邪馬台国畿内説 Part626
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1595766670/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪
馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬
台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台
国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国
畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿畿
内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内内
説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説
ははははははははははははははははははははははははははははは
破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破破
綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻綻
ししししししししししししししししししししししししししししし
ままままままままままままままままままままままままままままま
ししししししししししししししししししししししししししししし
たたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた 邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪邪
馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬馬
台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台台
国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国国
纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏纏
向向向向向向向向向向向向向向向向向向向向向向向向向向向向
説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説説
はははははははははははははははははははははははははははは
妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄妄
想想想想想想想想想想想想想想想想想想想想想想想想想想想想
でででででででででででででででででででででででででででで
すすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすす ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 纏向説論者は大型建物が一棟しかないのに、その建物群をあえて「大型建物群」と呼んでいる
本来であれば「建物群」ないしは「大型建物一棟を含む建物群」と呼称すべきであろう。
一般人が「大型建物群」という言葉を聞けば、大型建物の集合体であると考えるのが常識。
例えば「高層ビル群」と言えば「高層ビルの集まり」を指し、周辺の低層建物は含まない。
「バッタの大群」と言えば「多数のバッタの群れ」を指し、他の動植物は含まない。
これに対して纏向説論者は
>大型建物群というのは、「大型建物」の群れじゃないんだよ?
>建物群の規模の大きなものが、大型「建物群」なんだ
ttps://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1575285047/880
(邪馬台国畿内説Part540 >>880)
>そんなのあんたの主観だろ
>複数の大型建物を含むセット施設なんだから
>大型建物群でいい
ttps://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1591193476/522
(邪馬台国畿内説Part604 >>522)
などという実に見苦しい言い訳をしているが、
纏向遺跡を実際以上に大規模なものに見せかけるためにこのような呼称を意図的に使用していることは明白である
纏向遺跡にはその調査のために多額の税金が投入されており、
その遺跡の実態を虚飾する行為は日本国の納税者、日本国民に対する重大な背信行為である
纏向説論者は詐欺師集団、反社会勢力も同然と言えよう
日本社会のゴミ屑、税金にたかるダニと言い換えても良い
纏向遺跡関連の予算は大幅に削減し、発掘調査は早急に中止すべきであろう 当時の纏向は鉄を入手できない後進地域
食料にも乏しくカエルを食べていた
まさに貧困にあえぐ山奥の寒村、陸の孤島
華やかな場所だったと思っているのはキナイコシとその仲間だけ ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 Q 纏向が邪馬台国の王都である証拠はなんですか?
A 桃の種とカエルの骨です ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 >>1
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ヽ、___ ( ) プッ ~\_____ノ| ∧_∧
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. | |ヽ、二⌒) / .| | | ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) ∧ ∧ {^^}
_(=゚ω゚)⌒ i | ギャハハハハハ
(⌒ ー 一 r、!
ヽ弋 。 X 。イ(`ー′ つぶせ! つぶせ!!
〔勿\ ヽ
) r⌒丶)〜
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( く !|||| ガッガッガッ
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⊂⌒ヽ从/( ;`Д´) >>1
';:;:,;.:,;: (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 _∧_∧
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゙゙゙゙!!!!llllliiiiiiiiiilllll!!!!゙゙゙゙
/.// ・l|∵ ヽ\ ←キナイコシ ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 >>1
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Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 146 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2020/07/06(月) 12:57:59.26
@畿内説に合わない倭人伝を認めない。
A畿内説に合わない記紀を認めない。
B畿内以外の考古学的出土物を認めない。
Cフルボッコされた畿内説の負けを認めない。
D無視されると勝利宣言する。
E自分で荒らして他説のせいにする。
F論を批判せずに個人を罵倒する。
G存在しない遺跡や確認できない資料を提示して煙に巻く。
H畿内説に合わない鏡を認めない。後で作り始めたことにする。
I証拠を要求するが何を出しても証拠を認めない。
J証明を要求するが畿内説自身は証明ができない。
K論破していないことを論破したと主張する。
L計算ができない。
M方位も距離も畿内に合わせて読み替える。
N川と海の区別がつかない。
O東西南北が分からない。
P日本製を中国製と偽る。
ことで畿内説は成立しています。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 249 名前:日本@名無史さん 2020/04/15(水) 17:29:37.53
はぁ〜♪
鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ
鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種
銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ
楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ
オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜
九州へ出るだ〜
九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜
はっ♪ ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 〈`ー─-、_ノ^j
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(__」 ゙ー-‐' ゙ー-‐'(___」 人
(__)
(__)11
1:肩ロース 6:ヒレ
2:肩 7:ランプ
3:リブロース 8:そともも
4:ばら 9:テール
5:サーロイン 10:すね
11:>>1 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png 畿内説崩壊キタ━━━━━━━━━━━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━━━━━━━━━━━━!! ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 スレッドのタイトルと名前を間違えた阿呆がたてたスレはここですか? >>55
>スレッドのタイトルと名前を間違えた阿呆がたてたスレはここですか?
はい、その通りです
このスレのことですよね?↓↓↓↓↓↓↓
ttps://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1567755289/
あまりにもバカすぎて涙が出てきますねw ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 //.|
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| |/.;;;;//. | ||. | じゃあ、>>1は死刑という事で・・・。
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| |/. | |. || ( ) ワイワイ ガヤガヤ
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..∧_∧ (| |⌒/. ∧ ∧⊃イヤァァァ. //| (´-`;)(@・ )(;´∀)(
( ・∀・).(⌒| |//(;´Д`) ←>>1 // | ∧∧ ∧ ∧ ∧_∧. ∧∧
( )  ̄| |/ (⊃ / ⊂.⊃. // | (∀・ )( ´,_ゝ)( )(´∀`
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(__)_) | | / // / <_` )(´・ω)(д゚` )(
| |/ // /. ∧_∧ ∧ ∧ ∧_∧. ∧_∧ ∧
~~ // / ( )( ゚∀゚)(` )( )(゚д
. // / ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
. // / (д- )( )( ´,_ゝ)(TдT)(∀` ) ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、健常者を中心に贅六を省いた国家規模の連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた場所こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。 >>97
荒らすしか脳のない九州説がレベルの低さを晒してるよ
みじめだね >>98
板わ荒らすしか脳のない畿内説がレベルの低さを晒してるよ
みじめだね 九州説は完全に論破されちゃったけど悔しくてなんか言い返したいおじいちゃん
しかし耄碌で考えなどまとまらない
九州説の本から丸写ししたいけど今どきもう素人の書いた自費出版っぽいトンデモ本しか無い
ネットググってネタを探すがデマしか無い
もう脳停止して機械的に言い返すかコピペ荒らししかない ←イマココ >>100
畿内説って何?
外野の新たなトンデモ説? >>98
同じ荒らしは九州説スレや阿波説スレにも登場している
むしろキナイコシのスレへの登場は他のスレより遅かったくらい
だからキナイコシの自演だろうと疑われているわけだがw >>102
それが荒らし犯人であるお前の捏造なのは
証拠をぜんぜん出せない口先だけだから
バレバレなのよ
だってそんなこと、お前一人しか言ってないじゃん >>103
九州説や阿波説のスレを過去スレ含めてのぞいてみればすぐわかるよ >>468
>伊都国と奴国の確定が九州を不利にしてる
伊都国は、「臨津搜露」であるから海岸付近であり、
前原〜糸島水道付近である事が確定的。
二万戸の奴國は、その伊都国から「東南至奴國百里」の側副傍線國であるから、
日向峠の西麓平野部〜早良平野部である事が確定的。
>あの辺は伊都国と奴国であって邪馬台国ではないことは確実
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この男も嘘つき騙しであり、
不彌國は、伊都國から「東行至不彌國百里」であるから、小戸〜西新町付近の海岸地域になり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしまう事になるから、
その南である7万戸の邪馬壹國女王之所都の入り口は、福岡平野中央部付近になる。
>そして邪馬台国はここから遠く離れてて海を渡る
この男(おそらく大和説男)の大和説)は、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って×。 >>104
>九州説や阿波説のスレを過去スレ含めてのぞいてみればすぐわかるよ
ほらな
絶対に証拠出さないで言い張り続けるから
九州説の嘘はすぐわかるんだよ >>107
だからスレ見に行ってみなよw
すぐわかる話だろ つまり奥山の相棒キナイコシを演じていたのは連句点だったということよw >>106
九州説
いくらウソついても無駄だよ
1のテンプレ立て妨害してんだから
物理的に自演じゃあり得ない
あり得ないこと何度連呼しても
九州説=ウソツキ=荒らし悪党
が確定するだけだ
九州説の自滅だよ >>108
ほらな
九州説は絶対に証拠を出さない
ウソだからだよ >>98
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や「冢→前方後円墳」などの、
史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しをし、
史料事実からの反論も出来ずに、
荒らすしか脳のない大和説が、
レベルの低さを晒してるよ
みじめだね >>109
つまり昔からニセスレ立てたりナリスマシしたり
荒らしをやりまくってた連続句点が畿内説とかあり得ないんだから
すべて九州説側の悪質なイヤガラセってことで確定してる
常識で考えりゃ誰でもわかる
つまり九州説=非常識も証明した馬鹿ってこと >>112
これもウソツキ九州説ね
論破されても聞こえないフリをし続ける
それが耄碌九州説
だいたい此の状況で荒らしををやってるのが畿内説側だと言い張るのは狂人確定だろ >>100
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や「冢→前方後円墳」などの、
史料実態に拠って、大和説は完全に論破されちゃったけど、
悔しくてなんか言い返したいおじいちゃん
しかし耄碌で考えなどまとまらない
大和説学者の本から丸写ししたいけど、
今どき、もう素人アホ詐欺師のような嘘つき騙しのトンデモ本しか無い
ネットググってネタを探すが、論理の欠陥ばかりのデマしか無い
もう脳停止して、機械的に「証拠は?」と言い返すか、
口先荒らししかない ←イマココ >>113
お前が一人ぼっちだから連句点が遊んでくれてたんだよ
今まで気付かなかったのか?
勘の悪いやつw >>112
この九州説の人は
畿内説のことを「大和説」と嘘をついて
いつも連呼で荒らす人です >>116
また全1病を発病したのは荒らし実行犯の九州説老人 >>118
残念ながら畿内説は君1人しか居ないんだよw >>107
>絶対に証拠出さないで言い張り続けるから
は?過去スレ見ればわかる、って言っているだけやろ?
証拠って、このスレに九州説スレと阿波説スレの過去スレ全部貼れってのか?
馬鹿じゃねw >>103
この投稿が、荒らし犯人であるお前の捏造なのは
史料事実証拠や議論内容証拠をぜんぜん出せない口先だけだから
バレバレなのよ
だってお前(おそらく「証拠は?」病の東大理系博士号)は、
その捏造誹謗の根拠や、自分ら大和説者側の史料事実根拠を、
全く言ってないじゃん >>120
九州説はそういう妄想言い続けるから正気を疑がわれる >>121
ほらな
>は?過去スレ見ればわかる、って言っているだけやろ?
九州説は何があろうと頑として証拠を出すことを拒む
自分の主張なのにさ
だから、ウソツキと自白してるも同じなのだ >>122
この九州説の人は
畿内説のことを「大和説」と嘘をついて
支離滅裂なことばかり言っていつも連呼で荒らす人です コロナの影響でさらに過疎化が進みそうです
『1)大学の人員や組織改編に関するもの
考古学に関する教員の増員や新規開講が行われ,あるいは行われる予定であると述べたものは各 1 件,
増員を要望しているとしたものが 1 件と極めてわずかである。
これに対し,すでにあるいは近い将来において減員(退職後不補充を含む)が決まった,講座が廃止
になったとするものは 8 件,その可能性が高い(考古学を含む組織全体でのポストの削減を含む)とし
た回答も 3 件あり,全体的に考古学関連の人員,講義が減少,縮小傾向にあることは明らかである。』 >>126
奥山がそんなことやったって証拠は?
九州説はまた捏造? >>107
>>九州説や阿波説のスレを過去スレ含めてのぞいてみればすぐわかるよ
>ほらな 絶対に証拠出さないで言い張り続けるから
九州説の嘘はすぐわかるんだよ
ほらな。
この大和説男(おそらく東大理系博士号)は、
「九州説や阿波説のスレ」というように、証拠の場所を言われても、
「絶対に証拠を出さない」と言い張り続けるから、
「証拠は?」しか言えないインチキ・・・・詐欺師だろう、と言われるんだよ。 >>129
過去スレ見るくらい簡単にできるんだから見ればいいのにな
ミエナイキコエナイしたいだけ? >>129
>「九州説や阿波説のスレ」というように、証拠の場所を言われても、
>「絶対に証拠を出さない」と言い張り続けるから、
九州説が
インチキだから当然だな
「九州説や阿波説のスレ」だなんて証拠の場所がどこだかわからない漠然とした言い方して誤魔化す
これが「絶対に証拠を出さない」九州説の汚いテクニックさ >>121
>は?過去スレ見ればわかる、って言っているだけやろ?
>証拠って、このスレに九州説スレと阿波説スレの過去スレ全部貼れってのか?
>馬鹿じゃねw
この九州説男は
>同じ荒らしは九州説スレや阿波説スレにも登場している
>むしろキナイコシのスレへの登場は他のスレより遅かったくらい
>だからキナイコシの自演だろうと疑われているわけだがw
と何度も言い張っていた訳だが
証拠を出せと問い詰められたら
言うに事欠いて
九州説スレと阿波説スレの過去スレ全部自分でチェックしろと言い出した
九州説が荒らしで皆に迷惑をかけて
それを誤魔化そうと嘘をついて非常識な言い訳をし
その言い訳に証拠がまったく出せないので嘘とバレるから
無理難題をふっかけてさらに誤魔化しの主張をしてる
九州説の悪質さがよくわかる一幕でしたね >>131
>過去スレ1000いってないから皆さん荒らしですよ
これもデタラメ
スレッドストップは1000とは関係ない キナイコシは奥山の自演キャラだからキナイコシは犯人じゃないと断定できるんですよ
論理的にw >>130
>過去スレ見るくらい簡単にできるんだから見ればいいのにな
>ミエナイキコエナイしたいだけ?
どこのスレかもわからないのに
簡単にできるわけがない
九州説は見え見えの嘘を平気でつく
説以前に人間として終わってるよ つまり奥山が
私がキナイコシです
と自白すればキナイコシの疑いは晴れるんですよw >>136
>キナイコシは奥山の自演キャラだからキナイコシは犯人じゃないと断定できるんですよ
>論理的にw
それも嘘
キナイコシってのがお前の空想上の人物だから
なぜなら、どの投稿がキナイコシのなのか
証拠をあげて特定できないだろ? >>これもウソツキ九州説ね
論破されても聞こえないフリをし続ける
それが耄碌九州説
だいたい此の状況で荒らしををやってるのが畿内説側だと言い張るのは狂人確定だろ
その事実関係の具体的な「証拠は?」。 >>140
>その事実関係の具体的な「証拠は?」。
1のテンプレに割り込み荒らししてるのが証拠 >>142
考古学で立てるべきスレを日本史板に立てようとするから阻止されてるんだろw >>110
>九州説
いくらウソついても無駄だよ
1のテンプレ立て妨害してんだから
物理的に自演じゃあり得ない
具体的な証拠は?。
東大理系博士号は?、何故書かないの?。 >>144
立てるべきとかお前が決めることじゃないから
個人のワガママで執拗なイヤガラセして
力づくで「阻止」しようなんて
そんな非道を正当化する九州説は異常だね >>145
>東大理系博士号
たぶん東大阪中学時代に理科博士とか呼ばれてたんだろうw >>111
>ほらな
九州説は絶対に証拠を出さない
ウソだからだよ
「九州説は絶対に証拠を出さない」とか、
「ウソだから」とかの証拠は?。 >>143が論破された時の連続句読点のよくやる反応
意味もなく上から目線になって罵ってプライドだけ保とうとする
惨めな人間って証拠だよ >>149
通報の根拠は?
自分の荒らし犯行現場、運営に公開する? >>150
>連続句読点のよくやる反応
俺は連続句読点じゃねえよバカw
妄言連発w
重症だなw >>153
>俺は連続句読点じゃねえよバカw
誰かがおまえを連続句読点と言った?
妄言爆発しましたw
墓穴掘ったかな? >>156
はて>>143のどこにおまえを連続句読点と書いてある? >>158
150 日本@名無史さん 2020/07/27(月) 17:59:29.10 ID:
>>143が論破された時の連続句読点のよくやる反応
意味もなく上から目線になって罵ってプライドだけ保とうとする
惨めな人間って証拠だよ 俺はもう仕事終わったから奥山イジリしてあげてもいいんだぞ?w >>160
それが何?
どこかに、おまえを連続句読点と書いてある? >>162
連続句読点と疑ってるじゃないか>>150
自分で書いた文章すら読めないのか
さすがキナイコシw >>164
で?
どこかに、おまえを連続句読点と書いてある? >>163
お前の寿命が終わってんだけど?w
まだ生きてると思ってんのか?
何も残せずw >>165
すっとボケるしかない情けないキナイコシ=奥山w >>113
>つまり昔からニセスレ立てたりナリスマシしたり
荒らしをやりまくってた連続句点が畿内説とかあり得ないんだから
すべて九州説側の悪質なイヤガラセってことで確定してる
常識で考えりゃ誰でもわかる
つまり九州説=非常識も証明した馬鹿ってこと
事実関係的な証拠は?。 >>167
で?
どこかに、おまえを連続句読点と書いてある?
指摘は具体的にどうぞ
奥山とかキナイコシとか、そう思う理由もね >>114
>>「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や「冢→前方後円墳」などの、
史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しをし、
史料事実からの反論も出来ずに、荒らすしか脳のない大和説が、
レベルの低さを晒してるよ みじめだね
>これもウソツキ九州説ね
論破されても聞こえないフリをし続ける
それが耄碌九州説
だいたい此の状況で荒らしををやってるのが畿内説側だと言い張るのは狂人確定だろ
証拠は?。
「論破され」たって、証拠は?。 >>172
>「論破され」たって、証拠は?
「正北抵新羅」と書かれた倭國から
平安時代に唐に使者が来ている
藤原北家の貴族だ
だから
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」ではあり得ない
論破おわり >>117
>この九州説の人は
畿内説のことを「大和説」と嘘をついて
いつも連呼で荒らす人です
証拠は?。 >>123
「南→東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
「冢→前方後円墳」など史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説は、
そういう妄想言い続けるから正気を疑がわれる >>174
>証拠は?。
証拠は>>112 「荒らすしか脳のない大和説が、」 >>124
「南→東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
「冢→前方後円墳」など史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説は、
何があろうと頑として証拠を出すことを拒む
自分の主張なのにさ
だから、ウソツキと自白してるも同じなのだ >>125
この「南→東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
「冢→前方後円墳」など史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説の人は
大和説のことを「畿内説」と嘘をついて
支離滅裂なことばかり言っていつも連呼で荒らす人です >>177
証拠は出てますが
「咸亨元年三月、遣使賀平高麗。爾後継來朝貢。則天時、自言「其國近日所出、故號日本國。」蓋惡其名不雅而改之。
大歴十二年、遣大使朝楫寧,副使總達來朝貢。
開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢。」 >>179
>大和説のことを「畿内説」と嘘をついて
嘘だという証拠は? >>128
>奥山がそんなことやったって証拠は?
九州説はまた捏造?
九州説者がそんなことやったって証拠は?
大和説者はまた捏造? 九州説はおよそ理論性が一切なし
それに代わって全部が嘘で構築されている >>182
「そんなこと」って、どんなこと?
内容が無いんだけど
九州説さん、また嘘をついてるだけ? >>132
>>「九州説や阿波説のスレ」というように、証拠の場所を言われても、
「絶対に証拠を出さない」と言い張り続けるから、
>九州説がインチキだから当然だな
「九州説や阿波説のスレ」だなんて証拠の場所がどこだかわからない漠然とした言い方して誤魔化す
これが「絶対に証拠を出さない」九州説の汚いテクニックさ
大和説がインチキだから当然だな
「九州説や阿波説のスレ」と言えば、この5chの中にある事は当然であるのに、
場所がどこだかわからない漠然とした言い方した、って誤魔化す
これが「絶対に証拠を出さない」大和説の汚いテクニックさ 九州説は一部じゃなくて全部が嘘で出来ている
一部でも事実を取り入れたら全部崩壊するからな >>133
この大和説男は
「南→東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
「冢→前方後円墳」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの人はと何度も書いておいた訳だが
証拠を出せと問い詰められたら
言うに事欠いて逃げ出してしまった
また、大和説が5chの荒らしで皆に迷惑をかけて
それを誤魔化そうと嘘をついて非常識な言い訳をし
その言い訳に証拠がまったく出せないので嘘とバレるから
無理難題をふっかけてさらに誤魔化しの主張をしてる
大和説の悪質さがよくわかる一幕でしたね >>135
>九州説はやる事なす事全部が嘘
証拠は? >>187
スレ主が自分で建てたスレを自分で荒らすか?
ほら理論的な思考ができてない >>169
>>つまり昔からニセスレ立てたりナリスマシしたり
>>荒らしをやりまくってた連続句点が畿内説とかあり得ないんだから
>事実関係的な証拠は?。
これとかな
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history//1546949244/1 >>189
邪馬台国九州説という名称そのものからだよ
邪馬台国は畿内にあった事が確定的で定説は畿内説なんだから >>137
>>過去スレ見るくらい簡単にできるんだから見ればいいのにな
ミエナイキコエナイしたいだけ?
どこのスレかもわからないのに簡単にできるわけがない
九州説は見え見えの嘘を平気でつく
説以前に人間として終わってるよ
大和説者の方が、
「どこのスレかもわからない」のを、
「証拠は?」とは言わなかった証拠は?。 九州説は常人なら理論的思考をする脳の部分が綺麗さっぱり存在しなくて
その代わりに嘘をつく回路が詰まっている >>189
>>九州説はやる事なす事全部が嘘
>証拠は?
はい証拠
この九州説男>>103は
>同じ荒らしは九州説スレや阿波説スレにも登場している
>むしろキナイコシのスレへの登場は他のスレより遅かったくらい
>だからキナイコシの自演だろうと疑われているわけだがw
と何度も言い張っていた訳だが
証拠を出せと問い詰められたら
言うに事欠いて
九州説スレと阿波説スレの過去スレ全部自分でチェックしろと言い出した
いまだに証拠を出そうとしない >>185
>大和説がインチキだから当然だな
>「九州説や阿波説のスレ」と言えば、この5chの中にある事は当然であるのに、
>場所がどこだかわからない漠然とした言い方した、って誤魔化す
>これが「絶対に証拠を出さない」大和説の汚いテクニックさ
九州説、言ってることが支離滅裂だぞ
この巨大な5chの中で
「九州説や阿波説のスレ」とか漠然とした言い方したって
どこだかわからん >>142
>>その事実関係の具体的な「証拠は?」。
>1のテンプレに割り込み荒らししてるのが証拠
「1のテンプレに割り込み荒らししてる」という事の証拠は?。 >>193
>大和説者の方が、
>「どこのスレかもわからない」のを、
>「証拠は?」とは言わなかった証拠は?。
九州説さん
これって、もう
日本語として全く理解できないんですけど >>146
>立てるべきとかお前が決めることじゃないから
個人のワガママで執拗なイヤガラセして
力づくで「阻止」しようなんて
そんな非道を正当化する九州説は異常だね
それを立証する証拠は?。 >>198
>「1のテンプレに割り込み荒らししてる」という事の証拠は?。
証拠の一部
>>43-48 >>171
>まだやってんの、畿内で確定してるだろw
証拠は?。 >>200
>それを立証する証拠は?。
これね
>◆スレッドを立てるときの注意◆
>●板の主旨に合うスレッドをたてましょう。
> ここは「学問・文系」の日本史板です。
> 時代劇の話題→時代劇板
> 戦国時代・武将をネタとして楽しむ→戦国英雄・三国志・戦国時代
> 固定ハンドル叩き→最悪板
> その他掲示板一覧を見て、よく考えてからふさわしい板にスレッドを立てましょう。
板違いと主張する根拠なし
力づくでスレ立てを「阻止」する権利は当然なし >>173
>「正北抵新羅」と書かれた倭國から平安時代に唐に使者が来ている
藤原北家の貴族だ
「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」の遣使が、
「藤原北家の貴族だ」という証拠は?。
>だから
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」ではあり得ない 論破おわり
(日本國伝と倭國伝とを並立的に書き分けた)唐会要の倭國伝の倭國の中心が、
北部九州ではあり得ない、という事の証拠は? >>176
>>>この九州説の人は畿内説のことを「大和説」と嘘をついていつも連呼で荒らす人です
>>証拠は?。
>証拠は>>112 「荒らすしか脳のない大和説が、」
それでは「畿内説のことを「大和説」と嘘をついて」の証拠になっていないし、
証拠にならないから、×。 >>178
>お前のそれ、論破されてるから
証拠は?。 当時の倭国は「❓」(不明)みたいな話ばかりなんだよと言っている人もいたり。
適当、そういう設定?とか。 倭国(日本?)内部はどうなっているのだ(どうなっていたのだ)?
という報告書などは残っていないの? >>180
>証拠は出てますが
「咸亨元年三月、遣使賀平高麗。爾後継來朝貢。則天時、自言「其國近日所出、故號日本國。」蓋惡其名不雅而改之。
大歴十二年、遣大使朝楫寧,副使總達來朝貢。
開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢。」
その文は、
(倭國伝と日本國伝を全く別の場所に書き分けた)唐会要の倭國伝の記載であり、
その倭國の位置を「正北抵新羅」と書いて、倭國の位置を北部九州付近に特定しており、
大和付近である事を否定しているんだから、
そこに書かれた遣使は、全員、
「北部九州の倭國からの遣使である」事を名乗った事になるんだよ。 >>181
>>大和説のことを「畿内説」と嘘をついて
>嘘だという証拠は?
隋代以前の古代においては、列島には、
中国から「天子や天皇」と認められた人はいなかったから。 >>183
>九州説はおよそ理論性が一切なし
それに代わって全部が嘘で構築されている
証拠は?。 >>184
>「そんなこと」って、どんなこと?
内容が無いんだけど
その過去レスをたどって行けば、内容が書かれている。
>九州説さん、また嘘をついてるだけ?
証拠は?。 >>186
>九州説は一部じゃなくて全部が嘘で出来ている
証拠は?。
>一部でも事実を取り入れたら全部崩壊するからな
大和説は、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「冢≠前方後円墳」などの史料事実の、
一部でも事実を取り入れたら全部崩壊するからな それにしても・・・、
小野妹子などの身に何があったんだろう。
生没年不詳、不明、???、???、???、このような話ばかり。 逆らったか、何かして、
すべて取り消されたんだろうという話みたいだし。 >>191
>>>つまり昔からニセスレ立てたりナリスマシしたり
荒らしをやりまくってた連続句点が畿内説とかあり得ないんだから
>>事実関係的な証拠は?。
>これとかな
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history//1546949244/1
連続句点の説明になっていないから、証拠にならないよ。 神代(某という人物などの先祖)
↓
↓
↓
近代の戦争でも良い。某が何かをした、参加、協力など。
すべて取り消し。 >>192
>邪馬台国九州説という名称そのものからだよ
邪馬台国は畿内にあった事が確定的で定説は畿内説なんだから
邪馬台国という呼称があった、という証拠は?。
また古代の列島に「畿内」なんて呼称はあったという証拠は?。
また「定説は畿内説」という証拠は?。 >>204
>「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」の遣使が、
>「藤原北家の貴族だ」という証拠は?。
入唐大使藤原朝臣常嗣は藤原北家葛野麻呂の子、承和五年(838)船出して六年八月帰国(日本後記)
円仁の記録によって入京が開成四年(839)正月と判る
同一人物で間違いない
>(日本國伝と倭國伝とを並立的に書き分けた)唐会要の倭國伝の倭國の中心が、
>北部九州ではあり得ない、という事の証拠は?
書き分けたという証拠は一切ない
通説通り記録の混乱に過ぎない
でなければ菅原道真も藤原常嗣も大宰府の長官に赴任できる道理がない
九州倭国など存在しない
唐会要によれば倭國は則天時に自ら「其國近日所出、故號日本國」と言上しており
倭国が国号を日本と改めたことが明らかである >>193
>九州説は見え見えの嘘を平気でつく
大和説は、
「南→東」や「冢→前方後円墳」などの嘘を平気でつく。
説以前に人間として終わってるよ wikiでも良い。小野妹子。
主君:推古天皇、聖徳太子
主君よりも上が・・・、その上の国や人物などに対して、逆らったか何かした。 >>194
「南→東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や「冢→前方後円墳」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説は、
常人なら理論的思考をする脳の部分が綺麗さっぱり存在しなくて
その代わりに嘘をつく回路が詰まっている >>215
>>「そんなこと」って、どんなこと?
>>内容が無いんだけど
>その過去レスをたどって行けば、内容が書かれている。
どうしてその内容が書けないの?
九州説さん、また嘘ついてるだけだから
だよね 中国(漢人、中華?)から渡来人もいたみたいだしな、
確実に・・・いた。 >>195
>>>九州説はやる事なす事全部が嘘
>>証拠は?
>はい証拠 この九州説男>>103は
>同じ荒らしは九州説スレや阿波説スレにも登場している
>むしろキナイコシのスレへの登場は他のスレより遅かったくらい
>だからキナイコシの自演だろうと疑われているわけだがw
と何度も言い張っていた訳だが証拠を出せと問い詰められたら言うに事欠いて
九州説スレと阿波説スレの過去スレ全部自分でチェックしろと言い出した
いまだに証拠を出そうとしない
おや?、これもウソ付き騙し。
その大和説者は、きちんと、
「同じ荒らしは九州説スレや阿波説スレにも登場している」と、
事実や実態を答えている。 >>219
>>これとかな
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history//1546949244/1
>連続句点の説明になっていないから、証拠にならないよ。
現実に、そこで連続句読点がニセスレ立てて荒らしをしてるのだが?
嘘つき九州説は目の前の現実も認めないのか >>196
>九州説は脳改造を受けたサイボーグ説
証拠は?。 中国という国があるでしょ、
まさか民族なども入れ替わっているのかな。 >>229
>その大和説者は、きちんと、
>「同じ荒らしは九州説スレや阿波説スレにも登場している」と、
>事実や実態を答えている。
だから、狂った東遷説男があちこち荒らして皆に迷惑かけてるよ
九州説スレって具体的にどこだか知らないけどさ
そして>>103は嘘をついてるわけだ >>231
説に証拠があったら確定です
説でなくなります >>201
>>「1のテンプレに割り込み荒らししてる」という事の証拠は?。
>証拠の一部 >>43-48
だから、その「割り込み荒らし」をしているのが「耄碌九州説」者だ、
と断定する証拠は?。 日本語読解力にかなり難有りのキナイコシって何処の国の人だと思いますか? 『文』()デザインの帽子、文官?。
ほんとーの渡来人だろう、むかーしの中国からの来た人物。
たしか本や書なども沢山持っていたと言っているし。 例えば『』『』『』という人物など、
同じ家(実際は違う?)なのかもしれないけど、正確には、家は、その家ではないしw >>235
>だから、その「割り込み荒らし」をしているのが「耄碌九州説」者だ、
>と断定する証拠は?。
これな
>1日本@名無史さん2020/06/04(木) 13:25:06.65
>キナイコシ、早く新スレ立てないかな
>また邪魔しにいきたくてウズウズしているんだがw
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1591244706/1
391 ◆UiepmfCeDJqf 2020/06/04(木) 17:16:09.41
おい、新スレ立ったぞ
みんなで邪魔しに行こう!!!
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1591244706/39
実 行
↓
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1591257537/18-30 『王母 龍宮』
中国人(むかーしの)なんだろうと言っている人達がいたりw どこの低脳なんだ?
おまいたちの工作なんてものは必要ない。 >>222
>>「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」の遣使が、「藤原北家の貴族だ」という証拠は?。
>入唐大使藤原朝臣常嗣は藤原北家葛野麻呂の子、承和五年(838)船出して六年八月帰国(日本後記)
円仁の記録によって入京が開成四年(839)正月と判る 同一人物で間違いない
史料批判をすれば、「利害関係が殆どない列島」に関する唐の記録では、
「薜原朝常嗣」は倭國使節であった、という事が史料実態であり、
倭國の存在を否定して日本國の支配下にあった事にしたい平安時代の日本後記の記載では、
どのような書き換えや造作がされているのかも知れず、信頼性が落ちる。
>>(日本國伝と倭國伝とを並立的に書き分けた)唐会要の倭國伝の倭國の中心が、北部九州ではあり得ない、という事の証拠は?
>書き分けたという証拠は一切ない
唐会要は倭國伝と日本國伝とを書き分けた、という事が史料事実。
>通説通り記録の混乱に過ぎない
「南→東」などのような史料事実の曲解の嘘つき騙しの通説大和説学者は、
一種の・・・・であり、信頼性が全くなく、根拠にならない。
>でなければ菅原道真も藤原常嗣も大宰府の長官に赴任できる道理がない
史料事実やた史料実態では、太宰府は倭國の首都として一定の地位や価値があった。
>九州倭国など存在しない
唐会要によれば倭國は則天時に自ら「其國近日所出、故號日本國」と言上しており
倭国が国号を日本と改めたことが明らかである
倭國は、西晋惠帝への遣使が既に「日本」という国名も名乗っていた。 例えば・・・・w
織田某の家の〜という話と同じ、同じ名前の家(親戚?)なんだけど、
実際は?正確には?違う? .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. >>243
>唐会要は倭國伝と日本國伝とを書き分けた、という事が史料事実。
ではないな
それは解釈
それも珍説
>史料事実やた史料実態では、太宰府は倭國の首都として一定の地位や価値があった。
そのような史料事実は実在しない
>倭國は、西晋惠帝への遣使が既に「日本」という国名も名乗っていた。
根拠がない 頭おかしくなるわ!!と言って(謎のレス)死んだのかな、
なんとなく、あの謎の震災の? 何なんだろう、茨城県、福島県?宮城県?
どこからのレスだったんだろう。 詳しいことは、わからないんだけどw
何かしたんだろう? このスレではないんだけど、謎の震災後。
おまえはデスラーか!!
何やら〜、あまり覚えていないんだけど、謎のレス。 もれ自身は軍人でも・・・不明・・・でもないから『❓』 謎の制服を着ている子供がいるでしょ(何度も貼り付けた)
家の写真だということは確実、軍人なのかな? >>227
>>>「そんなこと」って、どんなこと?内容が無いんだけど
>>その過去レスをたどって行けば、内容が書かれている。
>どうしてその内容が書けないの?九州説さん、また嘘ついてるだけだからだよね
簡単にたどれる事だし、
「南≠東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」や「冢→前方後円墳」などの史料事実の曲解や嘘吐き騙しの大和説者は、
まともな神経の人間だとは思っておらず、
・・・・アホ詐欺師だと思っているから、まともに相手にする気も余りないから。 >>254
>>どうしてその内容が書けないの?九州説さん、また嘘ついてるだけだからだよね
>簡単にたどれる事だし、
どうしてその内容が絶対に書けないの?
口が裂けても言えないの?
笑っちゃうね九州説さん
嘘ついてるんだよね?
そんなもの無いから言えない書けない示せない
わかってるよ、みんなが
また君が嘘ついたんだってね >>254
他人のことを
アホだ詐欺師だと罵って
その理由は?
「曲解」だ「嘘」だと言い放つけど
その証拠は絶対出さないの?
言えない理由が
アホ詐欺師はまともに相手する気がないから?
詐欺師って誰?
そんな言い逃れするあなただよ >>230
>現実に、そこで連続句読点がニセスレ立てて荒らしをしてるのだが?
嘘つき九州説は目の前の現実も認めないのか
何年か前に、文尾に「、、、、」という句読点を付ける投稿子がいた時に、
始めは一人だけだと思われていたが、
しばらくして違う人も同じような句読点を付けている事が判り、
それが未だにそのまま混乱していたようであり、
だから「連続句読点」という文言は、信用しない事にしているんだよ。 >>257
>何年か前に、文尾に「、、、、」という句読点を付ける投稿子がいた時に、
>始めは一人だけだと思われていたが、
>しばらくして違う人も同じような句読点を付けている事が判り、
それ、どうやって判ったの?
証拠は? >>257
>しばらくして違う人も同じような句読点を付けている事が判り、
このニセスレ立ててる人は誰?
別の人が同じことしてるの?
別の人がおんなじウソつくの?
>邪馬台国畿内説 Part421
>11 ◆bL7iehB8vc 2019/01/28(月) 19:40:38.70
>論破されたのでテンプレートは撤去しました。。。
>トリップは解読されたので変更しました、、、
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1548672038/1 >>258
>九州説の人は倫理観がおかしい
「南→東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
「冢→前方後円墳」などの史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しをする大和説者の、
倫理観がおかしい。 いまの日本は、
民主主義なんだよみたいな事を言っている人達ばかりだしな。
文官・・・大統領? >>257
このニセスレ立ててる人も誰?
別の人が同じことしてるの?
別の人が毎回おんなじウソつくの?
>邪馬台国畿内説 Part422
>11 ◆bL7iehB8vc 2019/02/02(土) 17:48:02.37
>論破されたのでテンプレートは撤去しました。。。
>トリップは解読されたので変更しました、、、
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1549097282/1 よくわからないけど。
『天財若子』
このような名前の家で、子供も謎の制服を着ていて。 >>257
このニセスレ立ててる人も誰?
別の人が同じことしてるの?
別の人がいつも毎回おんなじウソつくの?
>邪馬台国畿内説 Part428
>11 ◆bL7iehB8vc 2019/02/19(火) 22:18:16.56
論破されたのでテンプレートは撤去しました。。。
トリップは解読されたので変更しました、、、
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1550582296/1 >>257
このニセスレ立ててる人も誰?
別の人が同じことしてるの?
別の人がいつも毎度おんなじウソつくの?
>邪馬台国畿内説 part450
>11 ◆bL7iehB8vc 2019/04/02(火) 08:31:22.79
論破されたのでテンプレートは撤去しました。。。
トリップは解読されたので変更しました、、、
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1554161482/1 「(かみたまの)真似なんてしているから、こんな事になってしまった」
と言っている人もいたしな〜、なぜか数年前の陰謀スレ。 人権侵害とか、実際は、そうことにもなる。
なぜかというと、家の話だから。 民主主義だしな・・・と言っている人達ばかりいたり。 ほんとーに、どこに潜伏していたのか?という話。
『天財若子』
「文」(☆)文官?のようなデザインの帽子。 九州説には倫理性及び論理性は存在しない
それに代わって嘘をつく事がそこを占めている 九州説はもう幼稚園ぐらいから教育し直すしかないね
うそを つくのは わるいことだから やめようね 『ナベツネ チョン州人』
(一部の)メディアによる人権侵害など、そういう話。
何なんだろう?工作員なのかな。 おかしな話ばかりだと、
気づいている人は気づいているんだけどなw
『ドンバ』『』『』・・・ほとんど家の話。 何度も書いていることなんだけど、謎の写真の話w
なんて言っているんだよ、何かの制服を着ているでしょ? 『天財若子』このような名前の家。
でも「」「」「」「」という人物ではないし。 詳しいというか?制服関係の専門家がいるはず。
軍人なのか・・・????・・・・。 それにしても老婆談、自分の家(『』の嫁w)の話だから詳しいのかな。 >>272
>九州説には倫理性及び論理性は存在しない
それに代わって嘘をつく事がそこを占めている
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の無視などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説者には、
学問的科学的な論理性も、人間としての倫理性も存在しないし、持っていない。
持っているのは、
唯我独尊で、自分が、世界や人類を支配する頂点に立ち、
逆らうものや敵対するものや蔑視対象は、全員殺戮してしまえ、という思考。
当然、天皇家であろうと、容赦しない。
人類皆兄弟。
諸行無常。栄枯盛衰。盛者必滅、万物流転。
奢る平家久しからず。
人は皆、一人では、生きて行けないもの、だから。 >>273
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の無視などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説者は、
もう幼稚園ぐらいから教育し直すしかないね
うそを つくのは わるいことだから やめようね >>282 >史料事実の曲解
全部史料だせよ アホみたいに使ってるけど認めてないからな
>「南→東」 「冢→前方後円墳」 「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」
そのうえでたぶん論破できる 史料てやつをだして 「南→東」 魏志倭人伝で邪馬台国が南方にあるような描写の数々があるが
これが間違っていないという史料
「冢→前方後円墳」 当時の倭人が後円部を墓と認識しており
前方部は墓ではないと考えていた可能性があるが
これを完全に否定する史料
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」 これは7世紀のやつ? >>286
畿内説は日本の学者の研究成果で通説
日本の学者を罵る反日種族が九州説(特に上半分) >>288
まず学者どもが反日
毎日新聞も反日
そしてお前は在日 >>289
日本の学者を反日と罵るお前はエタチョン 日本の考古学者を信用しないのであれば
そもそも北部九州の稲作の年開始代も
甕棺年代も考古学的資料全てが九州説の根拠には使えない ど素人の妄想や珍説や寝言は学問の場では相手にもされない
畿内説は学者の通説 >>291
こう言うとなんだが、考古学という分野すら必要ないんだよ
必要に応じて専門家が集まれば済むから >>298
科学的専門家の事だ
何だよ考古学の専門って
何か中身あるんか? >>300
科学的解析各種、地学、気象学、etc
いくらでもある
考古学なんて何の知識もない落ちこぼれが漠然としたバイアス論を学閥に沿って展開するだけ
時間の無駄でしかない 九州説はもしかして正体バラされるからコピペ連投荒らしできなくなったの?
これは我ら畿内説の理論的勝利だ >>301
地学や気象学専門の学者が発掘調査するのか? >>303
考古学は穴掘りの専門家か?
バイト雇えば済む話 >>304
ど素人バイトだけで掘り返したらそこらへんのおっさんが拾ってくるのとかわらん >>306
お前の部落に考古遺物が何もないからだろ .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>296
>ど素人の妄想や珍説や寝言は学問の場では相手にもされない
畿内説は学者の通説
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や「冢≠前方後円墳」などのような、
資料事実や資料批判を経た史料実態の、曲解や否定の嘘吐き騙しをするような人間は、
・・・・アホ詐欺師であろうと、有名大和説学者であろうと、
マスコミや教育委員会や教科書や文科省であろうと、
まともな人々や国民や世界の学者らからは、相手にされない。
「畿内説」なんて嘘吐き騙しの通説学者らの顔や頭は、
正常の人間ではない。 >>291
>日本の考古学者を信用しないのであれば
いや、信用できない奴ばっかりだろw >>318
考古学会自体が前科持ちだもんなw
社会から投げかけられた課題を正確に理解でき無いから改善も出来ないという低能揃いw >>317
橋本名人だろう。
あいつ(?)はゲームばかりやっているんだよなw
みたいな書き込みをしている人もいたり、なぜか某歴史ゲーム関係のスレ。
毛利名人? >>320
ゲームの橋本名人かw
ちょっと調べたけどキョーレツに古いw
それよか松傾が老人だと判明したなw 判明したとか関係ない。
なぜか・・・何年?生まれとか知っている人がいたり、すとーかー? うらしまたろう(仮)?
みたいなキャラがいるんだけど・・・。 『うらしま・マリン ムー帝国』
なぜか、ほとんど仮名、キャラクター名。 『オトヒメ王女』・・・、・・・、・・・なども同じ。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>319
考古学者を信用しないなんてけしからん、と考えるなら考古学板行けばいいのにな 寺院があって〜?という話もしていたしな・・・老婆談w 『天財若子』(このような名前の家w)
でも軍人ではなかったような事を言っているしな?他の職? >>319
考古学会って何だかすら分かってない妄言
九州説はいつも笑える それにしても『❓』話ばかり。
母親談によるとw
尼寺があって・・・という話も聞いたことがあると言っているし。
漫画やアニメなどの元ネタだろう? 九州説は、今は考古学を嫌っているが
そのうち科学も語学も文献学も嫌うだろう >>337
キナイコシは無能。無職だから間違いない >キナイコシ
漢字表記するならどれがいい?
@畿内越
A既無意固地 >>328
>女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
「南→東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や「冢→前方後円墳」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説の・・・・アホ詐欺師のおかげで、
大和説の嘘つき騙しが露わに。 >>335
>考古学会って何だかすら分かってない妄言
考古学会の人?
5chでこんな書き込みやってていいのか?w
マスコミの皆さん、考古学会は5chでも日々印象操作を展開しているようです
どうぞ飯の種にしてやってくださいw >>338
国民の大半は、今は、
「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」や「冢→前方後円墳」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説を嫌っているが
そのうち、大和説考古学者も、大和説学者も、大和説教科書も、教育委員会も、
文科省も、右翼マスコミも、極右テロ組織も、嫌うだろう それよりもw
何かしたやつがいるんだろう?
と言っている人がいたんだけど、なぜだと思う?
謎の震災〜とか。 漫画やアニメ、ゲーム〜その他など、
実際は、ほとんど家の話ばかりだしな・・・。 チンピラ、
そういう人間がいて・・・みたいな事もわかっているし。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>1
考古学会の人?
5chでこんな書き込みやってていいのか?w このようにw
言われたりするのが嫌なら、やめろと言っているだけ、
漫画、エンタメ?〜そういう業界なども必要ない。 同じ人
邪馬台国畿内説 Part594
537 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2020/05/05(火) 14:25:16.26
『何者にもなれない お前たち』も出てくるし、包丁を投げてくる老婆?
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1588622650/537
邪馬台国畿内説 Part595
449日本@名無史さん2020/05/10(日) 02:07:20.48
なぜか、家と同じような設定、話?兄と弟、妹w
『何者にもなれない お前たち』何かに寄生されているのかな?
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1588832433/449
邪馬台国畿内説 Part598
日本@名無史さん2020/05/21(木) 00:19:24.28
考古学科てのは何者なれない底辺に飯を食わせる福祉施設みたいなもんだな
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1589864224/495
邪馬台国畿内説 Part618
472日本@名無史さん2020/07/16(木) 19:53:22.14
お前の今の立場が証拠だろwww
何者にもなれないエセ畿内説www
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1594810464/472 それと、なんて言っているんだ?
当時の家の写真・・・・・・・・葱の華などw >>349
中の人こと奥山です
考古学会ではなく、考古学教会ですね それと
頭が、おかしくなるわ!!
みたいなレスをしていた人はどうなったの?
死んだんだろう?謎の震災の少しあと?余震などの話だろう。 被災地・・・?
老婆の親戚がいたりするんだけど、実際は何でもない?ような話をしていたり。
山の上のほう?どういうところなんだろう。 どこで読んだんだったかな、
余震などの話?何も??揺れもしていないみたいな話をしている人もいたり。 標高の高いところに住んでいるから、
振動なども伝わらないとか?そういう都市伝説。 どこに住んでいる人なんだろう。
頭おかしくなるなわ!!みたいな謎の・・・。 批判でも何でも良い、
お前の組織や企業wもともと、どこから、お金が出ていたんだ?
『天財若子』ここからだろう?
『❓』? 例えば
うらしま・マリンというキャラがいるでしょw
なぜ、そういう設定になっているんだと思う?
お金持ち?みたいな話。 家のw成り済まし、騙り・・・・そういう家があったり、
最近、作ったりしたんだろう、同じような設定?にして。 『王母 龍宮』
なぜか・・・他の家の話みたいな事を言っている、
基地外がいたり。 家と同じ(設定)?・・・みたいな話、
そういうスレがあるんだけど、読んでみるとわかる。 創価とかw・・・によって作られた家だと言っている人もいるし。
芸能関係の話もしていたり。 なぜ知っている人がいたりするんだろう。
創価、自民党〜△会、チンピラとか、そういう組織によって作られたとかw たしか古典芸能関係?そういうスレでも同じ話。
そういう組織により作られた・・・・・・とか、
ほんとーの家(『』)ではない?みたいな話。 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 『アキバ 事件』
どこかで会ったことがあるのかな?
ガンダムで例えると・・・みたいな感じで繋がっているとか?
寮に住んでいるとか、自動車の・・・働いている? とある説(不明)によると、
ゲームなどを〜みたいな話をしている人もいたような?
売りに行った?川崎市(川崎区)が〜とか。 なぜ、このような事ばかり続くのか?
家から何か(財など?)を盗んだり、そういう事ばかりしていたからだろう。 漫画、アニメ、ゲームなどw
どう考えても(一部)チンピラだしな、
なんとなく家の話だとわかったり・・・元ネタ?。
例えば『姥清水』・・・『』『』 むかーしの芸能関係があるでしょw
それと『姥清水』のような設定?母親、まま〜みたいな。 チンピラのような団体があって・・・と言っている人がいたり、
そういう団体が会社などを経営しているのかな、出版、メディア関係など。 そもそもw
おまいに財をあげたりしたのかな?貸してあげた?家。
ただ覚えていないだけなんだろうけど。
それとも、おまいの上の上の上の・・・企業の話? 家の母親の名前だろう、ほんとーの母親w
(ひめ?)ユミコではないのか?と言っている人もいたりw
このスレだったかな。 >>378
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1355794464/
学問・文系 [日本史] “謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!70”
651 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2013/02/16(土) 18:46:05.50
自分の家の話(体験談)ですw
・芝居や歌舞伎にハマり、お金を使ってしまう
・生活出来なくなり、田畑を売る
・蔵にあった刀や書を売り、田畑を買い戻す
自給自足の生活をしてたのかもしれない 『天財若子』(この家w・・・ユミコ)
老婆談によると、広瀬座というところの話もしているし。 >>363
百済菅野と天財若子は無関係
お前は東北菅野だし 293 :日本@名無史さん:2020/06/30(火) 22:23:58 .net
天財若子
ネットで見つけた 菅野天財若子神社 をもとに妄想
菅野ってだけ
無関係 >>350
スレチだと 言われたりするのが嫌なら、やめろと言っているだけ、
お前 も必要ない 糞男は自分が仲間のはずの九州説系スレ荒らしてたのバレちゃったからな
バックれてキャラ変更するしかないんじゃない? >>387
スレチどころか畿内説のこのスレは板違いw >>391
理由もなくケナすだけの九州説って最低だね
いくら負けるからって人間小さ過ぎ ほんとーにネタなのか何なのか?わからないような話。
『天王宮 山王院』〜「さとし」という名前、川崎区に住んでいたり。 でもバスケの話ではないしな?
バスケをしていたという記憶もない。
『ダンク 山王 サトシ』 『天財若子』(?)
クラがあって〜という話をしていた事もあるし、
『広瀬座』とか。
花道?・・・芸能関係、用語だろう。 >>395
>いや明らかに板違いだからw
理由言わねえじゃん
頭おかしいだろ 九州説は結論言うだけで理由言わないとか証拠出さないとか
明らかに人間として壊れてる奴の存在が目立つな かなり前のことになるんだけど、どのスレだったかな?
「弟(サトシ)だよ」だと言っている人もいたりwその家の・・・弟。 松傾は会話せず
文句言われるとウンチジジイとして反発する
しかし会話はできない
コミュ障だから なぜか・・・w家の話のような?
老婆談〜〜〜〜〜調べてみると保存されていたり。 松傾は会話せず
文句言われるとウンチジジイとして反発する
しかし会話はできない
コミュ障キナイコシだから 『姥清水』のような話(実際、そこに行ったことはないし)?
なぜ知っている人がいたりするんだろう。 松傾は自分のスレを建てて独立したらどうか?
松傾の日本史徒然草
と題して、徒然なるままに思った事を書きなぐればイイ 〜族という話と同じなのかな?
農家になり、ずっと潜伏してみたいな人物の話とか。
よくわからない謎の写真。 何が????なのか❓という話。
>旧菅野家住宅
>市内松川町にあった農家。 >>409
どうせ連続句読点がそこからコピペ取ってきてるとかのオチだろ 『王母 龍宮』?
名前の読み方も・・・何か言っていたことがあったりw
確実に、傾いた松の木? 傾いた松の木の写真w
もれ(仮)も生まれていない頃のものだしな・・・。
父親も結婚していなかったのかな?
立っている人物も父親ではないしw 確実にw
ひめ(?)ユミコだろう・・・その家に来た。 葱の華。
確実にw同じ家(書き込み)の写真だしな。 >>387
>スレチ以前に、正常じゃないだろ九州説
スレチかどうか?以前に、
「南→東」や「正北抵新羅の議論放棄」や「冢→前方後円墳」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しを止めないし、
止められない大和説者や大和説学者らは、
正常じゃないだろ?。 >>392
>理由もなくケナすだけの九州説って最低だね
いくら負けるからって人間小さ過ぎ
理由もなく、
「南→東」や、
「正北抵新羅の議論放棄」や、
「冢→前方後円墳」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しをして、
ケナすだけの大和説者って、最低だね。
いくら議論に負けるからって、
人間として、最低過ぎ >>399
>九州説は結論言うだけで理由言わないとか証拠出さないとか
明らかに人間として壊れてる奴の存在が目立つな
「南→東」や、「正北抵新羅の議論放棄」や、「冢→前方後円墳」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説者や大和説学者らって、
結論言うだけで理由言わないとか証拠出さないとか、
明らかに人間として壊れてる奴の存在が
目立つな そんなことよりもw
創価とかチンピラの集団がいて、作られた〜〜〜〜〜〜〜だという話、
している人がいたりするでしょ?
にせ。 『』『』『』など、ほとんど家の話・・・・・・実際はw 『〜王妃』のようなキャラがいたりするでしょ。蚕、機織りをしていた家とかw 何が言いたいのか?みたいな話にもなってくる。
例えば、河童だとしよう、河童の長老でもないのに、
勝手(無断)に話を進めたり?という話。
おまいが決めたり〜〜〜。 こういう作品(製品でも同じ)は作っても良い、これは駄目だとか。
騙り、成り済ましがいて・・・・という話なんだろう。 どのスレだったかな、他の掲示板?
その家(?)の「弟だよ」みたいな話をしている人がいたりしたでしょw 実在の人物だと言っているのに、何度言えばわかるんだ。
謎のチェーンソーのゲームなども、弟(不明)が作ったとか? 人工地震だと言っている人もいるし、何かした奴がいるんだろう?とかw よくわからないんだけど。
デスラーか!!頭おかしくなるわ!!
という謎のレス(>>)
あの予言スレだったかな。 ウラシマン?ほんとーなのかなw
>戦いにおいては情け容赦無く
>相手の息の根を止めることを信条としており 主人公、徳川某、真田某・・・その他、
誰なのかわからないけど、死んだんだろう?
謎の震災後。 役を演じた人物が死んだのか、
キャラの・・・ホンモノ(不明)が死んだのか。 >>418
>「南→東」や「正北抵新羅の議論放棄」や「冢→前方後円墳」などの、
>史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しを止めないし、
だから「曲解」だ、「嘘」だと決めつける
理由を言えと言ってるんだが
九州説なんてやって御託宣下すのが習慣化すると、人間はそんなことも出来なくなるのか?
老人は歩かないと足が萎えると言うが、脳も使わないとお前らみたいに結論連呼になるんだな >>440
>老人は歩かないと足が萎えると言うが、脳も使わないとお前らみたいに結論連呼になるんだな
奥山ブーメランwww >>441
九州説さん、耄碌したからアンタそういう脳を使わない反射でしか対応できなくなってるんだよ >>442
痴呆が悪化してるおたくが言っても説得力無いねw
88日本@名無史さん2018/06/18(月) 00:47:39.88
スレ主は奥山で正解
okuyamaと自分でミスってかき込んでしまった
2017/12/05(火) 18:49:51.41
★★★★<重要なお知らせ>★★★★
1 ◆q8leUXpsw. は今後、トリップを
1 ◆UiepmfCeDJqf に変更します。
★★★★★★★★★★★★★★★★★
識別かたよろしくお願いします。 >>443
そういう言い返ししかできなくなってるからダメと言われてるのにな >>440
>>「南→東」や「正北抵新羅の議論放棄」や「冢→前方後円墳」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しを止めないし、
>だから「曲解」だ、「嘘」だと決めつける
理由を言えと言ってるんだが
九州説なんてやって御託宣下すのが習慣化すると、人間はそんなことも出来なくなるのか?
老人は歩かないと足が萎えると言うが、脳も使わないとお前らみたいに結論連呼になるんだな
史料事実は「南」であり「正北抵新羅」であり「冢」だ。
だからそれと違う事を主張すれば、それは曲解や嘘だ。 >>442
大和説者らさん、アンタら耄碌したから、
「南」や「正北抵新羅」や「冢」の、曲解や否定の嘘つき騙しのような、
そういう脳を使わない反射でしか対応できなくなってるんだよ >>447
>史料事実は「南」であり「正北抵新羅」であり「冢」だ。
>だからそれと違う事を主張すれば、それは曲解や嘘だ。
それは史料批判への排撃だから
九州説は歴史学失格ってことだな
つまり、それで現状こうなった >>451
じゃあ俺しか居ないが、九州説の方が真っ当な事言ってるぞ?
どうした?奥山w >>452
九州説の方が真っ当な事言ってると決め付ける理由は?
相手を奥山と決めつける理由は?
お前は理由が言える人か? >>453
スレ立てする前にニセスレ上げてるだろ
その時お前はここに居ない
スレ立てしてる最中にも現れない
お前が奥山であり、キナイコシでもあり、畿内説はお前しか居ない
たまあに葛城爺が乱入するがw
住人舐めんな池沼w >>454
>スレ立てする前にニセスレ上げてるだろ
>その時お前はここに居ない
とか決め付ける理由は? >>455
上からじーっと観察してるから無駄だぞw >>454
それが事実だとして
九州説はたった一人にコテンパンにされてるの? >>456
ほら、理由を説明できない
だめな九州説の人だ
証明されちゃったね 証拠出せない
説明できない
会話続けられない
九州説の三重苦 >>457
また病気発症か?www
畿内説って何も反論しないじゃんw
理由は?証拠は?を繰り返すだけで
チエオクじゃねえのか?w 証拠出せと言うだけ
説明しろと言うだけ
会話にならない
畿内説の三重苦 >>456って、どんだけダメなじいさん?
この流れで理由が説明できなくなって回答に詰まるって
w
w
w .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]=B
釜が再bム使用されるよb、になるのは春緒H時代晩期になbチてからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 贅六連呼厨あまり来なくなったな
結局キナイコシの自演だったんだろう >>464
まったく理由の言えない九州説
>>464 >>466
>九州説に理由という概念が無いんじゃないの?
大和説学者や大和説者らには、
自然や歴史における観察見聞や実験や計測や発掘などでの知り得た事実からの、
帰納的確率的な推論をする、という思考がなくて、
「結論先にありき」の、宗教的な思考しかないんじゃないの?。 _∧_∧
/ ̄ ( ・∀・)⌒\
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/.// ・l|∵ ヽ\ ←キナイコシ >>461
証拠出して説明すればいいだけなのに
なんで九州説がは他人と会話ができないの?
コミュ障? _∧_∧
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/.// ・l|∵ ヽ\ ←キナイコシ >>470
>証拠出して説明すればいいだけなのに
「南」や「正北抵新羅」や「冢」が史料事実証拠であり、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や「冢≠前方後円墳」が、
その説明なの。
なんで大和説者は他人と会話ができないの?
コミュ障?。宗教に狂った・・・・アホ詐欺師?。 >>470
> >>461
> 証拠出して説明すればいいだけなのに
> なんで九州説がは他人と会話ができないの?
>
> コミュ障?
お前がコミュ障だからそう感じるんだよw
つまりお前が病気である証明w キナイコシは無能。いくら論文出しても就職先が決まらない無職男www >>474
あんた、説明そのものを何もしないんだから
相手が誰だろうと話は通じないよ
押し入れにヒキコモってる九州説の耄碌じいさんが
「世界中の人類は俺のテレバシー読めないなんてコミュ障」
とか呟いてるんだよ。お前はそれ >>476
お前はよく正確なブーメラン飛ばすよなw
頭に刺さってるぞwww >>477は説明も釈明もできない無能
九州説の共通項か >>475
キナイコシの論文だと「畿内越」って普通に出てきそうw もうオウム返くらいしか出来ない九州説爺さんの脳退化
痛々しいな 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 誰にも相手にされず頭の中と会話するしか無い変な畿内説の奥山あわれ 連呼点もキナイコシ連呼も
中傷と混ぜっ返ししか書けない >>483
哀れなのは九州説だよ
手も足も出ないだろ いつの間にか連呼点という新しいキャラが増えたのか?w それよりもw
誰なのか知らないけど、死んだんだろう?
とある予言スレがあるんだけど、
以前、そのスレにも、『』で「」で・・・〜みたいな話を書いた(説明した)・・・。
その後「デスラーか!!!」「」 結論は出てるんだよ
陳寿は倭人の国々を戸数・道里が得られてる国と、得られてない余旁国の二つに分けてる
⇩
投馬国は戸数・道里が得られてる国に分類されてる
⇩
投馬国は女王国の北にあると認識されてる
⇩
順次読みが正しい
⇩
女王国より北に投馬国を比定できない節は即死。もち九州説も即死
⇩
倭人伝の行程に南とあるのは、途中から東を南と間違ってる あの謎の写真wと、軍人なのかな?みたいな話もした。
とある予言スレ、それとも他のスレだったかな。 >>490
松傾よ
おまえさんは自閉症やろ?w
俺の知り合いの自閉症の人に言動がそっくりなんだわ
その人もおまえみたいに同じ事をずっと唱えている
その人は歴史の年号をずっと唱えている もしや連句点が真似してるのと本当の松傾が混じってるのでは? 謎の震災が起きたりした後、
老婆が〜『』〜『』〜〜みたいな話をしているから、
つーちゃん(5ちゃん)で、
老婆と同じ話(家の老婆が、このような話をしているんだけど)をw 家と同じ家?
そういう人もいたりするけど、その家でもない。 >>488
>松傾とウンチジジイは同一人物なの?
同一人物か松傾にナリスマシしてるか
どっちにせよ呟き荒らしはウンチだね 最近の??芸能人とか、そういう家でもないし、
あとスポーツ、作家・・・漫画、アニメーター・・・・w
いたりするんだけど、その家でもない。 >>498
やっぱ同一人物だろうな
松傾は自閉症である事は間違いない
俺の知り合いの自閉症の人にそっくりだもの
その人も一日中ずっと歴史の年号を唱え続けている
端からは池沼に見えるが京大の院を出ている 母親が言うには尼寺があって〜〜
という話もしていたり、あの謎の写真の話。 謎の写真と言っているけど、家の写真w
母親も、老婆から聞いたりした話?みたいな事を言っている。 松傾の言動は独特の不気味さとおどろおどろしさがあるから、健常者だったら
心霊作家やミステリー作家になったら大ヒットするだろうな 『天財若子』?
山王院〜、この名前の家があるでしょ?
その家なんだけど、某や某、某ではないという話。 >>482
>女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
「南→東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の曲解や否定の嘘つき騙しに拠って、
この大和説男の×が露わに。 確実に、当時の『』の家の写真なんだろう、
スレなどで(質問)聞いてみても誰も知らないとか? >>485
>哀れなのは九州説だよ 手も足も出ないだろ
マスコミさん、哀れなのは、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や「冢≠前方後円墳」などの、
史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しがバレた大和説なんですよね。
口先での人格誹謗のヘイトスピーチをするばかりで、
史料事実の議論に、手も足も出ないようですから。
手も足も出ないだろ 老婆自身も
生まれていない頃のものだと言っているしw
ほんとーに謎の写真。 なぜ老婆と同じような話をしているのか?なんだよなw
ごーすとらいたー?『尼〜ず』 『天財若子』()
むかーしのww芸能関係の話もしているし。 『』調べてみた?
>「風姿」 98/09/13
>古社である。
このような話をしている人もいるし。
『風姿花伝』 奥山くんがここまで無能とはねえ
何年畿内説やってんの? 『尼〜ず』w
詳しいことはわからないけど、
尼寺の話もしていた。 >>515
また連呼点が脈絡のない呪詛を呟いているな
やっぱりコミュ障か 例えば『ドンバ』w
ドンバの作者も『尼〜ず』なんだろう、
ほんとーは、尼〜ず。
とあるゲーム内(ゲーム内の知人)の話になるんだけど、
二人目の子供が生まれたと言っている人がいたりw 2007、2008年頃()だったかな?
とあるゲームがあるんだけど、そのゲーム内の知人w それとも2009年?2008年?
