邪馬台国畿内説 Part575
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1583323679/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし >>82
反論ひとつ出来ないで
ただひたすら荒らしで対抗してる
ダメダメ九州説が
どう見ても
悪あがきしてる負け犬 狗奴国が久努国(クノノクニ)の事だと分かれば、邪馬台国はもう大和国しかないね
こんな簡単なもの、いつまでやっているのかw 九州説がいくら無駄吠えしても
邪馬台国が畿内にあったという考古学的証拠は動かない 卑弥呼率いる入れ墨集団にボコられて乗っ取られた奈良が邪馬台国やろね
奈良の南の南河内や和泉が狗奴国かな
奈良の卑弥呼にボコられる前は狗奴国の一員だったんちゃうかな
奈良の先住民も犠牲者 >>89
九州説は現実が辛くて妄想の世界に生きている ポコられ役のスレが、また立ちました。
大いにポコってあげましょう。 >>92
今まで一度も出来なかったこと
今日からできるの? 畿内説のスレなのに畿内説がまともに語られない不思議
中身がない妄想だから仕方ないのか 九州雑多作り話のように根拠がない妄想が各々語るんだろ スレ立ったか
前スレで書き込めなくて重複の古いスレに書いたヤツの書き直しをば
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
前スレ、https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1583323679/983
>鉄の溶けやすい土壌を紹介しろよ
周囲に酸素がある環境では水中の鉄イオンは酸化剤となるというか、金属の酸化を加速する触媒になる
鉄それ自体が酸化の触媒を供給し続けるので、酸素と水さえあれば鉄は際限なく酸化されて消える
ただ、周囲がアルカリ性だと鉄イオンが沈殿して濃度が上がりにくいので酸化の速度は多少は遅くなる
周囲が賛成だと鉄イオンの濃度が高くて触媒が多く、酸化の速度が速い
日本列島では鉄か酸化しやすい土地が大多数で、石灰大地とかの限られた例外地域以外では鉄は残存しにくい
七支刀が残ったのは奇跡
あれだって、かなり消滅寸前な感じで発掘されてるわけだが。 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. >>95
そりゃ九州説が妄想と罵倒とオウム返しばかり並べたてるからだろ
九州説に中身がない証拠 >>100
ええと、弥生時代から鎌倉時代頃までは米は蒸し調理で炊いて調理する風習はなかったんだけど、これは蒸し調理に含まないの? 九州説のレベルが低すぎて学術論証的な話をしてもまったく無駄なのが悲しいところ 悲しいときー
九州説が何度論破されても短里はある短里はあるといって聞かないときー 悲しいときー
九州説が論破され過ぎて頭が狂いおかしな言動を取り始めたときー ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国1】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国2】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 >>110の模式図だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★『(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年」 倭王卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書用封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、混乱が生じる。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 奥山のたわごとを聞いてると九州説がそれほどおそろしいのかと笑えて来る >>112すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>105
3Cに甑が半島から伝わって古墳期初頭の4C前半頃までは使われていたが廃れていった
5C頃から再び甑が使われだして8C頃まで使われたが木製の蒸籠が登場して甑は徐々に
消えていった
奈良時代から鎌倉時代にかけては米は甑か蒸籠で蒸して炊くのが主流であったが、
室町時代になると再び煮て炊く炊飯に戻っていった
日本の炊飯は煮て炊く炊飯から蒸して炊く炊飯になり、再び煮て炊く炊飯に戻り、
現在に至るのである >>114
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
伊都国崇神朝の景行/成務/仲哀、邪馬台国応神朝の応神(息子)/仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 アホの九州王朝説、まさに変質者です。気持ち悪いね。 >>116
ダイワ(オオワ)としか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家の=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津京に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書の古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
特に前者は、記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と考古学の年代繰り上げ操作という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。 大和朝廷は筑紫王家が作ったのは畿内説でも認めるよな
その筑紫王家が伊都王家だというのも認めるよね
記紀読んだらそのまま書いてあるんだが認めるよね
筑紫の日向の小戸ってそのまま福岡市西区だというのも認めるよね? 蒸し飯は今のオコワとかシラムシの類であり、固い飯として強飯(コワイイ)と呼んでいた。
(中略)水の多少により出来上がりに汁粥(シルガユ)と呼ばれたものと
固粥(カタガユ)の二種があった。前者が今の粥である。
(中略)固粥は器に入れて箸が立てられる程度の固さのもので、姫粥(ヒメガユ)とも称され、
今日の飯(メシ イイ)の原形であった。
平安時代の末期までは貴族でも一般に汁粥を食べていたらしい
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000097450 >>118
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html 【倭国】
弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭国が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことであるという説がある。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
連合国家である倭国の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部に豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は一貫して筑紫が独占していた。
卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>97
それで、広大な畿内は土壌がいろいろ混じってるが
鉄が溶けやすいとでもいううのかい >>87
>邪馬台国が畿内にあったという考古学的証拠は動かない
その「邪馬台国が畿内にあったという考古学的証拠」ってなに? @阿波 【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。
ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif.html 以前は加えて土器の拡散というのもあったがこのネタはかなりヤバイという事に漸く気付いたようだ >>128
別にヤバくないが?
邪馬台国の時代3世紀ごろは畿内を中心に庄内式土器などが全国に波及していった >>124
中平の年号が入った鉄刀。
石上神宮の禁足地にある膨大な未発掘の遺物。
発掘で出土した黄幢。
発掘で出土した日本製絹織物倭文。
未発掘の宮内庁治定の陵墓群。 九州説は朝鮮団体が金儲けのためにでっち上げたデタラメ >>958
>侏儒国が存在したと考えるべき合理的な理由がないし、
お前もそれを主張も論証も挙証もしていない
あったと考えるやつがバカ<
魏志と後漢書と梁書の史料事実と史料実態であり、
江戸時代初期に、足摺の西沖の沖の島に低身長部族がいた、という記録の存在が根拠。 >>967
>>吉野ケ里のように、支配層の墓祭祀法が前方後円墳や前方後方墳に変わっただけ。
>この時点で、伝統を捨てて畿内様式を受け入れた側だと確定するな <
この時点で、東征された毛人や出雲系銅鐸祭祀部族や大和なども、
伝統を捨てて筑紫の埋葬様式を取り入れたがわだ、
という事が確定するな。 >>969
>>大和盆地も北部九州も、水分量では、同じ位の土質だよ。
>だから同じように大和盆地でも北部九州でも1700年前の鉄の絶対多数は溶けてなくなってるだろ?
ごく一部の偶然残りやすい条件の場所に位置した鉄だけが残ってるんだよ
いや、弥生期の地層からの鉄器の出土量では、
福岡は奈良の100倍位、鉄が残っていた、という事は、
福岡の鉄使用は、大和の百倍位多かった、という事だよ。 >>123
畿内が、ではなく日本のほとんどが、と訂正を要求する
石灰岩が多いとことか特別に乾燥してるとことかの例外を除けばたいていのとこで鉄も人骨も溶け去って残らない >>133
書かれていることすべてが事実だと妄信している信仰者には、付ける薬がない >>974
>魏皇帝欽定の度量衡での里が短里ではないのは、 <
魏朝の公定の里は「周里(短里)」だよ。
>正始弩尺の現物が出ている以上確定事項だよ<
尺寸系と里歩系とは、別々の単位系であったんだし、
尺定規の寸法は、周代から大きくは変わっていないんだから、
里歩系の里や歩の長さとは、関係がないよ。 >>136
しかし、各地に残ってるな
残ってる量で、当時の地域ごとの鉄の量は推理できるな >>977
>>土壌として鉄とアルミニウムは溶けにくいです。
>これは土壌鉱物に吸着されているイオンの溶出の話で、
金属片の溶けやすさの記述ではないと何度教えても無意味にコピペを続ける<
鉄のアルミニウムも、イオン化して溶けるもの 畿内にある古墳はホケノ山だけど
九州説の頭はボケの山 >>979
>甕棺が消えてから平原1号墓が作られるまで100年以上隔たっている
祇園山の墳裾の殉葬墓に甕棺が3か所も使われており、
だから、
「甕棺が消えてから平原1号墓が作られるまで100年以上隔たって」いない。 >>981
>どんなに多く鉄を使っていても、通常の土壌中の環境では1700年あればすべて失われる
通常と異なる環境に偶然置かれた鉄が残っているだけ<
福岡では、奈良の百倍以上鉄が残っている。 >>982
>地下水に触れない環境や、
逆に粘土質などで密閉され酸素の届かない嫌気的な環境がそれに当たる
福岡では、甕棺の中以外の、普通の住居的遺跡からも、鉄が沢山出土する。 ハイ畿内の鉄は全部錆びてなくなった
ハイハイハイハイハイッハイ!!
地質ガーーーー!!!
錆びやすい〜〜ハイハイハイ!! >>144
畿内説がいかに嘘の塊かよくわかりますね。 >>127
>三角縁神獣鏡に前方後円墳
それ、倭国(阿波)がもたらした物なんだけどw @阿波 >>129
>邪馬台国の時代3世紀ごろは畿内を中心に庄内式土器などが全国に波及していった
それ、倭国(阿波)がもたらした物なんだけどw @阿波 阿波よ
俺がいきなりハワイ説唱えたらどう思う?
お前とはそういうことだw >>993
>その郡勤めの役人も後漢尺あるいは魏尺の度量衡で生まれ育っているし
それ以外の単位を使う理由がない <
尺寸系の寸法は殆ど変っておらず、変わったのは里歩系の長さであり、
これも関係がない話。
>また、報告書を上げるのも魏朝の役人なんだからやはり魏朝の度量衡以外を使えば
魏の皇帝権力の否定を意味することになる<
これもまた×。
魏の役人らは、魏の皇帝らの命令に従って、
周里(短里)での記録をし、報告したの。 >>151
太陽が地球の周りを回っていると信じられていた天動説の時代には、地動説は異端だった。
ことほどさように、支配的な意見が必ずしも正しいとは限らない。人間は完全ではないのである。
お前とはそういうことだw @阿波 >>153
天動説=畿内説
地動説=九州説
地球は平面で象と亀が支えている=阿波説
このくらい差があるぞw 畿内の古墳ホケノ山からは3世紀の木棺や鉄器が見つかるけど
九州説の頭はボケの山だから中はカラッポ >>997
>>それさ一部の写真だろ、右側に矢板ねーし
>片側を掘り上げたところでの写真だよ 右側はまだ掘ってない状態<
何だ?。
それじゃ、「1万枚」とか?なんとか言っていたのは、ウソつき騙しになるではないか。
>>矢板を磨いた?削った? 木材加工用の鉄製道具は何?
>鑓鉋や釿 何度も話題に出てるぞ<
言っているのは類スレ主だけで、しかも、鑓鉋や釿の出土はない。
もう大和に鉄器があったという言説はとっくに否定された古い妄言
類スレ主はそれにしがみつくしかないんだろうけれど
>和銅が元号になるくらい、それまで倭国内で銅は採れなかった つまり銅も全量輸入品なんだよ<
おや?、また話を逸らせて、逃げた。
銅なら、九州には銅矛などがあり、出雲系は銅鐸を造っていた。
>同じ輸入品の銅が出土して鉄が出土しないのは、
鉄器を輸入する北九州と繋がりがない別の国だから、というのが
論理的に破綻しているのが分かるかな?<
大和は、出雲銅鐸祭祀地域であったのであり、
そこが、九州倭国の神武らの東征で、雑居状態になり、
そこへまた東征毛人五十五國があって、征服されたの。 >>84
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの指摘に対して、
反論ひとつ出来ないで
ただひたすら荒らしで対抗してる
ダメダメ大和説が
どう見ても
悪あがきしてる負け犬 >>85
>狗奴国が久努国(クノノクニ)の事だと分かれば、
邪馬台国はもう大和国しかないね<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この男は×であるし、
大和説は「南≠東」などに拠って×ね。
こんな簡単なもの、いつまで言っているのか >>87
>九州説がいくら無駄吠えしても
邪馬台国が畿内にあったという考古学的証拠は動かない <
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説が、
いくら無駄吠えしても
「邪馬台国」も「畿内」も存在もしなかった嘘つき騙し文言であったし、
「正北抵新羅」や「冢≠前方後円墳」などの文献考古学的証拠は動かない >>152
>尺寸系の寸法は殆ど変っておらず、変わったのは里歩系の長さであり、
するとお前さんが何度も繰り返して行ってきた短歩は実在しないんだね、百余歩は約150mだね >>88
>卑弥呼率いる入れ墨集団にボコられて乗っ取られた奈良が邪馬台国やろね
奈良の南の南河内や和泉が狗奴国かな
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×であるし、
卑弥呼や狗奴國も、「南≠東」などに拠って、×。 徳島県鳴門市大麻町萩原の「萩原2号墓」で、板材でつくった墓室・木槨(もっかく)を積石(つみいし)で囲んだ三重構造の埋葬施設が確認された。
県教委と県埋蔵文化財センターによると、築造は弥生時代終末期の2世紀末〜3世紀初頭で、邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍した時期に一致する。
石で木槨を囲う例は、他には弥生墳丘墓と前方後円墳の過渡期的存在とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市、3世紀前半)だけで、
同古墳の構造に影響を与えたのは確実。
前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料となる。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>90
>九州説は現実が辛くて妄想の世界に生きている
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は
現実が辛くて、分裂幻覚の妄想の世界に生きている 三角縁神獣鏡は倭国(阿波)で作られたぼう製鏡で、全国へ配られている可能性が高い。
根拠:気延山古墳群の宮谷古墳から特異な異種3面もの「三角縁神獣鏡」が出土しているが、
その異種3面の「三角縁神獣鏡」と同笵鏡が、
それぞれ大分(赤塚古墳)・岡山(鶴山丸山古墳)・京都(内里古墳・椿井大塚山古墳)・奈良(黒塚古墳)・群馬(前橋天神山古墳)・富山(富雄丸山古墳)で出土している。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>94
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者は、
特大の史料事実の改竄が大好きだな 朝鮮半島出土の同向式神獣鏡(伝楽浪大同江面) と 阿波國鳴門萩原1号墳の画文帯神獣鏡が同笵鏡である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作である。
また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と、同じく徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作なのである。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 嘘説をゴリ押しするうちに頭が狂い
オウムのモノマネを始める九州説 >>96
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者らは、
作り話のように根拠がない妄想を、
各々が語るんだろ が? 阿波國鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>97
>>鉄の溶けやすい土壌を紹介しろよ
周囲に酸素がある環境では水中の鉄イオンは酸化剤となるというか、金属の酸化を加速する触媒になる
鉄それ自体が酸化の触媒を供給し続けるので、酸素と水さえあれば鉄は際限なく酸化されて消える
ただ、周囲がアルカリ性だと鉄イオンが沈殿して濃度が上がりにくいので酸化の速度は多少は遅くなる
周囲が賛成だと鉄イオンの濃度が高くて触媒が多く、酸化の速度が速い
日本列島では鉄か酸化しやすい土地が大多数で、石灰大地とかの限られた例外地域以外では鉄は残存しにくい
七支刀が残ったのは奇跡 あれだって、かなり消滅寸前な感じで発掘されてるわけだが。 <
で、具体的に、福岡や奈良の、どこが酸性で、どこがアルカリ性だ、というのかね?。 >>99
「南≠東」などの史料実態に、反論できない大和説者の、
無力さ、光りすぎ >>102
そりゃ「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説が、
妄想と罵倒と「オウム返しされてばかり」の非論理を、並べたてるからだろ
大和説に中身がない証拠 >>104
ほら
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しと、
口先での罵倒ばかりで、
中身のない大和説 >>107
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者の、
レベルが低すぎて、
学術論証的な話をしてもまったく無駄なのが悲しいところ >>108
悲しいときー
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者が、
何度論破されても、「南→東」だ、
魏使らは始皇帝里で書いた、
長里はある長里はあるといって聞かないときー >>110
悲しいときー
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説が、
論破され過ぎて頭が狂い、
おかしな言動を取り始めたときー 悲しいときー
畿内説に歯が立たなくて九州説がオウムのモノマネを始めたときー >>117
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しのアホの大和説者、
まさに変質者です。
気持ち悪いね >>170
畿内の箸墓古墳がうらやましすぎてタヌキのモノマネも始める九州説 >>127
>>>邪馬台国が畿内にあったという考古学的証拠は動かない
>>その「邪馬台国が畿内にあったという考古学的証拠」ってなに? @阿波
>三角縁神獣鏡に前方後円墳
大和の△は4世紀、
大和の前方後円墳や3世紀末から、
であるから、×。 >>175
オウム返しされてばかりというおかしな罵倒は日本の文化にはないのだけれど
朝鮮の文化かな >>129
>>以前は加えて土器の拡散というのもあったが
このネタはかなりヤバイという事に漸く気付いたようだ
>別にヤバくないが?
邪馬台国の時代3世紀ごろは畿内を中心に庄内式土器などが全国に波及していった<
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、ヤバイし、
筑紫の庄内の始まりは3世紀前半であるが、
大和は庄内1の石塚の3世紀末以後であるから、×。 >>184
三角縁神獣鏡に魏の年号で240年ぐらいの
景初や正始と入ってるから畿内の三角縁神獣鏡は3世紀のものと見ても差し支えない
ホケノ山の木棺は炭素14C年代測定法の結果上限が240年
副葬品もそれ以前のものなので
2つの根拠の合致によりホケノ山は三世紀前期辺りの造営 >>130
ああ「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者にとって、
3世紀末の石塚の庄内1は、ヤバイという事ね >>131
>中平の年号が入った鉄刀。<
九州には鉄刀は非常に沢山あるが、大和はそれ一本であり、
「東征毛人五十五國」の将軍が使っていたお宝。
>石上神宮の禁足地にある膨大な未発掘の遺物<
物部氏自体が、筑紫の出であり、高良大社にもいた。
>発掘で出土した黄幢。
発掘で出土した日本製絹織物倭文。<
それだとしたら、当然「東征毛人五十五國」の武将らの使用物。
>未発掘の宮内庁治定の陵墓群。<
「東征毛人五十五國」の武将らの墓。 >>132
大和説は、
狂信的皇国史観極右信者や、大和説学者や、文科省や地方公共団体らの団体が、
金儲けと立身出世のためにでっち上げたデタラメ >>190
畿内説を理由もなしに
狂信的皇国史観極右
とか執拗に言い張るあたりで
もう九州説の信用って
ゼロでしょ 学会で 古代の鉄の出土数はあまり話題にもならんよ
畿内説互助会は鉄は語らん 南が東の論拠もいいかげん
とにかく畿内に邪馬台国があればいいだけの畿内説だから
国民の支持を受けない >>136
>畿内が、ではなく日本のほとんどが、と訂正を要求する
石灰岩が多いとことか特別に乾燥してるとことかの例外を除けば
たいていのとこで鉄も人骨も溶け去って残らない<
だから、それでも、奈良県の100倍以上の鉄器が残っていた福岡は、
やっぱり、「弥生時代においても奈良県よりも100倍以上鉄器が多かった」。 畿内で見つかっている鉄器
○ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品
○黒塚古墳 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品 >>192
>学会で 古代の鉄の出土数はあまり話題にもならんよ
その通り。 重要なのは、鍛冶炉遺構だね。 @阿波 >>194
>寺澤さん いま行き詰ってると思うな
その通り。 「阿波」の存在によってね。 わははははは @阿波 いい加減に気づいているだろう。
『鳳輿』
この家のほうが上だと。なんでわからないんだろう。 >>195
>畿内で見つかっている鉄器
古墳も含めて、ぜんぶ「忌部はん」 が持ち込んだもの。 @阿波 >>137
「書かれていることすべてが事実だと妄信している信仰者には、付ける薬がない」
同時代の魏の役人たちの実地の見聞計測の記録の信頼性や確率は非常に高い。
しかし、後代史家の「自己解釈に拠る書き換え」内容や、
現代の「南 →東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者らの、
「自説に都合が悪い史料事実は何でも間違いだ」とするのは、
信頼性も確率も非常に低く、×であり、
妄信している信仰者には、付ける薬がない。 >>141
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は、
頭ぼけの山 『鳳輿』()
その家でも・・・、軍人や警官・・・でもないような家があるとか。
ほんとーの、上の家。何もしていないような家。 ヨコからすまんが
鉄は畿内に少ないのは認める
しかし、鉄の多寡で邪馬台国をかたる根拠はなんなんですか
ホケノで鉄は出てるし
巻向は古墳造営基地には反対しなけど・・畿内説のすべては無い >>201
使いたい情報は
理由もなく「実地の見聞計測」と決めつけ
無視したい情報は
理由もなく「自己解釈に拠る書き換え」と決めつける
チェリーピッカーに、付ける薬がない >>204
>巻向は古墳造営基地には反対しなけど・・畿内説のすべては無い
この日本語がわからない 神主、神官などの・・・祭祀(斎祀)関係の家。
あったでしょ? >>143
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙しのボケの文言であり、
大和にあるホケノ山は、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の出雲吉備讃岐阿波の関係の武将の墓のようだけど、
大和説者の頭はボケの山 >>197
阿波説では無いが
賛同する
鍛冶炉遺構は年代比定は難しいが
製品化したものが渡来したと思えないから
鉄製品は日本で作ったのは事実だろうな >>156
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であったし、
大和の古墳ホケノ山からはほぼ4世紀の木棺や鉄器が見つかるけど
大和説者の頭はボケの山だから中はカラッポ >>210
>阿波説では無いが賛同する
阿波以外には、まっとうな説はないよ。 わははははは @阿波 頭の悪い人がいるんだと言っているだけ。
〜何々位など、そういうものがあったでしょ?軍人などでも同じ。
ほんとーは、あまり関係ない。 >>183
金属がイオン化されるのは酸化されるから
酸素と触媒、または酸化剤がないと普通は酸化されない(イオン化傾向が強い一部の金属は水だけで酸化される場合もある、金属ナトリウムのように。)
鉄イオン(III)があれば金属鉄は酸化されてイオンになる
Fe + 2Fe(III)+++→3Fe(II)++
4Fe(II)++ +O2 + 2CO2 + 2H2O→4Fe(III)+++ +2HCO3- +2OH-
かな
アルカリ性環境ではFe(II)++が沈殿して濃度が下がるから下側の反応が進まなくてFe(III)+++が供給されにくくなり、酸化反応が進みにくい >>211
>>213
ここはオウムやタヌキのものまねを披露するスレじゃないぞ 奥山は理数についていけないから
鉄が錆びる家庭はムリ
せいぜい奈良は鉄が溶けやすいと、トンデモを言わなくなっただけだろうwww
難波から巻向まで1月かかるのも、逃げてしまったしwww >>218
物質がプラズマ化されると原子が崩壊するの九州説が何だって >>161
>>尺寸系の寸法は殆ど変っておらず、変わったのは里歩系の長さであり、
>するとお前さんが何度も繰り返して行ってきた短歩は実在しないんだね、
百余歩は約150mだね<
変な男?。
里歩系の里や歩の長さは、
周朝では「1歩=1足底長」であり、「1里=300歩」であり、
始皇帝が「1歩=6尺」と決め、
漢代は、両方が通用して混乱し、
魏朝は、また周朝の度量衡にもどしたが、
民間や蜀や呉では、尚も混乱していたの。 >>214
わははははは も いいけどさ
阿波説は材料はあるが倭人伝の倭国以外の周辺諸国については疑問が残る 家の老婆がいるでしょ?なぜ詳しいのかなんだよな。
『神主 菅野』(神官?)
