邪馬台国畿内説 Part582
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1585580093/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし キ、キナイコシさん!
なんで暴れてるんすか・
なんで暴れてるんですか、
お、落ち着いてください!
ほら、これが桃の種
桃の種ですよ
柵の下から?え?
キ、キナイコシさん!
なんで暴れてるんすか・
なんで暴れてるんですか、
お、落ち着いてください! それにしてもw老婆談。
肉なども食べなかったと言っていたり、
謎の写真の話、葱の華などの写っている人物、何かの家なのかな。 『葱の華』
漫画やアニメに出てくるキャラでもなさそうだしな。 ガンダム、エヴァンゲリオンの作者などがいるでしょ、
おそらく「❓」このような状態。 >>76
論パって知ってます?
日本語はまだ苦手なんですね 最初、最後などは、そういう話は、どうでも良いとして。
『空襲 横山工業』
ねずみーらんどと同じような話? >東京だと思ったのは川崎だった。
当時のパイロットの談。 倭人伝に桃は出てこない
祭祀は桃の旬の夏だけ行われてた?
桃の数なら吉備が圧倒的に多い、奈良より大きな勢力? 確実に老婆談と同じだしな、
この家に嫁に来てからも、日本鋼管で仕事をしていたとか。
何かの家なのかな、老婆と言っているけど、
葱の華(鳳輿?)?の家の嫁。 東京五輪と言っているけど、
ほんとーは川崎五輪とか? 家の老婆、旧姓わたなべ。
ほんとーに、おかしな話ばかり、いまの福島県のほうの話をしているし、
『福島 民家園』広瀬川という川があって・・・。 当時の給料も?とか、某氏談と同じような話をしていたり。
数円(不明)だったのかな? ほんとーに、小椋佳(不明)の陰謀なのかもしれない。
神田祭・・・、・・・、とか。
『ドンバ』
でも、なぜか家の写真? 『福島 民家園』
稲(田)のようなものも保存されているし、
あの家?の画像を見てみて。 【福岡】邪馬台国九州説に新たな視点 「近畿は絶対的な王権で後のヤマト、隣接したクニとも調和を保った北部九州こそ邪馬台国」 ★2
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1585926268/ 何やら祭りなどの話。
詳細は不明・・・とか関係ない。
そこに家が保存されていたり、
あと老婆談、・・・『ドンバ』の画像とか。 >>79
>論パって知ってます?
君が昨夜されたことだろ? >>82
あの建物は斎場
中元に、祖先の霊を祀る一連の行事をした
桃はその時の供え物 わかりやすく言うと。
天皇=小椋佳でも良いという話、
ホンモノは、そういう事も知っている。 巻向編年とか巻向型前方後円墳なんて
功を取りたいための造語としか映らん 前スレ997日本@名無史さん2020/04/03(金) 23:56:42.43
>根拠根拠で日が暮れて、
>
>理由理由で人生が暮れる畿内説。
学問って普通そうだよな >>103
夏だけでいいの????
卑弥呼は夏だけ???? まぁ 魚の骨とかアワビの貝殻ぐらい見つからんとな・・・
魚の骨は溶けやすいなんて言い出すのかねーーー
縄文時代の魚の骨 貝塚から大量に見つかっているがねーー
あの建物は斎場だよ、巻向は古墳造営基地だよ ほんとーに説明不要。
例えば『小椋佳』生前葬と書いてあるでしょ。
『葱の華』()画像を調べてみた?
実際は・・・真面目にやっているのか?何なのか、わからないみたいな話。 wiki『天皇 (曖昧さ回避)』
・・・・・日本の話ではない。 河伯(日本では河童)・・・天帝関係。
ホンモノ、本格派みたいな意味。 >>108
古墳造営の資材運搬用の水路がある
巻向の周りは古墳だらけ
地方から来た人足の土器もある
住居跡が少ない
土器は煮炊きの物が殆どである
あの建物を斎場とみなしてもなんら不思議でも無い
御供え物の桃
まだ、まだあるがこのくらいにしとくよ 老婆談・・・・・・・・・・・・・・・・・・・wikiと同じ話。 >>112
>あの建物を斎場とみなしてもなんら不思議でも無い
いや、不思議だろう
水路が古墳造営の資材運搬用という説は否定されてるし
土器は祭祀用の精製品が多いし、人足の土器とか言ってる学者いないし
住居跡が少ないと言う発表もないし、古墳など作られてない頃から祭祀土壙がある
だいいち古墳時代に斎場なんてモノが存在したという説もない >>114
水路は灌漑および資材運搬用って巻向学研究センターのHPにも出てる
器は祭祀用の精製品が多いなんて
どこで調べたのかねーー
住居跡が少ないのは事実だろ 何棟見つかってるか言ってみな
古墳時代に斎場が無かったという説があるのかねーー >>108
>物理学者で、ノーベル物理学賞受賞者のリチャード・ファインマンは、
>チャレンジャー号事故の調査委員会のメンバーだった。
>ある公聴会でファインマンは、NASAのマネジャーたちをこうたしなめた。
「何もデータがない時には、論理的に考えなければならない」
つまり、理由・根拠を示すデータが既に手元にあるならば、何も論争する必要などないのだ・・、 ほんとーに、あの謎の話。
当時、何かを祀っていたんだけど、それを老婆が捨ててきたと言っていたり、
原因不明の熱が出て、? >>115
>水路は灌漑および資材運搬用って巻向学研究センターのHPにも出てる
古墳造営の資材運搬用という説はないね 纒向遺跡第191次調査
搬入土器は東海地方のものが一番多く、この他にも北陸や吉備といった地域の土器が出土しています。
東海地方で作られた甕(かめ)には煤(すす)が付着していることから、人々が煮炊きに使用していたと考えられます。 >>118
なんお資材を運搬してたのかねーー
掘立柱建物の資材だけかなWW たしか創価関係の話。
創価の何か(?)を貰ってきて、
いままで祀っていたものがジャマだから捨てたという話。 >>115
>住居跡が少ないのは事実だろ
そんな発表はないな >>101
>>根拠根拠で日が暮れて、
>>理由理由で人生が暮れる畿内説。
>学問って普通そうだよな
最近オレは考え方を変えた。
学術論文や国会図書館や検定教科書で根拠理由を探しても、日は暮れるし、人生もくれる。
そんな愚行はやめだ。
末盧国唐津から東南へ500里、距離計付き自転車で走ればよい。37.5q走ったところが伊都国だ。
そして更に東へ100里、かれこれ10q走ったあたりが不彌国だ。
理由無し、根拠無し、しかし半日で答えが出る。グーグルマップ/グーグルストリートなら 5分+1分で答えが出る。 >>123
>それで 何棟なの
一割も調査されてない遺跡で数えても意味がない だいじょーぶだーの?のような家があるんだけど、
そこにも聞きに行ったとか。
何が原因で謎の高熱が続くのか。
太鼓を叩くような音が聞こえてくる家があるんだけど、
そこw ぼーん、ぼーん、ぼーん(太鼓のような音。どーん?だったかな)教。
が言うには、原因は「いなり」?そういう話。
何度も書いたから・・・説明不要。
また「いなり」?を貰ってきた、そうしたら治ったとか。 >>124
>学問をやめたんだね
いつまで学問する気か、つまり問い続けるというのか。
それでは、日が暮れても人生が暮れても答えは出ない。
理由だー、根拠だー、の学問は愚行なのだ。 >>116
>物理学者で、ノーベル物理学賞受賞者で、
>チャレンジャー号事故の調査委員会のメンバーだったリチャード・ファインマン教授いわく、。
「何もデータがない時には、論理的に考えなければならない」 考古学だって? そんな愚問・愚行はやめだ。
末盧国唐津から東南へ500里、距離計付き自転車で走ればよい。37.5q走ったところが伊都国だ。
そして更に東へ100里、かれこれ10q走ったあたりが不彌国だ。
理由無し、根拠無し、しかし半日で答えが出る。グーグルマップ/グーグルストリートなら 5分+1分で答えが出る。 ストーカーがいるのかな?ほとんど家?老婆談。
川崎区の南部のほうの話とか。
『サイバーパンクSPECIAL』 纏向は都市じゃないだろう
100年間継続してるけど定住した痕跡が皆無
炊事の土器だけは大量に見つかる
祭祀場と古墳を作るための基地だろう
小さな掘立柱の建物はボツボツあるからこれを移動して仮宿舎にしてたと思う
卑弥呼や台与の時代が終わる頃に衰退する辺り祭祀王の時代が過ぎたと言う事だろう >>129
>理由だー、根拠だー、の学問は愚行なのだ。
いや
理由がない、根拠がない九州説って
ゴミだから
マジで 弥生時代の鉄器は九州もそうだが稚拙な技術しかないから斧やヤリガンナ鎌くらいしかない
じつは鎌さえも後期後半にようやく使われだしている
砥石が鉄器の根拠とされるのも要は鍛冶じゃなくて研ぐくらいの加工しかしてないから
武器も貧弱な鉄剣程度なので軍事的にも大した意味があるものではなかった
単に石器の代替品としての役割があるだけ
畿内は弥生時代は基本的に石と木の時代ではあるが、纏向を見て分かる通り特に何も問題となってない
弥生時代の鉄は先進性も生産力も軍事力も表してない それにしても、何の話なんだろう。
空襲とか、(決行)行われたときのことは知らないと言っていたり。
そこ(家など)には、いなかったから。
小椋佳による自作自演? 俺は畿内どころか大和にあると思ってるが纏向は都市じゃないし、三角縁はほぼ国産だと思ってる
箸墓は卑弥呼の墓じゃなくてその後の崇神天皇辺りの墓と考えてる
これを都だ下賜鏡だ卑弥呼の墓だというのは不自然
逆にそのおかしな点が無駄に突っ込まれてる >>134
あんたのは希望的観測
希望する結果が得られるという可能性を信じて推測
物事の成り行きを都合良く推し量っている。
事を成就させようとねがい望むさまであり
将来に良いことを期待する気持ちでしかない.。 纏向に先行する伊勢遺跡も聖俗を分離して作っている
纏向も祭祀と古墳の為の聖の属性を担っている場所なんだろうと思う 『ドンバ』(不明)
キュウリの葉、葱の華・・・あの写真、
むかーしの写真だと言っているし、戦争などもしていない頃。
メタル(鉄鋼?)が何やらと言っていたり。 だろうと思うじゃなくて
柵があるんだから祭祀の根拠が無くなったのだが 桃の種
蛙の骨
かじった跡
柵の下
キナイコシの試練は続くw ほんと〜に、おかしな話ばかり。
『空襲 横山工業』
空襲関係の話が出てくるでしょ、読んでみた? >>119
>搬入土器は東海地方のものが一番多く、この他にも北陸や吉備といった地域の土器が出土しています。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする
摂津・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。 @阿波 >東海地方で作られた甕(かめ)には煤(すす)が付着していることから、人々が煮炊きに使用していたと考えられます。
住居が無いから人々がいた痕跡から探さないといけない喜劇w 『ラー ムーの王女』
確実に同じ家の話、うらしま・・・? 柵があるから祭祀の遺跡じゃないとか意味不明だな
伊勢遺跡とか柵に囲まれてるが 桃の種は柵の下にあるのだから
建物群が存在した期間の祭祀遺構ではないわけだ
で、他に祭祀の根拠はあるのかね?
桃の種ですら祭祀の根拠とは限らないわけだが >>138
陳寿は方角と里数と戸数に依っており、考古学や土器で女王国を記述説明してはいない。
日本全国からあまた出土する土器や、掃いて捨てるほどある/いる考古学だの考古学者だのは決め手にはならんし、役にも立たぬ。
そこのところを勘違いして、畿内説はトチ狂ってるわけだ。 >>119
>搬入土器は東海地方のものが一番多く、この他にも北陸や吉備といった地域の土器が出土しています。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする
摂津・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。 @阿波 纏向遺跡は庄内期には規模も小さく周囲への土器拡散などの影響力の中心と言うわけでもない
位置的に大王の三輪山周辺、在地の大豪族の磯城県主、物部氏の領域が丁度重なる位置にある
卑弥呼時代の纏向は大和の在地豪族の連帯の為の遺跡だったと思われる
基本的に大和の豪族をまとめるための遺跡と考えるのならば、
半島土器の少なさや九州の土器が見つからない事など自然に理解できる
そして台与の時代に入ると東海の狗奴国との外交関係からその土器の出土が増えるのだろう
卑弥呼から台与への政治的発展の過程をたどればむしろ纏向のあり様が自然と浮かび上がる 纏向は壮麗な都だったと言う現実に全く沿わない思い込みを排除すると、むしろ邪馬台国の成立と発展の実態が見えてくるだろう
100年もの間、定住実態がない場所を都と言い張るからおかしなことになる
そして日本を支配した壮麗な都に九州の土器もなければ、朝鮮半島の土器もない
集まる土器は東海が殆どという、外交を盛んにおこなった日本の都と言う思い込みの姿で説明のつかない言い訳に追われることになる
実際、その問いに対する誠実な答えを見た試しがないからね >>119
>搬入土器は東海地方のものが一番多く、この他にも北陸や吉備といった地域の土器が出土しています。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする
摂津・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。 @阿波 >>158
その通りですね。
もう畿内説なんて成り立つ余地がありません。 その場その場で空想を語る学者と、その言葉を都合良く利用して村おこしを試みる桜井市や>>1のような妄想好きの考古学オタク
畿内説はこの3バカのコラボで出来たファンタジー小説だよ >>156
北部九州の博多で大和型庄内甕の模倣制作が始まるのがTB期古相(庄内2式)から >>835
>中傷すればするほど九州説の負けが宣伝される
中傷すればするほど、
「南→東」や「正北抵新羅」などの史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しが明らかになり、
大和説の負けが宣伝される >>847
>バイアス九州説
「南→東」や「正北抵新羅」などの史料事実の曲解否定などの嘘吐き騙しの、
バイアス大和説 >>857
>九州説はみじめ 常に中身が無い
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しし大和説は、みじめ。
常に中身がない。 どー見ても畿内説が不利
何の物証もなくおかしな事を誇らしげに語るから宗教などと罵られる
誰か体張って箸墓を掘ってこいよ >>862
>悪口しか言えない九州説の劣化と痴呆化は極限だな
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実の曲解や否定の、
嘘吐き騙しや、悪口しか言えない大和説の、
劣化と痴呆化は極限だな >>864
>ウソつきは九州説の始まり
「南→東」や「正北抵新羅」などの史料事実の曲解や否定の嘘吐きが、
大和説の始まり。 >>867
>ウソだって証拠は? 九州説さん、またウソ漬け?
「南≠東」や「正北抵新羅」がウソだって証拠は?。
大和説さん、またウソ漬け?。 >>867
>ウソだって証拠は? 九州説さん、またウソ漬け?
「南≠東」や「正北抵新羅」がウソだって証拠は?。
大和説さん、またウソ漬け?。 >>167
具体的なことを何も言わず「どー見ても」って
九州説の思考停止が痛々しいよ
現実逃避しちゃってるね >>173
思考停止しているのは畿内説じゃないかな? 陳寿の説明は方角と里数と戸数に依っており、考古学や土器で女王国を記述してはいない。
だから、日本全土からあまた出土する土器や、掃いて捨てるほどある/いる考古学論文だの考古学者だのは決め手にはならん、役にも立たぬ。
そこのところを勘違いして、畿内説の考古学者/学者もどきはトチ狂ってるわけだ。 考古学がどうしたって? そんな愚問・愚行はやめだ。
末盧国唐津から東南へ500里、距離計付き自転車で走ればよい。37.5q走ったところが伊都国だ。
そして更に東へ100里、かれこれ10q走ったあたりが不彌国だ。
理由不要、根拠不要、半日で答えが出る。グーグルマップ/グーグルストリートなら 5分+1分で答えが出る。 .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>175
考古学が役に立たないなら
答えの出ない右下老人パズルを永久にやることになる >>870
>これこれ
>現場確認の結果
・桃の種が埋められた場所は建物とは関係のない場所である
・桃は遠い昔に埋められたもの
・建物は後世(4世紀)で建てられた何らかの施設
なんてウソついちゃった九州説 終わってるよ
これこれ、
「南→東」や「正北抵新羅」などの史料事実の否定の嘘吐き騙しと同じように、
どこが「ウソ」なのか?を言わずに、知らん振りして、
口先で、「ウソをついちゃった」と誹謗している大和説は、
終わっているよ。 >>182
これも九州説のウソ
「現場確認の結果」というから誰が確認したのか聞かれたら沈黙した
だからウソと確定した
誹謗でも何でもない
冷徹な事実だよ
九州説はウソつきだ 定型化直前に関東から九州の日本全国にプロトタイプの古墳が出現する
この段階が卑弥呼から台与の時代
形式の揺らぎなど規格の不統一性はそのまま政権の未成熟さを示している >>974
>BS-TBS、なかなか説得力があったなあ
会稽東治は長江河口付近だったと、こともなげに断言してたし、
その他あれこれと、畿内説の幼稚さ、未熟さが良くわかる番組だったわ。
ふーーん。 >>76
「南≠東」や「柵の下の(庄内3の桃の種の)土坑」や、
「正北抵新羅」などで、
論破された大和説者が、また暴れてるな >>95
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」や「柵の下の庄内3の桃の種の土坑」などの、
理由が言えない大和説は論破されてます >>109
また「南≠東」や「正北抵新羅」や、
「柵の下の3世紀最末以後の庄内3の土坑から桃の種」などで、
論破された大和説信者が朝から発狂しているな まだやってらっしゃるのか
卑弥呼の陵墓 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼の陵墓 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 九州説なんてものは微塵も成立しないが九州説が必死こいて指摘する粗さがしには畿内の疑問点を浮かび上がらせる効果があるな
纏向の桃の祭祀はかなり特徴的だが倭人伝での言及はないな
植生についても、祭祀についても触れてない
考えてみる点はあると思う
まぁ塚や、沐浴、骨占などの纏向に見られる主要な部分を記載してるから別に1から10まで書いてないだけかも知らんが >>181
陳寿は考古学者ではなかった。
倭人伝も考古学の論文ではなかった。これは当時の地理・地誌・政情報告書である。
それにもかかわらず、千数百年ものちの三流考古学者がブツブツと考古学評定をするのは出過ぎたマネ、間違ってる。
倭国に関する地理・地誌・政情報告書として、そのまま読めばよろしい。それが論理的思考というのものだ。 >>193
すごいピント外れじゃない?
倭国に関する地理・地誌・政情報告書を
いま残ってる遺物で裏をとって何が悪いの? >>195
まあ要するに九州説の人は歴史学の常識を知らないから史料事実と歴史的事実の鬩ぎ合いが分かってないわけで、それが九州説衰退の原因だ >>141
>俺は畿内どころか大和にあると思ってるが・・・
「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠って、×。 >>156
>・・・卑弥呼から台与への政治的発展の過程をたどればむしろ纏向のあり様が自然と浮かび上がる
「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠って、×。 >>163
>北部九州の博多で大和型庄内甕の模倣制作が始まるのがTB期古相(庄内2式)から
逆。
北部九州の「土師器の古い方(=庄内)」は、3世紀前半。
大和の「庄内1の石塚」は、3世紀末。
大和が北部九州の庄内甕を模倣した事は一目瞭然。 >>173
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料実態の指摘に対して、
具体的なことを何も言わず「どー見ても」って
大和説の思考停止が痛々しいよ
現実逃避しちゃってるね >>178
>・・・越前説が正しいよ
俺はこのホームページ全部読んで完全に越前説に鞍替えした
「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠って、越前説も大和説も阿波説も、
皆×だよ。 >>183
>これも九州説のウソ
「現場確認の結果」というから誰が確認したのか聞かれたら沈黙した
だからウソと確定した
誹謗でも何でもない 冷徹な事実だよ 九州説はウソつきだ
これも大和説者のウソ。
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料実態に拠って、大和説は初めから×だ。 >>192
「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠って、大和説なんてものは微塵も成立しないが、
大和説が必死で言い訳をしている事を指摘する粗さがしには、
大和説の疑問点を浮かび上がらせる効果があるな >>193
それのどこが論理なのか一般人には理解不能 >>195
裏をとってるって。
御冗談でしょう、外れも外れ、大外れ、正しさのカケラもない桃の生ゴミ穴。 >>205
考古学が出る前に、やるべき学術研究はたーくさんあるってことさ。
考古学者の出番はそれが済んでからだな、ま、野球でいえば8番〜9番バッターってとこかな。 >>195
(後代文書の自己解釈に拠る書き換えを実行している文書とは違って)、
魏志倭人伝は、同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録が元になった文献であり、
写本での誤字の発生確率は0.5%位しかなく、その記録の信頼性は99%位。
それに対して、考古は、
(文献に匹敵する)金石文や紀年記銘物以外は、
年代も史料実態も全て推論の域を出ず、
その信頼性や確率は、(不可知部分が殆どである自然や歴史においては)、
確率が非常に少ないもの。 >>196
>まあ要するに九州説の人は
歴史学の常識を知らないから史料事実と歴史的事実の鬩ぎ合いが分かってないわけで、
それが九州説衰退の原因だ
まあ要するに大和説の人は、不可知部分が殆どである自然や歴史において、
同時代の実地の見聞計測の文献考古的史料の確率の高さと、
相対的な関係程度の事しか分からない考古出土物の確率の低さとの、
区別が判らないアホであった、という事であり、
皇国史観的な「結論先にありき」での循環論法をするアホであった、という事であり、
それが、大和説の衰退の原因だ。 >>200
九州説にはもう狂ったニセ考古学しか無いわけか 奥山が何年もかけて行ってきた宣伝活動はすべて水の阿波になってしまったな >>209
美辞麗句並べ立てても中身ないね九州説
現実味のない総論だけだもの
算出してもいない確率とか振り回して、滑稽ですよ
覚えたての「循環論法」という言葉だけ使っても、意味わかってないでしょ
他の人が使った単語をカッコ良さそうだから使ってみたって見え見え
だって何が循環するのか説明できてないじゃない
九州説は、馬鹿がなる
>>206
>御冗談でしょう、外れも外れ、大外れ、正しさのカケラもない桃の生ゴミ穴。
これも具体的内容のない単なる悪口
生ゴミ投稿だ
九州説の死亡証明だな >>143
>んたのは希望的観測
希望する結果が得られるという可能性を信じて推測
物事の成り行きを都合良く推し量っている。
事を成就させようとねがい望むさまであり
将来に良いことを期待する気持ちでしかない.<
おまえいいこと言うな.,畿内説も捨てがたいが文献しかり物証で語るべきだな >>215
これも具体的内容ゼロ
九州説死亡の物証が積み重なる 桃なんて倭人伝に出てきてるのかい?
桃は夏だけだし
四季ごとの、祭祀用の供え物無いかな
巻向は夏だけ祭祀してたの??
卑弥呼は夏以外何シテタノ?? いわゆるS字甕の拡散には二つの画期がある
200年ごろと250年ごろ
で、その二つの時期は拡散の方向が違う
200年は東海から東に、250年は東海から西になっている
ちょうど卑弥呼の登場の頃に西に広がり、台与の時代に西に広がっている
東海の狗奴国の勢力が大和に邪馬台国が登場した時期に対抗するように東に拡大して勢力を形成し
台与の時期に邪馬台国と和解して合併した表れではないだろうか
魏からの難升米への黄幢で和解が成立したと考えると時期がちょうどあう >>217
四季ごとの祭祀とか、誰が言った?
畿内説、そんなこと主張してないよね
つまり畿内説への反論にならない
ばかですね >>218
ってか主流説だよね
前方後円と前方後方の地域棲み分けが本格的に崩れて、どの地域もトップが前方後円、それ以下が前方後方に揃っていくのは布留1頃からだもの >>220
だから、何が印象操作なの?
具体的に言ってみて
それが出来ないなら、その「印象操作」連呼が
異常にヘタクソな印象操作狙い作戦
ってことがバレるよ >>218
停戦しただけで合併はないな
狗奴国は4C中頃に日本武尊によって滅ぼされたのだから
焼津という地名はそのときに日本武尊が言った「焼いて焼いて焼き尽くす」から付けられてるの S字甕そのものは6世紀まで残り続ける
勢力としての存在というよりも畿内と別文化圏を維持し続けたのだろう
台与の時代に和議して次第に吸収されていくが、東海の勢力は実際のところ強力な中心地を持たない
各々の地域が畿内に合流していく流れなんだろうな
その動きに濃淡があると >>215
>これも具体的内容ゼロ
九州説死亡の物証が積み重なる
これも、文献考古の具体的な史料事実や史料実態からの、
帰納的確率的な推論、という内容がゼロ。
大和説死亡の物証が積み重なる。 >>223
テンプレが何?
九州説ってみんな日本語喋れない人? >>218
>いわゆるS字甕の拡散には二つの画期がある 200年ごろと250年ごろ
で、その二つの時期は拡散の方向が違う
200年は東海から東に、250年は東海から西になっている
S字甕に年代が書いてある訳ではなく、
「200年ごろと250年ごろ」なんて事に絶対根拠がある筈がないから、×。
>ちょうど卑弥呼の登場の頃に西に広がり、台与の時代に西に広がっている
東海の狗奴国の勢力が大和に邪馬台国が登場した時期に対抗するように東に拡大して勢力を形成し
台与の時期に邪馬台国と和解して合併した表れではないだろうか
魏からの難升米への黄幢で和解が成立したと考えると時期がちょうどあう
「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠って、×。 >>221
>ってか主流説だよね
前方後円と前方後方の地域棲み分けが本格的に崩れて、
どの地域もトップが前方後円、それ以下が前方後方に揃っていくのは布留1頃からだもの
その「主流説」とやらも、
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料実態を隠蔽し、
九州倭國の「東征毛人五十五國」を一顧だにしていないから、×。 S字土器の台与の時代の拡散に伴って東海で前方後円墳が出現し始める
この辺りもやはり邪馬台国と狗奴国が和議を結んだ証拠と言えるだろう
定型化古墳、布留式土器の出現期に重なる >>230
台与ご一行さんは纏向で遊牧民のようにキャンプしてたのか >>224
>狗奴国は4C中頃に日本武尊によって滅ぼされたのだから
勿論「狗奴国≠拘奴國」であり、
後漢書に拠れば、
「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」だから、狗奴国ではなく、
しかも、拘奴國も「自女王國東度海千餘里」であるから、
せいぜい西瀬戸内地域にしかならず、×。 東海地方での前方後円墳の拡散は四道将軍の伝説も想起させるな
この東海地方の合流は台与、もしくは崇神天皇の事績だと考えれば記紀の伝説が歴史的な動きの表現として読み取ることも可能だな >>225
>S字甕そのものは6世紀まで残り続ける
勢力としての存在というよりも畿内と別文化圏を維持し続けたのだろう
台与の時代に和議して次第に吸収されていくが、
「畿内」も「台与」も、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠っても、×。
>東海の勢力は実際のところ強力な中心地を持たない
各々の地域が畿内に合流していく流れなんだろうな
その動きに濃淡があると
九州倭國の「東征毛人五十五國」があった事を全く隠蔽している事でも、×。 >>230
>S字土器の台与の時代の拡散に伴って東海で前方後円墳が出現し始める
台与なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
>この辺りもやはり邪馬台国と狗奴国が和議を結んだ証拠と言えるだろう
定型化古墳、布留式土器の出現期に重なる
邪馬台国なんても存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
九州倭國の「東征毛人五十五國」があった事を全く隠蔽しているから、×。 >>231
>もうこいつ人間やめてるだろ
もうこの「南→東」などの嘘つき騙しの大和説男らは、人間を止めているだろう。 >>235
>東海地方での前方後円墳の拡散は四道将軍の伝説も想起させるな
当然、書紀は半分偽書であり、
「四道将軍」は九州倭國の「東征毛人五十五國」の征服軍に、
大和の阿毎氏も参戦した、という話。
>この東海地方の合流は台与、もしくは崇神天皇の事績だと考えれば
記紀の伝説が歴史的な動きの表現として読み取ることも可能だな
記紀は、九州倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書であり、根拠にならず、
だから「崇神天皇」の「天皇」も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×であり、
いずれにしても、九州倭國の「東征毛人五十五國」の征服軍は、
瀬戸内〜摂津河内〜近江〜東海〜南関東付近にまで征服し、
別動隊が播磨〜奥丹後や、阿波〜紀伊を征服し、
大和の阿毎氏が東征軍に応援し、北陸から東北南部まで進出した。 .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>216
アホか 物証が無いんだろ
大集落の住居跡 物証で何棟なんだよ >>94
良くないな
天皇家の遺伝子を持ってない
偽物が何を言っているんだか >>110
天皇
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この項目では、日本における称号または地位としての天皇について説明しています。
日本の話だ
中国朝鮮無関係 >>111
天皇は河伯の子孫
天皇は百済王の娘の子孫
お前
川崎東北菅野(天皇の家来) (百済菅野(天皇の家来)ではない)
河伯は高句麗と時代が違う 高句麗の騙り
河伯は川で溺れたおっさん >>227
支離滅裂じゃん
何故かわかるか?
切り貼りだらけだからだよ
一貫性を持つなら持論を完成しろよ >>227
同意
テンプレは>>1の愚行だよ
畿内説が誤解されるな >>250
>一貫性を持つなら持論を完成しろよ
阿波以外では、そりゃ無理な相談。 @阿波 九州説は江戸時代の国学者が主張した熊襲偽僭説が始まり
考古学の研究成果によってここ2、30年で確実になったのが今の畿内説 .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. 大和説では
桃以外に祭祀に何が使われたと思いますか????????? >>261
だが、
九州説を支持するが天皇と結び付けるのは反対だな
九州の勢力が大和王政を築いたぐらいら理解できるけど >>254
>九州説は江戸時代の国学者が主張した熊襲偽僭説が始まり
九州説は、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」によって、
倭國の中心が北部九州であった事が確定した事。
>考古学の研究成果によってここ2、30年で確実になったのが今の畿内説
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であり、
大和などは、宋書の倭王武の上表文や唐書群や記紀に拠って、
九州の筑紫城の倭奴国の阿毎氏が移って来て、
更にその後で「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って九州倭國に征服されて、
九州倭國の別種の旧小国の附庸國になっていた国。 キウスが連投してたけど今日は鑑定士さんはこないのかな? 唐会要によると「南與越州相接」と書いてある。「正北抵新羅」など戯言である。 纏向には塚、沐浴、直会、骨占と記載の祭祀の痕跡が多く見つかっている
桃については建物の下にあることからいわゆる地鎮祭として行ったんだろう
倭人伝には宮殿の記載があるから既に建物が建ってる状態なのでその祭祀を知らなかった
栽培種の伝来が弥生時代後期だと考えると自生ではなく特別に栽培して数を集めた可能性があるな
こう考えると桃の祭祀の姿が見えてきて興味深い 「倭人在帶方東南」 帯方郡の東南は本州である。蛮夷の居住する九州ではない。 >>261
スレチの川崎の中卒の平屋の貧乏人
どうにかしてくれねえか
コンプレックスの塊りが一発逆転を狙って妄想をほざいてる 宮崎康平の小説がヒットしたので
神戸の在日高校教師が書いた作文を
虚偽の慰安婦証言で商売していた新聞社の記者が取り上げたのが
朝鮮起源九州王朝説の始まり 三世紀卑弥呼の時代、女王国の中心は邪馬台国と投馬国。
四世紀に入り邪馬台国は大和となり投馬国は出雲となる。
古墳時代にヤマト王権が確立。 >>219
ああ言えばこう言う、本当に中身のないやつ >>225
>勢力としての存在というよりも畿内と別文化圏を維持し続けたのだろう
纒向って土器では東海文化圏なんだけど。
畿内説は矛盾だらけでボロボロだな。 >>227
>>>223
>テンプレが何?
>九州説ってみんな日本語喋れない人?
日本語が理解できないアホ発見 >>233
>zarakokuはもう完全にボット
そのザラコクに反論できない畿内説w >>267
>こう考えると桃の祭祀の姿が見えてきて興味深い
でも邪馬台国と関係性が見えない。
ただの倭種でもいいわけで。 >>272
反論できなくなると、すぐ悪口100%になるんだから
ほんと論破されたのがわかりやすい人だなあ
あなた、簡単に論破されすぎ >>275
>そのザラコクに反論できない畿内説w
新人さん?
ザラコクの連呼してることで、一つでも完全に論破されてない事があったら
言ってみて
懇切丁寧に解説してあげるよ 長年の奥山の宣伝活動の実績は、BSの宣伝能力によって、空気になってしまったのでは、ないのかな。。。 九州説の爺さんテレビばっかり見てないで、たまには本読めよ >>282
引きこもってないでたまには外に出ろよw 投馬国は広島の鞆だと思ってきたが、どうやら岡山の玉の方が正しいみたいだな まだ同じ話をしているの?
『鳳輿』
王母〜と書いてあるでしょ、むかーしの家の人物。 プロトカルチャー、古代兵器?ラー、むーのの何やらとか、ほとんど同じ。
芸能、漫画やアニメ、ゲーム・・・その他も同じ。 川崎区というところに住んでいるんだと言っているのに、
むかーの芸能〜とか、老婆談の?その家。 戦争などにも行っていないと言っているし、
軍人とか?そういうのでもないとかw
同じような人物がいるでしょ、
宝生流が何やら〜、死刑になった人物とか。 広瀬座というところの話とか、
何度も説明したはず、戦争などをしているときw
カブキなどが好きだったのかな?何なんだろう、
山の上のほうに住んでいて、馬に乗り・・・? いつ頃、川崎区に戻ってきた(不明)?のかは知らないけど。
戦後? それにしても、よくわからない話ばかり。
『軍人 宝生流 死刑』?
王母〜、この周辺の話と同じような。 家の周辺も空き地だから・・・という話をしていた事もあったり、
戦争などで死んだのかな? たしか、同じような話もしていたような、
家の裏のほうは空き地になっているから、
ここに住めば良いとか。
ほんとーは(戦前からの。もともとの住人?)朝鮮人、
韓国人が住んでいたのかな? 傾いた松、松傾く・・・(『鳳輿』?)、
写真などがあるでしょ、その家と同じなんだと言っているのに。 その家の話など調べてみた?
・・・中華(中国の人)だと言っている人がいたりするでしょ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
だから言っているだろ、
創価か何かなんだろうと、なぜか、そういう話ばかりだしな。 家は創価でも・・・日何やら、日何やら宗の系統?
でもないと言っていたような? 大本〜?そういうのでもないし、あれでもないし・・・www >>266
>唐会要によると「南與越州相接」と書いてある。「正北抵新羅」など戯言である。
これも、反論済み。「接」は、
魏志韓伝では、「其toku廬國與倭接界」の「接界」のように、
「境界が実際に接している状態」を示す文言として使われているが、
唐会要の筆者は、「西北接百濟」のように、
海峡を隔てて離れている事が明確であるが、国家間関係が友好的である場合に使っており、
それに対して、新羅には、
「抵」のように、国家間関係が敵対的抵抗的であった、という場合に使っており、
関係が友好的ではない場合に使われている。
従って、「南與越州相接」は、
南方向は越州とは友好的な関係を持っている、と言っているだけであり、
従って、この大和説男の、
「正北抵新羅など戯言である」という事は、全く曲解捏造の虚言である。 成り済まし、騙りw
何なのか知らないけど、自殺でも良いからは、
やくしろと言っているだけ。 >>267
>桃については建物の下にあることからいわゆる地鎮祭として行ったんだろ<う <
証拠ナシ 柵を作る場所に埋めるのも不自然 言い訳を考えるより現実を見るべき 損害(よくわからない侵害)など・・・、
すべて含め3000兆円くらいで良いと言っているのに。 >>267
>纏向には塚、沐浴、直会、骨占と記載の祭祀の痕跡が多く見つかっている
そんな痕跡はどこにあったの?。
>桃については建物の下にあることからいわゆる地鎮祭として行ったんだろう
倭人伝には宮殿の記載があるから既に建物が建ってる状態なのでその祭祀を知らなかった
栽培種の伝来が弥生時代後期だと考えると自生ではなく特別に栽培して数を集めた可能性があるな
こう考えると桃の祭祀の姿が見えてきて興味深い
それなら、先に「庄内3がある土坑」を造り、その後で柵や大型建築を造った事になり、
構わない。
しかし、「大量のゴミ捨て場」化した場所が存続していた上に、柵を造る、という事のしていた、
違和感がぬぐえない。 >>268
>倭人在帶方東南」 帯方郡の東南は本州である。蛮夷の居住する九州ではない。
「倭人在帶方東南」 帯方郡の東南はほぼ関門海峡付近方向であり、
「女王國≒ほぼ九州島付近」と「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の、
両方方向であった、という事になるのであり、
「本州」だけだ、と断定するこの大和説男は、やはり、
嘘吐き騙しの・・・・詐欺師だ、という事だ。 王母(西王母)?・・・調べてみた?
>貴賎まじわり。隙もなし。
どういう意味だと思う? >>271
>三世紀卑弥呼の時代、女王国の中心は邪馬台国と投馬国。
四世紀に入り邪馬台国は大和となり投馬国は出雲となる。
「四世紀」は、九州倭國の「東征毛人五十五國」で大和が征服されて、
更に在地の阿毎氏が東征軍に協力して、支配地を広め、大量の生口や守墓人を獲得し、
「九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国」として発展した時代。
>古墳時代にヤマト王権が確立。
九州倭国から別れた「九州倭国の別種の旧小国の附庸國」であった、というのなら、
構わない。 お前たちの解釈などがあるでしょ、
相手にされていないんだけどな、
なぜだと思う? >>286
>投馬国は広島の鞆だと思ってきたが、どうやら岡山の玉の方が正しいみたいだな
「南≠東」などに拠って、×だな。 王母〜。
中国(日本の中国地方という意味ではない)の話だと言っている人がいたでしょ。 とあるスレがあるんだけど、このような書き込みをしている人がいたり。
「いつからストーカーのような事をしていたんだ?」
「むかーしから」だとか。
漫画、アニメ・・ゲーム(創作関係)など、そういう話だと思うんだけど。
本人(ホンモノだと思われる家、人など)は係わってないし、出演などもしていないし。 以前から書いていることなんだけど、
悪く言うと、騙り、成り済ましがいるんだろう?という話。
同じような名前の家があったりするでしょ。
夜中じゅうずっと呟いて荒らしを続けるとか
異常な行為をするから
九州説が滅ぶんだよ
どこかに資料(史料)などが、あるでしょ、
その資料(史料)などを読んだり、調べたり・・・。 『王母』(西王母?)