たしか、そういう人がいた、とあるゲーム内の知人。 なぜか『ドンバ』の作者のような気がするんだよな、
漫画やアニメ、そういう話ばかりしていたし。
『AKIRA』『』『』みたいなネタとか。 たしか。
ウサギ〜?というキャラ(キャラ名)、
妖狐〜とかw まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! wikiや作者を紹介?するコーナー(ページ)で誤魔化したりしても無駄、
『ドンバ』の作者は、ほんとーは、尼〜ず。 ドンバの作者「ハロウィン」
もれ(仮)「かぼちゃ?」
このようなチャットもあったしなw
それともドンバの作者ではなかったのかな? >>491
結論は出てるんだよ
陳寿は倭人の国々を、実地に経由見聞計測した国と、二つの大国の側副傍線国と、
余旁国の3つに分けてる
⇩
投馬国は不彌國から水行二十日南にある側副傍線国として書かれている
⇩
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、邪馬壹國女王之所都は不彌國のすぐ南にある事になり、
投馬國は女王國に含まれる国として、南九州付近にある事になる。
⇩
側副傍線国の書き分けがある、という事が正しい読み方
⇩
女王国より北に投馬国を比定する説は即死。
⇩
倭人伝の行程にある南は、全て「ほぼ正しい」。もち大和説も即死。 「もれ(仮)」というのは、
いま、この書き込みをしている人物という意味。 >>512
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や「冢≠前方後円墳」などの、
史料事実や史料実態に反論出来ない大和説者が、
また敗退した。 >>526
>陳寿は倭人の国々を、実地に経由見聞計測した国と、二つの大国の側副傍線国と、余旁国の3つに分けてる
そんな史料事実は無いんで九州説死んだ >>523
まーだ「嘘つき騙しの貼り付け」をやってらっしゃるのか
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、
ハイ、大和説終了
解散! 凄い話ばかりだからw
このスレの住人にも教えてあげているんだよ。
なぜか秋葉原(事件)〜の某と同じ話をしているいたり。 静岡の自動車工場(とよ□、だったような)で働いてる。
いまは寮生活で〜とか、2007年頃? 耳かき?みたいな話もしていたり。
とあるゲーム内の会話。 駅の話?川崎市(川崎区)が何やらみたいな話もしていたみたいだしな、何なんだろう。
たしか同じような〜〜〜(不明)〜〜〜がいたんだけど。
とあるゲーム内の知人。 >>532
>そもそも畿内説をわかっていないキナイコシ脂肪
まあ畿内説じゃない人間が畿内説を解かった口ぶりとか、学がないのに学者馬鹿にするとか、九州説には自意識過剰の人が多いね
どうせまた、何も説明できないんだろうけどさ
自尊心だけ高い無能ってイヤな臭いがするね 畿内説の自演荒らしにうんざりして離れたけど
ようやく無駄に気付いたみたいだね
どんなに被害者を装っても学会を買収しても畿内説は持ち上げられない
なぜなら畿内説は根本的な欠陥をもっているからだ
国民はそれを分かっているから畿内説にはなびかない
よく考えることだね あのゲーム内の某も。
静岡県、寮生活、自動車工場「とよ□」。
耳かきが何やらとかw同じ話をしていた。 >>536
だからと言って本気でキナイコシを擁護できるか?w これキナイコシじゃねえのか?w
896 名無しのひみつ [sage] 2020/07/28(火) 23:03:35.39 ID:MUuPnMWt
>>895
昔の大阪湾は天理のあたりまで水域だったぞ
水都大阪
古代大阪の変遷
https://www.suito-osaka.jp/history/history_2.html >>529
>>陳寿は倭人の国々を、実地に経由見聞計測した国と、二つの大国の側副傍線国と、余旁国の3つに分けてる
>そんな史料事実は無いんで九州説死んだ
人類の旅程や行程移動の「説明」文の原則は、
「出発説明+途中説明+到着説明」である事であり、
伊都国から奴國の「東南至奴國」と、不彌國から投馬國の「南至投馬國」では、
「東南」や「南」は出発方向説明であり、途中移動の説明文言はなく、
従って、「至奴國」と「至投馬國」は、
「その方向に出発すれば至る」という四至方向での位置説明文言である事になり、
魏の役人たちは移動していなかった事になる。
また、(不彌國からの)「南至邪馬壹國女王之所都」は、
途中移動の説明文や里数記載がなかったから、
不彌國のすぐ南(おそらく50里以下)に、邪馬壹國女王之所都の入り口があった、
という事になる。 今日は飲みすぎた〜。
みたいな話もしていたしな、ゲーム内の・・・話。 それにしても、二人目の子供が生まれたんだと言っていた人物。
ぷれいやー?中の人『尼〜ず』みたいな人なんだろう、
実際は子供も「????????????????」いないとか。 >>541
共通して連続した行程は「又〜」と記述されている
https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。
又南、至る邪馬嘉(臺)国。
つまり伊都国のすぐ南が邪馬台国
筑紫〜筑後平野一帯じゃね? >>539
>だからと言って本気でキナイコシを擁護できるか?w
あんたの言うキナイコシってどこで何行ってる誰で、擁護できる出来ないって何見て決めるんだよ
わけわかんねえ >>541
>人類の旅程や行程移動の「説明」文の原則は、
>「出発説明+途中説明+到着説明」である事であり、
そんなこと誰が決めた? 文章の順序を気にしなくても意味が伝わるのは世界でも日本語と韓国語だけ それにしても誰だったんだろう、
二人目の子供が生まれたんだ〜と言っていた人物(プレイヤー)
ドンバの作者? なぜかドンバの作者、作品と同じような話をしていたしな、
よくわからない話ばかり。 それにしても、
あの写真があるでしょ、有名人なのかな?
よくわからない話ばかり。
『天財若子』
山王院〜、そういう名前の家の写真。
とある漫画、アニメ関係の話によると、
写真のようなものをあげたり、配っていたんだろう?
何かの資金にするためのものだとか。 傾いた松の木()・・・同じ家の写真、
川崎区というところに住んでいるんだけど。 どこの新聞社の記者だったかな〜、
家の誰々(親戚w)の撮らせてくださいと、家まで来たこともあったと言っているし。
老婆談。 >>544
>廣志曰く
魏志倭人伝を捨てたら九州説の自殺行為だな でも確実に何かが違う。
例えば、主計〜のような人物。
あの写真の子供は制服を着ているけど、
軍人ではないと言っているし。 たまには畿内説も真面目に考えてあげようぜ
魏志倭人伝が書かれた頃は伊都国の南に卑弥呼の邪馬壹国があった
卑弥呼が死去後に立った男王は吉備か出雲に住む王だった
すぐに内乱が起きてまた共立された女王は畿内邪馬臺国出身の台与だった
ちょうど陳寿が魏志倭人伝を書いていた頃(西晋)に台与が朝貢し、
大雑把だが新たな畿内の行程が追記された
つまり卑弥呼時代の邪馬壹国と臺与時代の邪馬臺国があったということ
または女王の都を意味する国名が邪馬臺国だったとも考えられるが >>559
真面目なのに一つも根拠出さないのは、NAぜ? まさか『西王母』この関係の話?
例えると『超人オリンピック』各界で活躍した〜〜〜を招いて。 那珂八幡古墳が卑弥呼で、箸墓が臺与=モモソ姫の墓
吉備の男王が大物主
でええやろ? なぜか、あの日本昔話『』『』・・・『』なども同じだしな。 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 確実に、すとーかー?のような何かがいるんだよな。
老婆も「美人(美女)〜」という話でと言っていたしな、写真を撮りたいとか。 そんな事よりもw
池沼()のような人間がいるだろう、
なぜ相手にされていないんだと思う?
謎の写真など、家の写真だと言っているだけ。 お前
何回書き込んでも相手にされない
すとーかー が欲しくてたまらない
老婆のすとーかーはとっくに死んだ 老婆自身(正確には親戚、知り合いがw)、
すとーかーのような家だったのかな?
なぜか、そういう話をしていた、謎の震災が起きた後?
結婚する前など・・・とか。 何かの家の人だとかw何やら〜とか。
『天財若子』? 知り合い?親戚?
創価(日蓮〜?)だと言っていたような気もするしな? コンプレックスをこじらせて頭がおかしくなった
金と家柄を手に入れる活動中
8000兆円手に入れて二階建てを建ててコンプレックスを解消する
346日本@名無史さん2020/07/28(火) 17:11:25.63
漫画やアニメ、ゲーム〜その他など、
実際は、ほとんど家の話ばかりだしな・・・。
792 :本当にあった怖い名無し:2020/07/29(水) 05:54:55.80 ID:I4Ng7ux30
本来なら(損害、〜侵害など)8000兆円くらいは行っている。 相変わらず邪馬台国に何にも関係がないレスばっかりだな >>575
> 邪馬台国に何にも関係がないレス
テンプレが最も関係ないからな なぜ『ドンバ』なのか?という話にもなってくる、かなり詳しいでしょ。
生け捕りにした〜、魚などの話とか。 『フィッシャー・タイガー』
(タイガー・フィッシャー?)
この辺りのキャラの話、設定、コンセプトとかw うんちコピペ連投荒らしが消えたら呟き荒らしが現れる謎 まさか、うんちコピペ荒らしと呟き荒らしは同一人物というのか?
そんな意味不明な存在がいるとはとても信じられない >>582
意味不明な人間が何人もいる方が信じらんないだろ うんちコピペ荒らしと呟き荒らしは同一人物でその正体は
畿内説に勝てない事を逆恨みする九州説ということか?
そんなまさか ウンチジジイは夜中も荒らしてただろ
このスレを夜中も荒らしてるのは松傾しかいないじゃん 松傾は自閉症だけど、自己顕示欲は強い奴だという事は分かった >>466
>九州説に理由という概念が無いんじゃないの?
大和説学者や大和説者らには、
自然や歴史における観察見聞や実験や計測や発掘などでの知り得た事実からの、
帰納的確率的な推論をする、という思考がなくて、
「結論先にありき」の、宗教的な思考しかないんじゃないの?。 三輪山、大物主、出雲、蛇神、銅鐸
モモソ、大物主の妻、卑弥呼、箸墓
纏向、三輪山の麓、銅鐸破壊、前方後円墳体勢
弥生の大王である出雲、古墳時代の新たな大王である大和
大和系の崇神が大物主を祭祀、アマテラスは伊勢に都落ち
モモソは大物主の妻になるものの、離縁されて死ぬ
あの頃の奈良盆地で、一体何が起こっていたのか?分からんことだらけだ。 >>559
>たまには畿内説も真面目に考えてあげようぜ
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、ダメだ。
>魏志倭人伝が書かれた頃は伊都国の南に卑弥呼の邪馬壹国があった
卑弥呼が死去後に立った男王は吉備か出雲に住む王だった
これもダメだ。
「南≠東」や、「正北抵新羅の倭國の中心は唐代まで北部九州」にあったんだから、
×だ。
>すぐに内乱が起きてまた共立された女王は畿内邪馬臺国出身の台与だった
魏志には、邪馬臺國も台与も存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×だ。
>ちょうど陳寿が魏志倭人伝を書いていた頃(西晋)に台与が朝貢し、
大雑把だが新たな畿内の行程が追記された
陳寿は、はっきり、魏の役人らの「參問倭地」の範囲として、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」と書き、
女王國から「南南東」方向の四千余里にまでしか行っていない、
と書いているんだから、大和へは行っておらず、×だ。
>つまり卑弥呼時代の邪馬壹国と臺与時代の邪馬臺国があったということ
または女王の都を意味する国名が邪馬臺国だったとも考えられるが
卑弥呼の時代には邪馬臺國という国の存在が記録されておらず、×だ。 箸墓あh卑弥呼の墓である。そこは鉄板なのだが、
(日本で唯一の5段築成の古墳に葬られるのは、その後の大王より格上の親魏倭王・卑弥呼しかいない)
三輪山と纏向の関係がどうにも分からん。
纏向は出雲系の都だったのか?大和系の都だったのか? >>562
>那珂八幡古墳が卑弥呼で、
「冢≠前方後円墳」であるから、×だ。
>箸墓が臺与=モモソ姫の墓 吉備の男王が大物主 でええやろ?
臺与なんて存在もしなかった嘘吐き騙しもんごんであるから、×であり、
箸墓や吉備は、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は唐代まで北部九州」である事に拠って、
倭人伝の記載とは関係なく、×だ。 伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮
こいつらも何者だったのか?倭人伝では「官」と書いているが、
当たり前だが律令もない時代に「官」などおらず、
いずれも邪馬壹國を構成する奈良盆地の有力豪族だったのだろうが…。
男弟と給仕の男子も、一体何者なのか?
特に給仕の男子は全く謎だ。 >>591
>箸墓あh卑弥呼の墓である。そこは鉄板なのだが、
(日本で唯一の5段築成の古墳に葬られるのは、その後の大王より格上の親魏倭王・卑弥呼しかいない)
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は唐代まで北部九州」であったから、×だ。
>三輪山と纏向の関係がどうにも分からん。
纏向は出雲系の都だったのか?大和系の都だったのか?
大和や纏向は、
九州倭國の「東征毛人五十五國」の別動隊が、
先に植民していた阿毎氏系の天孫族の子孫の助けを借りて、
在地の毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を征服支配して、生口や守墓人にして、出来た、
「九州倭國の別種の旧小国の附庸國」の国だ。 三輪山の周りに築造された、箸墓を始めとする巨大前方後円墳の群れは、
三輪山に服属しているようにも見えるし、
逆に三輪山を呪的に封じ込めようとしているようにも見える。
後者であれば、アマテラスの伊勢神宮とで三輪山を東西から挟み撃ちにして
封印しようとしている風にも見える。 >>593
>伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮 こいつらも何者だったのか?
卑弥呼共立倭國の支配組織の、
「佐治」の男弟や、「大夫」の難升米や伊聲耆や掖邪狗や、次使の都市牛利らや、
一大率や、地方の市を監督する「大倭」職とは別の、
卑弥呼共立に参加した(30か国の?)国の中の最大國である邪馬壹國の内部の支配組織であり、
古事記の欠史八代の中の四人に「大倭」の呼称が入っていて、
記紀に書かれた大和王の呼称との類似名があるから、
大和王らの出目は、邪馬壹國の官であった可能性がある。
>倭人伝では「官」と書いているが、
当たり前だが律令もない時代に「官」などおらず、
いずれも邪馬壹國を構成する奈良盆地の有力豪族だったのだろうが…。
魏の役人たちは、3世紀の卑弥呼共立の(狗奴國を含めた30國の中の)諸国に、
「官」があった事を記録し、主要国には何人かの「副」がいた事を記録している。
>男弟と給仕の男子も、一体何者なのか?特に給仕の男子は全く謎だ。
男弟は佐治役であり、
男子一人は「給飮食」役であり、「給飮食傳辭出入」役であった可能性もあり、
「常有人持兵守衞」役もおり、
卑弥呼の身辺はほとんど「以婢千人自侍」せしめた。 >>595
>三輪山の周りに築造された、箸墓を始めとする巨大前方後円墳の群れは、
三輪山に服属しているようにも見えるし、
逆に三輪山を呪的に封じ込めようとしているようにも見える。
そこまで思い込むには、一種の分裂幻覚の妄想だな。
私には、普通に、見晴らしの良い、見張りにも便利な山にしか見えない。
>後者であれば、アマテラスの伊勢神宮とで三輪山を東西から挟み撃ちにして
封印しようとしている風にも見える。
この大和説男は、結局、
分裂幻覚の妄想の・・・・宗教のアホ人間であった、という事だな。
こんな人種が怖いんですよね。
自分の思う通りにならないと、京都アニメ犯人や赤報隊のような殺人凶行をし、
在特会のようなヘイトスピーチ犯罪をする。 >>598
「南→東」や、「唐代の正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
「冢→前方後円墳」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの分裂幻覚の妄想の、
まるで精神的な異常者のような、・・・・アホ詐欺師言葉を、
わめいてるな 誰が見ても一番異常性が高いのはキナイコシ
次が贅六連呼厨 昨今の異常者は、
自分こそ正義!自分と異なる意見は異常!
とか主張するが、まんまだな 証拠は?、理由は?を繰り返すだけ
頭の足りないガキみたいだなあ 論理的に考えたらどう考えても邪馬台国は畿内だよ
魏志倭人伝には邪馬台国の位置は会稽東治の東つまり現代で言えば
沖縄や台湾になる辺りと書かれている
そこは邪馬台国じゃないのは明白なので
3世紀頃の魏の年号の入った三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡が出土して
卑弥呼の時代の頃魏と交流があった証拠が見つかる畿内が
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国という事になる >>605
>会稽東治の東
周回遅れすぎるw
道里を計算すればという前置きがある
つまり陳寿の想像文だよ
これは陳寿自身は通常の1里=435mという認識だったと言える
しかし陳寿が手にした各種記録類は短い里が使われていたということ
三角縁神獣鏡は元銅鐸
銅鐸→銅鏡のリサイクル品 「計其道里 當在會稽東冶之東」だな
霊感商法式畿内説は必ず「計其道里」を省くw .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>608
そのよく見るコピペは何を意味してるの? >>607
>「計其道里 當在會稽東冶之東」だな
>霊感商法式畿内説は必ず「計其道里」を省くw
という証拠は? >>604
>証拠は?、理由は?を繰り返すだけ
>頭の足りないガキみたいだなあ
じゃあ、泥棒! 逃げるな!と繰り返して追っかけてるのは
頭の悪い警官か?
違うんだよ
証拠を出せない、理由の言えない主張を繰り返すばかりで追い詰められてる九州説のおつむが足んないんだよ 自分の異常性に全く気が付かないキナイコシは人間としてもう終わっている
お前、このままだと永遠に無職だぞw >>615
異常なのは、どこがどんな理由で「異常」なのか言えないあんただよ
理由がなきゃ裁判官は判決出さないし、弁護士も弁護できない
指定券買った証拠の出せない乗客は指定席に座れないし、金払う理由のない客は商品持って帰れない
異常なのは自分が主張することに理由を言うのをそんなに嫌う九州説だよ
学問であり得ない >>1
そんな話よりも、秋葉原事件。
かとー某による書き込み読んでみた?掲示板があったりするでしょ?
なぜか、とあるゲーム内に、かとー某と同じ?話をしている人物がいたりしたんだけどw 耳掃除、耳かき?をしてほしいみたいな話とか、
「〜ですよっと」「」「」・・・このような?会話(チャット)
ゲーム内の知人w 今更ながら、キナイコシが本格的に障害を持っているんだなあと確信した 『王母 龍宮』
何かのゲームの話もしているし、キャラ? 『天財若子』の家の話だろう、書き込みをしている家。 >>619
>今更ながら、キナイコシが本格的に障害を持っているんだなあと確信した
確信する理由は?
九州説信仰の異常者は理由もなく何かを確信するの?
>>623
そもそも考古学の人が日本史板にスレたてるのがおかしい
考古学板に行ってスレ建て直してこい それにしてもw
漫画、アニメ、ゲーム・・・創作〜?何の話なんだろう。
『』関係の話ばかりだろう。
『ひぐらし 龍宮』調べてみた? 老婆談によると、
当時、そういう漫画やアニメ、ゲームなどもなかったような話をしているしなw
むかーしの芸能関係(かみよ?)は話もしている。 傾いた松の木〜、立っている人物w
あの写真自体、50年くらい前のもの、父親も結婚していない。
嫁に来たのが、ひめ(ではないけど)ユミコなんだろうw おまえたち(例えばテレビなど)の言っているテンノウ?
などの事も知らないと言っているし。 >>628
おまえバカぶってるけど、大勢の人の怒りと恨みがおまえの体に染み付いてるのが
見えるから、これから凄絶な病気になって死ぬぞ
でも、それは自業自得
覚悟しておいた方がイイ 木、木材などの話もしていたしな・・・・・・・w
『❓』よくわからない話ばかり。 右翼、左翼?不明w
そういうチンピラのような団体とも付き合いもないし。 何かの家などの話なのかな、再興〜何やらという話なども、
適当に「そいつで良い」みたいな感じで、決めたりしたんだけどなという話みたいだし。
チンピラ同士で決めたりしていたんだろう。 ほんとーに『葱の華』などもw
どこに住んでいた頃の写真なんだろう、家のなんだけど。 尼寺があって・・・みたいな話もしているし、
食べたりするものではなく、供えたりするものなどを作ったりしていた。
蚕を飼い、機織りとか。 家の話?老婆談などは現実の話。
かとー某(プレイヤー不明)などの話は、とあるゲーム内でのw 橋が架かった?完成、出来たので来てくださいという話とか。
凄い話ばかり。 正確には家ではないw
例えば『菅野 力夫』
()この家があったりするでしょ?
チンピラなどで言っているだけの人物だろう。 調べてみるとチンピラ団体?のような話ばかり出てくるし。 チンピラ〜?
どこのなんていう団体なんだ、宗派など。 九州説さん
そうやって一日中スレ荒らししてて
九州説が異常者の唱える異常な説と思われるとか
そう懸念したりしないの? 8000兆円くらいで良いから、返せと言っているだけ。
成り済まし、騙り・・・・詐欺など含めw 日本の宗教団体などの話w
何やら教、何やら宗、〜宗派などあったりしたでしょ、
どこのチンピラ団体なんだ? >>624
俺も以前から思ってた
専用の板があるんだからそっちに立てた方が話も通じるだろうに
ガイキチ同士で どこのチンピラなんだ?・・・・と調べてみるとチンピラばかりw >>643
要するにお前には理屈も何にもない
理由もない
ただ、自分の気に入らないものを追い出したくて
どんな汚い真似でもする
まる一日かけてイヤガラセもするし
どんな嘘でもつく
やらないのは証拠出すこと
九州説がお前みたいな人間を育てたんだ
そして九州説を殺してる >>605
>論理的に考えたらどう考えても邪馬台国は畿内だよ
邪馬台国も畿内も、史料事実に存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この大和説男は嘘つきであり、×。
>魏志倭人伝には邪馬台国の位置は会稽東治の東つまり現代で言えば
沖縄や台湾になる辺りと書かれている
会稽東治之東は、ほぼ九州島付近であり、「沖縄や台湾」には全くならないからこの男は×。
>そこは邪馬台国じゃないのは明白なので
3世紀頃の魏の年号の入った三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡が出土して
卑弥呼の時代の頃魏と交流があった証拠が見つかる畿内が
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国という事になる
大和からは3世紀の魏年号の△も画文帯も出土いていないし、
大和の前方後円墳は3世紀末の石塚以後であり、卑弥呼の「冢」でもないから、×。 >>646
お前のやっていることはソープ板でAV女優のスレ立てているようなもので、板違い
さっさと考古学スレに行って、あっちでスレ立てて、考古学板にこもって出てくるな 漫画〜芸能〜不明など必要ないから、
近所の工場で働けと言っているだけの話。
猟師、漁師でも良いし、何が嫌なんだ?
そういう業界があるでしょ、詐欺、犯罪ばかりだしな。
このように言われたりするのが嫌なら、挨拶くらいしろ、家に来てw
どこに住んでいるのかは・・・。 成り済まし、騙り・・・そういう家に行っても無駄、家に来いと言っているだけ。 >>648
だから、そう決めつける理由を何も言わないのはなぜよ?