ほとんど同じ話をしている、あと菅原某〜の話もしているし。 畿内説の歌
ほーほーほーがくは〜♪
南はひがーしーのマチガイー♪
てーてーてーつはー♬
とけ〜〜〜たーーーー(^^♪
まきーまきー
まきーまきー
まきーまきー
首都は〜まきむーーーくーーーー♪
ひみこはまきむくーっ♪
パソコンの前に今すぐ歌え
畿内のジジイどもよ 奥山が誰か知らんけど、オレ(216)は高校の頃までは化学が得意だったんだぞ
模試で偏差値90をたたき出したことがあるぐらいにはな。(それでも全国順位で10位ギリギリぐらいだったか)
もっとも、それからン十年も経って、それなりに衰えたが。 >>221
>阿波説は材料はあるが倭人伝の倭国以外の周辺諸国については疑問が残る
具体的にどのような疑問かね? @阿波 なぜか・・・、当時、住んでいた家に、
凄い刀(謎の刀)が飾ってあったと言っていたり。 >>220
両方併用とかデタラメ書くな
行政文書で使う分については必ず1つだけに定められて統一されてる。併用はない。
公定でない度量衡は(あるとしても)狭い共同体内のローカル使用だけで行政文書には採録されない。
それに周代の歩は8尺だぞ >>163
>徳島県鳴門市大麻町萩原の「萩原2号墓」で、
板材でつくった墓室・木槨を積石で囲んだ三重構造の埋葬施設が確認された。
県教委と県埋蔵文化財センターによると、
築造は弥生時代終末期の2世紀末〜3世紀初頭で、
これ×ね。「木槨」墓は、
285年の扶余の乱で伽耶にやって来た騎馬民族の木槨墓の伝来になり、3世紀末になるから、
県教委と県埋蔵文化財センターの間違い。
>邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍した時期に一致する。石で木槨を囲う例は、他には
弥生墳丘墓と前方後円墳の過渡期的存在とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市、3世紀前半)だけで、
同古墳の構造に影響を与えたのは確実。
一致しないし、
大和のホケノなら、阿波と近縁部族の「東征毛人五十五國」の武将が行っていた可能性なある。 >>165
>三角縁神獣鏡は倭国(阿波)で作られたぼう製鏡で、全国へ配られている可能性が高い。
△は、魏の楽浪帯方攻撃戦のあった前に、
楽浪や帯方から列島へ渡来して来た呉系楽浪鏡師らの得意な鏡であり、
筑紫では、明帝から卑弥呼への銅鏡百枚があって商売にならず、
鏡師らは、地方の豪族らからの依頼注文製作をしたり、
東征毛人五十五國の将軍や武将らに売り込んだり、
大和の鏡作り神社で大和の子弟に△製作を教えたりした。 >>169
「南→東」などの嘘説をゴリ押しするうちに、頭が狂い
オウムのモノマネの逆の「オウム返し」をされ始めた大和説者 三角縁神獣鏡はSpring8で分析したら中国の魏晋鏡と鑑定されたよ
洛陽でも1面出土 >>172
>阿波國鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。<
弥生終末期では絶対年代が不明であるが、おそらく3世紀後半であり、
筑紫の薄型の庄内は3世紀前半であるから、筑紫の方が阿波よりも早く、
従ってこれも、筑紫の庄内技法が阿波にも伝えられたものだ、という事になる。
>中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、
東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。
土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。<
その南北軸は、当然、元は出雲〜吉備〜讃岐〜阿波の出雲系の文化伝達コース。 畿内説のスレだから敢えて 問うがこの国〃はどこなんだろう
南⇒東は認めれば北は西???
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國
次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國
次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國
次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國
次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡 だから、あの写真の家の話だと言っているのに。
何かの家なんだろう。
葱の華、キュウリの葉・・・などの写っている家。 >>180
大和説者が悲しいときー
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であると指摘された時や、
九州説に歯が立たなくて、大和説がオウムのモノマネを始めたときー 邪馬台国の決め手は
日本?倭国でもいいが
行程も無視でもいいし、発掘物もどうでもいいよ
3世紀に、先進的な文明があったところが邪馬台国の有力地だと想う >>182
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言である事がバレ、
大和の箸墓古墳が「4世紀」である事が決まりになって、
タヌキのモノマネも始める大和説 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. >>185
オウム返しされてばかり、というおかしな失敗談は、
日本の文化にはないのだけれど
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説学者らの事かな >>208
つぶやき
なんでこのタイミングでくるの
テンプレ建ててる時なぜ来ないのwww >>236
>3世紀に、先進的な文明があったところが邪馬台国の有力地だと想う
だから、阿波! @阿波 >>223
九州説の歌
短里ー短里ー短里短里短里 周代は短里ー
短里ー短里ー短里短里短里 魏朝も短里ー
短里はあった 絶対あった 魏使が使った
短里ー短里ー万2千里はー短里ー
九州説の歌を作ってやったぞ
尊師マーチの節で歌いな
オウムのマネばっかりしてる九州説にぴったりだろ >>85
>狗奴国が久努国(クノノクニ)の事だと分かれば
久努郷はクドだけどな
まあ、読みはどうだったか分からないと言えば分からないが >>194
>寺澤さん いま行き詰ってると思うな<
寺澤なんてどうでもいいじゃん
たかが地方公務員上りの名誉欲と銭が欲しいだけじゃん
さしたる、考古学に貢献したものないじゃん >>187
三角縁神獣鏡に魏の年号で240年ぐらいの景初や正始と入ってるから、
明帝→卑弥呼への下賜の銅鏡百枚ではなく、渡来の呉系楽浪鏡師の陳氏らの関与鏡であり、
当初は筑紫を起点に製作して、列島各地の豪族や東征軍の武将らのために造っていたが、
大和の三角縁神獣鏡は、3世紀のものはなく、4世紀のものと見ても差し支えない
ホケノ山の木棺は、
炭素14C年代測定法やそのプラズマ化の補正などの結果、
上限が3世紀末から殆ど4世紀になり、副葬品もそれと一致していたので、
2つの根拠の合致によりホケノ山は3世紀最末〜4世紀前期辺りの造営 >>237
>>241
支離滅裂なんだが
何でもオウム返しにすればいいってもんじゃないぞ? >>123
>それで、広大な畿内は土壌がいろいろ混じってるが
>鉄が溶けやすいとでもいううのかい
やはりアンチ科学の九州説にはいくら説明してもムダなんだな
畿内どころか、日本中、世界中のどこの土壌でも鉄は溶けやすいんだよ
いい加減理解しろやww
畿内に鉄がなかったというのは前世紀にすでに否定された妄言w >>191
畿内なんて存在身しなかった嘘つき騙し文言であり、
大和説者は、全員が「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしている、
という事がバレた時点で、狂信的皇国史観極右という事もバレ、
その嘘を執拗に言い張るあたりで
もう大和説の信用って
ゼロでしょ >>236
>3世紀に、先進的な文明があったところが邪馬台国の有力地だと想う
ただし中国と交流できないといけない。 >>128
>以前は加えて土器の拡散というのもあったがこのネタはかなりヤバイという事に漸く気付いたようだ
何もヤバくないぞ?
畿内様式土器(庄内式、布留式土師器)は、列島各地に拡散しているし、
九州で言えば九州説で人気の福岡平野(奴国)や、熊本のベンガラ産地では周辺より早く
畿内様式土器が入っている
九州でも要地ほど畿内とつきあいが深い状況が考古学的に明確なんだよ
これで、九州のみの倭国だとかただの妄想だって理解できない低能だけが九州説にしがみついている 俺は畿内説だが
世界中どこでも鉄が溶けやすいのにホノケとか大量に鉄あるのはなぜ? 弥生時代鉄鏃出土数
東北**1 群馬*21 千葉*63 東京*37 長野*27 石川*55 福井*32
滋賀*13 京都112 大阪*40 兵庫*92 奈良**4 和歌山**5
岡山104 広島*79 山口*97 鳥取*46 島根*30 香川*36 愛媛*25 高知*53
福岡398 佐賀*58 長崎*29 熊本339 大分241 宮崎100 鹿児島**3
鉄製鏃の出土は福岡県、熊本県、大分県の順番になっておりそれ以下の地域の出土数は
極端に少ない、邪馬台国と狗奴国は戦争をしていたと記載があるので邪馬台国が福岡県
の南部、狗奴国が熊本県北部となり大分県日田地方は邪馬台国連合国家の1つとなる
ちなみに福岡県は筑紫、熊本県は肥国、大分県は豊国
白日別:筑紫国、豊日別:豊国、建日向日豊久士比泥別:肥国、建日別:熊曾国
しかし肥国と熊襲国は名前が被っている。そして熊襲タケルの墓は肥前河上にある。
おそらく有明海沿岸が筑紫宗家の味方の時は肥国、敵となった時は熊襲と呼んだのだろう。
少し違うデータだが、筑紫、肥国、豊国、出雲、越という倭国の主要構成地域がよくわかる。
http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
その中でも魏志倭人伝で郡使が滞在し、記紀で日向三代の王都とされるのは筑紫。 >>132
>九州説は朝鮮団体が金儲けのためにでっち上げたデタラメ
最初はそうじゃなかったんだけど、背乗りで乗っ取られたんだよ
今の九州説はかなり半島系に浸食されてる >>206
巻向は王都でないと言う事なんだけど
イミフだったかな >>246
やっぱクノノクニと読むのが正しいみたいよ
跡地の袋井市には今なお久能(クノ)という地名が残っている
久努国造(くののくにみやつこ/くぬのくにのみやつこ・くのこくぞう/くぬこくぞう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%8A%AA%E5%9B%BD%E9%80%A0 >>140
>残ってる量で、当時の地域ごとの鉄の量は推理できるな
残るのが偶然
偶然は確率では考えられない >>195
>畿内で見つかっている鉄器・・・<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
ホケノは3世紀最末〜4世紀であり、
椿井大塚山は大和ではなく山城であって、4世紀であり、
黒塚も4世紀であり、
いずれも武器などが多いから「東征毛人五十五國」の武将らの墓であり、
3世紀前半の卑弥呼とは、殆ど関係なし。 >>201の訂正
>書かれていることすべてが事実だと妄信している信仰者には、付ける薬がない
同時代の魏の役人たちの実地の見聞計測の記録の信頼性や確率は非常に高い。
しかし、後代史家の「自己解釈に拠る書き換え」内容や、
現代の「南 →東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者らの、
「自説に都合が悪い史料事実は何でも間違いだ」とするのは、
信頼性も確率も非常に低く、×であり、
妄信している信仰者には、付ける薬がない。 >>144
>祇園山の墳裾の殉葬墓に甕棺が3か所も使われており、
甕棺墓は100年以上古いから、殉葬墓ではありえない
というのが正しい論理だ
弥生時代の集団墓地の上にその墓地を無視して作られたのが祇園山古墳
殉葬墓に違いないんだーという結論ありきで考えるから、時系列無視のデタラメになる 畿内説は鏡の世界に住んでいるのかもしれない
無職だけあるね あれれ?
またまた畿内説答えないで逃げまくる
いつも通りのバカ畿内で安心したよw >>145
>福岡では、奈良の百倍以上鉄が残っている。
それだって、弥生時代に使われた鉄のほんのごく一部だけだ
甕棺墓分を抜いて、3世紀以降4世紀前半までで見たら、畿内の方がずっと多いんだぞ?ww 畿内で見つかっている鉄器
○ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品
○黒塚古墳 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品
九州説は論理的に正しい議論よりも何か立派そうに見える数字的なものに弱い
虚栄虚飾に満ちた朝鮮系団体の九州説 祇園山なんて何度も盗掘されて宝は地元でグルグル回ってたんだろ
その1つが鉄鏡であって
平原に遜色ない墓だったと思うよ >>146
>福岡では、甕棺の中以外の、普通の住居的遺跡からも、鉄が沢山出土する。
2世紀後半以降の北部九州の鉄器のデータ出してごらんww
弥生時代全期間とかいうインチキをせずにさw >>216
それさ・・
俺もググってわってるけどさ
NaCl の部分も詳細に書いてるのをググったかな? >>268
>あれれ?
>またまた畿内説答えないで逃げまくる
何に?
それを書かない九州説のインチキぶり >>157
>それじゃ、「1万枚」とか?なんとか言っていたのは、ウソつき騙しになるではないか。
中世の宗教史が専門の人とかではない、考古学の専門家の推定で10000枚だよ
中世の宗教史が専門の人が、僕は古文書に読み方には詳しいんだって言って
デタラメを言い出したのが九州王朝説だって知ってるか?ww >>204
>ヨコからすまんが 鉄は畿内に少ないのは認める
しかし、鉄の多寡で邪馬台国をかたる根拠はなんなんですか <
魏志には、邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
魏使らはきちんと「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」と、
鉄鏃を見た事を記録している。
>ホケノで鉄は出てるし <
ホケノは、3世紀最末〜4世紀であり、卑弥呼の3世紀前半ではない。
>巻向は古墳造営基地には反対しなけど・・畿内説のすべては無い<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。 >>144
殉葬というのは日本書紀によれば古墳の周りに奴婢を首だけ出して直接地面に埋めるものだぞ
甕棺に入っているのなら埋葬 日本昔話、船に乗って現れたりする話。
説明しなくても、わかる人にはわかる。
日本の神話(記紀)の最初のほうの話でしょ。
メンバーを調べてみて。 >>236
奈良では無い事は確かだな
円を描くのが先進的な技術が3世紀の奈良なんだから
奈良は後進国だな >>257
九州説こそ頭がおかしくなって
タヌキ踊りを始めてるじゃないか >>205
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者は、
使いたい情報はチェリーピッカーし、
理由もなく「魏使らの実地の見聞計測」を「ウソだ」と決めつけ
後代史書の無視したい情報は、
理由もなく「自己解釈に拠る書き換えではない」と決めつける
チェリーピッカーに、付ける薬がない タヌキ踊りを踊り狂いながら畿内説は頭がおかしいと言う九州説の異常性 >>183
>イオン化する要因を述べるべきだね
九州説は科学オンチでアンチ科学ww
金属鉄(酸化数0)より、二価鉄(酸化数2)、三価鉄(酸化数3)の方がエネルギー的に
安定だから金属鉄は自然状態で酸化していくんだよ
というか、自然界に金属鉄は存在しないだろ?
それだけで鉄は朽ちてなくなるってのは一瞬で理解できるのにww
イオンの溶出というのは金属鉄の酸化とは別の概念で、モンモリロナイトなどに
吸着されている鉄イオンがpH条件に従って遊離することを言う
pHの高い条件では、土壌鉱物への吸着に加えて水酸化鉄Vの溶解度積が小さいために不溶化する 幼稚なスレだな
ヤマト王権と邪馬台国を結び付けようと
各説 論じてるのかな
特に畿内説だが、大和王権が確立したのは奈良発祥でいいじゃん
邪馬台国と結び付けなくてもいいじゃん
幼稚なスレ
ヤマト王権のキーは渡来人だよ
こんなの常識じゃん
倭人の国の邪馬台国と関係ないじゃん >>233
>南⇒東は認めれば北は西???
其餘旁國は邪馬台国より向こうという書き方だけれど、
要は国名だけが伝わり位置情報のない国というだけ
全部は分からないけれど
斯馬國 志摩(伊勢志摩)
巳百支國 五百木(伊吹)
都支國 土岐(多気かも)
彌奴國 美濃
鬼國 紀伊
為吾國 伊賀
だと思う 卑弥呼が畿内の土着勢力なら記紀も無視してることになるな
畿内説釈明しろ
逃げるなら売国奴になるぞ畿内説 全部は分からないけれど
斯馬國 志摩(伊勢志摩)
巳百支國 五百木(伊吹)
都支國 土岐(多気かも)
彌奴國 美濃
鬼國 紀伊
為吾國 伊賀
笑える、倭国大乱してたのか?石器で? >>269
九州北部勢力が畿内に持ち込んだからだろ。 >>256
>世界中どこでも鉄が溶けやすいのにホノケとか大量に鉄あるのはなぜ?
自然状態で土壌中に置かれれば世界中どこでも溶けやすい
土壌水分に触れない状態、土から隔離された場所に置かれれば溶けにくくなる
高塚古墳の墳頂に近い石室中はこれに当たるし、
ホケノ山に限らず古墳の副葬品で鉄が多く出るのはこのため
北部九州で鉄鏃が多く出るのは甕棺がこの条件を満たすため
逆に粘土中などに密閉され還元状態に置かれた場合も溶けにくくなる >>287
卑弥呼がどっかよそからやってきたと記紀に書いているのかな
記紀の内容をわかってない九州説こそ売国奴 >>258
>鉄製鏃の出土は福岡県、熊本県、大分県の順番になっており
それ、甕棺による発掘バイアスw やはり、邪馬台国畿内説が、完全に論破されているな。 >>286
九州北部で伊都(糸島市)、奴国(福岡市西部)、不弥国(福岡市東部)と来ていたのに、その先がいきなり数百キロ間隔とは、どういう了見だ? >>227
>両方併用とかデタラメ書くな
「両方併用」なんて書いていないよ。
漢朝は、始皇帝里だったんだろうが、
民間的には、周髀算経注釈者や淮南子は、周里と始皇帝里の混在だし、
「介山」の高さは周里だ。
>行政文書で使う分については必ず1つだけに定められて統一されてる。併用はない。
公定でない度量衡は(あるとしても)狭い共同体内のローカル使用だけで行政文書には採録されない。<
そりゃ当然であり、魏朝内や西晋朝内では、公定里などの使用だ。
>それに周代の歩は8尺だぞ <
いや、周代は、周朝や秦など、各地ではいろんな換算があり、混在だ。 >>260
>巻向は王都でないと言う事なんだけど
権力誇示のモニュメントとなる巨大墳墓は王都周辺または王都への街道沿いに作られる
古墳造営のための場所=王都周辺であり、それに加えて国家祭祀跡が確認される以上
纒向が王都だというのは当然の論理的帰結
古墳造営基地だから王都ではないというのは、論理的に繋がらないただの戯れ言 >>291
なら前王達と同様に卑弥呼も福岡にいたということだろ? 九州説は脳の大きさがオウム並みでタヌキ踊りを踊る売国朝鮮人 >>293
社会奉仕を完全に放棄している奥山氏が、365日24時間体制で、宣伝してきた朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説も、完全に論破されたのだったね。 >>297
初代天皇神武は日向から東へ東征を行ったと記紀に書いているだろ
本当に九州説は記紀の内容を知らないな >>291
卑弥呼がどっかよそからやってきたと記紀に書いているのか?
書いてないなら卑弥呼は九州だろ
その先代の王朝を記録した後漢書が倭は朝鮮半島南岸から九州北岸の海峡国家だったとしているのだから。 >>261
>やっぱクノノクニと読むのが正しいみたいよ
現存地名としてはクドなんだよ
久努村 - Wikipedia
久努村(くどむら)は静岡県の西部、山名郡・磐田郡に属していた村である。袋井市中心部の東側にあたる。
久能が久努に由来するかどうかは何とも言えない >>304
初代天皇の神武が東征を行ったと書いてるよ >>303
それは卑弥呼ではないな。
神武らがいなくなったから、九州北部に卑弥呼政権が成立したんだろう。
そもそも魏志倭人伝には福岡県までの里程しか書かれていない。 >>303
お、畿内説がついに東遷を持ち出すのか? 九州説は他国の歴史を少しは尊重し崇拝してはどうかな >>301
貴方は、日本国土を守るための重要な社会奉仕活動で、疲労したので、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏の頭の悪さを、笑いリラックスしながら、一日を締めくくりたいのだな。 >>308
俺は神武東征があったと思ってる畿内説だから何の問題もないね
別に九州説が有利になるわけでも何でもないしな 「東遷」は都が筑紫から大和に移動すること。
「東征」は筑紫が大和に勢力を拡大すること。
記紀は東征としている。
王都は筑紫のまま。
記紀は筑紫の分家である畿内のローカル政権の歴史書だということだ。 >>304
魏志倭人伝には邪馬台国は会稽東治の東
つまり沖縄か台湾の辺りと書いてるよ >>312
神武は熊野を征し畿内で初代天皇に即位したと書いてあるけれど >>314
その時代にまだ天皇という称号や制度が成立していない。 【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫の降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。
ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif.html >>271
>祇園山なんて何度も盗掘されて宝は地元でグルグル回ってたんだろ
>その1つが鉄鏡であって
>平原に遜色ない墓だったと思うよ
古墳時代に入って、北部九州でも80メートル、90メートルの前方後円墳が作られている時代に
25メートル程度の方墳が倭王墓だと考えるのは正直に言ってバカだと思う
平原1号墓と遜色ないただの地域有力者の墓って意味なら分かるけどさ つまり、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだな。 >>287
>卑弥呼が畿内の土着勢力なら記紀も無視してることになるな
>畿内説釈明しろ
>逃げるなら売国奴になるぞ畿内説
卑弥呼の5代くらい前に九州から入ってきた人が祖先にいるってのが
記紀に書いてある内容
九州説の時系列がおかしいんだよ
卑弥呼は皇統のヒメであって、崇神天皇と同時代
神武と卑弥呼が同じ頃とか考えるからおかしくなる >>288
>笑える、倭国大乱してたのか?石器で?
