邪馬台国畿内説 Part570
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1582243600/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 奈良湖(大和湖)
テンプレにもある奈良湖を脳細胞の不足により知らない知らない
証拠を出せ証拠を出せ言ってくる
バカ畿内説のゴキブリ2匹の生息を確認
一匹はたぶん関西在住の呆けた老人関西説w
検索の仕方も漢字の読みかたもしらん惚け惚け畿内説ww ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。 ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし 卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない畿内説もこれには異論がない。 纒向・箸墓説のネタ元とは:
戦後昭和になって、
某社に乗せられた糸島のケンカ大六こと原田大六が、箸墓説を出版してから、急ににぎやかになっただけのこと。
(つまりその元は、京都で創業し、神田駿河台に移った出版社・三一書房の仕込みだったのさ) >>75
畿内説だけど箸墓を卑弥呼の墓とするには無理があるから同意します。
けど畿内で次の卑弥呼の墓候補は見つからない現状を鑑みたら何らかの政治的混乱により卑弥呼の墓だけは北九州に求めざる負えない。 私も畿内説だが邪馬台国広域説支持者
卑弥呼は稀に纏向の祭壇で祈祷を行い平時は北九州に居て平原1号に葬られたと推察している。 前スレhttps://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1582243600/1000
>難波津の滞在期間も入れているのでは?
入れて何か問題でも?
上陸〜入京まで1ヶ月超に実例であることに変わりはないし
>ここでわかるのは、8月3日に都に入ったという事しか分からないのですよ
という理由は? >>77
畿内の次の卑弥呼の墓候補としてホノケ山古墳忘れてる。
九州を圧倒する凄い出土品
銅鏃 約60本鉄鏃 約60本素環頭大刀 1口鉄製刀剣類 10口
時代も丁度卑弥呼と合います >>740(前スレ)
>志登は、Yahooの議論で、大和説者の一人が紹介し、
>東大と京大を渡り歩いた天誅という大和説男が追認した。
「誰かが言った」w
そんな不明瞭なものは証拠にならんw
さっさと、現物や拓本を元にした一番古いという根拠を出せよw >>748(前スレ)
>魏朝内で使用する鏡なら「右尚方」「中尚方」「左尚方」の記銘仕分けは意味があるが、
>対外的に出す鏡であれば「尚方作」とすれば済むもの。
魏の紀年銘の「尚方作」という物品が存在しないのだから
お前が個人的に思ってるだけだw ホノケ山古墳こそ卑弥呼の墓として無理がある
『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし。」という記述と矛盾する >>75
異論あるだろう
卑弥呼の冢が円墳なのだという理由がない >>84
後円部径約55メートル無理はない
正確に測った数字ではない径百余歩は使節が倭人から聞いたうわさ話を本国に伝えた数値で倭人伝に完全に合わせなくてよい >>87
前方を後で付け足した後円形が元の弥生墳丘墓であるとする見方が趨勢 >>88
使節が聞いた倭人のうわさ話が元で使節自ら墓の内部構造まで知る術はない
箸墓は明らかにボツ、卑弥呼の墓はホノケで間違いなし。 ホノケ山古墳の成否の判断はしないが箸墓が卑弥呼の墓ではないことについては同意 箸墓は纒向学センターの縄張り、
ホケノは橿考研の縄張りだろ、お決まりの縄張り争いwww >>89
後円部径約55メートルがなんで径百余歩で無理ない? >畿内の次の卑弥呼の墓候補としてホノケ山古墳忘れてる。
>九州を圧倒する凄い出土品
>銅鏃 約60本鉄鏃 約60本素環頭大刀 1口鉄製刀剣類 10口
>時代も丁度卑弥呼と合います
笑わせるwww
これだけ? >>94
理由も言わずに、なんで同意すんの
基本的に思考法おかしいだろ >>96
墳の後円部の直径が長里説を取れば卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致する >笑わせるwww
>これだけ?
素環頭大刀 1口鉄製刀剣類 10口 >>100
>墳の後円部の直径が長里説を取れば卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致する
後円部径「約55メートル」が
なんで径「百余歩」に「ほぼ一致」すんの? >>102後円部径約55メートル無理はない
正確に測った数字ではない径百余歩は使節が倭人から聞いたうわさ話を本国に伝えた数値で倭人伝に完全に合わせなくてよい 東北の伝承
龍の黒神と鹿使いの赤神のアマテルを巡る戦い
鹿の数で圧倒した赤神はアマテルを手に入れ岩隠れをする
黒、暗い、水底の土は黒土
水底の土は上代はぬば烏とか言ったらしい、沼も同じ語源かな
黒、烏、沼
射干玉ぬばたまはヒオウギの黒い種で黒の枕詞
京都の祇園祭や大阪の天神祭では、ヒオウギは床の間や軒先に飾る花として愛好されている。
祇園や天神様は黒と関係あるかもな
龍の黒神
赤は朱丹かな
黒と龍、天神、祇園
赤と鹿、朱丹、春日大社
春日大社の向こうは若草山、山頂にあるのは牛塚
牛は天神と牛頭天王の祇園
奈良の謎は深まるばかり 畿内同士喧嘩しないでホノケ山古墳は有力候補、箸墓も一応候補入りでいいんじゃないですか? 箸墓は纒向学センターの縄張り、
ホケノは橿考研の縄張り、
つまり、お決まりの縄張り争い勃発www 俺はホノケに一票、箸墓はどうも邪馬台国の女王として謂れが弱弱しい >>108
また九州説名物妄想漬けかよ
おなか一杯だよ 黒塚古墳はなんで黒塚なのか?
かなり早期の前方後円墳
黒神と関係あるのか?
誰の墓なんだろう >>50 FAQ58 推古紀所載裴世清の旅程は引用できないし、
この文から難波から巻向まで一月以上かかったと読みとれない
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
六月の壬寅の朔丙辰(15日)に、客等、難波津に泊れり。
是の日に、飾船三十艘を以て、客等を江口に迎へて、新しき館に安置らしむ。・・・*ココポイント
是に、中臣宮地連烏磨呂・大河内直糠手・船史王平を以て掌客とす。
爰に妹子臣、奏して曰さく、「 臣、参還る時に、唐の帝、書を以て臣に授く。
然るに百済国を経過の日に、百済人、探りて掠み取る。是を以て上ること得ず」とまうす。
是に、群臣、議りて曰はく、「夫れ使たる人は死ぬると雖も、旨を失はず。是の使、何にぞ怠りて、
大国の書を失ふや 」 といふ。則ち流刑に坐す。
時に天皇、勅して曰はく、「妹子、書を失ふ罪有りと雖も、輙く罪べからず。
其の大国の客等聞かむこと、不良し」とのたまふ。
乃ち赦して坐したまはず。
秋八月の辛丑の朔癸卯(3日)に、唐の客、京に入る。・・・・*ココモポイント
是の日に、飾騎七十五匹を遺して、唐の客を海石榴市(現桜井市)の術に迎ふ。
額田部連比羅夫、以て礼の辞を告す。
壬子に、唐の客を朝庭に召して、使の旨を奏さしむ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上 難波から巻向へ1か月かかるの根拠にならない それにしても・・・、とあるサイト(blog)など。
家の話?家の老婆と同じような話をしている人がいたり。
ほんとーに、何かの家の人なのかな? >>113
「根拠にならない」理由を言ってませんけど?>>113 >>113
>FAQ58 推古紀所載裴世清の旅程は引用できないし、
なんで引用できないの 後東北に残る黒塚伝説
安達ヶ原、鬼婆
鬼婆は日本の荼枳尼天?夜叉女? >>110
卑弥呼と伝承がある倭迹迹日百襲姫命をご存じないと言われるか
大物主神の妻で巫女的な人でござる
箸墓とホノケで勝利した方が九州の平原と祇園山の勝者と決戦だ
卑弥呼の墓候補は4つに絞られたな 死者の血肉を貪る荼枳尼天
殉葬や生贄の風習とダブる >2018年10月 纒向学・東京フォーラムVII
>渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、
>魏の文帝が「御陵は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」、などと定めたことを紹介し、
>魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう、と話した。
つまり卑弥呼の墓は、径百余歩の自然の山を利用し、その頂部に棺を埋めてやや大きめに盛り土しただけの質素なものだったのだろう。 だめだ畿内代表はホノケに譲って頂きたい箸墓はどうも薄暗くて馬具もマイナス要素となり九州に負けてしまう 纒向・箸墓説のネタ元:
戦後昭和になって、
某社に乗せられた糸島のケンカ大六こと原田大六が、箸墓説を出版してから、急ににぎやかになっただけのこと。
つまりそのネタ元は、京都で創業し、神田駿河台に移った出版社・三一書房の仕込みだったのだ。 日本の記紀神話?テンノウなどの話、最初のほうだけ知っている(詳しい)。
乾燥させた米の粉(糒)が〜とか、そういう名前(不明)の人物もいたりw
老婆談。 うーん悩むな
畿内説の王道としてホノケと箸墓どっちにするべ
どちらも卑弥呼が眠っていておかしくない
でも箸墓にしておくよ付き合いがあるし >>125
糒は遠賀川の田川の地名か
隣は飯塚市
ふむふむ わかったよ
正直畿内は卑弥呼の墓わからないし箸墓でもなさそうだからどうでもいいんだろうとの感想
平原攻撃するときにネタとして使えれば程度かな使えないから出さないだけだな 弥生時代前期
遠賀川式土器とかあったな
壺(つぼ)、甕(かめ)、鉢(はち)、高杯(たかつき)の器種があり、壺には木葉文(もくようもん)や羽状文、平行線文などの文様がほどこされることがある。 >>132
そんなこと言わずに畿内説同士協力して一緒に九州をやっつけようぜ
生まれた時からずっと畿内説なんだぜ 九州説がいたら知らせてくれ一緒に論破しよう
畿内説同士友達なんだから仲良くしよう 乾燥させた米を粉にして、固める。
(落雁のようなもの。もっと薄いやつなのかな煎餅?うりすと教?)
食べるものではなくて、供えたりするものを作ったりしていたんだけど、
その家もないと言っていたり。・・・かなり前の話。 >>135
その話は九州説か?それとも畿内説か?敵か?味方か? 『うりすと教』
そういうものがあるんだよwと言っている人達がいたり。 >>137
君は一人で九州と戦ってるんじゃないんだ
隣に武器がある
それが私
九州討伐のおりには俺を使ってくれ 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 稲作は長江から直接畿内に伝わったと聞いている九州より先に でもウリスト教でもなさそうだしな。
もっと、むかーしの話もしているし。
最初(教えなどが入ってきた。広めた。)のほうの、
何かの家とか? 中国の史書をちゃんと読んだこともない九州説のアホへ
「魏志」「隋書」「旧唐書」「新唐書」に明記されている記事
神武東征後に大和州に都を遷す
用明天皇(神武天皇の後の天皇)=アメノタリシヒコでありその都は邪馬台国と同じ
↓
☆【邪馬台国=大和で確定】
用明天皇はその後の平安時代の天皇まで累が継続している
白村江の戦いで戦った当事者の中国の記載
用明天皇は旧唐書の倭と日本の記事の前の人物
↓
☆【九州王朝など存在しないのが確定】
アメノタリシヒコは属国に一大卒を送り込んで支配している
一大卒のいるところ=大和の属国
↓
☆【九州=畿内の属国確定】
バカ用に何度でも書いてやるよ
100回音読しとけ 九州説のアホへ邪馬台国=大和大卒のいるところ=大和の属国 中国の史書をちゃんと読んだこともない九州説のアホへ
「魏志」「隋書」「旧唐書」「新唐書」に明記されている九州=畿内の属国確定】 『日本昔ばなし 夢の売り買い』
同じような話でしょ、謎の船(空から降りてきた?)の話とか。 バカ用に何度でも書いてやるよ
100回音読しとけ 九州=畿内の属国確定 記紀神話、それとも日本のテンノウ以前?
最初のほうは(詳しい)知っていたり、なぜだと思う? >>77
卑弥呼の墓だけは九州にあって邪馬台国は畿内にあったということ? 卑弥呼の墓は畿内にあるのは確実なんだがホケノ山と箸墓のどっちだろう
うーん >>117
なに寝ぼけてんの
俺でもわかるよ
6月の15日に難波津に泊ったんだろ
それで、唐の客人を江口(淀川河口・・地名も残ってる)に行って
新しい館に宿泊させたんだろ
そして、8月3日に都に入ったんだろ
難波津から都まで1か月以上かかったなんて、解読できないよ
古文も、訳文も解読できないならしかたないけどさWw 『レッド・クローンズ』(不明)
ほんとーにw同じ話でしょ。 >>156
馬鹿だね!
都に向かった出発日時が書いて無いじやん
それに江口での唐とのやり取りも記述されてんじゃん、
あんた、訳してご覧^_^ 3600年前の関東を歌うドラマ
(日本人は昔中国大陸にいた)
www.youtube.com/watch?v=VIkQSuZbbt0 >>154
それでいいんでねーの
馬鹿の奥山には理解不能だろうが >>158
>都に向かった出発日時が書いて無いじやん
書いてないと何?
6月15日には難波津にいたんだろ?
8月3日に椿市に着いたんだろ_
1ヶ月以上かかってる 老婆は専門的な本や書なども持っていないんだけど、
同じような話をしているでしょ。
設計、どこかの橋の話とかw 纒向・箸墓説のネタ元:
戦後昭和のこと、
糸島のケンカ大六こと原田大六が、某社に乗せられて「箸墓ダー説」を出版してから、急ににぎやかになった。
つまりそのネタ元は、京都で創業し、神田駿河台に移った三一書房が、一発ねらって畿・九対立を仕込んだからなのだwww >>161
何言ってんのか^_^
難波津の滞在期間も不明なんだろ^_^
館まで新しく作ってるし、交渉の様子も記述されてる。
良く読み込んで無い証拠だよ 橋が完成したので来てくださいという招待状の話もしているし。
そういうモノ(招待状)も残しておけば良かったのかな?
いつ頃の話だったんだろう。
もれ(書き込みをしている人)も
生まれていない頃の話だから「?」・・・。 『アンサイクロペディア モーセ』
・・・・・・・・・・・・・・・・読んでみた?同じような話w >>164
>難波津の滞在期間も不明なんだろ^_^
だから何?
海路を来たよね?
6月15日には難波津に上陸してるよ?
8月3日に都の入り口に着いてるよね?
上陸してから1ヶ月以上かかってる >>165
罵ることしかできないのか九州説
だから議論のできない人種と言われる
なんで難波津での滞在期間が入ってちゃイカンのか説明もできない
ただ言い張るだけ罵るだけ
説明能力が無い
だから九州説はダメなの 『日本書紀』では次のとおり裴世清と記されている。
その12人の一行は小野妹子とともに筑紫に着き、
難波吉士雄成が招いた。難波高麗館の上に館を新しく建てた。
6月15日難波津に泊まった。船30艘で歓迎、新館に泊めた。8月3日に京に入った。
「鴻臚寺の掌客」である裴世清の「皇帝問倭皇」という書を阿部臣が
大門の机の上においた。9月5日に難波大都に、11日に帰った。
ーーーーーーー
帰りも難破に6日泊まってるんだよ。
行きは、交渉ごとを、難破で済ませて
入京なんだよ。だから、入京と同時に桜井市に行けてるのだよ、
日本の高官も難破に行ってるだろう! >>170
>だから、入京と同時に桜井市に行けてるのだよ、
意味不明
桜井市で入京するんだから同時に決まってる >>171
よく読め
明日香についた、当日に桜井市に行ってんだよ
8キロぐらいかな 『ブルー・マーダー』という作品w
某勝義という登場人物がいたりするでしょ?
上の名前・・・『鳳輿』?
家は、このような名前の家。 >>171
桜井は当時、京じゃねぇよ
纒向とこんがらがっているだろ 馬鹿 キュウリの葉、葱の華・・・なども、
家(某勝義という家、川崎区というところの南部のほうに住んでいる)の写真だしな。
偶然なのかな? >>173
>明日香についた、当日に桜井市に行ってんだよ
これも意味不明
そんなこと、どこに書いてある? 『白い服 暴力団』
(家は、そういう家ではないんだけど)、あの写真も同じ家。
貼り付けたはず、服の写真w >>175
>桜井は当時、京じゃねぇよ
と言う理由は? >>178
>訂正、桜井市でなく、天理市
天理市?
天理市のどこ? 数年前のとある。
王仁さん?何やら〜とか、
よくわからない事を言っている人がいたり。 ここ天理市に訂正
秋八月の辛丑の朔癸卯(3日)に、唐の客、京に入る。・・・・*ココモポイント
是の日に、飾騎七十五匹を遺して、唐の客を海石榴市(現天理市)の術に迎ふ。 >>183
>・・・唐の客を海石榴市(現天理市)の術に・・・
???
天理市のどこが海石榴市だと? 暴力団、暴走族でもないし。
(上の名前)某勝義という名前の家、川崎市川崎区の南部のほうw
『鳳輿』
このような名前。 『ドンバ』
河伯、日本では河童?同じ家だと言っているのにw
キュウリのような葉、葱の華・・・、写真。 >>986
>奈良湖があったとしても盆地全体が湖ではない
>奈良盆地の発展は山の近くにある遺跡で説明できるのよ
奈良湖があったから盆地の辺縁にしか遺跡がないわけだよ。
筑後平野は狭いとか言っている場合ではない。
奈良盆地の方がもっと狭いとか考えないのか?