お前が異常者だからって以外に理由はあるか?
w >>606
>これは陳寿自身は通常の1里=435mという認識だったと言える
これは×ね。
陳寿は、地の文として、
(女王國に関して)「計其道里、當在會稽東治之東」とはっきり書いており、
會稽東治は、揚子江河口付近の(揚州の管轄下の)南北地域になり、
その地は、帯方郡の西方の中国大陸側から一寸千里で約萬二千余里の計測が出来る地であり、
その東方は九州島付近になるから、
陳寿も「一寸千里の短里」を使っていた事になる。 >>607
>「計其道里 當在會稽東冶之東」だな
史料事実は「計其道里 當在會稽東治之東」です。 >>647
>邪馬台国も畿内も、史料事実に存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
>この大和説男は嘘つきであり、×。
毎日そうやって決めつけだけで罵り続ける九州説
理由はひとことも言わない
それで普通の人のつもり?
>会稽東治之東は、ほぼ九州島付近であり、「沖縄や台湾」には全くならないからこの男は×。
だから、何故ひとことも理由を言わず、言い張るだけなの九州説は
>大和からは3世紀の魏年号の△も画文帯も出土いていないし、
>大和の前方後円墳は3世紀末の石塚以後であり、卑弥呼の「冢」でもないから、×。
だから、学者が理由あって言ってることを何も理由を言わずに頭から否定して
通説とまったく違うことを言うのに
何も証拠を出さないどころか
理由さえ言わないって
九州説は何なの? ほんとーの話、とあるスレがあるんだけど。
>>殺しても良いよ。
みたいなレスがあったり。
何か知っている人(人達)がいるんだろう。 >>609
違うんだよ
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の唐代の中心は北部九州」などの、
史料事実の曲解や否定の証拠を出せない、理由の言えないで、
口先騙しの主張を繰り返すばかりで追い詰められてる大和説学者らの、
おつむが足んないんだよ >>652
>會稽東治は、揚子江河口付近の(揚州の管轄下の)南北地域になり、
なんで理由を言わないの? そいつ(不明)を殺したりしても、誰も何も言わないみたいな話w >>656
>「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の唐代の中心は北部九州」などの、
>史料事実の曲解や否定の証拠を出せない、理由の言えないで、
こっちは理由言ってるけど? >>616
異常なのは、
「南≠東」や「正北抵新羅の唐代の倭國の中心は北部九州」や、
「冢≠前方後円墳」などの史料実態の、
どこがどんな理由で「異常」なのか言えないあんただよ
理由がなきゃ裁判官は判決出さないし、弁護士も弁護できない
指定券買った証拠の出せない乗客は指定席に座れないし、
金払う理由のない客は商品持って帰れない
異常なのは自分が主張することに理由を言うのをそんなに嫌う大和説学者らだよ
学問であり得ない >>623
「南→東」や「冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の(唐代の)倭國の中心地は北部九州」などの史料事実の曲解や否定の、
嘘つき騙しを確信する理由は?
大和説信仰の異常者は、理由もなく史料事実の曲解や否定を確信するの? >>660
>異常なのは、
>「南≠東」や「正北抵新羅の唐代の倭國の中心は北部九州」や、
>「冢≠前方後円墳」などの史料実態の、
>どこがどんな理由で「異常」なのか言えないあんただよ
実態だ実態だと言い張るだけで、そんな実態があるという
理由を言わないのは異常だと言ってるんだが? >>640
大和説学者らさん
そうやって一日中、史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しで、荒らししてて
大和説が、異常者の唱える異常な説、と思われるとか
そう懸念したりしないの? >>661
だから
「正北抵新羅の(唐代の)倭國の中心地は北部九州」
って
平安時代の藤原家の貴族がその倭国から唐に使者で行ってるって
こっちは何度も理由を言ってるでしょ
当時の中心地は京都だって >>663
しないな
教科書に載ってるような通説言ってるだけだし
荒らしてもいない
荒らしをやってるのは九州説だ >>663
そもそもここは大和説なんかじゃなくて
われわれ畿内説のスレなんだが 以後「ひるこ」と自称します。
スレの品位向上のため、みなさん、なるべく固定名を使いませんか?
589、591、593、595は、私が今朝書いたレスです。
ヒナモリも謎なんだよね。
基本、巫女と男王のペア、あるいは兄弟のペアでどの国も治められていたと思うんだが。
官と副官と言うのは、本国の中国人に説明する際にそう説明しないと分かってもらえないためで、
後世の律令制度の「守」と「介」のように、中央が任命した地方長官と副長官だった訳ではない。
そういうペアにプラスして、ヒナモリの奴がいたのか?
ヒナモリは後の鄙守で、軍事を司っていたことは明らか。
そうすると、巫女、男王、ヒナモリの3人で、ヒナモリが軍事を司るとしたら、
男王はどこに行ったのか?
もしかすると、巫女は邪馬台国による祭祀の統一で、共通の信仰を持つ巫女。
そして男王は、かつて男王だった奴がヒナモリにされたのかも知れない。
まあ、何とも分からんけどね。 >>606
短い里こそ周回遅れ
そんなもの存在した痕跡は一切ない
魏志倭人伝の邪馬台国ははるか遠くという事を強調するために
古くからの伝承の世界の果てである国境より1万2千里にあることにして書かれているというのが
今現在の共通認識 ニギハヤヒも謎なんだよね。
こいつは出雲の奴ではなく、同じ大和系の奴なんだが、
神武東征の際に、なぜか先に奈良盆地にいたと言う。
そして神武と同じレガリア(天羽々矢と歩靫)を持っていた。
たぶんニギハヤヒが持っていたのが本物で、
ただの流れ者の海賊であった神武が持っていたのがパチモンなのだろうが、
じゃあ、三輪山のオオモノヌシと、ニギハヤヒとの関係は何なんだ?と。 >>606
三角縁神獣鏡は魏で産出する作られている
倭国内で作られたものではないことが成分分析によって明らかになった なぜ詐欺のようなシステムが横行(広まる)するようになったのかな?
『日本昔話 背振山の石楠花』
このような人物がいて・・・みたいな話なんだろう、
財?服などの話もしていたり。 ちなみに神武(イワレビコ)は、呪術と軍事を両方やってるんだが、
これは元々、当時の標準的な統治形態である巫女と男王のペアだったのを、
中国風の皇帝っぽくするために、男1人に改竄したんだと思う。 >>646
要するにお前ら大和説学者らには、
「南≠東」や「正北抵新羅の(唐代の)倭國の中心は北部九州」や、
「冢≠前方後円墳」などの史料事態の曲解や否定を関して、
理屈も何にもない
理由もない
ただ、自分の気に入らないものを追い出したくて
どんな汚い真似でもする
まる一日かけてイヤガラセもするし
どんな嘘でもつく
やらないのは証拠出すこと
大和説がお前みたいな人間を育てたんだ
そして大和説を殺してる ほんとーに、おかしな話ばかり、
あの謎のゲーム(ちぇーんそー)に出てきたりするし。
出てくるでしょ、同じようなキャラ。 >>674
希望的観測ではなくて
誰にも確かめられる事実だよ
悪いね >>670
正確には、
原料が中国産だと分かった
まあチエオクのお前には理解できないんだろうけどw >>677
三角縁神獣鏡は魏で作られたものと成分分析によって明らかだよ
魏でも出土 謎のゲーム(例えば、その日本昔話に出てくる〜〜など)。
ほんとーは、おまいの家の話ではないだろう?みたいな話なのかな。 >>676
希望的誤解釈おつ
史書には侏儒国など12000里より先の行程まで書かれている _∧_∧
/ ̄ ( ・∀・)⌒\
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ヽヽ / / \ | | ,,,,,,,iiiiillllll!!!!!!!lllllliiiii,,,,,,,
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| ヽ_「\ | |、 | ゙゙゙゙!!!!llllliiiiiiiiiilllll!!!!゙゙゙゙ .|
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゙゙゙゙!!!!llllliiiiiiiiiilllll!!!!゙゙゙゙
/.// ・l|∵ ヽ\ ←>>1 >>678
成分分析で製造地は特定出来ませんw
炭素年代測定と一緒で、お前らみたいなバカはご都合解釈出来ないんだよw 家の老婆談?があるでしょ、なぜか同じような話をしていたり。
謎の日本昔話〜、〜、〜。 >>680
淮南子には世界の果ては国境より1万2千里と書いてるよ
魏志倭人伝のやまたいこくまでの距離はこれを援用したもの
九州説絶望的観測で涙目 >>682
三角縁神獣鏡は魏で出土した銅鏡と全く同じ成分
国産品と鏡とは成分が違っている
よって三角縁神獣鏡は魏で作られた鏡
魏でも出土 ちなみに三角縁神獣鏡には師出洛陽つまり洛陽の鏡師が作ったと書いてあるので
魏の洛陽で作られたことが明白
魏の洛陽でも出土 >>684
全然的外れwww
魏志倭人伝じゃ何も言えんのだなw 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>687
漢時代に書かれた神仙思想による地理書の淮南子には
この世界の果ては漢の国境より1万2千里四方とある
魏志倭人伝に邪馬台国は魏の国境である楽浪より南1万2千里と書いてあるのは
この淮南子にある伝承を当てはめたもの >>688
違うよ
成分分析によって三角縁神獣鏡は魏の銅鏡と同じものが使われている事が判明
国内で作られた銅製品とは違うという結果
そして三角縁神獣鏡には銅出徐州と彫ってあるので
三角縁神獣鏡は魏の銅の産出地である徐州の銅で作られたという事がわかる >>686
魏で作ったのなら年号を間違えるわけ無いだろ?www
>景初四年 >>691
型が国産と同じなのはどう説明するよ?www 畿内捏造説に引っかかるのは>>1ぐらいなもんだろwww >>664
>だから「正北抵新羅の(唐代の)倭國の中心地は北部九州」って
平安時代の藤原家の貴族がその倭国から唐に使者で行ってるって
こっちは何度も理由を言ってるでしょ
当時の中心地は京都だって
唐会要は、正北抵新羅と書かれた倭國伝と、
「日本、倭國之別種。以其國在日邊、故以日本國爲名。
或以倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、呑併倭國之地」
の日本伝とを、
離れた場所に違う国として書き分けており、
「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」は、倭國伝の方に書かれているから、
「薜原朝常嗣等」は(日本國からの遣使ではなく)倭國からの遣使を名乗った、
という事が史料実態であり、だから、
「平安時代の藤原家の貴族が唐に使者で行ってる」と書いた史書の記載とは別の話であった(間違っていた?)、
という事になるの。
という事になるの。 >>692
晋書天文誌などに景初四年の使用例があるから
景初四年はどうやらあったらしいよ
>>693
魏から輸入した三角縁神獣鏡を
国内で粘土で鋳型とってコピーした >>692
>魏で作ったのなら年号を間違えるわけ無いだろ?www
なんで間違えたと決めつける >>688
>だから元銅鐸だって話だろw
その話は科学的根拠がまったく無い >>665
>しないな 教科書に載ってるような通説言ってるだけだし 荒らしてもいない
荒らしをやってるのは九州説だ
「南→東」や「正北抵新羅の倭國伝→日本國伝」や「冢→前方後円墳」などの、
史料事実の曲解の嘘つき騙しをしている通説も教科書も、嘘つき騙しになり、
そんな嘘つき騙しを主張するこの男(おそらく東大理系博士号男)も、
嘘つき騙しの荒らしをやっている事になる。 当時の中国は踰年(ゆねん)改元といって皇帝が死ぬと喪に服すなどの意味で
年号を改元せず1年間は使い続けた
晋書天文誌や景初四年記銘三角縁神獣鏡などの資料によって
どうやら景初四年は7月ぐらいまで使われていた可能性がある
そして後に記録をつけるときに遡って年の初めから正始が使われた事にするというのは
青龍3年から景初元年に年号が変わる際にもあった事
つまり魏志倭人伝には魏の明帝は景初三年の1月1日に死んだ事になっているけれど
実際は景初三年の7月ぐらいまでは生きていて
そのあたりに死んで踰年(ゆねん)改元によって1年間ぴったり景初年号が使われ続けたと考えるなら
景初四年が7月ぐらいまで存在していたらしいという事と辻褄が合う 何を言っても必ず言い訳が必要となる畿内捏造説www >>700
旧正だから2月だろバカwww
しかも魏志倭人伝によれば景初三年の正月だwww
とことん魏志倭人伝から遠ざかる畿内捏造説www その日本昔話、なぜか陰謀関係のスレの話。
芸能人がいたりするでしょ、お金、服などの話をしていたり〜とか。 >>702
むしろ干支などの記述で陳寿の書いた魏志に景初四年が存在した証拠があるよ
テンプレにもある通り
魏志から遠ざかっているのは九州説 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>695
>「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」は、倭國伝の方に書かれているから、
>「薜原朝常嗣等」は(日本國からの遣使ではなく)倭國からの遣使を名乗った、
>という事が史料実態であり、だから、
>「平安時代の藤原家の貴族が唐に使者で行ってる」と書いた史書の記載とは別の話であった(間違っていた?)、
>という事になるの。
あんた以外はそんなこと考えないよ
日本人も中国人も、日本の九州説だってな
平安時代に九州倭国なんて無い
誰でも知ってる
誰もが、京都から来た日本の公家さんを唐が倭国の使者として応対したと考える
何故かって?
唐の人がみんな日本とは倭国が改名した国だと知ってたからだよ
唐の人はみんなそう書いてる
何百年もあとの後晋の人が古い記録を読み違えただけだ
それが世界の通説
日本の九州説が狂ってるだけ >>702
イヤ景初の時は正月は一月
次の正始からは二月 陰謀関係のスレを読んでいたところ、なぜか同じ話をしていたりw
よくわからないんだけど、メディア関係を利用したりして、何か?????。
『日本昔話 背振山の石楠花』 でも、実際は家の話なんだけどな〜みたいな話。
成り済まし、騙り、寄生されている?〜侵害など? >>708
景初の二月を正始の一月に変えただけだよ おそらく正月を迎えるため延命措置をほどこしたがギリ年末にポックリ逝ってしまったんだろうよ >>714
九州説は三角縁神獣鏡と前方後円墳と会稽東治の東に弱いな >>714
という証拠を雑多位に出さないのが九州説 チンピラの話をしている人達がいるでしょ、
芸能関係のスレなどw 九州説は渡来系なので
日本の歴史が憎くて仕方ないので破綻だらけの九州説をゴリ押ししている >>718
という証拠は?
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。 ほんとーに凄い話、ホンモノというのは、どこにも所属していない。
プロダクション〜などにも所属していない。
有名な冤罪事件の〜〜〜〜〜〜〜(無政府?)〜〜〜〜〜〜〜みたいな話。
子供が着ている謎の制服も、家(親?)が機織りをしていた家だと言っているしw
ホンモノなんだろう。 『』『』と調べてみても、
そういう人物も、いないでしょ・・・調べてみた?家。 九州説は嘘ばかりついてないでたまには本当の事を言ったら?
邪馬台国は畿内にあった証拠がたくさんあるって >>657
>>會稽東治は、揚子江河口付近の(揚州の管轄下の)南北地域になり、
>なんで理由を言わないの?
類スレ主(=東大理系博士号自称者)には、
以前の議論で数え切れない位理由を言ってあるし、
現在、東大理系博士号自称者は、
「証拠は?」の無意味な無限議論の・・・・アホ男である事が、
世間の人々にも自明になって来たようなので、
殆ど放置処分にしてあるから。 >>667
>ヒナモリも謎なんだよね。
基本、巫女と男王のペア、あるいは兄弟のペアでどの国も治められていたと思うんだが。
官と副官と言うのは、本国の中国人に説明する際にそう説明しないと分かってもらえないためで、
後世の律令制度の「守」と「介」のように、中央が任命した地方長官と副長官だった訳ではない。
そういうペアにプラスして、ヒナモリの奴がいたのか?
ヒナモリは後の鄙守で、軍事を司っていたことは明らか。
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、
女王之所都は北部九州にあった事は明らかであり、
「卑奴母離」という副の呼称は、對海國と一大國と奴國と不彌國に存在し、
對海國と一大國は、海を隔てて九州北岸から遠いから、「鄙=田舎」であった可能性はあるが、
奴國と不彌國は、邪馬壹國女王之所都や弥生銀座の殆ど「隣に位置する」国であるから、
「鄙=田舎」とは全く言えず、
従って、この男の「鄙守」の解釈は、×。 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 川俣町という町の掲示板、
なぜか老婆談と同じ話をしている人達がいるし。 2.5日で50件として、キナイコシは1日20回「証拠は?」を連呼してるんだなw >>668
長い里こそ周回遅れ
魏志倭人伝には、そんなもの存在した痕跡は一切ない
>魏志倭人伝の邪馬台国ははるか遠くという事を強調するために
古くからの伝承の世界の果てである国境より1万2千里にあることにして書かれているというのが
今現在の共通認識
「邪馬台国」なんて文言も存在しなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であるし、
萬二千余里は、魏志倭人伝に書かれたように、
同時代の魏の役人たちが実地に見聞計測した記録の合計里数である、
というのが、(大和説学者や大和説者ら以外の)国民や、
中国学者や人類の共通認識。 >>670
>三角縁神獣鏡は魏で産出する作られている
△は、洛陽で「0〜1枚」出土しただけで、
現在のところ、その他の魏内からは出土しておらず、
出土したのは、楽浪からと、列島での500枚以上の△だけ。
そして、列島の△は、「海東」鏡や「四海浮由」鏡などに拠って、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与に拠って造られた、という事で確定している。
>倭国内で作られたものではないことが成分分析によって明らかになった
成分分析学者が、列島で造られた△を、魏で造られて、
それらを全部?列島に運ばれて来た、というような嘘吐き騙しをでっちあげた、
という事が明らかになった。 >>678
>三角縁神獣鏡は魏で作られたものと成分分析によって明らかだよ
渡来の呉系楽浪鏡師らの材料銅の成分が「類似近縁」であっただけ。
>魏でも出土
魏では洛陽の「0〜1枚」しか発掘されておらず、
それでは、列島の500枚以上の△や、楽浪の△の存在の説明が出来ないから、×。 >>684
>淮南子には世界の果ては国境より1万2千里と書いてるよ
魏志倭人伝のやまたいこくまでの距離はこれを援用したもの
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、、×であるし、
魏志倭人伝は、女王之所都までの萬二千余里だけではなく。、
更に、女王國から侏儒國付近までの四千余里や、
「裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」まで記載しているから、
「援用」した事ならず、この男は、嘘吐き騙しの詐欺師男。
九州説絶望的観測で涙目 畿内説と九州なんとか?で、議論が成立しているんだったらいいけど、
現実には成立しておらず、九州説の目はゼロで、
であれば、畿内説の中で議論した方が建設的だと思うんだよね。
邪馬台国が畿内説だとしても、分からないことや謎のままのことが、
無数に残ってるよ。そういう議論をした方がいいんじゃないかな? >>740
畿内説自体が不明瞭
ファンタジーな作文が多すぎる
記録文献の何処にも記載のない話なんて証明のしようが無いだろ >>685
>三角縁神獣鏡は魏で出土した銅鏡と全く同じ成分
おや?、「△」とは言わず「銅鏡」と言い換えたな?。
しかし「全く同じ成分」」ではなく、「使用材料銅の成分は近似的近縁」であっただけ。
それに、魏からは△は「0〜1枚」しか出土しておらず、
それでは楽浪の△群や、列島の500枚以上の△の説明にならず、×。
>国産品と鏡とは成分が違っている
列島の△は、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
>よって三角縁神獣鏡は魏で作られた鏡
魏からは「0〜1枚」しか出土せず、列島の500枚以上の△の説明が出来ないから、×。
>魏でも出土
「0〜1枚」では、楽浪の△群や、列島の500枚以上の△の説明が出来ない。 >>734
>証拠は?で検索→59件ヒットw
九州説はそんなに証拠も出せないことを言い張ってるのか
トンデモないな >>686
>ちなみに三角縁神獣鏡には師出洛陽つまり洛陽の鏡師が作ったと書いてあるので
魏の洛陽で作られたことが明白
魏の洛陽でも出土
「師出洛陽」と刻むのは、
その「師」が製作時点では洛陽にいなかったから、刻む事が必要であった、
という事になるのであり、
だから、その鏡は洛陽ではないところで造られた、という事の証拠 伊支馬は生駒で生馬で火の神さんやろ
出雲風土記にも生馬神がもう荒ぶらないと言った話がある
出雲地方には今でも生馬神が祀られている
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている >>689
>女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しに拠って、×であり、
馬鹿のおかげで大和説者の嘘吐き騙しが露わに >>741
>畿内説自体が不明瞭
>ファンタジーな作文が多すぎる
とか決めつける理由は? 箸墓 = 5段築成 = その後のどんな大王(3段築成)よりも格上 = 親魏倭王卑弥呼の墓
もうこれで、箸墓が卑弥呼の墓だと言うことは確定するし、
よって魏志倭人伝に記録された南は、実方位で東になる。
九州説の目は、最初からゼロ。
なので彼らがそう主張するエビデンスを求めても、全く何も出てこない。
当たり前だ。最初から議論など成立しないレベルで、議論は全て終わってるんだから。
いずれにせよ、屍体に鞭うつよりも、畿内説同士で話をした方がいいんじゃないか? >>690
>漢時代に書かれた神仙思想による地理書の淮南子には
この世界の果ては漢の国境より1万2千里四方とある
魏志倭人伝に邪馬台国は魏の国境である楽浪より南1万2千里と書いてあるのは
この淮南子にある伝承を当てはめたもの
魏志倭人伝は、女王國から先の、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」
まで書いているので、
淮南子の伝承を踏襲しておらず、
従ってこの男は、×。 >>746
>「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
>史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しに拠って、×であり、
だから、どこが 曲解だ、嘘だって言うんだよ
それじゃあ、ただ罵ってるだけじゃんか >>749
>「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」
>まで書いているので、
>淮南子の伝承を踏襲しておらず、
だからって 1万2千里が世界の果てだって古典的な世界観から
造作のインチキ数字を引き出した可能性を否定なんてできないよ
史料がまるで合理的でない数字を使ってるんだ
造作を疑うのは自然で、そのソースを推理するには淮南子の観念論的世界観が有力ってこと >>691
>違うよ
成分分析によって三角縁神獣鏡は魏の銅鏡と同じものが使われている事が判明
△は、列島から500枚以上出土し、楽浪からも沢山出土し、
洛陽からは「0〜1枚」であり、魏からも殆ど0枚である。
>国内で作られた銅製品とは違うという結果
△は、ほぼ列島と楽浪ばかりの出土。
>そして三角縁神獣鏡には銅出徐州と彫ってあるので
三角縁神獣鏡は魏の銅の産出地である徐州の銅で作られたという事がわかる
△は、列島から500枚以上出土し、楽浪からも大分出土するが、
魏からは殆ど出土しないし、
列島からは、「誤の赤烏年号」鏡や「海東」△や「四海浮由」鏡などが出土するから、
呉系楽浪鏡師らの渡来での製作に関与した、という事が判る。 >>696
>晋書天文誌などに景初四年の使用例があるから
景初四年はどうやらあったらしいよ
はるか後代の唐代に書かれた晋書では、
当然「自己解釈に拠る書き換え」の可能性が否定出来ず、
完全な論拠には、ならない。 それにしても、あきばの某と同じような?
「何々ですよっと」「」「」
知っている人もいるはず、ネットで出来るゲームの話。 >>696
>魏から輸入した三角縁神獣鏡を
国内で粘土で鋳型とってコピーした
魏での出土が0〜1枚では、列島の500枚以上の△の説明になるが図がなく、
呉系楽浪鏡師らの渡来と、鏡製作に関与があった、 >>753
>はるか後代の唐代に書かれた晋書では、
それで、はるか後代の後晋の史料で倭と日本が別の国だと言ってる九州説はなんなの? >>755
>魏での出土が0〜1枚では、列島の500枚以上の△の説明になるが図がなく、
>呉系楽浪鏡師らの渡来と、鏡製作に関与があった、
それで呉での出土が0枚で、
呉系楽浪鏡師らの渡来と鏡製作
とか言ってる九州説はなんなの? 「〜なのかしら」みたいな会話(チャット)などもしていたしな。 >>700
>当時の中国は踰年(ゆねん)改元といって皇帝が死ぬと喪に服すなどの意味で
年号を改元せず1年間は使い続けた
晋書天文誌や景初四年記銘三角縁神獣鏡などの資料によって
どうやら景初四年は7月ぐらいまで使われていた可能性がある
そして後に記録をつけるときに遡って年の初めから正始が使われた事にするというのは
青龍3年から景初元年に年号が変わる際にもあった事
つまり魏志倭人伝には魏の明帝は景初三年の1月1日に死んだ事になっているけれど
実際は景初三年の7月ぐらいまでは生きていて
そのあたりに死んで踰年(ゆねん)改元によって1年間ぴったり景初年号が使われ続けたと考えるなら
景初四年が7月ぐらいまで存在していたらしいという事と辻褄が合う
ダメだ。
景初三年後12月が終わった後、正始元年一月にせず、
景初三年の後十二月にした、という事の説明が付かない。 >>704
>むしろ干支などの記述で陳寿の書いた魏志に景初四年が存在した証拠があるよ
テンプレにもある通り
ダメだ。景初三年の後十二月の次は正始元年だ。
魏志から遠ざかっているのは大和説 何かのゲームの話をしている人もいたような?
それとも、かとー某のふりをして活動していたのかな、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、
そのゲームの中でw >>706
まーだ「嘘吐き騙しの貼り付け」をやってらっしゃるのか
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、
ハイ大和説終了
解散! 静岡、・・・、自動車工場?、・・・、・・・などは合致w 実際は景初三年の7月ぐらいまでは生きていて〜〜初四年が7月ぐらいまで存在していたらしいという事と辻褄が合う
どんだけ曲解www
考古学がいかに大馬鹿かを豪快に表現してるなwww >>707
>>「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」は、倭國伝の方に書かれているから、
「薜原朝常嗣等」は(日本國からの遣使ではなく)倭國からの遣使を名乗った、
という事が史料実態であり、だから、
「平安時代の藤原家の貴族が唐に使者で行ってる」と書いた史書の記載とは別の話であった(間違っていた?)、
という事になるの。
>あんた以外はそんなこと考えないよ 日本人も中国人も、日本の九州説だってな
関係がない。私は、「史料事実や史料実態を書いている」だけだ。
>平安時代に九州倭国なんて無い 誰でも知ってる
旧唐書と唐会要は、(九州)倭國伝と(大和)日本國伝とを書き分けている、
という事は、誰でも知っている。
>誰もが、京都から来た日本の公家さんを唐が倭国の使者として応対したと考える
何故かって?唐の人がみんな日本とは倭国が改名した国だと知ってたからだよ
唐の人はみんなそう書いてる
何百年もあとの後晋の人が古い記録を読み違えただけだ<
ダメだ。旧唐書も唐会要も、
「日本國者、倭國之別種也。
以其國在日邊、故以日本爲名。
或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。
或云日本舊小國、併倭國之地」と書き分けており、
新唐書日本伝も、卑弥呼や倭の五王らの倭國をきちんと書かずに、書き分けている。
それが世界の通説 >>765
だから後晋の人が古い記録を読み違えただけ >>715
大和説は、
三角縁神獣鏡と前方後円墳と会稽東治の東に弱いな >>724
大和説は、
「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」や「冢→前方後円墳」などの、
史料事実の曲解否定の嘘吐き騙しばかりしててる事が、
証拠 >>726
「南→東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
「冢→前方後円墳」などの史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説は、
嘘ばかりついてないでたまには本当の事を言ったら?
邪馬台国や畿内は存在もしなかった嘘吐き騙しの証拠は沢山ある事も >>739の訂正
>>684
>淮南子には世界の果ては国境より1万2千里と書いてるよ
魏志倭人伝のやまたいこくまでの距離はこれを援用したもの
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、、×であるし、
魏志倭人伝は、女王之所都までの萬二千余里だけではなく。、
更に、女王國から侏儒國付近までの四千余里や、
「裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」まで記載しているから、
「援用」した事ならず、この男は、嘘吐き騙しの詐欺師男。
大和説絶望的観測で涙目 >>740
九州説と大和なんとか?で、議論が成立しているんだったらいいけど、
現実には成立しておらず、大和説の目はゼロで、
であれば、九州説の中で議論した方が建設的だと思うんだよね。
倭國が北部九州説だとしても、分からないことや謎のままのことが、
少し残ってるよ。そういう議論をした方がいいんじゃないかな? >>748
>箸墓 = 5段築成 = その後のどんな大王(3段築成)よりも格上 = 親魏倭王卑弥呼の墓
もうこれで、箸墓が卑弥呼の墓だと言うことは確定するし、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や「冢≠前方後円墳」などに拠って、×。
>よって魏志倭人伝に記録された南は、実方位で東になる。
ならない。
大和説の目は、最初からゼロ。
なので彼らがそう主張するエビデンスを求めても、全く何も出てこない。
当たり前だ。最初から議論など成立しないレベルで、議論は全て終わってるんだから。
いずれにせよ、屍体に鞭うつよりも、九州説同士で話をした方がいいんじゃないか? 阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 >>755の訂正
>>696
>魏から輸入した三角縁神獣鏡を
国内で粘土で鋳型とってコピーした
魏での出土が0〜1枚では、列島の500枚以上の△の説明になる筈がなく、
呉系楽浪鏡師らの渡来で、鏡製作に関与があった。 >>757
>>魏での出土が0〜1枚では、列島の500枚以上の△の説明になる筈がなく、
呉系楽浪鏡師らの渡来に拠って、鏡製作に関与があった。
>それで呉での出土が0枚で、
△の発生地は、当然楽浪であり、
楽浪で、呉付近の三角縁や神獣鏡の技法を合わせて△を編み出し、
魏の楽浪帯方攻撃で生命の危険が発生したが、呉には戻れず、
仲間の「吏人=役人」も一緒に、九州の倭地に避難した。
>呉系楽浪鏡師らの渡来と鏡製作とか言ってる九州説はなんなの?
「呉系楽浪鏡師らの渡来と鏡製作」の根拠は、
列島での呉年号の「赤烏」鏡の出土と、「海東」鏡や「四海浮由」鏡などの出土。
いずれも呉系の鏡師らの渡来があった事の証拠。 >>766
>だから後晋の人が古い記録を読み違えただけ
ダメだ。
旧唐書も唐会要も、ほぼ全て、唐代記録をもとにして書かれた。 >>776
>阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波
邪馬臺國は、3世紀には存在したのか?が不明であるから、×であり、
阿波説は、当然、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、×。 >>728
九州説こそ三角縁神獣鏡が魏鏡と分析されて
魏に属していた洛陽や楽浪でも見つかっている現実を直視したらどうか >>736
実際に測ったとしたら沖縄や台湾まで1万2千里は1里140mくらいに相当
魏志倭人伝は短里でも長里でも書かれてないのだよ
奴国など倭国の王都は国境より南1万2千里で倭の
極南界の会稽東治の東にあるという中国の古くからの伝承に
邪馬台国の位置を当てはめて魏志倭人伝は書かれているというのが常識的解釈 >>737
楽浪は魏の領土
楽浪から三角縁神獣鏡が出土しているなら魏から出土しているのと同じこと
よって魏の洛陽と楽浪で三角縁神獣鏡は数面出土しているという事になる >>738
類似近縁ではなくて
三角縁神獣鏡は魏鏡と銅の成分が100%一致してるよ
つまり魏で作られた鏡という事だ >>739
漢書地理誌に西の大月氏まで1万6千里とあるから
それに対抗して邪馬台国の1万2千里に4千里つけ足したんだよ
魏の時代大月氏と国交を開いた曽氏と倭国と国交を開いた司馬氏はライバル関係にあった
そして倭国と国交を開いた司馬氏は後に晋の皇帝になる
そして魏志倭人伝は晋の時代に書かれたものなので
皇帝の先祖の功績を大きく書く必要があったと考えられている >>742
三角縁神獣鏡は魏鏡と銅の成分が近似ではなく
全く同一の物が使われている事が分析の結果わかったよ
そもそも九州説は三角縁神獣鏡は呉の鏡師が魏の銅を持ってきて
倭国内で作ったと主張してたろ
そして九州説のいう様に三角縁神獣鏡と魏鏡の銅が同じものでないなら
九州説は相矛盾する主張をしている事になる
三角縁神獣鏡は魏で作られた魏鏡にしろ
九州説の言うように呉系鏡師が魏の銅を持ってきて国内で作ったものにしろ
銅の成分がお互いに一致してなければおかしい事になる >>791
>全く同一の物が使われている事が分析の結果わかったよ
畿内説お得意の超拡大解釈w .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>785
>楽浪も 魏の領土
当時(公孫氏が魏に討伐されるまで)は、
楽浪や帯方は、
魏に敵対し、呉と友好的であった公孫氏の支配下。 >>786
>九州説こそ三角縁神獣鏡が魏鏡と分析されて
魏に属していた洛陽や楽浪でも見つかっている現実を直視したらどうか
大和説学者らこそ、△が、
大和説学者に拠って「魏鏡と分析」されたと言われても、
魏や洛陽からは殆ど見つからず、
楽浪と、500枚以上出土した列島でしか見つかっていない、
という現実を直視したらどうか。 >>787
>実際に測ったとしたら沖縄や台湾まで1万2千里は1里140mくらいに相当
魏志倭人伝は短里でも長里でも書かれてないのだよ
ダメだ。
萬二千余里は、九州北岸部の不彌國でほぼ終わっており、
そのすぐ南に「邪馬壹國女王之所都」がある事になり、
「沖縄や台湾」は全くならないから、この大和説男は犯罪者的な嘘つきだ。
>奴国など倭国の王都は国境より南1万2千里で倭の
極南界の会稽東治の東にあるという中国の古くからの伝承に
邪馬台国の位置を当てはめて魏志倭人伝は書かれているというのが常識的解釈
ダメだ。
魏志倭人伝は、魏使らの「同時代の実地での見聞計測の記録」として書かれており、
後漢書の「極南界也」の解釈も恣意的であり、本来は「南界を極むるや」と解すべきであり、
魏の役人たちは、「皇帝への報告」として、
「古くからの伝承」に合わせるようなずぼらなインチキをすれば、
当然部下や、率善中郎將の難升米らや、後続の魏の役人たちにバレて、
首が危なくなるもの。 >>788
>楽浪は魏の領土
楽浪から三角縁神獣鏡が出土しているなら魏から出土しているのと同じこと
よって魏の洛陽と楽浪で三角縁神獣鏡は数面出土しているという事になる
当時(公孫氏が魏に討伐されるまで)は、
楽浪や帯方は、
魏に敵対し、呉と友好的であった公孫氏の支配下。 >>789
>類似近縁ではなくて
三角縁神獣鏡は魏鏡と銅の成分が100%一致してるよ
いや、「100%一致=全部一点集中の一致」ではなく、
かなりの範囲の「円の中」に散在した、というだけだ。
>つまり魏で作られた鏡という事だ
つまり、サンプルの△の材料銅の成分比と、魏に存在した鏡の材料銅の成分比とが、
近縁材料銅であった、というだけだ。 >>790
>漢書地理誌に西の大月氏まで1万6千里とあるから
それに対抗して邪馬台国の1万2千里に4千里つけ足したんだよ
いや、魏志倭人伝の、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」は、
魏の役人たちの実地の実測であり、
それが証拠には、「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」の、
陸上参問の里数計測の合計の「可五千餘里」が、
400余×2+300×2+500+100+(4000余ー1000余)=5000余(里)に拠って、
「可や余」を付けた近似値数であった、という事からも判る。 >>791
>そもそも九州説は三角縁神獣鏡は呉の鏡師が魏の銅を持ってきて
倭国内で作ったと主張してたろ
そんな主張をしていない。
列島の△鏡師らは、楽浪からの手持ちの材料銅や古青銅製品の材料銅の持ち込み以外に、
列島にあった銅剣銅矛銅鐸銅鏡などの銅製品の再溶融の材料銅も使った、と言って来た。
勿論、手持ちの材料銅としては、徐州銅などが多かったんだろう、と言って来た。
>そして九州説のいう様に三角縁神獣鏡と魏鏡の銅が同じものでないなら
九州説は相矛盾する主張をしている事になる
三角縁神獣鏡は魏で作られた魏鏡にしろ
九州説の言うように呉系鏡師が魏の銅を持ってきて国内で作ったものにしろ
銅の成分がお互いに一致してなければおかしい事になる
そんなアホな事は言っていないから、おかしくならない。
おかしいのは、「三角縁神獣鏡は呉の鏡師が魏の銅を持ってきて倭国内で作った」
と言い出した大和説男(おそらく東大理系博士号男)の頭。 >>797
>当時(公孫氏が魏に討伐されるまで)は、
>楽浪や帯方は、
>魏に敵対し、呉と友好的であった公孫氏の支配下。
これは嘘
232年に初めて呉が派遣した将軍が山東半島沿岸を突破して遼東に行き、交流を申し出る
しかし帰り道に魏の待ち伏せで撃破され将軍は死亡
公孫氏の送使が逃げおおせて辛くも呉に着き、臣従を申し出る
孫権は喜んで233年に公孫縁を燕王に封じる使いを送るが、魏にビビった公孫淵は気が変わって使者らを殺し首級を魏に送って言い訳する
陛下のために呉のバカを騙して敵情偵察して来ましたと
孫権は怒って遼東に親征すると言い出すが家臣が必死に止めて沙汰止み
公孫氏はこの時に呉の送って来た財宝を奪ってる
この後に交流はなく、せいぜい公孫氏が滅ぶ時に魏の遠征軍の背後を襲ったくらい
こんな状況で、楽浪に呉系鏡師など居るわけがない それにしても、おかしな進化論(不明)の話なのかな。
『魚』画像を調べてみた?
遡る〜という曲なども同じ、さーぺんとしるばー。 『人間 海から生まれた』
芸能なども同じ、そういう一派がいたりするんだろう。
あと神話とか。 隕石か何かが海に落ちて・・・w、
プランクトン、みじんこのようなものが発生? 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜その後、陸に上がり、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜何かが発達して、足が(成長)生えたりとか。
『2ch 偉人 』 >>686
>魏の洛陽でも出土
洛陽の骨董市で売られていただけな
出土場所なんかはっきりわからんよ それにしても、新たなる人類(不明)が増えたりしないしな、
それとも、どこかでは、発生しているのかな。 >洛陽近郊の畑から三角縁神獣鏡が1面見つかっているよ
>しかも朝日新聞によれば国産の三角縁の特徴を備えているんですがwww
その洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と 徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作である。
また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と、同じく徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とも、神像表現が同じであり、同じ工人作なのである。 @阿波
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 まだ不完全な状態(いまの人間のような存在ではない)で発見され、
おかしな生物がいるぞと、現人類w人間に捕獲されたり、殺されたりしているから、
新たなる人類が増えないとか?
すごい話ばかり。 >>801
>>当時(公孫氏が魏に討伐されるまで)は、
楽浪や帯方は、魏に敵対し、呉と友好的であった公孫氏の支配下。
>これは嘘
232年に初めて呉が派遣した将軍が山東半島沿岸を突破して遼東に行き、交流を申し出る
しかし帰り道に魏の待ち伏せで撃破され将軍は死亡
公孫氏の送使が逃げおおせて辛くも呉に着き、臣従を申し出る
孫権は喜んで233年に公孫縁を燕王に封じる使いを送るが、魏にビビった公孫淵は気が変わって使者らを殺し首級を魏に送って言い訳する
陛下のために呉のバカを騙して敵情偵察して来ましたと
孫権は怒って遼東に親征すると言い出すが家臣が必死に止めて沙汰止み
公孫氏はこの時に呉の送って来た財宝を奪ってる
この後に交流はなく、せいぜい公孫氏が滅ぶ時に魏の遠征軍の背後を襲ったくらい
こんな状況で、楽浪に呉系鏡師など居るわけがない
だから「友好的」と「的」を付けているのであり、
「友好」と断定した訳ではなく、
また、魏に対しては、呉は敵対し、公孫氏も反抗的であったし、
だから、魏が楽浪帯方を攻撃し、
楽浪の鏡師や「吏人(役人)」らが、列島へ逃げた。 >>744
三角縁神獣鏡に魏の鏡師が作ったと彫ってある事は
魏の作鏡技術で作られた事を示す
つまり畿内で見つかる三角縁神獣鏡は
畿内と魏が交流を持っていた証 >>749
西の大月氏が1万6千里とされていたので
それに対抗して邪馬台国の南1万2千里に4千里足したんだよ
邪馬台国と魏が国交を持つにあたって晋の皇帝の先祖の司馬氏が功績があったので
魏志倭人伝の書かれた当時の皇帝の先祖の功績を大きいものにする必要があったとされている あきばはら事件?
