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司馬遼太郎被害者の会があったら

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0001日本@名無史さん
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2020/06/13(土) 22:52:03.87
会長は乃木希典
会員は伊地知幸介、徳川家康、藤堂高虎あたり?
0058日本@名無史さん
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2021/08/07(土) 15:43:44.26
>>52
つまり司馬遼太郎って「信長の野望笑」みたいなコーエイのゲーム能レベルって事ですね
0059日本@名無史さん
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2021/08/07(土) 18:23:55.88
>>58
コーエイの武力〇点、政治力〇点、統率力〇点のランク付けは
目からうろこだったけどな。
あれを見て、俺ならもう少しこのあたりの点を上げてやるとか下げてやるとか
謙信の点が低すぎとかいろいろとネタにはなるだろう?

司馬遼太郎も同じだよ。
乃木の評価がいくら何でもとか、関ヶ原の家康神君家康史観があんまりだとかの
ネタの提供になって喜ばしいことだ。
0060日本@名無史さん
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2021/08/07(土) 18:57:02.39
>>59
歴史が証明してるのに今さら点数とかバカだろ?
0061日本@名無史さん
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2021/08/07(土) 20:39:05.77
「モンゴル紀行」では、エニセイ川をバイカル湖にそそぐ川とされているが、
バイカル湖から流れ出す川の誤りである。
0062日本@名無史さん
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2021/08/07(土) 20:47:54.99
おまえも間違えとる。
エニセイ川の支流のアンガラ川がバイカル湖から流れ出す川だ。
0063日本@名無史さん
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2021/08/08(日) 09:20:52.92
燃えよ剣の冒頭で、土方歳三が府中の暗闇祭りで大國魂神社の宮司猿渡氏の娘を夜這いしたのは史実ですか?
また、歳三がその箇所に指を差し入れた時にすでに濡れていたのも史実でしょうか?
0064日本@名無史さん
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2021/08/08(日) 09:57:46.21
エカテリーナ二世を「王冠をかぶった娼婦」と云ったら、名誉毀損になりますか?
0065日本@名無史さん
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2021/08/08(日) 10:51:10.17
司馬って何気に手マン描写好きだよな
燃えよ剣だとラストの土方討死直前の場面でも女に手マンして残り香を気にしながら出陣てるしさ
功名が辻でも、ぼろぼろ伊右衛門こと山内一豊が手マンしながら手コキされたりしてるし
いずれにせよ作者の創作で歴史には無関係な文芸作品だな
0066日本@名無史さん
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2021/08/08(日) 11:37:26.82
https://i.imgur.com/NQEErrm.png
チー牛がどうして撮り鉄になるのか
これは彼らの性格が関係してると思う
電車というのは被写体として非常に特殊なものだ
動体である多くの被写体には偶然性がある
とある日時とある場所とある向きに必ず事前予想通りの格好で現れる動く被写体というのは限りなく少ない
ガイジは短気で脊髄反射でせっかちで怒りっぽく我慢が出来ないのでネトウヨやこどおじになりやすい
彼らは決められた時刻場所方角で必ず撮れるというものでないと被写体にしづらいのだ
つまりカメラヲタのうち普通の性格してる奴は野生生物や風景やカーレースなど偶然性のある被写体を撮って満足出来るが
チー牛やネトウヨやこどおじの場合電車くらいしか撮れるものがないということになる
0067日本@名無史さん
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2021/08/08(日) 16:39:11.68
われわれの抱いているブスのイメージって、モンゴル人に近い。
0068日本@名無史さん
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2021/08/08(日) 17:44:20.64
>>67
そういえば司馬遼太郎って蒙古語学科出たよな
0069日本@名無史さん
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2021/08/08(日) 19:54:50.09
>>60
人間は何かとランク付けが好きな生き物だ。
歴史が評価しようがしまいがお構いなしだ。