ダブスタなのか?
サルなのか? 老婆が言うにはw
当時の嫁の家(父親)も、
何とか様(ヒミコなどではない)なんて言われていたと言っていたり。
老婆から見ると・・・姑の父親など。 >>183
訂正しなくて良い
海石榴市は、桜井市金屋付近だから >>130
>平原攻撃するときにネタとして使えれば程度かな使えないから出さないだけだな
平原を攻撃して何か嬉しいの?
畿内説の証明をしなくていいの? 2018年10月 纒向学・東京フォーラムVII
>渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、
>魏の文帝が「御陵は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」、などと定めたことを紹介し、
>魏使は卑弥呼の墓を見て「これは中国の墓制に則る墓だ」と思っただろうと話した。
つまり卑弥呼の墓は、
径百余歩(150m余)の自然丘陵を利用し、その頂部に棺を埋め、やや大きめに盛り土しただけの質素なものだったのだろう。 >>180
あほ 飛鳥時代 桜井市が京かよ
京の意味も知らんのか 老婆談のほうが正解なんだと言っているのに。
当時、住んでいたという家があるんだけど、
本や書なんかも、だーっと並んでいて。
あと馬に乗って、腰に刀を差していた。
どこだったかな〜・・・城があったんだよ。 他の人物(ワタナベという人物)の話。
とあるスレによると「ワタナベ陛下」のはずなのに。
老婆(旧姓わたなべ)が言うにはw
家のほうが・・・とか。 >>191
>平原を攻撃して何か嬉しいの?
別に攻撃なんぞしてない
時代が違うという常識を述べてるだけ 遣唐使と難波での交渉が難航してるじゃん
六月の壬寅の朔丙辰(06.15)に、客等、難波津に泊れり。
是の日に、飾船三十艘を以て、客等を江口に、新しき館に安置らしむ。
是に、中臣宮地連烏磨呂、大河内直糠手、船史王平を以て掌客とす。
爰に妹子臣、奏して曰さく、「臣、参還る時に、唐の帝、書を以て臣に授く。
然るに百済国を経過る日に、百済人、探りて掠み取る。是を以て上ること得ず」とまうす。
是に、群臣、議りて曰はく、「夫れ使たる人は死ると雖も、旨を失はず。
是の使、何にぞ怠りて、大国の書を失ふや」といふ。則ち流刑に坐す。
時に天皇、勅して曰はく、「妹子、書を失ふ罪有りと雖も、輙く罪すべからず。
其の大国の客等聞かむこと、亦不良し」とのたまふ。乃ち赦して坐したまはず。 >>193
>あほ 飛鳥時代 桜井市が京かよ
宮殿が小墾田だから
大和川水系に沿って来るなら
桜井市の椿市で入京だね
通説だ >>197
>遣唐使と難波での交渉が難航してるじゃん
どこの誰が遣唐使と交渉した? >>188
>奈良湖があったから盆地の辺縁にしか遺跡がないわけだよ
縄文時代のな
だから卑弥呼と無関係 >>193
アホの奥山のレス稼ぎに付き合ってやらなくていいよ
奥山のみ理解できてないから、テンプレ変えないだろうWW >>106
>牛は天神と牛頭天王の祇園
天神はアマテラス、牛頭天王は素戔嗚のこと。 >>196
>時代が違うという常識を述べてるだけ
平原遺跡の年代はまさに卑弥呼の時代 >>1
あんたの負け 俺にゃあ関係ないけど
このくらい理解できなくて、倭人伝の2000文字の解読は無理
>
六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。是日。以飾船三十艘、迎客等于江口。安置新館。
於是。以中臣宮地連烏磨呂。大河内直糠手・船史王平為掌客。爰妹子臣奏之曰。
臣参還之時。唐帝以書授臣。然経過百済国之日。百済人探以掠取。是以不得上。
於是群臣議之曰。夫使人雖死之、不失旨。是使矣。何怠之失大国之書哉。則坐流刑。
時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大国客等聞之、亦不良。乃赦之不坐也。
秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。是日。遺飾騎七十五匹、而迎唐客於海石榴市術。 本や書などの話、
誰かにあげたのかな・・・それとも・・・とか。
後に神様になった人物?にあげたとか? >>202
>奥山のみ理解できてないから、テンプレ変えないだろうWW
奥山に限らず
あんたが説明できないことは
他人には理解できないよ
だって説明できないんだろう? >>205
あんたが自分の考えを他人に説明できないなら
あんたの考えは誰にも理解できないよ >>204
>平原遺跡の年代はまさに卑弥呼の時代
でも平原1号に人が葬られたとき
卑弥呼は生きてるからね >>198
小墾田宮は、飛鳥時代の推古朝および奈良時代の淳仁朝・称徳朝の宮殿。「小治田宮」とも書く。
近年の発掘調査から、奈良県明日香村の雷丘周辺にあった可能性が高くなっている。 >>198
>宮殿が小墾田だから
大和川水系に沿って来るなら
桜井市の椿市で入京だね
通説だ<
うん 大和川だと船じゃねーか
大和川経由なら一月以上もかかるかボケ >>212
実際に6月にはまだ難波にいて
入京は8月と
史料にあるのだがね 謎の『ぽぽぽぽーん』CM。
スカンク「屁の河童」・・・あのネタでしょ。 >>208
レス稼ぎかよww
読んだらわかるじゃん
誰かが訳してたし 「屁以下、屁以下」あのネタ。
中国(中華)という国があるんだと言っているのに。
あったでしょ?あと、むかーしの渡来人(中国から〜)。 __ __
/__\ ./__\
( (´・ω・`)) ((´・ω・`) )
ババ様、みんな死ぬの? >>215
自分の考えをまったく説明できないってことは
あなたの考えは他人には理解されなくて当然ということだよ
つまり反論にならない 罵倒と中傷だらけ
実に不毛なスレやな
なんでこんなクソスレが続いているんだ?w いまでいう、
何かの先生のような家の人だったのかな?
みたいな話なのかもしれない。
あいさつ、お辞儀・・・など。 >>220
バンビシャスは、今日も、邪馬台国があった場所での闘いに、負けたのだな。 畿内説が破綻して中傷入り乱れるスレに変わった
詮無き事です 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族の奥山氏は、明日からも、負け続けるのだったね。 >>168
>6月15日には難波津に上陸してるよ?
8月3日に都の入り口に着いてるよね?
上陸してから1ヶ月以上かかってる<
その一カ月以上の間で
難波津から都についた日数が不明なのですよ
難波津に泊って 新らしい館を作ってもらって 交渉もして
難波津に何日いたかも不明なのですよ
分かるのは8月3日に都入りしたことだけですよ >>199
中臣宮地連烏磨呂、大河内直糠手、船史王平 >>226
>難波津に何日いたかも不明なのですよ
その難波津にいた日数を数えていけない理由は? ほんとーにw同じ家の写真なんだと言っているのにw
オジギソウの類なども写っていたでしょ。
>オジギソウ。お辞儀。 >>226
追加しとくね
その章に書いてあるよ
北極星(天文図)は五星からなり、主星は極星、自らは動かず、すべてはそれを枢軸として移動する。 >>227
>中臣宮地連烏磨呂、大河内直糠手、船史王平
その人たちが遣唐使と何を交渉したと? ●北斗七星
北斗七星はおおぐま座の腰から尻尾にかけての星です。
北の斗(ひしゃく)の七(の)星の意味で、ヒシャクの先にあるα星とβ星を結ぶ方向に、
α星とβ星の間隔で7つ先の延ばすと、そこには星の運行の中心となる北極星があります。
北を指し示す星であり、古来より様々なお話があります。
三国志ではこの北斗七星に願をかける場面が大きく2つ出てきます。
赤壁の戦いで「東南の風をよぶ時」と「軍師孔明の寿命を延ばす儀式の時」です。
●南斗六星
南斗六星はいて座の手の部分にありまして、北斗七星よりも小ぶりな大きさですが、
六星でやはりヒシャクの形を思い起こしまして、北斗七星に対し南斗六星として知られています。
南斗六星は中国の星座「二十八宿」の1つで「斗」と呼ばれます。
中心となる距星はいて座(Sgr)φで、 該当星はSgrμ,Sgrλ,Sgrφ,Sgrσ,Sgrτ,Sgrζの6つの星から成ります。 コロナにかかって高熱が出て
うわごとのような書き込みをくり返す九州説 『311 大震災』
観ていたでしょ?当時のテレビなど。
311前後の話。 >>228
陸行1月を難波津にいた日数を入れるなら
水行10日も何日投馬国に滞在してたかも入れなきゃならなくなる。 市の名前を邪馬台国市とすれば
纏向遺跡を邪馬台国遺跡とすれば
不毛な論争に終止符を打てる 「王」(ほんとーは『鳳輿』このような名前)
・・・サトシという名前の人物などもいたり。
とあるドラマ? ちょっと待て投馬国は出雲
難波津なら吉備になるが吉備なんぞ出る幕無いボケ助 なぜか家と同じ。
某勝義・・・、サトシ、サイ・・・など。 >>228
もうやめたら
畿内説の学者でもそんな馬鹿なこと言わないよ
いたら教えてくれよ 出雲から1か月歩いたらちょうど大和国に到着する途中吉備で饗宴の宴が1週間程度
吉備の扱いはその程度 投馬国でも使節を歓待する饗宴の宴が催されたとするのが自然な考え方
中国の風習では饗宴に要する日数はだいたい1か月ほどと長期にわたる >>238
>水行10日も何日投馬国に滞在してたかも入れなきゃならなくなる。
そういう実例があればな
しかしその場合も「入れなきゃならなくなる」ことはない
「入れてもいい」だ
だって確実に「何日も滞在した」なんて言えないだろ? >>241
>ちょっと待て投馬国は出雲
断定する根拠は? 家は川崎区に住んでいたわけでもないしな・・・。
お墓なども、2代くらい前の名前しかないし。
もれ(仮)の父親から見てw二代ほど前の名前。 >>250
反論
理由の説明がない
理由がなければ論ではない 結局、九州説は「論じる」ことが出来ず
議論から脱落していくのだな
おきのどく >>251
当時畿内ルートは吉備に抑えられてたから使節は日本海ルート使うしかなかった
出雲大社の威容を目の当たりにした使節は神殿に昇って饗宴の宴をしたと出雲地方で言い伝えがある
こういう情報は学者レベルでしか知りえない情報だからネットにはまだ載ってないがな >>254
九州説が知らんだけだズモは出雲に決まってる なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだろうか。 たしか・・・伊達郡というところの話をしているしな。
戦争をしているときも、親戚の家?
家の誰だったかな・・・兄弟の家?そこに行ったとか。 >>258
発掘しても、発掘しても、具体的な証拠が全く見つからないと判定されてしまったからでは、ないのかな。 >>256
>当時畿内ルートは吉備に抑えられてたから使節は日本海ルート使うしかなかった
畿内と吉備は蜜月だぞ
学者は誰でも知っている 徳勝龍誠氏は、パレードを実行したので、目出度いな。 >>260
破綻した九州説爺がしぶといぞ
辺鄙な田舎の九州は落ちぶれたと考古学的に証明されている >>260
頼みの綱の古墳も、近畿地方に造られるようになったのは、4世紀後半と判定されてしまったのだったね。 だから言っているだろう、おかしな話ばかりだと、
『旧広瀬座』というところの話もしているし。 >畿内と吉備は蜜月だぞ
>学者は誰でも知っている
吉備は奴国でいいとなる査証
吉備の中にも良い奴もいれば悪い奴もいる つまり、魏志倭人伝時代には、邪馬台国があった九州は、まだ落ちぶれていなかったのだな。 徳勝龍誠氏は、勝ち続けることが、出来るのだろうか。 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族の奥山氏は、明日からも、負け続けるのだったね。 >>266
九州説嘘確定
纏向古墳群の造営開始は2世紀前半スタートしてる 九州説がいくら言い張っても奴国まで抑えてた大和の邪馬台国に滅ぼされた側 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮民族の奥山氏は、日本政府が正式に設置した機関の意見に、真っ向勝負を挑むのだな。
272日本@名無史さん2020/02/23(日) 18:36:36.84
>>266
九州説嘘確定
纏向古墳群の造営開始は2世紀前半スタートしてる >>275
邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。 NHKオンデマンドとは、どのような物事なのだろうか。 キナイコシのキャラ好きだな 子供をあやしてるみたい >>277
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説にとっての頼みの綱である古墳も、近畿地方に造られるようになったのは、4世紀後半と判定されてしまったのだったね。 九州嘘おつ
近畿地方の古墳時代の始まりは2世紀前半 投馬国は、吉備をあきらめて出雲に鞍替えしたのだなww
出雲風土記にはそれらしい気配まったくなし・・・ww 阿南市加茂町の「加茂宮ノ前遺跡」で、古代の祭祀などに用いられた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期の石臼や原料の辰砂が大量に出土した。
県教委などが、国内最大で最古級の生産拠点だったと発表した。
近くの水井町にある弥生時代後期〜古墳時代初期の「若杉山辰砂採掘遺跡」が国史跡の指定を受け、辰砂の採掘方法が判明した全国唯一の遺跡と評価された。
両遺跡は那賀川中流域での水銀朱生産の歴史をひもとく発見として注目されている。
「加茂宮ノ前遺跡」では石臼や石きねのほか、辰砂原石や水銀朱を塗った土器の破片、耳飾りなど約1千点が出土した。
祭祀に使われたとみられる円形に石を並べた遺跡や住居跡も見つかった。
過去の発掘調査では弥生時代中期末〜後期初期に水銀朱が生産されていたと判明していた。
今回の発見で、その起源が縄文時代後期までさかのぼることになった。 @阿波 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説にとっての頼みの綱である古墳も、近畿地方に造られるようになったのは、4世紀後半と判定されてしまったので、
またしても、朝鮮民族の奥山氏が、討論での反論を諦めて、敗北宣言の意味にしかならない嘘の悪口を言い放ってきたな。
280日本@名無史さん2020/02/23(日) 18:44:42.67
売国奴九州説は破綻したんだね
281日本@名無史さん2020/02/23(日) 18:45:57.35
九州嘘おつ
近畿地方の古墳時代の始まりは2世紀前半 NHKオンデマンドとは、どのような物事なのだろうか。 >>285
またコトバンク〜とか、そういう話?
例えば『河伯』〜『オウガイ』(『北斗の拳』?)は、
やっていた局も違うし、朝日なにやらではないでしょ。 畿内説は、ついにイズモに追い詰められたか
国譲りも間近かになったようだな・・www >>249
ドアホ
からかわれてるのだよ
そのくらい分かるだろ 反論もできなくなった死滅した九州説の最後の足掻きが見える 『オウガイ サウザー』(北斗の拳?)
『ドンバ』(河伯、河童)
とあるサイトなどがあるでしょ、継承〜の話もしているし。 嫌がらせのような事ばかりしている人間(宗派?)もいるんだよな、
と言っている人達もいるし。
冤罪事件とか。 自分が〜()〜になる方法というスレの話なども同じ、
例えば漫画やアニメなどの主人公。
悪役?
そういうキャラのほうが、ほんとーは主人公(何かの家の)で・・・w >>291
悲惨だな九州説
負けては誤魔化し
逃げていく毎日 >>1 奥山さん少しだけ助け舟 瀬戸内ルートは支持しませんが
『隋書』には以下のように記されています。
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
この文は有名ですからご存知でしょう。
魏志でいう邪馬台国はヤマトであるという記載です。
ここで裴世清一行のヤマトまでの道のりを『隋書』と『日本書紀』を時系列的に並べてみます。
まず隋書
度百濟 行至竹島 南望 羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國
百済を渡り、竹島に至り、南に 羅国を望み、都斯麻国の遙か大海中に在るを經。
また東して一支国に至り、また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。 次に隋書によれば
又經十餘國 達於海岸 自竹斯國以東 皆附庸於倭
また十余国を経て、海岸に達す。竹斯国より東、みな倭に附庸す。
日本書紀
秋八月の辛丑の朔癸卯に、唐の客、京に入る(608年8月3日)
隋書
倭王遣小コ 阿輩臺 從數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎
倭王は、小コ 阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ。 日本書紀
是の日に、飾騎七十五匹を遺して、唐の客を海石榴市の術に迎ふ。
額田部連比羅夫、以て礼の辞を告す。
隋書
後十日 又遣大禮 哥多毗 從二百餘騎 郊勞
後十日、大禮の哥多毗(かたひ)を遣わし、二百余騎を従え郊勞せしむ
日本書紀
壬子(608年8月12日)に、唐の客を朝庭に召して使の旨を奏さしむ。
時に阿倍鳥臣、物部依網連抱、二人を客の導者とす。
隋書
既至彼都 其王與清 相見 大ス
既にして【彼の都に至るに】、その王(倭王)、清(裴世清)と【相見て】、大いに悦びて曰く。 日本書紀
是に、大唐の国の信物を庭中に置く。時に使主裴世清、親ら書を持ちて、両度再拜みて使の旨を言上して立つ。
隋書
朝命既達 請即戒塗 於是 設宴享
朝命は既に達せり、請う、即ち戒塗せよ」と。ここに於いて設宴を享け
日本書紀
丙辰(608年8月16日)に、唐の客等を朝に饗たまふ。
隋書
以遣清復令使者隨清來貢方物
以って清を遣わし復た使者をして清に随いて来たりて方物を貢せしむ。
日本書紀
九月の辛未の朔乙亥(608年9月5日)に、客等を難波の大郡に【饗たまふ】。 □辛巳(608年9月11日)に、唐の客裴世清、罷り帰りぬ。則ち復小野妹子臣を以て大使とす。
ご覧のように、2書を並べることで、隋書だけでは分からなかったことが見えてきます。
まず、倭国が裴世清一行を迎えた場所は「難波津」であると記しています。
上のように並べれば、それがあの「秦王国」だと分かるのです。
しかしながら、一般人から学者まで、日本書紀のこの部分を読んで「難波」は「大阪」と思い込み、まず全ての考察がそこからスタートします。
これが大きな間違いなのです。
日本書紀と同時代に書かれた国名・郡名・郷名の記載された辞書である倭名類聚抄には大阪には難波の記載はありません。
大阪の難波はもっと後の時代にコピーされて名乗り始めた地名です
参考http://mille-vill.org/%E3%80%8E%E5%92%8C%E5%90%8D%E9%A1%9E%E8%81%9A...
