壇ノ浦の戦いで平氏が勝ってたら後どうしてたの?
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壇ノ浦で勝っても陸路抑えられてるかや、行くとこなくね? 帝、三種の神器奪還の政治目標があるんで、再度、再三兵士討伐軍を
九州に差し向けることになるだろう、それらすべて平家が勝利撃退に成功したと
すると当面の討伐は、あきらめざるを得ないだろう。
日本版三国時代突入w 西日本で狩猟民的といえるのは南九州だけ。
私は縄文時代一万年をよくマラソンにたとえるんですが、最初は南九州がトップ集団を走るんです。
もう一つは関東で、これは最初から前期、中期、後期、晩期と、最後まで先頭集団を守ったベストプレーヤー。
東北は最初はだめですが、前期以降、先頭グループを走るようになる。
東部北海道は第二グループで、なかなか先頭に立てない。
一方、最初から最後まで後続集団に甘んじていたのが西日本です。
(小林達雄・新潟県出身の考古学者)
>畿内人はむしろ特殊な日本人で、周辺群こそ平均的な日本人である(埴原和)
>関東出土の縄文人骨の多くは頑丈で、西日本出土の人骨は小さい(小片保)
>東日本では動物性食料資源の捕獲や調理のための道具が発達し、西日本では植物性食料資源を利用するための道具が多い(赤沢威)
>実は本州を縦断して巨大なトレンチが掘られているのである。それは新幹線と高速道路の工事である。その工事に引っかかった(縄文時代の)遺跡を数えても、
>東日本は西日本に比べて圧倒的に多いのだ(佐原真)
弓も乗馬も出来ない最弱京都&大阪武士
▼弓射儀礼(歩射)の成績(『中右記』『吾妻鏡』)
回数 命中 命中率 射手数
1096年(京都) 140 011 07.9(%) 14 ※最高成績:源明国(多田源氏) 40%
1260年(鎌倉) 240 181 75.4(%) 12
『御的日記』の最高成績者 下河辺行平(下総国住人)、和田義盛(相模国住人)他
『御的日記』の最低成績者 橘太公忠(伊予、山城→相模) ←京都時代は弓の名手と呼ばれたらしいが、鎌倉ではビリ…。 仮に勝てても平家は崖っぷち、鎌倉側は余裕あるんだから、
しばらく持ちこたえるだけで結局は滅亡では。 南北朝の時代が早くやってきたな。
西の貨幣経済。
東の重農経済。
北のバランサー 源氏側が骨肉争いで自滅してくれたら、平氏側はどうなってたかな? >>4
鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、
これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている。
鹿児島県の上野原遺跡では、弥生土器に類似した1組の壺形土器が約7500年前の土層から見つかっており、
これは弥生土器を齎した渡来系弥生人の原郷とされるシニ・ガイ文化よりも古いものとなっている。
つまり稲作も弥生土器も鹿児島が大元ということが考古学的に証明済み 世界最強の男、源義経がいたから平氏が勝ってたら、というのはあり得ないだろう
義経=成吉思汗
テムジン=天神、謀反の疑いにより神霊となった菅原道真に自らの境遇を擬えた義経は、大陸にて自らをテンジンと名乗った
また、源義経、これを重箱読みすると、ゲンギツネ=ギンキツ=チンギスハーン、
チンギスハーンとはロシア語の訛りであり、アルファベットだとGenghis Khanと表記する。
つまり、ゲンギツネ、ゲンギツ、ゲンギス、となった 一、チンギス・ハーンは即位の式に九本の白旗を掲げ、生涯白い色と数字の九を好んだという。白は源氏の白旗、九は義経の通
称源九郎に通じる。
一、チンギス・ハーンは源氏の紋章である「笹りんどう」を紋章としていた。
一、チンギス・ハーンは配下の将兵に「タイシャア(大将)とよばれ、その子供は「オゴタイ(御子様)」とよばれたという。
一、チンギスの優秀な家来のうち、ひとりは「サイダ」という。これは西塔に通じ、西塔となれば弁慶である。また、家来の「イサ」は
伊勢三郎、「シュウビ」は鷲尾三郎にちがいない。
一、モンゴルの人はチンギス・ハーンを「イチン・チンギス」とよぶ。イチンとは「源」の中国読みだ。
一、チンギス・ハーンは大男だったというが、人前ではけっして衣服を脱がず、死んだのちに体が縮んだという。これは小男だった
義経が靴底を厚くするなど、細工をして背を高くみせていたからだ。
一、二人の戦い方は類似点が多く、軍事専門家にいわせると同一人でなければできないような戦術を用いたという。
一、チンギスは巻狩りや相撲など、日本の武芸に似たものを好んだという。
一、ロシア極東地域にはハンガンという地名がある。これは義経の判官にちなむものだ。また、モンゴルにはヒロタ(広田)・モク
ゾン(木村)・チタ(知多)・シュビ(鷲尾)・スルカ(駿河9などの地名もある。 義経=チンギスハンの足跡は至るところにあるのですが、明治38年2月1日付の読売新聞「アルタイ山頭の神鏡」発見という記事が大変興味深いです。
それは、バイカル湖辺(モンゴル近郊のロシア)、アルタイ山頭に近い一小村のラマ教の廟から一枚の鏡が発見されたことを報じています。
その鏡の裏には高砂の尾上松、爺と姥、鶴亀の紋、そして次の文字が書いてあったのです。
正三位藤原秀衡朝臣謹製 常識的に考えて素性の分からない外国人に率いられて戦う兵士がいるんだろうか...