ほんとーは()工作員か何かなんじゃないの? >>752
楽浪は卑弥呼の頃は
魏の領土
楽浪で三角縁神獣鏡が見つかっているなら
それは魏で見つかったのと同じ
そうすると呉系楽浪鏡師は存在してなかった事になる 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>753
仮に正始元年と書いてあっても
それをわざわざ景初四年に書き換える理由もないので
晋書天文誌が参照した資料には景初四年と書いてあったということ >>755
洛陽から見つかっているという事は
三角縁神獣鏡魏鏡説の否定材料にはならず
むしろ補強材料となるもの
その他にも三角縁神獣鏡には景初や正始など魏の年号の記銘や
使われている銅が魏鏡と同じものなどの証拠から
魏で作られた鏡である事に間違いはないものとされている >>759
記録上明帝の死を景初三年1月1日にした場合でも
そのままでは翌年の元日に皇帝の一周忌と正月を同時に開催する事になる
なので景初三年12月のあとに後12月を創設して
一周忌と正月が重なる事を避けたというのは有名 >>811
>だから「友好的」と「的」を付けているのであり、
>「友好」と断定した訳ではなく、
呉の使者の首切って魏に届けてる公孫氏を
呉に「友好的」と言うのは
詐欺 >>760
魏志には
正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫
という記事がある
これは正始元年ではなく一か月前にずれる景初四年でないと
乙丑という干支が合わない
よって元の資料には景初四年春二月乙丑と書いてあった証拠
他の史料からも景初四年は半年ほど存在していて
後に記録するときにはキリよく年の初めから正始元年が使われていた事にして
元の記録に景初四年とあるのを単純に正始元年に直した結果だろう 北九州から南に行ったら、大人口の遺跡なんて存在しないし、仮にあったとしたらそこは古墳時代・律令時代も引き続き大人口の都市な訳で。
大人口も巨大古墳も何もない場所に、投馬国も邪馬台国も狗奴国も、初めから存在し得ないんだよ。
だから倭人伝の南は、東なんだ。
こんなの、三角形の内角の和が180度なのと同じくらい自明じゃないか。これ以上議論する意味なんてない。 どっちにしても景初四年銘鏡の存在で九州説苦し紛れのメモリアルイヤー説が死亡確認され、三角縁が三世紀の鏡と確定したのが随分昔の話 >>825
そろそろお前も重症だなw
もう現実社会に戻ることなく寿命を迎えるだけw >>826
そんな中傷しか出来ない九州説は死んでいる >>792
いや三角縁神獣鏡と魏鏡は分析した結果
全く同一の素材という事が科学的に判定された >>794
公孫氏が討たれてからは魏の領土
卑弥呼の時代はもちろん公孫氏の討たれたあと >>795
今のところ三角縁神獣鏡は魏と倭からしか見つかってないよ
楽浪はもちろん三角縁神獣鏡が造られた頃は魏の一部 >>809
>>洛陽近郊の畑から三角縁神獣鏡が1面見つかっているよ
しかも朝日新聞によれば国産の三角縁の特徴を備えているんですがwww
>その洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と 徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作である。
おそらく、洛陽近郊のは楽浪から流れた△であり、
徳島のは、その△製作の鏡師らの中の、列島に渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡である。
>また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と、同じく徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とも、神像表現が同じであり、同じ工人作なのである。 @阿波
これも、その鏡師らの中の、列島に渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡である >>796
1万2千里が終わるのは会稽東治の東と魏志倭人伝に書いてある
会稽東治の東とは現在で言うと福建省福州市の東なので
沖縄や台湾
魏志倭人伝に邪馬台国は不彌國のすぐ南なんて事は書かれていない >>797
公孫氏と呉は敵対的だったそうだ
そして景初二年八月に公孫氏は魏に討たれ
三角縁神獣鏡が作られ始めたのがはっきりしている景初三年には魏の領土 >>799
1万2千里そのものが魏の里で測れば約5000kmで日本列島より長い距離で
帯方から南1万2千里はオーストラリア辺りになる
道里を計算すると会稽東治の東になると書いているので指している場所は沖縄や台湾
2つの情報が合致しないので1万2千里は淮南子から取られた架空の数値という事がわかる >>800
国内で古い銅製品を複数溶かして作ったとみられる鏡は
魏鏡や三角縁神獣鏡と全然違う数値が出る
三角縁神獣鏡と魏鏡は同じ数値が出るので
三角縁神獣鏡は魏で作られた鏡という事がわかる >>830
いや全部魏の銅で作られたもの
銅出徐州と鏡に書いてあるので
魏の銅の産地である徐州の銅で作られたものと推定される >>834
魏志倭人伝には邪馬台国の位置は会稽東治の東と書いてある
会稽東治は現在の福建省福州市の辺りでその東は沖縄とか台湾
魏志倭人伝の記述でも
邪馬台国は不彌国の次に南に水行計30日陸行1月と
かなり南に想定されて書かれている事がわかる >>837
晋書天文誌などによって
景初四年は存在していた事がわかる >>824
それな
倭人伝のまんま読めば、九州南端部から種子島あたり
九州南端部から種子島あたりにヤマタイという響きに近い場所も
3Cの七万戸の痕跡も百余歩の古墳もない
三角縁神獣鏡の出土も少ない
30ヶ国も従えた権力があった痕跡がない
女王國東渡海千餘里で復有國皆倭種の狗奴国のはずなんだが、
そこは太平洋の洋上
倭人伝の内容とサッパリ整合していない
ところが南を東にすると全て整合する
ただ単に東を南と勘違いしただけの話 >>841
そっちが間違いもしくは捏造かもしれないだろ まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>830
なんで九州説はそんな見え見えのウソがつけるの? >>843
景初四年が無いならば明帝の命日は元旦なのだから、九州説のそれは有り得ないな .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>813
>三角縁神獣鏡に魏の鏡師が作ったと彫ってある事は
魏の作鏡技術で作られた事を示す
「師出洛陽」と刻んだ、という事は、刻んだ時には師は洛陽にいなかった事を示す。
そして、それが列島で出土した、という事は、列島にいた、という事を示す。
>つまり畿内で見つかる三角縁神獣鏡は
畿内と魏が交流を持っていた証
「畿内」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であり、
列島の鏡は、「赤烏」年号鏡や、「海東」鏡や「四海浮由」鏡の存在に拠って、
呉系楽浪鏡師らの渡来があった、という事を示す。 >>814
>西の大月氏が1万6千里とされていたので
それに対抗して邪馬台国の南1万2千里に4千里足したんだよ
邪馬台国と魏が国交を持つにあたって晋の皇帝の先祖の司馬氏が功績があったので
魏志倭人伝の書かれた当時の皇帝の先祖の功績を大きいものにする必要があったとされている
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」は、
文字通り倭地の洲島之上を参問した事を示し、
陸上部分を合計すると、
400余×2+300×2+500+100+(4000余ー1000余=5000余(里)
とピッタリであり、
魏の役人たちの陸上移動里数が、魏の役人たちに拠って全て計測されていた、
という事を示す。 >>816
>楽浪は卑弥呼の頃は魏の領土
難升米らの帯方到着の直前に、
「景初中、明帝密遣帶方太守劉kin、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡」
があった事になり、卑弥呼の時代の途中。
>楽浪で三角縁神獣鏡が見つかっているならそれは魏で見つかったのと同じ
魏では、△は洛陽の「0〜1枚」しか見つかっておらず、
それでは楽浪の幾つもの△や、列島の500枚以上の△の説明が不可能であり、×。
そうすると呉系楽浪鏡師は存在してなかった事になる >>817
>女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」や「冢→前方後円墳」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの馬鹿のおかげで、
大和説の破綻が露わに。 >>818
>仮に正始元年と書いてあっても
それをわざわざ景初四年に書き換える理由もないので
晋書天文誌が参照した資料には景初四年と書いてあったということ
明帝は景初二年の大晦日〜景初三年の元旦の間に亡くなったので、
景初三年は存在するが、景初四年は存在してはいけないから、
景初三年12月の次は、「景初三年後十二月」とされ、
その次から、正始元年が始まったのであり、
だから、どこにも景初四年は存在していなかったのであり、
はるか後代の唐代の晋書の「景初四年」は存在しなかった「アホ記載」。 >.819
>洛陽から見つかっているという事は
三角縁神獣鏡魏鏡説の否定材料にはならずむしろ補強材料となるもの
洛陽の「0〜1枚」では、魏の△の説明根拠にならず、
また列島の500枚以上の△や楽浪の幾つもの△の説明にもならず、×。
>その他にも三角縁神獣鏡には景初や正始など魏の年号の記銘や
景初や正始など魏の年号の陳氏は、楽浪の「吏人(=役人)」を連れて来ており、
また、呉の「赤烏」年号鏡の存在や、「海東」鏡や「四海浮由」鏡の存在に拠って、
呉系楽浪鏡師らの渡来が確定。
「使われている銅が魏鏡と同じものなどの証拠から
魏で作られた鏡である事に間違いはないものとされている。
同じ鏡ではなく、使用材料成分比が近縁的な範囲であった、というだけ。 >>820
>記録上明帝の死を景初三年1月1日にした場合でも
そのままでは翌年の元日に皇帝の一周忌と正月を同時に開催する事になる
なので景初三年12月のあとに後12月を創設して
一周忌と正月が重なる事を避けたというのは有名
そして「景初三年後十二月」の次に、正始元年が始まったから、
やっぱり、「景初四年」はなかった。 >>821
大和説は、
「南→東」や「正北抵新羅の隠蔽」や「冢→前方後円墳」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
・・・・アホ詐欺師の無知が作った >>822
>>だから「友好的」と「的」を付けているのであり、
「友好」と断定した訳ではなく、
>呉の使者の首切って魏に届けてる公孫氏を
呉に「友好的」と言うのは詐欺
呉も公孫氏も、結局は魏を敵対した同士なのだから、
「友好的」。 >>823
>魏志には
正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫
という記事がある
これは正始元年ではなく一か月前にずれる景初四年でないと
乙丑という干支が合わない
意味不明。
乙丑とは何?。
景初四年は始めからなかったし、景初三年後十二月が始めからあったんだから、
その上で、解釈しなければならない。
>よって元の資料には景初四年春二月乙丑と書いてあった証拠
他の史料からも景初四年は半年ほど存在していて
後に記録するときにはキリよく年の初めから正始元年が使われていた事にして
元の記録に景初四年とあるのを単純に正始元年に直した結果だろう
景初四年は始めから存在していなかったんだから、
それをあった事にした解釈は始めから、×。 >>824
>北九州から南に行ったら、大人口の遺跡なんて存在しないし、仮にあったとしたらそこは古墳時代・律令時代も引き続き大人口の都市な訳で。
大人口も巨大古墳も何もない場所に、投馬国も邪馬台国も狗奴国も、初めから存在し得ないんだよ。
だから倭人伝の南は、東なんだ。
こんなの、三角形の内角の和が180度なのと同じくらい自明じゃないか。これ以上議論する意味なんてない。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
この「ひるこ」という男が×であり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
邪馬壹國女王之所都は不彌國の直ぐ南に入口がある事になり、問題はなく、
大和説は、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や「冢≠前方後円墳」などの、
史料事実や史料実態によって、×。 >>824
この「ひるこ」という大和説男も、
「貼り付け」もする・・・・アホ詐欺師であったようだから、
この投稿は没。 >>825
どっちにしても景初四年銘鏡の存在では,
陳氏と楽浪役人の「吏人」の合作であった、という事が判っており、
大和説苦し紛れのメモリアルイヤー説が死亡確認され、
大和の三角縁が四世紀の鏡と確定したのが随分昔の話 いやいや、ヤマタノオロチが邪馬台国
神武は狗奴国の男王
つまり邪馬台国は神武に滅ぼされ、奈良で大和王権の礎を築いた
だから大和王権は狗奴国の末裔だ >>827
「南→東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や「冢≠前方後円墳」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しや、
中傷しか出来ない大和説は死んでいる >>860
そこからか
乙丑とは古代の日付代わりの干支
60日周期で一巡する
魏志にある記事の
正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫は
正始元年二月では乙丑という干支が存在しない
代わって一か月前にズレる景初四年二月なら乙丑が存在する
よって魏志に書かれてる記事が参考した資料には景初四年二月乙丑と書いてあったということ
テンプレ44にも書いてるよ >>851
三角縁神獣鏡は魏鏡と同じ銅が使われてるので
魏で作られて魏の洛陽で師出洛陽と書かれたということ >>852
魏の役人たちは計測は行ってなかった
魏志倭人伝の里は場所によって1里の長さが4倍は違っているから >>853
楽浪で三角縁神獣鏡がいくつも見つかるなら
三角縁神獣鏡が作られるころは楽浪は魏の領土だったので
魏でいくつも見つかってる事と同じ 邪馬台国が大和だと言うことは既に動かないのだが、
それにしてもよく分からないことがたくさん残る。
卑弥呼=後の大和勢力=纏向の主は、
弥生時代の大王であるオオクニヌシ、オオモノヌシ、蛇神、三輪山の勢力と抗争しており、
一時はそれらと融和しようとして失敗した(モモソがオオモノヌシの妻になるが、離縁された)のだが、
だが倭人伝に記載される抗争相手(狗奴国)は、出雲勢力ではなく東海勢力だった。
その東海勢力の痕跡が、記紀に残っていない。 >>871
狗奴国は九州南部の熊襲や隼人と推定されてるよ >>872
九州説?の人と話をする気は全くないので、以後、無視して下さい。
畿内説の人とのみ話をします。ここは畿内説スレなので。 狗奴国は久努国
天竜川以東にあった東海道の国
沼津にある巨大集落遺跡の足高尾遺跡群が都
その傍にある3C中頃の東日本最大の古墳である高尾山古墳が卑弥弓呼陵 狗奴国にはクコチヒクというリーダ−が居たらしい
九州南西部には菊池氏という氏族がいて
クコチヒクとは菊池彦だったのではと言われてるよ >>871
大国主や大物主のような人格神が創作されたのは仏教伝来の後だと思うが?
神話を史実とみなすのはやめた方がいい いや待つんだ
何らかの事実を反映している可能性はある 熊襲や隼人こそが古への倭国(九州)の盟主である邪馬台国の国人だったが
南北に長い列島を収める為大和に居を定めた新政権が邪馬台国の存在を隠すため
古事記や日本書記と呼ばれる日本最古の史実書では存在しなかったことにし
逆に南には熊襲や隼人が北辺にはまつろわぬ民の蝦夷が住んでいて
中国の中華思想を模擬し日本列島に大和中央思想を植えつけてたらしいよ
隼人系は瓊瓊杵尊と祖とする天皇王族と同じ天孫降臨系の血脈だし
幼稚な描写描かれるヤマトタケル物語のヤマトタケルは日本列島を駆け巡り
東北の蝦夷征伐や関東や東海の荒ぶる土地神を平らげ南では熊襲こと川上梟帥に闇討ちで勝ち
川上梟帥に日本一の強さの称号を貰って喜んでるヤマトタケルの間抜けさが目立つ
古事記や日本書記をよく読むと中国の史書の残る倭の名称や邪馬台国に
大和王朝の人々は嫌となるほどコンプレックスがあったのだとよく理解出来る構成本 それにしても、おかしな話ばかり。
とあるゲームがあったんだけど、
かとー某(あきば事件)と同じ?ような人物がいたりw それと、成り済まし、騙り?
何なのか知らないけど、何がしたいんだろう? いい加減に気付いている人は気づいているんだけど、
家の老婆談があるでしょ、むかーしの芸能関係(かみよ?)の話とか、〜なども保存されていたりw 『文』(☆)のようなデザインの帽子、『文官』?
家の写真なんだけど、軍人でもないと言っているし、大統領だろう?
『天財若子』
こういう名前の家w 秋葉原事件関係、調べてみた?
なぜか『キテレツ大百科』の話をしている人もいるし。 『 秋葉原通り魔事件「無敵の人」加藤智大と『デモクラティア』というマンガ 』
調べてみて、なぜか『キテレツ大百科』でしょ?
家の老婆も木、木材〜などの話をしていた事があった。 例えば『キテレツ大百科』に出てくる、コロ助?
もう、お前(ころ助)なんて必要ないんだよとなった場合、
精神病院に収容、・・・自殺させれば良いとか。 なぜ知っている人がいたりするんだろう。
廃棄処分、・・・、・・・など。
『2ch 偉人 アイツァーモ・ケ・シタ』(消した) テレビなどで言われている、
テンノウ(不明)の事みたいなんだけど、コロ助w 詳しいことは、わからないんだけど、
何かしたんだろう?と言っている人がいたり。
〜〜必要ないと思われたりするようなこと。 まさか『天財若子』w
この家から何か盗んだりしていたとか?
そこから得たもので生活していたり。 日本書記によれば、崇神は生涯をかけてひたすら、
出雲との抗争やら挑発やら融和やらをやっている。
大和朝廷にとっては、出雲との関係がとにかく大問題だった。
崇神、ミマキイリビコは弥馬獲支なのだろうが、ミマキイリビコの御を取れば、
マキイリビコとなり、纏向との音韻の類似も想起される。
だが不思議なことに、日本書記の記述によれば、
狗古智卑狗の東海勢力とは明示的には戦っていない。
当たり前と言えば当たり前で、出雲は投馬国であり、狗奴国ではなく、
魏使は無事に投馬国を通り、丹後か若狭湾を経て大和に入った。
つまり日本書記では、抗争相手のNo2で、
抗争しながらもある程度の友好関係・従属関係にあった出雲については詳細に記述されているが、
抗争相手のNo1で、魏国にまで救援を求めた恐るべき狗奴国の存在は、完全に抹殺されていることになる。 >>828
>いや三角縁神獣鏡と魏鏡は分析した結果
全く同一の素材という事が科学的に判定された
いや、「全くの同一の素材=完全な一点での一致」ではなく、
ある範囲内に存在した、という一致であるから、
材料銅成分比に近縁のものがあった、というだけ。 >>829
>公孫氏が討たれてからは魏の領土
卑弥呼の時代はもちろん公孫氏の討たれたあと
卑弥呼は、正始元年の魏使らの面会時点で既に「年已長大」であったのであり、
だから、卑弥呼の共立は、「公孫氏滅亡」の15年位前。 >>831
>今のところ三角縁神獣鏡は魏と倭からしか見つかってないよ
△は、魏からは「0〜1枚」であり、
列島からは500枚以上出土しており、楽浪からは幾つも出土しているんだよ。
>楽浪はもちろん三角縁神獣鏡が造られた頃は魏の一部
△の元である三角縁鏡も神獣鏡も、呉付近で盛行しており、魏では盛行しておらず、
楽浪で△が造られたのは、当然「魏の楽浪帯方攻撃支配」以前の公孫氏の支配時代。 道に迷ったご老人が、ヤマト・ヤマトとつぶやきながら、今日も大和路をさまよい歩くか、、、 >>833
>1万2千里が終わるのは会稽東治の東と魏志倭人伝に書いてある
ダメだ。
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
そのすぐ南に邪馬壹國女王之所都の入り口がある事になるし、
「会稽東治之東」は、あくまで「女王國全体」に位置推定であり、九州島付近だ。
>会稽東治の東とは現在で言うと福建省福州市の東なので沖縄や台湾
「会稽東治」は、当然「会稽の東の(揚州管轄下の)治所」という意味になるのであり、
会稽のはるか南の福州付近や、台湾になる筈がなく、
この大和説男は、嘘つき騙しの・・・・×男。
>魏志倭人伝に邪馬台国は不彌國のすぐ南なんて事は書かれていない
不彌國で、
7000余+1000余+400余×2+1000余+
300×2+1000余+500+100=12000余(里)だ。 そもそも邪馬台はヤマタイではなくシャマタイと読むのになぜ畿内政権はヤマトと読んでいたのか?