具体的な反論ができないやつはバカ >>289
>九州北部勢力が畿内に持ち込んだからだろ。
九州北部勢力は、北部九州にあった鉄を根こそぎ畿内に持って行ったのか?wwwww
ホケノと同時代ですでに北部九州の鉄器出土量は畿内以下なんだぞ?ww
だから、弥生時代全期間とかいう邪馬台国の時代と無縁な数字しか出せないのが九州説 オロノコジマも福岡市の能古島
淡路島の畿内説とか頭沸いてるわw
反論をどうぞ畿内説 >>294
>九州北部で伊都(糸島市)、奴国(福岡市西部)、不弥国(福岡市東部)と来ていたのに、
>その先がいきなり数百キロ間隔とは、どういう了見だ?
そこまでは後漢代の古い記録で、そこから先が邪馬台国時代の記録だってだけ 畿内説の気が狂ってから早3年
もう手の施しようがない、就職は無理だ >>230
>三角縁神獣鏡はSpring8で分析したら中国の魏晋鏡と鑑定されたよ
渡来の呉系楽浪鏡師らの使用「材料銅」が、
「中国の魏晋鏡」とやらと近似的に類似していただけ。
>洛陽でも1面出土
0〜1枚では、列島の500枚の説明にも根拠にならず、×。
おそらく、楽浪鏡の一つが洛陽付近にも齎された。 それなら神武はマキムクで石包丁持って木のお面してたことになるがw >>298
>しかし中国との交流の痕跡がない。
あるよ?
九州説が見ない聞かない認めないで逃げてるだけ
◆FAQ 45 >>42
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 >>300
>古墳がモニュメントであったという根拠は?
問いの立て方がすでに不正
モニュメントではないのに大きく作るための合理的な理由を
そちらから挙げられない時点で問いとして成立していない >>236
>邪馬台国の決め手は日本?倭国でもいいが
行程も無視でもいいし、発掘物もどうでもいいよ
3世紀に、先進的な文明があったところが邪馬台国の有力地だと想う<
3世紀に先進的な文明があったのは、筑紫。
また、倭国は、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って北部九州。 >>304
>卑弥呼がどっかよそからやってきたと記紀に書いているのか?
>書いてないなら卑弥呼は九州だろ
そうはならないよ
三国志にも後漢書にも、後漢(光武帝)に朝貢した王権が潰れたのちに
卑弥呼が共立されたと書かれているだけ
同じ場所の王権と考える理由はない >>321
上でポンポコ踊ってるやつがいるだろ?九州説の >>199
お前は百済菅野ではない
川崎東北菅野(天皇の家来) (百済菅野(天皇の家来)ではない)
百済は倭の属国だし
百済は滅亡したし
大ノ国(百済)の渡来人を胡(えびす)或は羊(ひつじ)と蔑称し
百済は下だし >>203
やっとお前は百済菅野ではないのを認めたのか
川崎東北菅野(天皇の家来) (百済菅野(天皇の家来)ではない) >>207
無関係
「すが」 須賀 は「須我」「清」「酒賀」「素鵞」などとも表記される
すが の → 菅野
どっちにしろ本家より下 ポンポコリンがタヌキ踊りw
畿内説の感性はやはりどこかズレてるな >>250
>>それで、広大な畿内は土壌がいろいろ混じってるが 鉄が溶けやすいとでもいううのかい
>やはりアンチ科学の九州説にはいくら説明してもムダなんだな
畿内どころか、日本中、世界中のどこの土壌でも鉄は溶けやすいんだよ
いい加減理解しろやww
畿内に鉄がなかったというのは前世紀にすでに否定された妄言w <
いや、「畿内に鉄がなかった」なんて言っていない。
福岡と比べて奈良は100分の1位だ、と言っている。 >>328
そうではなくて
三角縁神獣鏡は魏の時代の中国で作られたからこそ
魏晋の鏡と同成分と分析結果が出たのかもしれない
1枚でも洛陽出土なら
三角縁神獣鏡は魏鏡説を補強し国産説や呉鏡説の可能性は低下
楽浪は呉の領地になった事はないので
呉系楽浪鏡師というのは存在した可能性が低い >>325
>オロノコジマも福岡市の能古島
>淡路島の畿内説とか頭沸いてるわw
>反論をどうぞ畿内説
おのころ島は河内潟が陸化する過程で現れた島とする説がある
沼の中から現れた島という記紀の記述にも合う
今は河内平野全体が陸化しているので島ではない
おのころ島が能古島という説にさしたる根拠はなく単に音が似ているだけ
国産み関係の説話や伝承は能古島周辺には一切存在しない
国産み神話は淡路島周辺が起源というのはほぼ定説 むしろポンポコリンがタヌキ踊りじゃないとする九州説のほうの感性がズレている >>278
神話化された話だな
天岩戸158より後の話だ
神話化される前の話が
ホツマに書いてある >>322
>神武と卑弥呼が同じ頃とか考えるからおかしくなる
同じ畿内説でもそれを主張しているスレもあるよね。 国民にアンケート取ったら7割以上はポンポコリンはタヌキ踊りと答えるんじゃねーの >>326
それ、根拠ないよね。
伊都国も不弥国も後漢書に出てこないから、卑弥呼の時代の記録だよ。 >>278
朝鮮半島から来たとでも
文献を出せ
当時の朝鮮半島南部は倭だ >>331
根拠を上げられないなら君のでまかせだと判断するよ? >>333
>同じ場所の王権と考える理由はない
違うという方が根拠を示せよ。
魏志倭人伝には、倭が長距離を遷都したなどと書いてはいない。 >>341
>国産み神話は淡路島周辺が起源というのはほぼ定説
お前の頭の中ではそうなんだろ >>254
>畿内様式土器(庄内式、布留式土師器)は、列島各地に拡散しているし、
九州で言えば九州説で人気の福岡平野(奴国)や、熊本のベンガラ産地では周辺より早く
畿内様式土器が入っている
世間の皆さま、気を付けましょうね。
「畿内様式土器」とは、「畿内で造った土器だ」という事ではなく、
様式が似ている、というだけなんですよね。
それを大和説者はいつの間にか?、
大和の庄内が筑紫に運ばれて筑紫がそれを学習模倣した、
という話に摩り替えているんですよ。
しかし、筑紫の庄内は3世紀前半だが、大和の庄内1は3世紀末の石塚ですから、
大和の庄内が筑紫に運ばれて筑紫がそれを学習模倣した、なんて事は起こらないんですよね。 >>341
>国産み関係の説話や伝承は能古島周辺には一切存在しない
記紀の神代の巻の大半は筑紫が舞台なんだけど? >>278
神話化された上ににアニメ化された話か
お前 まんが日本昔話が好きだなあ
学校に行ってない中卒以下 【庄内式土器】
1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。 天津国
記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
天津神(天皇家の祖先)が治める天津国すなわち倭国は対馬海峡にあり、王都は後漢書では倭奴国、記紀では筑紫の日向、すなわち博多湾沿岸とされている。
倭国女王であった卑弥呼の王城も筑紫に求める他ない。 天照大神は「あなたたち三神は、道中(みちなか)に降臨して天孫を助け奉り、天孫に祭(いつ)かれよ」と命じた。道中とは玄界灘である。
命じられた宗像三女神が祭られるのが沖ノ島を含む宗像大社なわけだが、そもそもは沖ノ島の祭祀は、天照も祭っていたのではないか。
さらに踏み込んで言えば、沖ノ島こそ天照の宮があった高天原なのではなかったのか。
それでこそ、古代最大級の聖地として沖ノ島の祭祀が大々的に続けられた意味がわかろうというものだ。
沖ノ島から筑紫に降臨する天孫を送迎する宗像氏族と猿田彦の船団の行き来をみあれ祭に見ることができるのだろう。
宗像大社は交通安全の神様として知られるが、それは天孫の降臨の道中の安全を守るようにという天照の神勅に基づいている。
そして天照は天孫に自らの形見として祭るようにと八咫の鏡を託したのだが、西海道風土記逸文によると、八咫の鏡は宗像大社の辺津宮に祭られていたのである。
弥生時代と思われる当時においては、沖ノ島から九州本島への渡海さえも、一大事だったのである。
天照や素戔嗚が筑紫を去った後は、イザナギの息子である大山積が筑紫の王であったが、天孫が筑紫に到ると大山積は娘の木花佐久夜姫を輿入れさせている。
親族同士の婚姻は血統を重んじる当時の部族社会においては相当に重要であったらしく、出雲の王となった素戔嗚も大山積の孫である櫛名田姫を娶っている。
九州に上陸した天孫が向かったのは筑紫の日向であり、かつて祖先のイザナギが禊をしたとされる小戸あるところである(住吉の神が生まれたところ、福岡市西区小戸)。
天孫は筑紫の日向で即位して豊葦原中国の王となったので、魏志倭人伝の伊都国から日の出る方に太陽を背にそびえる高祖山にある高祖宮こそ、記紀において神代の王都として知られる高千穂宮なのだろう。 >>203
貧乏で出てきて
生活保護か
いまは年金生活
平屋 それよりもw
家の老婆がいるでしょ、なぜ詳しいんだと思う? 老婆とは言っても、
あの写真の家の嫁なんだけど、よくわからない話ばかり。
なぜか・・・詳しい。 伊邪那岐
伊都国の 伊
邪馬台国の 邪
奴国の 那
壱岐の 岐
おお、これは!
北部九州そのものだな
学会で発表していいか? >>363
詳しくない
創価
死ぬ前にノートにでも書いとけ >>364
イザナミはどうする?
単にナギとナミの組み合わせだと思うけど。 >>322
雄略天皇の初期より前は年代が狂ってて実際の年代より古い時代に生きていたことになってる
つまり、在世期間からの逆算で卑弥呼と同時代にされてる崇神天皇は卑弥呼の時代より新しい、後代の人物 >>354
所在地不明のオノコロ島はともかく、(残った範囲内では)最初に生んだ淡路島が瀬戸内海東部である時点で、最初から九州を出ている
それに、黄泉比良坂が九州にあるといってる人はほぼいない ほんとーに、あまり悪くは言いたくないんだけど。
『』『』『』『』『ドンバ』・・・、
正確には【宣伝】にもなっていないし、その他の作品も同じ。 何の宣伝なのかも・・・「❓」、
お前(不明)の金儲けのためだろう、ただ寄生(侵害)しているだけとか。
『ドンバ』は良いほう。そんなに収入もないだろうし。 >イザナミはどうする?
>単にナギとナミの組み合わせだと思うけど。
じゃあ
次有伊邪國のナギさんとナミさんでいいよもう。 >>253
当時の中国は荒域の外に先進的な文明なんてものは期待していない
東夷伝序文に書かれているのは
「夷狄の邦と雖も、俎豆の象存す。中國禮を失い、之を四夷に求めるは猶ほ信す。
故に其の國を撰次して、其の同異を列し、以て前史の所未だ備へざるを接す。」 >>189
>>中平の年号が入った鉄刀。<
>九州には鉄刀は非常に沢山あるが、大和はそれ一本であり、
>「東征毛人五十五國」の将軍が使っていたお宝。
「「東征毛人五十五國」の将軍」なんて根拠のないでっち上げw
>>石上神宮の禁足地にある膨大な未発掘の遺物<
>物部氏自体が、筑紫の出であり、高良大社にもいた。
布留宿祢は和邇氏なんだがw
だから筑紫とか全く関係のない話
東大寺山古墳の被葬者は彦国葺命が有力視されている 老婆(旧姓わたなべ)によると、
家のほうが凄い家だと言っているんだけど、
なぜだと思う?
むかーしの「?」の家とか? >>368
所在地不明だと思いたいだけでしょ。
オノコロ島は能古島でいいよ。
ちゃんと矛も見つかっているらしいし。 弥生初期
九州 イザナギにより能古島で倭国建国、稲作超拡大
本州 スサノオが日本海から全国へ農業を広める
弥生中期
九州 筑紫生まれの大山積や大国主らによる倭奴国の最盛期、前漢に朝貢し内行花文鏡をもらう
本州 大山祇の子である三島溝杭耳らにより瀬戸内から近畿の稲作拡大
弥生後期
九州 伊都に遷都した天孫ニニギらが後漢に朝貢し金印と内行花文鏡をもらう
本州 三島溝杭耳の末裔である鴨一族と天孫ニギハヤヒの王権
弥生末期
九州 倭国は乱れ天孫族が九州脱出、収拾のため伊都で卑弥呼共立へ、滅亡した漢王朝のかわりに国産の内行花文鏡である平原遺跡の八咫鏡を製作
本州 ニギハヤヒの物部王朝に神武が合流して大和王権の基礎となる
古墳時代初期
九州 再びの乱を収拾するため壹與共立へ、続いて八咫鏡を継承した神夏磯姫が景行と共闘、沖ノ島の合同祭祀の規模拡大へ
本州 崇神により大和王権は拡大征服路線へ、八咫鏡を宮から追放し伊勢へ
古墳時代前期
九州 仲哀が筑紫に迎えられるが崩御、神功皇后が神夏磯姫の末裔の田油津姫を倒し筑紫を統一へ
本州 神功皇后の子で筑紫生まれの応神による統一王朝へ 邪馬台国などのスレではないんだけど、
家(龍宮〜)のほうが・・・(凄い)・・・と同じような事を言っている人がいたり。
2chを読み始めた頃の、とあるスレ。
なぜなんだろう。 >>273
この程度の化学式はググるまでもなく出せないか?
出せないのか……赤点ものだな
NaやClは沈殿させるわけでもないし触媒活性を持つイオンというわけでもないぞ
ただ、水溶液の導電性が上がることが錆びる速度を上げてるだけだろ そういうサイトなどがあるでしょ?
作成日、平成□年〜とか。
老婆は、それ以前から、知っているし。
田(稲?)の話とか。 小野神社〜というサイトがあるでしょ
「小浜町」?
家の周辺は「浜町」というところ、
老婆によると、なぜか、田んぼの話もしていたり、
家の近所に「田んぼ」なんてないんだけどw たしか歌舞伎、むかーしの芸能関係の話とか、
そういう話をしていたこともあったり。
ほとんど老婆談。 小野〜の話があるでしょ。
『妖怪 小豆洗い』のモデル(元ネタ)なのかな、
ほんとーに、どういう設定なんだろう。
神殺し?それとも、とある宗教、宗派が関係しているとか。 調べてみた?『小椋佳 それを人間と言えるだろうか』
ほとんど・・・、小椋佳が主人公(現代の何やらとか)みたいな事になっている。
実際は『成太作』よりも上とか。
反(小椋)勢力から、妬まれたり、狙われたりしたのかもしれない、
wikiにも生前葬と書いてあるし。もう死んだことにしているとか。 それにしても・・・
youtubeで某(ライオンというバンド)を検索して聴いてみた。
なぜか『Shark Island』
というバンドの動画(〜関連とか)が出てきたり。 >>131
>中平の年号が入った鉄刀。<
九州には鉄刀は非常に沢山あるが、大和はそれ一本であり、
「東征毛人五十五國」の将軍が使っていたお宝。
中平の年号が入った鉄刀は東大寺山古墳出土の一点しかない、ごまかすな。 >>386
>九州には鉄刀は非常に沢山あるが、大和はそれ一本であり、
まさか、それ本気で言ってるの? >>266
>>祇園山の墳裾の殉葬墓に甕棺が3か所も使われており、
>甕棺墓は100年以上古いから、殉葬墓ではありえない というのが正しい論理だ
弥生時代の集団墓地の上にその墓地を無視して作られたのが祇園山古墳
殉葬墓に違いないんだーという結論ありきで考えるから、時系列無視のデタラメになる<
いやダメだ。
上縁が僅かに削られたのは、先に殉葬した成人女性の1号甕棺だけであり、
他の二つの甕棺は、祇園山の本体の冢部分が築造された後からの殉葬になり、
だから、「100年以上古い」なんて、×であり、インチキだ。 >>269
>>福岡では、奈良の百倍以上鉄が残っている。
>それだって、弥生時代に使われた鉄のほんのごく一部だけだ
甕棺墓分を抜いて、3世紀以降4世紀前半までで見たら、畿内の方がずっと多いんだぞ?
ダメだ。
奈良の鉄は、3世紀最末〜4世紀のホケノ以後の、
九州倭国の東征毛人五十五國の武将らが九州から持参して来た武器の副葬だ。 あれも違うこれも違うと現実逃避
自分では何も論じることができない無能なキナイコシ >>270
>・・・九州説は論理的に正しい議論よりも何か立派そうに見える数字的なものに弱い
虚栄虚飾に満ちた朝鮮系団体の九州説 <
この類スレ主の「いつもの貼り付け」は、全て、反論済みだ。 伊邪那岐
・伊都国の 伊
・邪馬台国の 邪
・奴国の 那
・壱岐の 岐
伊邪那美
・伊都国の 伊
・邪馬台国の 邪
・奴国の 那
・不彌の 彌→美(吉野ヶ里) >>275
>>・・・それじゃ、「1万枚」とか?なんとか言っていたのは、ウソつき騙しになるではないか。
>中世の宗教史が専門の人とかではない、考古学の専門家の推定で10000枚だよ<
その「考古学が専門の人」は、両岸での計算をしていたが、
実際は、片岸だったし、それも部分的な、板での岸壁の補強であったようだ。
つまり「考古学が専門の人」も、インチキ騙しをしていた。 >>277
>殉葬というのは日本書紀によれば古墳の周りに奴婢を首だけ出して直接地面に埋めるものだぞ
甕棺に入っているのなら埋葬
書紀は、倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書であるから、
根拠にならない。 >>280
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しがバレた大和説者こそ、
頭がおかしくなって
タヌキ踊りを始めてるじゃないか そのうち同士討ちを始めるぞと言っているキャラもいたり、
何の漫画だったかな。 奴婢の首だけ出して埋めるって!
飢え死にか、怖いな >>281の訂正
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者は、
使いたい情報はチェリーピッカーし、
理由もなく「魏使らの実地の見聞計測」を「ウソだ」と決めつけ
後代史書の無視したくない情報は、
理由もなく「自己解釈に拠る書き換えではない」と決めつける
チェリーピッカーに、付ける薬がない >>282
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをし、
「畿内」や「邪馬台国」の存在もしなかった嘘つき騙し文言を使い、
タヌキ踊りを踊り狂いながら、
九州説は頭がおかしいと言う大和説者の異常性 >>286
>>南⇒東は認めれば北は西???
>其餘旁國は邪馬台国より向こうという書き方だけれど、
要は国名だけが伝わり位置情報のない国というだけ 全部は分からないけれど
斯馬國 志摩(伊勢志摩)
巳百支國 五百木(伊吹)
都支國 土岐(多気かも)
彌奴國 美濃
鬼國 紀伊
為吾國 伊賀 だと思う<
女王国の中心は、唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、北部九州にあり、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」であって、女王国ではなく、
従って、この男の投稿は、×。 >>291
>卑弥呼がどっかよそからやってきたと記紀に書いているのかな
記紀の内容をわかってない九州説こそ売国奴
記紀は、倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書であり、
史料批判無くしては、根拠に使えない。 >>292
>>鉄製鏃の出土は福岡県、熊本県、大分県の順番になっており
>それ、甕棺による発掘バイアスw
鉄鏃など、普通は、甕棺には入れない。
大和のように、入れるのは、被葬者が鉄鏃をよく使った武将ら。 >>296
>権力誇示のモニュメントとなる巨大墳墓は王都周辺または王都への街道沿いに作られる
古墳造営のための場所=王都周辺であり、それに加えて国家祭祀跡が確認される以上
纒向が王都だというのは当然の論理的帰結
古墳造営基地だから王都ではないというのは、論理的に繋がらないただの戯れ言
それ以前に、大和は、九州倭国の「別種の旧小国」であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、附庸國。 >>299
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者は、
脳の大きさがオウム並みで、タヌキ踊りを踊る、極右の国粋殺戮戦争人種。 >>303
>初代天皇神武は日向から東へ東征を行ったと記紀に書いているだろ
本当に九州説は記紀の内容を知らないな
記紀は、倭国や女王国の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書。 >>309
>九州説は他国の歴史を少しは尊重し崇拝してはどうかな
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者は、
倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書の記紀ばかり尊重しないで、
中国や他国の歴史も、少し尊重してはどうかな >>311
>俺は神武東征があったと思ってる畿内説だから何の問題もないね
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和説は、「南≠東」などに拠っても、×ね。 >>313
>魏志倭人伝には邪馬台国は会稽東治の東
つまり沖縄か台湾の辺りと書いてるよ
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
沖縄や台湾辺りは、「会稽東治の東」には全くならないから、
この大和説男が、×人間。 >>314
>神武は熊野を征し畿内で初代天皇に即位したと書いてあるけれど
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
「天皇」も、7世紀以前には存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。 >>315
>記紀の内容をよく知らない売国九州説
記紀が「倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書」である事を、
よく知らない「極右国粋戦争皇国史観」の売国?大和説者。 >>319
>古墳時代に入って、北部九州でも80メートル、90メートルの前方後円墳が作られている時代に
それ、3世紀後半半ば過ぎの前方後円墳の那珂八幡など以後の話。
卑弥呼や壹與の墓ではない。
>25メートル程度の方墳が倭王墓だと考えるのは正直に言ってバカだと思う
平原1号墓と遜色ないただの地域有力者の墓って意味なら分かるけどさ
卑弥呼や壹與は、明らかに、魏の薄葬令の影響で、厚葬は出来なかった。 >>322
>卑弥呼の5代くらい前に九州から入ってきた人が祖先にいるってのが
記紀に書いてある内容 九州説の時系列がおかしいんだよ
これ、明らかに×ね。
半分偽書の書紀は、卑弥呼や壹與を神功の頃にしている。
卑弥呼は皇統のヒメであって、崇神天皇と同時代
>神武と卑弥呼が同じ頃とか考えるからおかしくなる<
大和説者は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしているから、
頭も顔もおかしくなる。 >>324
>>九州北部勢力が畿内に持ち込んだからだろ。
>>九州北部勢力が畿内に持ち込んだからだろ。
九州北部勢力は、北部九州にあった鉄を根こそぎ畿内に持って行ったのか?wwwww
ホケノと同時代ですでに北部九州の鉄器出土量は畿内以下なんだぞ?ww
そりゃ、「根こそぎ」ではない。
「渡平海北九十五國」などもあったようだから、「大半」位だろうなあ。
>だから、弥生時代全期間とかいう邪馬台国の時代と無縁な数字しか出せないのが九州説
九州では、古墳時代は、卑弥呼や壹與の後の、那珂八幡などの王からだ。 >>415
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>415
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>326
>>九州北部で伊都(糸島市)、奴国(福岡市西部)、不弥国(福岡市東部)と来ていたのに、
その先がいきなり数百キロ間隔とは、どういう了見だ?
>そこまでは後漢代の古い記録で、そこから先が邪馬台国時代の記録だってだけ
ダメだ。
後漢書は、
「自己解釈による書き換え」が沢山ある後代史書であって、半分×書であるから、
同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録が元になった魏志を、
訂正する根拠にはならない。 >>415
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>415
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>415
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>415
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>415
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>415
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>415
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>401
いつも自分がチェリーピッカーチェリーピッカーって言われてるから使ってみたかったんだね、わかりますよ >>346
>同じ畿内説でもそれを主張しているスレもあるよね。
左側スロープ君は、論理無視のトンデモであって畿内説じゃないよ
キウスが京都だと嘯いても(京都は五畿内)、キウスが畿内説じゃないのと同じ >>348
>それ、根拠ないよね。
>伊都国も不弥国も後漢書に出てこないから、卑弥呼の時代の記録だよ。
それこそ根拠がない
後漢書は、三国志を参照しながら書かれているんだから、後漢書の記述で
後漢代のことが語れると考えるのが既に頭が弱い証拠 >>414
三世紀後半なら卑弥呼の没年…3世紀半ばすぎ)に近いし時代が合うじゃん、なんで否定?
なんか都合悪いの? >>350
>根拠を上げられないなら君のでまかせだと判断するよ?
相変わらずバカだな
反論するなら、
仮説1「古墳は権力誇示目的のモニュメントである」
と比較可能な、合理的解釈をもとにした『仮説2』を提示してから論じろってこと
大きな労力、経済力を必要とする巨大土木構築物は、権力誇示目的以外で
建造する合理的な目的が存在しないのが普通
他の可能性としては、生存への恐怖(万里の長城)などもあるが、
そうした根拠も挙げずに、ただお前が証明しろというのは無意味
要するに、九州説はみんなバカってこと >>351
>違うという方が根拠を示せよ。
>魏志倭人伝には、倭が長距離を遷都したなどと書いてはいない。
そもそも、倭人の王がいるというだけで、倭国内のどこにいるかという情報は
卑弥呼がヤマト国にいる、としか書いていない
倭人に王がいる以上の情報に大陸中華の人は興味がないんだよ
遷都してないとも書いてないんだから、遷都したもしてないも文献から考えるのは無駄 >>352
>お前の頭の中ではそうなんだろ
またまた反論できません、を頂きましたww
九州説なんてやってても楽しくないだろ?w
辞めたら?ww >>414
薄葬令ってバカじゃね
自分の墓を簡素にしろって遺言しただけじゃん
直臣の範囲までならともかく、外部の邪馬台国とかに対して影響力はないよ
家臣と家来(家礼)、譜代と外様の違いに似てる
家礼や外様はかりそめの主従関係、一時的な関係でしかなくて、その内政に干渉することはできなかった
幕府が大名の領内の政治に口出しできなかったのと同じことで、魏が邪馬台国の内政や葬祭に干渉することはない >>354
>記紀の神代の巻の大半は筑紫が舞台なんだけど?
宮崎には日向三代に関する伝承もゆかりの地もたっぷりあるぞ?
そして淡路島周辺には国生み伝承につながる故地がある
宮崎の神武関連の史跡は後付けも多いけれど、能古島周辺には
国生み関連の伝承も史跡も一切存在しないww
地元の町おこしにも全く無視されている九州説内部だけの妄言ww >>367
>雄略天皇の初期より前は年代が狂ってて実際の年代より古い時代に生きていたことになってる
>つまり、在世期間からの逆算で卑弥呼と同時代にされてる崇神天皇は卑弥呼の時代より新しい、後代の人物
その、実際の年代より古い時代というのを勘案して修正後に、
崇神天皇が卑弥呼と同時代になるんだよ
崇神天皇の宮処が纏向遺跡と考えられること、纏向遺跡の年代が3世紀であることも
崇神天皇が卑弥呼と同時代と考える根拠になっている >>371
イザナギ、イザナミの「イザ」は、「いざ、ことに及びましょう」のイザだよ >>330
>>纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
>ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
ホケノ自体が、卑弥呼の頃ではなく、3世紀最末〜4世紀の墓であり、いずれも、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡や、九州倭国の東征毛人五十五國の武将らのお宝である。
>箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
新井氏が言われたように、半島の古韓尺技術者の渡来である。
>その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
九州倭国の東征毛人五十五國の征服軍で説明が可能。
>ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。
花粉は偏西風に拠って飛来するもの。
>帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
庄内3は、3世紀最末〜4世紀であり、卑弥呼の時期では全くない。
>同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
九州倭国の東征軍が、(出雲系に由来する)吉備の祭祀を踏襲した事になるだけ。 >>438
>庄内3は、3世紀最末〜4世紀であり、卑弥呼の時期では全くない。
と素人が理由も言わずに決めつけても
誰が相手にするものか >>375
>所在地不明だと思いたいだけでしょ。
>オノコロ島は能古島でいいよ。
>ちゃんと矛も見つかっているらしいし。
「能古島でいいよ」じゃなくて
「(九州説の)僕ちんはk能古島じゃなきゃ嫌だい」だろ?ww
国生みの順番を見るだけで、国生み神話において九州は周縁、
つまり夷守のいる場所だと分かるのにww >>386
>九州には鉄刀は非常に沢山あるが、
九州には年号の入った鉄刀は一本もないだろ?
何を言ってるんだ? >>405
>鉄鏃など、普通は、甕棺には入れない。
鉄鏃の刺さった死体を甕棺に入れてるんだよw 九州説って、もしかして古代史に向いてないんじゃ・・・? 畿内説は九州説が目の上のたんこぶ、憎くて憎くてたまらないんだろうな
そんな感情で学問やってるから世間に魂胆を見透かされるんだよ >>445
どっちもどっち だと、何度言えばw @阿波 810日本@名無史さん2020/02/23(日) 07:16:44.21
>>1
日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2019年に、「邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く無い。」と判定され、
更には、日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2020年に、「近畿地方に古墳が造られるようになった時代は、4世紀後半だ。」と判定されたのだった。」
という公の真実を突きつけられた、5ちゃんねるを活発化するために、日本人に悪口を言いながら、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた、朝鮮民族の卑劣で頭の悪い奥山氏が、今日も完全に論破されていますね。 邪馬台国畿内説は、化学や関数や余事象のことを理解できなかったのだったね。 >>446
テイクイットイージー落ち着こうぜ
九州説はいつもリラックスしてる、おまえはどうだ? 化学や関数や余事象のことを理解できなかった邪馬台国畿内説の頭の悪い意見を読めば、笑いリラックスできるのだったな。 >>330
>文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
纏向なら、九州倭国の東征軍の支配地であろうが、
大福では、唐古鍵と同じように、出雲系部族である可能性が高い。
>また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、、
大福では、唐古鍵と同じように、出雲系部族である可能性が高い。
>中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)<
当然、九州倭国の東征軍の部将らが持ち込んだものである。
>その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
二郡との直接的な通交があったのが、九州倭国である。 朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました。 >>333
>>卑弥呼がどっかよそからやってきたと記紀に書いているのか?
書いてないなら卑弥呼は九州だろ
>そうはならないよ
三国志にも後漢書にも、後漢(光武帝)に朝貢した王権が潰れたのちに
卑弥呼が共立されたと書かれているだけ
同じ場所の王権と考える理由はない<
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」は、
卑弥呼共立の九州島付近の29国とは区別された書かれ方をしているから、
「東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の国は卑弥呼の出身国とは考えられておらず、
29国の中の国からの出身、という事を意図されている。 >>429
>>>348
>>それ、根拠ないよね。
>>伊都国も不弥国も後漢書に出てこないから、卑弥呼の時代の記録だよ。
>
>それこそ根拠がない
>
>後漢書は、三国志を参照しながら書かれているんだから、後漢書の記述で
>後漢代のことが語れると考えるのが既に頭が弱い証拠
中傷ばかりで反論になっていない。 .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>430
卑弥呼の没後の話を卑弥呼の時代に持ち出したらダメだよね。 >>432
>卑弥呼がヤマト国にいる、としか書いていない
帯方郡から一万二千里 >>340
>そうではなくて 三角縁神獣鏡は魏の時代の中国で作られたからこそ
魏晋の鏡と同成分と分析結果が出たのかもしれない <
△は、列島から500枚位出土しているのであり、
それは魏から出土したのではない。
>1枚でも洛陽出土なら
三角縁神獣鏡は魏鏡説を補強し国産説や呉鏡説の可能性は低下
0〜1枚では、500枚位の「500分の1」以下であるから、
確率は殆ど上がらない。
>楽浪は呉の領地になった事はないので
呉系楽浪鏡師というのは存在した可能性が低い
楽浪から、三角縁や神獣鏡が幾つも出土しているし、
呉と公孫氏が友好的であるかのように見えた時期もあった。 >>435
>地元の町おこしにも全く無視されている九州説内部だけの妄言ww
宮崎だの淡路島だの、町おこしにすぎないだろw >>436
>その、実際の年代より古い時代というのを勘案して修正後に、
>崇神天皇が卑弥呼と同時代になるんだよ
修正すると神武と卑弥呼が同時代とする畿内説もいるみたいだけど? >>440
>国生みの順番を見るだけで、国生み神話において九州は周縁、
>つまり夷守のいる場所だと分かるのにww
伊都を囲むヒナモリ >>445
>畿内説は九州説が目の上のたんこぶ、憎くて憎くてたまらないんだろうな
>そんな感情で学問やってるから世間に魂胆を見透かされるんだよ
出土品で大差をつけられているからね。
考古学的には九州説でほぼ確定。 >>342
>おのころ島が能古島という説にさしたる根拠はなく単に音が似ているだけ
国産み関係の説話や伝承は能古島周辺には一切存在しない
能古島内に、国生み神話や天孫降臨伝承があった筈。
古田さんが、確認された。 >>348
>それ、根拠ないよね。
伊都国も不弥国も後漢書に出てこないから、卑弥呼の時代の記録だよ。
成程。 >>445
>畿内説は九州説が目の上のたんこぶ、憎くて憎くてたまらないんだろうな
>そんな感情で学問やってるから世間に魂胆を見透かされるんだよ
何度も言ってるだろ?
九州説が嫌いなんじゃなくて、バカが嫌いなんだって!
バカじゃない九州説がもしいたら、話もできるとは思うが、
今どきバカじゃないと九州説なんて死んだ説を信じたりしないからww >>455
どこが中傷?
ちゃんとバカだと判断するに足る根拠が具体的に書いてあるだろ?ww 「日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2019年に、「邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く無い。」と判定され、
更には、日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2020年に、「近畿地方に古墳が造られるようになった時代は、4世紀後半だ。」と判定されたのだった。」
という公の真実を突きつけられた、5ちゃんねるを活発化するために、日本人に悪口を言いながら、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた、朝鮮民族の卑劣で頭の悪い奥山氏が、
今日も完全に論破され、敗北宣言の意味にしかならない嘘の悪口を言い放っているな。
467日本@名無史さん2020/03/09(月) 14:00:47.73
>>445
>畿内説は九州説が目の上のたんこぶ、憎くて憎くてたまらないんだろうな
>そんな感情で学問やってるから世間に魂胆を見透かされるんだよ
何度も言ってるだろ?
九州説が嫌いなんじゃなくて、バカが嫌いなんだって!
バカじゃない九州説がもしいたら、話もできるとは思うが、
今どきバカじゃないと九州説なんて死んだ説を信じたりしないからww >>458
>帯方郡から一万二千里
結局、九州説の根拠って短里で萬二千里しかないんだよなww
でもそれは、陳寿自身に会稽東冶之東と書かれることで
短里が破綻していることがばれてしまっている訳だ
萬二千里は測ってないから、根拠に使えない
萬二千里は、淮南子等に見られる世界の果てまでの距離を援用したもの >>469
そうだね。。。
「日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2019年に、「邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く無い。」と判定され、
更には、日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2020年に、「近畿地方に古墳が造られるようになった時代は、4世紀後半だ。」と判定されたのだった。」
という公の真実を突きつけられてからは、5ちゃんねるを活発化するために、日本人に悪口を言いながら、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた、朝鮮民族の卑劣で頭の悪い奥山氏は完全に追い詰められてしまっているな。 >>460
>宮崎だの淡路島だの、町おこしにすぎないだろw
また話をそらして逃げるww
能古島には、国生み関係の伝承その他が一切ないのは確認できたなww
町おこしにすら、無視されるオノコロ島、能古島説ww
九州説が勝手に思い込んでいるだけの根拠なしのデタラメw 「日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2019年に、「邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く無い。」と判定され、
更には、日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2020年に、「近畿地方に古墳が造られるようになった時代は、4世紀後半だ。」と判定されたのだった。」
という公の真実を突きつけられてからは、5ちゃんねるを活発化するために、日本人に悪口を言いながら、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた、朝鮮民族の卑劣で頭の悪い奥山氏は完全に追い詰められてしまい、
完全に論破された物事を、壊れた蓄音機のように、繰り返しているね。
470日本@名無史さん2020/03/09(月) 14:05:58.57
>>458
>帯方郡から一万二千里
結局、九州説の根拠って短里で萬二千里しかないんだよなww
でもそれは、陳寿自身に会稽東冶之東と書かれることで
短里が破綻していることがばれてしまっている訳だ
萬二千里は測ってないから、根拠に使えない
萬二千里は、淮南子等に見られる世界の果てまでの距離を援用したもの >>461
>修正すると神武と卑弥呼が同時代とする畿内説もいるみたいだけど?
そいつの修正の仕方が根拠なしのトンデモなんだよww
土蜘蛛の蜘蛛の二文字だけに頼ったチェリーピッキングの思い込み
左側スロープ君はただのトンデモ
畿内説じゃないよw >>475
「日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2019年に、「邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く無い。」と判定され、
更には、日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2020年に、「近畿地方に古墳が造られるようになった時代は、4世紀後半だ。」と判定されたのだった。」
という公の真実を突きつけられたので、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのではないのかな。 誰に確認しても古墳時代は4世紀以降だとさ
一部の老害が畿内説ありきシナリオ作って、周りに気付かれないように歴史をすり替えようとしているそうだ
日本の考古学は旧石器時代捏造事件から何も変わってないんだよ >>480
>誰に確認しても古墳時代は4世紀以降だとさ
で?
誰に確認したの?
また秘密? >>457
卑弥呼の墓は卑弥呼の死後に作られたんだろ、時代合うじゃん
次代の豊与の墓なら、三世紀末ごろ築造で、もっと近いのかな? >>463
後代の言葉としては、ヒナという言葉は辺境の・イナカの意味で使ってるが、ヒナモリと関係あるのかないのかわからんな
よほどひなびた地方の話だろうか? >>469
どこのゴミ組織だと思ったが、そういえば皇国史観の総本山だった頃の東大がまさに邪馬台国九州説の総本山だったんだよね
皇国史観の信奉者たちは今でも邪馬台国九州説を信じてるんだろうな >>475
「日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2019年に、「邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く無い。」と判定され、
更には、日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2020年に、「近畿地方に古墳が造られるようになった時代は、4世紀後半だ。」と判定されたのだった。」
という公の真実を突きつけられたので、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのではないのかな。 >>483
都の反対だよ。
都ではない地域。
すなわち伊都の周辺のこと。 >>480
そりゃまあ、半世紀前ぐらいまでは古墳時代の始まりは四世紀初頭と言われてたから、お前さんの知り合いたちはその時代の教育を受けてる老人だけに、誰に聞いてもそう答えるに決まってるよ 日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2020年に、「近畿地方に古墳が造られるようになった時代は、4世紀後半だ。」と判定されたのだったね。 >>487
>すなわち伊都の周辺のこと。
そうだね、伊都国も含めてその周辺がヒナ鄙だねww
伊都国には一大率が置かれたから夷守は置かれなかったと
非常に分かりやすい >>487
>すなわち伊都の周辺のこと。
首都から7キロの鄙なんて、日本人なら考えもしないんだけれど、
九州説ではそれが当たり前なんだねwwwwww >>490
伊都国とその周囲を対比させてのヒナなんだろう。 >>491
魏志倭人伝って、対馬海峡を除けば、すごく狭い地域の話しか書いてない。 >>492
>伊都国とその周囲を対比させてのヒナなんだろう。
短里なんだろ? 九州説なんだからww
それだと伊都国と奴国の間は100里=7キロくらいだぞww
首都から歩いて2時間かからないところがヒナwwwwww
自分でも苦し紛れだって気づいてるだろ?ww
しかも、伊都国千戸、奴国二万戸で、伊都国から見て奴国がヒナとか
日本人が日本語を使っていたら、無理すぎるできの悪い言い訳としか思わないww >>493
>魏志倭人伝って、対馬海峡を除けば、すごく狭い地域の話しか書いてない
水行20日とか、水行10日陸行1月をとにかく無視する九州説wwwww >>495
それに対応する行程が記載されていないのだから、誤情報だろう。 邪馬台国畿内説は、化学や関数や余事象のことを理解できなかったのだったね。 日本民族に伝わる伝承についてもう一度よく考えよう
「畿内説は基本、中国文献(魏志倭人伝)を嘘だらけ、信憑性がないと言ってるのに なぜ邪馬台国だけはあった、卑弥呼だけはいたと言うのか。」
ヒント:畿内説のとりまきは毎日新聞と朝鮮総連 >>415の訂正
>卑弥呼の5代くらい前に九州から入ってきた人が祖先にいるってのが
記紀に書いてある内容 九州説の時系列がおかしいんだよ
これ、明らかに×ね。
半分偽書の書紀は、卑弥呼や壹與を神功の頃にしている。
>卑弥呼は皇統のヒメであって、崇神天皇と同時代
神武と卑弥呼が同じ頃とか考えるからおかしくなる<
大和説者は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしているから、
頭も顔もおかしくなる。 >>416の訂正
>>九州北部勢力が畿内に持ち込んだからだろ。
>九州北部勢力は、北部九州にあった鉄を根こそぎ畿内に持って行ったのか?wwwww
ホケノと同時代ですでに北部九州の鉄器出土量は畿内以下なんだぞ?ww
そりゃ、「根こそぎ」ではない。
「渡平海北九十五國」などもあったようだから、「大半」位だろうなあ。
>だから、弥生時代全期間とかいう邪馬台国の時代と無縁な数字しか出せないのが九州説
九州では、古墳時代は、
卑弥呼や壹與の後の、那珂八幡などの王からだ。 >>500
奈良説は大した根拠もなく、弥生時代に初期古墳時代が存在したかのように考えてるのがアホ
しかも繋がりを示す物が何もないのに密接な関係があったなどと狂言を吐くからさらにオカルト扱いされるわけで
デザインパクリや研究報告偽造してネットでバレた奴らと同次元
鬼嫁の存在なんかも知らないんだろうな 卑弥呼は倭国の王で、邪馬台国の王では無い
間違ってるかな????????????????????
?????????????????????????????????????? >>505
>卑弥呼は倭国の王で、邪馬台国の王では無い
その通りです。
「邪馬台国の女王卑弥呼」と呼んでしまうと、都知事と総理大臣を混同してしまうのと同じこと。
そして倭とは九州北部を中心とした国です(後漢書)。 >>485
履歴は残ってるから100%バレるな
豚は太らせて食うんだとさw 実際に残っている北部九州の弥生時代の遺構を調べていくと国(集落)同士の間隔が約5kmほどしかない >>506
卑弥呼は都知事でしたが、
倭30国による共立で倭国の総理大臣に推戴されました。
ですから、共立前は邪馬台国の小池百合子だったのです。 >>510
都知事が総理大臣も兼ねていたが、総理大臣が失脚したので大阪府知事が総理大臣に抜擢された? >>496
>伊都国防衛のための卑奴母離だろ?
やはり日本人じゃないと「鄙・ひな」の意味が分からないのかなww
伊都国も含めて、都から遠い辺地だから鄙なんだよww
首都から7キロのところに防衛線があっても意味ないだろ?
「伊都国が都」説は、最初から無理すぎww >>512
>首都から7キロのところに防衛線があっても意味ないだろ?
意味がないという根拠は? >>497
>それに対応する行程が記載されていないのだから、誤情報だろう。
とことん頭が悪いなww
伊都国から奴国の東南至奴國百里に対応する行程なんて書かれてないだろ?
投馬国から邪馬台国の行程は、南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。と
きちんと道里が書いてあるぞww >>432
>そもそも、倭人の王がいるというだけで、倭国内のどこにいるかという情報は
卑弥呼がヤマト国にいる、としか書いていない
「ヤマト」なんて全く書かれていないから、×。 >>504
>奈良説は大した根拠もなく、弥生時代に初期古墳時代が存在したかのように考えてるのがアホ
弥生終末期と古墳時代草創期は同じ時代だよ
呼び方が違うだけなのに、字面が異なるから別物だと思い込んでいるのが九州説
根拠は、
前方後円墳という墳墓祭祀の形式の共有
畿内様式土器という祭祀用供献土器の形式の共有
三角縁神獣鏡の分有関係に見られる首長層のつながり
これらが、古墳時代草創期=弥生時代(終末期)にすでにこの図の範囲の
祭祀共同体が存在していることを明確に示している
https://i.imgur.com/pOB095u.jpg
そして、これを倭国の実態と考える以外の合理的解釈はない
この中で北部九州だけが特別な地域だったと考えるべき理由がない
九州説はただの妄想 >>516の補足
これはあくまで祭祀共同体であって、
支配(中央)ー被支配(地方・ヒナ)の一元的な中央集権国家を意味するものではない
卑弥呼の共立は祭祀王の統一であって、世俗権力は各地の首長が主権を保持し続けている
この世俗権力の統一が、記紀に見られる景行、ヤマトタケル、仲哀・神功による征服譚だ
この祭祀の統一と世俗権力の統一をごっちゃにして3世紀に統一国家はないとかに
話をすり替えるのが九州説の常套 >>515
>「ヤマト」なんて全く書かれていないから、×。
でも、九州説でも一番人気は邪馬台国をヤマトと読んだ上での山門だったりするww
九州説はダブスタww >>487
>都の反対だよ。
>都ではない地域。
日本人ならそんな意味には取らないww
首都の隣をヒナとは言わないんだよw >>491
え、わずか7キロ離れたら辺境なの、すごく狭い国なんだなあ >>516
古墳時代と弥生時代を関連付けるものが無い
糸冬 >>516
>九州説はただの妄想
畿内説もだよ。 わははははは @阿波 >>434
>薄葬令ってバカじゃね 自分の墓を簡素にしろって遺言しただけじゃん
直臣の範囲までならともかく、外部の邪馬台国とかに対して影響力はないよ
ダメだ。
卑弥呼は魏帝から、「親魏倭王」の金印や詔書や大量の下賜品を貰い、
難升米や伊聲耆や掖邪狗は、率善中郎將印綬をされ、
都市牛利は率善校尉に假銀印青綬されているから、
魏帝の墓よりも同等以上の厚葬が出来る筈がない。 >>516
>弥生終末期と古墳時代草創期は同じ時代だよ
まったくの詭弁だよ。 >>516
>そして、これを倭国の実態と考える以外の合理的解釈はない
倭種という考え方が成立しうる。 >>517
神功皇后まで持ち出して、根拠のない妄想ばかりだな。 纏向遺跡の様相は同時期の九州や吉備とは大違い
縄文人系統の弥生人?のような民族の雰囲気だよ >>519
>日本人ならそんな意味には取らないww
>首都の隣をヒナとは言わないんだよw
取らないという根拠は? >>436
>その、実際の年代より古い時代というのを勘案して修正後に、
崇神天皇が卑弥呼と同時代になるんだよ
崇神天皇の宮処が纏向遺跡と考えられること、纏向遺跡の年代が3世紀であることも
崇神天皇が卑弥呼と同時代と考える根拠になっている<
ダメだな。
九州倭国の「東征毛人五十五國」が大和を征服したのは、
3世紀末の石塚の前になるから、3世紀後半半ば過ぎであり、
そして、記紀の崇神の三道将軍や四道将軍譚は、
当然九州倭国の「東征」将軍らの遠征譚であった事になるから、
やはり、3世紀末頃になり、
卑弥呼の3世紀前半とは合わない。 >>440
>国生みの順番を見るだけで、国生み神話において九州は周縁、
つまり夷守のいる場所だと分かるのにww
8世紀の記紀の国生みの伝承やその順番の記憶は、当然薄れて来ており、
場所記憶が精一杯になり、順番などどうでもよくなっていた、
という可能性が高い。 >>521
>古墳時代と弥生時代を関連付けるものが無い
それ、今ではバカしか言わないw
>>516を再掲
「弥生終末期と古墳時代草創期は同じ時代だよ
呼び方が違うだけなのに、字面が異なるから別物だと思い込んでいるのが九州説」
纏向石塚古墳が作られたのが弥生時代だと言いたいなら、それでもいいけれど
纏向石塚古墳が作られたのは、卑弥呼の遣使よりも前のことだ
同じ時代だよ >>526
>まったくの詭弁だよ。
どこが詭弁?
具体的に指摘しないと!ww >>527
>倭種という考え方が成立しうる。
それでいいよ?
北部九州も倭種の一部というだけ
https://i.imgur.com/pOB095u.jpg
この範囲が一つの文化圏であり、北部九州だけ切り出すことはできないというのが
この件の要点だ
北部九州だけの倭国を考える合理的な理由も根拠も何もないww >>441
>>九州には鉄刀は非常に沢山あるが、
>九州には年号の入った鉄刀は一本もないだろ?
何を言ってるんだ?
中平年号の記銘刀を持てたのは、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍クラスしかいないだろ?。 >>528
>神功皇后まで持ち出して、根拠のない妄想ばかりだな。
神功皇后を持ち出して、その頃でもまだ統一国家じゃないから、
3世紀に畿内から九州までの倭国なんてないって言ってるのが九州説だぞww
その世俗権力の統一過程が、神功皇后の説話などの形で記紀に記されているという
文献の読み方の紹介だ
神功皇后が記紀の記載通りの実在の人物であるなんて誰も言っていないww >>529
>縄文人系統の弥生人?のような民族の雰囲気だよ
「雰囲気」ww
合理的な科学とは相容れないのが九州説ってのがよく分かるなww
鉄器で加工した大量の矢板で護岸した纏向大溝の建設から始まるのが
纏向遺跡なのに、どこが縄文の雰囲気なんだ?ww >>442
>>鉄鏃など、普通は、甕棺には入れない。
>鉄鏃の刺さった死体を甕棺に入れてるんだよw
その鉄鏃は、副葬にならないよ。 >>530
>取らないという根拠は?
日本語で、例えば「鄙にも稀な」と言った時に
首都まで7キロ、バス一本で行ける場所のことを言うはずがないだろ?ww
それは、首都にいつもお買い物に行っている首都のあか抜けたお嬢さんだ
「首都から一歩出たらそこは首都じゃないから鄙」、なんていう日本人はいないww >>443
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをする大和説者って、
もしかして学問にも古代史に向いてないんじゃ・・・? >>531までの、一言書き込み、何の反論もできていないんだが、
九州説の書き込みバイトとしてはとにかく言い返さないと
いけないとかいうノルマでもあるのか?w >>541
>その鉄鏃は、副葬にならないよ。
そうだよ? 何を言ってるんだ?
九州で多く出ているという鉄鏃は、死体に刺さっていたものが多く
もちろん副葬品ではない
北部九州で鉄鏃が副葬品とされているものを具体的に挙げてごらんww >>543
畿内説に対して何も反論できず
ただ定型の悪口を言い続ける街宣車式九州説
死んでいるな >>533
そりゃそうだ
同じように、神武の出身地も間違って伝わってると思う >>545
>北部九州で鉄鏃が副葬品とされているものを具体的に挙げてごらんww
そりゃ、無理。 代わりに阿波が答えようか? わははははは @阿波 >>537
>この範囲が一つの文化圏であり、北部九州だけ切り出すことはできないというのが
倭種の文化圏だが、魏と外交していたのは九州北部だけでしょ。 >>451の訂正
>文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
纏向なら、九州倭国の東征軍の支配地であろうが、
大福では、唐古鍵と同じように、出雲系部族である可能性が高い。
>また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、
中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、
中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
当然、九州倭国の東征軍の部将らが持ち込んだものである。
>その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
二郡との直接的な通交があったのが、九州倭国である。 >>539
>その世俗権力の統一過程が、神功皇后の説話などの形で記紀に記されているという
>文献の読み方の紹介だ
そんなアクロバット読みを重ねなくてはいけない畿内説とやらは、根拠がない妄想の塊ですね。 >>542
>首都まで7キロ、バス一本で行ける場所のことを言うはずがないだろ?ww
弥生時代にバスはない。 >>547
>同じように、神武の出身地も間違って伝わってると思う
同意する。
九州北部の話が、後世になって九州全体や、西日本全体に拡大されて再構成されたのだろう。 >>549
>魏と外交していたのは九州北部だけでしょ。
九州北部は倭国(阿波)への単なる通過地域! わははははは @阿波 >>467
何度も言ってるだろ?
九州倭国の別種分家の大和説が嫌いなんじゃなくて、バカが嫌いなんだって!
バカじゃない大和説者がもしいたら、話もできるとは思うが、
今どきバカじゃないと、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説なんて、
死んだ説を信じたりしないから >>470
>帯方郡から一万二千里
結局、大和説の根拠って、
「短里で萬二千里」の否定や「南≠東」などの嘘つき騙ししかないんだよな
>でもそれは、陳寿自身に会稽東冶之東と書かれることで
陳寿は「会稽東治之東」と書いたのであるから、類スレ主は、×。
大和説が破綻していることがばれてしまっている訳だ
>萬二千里は測ってないから、根拠に使えない
萬二千里は、淮南子等に見られる世界の果てまでの距離を援用したもの
「余」があったり「有効数字1桁近似値」であるので、「測って」いるから、
類スレ主は×。 >>472
>能古島には、国生み関係の伝承その他が一切ないのは確認できたなww
古田本のどこかに、
能古島を訪問して、国生み神話や天孫降臨の経由地という伝承が伝えられていた、
という事を確認した、という紹介があったが、
どの本にあったのか?、はもう探し出せないな。 >>536
>根拠なく言い張るだけか?
お前が根拠なく言いがかりをつけて反論した気になってるだけだろ?w
根拠があるというなら、具体的に指摘したうえで反論しなさいww 今日も 畿内説は苦戦してるな
無理だって 前方後円墳と▲で戦うなは
3世紀に畿内に人が住んでたのは認めるし、倭種の別国があったのも認めるがね >>549
>倭種の文化圏だが、魏と外交していたのは九州北部だけでしょ。
北部九州も倭種の文化圏だと認めるんだww
この時点で九州説は不能になるんだぞww
九州説は、北部九州のみの列島の他の地域から隔絶した国を
想定しない限り成り立たないww
要するに最初から無理な駄説 >>482
>卑弥呼の墓は卑弥呼の死後に作られたんだろ、時代合うじゃん
卑弥呼の死は3世紀第2四半世紀、
那珂八幡や石塚は、3世紀第4四半世紀で、
合わないよ。 >>551
>そんなアクロバット読みを重ねなくてはいけない畿内説とやらは、根拠がない妄想の塊ですね。
どこがアクロバットなのか、具体的に説明しないと無・意・味!ww
日本の政治的中枢は、聖と俗の二重構造というのは常に言われていることで、
その淵源が弥生時代のヒメヒコ制まで遡ることができる
そして、その聖・ヒメ王=祭祀王の統一が卑弥呼の時に成り、
祭祀用供献土器や墳墓祭祀の形式(前方後円墳)の統一があったのは
考古遺物で確認できる
一方で、九州説がいつも言っているように一人の大王を戴く統一国家になる
つまり俗・ヒコ王=世俗王の統一は記紀の征服譚にあるようにずっとのちのことになるし
段階的に進んだと考えるのが特に問題もなく合理的な考え方
さ、どこがアクロバットなのか、具体的に指摘してごらんww >>552
>弥生時代にバスはない。
7キロはバスがなくても歩きで簡単に行き来できる距離だww
反論にも何もなっていないww
首都にいつでも出られる人をヒナの人とは言わないんだよ
日本人ならねww >>558
>どの本にあったのか?、はもう探し出せないな。
つまりは根拠なしってことだ
ガセネタww >>495
>水行20日とか、水行10日陸行1月をとにかく無視する九州説wwwww
水行20日は、不彌國から南九州の投馬國への所要日数。
水行10日陸行1月は、郡から女王之所都への所要日数。 寺澤氏の得意は石器だったはずだが
石器はほぼ語りつくされてるから
邪馬台国に鞍替えしたのはいいが、、、、 >>514
>伊都国から奴国の東南至奴國百里に対応する行程なんて書かれてないだろ?
肉眼で見える距離だし、「至」の前に途中移動を示す文言がないから、
魏使らは移動していない。
>投馬国から邪馬台国の行程は、
邪馬台国存在もなんてしなかった嘘つき騙し文言であるし、
投馬國は、不彌國からの側副傍線行程國説明であるから、
魏使らは「行程移動」をしていない。
>南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。と
きちんと道里が書いてあるぞww
不彌國から「南至邪馬壹國女王之所都」は、至の前に途中移動を示す文言がないから、
魏使らは殆ど移動せずに邪馬壹國の入口に着いた事になるし、
「水行十日陸行一月」という数量説明は、
その直前の「行程の目的地である女王之所都」の説明文言になるのだから、
「郡から女王之所都」の所要日数説明になる。 >>570
>不彌國から「南至邪馬壹國女王之所都」は、至の前に途中移動を示す文言がないから、
>魏使らは殆ど移動せずに邪馬壹國の入口に着いた事になるし、
その珍妙な新発明読みは現代日本人の創作で
中国人は理解できない >>566
>阿波に行くには九州は無視できないよ
その通り。 @阿波 >>561
>九州説は、北部九州のみの列島の他の地域から隔絶した国を
>想定しない限り成り立たないww
まったく意味不明だな。
倭人を代表して筑紫の倭王が魏と外交していたというだけでいいんだから。 卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。
http://inoues.net/yamahonpen2.html >>574
その、筑紫の王が実在しないのだから仕方ない >>575
>卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
そうやって
九州説は理由が言えない御託宣宗教になって
学問の世界から消えた >>560
同意
大和の文化はあって当然
関東・東北しかり
大和王権が、歴史をねつ造し各地の文化を葬り去ったと思う >>516
>>奈良説は大した根拠もなく、弥生時代に初期古墳時代が存在したかのように考えてるのがアホ
>弥生終末期と古墳時代草創期は同じ時代だよ
前方後円墳のような巨大な古墳が古墳時代の命名の始まりであったんだから、
弥生終末期と古墳時代は、明らかに別物であり、
九州の古墳時代の始まりは、那珂八幡などの3世紀後半半ば過ぎからであり、
大和の古墳は、那珂八幡などの「進化型」であるから那珂八幡よりも後であり、
だから大和の古墳時代は、3世紀末頃の石塚などから、という事になる。
>根拠は、前方後円墳という墳墓祭祀の形式の共有
畿内様式土器という祭祀用供献土器の形式の共有
筑紫の庄内は3世紀前半であり、大和は庄内1の石塚からであるから、
庄内は、(東征毛人五十五國によって)河内や大和への伝搬。
>三角縁神獣鏡の分有関係に見られる首長層のつながり
△は、魏の楽浪攻撃の前に避難渡来して来た呉系楽浪鏡師らの関与鏡であり、
筑紫の志登などが最も古く、しかし、明帝の銅鏡百枚に拠って商売にならなくなり、
鏡師らは地方の豪族や東征将軍らに△を造って上げるようになり、
大和ではでた4世紀に鏡作り神社で大和の子弟に教えて、
副葬用の△を大量に造らせた。 >>563
>その淵源が弥生時代のヒメヒコ制まで遡ることができる
弥生時代にそんな「制度」があったという根拠は? >>580
地元権力者のものと思われる大型墓に血縁関係のある男女ペアが葬られていた事実から >>577
ではいつどのように遷都したのか?
少なくとも中国側にはそのような記録はない。
倭奴国が金印をもらった頃は確実に博多湾沿岸が倭の王都と見なされていたはずだ。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの短い期間に領土が100倍以上に拡大して、倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。 >>581
地元?
また漠然とした話でお茶を濁すのか?
さすが詐欺師の異名を持つキナイコシ >>582
>西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの短い期間に領土が100倍以上に拡大して、倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
その期間に、九州が衰退して畿内が勃興してるのよ .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>582
>魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、
東遷なんて考古学的に否定されてるから当然 >>582
>ではいつどのように遷都したのか?
そんなバカな主張してる奴いまどきイナイから
懸命に反論したって意味ないよ >>517
>卑弥呼の共立は祭祀王の統一であって、世俗権力は各地の首長が主権を保持し続けている
卑弥呼の共立は、「倭國亂、相攻伐歴年」という事の無益さを悟ったからであり、
「姫氏の出」という素性の良さと宗教的な信頼性が共立を許容され、
治世は、佐治の弟と、何人かの大夫と、
一大率や、地方の市を監督する大倭に拠って行われた。 >>576
>その、筑紫の王が実在しないのだから仕方ない
その通り。
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。
なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 つまり、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、研究が真実に近づいたのだね。 >>584
>その期間に、九州が衰退して畿内が勃興してるのよ
根拠のない妄想だろw >>586
>>>582
>>魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、
>
>東遷なんて考古学的に否定されてるから当然
当然、卑弥呼が即位したのも博多湾沿岸の倭国だよね〜 >>593
どっちもどっち だと、何度言えばw @阿波 >>579
>△は、魏の楽浪攻撃の前に避難渡来して来た呉系楽浪鏡師らの関与鏡であり、
「渡来して来た呉系楽浪鏡師ら」なんていないよw
呉の鏡には乳がないが、三角縁にはあるんだよ
>筑紫の志登などが最も古く、しかし、明帝の銅鏡百枚に拠って商売にならなくなり、
早く「志登などが最も古く」という根拠を持ってこいよw
誰も見たことがない鏡が、なぜ古いのか?を九州説の奴にも教えてやれよw
>鏡師らは地方の豪族や東征将軍らに△を造って上げるようになり、
>大和ではでた4世紀に鏡作り神社で大和の子弟に教えて、
>副葬用の△を大量に造らせた。
「東征将軍ら」なんていないよw
妄想だねぇw >>594
>当然、卑弥呼が即位したのも博多湾沿岸の倭国だよね〜
まったく理由の言えない九州説かま没落してるな >>518
>>「ヤマト」なんて全く書かれていないから、×。
>でも、九州説でも一番人気は邪馬台国をヤマトと読んだ上での山門だったりするww
九州説はダブスタww
これは失礼。「ヤマト」という音韻は存在した。
存在しなかったのは、「ヤマト」というカタカナの表示の文言。
また、「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙しの文言であるから×。 大和弥生社会の展開とその特質
寺澤薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf >>600
アンタらの好きな絹の出土みてみな
アンタかの好きな鏡の出土みてみな
答えは出てるだろ >>557
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>557
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>557
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>557
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>557
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>557
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>557
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>519
>>都の反対だよ。
都ではない地域。
>日本人ならそんな意味には取らないww
首都の隣をヒナとは言わないんだよw
それ以前に、やはり、「卑」という文字が、
馬韓の国名に、卑離國や、占離卑國や、卑彌國や、藍奚卑離國や、内卑離國や、
辟卑離國や、牟廬卑離國や、如來卑離國や、楚山塗卑離國にあり、
倭人にも、卑彌呼や卑彌弓呼があり、
對海國と一大國の「官」名が卑狗である事などが問題。
中国にも「卑」という苗字があるそうであり、
馬韓や倭人でも、「卑」は苗字であった、という可能性が十分にある。 >>534
>纏向石塚古墳が作られたのが弥生時代だと言いたいなら、それでもいいけれど
纏向石塚古墳が作られたのは、卑弥呼の遣使よりも前のことだ
同じ時代だよ
石塚は、3世紀末であるから、×。 >>537
>北部九州も倭種の一部というだけ
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、倭國や女王国の中心は北部九州であり、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」であるから、
北部九州は、倭種ではないから、×。 >>613
>石塚は、3世紀末であるから、×。
お経を連呼するだけの九州説って、宗教? 邪馬台国畿内説は、どのようにして、完全に破綻してしまったのだろうか。 桜井での相撲大会は、中止されてしまったのだろうか。 >>545
>>その鉄鏃は、副葬にならないよ。
>そうだよ? 何を言ってるんだ?
類スレ主は、甕棺に副葬の鉄器の話をしていたんだよ。 だから倭人の話だろう。
おそらく気づいていると思うんだけど、家の話ではない。
家は『鳳輿』()このような名前の家。
百済〜と書いてあるけど、系統も違う、そこに住んでいただけとか。
つーちゃん(他サイトなど)ではなくても、同じような事を言っている人がいたり。 >>546
「南≠東」や「正北抵新羅」などに関して、九州説に対して何も反論できず
ただ定型の悪口を言い続ける街宣車式大和説の類スレ主、
死んでいるな >>576
>その、筑紫の王が実在しないのだから仕方ない
その通り。
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。
なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>563
>日本の政治的中枢は、聖と俗の二重構造というのは常に言われていることで、
その淵源が弥生時代のヒメヒコ制まで遡ることができる
そして、その聖・ヒメ王=祭祀王の統一が卑弥呼の時に成り、
祭祀用供献土器や墳墓祭祀の形式(前方後円墳)の統一があったのは考古遺物で確認できる<
筑紫の庄内は3世紀前半で、大和の庄内は3世紀末であるから×であり、
筑紫の前方後円墳は3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡で、
大和の前方後円墳は3世紀末の石塚だから、×。 >>564
>7キロはバスがなくても歩きで簡単に行き来できる距離だww<
現代の舗装道ならいざすらず、
古代の道なき道の荒れ道の7キロは、「簡単に行き来できる距離」ではない。
まあ、片道でも、2時間以上かかるだろうねえ。 >>584
>>西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、
107年に倭王帥升も朝貢しているが、
190年頃とされる卑弥呼の即位までの短い期間に領土が100倍以上に拡大して、
倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
>その期間に、九州が衰退して畿内が勃興してるのよ
九州は衰退したの白村江の大敗の後であり、
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
大和は、九州倭国の別種分家の旧小国の、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国の附庸だったの。 >>639
残念ながら考古学的に見ると1世紀後半から九州はすでに衰退していて、2世紀3世紀となると本格的に零細になってしまっている
貿易ルートの独占が終わったところから衰退しはじめて、貿易の主導権を失い、倭の中心的地位から辺境に落ちぶれてしまったんだよ >>596
>考古学者が解明した歴史的事実だよ
「南→東」などのなどの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説学者らが、
「東征毛人五十五國」などがあった事を隠蔽してでっち上げた造作事実だよ。 >>640
墓制が拡散してないし倭人の卜骨の風習もないから
元から倭の中心的地位にはないだろう それよりも、なぜメーソンの話をしているんだと思う?
『世紀の冤罪 明治』明治時代の冤罪事件。
家の老婆も、ほとんど同じような話をしているし、まさか凄い家の・・・だったのかな。 親戚、遠い親戚?
『天財若子』
このような名前の人物とか、
むかーし、泥棒のようなものに入られたような?話もしていたり。 土地、お金なども無くなった?そういう話もしていたしな・・・。
その後に、どこそこで仕事をしたとか。
むかーしの聖人〜(不明)、神殺しとか、そういう話? あの写真wの子供が着ている制服も軍人、警官・・・、
(老婆には)よくわからないと言っているし、確実に戦争には行っていないw
ほとんど合致しているような?
あと歌舞伎、むかーしの芸能?そういう話とか。 それと小椋佳の曲があるでしょ・・・。
「❓」
このような作品ばかり、巻貝(ホタテ、サザエさん?)〜とか。
なぜか家の老婆談と同じ?
母親だという人だけ、素足に下駄(草履?)、あの写真の話。
たしか、その人が母親だとか。 あの写真の右のほうにいるんだけど、
葱の華の写っているほうw
何なんだろう。 『ドンバ』?