各部族に別れて戦ってる最中なんだから、
そういうことには尚更気を遣うと思うんだが...
どの国の歴史にもそういった例はないと思うわ
しかも王として奉戴とか 大正時代、義経成吉思汗説が小矢部全一郎という人によって大々的に世に現われました。
彼の著作『成吉思汗は源義経也』には、鎌倉武士とモンゴル人の習俗に似たところがあること(相撲の習慣・ヤブサメルという、やぶさめに似た騎射術の存在)や、日本語と同じ単語があること(大将をタイシーということ等)、
日本と同じ地名が満州にある(チタと知多、シルパと駿河、アガと男鹿、熱河省平泉と奥州平泉)、
北海道から満州各地に残る義経関係の遺跡(北海道のハンガン様伝説と判官義経・成吉思汗のことをクローと呼ぶ満州と九郎義経・沿海州に残るハングワンという地名と判官義経)、
あるいは成吉思汗関係の逸話に時々登場する笹竜胆の紋(ささりんどう:笹竜胆は源氏の紋章とされている)など、論拠を挙げながら義経は成吉思汗であることを証明していきます。
さらには清和源氏の系統に属する貴族を集めて同趣旨の公演を行いました。 壇ノ浦で平家が勝ったら間違いなく子孫達が
内閣総理大臣や省庁の大臣・副大臣・長官や官僚や
大企業の会長・社長は全員平家だな >>16
そもそも「笹竜胆紋」は村上源氏の紋だと知っている人も多かったはず
彼らは笑いをかみ殺して講演を聞いていたんだろうか >>18
いや、清和源氏の紋が笹竜胆でしょう
そもそも、平安時代に家紋は無かったので、義経の好みによるのでは 平家が壇ノ浦で勝ち、義経らは京へ一時撤退
その時に頼朝と義経の対立が表面化したら、平家は生き残れたと思う
ただし朝廷・義経側と同盟するか、頼朝側と同盟するか
どちらかの選択が必要
朝廷側になるなら安徳天皇を廃し、三種の神器を後鳥羽に譲るぐらいの譲歩は必要
頼朝側になるなら傘下に入り御家人となり、西日本数か国の守護となる
関東の御家人同士の争いには参加せず生き永らえ
元寇では平家が中心となり活躍
南北朝では一早く朝廷側に付き、菊池と共に旗揚げ
南北朝そして戦国、次第に勢力が低下し
戦国末期は蒲池、原田、惟任と同じような扱いかな?
平家が長続きしてたら小松、池などに分かれてたんだろうな >>20
平家は安徳天皇と神器が最大のカードだから、これだけは手放さないと思う。
そうすると、頼朝との同盟か?
頼朝は平家に御家人になるよう要求するが、平家は頼朝に安徳天皇を正統と認め、
臣下の礼を取るように要求するだろう。頼朝や源氏御門葉、関東武士への官位も
安徳天皇から受けるように要求するだろう。
この平家の要求を頼朝が飲むかどうか? >>2
九州も源氏に付いたんで、九州に行こうにも行けなかった >>7
木曽義仲が義経軍に攻められた時、
西走して平家軍と合流しようかと迷ってる内に義経軍に滅ぼされた 源氏軍は馬をよく乗り回したが、
平家軍は歩兵中心
騎兵突撃で平家の歩兵部隊はいつも蹴散らされてた
平家は、騎馬民族みたいな源氏軍には勝てなかった 平氏は小松家が既に崩壊していて人いない
宗盛じゃ一族まとめて盛返すの無理 明治天皇が今存命されていたら
コレラのように秋に治まるような政策をしてると思う >>25
1221年の承久の乱
1274年の蒙古襲来
まで、九州で平家が粘ってたら、結構カオスな事になってたかも。 壇ノ浦の戦いの前に無能な宗盛は廃す動きもあった
源範頼は九州で食料不足になり行軍もままならなかった
教経を総司令官として平家贔屓の多かった九州本土で再起を促す動きもあった
歴史にもしはないが開放型の外交政策をする平氏の治世が続いたら良くも悪くも後世は違った日本になったと思う
源氏は基本的に農耕中心の閉鎖的な治世を好んでる >>25
平家軍が歩兵中心?ソースは?