畿内は文字文化が遅れていたので識字能力が低かったのか? >>900
魏鏡と三角縁神獣鏡の銅の成分は全くの完全一致
科学的にもどっちがどっちかわからないほどだ
よって三角縁神獣鏡は魏鏡の一種 >>835
>公孫氏と呉は敵対的だったそうだ
いや、公孫氏と呉は、「魏が共同の敵」であった、という意味で、
時には友好的になり、時には離反した事もあったりしていた。
>そして景初二年八月に公孫氏は魏に討たれ
三角縁神獣鏡が作られ始めたのがはっきりしている景初三年には魏の領土
△は、魏の鏡ではなく、
景初三年△は、楽浪から渡来の、陳氏と楽浪の吏人(役人)の合作鏡。 >>907
いくら言い張っても景初四年www
つーか年号がバラバラwww >>908
郡なんだから、「領土」というのは不適当だな
せいぜい植民地どまりさ 道に迷った痴呆ご老人が、ヤマト・ヤマトとつぶやきながら、今日も大和路をさまよい歩くか、、、 楽浪郡も帯方郡も、漢土の外の東夷という辺鄙に置かれた出先役所。つまりは出張所さ。 >>838
>1万2千里そのものが魏の里で測れば約5000kmで日本列島より長い距離で
帯方から南1万2千里はオーストラリア辺りになる
ならない。
魏朝の「里」は、周髀算経の「里」であり、1里≒65.5m位であり、
帯方郡からの直線距離では、ほぼ九州島付近。
>道里を計算すると会稽東治の東になると書いているので指している場所は沖縄や台湾
「会稽東治之東」は沖縄や台湾にはならない。
>2つの情報が合致しないので1万2千里は淮南子から取られた架空の数値という事がわかる
二つの情報はどちらも「ほぼ九州島付近」を指しているので、
陳寿の行程記載と位置推定も合っていた事になり、
淮南子が「一寸千里の短里」を使った事とも一致する。 >>838
>国内で古い銅製品を複数溶かして作ったとみられる鏡は
魏鏡や三角縁神獣鏡と全然違う数値が出る
使用材料銅が全く違っただけ。
>三角縁神獣鏡と魏鏡は同じ数値が出るので
使用材料銅成分が近縁であっただけ。
>三角縁神獣鏡は魏で作られた鏡という事がわかる
魏の△は「0〜1枚」しかないので、
楽浪や、列島の五百枚以上の△の根拠や製作地にならず、×。 >>389
>いや全部魏の銅で作られたもの
いや、列島の鏡は、渡来の楽浪鏡師らの手持ち銅と、列島の銅剣銅矛銅鏡銅鐸を、
材料銅にしたもの。
>銅出徐州と鏡に書いてあるので
魏の銅の産地である徐州の銅で作られたものと推定される
徐州銅産地は、呉と魏との「取り合い」になったもの。 >>897
投馬国は当時の発音でタウマコク
さすがに出雲には聞こえない
岡山にある港町の玉(たま)が最有力 >>909
統一性が無いのは、国産か中国産か関係なく民間交易で流通してた証拠だ >>840
>魏志倭人伝には邪馬台国の位置は会稽東治の東と書いてある
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
「会稽東治之東」は、その直前の「自郡至女王國萬二千餘里」の女王國の位置を推定したもの。
>会稽東治は現在の福建省福州市の辺りでその東は沖縄とか台湾
会稽東治は「会稽の東方の治所」という意味であり、揚子江河口の南北地域であり、
その東は、ほぼ九州島付近であり、沖縄とか台湾には、全くならないから、×。
>魏志倭人伝の記述でも邪馬台国は不彌国の次に南に水行計30日陸行1月と
かなり南に想定されて書かれている事がわかる
これも魏志倭人伝の読み間違い。
行程記載では、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
その次の邪馬壹國女王之所都との距離は記載されておらず、
記載里数の最小単位は100里であるから、
従って、邪馬壹國女王之所都の入り口は、不彌國から50里以内位にあった事になる。 >>909
景初四年は晋書天文誌や魏志の春二月乙丑などの記述によって
存在した事が確実視されている
三角縁神獣鏡の年代は景初とその次の正始で
別にバラバラじゃないぞ >>841
>晋書天文誌などによって
景初四年は存在していた事がわかる
はるか後代の唐代に書かれた晋書の記載では、
どのように「自己解釈に拠る書き換え」がなされているのか?も判らず、半分×記載。
ほぼ同時代の魏志の記載の方がはるかに信頼性が高く、それに拠れば、
景初三年12月→景初三年「後12月」→正始元年、と変わった事になるのであり、
景初四年など全く存在せず、
残った問題は、景初三年「後12月」→正始元年の「正始元年」が、
「一月」から始まったのか?「二月」から始まったのか?、という問題だけ。
どなたか?が、「正始元年一月」という記録を示してくれれば、決着する。 >>919
> >>909
> 景初四年は晋書天文誌や魏志の春二月乙丑などの記述によって
> 存在した事が確実視されている
捏造屋が確実視するのは勝手だが、それは学問的に確実とは言えないんだよ、世間知らずのジジイw >>913
魏の1里は当時使われていた1尺24cmのモノサシや
律歴志に載ってる魏の度量衡1尺=6歩で換算して魏の1里は約420mだったと判明している
会稽東治とは会稽郡東治県のことで
現在の福建省福州市あたりにあった県でその東は沖縄や台湾
後漢書にも記述があって
会稽東治は中国最南端の海南島に当たる朱崖・タン耳とお互い近いと書いている
帯方から邪馬台国までの距離1万2千里は元は漢の時代の地理書淮南子にある
漢の国境から世界の果てまでを示す空想的な数字
魏志倭人伝には邪馬台国の正確な距離方位が書いてあるわけではなく
むろん1万2千里は九州北部を指すものではない 痴呆老人が、ヤマト・ヤマトとつぶやきながら、今日も大和路をさまよい歩くか、、、 >>842
>それな
倭人伝のまんま読めば、九州南端部から種子島あたり・・・
之も×。
倭人伝のまんま読めば、邪馬壹國女王之所都は、
不彌國のすぐ南の、「福岡平野中央部〜=筑紫平野及びその周辺丘陵地」。
女王國は、南九州の投馬國を含むから、「ほぼ九州島付近」。 >>844
まーだ「嘘つき騙しの・・・・貼り付け」をやってらっしゃるのか
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、
大和説は、ハイ終了
解散! >>920
魏志にも正始元年春二月乙丑と記述があるよ
これは正始では二月に乙丑という干支が存在せず
景初四年の場合なら存在する
よって魏志は景初四年を正始元年に書き換えを行っていると推定される >>849
>景初四年が無いならば明帝の命日は元旦なのだから、九州説のそれは有り得ないな
景初四年があったんならば、
新帝は、自分の改元をせずに、出来なかった不能な皇帝であった事になり、
大和説者のそれは有り得ないな >>921
いや学問的に確実
なぜなら畿内説は学説だから
邪馬台国が畿内にあった事を保証するものは全て学問的に正しい事になる
一方九州説は反学問であり古田教という新興宗教の一種なので
九州説の言う邪馬台国は畿内になかったとする説は
全て特殊な宗教観で狂った妄言として扱われる >>853の訂正
>>816
>楽浪は卑弥呼の頃は魏の領土
難升米らの帯方到着の直前に、
「景初中、明帝密遣帶方太守劉kin、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡」
があった事になり、卑弥呼の時代の途中。
>楽浪で三角縁神獣鏡が見つかっているならそれは魏で見つかったのと同じ
魏では、△は洛陽の「0〜1枚」しか見つかっておらず、
それでは楽浪の幾つもの△や、列島の500枚以上の△の説明が不可能であり、×。
>そうすると呉系楽浪鏡師は存在してなかった事になる
列島の鏡は、
「赤烏」年号鏡や、「海東」鏡や「四海浮由」鏡の存在に拠って、
呉系楽浪鏡師らの渡来があった、
という事を示す。 >>856の訂正
>>819
>洛陽から見つかっているという事は
三角縁神獣鏡魏鏡説の否定材料にはならずむしろ補強材料となるもの
洛陽の「0〜1枚」では、魏の△の説明根拠にならず、
また列島の500枚以上の△や楽浪の幾つもの△の説明にもならず、×。
>その他にも三角縁神獣鏡には景初や正始など魏の年号の記銘や
景初や正始など魏の年号の陳氏は、楽浪の「吏人(=役人)」を連れて来ており、
また、呉の「赤烏」年号鏡の存在や、「海東」鏡や「四海浮由」鏡の存在に拠って、
呉系楽浪鏡師らの渡来が確定。
>「使われている銅が魏鏡と同じものなどの証拠から
魏で作られた鏡である事に間違いはないものとされている。
同じ鏡ではなく、使用材料成分比が近縁的な範囲であった、というだけ。 >>928
> >>921
> いや学問的に確実
> なぜなら畿内説は学説だから
> 邪馬台国が畿内にあった事を保証するものは全て学問的に正しい事になる
> 一方九州説は反学問であり古田教という新興宗教の一種なので
> 九州説の言う邪馬台国は畿内になかったとする説は
> 全て特殊な宗教観で狂った妄言として扱われる
これぞまさしく脳無い畿内教会www .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. 北部九州に残る古代の大王の痕跡は二人しかいない。
一人は古代北部九州の覇権を握った高良玉垂命、もう一人はそのライバルタカミムスビ。
卑弥呼の痕跡はまったくない。 >>931
畿内説の学説
古田教という宗教の九州説とは違って >>865
>いやいや、ヤマタノオロチが邪馬台国
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言だるから、この大和説男は×であり、
ヤマタノオロチは、出雲付近での話であるから、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料実態に拠って、×。
>神武は狗奴国の男王
つまり邪馬台国は神武に滅ぼされ、奈良で大和王権の礎を築いた
だから大和王権は狗奴国の末裔だ
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料実態に拠って、×。 >>867
>そこからか乙丑とは古代の日付代わりの干支60日周期で一巡する
魏志にある記事の
正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫は
正始元年二月では乙丑という干支が存在しない
代わって一か月前にズレる景初四年二月なら乙丑が存在する
よって魏志に書かれてる記事が参考した資料には景初四年二月乙丑と書いてあったということ
テンプレ44にも書いてるよ
ほぼ同時代の魏志の記載の方がはるかに信頼性が高く、それに拠れば、
景初三年12月→景初三年「後12月」→正始元年、と変わった事になるのであり、
景初四年など全く存在せず、
残った問題は、景初三年「後12月」→正始元年の「正始元年」が、
「一月」から始まったのか?「二月」から始まったのか?、という問題だけ。
どなたか?が、「正始元年一月」という記録を示してくれれば、決着する。 >>934
客観的に見て畿内説は宗教だよ
考古学者含め
今からすれば凄く古ーい思想を持った連中だ
間違いなく権威ある学者を先生と呼んでいるはずだ
上の者を名前で呼ばない組織はいわゆる宗教なんだよ
だから世間では、先生と呼ばれるようになったら終わりだと言われている >>868
>三角縁神獣鏡は魏鏡と同じ銅が使われてるので
「同じ銅」ではない。成分比が近い材料銅。
>魏で作られて魏の洛陽で師出洛陽と書かれたということ
△は、魏では「0〜1枚」しか出土しないから、×であり、
「師出洛陽」と刻むのは、魏内であれば、何の自慢にもならない事であり、
その「師」が、その鏡を造った場所は、魏や洛陽ではなく、
それ以外の地で造った、という事を示すもの。
「 >>869
>魏の役人たちは計測は行ってなかった
魏志倭人伝の里は場所によって1里の長さが4倍は違っているから
魏の役人たちは実地の見聞や計測は行っていた。
魏志倭人伝の里は、1里の長さが「60m〜90m」と、
大体同じ範囲内であり、合っていた。 >>870
>楽浪で三角縁神獣鏡がいくつも見つかるなら
三角縁神獣鏡が作られるころは楽浪は魏の領土だったので
魏でいくつも見つかってる事と同じ
楽浪で三角縁神獣鏡がいくつも見つかり、
魏や洛陽では△が「0〜1枚」しか出土せず、
楽浪は、魏に敵対した公孫氏の管轄下であったから、、
魏では△は見つかっていない、のと同じ。 >>936
晋書天文誌などにも景初四年の記述があるよ
景初四年があった事を否定する証拠は今のところないということ >>937
畿内説は学説
それに反する九州説は特殊な反学問的カルト思想に基づいたカルト宗教 >>938
三角縁神獣鏡と
魏で見つかってる銅鏡の成分は
全く同じ
三角縁神獣鏡は魏で作られた鏡ということ >>939
魏志倭人伝の里を換算したら
場所によって1里50mから200mと4倍も差がある
これでは計測しない方がマシなくらい
つまり距離の計測はされていなかった >>940
三角縁神獣鏡が作られ始めた景初三年は
楽浪は魏の一部
楽浪で三角縁神獣鏡が見つかるというのは魏で見つかるというのと一緒 >>871
>邪馬台国が大和だと言うことは既に動かないのだが、
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
大和説は、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料実態に拠って、×だ。
>卑弥呼=後の大和勢力=纏向の主は、
弥生時代の大王であるオオクニヌシ、オオモノヌシ、蛇神、三輪山の勢力と抗争しており、
一時はそれらと融和しようとして失敗した(モモソがオオモノヌシの妻になるが、離縁された)のだが、
だが倭人伝に記載される抗争相手(狗奴国)は、出雲勢力ではなく東海勢力だった。
その東海勢力の痕跡が、記紀に残っていない。
卑弥呼や狗奴國の大和説も、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料実態に拠って、×だ。 >>914
三角縁神獣鏡に使われた銅と魏の銅鏡の銅は近縁ではなくて
全く同じものと科学的な調査で結果が出ている
よって三角縁神獣鏡は魏で作られた鏡で
多く見つかる畿内は魏と交流していたと魏志倭人伝に書いてある邪馬台国 >>941
中国の史書は先代の書いたものに手を加えないのが基本だろバカw
最初に景初四年と書かれた文献が間違いならその後の文献も間違いなんだよ
これは複数の史書に同じことが書いてあっても、それが本当かどうかわからない事を意味している
史書同士でクロスチェックが出来ないのが課題なんだよ >>873
>九州説?の人と話をする気は全くないので、以後、無視して下さい。
畿内説の人とのみ話をします。ここは畿内説スレなので。
ここは、自由投稿が原則のある程度「公共」の掲示板ですので、
「南→東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
「冢→前方後円墳」などの、史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
大和説者は、ご遠慮ください。 >>875
>狗奴国は久努国 天竜川以東にあった東海道の国
沼津にある巨大集落遺跡の足高尾遺跡群が都
その傍にある3C中頃の東日本最大の古墳である高尾山古墳が卑弥弓呼陵
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの資料実態に拠って、
この大和説男は、×。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 都合の悪いことは一切検証しようとしない畿内説は宗教そのものwww 中傷か混ぜっ返ししかできず
中身のある書き込みが全くできない
それは荒らし >>954
都合良いのも悪いのもいくらでも検証するのが学説である畿内説だよ
そもそも邪馬台国は畿内にあったので
畿内説に都合の悪いものなんてないのだけど >>958
畿内説に都合の悪いもの→纏向遺跡
何か出てくる遺構は3世紀末以後 >>959
纏向は王宮跡
少なくとも三世紀末には畿内に王宮があった証拠じゃないか >>871
>邪馬台国が大和だと言うことは既に動かないのだが、
それにしてもよく分からないことがたくさん残る。
卑弥呼=後の大和勢力=纏向の主は、
弥生時代の大王であるオオクニヌシ、オオモノヌシ、蛇神、三輪山の勢力と抗争しており、
一時はそれらと融和しようとして失敗した(モモソがオオモノヌシの妻になるが、離縁された)のだが、
だが倭人伝に記載される抗争相手(狗奴国)は、出雲勢力ではなく東海勢力だった。
その東海勢力の痕跡が、記紀に残っていない。
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「記紀は半分偽書」などの史料実態に拠って、×。 >>875
>狗奴国は久努国
天竜川以東にあった東海道の国
沼津にある巨大集落遺跡の足高尾遺跡群が都
その傍にある3C中頃の東日本最大の古墳である高尾山古墳が卑弥弓呼陵
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、×。 >>897ひるこ
>・・・当たり前と言えば当たり前で、出雲は投馬国であり、狗奴国ではなく、
魏使は無事に投馬国を通り、丹後か若狭湾を経て大和に入った。・・・
当たり前と言えば当たり前で、
大和説は、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「冢≠前方後円墳」などの史料実態に拠って、ひるこは×男。 >>898
大和説のひるこは、×で、
それで確定だと思う。 >>907
>魏鏡と三角縁神獣鏡の銅の成分は全くの完全一致
科学的にもどっちがどっちかわからないほどだ
「全くの完全一致」ではなく、あるばらつきの範囲内に入っている、というだけ。
>よって三角縁神獣鏡は魏鏡の一種
魏からは、△は「0〜1枚」しか出土せず、
それでは「列島や楽浪の500枚以上の△」の説明が不可能であるから、
この男の脳が×。 >>955
つまりキナイコシの書き込みは全部荒らしだってことかw >>913の訂正
>>838
>1万2千里そのものが魏の里で測れば約5000kmで日本列島より長い距離で
帯方から南1万2千里はオーストラリア辺りになる
ならない。
魏朝の「里」は、周髀算経の「里」であり、1里≒75.5m位であり、
帯方郡からの直線距離では、ほぼ九州島付近。
>道里を計算すると会稽東治の東になると書いているので指している場所は沖縄や台湾
「会稽東治之東」は沖縄や台湾にはならない。
>2つの情報が合致しないので1万2千里は淮南子から取られた架空の数値という事がわかる
二つの情報はどちらも「ほぼ九州島付近」を指しているので、
陳寿の行程記載と位置推定も合っていた事になり、
淮南子が「一寸千里の短里」を使った事とも一致する。 >>916
>投馬国は当時の発音でタウマコク
さすがに出雲には聞こえない
岡山にある港町の玉(たま)が最有力
「南≠東」などに拠って、×。 >>965
三角縁神獣鏡と魏鏡の銅の成分(銀・アンチモン)はお互い完全に一緒
つまり魏鏡と三角縁神獣鏡は同じ銅で作られているということ
三角縁神獣鏡がよく見つかる畿内は魏と交流があった証拠 >>967
魏の里は当時使われていた1尺24vmのモノサシや
魏の度量衡を記した律歴志から1里約420mと判明
会稽東治は現在の復権省福州市でその東は沖縄や台湾に相当
後漢書にも会稽東治は中国大陸最南部の朱崖・タン耳に近いと書かれてあり
会稽東治の東は九州北部よりかなり南方である事がわかる >>922
>魏の1里は当時使われていた1尺24cmのモノサシや
律歴志に載ってる魏の度量衡1尺=6歩で換算して魏の1里は約420mだったと判明している
魏朝では、文帝の即位の「度量衡の同一化」の詔書や、
重臣たちの周制への復古の上表や、明帝の暦法や度量衡の改定で、
周髀算経の度量衡(1里≒76.5m)の採用が決まったが、
民間レベルや、蜀のように漢朝の度量衡の継続や、
呉のようにどっちつかずの度量衡の使用で混乱があり、
学者らも、魏朝の度量衡を採用するか、
始皇帝の「1歩=6尺」の度量衡を採用するのか?で、混乱しただけ。
>会稽東治とは会稽郡東治県のことで
現在の福建省福州市あたりにあった県でその東は沖縄や台湾
後漢書にも記述があって
会稽東治は中国最南端の海南島に当たる朱崖・タン耳とお互い近いと書いている・・・
東大理系博士号自称男のこの投稿には、反論説明が何度も済んでおり、
面倒だから、パスね。 >>926
>魏志にも正始元年春二月乙丑と記述があるよ
これは正始では二月に乙丑という干支が存在せず
景初四年の場合なら存在する
よって魏志は景初四年を正始元年に書き換えを行っていると推定される
景初三年後十二月の次が、「正始元年一月」になったのか?、
「正始元年二月」になったのか?が判ってから返事をする。
いずれにしても、魏朝にあっては、「景初四年」は、新帝を侮辱する事になるから、
存在しない。 >>928
>いや学問的に確実
なぜなら畿内説は学説だから
邪馬台国が畿内にあった事を保証するものは全て学問的に正しい事になる
いや、大和説は、「畿内」とか「邪馬台国」とかの、
史料事実に存在もしなかった嘘つき騙しの非学問的文言を使っており、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や「冢≠前方後円墳」などの、
史料実態を曲解否定する嘘つき騙しをしており、
学問的では全くなく、「宗教的結論先にありき」の似非学問である。 >>933
>北部九州に残る古代の大王の痕跡は二人しかいない。
一人は古代北部九州の覇権を握った高良玉垂命、もう一人はそのライバルタカミムスビ。
卑弥呼の痕跡はまったくない。
北部九州に残る古代の大王の痕跡は二人しかいない。
一人は古代北部九州の覇権を握った高良玉垂命、もう一人はそのライバルタカミムスビ。
卑弥呼の痕跡はまったくない。
松野氏姫氏系図では、卑弥呼は「大野」に移った分家の出であり、
大野に近い安徳台が、周りに「王」の名の付く地名もあるなど、
卑弥呼の所都であった可能性が高い。 >>934
>畿内説の学説
古田教という宗教の九州説とは違って
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
史料事実や史料実態からの帰納的確率的は推論をする事に徹する古田説とは違って、
大和説は、「南→東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
「冢→前方後円墳」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定をする嘘つき騙し説であり、
学問ではなく、一種の・・・・宗教である。 >>941
>晋書天文誌などにも景初四年の記述があるよ
景初四年があった事を否定する証拠は今のところないということ
「新帝の改元」という新帝にとっては非常に大事な行事を否定するような、
常識外れの、はるか後代の唐代の晋書の記載など、
信頼性が全くない。 >>942
>畿内説は学説
それに反する九州説は特殊な反学問的カルト思想に基づいたカルト宗教
「畿内」なんて、存在もしなかった「皇国史観宗教文言」であり、
そんな宗教文言を使う(大和)説は、学問的でもなく、科学的でもなく、
特殊な反学問的カルト思想に基づいたカルト宗教 >>943
>三角縁神獣鏡と魏で見つかってる銅鏡の成分は全く同じ
三角縁神獣鏡は魏で作られた鏡ということ
「全く同じ」ではなく、計測値が「大体同じ範囲に分布した」というだけであり、
材料銅の成分に近縁のものが混じっていた、という事になるだけ。
また列島の△は、(魏鏡ではなく)、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であった、というだけ。 >>944
>魏志倭人伝の里を換算したら
場所によって1里50mから200mと4倍も差がある
これでは計測しない方がマシなくらい
つまり距離の計測はされていなかった
なーんだ、この投稿で分かった。
この一連の投稿の大和説者は、東大理系博士号の・・・・男であったのか。
実際には、この東大理系博士号男の、
倭人伝に書かれた部分行程の「起点や終点」の位置比定が、全くの非論理であり、
間違っていた、という事になるだけであり、
「起点や終点」の位置比定をきちんとすれば、1里はほぼ「90m〜60m」位になる。 いい加減に気付いているだろう、謎のチェーンソーのゲームなど。
「おまえは死んでいる」と言っていたり、わかりやすくいうと存在自体消された。
日本の天皇がいるでしょ?テレビで言われたりしているほうの天皇、
人権などもないという話だし。 〜(不明)に監視されているという話をしている人達もいたり。
誰の話なんだろう、そういう何やら(不明)が原因で、よくわからない、びょーきになったとか。 >>945
>三角縁神獣鏡が作られ始めた景初三年は
楽浪は魏の一部
楽浪で三角縁神獣鏡が見つかるというのは魏で見つかるというのと一緒
列島で発掘された景初三年△の、陳氏や「吏人(役人)」は、
当然、魏の(景初二年6月以前の)楽浪帯方攻撃征服戦から避難するために、
列島に来たものであり、
魏からは敵対者と見られる恐れがあったから、列島に来たのであり、
という事は、列島の景初三年△は、魏鏡ではない。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>971
中国の度量衡は1歩=6尺が基本
始皇帝の度量衡の統一令の前は1歩=4尺〜6尺とバラバラだった
しかし魏の時代は始皇帝の度量衡統一令の後なので
当然1歩=6尺で統一
その尺度が使われていたことは魏の度量衡の記された律歴志によって明らか
九州説のいう魏は1歩=1尺だったというのは歩と尺が一緒で
いわば1cm=1mという単位があったと言ってるようなもの >>960
宮殿ってまさかあの斎場の事か?
古墳造営基地局とも言われるw >>972
景初三年後12月のあとは当然正始元年1月だよ
つまり景初の時と比べれば暦が1か月後ろにずれ込むということ >>985
垂仁天皇(3世紀後半)の宮城 纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
景行天皇(4世紀前半)の宮城 纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)
日本書紀の記述 ほんとーの話(?)だろう?
wiki、ネットで調べてみても発見できない人物がいたり、
例えば、あの写真、謎の制服の人物とか。 >>973
畿内が存在しなかったなら
当時九州という呼び名も存在していなかった あの子供の帽子のところのデザイン『』?
老婆によると確実に戦前の写真だと言っているし。 老婆も生まれていない頃の写真だと言っているから、
明治時代だろう。 >>987
年代不明www
しかも卑弥呼時代は関係無い時代www
たしか建物が取り壊された年代=桃の種の年代(2世紀)だよな?www >>976
皇帝の改元という行事が大事なら
当時は踰年(ゆねん)改元という制度があって皇帝の死後1年は喪に服して改元を行わなかった
景初四年はどうやら七月ぐらいまで使われていた痕跡が散見されるから
その状況から考えると景初三年1月1日に死亡した事になっている明帝は
実は景初三年七月くらいまでは生きていて
そこから踰年改元でぴったり1年間景初年号が使われ続けたと考えるなら
景初四年が7月ぐらいまで存在していたらしい状況に説明がつく
つまりもしかしたら景初四年と記してある方が
踰年改元に基づく皇帝の改元の行事をもっと大切にしているという事になるのかも知れない >>992
年代不明ではないな
垂仁天皇も景行天皇も3世紀後半あたりの天皇 >>978
三角縁神獣鏡の銅は
魏鏡の銅と近縁ではなく全く同じという科学的判定結果
そして景初三年の三角縁神獣鏡の造られた頃には
楽浪は魏の領土 >>947
>三角縁神獣鏡に使われた銅と魏の銅鏡の銅は近縁ではなくて
全く同じものと科学的な調査で結果が出ている
結果のデータは、ある「一定範囲内」に分布であり、「全く同じ」ではない。
>よって三角縁神獣鏡は魏で作られた鏡で
△は魏からは「0〜1枚」しか出土せず、魏で造られた鏡ではない。
>多く見つかる畿内は魏と交流していたと魏志倭人伝に書いてある邪馬台国
畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙しの宗教的文言であるから、
この東大理系博士号男が×であり、
渡来の呉系楽浪鏡師らは、当然、
魏から親魏倭王を貰った卑弥呼は危険人物になっていた訳で、
従って、北部九州での鏡製作は控えめにして、地方の豪族の依頼や注文で鏡作りをしたが、
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の大倭職の附庸國であったから、
渡来の楽浪鏡師らも、しばらく大和に関与せず、
4世紀になってから、鏡作り神社で大和の子弟に副葬用の鏡の製作を指導した。 >>979
距離の違う事の明らかな対馬海峡の島々の間が
全部千里でひと括りなのに?
その他にも魏志倭人伝に書いてある国々の間の距離は
百里と五百里しか出てこない
この2つの単位だけで正確な距離を測るのは不可能 >>996
三角縁神獣鏡と魏鏡の成分は近縁ではなくて全く同じだよ >>952
>女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
今忙しいから、この大和説の貼り付けの・・・・男は、今回は放置ね。 >>958
都合良いのも悪いのもいくらでも検証するのが学説である九州説だよ
そもそも邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であったし、
九州説には、都合の悪いものなんてないのだけど このスレッドは1000を超えました。
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