>>57
確かに太平記の作者や平家物語の作者、甲陽軍鑑の作者は
自分を歴史家とは思っていないだろうがww
上から目線で評価する点は司馬以上だと思うぞ。
0070日本@名無史さん
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2021/08/12(木) 11:35:52.99
長曽我部盛親も被害者だな
公家の娘たちとスワッピング三昧とか史実ですか?
0071日本@名無史さん
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2021/08/12(木) 14:23:56.16
昭和48年、須田さんはイルクーツクのホテルで、当時新発売のカップ・ヌードルを試食した。
残り9個。
0073日本@名無史さん
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2021/08/15(日) 23:46:09.70
>>70
被害者かなぁ?俺的にはハーレム状態で羨ましいだけでイメージダウンにはならないw
0074日本@名無史さん
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2021/08/17(火) 14:10:33.70
『人間の集団について−ベトナムから考える』
「寿会のひとびと」「青木茂氏の風貌」「異郷を流浪する話」「桃太郎伝説」に登場するベトナム残留日本兵は、
青木茂氏ではなく落合茂氏である。ご本人が実名の公表を控えてもらいたいという希望をもたれていたと思われる。
現に同氏は本品が書かれた4年後である1977年、公安関係者から「日本の買弁資本の手先」と追及され
妻子を残し日本に帰国し東京銀行大阪支店に勤務されている。
つまり「寿会のひとびと」に登場する東京銀行サイゴン支店支店長が落合茂氏であり、青木茂氏のモデルである。
作品中はトーメンのサイゴン支店勤務となっているが、それは前職であろう。
0075日本@名無史さん
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2021/08/17(火) 14:13:31.59
司馬氏と落合茂氏(青木茂)の会食に同席する中野喬二記者も仮名であろう。
中野喬二とは、中野重治と白井喬二の合成語である。
0076日本@名無史さん
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2021/08/17(火) 14:27:57.67
上皇・上皇后様が天皇・皇后であられた時の2017年2月、ベトナムを訪問されました。
この時お会いになったのが元残留日本兵の妻子であった方々。
しかし面会のあと暫くして亡くなった方がいらっしゃいますが、長年の苦労が一辺に報われた安堵からなのでしょうか。
この不憫な事情を理解している日本人は余りいません。
一家の長が突然の帰還後に残された家族は長い間様々な汚名を浴びせられ、差別と苦難に虐げられたのです。
0077日本@名無史さん
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2021/08/19(木) 08:13:23.45
>>75
中野喬二は《あとがき》の同行者紹介のところで紹介されているから、実在の人物じゃないのかなあ。
0078日本@名無史さん
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2021/08/19(木) 22:01:20.87
河合継之介が吉原細見にいちいちメモ書きしてたってていうエピソードは司馬のガチな創作ですか?
0079日本@名無史さん
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2021/09/04(土) 04:45:28.50
坂本龍馬
重婚
遊郭通いで梅毒もらう
役人2人銃殺
空荷で沈没したのに嘘ついて大金ゆすり取る
2回も土佐藩脱藩
姉殺し
架空の北辰一刀流免許皆伝
薩長とグラバーと幕府のパシリ
近藤長次郎殺害
海援隊は長崎の嫌われ者
武市の仇と手打ちして土佐藩のパシリになる
狙われてるのにふらふらして殺される
大物だから狙われたのではなく、過去の役人殺人で狙われた
土佐勤王党から幕府の犬になる
嫁は変な女で龍馬の手紙は歴史的価値があると知っていて全部焼く
役人殺人を嬉しそうに姉に報告
武器商人のパシリのくせに偉そうに日本を洗濯するなどとうそぶく
0080日本@名無史さん
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2021/09/04(土) 04:52:08.29
司馬遼太郎はさな子との婚約シーンを書くのに苦慮したと言う。
あの時代の話だから、坂本が結婚を申し込んで千葉家との間に正式に婚約が成立したと考えるのが自然。
それを一方的に反故にしている。
そもそもいつ野垂れ死にするかわからない脱藩浪人が結婚すること自体が無責任。
現に2人も不幸にしている。
0081日本@名無史さん
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2021/09/05(日) 20:37:37.43
>>79
だからこそ面白いし、
教科書で取り上げるべきだと思うのだけどな。
話半分にしても確かに業績を上げたのだしな。
こういう馬鹿でも時流に乗れば歴史に名が残るというだけでも、
生きる励みにはなると思うぞww
0082日本@名無史さん
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2021/09/13(月) 22:22:45.94
いうまでもないが小説家という職業は、事実を重視する必要のない職業である。
朽木館が野尻にあろうがなかろうが、その跡地にある朽木中学校が野尻にあろうが市場にあろうが、
とりたてて問題にする必要はない。
0083日本@名無史さん
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2021/09/13(月) 22:23:53.31
つまり小説家にとって重要なのは、事実ではなく、その近似値である。
0085日本@名無史さん
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2021/09/14(火) 19:43:50.67
「湖西のみち」の旅は、同行した菅沼晃次郎氏のメモによれば、1970年12月8日ということです。
0086日本@名無史さん
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2021/09/15(水) 22:17:33.05
アムール川を上空から見てみたいな。
文字通り黒い龍だ。
0087日本@名無史さん
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2021/09/15(水) 23:40:20.27
現物税ヤサクで徴収した黒貂の売却益は、ロシアの国庫収入の3分の1に達したこともあった。
この小動物がロシア人をシベリア征服に駆り立てた理由は、ここにある。
しかし毛皮にされた黒貂の顔が可愛すぎる。
毛皮にするよりペットにした方がよかったんじゃないか?
露スケはむかしからロクなことをしとらんな。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/66/Wiki-ezokuroten1.jpg
0088日本@名無史さん
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2021/09/15(水) 23:49:28.10
シベリア出兵で日本軍の撤収が遅くなったのは、尼港事件があったからだろう。
パルチザンに数千人の市民を虐殺されて、軍隊だけが先に帰れるわけなかろう。
0089日本@名無史さん
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2021/09/19(日) 16:29:24.45
ロジャ・メイチン君は、2002年に心臓発作で亡くなっていた。享年59歳。
イギリスのフォークストンという町のアパートで、迎えにきたタクシーの運転手に発見されたそうだ。
結局、彼は日本で研究者としてやっていくことは諦めたようだ。
0090日本@名無史さん
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2021/09/19(日) 23:12:30.36
三輪山近辺のちょっと小綺麗そうなドライブ・イン
司馬遼太郎……てんぷら定食
ロジャ・メイチン……お刺身定食
0091日本@名無史さん
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2021/09/23(木) 13:10:08.95
十返舎一九は、八王子千人同心の家系ではない。
駿河府中の千人同心あるいは六十人同心の子ともいわれるが、父母の名は未詳。
0092日本@名無史さん
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2021/09/25(土) 00:17:03.68
1970年の「甲州街道」の旅で、司馬遼太郎は八王子で徳川慶喜の熱心な研究者河合重子さんに会った。
今、その人が営んでいた履物店に行ってみると、荒井呉服店のすぐ隣。
荒井呉服店は荒井由美のちに松任谷由実となった歌手の生家で、こういうところに司馬遼太郎や須田剋太が来ていたのかと驚いた。
https://stat.ameba.jp/user_images/20200712/20/lalawedding/5d/9b/j/o4032302414787983645.jpg
0094日本@名無史さん
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2021/10/14(木) 06:07:33.22
普通名詞としての「高鴨」と高鴨神社(御所市鴨神)がごっちゃになって紛らわしいな。
高鴨神社が普通名詞としての「高鴨」の地にあるだけに、余計に紛らわしい。
0095日本@名無史さん
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2021/10/20(水) 22:56:32.82
義経が壇ノ浦で平家軍の船の漕ぎ手を狙い撃ちにしたというのは大嘘
司馬はやっぱり馬鹿だな
0096日本@名無史さん
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2021/10/21(木) 07:19:32.06
作家の書く文章が史実に忠実かどうかなんて気にせんやろ
0097日本@名無史さん
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2021/10/26(火) 07:02:20.42
講談ベースに脚色する安直な作り方
そのくせ歴史評論家気取り