京都には奥州含めて全国の荘園から軍馬が納められてたはずなんだが 一ノ谷の戦いや屋島の戦いは自らが率いる騎兵隊を有効活用した義経が勝利した戦い 平家の残党が有名な地域あるけど
平家って壇ノ浦で滅亡して生き残った平家一門は
処刑されたんだよね? 平家一門で生き残って
山奥に逃げた人っていたの? >>25
徒士戦の上手といえば↓にはいない九州武士。
▼弓射儀礼(歩射)の成績(『中右記』『吾妻鏡』)
1096年(京都にて)
140回中 11回命中、命中率7.9%、射手数14名 ※最高成績:源明国(多田源氏) 40%
1260年(鎌倉にて)
240回中 181回命中、命中率75.4%、射手数12名
『御的日記』の最高成績者 下河辺行平(下総国住人)、和田義盛(相模国住人)他
『御的日記』の最低成績者 橘太公忠(伊予、山城→相模) ←京都時代は弓の名手と呼ばれたらしいが、鎌倉ではビリ…。
鎌倉武士は騎馬戦の達人。組討無敵の猛者熊谷、畠山、金子、朝比奈に騎射で名高い那須、結城、愛甲、下河辺。
騎射の中でも難易度が高くより実戦的な笠懸、追物射の成積ならさらに圧倒的な差が付いたはず。 >>25
徒士戦の上手といえば↓にはいない九州武士。
弓射儀礼=歩射の成績(『中右記』、『吾妻鏡』)
1096年(京都にて)
140回中 11回命中、命中率7.9%、射手数14名 ※最高成績:源明国(多田源氏) 40%
1260年(鎌倉にて)
240回中 181回命中、命中率75.4%、射手数12名
『御的日記』の最高成績者 下河辺行平(下総国住人)、和田義盛(相模国住人)他
『御的日記』の最低成績者 橘太公忠(伊予、山城→相模) ←京都時代は弓の名手と呼ばれたらしいが、鎌倉ではビリ…。
鎌倉武士は騎兵戦の達人。馬上組討無敵の猛者熊谷、畠山、金子、朝比奈に騎射で名高い那須、結城、愛甲、下河辺。
騎射の中でも難易度の高い笠懸、より実戦的な追物射の成積ならさらに圧倒的な差が付いたはず。 >>34
熊本県の五家荘という山村は久連子踊りという平家由来(伝)のがある。村の入り口に蝶の家紋があったような。 ガースー「正月のばか騒ぎでアベコロナが大爆発や
よっしゃ、よっしゃあ」 いそじん「早よ宣言解除してアベコロナがまた大拡散や」 壇ノ浦で平家が勝っても、拠点がすでに彦島しかないから、ここからの挽回は難しい。
本土の拠点を奪還しながら、少しずつ巻き返す必要がある。
まずは屋島と一の谷を奪還すれば、再び望みが出てくる。 どんな負けかによるよね
全滅して義経も範頼も討ち取られたら一気に平氏が巻き返して頼朝終わりでしょ ガースー「聖火リレーでドンチャン騒ぎ
五輪コロナが大爆発や
よっしゃ、よっしゃあ」 馬上戦の関東、徒士戦の九州、両方ダメな畿内武士
『保元物語』にもある
上総育ちの源義朝「八郎(為朝)は筑紫育ちにて、船の中にて遠矢を射、歩立などはしらず、馬上の態は、坂東武者には、争か及ばん」
徒士戦の上手といえば↓にはいない九州武士。
弓射儀礼=歩射の成績(『中右記』、『吾妻鏡』)
1096年(京都にて)
140回中 11回命中、命中率7.9%、射手数14名 ※最高成績:源明国(多田源氏) 40%
1260年(鎌倉にて)
240回中 181回命中、命中率75.4%、射手数12名
『御的日記』の最高成績者 下河辺行平(下総国住人)、和田義盛(相模国住人)他
『御的日記』の最低成績者 橘太公忠(伊予、山城→相模) ←京都時代は弓の名手と呼ばれたらしいが、鎌倉ではビリ…。 まあ弱兵の尾張兵によって
天下布武が行なわれたわけなんだが・・。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています