨も祭祀の産物だろうとなる
それ以上となると、憶測込みでの解釈になる7<
「卑弥呼の祭祀」というのであれば、「南≠東」などに拠って×になるから、
「卑弥呼の祭祀」という事を否定するんなら、別に構わないよ。 バンビシャスの闘うレベルのリーグで、天皇杯という闘いで、連続勝利を進行させているチームは、ないのだな。 去年の秋に、バンビシャスに圧倒され、叩き潰された滋賀レイクスターズが、勝ち進んでいるな。 >>163
>ここは畿内説の妄想癖を公開するためのスレ
という九州説の妄想を公開するスレではないぞ<
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
ここは、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の妄想癖を公開するためのスレであって、
九州説の「史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論」という学問的な論理を、
公開するスレだぞ 邪馬台国畿内説が、破綻した後も、邪馬台国畿内説を宣伝を実行している者達のつく嘘は、ひとつづつシラミを潰すようにして、潰せば良いのだったな。 >>166
以前は「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者も、
それなりに話をしようとするやつもいたんだが、
言うこと考えることがすべて具体的な根拠とともに否定され破綻してしまって、
まともに考えようとする大和説はいなくなったな
今残っているのは、相変わらず議論から逃げているスレ主と、
邪馬台国や畿内などの「存在もしなかった嘘つき騙し文言」の大和説者や、
「南→東」などの話を一切できなくなった類スレ主と、
「早く言え」狂や、「会稽東冶の沖縄台湾説」者やつぶやきなどしか、
いないようだな。 >>173
>これ面白そうピラミッドを透視したやつだわ
卑弥呼の墓? 箸墓古墳を「透視」調査、宇宙線使い
>箸墓古墳では、宮内庁の調査で埴輪(はにわ)や土器が出土。
後円部からは「特殊器台」と呼ばれる、吉備地方の墳墓に特徴的な遺物も見つかった。<
箸墓は布留だから4世紀であるから、始めから×であり、
埴輪や特殊器台そのものも、人間ではなく土器であるんだから、
「jun葬者奴婢百餘人」にならず×であり、
だから毎日新聞も藤原弘も、
「橿考研の西藤清秀・技術アドバイザーと石黒勝己・共同研究員のグループ」も、
×人種。 >>211
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
早く言わねえと偽書になっちまうぞ! >>211
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
早く言わねえと偽書になっちまうぞ! >>211
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
早く言わねえと偽書になっちまうぞ! >>211
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
早く言わねえと偽書になっちまうぞ! >>211
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
早く言わねえと偽書になっちまうぞ! >>211
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
早く言わねえと偽書になっちまうぞ! >>211
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
早く言わねえと偽書になっちまうぞ! >>155
>それ以上となると、憶測込みでの解釈になる7
畿内説は憶測の積み重ねの上に立つ砂上の楼閣 >>208
>「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
だから、なんで理由をまったく言わない >>176
>>>996
>このように九州倭国をとことん小さな国にして、
>日本下げにつなげようとするのが大和説の根底
誇大妄想で僕の考えた強くて大きな大和を夢想する方がおかしい。 >>178
>>考古編年など絶対年代の絶対的根拠にならず、
>だから理由を言えっつーの
絶対年代の根拠を示せよ。 >>211
>箸墓は布留だから4世紀であるから、始めから×であり、
考古学の定説を完全否定するのに
まったく理由を言わないって
異常だと思わないの? >>179
>聞かれて答えないのは応酬合戦じゃねーだろ
何を聞かれてもはぐらかしてばかり。
ああ言えばこう言う。
口先ばかりのキナイコシがどの口でこのようなことを言い張るのか。 >>222
>絶対年代の根拠を示せよ。
テンプレに書いてあるよ >>184
キナイコシは桜井市の鈍坊主だろ。
お経のように具にもつかない反論めいたことを呟くしか能がないくせに。 >>192
>こういうの書く人って
>あきらかに、頭わるいだろ
畿内説のように、何にも根拠がないことに引っかかるのが一番頭悪いよ。 >>224
>何を聞かれてもはぐらかしてばかり。
だと決め付ける証拠は?
九州説はいつも証拠を出さないな >>181
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの大和説のやってる事は、
人種的優越という特殊な信仰に基づいた極右国粋皇国史観宗教活動
お経を唱えてるのと同じ >>229
>畿内説のように、何にも根拠がないことに引っかかるのが一番頭悪いよ。
だから、何にも根拠がないって証拠は? >>184
だから、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説が、
「お経だ」と指摘されている
大和説はそこまで醜悪なのか >>187
そうやってただ、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをし続け、
「南≠東」の当たり前の事を言う九州説者を罵り続けるだけって、
自分大和説者の頭の悪さの、
証明じゃないのか? 邪馬台国畿内説の絶対年代の頼みの糸は、宇宙線観測技術が破綻させた物事のついでに破綻した炭素年代法と、大河内隆之氏が裏付けた研究分野と、日韓親睦会なのだったな。 奥山氏は、日韓親睦会では、通訳のボランティアをしているのだったね。 >>200
このように、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソつくことと、
荒らししか出来ない大和説
まともな論客の絶えたトンデモ説の
悲惨な末路だな >>238
「嘘」とか「当たり前」とか言うだけで
ぜんぜん理由が言えないことが
九州説信者の頭悪さの証明だな 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html >>242
畿内説側が畿内説スレを荒らしてるって
根拠の無い決め付けが
九州説=ウソつき病の証拠だよ 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html >>201
>>「東治」は(地名ではなく)普通名詞の組み合わせ語であり、<
>街宣車みたいに連呼してるけど理由は?<
会稽の東に「東治」という地名が存在しないから。
福州付近の「東治」記載は、書陵部本の「自己解釈に拠る書き換え造作」文言であり、
張元済に拠って否認された。 >>254
こんなふうに
九州説はコピペ荒らしと中傷のほか
何もできない無能と
簡単に証拠されるのだ >>165
ホケノ山は木棺の炭素14c年代測定が
誤差を含んでおよそAD120〜240年
副葬品も内行花文鏡など古い銅鏡の副葬はあっても
史書の記録から240年ごろに日本に伝来したと判明している
三角縁神獣鏡がないのでそれ以前の前方後円墳
卑弥呼の時代より少し前に完成していた可能性が高い
国内で作られた銅製品は魏の銅製品とは違った銀・アンチモン比が検出される
いっぽう三角縁神獣鏡は魏の鏡と同じ銀・アンチモン比
そして三角縁神獣鏡には卑弥呼が魏に遣使したと史書にある魏の年号
景初三年や正始元年が記銘
洛陽でも1面発見があり三角縁は魏鏡である事を補強 >>255
>会稽の東に「東治」という地名が存在しないから。
あたりまえ
「東治」が会稽の東にあるとか言ってる文献は存在しない >>255
>張元済に拠って否認された。
20世期の学者がひとり否定したからって
史料事実は変わらないだろ 技術的に奥山氏の寿命内での素因数分解不可能な、ある巨大な自然数6n±1の範囲にある素数の個数は、確率で表現されるのだったな。 >>223
>考古学の定説を完全否定するのにまったく理由を言わないって
異常だと思わないの?<
日本の考古学者は殆ど全員が、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説であるんだから、
彼らの大和説は「嘘つき騙し」の上に造られた偽説である事になり、
そんなものは「定説」だなんて、言えないの。 >>261
>日本の考古学者は殆ど全員が、
>「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説であるんだから、
中傷しても定説は覆せません >>260
巻向の発掘は、6n+2以上6n+4以下の範囲に素数を探しているようなものなのだったね。 >>226
>>絶対年代の根拠を示せよ。<
>テンプレに書いてあるよ <
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説のスレ主のテンプレなど、
読む価値もないゴミであり、今更、始めから誰も読まないよ。
読んで欲しけりゃ、その部分を転写しな。 >>264
魏志倭人伝時代の人民の住宅や、鉄の鏃が見つからないのだな。 >>265
>「南→東」などの嘘つき騙しの大和説のスレ主のテンプレなど、
>読む価値もないゴミであり、今更、始めから誰も読まないよ。
>読んで欲しけりゃ、その部分を転写しな。
なら、転写しても読まないんだろ >>264
奥山氏には、理解不能な例え話を出してしまいましたね。 >>230
>>何を聞かれてもはぐらかしてばかり。<
>だと決め付ける証拠は? 九州説はいつも証拠を出さないな<
また「証拠は?問答」か。
大和説は、いつも、自分からは証拠を出さないな。 いい加減に気づいているだろう。
なぜ漫画やアニメ・・・なのか知らないけど、
うらしま・・・王子、国王とか。 バンビシャスにとっては、無駄に日程が空いてしまうな。 >>271
>大和説は、いつも、自分からは証拠を出さないな。
という証拠は? むかーしの家・・・という話。
実際にいたり、同じ名前の家とか。
龍宮〜寒いな〜? >>243
>「嘘」とか「当たり前」とか言うだけでぜんぜん理由が言えないことが
九州説信者の頭悪さの証明だな <
「南→東」とかの史料事実の否定曲解の「嘘つき騙し」を言うだけで
ぜんぜん理由が言えないことが
大和説信者の頭悪さの証明だな 九州旅行を実行するために、奥山氏は、まず、入国審査に合格しなければならないのだったな。 邪馬台国畿内説には、出せる証拠が、無いのだったな。 老婆談というのがあるでしょ、なぜか・・・と同じような話。
老婆の母親・・・?、(クルマ?)事故で・・・とか、
轢かれたんだったかな。 >>251
>畿内説側が畿内説スレを荒らしてるって根拠の無い決め付けが
九州説=ウソつき病の証拠だよ<
「畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言である事と、
大和説者側の、
「江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間」
の貼り付け男が、
大和説スレを荒らしてるって根拠がある事が
大和説=ウソつき騙しの・・・・アホ詐欺師病、の証拠だよ 『』『』『』『ドンバ』『何者にもなれない おまえたち』
同じようなキャラが出てきたり >>277
>「南→東」とかの史料事実の否定曲解の「嘘つき騙し」を言うだけで
>ぜんぜん理由が言えないことが
だからあなた
「嘘つき騙し」だって決め付ける理由を
ぜんぜん言えないって
指摘されてますが? >>256
こんなふうに
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は、
コピペ荒らしと中傷のほか
何もできない無能と
簡単に証明されるのだ 「卑弥呼の墓」を素粒子で探査
奈良・箸墓古墳の内部
「卑弥呼の墓」の可能性が指摘される奈良県桜井市の前方後円墳・箸墓古墳(全長約280メートル、3世紀中ごろ〜後半)の内部構造を探るため、物質を透過する素粒子「ミューオン」を用いた探査を始めたと、県立橿原考古学研究所が9日、発表した。
同古墳は宮内庁が孝霊天皇の皇女の墓として立ち入りを禁止し、調査はほとんどできていない。
探査では石室の可能性がある空洞があるかどうかや、その位置や方向、規模を調べる。
古代史上最大の謎を秘めた古墳の内部を知る手掛かりになりそうだ。
ミューオン探査は宇宙線から生じる素粒子の一種を利用し、物体の内部をエックス線写真のように写し出す。
共同通信 2020/1/9 20:43 (JST)
https://this.kiji.is/587970300458878049?c=39550187727945729 >>281
>「畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言である事と、
だから、そう決め付ける理由を
あなた聞かれてますけど
なんで答えないの? >>281
>大和説者側の、
>「江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間」
>の貼り付け男が、
そいつ九州説じゃないって証拠は? >>284
>「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は、
だから、それが嘘だって決め付けるけど、証拠は? >>257 貼り付けは貼り付けでお返し
>ホケノ山は炭素14C年代測定法で木棺のサンプル5つを計測したところAD120〜240年と判定<
寝かせ期間と「樹皮〜採取部位の年輪数」だけ50〜100年数100位のプラスが必要であり、
AMS法のプラズマ化の失敗に拠っても50〜100位のブラスが必要であるから、100〜200年位のプラスになり、
だから220〜440年位になり、中間値でも330年位になり、ほぼ4世紀になる。
>棺内に他の鏡はあれど240年に倭に渡来した三角縁神獣鏡が含まれない事から240年以前の古墳と判定<
△は、渡来した呉系楽浪鏡師の陳氏らがまず関与した鏡であり、
彼やその弟子らは景初四年鏡を造り、更に大和の鏡作り神社での粗悪な△作りにも関与した。
>三角縁神獣鏡は編年が進み現在では出土した古墳の年代判定の目安にも使われている <
考古編年など絶対年代の絶対的根拠にならず、大和の△が4世紀以後である事だけからでも、×。
>畿内の古墳3基だけでも500点以上の鉄器が出土<
ほぼ4世紀の古墳。
>三角縁神獣鏡は蛍光分析器Spring-8の調査によって中国鏡の魏鏡と同一素材のものが使われていると判明<
列島に来ていた呉系鏡師らの、手持ちの材料銅や、
列島内に残存していた銅器材料からの成分比が、 徐州銅などと近縁であった、というだけ。 『姥清水』
・・・いまの福島県のほうの話でしょ、なぜか同じ(?)だしな。 >>285
> 同古墳は宮内庁が孝霊天皇の皇女の墓として立ち入りを禁止し、調査はほとんどできていない。
そこだけ見ると宮内庁ゴミカスに見えるけど
発掘した重要文化財を水没させたりカビだらけにしてる埋文のゴミカスみてると何とも言えない >>289
>考古編年など絶対年代の絶対的根拠にならず、大和の△が4世紀以後である事だけからでも、×。
>ほぼ4世紀の古墳。
根拠なにも言わずに結論のみ言い張る九州説って
見るからにしょーもない
非学問だよね >>259
>>張元済に拠って否認された。<
>20世期の学者がひとり否定したからって史料事実は変わらないだろ<
何時の時代であっても、文字に差異があった時に、
「より古文や古形」の方を選択した(張元済のような)校勘学者の選択の方が、
後代学者に拠る新しく書き換えをした文字を選択されている本(書陵部本)よりも、
正しい、という確率が高いの。 >>285
>古代史上最大の謎を秘めた古墳の内部を知る手掛かりになりそうだ。
発掘調査などしなくても、古墳の外形で「忌部はん」 のお墓と分かりそうなもんだがw わははははは @阿波 >>293
>「より古文や古形」の方を選択した(張元済のような)校勘学者の選択の方が、
だからそれが、刊本どうしの比較ばかりしてた清朝時代の限界
そして現代中国の学界はに「東冶」が正しいと結論した >>169
11世紀ごろに民間に流布していた
通行版三国志を編集した咸平本三国志の牒(前書き)に
三国志は長く筆写されるうちに誤字が多くなり…と書いている
それ以前の魏志倭人伝を引用した各史書にある卑弥呼が魏に遣使した年が
景初三年から二年になるのはこの本から
元本に近い時代の三国志には卑弥呼の遣使が景初三年と書いてあったということ
そして畿内で見つかる三角縁神獣鏡には
卑弥呼が魏に遣使した時代の魏の年号
景初三年や正始元年が記銘されていて
卑弥呼の時代に畿内が魏と交流を持っていた事の証拠 >>293
>後代学者に拠る新しく書き換えをした文字を選択されている本(書陵部本)
それ、根拠ある?
無いよね それにしてもなんだよな・・・w
ドンバ、ウラシマン・・・なんでも良いんだけど、
これは、あなたの家ですなど、どのように決めたんだろう。
なぜか、そういうこと(話)を知っているような人がいたり。
蚕を飼い、機織りをしている家があって・・・とか。 荒らしと根拠なき言い張り
それが九州説の全てなの? >>289
ホケノ山の木棺サンプル5つは誤差を含んでだいたいAD120〜240年のものと
炭素14C測定で判明
副葬品にも古い銅鏡はあっても240年ごろに倭に伝わった三角縁神獣鏡がないので
2つの証拠から畿内のホケノ山古墳は240年以前に造営されたものと推定できる
畿内でよく見つかる三角縁神獣鏡には師出洛陽 魏の鏡師が作ったと記銘されていて
景初や正始元年など卑弥呼が魏に遣使したと史書にある魏の年号もあって
Spring8による分析では魏鏡と同成分と分析結果が出て
洛陽でも1面発見
卑弥呼の時代に畿内が魏と交流していた証拠 キュウリの葉、葱の華・・・あの写真自体、
むかーしのモノだと言っているし、老婆も詳しいことはわからないとか。 対話から逃げることでしか
九州説の延命は図れないようだな 当時、家にあったモノなども、
誰かに売ったのか、あげたのかな、
それとも近所の人が持って行っちゃったのかな・・・という話とか。
老婆は、そういう話をしているしw 畿内説スレを荒らすしかなくなった九州説はもう実質終わりだろ 家にあったものなどの話というのも、
いまの福島県のほうの話。 謎の刀(剣?)などの話も、いま住んでいる家にはないんだけどw
『サイバーパンクSPECIAL』
なぜか川崎区の南部のほう、謎の刀(剣)も家にないというだけの話なのかな、
・・・実際は家の話とか。 稚拙な嘘しかつかない九州説が畿内説に勝てる要素はなに一つなし あとドラムの達人の曲、片目を何やら〜という曲とか、
よくわからないんだけど伊達郡の話? 九州説も魏の年号が入っていて
魏の洛陽の鏡師が作ったとも書いてある三角縁神獣鏡に向かって
呉の楽浪鏡師が作ったと意味不明な事言ってないで
もう少し理性を働かせないと生き残るのは難しいぞ
九州説は古田の言った事が全ての古田教だから仕方ないのかも知れないけど 『ドラム サンドマン』
『サイバーパンクSPECIAL』
その曲も無かった頃のコミックでしょ、どういうことなんだろう。 アホの奥山が騒いでるなww
円を描くのが3世紀の先端技術には爆笑したがな・・・
前方後円墳は邪馬台国と関係あんなら示せよ アホの奥山ww
南⇒東は畿内説は致命傷だな
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古墳造営キャンプ地の巻向を王都とか言っているアホに騙されて傷口を広げてしまったなww
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
押しが強いだけの巻向の馬鹿学者の連中が畿内説を駄目にしてしまったなww
最近のマスコミもNHKはじめ巻向のトーンが下がってるなww 垂仁天皇(3世紀後半)の居城 纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
景行天皇(4世紀前半)の居城 纒向日代宮(まきむくのひしろのみや) >>252
>会稽東冶がホント・・・<
書陵部本の「会稽東冶」は、後代の後漢書の「会稽東冶」の選択採用をした事になっており、
それに比べて他の版本の魏志の「会稽東治」の方が、「古文古形」になっており
つまり、後代には「東治→東冶」の書き換えがあっても、「東冶→東治」の書き換えは起こり難いという事から、「東治」の方が、古文古形。
同じような事は、「對海國」と「對馬國」の問題でも起きた。
後代の「対馬」という地名から、後代に起こり得るのは「對馬國」であり、
後代に「對馬國から對海國」に書き換える、という事は考え難く、
従って、「對海國」の方が、古文古形であり、紹興本の「對馬國」が否定された。 >>263
>>>>>>>>>>>>>>>>>>「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説であるんだから、
中傷しても定説は覆せません>>>>>>>>>>>
どこの定説?根拠も希薄だし?
倭人伝は間違ってると連呼してるだけじゃん 南⇒東は畿内説の永遠の課題じゃん 工作員のような人間(人たち)がいるんだろう、
みたいなことを言っている人もいたり。 >>312
魏志倭人伝に
卑弥呼の墓の大きさは径百歩(約140m)
前方後円墳は卑弥呼の時代からの存在が確認 >>312みたいに根拠まったく書けない九州説は
あきらかに、もう終わってるでしょ >>263
>>日本の考古学者は殆ど全員が、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説であるんだから、<
>中傷しても定説は覆せません<
中傷しても、「南≠東」などの人類の常識という定説は、覆せません。 >>314
>書陵部本の「会稽東冶」は、後代の後漢書の「会稽東冶」の選択採用をした事になっており、
「なっており」って
いつ誰がそんなこと決めたの?
根拠プリーズ >>266
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、
無力に呟く荒らしの大和説 >>315
>どこの定説?根拠も希薄だし?
希薄だという理由は?
、 >>270
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説者の言うこと
自己矛盾多すぎ >>319
>中傷しても、「南≠東」などの人類の常識という定説は、覆せません。
それが常識で定説だって
証拠は? >>288
横からスマンが
「南→東」は史料事実から明確な回答は何もない
畿内説=邪馬台国は無かったでも良いかも??? 箸墓のミューオンによる調査、NHKニュースでもやってんだ >>325
>「南→東」は史料事実から明確な回答は何もない
そう決め付ける理由は? >>275
>奥山氏は、九州旅行で、何処を訪問するのだろうか。<
オクヤマはそんな金が無いな
あれば最近の動向ぐらい知るのに金を使うのが妥当だがな(笑) 南→南でも
魏志倭人伝の邪馬台国までの行程は会稽東治の東
現代に当てはめると沖縄や台湾の辺りとなって九州説は破綻 キャンキャン吠えながら逃げ回るしか
延命策のない九州説
悲惨である >>285
橿考もネタが無くなり税金稼ぎにひっちゃきだな >>292
>>考古編年など絶対年代の絶対的根拠にならず、大和の△が4世紀以後である事だけからでも、×。
>>ほぼ4世紀の古墳。<
>根拠なにも言わずに結論のみ言い張る九州説って
見るからにしょーもない 非学問だよね <
既に数え切れない位根拠を言って来た事を知らん振りして、
「根拠なにも言わずに結論のみ言い張る」という誹謗をする大和説って、
嘘吐き騙しである事がバレバレであり、
見るからにしょーもない 非学問だよね >>334
>既に数え切れない位根拠を言って来た事を知らん振りして、
あなた、そんなことした証拠は? >>322
だから 何処の定説なんだよ
畿内説の定説じゃないのかな
定説なら文献示せよ おバカさん >>335
卑弥呼と関係あんの
なんでも卑弥呼と結びつければ銭が入ってくると思う畿内説互助会はイカンよ 鉄鏡とか硯とか
何でも卑弥呼に結び付けて金を稼いでいるのは九州説だろう >>299
荒らしはいるけど、すべてじゃ無いよ
逃げる手だてが荒らしとしてるのなら
あんた可笑しいよ >>300
畿内の定義があいまいじゃねーの
巻向を中心とした記年銘鏡は無いのでは?? アホの九州説の頭を素粒子ミューオンで検査したるわ。 >>337
賛同する
畿内説互助会の定説じゃないのかな >>296
>11世紀ごろに民間に流布していた通行版三国志を編集した咸平本三国志の牒(前書き)に
三国志は長く筆写されるうちに誤字が多くなり…と書いている<
実際にどれ位「誤字」があったのか?を数えてみると、0.5%位であり、
だから、魏志倭人伝の2000字位では、「都支國と郡支國」と、
「黄幢と黄憧」との2例だけだった。
(對海國と對馬國とでは、對馬國の方が始めから間違いだったとして数えられてもないなかった)
>それ以前の魏志倭人伝を引用した各史書にある卑弥呼が魏に遣使した年が
景初三年から二年になるのはこの本から
元本に近い時代の三国志には卑弥呼の遣使が景初三年と書いてあったということ<
後代史書の「自己解釈に拠る書き換え」の形になった「景初三年」は、
魏志写本版本の「景初二年」の方が古文古形であり、
「景初二年」を否定する根拠にならないし、後代史書の通典は、
「魏明帝景初二年、司馬宣王之平公孫氏也、倭女王始遣大夫詣京都貢獻」
とはっきり書いてしまっていて、ますます「景初三年」は否定された。
>そして畿内で見つかる三角縁神獣鏡には卑弥呼が魏に遣使した時代の魏の年号
景初三年や正始元年が記銘されていて卑弥呼の時代に畿内が魏と交流を持っていた事の証拠<
明帝は景初二年12月に詔書を出したのだから、
景初三年鏡や正始元年鏡は明帝の鏡ではあり得ず、×。 >>310
失礼
>魏の洛陽の鏡師が作ったとも書いてある三角縁神獣鏡<
何処からの引用ですか? >>299
「南→東」などの史料事実や史料実態の否定や曲解の嘘吐き騙しや、
荒らしと根拠なき言い張りや、
何度も説明してある事を知らん振りして「証拠は?」などを繰り返す、
それが大和説の全てなの? >>300 貼り付けは貼り付けでお返し
>ホケノ山は炭素14C年代測定法で木棺のサンプル5つを計測したところAD120〜240年と判定<
寝かせ期間と「樹皮〜採取部位の年輪数」だけ50〜100年数100位のプラスが必要であり、
AMS法のプラズマ化の失敗に拠っても50〜100位のブラスが必要であるから、100〜200年位のプラスになり、
だから220〜440年位になり、中間値でも330年位になり、ほぼ4世紀になる。
>棺内に他の鏡はあれど240年に倭に渡来した三角縁神獣鏡が含まれない事から240年以前の古墳と判定<
△は、渡来した呉系楽浪鏡師の陳氏らがまず関与した鏡であり、
彼やその弟子らは景初四年鏡を造り、更に大和の鏡作り神社での粗悪な△作りにも関与した。
>三角縁神獣鏡は編年が進み現在では出土した古墳の年代判定の目安にも使われている <
考古編年など絶対年代の絶対的根拠にならず、大和の△が4世紀以後である事だけからでも、×。
>畿内の古墳3基だけでも500点以上の鉄器が出土<
ほぼ4世紀の古墳。
>三角縁神獣鏡は蛍光分析器Spring-8の調査によって中国鏡の魏鏡と同一素材のものが使われていると判明<
列島に来ていた呉系鏡師らの、手持ちの材料銅や、
列島内に残存していた銅器材料からの成分比が、 徐州銅などと近縁であった、というだけ。 >>327
あんたが証明すればいいけど ムリ
どの畿内説の学者も誤情報とか誤認とか・・・言うけど
根拠は畿内に邪馬台国ありきの設定からの憶測でしかない
畿内説は物証に乏しいと思う 畿内に邪馬台国以外の豪族連中がいたでも良いかも >>346
それが何か
そして畿内には100m級の円墳も存在 >>302
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説者は、
まともな議論や対話からは、知らん振りして逃げて、
何でも、知らん振りして「証拠は?」や「返事は?」と要求して、
世間の人々に議論に勝ったかのように装って、
対話から逃げることでしか
延命は図れないようだな 日田の鉄鏡が卑弥呼の鏡とか酷かったな
九州のローカル新聞の記者が中国の学者に取材したとき、誘導尋問みたいなことをやって
学者は可能性があるとリップサービスで答えただけだろう
自分の意思で発信したものではない
記事にする際に記者の作文がどこまで入ってるかも不明だし
それ以前の問題として、あの鉄鏡が日田から出土したなんてのは古物商の作り話で
実際には入手ルート不明の考古遺物だから参考程度にしかならない
そんなのをNHKや大手メディアが報じるわけがない >>324
人類の常識って彼が言ってるよ
これは覆すのは大変
太陽 北極星・・・・ >>304
>畿内説スレを荒らすしかなくなった九州説はもう実質終わりだろ<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
「南≠東」にも答えられず、テンプレの紹介も出来ずに、
「証拠は?」の連発でスレを荒らすしか出来なくなった大和説は、
もう実質終わりだろ。 日田の鉄鏡とか言う骨董品を光加速器SPring−8で測定しなさい。 >>347
まず誤字が0.5%というのがデタラメ
何と何を比べて0.5%なのか
咸平本魏志が編集される頃には魏志の元本は無くなっていた
梁書、日本書紀、太平御覧などの史書には
魏書曰くなどのその当時の魏志倭人伝を引用したと書いてあり
それらは共通して卑弥呼の遣使を景初三年と記している
史書の著者が見た当時の魏志倭人伝には卑弥呼の遣使が景初三年と書いてあったということ >>307
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説、
今夜も死亡 >>348
畿内には三角縁神獣鏡や
前方後円墳等の邪馬台国があった考古学的証拠がある
論より証拠 >>349
師出洛陽
三角縁神獣鏡に記銘してある文 >>308
「南→東」などのように、
稚拙な嘘しか付けない大和説が、
九州説に勝てる要素はなに一つなし >>351
ホケノ山の木棺サンプル5つは誤差を含んでだいたいAD120〜240年のものと
炭素14C測定で判明
副葬品にも古い銅鏡はあっても240年ごろに倭に伝わった三角縁神獣鏡がないので
2つの証拠から畿内のホケノ山古墳は240年以前に造営されたものと推定できる
畿内でよく見つかる三角縁神獣鏡には師出洛陽 魏の鏡師が作ったと記銘されていて
景初や正始元年など卑弥呼が魏に遣使したと史書にある魏の年号もあって
Spring8による分析では魏鏡と同成分と分析結果が出て
洛陽でも1面発見
卑弥呼の時代に畿内が魏と交流していた証拠 >>330
岡目八目って言うことだろう
どうも各説 宗教じみてるな
物証的には畿内は✖だと思う
どこから来たのか知らないが大和王政は奈良が発症だが邪馬台国では無いと思うよ オウム返ししかやれなくなった九州説が
畿内説に勝てる要素はない >>332
キャンキャン吠えながら逃げ回るしか
延命策のない畿内説
悲惨である >>310
>九州説も魏の年号が入っていて
魏の洛陽の鏡師が作ったとも書いてある三角縁神獣鏡に向かって
呉の楽浪鏡師が作ったと意味不明な事言ってないで
もう少し理性を働かせないと生き残るのは難しいぞ<
呉系楽浪鏡師らの渡来の根拠は「海東」鏡などの存在だよ。
勿論中国学者の「王」さんの意見も同じ。 畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ 『ポッターと謎の王子』?