では、どこに「難波郷」があったのか?と言えば、調べればすぐ分かりますよ。 隋書の記録では
「ヤマトの海岸」に到着後10日後にヤマトの朝廷に呼ばれ、倭王に謁見したとあります。
日本書紀では、一行は遣隋使小野妹子とともに来日し、6月15日難波津に泊まり、歓待を受けたのち、8月3日、京に入り、その10日後の8月12日、朝廷に呼んだ。
とあります。
つまりヤマトの海岸到着は京師(の海岸)到着であり「難波津」のことではない、ということになります。
ほとんど全ての研究者は、この矛盾を無視しているのです。
つまり、「難波津」は隋書に記される「又經十餘國 達於海岸」の「海岸」ではないということ。 わかりやすく、日付のはっきりした動きだけを並べてみます。
『隋書』 上 : 『日本書紀』 下
【又至竹斯國】
【裴世清、筑紫に至る】(608年4月)
【又東至秦王國】
【客等、難波津に泊れり】(608年6月15日)
(京の)海岸に達す】
【唐の客、京に入る】 (608年8月3日)
【後十日】、 【郊勞せしむ】(後十日。8月3日を含めば、8月12日)
【八月十二日】 【朝庭に召して使の旨を奏さしむ】(608年8月12日)
これだけ、隋書と日本書紀の動きが一致しているにも関わらず、みな、「難波津」が、「(ヤマトの)海岸」だと思い込んでいるのです。
難波津」が、「海岸」のことだというなら、そこに(6月15日)〜(8月3日)、50日もの誤差が生まれます。
全体の動きが一致しているのに、それはありえません。 >>81
>畿内の次の卑弥呼の墓候補としてホノケ山古墳忘れてる。<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
ホケノは、「南≠東」などによっても、×です。
>九州を圧倒する凄い出土品
銅鏃 約60本鉄鏃 約60本素環頭大刀 1口鉄製刀剣類 10口
時代も丁度卑弥呼と合います<
卑弥呼の墓は「冢」であって前方後円墳ではないから×であるし、
大和の最も古いクラスの前方後円墳の庄内1の石塚が3世紀末になるから、
庄内3〜布留のホケノは、3世紀最末〜4世紀になり、
やはり3世紀前半末の卑弥呼とは全く合わず、×です。
ホケノも、九州倭国の「東征毛人五十五國」の征服軍の武将らの墓です。 そこで上の文をもう一度見てください。
度百濟 行至竹島 南望 羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 又經十餘國 達於海岸
百済を渡り、竹島に至り、南に 羅国を望み、都斯麻国の遙か大海中に在るを經。
また東して一支国に至り、また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。また十余国を経て、ついに海岸に達する。
裴世清一行は、秦王國を出た後、十余国を経て、「海岸に達した」のです。
そして、そこが当時のヤマトでした。
わかるでしょうか? つまり一行は陸行しているのです。
日本書紀によれば、裴世清が帰国するときは、帝都から難波津まで20日です。十余国の立ち寄りは不要なので休憩以外はそそくさと進んだのでしょう。行程の内容によるが、
片道20日〜39日ですから、平均で1ヶ月です。
裴世清一行は、難波津で、まず歓待を受け、途中十余国に立ち寄り、帝都ヤマト海岸部での歓迎儀式の10日後、トータル49日で天皇に謁見しています ここで、魏志倭人伝を思い出してください。
投馬国から女王国までは、水行でも陸行でも行けましたが、陸行の場合の行程は1ヶ月でした。
隋書によれば、裴世清が天皇に謁見した「邪靡堆」は、魏志倭人伝の「邪馬臺」と同じ、ということですから
泰王国が投馬国ということになります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上 奥山氏に助け舟出しときます
こじつけは歪めません >>170
>帰りも難破に6日泊まってるんだよ。
>行きは、交渉ごとを、難破で済ませて
そんなもの日数に含めるわけないし、それならなぜ難波の記事が伊都のように記録されていないのか。 その天皇というのは、テレビに出てくる天皇(不明)の話?
違いますという話ばかりなんだけど、なぜだと思う? >>210
>でも平原1号に人が葬られたとき
>卑弥呼は生きてるからね
根拠なし。
そもそも卑弥呼がいた時代に卑弥呼の他に絶大な権力を誇る女性が他に伊都にいたことになるが、そんな記録は魏志倭人伝にない。 畿内説は、ついにイズモに追い詰められたか
どうやら国譲りも間近かになったようだな、早く譲れよ・・www >>1=奥山さん
難波津から陸行一月で都とは非科学的ですが
テンプレをいつも作ってくれてるお礼です >>263
つまり畿内だと考えるとどうしても矛盾が生じてしまうということ。 前方後円墳による全国支配体制
三角鏡による有力豪族の臣従
庄内式による北九州への大和の影響力
雄大なホノケ山古墳
日本最初の計画都市纏向遺跡群
狗奴国は近江の毛野軍で後の磐井の乱でも登場
九州の小さな平地と比べ畿内の広大な領域でないと7万戸の邪馬台国は不可
畿内はまだまだある
九州説敗北、邪馬台国は大和で箸墓は卑弥呼で確定 NHKオンデマンドとは、どのような物事なのだろうか。 平原遺跡群は最新の炭素年代測定で1号でも1世紀後半から2世紀前半で卑弥呼は年齢が合わない 纒向・箸墓説のネタ元:
昭和40年頃のこと、糸島のケンカ大六こと原田大六が、某社に乗せられて「箸墓ダー説」を出版してから、急ににぎやかになった。
つまりこのネタ元は、京都で創業し、神田駿河台に移った三一書房が、一発ねらって畿・九対立を仕込んだからなのだwww >>312
キウスさん ご苦労さん
投馬国から陸行一月で巻向と言うことでしょ
奥山はそんなこと全く考えて無いから 馬鹿 畿内説の南→東教祖:
内藤湖南(本名・虎次郎、明治20年・1887〜 秋田の片田舎から出てきて雑誌記者となる )
記者時代、日露戦争に於いては開戦論を展開した怪。。。。 前方後円墳による全国支配体制
三角鏡による有力豪族の臣従
庄内式による北九州への大和の影響力
雄大なホノケ山古墳
日本最初の計画都市纏向遺跡群
狗奴国は近江の毛野軍で後の磐井の乱でも登場
九州の小さな平地と比べ畿内の広大な領域でないと7万戸の邪馬台国は不可
畿内はまだまだある
九州説敗北、邪馬台国は大和で箸墓は卑弥呼で確定 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6。 これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
(中略)
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づ
いた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
九州上陸地として、白鳥は平戸を挙げ、そこからの陸行は、海岸伝いに松浦ー唐津ー糸島ー博多へと向かったとしている。
そもそもこれが大間違いだ。平戸に行って博多に戻るくらいなら、最初から博多に上陸すればよかったのだ。
ここは素直に、唐津湾に注ぐ松浦川中流の中原遺跡が順当である(>>1もこの案である)。 >>326
あくまで、飛鳥時代の話です
失礼しました >>330 続
そして唐津湾に注ぐ松浦川中流の中原港から、東南の佐賀平野へ向かえば何の問題もない。
陸行500里で佐賀川上と云う歴史的な遺跡群に到着する。この地は律令制下では山田郷といったが、
和名抄は、これを「也万多・やまた」と読ませている。 成り済まし、騙り・・・など必要ないんだけどなw
とあるサイトなどでも同じことを言っている人がいるし。
なぜだと思う? >>85
>>魏朝内で使用する鏡なら「右尚方」「中尚方」「左尚方」の記銘仕分けは意味があるが、
対外的に出す鏡であれば「尚方作」とすれば済むもの。<
>魏の紀年銘の「尚方作」という物品が存在しないのだから
お前が個人的に思ってるだけだw <
変な事を言うなあ。
国家の工房が造った鏡なら、「尚方作」などと示せば済むのであり、
年次を区別する必要がなく、「紀年」は原則として不要だよ。 それにしても確実に・・・、
小手子の像というものが建てられているところ、
あの辺りの話もしているし。
老婆談などのw当時は像も無かったと思うんだけど。 >>313
>そんなもの日数に含めるわけないし、
理由も言わずに「わけがない」と叫んでも
そんなもの学問ではないし
反論でもない
>それならなぜ難波の記事が伊都のように記録されていないのか。
記録するわけないだろう
国じゃないのだから
何をトンチンカンなこと言ってるんだ
これだから九州説はレベルが低いと言われるんだ >>321
他説に振るのは良くありません
畿内説のスレです
スレ主無視ですか? >>87
>異論あるだろう 卑弥呼の冢が円墳なのだという理由がない <
「冢」は、豚や猪の顔のように、
円錐であれ角錐であれ、「錐体台」的な墓を示すのあり、
だから、前方後円墳の形の墓は×だ。 ヘイヘイきゅーしゅー負を認めたのかヘイヘイうそつききゅーしゅー ここに九州説敗北決定の記念日を制定する
大和女王卑弥呼より >>341
>「冢」は、豚や猪の顔のように、
円錐であれ角錐であれ、「錐体台」的な墓を示すのあり、
そんなこと素人爺さんが勝手に決めても
だれも信用しないだろ 前方後円墳による全国支配体制
三角鏡による有力豪族の臣従
庄内式による北九州への大和の影響力
雄大なホノケ山古墳
日本最初の計画都市纏向遺跡群
狗奴国は近江の毛野軍で後の磐井の乱でも登場
九州の小さな平地と比べ畿内の広大な領域でないと7万戸の邪馬台国は不可
畿内はまだまだある
九州説敗北、邪馬台国は大和で箸墓は卑弥呼で確定 >>89
>後円部径約55メートル無理はない <
ホケノも、「南≠東」などに拠って始めから×だ。
>正確に測った数字ではない径百余歩は使節が倭人から聞いたうわさ話を本国に伝えた数値で倭人伝に完全に合わせなくてよい<
始めから有効数字1桁に「余」を付けた「近似値的な計測」値だ。 何がwおかしいのかwという事になってくる。
日本昔話ではないんだけど、伝説の船の話とか、
てんのー(日本の?)も、いなかった頃の話でしょ、そういう家の人の話。 >>90
>前方を後で付け足した後円形が元の弥生墳丘墓であるとする見方が趨勢<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説学者や大和説者の「趨勢」など、
根拠にならない。
ホケノは、前方後円墳型として造られた墓だ。 >>298
>反論できなくなった九州説<
ハッーーなんの反論
ここは畿内説のスレだから
ニュウ速へおいで >>92
>使節が聞いた倭人のうわさ話が元で使節自ら墓の内部構造まで知る術はない<
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」は、うわさでは書けず、
魏使らの実際の見聞計測の記録だ。
>箸墓は明らかにボツ、卑弥呼の墓はホノケで間違いなし。<
「南≠東」などに拠って、×だ。 奥山 馬鹿確定
これに反応したら奥山=>>1
まず、反応するだろうな 伝説の船。
↑
←大陸→中国→朝鮮半島→日本(倭でも良い)
↓
なぜか他の国も同じ。
日本昔話(記紀?)は日本に来た、一行の話。 >>103
「南→東」などの史料事実の否定や口先での曲解の嘘つき騙しの大和説者、
ひとり芝居やりすぎ 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 奥山 愛されているな
馬鹿な子ほど可愛いのだろうな >>105
>後円部径約55メートル無理はない
正確に測った数字ではない
径百余歩は使節が倭人から聞いたうわさ話を本国に伝えた数値で
倭人伝に完全に合わせなくてよい<
「径百余歩」は、有効数字1桁近似値で、
なおかつ「余」を付けて近似値である事を示しているから、
魏使らに拠る「実地の計測近似値」である。 >>351
>これに反応したら奥山=>>1
馬鹿はあんただ
前から奥山=>>1に決まってるだろ 日本に来た、伝説の船。
ほんとーは、どこの国の人間だったの?となるでしょ。
近現代的な乗り物(飛行機や船)で来たわけでもないし、〜数時間で着きましたとか。 >魏使らに拠る「実地の計測近似値」である。
嘘平気で吐く九州説発見
使節が倭人から聞いた話を実測値とはwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>107
>畿内同士喧嘩しないでホノケ山古墳は有力候補、箸墓も一応候補入りでいいんじゃないですか?<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
地理的位置は「南≠東」であるから×であるし、
年代的にも、ホケノは3世紀最末〜4世紀であり、箸墓は4世紀であるから、×。 >>1よーーーー
5ちゃんのプロだけど
畿内説のプロじゃねーな
畿内説が誤解される 河伯(日本では河童)、なぜか天帝の話が出てきたり。
キュウリの葉、葱の華・・・、
あれは家の写真なんだけど、ほんとーの名前は『』w
何度も書いている。 九州説もアホな事ばっかり書いてると狂人ばかりと誤解されるぞ
誤解じゃないかも知れないけど >>110
>俺はホノケに一票、箸墓はどうも邪馬台国の女王として謂れが弱弱しい<
どちらも、
地域的に「南≠東」に拠って×であり、
年代的にも、卑弥呼の墓は3世紀前半末であるのに、
3世紀最末以後であるから、×。 >>111
また九州説名物の、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
妄想漬けかよ
おなか一杯だよ 老婆談。
ドンバ(不明)の嫁の家だったかな、自分の家で落雁のようなものを作っていたり。
もう、その家もないよとか。
あの写真なんだろう。 >>119
>卑弥呼と伝承がある倭迹迹日百襲姫命をご存じないと言われるか
大物主神の妻で巫女的な人でござる<
卑弥呼は「無夫壻」であるから、 倭迹迹日百襲姫命は×。
>箸墓とホノケで勝利した方が九州の平原と祇園山の勝者と決戦だ
卑弥呼の墓候補は4つに絞られたな <
箸墓とホケノは「南≠東」などに拠って×。 >>337
>変な事を言うなあ。
>国家の工房が造った鏡なら、「尚方作」などと示せば済むのであり、
>年次を区別する必要がなく、「紀年」は原則として不要だよ。
現物が示せないから「不要」と考えたの?w
何の根拠もない思い付きだろw
現に「正始二年右尚方」銘の出土品がある
これが魏の工房の製品なんだよ 投馬はツマ、行き止まりという意味
端っこ
島根がツマなわけない
投馬国は九州南部 >>122
>だめだ
畿内代表はホノケに譲って頂きたい
箸墓はどうも薄暗くて馬具もマイナス要素となり九州に負けてしまう<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×であり、
ホケノも箸墓も、「南≠東」などに拠って×。 >>128
大和説さん一人で「南→東」などの嘘つき騙しのお芝居しすぎ 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 正確にはツマではなくズマかズーマまたは南部ではズモが投馬発音
ズーマ
ズマ
ヅモ
イズモ
出雲 >>133
そんなこと言わずに国民同士協力して一緒に大和説ををやっつけようぜ
列島の倭国は、生まれた時からずっと九州だったんだから。 蚕を飼い、機織りもしていたとかw
たしか嫁?嫁の家でしていたのかな・・・。
老婆談。
いまの『ドンバ』でしょ、ほんとーの直系? >>134
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者がいたら知らせてくれ
一緒に論破しよう
大和の国民も九州倭国の別種分家の旧小国の附庸國だし、
友達同士なんだから仲良くして上げよう 学会の定説畿内説
売国サヨクじじいのよりどころ嘘九州嘘説 畿内の広大な耕作可能地がないと邪馬台国7万戸は養えない
九州は火山で耕作可能地が無い
九州説反論なしw 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮民族の奥山氏が、邪馬台国畿内説を完全に論破され、オウム返ししているな。
376 名前:日本@名無史さん 2020/02/23(日) 21:20:52.24
つまり、邪馬台国九州説が、完全に破綻したのだね。 >>142
>稲作は長江から直接畿内に伝わったと聞いている九州より先に<
毛人蝦夷地には、紀元前10世紀頃に、満州や沿海州から稲作が伝わった話もある。 徳勝龍誠氏は、次回の相撲大会でも、勝ち続けることが、出来るのだろうか。 徳勝龍誠氏は、銅鐸王国の誇りを賭けて、闘うのだろうか。 >>145
大和説のアホへ
毛人や出雲系銅鐸部族がいた所=九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の一部
=九州倭国の附庸國 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説が、完全に破綻したのだから、このスレッドでは、相撲大会と巻向の関係性についての研究をすれば良いよ。 相撲神社という神社は、巻向の最も古い3つの古墳と掘立柱との関係性が、あるのではないのかな。 >>146
中国の史書をちゃんと読んだこともない大和説のアホへ
「魏志」の倭種、
「隋書」の「其國境東西五月行・・・各至於海」、
「旧唐書」「唐会要」「新唐書」に明記されている「日本國」
=九州倭国の属国確定 >>396
巻向に古墳が造られるようになったのは、4世紀後半なのだったね。 >>147
☆【大和日本國=九州倭国の東征毛人五十五國の属国確定】 >>399
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説が、完全に破綻し、このスレッドでの、相撲大会と巻向の関係性についての研究が、深まってきましたね。 >>149
バカ用に何度でも書いてやるよ
100回音読しとけ
大和=九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の属国確定 >>401
だが、僕達には、相撲についての知識が、全く無いのだったね。 >>403
まず、相撲について、研究すれば良いよ。 >>151
>卑弥呼の墓だけは九州にあって邪馬台国は畿内にあったということ?<
邪馬台国も畿内も、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×だ、という事。 捏造のデパート畿内説がデマを広めて人民を攪乱しているのが許せない >>404
加賀温泉の近くに生まれた、小さな相撲取りは、良いよ。 加賀温泉のお菓子は、あまり、たくさん食べられないのだったね。 >>153
>卑弥呼の墓は畿内にあるのは確実なんだが<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×であるし、
大和は「南≠東」などに拠って、×。
>ホケノ山と箸墓のどっちだろう うーん <
年代でも、「南≠東」でも、「冢ではない」事でも、×。 徳勝龍誠氏は、次回の相撲大会でも、勝ち続けることが、出来るのだろうか。 楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 僕達の同僚が熱狂的に応援していた徳勝龍誠氏は、前回の相撲大会で、次々に勝ち続けたのだったな。 九州説は卑弥呼の墓は冢冢言うけど
国内に冢と定義されてる古墳はない
そもそも冢は単に塚という意味なんだけど 徳勝龍誠氏は、次回の相撲大会では、新型のコロナウィルスに対して、注意した方が良いな。 徳勝龍誠氏は、これからの相撲大会でも、勝ち続け、横綱という位置に出世することが、出来るのだろうか。 >>161
>>都に向かった出発日時が書いて無いじやん <
>書いてないと何? 6月15日には難波津にいたんだろ?