インド〜中国〜・・・、そういう話をしている人もいる。
むかーしの渡来人の家だとか。
『ドンバ』も同じ。 なぜ家の老婆(お前たちの頭の中では「老婆って誰?」)のほうが詳しんだろう・・・となるでしょ。 詳しいことは、わからないけどw
『福島 民家園』
広瀬座などの話、その写真の家(『鳳輿』?)の談と同じ。
それとも家のほうが何かなのかな?上の家。
『鳳輿』?と同じ話だし。 何の家なんだろう。
『ドンバ』(不明?)も同じだしな・・・w
キュウリの葉、葱の華の写真の話。 >>254
>九州説は江戸時代の国学者が主張した熊襲偽僭説が始まり
偽僭説というといかにも偽り誤っているように聞こえる。
しかし、「熊襲」は後世の記紀が与えた侮蔑・自虐的表現であって、景行記以前においては九州島の最大最高勢力であった。
つまり、熊襲=邪馬台国勢力と置けば、じつはこれが正解だったのではないか。 畿内の考古学だって? そんな愚問・愚行はやめだ。
九州末盧国(唐津)から東南へ500里、距離計付き自転車で走ればよい。37.5q走ったところが伊都国だ。
そして更に東へ100里、かれこれ10q走ったあたりが不彌国だ。
理由無し、根拠無し、しかし陳寿の記述通りに自転車をこげば、たった半日で答えが出る。グーグルマップなら ほんの数分で結果が出るのだよ。 確実に家の先祖・・・の話だと思うんだけど、
『天財若子』?
何か供えたりするものなども作っていたと言っているし。
ほんとーのカミタマなんだろう。 それと戦争などをしていた頃の日本、
なぜ全世界の人々をだましていたんだと思う。
お前たちの言っている人物がいるでしょ、
天皇ではないから。 家が言っているんだから正解だと思ったほうが良い、
どうせ、低脳には、わからないんだろうけど。
低脳というのは、成り済まし、騙り・・・?
そういうのと同じ意味。 何度、言えばわかるんだ?
『天財若子』
このような話があるでしょ?
家の先祖の話、謎の日本昔話なども。 >>310
九州は磐井と隼人、大和王権に負けてます。 それと、ほんとーにいるでしょ『田』(でん)という人、
家の近所なんだけど、あの伝説が、ほんとーだとするなら、かなり凄い家w
『田氏』w すとーかーがいるのかな?何なんだろう。
幼稚園の頃、たしか兄と同じクラス?だったような、
小学校は違ったような。 >>316
>夜中じゅうずっと呟いて荒らしを続けるとか
異常な行為をするから 九州説が滅ぶんだよ
「呟き」は、九州説が優勢になっている、という時?に、
人種差別的な「日本の通説の皇国史観の歴史」を、
興奮気味に連続投稿して宣伝しているようだから、
「親大和説者」のようだよ。 それにしても、家の場合は伝説でもないし、
老婆が言うには、あの写真の話w
肉なども食べなかったと言っているし、
何なんだろう たしか、家の近所にある、お寺などに通っていたとかw
おかしな話ばかり、・・・ホンモノの何か?の家なんだろう。 理由はわからないんだけど、
老婆談・・・?家なども保存されていたり。 >>322
じゃあこのスレにいる異常じゃない九州論者を紹介してくれよ
一人でいい あと畿内説、九州説とか、そんな話はしていないんだけどw
何度言えばわかるんだ?たしか以前、書いたはず。 あと人の家に寄生するなと言っているだけ。
漫画〜・・・とか、芸能などの話も同じw 老婆談・・・、その写真の家の話など、
いま書き込みをしている家の話なんだけど。 以前から書いていることなんだけど、どこの低脳なんだ? かなーり前のことになるんだけど、
なぜか家のことを知っているような人がいたり、
芸能人とか、そういう家でもないとか。 貼り付けた写真の家があるでしょ、
ずっと聖造(職なのかな、不明?)〜の家? 松の木の下のほうに、
(セメント)コンクリートのブロックもあるでしょ?
川崎区のセメント通りというところの、こっち側()に住んでいるんだと、
何度も書いているだろうw あと、お前の名前は?と聞いているだけw
どうせ聞いたこともない家や人物なんだろうけど。 それとも辛何やら?
家の父が言うにはw
あいつだろう、知ってるよみたいな事を言っていたり。
日本人でもない、珍走団のようなことをしていたとか。 清田(辛、何やら?)
蒲田のほうの話もしていたしな、
なぜ知っているんだろう。 >>350
ここに投稿してる畿内説はあんた一人と言っているの?
とにかく、呟きは迷惑な奴じゃな
何が面白いんだろ とあるスレなどの話。
「お前が何なんだよw」
と言っている人がいたりしたんだけど、そういうのと同じ。
お前の名前は?と聞いているだけ。 >>1でも何でも良いんだけど、
どこで習ったんだ?教わったんだ?
わかりやすく言うと、
自分の家の話ではないから、わからないんだろう。 精神病院、刑務所でも良いから、はやく行けと言っているだけ。
何度言えばわかるんだ。 家があるでしょ、住んでいる家。
そこが・・・・・・・という話なんだけど、ほんとーは。 >>323
熊襲は博多湾沿岸にはいない、交流もない >>361
そのことだ、
景行とその末流のヤマトタケルの足跡を辿れば、熊襲は、日向・球磨・肥後・筑後・肥前にいた。
つまり、博多湾岸の北部九州と肥前以下の中九州は歴史的に対立していたということになる。 >>362
それ以外のせっまい北部九州に、倭人30国とかw
九州説など無理無理 >>364
たしかに狭い湾岸北部九州に30国は無理。ここは古えの金印を受けた漢倭奴国だ。
倭奴国は倭国大乱で負けて身を引いていた。
この大乱の結果、九州を席巻したのは、肥前佐賀の伊都国、肥後山嘉菊池の邪馬台国、日向の投馬国だった。
しかしわ奴国は、邪馬台国が東へ移動したあとの4世紀、景行天皇時代には復活して中南九州の熊襲退治にも向かった。
つまり記紀に云う「熊襲」とは肥・肥・日に残っていた邪馬台国勢力の末裔だったというわけだ。 >>368
そうか
それで、考古学的にアウトな事情とはどのような内容か? 勉強のため教えてくれぬか?? >>324
陳寿が自転車のってグーグルマップ見ながら魏志倭人伝書いたらそうかも知れないけど
当時は両方ともない 『媯姓』
ほんとーに、
このような専門用語が出てきたでしょ、king(不明)の話とかw
むかーしの渡来人なのかな。 >>362
>そのことだ、
景行とその末流のヤマトタケルの足跡を辿れば、熊襲は、日向・球磨・肥後・筑後・肥前にいた。
つまり、博多湾岸の北部九州と肥前以下の中九州は歴史的に対立していたということになる。
成程。
倭奴国や伊都国などや別種分家の旧小国の大和などの天孫族の阿毎氏系と、
姫氏系の本家筋の火の国山門の熊襲や狗奴國が、対立していた訳だね。
そして、姫氏系の卑弥呼の先祖らは、
一旦、熊襲や狗奴國の姫氏本家筋と別れて、「委奴」の阿毎氏系と合流し、
そこでまた別れて「大野」に移り、
その大野で卑弥呼が出て、共立されて親魏倭王を拝命した、という事か。
そして、伊都国の阿毎氏王も存続し、伊都国に一大率がいた、という事か。 >>369
博多は前方後円墳、牟田口廉也地域は前方後方墳、松本智津夫地域は顔面変形バケモノ人骨 >>370
おまい、面白いこと言うじゃないか。
ま、それはそれとして、帯方郡の倭国調査隊?は、二輪の自転車の代わりに、二本の足でテクって巡ったわけだ。
そしてグーグルの代わりは登山だな。
佐賀平野を見渡せる佐賀の天山、筑後地方を見渡せる久留米の高良山、有明海を一望できる長崎雲仙普賢岳。そして九州一円の山々を望める日向の祖母山・阿蘇山等。
それぞれの頂には、古代の展望見張り所も有ったのであろう。 >>364
>それ以外のせっまい北部九州に、倭人30国とかw
九州説など無理無理
おそらく、一つの環濠集落などで1国であったのであり、
漢代には、半島南岸から筑紫、肥前、肥後、豊前、豊後や島々の国も併せて、
100余りの集落国があったのであり、
その中には、徐福らの集落国や出雲系や在地の猿田彦らの毛人系もあったんだろうし、
それが「倭國亂、相攻伐歴年」を経て、30国になったんだろう。 >>372
>362 は単純化して書いたのだが、
湾岸の志賀島系と、帯方郡系の邪馬台国系と、呉王に由来する姫系と、(狗奴国系と)があって、
その辺りは、記紀では簡略化・神話化されてしまっているが、ホントは先代旧事本記の方が詳しいのではないか。 >>372
>一旦、熊襲や狗奴國の姫氏本家筋と別れて、「委奴」の阿毎氏系と合流し、
>そこでまた別れて「大野」に移り、
この「大野」というのは大分県の大野市〜竹田市一帯のことではないか??
ここなら阿蘇にも近い、日向にも近い、北へ上れば日田市にも行ける。たしか、たくさんの鉄族が出土する所だろ。 九州説は絵空事ばかりで畿内説批判はニセ情報という始末
w 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の他の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが知られている。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
卑弥呼が筑後山門の出身で、筑紫も含めた倭国女王になったからかもしれない。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上大願寺にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、倭国の内乱を筑紫の天孫族から見た呼称であったと考えることができる。 絵空事の中の人が何か言っても聞いてもらえない畿内説あわれ >>378
>>>375
>環濠集落自体そんなに無い
吉野ヶ里だけでも周辺に10前後の衛星環濠集落を持っていたのだから、九州北部で100カ国は余裕。 >>377
佐賀、長崎、熊本、宮崎などの諸勢力が天下を統べる白日別(筑紫)の倭王の座を狙って争っていて、それが魏志倭人伝にも倭国大乱などの記録で残っています。
戦乱が少なかった畿内は倭国ですらなく、ただの倭種の地。 某氏の話があるでしょ、
こういう作品なども、実際は、ほとんどセメント通りの話なんだろう。
日本昔話『ふろ屋の福の神』 いい湯だな(ゆだや?)・・・、
そのような事を言っているスレッドもあったり。
陰謀関係のスレ。
もともと日本の〜ではないと言いたいんだろう。 >>384
博多湾沿岸は畿内と共通の供献土器
福岡市を中心に筑後北部までの範囲
その外とは関係がない .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. 老婆談も同じ、たしか何かを祀っていたとか、
家の先祖? >>384
>吉野ヶ里だけでも周辺に10前後の衛星環濠集落を持っていたのだから、
持っていたという証拠は? >>389
つまり福岡県全体では複数の氏族がひしめき合って、それぞれ独自の文化様式を持っていた。
それこそ倭国の混沌とした本態であり、記紀や魏志倭人伝と一致する。 >>392
考古学的に明らかになっているから、調査報告書でも読むといい。 >>386
>>>385
>
>肥人はただの異人
それが卑弥呼の国であり、記紀に卑弥呼が登場しない理由だ。 >>393
模倣制作始めたもっとも発展している博多が中心で
分布は福岡県全体(筑後南部を除く)
混沌としていない >>395
倭人の風習である卜骨がまったく出ないので異人肥人は非倭人 >>376
>湾岸の志賀島系と、帯方郡系の邪馬台国系と、呉王に由来する姫系と、(狗奴国系と)があって、
志賀島が大山積で、九州本島に住吉やら宗像やらがいて、西には伊都天孫族、南には火国熊襲。
では卑弥呼はその中のどの氏族だったのか。
卑弥呼の時代には天孫族が没落していたというのだが、住吉や宗像は卑弥呼の雰囲気がない。
だとすると火国女王が可能性としては高いだろう。
そそて狗奴国が肥後なら、もともと同族なので王の名前が似ていることも説明がつく。
もちろん、熊襲系なら記紀に偉大な女王として名前が残されることもなかっただろう。 おい おい おい おい
畿内説のスレを放棄して
九州説の論戦してるの
こりゃ 滑稽だ
続けろや
畿内説は遠くになりにけり >>397
博多は商都だから、どの地域の文化でも受け入れていた。
それだけのこと。
政治と経済は別だよ。
だから土器だけで全てを説明することは難しい。 >>400
桃の種しかないから話のネタがない。
畿内説って空っぽの虚像なんだよ。 >>400
論戦ではなくて松本智津夫系県民のホラッチョを正している 畿内説が破綻した腹いせに九州説を攻撃しだしたのではないのかな >>401
供献土器は首長層、下の者は使わない
日本の学者の研究拒絶するのは下の者の個人的感情 >>400
知らないのか?
このスレはとっくに敗北して狂った九州説の狂態ぶりをニヤニヤしながら眺めるスレになってるんだよ
そんな事も知らないでよく九州説を名乗れるな 畿内説は夏にしか取れない桃で抵抗して
返り討ちにあってしまった >>401
>政治と経済は別だよ。
>だから土器だけで全てを説明することは難しい。
それが妄想
王者の墓の祭祀に使われる土器が説明してくれるものは、政治であり宗教なんだよ >>408
説明能力のない九州説老人は、意味不明なことばかり呟いているな 畿内説は鉄や骨は溶けて無くなったと抵抗して
返り討ちにあってしまった でも都合が悪くなると
「しょうないしきはぼくちんたち九州発祥だからそれが邪馬台国のしょうこだもん!」
とか言い出すと
邪馬台国の会が本当にそんなこと喚いててマジで笑ったw あー邪馬台国の会のアホは古墳までウリナラ起源とか喚いてるな
本当にバカの量産工場だな
ここにも工場からロールアウトされたバカがいっぱいるみたいだが >>408
九州説は夏にしか取れない桃で返り討ちにあってしまった 九州説はもう秩序だった攻撃は不可能になってるようだな 邪馬台国の会の連中の話は見てるだけで一日中笑い転げられるくらいアホ丸出しだからな
あれをアホが集まって「その通りだ!」とか言ってると思うと本当に笑いが止まらない
で、そういうアホがここにきて発狂してさらに笑いものになると
みんなに笑顔を提供する素晴らしい集団だな 投馬国は前は広島の鞆と見ている人が多かったが、今は岡山の玉と見ている人が
多いのな
オレも岡山の玉のような希ガス
投馬国の当時の発音はタウマコクだから玉の方が近い >>409
それは桃をかじっていた畿内の「王」の話だろ。 >>408
桃仁(種子)は『神農本草経』の下品に「桃核人」の名で
「瘀血、血閉、癥瘕、邪気をつかさどり、小虫を殺す」と収載され
「桃梟(樹についたまま冬を経ても落ちない実)」は、『神農本草経』に「百鬼精物を殺す」
「茎および白皮(粗皮を去った樹皮、根皮)」は、『名医別録』に「邪気、中悪の腹痛を除き、胃中の熱を去る」
邪気を祓う力があると信じられたのは夏の実だけではない
https://www.uchidawakanyaku.co.jp/tamatebako/shoyaku_s.html?page=222 記紀によると、九州北部の王族の祭祀は、桃ではなく、榊にかけた三種の神器だったようだ。
これは考古学的にも確認できる。
土器は下級の祭器。 そぢて三種の神器の祭祀が列島を席捲して現在の皇室に継承されたと。
畿内の銅鐸祭祀は打ち捨てられた。 はいみなさーん
九州の猿が庄内式を九州のものだい!だから邪馬台国だい!
とか泣き叫んでるレスですよー
「このスレ」ですよー
都合によって幾らでも話を変えますよー
大爆笑ですwwwwww
流石は邪馬台国の会wwww
笑いの天才だwwww
200 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2020/04/04(土) 17:15:45.46
>>163
>北部九州の博多で大和型庄内甕の模倣制作が始まるのがTB期古相(庄内2式)から
逆。
北部九州の「土師器の古い方(=庄内)」は、3世紀前半。
大和の「庄内1の石塚」は、3世紀末。
大和が北部九州の庄内甕を模倣した事は一目瞭然。 >>424
>記紀によると、九州北部の王族の祭祀は、桃ではなく、榊にかけた三種の神器だったようだ。
それは降伏儀礼なー
>土器は下級の祭器。
明らかに間違い
首長墓から出る もう九州説のほうが勢いがあるね
畿内説は防戦一方で逃げてるだけ
悲しいけど九州説スレだよねここ 邪馬台国の会名物の九州説猿踊りが今日も楽しめる
自粛ムードでも娯楽を提供してくれる九州説に幸あれ ぼくちゃんがしらない
ぼくちゃんがみとめない
これが反論だと思ってるバカが九州説
今日もその猿踊りが楽しめます 畿内説が痴ほう症だから何度勝ってもなかったことになる >>437
このように、すぐ罵り100%になるのが九州説敗北のサイン >>439
相手の言い分を論で否定するのが反論
ただ「ないないない」と言うのはダダ だって九州説は何にも知らないんだもん
邪馬台国の会のサイトに書いてあるデマしか見たことないんだから >>413
なんだな
古代の鉄や人骨は結構出土してるからな・・・
畿内だけ少ないとは言い切れる理由あるの
土壌がどうのこうのと解説してた奴いたけど
畿内は同一土壌なのかな
潮害で鉄が錆びやすい畿内でもないし (纏向遺跡166次調査)
>遺構面の状況 3世紀前半段階の遺構が存在する下層の遺構面は大きく分けて黄褐色粘質土(地山)・黄褐色粘賞土ブロックを多く含んだ灰褐色土(整地土)の2つの土壌から構成されています。<
考察
この土壌はこのpH条件下では、岩石に含まれた珪酸は溶け出しますが、土壌として鉄とアルミニウムは溶けにくいです。
これは遺構面の調査に基づく、土壌であり巻向全体がどうだったのかはしりません。
またその土壌が1700年近く同じ状態であったかは不明です。 最近
半径50m?円を描くが弥生後期の先進技術だと豪語してた畿内説のバカ沈黙してネーカ >>445
九州説の科学知識が犬猫並みという証明ありがとう 畿内説は邪馬台国の会が憎くてたまらないらしいな
逆恨みの妄想もたいがいにしろよ 続けたろか
九章算術は比例計算してるよ
万2千里余のうち九州で万超えてるから畿内は無いよ >>448
おかしなイチャモン付ける人を嫌いになるのは
世間的にはは逆恨みと言いませんが >>445
畿内説の穴は広すぎて考証に耐えないよな
もっと議論の受け皿になる土台を提供してほしいよ、倭人伝のような >>450
はい、証拠ブリーズ
出せなければ、また九州説の負け >>452
>畿内説の穴は広すぎて考証に耐えないよな
その「穴」とは何か、具体的にどうぞ
具体的に指摘出来なければ単なる悪口なので
九州説がまた論争に破れた証拠になります >>454
全国で失笑を買った「庄内式は九州発祥」説とか >>456
それが邪馬台国の会がレスしたという証拠は? なんだ、また畿内説の妄想か
畿内説の妄想にはつきあってられないよ
つまるところ嘘なんだから >>458
>それが邪馬台国の会がレスしたという証拠は?
それわ邪馬台国の会がレスしたって
誰か言った?