観たことないんだけどw同じような設定、シーンがあったり、
『姥清水』『』・・・『』。 >>354
それで 卑弥呼の墓は畿内説では何処
魏使が前方後円墳を見て円墳だと思わないけど >>340
>荒らしはいるけど、すべてじゃ無いよ
>逃げる手だてが荒らしとしてるのなら
>あんた可笑しいよ
なら、荒らしじゃない投稿の番号みせて
九州さん、たまには精神論オンリーじゃなくて
物事すべて具体的に、お願い >>370
楽浪から見て倭は南
なので海東鏡は呉系楽浪鏡師ではなくて
倭が東となる魏の魏系洛陽鏡師が作った鏡
>>373
およそ7000基はある古墳のどれかの可能性は考えられる
古墳のほとんどは未調査のため確定は今のところできない >>317
>魏志倭人伝に
卑弥呼の墓の大きさは径百歩(約140m)<
魏使らは、始皇帝の「1歩=6尺」の度量衡を採用しておらず、
周代や魏朝や西晋朝の「1歩≒1足底長」の度量衡を採用しており、
径百余歩は25〜30m位。
>前方後円墳は卑弥呼の時代からの存在が確認<
卑弥呼の墓は「冢」であって、
前方後円墳は卑弥呼の時代よりずっと後であるから、×。 >>318
「南→東」などの嘘吐き騙しみたいに、
根拠まったく書けない大和説は
あきらかに、もう終わってるでしょ 前方後円墳ですが・・
前円後方墳でもいいと思いますがなぜ前方後円墳と言うのですか?
前方後円墳?OR前円後方墳?
前方後円墳?OR前円後方墳? >>363
三角縁神獣鏡・・・百枚なんですけど
前方後円墳・・・倭人伝に記述されてないけど >>331
>南→南でも
魏志倭人伝の邪馬台国までの行程は会稽東治の東
現代に当てはめると沖縄や台湾の辺りとなって九州説は破綻<
「会稽東治之東」はほぼ九州島付近だから、「沖縄や台湾の辺り」論は×であり、
大和説も破綻。 >>332
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、
キャンキャン吠えながら逃げ回るしか延命策のない大和説
悲惨である >>376
魏で使われていた1尺約24cmの定規や
度量衡を記した律歴志から
魏は1里=300歩=1800尺の尺度が使われており
1里は約430mと判明済み
>>379
畿内で見つかる三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡に
卑弥呼が魏と使者をやりとりしたと魏志倭人伝や史書に書いてある
景初三年や正始元年の魏の年号が記銘
魏志倭人伝に卑弥呼の墓は径百歩
約140mと書いてあり大きさが適合する前方後円墳や円墳が畿内に存在 >>375
>およそ7000基はある古墳のどれかの可能性は考えられる
畿内説って、真面目にこういうことを言ってしまうんだね。 >>339
>鉄鏡とか硯とか
何でも卑弥呼に結び付けて金を稼いでいるのは九州説だろう<
鉄鏡は「壹與」が貰った説だし、
硯は、九州が古く多く、
大和は「東征毛人五十五國」将軍らが九州から齎したものになる。 >>380
会稽東治の東は
現代に当てはめると沖縄や台湾の辺り
後漢書にも会稽郡は緯度がハワイと同じになる海南島の近くと書いてある >>357
>それ以前の問題として、あの鉄鏡が日田から出土したなんてのは古物商の作り話で
作り話だという根拠は? >>341
>九州説は全て荒らしだろうが<
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、全て荒らしだろうが。 >>376
なになに冢と名称がついてるもしくは分類されてる古墳は国内になし
前方後円墳であるホケノ山は木棺の炭素14C年代測定法と副葬品から
3世紀中葉と卑弥呼の時代のものと判明している >>313
持ち主がはっきりしている纏向を、関係がない邪馬台国に結びつけようとするキナイコシの精神構造が理解できない。 >>300
>Spring8による分析では
ここ、笑うところ? >>296
>そして畿内で見つかる三角縁神獣鏡には
>卑弥呼が魏に遣使した時代の魏の年号
九州の卑弥呼が、畿内の未開人を教化するために配ったんだよ。 >>291
>そこだけ見ると宮内庁ゴミカスに見えるけど
明治以降に畿内の古墳を立ち入り禁止にしたから、木が生い茂って根により古墳の破壊が絶賛進行中。
一方、九州北部の王墓は放置されて都市開発によりやはり破壊が絶賛進行中。
前方後円墳が一番多い都道府県は千葉県らしいが、誰も見向きもしないのでゴルフ場になった。 >>383
大規模な古墳はほとんど発掘される事がないから断定は不可能
しかし魏志倭人伝の記述にある径百歩に相当する3世紀の古墳は畿内に多数
九州にはなし
>>384
魏志倭人伝に鉄鏡も硯も下賜されたという記録はなし
あるのは銅鏡で
卑弥呼が魏と使者をやり取したと記録にある
景初や正始の魏の年号が入った三角縁神獣鏡や
画文帯神獣鏡が見つかる畿内こそ
邪馬台国であったという証拠
>>389
纒向には3世紀から王宮が存在しているということ
>>391
分布は畿内が中心
邪馬台国は連合国なので奈良を中心として畿内の各地域の首長に配布されたのだろう >>387
畿内説が畿内説スレ荒らしてどうするのかな
荒らす理由があるのは畿内説にどうやっても勝てない九州説 ポッター(シリーズ)、wikiで良いから見てみて。
龍宮〜寒いな・・・と同じでしょ。 良い金の元、金のなる木を見つけたなと言っている人がいたり。
とあるスレの話、書き込み、いたでしょ? ぽったー?読んだことも、観たこともないから、わからないんだけど。
例えば・・・・。
>透明マント
『てんぐのかくれみの』 >>393
憶測が多いですが・・・
例えば魏の紀年が入った鏡は奈良で出土してますか?
畿内に広げようとする意図もよくわかりません 畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ 三流大学で出身の
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ 地方公務員出身の
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ 村おこしを利用する
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ 物証的には巻向は大集落では無いのに
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ
畿内説互助会・・・・・・・・・・・・・・・・・困ったもんだ 日本昔話(えびす、だいこく・・・。)があるでしょ?
「俺を祀れ」と同じ。
何かの漫画の台詞『NARUTO』?それとも他の作品だったかな。 1、桃の種が3世紀と仮定しても
掘立柱建物群や水路が3世紀と断定する理由は何なのですか?
2、箸墓の周辺で見つかった土器の付着物が3世紀と仮定しても
箸墓が3世紀と断定する理由は何なのですか? >>406
質問いいかな
希薄という漢字の読み方はキウスでいいのですか? マキムク編年はオーソライズされてますか?
奈良県立橿原考古学研究所石野博信と、豊岡卓之の唱えた説でしかあり得ないのでは?
それを定説にして邪馬台国を語るには無理がありませんか? マキムク編年への反論にどう答えますか?
反論・・・・内外の学者から
↓
布留0式土器と古式新羅伽耶陶質土器とは共伴して出土している。
朝鮮の三国時代の陶質土器は瓦質土器よりも高温での焼成が可能となったもので、
慶尚南北道、新羅・加耶地域のものが日本列島に流入した。
地域性が発現する前のほぼ4世紀の慶尚南北道の「古式陶質土器」は馬韓や百済の土器とはかなり異なっているので、
馬韓・百済の土器と区別するために,武末純一がこれを古式新羅加耶土器と呼ぶことを提唱した。
その後5世紀初頭ごろ、古式新羅加耶土器は地域性が明確になり、新羅土器と加耶土器が分立するようになる。従って、古式新羅伽耶陶質土器はほぼ4世紀のものを指すので、石野博信らの布留0式土器が3世紀後半であるとの主張とは合わない。 >>367
>物証的には畿内は✖だと思う
どこから来たのか知らないが大和王政は奈良が発症だが邪馬台国では無いと思うよ<
賛同します >>399
奈良には無いです
悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
ここが問題です?
この国とは倭国を指すのか邪馬台国を指すのか意見の分かれ目ですが・・・・ 数年前に書いたことがあるんだけどw
『姥清水』
サイババのようなキャラも出てくるでしょ。 >>393
>邪馬台国は連合国なので奈良を中心として畿内の各地域の首長に配布されたのだろう<
畿内説の根本はこれで良いですね?wwww >>364
泉屋博古館の発表ですか?
問題点も多くありますが・・・・ 『NARUTO 自殺』
ドラムの達人(神?)のネタでしょ、あの曲。
ロシアが何やらという話。 数年前の陰謀スレ
「生きてたのか!もう私ではない」
「何度も言いました、そういうことなんだっつーの」
「(神様)真似なんてしているから、こんなことになってしまった」
このような謎の書き込みw ほとんど同じような話でしょ。
王子、龍宮〜長い竿・・・、兄もいるしな・・・・・w 龍宮〜傾いた松の木(もみの木?)・・・寒いな〜・・・の家。
川崎区の南部のほうに住んでいて、謎の写真なども同じ。 (写真の当時)軍人なのか、何なのか・・・不明。
でも、なぜか同じ。 九州さんは何故いつも呟きに変身するのだろうね
理由は、明らかだが >>361
>まず誤字が0.5%というのがデタラメ 何と何を比べて0.5%なのか<
何度も書いた。三国志の、「注を含めた総文字数の推定80万字の内の、
宋明清代の校勘対象になった総文字数も4千字余りの割合」だ。
>咸平本魏志が編集される頃には魏志の元本は無くなっていた <
当たり前だ。だから、宋明清代の校勘学者らは、古本古形を求め続けたのだ。
>梁書、日本書紀、太平御覧などの史書には
魏書曰くなどのその当時の魏志倭人伝を引用したと書いてあり<
後代史書の「三国志の文字や文を書き換えた形になっている部分」は、
全て、三国志写本を「自己解釈に拠る書き換えを実行した」部分になり、
当然正確な写本引用になっておらず、半分×書部分だ。
>それらは共通して卑弥呼の遣使を景初三年と記している
史書の著者が見た当時の魏志倭人伝には卑弥呼の遣使が景初三年と書いてあったということ<
後代史書の「三国志写本の書き換え」になっている部分は、陳寿原本に近い事になならない部分だ。 >>363
>畿内には三角縁神獣鏡や前方後円墳等の邪馬台国があった考古学的証拠がある
論より証拠<
畿内も邪馬台国の存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
この男も嘘吐き騙しの×男であり、
大和の△は4世紀以後であり、前方後円墳は3世紀末の庄内1の石塚など以後だから、
「南≠東」などに拠っても、卑弥呼とは直接的に関係がないものだ。 >>364
>師出洛陽
三角縁神獣鏡に記銘してある文 <
「師出洛陽」という文言を記銘しなければならなかった、という事は、
その作者の鏡師は、洛陽以外の地にあって、
「自分が洛陽出身である事を書いて自慢しなければならない」
という事が起きた場合に起こり得る事である。 >>366 貼り付けは貼り付けでお返し
>ホケノ山は炭素14C年代測定法で木棺のサンプル5つを計測したところAD120〜240年と判定<
寝かせ期間と「樹皮〜採取部位の年輪数」だけ50〜100年数100位のプラスが必要であり、
AMS法のプラズマ化の失敗に拠っても50〜100位のブラスが必要であるから、100〜200年位のプラスになり、
だから220〜440年位になり、中間値でも330年位になり、ほぼ4世紀になる。
>棺内に他の鏡はあれど240年に倭に渡来した三角縁神獣鏡が含まれない事から240年以前の古墳と判定<
△は、渡来した呉系楽浪鏡師の陳氏らがまず関与した鏡であり、
彼やその弟子らは景初四年鏡を造り、更に大和の鏡作り神社での粗悪な△作りにも関与した。
>三角縁神獣鏡は編年が進み現在では出土した古墳の年代判定の目安にも使われている <
考古編年など絶対年代の絶対的根拠にならず、大和の△が4世紀以後である事だけからでも、×。
>畿内の古墳3基だけでも500点以上の鉄器が出土<
ほぼ4世紀の古墳。
>三角縁神獣鏡は蛍光分析器Spring-8の調査によって中国鏡の魏鏡と同一素材のものが使われていると判明<
列島に来ていた呉系鏡師らの、手持ちの材料銅や、
列島内に残存していた銅器材料からの成分比が、 徐州銅などと近縁であった、というだけ。 >>368
>オウム返ししかやれなくなった九州説が
畿内説に勝てる要素はない <
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、この大和説者は×男であり、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説は、
九州説に勝てる要素がない。 >>374
>なら、荒らしじゃない投稿の番号みせて
九州さん、たまには精神論オンリーじゃなくて
物事すべて具体的に、お願い <
「畿内」や「邪馬台国」なんて、
存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使うスレ主や大和説投稿者は、全て荒らしであり、
「南→東」などの史料事実の否定や曲解をする大和説投稿者も、全て荒らしだよ。 >>422
>後代史書の「三国志の文字や文を書き換えた形になっている部分」は、
>全て、三国志写本を「自己解釈に拠る書き換えを実行した」部分になり、
それ、何か根拠あるの?