8月3日に椿市に着いたんだろ_ 1ヶ月以上かかってる <
書紀の裴世清の記録は、隋使ではなく「唐使」であり、
中国記録に大業4年の裴世清派遣の記録がなく、延喜講記にもなく、
従って、書紀の裴世清の記録は、大業4年の12年後頃の唐の武徳中の出来事であり、
書紀の偽作になるから、根拠にならない。 また相撲の話?たしか土俵もあったと言っているし、
どこに住んでいた頃の話なんだろうw
老婆談というのは、なぜか?
いまの福島県のほうの話ばかりなんだけど。 横綱という位置に出世した者が、3pを鮮やかに成功させていたのだったね。 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮民族の奥山氏は、何かを稼いでいる可能性が高いのだったね。 楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 >>169
>なんで難波津での滞在期間が入ってちゃイカンのか説明もできない<
書紀の裴世清の説明は、存在もしなかった嘘つき騙し説明であるから、×であり、
根拠にならない。
罵ることしかできないのか大和説 だから議論のできない人種と言われる
裴世清の記録の史料批判も出来ない
ただ言い張るだけ罵るだけ
説明能力が無い
だから大和説はダメなの たしか相撲が好きだったとも言っているし、
どこそこに行き、取ったりもしていたとかw
でも、そういう職業ではない。 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮民族の奥山氏は、嘘や悪口を言い放ちながら、何かを稼いでいる可能性が高いのだったね。 たしか(というか確実)あの辺りの山の上のほうの話をしている。
伊達郡というところがあってw 徳勝龍誠氏は、これからの相撲大会でも、勝ち続け、横綱という位置に出世することが、出来るのだろうか。 5ちゃの帝王
おくやま
嘘で固めれば賑わうから
頑張ってちょ 相撲神社という神社は、巻向の最も古い3つの古墳と掘立柱との関係性があるな。 ほとんど家の話だろう。
『ザ・モモタロウ』『』・・・・。 なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだろうか。 徳勝龍誠氏は、相撲王国の誇りを賭けて、闘うのだろうか。 NHKの発表によれば、近畿地方に古墳が造られるようになったのは、4世紀後半なのだったな。 なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだろうか。 NHKの発表によれば、邪馬台国近畿説には具体的な証拠は全く無いのだったな。 畿内説プロパガンダにだまされる不幸な子どもたちが増えないことを祈る >>1
邪魔しないでくれるかな
畿内説が誤解されるよ
時折投稿してるが 明日からも、奥山氏は、朝鮮民族の誇りを賭けて、闘い続けるのだろうか。 奥山のテンプレ脳じゃ現実に対応できないだろう、指示待ち人間みたいなもんだ ほんとーに理由はわからないんだけど、
当時、持っていた、お金なども無くなったんだよ
と言っていたり。盗まれた? 九州説こそ何度論破されても延々と短里だ畿内の古墳は4世紀だ三角縁は国産だ畿内には鉄がないだ
マニュアルが透けて見えるんですけど 楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 なぜ、邪馬台国九州説は、完全に破綻したのだろうか。 八郎大明神?
なぜか同じ話のような気がするし、親戚なのかな、
どういう話なんだろう。 >>352
>伝説の船
>なぜか他の国も同じ
漫画の話か
ソースを書け
漫画の話と自分の家が同じ なんて意味がない たしか家は伊達郡のほうに住んでいたと言っているし、
よくわからないんだけど、凄い土地を持っていたとか。
『菅野八郎大明神』?親戚? 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 >>192
>2018年10月 纒向学・東京フォーラムVII
渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、
魏の文帝が「御陵は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」、などと定めたことを紹介し、
魏使は卑弥呼の墓を見て「これは中国の墓制に則る墓だ」と思っただろうと話した。
つまり卑弥呼の墓は、
径百余歩(150m余)の自然丘陵を利用し、その頂部に棺を埋め、やや大きめに盛り土しただけの質素なものだったのだろう。<
成程。大和説者は、
早稲田の渡辺の話を、「径百余歩(150m余)の自然丘陵」と曲解捏造して、
世間の人々を騙そう、としていたのか。 日本昔話『夢の売り買い』
浦島太郎wのような人物もいるでしょ、仮名? :「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。 >>210
>でも平原1号に人が葬られたとき
卑弥呼は生きてるからね<
明帝から卑弥呼に下賜された21枚もの「尚方作」鏡が出土したから、
平原1号墳は、卑弥呼が亡くなった後の墓だ。 だから言っているだろう。
『もののけ姫』・・・?神殺し。
『寿老人』このようなキャラもいるし、あと北斗南斗とか。神殺し。 いまの天皇(それとも数代前?)が言ったと言ってる人もいたり、
(神を)殺せと。あと創価関係。 どのスレも同じ、
つーちゃん(5ちゃんねる)ではなくても同じ、
創価(〜宗?)か何かなんだろうという話ばかり。 中国の史書をちゃんと読んだこともない九州説のアホへ
「魏志」「隋書」「旧唐書」「新唐書」に明記されている記事
神武東征後に大和州に都を遷す
用明天皇(神武天皇の後の天皇)=アメノタリシヒコでありその都は邪馬台国と同じ
↓
☆【邪馬台国=大和で確定】
用明天皇はその後の平安時代の天皇まで累が継続している
白村江の戦いで戦った当事者の中国の記載
用明天皇は旧唐書の倭と日本の記事の前の人物
↓
☆【九州王朝など存在しないのが確定】
アメノタリシヒコは属国に一大卒を送り込んで支配している
一大卒のいるところ=大和の属国
↓
☆【九州=大和の属国確定】
バカ用に何度でも書いてやるよ
100回音読しとけ 同じ家w知っている人は知っている。
下の名前「勝義」という家、サトシもいるし、
・・・あの写真の家で。 家(家自体)は創価ではないと言っているし。
老婆も・・・? 九州説壊滅wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 成り済まし、騙り・・・には何を言っても無駄だろうけど。 隋の特使である斐世清は実に怪しい奴だ。百済国を通過する時に隋の煬帝の国書を百済人に盗まれたそうだ。
しかし、なぜか特使の斐世清は推古天皇の前で隋の煬帝からの国書を読み上げた。
斐世清は小野妹子と組んでボロカスに書かれた隋の煬帝からの国書をまともな文章へ偽造したに違いない。 ドラクエでも何で良いけど、どこかの国王、王子、姫とか。
それ(ゲーム)以前から言っている人達がいたり。
『ドンバ』『』『』も同じ。 国書をボロカスに書くとかどこの小学生?w
たとえ相手を頃そうと思っていても
ロケットマンくらいは言っても
素晴らしい男だ
信用している
とか言って
国際秩序の中に嵌め込もうとするのが皇帝の処世術 河伯(日本では河童)・・・、
仏教関係の話にも出てくるし。
老婆も同じような話をしているし、
あの頃は肉なども食べなかったとかw たしか肉は食べなかった、
父親wも食べたりしていなかったと言っているし。
(浦島太郎と同じ)
いつ頃から、そういう事になったんだろう。 あのネタの話の頃からなのかな
『モンティ メーソン』 家自体は肉なども食べたりしていなかったと言っているし、
確実に、上のほうの家なんだろう、聖人クラスとか。 S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 橋が完成したので・・・という招待状が来たこともあったり、
そのときは年も取っていたし、遠いから断ったとか。 >>489
おぬしの人生をかけて
カエルの調理法を存分に極めるがよかろうw 『モンティ メーソン』でも言っているでしょ、
『屠殺場』が何やらとか。
家自体は、そういう家でもないし、肉も食べなかったとか、
まさか上のほうの家だったとか? 弥生時代以降に奈良湖なんてない
650日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:03:02.66
元ねた見つけたわ
国土地理院時報(2000 no.94)
「近畿地方の古地理に関する調査(国土地理院地理調査部)
http://www-im.dwc.doshisha.ac.jp/~nihei/nara/index.php?%C6%E0%CE%C9%CB%DF%C3%CF%A1%A7%C3%CF%B7%C1%A1%A6%C3%CF%BC%C1%A1%A6%BF%E5%B7%CF
657日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:12:52.10
>>650のリンク先にある「奈良盆地の地形学的研究」53ページに
>なぜなら、奈良盆地が更新世以降において湛水し湖沼化したという事実は認められない。
とあるな データベース名 遺跡
ID 11A-0104
市町村 川西
遺跡名 下永東方遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東方
種類区分 集落・町屋,社寺
時代区分 縄文,弥生,古墳,奈良,平安,鎌倉,室町
時代詳細 縄文・晩〜古墳・後、奈良〜室町
遺跡概要 方形周溝墓、井戸、掘立柱建物、区画溝
遺物 縄文、弥生、土師、須恵、黒色土器、中世土器、木製品、石器、石製紡錘車、土馬
文献・備考 白米密寺伝承地、『下永東方遺跡』(文化財報86)2001、『奈良県遺跡調査概報2003年度第1分冊』2004、
『奈良県遺跡調査概報2004年度第1分冊』2005 データベース名 遺跡
ID 11A-0123
市町村 川西
遺跡名 下永東城遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東城
種類区分 集落・町屋,墓・墓地
時代区分 縄文,弥生,古墳,鎌倉,室町
時代詳細 縄文、弥生・中、古墳・前〜中世
遺跡概要 方形周溝墓、土坑、掘立柱建物、井戸
遺物 石器、弥生、土師、石釧、木器
文献・備考 『下永東城遺跡』(文化財報103)2003 http://www.ksmt.com/panorama/130501nara/130501nara.htm
>2013.5.1 Kashihara 橿原
>飛鳥を自転車で回ろうと思い近鉄橿原神宮前駅へ。
>まず奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の「5世紀のヤマト〜まほろばの世界〜」を見学。
>5世紀の遺跡から出た資料が展示されており興味深いのですが、最も興味を引いたのが5世紀の地図。
>古奈良湖は既になく、奈良盆地全体が陸地をして描かれています。
(略)
>橿原考古学研究所の受付の方にお願いすると、水田の発掘担当者の方に直接話を聞けることになりました。
>運が良かったようです。
>担当者の方の話によると、
>
>1.縄文後期の遺跡が奈良盆地の一番低いところにも存在するので、縄文後期には既に古奈良湖は消滅していたと考えられる。
>法隆寺付近に古奈良湖が7世紀頃まであったという説は、どうやら間違いのようです。 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、老年期に多く見られる、一種の精神障害。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化した言動を繰り返す。
簡単に言えば、「俺様偉い病」、「俺の意見は正論病」である。
現役時には社会に適合してゆくために自己の相対化に努めていたが、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。 >>228
>難波津に何日いたかも不明なのですよ <
・・・
>その難波津にいた日数を数えていけない理由は?<
畿内説は支離滅裂だな
テンプレFAQ78道里遠近
「均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。」
なんだよこの、体たらくは その場しのぎのご都合主義じゃん >>169
>なんで難波津での滞在期間が入ってちゃイカンのか説明もできない<
同じく
テンプレFAQ78道里遠近
「均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。」
奥山のアホ >>236
>大和川がある桜井市が邪馬台国でいいんじゃないかな <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であるし、
「南≠東」などによっても×。 >>239
>市の名前を邪馬台国市とすれば
纏向遺跡を邪馬台国遺跡とすれば
不毛な論争に終止符を打てる <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であるし、
「南≠東」などによっても×。 >>241
>ちょっと待て投馬国は出雲
難波津なら吉備になるが吉備なんぞ出る幕無いボケ助<
「南≠東」などに拠って、×。 >>246
>理由が言えないんなら反論は不成立だね<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの理由が言えないんなら、
反論は不成立だね >>247
>投馬はヅモからイズモから出雲<
「南≠東」などに拠って、×。 >>248
>投馬国でも使節を歓待する饗宴の宴が催されたとするのが自然な考え方
中国の風習では饗宴に要する日数はだいたい1か月ほどと長期にわたる<
投馬国には、魏の役人たちが行っていないから、×。 >>250
>出雲大社がある投馬がイズモに決まってる反論ある? <
「南≠東北」であるから、×。 >>254
反論
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘吐き騙しの理由の説明がない
理由がなければ大和論ではない >>255
結局、大和説は、
「南≠東」を「論じる」ことが出来ず
議論から脱落していくのだな
おきのどく >>507
>「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの理由が言えないんなら、
言ってるから問題なし
「曲解の嘘吐き騙し」だと決めつける
理由が言えない九州説が 、×。 >>256
>当時畿内ルートは吉備に抑えられてたから使節は日本海ルート使うしかなかった
出雲大社の威容を目の当たりにした使節は神殿に昇って饗宴の宴をしたと出雲地方で言い伝えがある
こういう情報は学者レベルでしか知りえない情報だからネットにはまだ載ってないがな<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×。
出雲は、梁代頃まで、九州倭国やその別種の大和扶桑國とは別の国として存在していた事になる。 >>502
>なんだよこの、体たらくは その場しのぎのご都合主義じゃん
「支離滅裂だ」「その場しのぎのご都合主義」だという
理由が言えない九州説が 、×。 >>261
>なぜ邪馬台国九州説は完全に破綻したのだろうか <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×。 >>262
>吉備国は奴国2万戸の可能性<
伊都国からの方向も里数も合わないから、×。 >>263
>畿内と吉備は蜜月だぞ
学者は誰でも知っている<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから×であり、
そんな事を主張した大和説学者らも、全員×人種。 >>265
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しがバレて破綻した大和説ガキが
しぶといぞ
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国で、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の一国であり、
辺鄙な田舎であった、と文献的にも考古学的にも証明されている >>268
>吉備は奴国でいいとなる査証
吉備の中にも良い奴もいれば悪い奴もいる <
伊都国からの方向も距離も全く合わず、この男も分裂幻覚の妄想男であるから、×。 >>272
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説嘘確定
纏向古墳群の造営開始は3世紀末頃以後にスタートしてる 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている >>274
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説がいくら言い張っても、
大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏らの神武ら東征でようやく九州倭国の拠点が出来、
「東征毛人五十五國」の征服軍への協力で、地方の市を監督する大倭職の国になれた、
と言うだけの国。 まったく反論できない九州
証拠を示さない九州
嘘まみれ九州
ごまかし九州 >>528
どっちもどっち。 わははははは @阿波 >>285
九州倭国の別種の旧小国から頑張った大和の天皇家の祖先、という天皇家の歴史を否定して、
天皇家を人種差別的戦争狂のキョクウに仕立てようとする売国奴大和説は、
破綻したんだね >>281
大和説嘘おつ
近畿地方の古墳時代の始まりは3世紀末以後 だだふか だだふか キウスじゃ ほっほほ
おじゃらか ほらほら キウスじゃ ほいほい >>286
>ズモは出雲
奴国は吉備でいいだろう<
伊都国からの方向も距離も全く合わないから、×。 >>287
>投馬国はズーモ国からズモ国に変化してイズモ国<
「南≠東北」などに拠って、×。 ついに畿内説はズーモに追い詰められたか
んで、国譲りはいつだ〜〜〜 >2018年10月 纒向学・東京フォーラムVII
>渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、
>魏の文帝が「御陵は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」、などと定めたことを紹介し、
>魏使は卑弥呼の墓を見て「これは中国の墓制に則る墓だ」と思っただろうと話した。
つまり渡辺義浩・早稲田大教授の考えは、
卑弥呼の墓は、径百余歩(150m余)の自然丘陵を利用し、その頂部に棺を埋め、やや大きめに盛り土しただけの質素なものであり、箸墓ではなかったということだ。 箸墓説のネタ元:
昭和40年ころのこと、糸島のケンカ大六こと原田大六が、某社に乗せられて「箸墓ダー説」を出版してから、急ににぎやかになった。
つまりその空騒ぎの流行は、
京都で創業し、神田駿河台に移った三一書房が、一発ねらって畿・九対立を仕込んだからなのだwww 南→東を奉る畿内教の教祖:
内藤湖南(本名・虎次郎、明治20年・1887〜 秋田の片田舎から出てきて雑誌記者となる )
記者時代、日露戦争に於いては開戦論を展開した。。。。 畿内説は、そもそもから
マスコミ・出版業界と二人三脚 >>539
少なくとも初期の天皇陵は、山の尾根や丘を利用して築かれた。
初代〜第五代天皇の陵墓の記事(『古事記』『日本書紀』『延喜式』)には
まず神武陵が畝火山の北方白檮尾上、綏靖陵は衝田岡、懿徳陵は畝火山の真名子谷上、孝昭陵は掖上の博多山上とあるように、
初期の天皇陵は、 山の尾根や自然の丘陵の一部を利用して築かれている。 @阿波 なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだろうか。 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮民族の奥山氏は、嘘や悪口を言い放ちながら、何かを稼いでいる可能性が高いのだったね。 ほら、無力な九州説は中傷しか出来ない
能力的に仕方ないのかな キウスじゃ ひょほほほほほ ぽぽぽぽぽ ぷぽぽ おごごごあああ >>211
>小墾田宮は、飛鳥時代の推古朝および奈良時代の淳仁朝・称徳朝の宮殿。「小治田宮」とも書く。
近年の発掘調査から、奈良県明日香村の雷丘周辺にあった可能性が高くなっている。<
「小治田宮」に関しては、鈴木真年氏の松野氏姫氏系図への注説明では、
倭王武の次の倭国王哲の次の「満」で倭国王では無くなっており、
その次の牛慈に「金刺宮御宇服降為夜須評督」とされ、
更にその次の「長提」に「小治田朝評督筑紫国夜須郡松峡?野在」とされ、
評督という地位呼称は九州倭国の「都督」の下の地位であり、
大和の推古の小治田朝が九州倭国の筑紫国にあった事になり、
それは、取りも直さず推古が九州倭国の王家の女性であった事を示し、
だから、推古は、「俀王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩奚隹彌」の側室的地位であった、
のではないか?という事になる。 >>292
「南→東」などの史料事実への否定や曲解の嘘つき騙しの指摘に、
反論もできなくなった死滅した大和説の最後の足掻きが見える >>295
>売国奴九州説は破綻したんだね <
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをして、
天皇家や日本國民の本家筋に当たる「九州倭国」を無き者にしようとする、
売国奴大和説は、
破綻したんだね >>298
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの指摘に、
反論できなくなった大和説 >>299
悲惨だな大和説
「南≠東」などの史料事実に、負けては誤魔化し
逃げていく毎日 >>300
>『隋書』には以下のように記されています。
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
この文は有名ですからご存知でしょう。
魏志でいう邪馬台国はヤマトであるという記載です。<
ダメです。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「ヤマト」なんて「南≠東」であるから、始めから×であるし、
「則魏志所謂邪馬臺者也」は、
はるか後代の唐代史家の魏徴らの「自己解釈に拠る曲解」説明文であり、
魏志や後漢書の記載に反し、根拠になりません。 やはり、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮民族の無力な奥山氏は、嘘や悪口を言い放ち、スレッドを活発し、何かを稼いでいるのだな。
550 名前:日本@名無史さん 2020/02/24(月) 09:01:44.15
ほら、無力な九州説は中傷しか出来ない
能力的に仕方ないのかな >>305
>邪馬台国九州説は完全に破綻<
邪馬台国畿内説は、
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
大和説は、「南≠東」などに拠って、完全に破綻。 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている 古田が死に、安本ももはや認知老人
九州説は終わりだろう >>310
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの、
妄想と欺瞞の大和説。
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であったから、×。 福岡県春日市岡本の須玖岡本遺跡がでかいけど
卑弥呼の弥生末の時には衰退してるでしょ 奴国にはキウスが来て外来土器を廃棄したりかまどをつくったりしてるな >>567
そりゃそうだ
卑弥呼の弥生末の時には卑弥呼の平原遺跡が女王墓だからな。 >>1
>邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
鉄器ゼロなのに鉄板???