言ってないことに証拠出す必要ないな >>459は、自分が誰と会話してるのか明らかにならなくなる病的コミュ障 考古学だって? そんな愚問・愚行はやめだ。
九州末盧国(唐津)から東南へ500里、距離計付き自転車で走ればよい。37.5q走ったところが伊都国だ。
そして更に東へ100里、かれこれ10q走ったあたりに不彌国有り。
理由無し、根拠無し、しかし陳寿の記述通りに自転車をこげば、たった半日で答えが出る。グーグルマップなら ほんの数分で結果が出る。不彌国は吉野ヶ里だ。 >>448
九州説こそ勝てない悔しさで畿内説スレを荒らすのをやめれば >>439
魏志倭人伝では邪馬台国は九州を通り過ぎた遠い南の沖縄か台湾と記述
一方畿内からは景初や正始と卑弥呼が魏と交流した頃の魏年号の入った三角縁神獣鏡の出土や
3世紀の前方後円墳の考古的な物証 >>462
魏志倭人伝には邪馬台国のある位置が九州を通り過ぎて会稽東治の東
つまり沖縄か台湾と書いてる
漢からの伝承に則って倭国の王都の位置を倭の極南界に想定した結果
魏志倭人伝に書いている邪馬台国の位置は実際の場所ではない >>453
それさ テンプレ見たら 出てくくるよ
ズレ主がいかにアホか分かるよ >>465
それは、トンデモ説だからだよ。 わははははは @阿波 >>466
はい、証拠が出せなかったので
また九州説の負け 畿内説支持者もも落ちぶれたな・・・過去を否定できないから意地なんだろうな
俺は最近九州説に傾いてるから 過去関係無いけど
畿内説の投稿者イカンよ言い言葉に返し言葉でよくないよ
感情も分かるけどさ ここはスレ主の意図を認識しようよ
畿内説を深堀するスレじゃねーの
畿内説を宣伝するスレじゃねーし
5ちゃんだからいいけどいさ・・
畿内説を論ずるにはバカが多いし
最近、畿内説を自信を持って吹聴する学者いないよ >>420
投馬国は広島だよ
吉備が邪馬台国だよ
石野さんの講義 聞いてる限りはネ >>425
日本人は少なからず朝鮮の血は引いてるよ
民族の板でも無いからスマソ >>469
そんなポエムじゃ
銅鏡や古墳など畿内が邪馬台国という考古事実は覆らないよ >>427
捨て台詞かいww
他でやったら・・・5ちゃんでぶつぶつ言うのもいいけどさ
ここで目立とうとしても無駄
論ずればいいけどさーー ヨコからすまん
桃の桃の話だけど・・・・・
なんなの・・・・・・・
夏?
柵?
吉備が多い?
ようわからんが、桃って畿内説の決め手の一部なの? >>474
魏志倭人伝には卑弥呼は鬼道(まじない)を使って民を率いるとあって
日本の古い神話にも桃は魔を払う力があると書いてるから
桃の種が畿内の纏向遺跡で見つかったのは魏志倭人伝にある
卑弥呼が行った鬼道の儀式跡ではないかと言われている >>475
夏以外はどうしてたのですか?
純粋な質問です。 >>476
恐らくは鉄剣を身に帯び畿内で見つかる魏鏡・三角縁神獣鏡やその他舶載鏡を用いて
太陽の光を反射させ人々を畏怖させていた >>476
よこからすいません
マキムクの掘立柱建物は宮殿でなく祭祀に使われてたと思います
邪馬台国との関連性は倭人伝にもとづく物証は巻向は少ないと思います
今後の調査に期待しましょう >>453
証拠は倭人伝でいいんでねーの
倭人伝ないと、邪馬台国も無いじゃん >>449
どのような技術ですか
円をどのように描くのが先進技術ですか
先進技術の円の描き方のやりかた説明してくれませんか 九州説の一部のバカの投稿はイカン
一部だけどさぁ
畿内説は一部どころかすべてイカン >>436
おなじみの投稿 お疲れさん
なんか論じたらWW >>482
それは阿波が大麻やってるからそう思うんだろ >>441
おなじみの投稿 お疲れさん
なんか論じたらWW 大麻の見せる幻覚で
邪馬台国が阿波と思い込んでしまった哀れな阿波 捏造言われたから畿内説学者も慎重になってきてるんだな
いいかげんなこと言うと首が飛ぶからな >>485
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
大麻といえば、阿波忌部。
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』 『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 @阿波 天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を太古から担う御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家は、
木屋平村の三木山山頂に居を構える。
貢(みつぎ)、あるいは三ッ木とも呼ばれる地名は、深く調進に関わる為でもあろう。 南北朝時代にあっては、山岳武士の頭目として南朝に関わった。
さて、この三木山こそは、太古の高天原であると同時に、天皇家の故郷でもある。このお山から御霊を大嘗宮へ運ぶ為には何か媒体が必要である。
つまり、依り代に付いて初めて示現されるのが神霊であるなら、「麻」こそ媒体であると云える。
古来より伊勢神宮の神札は神宮大麻と呼ばれ、御師が領布した御祓大麻を指すからだ。
後世、大麻(おおぬさ)は紙に変わってしまい、現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている。 @阿波 >>489
やっぱり阿波は大麻をやってる動かぬ証拠 >>420
「よくともなえし」「御友別」のトモで吉備を投馬国と比定してよいのではと思われ。
ただ、玉だとすると島嶼であった児島に5万余戸の城都があったとは思えないなあ。
とは言え玉には玉比盗_社が福江には木華佐久耶比盗_社と降臨二代の妻神様が御祭され、児島湾口は速吸門伝承が残されている。
興味深い。
2ねん >>379
>一旦、熊襲や狗奴國の姫氏本家筋と別れて、「委奴」の阿毎氏系と合流し、
そこでまた別れて「大野」に移り、
>この「大野」というのは大分県の大野市〜竹田市一帯のことではないか??
ここなら阿蘇にも近い、日向にも近い、北へ上れば日田市にも行ける。たしか、たくさんの鉄族が出土する所だろ。
ふーん。
豊後大野ですか。
しかし、「大野」の場所はまだどこも断定出来ません。
確率的には、太宰府の北方の大野が確率が高い、と思います。 >>397
>模倣制作始めたもっとも発展している博多が中心で
分布は福岡県全体(筑後南部を除く) 混沌としていない
筑紫の庄内は3世紀前半であり、
大和の庄内1は、石塚の3世紀末であるから、
筑紫は大和を模倣しておらず、
模倣したのは大和の方であり、筑紫からの「東征毛人五十五國」に拠って齎された。 リアルじゃ、お国自慢郷土史家レベルの研究者しか九州説唱えてないよな。
5chでホビーとして楽しむ分にはいいと思うけど、なんでここに寄生している九州論者は九州説定説確定のスタンスで振舞えるの?
謎だわ。
阿波は論外。 >>398
>倭人の風習である卜骨がまったく出ないので異人肥人は非倭人
卜骨は、倭人の風習というよりは、在地の毛人蝦夷や出雲系の習俗であり、
九州倭國の中心部では、卑弥呼の「鬼道」政治があったから、
ト骨は余りはやらなかった。 >>407
知らないのか?
このスレはとっくに敗北して狂った大和説の狂態ぶりを、
ニヤニヤしながら眺めるスレになってるんだよ
そんな事も知らないでよく大和説を名乗れるな >>497
>九州論者は九州説定説確定のスタンスで振舞えるの?
畿内説が実質的に存在しないから >>409
>王者の墓の祭祀に使われる土器が説明してくれるものは、政治であり宗教なんだよ>
筑紫の供献土器の庄内は、3世紀前半であり、
大和の供献土器の庄内は、3世紀末であるから、
筑紫が王者の墓の祭祀に使われていて、「東征毛人五十五國が大和を征服」して、
大和に伝わったのだよ。 >>410
説明能力のない大和説老人は、意味不明なことばかり呟いているな >>412
でも都合が悪くなると
「庄内式はぼくちんたち大和発祥だからそれが邪馬台国のしょうこだもん!」
とか言い出して
大和説の学者らも本当にそんなこと喚いてて
マジで笑った >>494
>一旦、熊襲や狗奴國の姫氏本家筋と別れて、「委奴」の阿毎氏系と合流し、
そこでまた別れて「大野」に移り
>ふーん。
豊後大野ですか。
しかし、「大野」の場所はまだどこも断定出来ません。
確率的には、太宰府の北方の大野が確率が高い、と思います。
「委奴」の阿毎氏系と合流したが、そこで別れたのに大宰府近辺では、分かれたことになるまいよ。
少なくともひと山ふた山超えた先でなくてはねえ、すると豊後大野のほうが相応しい。それにここには古代から大鉱山があった。 >>414
あー「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しのアホの大和説者は、
古墳まで大和起源とか喚いてるな
本当にバカの量産工場だな
ここにも工場からロールアウトされたバカがいっぱいるみたいだが >>416
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」や「省内も前方後円墳も大和は早い」などの、
ウソツキ騙しの大和説者は、
もう秩序だった攻撃は不可能になってるようだな >>417
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」や「庄内も前方後円墳も大和は早い」などの、
ウソツキ騙しの大和説者は、
理由聞かれただけで死ぬから >>418
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙しの文言を使う大和説の連中の話は、
見てるだけで一日中笑い転げられるくらいアホ丸出しだからな
あれをアホが集まって「その通りだ!」とか言ってると思うと本当に笑いが止まらない
で、そういうアホがここにきて発狂してさらに笑いものになると
みんなに笑顔を提供する素晴らしい集団だな >>420
>投馬国は前は広島の鞆と見ている人が多かったが、今は岡山の玉と見ている人が
多いのな オレも岡山の玉のような希ガス
投馬国の当時の発音はタウマコクだから玉の方が近い
「南≠東」だけで、×。 >>495
大麻は邪馬台国の会が密売してて九州説の資金源になってると聞いたけど >>427
はいみなさーん
大和の猿が庄内式を大和のものだい!だから邪馬台国だい!
とか泣き叫んでるレスですよー
「このスレ」ですよー
都合によって幾らでも話を変えますよー
大爆笑ですwwwwww
流石は「南→東」などの嘘つきだましの大和説者
笑いの天才だ 九州説の工作員は支給される大麻を吸いながら
24時間に渡ってスレ荒らしをしてるという噂も >>428
>>記紀によると、九州北部の王族の祭祀は、桃ではなく、榊にかけた三種の神器だったようだ。
>それは降伏儀礼なー
いや、地域王同士の三種の神器を示し合いしての、エールの交換
>>土器は下級の祭器
>明らかに間違い 首長墓から出る
いや、土器は、三種の神器よりは下級の祭器 >>432
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などの史料事実の曲解否定の嘘つき騙しの、
名物の大和説の猿踊りが今日も楽しめる
自粛ムードでも娯楽を提供してくれる大和説に幸あれ >>435
いくら喚いても、
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実で、
全部無駄になる大和説は哀れ >>972
政治犯の動機を常に矮小化して隠蔽するのはジャップランドの国技
安重根
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%87%8D%E6%A0%B9
別の日の陳述で、伊藤は韓国の逆賊であるだけでなく日本の大逆賊でもあり、
伊藤が孝明天皇を殺したという14番目の理由の説明を口にしかけた時には、
過激発言であるとして真鍋裁判長の判断で公聴は途中で中断され、傍聴人には退廷が命じられた[注釈 40][52]。 >>436
ぼくちゃんがしらない
ぼくちゃんがみとめない
これが反論だと思ってるバカが大和説
今日もその猿踊りが楽しめます >>438
このように、すぐ罵り100%になるのが大和説敗北のサイン >>440
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などの、
史料事実の曲解否定の嘘つき騙しの大和説者の作り話集団は、
人種的に史料事実からの研究は認めない .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. >>443
だって大和説者は、史料事実を何にも知らないんだもん
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などの嘘つき騙しのデマしか見たことないんだから >>444
なんだな
>古代の鉄や人骨は結構出土してるからな・・・
畿内だけ少ないとは言い切れる理由あるの
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この大和説男は×であるし、
大和の鉄器は3世紀最末〜4世紀のホケノからであり、
卑弥呼とは全く年代が違うの。
>土壌がどうのこうのと解説してた奴いたけど
畿内は同一土壌なのかな
潮害で鉄が錆びやすい畿内でもないし
大和は、海が遠くて塩害がないから、錆びにくいの。 >>447
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者の、
科学知識が犬猫並みという証明ありがとう >>451
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料実態の否定曲解の、
嘘つき騙しをした大和説者のような、
おかしなイチャモン付ける人を嫌いになるのは
世間的にはは逆恨みと言いませんが >>455
>具体的に指摘出来なければ単なる悪口なので
九州説がまた論争に破れた証拠になります
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などのような、
史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの指摘に、
具体的な史料事実に拠る反論が出来なければ、
単なる悪口なので
大和説がまた論争に破れた証拠になります >>457
もう「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などの史料事実の曲解否定の嘘つき騙しの大和説を、
信じてる国民も世界の人類も、いないだろ
信じているのは、・・・・アホ詐欺師の大和説者や大和説学者らだけ。 >>463
>九州説こそ勝てない悔しさで畿内説スレを荒らすのをやめれば
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×だし、
大和説者こそ勝てない悔しさでスレを荒らすのをやめれば >>464
>魏志倭人伝では邪馬台国は九州を通り過ぎた遠い南の沖縄か台湾と記述
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
不彌國で萬二千よりがほぼ終わっているから、邪馬壹國女王之所都は筑紫にあり、
「九州を通り過ぎ」ないから、この大和説男は、×。
>一方畿内からは景初や正始と卑弥呼が魏と交流した頃の魏年号の入った三角縁神獣鏡の出土や
3世紀の前方後円墳の考古的な物証
「畿内」なんても存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この大和説男は×であり、
列島出土の景初鏡や正始鏡は、景初3年以後であるから、
景初3年元旦以前に亡くなった明帝鏡ではなく、
「海東鏡」などの存在に拠って、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であるから、×。
また大和の前方後円墳は、3世紀末の石塚以後であるから、
卑弥呼とは全く関係がなく、×。 むちゃくちゃ支離滅裂な呪詛だな
これもう完全に荒らしだろ >>465
>魏志倭人伝には邪馬台国のある位置が九州を通り過ぎて会稽東治の東
つまり沖縄か台湾と書いてる
書いていないから、×。
>漢からの伝承に則って倭国の王都の位置を倭の極南界に想定した結果
魏志倭人伝に書いている邪馬台国の位置は実際の場所ではない
後代史書の後漢書は、後代での自己解釈に拠る書き換えが多い半分×書であるから、
根拠にならず、
同世紀の魏の役人らの実地の見聞計測記録の魏志の方がはるかに信頼性が高いから、
この男は×。 基地外は全部消してるから
レス番がものすごい飛んでるから「あー今日も九州説のバカ猿が透明な中で喚いてんだなー」と笑えて面白い >>526
伊都国から卑弥呼の都まで水行30日。
これ読んで卑弥呼が九州にいるなんて思う人はいない。 ここ畿内説を披露するスレにしては
何してるのか
畿内説のスレとしてはお粗末だよ
阿波がいいかな 巻向はさーー
大和王権と関係あるかも知れんがなーー
邪馬台国と結びつけるにはーーーー
反対だなーーー >>468
>はい、証拠が出せなかったので
また九州説の負け
はい、それ、
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実や史料実態の証拠に拠って、
また大和説の負け。 >>470
>投馬国は広島だよ
吉備が邪馬台国だよ
「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠って、×。
>石野さんの講義 聞いてる限りはネ
それなら、石野も、×ね。 >>513
>>それは降伏儀礼なー
>
>いや、地域王同士の三種の神器を示し合いしての、エールの交換
日本語で言うと、神威を示すっていうことだ。
神とは王族のことだからね。 >>532
>伊都国から卑弥呼の都まで水行30日。
>これ読んで卑弥呼が九州にいるなんて思う人はいない。
脳内魏志倭人伝? 初期大和王権の研究としてマキムクを語ったほうがよいよ
マキムク」は古墳造営基地、初期大和王権の首都は何処か探っったらいいよ
邪馬台国は畿内という必要無いよ
初期大和王権は奈良でもいいよ
大和王権はそれなりにあったけど邪馬台国と無理やりつなげる必要無いよ
結論
邪馬台国は畿内なかったでいいよ >>472
>そんなポエムじゃ
銅鏡や古墳など畿内が邪馬台国という考古事実は覆らないよ
畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから×であるし、
大和の纏向の銅鏡は3世紀最末〜4世紀のホケノ以後だし、
前方後円墳も、3世紀末の石塚以後であるから、
卑弥呼の3世紀前半とは合わず、×。
いずれも、九州倭国からの「東征毛人五十五國」が齎したの。 >>537
>ああ言えばこう言うキナイコシ<
ごもっとも
レベルでもねーよ
キナイコシのバカにつける薬はないし
ああ言えばこう言う
「こう言う」レベルの投稿でもねーし
キナイコシは「ああ言えばこう言う」のレベルじゃないし
バカに付き合うあんたは偉いと思うよ >>475
>魏志倭人伝には卑弥呼は鬼道(まじない)を使って民を率いるとあって
日本の古い神話にも桃は魔を払う力があると書いてるから
桃の種が畿内の纏向遺跡で見つかったのは魏志倭人伝にある
卑弥呼が行った鬼道の儀式跡ではないかと言われている
倭人伝には、卑弥呼が桃を使ったとも書いていないし、
倭地の桃があった、とも書かれていないから、
「桃」は根拠にならず、大和説は×。 >降伏儀礼
日本の皇室が神代から伝わる三種の神器を祀ってるから
北部九州の異民族も同様にして恭順の意を示したという意味だな
全く違う物を掲げて現れたら戦争しに来たかと思うからな >>477
>恐らくは鉄剣を身に帯び
魏使らは「鉄剣をみた」とは記録していないから×。
>畿内で見つかる魏鏡・三角縁神獣鏡やその他舶載鏡を用いて
太陽の光を反射させ人々を畏怖させていた
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから×であるし、
△は魏鏡ではなく渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であるし、
大和の△は4世紀であるから、×。 >>545
史料全く読んでないことを告白してる
これだから九州説は世間に通用しない >>541
同意するが
九州かどこか知らん邪馬台国か倭国連合が
その後畿内を制圧したかの議論じゃねーの
スレチですまんが
流れ的にここ邪馬台国畿内説と関係ないスレ化してるよ そもそも、巻向を邪馬台国の王都とした時点で
大和説は終わったよ・・ >>543
こんな悪口しか言えない人と鸚鵡返し男じゃあ
第三者が見れば九州説が破滅してることは明白だな >>548
それは暇で無内容な九州説が口数だけ多いせいだな >>493
>「よくともなえし」「御友別」のトモで吉備を投馬国と比定してよいのではと思われ。
「南≠東」などに拠って、×。 >>547
史料って何
倭人伝が基本だろWW
記紀神話と対峙するなよ
7世紀と3世紀を混同する、他説の一部の馬鹿も✖ >>541
七行も書いて、一言も理由の書いてない投稿
九州説のダメさが際立つな >>497
リアルじゃ、お国自慢郷土史家レベルの研究者しか大和説唱えてないよな。
5chでホビーとして楽しむ分にはいいと思うけど、
なんでここに寄生している大和論者は、
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」のような史料事実の曲解否定の嘘吐き騙しをしてまでして、
大和説定説確定のスタンスで振舞えるの?
謎だわ。
阿波は論外。 >>548
すまん おれ九州説も疑いをもってるよ
しいて言えば、吉備説よりかな
大和説はないよ 物証が少なすぎる >>506の訂正
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」や「庄内も前方後円墳も大和は早い」などの、
ウソツキ騙しの大和説者は、
もう秩序だった攻撃は不可能になってるようだな >>557
そうかい?
具体的なこと何も言わない特徴から
てっきり九州説の人かと思った >>558
オウム返しばっかりしていてバカに見えるって気づかないの?
いい年して分別がないな >>548
>その後畿内を制圧したかの議論じゃねーの
制圧とか、好きだね〜 そんな殺伐としたもんじゃないよ。 倭国(阿波)の最先端文化を喜んで享受しただろう。 @阿波 446 450 466 469 470 471 473 474 476 478
479 480 481 483 484 486 533 535 541 543
548 549 554 557 >>532
>伊都国から卑弥呼の都まで水行30日。
これ読んで卑弥呼が九州にいるなんて思う人はいない。
不彌國や邪馬壹國女王之所都で、「萬二千余里」がほぼ終わっているから、
これ読んで、卑弥呼が九州にいない、なんて思う人はいない。 >>550
キナイコシってお前かいWW
桃は夏限定と言った奴はスルドイな
反論しろよ
祭祀は夏限定かいWWWW >>564
突然論理が飛躍してそんな結論が出る理由は? >>545
>日本の皇室が神代から伝わる三種の神器を祀ってるから
大和王家は、神武らは三種の神器を持っておらず、
持てたのは、九州倭国の「東征毛人五十五國」に征服されてからであり、
という事は、征服軍は伊都国の阿毎氏系であった可能性が高いの。
>北部九州の異民族も同様にして恭順の意を示したという意味だな
全く違う物を掲げて現れたら戦争しに来たかと思うからな
北部九州には、伊都国と同じの阿毎氏系が多かったから、
三種の神器を持っていた部族も多かったの。
そして、部族に拠って三種の並べ方を変えたり、
個々の神器も、少しずつ形を変えたりして、
自分らの部族国の印章のように使ったの。 >>547
「南≠東」や「正北抵新羅の隠蔽」などのように、
大和説者は史料を全く読んでないことを告白してる
これだから大和説は世間に通用しない >>550
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しや、
こんな悪口しか言えない人や、
「鸚鵡返しされ」男じゃあ
第三者が見れば大和説が破滅してることは明白だな >>551
それは、
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などの史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しや、
暇で無内容な大和説が
口数だけ多いせいだな >>555
二行も書いて、一言も理由の書いてない投稿
大和説のダメさが際立つな >>559
そうかい?
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実の否定や、
具体的なこと何も言わない特徴から
てっきり大和説の人かと思った >>560
{オーム返しされ」ばっかりされていて、バカに見えるって気づかないの?
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説者らは、
いい年して分別がないな >>545
神武も筑紫の産まれなのだから、同族だという証拠を掲げていたことになる。
三種の神器はすぐに用意できるようなものでもないしね。 >>557
吉備は筑紫から大和への中間地点にすぎない。
弥生文化は筑紫に上陸した。
そして近畿では最後に開拓されたのが大和など内陸部。
大和には吉備などの文化が流入しているが、それさえも起源はさらに西、九州北部だよ。 >>562
自演しまくりだな
ビョーキだとしか思えない 中国の研究者は圧倒的に九州説なんだろ?
やっぱり畿内説なんか政治的理由で国内のみでゴリ押しされてる説じゃないか >>553
24時間監視してなくても名前のとこに投稿時間が出てる
一方九州説のほうは24時間書き込んでいる事を容認
やはり薬の力か >>578
九州説は人数が多いのですよ。
畿内説は、自分たちが妄想にしがみついている少数派だということを自覚するべき。 >>579
うそ
妄想にしがみついている老人の暇に開かせた大量投稿と自演ばかり 九州説が必死に反論してると
連続句読点は書き込まない
これ、豆な >>577
倭人伝は中国の書物だからいいんでねーの >>573
>神武も筑紫の産まれなのだから、同族だという証拠を掲げていたことになる。
三種の神器はすぐに用意できるようなものでもないしね。
会見をした神武とニギハヤヒも三種の神器を持っていなかったようだし、
おそらく五瀬命も持っていなかった。
という事は、五瀬命も神武もニギハヤヒも、天孫族の阿毎氏の王族クラスではなかった、
という事。
だから、大和の三種の神器は、3世紀後半の九州倭国の東征毛人五十五國が大和を征服したおりの、
その征服将軍の、筑紫の阿毎氏系の王族の者が齎したものであったんだろう、
という事になるな。
また、卑弥呼は、(阿毎氏ではなく)姫氏であったし、
委奴の地から分家した末裔に当たるから三種の神器は所有していなかった可能性もあるが、
317年頃に倭国が(糸島付近から)筑後〜久留米付近に遷都して東海姫氏國が始まった後、
高良大社が三種の神宝の奉納の祭り?をしているので、
倭の五王らも、三種の神器をお宝にしていた可能性がある。 >>584
バカすぎ
東に毛人を攻め
西に衆夷を攻め
って書いてあるのになんで九州を想定するんだよ
九州は攻められた「衆夷」の側だろ >>584の訂正と追記
という事は、五瀬命も神武もニギハヤヒも、天孫族の阿毎氏の「王」クラスではなかった、
という事。
また、壹與の平原1号は、三種の神器を副葬されているから、
彼女は、天孫族系の阿毎氏の王であった、と認められていたんだろう、
という事。
また、壹與も「イ(ッ)ヨ」であるし、磐井も「イワイ」であるし、
どちらも、天孫族系の阿毎氏(アマ+イ=天や海+伊)の「伊=イ」の呼称を持っている。 >>586
「認められていた」ってなんだよ
「誰かに認められなきゃ王になれない」って時点で「上位者がいる」ってことで大王ではないって自分で言っちゃってるじゃんアホやな しかも三種の神器ってお前さ
代々皇位継承で受け継いでくものだろ?
埋葬したらダメじゃん
埋葬してる時点で三種の神器ちゃうやん
そういうことなんもわかってないし整合性取れてないからな 九州王朝が三種の神器を代々受け継いでいたというなら
それがどうやって畿内政権に持ち込まれたのか、
そのプロセスを考えたら?そこ曖昧にしても誰も納得させられんよ
畿内政権が九州王朝を倒して三種の神器を引き継いだとして、
なんで負けた側の文化を引き継がなきゃいけないわけ?w
意味わからんだろ >>584
>バカすぎ
東に毛人を攻め
西に衆夷を攻め
って書いてあるのになんで九州を想定するんだよ
九州は攻められた「衆夷」の側だろ
勿論根拠は、「南≠東」や、
「正北抵新羅」などに拠って、唐代まで倭国の中心は北部九州であった事と、
倭王武の上表文の「西服衆夷六十六國」の「服」の本来の意味は、
(征伐するという他動詞ではなく)「服する=服属している」という自動詞であり、
「東征毛人五十五國以前に服属化が終わっていた」という意味である事などだ。 >>589
>天孫族系とか阿毎氏とかファンタジー入り過ぎ
「忌部一族」の活動を勘違いしているだけ。 @阿波 >>589
アマ氏というのは遣隋使のときの自称だな
重要なのは「はじめて中国と通じた」と言ってる点で
倭奴国も卑弥呼も倭の五王も関係ないと言ってるわけだ
継体天皇即位がほぼほぼ王朝交替だったということだな
中国側には「古の倭奴国なり」と認識されてるけど倭国側には継体でリセットという認識があったと >>591
以前に服属化が終わってたってなんの説明にもなってない
「以前からかどうか」という「時期の問題」を聞いてるんじゃない
「場所の問題」を聞いてるんだよ
以前から征服してたんだ、というのなら、つまり本国はそこよりも東にあったと自分で言っちゃってるじゃねーかwアホか >>591
>勿論根拠は、「南≠東」や、
>「正北抵新羅」などに拠って、唐代まで倭国の中心は北部九州であった事と、
素人解釈が特異すぎて説得力ないわー >>586
>「認められていた」ってなんだよ
「誰かに認められなきゃ王になれない」って時点で「上位者がいる」ってことで大王ではないって自分で言っちゃってるじゃんアホやな
認めるのは、当然30國の諸王たちであり、
また、当初に壹與を宗女として認めた卑弥呼であり、
平原埋葬時点では、天孫族の阿毎氏らの伊都国王らだ。 唐代までってのは
たぶん白村江敗戦時に都督府が太宰府に置かれたこととか
責任者として天皇ではなく筑紫君サチヤマが連行されたこととか
それを根拠に言ってるんだと思うんだけど
確かにそれは別の謎として残るけど
そこから「ずーっと九州王朝があった」というのは飛躍のしすぎ >>596
まず、博多沿岸は無理だぞ
あんな武器持った外国人がひっきりなしに来るようなところに都は長く置けない
伊都国の最盛期は2世紀じゃん
それ以後なんかあるわけ?
都置くならさ、太宰府以南だろ
太宰府に兵団を置いて、都を守るわけじゃん 伊都国だ三種の神器だ言ってる奴は、
その2世紀の最盛期を点で見てるだけだからな >>593
関係ないというか、資料が残ってないからわからなかったということだろうな
特に倭奴国時代のことなんかは何もわかってなかったと
神功皇后(あるいは彼女に仮託された実在の将軍)のことはかろうじて残ってたんだろうけど >>588
>しかも三種の神器ってお前さ 代々皇位継承で受け継いでくものだろ?
埋葬したらダメじゃん
埋葬してる時点で三種の神器ちゃうやん
そういうことなんもわかってないし整合性取れてないからな
亡くなる時に、自分の王権や部族内での首長権を、継承する者がいなければ、
自分の墓に副葬して貰うしかないし、遺族もそうするしないんだよ。
継承するものがおれば、当然その者に継承させる。
壹與の平原1号墳は、まさにその例証だな。 >>588
>しかも三種の神器ってお前さ 代々皇位継承で受け継いでくものだろ?
埋葬したらダメじゃん 埋葬してる時点で三種の神器ちゃうやん
そういうことなんもわかってないし整合性取れてないからな
死は突然やって来る事が多いものであり、
普通は、次の王位継承者を指定して置くもの。
突然死があって、王位継承者が決まっておらず、別部族の首長が継承しそうであったんなら、
遺族は、自分らで保持して行くか?、亡き王の墓に副葬するしかない。 >>601
それのどこが例証なんだ?
他人にわかるように説明してみ >>590
>九州王朝が三種の神器を代々受け継いでいたというなら
それがどうやって畿内政権に持ち込まれたのか、
そのプロセスを考えたら?そこ曖昧にしても誰も納得させられんよ <
三種の神器は、列島での単一政権王家にのみ継承されたものではない。
大和王の三種の神器は、
大和王が天孫族の阿毎氏王家の東征毛人五十五國の将軍王であったから、継承された。
当然、北部九州には、三種の神器を所持した部族王も沢山いた。
>九州王朝が三種の神器を代々受け継いでいたというなら
畿内政権が九州王朝を倒して三種の神器を引き継いだとして、
なんで負けた側の文化を引き継がなきゃいけないわけ?w
意味わからんだろ<
磐井からサチヤマまでは、(大和と)同じ天孫族の阿毎氏の王家。
しかし、東海姫氏國の神職家であった高良大社の「三種の神宝」祭祀は、
現在も続けられている。 平原の小墓を過大評価し過ぎだ。
あそこは伊都国なんかではない、あの墓は倭奴国の王族の一人とその親族にすぎぬ >>605
それ、ぜんぶ素人さんが頭の中だけで考えたお話だろ 曹操の後漢〜魏までの時代(倭人伝の時代)と、
その後の晋以降〜の時代をごちゃ混ぜにしてはだめだよ 時代が変わるということは、
国を指揮していた王・王族も変わるということだ。
阿毎氏王家が常に主流であったのではない。ヒト・クニ・地域の興亡交代は常々あったこと、、。 >>593
>アマ氏というのは遣隋使のときの自称だな
開皇末の遣隋使は、初めて、
九州俀國の「阿毎、多利思北孤」の遣使と、
大和日本国の「阿毎氏」の遣使の小野妹子の、両方が行き、
小野妹子の「日本國の名乗り」は。隋文帝に拒否された。
>重要なのは「はじめて中国と通じた」と言ってる点で
倭奴国も卑弥呼も倭の五王も関係ないと言ってるわけだ
倭奴国は、九州倭国にとっても最古クラスの母国であり、
大和日本国にとっては、神武らの出身国そのものです。
>継体天皇即位がほぼほぼ王朝交替だったということだな
中国側には「古の倭奴国なり」と認識されてるけど倭国側には継体でリセットという認識があったと
いえ、継体は反乱しただけで、九州倭国を支配するまでには至らず、
九州倭国の王家にまた参加出来た、という事止まりであり、
だから、中国には殆ど知られず関係もなく、
だから、小野妹子の「日本国の名乗り」は、隋文帝に拒否され、
認められたには、唐の「武徳」中になってから。
大和日本国が母国の九州倭国を併合吸収継承出来たのは、
白村江の後の701年頃から。 >>610
だから、其の倭奴国と、卑弥呼国・大和国・九州王朝との関係が時系列的にうまく整理されていないんだよ。 卑弥呼様は天照大御神様や斎王や大和の媛命の中で生きているのです。 >>610
博多湾岸にあった倭奴国の歴史:
倭奴国(後漢)→卑弥呼国(魏)→台与国(晋)→九州王朝(南北朝)→阿毎氏(隋)→大宰府朝(唐)・・・
こんな風に直線的に考えているんだろ、創作日本史・博多万世一系説だな。
しかし歴史は、そう簡単にはいかなかったんだよ。 どっかのスレでも書いたけど
古田の多元王朝説は正しいと思うけど
畿内と九州の二元論に持って行こうとするならそれは多元王朝ではなく二元王朝説だろとw 卑弥呼(アマテラス)はヤマト、投馬国は出雲。
二十余りの国は西日本の国。
女王国の運営は様々な地域の有力豪族の話し合いによって行われていたと思われる。
ヤマトの有力豪族は三輪氏、葛城氏、賀茂氏、物部氏など。
物部氏のルーツは九州にあると思われる。 >>620
>ヤマトの有力豪族は三輪氏、葛城氏、賀茂氏、物部氏など。
それみんな、「忌部一族」の細分化豪族名。 @阿波 テンプレが単なる想像文だという事が判明した畿内説あわれ >>622
と、想像文を書くしか反抗の術がない九州説あわれ >>620
>ヤマトの有力豪族は三輪氏、葛城氏、賀茂氏、物部氏など。
「各豪族の本貫地」
三輪氏=徳島市国府町「大御和神社」周辺地域
葛城氏=鳴門市北灘町「葛城神社」周辺地域
賀茂氏=旧美馬郡三加茂町「鴨神社」周辺地域
物部氏=旧麻植郡山崎「忌部神社」周辺地域
中臣氏=板野郡板野町周辺地域
蘇我氏=石井町「曽我氏神社古墳群」周辺地域 奥山は既に、脳を壊死させる新型コロナに、感染しているのでは、ないのかな。。。 まだ同じ話をしているの?
何度も書いている事なんだけど、頭が悪いんだろう。 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. 弥生初期
九州 イザナギにより能古島で倭国建国、稲作拡大
本州 スサノオが日本海から全国へ農業を広める
弥生中期
九州 筑紫生まれの大山祇や大国主らによる倭奴国の最盛期、前漢に朝貢し内行花文鏡をもらう
本州 大山祇の子である三島溝杭耳らにより瀬戸内から近畿の稲作拡大
弥生後期
九州 伊都に遷都した天孫ニニギらが後漢に朝貢し金印と内行花文鏡をもらう
本州 三島溝杭耳の末裔である鴨一族と天孫ニギハヤヒの王権
弥生末期
九州 倭国は乱れ天孫族が九州脱出、収拾のため伊都で卑弥呼共立へ、滅亡した漢王朝のかわりに国産の内行花文鏡である平原遺跡の八咫鏡を製作
本州 ニギハヤヒの物部王朝に神武が合流して大和王権の基礎となる
古墳時代初期
九州 再びの乱を収拾するため壹與共立へ、続いて八咫鏡を継承した神夏磯姫が景行と共闘、沖ノ島の合同祭祀の規模拡大へ
本州 崇神により大和王権は拡大征服路線へ、八咫鏡を宮から追放し伊勢へ
古墳時代前期
九州 仲哀が筑紫に迎えられるが崩御、神功皇后が神夏磯姫の末裔の田油津姫を倒し筑紫を統一へ
本州 神功皇后の子で筑紫生まれの応神による統一王朝へ >>601
>壹與の平原1号墳は、まさにその例証だな。
倭国大乱後の最初の女王墓なんだから、平原遺跡は卑弥呼だろ。
壹與は祇園山かどこかだろう。 >>598
>伊都国の最盛期は2世紀じゃん
>それ以後なんかあるわけ?
考古学的には最盛期は4世紀くらいですよ。
2世紀はただのデマ。 >>597
>確かにそれは別の謎として残るけど
>そこから「ずーっと九州王朝があった」というのは飛躍のしすぎ
国号変更がヒントだよ。
白村江の後で国号変更が行われている。 >>590
>畿内政権が九州王朝を倒して三種の神器を引き継いだとして、
>なんで負けた側の文化を引き継がなきゃいけないわけ?w
>意味わからんだろ
だよね。
だから、実際には九州北部博多湾沿岸勢力が畿内を征服したんだよ。 >>636
いつ?
何天皇のときに?
何天皇として即位したの? >>634
>考古学的には最盛期は4世紀くらいですよ。
それ、どんな考古学?
学者のいない考古学? >>639
考古学者は想像学であって考古学をまっとうする人は居ないよ >>598
>伊都国の最盛期は2世紀じゃん
それ以後なんかあるわけ?