大阪人だわ
0098日本@名無史さん
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2021/12/03(金) 11:07:57.48
鎌倉や明治のもあるけど、司馬って戦国と幕末に偏りすぎなんだよね

同じ歴史小説でも吉村昭を読んだ方がおもしろいし
0099日本@名無史さん
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2021/12/03(金) 18:11:22.98
幕末のは特に文体が断定口調だから司馬を学者だと勘違いする馬鹿がたくさん沸いてしまう
0101日本@名無史さん
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2021/12/04(土) 18:12:59.31
「風神の門」のセックス描写というのは風変わりだったなあ。
0102日本@名無史さん
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2021/12/05(日) 00:40:41.77
>>100
村上春樹「じゃあオレは下手だというのか!」
0104日本@名無史さん
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2021/12/05(日) 01:01:28.78
ハルキはブサイクだが恋愛の描写がうまいのか?
0106日本@名無史さん
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2021/12/06(月) 11:00:23.35
イケメンにとっては愛だの恋だの性行為だのは飯食ったり酒飲んだりするのと同じ日常だからな。
0107日本@名無史さん
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2022/01/05(水) 16:59:59.72
歴史は物語だから、それを唯一無二の真実と見なすのはヤバイ
19世紀ドイツの罪ですな

小説はフィクションだから、どう書いてもいいんだけど、
司馬の書き方は歴史批評みたいで困る
信者たくさんだから
0110日本@名無史さん
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2022/01/27(木) 21:53:01.43
龍馬って
重婚
武器商人のパシリで内戦の戦犯
二度も脱藩
役人2名殺害
当たり屋&ゆすりたかり屋
武市の仇と勝手に和解

クズ人間じゃないか
0112日本@名無史さん
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2022/02/08(火) 18:51:34.84
赤穂浅野の奥野将監の子孫とか書かれてたんだっけ?
0113日本@名無史さん
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2022/02/09(水) 00:22:43.11
日本の古代文化=朝鮮文化説の信奉者だったことも忘れてはいけない
0115日本@名無史さん
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2022/03/10(木) 13:33:06.81
殺し合いしか書かない。
戦国を書いても、江戸時代は幕末まで書かない。
殺し合い大好き・・日本人では無さそう
0116日本@名無史さん
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2022/03/10(木) 19:43:40.98
幕末書きまくりなんだが?
0117日本@名無史さん
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2022/03/10(木) 21:27:26.82
>日本人では無さそう

こういう「無」の変換をするあたりお前が日本人ではないだろ

〜がない=「無」
〜ではない=「非」もしくは「不」、このケースでは「非」を使う
0118日本@名無史さん
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2022/03/11(金) 09:03:52.27
ただ単に5ちゃん脳で「司馬って朝鮮人だろ」と言いたかっただけだったようだが
結果、己の無知と馬鹿を晒してしまったでござる、の巻。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/01(日) 05:11:07.39
272 公共放送名無しさん 2022/12/30(金) 21:44:28.75 ID:Ul5PJ/d/
松本清張とか司馬遼太郎とかそれが事実みたいに信じる奴らがいるからタチが悪い
0123日本@名無史さん
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2023/01/28(土) 16:13:02.20
無能認定された山内一豊は?
0124日本@名無史さん
垢版 |
2023/01/29(日) 22:46:09.08
坂本龍馬の家は献金郷士で、郷士の株は買ったが武士になったわけではなく
商人のままで商人の生活をしていた。
ところが郷士の株を買って郷士になったんだから武士のような生活をしていたはずだ
と頑として譲らない人が多いんだな。
竜馬は子供の頃、武士の子供の格好をして剣術道場に通っていたとか。
なんでそうなのか疑問に思っていたところ
ある日医者に行ったら解決した。
医者の待合室に「おーい竜馬」というのがあったんだな。
その漫画を読んでみたら、竜馬は武士の子みたいな格好をしていた。
家の人たちもほぼ武士とか武士の妻とか武士の家庭そのものだった。
0125日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/03(金) 22:00:07.33
薩摩焼の朝鮮人陶工。
文禄・慶長の役。秀吉の朝鮮出兵で朝鮮に渡った大名たちは、朝鮮の陶工を日本に
連れ帰り、陶器を焼かせた。
鍋島氏の有田焼、寺沢氏の唐津焼、毛利氏の萩焼などがそうであるが、島津氏の
薩摩焼もそうである。
島津氏は連れ帰った陶工たちを、主として領内の苗代川という土地に住まわせた。
薩摩では他の大名と違い、朝鮮人陶工たちに朝鮮にいたときと同じ生活をさせた。
朝鮮人だけで村を作らせ、祖先の祭祀もそのままにさせた。
そこでは言葉も衣服も髪型もそのままだった。