伝統的にすべての学者が否定してきてる意見だけど
そもそも「自己解釈」って言葉ないし >>427
>「畿内」や「邪馬台国」なんて、
>存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使うスレ主や大和説投稿者は、全て荒らしであり、
>「南→東」などの史料事実の否定や曲解をする大和説投稿者も、全て荒らしだよ。
つまり九州説では「荒らし」という言葉を
世間とは全く違う意味で使っていて
自分の説に反対する者の言うことを「荒らし」とレッテル貼って言論弾圧しようとしているんだね?
それは、何とも独善的で反社会的だねえ
そういうのを世間じゃファシストというんだよ >>375
>楽浪から見て倭は南
なので海東鏡は呉系楽浪鏡師ではなくて
倭が東となる魏の魏系洛陽鏡師が作った鏡 <
「海東」鏡は、海東に至ってからその鏡を造った、という事を証言する鏡。
だから、その鏡の出土した列島の西にある呉付近が、その鏡師の出身出発地。
また、洛陽鏡師であれば、渡海のような危険は最小限にするものであり、
遼東楽浪経由の「殆ど陸路」で倭地の入り口の狗邪韓国に達する筈であり、
渡海は倭地内で起こるのであり、
また「海東」なんて文言を記銘する筈もない。
また、古代においては、呉地から列島への渡海は、
倭地への直接的な渡海は遭難の危険が非常に多く、
殆どは、山東半島→長串岬の渡海や狗邪韓国から九州への渡海である。 >>375
>およそ7000基はある古墳のどれかの可能性は考えられる
古墳のほとんどは未調査のため確定は今のところできない <
何だ?、類スレ主らは、箸墓説やホケノ説を諦めていたのか。 >>409
>マキムク編年への反論にどう答えますか?
>反論・・・・内外の学者から
内外の学者って、誰?
「ほぼ4世紀の慶尚南北道の古式陶質土器」
とか初耳だけど >>382
>魏で使われていた1尺約24cmの定規や<
(尺寸系の)尺定規は、5〜6倍も違うような大きな変化などなく、
せいぜい1〜2割増程度の僅かな変化であり、問題にならない。
>度量衡を記した律歴志から
魏は1里=300歩=1800尺の尺度が使われており1里は約430mと判明済み <
律歴志の記載は、魏の役人や魏朝の使用「里」の長さと5〜6倍位大きいから、
おそらく始皇帝里を使った民間学者の書であり、魏使らの記録の根拠にならない。 >>430
>また、洛陽鏡師であれば、渡海のような危険は最小限にするものであり、
>遼東楽浪経由の「殆ど陸路」で倭地の入り口の狗邪韓国に達する筈であり、
無知ゆえの妄想
遼東や朝鮮は中国で伝統的に海東と呼ばれている
九州説は、だいたい無知による妄想で出来ている >>382
>畿内で見つかる三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡に
卑弥呼が魏と使者をやりとりしたと魏志倭人伝や史書に書いてある
景初三年や正始元年の魏の年号が記銘<
畿内ではなく、大和からは 、
「景初三年や正始元年の魏の年号が記銘」鏡が出ておらないから、×であり、
「景初三年や正始元年」は、明帝の詔書の景初二年12月よりも後であるから×であるし、
いずれも、渡来の呉系楽浪鏡師の陳氏らの製作鏡である。
>魏志倭人伝に卑弥呼の墓は径百歩
約140mと書いてあり大きさが適合する前方後円墳や円墳が畿内に存在<
「約140m」が×。
魏朝の「歩」は大体「1足底長」位であるから、約25〜30m位。 >>433
>律歴志の記載は、魏の役人や魏朝の使用「里」の長さと5〜6倍位大きいから、
根拠ないよね?
出せないよね?
いつもどおり
突然どこからともなく出てきた結論
言い張ってるだけだよね?
九州説独特の珍読珍解釈より5〜6倍位大きいだけでしょ >>435
>魏朝の「歩」は大体「1足底長」位であるから、約25〜30m位。
根拠ないよね?
出せないよね?
いつもどおり
突然どこからともなく出てきた結論を
まるで決定事項みたいに
言い張ってるだけだよね?
九州説は、いつもそう >>435
>畿内ではなく、大和からは 、
>「景初三年や正始元年の魏の年号が記銘」鏡が出ておらないから、×であり、
当然それもウソでしょ?
いつもの「畿内説考古学者の言うことは認めない」
ってだけ >>385
>会稽東治の東は現代に当てはめると沖縄や台湾の辺り <
「東治」は、地名固有名詞ではなく、普通名詞の合成語であり、
「会稽東治」は「会稽の東の治」という意味になるから、
間違いなく(会稽の南ではなく)会稽の東を指しており、
「沖縄や台湾の辺り」説は、全く×。
>後漢書にも会稽郡は緯度がハワイと同じになる海南島の近くと書いてある<
後漢書の「魏志を自己解釈に拠る書き換え」を実行した部分は、
魏志の根拠にならず、
半分偽書。 >>425
>考古編年など絶対年代の絶対的根拠にならず、
理由なし
理屈抜き
とにかく、何がなんでも認めない
それが九州説なんだよね >>411
>ここが問題です?
>この国とは倭国を指すのか邪馬台国を指すのか意見の分かれ目ですが・・・・
意見、分かれてる?
聞いたことが無い 邪馬台国畿内説は、具体的な根拠が無い、狂った者達の集団妄想なのだったな。 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している、朝鮮民族の卑劣な奥山氏が、無職である強みを活かし、24時間体制での宣伝活動を繰り返しているな。 >>388
>なになに冢と名称がついてるもしくは分類されてる古墳は国内になし<
列島での「冢=錐体台状の墓」としては、祇園山がある。
>前方後円墳であるホケノ山は木棺の炭素14C年代測定法と副葬品から
3世紀中葉と卑弥呼の時代のものと判明している <
「木棺」は、寝かせ期間と「樹皮から採取部位の年輪数」とプラズマ化の失敗により、
100年位古い年次が出てしまっており、実際は4世紀であり、
副葬品も、庄内3〜布留であるから、新しい方の4世紀であり、
画文帯は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らに拠る伝世副葬品であり、
4世紀頃。 >>443
奥山氏は、深夜になると、不可解な呟き行為で宣伝活動を繰り返すのだったな。 >>408
>マキムク編年はオーソライズされてますか?
>奈良県立橿原考古学研究所石野博信と、豊岡卓之の唱えた説でしかあり得ないのでは?
公的機関から報告書が出ているのだから
反対する意見の論文とか学会発表されて支持受けた状況とかが皆無な以上
それでオーソライズされてないと考える人は
たぶん頭がまた変なのだと思われ
>それを定説にして邪馬台国を語るには無理がありませんか?
定説なら無理ないでしょ >>399
魏の記年鏡の出土を逆に奈良に狭める意図は
ここは邪馬台国は畿内とする邪馬台国畿内説スレ
そして九州に魏の記年鏡は出土しているのかな >>445
>奥山氏は、深夜になると、不可解な呟き行為で宣伝活動を繰り返すのだったな。
おいおい
深夜に不可解なこと呟いてるの、あんただろ
バレてないとでも思ってるなら医者が要るぞ >>444
>列島での「冢=錐体台状の墓」としては
素人オジンのお手製定義が他人に通用する余地はゼロ >>422
魏志の元本が無くなった頃の写本同士を比較しても無意味
そして魏書曰くと魏志倭人伝を引き写しにしたと書いてある
梁書、日本書紀、大変御覧などの数百年違う史書の倭人伝は互いに内容が共通しているので
それぞれの史書の著作者の見た魏志倭人伝は後年のものと違い
卑弥呼の遣使は景初三年と書いてあったということ >>423
畿内の三角縁神獣鏡には魏の年号で景初三年
239年と記銘されていて3世紀に相当
これを積極的に否定する根拠となるようなものは何も見つかっていない >>424
洛陽の地で鏡を作ったから
師出洛陽 洛陽の鏡師が作ったとも言える
事実三角縁神獣鏡が洛陽で出土している >>425
ホケノ山の木棺サンプル5つは誤差を含んでだいたいAD120〜240年のものと
炭素14C測定で判明
副葬品にも古い銅鏡はあっても240年ごろに倭に伝わった三角縁神獣鏡がないので
2つの証拠から畿内のホケノ山古墳は240年以前に造営されたものと推定できる
畿内でよく見つかる三角縁神獣鏡には師出洛陽 魏の鏡師が作ったと記銘されていて
景初や正始元年など卑弥呼が魏に遣使したと史書にある魏の年号もあって
Spring8による分析では魏鏡と同成分と分析結果が出て
洛陽でも1面発見
卑弥呼の時代に畿内が魏と交流していた証拠 >>430
作った鏡が海東に至ったという意味かも知れない >>424
「師出洛陽」という文言を記銘した、という事は、
「自分が洛陽出身である事を書いて自慢し・・・」
という事が起きた場合、である。
まさしくその通り、「玉出崑崗」(玉は崑崗からいずる)という類例もある。 >>452
>金生麗水 玉出崑岡 (きんせい れいすい ぎょくしゅつ こんこう)
金は麗水(川の名)に産出し、玉は崑岡から掘り出される。
ともに天地の恵みである。
金も玉も最高の産物。自然の恵みについて、最も分かりやすい例証を挙げたのである。
「麗水」は今の浙江省にある川。砂金が採れた。 「崑岡」は崑崙山。古くから璧玉の産地とされてきた。 >>455
>「師出洛陽」という文言を記銘した、という事は、
>「自分が洛陽出身である事を書いて自慢し・・・」
>という事が起きた場合、である。
つまり呉鏡説は無理 >>446
マキムク編年が定説だと言う根拠を示すべきではないの
内外=畿内説内部 外部=他説
でも統一されていないのを定説とするのは飛躍しすぎである
説は説として認めるべきだろうが、
それ以上でもそれ以下でもない・・説
反論は武末純一氏などが述べている
また公的機関の発表と真実は別物である。
特に地方自治体の場合では注意する必要がある
こぞって、邪馬台国は我が地にありなぞと宣伝する >>460
>マキムク編年が定説だと言う根拠を示すべきではないの
だからテンプレにあるでしょ
>内外=畿内説内部 外部=他説
>でも統一されていないのを定説とするのは飛躍しすぎである
統一されてないって根拠は?
>反論は武末純一氏などが述べている
いつ、どこで?
何と言って? >>438
奈良から魏の時代の銘鏡が発見されたとでも言うのかな >>441
>>393
>邪馬台国は連合国なので奈良を中心として畿内の各地域の首長に配布されたのだろう<
畿内説の根本はこれで良いですね?wwww 九州説の特徴
・ボンヤリとした概念を捲し立てるだけで断定しようとし、具体的なことは何も言わない
・情報の出所はいつも不明
・そして絶対に証拠は出さない >>460の
いや、この人そもそも
「マキムク編年」ってなんだか知らずに言ってないか? >>462
>奈良から魏の時代の銘鏡が発見されたとでも言うのかな
されてますが、何か? >>434
>遼東や朝鮮は中国で伝統的に海東と呼ばれている <
博識の君に問うが
いつの年代から?どの文献から? >>460
>また公的機関の発表と真実は別物である。
オーソライズされてるか、どうか
の話じゃなかったのか
あんた、頭へんだろ >>393
>大規模な古墳はほとんど発掘される事がないから断定は不可能<
大和の前方後円墳は、石塚の3世紀末以後であり、
「南≠東」などに拠っても、卑弥呼の墓は否定される。
>しかし魏志倭人伝の記述にある径百歩に相当する3世紀の古墳は畿内に多数
九州にはなし<
「径百余歩」は、1歩≒1足底長であるから、25〜30mであり、
祇園山含め、かなり古くから、九州にはいくつもある。 >>467
>いつの年代から?どの文献から?
三国志で何か問題でも? >>469
>大和の前方後円墳は、石塚の3世紀末以後であり、
素人オジンが
理由も言わずに断定しても
意味なし >>393
>魏志倭人伝に鉄鏡も硯も下賜されたという記録はなし<
鉄鏡は、おそらく壹與への下賜鏡。硯は、おそらく下賜されない。
>あるのは銅鏡で
卑弥呼が魏と使者をやり取したと記録にある<
やりとりなんかしない。明帝が卑弥呼に銅鏡百枚を贈っただけ。
>景初や正始の魏の年号が入った三角縁神獣鏡や
画文帯神獣鏡が見つかる畿内こそ邪馬台国であったという証拠<
畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
「景初や正始の魏の年号が入った三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡」はは、
大和からは出土していない。 「師出洛陽」は
「私の先生は洛陽の尚方で技術を習った人だ」
という自慢話だろw >>461
テンプレは定説じゃねーし
誰か説の引用だから定説と決めつけるのはいかん
また、畿内説を唱える学者がすべてマキムク編年に賛同してると言う証拠でもあるのかな?
武末純一氏・・・・研究課題/領域番号 20242024の中で述べてるよ >>474
九州説は無学でないと入信できないらしい >>475
>武末純一氏・・・・研究課題/領域番号 20242024の中で述べてるよ
なんと?
また秘密?
九州さんらの大好きな捏造? >>477
>会稽東治の東は鹿児島だよ。
九州説はまた根拠を言わない
たぶん捏造 >>475
>また、畿内説を唱える学者がすべてマキムク編年に賛同してると言う証拠でもあるのかな?
反対してる人、いる?
具体的にどうぞ >>466
奈良のどこで?魏の時代の元号入ってるの?