平原の後も、一貴山銚子塚や、端山や、築山などがある。 九州説のアホは毎度平気な顔で古墳出土持ち出すあたり頭湧いてるな >>599
>伊都国だ三種の神器だ言ってる奴は、
その2世紀の最盛期を点で見てるだけだからな
平原は、3世紀の第3四半世紀頃。
一貴山銚子塚は、3世紀。第4四半世紀頃。
端山と築山は、3世紀末から4世紀頃。 >>643
お墓しかないのかね? お粗末すぎないかい? 伊都国らしい集落遺跡はないの? わははははは @阿波 墓があれば都があったというヤツはけっこう多いな。
バカの都。 糸島中学代用教員だった原田大六もそうだったな。
箸墓は卑弥呼の墓で、だからその傍に女王の都があったはずと主張した。 糸島は後世まで朝鮮人が住んでいたところで
式内社は1社しかない >>614
>卑弥呼様は天照大御神様や斎王や大和の媛命の中で生きているのです。
大和は、「南≠東」などに拠って、×です。 @5号墓(弥生後期初頭)
・5m方形墳丘墓
・前漢鏡破片
A1号墓(2世紀後半。3世紀末中説もあり)
・14m長方形、方形周溝墓
・ほぼ全て国産鏡。残りは古い時代の鏡
・素環頭太刀、玉片多数
・方形周溝墓、粘土槨、刳り抜型木棺、20mの大柱
B2号墓(弥生週末〜古墳時代前期)
・7m方形墳墓。船形木棺
・副葬品無し
C3号墓(古墳時代前期)
・6m円墳
・白玉、ガラス玉、鉄鏃
D4号墓(古墳時代前期)
・6m円墳
・副葬品無し
E古墳時代中期
ワレ塚古墳(43m前方後円墳)、是木瓶塚古墳(50m前方後円墳、狐塚(33m円墳)
これが平原遺跡、及びそれに後続する曽根遺跡
番号は築造順 >>619
という、
根拠のない「南→東」などの史料事実の曲解否定の嘘つき騙しの大和説の、
迷妄 この平原、曽根遺跡の状況を見て邪馬台国だ卑弥呼だとか
九州説はどんだけ自分に大甘なんだか >>620
>卑弥呼(アマテラス)はヤマト、投馬国は出雲。
「南≠東」などに拠って、×。 橋山古墳(古墳時代前期)
・80m前方後円墳
築山古墳(古墳時代中期)
・60m前方後円墳
これが近辺にある古墳 >>623
と、
「南≠東」や「正北抵新羅」などの史料事実に拠って否定され、
想像文を書くしか反抗の術がない大和説あわれ >>655
20mの大柱は馬韓伝に書かれている「立大木縣鈴鼓事鬼神」
近くの浦志遺跡から弥生後期〜古墳前期の朝鮮式小銅鐸が出ている >>661
九州説が可哀想だから諸説の中で一番都合のいい物も書いてやった
後で「3世紀だ!」とか喚かれても鬱陶しいから
それでもこの有様だけどな 卑弥呼の死後、男王が立ったが国は治まらなかった。
壹與が女王になってようやく治まった。
男王は大物主、壹與は大田田根子。
その後、崇神が初代天皇になる。 平原は、倭奴国王家出入りの小金をためた御用商人の墓ってところだな。 主観を排除して都合のいい説を入れてやってもこの体たらくだからな
どんな妄想で九州とかほざいてんだか 東海政権の纏向古墳造営基地局一帯はもう掘らないのか? 『なんといっても、人が生活していたという「生活臭」が感じられません。
大きな建物については、三輪山信仰に関わる施設だった可能性があります。
あるいは、周辺の大型古墳群造営のための「古墳造営キャンプ」である、という説(酒井龍一氏、奈良大学名誉教授)もあるようです。
長年発掘調査にあたってこられた関川尚功氏(元橿原考古学研究所)は、
”纏向遺跡を含む遺跡群と大型古墳群の位置関係と時期の近接性は充分根拠になり得るであろう。”
として、肯定的な見解を示してます。』 >>638
>いつ?
何天皇のときに?
何天皇として即位したの?
大和の天皇が出来たのは天智以後であり、
それまでは大和には天皇はいなかったから、×。 >>670
これを公金横領とか罵るひとに良心は無いのだろうか >>639
>>考古学的には最盛期は4世紀くらいですよ。
>それ、どんな考古学?
学者のいない考古学?
伊都の(黄金鏡などの)一貴山銚子塚は、3世紀末であり、
端山や築山は、4世紀初頭頃。
しかし、楽浪滅亡や西晋朝滅亡などの大陸での戦乱の波及を恐れた倭國は、
317年頃に筑後〜久留米付近に遷都した。 >>640
>平原1号は学術調査によって200年頃
平原1号墳は、21枚もの「尚方作」の方格規玖鏡があり、
明帝の下賜の銅鏡100枚の一部だとせざる得ず、
従って、240年頃以後。
そして、錆色塗装もされているから、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与もあった鏡。 >>645
「南→東」や「正北抵新羅の無視」や「21枚の尚方作鏡を無視」などの、
史料事実の無視や曲解の嘘つき騙しの大和説のアホは、
毎度平気な顔で古墳出土持ち出すあたり頭湧いてるな >>646
>墓があれば都があったというヤツはけっこう多いな。
バカの都。
平原には「21枚の尚方作鏡などや大量の玉のあるなど鏡と玉の女王」であり、
一貴山銚子塚は、黄金鏡も出ている。 一貴山銚子塚は三角縁が出土している事から定型化後の古墳となる
これは毎度九州説が喚き散らしている事だから納得の事だろう
同時期に平原遺跡の後裔の曽根遺跡群が継続して古墳を形成している事から伊都国の人間ではない
定型化後の?製三角縁が副葬される等、様式からして畿内の強い影響下にある人物の墓
それこそ一大卒のような伊都国を監視する立場の人間と思われる
これまで古墳は主に奴国周辺に展開していたがこの時代に来て糸島にも大型墳丘墓が建造されている
この事から畿内の九州支配がより明確に進行した証拠と言えるだろう >>654
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」や、
「史料事実や史料実態の曲解否定の嘘つき騙し」などの、
こういう非常識発言も大和説の信用を落としまくる 纏向で唯一の成果である大型建物と桃の種が関係無い事が判明してしまった畿内説あわれ まず一貴山銚子塚の副葬品と平原の副葬品に連続性のようなものは見いだせない
平原の特徴である超大型鏡や、大柱などの特性もなく、両者に同一の系譜を見出すことはできない
むしろ、それまでの平原の流れと全く異なる畿内系、特に定型化後の様相が色濃く表れている
上述のように平原にはその後裔の曽根遺跡群の古墳が継続して営まれているので系譜的に全く別の存在と考えるべきだろう >>610
博多湾岸にあった倭奴国:
・倭奴国(後漢)→卑弥呼国(魏)→台与国(晋)→九州王朝(南北朝)→阿毎氏(隋)→大宰府朝(唐)・・・
こんな風に直線直列的に考えているんだろ、つまりは博多の万世一系論者。 >>685
そんなニセ情報で遁走を図る九州説こそが哀れだよ >>657
>この平原、曽根遺跡の状況を見て邪馬台国だ卑弥呼だとか
九州説はどんだけ自分に大甘なんだか
3世紀後半頃から、九州倭國の諸王らは東征毛人五十五國に出払ってしまい、
諸王らは、東征地での王になってしまってそこに定住定着するものが多く、
だから、筑紫や伊都は逆に手薄になってしまって、
そこへ、楽浪滅亡や西晋滅亡があったために、
九州倭國は、317年頃に、伊都の地から、筑後〜久留米付近に遷宮したの。 >>662
>20mの大柱は馬韓伝に書かれている「立大木縣鈴鼓事鬼神」
近くの浦志遺跡から弥生後期〜古墳前期の朝鮮式小銅鐸が出ている
ふーん。 >>664
>卑弥呼の死後、男王が立ったが国は治まらなかった。
壹與が女王になってようやく治まった。
男王は大物主、壹與は大田田根子。
その後、崇神が初代天皇になる。
大和に「天皇」なんて存在もしなかったから、×であるし、
「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠っても、×。 >>667
大和説者の「南→東」や「正北抵新羅」などの史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの、
主観を排除して都合のいい説を入れてやってもこの体たらくだからな
どんな妄想で大和とかほざいてんだか なんでも畿内の物を欲しがってそれを邪馬台国の証拠だとか喚いてるアホ
それが九州説
逆に言えば「畿内に邪馬台国があると揺るぎようがない」と観念してるからその要素を盗もうとしてると
庄内式が邪馬台国の証拠だから欲しい!
古墳が邪馬台国の証拠だから欲しい!
三角縁が邪馬台国の証拠だから欲しい!
一番の畿内論者は九州説自身だなw
笑わせてくれるよな
熱心に支持してくれて有難い話だ >>673
そうやって誤魔化して逃げてもまともに会話できないバカかなコイツってなるだけだぞ
記紀に記された王のうち、どの王の年代に当たるのか?って聞いてんだよ
それとも天智以前の王名はすべて非実在の捏造とでも? 末盧國←松浦
伊都國←糸島
奴國←福岡市
不彌國←宇美
投馬國←玉
邪馬壹國←大和 各国の官名に注目しろ
記紀に出てくる人間がいるだろ
伊都国の官名なんか記紀の有名人じゃん そして邪馬台国の官名だよ一番重要なのは
そこを見なさい >>682
>一貴山銚子塚は三角縁が出土している事から定型化後の古墳となる
これは毎度九州説が喚き散らしている事だから納得の事だろう
筑紫の△が3世紀前半末だし、前方後円墳も3世紀後半半ば過ぎで、大和よりも早く古く、
大和での定型化は4世紀。
>同時期に平原遺跡の後裔の曽根遺跡群が継続して古墳を形成している事から伊都国の人間ではない
日向峠の西麓平野部は、奴國と伊都国の両方にとっての墓域。
>定型化後の?製三角縁が副葬される等、様式からして畿内の強い影響下にある人物の墓
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからでも、×。
>それこそ一大卒のような伊都国を監視する立場の人間と思われる
これまで古墳は主に奴国周辺に展開していたがこの時代に来て糸島にも大型墳丘墓が建造されている
この事から畿内の九州支配がより明確に進行した証拠と言えるだろう
九州倭國の「東征毛人五十五國」に拠って、
北部九州の先進的文化も、大和に齎されたのだろう。 >>702
優れた若者の叫び声なのではないのかな。
YESSSSSSSSSSSSSS 畿内説何度目の敗戦だよww
ボコボコにされてるのに勝利宣言とか終わってんなw 無職の朝鮮人である奥山氏が、無職であることの強みを活かして、人類の中国製ウイルス兵器との世界的な死闘を尻目に、24時間体制で邪馬台国畿内説を宣伝しているのではないのかな。 >>686
>一貴山銚子塚の副葬品と平原の副葬品に連続性のようなものは見いだせない
平原の特徴である超大型鏡や、大柱などの特性もなく、両者に同一の系譜を見出すことはできない
平原は、卑弥呼没後の戦乱を抑えるための「臨時的は13歳の女王」であり、
当然前身は王ではなく、庶民的であり、
魏の薄葬令には、当然制約される。
>むしろ、それまでの平原の流れと全く異なる畿内系、特に定型化後の様相が色濃く表れている
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和の「定型化」自体が4世紀以後であり、一貴山銚子塚の方が古いから、×。
>上述のように平原にはその後裔の曽根遺跡群の古墳が継続して営まれているので系譜的に全く別の存在と考えるべきだろう
平原は、前方後円墳のような大型墳墓が必要な位の王家ではなかっただけ。 糸島近辺の墳墓の系統を見ていくと、平原から以降この土地に有力と思われる勢力が出現していないのが明らかとなる
平原1号墓と一貴山銚子塚古墳は、仮に平原を3世紀中としても100年は離れているので両者には勢力的連続性も見いだせない
平原の後裔はそのまま2〜4号と続きその後の曽根遺跡の中小古墳に繋がると考えるのが最も自然
伊都国王の系譜は畿内政権の下で細々と古墳時代中期まで存続していたのだろう なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだろうか。 >>688
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」や「一貴山銚子塚を大和の定型化以後」にするような。
そんな嘘つき騙しのニセ情報で遁走を図る大和説こそが哀れだよ >>693
なんでも筑紫の物を欲しがって、
(存在もしなかった嘘つき騙し文言の)邪馬台国の証拠だとか喚いてるアホ
それが大和説
逆に言えば「九州に女王国があると揺るぎようがない」と観念してるから、
その要素を盗もうとしてると
庄内式が大和の証拠だから欲しい!
古墳が大和の証拠だから欲しい!
三角縁が大和の証拠だから欲しい!
一番の九州論者は大和説自身だな
笑わせてくれるよな
熱心に支持してくれて有難い話だ まだやってらっしゃるのか
卑弥呼の陵墓 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼の陵墓 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 邪馬台国畿内説の感染拡大は、完全に収束するのではないのかな。 なぜ九州説の精神は完全に破綻してしまったのだろうか 考古学だって? そんな愚問・愚行はやめだ。
九州末盧国(唐津)から東南へ500里、距離計付き自転車で走ればよい。37.5q走ったところが伊都国だ。
そして更に東へ100里、かれこれ10q走ったあたりが不彌国だ。
考古学不要。陳寿の記述通りに自転車をこげば、たった半日で答えが出る、グーグルマップなら ほんの数分で結果が出る。不彌国は吉野ヶ里だ。 >>696
>末盧國←松浦
伊都國←糸島
奴國←福岡市
奴國は、室見川西麓平野部〜早良平野部であるから、×。
>不彌國←宇美
投馬國←玉
邪馬壹國←大和
「南≠東」などに拠って、×。 本当に申し訳ない
九州説が信じ込んでるホラを今日も簡単に吹き飛ばしてしまった
平原がゴミみたいな遺跡だと証明してしまって本当にすまん
アホの夢を粉砕してしまって可哀想に思ってるけど真実を教えてあげるのがせめてもの優しさなんだ
許して欲しい >>697
>各国の官名に注目しろ
記紀に出てくる人間がいるだろ
伊都国の官名なんか記紀の有名人じゃん <
伊都国などの「官」が「東征毛人五十五國」をして、その「官名」で呼ばれ、
それが伝承されて、記紀に書かれた、という可能性が高い。 >>697
>そして邪馬台国の官名だよ一番重要なのは
そこを見なさい
これも、その「官」が「東征毛人五十五國」をして、その「官名」で呼ばれ、
それが伝承されて、記紀に書かれた、という可能性が高い。 >>704
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などの史料事実の曲解否定の嘘つき騙しの大和説は
珍妙な宗教 >>711
ボコボコなのは、
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などのバレた、
史料事実の曲解否定の嘘つき騙しがバレた大和説だろ >>713
「南≠東」や「正北抵新羅」などで、九州説に勝てなくて、
スレ荒らしに走る大和説 >>717の訂正
>一貴山銚子塚の副葬品と平原の副葬品に連続性のようなものは見いだせない
平原の特徴である超大型鏡や、大柱などの特性もなく、両者に同一の系譜を見出すことはできない
平原は、卑弥呼没後の戦乱を抑えるための「臨時的な13歳の女王」の墓であり、
当然前身は王ではなく、庶民的であり、
魏の薄葬令には、当然制約される。
>むしろ、それまでの平原の流れと全く異なる畿内系、特に定型化後の様相が色濃く表れている
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和の「定型化」自体が4世紀以後であり、一貴山銚子塚の方が古いから、×。
>上述のように平原にはその後裔の曽根遺跡群の古墳が継続して営まれているので系譜的に全く別の存在と考えるべきだろう
平原は、前方後円墳のような大型墳墓が必要な位の王家ではなかっただけ。 >>729
こいつ矛盾だらけだな
九州の王は記紀に書かれたのか記紀に書かれず存在を消されたのかどっちだよ 九州の大王が大王として記紀に書かれたのなら筑紫君磐井はなんなんだよ
ほんと適当なことしかいってないからなコイツ矛盾だらけ
九州の大王は記紀で存在を消されたのだとしたら記紀の大王はどこの誰なんだよ
その辺統一して見解出せよアホ ついに脳みその腐りはてた九州説は一貴山銚子塚古墳が箸墓よりも古いとか言い出した
哀れ過ぎてもう言葉も出ない 九州説君は自分の説を整理してから意見言えアホ
障害者かよ その場その場で思いつく限りのデマを叫んでのたうちまわる
九州説はなんて哀れな生き物なんだろう >>735
時代が違うかどうか、そりゃ断言できないわ。
むしろ同じことを、ちーとばかり神話風に脚色したんでないか。 本当にスゲーな
こんだけ口から出まかせ叫んでるだけでよく説とか言えるわw
九州説の異常さがよく分かる 九州北部説は単に詭弁と創作の千段重ね
詭弁と創作の巨塔 >>737
読み取りにくいレスだ、スタンスがスカタン >>718
>糸島近辺の墳墓の系統を見ていくと、平原から以降この土地に有力と思われる勢力が出現していないのが明らかとなる
出現している事が明らか。
>平原1号墓と一貴山銚子塚古墳は、仮に平原を3世紀中としても100年は離れているので両者には勢力的連続性も見いだせない
平原1号墓は、3世紀の第3四半世紀。一貴山銚子塚古墳は、3世紀の第4四半世紀。
100年も全く開いていないから、×。
>平原の後裔はそのまま2〜4号と続きその後の曽根遺跡の中小古墳に繋がると考えるのが最も自然
伊都国王の系譜は畿内政権の下で細々と古墳時代中期まで存続していたのだろう
伊都王家の阿毎氏の系譜は、本家は一貴山銚子塚や端山や築山に続き、
五十跡手が出て、磐井が一旦九州倭國王になったが継体に反乱され、
しかし、また盛り返して、タリシホコやサチヤマらが出た。 >>728
本当に申し訳ない
大和説が信じ込んでるホラを今日も簡単に吹き飛ばしてしまった
纏向がゴミみたいな遺跡だと証明してしまって本当にすまん
アホの夢を粉砕してしまって可哀想に思ってるけど真実を教えてあげるのがせめてもの優しさなんだ
許して欲しい >>736
>こいつ矛盾だらけだな
九州の王は記紀に書かれたのか記紀に書かれず存在を消されたのかどっちだよ
記紀は、九州倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書であるから、
史料批判無しには、初めから何の証拠にもならない代物なんだよ。 考古学だって? そんな愚問・愚行はやめだ。
九州末盧国(唐津)から東南へ500里、距離計付き自転車で走ればよい。37.5q走ったところが伊都国だ。
そして更に東へ100里、かれこれ10q走ったあたりが不彌国だ。
考古学などいらぬ。陳寿の記述通りに自転車をこげば、たった半日で答えが出る、グーグルマップなら ほんの数分で結果が出る。
不彌国は吉野ヶ里だ、その吉野ヶ里の南の方には、投馬国と邪馬台国と女王の都があった。 >>737
>九州の大王が大王として記紀に書かれたのなら筑紫君磐井はなんなんだよ
ほんと適当なことしかいってないからなコイツ矛盾だらけ
九州の大王は記紀で存在を消されたのだとしたら記紀の大王はどこの誰なんだよ
その辺統一して見解出せよアホ
記紀は、九州倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書であるから、
史料批判無しには、初めから何の証拠にもならない代物だ、という事なの。 畿内説が破綻してもう3年の年月が過ぎた
その中にあって奥山ただ一人が気炎を上げている
九州説優勢の今、これは畿内説の徒花である
私たち九州説は大きな心をもって畿内説の過ちを
とがめることなく、悠然とかまえていればいい
そうすれば国民の心も自然と九州説を求めるようになる
これこそ歴史学の王道である >>738
ついに、「南→東」や「正北抵新羅」などの嘘つき騙しがバレて、
脳みその腐りはてた大和説は、
一貴山銚子塚古墳が箸墓よりも新しいとか言い出した
哀れ過ぎてもう言葉も出ない >>740
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などの史料事実の曲解否定の嘘つき騙しの大和説君は
自分の説を整理してから意見言えアホ
障害者かよ
その場その場で思いつく限りのデマを叫んでのたうちまわる大和説は、
なんて哀れな生き物なんだろう 毎日張りついてアホ丸出しのその場限りのデマ喚いてるこいつって本当にどんな奴なんだろうな
文体からして間違いなく同じ奴だろう
1年365日24時間いるから少なくとも仕事は絶対にしてないな
この頭の悪さからまともに学問があるとも思えない
ひきこもりか、暇な老人か
もしただの荒しだと言うならこんだけ暇な事してるんだからどの道ロクな人間じゃないな >>742
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」の史料事実の曲解否定の嘘つき騙しの大和説は、
本当にスゲーな
こんだけ口から出まかせ叫んでるだけでよく説とか言えるわw
大和説の異常さがよく分かる >>743
大和説は、単に、
「南→東」や「正北抵新羅の無視」などの、
詭弁と創作の千段重ね
詭弁と創作の巨塔 どんなアホなんだろうな
この文体で張り付いてる奴過去ログみたら最初の方からいるし
ちょっとゾッとするな
想像すると怖いわ
事件とか犯さないと良いけど 畿内説スレ荒らしは邪馬台国の会という九州説団体が雇う工作員とも言われている >>757
毎日張りついてアホ丸出しのその場限りのデマ喚いてるスレ主や類スレ主らってら、
本当にどんな奴なんだろうな
文体からしてひょっとしたら同じ奴だろう
1年365日24時間いるから少なくとも仕事は絶対にしてないな
この頭の悪さからまともに学問があるとも思えない
ひきこもりか、暇な老人か
もしただの荒しだと言うならこんだけ暇な事してるんだからどの道ロクな人間じゃないな >>763
「南≠東」た「正北抵新羅」などで、
大和説は狂いすぎて
もう意思の疎通が不可能なレベル 以前は奥山じゃなくて、岡上(上岡?)だっただろう。 >>768
逆に工作員じゃなくて素でそんなサマの方がヤバイ >>765
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などの、
史料事実の曲解否定の嘘つき騙しの大和説者って、
どんなアホなんだろうな
この文体で張り付いてる奴、過去ログみたら最初の方からいるし
ちょっとゾッとするな
想像すると怖いわ
京都アニメ事件とか犯さないと良いけど まぁ邪馬台国の会とか「九州説が正しいと思いますよね?」とか素人にアンケートして「ほら!九州だ!」とか何回もやってるバカ集団だからな
5ちゃんのスレ荒らしたら本当に九州に邪馬台国が湧いて出てくるとか信じてそうな奴らだとは思う 『上岡 邪馬台国』
調べてみると、そういう研究家(❓)がいたり。 >>771
「南→東」や「正北抵新羅」などの史料事実の曲解否定の大和説者は、
逆に、工作員じゃなくて、素でそんなサマの方がヤバイ 九州説は工作員雇うにしろもっと正気の人間を雇った方がいいのではないか
これじゃチンパンジーでも雇った方が少しはマシでは >>773
京都あにめ?・・・必要ないと書いた話でしょ。 チンパンジーなら工作員みたく給料払わなくてもバナナがあれば1日中働くし まぁそもそもが正気の人間の集まりじゃないから
自分達で叫んでる事のおかしさが分からないくらいなんだからな
古墳出土物なんて何の証拠にもならない!とか喚いてるその口で、古墳出土物を出して「九州からこんなに出てくる!」とかやる奴らだから
そもそもがチンパンジーと同レベル以下だろ >>750
半分偽書って
ようするに「俺にとって都合の良い半分は真実、俺にとって都合の悪い半分はウソ」
って言ってるだけだろお前バカかよ このスレではないんだけど、
たしか書いた、そういうアニメ(作品)などは必要ないと。
(実在する家や人物などをキャラ名、仮名で登場させたり) 同じことを繰り返すなと言っているだけ、
何度も何度も・・・何度もw
低脳か何かなんだろうw 志村動物園とか見てると九州説よりまだチンパンジーの方がよっぽどマシに思える なんで奥山っていつも一人なん
味方がぜんぜんいねーよな
仁徳がないんじゃないの?