苗代川の陶工たちは武士身分ではなかったが、藩に大事にされ、差別を受けるような
ことは一切無かった。武士と同じように禄を与えられ(介抱高という)、さらに
陶器作りの収入もあって生活は豊かだった。
ところが明治維新の後から様子が変わってきた。
とくに、日本が日清戦争に勝ってからは、朝鮮人に対する態度がガラリと変わった。
陶工の村の周囲の村人から、お前たちがいるお陰で、俺たちまで朝鮮人と思われる、
迷惑だと言われるようになった。
江戸時代を知っている人たちがいる間はまだよかった。維新から年月を経るごとに
昔を知らない人ばかりになり、まるきりの朝鮮人扱いになった。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/03(金) 22:02:17.66
そこで苗代川という地名が変えられた。
美山という取って付けたような地名になった。
さらに、陶工たちは蔑視から免れるため、独自の行動を起こした。
士族の戸籍を買うのである。
鹿児島には士族がたくさんいた。もともと武士が全人口の70%を占めていたといわれる
土地柄である。さらに、西南の役で男手を失い、貧窮に陥ったままの士族家庭も多かった。

戸籍を買うというのは、具体的には養子に入るのであるが、当時は入籍などはいい加減で、
間に立つ人がいればお互いに顔も見ないで手続が出来てしまったという。
間に立つのは代書屋であった。
戸籍を買って士族になるというのは陶工村の住人のブームのようになり、ほとんど全員が
そのようにした(ただ一人、朝鮮名のままで横浜で成功した人がいるという)。

現在、朝鮮人陶工の子孫だといって朝鮮名を名乗っている陶芸家が何人もいるが、それは
商標として使っているのである。
みなとっくの昔に日本名になっている。
最も有名と思われる沈壽官(ちんじゅかん)という陶芸家もそうである。
現在の当主は第15世、その父親の14世沈壽官は司馬遼太郎の著作にも取り上げられ、
韓国でも名士であった。
14世・15世ともに日韓のシンポジウムなどにも出席している。
15世は韓国ではシム・スグァンと名乗っていて、韓国の大学の客員教授もしている。
しかしこの家は明治の終わり頃に大迫(おおさこ)という姓に代わっている。
その時に士族にもなっている。14世は大迫恵吉、15世は一輝という名である。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/04(土) 07:53:00.71
司馬遼太郎は薩摩焼(の陶工)に関して虚構の世界を作り上げた。
「故郷忘じがたく候」及びいくつかのエッセーによってである。
こういうのは罪にならないのだろうか。
よくぞここまでと思うぐらい嘘のオンパレードなのである。

ここのブログが詳しい。

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/55476886.html

この沈寿官窯というのは、遅くとも13代目には焼き物など作っていなかった。
ブローカーというか薩摩焼の販売店にすぎないのではないか。

14代が鹿児島二中に入学したときに暴行を受けたという「エピソード」が
「故郷忘じがたく候」の最初の方にあるが
これは全くの司馬遼太郎の創作。

入学早々、教室にすぐ上級の者が数人はいってきて、
「このクラスに朝鮮人が居っとじゃろ。手をあげい」とわめいた。(文春文庫四十ぺージ)。
上級生たちは「新人生名簿によって韓姓の少年がいることを知っただけであるし
(同書四一ぺージ)。その後、上級生たちは「沈少年が名乗らなかったということで、
少年たちは激昂した。精神を注入してやる、と吼え、沈少年を教室のそとへ出し、
屋上へつれてゆき、十人ほどが寄ってたかって殴った」(同書四二ぺージ)

沈少年が家に帰ると、両親が門口に立っていた。
少年を待っていたのだ。
両親は何もかも分かっていて、黙って出迎えた。
そして三人黙ったまま家に入った。

というのだが、こんなのも勿論創作。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/04(土) 07:55:17.77
司馬の作り出した沈寿官伝説には実際に被害者もいるようだ