ナイスジョークwww
フェイクニュース???www 自分は畿内説が大嫌いだし、正直認めたくない。
だけどこの件に関しては畿内説が正しい。 卑弥呼の時代の奴国(福岡)は、王が不在の巨大な庶民の町として、倭国はおろか東夷で最大の国邑に発展していた。
邪馬台国、投馬国は領域国家であり、邪馬台国7万戸は奴国2万戸を含んでいる。
国邑と領域国家の両方に国という呼称が用いられたことが誤解の原因。 箸墓古墳
奈良県立橿原考古学研究所は炭素14年代測定法により280〜300年(±10〜20年)と推定している。
しかし土器は古墳自体から発見されたものではなく、陵墓指定範囲外の周濠の底から発見された土器に付着していた炭化物が3世紀後半のものだとしても、
この古墳が発掘された纒向遺跡には縄文時代から古墳時代までの遺跡が存在しているのでそれが箸墓古墳の築造年を代表しているとは言えないし、
仮に3世紀後半であったとしても卑弥呼の没年より新しいことになる。
さらに魏志倭人伝では牛馬がいなかったと記述されているが、周壕から馬具(木製の輪鐙)が出土していることも矛盾点である。 箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。 >>573
>周壕から馬具(木製の輪鐙)が出土していることも矛盾点である。
何と何が矛盾するの
不完全というか、おかしな日本語 箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 >>574
>その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
なんだよこのフワッとした中身のない表現は。
詐欺師の論法だな。
中身がなくて無責任。
あとでいくらでも言い訳できる。
まるでキナイコシのようだ。 >>576
> 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
>郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
確実な年代は302年なのに、それを300年前後に言い換えてから3世紀後半に言い換える詐欺師の論法。
同じ手法で3世紀前半の平原遺跡も200年頃から2世紀後半にすり替えた。
これが畿内説のやり口。 平原遺跡は卑弥呼がいた3世紀前半、箸墓古墳はそれより100年ほど後の4世紀前半かな。 橿原考古学研究所は邪馬台国が橿原市にあったことにしたいからな
纏向より前の遺跡がある橿原市としては
纏向を卑弥呼の時代よりあとにしたい意図は明白
モモの種その他の炭素14だと纏向は卑弥呼の時代になる 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 モモの種馬鹿にしてる人いるけど
ちゃんと分かってる人がみればあれは否定が難しいのがわかるよ
ちゃんと知識がある人がみればね モモの種馬鹿にしてる人は自らの知識のなさを自覚しろってことだ
否定するにしてもちゃんと理にかなってないといけない 纒向遺跡は広範囲長期間の遺跡と定義されてしまったから、箸墓の年代も桃の種の年代も何の意味もなくなった。
何しろ纒向遺跡の始まりは縄文時代らしいからw >>573
>奈良県立橿原考古学研究所は炭素14年代測定法により280〜300年(±10〜20年)と推定している。
創作ニセ情報
九州説はデマが好きw >>582
どんなものも関連を「否定することは」難しい。
しかしそれは肯定とは程遠いものだ。 >>312
>ここで、魏志倭人伝を思い出してください。
投馬国から女王国までは、水行でも陸行でも行けましたが、陸行の場合の行程は1ヶ月でした。
隋書によれば、裴世清が天皇に謁見した「邪靡堆」は、魏志倭人伝の「邪馬臺」と同じ、ということですから
泰王国が投馬国ということになります。<
根本的に、書紀は倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書であり、証拠にならず、
書紀の(大業4年の)裴世清の大和訪問の記録は、
隋書や中国史書群にも延喜講記にも記載されておらず、
古田さんの史料批判に拠っても延喜講記によっても、12年後の「唐の武徳中」の事件であり、
「秦王国が投馬國」も、
「又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國」と「東」であり、
「南≠東」に拠って、×。 九州説は大声で叫ぶばかりで説得力がない
九州信者に言いたい史学は研究する学問なんだよ 魚の骨だって卑弥呼との関係を否定しろと言われたら難しい。
それは全国のすべての遺跡に共通する。
だがそれは肯定ではない。 >>590
「研究」の結果、何も特異的な結果が得られなかった「纒向学」 纒向に人がいたことはわかる。
しかしそれを邪馬台国と結びつける特定の証拠は何もなく、邪馬台国の海東にいた倭種の一部にすぎないのではないかという考え方を否定するものではない。 >>578
>確実な年代は302年なのに、それを300年前後に言い換えてから3世紀後半に言い換える詐欺師の論法。
「これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり」なので言い換えでない
「中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている」も言い換えでない ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 南→東の畿内教教祖:
内藤湖南(本名・虎次郎、明治20年・1887〜 秋田の片田舎から出てきて雑誌記者となる )
記者時代、日露戦争に於いては開戦論を展開した。。。。 >>578
>同じ手法で3世紀前半の平原遺跡も200年頃から2世紀後半にすり替えた。
という証拠は?
九州説さん、またデマ? 箸墓説のネタ元:
昭和40年ころ、糸島のケンカ大六こと原田大六が、某社に乗せられて「箸墓ダー説」を出版してから、にぎやかになった。
つまりその空騒ぎの流行は、
京都で創業し、神田駿河台に移った三一書房が、一発ねらって畿・九対立を仕込んだことに発するwww >>587
>どんなものも関連を「否定することは」難しい。
頭ごなしに否定してた九州説の面目まるつぶれ 畿内説とは、
マスコミのおもちゃ、出版業界の飯のタネ www >>577
>なんだよこのフワッとした中身のない表現は。
という印象論の根拠は?
根拠がないなら
それ、フワッとした中身のない 主張だよね >>319
那珂八幡などに始まり「東征」による前方後円墳による全国支配体制
渡来の呉系楽浪鏡師らの三角鏡による有力豪族への下賜
庄内式による大和などへの筑紫の影響力
「冢」のの祇園山古墳
日本最初の計画都市弥生銀座
狗奴国は火の国の姫氏の本家
大和の小さな平地と比べ筑紫のようなの広大な領域でないと7万戸の邪馬壹國は不可
九州はまだまだある
大和説敗北、邪馬壹國女王之所都は筑紫付近、女王国は九州島付近で確定 >>321
矛盾だらけの大和説
「南≠東」や「正北抵新羅」や「記紀は半分×書」や、
「歴韓國乍南」や「冢≠前方後円墳」などの説明から逃げる大和説 前方後円墳による全国支配体制
三角鏡による有力豪族の臣従
庄内式による北九州への大和の影響力
雄大なホノケ山古墳
日本最初の計画都市纏向遺跡群
狗奴国は近江の毛野軍で後の磐井の乱でも登場
九州の小さな平地と比べ畿内の広大な領域でないと7万戸の邪馬台国は不可
畿内はまだまだある
九州説敗北、邪馬台国は大和で箸墓は卑弥呼で確定 >>323
>平原遺跡群は最新の炭素年代測定で1号でも1世紀後半から2世紀前半で卑弥呼は年齢が合わない<
その「最新の炭素年代測定」とやらの説明をしないし、出来ない?、大和説者。 >>325
つまり、邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であった事がバレ、
大和説が、完全に破綻したのだね。 畿内説は、
マスコミのおもちゃ、出版業者のメシのタネ >>326
>キウスさん ご苦労さん
投馬国から陸行一月で巻向と言うことでしょ<
「南≠東」などに拠って、×。 >>328
貼り付けは貼り付けでお返し。
那珂八幡などに始まり「東征」による前方後円墳による全国支配体制
渡来の呉系楽浪鏡師らの三角鏡による有力豪族への下賜
庄内式による大和などへの筑紫の影響力
「冢」のの祇園山古墳
日本最初の計画都市弥生銀座
狗奴国は火の国の姫氏の本家
大和の小さな平地と比べ筑紫のようなの広大な領域でないと7万戸の邪馬壹國は不可
九州はまだまだある
大和説敗北、邪馬壹國女王之所都は筑紫付近、女王国は九州島付近で確定 私も畿内説だが邪馬台国広域説支持者
卑弥呼は稀に纏向の祭壇で祈祷を行い平時は北九州に居て平原1号に葬られたと推察している。 >>329
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は
反論しないで
必死に荒らす >>613
確かに日本の首相が東京の国会で活躍しようが必ずしも国会周辺に葬られることはないからな。 巻向や箸墓が3世紀でも一向に構わんよ
全国に人が居たからね
倭国と関係ない倭種の別国の遺跡なんてごろごろ3世紀にあってもいいよ >>614
こうやって九州説は毎日嘘をついて荒らす >>330
>◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6。 これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。 (中略)
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づ
いた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。<
魏志の国間距離などの里数記載が、
「双方の居住外縁部間やその出発地の出口から到着地の入口間の里数」であった、
という人類の常識的な理解で、1里≒60〜90m、という短里が得られ、
5〜6倍位も違う始皇帝里が否定された。
>九州上陸地として、白鳥は平戸を挙げ、そこからの陸行は、海岸伝いに松浦ー唐津ー糸島ー博多へと向かったとしている。
そもそもこれが大間違いだ。平戸に行って博多に戻るくらいなら、最初から博多に上陸すればよかったのだ。
ここは素直に、唐津湾に注ぐ松浦川中流の中原遺跡が順当である(>>1もこの案である)。<
いや、末盧國からの出発方向記載が「東南」であり、
だから、一大國から来て着岸し易く、東南に出発し易い「唐津港」付近が最も適切。 実は古田・安本は、
畿内説の弾除け/露払いになってきたのだが、畿内説はこのことが分からんのだろうな。
ま、安本が引退すれば身に染みるだろう、 >>211
日本語を誤読するなよ(呆
>その次の牛慈に「金刺宮御宇服降為夜須評督」とされ、
「欽明朝に牛慈は服属し夜須評督に就任した」だ
>更にその次の「長提」に「小治田朝評督筑紫国夜須郡松峡?野在」とされ、
「推古朝に長提は評督の地位にあり、筑紫国夜須評松峡野に住んだ」だ
つまり松野氏姫氏系図では、哲は倭国王の地位にあったが、
孫の牛慈は大和に降り、長提と2代にわたり夜須評の首長に就任した、
と書かれているw
この系図を頼りにしているようだが、
この系図ですら、欽明朝以前に九州倭国なんてものは無くなっていた、ようだなw
そもそも倭王武との繋がりすら怪しいものだがw >>342
ヘイヘイ、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者、
負を認めたのか?、
ヘイヘイうそつき大和 >>343
ここに大和説敗北決定の記念日を制定する
女王卑弥呼より 鐙は馬に乗るのがヘタクソな民族が紀元前に考えたものだから
使ってても副葬品に残さなかったんじゃないか
木製の作るのはたいした技術じゃないし >>345
また貼り付けね。
ギャラリーさんらに迷惑だから、もう一度だけ貼り付け返しをして、また原則は放置ね。
那珂八幡などに始まり「東征」による前方後円墳による全国支配体制
渡来の呉系楽浪鏡師らの三角鏡による有力豪族への下賜
庄内式による大和などへの筑紫の影響力
「冢」のの祇園山古墳
日本最初の計画都市弥生銀座
狗奴国は火の国の姫氏の本家
大和の小さな平地と比べ筑紫のようなの広大な領域でないと7万戸の邪馬壹國は不可
九州はまだまだある
大和説敗北、邪馬壹國女王之所都は筑紫付近、女王国は九州島付近で確定 九州説が広域国家と主張しているのに、「伊都国は衰退した」とか言って九州説を論破したつもりでいる畿内説の論理が理解できない。 >>620
>この系図ですら、欽明朝以前に九州倭国なんてものは無くなっていた、ようだなw
倭国の国号だけ継承されて、実権は複数の氏族や王家が奪い合っていたというのが九州説だよ。 >>627
>>>591
>九州説は魚の骨が邪馬台国の根拠なの
マキムク()から出た桃の種と魚の骨が畿内説の根拠らしいよ。 そんなことよりも中国(中華でも良い)という国があるでしょ、
お前の言っているテンノウ(テレビに出てくる)よりも上の人々が住んでいたんだけど。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・違った? >>593
ならこの前九州説が騒いでた曹操の鉄鏡とやらは
単なる日用品なのではないかという考え方を否定するものではないな 筑紫説とか伊都説はマトリョーシカ人形みたいなちっこい倭国だろ どちらの説でもない僕だけどこう見える
喧嘩のように大声で言い張り悪口も多い九州説
冷静に熟考して落ち着いて議論する畿内説 >>630
九州説は畿内の桃の種や魚の骨に負けたの .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. ほんとーにw『ブルーマーダー』という作品なんだよなw読んだことないけど。
『X JPN』(林、リン?)のメンバーも出てくるでしょ、なぜなんだろう。 『Blue Murder』w
林某(リン某。ハヤシ某?)