まあなんで人がよってこないかは分かるけど
つーか、もともと畿内説の人がおもしろがって
九州説演じてるんじゃないかとも思えてくるわ >>777
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
工作員雇うにしろもっと正気の人間を雇った方がいいのではないか
これじゃチンパンジーでも雇った方が少しはマシでは 古代兵器 ハープ?そういう話も同じ。
『熊本 地震』の話とか。 メーソンというスレがあるんだけどw知っている?予言とか? >>780
まぁそもそもが「南→東」などの嘘吐き騙しの方が、
正気の人間の集まりじゃないから
自分達で叫んでる事のおかしさが分からないくらいなんだからな
文献なんて何の証拠にもならない!とか喚いてるその口で、
大和説学者の文書の断片を出して「からこんなのが出てる!」とかやる奴らだから
そもそもがチンパンジーと同レベル以下だろ >>781
チンパンジーや「南→東」犯や京都アニメ犯に工作代払う?大和説 例えば『ドンバ』など、
なぜ知っている人がいたりするんだろう。 >>697
>伊都国の官名なんか記紀の有名人じゃん
誰? >>646
>墓があれば都があったというヤツはけっこう多いな。
バカの都。
やっぱり畿内説はバカだと思うだろ? >>676
>平原1号墳は、21枚もの「尚方作」の方格規玖鏡があり、
>明帝の下賜の銅鏡100枚の一部だとせざる得ず、
>従って、240年頃以後。
ザラコク氏よ。
そろそろ平原遺跡が卑弥呼の墓だと認めろよ。
祇園山より年代がピッタリだろ。 考古学だって? そんな愚問・愚行はやめだ。
九州末盧国(唐津)から東南へ500里、距離計付きの自転車で走れ。37.5q走ったところが伊都国だ。
そして更に東へ100里、かれこれ10q走ったあたりが不彌国だ。
考古学などいらん。陳寿の記述通りに自転車をこげば、たった半日で答えが出る、グーグルマップなら ほんの数分で結果が出る。
不彌国は吉野ヶ里だった、その吉野ヶ里の南ぼ方角には、投馬国と、邪馬台国と、女王の都があった。 >>788
おい、狂った九州説じいさん
どれが奥山の投稿なんだ? 宣伝とは自分たちの好ましい情報を伝播させることである
ただがむしゃらに己の願望をかきつらねていても
その努力は宣伝の本来の向かうべき方向には向かわないのである
奥山は今まで畿内説の宣伝をしてきたが
はたして彼は本当に畿内説の宣伝をしていたのだろうか? 九州説の発狂も色んなパターンが出てくるようになってきたな おい、キナイコシが他のスレを荒らしまわっているぞ。
畿内説で責任取れよ。 本来は定まっていることなんだけど、
この家の権利は〜(誰々)〜など。
ただ名前が同じ?そういう家があったりするでしょ。
ただwそれだけの事で、何の権利も権限もない。 例えば、某という家の末裔(ほんとーの)など、
北海道とか東北地方のほうに住んでいる、
以前、そういうところ(どこかの山のほうとかw)に住んでいたとか。 あの話なんかと同じ、
どこかで働くようになった・・・・、そうしたら給料何円(一桁)だったとか。
なぜか老婆も同じような事をいっていたしなw 宇宙戦艦、何やら・・・、何やら・・・、何やらという作品なども、
(実際は)ほとんど家の話だから。 なぜ収入が無いんだと思う?
(リアルタイム、やっていた当時から)
当時からwそういう漫画やアニメ、ゲーム・・・その他、
よくわからない創作などがあったでしょ。 >>784
記紀は半分神話
北朝鮮の将軍様の神格化と同じ .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. >>816
まさにそのまんまだ。
神格化されたお話しの底辺には、どこにでもある人間臭い事実があるってことだ。
日本の高天原神話の底辺にも、邪馬台国、投馬国、伊都国、そして帯方郡の軍師らの面々がいたのだよ。 >>820
同意。
記紀神話とは、弥生時代の倭国創世記を奈良時代の人間がどう捉えたかというフィルターがかかっているだけで、おそらくは歴史上の出来事をおおむね反映しているのだろう。
神を権力者すなわち王として読み替えるだけで、おおむね人としての英雄譚、建国譚になる。 弥生初期
九州 イザナギにより能古島で倭国建国、稲作拡大
本州 スサノオが日本海から全国へ農業を広める
弥生中期
九州 筑紫生まれの大山祇や大国主らによる倭奴国の最盛期、前漢に朝貢し内行花文鏡をもらう
本州 大山祇の子である三島溝杭耳らにより瀬戸内から近畿の稲作拡大
弥生後期
九州 伊都に遷都した天孫ニニギらが後漢に朝貢し金印と内行花文鏡をもらう
本州 三島溝杭耳の末裔である鴨一族と天孫ニギハヤヒの王権
弥生末期
九州 倭国は乱れ天孫族が九州脱出、収拾のため伊都で卑弥呼共立へ、滅亡した漢王朝のかわりに国産の内行花文鏡である平原遺跡の八咫鏡を製作
本州 ニギハヤヒの物部王朝に神武が合流して大和王権の基礎となる
古墳時代初期
九州 再びの乱を収拾するため壹與共立へ、続いて八咫鏡を継承した神夏磯姫が景行と共闘、沖ノ島の合同祭祀の規模拡大へ
本州 崇神により大和王権は拡大征服路線へ、八咫鏡を宮から追放し伊勢へ
古墳時代前期
九州 仲哀が筑紫に迎えられるが崩御、神功皇后が神夏磯姫の末裔の田油津姫を倒し筑紫を統一へ
本州 神功皇后の子で筑紫生まれの応神による統一王朝へ 決定的解答 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 決定的解答 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 新型コロナに感染した事に気付かず脳が壊死してしまった奥山あわれ >>822
ファンタジー九州説は九州板または漫画小説板でお願いします。 >>821
おおむね賛同
しかし、忘れてはいけないのは
大和王権に都合の悪いことは抹殺されていると考えていいだろう 『田中琢氏によって設定された庄内式土器は,当初考えられたような畿内地域通有の土器様式ではなく,その展開や分布に一定の偏在性が認められる。
また資料の蓄積が一定程度に達した現在では,庄内式土器,布留式土器といった土器様式は単純な様相を示すものではなく,甕形土器・精製器種に複数の系統が存在することが指摘されつつある。』
なるほどねえ >>840
各地へ展開していった「忌部一族」が「東阿波型土器」を広めたからね。 @阿波 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. 畿内説ってウソだからな
いまさら引っ込みがつかないだけで
本人も恥ずかしいと思ってるよね
だって、頼みの巻向や箸墓からは、
土器と木しか出てこなかったんだから
少し前の時代の唐古鍵以下なんだもんw >>844
わざわざよそのスレに来て九州説は脅威脅威って自分で宣伝するって
情けないな >>805
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」などの嘘吐き騙しの大和説学者らのの発狂も,
色んなパターンが出てくるようになってきたな >>825
「南→東」とか「正北抵新羅の隠蔽」とか、
「畿内」とか「邪馬台国」とか「大和王朝」とか「物部王朝」とか、
もう完全に歴史学から離れてる大和説学者ら。 >>836
「南→東」や「正北抵新羅の抹殺」やファンタジーや大和説者は、
・・・・アホ詐欺師板または漫画小説板でお願いします。 >>838
「南→東や「正北抵新羅の抹殺」などの史料事実の否定曲解の、
・・・・アホ詐欺師の大和説が、
消滅の危機に
緊急事態宣言。 >>847
わざわざこのスレに来て
「九州説は脅威脅威」って自分で宣伝」してくれるって情けないな
「九州説が脅威「なのはわかった 基本的にフェイクニュースを垂れ流すスレは攻撃対象だよなw .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 畿内説が妄想だったという非常事態宣言を受けた奥山は、既に息をしていないのでは、ないのかな。。。 http://blog.livedoor.jp/bungchanblog-kodaishi/archives/8982797.html
高地性集落=軍事施設
点が多い箇所=戦闘地域
ポツンと点がある箇所=安定地域(王都を守るための集落がポツンとあるだけ)
邪馬台国の時代に近畿は戦闘地域=安定した王都ではなく狗奴国との前線基地
王都邪馬台国は九州、出雲、宮崎のどこか むかし高地性集落≠軍事施設で解決してなかったっけ?
いまどき高地性集落とかw
暇な老害の妄想だろw いまどきっつーか木と土器しかでないのが巻向だけどな 日本海側はずっと安定
↓
瀬戸内海が戦闘地域
↓
瀬戸内海が徐々に安定
↓
戦闘地域が東海に移動
って感じで、邪馬台国連合が狗奴国を東に東にと押し出してるのがわかるな 邪馬台国の時代に畿内はまさに瀬戸内海戦争の狗奴国側の拠点だったのが見えるな 纏向に戦乱の痕跡なんてあったか?
それとも対狗奴国前線では素手で戦ってたとでも言うのか?w 卑弥呼の死後、男王が立ったが国は治まらなかった。
壹與が女王になってようやく治まった。
男王は大物主、壹與は大田田根子。
その後、崇神が初代天皇になる。
反論がある場合はどの人がどう違うのか具体的な反論お願いします。 >>866
百襲姫を意識してるみたいだが、卑弥呼も台与も記紀から抹消されてるよ
抹消して、三国志の卑弥呼とやらは神功皇后なのでは??と、スットボケてるの
だから卑弥呼は百襲姫でもないし、陵墓は箸墓でもない
記紀への記載を完全に拒絶された二人の女性天皇
理由は分かるよね?
記紀が書かれた当時の日本は唐に負けた敗戦国
中国に朝貢を始めた二人の女性天皇は日本の国辱であり、天皇への辱めなのだよ
当時の日本(倭でない事に注意)にあってはならない存在が卑弥呼と台与 >>865
>纏向に戦乱の痕跡なんてあったか?
先に
王都に戦乱の痕跡が必要な理由を聞かせてもらおうか
話はそれからだ >>868
>中国に朝貢を始めた二人の女性天皇は日本の国辱であり、天皇への辱めなのだよ
>当時の日本(倭でない事に注意)、
当時の日本は既に倭でなくなっているのだから、あの二人の女王は何の関係もあーりません、といえばすむ話だろ。
国辱がどうとか、理解できかねるんだけどねえ。 >>869
高地性集落がある畿内は王都ではなく前線基地 邪馬台国の時代に瀬戸内海は高地性集落が多い→瀬戸内海は安定しておらず王都を置くには不適
狗奴国(畿内、東海)との争いがまさに行われていたのが瀬戸内海だろう https://i.imgur.com/eRF3Zza.png
高地性集落の分布とは対称的な鉄器の出土数
高地性集落がポツンとあるところ=安定した大国
高地性集落の密集地=不安定な地域
わかっただろ? 一段と頭悪いヤツが湧いてるなwww
奥山は相変わらず死に体か? >>870
倭を記載しないと記紀が成立せんだろが
超!あん!ぽん!たん! >>876
>高地性集落があるから
>それ以上の理由が必要か?
高地性集落があると
なぜ王都でないの?
理由は? >>879が正常な人間の罵り方
>>878が異常な人間の罵り方
この判別の理由がわかるかな? >>879
記紀は日本の歴史を書いているんだから、トンデモ倭なんか必要ないだろう
書かなきゃならん理由なんちゃなかろうもん?? >>882
だと記紀が数ページで終わっちまうだろが中卒 奥山氏
何故、寺澤氏の箸墓は卑弥呼の墓で無いと言う説
に対し、貴方は寺澤氏の見解のどこが問題があると思いますか?
畿内説のスレですので、質問します >>883
数ページで終わっちまうから、
欠史八代とか、日向三代とか、神代の話なんかを創作して、うどんかそうめんのように引き延ばして付け足したんだろ。
それがちがうというなら、倭国の歴史は大和王権の歴史そのものだったが、三世紀の卑弥呼や台与の朝貢のせいで唐に負けたというのかね。 そもそも大和王権とは何だろう?
邪馬台国がいわゆる大和朝廷の出発点じゃアカンのか 先代旧事本紀に書いてあるじゃん
天孫と皇孫がいて、その統合により天皇ができたと
先代旧事本紀の目次だよ
天孫について書いた章の次が皇孫の章で、次が天皇の章なんだから 天孫=アマ氏=ニギハヤヒ、ホアカリ、物部系
皇孫=日向三代=ニニギ系
ってわかるように書いてる
ヤマトの王統の成り立ちは意外と遅くて、
タリシヒコのころはアマ氏王権
つまり600現時点で皇孫系はヤマトに合流してないということ じゃあ皇孫系ってなんで急に合流したの?っていうと
これはもう任那滅亡の流れでしょうよ
任那の王族が倭に亡命してきたと
「任那から来た」とはさすがに書けないから「日向から来た」ということにしたわけで >>884
>奥山氏 =>>1だろうが
何故、寺澤氏の箸墓は卑弥呼の墓で無いと言う説
に対し、貴方は寺澤氏の見解のどこが問題があると思いますか?
畿内説のスレですので、質問します<
寺澤が間違ってるというの奥山の主張なんだろう 学者学者と言いながら学者とは全く異なる脳内説を語るのが奥山w スレが消費されるたびに九州説の勢いは増し
その優位性が明らかになる
畿内説は詰んでる 大和王権=邪馬台国であるなら、大和王=親魏倭王ということだけどね。
なんでそれが国辱になるのか?
またなんでそれを記紀が隠さなくてはならなかったのか? 合理的な理由が見つからないけどね。 ヤマト王権は7世紀に完成したんだよ たぶん6世紀ごろから勢力拡大したんだろう
邪馬台国と直接関係する文献が無いのは周知のとおりだが
記紀神話は、都合良く天皇制を肯定するための道具であろう
昔の言い伝えを都合よく、天皇制に結び付けた書物であろう
まともに記紀と向き合う必要無いだろう・・岡目八目程度の検証でいいであろう >>891
テンプレでは奥山は寺澤支持みたいだけど
寺澤は箸墓は卑弥呼の墓と言ってねーの???
??????????????????????? ヤマト王権は大和朝廷のことでいいんじゃ
言い換えただけにしか思えない >>891
そりゃ当然だろ
寺澤は箸墓は寿陵だと根拠なく決めつけたが故の結論だから >>893
ここは九州説の願望を書き出すスレじゃないから >>1
巻向以外の論調が少ない
巻向は吉野ヶ里への対抗馬的にだしたのはいいが物証が少なすぎるのが現実だと思う ヤマト王権は複数の豪族の連合体。
主な豪族は大和地方と出雲地方と九州地方の豪族。
記紀が書かれた頃は九州出身の豪族が力があたったと思われる。
そのため神武東征のような神話が作られたと思われる。
記紀の中でタカミムスビは最高神として出てくるが九州の伝承ではタカミムスビは負けている。 >>903
あんたのその投稿が「論が無い」典型だよ >>886
キチガイ??