故郷忘じがたく候(司馬遼太郎、文春文庫)のカスタマーレビュー

「5つ星のうち2.0 私は50年間騙されていたのか
2019年6月24日に日本でレビュー済み

先日、沈寿官氏が亡くなられたと言う報に接して、改めて、本書に関する情報を得んと、
ネットを渡り歩いていたら、驚愕のサイトに出会ってしまった。
本書に書かれている内容の多くは虚偽乃至捏造だと言うのだ。俄かには信じ難かったが、
読み進むうちに、さもありなんと納得させられてしまった。
沈壽官氏の作陶技術についての疑問符も然りだが、一番驚かされたのは、氏が、
旧制中学校に入学した時のエピソードが虚偽だったと言うことだ。
朝鮮人と言うことがわかって上級生からリンチを受けたと言う有名な下りだ。
教員時代、私も何度も引用させてもらい、生徒に語ったものだ。
このエピソードは真っ赤な嘘だと言うのだ。氏は当時、吉本と言う日本の姓を名乗っており、
朝鮮人だと上級生が知るはずもないと。
念のため、他のサイトも覗いて見たが、同じような記述がなされていた。
当の鹿児島二中のOBの方々からは抗議の声も上がっていたと。
これらの記述の日時を見ると、既に10年近く前ではないか。
否、これらの指摘は、ずっと以前からなされていたと。
ネットに不得手な私のような老境の人間には知る術もなかったわけだ。
これが事実とすると、私の50年近くの人生とは何だったのかと思わざるを得ない。
人間、長生きするものではない、と言う格言がふと頭をよぎった。

4人のお客様がこれが役に立ったと考えています」
0129日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/04(土) 08:32:37.16
沈壽官窯の茶寮には、「故郷忘じがたく候」の文庫本が積まれているそうだ。
観光客に販売されているんだな。
今でもこの本は沈壽官窯(大迫さん)の稼ぎの種になっている。

「故郷忘じがたく候」の初版は昭和43年(1968)。
学生運動華やかなりし頃だ。たとえば日大紛争は昭和43年から44年。
東京大学安田講堂事件は44年1月。

社会全体がベトナム戦争反対で盛り上がっていた。
文芸春秋がこの風潮に合わせて 沈壽官 を引っ張り出し、司馬遼太郎に書かせたんだろうな。

司馬遼太郎も調子づいて中身を盛りまくった。
14世が鹿児島二中で上級生たちにリンチを受けた事件まででっち上げ、
さらにその後、リンチをした上級生たちと一人づつ対決し、自分を認めさせたというエピソードまで
創り出した。沈寿官さんの名誉のために付け足しておいたんだろう。

しかし、言うまでもないが、リンチ事件など存在しなかった。
本当にこの頃の出版界というのは出鱈目だった。
ベトナム反戦で盛り上がった社会の風潮に合わせ、例えば日本軍の中国における残虐行為などを
暴いた本なども次々に出版された。
事実ならいいが、風聞に基づいたいい加減な内容のものもあった。
司馬も目一杯出版社の依頼に応えた。
エピソードを創り出してしまうんだからすごい。
この本を読んだ鹿児島二中のOBたちは激怒し、訴訟まで考えたらしいが、そういう動きは報道される
こともなかった。司馬遼太郎は出版界にとって「金の卵を産む鶏」だった。
出版界全体で司馬に対する批判を封じた。
司馬遼太郎に対する批判が出てきたのは、最近のことだ。

すっかりその気分にさせられている読者のブログ
https://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/927faf21c85faf9f6e8cbbfea99dc9ab
「14世の父13世は京都大学法学部卒、14世は早稲田大学政経学部卒。村の小学校から旧制鹿児島二中に
入学したとき、その姓からか呼び出しを受けいわれなき鉄拳の雨を受けますが、そのご一対一の対峙で
自分を認めさせていったそうです。薩摩人以上の薩摩人の意地を通したのです。」
だってさ
0130日本@名無史さん
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2023/02/05(日) 17:47:46.94
司馬遼太郎のウソ などというブログをやっている人がいる
このブログから引用させてもらおう

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沈壽官窯などと名付け、沈壽官という名を代々世襲しているような外観にしている。
現在の当主は15世で、その息子さんが現在修行中。16世を継ぐ予定になってるそうだ。

しかし、沈壽官というのは12代目の人がそういう名前だったというだけのことだ。
代々沈壽官という名を伝えてきたわけではない。
12代目はたいへんに技術が優れており、その作品は称賛された。
だから13代以降もその名前で焼き物を売るようになっただけのことで、名前の世襲なんて
ものではない。ただのブランド名なのである。

朝鮮から連れて来られた初代の陶工からずっと焼き物をしてきた家には違いないが、
名前は各人勝手に名乗っていただけである。
12世の技術が優れていたといっても、もし13世も陶工をしていたのなら父親の名など名乗らず
自分の名前で焼いていたのではないか。

13世以降は陶工などしていないのではないかという疑惑が持たれているのは確か。
あくまでも焼き物の会社の社長さんであって、陶工ではないのではないかというのである。

14世(大迫恵吉さん)が焼き物の修行などしていないのは確かだろう。
なにせ鹿児島二中という地元の名門に進学したし、京都大学法学部を出ているのだから。
京大法学部を出た陶工なんてあるわけない。
今の当主の15世大迫一輝さんも、わざわざ鹿児島から東京の早稲田実業に進学。
早稲田大学政経学部を卒業している。
これでいつ焼き物の修行をしたというのだ?
ヨーロッパで修行したとか、韓国でキムチ壷の作り方を学んだとか、わけのわからない履歴を
披露しているが、こういうのがさらにインチキ臭さを増す。
薩摩焼の職人なら、薩摩焼を学ぶだけで一生かかるのではないか。
他の焼き物を学ぶなんて暇があるのだろうか。
0131日本@名無史さん
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2023/02/06(月) 15:08:30.65
上で
>14世(大迫恵吉さん)が焼き物の修行などしていないのは確かだろう。
>なにせ鹿児島二中という地元の名門に進学したし、京都大学法学部を出ているのだから。
>京大法学部を出た陶工なんてあるわけない。
と書いたが

十四世・大迫恵吉さんは早稲田大学政経学部卒であった。
京都帝国大学法学部を卒業したのは十三世の正彦さんである。
ここは訂正しておきます。
(といっても>>129 に「14世の父13世は京都大学法学部卒、14世は早稲田大学政経学部卒。・・・」
と書いてありますが)。
0132日本@名無史さん
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2023/02/07(火) 20:25:01.41
沈壽官家

初代 沈 当吉  
二代 沈 当壽 
三代 沈 陶一 
四代 沈 陶園 
五代 沈 当吉
六代 沈 当官  
七代 沈 當吉 
八代 沈 当園 
九代 沈 当栄 
十代 沈 當近
十一代 沈 壽蔵 

十二代 沈 壽官

十三代 沈 壽官(正彦) 
十四代 沈 壽官(恵吉) 
十五代 沈 壽官(一輝)
0133日本@名無史さん
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2023/02/07(火) 20:27:06.49
初代の沈当吉が朝鮮から連れて来られた陶工である。
その後、十二代の沈壽官まで名前はバラバラである。
(ただし、初代と五代目がたまたま当吉という同じ名前である)。

沈壽官窯というが、沈壽官という名前は十二代目が初めて名乗ったのである。
そして、その後は代々沈壽官という名前を名乗ることになった。
十二代の息子正彦、その息子恵吉、その息子一輝と三代続けて沈壽官を名乗っている。

十二代が名乗った沈壽官という名を、何故その後代々名乗ることになったのか。
その理由として十二代が名工といわれ、沈壽官の名が世に知られたためだといわれる。
なるほど十二代沈壽官は慶応三年のパリ万博に壷を出品、さらに明治六年のウィーン万博に
大花瓶を出品して絶賛を浴びた。
その後もいくつもの博覧会や展覧会に作品を出品、明治三三年には再びパリ万博に出品して
銅賞杯を受けている。明治三九年に亡くなるまで、日本を代表する陶工の一人であった。
この沈壽官の名を看板にしようというのは分からないでもない。
しかし、沈壽官の後、誰も陶工としての個人の名を名乗らなかったのは他に理由があるの
ではないか。端的に言えば、沈壽官の窯を継いだものの、自分は陶工ではなかったから
なのではなかろうか。

十二代の息子である十三代沈壽官こと正彦氏は京都大学法学部卒である。
明治22年生まれ。この時代に大学まで進学した人は稀である。
しかも京都帝国大学である。
おそらく十二代沈壽官は、壷屋(薩摩焼の窯元のことを地元ではこう呼んだ)は自分の
代までと決心していたのだろう。その原因には、明治以降急激に募ってきた朝鮮人差別が
あると思われる。沈壽官は息子を壷屋にはせず、最高の日本人にさせようとした。
金はいくらでもあった。だから好きなだけ勉強させ、京都帝大に入れた。
苗字も日本人の姓を手に入れ、名前も正彦とした。
正彦氏は大学で法律を学び、高等文官試験に合格して官吏になった。
おそらく当時の日本で最高のコースを歩んだ人である。
正彦氏が勤務することになった官庁は朝鮮総督府であった。
自分が志願したのか、正彦氏の出自を知る誰かがそうしたのか、どちらかは分からない。
ともかく、正彦氏は朝鮮を統治する側に立ったのである。
朝鮮総督府時代の正彦氏の赴任地や部署などは全く分からない。
この時代のことは何故か公開されていない、というか朝鮮総督府の役人であったことは
秘匿されている印象である。
正彦氏がいつまで朝鮮総督府にいたのかもハッキリしない。
昭和6年(1931年)に下伊集院村会議員になっているので、おそらく昭和5年ごろには
官界を去ったようである。
0134日本@名無史さん
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2023/02/07(火) 20:41:39.73
官界を去った正彦氏は生まれ故郷の美山に帰った。
村会議員として、また窯業の業界人として生きた。
村会議員は30年ほども続けた。昭和26年には村会議長となっている。
地元の政治にかかわる一方で、陶器業界の重鎮ともなり、いくつもの役職を兼任している。
昭和15年薩摩統制工業組合理事
昭和16年薩摩陶器株式会社専務取締役
昭和21年鹿児島県生活用品価格査定委員 陶磁器専門委員など。
ほんの一部をあげても、これだけの重職に就いている。
まさに栄光に包まれた人生といっていいだろう。

だが、一方で疑問が出てくる。
正彦氏は沈壽官を名乗っており、沈壽官は陶工としての名前である。
その名称には実体があるのだろうか。
つまり、正彦氏は陶工なのかどうか、すなわち陶工としての技能を持っているのかという
ことである。誰が考えても同じと思うが、正彦氏が薩摩焼の陶工であるわけがない。
経歴上、そんな技術を学んだ時期はいっさい見当たらないのである。
京都帝大に進学して卒業、その後官界に進み高級官僚をしていたのである。
陶工としての修行をしているはずがない。
正彦氏・十三代沈壽官が陶工である可能性はゼロである。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/08(水) 00:45:23.07
司馬の創作小説を歴史書のように勘違いし、尊敬する人が坂本龍馬なんて
人が居るのが笑えるね
0136日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/08(水) 17:34:43.83
さて、一三代に引き続き一四代沈壽官さんについて。

十四代沈壽官こと大迫恵吉さんは大正15年生まれ。
鹿児島二中(旧制)から鹿児島医専(今の鹿児島大学医学部)に進学して中退。
その後早稲田大学政経学部卒。
横浜で代議士の秘書として働いた後、昭和39年、父の死に伴って鹿児島に帰り十四代を襲名。

40歳まで焼き物にはタッチしていないんだな
これでどうやって薩摩焼を焼いたり息子(十五代)に技術を伝えたりできるのだろう?
0137日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/09(木) 21:58:11.20
ただの小説家やん。
「司馬史観」なんかを強く言われ出したんも没後やし。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/11(土) 01:05:30.50
司馬の小説は史実3割、創作7割
0140日本@名無史さん
垢版 |
2023/02/11(土) 05:44:05.73
十四代沈壽官・大迫恵吉さんは鹿児島医専に進んだわけだが、これは徴兵逃れのためで
あったかも知れない。
恵吉さんは大正15年生まれである。大正15年は昭和元年である。
昭和16年に太平洋戦争が始まり、男という男は兵隊に引っ張られた。
昭和18年には徴兵年齢がそれまでの20歳から19歳に引き下げられた。
恵吉さんは旧制中学を卒業した時点で、徴兵を目前にしていた。
ところで、学生には徴兵免除の特権があった。
学生である間は徴兵されなかったのである。
ところがこの特権も昭和18年に廃止。学徒出陣となった。
国立競技場で行われた出陣式での壮烈な行進は今でも時々放送される。
ところが、である。
学徒出陣となっても、理系の学生には徴兵免除の特権があったのである。
学徒出陣は文系の学生だけであった。
恵吉さんは、というより父親の正彦さんは、理系の学生に認められた徴兵免除の特権を
狙ったのだろう。そのために鹿児島医専に入った、、、と考えてもいいのではないか。
当時兵隊に取られればほぼ戦死を覚悟しなければならなかった。
徴兵を免れる手段があるなら、その方法を採るというのは親としたら当然だろう。
これは悪いこととは思わない。
だが、とにかく医専に入ったのは方便だった。
恵吉さんは本来医専など入りたくなかった。
だから戦争が終わり、徴兵忌避の必要がなくなると医専を中退した。
そして早大の政経学部に進んだ。
政治家を志していたのである。
これはおそらく父親の影響だろう。
父の正彦さんは早くから村会議員となり、村政の重鎮だった。
選挙の前になると家には支援者らが集まり、熱い議論が戦わされたりした。
そうした熱気を肌で知っている恵吉さんは、自分も政治の世界を目指すようになったのである。
こうした環境は菅義偉前総理に似ている。
菅氏も父親がイチゴの栽培農家で、自分のブランドのイチゴが東京築地の青果市場で高値で取引
されるほどの成功者だった。イチゴ栽培をしたいという村人の面倒をよく見たので、周囲に押されて
村会議員となり三期務めた。菅氏は中学高校時代に父親の選挙運動の熱気を感じながら育った。
そして自然に政治家に憧れるようになり、まずは弁護士になろうと北海道大学の法学部を受験した
ほどだった。以上余談。
恵吉さんの大学時代の話は何も伝わっていないが、早大雄弁会などにも所属していたかも知れない。
大学を卒業すると、横浜で代議士の秘書になった。
大学は新制になっていたから、四年間通って24歳で卒業ということだろう。
だから代議士秘書となったのは昭和24年か25年。恵吉さんが何月生まれか分からないので正確な
ところは分からない。
その後、昭和39年に正彦さんが亡くなるまで故郷には帰らず秘書を続けていた。
40歳になるかならないかというところである。
このまま秘書を続けて年来の夢である代議士を目指すか、それとも故郷で第二の人生を歩むか。
人生の岐路だったと思うが、恵吉さんは沈壽官窯の後継者という道を選んだ。
陶工ではない。製陶会社の社長という実業家の道である。
0141日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/16(水) 18:31:36.15
【悲報】坂本龍馬、教科書から削除される
学者「偉業の95割は司馬遼太郎の創作、日本人は小説と史実の違いがつかない」
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1692171913/

司馬鹿でした
0142日本@名無史さん
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2023/08/18(金) 05:50:26.32
>>135
それが歴史好きのレベル
0143日本@名無史さん
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2023/08/19(土) 17:21:42.29
司馬遼太郎って有名な資料収集に古本屋一軒購入みたく
何ていうか創作をいかにも史実ですよと見せかけるのが巧みでそれで国民的作家になったところがあるから
そうして講演などで文明論文化論を語るっていう
0144日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/23(水) 07:47:53.17
司馬遼太郎は個人出版や私家本みたいな本を買うんだよ
日露戦争の出征兵士の日記みたいのとか、西南戦争での私記とか
うちのひい爺さんが書いたんですみたいな記録が出てくると必ず「売って下さい」と
交渉したらしい。
坂の上の雲でも、出征した兵士の日記からの引用が冒頭からしばらく続く。
そういう資料も使って書いてるんだということをアピールしてるんだな
そうすると、細かいプロットでも、読んだ人は「これは資料があるのかもな」と思ってしまう。
あと、坂の上の雲では、後書きにロシア語の文書も参照したと書いてあったな。
誰かに荒訳してもらって読んだんだろうが、一冊でもそういうことして、それを書いておけば
やっぱり批判はやりにくくなる。
司馬はそういうハッタリのテクニックがうまい。
0146日本@名無史さん
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2023/08/24(木) 02:06:54.52
幕府の作法で、将軍の顔というのは大名でも見ることができない。江戸城での拝謁のときは
上段の御簾のなかに坐し、御簾があがっても諸大名は平伏したままで顔をあげてはならない
ことになっている。
たとえ上目でも将軍を見ることは非常な非礼とされているため、江戸の市民でも将軍の顔を
おがむことはできない。

が、この異例の行幸の異例さの第一は、将軍が馬上で全身を衆目の前に曝してしていることであった。
こんな若者だったのか)
と、晋作は近づいてくる徳川家茂の騎馬姿をながめて意外な思いがした。
存外、可愛げではないか。 ひとびとはみな土下座し平伏している。が、晋作だけは顔をあげていた。
「いよう。―――」
と、この男は、花道の役者に大向うから声をかけるように叫んだ。
「―――征夷大将軍」
といったとき、さすがに連れの山県狂介らも顔色をうしなった。
家康以来、天下のぬしに対してこれほどの無礼の挙動をとった男もない。
そういう事件も、徳川三百年間、一件もなかった。
もしあったとすれば、ただの刑では済まず、鋸挽きの刑にでも処せられたであろう。

ところが幕府にこまったことに、これは将軍が主役の行列ではなく、将軍以外の権威である天子の
行幸であった。天子に対する無礼ならば将軍以下の供奉の者が家来に命じて取りおさえさせるはずで
あったが、将軍すら天子の供である以上、彼自身に対する無礼は、それを咎める機能がこの行列にはない。
将軍のそばには五千石、三千石といった高禄の旗本が徒歩でつき従っており、また番頭以下の親衛隊士もいる。
しかし勝手にとびだして天子の行幸をみだすわけにはいかなかった。
晋作は、戦略眼に富んだ男だけに、そのことはよく知っていた。

このとき、将軍の従士たちはよほどくやしかったらしく、このあと江戸までこのことを手紙で書き送った者が多い。


>>145
お前、世に棲む日々のこの部分信じる?
高杉晋作は「いよう、征夷大将軍」とほんとに叫んだのか

特に最後の一行な
「このとき、将軍の従士たちはよほどくやしかったらしく、このあと江戸までこのことを手紙で書き送った者が多い。」
お前、これ信じるのかよ?w
0149日本@名無史さん
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2023/08/24(木) 03:30:22.58
>>147
すげえ馬鹿
「いよう、征夷大将軍」は小説のセリフではない。
こう叫んだということを事実として書いている。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/24(木) 03:45:25.96
馬鹿なアンチがよく司馬の創作だという事をよく調べると
司馬が書く前からそう書いて有る文献などが出てくるケースが多々あるな
0153日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/24(木) 03:51:31.94
いや、昔からある与太話だろ

しかし司馬はそれを実際にあった話として書いている。

さらに司馬は付け加えた。
「このとき、将軍の従士たちはよほどくやしかったらしく、このあと江戸までこのことを手紙で書き送った者が多い。」

この一文は司馬の「創作」ではないか。
将軍の従士たちが江戸に手紙で書き送った者が多いなんて資料誰も知らないぞ。

君はこれ信じるのかよ?w
0154日本@名無史さん
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2023/08/24(木) 03:54:07.04
>>152
ふーん、多々あるのか
それじゃ一つあげてみてくれ
0155日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/24(木) 03:58:11.32
ググって「いよう、征夷大将軍」が司馬の創作ではないらしいと気付いたのか?w
昔からある話ならそれは創作ではなく引用だなw
0156日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/24(木) 04:06:56.85
>>155
お前猛烈に頭悪い

「このとき、将軍の従士たちはよほどくやしかったらしく、このあと江戸までこのことを手紙で書き送った者が多い。」

この一文は司馬の「創作」ではないか。
と書いてあるだろ

いよう征夷大将軍は昔からある与太話。
講談が出所じゃないかと言われてるみたいだな
司馬はこのネタを本当にあった話にしたかったんだろうな
0157日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/24(木) 04:11:39.16
「いよう、征夷大将軍」は
本当に講談が初出かアンチの言う事はいちいち前提に嘘が多いから
まずそこからはっきりせんとな
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