写真の左のほうに
キュウリのような葉、キュウリ?。 『小椋佳 手にすくった巻貝』調べてみると・・・『ドンバ』? 冬ほおずき。
確実に『福島 民家園』の話・・・あの家。 どのスレだったかな、
川崎に住んでいるんじゃないの?と言っている人がいたり。 『やらないか アベ』〜『やら舞歌』
どういう事なんだろう。 『アベ』()
という家も保存されているし、その謎の民家園。 論争に負けた九州説に出来るのは
痴呆化して夜中じゅう呟くことだけ >>639
>九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国の附庸だったの。
「東征毛人」と「西服衆夷」は対句だよ
畿内という中央から「東西」を「征服」してるんだよ
西の果て九州は征服された側さ
九州説が史料曲解で現代人の作ったフィクションだって
誰にでもよくわかる >>636
>筑紫の庄内は3世紀前半で、大和の庄内は3世紀末であるから×であり、
こうやって現代の歴史学を
理由もなく完全に拒否しないと
確実に否定されることになってしまった説
九州説は前世紀の遺物なんだよ >>658
>畿内という中央から「東西」を「征服」してるんだよ
違う! 四国という中央から「東の畿内」と「西の九州」を「征服」してるんだよ。 わははははは @阿波 >>658
>畿内という中央から「東西」を「征服」してるんだよ
違う! 四国という中央から「東の畿内」と「西の九州」と「北の山陰・北陸」を「征服」してるんだよ。 わははははは @阿波 >>658
>畿内という中央から「東西」を「征服」してるんだよ
違う! 四国という中央から「東の畿内以東」と「西の九州」と「北の山陰・北陸」を「征服」してるんだよ。 わははははは @阿波 >>640
妄想はいらないよ。
平原遺跡を見れば、当時の海外貿易の富は伊都に一極集中していたことがわかる。 >>665
平原遺跡ごときで、妄想がすぎる! わははははは @阿波 >>665
そういえば、平原遺跡ぐらいしか無いんだよね。 かわいそうだがw @阿波 貿易の富を九州が独占してたのは1世紀のはなし
2世紀には富を集めてた貿易センターは吉備
3世紀になると畿内がセンターになっている
吉備は出雲経由、畿内は恐らく若狭経由で日本海から九州を避けて往来したようで、それぞれ出雲や若狭に相応の富がある >>665
それが妄想なんだよ
二号はろくな副葬品ないだろ >>670
1号が女王だからだろ。
他の一族は権力がないんだよ。
女王だけが唯一無二の権力者だったわけさ。 >>611
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料実態や史料事実の指摘に答えられず、
大和説は、みじめだな >>671
そういえば、平原遺跡ぐらいしか無いんだよね。 かわいそうだがw @阿波 >>615
>お経を連呼するだけの九州説って、宗教?
「南≠東」や「正北抵新羅」や「日本國者倭國之別種也」や「東征毛人五十五國」などの、
史料事実や史料実態を否定や曲解をして、
お経を連呼するだけの大和説って、宗教? >>677のそれがお経なんだよ
だから九州説は馬鹿にされる >>617
「南≠東」や「正北抵新羅」や「日本國者倭國之別種也」や「東征毛人五十五國」や、
「冢≠前方後円墳」や「△≠魏鏡」などの史料事実や史料実態を、
否定や曲解をする嘘つき騙しをして、
お経を連呼するだけの大和説って、
宗教?、とでも言われてしまう
敗者だから >>672
>考古学的には伊都国の最盛期は4世紀。
そんなこと言ってる考古学者は誰? 九州説で盛り上がる 畿内説のスレ
畿内は倭人伝に基づく遺物少ないからだろう
方位も出鱈目だし >>631
>>その、筑紫の王が実在しないのだから仕方ない
>その通り。 九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。
なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波
これも反論済み。
結局阿波も、類スレ主やの大和説者らと同じく、
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実や史料実態の指摘に反論出来ず、
口先での誤魔化しの、「キの字」の詐欺師であったようだ。 >>635
>九州説
負けて今夜も悲惨だな
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説、
議論に負けて、今夜も悲惨だな >>640
>残念ながら考古学的に見ると1世紀後半から九州はすでに衰退していて、2世紀3世紀となると本格的に零細になってしまっている
貿易ルートの独占が終わったところから衰退しはじめて、貿易の主導権を失い、倭の中心的地位から辺境に落ちぶれてしまったんだよ<
ダメだよ。
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、
北部九州倭國は、唐代の白村江まで、倭の盟主として栄えていた。 >>642
>墓制が拡散してないし倭人の卜骨の風習もないから
元から倭の中心的地位にはないだろう
前方後円墳は筑紫の那珂八幡などから東征毛人五十五國に拡大して行ったし、
ト骨の風習は、卑弥呼の鬼道に押されて、一大國や筑紫の辺縁の残っていたし、
何よりも、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、
白村江の後まで、北部九州は、倭の中心的地位であった。 >>685
そういう明らかなデタラメを創作しないと
ニッチもサッチもいかないのが
九州説 >>685
>ト骨の風習は、卑弥呼の鬼道に押されて、一大國や筑紫の辺縁の残っていたし、
それって倭人伝に描かれた倭国とぜんぜん合わないから
邪馬台国は九州じゃないね >>657
>論争に負けた九州説に出来るのは
痴呆化して夜中じゅう呟くことだけ
結局は、(中国学者らが言ったように)、
大和説者は、「南≠東」や「正北抵新羅」などの「東西南北の方向論争」に負けたのであり、
負けた大和説者に出来るのは、痴呆化して夜中じゅう呟くことだけ 九州島におけるト骨の風習は残っていたのではなくて
本州に広く分布した風習が畿内の供献土器を首長層が模倣するようになった
弥生終末期になって初めて表れる >>658
>>九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国の附庸だったの。
>「東征毛人」と「西服衆夷」は対句だよ
畿内という中央から「東西」を「征服」してるんだよ
西の果て九州は征服された側さ<
これも「正北抵新羅」に拠って、
倭国の中心は北部九州であったとはっきり断定されてしまっており、×さ。
文面からも、
東は「征(征伐する)」という他動詞を使って、
西は「服(服属する)」という自動詞を使って書き分けており、
倭王武は、九州は、既に服属していた、という事を示そう、としている。
(倭王武らは、漢字や漢文の意味をよく知っていたらしい)。
そして、大和説が史料曲解で現代人の作ったフィクションだって
誰にでもよくわかる 東夷伝に新羅は無い
「倭在韓東南大海中」(後漢書) >>659
>>筑紫の庄内は3世紀前半で、大和の庄内は3世紀末であるから×であり
>こうやって現代の歴史学を理由もなく完全に拒否しないと
確実に否定されることになってしまった説
九州説は前世紀の遺物なんだよ
筑紫の庄内が大和の庄内よりも50年以上早かった、
というのは、もう50年位前の古代史学会の通説であった。
それを、京大を中心とする大和説学者らが、
大和の庄内を古くして卑弥呼の頃にしようとして大和説の論拠にしようと企み、
弟子たちがそれに追従した、
という事が、古代史学会の実態。 >>692
そういう妄想言ってるから九州説は前世紀の遺物って言われるんだよ >>693
大した遺跡がないから、妄想しかできないんだよ。 わははははは @阿波 >>695
そういう悪口しか言えないから
九州説が死んだって
全国に公表されたことになる >>668
>貿易の富を九州が独占してたのは1世紀のはなし
「正北抵新羅」の北部九州の倭國は、7世紀の白村江の後まで、列島盟主であり続けた。
>2世紀には富を集めてた貿易センターは吉備
吉備は、(大和などの同じように)元は出雲系であり、
九州倭国の東征毛人五十五國に拠って、
出雲文化を残しながら、九州倭国の支配下の小国になった。
>3世紀になると畿内がセンターになっている
吉備は出雲経由、畿内は恐らく若狭経由で日本海から九州を避けて往来したようで、
それぞれ出雲や若狭に相応の富がある
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
九州倭国の東征軍の中心は河内から近江東海南関東へ向かったようであり、
その別動隊が、讃岐阿波や奥丹後や紀伊や大和に向かい、
大和の神武らの後裔が、九州倭国の三道将軍らの応援をして、
扶桑國の繁栄の元を築いたらしい。
しかし、出雲は文身國で、越は大漢國として、として、
6世紀の梁代まで一定の国を確保していた。 >>697
>畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
世間常識に180度反することを
何の理由も言わずに
ひたすら連呼する
これで、九州説が馬鹿にされないと思う? >>678
「南→東」や「正北抵新羅の無視否定」など、
それがお経なんだよ
だから大和説は馬鹿にされる >>680
>>考古学的には伊都国の最盛期は4世紀。
>そんなこと言ってる考古学者は誰?
一貴山銚子塚は4世紀か?は微妙だが、
端山や築山は、4世紀頃だろうなあ。 >>686
「正北抵新羅」や「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しなどのように、
そういう口先での誹謗ばかりで、
史料事実否定の明らかなデタラメを創作しないと
ニッチもサッチもいかないのが
大和説 >>695
>畿内説って妄想しかないだろ
だから、どっちもどっち だと、何度言えばw @阿波 >>677
衆夷六十五国が九州だから武は九州の王じゃないよ 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! >>708
「東征毛人五十國西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」 これはずばり、四国(阿波)を中心とした東・西・北の展開記述である。
東征毛人五十五國 =近畿以東(北関東含む)
西服衆夷六十六國 =西瀬戸内・九州
渡平海北九十五國 =東瀬戸内・山陰・北陸
これは、倭国(阿波)から進出した忌部一族の開拓地域と符合する。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>692
昔は中国から伝わった新文化、新技術の列島内伝達の速度を遅く見積もってたから時間差があると考えられていたが、理化学年代の発達によって否定された
それともお前さん、海洋リザーバー効果は本州には起こるけど九州では起こらないとか妄言でも吐いてみるかい?
九州のひとたちは海産物を採取しなかったから九州の遺物には海洋リザーバー効果は出ないとでも? >>712
畿内説が中傷?
どの投稿のこと?
指摘は具体的でないと指摘とは呼ばれない
えてして中傷になる 畿内宗教を改心させるのを目的にしたらダメ
爺さんの信仰を変えるのは無理だから 奥山の布教活動がことごとく裏目に出てしまう畿内説あわれ >>574
>倭人を代表して筑紫の倭王が魏と外交していたというだけでいいんだから。
考古学の発掘成果は、北部九州に倭人を代表できる勢力が存在することを
否定しているんだよ
夷守のいるところに符合する、中央からの文物が一方的に流れてくる辺地というのが
3世紀の北部九州の状態 >>580
>弥生時代にそんな「制度」があったという根拠は?
「制度」じゃないよ
その土地を代表するものが、基本的に男女ペアで表記されていることを
ヒコヒメ制と呼んでいる
宇沙都比古 宇沙都比売をはじめ、枚挙にいとまがない >>582
>ではいつどのように遷都したのか?
>少なくとも中国側にはそのような記録はない。
何度も何度も書くが、遷都じゃないんだって!
北部九州が没落して、より広い範囲で卑弥呼を共立したってだけ
大陸から見れば、倭は倭であって、その中のどこに王都があるかなんて気にしていない
倭人が朝貢に来た、と記してあるだけ >>583
>地元?
例えば、島の山古墳は後円部の埋葬主体は盗掘されていてまともに発掘されていないが
前方部にも埋葬主体があってその被葬者は女性とされている
とにかく難癖付ければいい、みたいなできの悪い書き込みは九州説の質の低さを
示すだけだぞw >>593
>根拠のない妄想だろw
舶載鏡の出土量だけでも明確なんだがなww
それと、九州説はこれも無視し続けている
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7240.html 地域別人口の超長期的推移
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7242.html 地域別人口規模の順位の変遷
鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」
「弥生時代から奈良・平安初期にかけて畿内、畿内周辺、山陽、山陰、四国の5地域が
揃ってシェアを拡大し、そのうち畿内周辺は全国1になっている。この5地域は平安前期には、
やはり揃って地位を低下させている。ある時期、これら地域がひとつのまとまりとして
他地域を凌駕する人口扶養力を養えたことが日本の古代国家の成立の背景となったと捉える
ことができる。」
畿内および畿内周辺の人口の厚みが、魏志倭人伝に7万戸と記された女王之所都でしょ
そして、よく九州説が出してくる延喜式の稲のデータは
「平安前期には、やはり揃って地位を低下させている。」のあとのデータ >>716
考古学でそんなことは否定できないよ。
嘘つきさん。 >>594
>当然、卑弥呼が即位したのも博多湾沿岸の倭国だよね〜
なぜ北部九州が没落したかと言えば、嫌われたからだろ?
そこに新しい王を立てたりはしないよ
そして、監視のために一大率を置かれることになる >>718
>大陸から見れば、倭は倭であって、その中のどこに王都があるかなんて気にしていない
王都、宮城について記しているのだから、気にしていないなんて嘘だよね
君にとって都合が悪い話題なだけでしょ >>721
>「平安前期には、やはり揃って地位を低下させている。」のあとのデータ
でも平安京は王都だった。
つまり、畿内に稲作が普及しても、それで王都を論じるのは無理 >>612
>都ではない地域。
いい加減くどいな
現代で言えば、横浜は首都じゃないけれど、首都じゃないからといって
鄙・田舎扱いはしないだろ?
奴国が伊都国の隣、ほんの百里のところで、2万戸の大国なんだから
そこが首都の周辺だったら夷守は置かれない
九州説のただ言い張るだけのバカを諭して回るのも本当にめんどくさい >>726
>そこが首都の周辺だったら夷守は置かれない
首都を守らなくていいのかい? >>665
>平原遺跡を見れば、当時の海外貿易の富は伊都に一極集中していたことがわかる。
妄想はお前だよ
平原遺跡と言い続けて、平原5号墓の存在を無視し続けている時点で
九州の古代史をまじめに考えていないことが明らかだしww
平原1号墓には、埋葬当時の舶載鏡が1枚もない
あるのはいくらでも作れる仿製鏡だ
この大量生産は出雲の荒神谷遺跡の銅剣と比較すべきもの
また、舶来の宝器なら、丹波の大風呂南墳丘墓や赤坂今井墳丘墓の
ガラス製品の方が充実しているし、鉄剣でもこちらの方が大量(最多)
海外貿易の富が一極集中とか、九州説の妄想の中だけのことだよ 卑弥呼の時代は大飢饉が発生して半島へ避難していたというのに、
人口の多さを誇張する頭の悪い畿内説あわれ >>671
>1号が女王だからだろ。
>他の一族は権力がないんだよ。
>女王だけが唯一無二の権力者だったわけさ。
そんな王族は日本にはいないんだよ
やはり日本人じゃないと日本人の感性は分からないんだろうなww
それに、ダンワラ古墳の鉄鏡は王族に伝世してたって言ってたのはお前じゃないのか?w
どう見ても権力がないダンワラ古墳の被葬者が宝物を王族というだけで保持していたと
言いながら、女王と同世代のペアには何もないなんて、ご都合主義もたいがいにしなww >>728
>>そこが首都の周辺だったら夷守は置かれない
>首都を守らなくていいのかい?
夷守は首都を守らない >>734
アホか
卑奴母離は何を守るんだ?
何もないところを守るのか? >>720
>金印は?
時代が合わないww
それ、後漢の光武帝にもらった印で、邪馬台国より200年も前w
その北部九州が没落してから、卑弥呼の共立になるんだから
ある意味卑弥呼とは無関係
>鉄鏡は?
時代が合わないwwwww
ダンワラ古墳は6世紀
どう見ても、王族でも何でもないダンワラ古墳の被葬者一族が
数百年後に半島で入手してきたものだろうというのが、よく言われていること >>722
>考古学でそんなことは否定できないよ。
>嘘つきさん。
北部九州に中心、中枢がないことは考古学的に明白
これを意訳すると、考古学的に否定される、となる
そんな辺地が倭国を代表して朝貢をしていたと考える方がおかしい >>724
>王都、宮城について記しているのだから、気にしていないなんて嘘だよね
>君にとって都合が悪い話題なだけでしょ
それは三国志だろ?
その三国志に記された、王都、宮室、は畿内大和の纏向遺跡
具体的には、このあたり
https://i.imgur.com/DoW0DbB.jpg
城柵嚴設の遺構だね
無視してないよ?
九州説の、宮室の候補地ってどこにあったっけ?wwwww
都合が悪いのは、九州説だろwwwww
そして、後漢書には王都はヤマト国って書いてあるが宮室については
一言も書いてない
基本的にこいつの書き込みはいい加減なんだよなw 邪馬台国が都する所、纏向遺跡を防衛するのは率善中郎将の印綬を持つ将軍に決まっている。 >>725
>でも平安京は王都だった。
>つまり、畿内に稲作が普及しても、それで王都を論じるのは無理
この地位の低下は、相対的なもの
畿内の土木技術が地方、ヒナにも伝えられて、例えば筑後川河口域の開墾が進んだから
相対的に地位が下がっているんだよ
王権が作られていく過程では、人口=国力であるのは明白
九州には奴国2万戸しか入らないんだから、最初から無理なんだよ 何とか言う鉄鏡は奈良の古美術商から購入したと書いてあったが、どう言うこと? >>728
>首都を守らなくていいのかい?
首都を守るのは「ヒナ」守ではないってこと
平安時代なら検非違使だ
首都の隣に夷守がいる、首都以外は全部ヒナっていうのは
日本人には通用しないデタラメww >>732
>人口の多さを誇張する頭の悪い畿内説あわれ
人口の多さを誇張するんじゃなくて、北部九州では
奴国二万戸、投馬国五万戸、邪馬台国七万戸という魏志倭人伝の記述を
説明できないってこと
魏志倭人伝無視が、九州説の基本ww >>736
>アホか
>卑奴母離は何を守るんだ?
>何もないところを守るのか?
夷守は今でいう国境警備隊だよ
卑奴母離は国境の守りだ
国境そのものを守っているので、そこにはある意味何もないぞ
都から遠く離れた場所で、外敵に対する備えとして置かれるのが卑奴母離 >>742
>何とか言う鉄鏡は奈良の古美術商から購入したと書いてあったが、どう言うこと?
ダンワラ古墳と名付けられた遺構は、道路工事の時に偶然見つかって(破壊されて)
その時に出た鏡を地主さんが持ってたんだけど、それを近くの小学校で展示していた
それが盗まれちゃって、しばらくしてから奈良の古美術商で売りに出されたんだよ
その古美術商が売っていたものが、ダンワラ古墳出土の鉄鏡だろうというのは
とりあえず認められている >>738
>そんな辺地が倭国を代表して朝貢をしていたと考える方がおかしい
地理的配置を考えないと
福岡を飛ばして大陸と交流なんてできないよ >>745
>卑奴母離は国境の守りだ
それは後世の定義だね
当時は都とそれ以外しか区別しなかったのだろう >>722
九州が栄えてた頃の遺物はせいぜい1世紀まで、2世紀以後は衰退してると、考古学では結論されてるからねえ >>732
日本列島より飢饉が深刻そうな半島にわたってもタスカリヨウガナイノニ、なぜ? >>748
2世紀になると福岡を飛ばして出雲あたりが大陸と交易してるけど >>701
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>701
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>701
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>701
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>701
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>701
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? >>701
で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?
で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?
偽書確定ですかな?偽書確定ですかな? どっちの説でもないが
顔赤くして口角に泡飛ばして罵る畿内説はないなと思った。 >>748
>福岡を飛ばして大陸と交流なんてできないよ
福岡は、倭国(阿波)への単なる通過地域! わははははは @阿波 >>729
>平原1号墓には、埋葬当時の舶載鏡が1枚もない
あるのはいくらでも作れる仿製鏡だ
21枚の「尚方作」の方格規玖鏡は、最低、舶載鏡だ。
>この大量生産は出雲の荒神谷遺跡の銅剣と比較すべきもの
出雲は、梁代まで独立的だ。
>また、舶来の宝器なら、丹波の大風呂南墳丘墓や赤坂今井墳丘墓の
ガラス製品の方が充実しているし、鉄剣でもこちらの方が大量(最多)<
丹波は、九州倭国の東征の別動隊の征服地であり、だから鉄剣が多いのだ。 >>752
>日本列島より飢饉が深刻そうな半島
何を根拠に言ってんだ?
日本のどこかで異常気象などが発生していたという話だぞ?
https://i.imgur.com/9fKvb8o.png
3世紀〜4世紀は海面温度が下がり、寒冷化だけではなく干ばつにも見舞われたと考えられる。
『名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。
飢饉が続いたために、銅鐸を用いた過去の祭祀を捨て、新しい宗教をひっさげて卑弥呼が登場した。
それが卑弥呼の鬼道だと石野氏らは解釈する。』 これおもろいなw
『名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。』
そして
『飢饉が続いたために、銅鐸を用いた過去の祭祀を捨て、新しい宗教をひっさげて卑弥呼が登場した。
それが卑弥呼の鬼道だと石野氏らは解釈する。』
中塚武教授は当時の気候の話をしただけなのに、根拠無く壮大な妄想を繰り広げる畿内説www
畿内説が脳内説だとわかりやすい事例だなw >>748
>地理的配置を考えないと
>福岡を飛ばして大陸と交流なんてできないよ
そりゃ通るだろ?
魏志倭人伝にも奴国は書いてある
でも、そこが中枢ではないことが明らかでそこが
倭国を代表して朝貢していたと考えるべき理由はない
今、海外に出るのに成田発だから、成田に王がいたとか言ったらバカだろ?
そのレベルだぞ>>748の言ってることは >>749
>当時は都とそれ以外しか区別しなかったのだろう
後世と言っても、万葉集の時点でヒナは辺境ww
当時の定義とか言ってでっち上げをしているのが>>749wwwww
何の根拠もなしにそんなことを言っても、日本人には通用しないよw >>751
>纏向にヒナモリはいたの?畿内説説明せよ
魏志倭人伝にもヤマト国にヒナモリがいたなんて書いてないだろ?
卑奴母離は各国の副官として書かれている 副曰卑奴母離
ヤマト国の官に卑奴母離はいない
官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮 >>752
>日本列島より飢饉が深刻そうな半島にわたってもタスカリヨウガナイノニ、なぜ?
その九州説のやつが、三国史記を歴史書扱いしているからだよww
半島に対して事大していると言ってもいいw 鬼道程度で飢饉がおさまるなら、おてんとうさまも百姓農民もいらない。
安直、安楽思考の石のアタマ。 >>761
>どっちの説でもないが
>顔赤くして口角に泡飛ばして罵る畿内説はないなと思った。
キウス以外でも九州説は自演するんだよなww >>764
>何を根拠に言ってんだ?
半島の方が北に位置していて寒いんだよ
だから、近代まで稲作は盛んになってなくて
ずっとコーリャンなどの雑穀が主食だった
イネに比べて人口保持力に乏しいから人口も増えないし、
気象変動に対しても脆弱
>>764はどうして根拠もなくそんなに半島を持ち上げないといけないんだ? 倭国の中軸の伊都国、邪馬台国、投馬国の官には卑奴母離はいない
卑奴母離は、外様のクニグニを監督する目付だったのではないか。
つまり奴国・不彌国は外様だったのだ。 >>738
>北部九州に中心、中枢がないことは考古学的に明白
これを意訳すると、考古学的に否定される、となる
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、
倭國の中心は、唐代まで北部九州にあった、という事が明白。
これを意訳すると、大和説は、文献的に既に否定されていた、となり、
考古的にも、祇園山や平原や那珂八幡などや一貴山銚子塚などでも否定されていた事になる。 >>773
>倭国の中軸の伊都国、邪馬台国、投馬国の官には卑奴母離はいない
>卑奴母離は、外様のクニグニを監督する目付だったのではないか。
>つまり奴国・不彌国は外様だったのだ。
また言うことが変わったなww
手のひらクルックルw
首都以外は鄙なんだー、首都防衛がヒナモリなんだーは諦めたのか?wwwww
そしてヒナモリに、外様を監視するなんていう意味はないよww >>739
>その三国志に記された、王都、宮室、は畿内大和の纏向遺跡
具体的には、このあたり
https://i.imgur.com/DoW0DbB.jpg・・・
城柵嚴設の遺構だね
当然「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠って、×。 >>773
>倭国の中軸の伊都国、邪馬台国、投馬国の官には卑奴母離はいない
伊都国は中軸じゃないよ
一大率によって監視される側ww >>772
なぜ北にあって寒かったら飢饉になるんだ?
そもそも「異常気象」や「干ばつ」って書いてあるだろ?
今でも台風やら地震やらと半島と比べて災害の多い国なんだから >>740
>邪馬台国が都する所、纏向遺跡を防衛するのは率善中郎将の印綬を持つ将軍に決まっている。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×であり、
纏向説は、「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠っても、×。 >>778
一大率が居た領域は鉄が潤沢に流通していたはずだな
キナイコシらしい自爆だw >>741
>王権が作られていく過程では、人口=国力であるのは明白
九州には奴国2万戸しか入らないんだから、最初から無理なんだよ
「正北抵新羅」などに拠って、倭国の中心部全域はほぼ九州島付近であり、
「奴国2万戸しか入らない」は、×。 >>744
>北部九州では
奴国二万戸、投馬国五万戸、邪馬台国七万戸という魏志倭人伝の記述を
説明できないってこと
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、倭国は「ほぼ九州島付近」であり、
奴国二万戸、投馬国五万戸、邪馬壹國七万戸という魏志倭人伝の記述を
説明出来る。 >>781
>一大率が居た領域は鉄が潤沢に流通していたはずだな
>キナイコシらしい自爆だw
伊都国には鉄がないのかい?ww
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。「常治伊都國。」
まあ、奈良盆地にも鉄は潤沢にあったんだがww >>779
>なぜ北にあって寒かったら飢饉になるんだ?
農業生産のベースラインが低いからだよw
何一つ意味のある反論ができないんだなw >>781
それで、ヒナモリは首都周辺にいるにだーってのは間違いだって諦めはついたか?ww >>745
>都から遠く離れた場所で、外敵に対する備えとして置かれるのが卑奴母離
卑奴母離が夷守であるのか?、という事自体が未確定であるのに、
夷守の事だ、と断定した議論をするインチキをしているから、
類スレ主らは、×。 >>785
>奈良盆地にも鉄は潤沢にあったんだが
畿内説の恥さらしwww
証拠はヒノキの矢板か?w >>788
>卑奴母離が夷守であるのか?、という事自体が未確定であるのに、
複数の国で副官が卑奴母離とされており、固有名詞ではなく職名であると
普通の九州説を含め、みんなそう考えている
そして、日本語の職名で考えた時に卑奴母離にあたるものとして
「夷守」を当てるのも、普通の九州説を含めて常識
一生懸命ない頭をひねって、夷守の意味をでっち上げ続けている>>773にも
ケンカを売ってるぞww >>789
>畿内説の恥さらしwww
今では、鉄の出土量で国力を考えるのは時代遅れだよ?
まあ、九州説の人は新しい情報をすべて拒絶する情弱だから仕方ないよねw >>789
>畿内説の恥さらしwww
鉄は輸入品
銅も輸入品
銅製品は潤沢に出土します
鉄製品が出土しないのは、失われたから、と考えるのが合理的 >>750
>九州が栄えてた頃の遺物はせいぜい1世紀まで、2世紀以後は衰退してると、考古学では結論されてるからねえ
ダメです。その考古学者が間違いで、アホです。
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、
唐代まで倭国の中心は北部九州であり、栄えていた、という事が確定です。 >>753
>2世紀になると福岡を飛ばして出雲あたりが大陸と交易してるけど
出雲は、6世紀の梁代まで文身國として存続していたから、大陸と交易していても構わないけれど、
九州倭国は、唐代まで、大陸と交易したり戦争したりしています。 >>763の訂正
>平原1号墓には、埋葬当時の舶載鏡が1枚もない
あるのはいくらでも作れる仿製鏡だ
21枚の「尚方作」の方格規玖鏡は、
最低、明帝から卑弥呼への下賜の舶載鏡が元になった鏡だ。
>この大量生産は出雲の荒神谷遺跡の銅剣と比較すべきもの
出雲は、梁代まで独立的だ。
>また、舶来の宝器なら、丹波の大風呂南墳丘墓や赤坂今井墳丘墓の
ガラス製品の方が充実しているし、鉄剣でもこちらの方が大量(最多)<
丹波は、九州倭国の東征の別動隊の征服地であり、だから鉄剣が多いのだ。 >>797
>考古学的には畿内説無いで
その根拠が書けないから、九州説は「説」ですらない
悔しかったら少しは具体的なことを書いてごらんww >>750
そんなバカなことを書いた論文があるなら紹介してくれ。 >>753
>>>748
>2世紀になると福岡を飛ばして出雲あたりが大陸と交易してるけど
だから退治されたろ。 >>767
>後世と言っても、万葉集の時点でヒナは辺境ww
数百年経っているよ。 >>796
>出雲は、梁代まで独立的だ。
出雲には二つのパートがあるんだよ
出雲大社のある出雲平野に西谷墳墓群があり、これが独立的と言われる出雲
一方、出雲国府や出雲国分寺は松江平野に置かれ、こちらはヤマト王権と融和的
この図でもはっきりしてるだろ?
https://i.imgur.com/pOB095u.jpg
松江平野まで畿内様式土器が入っていて、出雲大社周辺にはない
考古学って、結構細かいことまで分かるんだよ >>764
>日本のどこかで異常気象などが発生していたという話だぞ?・・・
3世紀〜4世紀は海面温度が下がり、寒冷化だけではなく干ばつにも見舞われたと考えられる。
『名古屋大学の中塚武教授は、
卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。
飢饉が続いたために、銅鐸を用いた過去の祭祀を捨て、新しい宗教をひっさげて卑弥呼が登場した。
それが卑弥呼の鬼道だと石野氏らは解釈する。』
中塚も石野も、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをする悪質な人間である事が
バレているから、
そんな学者の文献考古の史料事実の報告はいくらか信頼しても、
それに関する解釈などは、全く信用出来ないものだ。 >>802
>数百年経っているよ。
世界最古の庶民の歌が載ってる歌集なんだから、それより遡る方法なんてないんだぞw
遡れないものを、「当時は都とそれ以外しか区別しなかったのだろう」とか言っちゃう人間が
何を言ってるんだかww >>802
で、首都以外は鄙なんだー、首都防衛がヒナモリなんだーは諦めたのか?wwwww >>803
>畿内様式土器が入っていて
↑
これがまさに畿内教という宗教
常識人の思考だと土器しか作れない畿内民の営業ルート
となるなw >>801
>だから退治されたろ。
記紀を頼りにしてるけど、結局はチェリーピッキングなんだよなww
記紀は纏向には倭国を統治するスメラミコトがいたと書いてあるのにw
そして纏向の絶対年代が3世紀初頭から
記紀を根拠にするなら、3世紀の倭国の都は纏向にしかならないよw >>766
>>地理的配置を考えないと 福岡を飛ばして大陸と交流なんてできないよ
>そりゃ通るだろ? 魏志倭人伝にも奴国は書いてある
でも、そこが中枢ではないことが明らかでそこが
倭国を代表して朝貢していたと考えるべき理由はない<
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、倭国の中心は北部九州である、
という事が明らかであるから、
類スレ主は、×だ。 弥生になれなかった幻の都 ああ纏向
■纏向出土の木製仮面について
『これまで日本列島における木製仮面の最古の事例としては、7世紀初頭頃の神戸市宅原遺跡出土例が知られていたが、今回の事例はそれを大きく遡る時期に位置付けられるものである。
考古資料に見られる仮面としては、縄文時代では土製仮面が知られており、このほか鼻・口・耳などの土製品の存在から、木製・皮製などの仮面が存在したと推定されている。
また奈良時代以降では、大陸より伝わった舞楽で使用されたと考えられる仮面が複数知られている。
弥生時代においては、東日本を中心に存在する土偶形容器に仮面状の表現が見られ、土器絵画にも仮面を装着しているとみられる人物が描かれる例が存在する。
しかし弥生時代の仮面の実例はほとんど知られておらず、古墳時代においても確認されていなかった。』 >>807
>常識人の思考だと土器しか作れない畿内民の営業ルート
つまり、常識人の思考だと、
九州の倭王様は、土器しか作れない畿内民の土器を
祭祀用供献土器としてありがたがって
先祖伝来の九州様式の土器を捨ててしまうんですねww
もう、九州説のいうことが惨めすぎるww >>811
九州は金持ちだったからな
鉄を貰うためにせっせと土器を献納する畿内民w >>809
>唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、
大陸人の認識では、日本列島全体が新羅・半島の真南なんだよ
https://i.imgur.com/93OL7C5.jpg
九州はむしろ西にずれてる
倭王部の上表文に引きずられているのかもね
東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國を
まともに取ると、畿内の北に半島が来ることになるからww >>808
>記紀を根拠にするなら、3世紀の倭国の都は纏向にしかならないよw
記紀の年代は畿内説と同じで前倒ししすぎ。
天皇の在位年数が長すぎて非現実的。
史料批判は欠かせない。
現実的な年数に直すと、神武は卑弥呼と同じか少し前くらい。 >>812
>九州は金持ちだったからな
苦しいねぇww 言い逃れにもなってないぞ
祭政一致の時代に、北部九州は祭祀用供献土器で地元の伝統を捨ててる
2世紀半ば以降に、北部九州から周囲に波及していったものがない
つまり、北部九州は中心ではなく辺地であり夷守を置かれるところだったんだよ
きちんと整合性が取れてるだろ? >>767
>後世と言っても、万葉集の時点でヒナは辺境ww
卑奴母離が「夷守」であるのか?、という事がまだ未確定である事。
また、夷守であったとしても、
古代においても、都などから遠い、いう感覚的な表現にしかならず、
地理的な距離など、根拠になるものではない。 >>814
>記紀の年代は畿内説と同じで前倒ししすぎ。
記紀の年代は一切あてにしていない
崇神、垂仁、景行の三代が纏向に宮処を置いたという地名を解釈しているだけ
そして、纏向遺跡の年代は記紀とは無関係に理科学的方法で推定されている
お前さんのいちゃもんには、何の具体性もないし、無意味だよ >>814
>記紀の年代は畿内説と同じで前倒ししすぎ。
結局、九州説の息の根が止まったのが、編年研究の進展だってのが
このいちゃもんの付け方だけでも分かるんだねww
>史料批判は欠かせない。
>現実的な年数に直すと、神武は卑弥呼と同じか少し前くらい。
その史料批判の内容を具体的に書いてごらんよ
どうやったら神武が卑弥呼と同じ頃になるのか、具体的になww
土蜘蛛がーとか言うなよwww >>764
世界的に、広範囲に気候変動が起きてて世界各地で飢饉連発の時代だよ、中国で飢饉が多発したから三国時代になったんだし。
気候的に言えば、日本列島から外に逃げる人よりも中国などから逃げてくる人の方が多かったのではないか >>770
元寇のとき、各地の神社仏閣に命じて元軍の退散を願って加持祈祷させてるけど、その頃の人たちよりも邪馬台国の頃の人の方が科学的思考を持ってたのかね? >>774
考古学と文献解釈が合わなくなったときに考古学が間違ってると決めつける態度が間違っている >>801
出雲や吉備に入れ替わって近畿の勢力が中心になったからな >>815
>祭政一致の時代に、北部九州は祭祀用供献土器で地元の伝統を捨ててる
器などどうでもよろしい。
>2世紀半ば以降に、北部九州から周囲に波及していったものがない
祭祀の中心となる神器としての銅鏡は九州北部から全国に波及し、三種の神器の組み合わせも継承されて今日に至る。
紀元前から3世紀くらいまでは三種の神器は九州北部だけの風習だったが、今では皇位の象徴だ。
多大な影響だよ。
それに引き換え畿内は銅鐸を捨ててまで九州北部の銅鏡文化を受け入れた。 >>785
>まあ、奈良盆地にも鉄は潤沢にあったんだがww
弥生期は、奈良は福岡の100分の1以下。
奈良の古墳期の鉄は、3世紀最末〜4世紀のホケノ以後であるから、
いずれにしても、卑弥呼の頃は「奈良盆地の鉄は潤沢ではない」。 キナイコシがデタラメで反論してる姿は
ぜひ魚拓として残しておこうぜw >>791
>>卑奴母離が夷守であるのか?、という事自体が未確定であるのに、
>複数の国で副官が卑奴母離とされており、固有名詞ではなく職名であると
普通の九州説を含め、みんなそう考えている
そして、日本語の職名で考えた時に卑奴母離にあたるものとして
「夷守」を当てるのも、普通の九州説を含めて常識
一生懸命ない頭をひねって、夷守の意味をでっち上げ続けている>>773にも
ケンカを売ってるぞww<
いや、魏の役人らの記録や陳寿は、「卑」という文字を、
「卑氏」という苗字としてや、その部族国名文字や身分文字として使っており、
「鄙とか田舎とかの文字」としては使っていない。 >>792
>今では、鉄の出土量で国力を考えるのは時代遅れだよ?
まあ、九州説の人は新しい情報をすべて拒絶する情弱だから仕方ないよねw
韓の弁辰伝に、
「國出鐵、韓、wai、倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡」
と書かれ、貨幣の価値があったらしい。 >>793
>鉄は輸入品 銅も輸入品
銅製品は潤沢に出土します
鉄製品が出土しないのは、失われたから、と考えるのが合理的<
鉄製品は、弥生期は、福岡県が奈良県の100倍以上出土。
弥生期には、福岡は奈良の100倍位鉄製品が多かった、と考えるのが合理的。 >>829
年代が漠然としてるので資料として意味がない あらゆる事実に反した思い込みがキナイコシの信念ですw >>831
どんな事実?
指摘は具体的でないと指摘にならない
えてして中傷になる 卑奴母離が本当に「夷守」にあたるのか
またその「夷守」が本当に「辺地の守り人」であったのか、いささか疑わしい。
さらに文字通り読めば、「夷守」は東夷伝に登場する東夷の劣等民を監視する役目だったかもしれないではないか。 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 卑は魏の当て字だから無理やり当てはめると日氏が正しい 論文のつまみぐいで畿内説に有利に見せてるだけ
どれだけだまされるバカがいるやら
畿内説は情弱 纏向詐欺で国民をだまし、不況で疲弊した国民から金をまきあげようという畿内説の魂胆が許せない それにしても、老婆談があるでしょ、ほとんどメーソン(イルミ)の話でしょ。
『三貴子』むかーしの芸能の話とか。
好きで、観に行っていてとか。演者のほうなのかな?兼指導者? 基本的知識
日本で最初の銅材料から製造は698年
それまでは全て大陸からの輸入品
弥生時代の畿内の銅鐸も材料は100%半島由来 でも、和銅元年という年号のもとになった日本産の銅は本当の国産じゃないんだよな >>808
>そして纏向の絶対年代が3世紀初頭から
第X様式を根拠にするんなら、それも筑紫が3世紀初頭位であって先行しており、
大和の第X様式は、東征軍が支配出来た3世紀後半から。
>記紀を根拠にするなら、3世紀の倭国の都は纏向にしかならないよw<
記紀は倭国の存在や歴史を抹殺盗用造作した半分偽書であるから根拠にならず、
「3世紀の倭国の都は纏向」も、「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠って×。 >>811
>つまり、常識人の思考だと、
九州の倭王様は、土器しか作れない畿内民の土器を
祭祀用供献土器としてありがたがって
先祖伝来の九州様式の土器を捨ててしまうんですねww
いや、「畿内」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから×であるし、
大和民は、九州倭国の東征軍が齎した庄内などの祭祀用供献土器を、
ありがたがって模倣学習して、
3世紀末の石塚の庄内1として使用した事になる。 土器編年と理化学編年の根本的な違いをまったく理解してない人がいるね >>813
>>唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、
>大陸人の認識では、日本列島全体が新羅・半島の真南なんだよ・・・
その地図は何時の誰の地図か?は知らんが、当然、
日本列島に来て実地に見聞計測して書かれた地図とは思えないから、×地図。
そして、唐政府は、白村江の大勝相手の「倭国」に郭務ソウらを送り込んで来ており、
当然、その「実地の見聞記録」の報告書などが提出されているから、
唐会要が、倭國の位置を(その地図のように)間違える筈がなく、
「正北抵新羅」の記載は、信頼性も確率も極めて高い。 >>815
>祭政一致の時代に、北部九州は祭祀用供献土器で地元の伝統を捨ててる
第X様式も庄内も筑紫が早く、大和へは3世紀後半の東征軍が伝えた。
布留は、米田は「加賀南部」が河内や4世紀の大和よりも早い、と言っているが、
その時期が不明であり、
筑紫の布留は3世紀半ば過ぎになり、布留も筑紫が一番早かった可能性が高い。
>2世紀半ば以降に、北部九州から周囲に波及していったものがない
第X様式も庄内も布留も、前方後円墳や前方後方墳も、明帝下賜の鏡や、
渡来の楽浪鏡師らの△などの鏡も、北部九州から衆意に波及して行った。 >>817
>そして、纏向遺跡の年代は記紀とは無関係に理科学的方法で推定されている
その「纏向遺跡の年代」が、第X様式や庄内や「矢板の大溝?」などで、
50年位以上古い年代に摩り替える詐欺が行われている。 >>818
結局、大和説の息の根が止まったのが、
「南≠東」や「正北抵新羅」などや、大和説学者のなど纏向編年への史料批判の進展だってのが
この「類スレ主」のいちゃもんの付け方だけでも分かるんだね >>821
>考古学と文献解釈が合わなくなったときに考古学が間違ってると決めつける態度が間違っている
根本的に、考古は、記銘や紀年などの文献的証言がない限り、
年次が不明な確率の低い参考資料にしかならず、
年次が分かった同時代の証言になる文献の持つ「確率の高さ」には劣る、
という事だな。 >>822
>出雲や吉備に入れ替わって近畿の勢力が中心になったからな
これも×ね。
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、
倭國の中心は(白村江の後まで)北部九州にあったのであり、
その倭國が「東征毛人五十五國」をした事に拠って、
瀬戸内近畿東海南関東に小国の附庸國群が一杯出来た、という事。
大和が中心になった訳ではなかった。 それにしても?
『安倍 製鉄』(『やらないか アベ』)
画像を調べてみるとわかるはず、どういう話なんだろう。 >>850
土器編年は相対年代であって実年代ではないから、君の発言は単なるクレーマー、批判でも批評でもなくて難癖 小椋佳・・・(その他の同じ)などの曲があるでしょ。
『星を祀っている 百済』
正確には中国の話だと言っている人達がいたり、
渡来人から、習った?教わったのかな? 他のスレにも書いたんだけど、頭が悪いんだろう。
たしか、軍人?警官でもないし。・・・でもないと言っているし。 『河伯』
(日本では河童?)・・・・、むかーしの家。
『ドンバ』? なぜか合致しているでしょ、
家の写真と・・・『』『』などw 養蚕、機織りなどをしてたという話も同じ。
龍宮〜、・・・乙姫とか? 年(歳)を取って・・・()・・・そういう話もしていたし。
ほとんど老婆談なんだけど、なぜ詳しいんだろう。 その確定できない絶対年代をさも確定的に語り、ヤマト王権の萌芽を邪馬台国にすり替えているのが畿内説 巻向編年も説であり、学会共通の見解でも無いし
作為的な臭いがプンプン 九州説だけどさ、纒向があまりにも叩かれて可哀想だからプラスの評価をしてあげよう。
纒向の建物は神社の建築様式そのものであり、あれはやはり指導者層がいことを示す宮だよ。
本殿と拝殿が一列に並び、玉垣で囲ってある。
一部の建物だけ棟持柱があるのが貴人が住む本殿の最大の特徴だ。
だけれども、貴人は一人だけだった。
家臣に訓示を述べる大型建物の拝殿はあっても、他の貴人達を迎える構造にはなっていない。
伊勢遺跡は同じような宮がいくつも環状に配置されており、首長層の会議に使える規模だった。
もちろん帯方郡からの使いを饗応した痕跡(建物も土器も)もない。
尾張から派遣された(程々に)エライ人、物部氏の一人が駐在していたんだよ。
まあ、それが後に崇神天皇と呼ばれる人物でも構わないけどね。
どうせ当時の大和の天皇家は地方政権だから。
せっかくの大和王権の発症を示す遺跡に邪馬台国を無理やり絡めてミソをつけたのは誰の責任だ? >>868
叩かれてないよ
妄想家の九州説老人が呟いてるだけ ・・・『ドンバ』
魚のようなキャラはドンバの妹なのかな?