>在日中国人暴走族「主華龍(スカル)」の元メンバー。 九州説不利になると必ず現れる無駄な関係ない話題のレス king勝義も出てくるしな・・・、おかしな話ばかり。
>在日中国人暴走族「主華龍(スカル)」の元メンバー。 九州説不利になると必ず現れる無駄な関係ない話題のレス 『迷宮のラヴァーズ』
〜系統(というわけではないんだけど)の曲などを
好きな人がいるのかな?
おかしな話ばかりでしょ? >>360
>考古学的にも文献的にも九州敗北確定 <
考古的にも「冢≠前方後円墳」などで、
文献的にも「南≠東」や「正北抵新羅」や「日本國者倭國之別種也の旧小国」などで、
大和説の敗北確定。 >>361
>>魏使らに拠る「実地の計測近似値」である。<
>嘘平気で吐く九州説発見
使節が倭人から聞いた話を実測値とはwwwwwwwwwwwwwwwwwww<
嘘を平気で吐く大和説者発見。
一般倭人は「里や歩を知らない」のだから、使節は「倭人から聞けない」。 辺鄙山奥の大和には貝塚がない
貝殻の山もなければ、魚の骨の山もないwww >>365
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説も、
アホな事ばっかり書いてると狂人ばかりと誤解されるぞ >>367
また大和説名物の、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
妄想漬けかよ
おなか一杯だよ 証拠が乏しすぎるあまり貝殻の山と魚の骨を根拠にする九州説
畿内説は三角縁神獣鏡と前方後円墳 :楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 九州説見苦しい
考古学史学を語れる九州説はいないようだな >>370
>>変な事を言うなあ。
国家の工房が造った鏡なら、「尚方作」などと示せば済むのであり、
年次を区別する必要がなく、「紀年」は原則として不要だよ。<
>現物が示せないから「不要」と考えたの?w何の根拠もない思い付きだろw <
いや、例外的な鏡があったのは知っているし、だから「原則だ」と断ってい置いた。
>現に「正始二年右尚方」銘の出土品がある これが魏の工房の製品なんだよ<
そりゃ、
何か工房や組織に問題があって、年号や右中左の区別文言を記銘する必要があったんだよ。
問題も何もなければ「尚方作」で十分。 正確には・・・そうなんだけど。
中国(>>1よりも後の時代でも同じ)の人々のほうが上の存在、説明しなくても知っている人は知っている。 >>375
>正確にはツマではなくズマかズーマまたは南部ではズモが投馬発音
ズーマ
ズマ
ヅモ
イズモ
出雲<
いずれにしても、「南≠東北」などに拠って、×。 『中国 林 リン』
その小説『ブルーマーダー』wの設定から考えると、そうなる。 >>381
>学会の定説畿内説
売国サヨクじじいのよりどころ嘘九州嘘説 <
国民も一般学者も中国学者も人類も、定説は九州説
タカ派の戦争極右のガキやじじいのよりどころが、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説 >>596
> また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
どうみても平原遺跡の系譜に連なる国産鏡でしょ。
畿内が伊都国を中心とする九州北部の勢力下に落ちたことは間違いない。 >>383
「南≠東」などに関しての大和説の反論が無いが・・・
負を自認したのか >>600
箸墓も平原も原田じゃん。
邪馬台国論争って、踊らされているだけ? どちらの説でもない僕だけどこう見える
喧嘩のように大声で言い張り悪口も多い畿内説
冷静に熟考して落ち着いて議論する九州説 >>385
>畿内の広大な耕作可能地がないと邪馬台国7万戸は養えない <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和盆地では海や湖が残っていて、7万戸は勿論養えない。
>九州は火山で耕作可能地が無い 九州説反論なしw<
おそらくキミは、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者である事がバレて、
放置されている。 >>387
人生の負け犬、「南→東」などの嘘まみれ詐欺師の大和説 >>397
つまり、邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使い、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
完全に破綻したのだね。 まともな学者やマスコミはみんな畿内説です、九州説は低学歴の貧困で定年後の爺のみ >>662
>箸墓も平原も原田じゃん。
>邪馬台国論争って、踊らされているだけ?
江戸の新井白石は糸島の西部の深江をイトコクに比定した。
しかし平原の名士であった原田は、ケンカ大六の名の如く、地元の平原墓を伊都国、箸墓を卑弥呼の墓と強力に主張した。
それを支援したのが神田の出版社。おそらく何かの縁脈でもあったのだろう。
それを後押ししたのが三一書房。 ほぅ
今時、九州説論者って存在してたのか
ほらよ。オモチャくれてやるからこれであそべ
投馬…トマ…トモ…御友別…吉備 ほぅ
今時、九州説論者って存在してたのか
ほらよ。オモチャくれてやるからこれであそべ
投馬…ズマ…ズモ…ズーモ…イズモ…吉備 だからking勝義の話でしょ『ドンバ』?・・・あの写真の家。
老婆談によるとw
たしか歌舞伎小屋などがあったんだよ・・・、
そういう話をしているし。 戦後昭和〜の「伊都国平原ー邪馬台国k内説」は、
万事、糸島平原の名士・原田大六の筋書きどおりだったというわけだ。
古田も安本も、奴国まではほぼ原田の筋書き通り、最後の邪馬台国の場所だけが違うのさ。 キュウリの葉、葱の華・・・謎の写真。
子供がいるでしょ、何かの制服を着ていたりするけど、
家は軍人などでもない、戦争などにも行っていないとか、
よくわからない話ばかり。
写真自体は老婆も生まれていない頃の・・・だとか。 >投馬…ズマ…ズモ…ズーモ…イズモ
なるほど出雲が5万戸の投馬だったんだね
これなら郡より東12000里の辻褄が合う 『醉臣迷造』
king勝、このような名前の家なんだけどw 聖造〜の家wキュウリのような葉が写っているでしょ、
『河伯』日本では河童?
当時の職業も「❓」みたいな事を言っていたり。 >>678
箸墓説だって原田の手の上で転がされているだけじゃん。 >>411
>・・・このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。<
という事は、楽浪木槨墓V期は195年〜252年年位の間であった事になる。
> 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)<
という事は、 楽浪木槨墓V期は、筑紫の西新(I式)及び庄内と年代が重なる可能性がある、
という事だな。別に、問題にならない。
>また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)<
後期瓦質土器の登場なら、285年の扶余の乱以後になり、西新式が続いていてもおかしくない。
>よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、<
ならんよ。平原1号墳に「西新式」という一般庶民的な土器を副葬しなければならない、
という理由が無い。
>布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。<
これも×。
箸墓は、布留0と布留1があれば、新しい方の布留1の年代になるのであり、4世紀だ。 >>684
そのとおりだ、
古田も、安本も、石のも、寺沢も、奥山も、みーんな原田大六と三一書房の手のヒラのうえで転げまわってきたのさ。 >>415
>九州説は卑弥呼の墓は冢冢言うけど 国内に冢と定義されてる古墳はない
そもそも冢は単に塚という意味なんだけど<
大和説学者は、国内に、祇園山のような「冢」と言える墓がある、なんていえば、
大和説の否定になるから、絶対に、口が裂けても言えない。 魏志倭人伝・古事記・日本書紀で邪馬台国・卑弥呼の謎は解ける
https://youtu.be/m3W7AXhe35o
投馬国=出雲国、邪馬台国=大和国|古代主要航路・日本海沿岸水行
https://youtu.be/WPM1APRgrDo
日本建国神話は解ける!邪馬台国・卑弥呼と古事記・日本書紀
https://youtu.be/dpvgazUkMKk >>435
>九州説の反論が無いなw<
「南≠東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や「日本國者倭國之別種也の旧小国」や、
「冢≠前方後円墳」や「大和の前方後円墳は筑紫の那珂八幡などの進化型」や、
「筑紫の庄内は3世紀前半で大和の庄内は3世紀末」などと言った、
基本的な論点に関する反論がないな。 老婆談、龍宮〜と同じ話をしているし。
凄い家に住んでいるような人で・・・、何やらw
よくわからない。 >>441
また「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の人格攻撃。
それは論で勝てない証明 >>453
>楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると・・・<
ありゃ?、また大和説者の貼り付け魔。
内容的には、スレ主か類スレ主か?。 古代中国は日本列島を南北縦に長いと認識してたんだな
南に大和がある地図も残ってる
方角論ハイ論破 平原が卑弥呼で祇園山が壹與だよ。
ここだけの話だけどね。 魏志倭人伝、古事記、日本書紀を照らし合わせれば
卑弥呼の正体が、古事記や日本書紀に登場する
ある人物だと分かる。
よって、邪馬台国=大和国で正解。 >>689
壹與なら古墳時代だし、平原と比べて明らかに高く積み上げている。 新羅本紀という文章では、倭人は、海を渡って、新羅の人民を捕獲していたのだったな。 >>600
>箸墓説のネタ元:
>昭和40年ころ、糸島のケンカ大六こと原田大六が、某社に乗せられて「箸墓ダー説」を出版してから、にぎやかになった。
これが畿内説か。 >>703
古墳を作製するために、朝鮮半島からの大量の奴隷を必要としたのではないのかな。 >>459
の返信の投稿ボタンを押したら、「エラー225」だったか?の表示で、
その後投稿不能状態になったので、投稿断念。 糸島・高祖城(福岡県)
別名:高祖山城、原田城
築城主:原田種継、 原田種頼
築城年:建長元年(1249年、山城構造)
主な城主:原田氏
高祖城(たかすじょう)とは、筑前国怡土郡の高祖山(現在の福岡県糸島市高祖)にあった日本の城。
原田氏の原田種継、原田種頼父子の築城。 怡土城の遺構を利用し、高祖山頂上に上ノ城(本城)と下ノ城がある。 今日も、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説が、論破されていますね。 えらー(鰓、鰭)、あどべ?・・・PC用語?
たしか、ほとんど某、某の家の話ばかりだと言っている人もいたり。
『あどべ いそら』 エラ(エラー)、ヒレ・・・など、ネタだと思うんだけど。
それとも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、
ほんとーの話とか?
調べてみると『アドべ』『』など、確かに、あるしw 冷凍(封印?)、解凍・・・などもあるし、何なんだろう。 >>463
>「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)・・・
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。・・・<
だから、始めから「前方後円墳」型に決められて工事が始まった、という事であり、
私がこれまで言って来た事であり、
「円墳であり後方墳部は墓本体ではない」という説の否定であり、
箸墓の形を「円墳部分だ」という説の否定である事になる。 >>467
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙し大の大和説という作り話
嘘松に代わってこれからは大和松と言おう >>700
ばかばかしい地図なんか出すなよ
日朝貿易や交流はもっと古くからおこなわれてるから
その地図は朝鮮の官僚や貿易省から見たら✖
>>469
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は、
反論できなくなれば作り話 CHOSEN(ちょーせん?)も、ほんとの話なのかな?
あの中国の人物は架空の存在みたいだしな・・・。 >>710
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだったね。 >>701
あんたに
同じ年代に朝鮮で描かれた
混一疆理歴代国都地図を送るよ
これのほうが、優秀な人たちが描いた地図だよ
あんたのは竜谷大所蔵の物、これは島原市 本光寺所蔵の物
http://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/254
短絡的に喜んでる場合じゃないよww 高祖城(たかすじょう)
筑前国怡土郡の高祖山(現在の福岡県糸島市高祖)にあった日本の城。
原田氏の原田種継、原田種頼父子の築城。 怡土城の遺構を利用し、高祖山頂上に上ノ城(本城)と下ノ城がある。
糸島で「原田」といえば、知らぬ人はおるまいぞ。 >>487
>産経新聞 2/22
「箸墓古墳と同時期」裏づけ 天理・ヒエ塚古墳、全長129メートルと推定 奈良・・・<
「箸墓時代と同時期」として、「3世紀後半」とした事が、
天理市教育委員会や産経のインチキ。
実際は、箸墓は4世紀。 >>690
畿内説はユーチューブでも宣伝してるようだな
銭稼ぎもいいけどさWw 確実、老婆談w
歌舞伎〜、芸能関係の・・・話をしていたり。 『ドンバ』
エラばれた(発覚、発見)?エラばれし者。 >>695
それだけ候補地が多いと言う事ですな
つまり、九州に国〃が多い
倭国が九州と言う事じゃねーの >>697
短絡敵だな
古代の地図出してよ ねーだろ >>489
>S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。
庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。<
「南≠東」などに拠って、×である。
>これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、
東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。<
九州倭国の「東征毛人五十五國」は、紀元前から何度も繰り返し実行されたようであり、
その征服方面は、大和の記紀の「三道将軍」や「四道将軍」としても記録され、
大和の「阿毎氏らの後裔」も、その東征軍に一部に参戦参加していたようであった事。 >>706
それ✖だから遣唐使、遣隋使、日宋貿易、日明貿易等々
で、中国との交流はあったから、描いた人が間違えてる
当時の中国の官僚や貿易商からみたら出鱈目の日本地図
短絡的だな君
t >>701
ばかばかしい地図なんか出すなよ
日朝貿易や交流はもっと古くからおこなわれてるから
その地図は朝鮮の官僚や貿易省から見たら✖
>>495
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
天皇家の意向に反して、
国民を、人種差別的戦争に鼓舞扇動しようとする大和説のキョクウの売国奴は、
論破できるかな? ガンダムの曲も同じような気がする。
『ガンダム 選ばれし者』 >>714
同意 前方後円墳は円墳で無い
これ常識 前方部+後円部=一つの墓 また認識中(厨)かwという謎の書き込みをしている人もいたり、
どのスレだったかな?
ガンダムで言うとサングラス?選ばれし者(エラ。認識。) >>726
なんども、君は本当に単細胞だね
>>721見て御覧 畿内説はバカの集まりだが、ここに投稿する畿内説の輩はその上を行く大バカ者ww >>524
なぜ女王国大和説が、
完全に破綻したのだろうか?。
おそらく「南≠東」。 >>721
畿内説のアホをもう少し、泳がせてから出してもらいたかっな
まあ いいか 日本昔話『夢の売り買い』
(浦島太郎・・・など、仮名)
ほとんど同じ話でしょ、有名人なのかな? あんたのは竜谷大所蔵の物、これは島原市 本光寺所蔵の物
http://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/254
短絡的に喜んでる場合じゃないよww
横から失礼します
九州説が取り出したこの地図は日本で描かれてたもの
龍谷大の方は朝鮮で購入したものです
無論日本人が書いた地図は日本人ですから南北正しく描かれています
しかし歴史的資料としては改竄地図にあたり価値は無いです >>525
>奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が
2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、<
前方後円墳も庄内も3世紀末に、
九州倭国の「東征毛人五十五國」軍が入って来たから始まったから、×。
>3世紀末にまた北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、
そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている<
大和日本國は、九州倭国の「別種の旧小国」であったから、×。 また九州説が嘘? 騙し詐欺ばかり九州説バレたから もうすぐ逃げるだろうw >>528
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの指摘などに、
まったく反論できない大和説
証拠を示さない大和説
嘘まみれ大和説
ごまかし大和説 >>540
屁理屈ばかりで、
「南→東」などの嘘つき騙しに関して、
まったく根拠も資料も提示しないも大和説 南東に関して九州説が嘘地図出したんだぞ!よくスレ見ろ
詐欺九州 >>743
横から失礼します。
朝鮮の方も、作成に関わってます。
また、朝鮮との外交は、龍谷大学所蔵の地図より、古くからあります。
あまり日本について知らない方が描いたのでしょう。 >>547
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は宗教、
アウアウ言うだけで学問ではない >>550
ほら、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘つき騙しの、
無力な大和説は中傷しか出来ない
人間的にも能力的にも、仕方ないのかな 詐欺九州説
日本人が書いた日本地図を方角の証拠に持ってきやがった
それ日本の日本列島の認識で中華から見たのと違うだろ 元地図を参考に日本人が日本の地図書いた
朝鮮人が参加しようが日本人が正すだろ嘘地図九州
それに日本人が書いた地図なら古いとか関係ない価値ゼロ >>553
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は、
オームや極右皇国史観者らとおなじく宗教、
アウアウ言うだけで学問ではない 嘘地図九州説
また詐欺師九州説に騙されるところであった 卑弥呼の頃は中国では邪馬台国ははるかな南にある国という事になっていた
九州北部とは認識されてはいないね 『百済 黄金伝説』
ウラシマンの人の名前は、あまり出てこないし、
謎の存在だと言っている人もいるし。 >>563
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする大和説は宗教、
アウアウ言うだけで学問ではない >>752
あなたも短絡的です。日本人が中心でしょうが、九州より、朝鮮の方がより正確に描かれてます。
九州と四国がくっついているのも、気になりますね。 ほら嘘地図九州が逃げ出して別のアウアウ九州説が戯言を繰り返す九州説 >>754
だから、龍谷大学所蔵の地図はあまり、
当時の日本に詳しく無い方が描いたのでしょう。
日朝の交流はありましたし、当然、やま >>754
だから、龍谷大学所蔵の地図はあまり、
当時の日本に詳しく無い方が描いたのでしょう。
日朝の交流はありましたし、当然、朝廷は九州より東と認識してるでしょう。 朝鮮人が参加しようが日本人が書いた日本地図
アドバイザー朝鮮人が何を言おうと日本人が正した結果がその地図だ
日本人で九州北で畿内が南にあると認識する人なんておらん みなさんみてください
詐欺師九州説が偽地図持ち出して嘘つきましたよ 歴史学者は左翼
・厩戸皇子、1185など、天皇の権威を認めたくない
・高校の歴史資料集に伊都国の鏡(世界最大)が載っていない。>>762参照。報道しない自由
・2chの畿内論者は吉見義明、朝日新聞、歴史教科書などに騙されている“普通の日本人“と同じ
お前らは普通。恥じることはない >>764
同意
畿内説の一部の人が出す、古地図はこれに尽きるな
学者は居ないと思うけど
日本と中国、日本との交易を知ってる人の意見を聞いたかどうかなんだろうな
どうも、中世の世界地図は日本と交流がありながらデタラメな物が多いから、日本と中国・朝鮮の交易を知らん奴が描いたんだろうな
607年に飛鳥に来た隋の使者が見たら大笑いだろうな
千年近く後に日本をこんな風に書いたのは誰だ、アホかで済むだろうね >>762日本@名無史さん2020/02/24(月) 17:13:24.33
『ゴーマニズム宣言』第70章「卑弥呼こそ天照大神である」(週刊SPA! 2020年 1/14・21 合併号)
ま〜た出版業者が、てきとーにメシのネタにしておるな。週間スカ・スカ!