言い張るのはいいが証拠を出せよ >>475
有名人の名前だけ出して内容を全く言わないのは
たぶん九州説のサギ行為だな >>485
>知らないのはアンタww
知ってるなら説明できるよね
してごらん
出来ないでしょ >>487
>三角縁神獣鏡の銘文自体がアホらしいみたいだからねw
無知ゆえの妄想 >>475
武末純一は西暦250年から古墳時代と主張してる典型的通説派だが、何か? >>393
>纒向には3世紀から王宮が存在しているということ<
九州倭國の「東征毛人五十五國」の、「倭国の別種の旧小国」の将軍らの宮。
>分布は畿内が中心
邪馬台国は連合国なので奈良を中心として畿内の各地域の首長に配布されたのだろう <
畿内も邪馬台国なんても存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍や武将らに下賜された鏡だろう。 >>394
>畿内説が畿内説スレ荒らしてどうするのかな<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であり、
荒らす理由があるのは「南≠東」などに拠って、
九州説にどうやっても勝てない大和説者。 >>480
上海の南、銭塘江の対岸あたりだってさ。 >>493
>荒らす理由があるのは「南≠東」などに拠って、
とか連呼するだけて畿内説にまるで歯が立たない九州説だな、荒らし犯人はさ >>495
>上海の南、銭塘江の対岸あたりだってさ。
何が?
あなた日本語ダメの人? 九州説の特徴
・理由を言わずに断定しようとし、具体的なことは何も言わない
・情報の出所はいつも不明
・そして絶対に証拠は出さない >>500
>妄想の根拠は?www
妄想って、ふつう根拠なくね? >>479
日韓集落の研究-弥生・古墳時代および無文土器〜三国時代
これのことだよ それよりも『歯車』という作品、読んでみた?
『小説 歯車』調べると出てくるから。 >>483
武末純一 研究課題/領域番号 20242024でググったら
日韓集落の研究-弥生・古墳時代および無文土器〜三国時代-が出てきた
たぶんこれのことだろう
読んだこと無いがね >>503
つまり纏向編年に反論とか言ってたのな真っ赤なウソということで、FA? >>484
巻向に集約された銘鏡が分散したとでも言いたいの 有名人の名前パクっただけで九州説は何も情報持ってないとバレたな >>498
480へのレスを受けての事だから
会稽東治の東のこととわかりそうなものだが? >>486
お前はアホか
巻向編年にかかわる著書読めばいいだけじゃん
貼り付けてやってもいいが・・すごーーーい長文になるぞ >>482
桜井茶臼山古墳から正始元年銘鏡
これ常識 >>514
>HPの引用してあるだろw
どこに、なんと?
HPって、どこの?
あんた日本語ボロボロだな 巻向編年は
奈良県教委や桜井市教委の一部地域の定説でいいんでねーの 巻向編年は
奈良県教委や桜井市教委が唱える「纒向いなか定説」でいいんでねーの >>509
巻向編年でググるといいよ
一応
>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/11 22:58 UTC 版)
纒向編年(まきむくへんねん)とは、日本の奈良県桜井市に所在する纒向遺跡において、
発掘調査を担当した奈良県立橿原考古学研究所石野博信と、豊岡卓之による纒向遺跡出土の弥生土器・土師器を分類・整理して得られた編年である。1類から5類に区分されるが、暦年代については必ずしも考古学会で定説とは認められていない。> 結局また九州説はいつものアレだな
証拠は絶対出さない
情報の出所は不明
具体的なこのは何も言わない
要するに、デマ >>522
そんな無記名の自由掲示板を引用して、なんの意味あるの? つまり250年から古墳時代と言ってる武末の名前パクってニセ情報流したわけだな九州説は
困った奴らだ >>409
>布留0式土器と古式新羅伽耶陶質土器とは共伴して出土している。
朝鮮の三国時代の陶質土器は瓦質土器よりも高温での焼成が可能となったもので、
慶尚南北道、新羅・加耶地域のものが日本列島に流入した。
地域性が発現する前のほぼ4世紀の慶尚南北道の「古式陶質土器」は馬韓や百済の土器とはかなり異なっているので、
馬韓・百済の土器と区別するために,武末純一がこれを古式新羅加耶土器と呼ぶことを提唱した。
その後5世紀初頭ごろ、古式新羅加耶土器は地域性が明確になり、新羅土器と加耶土器が分立するようになる。
従って、古式新羅伽耶陶質土器はほぼ4世紀のものを指すので、
石野博信らの布留0式土器が3世紀後半であるとの主張とは合わない<
ふーん。
「古式新羅伽耶陶質土器はほぼ4世紀のもの」だ、という意見があったのか。 >>522
>暦年代については必ずしも考古学会で定説とは認められていない。
ウソは書いてない
今の通説は3世紀中頃から古墳時代ということで、も少し繰り上がってるからね >>513
NHK に聞いてみたら
俺は録音してあるから今一度見たが確かに周教授が言っている >>526
>ふーん。
>「古式新羅伽耶陶質土器はほぼ4世紀のもの」だ、という意見があったのか。
ないよ
九州説素人の創作だろう 畿内説の爺さんは駄目だね
ロクに調べもせず
根拠は?何処で?誰が?・・・連発
だから自滅していくのだよ >>530
根拠聞かれて答えられない九州説が即死してるんだよ >>528
>NHK に聞いてみたら
NHKの、なんて番組? >>528
>俺は録音してあるから今一度見たが確かに周教授が言っている
要するに九州説はまた一切証拠が出せないと?
またかよ九州説 結論出ました
九州説は、古式新羅伽耶土器を西暦250年よりすこし前からとしている武末純一の名前を盗用し、にせの情報を流して纏向編年を中傷しようとしたが露見し、失敗した
こうして九州説はまた信用を失墜させた 歯車・・・?ほんとーに何の話なんだろう。
タイプライタアの話も出てくるし。
『タイプの音だけが ナルシスト』 >>539
九州説に出来ること
デマ
中傷
悪口
同じか >>532
めんどい人ですね
再度録画みたから投稿するよ
去年の5月10日放送
「諸説あり!邪馬台国スペシャル」
副題・・中国史の学者が断言 邪馬台国はここにあった >>545
事実は事実として認識すべきだろう
高校講座の日本史の番組で「証拠がない」と言ったのは事実だからしょうがない
NHKのウェブサイトで過去の放送見られるから見てみなよ >>545
BSNHKだけどなんか問題あるのかな? いくらわめいてもキナイコシは無職の負け組
キナイコシは税金にたかるダニ
毎日ひたすら他の日本人を罵倒することに没頭する日本社会のお荷物、反社会勢力 無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職 >>549
>高校講座の日本史の番組で「証拠がない」と言ったのは事実だからしょうがない
ウソ
実際には
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
04;00
「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。」 >>555
中国人というだけで特に専門家でもない人がそう言ったが根拠は不明である
って認識で、いい? 『すらいむ・ぷりーず』もれ(仮)の好きな曲。
なぜか、そのドラムの達人(不明)の曲と同じだしな・・・・・・・・・・・・・。 奥山は受信料を払ってないからNHKは見れないんだよ もれ(仮)の好きな曲・・・w
『すらいむ・ぷりーず』・・・・『』『』『』 (老婆談)ブラジルの話もしていたり・・・竿パウロ? >>450
>魏志の元本が無くなった頃の写本同士を比較しても無意味<
写本での個々の文字の誤字発生確率は、0.5%位であり、
後代史書の前史への「自己解釈に拠る内容説明的書き換え」部分はほぼ100%の誤字。
>そして魏書曰くと魏志倭人伝を引き写しにしたと書いてある <
「記す」なら転写もあり得るが、
「曰く」という文言は「内容説明的な書き換え」だな。
>梁書、日本書紀、大変御覧などの数百年違う史書の倭人伝は互いに内容が共通しているので<
全く同じものはないし、梁書の景初三年に引きずられただけで、
通典は逆に「 魏明帝景初二年、司馬宣王之平公孫氏也、倭女王始遣大夫詣京都貢獻」と書いて、
梁書や書紀や翰苑を否定している。
>それぞれの史書の著作者の見た魏志倭人伝は後年のものと違い
卑弥呼の遣使は景初三年と書いてあったということ<
高慢な後代史家の「自己解釈に拠る写本記載の書き換え」は証拠にならない、
という事。 >>565
>写本での個々の文字の誤字発生確率は、0.5%位であり、
写本が残ってないのに、そんな誤字発生確率どうして算出できる
あり得ないだろ >>451
>畿内の三角縁神獣鏡には魏の年号で景初三年
239年と記銘されていて3世紀に相当
これを積極的に否定する根拠となるようなものは何も見つかっていない<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×であるし、
大和の△は、4世紀であるからこれも×であるし、
△自体が、呉系鏡であって、明帝下賜鏡たり得ず、
「海東」鏡などに拠って、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。 >>568
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! 『ドンバ』(てんぐてんぐ?)
>また事件があると「オイトマン(「8マン」のパロディ)」
>と呼ぶ姿に変身して捜査する。 >>568
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>568
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>568
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>568
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>568
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>565
>高慢な後代史家の「自己解釈に拠る写本記載の書き換え」は証拠にならない、
自己解釈という言葉の意味が不明
そんな言葉はない
「高慢な」って根拠もない
「自己解釈」は意味不明
「写本記載の書き換え」だという根拠もない
つまり「証拠にならない」と言い張っても
説得力ゼロ >>568
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>568
>畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×であるし、
畿内が存在しないとか
意味不明なこと
理由も言わずにわめかれても
誰があなたを信用するの? >>560
九州説よ現実を見ろ
お前が詐欺師とバレてるぞ
実際の放送は
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
04;00
「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。」 九州説がウソをつく
すぐバレる
呟き荒らしがスレ流し
これ、いつものパターンな >>453
>ホケノ山の木棺サンプル5つは誤差を含んでだいたいAD120〜240年のものと
炭素14C測定で判明<
寝かせ期間と「樹皮〜採取部位の年輪数」だけ50〜100年数100位のプラスが必要であり、
AMS法のプラズマ化の失敗に拠っても50〜100位のブラスが必要であるから、100〜200年位のプラスになり、
だから220〜440年位になり、中間値でも330年位になり、ほぼ4世紀になる。
>副葬品にも古い銅鏡はあっても240年ごろに倭に伝わった三角縁神獣鏡がないので
2つの証拠から畿内のホケノ山古墳は240年以前に造営されたものと推定できる<
関係がない。庄内1の石塚が3世紀末であるから、庄内3〜布留のホケノは、3世紀最末〜4世紀。
>畿内でよく見つかる三角縁神獣鏡には師出洛陽 魏の鏡師が作ったと記銘されていて<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
師出洛陽は出身地を自慢しただけで、その鏡の製作地を示しておらず、
△自体が、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
>景初や正始元年など卑弥呼が魏に遣使したと史書にある魏の年号もあって<
卑弥呼の遣使は景初二年であり、明帝の詔書は景初二年12月だから、
景初三年鏡や正始元年鏡は明帝鏡ではなく、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
>Spring8による分析では魏鏡と同成分と分析結果が出て<
呉系楽浪鏡師らの使用材料銅の成分の比が近似的になっていただけ。
>洛陽でも1面発見<
0〜1個では、列島の500枚位の△の根拠にならない。 卑弥呼の時代に大和が魏と交流していなかった証拠 キュウリの葉、葱の華。
あの写真の家の話だと言っているのに、
馬に乗り・・・腰に刀を差していたとか・・・。
何かの制服のようなものを着ている子供がいて。
家の話(写真)みたいなんだけど・・・よくわからない話ばかり。 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している無職の朝鮮民族である、卑劣な奧山氏は、「連続句読点を使用する者が複数いること」も、「奥山氏が無職であることを批判的に指摘する者が複数いること」も、まだ気づいていないのだな。
559日本@名無史さん2020/01/10(金) 11:04:33.58
>>553
名乗るなよ連句点
知ってるから つまり、NHKは、邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が、見つからない事を発表したのだな。
そして、同じ番組放送での、纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという発表は、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法だったな。。。 >>579
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
04;00
>「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が見つかっ>ていないため、いまだ結論は出されていないのです。」
もちろん、畿内も証拠が見つかっていないのです。 ・・・ここがもっとも肝心かなめ。 >>585
巻向遺蹟は、何十年もかけ、莫大な税金と人員を投入し、200回程もの発掘調査を実行したのだが、邪馬台国畿内説の具体的な証拠を発見出来なかったのではないのかな、、 龍宮・・・傾いた松(もみの木?)・・・寒いな・・・・、
このような名前の家w・・・何なんだろう。 >>585
NHKが放送した
「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。」
を
>つまり、NHKは、邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が、見つからない事を発表したのだな。
に変造したら
確実に詐欺だよな >>590
>纏向は古墳造営キャンプ場だと学者が言ってたよな
いや、纏向は倭国(阿波)の「古墳造営前線基地」である。 @阿波 上の名前の読み方?なども、
何か言っていたような気がするんだけど、
傾いた松の木?・・・写真。 ま、「近畿説」とか言ってる時点で、あんまり学問的に厳密な話をする人が脚本書いてないってことは判るけどね >>590
>纏向は古墳造営キャンプ場だと学者が言ってたよな
前世紀にね >>589
畿内は、よそとは違うと力説したいのか。
残念ながら、そうはいかん、よそと同じの並みどんぶり・・・。 『鳳輿』ググると、すぐに出てくる。
龍宮・・・・・・・・・・傾いた松の木。 邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、このスレッドでは、バンビシャスが、活発化するためには、どうすれば良いかを討論すれば良いな、、 近畿圏の人種は朝鮮人だとDNAで判明している
中国系ではなくバイカル湖から南下してきた民族の末裔だとか >>555
諸説あり!邪馬台国ならdailymotionに動画がUPされている。 「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。」という文章の意味には、
「邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が、見つかって無い。」という要素を、完全に含むのだったね。。。 今頃になって、冷蔵庫からカズノコを見つけてしまったが、塩抜きしてまで食べる気がしないな。 邪馬台国は福岡でしょ
東大もその見解でしょ?