小椋佳の曲と同じだしな。 『何者にもなれない お前たち』
兄、弟・・・、あと妹? なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだろうか。 調べみるとわかるチンピラ?
メディア関係なども、・・・成り済まし、寄生など。 >>868
おらは、掘立柱建物は、斎場だと思うよ、
纏向は、古墳造園基地及び墓地 >>876
理由もなくそう思うの?
九州説の人って不思議だね 『小椋佳 星たちの輝き よみがえり』
どう考えても・・・・・・・・・・・の話。 もれの個人的な話、
なぜ出生名:劉を応援しているのか?みたいな事になってくる。
あと某、某を応援している。
『渚・モデラート』(出生名:劉) >>877
理由もなく「理由もなくそう思うの?」 と思うの? >>880
理由は示されてるだろ
書いてないからだ その小椋佳の曲があるでしょ、
ドラクエの・・・曲じゃないの? ほんとーに、好きな曲があるんだけど、あのドラクエの。
ストーカーがいるのかな? 家の写真と・・・、『』『』『』『』・・・、など同じような? >>884
ほら
自分の考えをまったく説明できない貧困な脳
それって、九州説入信の必須条件なの? 兄、弟・・・妹。
本当の〜〜?〜〜の家の話だろう。
『天財若子』こういう名前の家。 いつまでも 無駄に呟く 九州説
今日も続ける 恥の上塗り >>886
これが現実
纏向ドカタ食堂
https://i.imgur.com/7YvYrSa.png
この付近に
飯炊き土器有り
残飯有り
居住跡無し
祭祀土器無し
城柵無し まさか・・・・・・・・・・・・・と思うでしょ。
老婆が言うには浅野セメント?の話をしているし。
神奈川県の川崎区というところ。 『川崎区 観音寺』
母親が言うには、(ほんとーは何やら〜、不明。)ここの話をしていたり。
河伯 河童関係? >>889
追加な
付近に
土木用具多し
大型古墳有り >>892
調査してない人が印象だけで言っても信用されない でも創価が何やらとか・・・、何なんだろう。
すとーかー?老婆が創価に入ったからなのかな。 >>886
ほら
自分の考えをまったく説明できない貧困な脳
それって、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説入信の、
必須条件なの? >>888
いつまでも 無駄に呟く 大和説
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料実態の否定曲解の嘘つき騙しの大和説を、
今日も続ける 恥の上塗り ・・・本当に、おかしな話ばかり。
『霊山の大将』
そういう軍人(?)?ではないと言っていたし。 >>896
そのオウム返しが恥の上塗りだと
嘲笑のマトだって知ってる? 『沙悟浄』
wikiでも良いから読んでみて、ほとんど・・・、合致している? かわいるか、ありげーたー、
(わに、さめ?)・・・そういう話も載っているし。
wiki『沙悟浄』河伯、河童。 数年前の、このスレの話w
さいきば、さいきば・・・と言っている人がいたり。
さかきばら事件の?ことでしょ。 何かの家だったのかな?
老婆が言うには・・・、(結婚する前などの話)、何かの家の人だと言われたとかw >>823
>器などどうでもよろしい。
祭祀用供献土器だと何度書けばww
当時は祭祀こそが首長の行うべき最重要のこと
そこで使う土器がどうでもいいとか言わないと、反論すらできない九州説の惨めさw 『小椋佳 きしべ ささやく』
悪く言うと、すとーかー?何なんだろう。
『きしべ 河童』 >>823
>祭祀の中心となる神器としての銅鏡は九州北部から全国に波及し、三種の神器の組み合わせも継承されて今日に至る。
その祭祀様式さえ、前方後円墳という畿内発祥の様式を九州ではそのまま受け入れている
三種の神器が神聖視されるようになったのはもっとずっと後代
三種の神器セットこそ、当時の首長層の副葬品の流行だよ >>893
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料実態を否定した嘘つき騙しの大和説学者が、
調査した結果を印象だけで言っても信用されない >>896
九州説は嘘つきだね
畿内説の者は皆たいてい
特定の相手に話しかけたり、相手を特定して回答を求めたりしているよ
呟いているというのは真っ赤な嘘 >>824
>弥生期は、奈良は福岡の100分の1以下。
この弥生期というのが「弥生時代全期間」という詐欺ww
弥生終末期にはすでに畿内の方が鉄器の出土量も多くなってるよw >>828
又以供給二郡と書いてあるだろ?
ただの鉄の産地からの鉄の供給が書いてあるだけ 『小椋佳 きしべ ささやく』〜『ヱヴァンゲリヲン』 >>903
>調査結果で反論しろ
調査結果じゃないものに?
なぜ?
「それ、調査結果じゃない。あなたの主観。なぜなら出典がない」
とだけ指摘すれば十分でしょ >>829
銅の出土量に差がないことはどう説明するんだ?
銅も全量輸入品で、九州説の言い分だと全部北部九州を通るはずだよな?
九州のみが倭国で、畿内は倭種の別国で交流がなかったから鉄が少なかったというのが
九州説のバカ主張だが、それだと畿内の銅はどこから来たことになるんだ?ww
九州説はバカしか信じないってのは、こういう単純な整合性が取れるかどうかだけでも
すぐに分かってしまうんだなw >>835
>卑奴母離が本当に「夷守」にあたるのか
>またその「夷守」が本当に「辺地の守り人」であったのか、いささか疑わしい。
>さらに文字通り読めば、「夷守」は東夷伝に登場する東夷の劣等民を監視する役目だったかもしれないではないか。
つまり、九州説が邪馬台国七万戸の中に二重帳簿詐欺で入れないと困ってしまう
戸数二万戸の大国で伊都国から7キロの奴国も「東夷の劣等民」なんだな?wwww
魏志倭人伝の書き方からして、副官卑奴母離を置いたのは倭王だぞ?w
首都の邪馬台国七万戸の中、倭王のお膝元に「東夷の劣等民」がいたというのが
九州説の主張www
腹イテェww >>839
>論文のつまみぐいで畿内説に有利に見せてるだけ
どの論文のどこをつまみ食いしているのか、具体的に書けない九州説の惨めさww
こっちは弥生時代「全期間」というのが、でたらめだって常に具体的に指摘してるのにw >>846
>土器編年と理化学編年の根本的な違いをまったく理解してない人がいるね
それ、九州説全員ww >>907
>「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料実態を否定した嘘つき騙しの大和説学者が、
否定すると何で「嘘」なのか
理由を何も言わない以上
それはただの中傷だね >>906
>その祭祀様式さえ、前方後円墳という畿内発祥の様式
その開き直りも、もはや通用しない時代になったしまったね。 わははははは @阿波 >>917
ツーか、土器編年さえ理解してない九州説 >>866
>その確定できない絶対年代をさも確定的に語り、ヤマト王権の萌芽を邪馬台国にすり替えているのが畿内説
この言い方が既にチェリーピッキングを利用した詐欺なんだなww
「絶対年代は確定できない」これは本当
かなりの幅を持った推定になる
そして、その推定の下限をもってすれば、それ以前であることは確定的に言える
幅を持った推定値からでも、十分に読み取れることはあるし、その十分な確度をもって
畿内説は組み立てられている
「当時はヒナには首都以外という意味があったかもしれない」とかいう、ご都合主義の
インチキ解釈とは違うんだよw >>867
すでに学会共通の見解だよ?ww
残念でしたw >>884
>現実を見れば誰しもがそう思う
その「現実」とやらを具体的に示せないのが九州説の惨状ww
そういうフワッとした書き込みだけで反論した気持ちになるのがせいぜいという体たらくw 新型コロナの影響により更に延期いたします
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
■纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1% >>889
>飯炊き土器有り
神人共食の観念があるから、飯炊き甕があるのは当然
>残飯有り
残飯だと判断すべき理由がない
桃核に関しては、果肉の付いたままのものもあり、残飯ではないことが確認されている
>居住跡無し
掘立柱建物に住むのは貴人だな
居住跡はあるよ
竪穴式住居が少ないのは特別な都市だったということ
>祭祀土器無し
残念ながら、破壊供献(穿孔土器)が多数出ているから
祭祀用供献土器なのは確認されている
>城柵無し
何度も示しているだろ?
https://i.imgur.com/DoW0DbB.jpg
明確な城柵跡
このように、九州説は現実から遊離した妄想の中でのみ生きていられる >>922
畿内そうだっか学会の見解は教会内だけにしておけ あのキャラなども、ほんとーは、小椋佳なんだろう(小椋佳の曲?)。 >>925
ちょーバイアスによるこじつけwww
信者さん?w >>846
<石野さんの説明>
布留1式のはじまりを、安本先生の言われるように
350年とすると、布留式の行われた期間が50年に満た
ない短い期間になってしまう。これはおかしいと思う
ので、布留式は290年頃から始まったと考える。
そして、布留式が始まる前の庄内式の時代のホケノ
山古墳の年代は250年ごろと考えている。
<理由は畿内的都合です>
「布留式の行われた期間が50年に満たない短い期間に
なってしまう。これはおかしいと思うので」
おかしいと思う理由は不明www この話も同じ『日本昔話 背振山の石楠花』
・・・・・・・本当は『ヱヴァンゲリヲン』
違いますと否定しても無駄。 >>926,928
ヤジ飛ばして反論した気になってるんなら
それは間違いだぞ >>929
>おかしいと思う理由は不明www
何で不明なの?
知ってて当然の常識なのに 「・・なってしまう。これはおかしいと思うので」
自己都合に適合しないのでおかしいと思う、ただそれだけのわがまま。 やはり、邪馬台国畿内説が、完全に論破されているな。 >>935
社会奉仕を完全に放棄している奥山氏が、365日24時間体制で、宣伝してきた朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説も、完全に論破されたのだったね。 日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2019年に、「邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く無い。」と判定され、
更には、日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2020年に、「近畿地方に古墳が造られるようになった時代は、4世紀後半だ。」と判定されたのだったね。 バンビシャスが闘っているリーグは、いつ再開されるのだろうか。。。 >>937
確かに。。。
「日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2019年に、「邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く無い。」と判定され、
更には、日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2020年に、「近畿地方に古墳が造られるようになった時代は、4世紀後半だ。」と判定されたのだった。」
という公の真実を突きつけられた、5ちゃんねるを活発化するために、日本人に悪口を言いながら、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた、朝鮮民族の卑劣で頭の悪い奥山氏が、今日も完全に論破されていますね。 社会奉仕を完全に放棄している奥山氏が、365日24時間体制で宣伝してきたが、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説は完全に論破され、宣伝活動もレベルが低いまま不活発になってしまったのだったね。 徳勝龍誠氏の試合時間に合わせて、勤務シフトを交代の依頼をしてまで、徳勝龍誠氏を熱狂的に応援している同僚が、今日からは試合を観るのを辞めたのだったな。 今回の相撲大会では、徳勝龍誠氏は、苦闘を闘っているのだったな。 >>944
前回の相撲大会では、徳勝龍誠氏は、優勝したのだったな。 >>944
前回の相撲大会では、徳勝龍誠氏には、奈良の相撲の神が、乗り移っていた可能性が高いのだったね。 前回の相撲大会で徳勝龍誠氏に、乗り移っていた奈良の相撲の神は、当麻蹴速氏ではないのかな。 バンビシャスが闘っているリーグは、再開されるのだろうか。。。 社会奉仕を完全に放棄している奥山氏が、365日24時間体制で宣伝してきたが、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説は完全に論破され、宣伝活動もレベルが低いまま不活発になってしまったのだったね。 >>928
>ちょーバイアスによるこじつけwww
どこがバイアスなのか、「具体的に指摘」してくれるかな?
九州説は「具体的に」という要求から必ず逃げるww 今回の討論会でも、邪馬台国畿内説は、苦闘を闘っているのだったな。 日本政府が正式に設置した、様々な優れた学部の優れた若者達が大量に雇用されてきた組織によって、2019年に、「邪馬台国畿内説には、「具体的な」証拠が全く無い。」と判定されたのだったね。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1583896295/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>937
何度も同じ文言を書きまくってるが、具体的な組織名も書けないのか?
よほどのデムパ組織なのか? >>929
>おかしいと思う理由は不明www
この大型祭祀土坑からの出土土器が庄内3式
同じ土坑から出た桃核の年代がこれ
https://i.imgur.com/qOswdpR.jpg
もっと古くてもいいくらいだよw 邪馬台国畿内説には、「具体的な」証拠が全く無いので、今回の討論会でも、邪馬台国畿内説は、「具体的に」という要求から必ず逃げるのではないのかな。 >>955
>具体的な組織名も書けないのか?
それ、NHKのことなんだよww
確かに電波を出してるところだなww 奧山氏が所属する団体は、朝鮮半島にあるデムパ組織なのだったな。 >>957
>邪馬台国畿内説は、「具体的に」という要求から必ず逃げるのではないのかな。
「具体的に」から逃げているのは常に九州説w
ミラーリングとオウム返しも九州説の常態だよな
惨めだと思わないのかね?w >>922日本@名無史さん2020/03/11(水) 11:32:44.60>>926
>すでに学会共通の見解だよ?ww
>残念でしたw
ま、学会といっても、纒向教学会のことだな、、、。 >>961
そんな学会、存在しないんだが?
それとも九州説の心の中にだけある学会なのかな?ww
「その学会はいつまでも君たちの心の中にあるんだ」ww .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. コピペ連打するのは、自分の言葉で言いたいことが書けない
または、言いたいことがそもそもないやつのやることだって
はっきり分かんだねww 畿内説の最後の頼みの綱である纏向調査の実績
・カジリ痕の無い桃の種
・カジリ痕の有る蛙の骨
なお4棟から構成されているドカタ食堂のメニューについてはまだ調査中である >>966
で、「具体的な指摘」の要求からは逃げ続けるんだww
九州説は「説」ですらない 魏志倭人伝は
魏の特使が倭国を訪れたころから後の話
「竹箭或鐵鏃或骨鏃」
弥生時代後期の後漢書倭伝では
「木弓矢或以骨為鏃」 >>906
>その祭祀様式さえ、前方後円墳という畿内発祥の様式を九州ではそのまま受け入れている
逆だな。
その祭祀様式さえ、前方後円墳という筑紫発祥の様式を大和ではそのまま受け入れて、
進化発展させようとした。 >>908
「南→東」などの史料事実の否定曲解の大和説は嘘つきだね
九州説の者は皆たいてい
自己の考えを全面的に説明したり、
特定の相手に話しかけたり、相手を特定して回答を求めたりしているよ
呟いているというのは真っ赤な嘘 >>970
また嘘をつく九州説は
まったく証拠を出さないのだった >>909
>>弥生期は、奈良は福岡の100分の1以下。
>この弥生期というのが「弥生時代全期間」という詐欺ww
弥生終末期にはすでに畿内の方が鉄器の出土量も多くなってるよw
この「弥生終末期」というのが、大和説者の詐欺。
大和の古墳時代の初期の3世紀最末〜4世紀のホケノを、
「弥生終末期」に含めるインチキをしている。 >>913
>銅の出土量に差がないことはどう説明するんだ?
弥生期には明らかに、九州は明らかに銅剣銅矛銅鐸があり、
大和は出雲系の銅鐸が少しだけであり、差がある
>銅も全量輸入品で、九州説の言い分だと全部北部九州を通るはずだよな?<
いや、銅鐸は、出雲経由があり得る。
>九州のみが倭国で、畿内は倭種の別国で交流がなかったから鉄が少なかったというのが
九州説のバカ主張だが、それだと畿内の銅はどこから来たことになるんだ?ww<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和の銅は、出雲系銅鐸の残余や、
九州倭国の東征軍が銅剣や銅矛や銅鏃などで持ち込んだものだ。 >>915
>魏志倭人伝の書き方からして、副官卑奴母離を置いたのは倭王だぞ?w<
これは全く×だ。
各国の役職名は、それぞれの国が自分で決めたものだ。 >>918
>>「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料実態を否定した嘘つき騙しの大和説学者が、
>否定すると何で「嘘」なのか
「正しい確率」が非常に高く、信頼性も高い史料事実や史料実態の否定は、
「嘘つき騙し」だ。 >>920
ツーか、土器編年のそれぞれの絶対年代推定を誤魔化している大和説 >>921
>「絶対年代は確定できない」これは本当
かなりの幅を持った推定になる
そして、その推定の下限をもってすれば、それ以前であることは確定的に言える<
大和説学者らの、その「推定の下限」の設定が、インチキになっている。 >>922
>すでに学会共通の見解だよ?ww
残念でしたw
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをして、
「正北抵新羅」などの都合の悪い文言を隠蔽している「学会」は、
その精神構造はまともではなく、悪質な詐欺師集団であり、
そんな学会の「共通の見解」など、何の価値もなく、
論拠にならないよ。 >>958
なるほどな
放送局はどこでもそうだが、番組によって違う見解を出すのが当たり前だからなあ
九州説で作る番組もあるしヤマト説で作る番組もある
ひょっとしたら阿波説で作る番組もあるだろう
故・古田氏のような人気のある人を番組の柱にすることはおおいに考えられる
いずれの場合でも、放送局の総意として作られる番組はない >>979
「「正北抵新羅」だから九州だー
とか思ってる奴が誰もいないだけだよ >>925
>神人共食の観念があるから、飯炊き甕があるのは当然<
卑弥呼は、「以婢千人自侍」であって、神人共食の観念はない、
>掘立柱建物に住むのは貴人だな 居住跡はあるよ<
台所もトイレも寝室も押し入れも「千人の婢が侍る場所」もない
>残念ながら、破壊供献(穿孔土器)が多数出ているから
祭祀用供献土器なのは確認されている
卑弥呼の鬼道の土器であったのか?は全く不明
>>城柵無し
>何度も示しているだろ? https://i.imgur.com/DoW0DbB.jpg明確な城柵跡
掘立建物群とは全く場所が違う遠い所であり、城柵にならない >>956
>この大型祭祀土坑からの出土土器が庄内3式
同じ土坑から出た桃核の年代がこれ・・・もっと古くてもいいくらいだよw <
AMS法は、プラズマ化の失敗により、50〜100年位古い年代が出るので、×検査。 >>960
「南」や「正北抵新羅」などのように、
「具体的な史料事実によって」から逃げているのは常に大和説
ミラーリングと「オウム返しされ」の非論理も大和説の常態だよな
惨めだと思わないのかね? >>967
で、「確率の高い具体的な史料事実の提示」の要求からは逃げ続けるんだ
大和説は「説」ですらない >>977
>ツーか、土器編年のそれぞれの絶対年代推定を誤魔化している大和説
何をもってごまかしだと判断しているのか「具体的な根拠」の提示がなければ
無意味なんだってww
こっちは完全に元データまで公開しているのに、具体的な反論が一切できないのが九州説w
https://i.imgur.com/JUQqOt0.jpg
ごまかしてることにしないと九州説が死ぬから必死になってデマを言い続けているのが
九州説の人 >>975
>「正しい確率」が非常に高く、信頼性も高い史料事実や史料実態の否定は、
>「嘘つき騙し」だ。
俺の説に合わないと嘘だ騙しだ
というのは傲慢なだけ >>980
>放送局はどこでもそうだが、番組によって違う見解を出すのが当たり前だからなあ
いや、NHK教育だから無難なことしか言ってないんだけれど、それを例によって
連続句読点がチェリーピッキングしてるんだよw
具体的には
「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が
見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。」
まあ、親魏倭王の金印や魏皇帝詔書の封泥は出ていないし、九州では町おこしに
使っているから確定的なことは言わない方がいいという忖度が入っている
これが、連続句読点に言わせると
「日本国が設置した公的機関から、具体的な証拠が無いと判定された、頭の悪い邪馬台国畿内説が、
焦って、日本人に対して悪口を言い放っているな。」
になるんだよww
頭悪すぎ、悪意ありすぎww >>987
>こっちは完全に元データまで公開しているのに、具体的な反論が一切できないのが九州説w
https://i.imgur.com/JUQqOt0.jpg
何度も説明してある。
AMS法は、プラズマ化の失敗に拠って、
50〜100年位古い年代が出る、失敗計測である。 >>990
>「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が
>見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。」
それは、トンデモ説だからいまだに結論が出ないのです。
具体的な証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 わははははは @阿波 >>974
>>915
>魏志倭人伝の書き方からして、副官卑奴母離を置いたのは倭王だぞ?w<
>これは全く×だ。
>各国の役職名は、それぞれの国が自分で決めたものだ
>>915 の通り、
副官卑奴母離の名称が共通しているから、倭王が決めたとみるべき。
つまり、伊都国の7q隣の奴国や不彌国は夷族の国だったか、もしくは夷族の劣等民がわんさかいたということだ。 >>994
>>各国の役職名は、それぞれの国が自分で決めたものだ
>副官卑奴母離の名称が共通しているから、倭王が決めたとみるべき。
つまり、伊都国の7q隣の奴国や不彌国は夷族の国だったか、もしくは夷族の劣等民がわんさかいたということだ。
倭王が決めたんなら、8か国の官や副の呼称は、全部統一されている筈であり、
そうでは全くないから、それぞれの国が自分で決めたものだ。
当たり前の事だ。
要するに類スレ主は、・・・・。 >>994
>つまり、伊都国の7q隣の奴国や不彌国は夷族の国だったか、もしくは夷族の劣等民がわんさかいたということだ。
また手のひらクルックルで夷族とか言い出しだぞww
倭の島々にはみんな倭種がいるって書いてあるのに、どこから夷族が出てくるんだ?ww
九州説が論理なしって言われるのはこういうところだぞ!っとww >>996
>そうでは全くないから、それぞれの国が自分で決めたものだ。
卑奴母離がいるのは国境周辺、つまり辺地なんだよ
それ以外のところに卑奴母離はいない
伊都国に卑奴母離がいないのは、その上位互換の一大率が置かれているから
簡単に合理的に説明できるww
首都だからじゃないぞww
首都の隣は鄙ではないww >>996
>倭王が決めたんなら、8か国の官や副の呼称は、全部統一されている筈であり
共通名称の官は倭王が決めて各国へ派遣したが、各国独自名称の官は各国の従前の官名を引き継ぐものであり、各国で決めた。当然の事だ。 このスレッドは1000を超えました。
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