言ってる事が無茶苦茶すぎる
唐に敗戦したからこそ超右傾化して中国に朝貢を始めた売国女大王の事を
記載できなくなったんだろうに
記紀はまず唐の目を意識して書かれている国策プロパガンダ著作だということを忘れるな .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>886
なぜ九州の歴史を延々と付け加えたんだよ。 >>897
カタカナ言葉が出たら誤魔化しかもしれないから眉唾だってばっちゃが言っていた。 >>908
>記紀はまず唐の目を意識して書かれている国策プロパガンダ著作だということを忘れるな
戦勝国である唐に媚びへつらうために唐の目を意識して漢文で書いた日本書紀が何だって? >>908
>唐に敗戦したからこそ超右傾化して中国に朝貢を始めた売国女大王の事を
>記載できなくなったんだろうに
唐に負けたから、400年も前に中国に朝貢を始めた卑弥呼と臺与の二人の女性天皇を記紀の載せなかった・・、
ということは、記紀の歴代天皇以外にもう二人の天皇がいて、それが卑弥呼と臺与だったということだな。
では記紀に載らなかった女天皇が二人いたとなぜわかるのか? そして其の二人が卑弥呼と臺与であったとなぜわかるのか? >>864
>邪馬台国の時代に畿内はまさに瀬戸内海戦争の狗奴国側の拠点だったのが見えるな
「邪馬台国」も「畿内」も存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であるし、
「瀬戸内海戦争の狗奴国側」というのも「南≠東」だけで×であるし、
「正北抵新羅」の九州倭国の「東征毛人五十五國」を隠蔽しているから、×。 >>908
>>記紀はまず唐の目を意識して書かれている国策プロパガンダ著作だということを忘れるな
といってみたところで、倭人伝には事細かに朝貢内容が記録されており、卑弥呼も臺与も唐王朝は周知の事なんだから、
アタマ隠して尻隠さずだろう(言い換えれば、きみの一人プロパガンダだよ)www >>866
>卑弥呼の死後、男王が立ったが国は治まらなかった。
壹與が女王になってようやく治まった。
男王は大物主、壹與は大田田根子。
その後、崇神が初代天皇になる。
反論がある場合はどの人がどう違うのか具体的な反論お願いします。
「天皇」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから×であるし、
「男王は大物主、壹與は大田田根子」は、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」や「倭國の東征毛人五十五國の無視」、
などで×。 >>917
「西は衆夷を服すること六十六国」の通り九州は征服される側なので× >>868
>百襲姫を意識してるみたいだが、卑弥呼も台与も記紀から抹消されてるよ
抹消して、三国志の卑弥呼とやらは神功皇后なのでは??と、スットボケてるの
だから卑弥呼は百襲姫でもないし、陵墓は箸墓でもない
記紀への記載を完全に拒絶された二人の女性天皇
理由は分かるよね?
記紀が書かれた当時の日本は唐に負けた敗戦国
中国に朝貢を始めた二人の女性天皇は日本の国辱であり、天皇への辱めなのだよ
当時の日本(倭でない事に注意)にあってはならない存在が卑弥呼と台与
成程。 >>870
>>中国に朝貢を始めた二人の女性天皇は日本の国辱であり、天皇への辱めなのだよ
当時の日本(倭でない事に注意)、
>当時の日本は既に倭でなくなっているのだから、あの二人の女王は何の関係もあーりません、といえばすむ話だろ。
国辱がどうとか、理解できかねるんだけどねえ。
その「当時」とは、この男は、3世紀の事を言っていた事になるが、
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭國は唐代にまで北部九州に存続していた事になり、
白村江の後の701年の大和日本国の「大宝元年」の建元で、
大和日本國が北部九州の倭國を併合吸収継承した事になるから、
この大和説男は、また、×ね。 >>872
>九州説がまた瞬殺された
「南≠東」や「正北抵新羅」などで、大和説がまた瞬殺された >>874
>邪馬台国の時代に瀬戸内海は高地性集落が多い→瀬戸内海は安定しておらず王都を置くには不適
狗奴国(畿内、東海)との争いがまさに行われていたのが瀬戸内海だろう
高地性集落は、
当然九州倭国の「東征毛人五十五國」の征服戦争に拠って発生したものであるから×であり、
後漢書の「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」の「拘奴國」は、
後代史家の范曄の「自己解釈による書き換えで×」である可能性も「独自情報」である可能性も、
両方の可能性があるから、確率は半々であり、
証拠採用出来ないから、×。 >>916
一人で百年以上生きてる天皇が何人もいるでしょ
あり得ないよねw
すっ飛ばされてる抹消天皇が何十人いるのやら?? 唐がいつ戦勝国とやらになっただ?
そいからおまえが唐とやらの名前使える理由は? >>877
>https://i.imgur.com/eRF3Zza.png
高地性集落の分布とは対称的な鉄器の出土数
高地性集落がポツンとあるところ=安定した大国
高地性集落の密集地=不安定な地域
わかっただろ?
成程。 >>886
>数ページで終わっちまうから、
欠史八代とか、日向三代とか、神代の話なんかを創作して、うどんかそうめんのように引き延ばして付け足したんだろ。
それがちがうというなら、倭国の歴史は大和王権の歴史そのものだったが、三世紀の卑弥呼や台与の朝貢のせいで唐に負けたというのかね。
「倭国の歴史は大和王権の歴史そのものだったが」というのが、
「南≠東」や「正北抵新羅」や「(大和)日本國者倭國之別種也の旧小国」、
などに拠って、×。 >>887
>そもそも大和王権とは何だろう?
邪馬台国がいわゆる大和朝廷の出発点じゃアカンのか
「邪馬台国」も「大和朝廷」も存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから×であり、
大和は、「日本國者倭國之別種也」の「旧小国」であったからでも、×。 >>888
>先代旧事本紀に書いてあるじゃん
天孫と皇孫がいて、その統合により天皇ができたと
先代旧事本紀の目次だよ
天孫について書いた章の次が皇孫の章で、次が天皇の章なんだから
先代旧事本紀も、倭國の存在や歴史を抹殺しているから、半分×書であり、
根拠性も半分しかないから、確率の高い根拠にならず、×。 >>890
>じゃあ皇孫系ってなんで急に合流したの?っていうと
これはもう任那滅亡の流れでしょうよ
任那の王族が倭に亡命してきたと
「任那から来た」とはさすがに書けないから「日向から来た」ということにしたわけで
いや、筑紫の磐井からサチヤマまで、また皇孫系の阿毎氏が倭国王や天子になっていたが、
白村江で大敗して、唐の支配下になりそうであったから、
大和の天智が、九州倭国を併合吸収継承した形にして、
「唐の支配下になる」事を免れた。 >>894
>大和王権=邪馬台国であるなら、
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×。
大和は、九州倭国の別種の旧小国であった。
>大和王=親魏倭王ということだけどね。
「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠って、×。
>なんでそれが国辱になるのか?
またなんでそれを記紀が隠さなくてはならなかったのか? 合理的な理由が見つからないけどね。
大和日本国も、白村江で九州倭国の友軍として戦っていた、という事になれば、
大和も(九州倭国と一緒に)唐の支配下になってもおかしくなかったのであり、
従って、記紀は、九州倭国と無関係であった事にしなければならなくなり、
九州倭国の存在や歴史を(唐に対しても)隠蔽し、
盗用造作しなければならなかった。 >>897
>ヤマト王権は大和朝廷のことでいいんじゃ
言い換えただけにしか思えない
大和が「朝廷」になったのは、大宝元年を建元出来た701年から。
それまでの(列島盟主の)朝廷は筑紫倭國。 >>919
>>>866
>男王は大物主、壹與は大田田根子。
>反論がある場合はどの人がどう違うのか具体的な反論お願いします。
適当な辻褄合わせだな。
そもそも太田田根子は男だろ? >>936
なるほど。
ヤマト王権という名前は、一地方政権に過ぎない可能性を考慮してのものだったのか。 まだやってらっしゃるのか
卑弥呼の陵墓 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼の陵墓 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >.899
>ここは九州説の願望を書き出すスレじゃないから
ここは、原則、嘘吐き騙しをしてはいけない自由投稿の掲示板。
「南→東」などのような、史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しのスレをような、
立ててはいけない場であるから。
では何故、こんな嘘吐き騙しのスレを立てる事が出来たの?。
そりゃ、5chが、嘘吐き騙しの「邪馬台国畿内説」が好きであり応援していた、
「思想宗教に狂った・・・・アホ詐欺師集団」の経営であったから。
それは、Yahooの掲示板でも同じであった。
大和説は、不利になり、
textreamなんて変な呼称に変えて、九州説者の呼称や投稿を不許可にしたりして、
必死で、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説を守ろう、としていたが、
textreamも、
大和説者は、「露骨な人種差別殺戮戦争皇国史観狂の・・・・」ばかり残り、
九州説や古田説が完全に勝利してしまい、
結局、古代史textreamを廃止して、投稿を全て検索出来ないようにして、
逃げてしまった。
5chも、結局そうなるんじゃないかな?。 >>923
>唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭國は唐代にまで北部九州に存続していた事になり、
>白村江の後の701年の大和日本国の「大宝元年」の建元で、
>大和日本國が北部九州の倭國を併合吸収継承した事になるから、
《史記正義》(開元24年(736年)成立 ) に「武后改倭國為日本國」、「倭國武皇后改曰日本國」とあるから、北部九州の倭國なんて存在しない >>905
>反論せずに罵るだけなのは九州説だ敗退した証拠
「南≠東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や、
「日本國者、倭國之別種也」」などの史料事実や史料実態に、
反論せずに罵るだけなのは大和説だ。
敗退した証拠 >>913
>なぜ九州の歴史を延々と付け加えたんだよ。
事実、大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったから。 >>915
>>記紀はまず唐の目を意識して書かれている国策プロパガンダ著作だということを忘れるな
>戦勝国である唐に媚びへつらうために唐の目を意識して漢文で書いた日本書紀が何だって?
大和日本国が、
白村江で九州倭国の友軍として戦っていた、という事になれば、
大和も(九州倭国と一緒に)唐の支配下になってもおかしくなかったのであり、
従って、記紀は、九州倭国と無関係であった事にしなければならなくなり、
九州倭国の存在や歴史を(唐に対しても)隠蔽し、
盗用造作しなければならなかったがから。 >>936
斉藤忠みたいなこといつまでも言ってんなっつのアホ >>944
武則天によってつけられた名前が「日本」
中国の女帝からありがたく国の名前をいただいたんだね >>950
同姓同名の公明な考古学者(故人)がいる迷惑な三流ジャーナリストか >>920
>「西は衆夷を服すること六十六国」の通り九州は征服される側なので×
「正北抵新羅」に拠って、倭國の中心は北部九州にあったのであり、
また「服」は「服属する」という自動詞であり、
だから「西服衆夷六十六國」は、「西では衆夷六十六國が服属していた」という過去形であり、
だから、北部九州の倭國が衆夷六十六國を服属せしめてあった、という意味。 >>954
どこから見て西なのか説明できないから× >>951
さまぁ〜ずもくりぃむしちゅーもブルゾンちえみも、みんな他人から名付けられてブレイクしている
ありがたいこってす 大田田根子には美気姫という妻がいたから、大田田根子は男だよ >>926
>一人で百年以上生きてる天皇が何人もいるでしょ
あり得ないよねw
すっ飛ばされてる抹消天皇が何十人いるのやら??
阿毎氏の別種分家の旧小国の大和では、その出身地の九州倭國の筑紫城の頃から、
魏略記録が残された「春耕秋収を数えて年紀としている」という、
二倍年歴であったらしい。
それは二中歴の年代歴の冒頭の、
「年始五百六十九年 内丗九年無号不記支干 其間結縄刻木以成政 継体五元丁酉(五一七〜五二一・・・」の、
「五百六十九年」が二倍年歴であった事でも判る。
その計算は、継体元年(517年)から、
一倍年歴の39年と、二倍年歴の569年を引き算すると、
517−39−569×2≒−661年(ほぼ神武即位元年)になるから。 >>955
東と西を対句に使うのは中央の人
東に毛人がいるなら畿内だな >>944
>>唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭國は唐代にまで北部九州に存続していた事になり、
白村江の後の701年の大和日本国の「大宝元年」の建元で、
大和日本國が北部九州の倭國を併合吸収継承した事になるから、
>《史記正義》(開元24年(736年)成立 ) に
「武后改倭國為日本國」、「倭國武皇后改曰日本國」とあるから、
北部九州の倭國なんて存在しない
則天武后は、日本國伝の、大和日本國側の、
「長安三年、遣其大臣朝臣眞人來朝、貢方物。
朝臣眞人者、猶中國戸部尚書。
冠進徳冠、其頂爲花、分而四散、身服紫袍、以帛爲腰帶。
好讀經史、解屬文、容止閑雅可人。宴之麟徳殿、授司膳卿而還」
の其大臣朝臣眞人の、頭のよさそうな穏やかな口ぶりに騙された?アホ女帝であり、
唐会要は、倭國伝と日本國伝とを、場所も違えて違う国として書き分けており、
倭國伝の方には「則天時、自言「其國近日所出、故號日本國」としか書かれず、、 >>958
都合が良すぎ
それよか単に特に話題がない幽霊天皇や短命天皇や都合の悪い天皇は抹消して話題の
多い天皇や好印象の天皇にその分を付け足して誤魔化したと考える方が納得できる >>960の続き(途中で投稿ボタンを押した事になっていたらしいので、途中から書き直し)
>《史記正義》(開元24年(736年)成立 ) に
「武后改倭國為日本國」、「倭國武皇后改曰日本國」とあるから、北部九州の倭國なんて存在しない
則天武后は、日本國伝の、大和日本國側の、
「長安三年、遣其大臣朝臣眞人來朝、貢方物。 朝臣眞人者、猶中國戸部尚書。
冠進徳冠、其頂爲花、分而四散、身服紫袍、以帛爲腰帶。
好讀經史、解屬文、容止閑雅可人。宴之麟徳殿、授司膳卿而還」
の其大臣朝臣眞人の、頭のよさそうな穏やかな口ぶりに騙された?アホ女帝であったのであり、
唐会要は、倭國伝と日本國伝とを、場所も違えて違う国としてはっきり書き分けており、
倭國伝の方には「則天時、自言「其國近日所出、故號日本國」としか書かれず、
更に新唐書日本伝では、「咸亨元年遣使賀平高麗後稍習夏音惡倭名更號日本。
使者自言國近日所出以爲名。或云日本乃小國、爲倭所并、故冒其號」と、
九州倭國が咸亨元年直ぐ後に「日本」を名乗った事情がはっきり書かれており、
また、釈日本紀には、西晋惠帝時の九州倭国時代に遣使が日本國を名乗った」事も書かれており、
いずれにしても、九州倭国側が、長安三年よりも前に「日本国」を名乗っていた、という事になる。 >>955
>どこから見て西なのか説明できないから×
倭王武の上表文の転載であるんだから、
九州から東海南関東付近までが倭國であり、
その中での「西」に存在する地域(ほぼ九州島付近)、という意味。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1586276024/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>959
>東と西を対句に使うのは中央の人
東に毛人がいるなら畿内だな
「正北抵新羅」に拠って、倭國の中心は北部九州であった、
と確定しているの。 それよりも、ほんとーに凄い話ばかり。
創価なのかな、何なんだろう。
親戚の話。
正確には老婆の親戚、たしかヒロポンの話をしていた事があったりw
どこだったかな?東京までヒロポンを買い来たりとか、たしか川崎ではなかった。 まさか・・・、何かを知っている、
家の親戚(?)が工作のような事をしているとか?
ヒロポンの話w
老婆が言うには、創価に入ったおかげで、ヒロポンをやめることが出来たんだよ
と言っていたり。 家の老婆も。
洗脳されたのか、何なのか、わからないけど。
そういう話ばかりしていたしな・・・・・・w それにしても川崎区〜〜〜〜〜〜の謎の談話。
老婆(談)の何か?が乗り移ったかのような話ばかり。 >>963
という無理やりな読み方をしなきゃ成立できないので× なんで畿内説の人は板を破壊するのですか?
こんなにスレたてまくってどうしたいの?
板停止が狙いなの?(´・ω・`) もれ(仮)は何の話をしているんだ?聞いているだけ、他のスレも同じ。
そういう仕事か何かなの?。 何の役にも立っていない人間(クズ、ゴミ)とか?
例えば、漫画アニメ、ゲーム(創作、仮名、キャラ名)などに出てくるキャラなどがいたりするでしょ、
世の中の役に立っている。 なぜゴミ、クズ(ゴキブリ、寄生)扱いされているのか、
わからないんだろうけど。
べつに、お前に対して言っているわけではないw 漫画〜なんでも良いんだけど、
お前の家(企業)の収入になっているだろう、生活費など。
もれ自身(書き込みしている家)は何もしていないんだけどw
『❓』? >>967
>激しく同意
有難う御座います。
私は、その投稿の他にも、
魏志の「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」の、
400余×2+300×2+500+100+(4000余ー1000余)=5000余(里)や、
二中歴の筆者の、年代歴の冒頭の年数記載に関しての、
517−39−569×2=−660(書紀に拠る神武即位元年)
の計算がなされている事や、
「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」の論理的根拠性や、
「大和の庄内1の石塚が3世紀末になる」事など、
九州説や古田説の根拠になる事なども書いて来ましたが、
その辺はどう思われますか?。
また、仕事などが忙しくて、
もう30年位、古田説とは殆どコンタクトはなく、
「古代に真実を求めて」などを送って貰うだけだし、
古賀さんのサイトも最近は全く読む暇もなくなって、全く読んでいない状態ですが、
正木さんや古賀さんらの論考には、いつも感心させられています。 >>959
>東と西を対句に使うのは中央の人
当然、東と西と北の中央は四国である。 @阿波 >>958の訂正
>一人で百年以上生きてる天皇が何人もいるでしょ あり得ないよねw
すっ飛ばされてる抹消天皇が何十人いるのやら??
阿毎氏の別種分家の旧小国の大和では、その出身地の九州倭國の筑紫城の頃から、
魏略記録が残された「春耕秋収を数えて年紀としている」という、
二倍年歴であったらしい。
それは二中歴の年代歴の冒頭の、
「年始五百六十九年 内丗九年無号不記支干 其間結縄刻木以成政 継体五元丁酉(五一七〜五二一・・・」の、
「五百六十九年」が二倍年歴であった事でも判る。
その計算は、継体元年(517年)から、
一倍年歴の39年と、二倍年歴の569年を引き算すると、
517−39−569×2≒−660年(ほぼ神武即位元年)になるから。 >>959
>東と西を対句に使うのは中央の人
当然、東と西と北の中央は四国である。 @阿波 九州説は文法ぜんぜん知らないって自分で証明して、彼らの文献解釈の信用を更に落とした >魏に入朝するのに上奏文も持参する必要があるから文字使用はしてたよ
それと、
魏志倭人伝には 「倭人が文字を使っていた」 との記述がある
とは、別の話。 魏志倭人伝にそんな「記述」はない! @阿波 魏志倭人伝にそういう「記述」がある
自女王國以北 特置一大率、、王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國
皆臨津捜露
「傳送文書 賜遺之物」詣女王不得差錯 >>986
「傳送文書」
これを 「倭人が文字を使っていた」 とは訳せない! @阿波 福岡で弥生時代の石棺に絵が描いてあるのは確認されたが、文字はまだ確認されていないな >>988
>さて、不要となったこのスレを何に活用しようか
今まで通り、トンデモ畿内説とトンデモ九州説とのバトルの場とすべし! それ以外に活用の道なし。 わははははは @阿波 不要となったこのスレがトンデモ阿波の落書き帳に悪用されているな 纏向が古墳造営基地局である確率が高まったな
纏向遺跡の桃の種の発見場所からすると、
建物と桃の種の関連性は見られない
桃の種が埋まっていたのは柵の下
https://i.imgur.com/xOM3DEb.png
わざわざ柵の下に穴を掘り、かじらなかった桃とかじったカエルを捨てていたのか?w >>993
もうニセ情報しか頼るものがない九州説って
死んでるよ
哀悼 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. >>994
いらっしゃい
わざわざ柵の下に穴を掘って桃と齧ったカエルを捨てる宗教の信者の方ですね? >>987
「傳送文書」
このような制度は、文字の使用が一定の程度普及していたからと訳せる、つまり高度な知能教養を前提にした訳文である! >>986
「傳送文書」
これを 「倭人が文字を使っていた」 とは訳せない! 「倭人が書いた」とも訳せない! @阿波 このスレッドは1000を超えました。
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