で熊本が敵対関係の犬狼信仰の縄文人の狗奴国 つまり、NHKは、邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が、見つからない事を発表したのだな。
そして、同じ番組放送での、纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという発表は、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法だったな。。。 dailymotion取り消し。2年前って書いてあるわ。古い。 奧山氏は、スレッドに、奥山氏以外の者が1回意見を発表すれば、1円貰えるのだったな。 >>605
邪馬台国畿内説を宣伝するためのテンプレートが、完全に論破されてしまった、朝鮮人の奥山氏の為に、このスレッドで素数の研究をし、意見をたくさん発表してあげればよいな。 年末に購入した食材で乱れた冷蔵庫の中の物体を、整理した方が良いな。 『シェリフ』・・・(不明)・・・『ウラシマン』なぜか同じ。 テレビ朝日やTBSはやらせ番組が問題になり
相次いで放送打ち切りになった 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! >>473
あれ九州説は
魏の使者が倭国にきて短里で正確無比に距離を記録していったと言ってなかったか >>558
BSでの紹介・・・・
王珍意(畿内説)
洛陽の骨董市で三角見つけた人 自称古代史研究家 三角は自宅で保管
ザン コクワ教授(九州北部説)
中国教育部人文社会科学重点基地(日本の文部科学省に当たると紹介
古代中国の見識が深く中国古代文字研究の権威 世界漢字学会会長
チン チョウギ教授(九州説)
中国魏晋南北朝史学会副会長
シュウ トクボウ(九州説)
台湾大学政治学研究所教授 専門は中国史 考古学学会が冷静に判断すりゃ、山タイ国は奈良だろうな
福岡には、トンネルの入口があったんだろ 考古学学会に熱造があったのは認めるが、要するにマスコミも含めた同町圧力だよ
毎日が石器人をキャンペーンしてただろう
あれさ
個人だけでどうこうできるもんじゃねえし
山タイ国が奈良に決定しないのは、同町圧力が考古学学会にかかっているからだよ >>454
>作った鏡が海東に至ったという意味かも知れない<
ないな。
「吾作明竟 眞大好 浮由天下□(敖)四海 用青同 至海東」であり、
そこに書かれた「作」や「浮由」や「用」や「至」の動詞の主語は、
全て、「吾」という人間であり、その人の行動を示します。
つまり、海東に至ったのは、「明竟」を作った「吾」です。
中国にいる鏡師が、列島からの注文で >>464
大和説の特徴
・ボンヤリとした概念を捲し立てるだけで断定しようとし、具体的なことは何も言わない
・情報の出所はいつも不明
・そして絶対に「南→東」などの嘘つき騙しの証拠は出さない >>320
>「なっており」って
>いつ誰がそんなこと決めたの?
もちろん「中華所局標点本」で、だよ >>356
>マキムクは古墳造営基地で決着したのだよ
列島最大の巨大古墳の造営基地というだけで、その周辺に王都があることが確定
それ、畿内説に対する何の批判にもならないんだよ? >>357
>それ以前の問題として、あの鉄鏡が日田から出土したなんてのは古物商の作り話で
>実際には入手ルート不明の考古遺物だから参考程度にしかならない
一応、ダンワラ古墳出土鏡で、日田市立三芳小学校に寄贈されたものと同一であろうという
鑑定はなされているよ >>373
>それで 卑弥呼の墓は畿内説では何処
>魏使が前方後円墳を見て円墳だと思わないけど
思うよ
これの右の円丘頂部に埋葬されていると知っていれば、墓は円丘部分と認識する
https://i.imgur.com/yYNv3Ht.jpg
前方後円墳という言葉に現代人は引きずられるが、前方部と後円部をつなぐくびれの
部分は初期古墳ではかなり低い(中期古墳以降のものは低くならない) >>391
>九州の卑弥呼が、畿内の未開人を教化するために配ったんだよ。
それだと、九州から申し訳程度の少数しか出土しない理由が説明できないんだよww >>623
>その周辺に王都があることが確定
その「考古学的証拠」ってなに? @阿波 >>400-404
この手の連呼系のコピペ荒らしは、連続句読点の仕業 >>306
>掘立柱建物群や水路が3世紀と断定する理由は何なのですか?
桃の種が発掘された大型祭祀土坑は、建物が廃されたのちのものなので、
当然建物の方が古くなる
纏向大溝については、最下層の出土物が畿内第V様式土器なので当然にもっと古い
>箸墓が3世紀と断定する理由は何なのですか?
その土器の出所が、箸墓の周濠の堆積物最下層だから、
その造営年代の指標と考えることができる >>451
>これを積極的に否定する根拠となるようなものは何も見つかっていない
九州説の言う否定する消極的な根拠としては、
・出土する三角縁神獣鏡は伝世鏡ばかりで4〜5世紀の古墳が多い
・3世紀以降ではあっても3世紀とは限らない
ってのがあるよ >>462
>奈良から魏の時代の銘鏡が発見されたとでも言うのかな
これ
https://i.imgur.com/o88OZS6.jpg
出土してるね 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html >>465
>「マキムク編年」ってなんだか知らずに言ってないか?
纏向編年「纏向1類〜5類」
これのバージョンアップが
庄内0〜3式、布留0〜3式の標準編年
その意味で、現在は纏向編年は使われていないともいえる 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html >>510
>周教授がBSで述べてたよ
もういい加減にネタ割れしてる嘘を流布するのは止めなって!
周徳望博士は、2019年7月に博士号しかも政治学を取得した人で、
台湾大学の教授じゃないし、古代史も専門ではない
BSの番組放送時には教授でもない >>528
>NHK に聞いてみたら
おいおい「諸説あり」はBS-TBSの番組だろ? >>533
それ、連続句読点の立てたデタラメスレwww
そんなのを根拠にするまで落ちたかww
連続句読点の質の悪いごまかしだぞw
NHKの番組中では「畿内説にも九州説にも決定的な証拠がない」としか言っていない >>595
どうして九州説のひとは他人に通じる日本語が話せないんだろうね >>602
>東大もその見解でしょ?
何世紀の人?
今の東大史学に九州説の人は一人もいないよ? 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している頭の悪い奧山氏は、破綻した邪馬台国畿内説を話題にしている、このスレッドを活発化するために、卑劣な自作自演を繰り返すしかないのだったな。 >>622
>>書陵部本の「会稽東冶」は、後代の後漢書の「会稽東冶」の選択採用をした事になっており、
>>「なっており」って
>>いつ誰がそんなこと決めたの?
>もちろん「中華所局標点本」で、だよ
書局標点本にはそんなこと書いてないから
九州説がまた新しい捏造事件を起こしたってことだね 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している頭の悪い奧山氏は、自作自演で、正々堂々の討論ではかなわない論敵を、貶めるのだったな。
628日本@名無史さん2020/01/10(金) 14:28:24.72
>>400-404
この手の連呼系のコピペ荒らしは、連続句読点の仕業 なにが箸墓古墳を素粒子で解析だよ。
卑弥呼の枕言葉はいらないよ・ >>614
>ザン コクワ教授(九州北部説)
>中国教育部人文社会科学重点基地(日本の文部科学省に当たると紹介
>古代中国の見識が深く中国古代文字研究の権威 世界漢字学会会長
専門は、中国古代の「文字」
古代史(歴史)は専門外で倭国との外交についてはほぼ無知な人
>チン チョウギ教授(九州説)
>中国魏晋南北朝史学会副会長
この人が一番専門が近いといえば近いけれど、魏晋南北朝の「南朝」が専門の人
三国時代が終わって、西晋が統一して、それが滅んで東晋になってからのことに詳しい
>シュウ トクボウ(九州説)
>台湾大学政治学研究所教授 専門は中国史
周徳望博士は台湾大学の教授ではない
放送時点の所属は中山大学で政治学博士課程在籍中
博士号取得は2019年7月
これは情報が間違っている
故意の虚偽でないことを願うけれど、TBSだしなぁ >>648
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している頭の悪い奧山氏は、自作自演で、捏造し、正々堂々の討論ではかなわない論敵を、貶めるしかないのではないのかな。 >>639
やかましか。
徐福集団は江南から来たんだよ つまり、NHKによれば、邪馬台国畿内説には具体的な証拠が全くないのだな。 奥山さん、テンプレが長いんだよ。
妄想テンプレはやめてくれ >>585
巻向遺蹟は、何十年もかけ、莫大な税金と人員を投入し、200回程もの発掘調査を実行したのだが、邪馬台国畿内説の具体的な証拠を発見出来なかったのではないのかな、、 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している頭の悪い奧山氏は、関数だけではなく、論理の授業も受けられなかった可能性が高いな。 「卑弥呼?」の枕言葉、
ホントに卑弥呼なのかねえ・・・・?、という疑問符つき。マスコミも疑いの目でみるようになったってこった。 >>653
おいおいウソつくな
NHKが言及したのは「近畿説」だろ
畿内説と違うんじゃないかね >>650の補足
周徳望博士は、 國立臺灣大學國家發展研究所の「國家發展研究 第七卷第一期2007 年」に
「鄉關何處? 論日本邪馬台國研究中的自我認識」
http://www.nd.ntu.edu.tw/uploads/asset/data/556de8e46e74757317db1d00/4.pdf
という論文を書いている
これを、勝手に台湾大学教授にするのはかなりデタラメ >>651
奧山氏は、スレッドを活発にすることが、目的なので、邪馬台国畿内説が論破されても反論することではなく、悪口を言うことを選択しているね。 『台湾大学』の 国家発展研究所の雑誌に論文を書いた、
中山大学の 「政治学研究所」の博士課程学生を、
『台湾大学』「政治学研究所」教授にするのは、かなり質が悪い
教授はどこから来た?ww >>656
邪馬台国近畿説は邪馬台国畿内説という要素を含むことが、関数だけではなく、論理の授業も受けられなかった朝鮮民族の奥山氏には、分からないのだったね。。。
658日本@名無史さん2020/01/10(金) 15:18:58.24
>>653
おいおいウソつくな
NHKが言及したのは「近畿説」だろ
畿内説と違うんじゃないかね 最近たくさん書きこんでいるオレンジ・エアはキウス? >>660
スレッドを活発化すれば、奥山氏のお小遣いになるのだったな。 最近だけではなく、いつも、一人で書き込んでいるのは、奥山氏だったね。 >>665
スレッドが不活発になってしまっては、収入の無くなる奧山氏が、かわいそうなので、僕達も書き込んでいるのだったな。 >>620の訂正。
>作った鏡が海東に至ったという意味かも知れない<
ないな。
「吾作明竟 眞大好 浮由天下□(敖)四海 用青同 至海東」であり、
そこに書かれた「作」や「浮由」や「用」や「至」の動詞の主語は、
全て、「吾」という人間であり、その人の行動を示します。
つまり、海東に至ったのは、「明竟」を作った「吾」です。 >>667
>全て、「吾」という人間であり、その人の行動を示します。
その「吾」が「浮由天下」しちゃうって解釈する九州説って
あたまへんだよね >>671
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、心が穢れているのだったね。 「吾作明竟 眞大好 浮由天下□(敖)四海 用青同 至海東」という文章は、鏡に記された文章の可能性が高いな。 >>667
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
早く言わねえと偽書になっちまうぞ! >>667
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
早く言わねえと偽書になっちまうぞ! >>667
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
早く言わねえと偽書になっちまうぞ! >>667
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
早く言わねえと偽書になっちまうぞ! >>667
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
早く言わねえと偽書になっちまうぞ! >>667
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
早く言わねえと偽書になっちまうぞ! >>667
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
早く言わねえと偽書になっちまうぞ! 九州説に出来ること
コピペ荒らしスレ流し
ニセ情報流し
中傷 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している頭の悪い奧山氏が、正々堂々の討論を放棄し、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放ってきたな。
683日本@名無史さん2020/01/10(金) 15:45:09.19
九州説に出来ること
コピペ荒らしスレ流し
ニセ情報流し
中傷 「吾作明竟 眞大好 浮由天下□(敖)四海 用青同 至海東」という文章は、鏡に記されたのだろうか、、、 「吾作明竟 眞大好 浮由天下□(敖)四海 用青同 至海東」という文章は、いつ、どこで、誰が、なぜ、どのようにして作製したのだろうか。。。。 キウス、、なつかしい。
希薄をきうすと読んだからだったっけ。 >>682
やかましか。
松野氏姫氏系図、卑弥呼の系図ということか テンプレートを貼り付けている奧山氏は、ハングル文字を読めるのだったな。 昨年末から書き込まずにROMってたんだが、やはり畿内説は奥山1人しかいないよ
他の畿内説はどこでどんな主張をしてるんだ? >>690
キウスが書き込んだ意味不明な言葉をハングルだと見破った人が奥山という証拠はない 奧山氏がしらばくれているな。
694日本@名無史さん2020/01/10(金) 16:04:36.36
>>690
キウスが書き込んだ意味不明な言葉をハングルだと見破った人が奥山という証拠はない
695日本@名無史さん2020/01/10(金) 16:05:41.25
>>692
おまえは病気ウス >>693
やはり、貴方も、691に注目していたのですか。 >>623
王都なんて巻向にあるのかね
大集落跡も無いし
以婢千人自侍や宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛も説明できないし >>650
中国の教授の批判いいから
畿内説を支持する中国の学者名あげてみなよ
論文もね
魏志倭人伝は中国の史書だから説得力はあると思うがね 九州説の「ないないない」は
「何があっても理屈抜き、オレ様は認めない」の意味 200回程も発掘したが、邪馬台国畿内説には具体的な証拠が全く「ないないない」のだったな。 >>659
文句はBS−TBSに言えよ
当時TBSは裏取りしてるよ
映像にも研究室は出てきてるし >>699
無いものは無い
有るなら示せばいい
だろうだろうは説じゃない 憶測とか妄想と言うのだよ 691の秘密は、魏志倭人伝の秘密よりも、レベルの高い秘密だったな。 >>704
>無いものは無い
ほら、九州説はまた
なんの証拠もなく言い張ってだけ >>704
>だろうだろうは説じゃない 憶測とか妄想と言うのだよ
あんたの主張は証拠が出せないんだから
「だろうだろう」で
説じゃなくて
憶測とか妄想というものなんだよね 200回程も発掘したが、邪馬台国畿内説には具体的な証拠が全く「ないないない」のだったな。 奥山はニュー速でも相変わらず自演やって畿内説の水増しやってるんだろう >>705
王仲殊はもう死んでるよ
また彼は
「三角縁神獣鏡」について、渡日中国人が日本で製造したと言ってるよ >>710
放送作家が「具体的な証拠」という言葉をどういう意味で使ったかは知る由もないが、学問的な使い方ではないだろう >>713
素性の確かな考古学者で畿内説だが、何か問題でも? NHKの放送作家は、様々な優れた分野の優秀な学者に取材するのだったな。 >>708
何勘違いしてるの
大集落の証拠が無いのが証拠じゃん
見つかってから大集落と言えよww >>708
ついでに 樓觀城柵嚴設も巻向で無いじゃん
見つかってから言えよ >>715
その人が
「三角縁神獣鏡」について、渡日中国人が日本で製造したと言ってるのは
畿内説の学者は無視してるじゃん 邪馬台国 畿内説の矛盾
京都大学を中心とした発掘チームでがんばっているわけだが
卑弥呼に送られた鏡として400〜500の鏡が見つかったが中国の鏡ではないと否定された
(そもそも魏志倭人伝には卑弥呼に送られた鏡は100あまりと記述がある)
(なお2020年1月3日記載 九州で見つかった鏡は中国の識者によって断定された)
こういった畿内説ではない証拠の発掘がなかなかメディアでは出ない
逆に、「当時の桃の種を発掘、畿内説を補強する証拠か」
など目を引き付ける内容のものが新聞などに載ってしまう
実際は畿内説ではない証拠がいくつも発掘されているのである それが新聞には載らない 王何某氏は、専門外の物事に関しては、鏡を管理している関西の学芸会に口裏合わせの愛想を振りまいたのだったな。 王何某氏は、中華料理を上手に料理できるのではないのかな。 >>717
>大集落の証拠が無いのが証拠じゃん
大集落の証拠が無いって証拠は? >>723
冷凍庫の整理も実行したので、冷凍中華料理を発見したのだね。 >>719
>ついでに 樓觀城柵嚴設も巻向で無いじゃん
無いって証拠は? >>720
>「三角縁神獣鏡」について、渡日中国人が日本で製造したと言ってるのは
>畿内説の学者は無視してるじゃん
反論してるから無視というのはウソ 大集落という野営施設を発掘しても柱穴は見つからないのだな。。。 200回程も発掘したが、邪馬台国畿内説には具体的な証拠だけではなく、人民の住居が全く見つから「ないないない」のだったな。 >>721
>・・・中国の鏡ではないと否定された
誰に?