「卑弥呼こそ天照大神である」とは、すでに明治43年、東京帝大・白鳥庫吉/明治天皇御用掛りの宮内省・近藤芳樹が喝破したことだ。 >>759
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>759
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>759
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>759
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>759
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>756
>嘘地図九州説
また詐欺師九州説に騙されるところであった<
少しレスの流れの様子見して投稿したほうがいいですよ
結構 知識のある策士が多いですよ
注意、注意
もしくは、 >>759
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>759
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>762
おもしろいけど
おもしろいだけ
時々 こういうのもいいけど 回数増やさないでくでーーー それにしても老婆談、
銀□という人の話なのかな?たしか、いたと言っているし。
戦前(?)の人、凄い刀が飾ってあったとか。 うわーまた嘘ついたのか九州説
今回は日本人が描いた日本地図で中華の東亜に対する認識の証拠としたのか! 馬鹿だね
畿内説の馬鹿がまた十五・六世の地図を持ち出して
遊ばれてやんのwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>757
根拠は会稽東治の東???
初心者?その議論は過去レス読むといいよ 地図最初に出したのは畿内説側
それを嘘地図で攻撃したのは九州説
九州説の嘘がバレて九州説逃亡
遊ばれてるのは九州説w なぜか東北地方の話をしていたり、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜?移動していったのかな? >>564
>奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、<
3世紀末だから、×。
>また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、
そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている<
北部九州が「東征毛人五十五國」をした結果。 >>770
賛同
遣隋使じゃなく遣唐使だよ どうでもいいけどね どう考えても『エヴァンゲリオン』と同じだしな。
『あどべ いそら』 >>784
笑わしてくれたな
レス読んでてテメーが一番笑えるな 偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?
連呼さん
つぶやきさん同様
レスが読みづらくなるから
頼むから、止めてくれるかな >>789
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>789
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>789
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>567
>福岡県春日市岡本の須玖岡本遺跡がでかいけど
卑弥呼の弥生末の時には衰退してるでしょ<
須玖岡本付近は、弥生銀座の一角であり、邪馬壹國の中心地の一部として栄えており、
那珂八幡古墳などの3世紀後半半ば過ぎの頃までは、
大道や大溝も造られた女王国の首都圏の一角であり続けて繁栄していた訳であり、
須玖岡本付近は、墓地としての性格は失われて他の地に移ったとしても、
大道や大溝も造られた女王国の首都圏の一角であり続けて繁栄していた事になる。
そして、那珂八幡などの後、糸島の一貴山銚子塚方面に一時中心が移って、
更に317年頃の筑後〜久留米付近への「遷宮」があってから、
弥生銀座自体が、中心地ではなくなったもの。 >>793
それね スレ主の役目
削除依頼とか投稿禁止の措置の方法あるんじゃねーの
それとも、つぶやきとか偽書確定の御人がスレ主じゃねーの >>797
なんじゃい
北部九州墓場巡りの旅か、JR九州。 『歌舞伎 銀』
実際は、ほとんど家の話だろう。
上の名前、読み方?たしか・・・と言っているし。 >>785
このスレの人達が邪馬台国は中国では遠い南と認識されていたと書いてたよ 『氷の世界』
という曲のような話なのかな、
ノーベル賞とか、そういう話ではなくてw 畿内説だけど
奴国の南はちょうど山が狭まり、まるで山の門のようになってるな >>574
>封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が
工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、
布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。<
土器は、土とほぼ同じ比重であり、
当然、攪乱があっても、土のように水中で舞い上がる事もなく、
地震などがあるたびに少しずつ下に下がって行くものであり、
最低部で発掘された、としても、箸墓建設時のものだ、とは断定出来ない。
また、布留0古相としても、どこから落ちて来たものか?も判らず、
また、箸墓本体から、としても、箸墓本体には布留1があり、
「新しい方が優先」の原則で、「布留1」の年代を採用すべき。 畿内説だけど
奴国は南の筑後方面を制圧した邪馬台国連合に占領されたのではなかろうか 畿内説だけど
卑弥呼の時代に外交で大活躍する難升米
コイツ奴国の王で卑弥呼の時代邪馬台国の官ではなかろうか? 畿内説だけど
帥升は奴国王系で難升米はその子孫
伊都国王系に従っていた王ではなかろうか >>802
遠い南と認識した理由が大事。
短里で南に一万二千里と書かれた報告書を中央の役人が読んだので、会稽の東あたりの南の海上だとされたと考えられる。 そりゃ帥升は奴国の王だろうが、難升米については全く想像の域を出ないね。
魏志倭人伝に奴国については王の記録がないのだから、奴国に王はいなかったとするのが当然だ。 >>802
だよね
すると 邪馬台国は存在しないか沖縄説になるね どう考えても家の話なんだけど。
『平家 河童』?
でも、家は、そういう名前ではないしな。 >>576
>箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、
布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。<
ダメだ。
前方後円墳の筑紫の那珂八幡などは、
卑弥呼の冢や、壹與への西晋武帝からの天円地方思想へ伝来の後であり、
3世紀後半半ば過ぎ頃になり、
大和の庄内1の石塚や布留1の箸墓は、順に那珂八幡などの「進化型」になるから、
結局箸墓は4世紀になってしまう。 >>786
>地図最初に出したのは畿内説側
それを嘘地図で攻撃したのは九州説
九州説の嘘がバレて九州説逃亡 <
誰も偽地図とは行ってないよ
地図に問題があるのは指摘してるがネ よくわからないけど、何かの刀の話もしているし。
例えば『ドンバ』w >>757
>卑弥呼の頃は中国では邪馬台国ははるかな南にある国という事になっていた
九州北部とは認識されてはいないね<
パプアニューギニア説ですか >>580
>モモの種その他の炭素14だと纏向は卑弥呼の時代になる<
AMS法は、「プラズマ化に拠ってベータ崩壊が促進されてしまう」という失敗により、
それだけで、50〜100年位古い年代が出る。 王がいないってそりゃ邪馬台国の時代は升王族の奴国は南の邪馬台国連合に参加してたから当時は邪馬台国の有力な高官だろう
当時東アジア最大の都市国家が奴国なんだから升家は日本神話になんらかの痕跡を残しているだろう
那珂八幡古墳の被葬者もたぶん升一族 纒向・箸墓説のネタ元:
戦後昭和のこと、
糸島のケンカ大六こと原田大六が、某出版社に乗せられて「箸墓ダー説」を出版してから、急ににぎやかになった。
つまりそのネタ元は、京都で創業し、神田駿河台に移った三一書房が、一発ねらって畿・九対立を仕込んだからなのだwww >>1
は楽してるな
テンプレは過去のコピー
名無し投稿はお決まりの 1〜3行程度 1行が多いな
24時間貼りついててもいいけどさ
為になる投稿しろよ 糸島・高祖城(福岡県)
別名:高祖山城、原田城
築城主:原田種継、 原田種頼
築城年:建長元年(1249年、山城構造)
主な城主:原田氏
高祖城(たかすじょう)とは、筑前国怡土郡の高祖山(現在の福岡県糸島市高祖)にあった日本の城。
原田氏の原田種継、原田種頼父子の築城。 怡土城の遺構を利用し、高祖山頂上に上ノ城(本城)と下ノ城がある。
糸島で、「平原墓のファイテイング・原田」といえば、知らぬ人はいない。 >>808
自分で調べたらいいよ
ネットでキーワード入れてね >>804
それ山門=ヤマトと言う人もいるよ
私は、邪馬台国と大和は関係ないと思っていますがネ
最近、九州説にかたむいていますがね >>808
イカンよ間接的に畿内説を揶揄するのは
俺、九州説だけどさ 糸島・伊都国、博多・奴国という点では、
ハラタも、フルタも、ヤスタも、イシタも、テラタも、オクタも、
みな同じ穴のムジナだろう。・・・ガヲー、ガヲー、、、 >>585
>畿内の本物の学者級が出現して九州説タジタジだね<
おや?、変な言い方をしたな?。
その「本物の学者級」という人物は、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙しをしているのかい?。
それじゃ、「本物」ではなく、
「史料事実にない文言を使った嘘つき騙し」の偽者だよ。 俺畿内説だけど
邪馬台国と大和は歴史的に関係してると思うよ
まあ大和に卑弥呼がいたとかそんなバカげたことは思わんけど
筑紫王権の伊都国の存在や巨大都市国家奴国
そして南の邪馬台国中枢に狗奴国の存在
大和の興隆はこの筑紫の政治的ドロドロの直後に勃興するんだよな
このドロドロ解明が九州説のキモだよ 最近人権板にはまってます。
「バカとアホ」
どちらもいけないと思いますが。
「馬鹿」は関東でよく使われる言葉です。
一方、「阿呆」は関西でよく使われる言葉です。
馬鹿」は関東では比較的軽い意味で使われます。
一方、「馬鹿」は関西では侮辱された印象が強くなってしまうので注意が必要です。
阿呆は関西でよく使われる言葉です。この言葉も知能が低いことや愚かなことなどを表します。
そして、関西では比較的軽い意味で使われます。ちなみに、これには「阿呆」という言葉が漫才でよく使われることも関係しているようです。
しかし、「阿呆やなぁ」と言った場合には「うっかりものだなぁ」程度のやさしさがにじみ出る表現になります。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
九州では、奈良では
バカとアホの違いはなんですか?
このスレで、あまりにもバカとかアホが氾濫しているので敢えて >>590
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は
大声で叫ぶばかりで説得力がない
大和説信者に言いたい事は、
自然や歴史における科学や学問は、
不可知部分が殆どである自然や歴史の中の、知り得た事実や資料からの、
帰納的高確率的な推論を研究するものだ、という事なんだよ >>596
これまた、以前に何度か全面的否定をしたものの再掲だから、
放置だな。
何せ、逐一否定した投稿を「エラー522」とされて、全部抹殺されてしまった後だから、
返事を書く気がしない。 腐れ低脳児の脳無しキウス←うっかりものだなあという優しい感じ
スレ違いやな、人権剥奪するよ?
俺の輝かしい知的なレスが一つ流れる
ボケのアンポンタンのトンマのマヌケのゴミカス←うっかりものだなあという優しい感じ >>601
>>どんなものも関連を「否定することは」難しい。<
>頭ごなしに否定してた九州説の面目まるつぶれ<
いや、九州説は「完全否定」などしない。
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
知り得た事実やの資料批判をされた資料からの「帰納的確率的な推論」をし、
その確率の高低を論じる。 >>828
おもろい奴だな
漢山人だけどアホと言われてもなんとも思わん
(ド)アホと言われたら、殴ってやるよ まあ答えると
バカにとっては「バカ」発言は自己満足する単なる罵倒だけど
俺は相手の知性を図るときにあえてそういう言葉を投げかけるね
バカアホは相手の心を剥き出しにする道具だよ
2chなんだし >>814
だよな
畿内説は脳内に自分勝手の変換機持ってるよな キウスも連句点もバカっていうより狂ってるという感じ >>607
「東征毛人五十五國」などの前方後円墳による全国的支配体制
明帝鏡や渡来の呉系楽浪鏡師らの△などによる有力豪族の臣従
庄内式による大和への影響力
東征将軍らに拠る雄大な前方後円墳群
日本最初の大道群や大溝の計画群的都市の弥生銀座
狗奴国は火国(肥国)として、倭国王家一族に合同
大和の小さな平地と比べ九州の広大な領域でないと7万戸の邪馬壹國は不可
九州はまだまだある
大和説敗北、邪馬壹國は筑紫平野部で「箸墓は卑弥呼の墓ではない」で確定
(しかし、また「エラー225?」にされちゃかなわんから、
この貼り付け魔も、次回から放置ね。 奥山はだんだん世間と感覚がズレていってる、いよいよ孤立しているんだな 誰がどう見ても一番狂っているのはキナイコシなんだがw 九州説は中道を行くが畿内説は覇道を行く
国民が支持するのは明らかに前者だろうな >>617
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者は、
こうやって、毎日嘘をついて荒らす >>809
短里というものはなかったとスレに書いてたよ >>828
俺は愛知県在住で九州説支持
馬鹿、阿保より
愛知近辺じゃ「たわけ」が一番きつい言葉 >>847
中道ってどういう事
邪馬台国が畿内だった可能性も認めるの >>849
短里とか言い出すのは
老いた初心者
w >>855
サンキューー
山梨 のヌケサクはいいね! >>854
なら良識に従って
短里とかの捏造をやめたら >>620
>>その次の牛慈に「金刺宮御宇服降為夜須評督」とされ、
更にその次の「長提」に「小治田朝評督筑紫国夜須郡松峡?野在」とされ、<
>「欽明朝に牛慈は服属し夜須評督に就任した」だ
「推古朝に長提は評督の地位にあり、筑紫国夜須評松峡野に住んだ」だ <
違うな。
「評督」という役職は、大和政権側の欽明や推古の頃には全く無かった。
(郡制ではなく)評制は、646年頃に九州倭国の副都であった難波宮で決められた。
つまり、筑紫倭国内の都督の下の身分名であった。
だから、欽明の金刺宮も推古の小治田宮も筑紫にあった。
鈴木真年氏は、その事に気付かず、古田さんの九州王朝説も知らず、
勿論九州倭国と大和が違う国家組織である事も気付かなかったから、
そんな奇妙な説明書きを書いてしまった。 >>847みたいな印象論しかないのが九州説の特徴だね
何の立証もしないまま
自分の囚われてる先入観を
「常識」とか「良識」とか
美名で飾るだけで論陣張った様な気になってる
滑稽 奥山氏は京都府在住の朝鮮人だったね
パッチギの舞台だね >>863
極論で良識を破壊するのが奥山という典型例 >>866
>短里をつかわないと九州まで来れない<
でも魏使は九州に来てるんだよ、否定する材料出せ(笑) >>869
九州に北とどうやって判明したの?
短里でしょ
話が逆転してるんだよ、君は >>634
>どちらの説でもない僕だけどこう見える
喧嘩のように大声で言い張り悪口も多い九州説
冷静に熟考して落ち着いて議論する畿内説<
ダメだな。
私ならこう見える。
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙しをしたキミは、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者と同じく、
史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの詐欺師に見える。
そして、九州説者は、皆出来るだけ、
「史料事実や史料批判された史料実態からの帰納的高確率的な推論を熟考している」、
まじめな人々に見える。 >>827
>このドロドロ解明が九州説のキモだよ
倭国中枢(筑紫日向=伊都)で起きた倭国大乱で王権の座を追われた彦火々出見(高祖山)の一族が筑紫を捨てて脱出し、遠縁の饒速日の庇護にあやかったのが神武東征。
それに代わって筑紫を治めたのが卑弥呼。 >>852
考古学的出土品を色眼鏡なしに客観的に評価することだよ。
桃の種や魚の骨を見て邪馬台国だなどと主張したりはしない。 >>860
対馬海峡が三千里です。
一里は何メートルですか? 印象論しかないのが畿内説の特徴だね
何の立証もしないまま
自分の囚われてる先入観を
「常識」とか「定説」とか
美名で飾るだけで論陣張った様な気になってる
滑稽 >>650
膨大な不可知部分がある自然や歴史の中の、
僅かな証拠や事実を史料批判して、それからの帰納的確率的な推論をする九州説者。
存在もしなかった嘘つき騙しの文言の畿内を使い、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをする大和説は、
明帝鏡ではない三角縁神獣鏡と、大和の3世紀末以後の前方後円墳を根拠にして、
嘘つき騙しの大和説をでっちあげる。 >>651
この大和説者の「貼り付け」、反論済みね。 >>652
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
証拠弱者大和説 >>875
色眼鏡なしなら三角縁神獣鏡と古墳でとっくに畿内で決着なのにねえ >>653
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者は、見苦しい
文献考古の史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論を語れる大和説者は
いないようだな >>876
魏の1里は約437mだったけどそれが何か .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>659
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者は
よくもまあ嘘ばっかりついてられるものだな >>883
出土するんだからしょうがないだろ?