否定した理由は? >>721
>(なお2020年1月3日記載 九州で見つかった鏡は中国の識者によって断定された)
誰が何と断定したの?
あなた、日本語がおかしい >>721
>実際は畿内説ではない証拠がいくつも発掘されているのである それが新聞には載らない
具体的には、なんのこと? 中国で見つかったという△は誰が見ても粗悪なコピー品だったよな
模様なんかも不鮮明で やはり、今日も、邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮民族の奥山氏が、追い詰められてしまったな。 賞味期限の切れている物体は無かったが、若者達のために購入した物が多いな。 >>724
証拠は無いでいいんでねーの
あれば否定できるけど
無い物ねだりで論じてもしょうがないじゃん 邪馬台国畿内説は、賞味期限が切れた栗きんとんのような物事なのではないのかな。 >>733
>中国で見つかったという△は誰が見ても粗悪なコピー品だったよな
>模様なんかも不鮮明で
実際に現物をみた学者は
「銅質や鋳上がりはよく、銘や図像 の線刻は非常に鋭利で鮮明」
と言ってるが? >>737
賛同すると言うより常識
無い物をあるかのように論ずるのは勝手だが
証拠が無いもんな・・憶測ならどの説もしちゃうよ つまり、銅質や鋳上がりはよく、銘や図像 の線刻は非常に鋭利で鮮明な、粗悪なコピー品なのだな。 >>735
王さんが否定したら何?
王さんが神様? お客様は、神様ではなく、王様なのだという標語があったな。 >>741
九州説の主張は証拠がないのだね
話にならないじゃないか >>745
お客がいない奥山氏には、意味が理解できない可能性のある標語だな。 どちらも、証拠が無いのならば、発掘調査が進行していない方に、可能性が高まるのだったな。 >>749
纏向遺跡は5%くらいしか発掘されてないから
期待が高まりますね 5パーセントというのは、サンプルとしては、十分なのだったな。 >>749
証拠どころか候補地もない九州説って
ダメでしょ 候補地という考え方が、そもそも、間違った考え方だな。 最初に出現するスキューズナンバに候補数などは、無いのだったね。 今日も徹底的に論破された九州説は腹いせに奥山を罵るのだった >>744
故王さん畿内説支持してるかしらんが△は日本製だと言ってるのは事実だろ >>763
言ったら何?
畿内説かどうかの話だろ? 産業面、軍事面で劣る畿内が魏とお話しが出来る本丸になろうはずがない
親魏倭王印など魏も恥ずかしくで与えられるはずもない
畿内は弥生時代後期まで石器時代 >>767
>産業面、軍事面で劣る畿内が
産業面、軍事面で劣るという根拠は? >>746
畿内説のスレだよ
畿内説の人が証拠や物証出せばいいだけだよ
他のSNS・ブログ等々でいっぱい九州説の人が投稿してるからそこでやれば >>764
言ってなくても魏が畿内を味方に付けるほどの魅力があるかどうか 呉が九州と手を結ぶ前に魏が九州と手を結ぶのはこのグラフで明白
産業面、軍事面で劣る畿内になんの魅力があろうか
一目瞭然だが日本海に面している西日本地域は軒並み技術が進んでいる これは知的レベルも段違いと言えよう >>766
九州説に根拠がないことが
どうしてテンプレ批判になるんだい? >>770
>・・・魏が九州と手を結ぶのはこのグラフで明白
理由は? 頼むよ スレ主が泣いてるよ
それともスレ主一人で奮戦してるのかい
他説はどうでもいいじゃん・・興味があれば他のSNSで言えばいいじゃん
>>1
11 ◆n7jxAxKCBhb6 2020/01/09(木) 01:22:06.70
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 >>768
http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron00.jpg
よーく見てみよう
畿内に鉄器として出土した工具や武器の少なさを
少ない=多い地域くら攻め入れられるということ
今で例えるなら アメリカ ロシア 中国がアフリカの一刻を決断すれば飲み込む事が容易だと言う事 >>739
日本で三角縁は500枚以上見つかってるんだから1枚ぐらい中国で見つかってもいいじゃん
それも、骨董市だし、拾ってきた場所も田畑じゃなかったっけ >>775
>少ない=多い地域くら攻め入れられるということ
どうして?
理由は? 証拠・根拠にこだわるのは、
証拠・根拠に乏しい○○説の学者か学者もどき。 日本で出土した三角縁円獣鏡はもっと多いのでないのかな
いまでは700枚?かな それも全国各地にあるし・・一万枚ぐらいあるかも知れんな >>779
そのとおり
自説の証拠を示せない証拠だな
根拠なんて推理でしかないよな
物証と文献から畿内説は度外視されると思う
畿内説互助会はもういいよ >>779
証拠•根拠を聞かれて答えられない九州説って
証拠•根拠が九州説には乏しいってことだよね >>782
>物証と文献から畿内説は度外視されると思う
思う理由は? >>779
>>782
夢から覚めない畿内説は何を信じれば良いのかと >>746
お前はアホか
>>741は
無いものは無いと言ってるだけじゃん >>784
なーんだ、
○○説とは畿内説のことで、学者もどきとはキミのことだったのか・・、 >>787
>無いものは無いと言ってるだけじゃん
つまり、無いって証拠が出せなくて逆ギレしてんだよね
九州説の負けだろ http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron00.jpg
でも見事に兵庫から西は文化が発達していて太平洋・東日本は劣るんだよね
昔の銅矛文化圏と銅鐸文化圏とも被るグラフですな
チョット進歩した古墳時代に劣等感を躍起になって払おうとした結果が向きが揃わない古墳の多さなのでしょうな
大仙陵古墳もそれの一環でしょうな >>771
テンプレのキーはね
>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 <
これなんだよ、他説批判するようじゃ駄目だよ 畿内で決定したんだろww
相対的にやるなら別のスレがいいんでねーか >>788
>当時の情勢が明らかです
どう明らかなの?
説明できないの?
だから九州説はいつも負けるんだよ http://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/d00column/photo/012yamato_tanjyou/08yayoi_tetuzoku_b.gif
このグラフを見たら 奈良周辺に人は住んでなくね?
京都はもしかしたら九州から逃げてきた民なのかもしれない >>792
>これなんだよ、他説批判するようじゃ駄目だよ
他説批判?
九州説さんがわざわざ畿内説スレに来てウソついて自滅してるだけでしょ
その結果九州説の評判が悪いことって
別に他説批判ではないな >>794
http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron00.jpg
グラフを見て一目瞭然でしょう
北部九州を中心に日本海側は知的レベルの高い発達した文明
(大陸からの輸入も含めた)鉄を手に入れる事も活かす事も出来ない畿内を含めたその他の地域は知的レベルも政治的産業的軍事的に全てが劣るのだよ
その様な地域が魏とお話し可能であろうか
小学生でも判断可能なレベルの事を畿内説を唱える人は理解出来ないのか だから畿内説に夢を見てるのか
これは古墳時代にも続く文化レベルの差であるから倭国形成にも偽りがあるかもしれないね >>798
>北部九州を中心に日本海側は知的レベルの高い発達した文明
だという根拠は? >>794
例えば魏と畿内が手を結んだとしよう使節団を送り込むと更に西に畿内よりも政治的産業的文化的レベルの高い集団がいる 畿内を捨ててそちらと手を結びますわなぁ 覇権争いをしているのであれば
このグラフを見れば
http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron00.jpg 畿内説はもともと低脳なジジイどもが軽率な発言だった。
ちょうどその頃藤村の歴史捏造事件が明るみになって考古学会として引っ込みがつかなくなってしまった。
そいつら死ぬまでそれらしい事を言い続けるしか無い哀れな連中よw >>800
>・・・西に畿内よりも政治的産業的文化的レベルの高い集団がいる
という根拠は? >>799
http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron00.jpg
このグラフを見せられて畿内の方がレベルが高いと考えられますか?
明らかに北部九州・日本海側の方が高いでしょ
君は植松さんですか? >>801
>畿内説はもともと低脳なジジイどもが軽率な発言だった。
という根拠は? >>802あなたの知的レベルは大丈夫ですか?
http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron00.jpg
このグラフを見せられて畿内の方がレベルが高いと考えられる?
逆にこのグラフから畿内の方が高レベルだという想像でも良いから考え方を知りたい
明らかに北部九州・日本海側の方が高いでしょ >>803
>このグラフを見せられて畿内の方がレベルが高いと考えられますか?
レベルが高いとか低いとか、どういう根拠で判断してるわけ? こんなふうに
論理的な説明がまったくできないから
九州説はいつも論争に負ける >>759
奥山はあほだから畿内説が誤解されるってこと >>802
http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron00.jpg
最低条件として日本海に面してないと列島の覇権は握れないのだよ
この差は古墳時代でも続くので邪馬台国=倭=大和は疑わしくなる
邪馬台国=北部九州(倭国)と捉えるのが妥当でしょうな
現代に続く古墳の数は畿内人の劣等感から来た見栄でしょう
しかし知的レベルは低いので方角がバラバラ
その知的レベルは九州から人の流入でしか埋まらなかったのでしょう >>807
このように
九州説の主張は証拠の出せないものばかり
だから九州説はすぐ論争に負ける >>761
畿内説スレだろ
巻向王都説なんて証拠より妄想じゃねーの
倭人伝に基づく王都の証拠だせよ (邪)馬台を海に鎮め〜
という文面の意味を考えよう >>809
>粗悪で無いと決めつける根拠は?
実際に現物をみた学者が
「銅質や鋳上がりはよく、銘や図像 の線刻は非常に鋭利で鮮明」
と言ってるから >>806
http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron00.jpg
先端技術である鉄の農具工具の差で生活レベルが判断できませんか?
でしたら、当時畿内は何を使って産業を支えていたのでしょう 石?木?
このグラフから九州よりも高い若くは畿内は文化レベルは低くないと解釈出来るのは何故? 石器で蛙をさばいて飢えをしのぎ
木器で強制労働させられてたんだよ。 >>813
>巻向王都説なんて証拠より妄想じゃねーの
そんなこと決め付ける理由は? >>817
>このグラフから九州よりも高い若くは畿内は文化レベルは低くないと解釈出来るのは何故?
ホケノ山とか入ってないから >>820
ホケノ山から鉄製の農耕具なんて出土したっけ? >>817
鉄器が無管理状態で家の中に散らばってる地域って
文化レベル高いの? 畿内説派グラフ読めない
図見えない
文意解読できない、サル山のサル >>823
それを言葉で説明できない九州説って、理解できてないってことだよ >>393
>纒向には3世紀から王宮が存在しているということ
後に天皇号が追号されることになる田舎豪族の住居 >>820
ホケノ山
鉄鏃 約60本
十倍しても足りませんな >>798
この図を見ると畿内と四国は遅れた地域だったことがよくわかるね >>797
それ 別スレでやれば
気になるほど畿内説弱いのかねww >>825
言葉数は多いが論理性が破綻しており誰にも顧みられなくなった畿内説が哀れだ。 >>825
@阿波が答えに困った時に似てますなぁ
偽物を掴まされて信じるしかなく自暴自棄になる
現代の詐欺事件にも通じとりますなぁ >>830
古墳があります
神社があります
これは古墳時代以降に弥生時代から続く劣等感の穴埋めに必死になって拵えたのでしょうなぁ
倭=大和
もこの勢力図で疑わしくなりましたなぁ >>831
>それ 別スレでやれば
別スレでやんなきゃいけない理由あるか? NHKの発表によると畿内説には具体的な証拠がないらしい >>836
臭い物には蓋をする
見たくない物は見ない
自らが糞な畿内説は自らの姿を知りたくないのだよ
これは@阿波も同じ >>785
畿内説は倭人伝との整合性を示せばいいよ
邪馬台国と関係ない倭種の別国の連合体が畿内にあってもいいじゃん
まずね、畿内説のスレだろ
巻向王都の物証って何?
3世紀に人が住んでたのは否定しないけど
桃核が3世紀として水路や掘立者柱建物が3世紀なの?
桃は夏だけだし、それ以外はカエルの供え物かな?カエルも夏かもな
桃の出土数はは吉備だしね >>842
桃があるだろ!
倭人伝に出て来る桃の字は竹だけど やれやれ
九州説は徹底して理由を言わない
具体的事実に言及しない
証拠を出さない
学問の対極だねら ここは、奥山のアホをいじめるスレだろ
だから奥山に感謝しないといけないよなww >>842
>巻向王都の物証って何?
王墓
文化の発信地
大型建物群
特異な宗教遺跡 >>846
>魏が石器集団に使節団を送り込んでどうなる?
石器集団とか言う根拠は? >>848
鉄以外に何を使うんだよ
木か?
それとも畿内から出土した鉄器の数と等しい人口だったって事か?だったら倭人伝に符号しないな
畿内説、負け〜。 >>850
纏向遺跡は鉄器を使って建設されてますが、何か? >>851
ウソついて暴かれ晒されたよな
赤恥九州説 >>844
おまえねーーー
ここは 畿内説のスレでなんなの
九州説攻撃するより畿内説を論じたほうがいいよ
巻向王都の根拠づけを強化するとかネ >>851
質問されて全く答えられない
九州説イジメられすぎ 阿波で鉄器を使って作った木板で建設されてるだけだな
なぜなら、纒向遺跡から鉄器が出土していないから >>854
九州説から「もう論破しないで」と泣きが入りました >>792
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>792
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>792
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>792
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>792
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>792
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! >>792
で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ! また惨めに論破された九州説がコピペ荒らしでスレ流しを始めたな
敗者って悲惨だな >>847
・王の墓かも分からない
・http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron00.jpg
当時の文化発達度からして発信地ではない(徳島のギャルが原宿のギャルに挑む様な物)
・大型の建造物 作っただけで其の後は発展していない(福岡の太宰府の様に中心地の文化ぎ何層にも重なって出てくれば良いが 田んぼ)
・http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron00.jpg
に見合った範囲での祭祀を誇らしげに語るなよ
倭人伝の何処に桃の種が出て来るんだよ 発達地域を真似して知的レベルの低い民が編み出した亜教 >>867
>・王の墓かも分からない
という理由は? >>868
証拠を聞かれて答えられなかった箇所すべて >>858
松野連系図って今も九州にあるんじゃ無かったけ? >>869
王墓だとする根拠はありますか?
名札に王だと書いてありましたか?江田船山みたいに >>873
言わないという理由は?
これも答えられないと論破されたことになるよ つまり、200回程の発掘調査を実行しても、具体的な証拠が無い邪馬台国畿内説は、論破されるしか無いのだね。
871 名前:日本@名無史さん 2020/01/10(金) 19:21:49.61
>>868
証拠を聞かれて答えられなかった箇所すべて >>877
>王墓だとする根拠はありますか?
規模と、築造企画ね >>876
出土しないで何が語れよう
畿内説側から証拠証拠だと要求してくるのに
お ま え は バ カ か ? >>878
>これも答えられないと論破されたことになるよ
あらら
畿内説終了 >>881
ある意味王墓かもな
九州からの「征服王」 >>879
漢朝では皇帝祖廟にカエル肉を捧げてたな >>881
他の地域に企画された箇所はありますか?
特異な建造物だっただけでしょう
企画可能なら複数えるのが自然ではヨーロッパの宮殿の様に 住居もない奴隷が強制労働させられて
蛙の骨をかじっていた カズノコの塩抜きは、何度も水を換えた方が速いのだな。 >>883
>あらら
>畿内説終了
という理由は?
答えられないと、また九州説の論破され数が加算されるの >>847
王墓 ・・・・・・・・・・・・・・・誰の?地方豪族の墓地じゃねーの それも民を苦しめて作ったんじゃねーの
文化の発信地 ・・・・・・・・先進的な文化ってあるの 円を描くのが先進的と言った馬鹿が言ったが 鉄の量が文化の目安じゃねーの
大型建物群 ・・・・・・・・・大型の定義言えよ テンプレでは1棟が大型なんだろ
特異な宗教遺跡・・・・・・何が特異なんだよ 最初に出現するスキューズナンバに候補数などは、無いのだったね。 >>888
畿内は数の子で天井が見えたと言うことか
畿内説にTENGAを >>886
>他の地域に企画された箇所はありますか?
>特異な建造物だっただけでしょう
王墓の話が、どうして突然建物の話に化けるの?
また発狂した? 差があるとかならともかく
皆無だからなw
しかも銅器ですら「銅鐸片」が出土しているという絶望的状況www >>890
それが文化発達レベルの差だと思う理由は?
また答えられない? そういや巻向の銅鐸は畿内説ではどういう評価をしているんだ? >>892
頭の悪い者達は、証拠が無いにも関わらず、巻向を卑弥呼の城の候補地としてしまうことは、全く逆の真実を究明するための常識的な物事だね。 蛙の骨をかじる状況だと涙すら流していなかっただろうな
もう人間としての感情は無くなり、
ただ幽鬼のごとくさまよい
こき使われて >>895
九州説の人が他人と会話できないのは、もう病的だね >>889
畿内では無理あるじゃないか
これだぞ
http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron00.jpg
列島を代表するなど九州が許すか?
仮に魏と畿内が手を結んだとしても、その情報が耳に入れば畿内を簡単に征圧する アメリカが北朝鮮を征圧する様にね
九州が呉と手を結んで畿内が魏と手を結んでも呉の指示で九州が畿内を征圧するんだよ
畿内説は八方塞がり
結論 弥生時代当時、畿内は九州(魏に置き換えてもok)に相手にされない地域でした 邪馬台国畿内説は、真実に近くための質問には、何も答えたことが無いのだったな。 >>901
論破されて悔しいから会話放棄する畿内説 当時の纏向は鉄を入手できない後進地域
食料にも乏しくカエルを食べていた
まさに貧困にあえぐ山奥の寒村、陸の孤島
華やかな場所だったと思っているのはキナイコシの仲間だけ >>903
邪馬台国畿内説は、朝鮮民族の民族運動なので、真実を究明する事とは、別の物事なのだったね。 >>894
悪い「物」は無しで
畿内にしてみたら特異だったのだよ
吉備辺りで見て真似しただけだ
王ではなく酋長だろうな 鼻にカエルの骨刺した >>898
鉄器時代以降は「鉄は国家なり」だからな
鉄のない地域は後進地域。ろくな文明がない場所 >>905
キナイコシの仲間も貧困地域だって嘲笑ってるよ
反日だから
日本の出発地がカエルを食べてた貧困地域で狂気してるんだろう >>898
>鉄器の普及は文化レベルの指標だから。
で?
鉄器の普及はどうやってわかる? >>895
同レベルか少し下なら説得力もあるが
福岡の南に熊本と宮崎だもんな
邪馬台国と狗奴国の勢力図に付合する
よって、南を東に間違えたとしても、使節団が東に行く理由も用事もない >>901
畿内や阿波が弥生時代の知的レベルから進歩してないだけでしょ 東北地方とかだと江戸時代の飢饉の時にヘビとかカエルとか食べてたみたいだけど 吉野ヶ里より新しくかつチンケな巻向を王都とするのは何が理由なのかさっぱりわからん
吉野ヶ里が邪馬台国の王都かどうかは知らんけどね >>902
>畿内では無理あるじゃないか
>これだぞ
ホケノ山の入ってないその図を信用せよと? >>918
九州説派から見ても吉野ヶ里は無いは
高島先生には悪いけど 巻向の
掘立柱建物に基礎が無いんだよな・・土で固めただけだろ、それも湿地帯だろ >>921
ホケノ山から出土した60本出してみたら?
それを10倍してみたら? >>904
>論破されて悔しいから会話放棄する畿内説
そんなことした証拠は?
答えられないと、また九州説の論破され数カウントが増えるよ >>923
美味い米が採れそうなのに邪馬台国だぁだもんな
埋めて農作物作れば良いのに
奈良県民はカリフォルニア米でも食べてろよ >>925
それが放棄なのだよ
偽説盲信クン
知的レベルは弥生時代から変わらないのかな? >>908
で?
纏向に鉄がないって証拠は?
証拠出さないと、また九州説論破され数カウントが増えるよ >>1
邪馬台国畿内説には、何か具体的な証拠は、ありますか。 >>928
>それが放棄なのだよ
放棄だという理由は? >>929
纏向周辺(畿内全域)の鉄が少ないって話だろ
纏向を唯一の柱として持ち出して来たのは畿内説 >>936
マインクラフトで木と石と鉄の違いでも勉強してろ? >>932
具体的な証拠じゃなくて
推理合戦では畿内説 >>934
こういうジョボい自演やってるから
九州説の信用はドジョウ下がり >>937
>纏向周辺(畿内全域)の鉄が少ないって話だろ
その証拠が出せないって話だよね
九州説また自滅 >>937
賛同
巻向は畿内説と離れたほうがいいよ
巻向は地方公務員が騒いでるだけだろ 論破され続けている邪馬台国畿内説が、可哀相になってきたな。 >>936
証拠を要求する前に反論しなきゃ
直ぐに証拠を要求するってのは推察と話の流れを理解出来ていない印(親魏倭王印ではない)だよ
まるで辻本清美だな
ありゃ大阪だっけ? 奥山氏の思考のアルゴリズムは、辻元何某氏に似ているのだったね。 >>943
少なくない証拠は出せるって事だよな
http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron00.jpg
これに足して教えてちょ
はい、畿内説、自滅〜。
これまで幾度となく要求して来た証拠を出す番ですよ。 >>946
>証拠を要求する前に反論しなきゃ
証拠の要求が反論だって理解できない九州説は
世界の孤児 >>947
大阪って書き込んだらadd広告でたこ焼きが表示され出しました >>948
>少なくない証拠は出せるって事だよな
ホケノ足してみ 湿地帯だから カエルがいっぱいいただけだよ
カラスがつついた残骸じゃねーの 2
4
8
16
32
64
128
256
512
691-512=91+88=179
691-512-128=22+29=51
691-512-128-32=16+2+1
「691」=1010110011 そもそも卑弥呼の時代ではない弥生後期中葉の鉄器数をカウントしてるの、おかしくね? >>951
>>954
鉄鏃 約60本
鉄製刀剣類 10口
足して何処と争うの? 周さんは台湾大学の教授だよ
+886-2-3366-3366に電話してみたらいいよ >>959
古墳時代では石川県に負けとりますなぁ
奈良に現存する古墳は虚構の産物かも知れませんなぁ >>959
>弥生後期中葉の鉄器数<
年代比定してくれるかな
古墳時代の大和が後進国? 卑弥呼が死体になった50年後に、初めて、巻向に古墳が出現したのだったね。 >>746
ここ畿内説のスレだろ
何を要求してるのかなww
スレチの投稿もいいけど
奥山が泣いてるよww >>932
邪魔するなよ
今 次スレ建てる準備中だからな >>973
いさな=クジラ
阿波説も推す説
万葉集153番歌より
「近江の海を、沖辺はるかに漕ぎ来る船よ、岸辺に沿うて漕ぎくる船よ、沖の櫂(かい)やたらに撥(は)ねるな、岸の櫂もやたらに撥ねるな。わが夫(つま)の思いの籠る鳥、夫の御魂の鳥が驚いて飛び立ってしまうから」
書き出し文
「鯨魚(いさな)取り 近江(あふみ)(淡海:あふみ)の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る船 辺付(へつ)きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫の 思ふ鳥立つ」
http://souenn32.hatenablog.jp/entry/20170916/1505503045
より >>964
疑ってる奴もいるからナイスだけど
そいつは中国語離せないし金もねんじゃねーか >>582
ホケノ山の木棺サンプル5つは誤差を含んでだいたいAD120〜240年のものと
炭素14C測定で判明
副葬品にも古い銅鏡はあっても240年ごろに倭に伝わった三角縁神獣鏡がないので
2つの証拠が合致するから畿内のホケノ山古墳は240年以前に造営されたものと推定できる
畿内でよく見つかる三角縁神獣鏡には師出洛陽 魏の鏡師が作ったと記銘されていて
景初や正始元年など卑弥呼が魏に遣使したと史書にある魏の年号もあって
Spring8による分析では魏鏡と同成分と分析結果が出て
洛陽でも1面発見
卑弥呼の時代に畿内が魏と交流していた証拠 >>630
三角縁は黒塚古墳など3世紀の古墳から出てる
鏡に記銘されている魏の年号の景初や正始は西暦240年
3世紀の卑弥呼が魏と交流を持ったと魏志倭人伝に書いてる年号 >>667
吾作明竟だから私は鏡を作った
つまり作った鏡が海東に当たる倭国に渡ったという意味ではないの 三角縁神獣鏡は呉の職人さんが作ったということで確定している。 >>982
正確には畑から出土
>>983
4回ほど下賜されて国内コピーもあり
九州説は500枚と言ってたな
>>984
Spring8で蛍光分析した結果
当時の魏鏡と同じ銅が使われていると判明 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! 僕達が、このスレッドで、色々な意見を発表してあげたので、奥山氏の口座に、5ちゃんねるからの謝礼が、振り込まれるのだったね。 >>979
>洛陽でも1面発見
その洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作。
また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と同じく徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作。 @阿波 桜井市民は、桜井市の予算の教育費に占める異常に高いパーセンテージに、疑問を持たないのだろうか、、、 論破され続けている邪馬台国畿内説が、可哀相になってきたな。 奥山氏には、残業手当てはおろか、給与が支給されないので、5ちゃんねるからの謝礼が、頼みの綱なのだったね。 僕達が、このスレッドで、色々な意見を発表してあげれば、奥山氏の口座に、5ちゃんねるからの謝礼が、振り込まれるのだったね。 >>990
>三角縁神獣鏡の発祥は阿波といいたいのか
三角縁神獣鏡 は、「魏の水銀朱」が使われた「天河別神社古墳群」出土の「斜縁二神二獣鏡」を倭国(阿波)でぼう製したものだろう。
または
三角縁神獣鏡 は、「魏の水銀朱」が使われた「萩原古墳群」出土の「画文帯神獣鏡 」を倭国(阿波)でぼう製したものだろう。 わははははは @阿波 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! このスレッドは1000を超えました。
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