まさか見つかる考古物を無視したりはしないよねえ >>668
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙しの文言を使い、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、宗教
九州説は、文献考古の史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論の学問
とはよく言ったもんだ 三角縁には景初三年や正始元年の卑弥呼が魏と交流を持ったと
倭人伝に書いてある魏の年号が入っている
ホケノ山古墳は木棺の炭素14C年代測定や
副葬品の年代観から造営念はBC240年ごろが上限と判明 >>669
まともな学者や国民や人類ははみんな九州説です、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使い、
右翼マスコミや文科省や学会教育界ややくざ暴力団や、
低学歴の貧困で殺戮戦争をしたいガキのみ大和説です >>680
>投馬…ズマ…ズモ…ズーモ…イズモ
なるほど出雲が5万戸の投馬だったんだね
これなら郡より東12000里の辻褄が合う<
「南≠東北」などで×。 邪馬台国がどこにあったかは私見では京都周辺です。畿内では有りません(畿内なんて当時なかったのですから)
ザラコク氏に南≠東でバッサリでしょうが、太平洋沿岸ルートで京都が王都です。
大和王政・・ここで邪馬台国は終焉を迎えます
渡来人と九州倭人勢力が連携して作ったのが大和王政です。
蘇我氏は渡来人、物部は倭人だったでしょう。その渡来人と倭人の勢力に
九州から来た倭人および 畿内倭人で従った方 (総じて物部派)は生き延びました。
反感した方は東へ逃げるか、残り差別を受けました(同和地区の始まりでしょう)
松本清張は飛鳥の公用語は百済語と言ってます 。
続日本書紀では桓武天皇の聖母は百済のブネイ王の末裔と記述されてます。
私は 今の畿内説は着いていけません。桜井市の巻向・箸墓を祭り上げ何をしてるの、ホケノの方が、
天理市や橿原にも・・・・・・
憤りが絶えない畿内説に誰がしてしまったのでしょうか
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
以上 お遊び ゴメン ゴメン 重ねて ゴメン 自由と柔軟性を愛する九州説は
しばしば頑固と偏屈を愛する自由さえ認めてしまうが
それがかえって九州説を殺してしまうこともあると
知ってほしい >>690
>魏志倭人伝・古事記・日本書紀で邪馬台国・卑弥呼の謎は解ける・・・
投馬国=出雲国、邪馬台国=大和国|古代主要航路・日本海沿岸水行・・・
日本建国神話は解ける!邪馬台国・卑弥呼と古事記・日本書紀・・・<
「南≠東」などに拠って、×。 >>623
>>>620
>相手を間違ってねーか
失礼
>>211→>>552
と訂正 >>654
>いや、例外的な鏡があったのは知っているし、だから「原則だ」と断ってい置いた。
その「原則」もお前の思い付きだろw
根拠のない「原則」なんて保険にすらならんw
>そりゃ、
>何か工房や組織に問題があって、年号や右中左の区別文言を記銘する必要があったんだよ。
>問題も何もなければ「尚方作」で十分。
今度は、魏志にもない「工房の問題」を思いついたの?w
もはや仮説ですらないだろw >>697
>古代中国は日本列島を南北縦に長いと認識してたんだな
南に大和がある地図も残ってる 方角論ハイ論破<
後代の「知的退化」を起こした地図学者の地図は、
同時代の魏の役人たちの「実地の見聞計測記録」の正しさの確率には勝てず、
参考資料程度にしかならない。
ハイ論破。 >>700
>魏志倭人伝、古事記、日本書紀を照らし合わせれば
卑弥呼の正体が、古事記や日本書紀に登場する
ある人物だと分かる。
よって、邪馬台国=大和国で正解。<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であり、
大和説は「南≠東」などに拠って、×。 >>862
>違うな。
「服降」って書いてあるよw
>「評督」という役職は、大和政権側の欽明や推古の頃には全く無かった。
この系図自体疑わしいw
>(郡制ではなく)評制は、646年頃に九州倭国の副都であった難波宮で決められた。
>つまり、筑紫倭国内の都督の下の身分名であった。
どんな妄想だよw
六朝時代の「都督」って軍事も含めた地方長官だろ
>だから、欽明の金刺宮も推古の小治田宮も筑紫にあった。
どこに?w
>鈴木真年氏は、その事に気付かず、古田さんの九州王朝説も知らず、
はぁ?それは元々系図に書かれていた注だろ?
鈴木真年氏は収集しただけ >>884
魏志倭人伝の記述に基づいて計算し直しましょう。 >>701
>九州説は資料も証拠も出さずに人格攻撃
混一疆理歴代国都之図・・・
畿内説は違う
ハイ論破<
後代の「知的退化」を起こした地図学者の地図は、
同時代の魏の役人たちの「実地の見聞計測記録」の正しさの確率には勝てず、
参考資料程度にしかならない。
また、畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言です。
ハイ論破。 それにしても・・・w
このような??????もいるし、何の話なんだろう。
『天鳥船神』
あの日本昔話などの元ネタ? >>702
>壹與なら古墳時代だし、平原と比べて明らかに高く積み上げている。<
壹與は、列島で初めての前方後円墳の那珂八幡などよりも前であり、
明らかに古墳時代ではない。 >>870
えーーー
ヨコからゴメーーン
魏の使いは九州北部に来てるのは、各説で認めてるよ。
とりあえず、アンタノの1里 は?メートル?
(俺は 距離にこだわるより方位は正しいと思うよ
短里は比例計算の産物だと心得てるけどさ・・ 『もののけ姫』?神殺し。
誰々が(神を)殺せと言ったとか、
いまの天皇(二代くらい前?)、創価?の仕業だと言ってる人がいたりw >>745
また「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が嘘?
騙し詐欺ばかり大和説
バレたから もうすぐ逃げるだろう >>907
40mから200mくらいと出るらしいけどそれが何か ええかげんせーよ
>>634
>どちらの説でもない僕だけどこう見える
喧嘩のように大声で言い張り悪口も多い九州説
冷静に熟考して落ち着いて議論する畿内説< イザナギ(二種(瓊、矛))
ヒルコ 筑波イサ宮生まれ 船に乗せ捨てられる、ヒヨルコ(流産)(近江) 船に乗せ流される、天照 ハラミの宮(富士)生まれ、
月読 筑紫(月隅)ヲトタチバナノアワキ宮 生まれ 、ソサノヲ(スサノオ) ソサ(紀伊)熊野生まれ
158-166 スサノオ、オロチ(モチコ(天穂日の母)、ハヤコ(三女神の母))、ハタレの乱(九州-東北)
158 伊勢→宇佐 三女神、モチコ(天穂日の母)、ハヤコ(三女神の母)、(トヨ姫アヤコ(ムナカタの娘、クマノクスヒの母))
158 天岩戸 7月13日 皆既日食 日没直前 琵琶湖 京都 大津 津
(日食・月食・星食情報データベース、NASA 等)(ΔT= 8042.58 等)
天照(男)、瀬織津姫(妻)、イサワ宮 伊勢(伊雑宮 志摩)
ヒルコ(天照の姉)、思兼(夫)、ヤス川宮(野洲川宮)近江 ネ(北陸)とサホコ国(山陰?)を兼ね治める
オシホミミ
伊勢→多賀、野洲川(近江)→日高見(東北)多賀
クシタマホノアカリ(テルヒコ)(櫛玉火明(照彦)) (アスカヲキミ)
日高見(東北)→葦原国(ナカ国) (大和、近畿辺り)
(多賀→イカルガ→アスカ)
5組の物部25、伴人総勢864人
イカルガ ウテナから四方を望む
アスカ川をクルワに掘ってミソギをする
アマノコヤネ ヤマト川を掘ってトブヒノ丘にミカサ山をつくる
ハセ川を掘ってアスカ川のフチを田と成す
ニニギ (ハラ(富士)ヲキミ)
日高見(東北)多賀 生まれ
伊勢 天照がいる
関東(筑波、新治、二荒)
ハラアサマ宮(富士) タマウテナ コノハナサクヤ姫
ミヅホ宮(近江)→九州
大津シノ宮(近江)→ソヲ 高千穂 九州 三十二県
ハタレの乱の功績により カナサキ ソヲを賜る
--------------
九州統治
カナサキ - o - ハテツミ(豊玉彦)- トヨツミヒコ
カナサキ 九州が治まらないので御子を請う 食糧不足が原因と考えて新田開発の好きなニニギが行く
ハテツミ ヲシカを請う カンタチと共に治める
--------------
(九州統治)(本州→九州)
ニニギ(ハラ(富士)ヲキミ) - ホホデミ(筑紫ヲキミ)
カンタチ((大)物主))(筑紫ヲシカ(勅使))- フキネ(大物主)(筑紫ヲシカ)- クシミカタマ(大物主)(筑紫ヲシカ)
ウガヤ - 神武
天種子(筑紫ヲシカ) 宇佐
(ホツマツタエ) >>913
記紀にも短い里数が使われているのであったな
崇神65年の記事 「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
対馬海峡で約2千里とのこと >>757
>卑弥呼の頃は中国では邪馬台国ははるかな南にある国という事になっていた
九州北部とは認識されてはいないね <
魏志倭人伝では、不彌國や邪馬壹國女王之所都で、
「萬二千余里」がほぼ終わる書かれ方をされていた。
九州北部と認識されていたから、この男は×男。
あっ、邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言も書いていたから、それも×。 >>924
万2千里が終わるのは会稽東治の東
沖縄か台湾の辺り >>761
ほら、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者が、
嘘地図で逃げ出して、
別のアウアウ?地図をだして、
戯言を繰り返す大和説 奴国二万戸が無理ならこのあたりでも可
魏志倭人伝の戸数の記述がただしいという可能性を示せばええことにしたる
対馬 千余戸
壱岐 三千許家
末盧国 四千余戸
不弥国 千餘家 >>767
みなさんみてください
詐欺師大和説者が、また偽地図持ち出して嘘つきましたよ >>887
▲か、それなんなの
畿内以外でも多数出土してるしさ、未発見の物含めたら1万枚これるかも知れんぞ >>769
またまた「南→東」などの嘘つき騙しの詐欺行為大和説、
犯罪集団大和説 畿内説を推してる山川出版の教科書ってこんなやつ
『山川出版社は「詳説日本史」「新日本史」「高校日本史」で各々、
「数十万人の朝鮮人や占領地域の中国人を日本本土などに強制連行し、
鉱山や土木工事現場などで働かせた」、「多数の朝鮮人や占領地域の中国人を、
日本に強制連行して鉱山などで働かせた」、「朝鮮人や占領下の中国人も
日本に連行されて労働を強制された」としている。』 壱岐 三千許家とか絶対嘘やわ
魏志倭人伝の戸数とか適当に増やしとる なぜか
倭国ルートで建業に攻めたいから
九州北部や島で見合った規模の遺跡が確認されないと
魏志倭人伝の戸数は嘘ということで決定するからな 卑弥呼畿内滞在説をでっち上げる畿内説推進考古学会=卑弥呼共産主義です会 >>784
みなさん見てください
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者が、
またまた嘘ついたよ どのスレだったかな「そんなこと言っていないだろう」
みたいな書き込みをしている人もいたりw
なぜか家の話のような気がするんだけど、
『もののけ姫』
アサノという人物も出てくるでしょ、
老婆が言うにはセメントの話をしていたり。
いつ頃の話なんだろう。 >>936 建物を建てるのに沈んだらだめじゃん
労力かけて砂地にでかい木の建物を建てるだろうか >>931
畿内がとくに多くて
景初や正始など卑弥呼が魏と交流を持ったと倭人伝に書いてある魏の年号が入っている >>809
>遠い南と認識した理由が大事。
短里で南に一万二千里と書かれた報告書を中央の役人が読んだので、
会稽の東あたりの南の海上だとされたと考えられる。<
考えられない。
魏の役人らも「中央の役人」も陳寿も、同じ「短里」の人。 老婆は知っているんだよ(詳しい?)という話。
何かの家の人だとか・・・w『ドンバ』?
あの謎の写真とか。 改元されて実在しない中国の年号の銘が入った鏡があるいわくつきが鏡があるんだよな >>941
「宛は洛陽から800里、新城郡から宛まで1200里」との事。 鹿のような「?」もいるでしょ、七福神。
『ワンピース 粉雪』? >>943
景初四年のことか?
史料から景初四年は半年ぐらいは使われていた可能性がある >>920
記紀の神代の記述なんて信用してないよ俺は。
北朝鮮の将軍様の神格化と同じ程度としか俺はとらえてないけどさ
倭人伝および、歴史的考察(文明・文化の先進性)から
畿内は無いでいいよ
人力に頼る、大きな古墳なんて圧政だよ。前方後円墳なんてさしたる技術無くてもできる。
以前 半径50Mの円を描くのが先進技術と言ってたバカもいたけどさ
倭人伝では倭国は優しい国だよ。 浦島太郎(仮名、キャラクター名)もいるし・・・七福神。
なぜか船に乗っている。 >>818
>王がいないってそりゃ邪馬台国の時代は升王族の奴国は南の邪馬台国連合に参加してたから当時は邪馬台国の有力な高官だろう
当時東アジア最大の都市国家が奴国なんだから升家は日本神話になんらかの痕跡を残しているだろう
那珂八幡古墳の被葬者もたぶん升一族 <
松野氏姫氏系図には、委奴國王も帥升に当たる人も、
卑弥呼も壹與も難升米も掖邪狗も伊聲耆も、熊襲の王らや娘らも、倭の五王らも、
載っている。 >>940
中国の畿内説より?の学者が▲は中国の物じゃないと言われたのだな
残念 無念 ご苦労さん >>950
残念、光加速器SPring−8の分析で三角縁神獣鏡は中国製と判明した。科学的検証の成果ですよ。 >>949
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>949
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>940
質問してもいいかな
魏の年号が入ってない三角縁円獣鏡はなんなの?
魏の使いは2回しか邪馬台国に来てないのだけど・・ >>949
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>949
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? おい、頭の悪いプロ固定、明日の夜明け前までに、新しく、僕達が備忘録に使用するためのスレッドを作成しなさい。
スレッドの題名は、
邪馬台国畿内説 Part571
が良いよ。 >>949
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>949
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>955
後期のものは国内で作られたものもあるらしいからそれじゃね >>962
前期と後期はなんか違いの特徴あるのですか
マジ質です >>912
>博多区とか砂地に王族が住むわけないやん
高祖山の西の山麓 >>963
スイマセン
洛陽で見つかった▲は前期ですか、後期ですか? 例えば「成多作」w
漁師の家に生まれたと言っているし?
自分が〜〜〜に、なる方法を使用しているとか。 >>921
福岡はどこを掘っても住居跡が出るから、いちいちニュースにはならないよ。 >>926
短里の報告書を長里で解釈したからそういう話になった。
つまり会稽の東というのが短里があった間接的証拠になる。 三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。
母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳
>
>以上福岡
>
>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良 「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
ほぼ福岡県だけで奈良県を完封、奈良県を口にする方がおかしい状況
奈良県から多く出土している物もあるにはある
(西暦300年以後古墳時代)
三角縁神獣鏡 福岡県49 奈良県100
前方後円墳80m以上福岡県23 奈良県88
前方後円墳100m以上福岡県6 奈良県72
古墳時代以降、文明が東に伝わり発展した地域の一つとして奈良県もあった模様
ただ時代が違うから
絹織物出土に関しては九州たくさん、奈良0 なぜか創価だと言っている人ばかりいたり、
何か理由があるはずなんだよな。
ホンモノ(ウラシマン?)を殺そうとしたとか、しないとか。 >>968
なら短里があったとしても
魏志倭人伝には邪馬台国は九州じゃなくて沖縄か台湾の辺りと書いてある事になるな >>901
>>いや、例外的な鏡があったのは知っているし、だから「原則だ」と断ってい置いた。<
>その「原則」もお前の思い付きだろw <
以前の議論での、お前が言った事からの帰納的な推定だ。
>>そりゃ、
何か工房や組織に問題があって、年号や右中左の区別文言を記銘する必要があったんだよ。
問題も何もなければ「尚方作」で十分。<
>今度は、魏志にもない「工房の問題」を思いついたの?w <
全て、以前の議論でお前がしゃべった事からの、人類の常識的な推論だ。 >>975
短里で書かれた報告書だったからこそ、そう思い込む羽目になったんだよ。 >>976
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>976
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>976
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>976
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>976
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>977
それなら魏志倭人伝の邪馬台国の位置は本当のものではなくて
考古学的証拠から見たら邪馬台国は畿内 >>976
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>976
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? 『ドンバ』〜『ワンピース 粉雪』同じようなキャラも出てくるし。 『姥清水』
確実に、いまの福島県のほうの話でしょ、
老婆も同じような話をしていたしな・・・。 >>976
>以前の議論での、お前が言った事からの帰納的な推定だ。
>全て、以前の議論でお前がしゃべった事からの、人類の常識的な推論だ。
結論ありきで理由をでっちあげただけだろw
お前一人の妄想に人類を巻き込むなw
結論:
「平原の「尚方」鏡が明帝の鏡」という主張には根拠がなかった 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1582556212/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>983
実際の位置は短里で帯方郡から一万二千里の九州北部だよ。
九州上陸まで短里で数えていて、急に長里になったりするわけはない。 『背振山の石楠花』(『姥清水』)
なぜかレッド・クローンと同じような話。
老婆の話とも共通していたり。 山の上のほうに住んでいたことがあって、
歌舞伎や芸能関係の話もしているし、馬に乗り・・・? >>990
>実際の位置は短里で帯方郡から一万二千里の九州北部だよ。
>九州上陸まで短里で数えていて、急に長里になったりするわけはない。
短里で数えるわけがない
そんな単位はないからな 『背振山の石楠花』〜『選ばれた 申し子のように』?
『ドンバ』あの写真でしょ。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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