邪馬台国畿内説 Part641
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1599749339/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 以上テンプレ
以下九州説
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【追加・変更】なし ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 以上テンプレ
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【追加・変更】なし ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 以上テンプレ
以下九州説
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国九州説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
九州説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
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【追加・変更】なし (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 以上妄想
以下九州説
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【追加・変更】なし ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 以上妄想
以下正しい九州説
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【追加・変更】なし ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 以上テンプレ
以下九州説
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【追加・変更】なし ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 以上テンプレ
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【追加・変更】なし ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし >>985
邪馬台国とか畿内とか、なんて言ってるからいつまで経ったも決着つかないんだわな
そのことがありました、なんて証拠はないんだよ >>986
畿内説とか阿波説とかは、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料実態に拠って、
賛同はできないなあ
夢見てる連中らがいるとしか思えん >>990
>倭国には、「九州時代の倭国」と、「渡平海北九十五國」後の拡大倭国があったのだろう。
そこんところの時代流動を書き分けないと迷路に入るぞ。
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、
倭國は、唐代の白村江の後まで、ずーっと列島の盟主であったの。
そこんところをしっかりわきまえないと、迷路に入るぞ。 >>991
大和説と阿波説には、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料実態のような、
致命的な欠陥が幾つもある。 >>992
>阿波が言うように、九州の温泉は腐っていたから、天皇は入浴を遠慮したのである。
マスコミさん、
このように、大和説者や阿波説者らは、
常識では理解出来ない位、脳がいかれている人種なんですよ。 「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径百歩(140m)の(円)冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
@曹魏から禅譲を受け、呉を平定し中国を再統一。280年頃、再び天下に平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹魏の薄葬令に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
B「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形◎や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと無意味な論争が継続中!
もしも箸墓が卑弥呼の冢だったら、、、
魏使「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記述→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(不正解)
もしも祇園山古墳が卑弥呼の冢だったら、、、
魏使「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記述→陳寿は「卑弥呼以死 【大】作冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(正解)
「殉葬者奴婢百人」は、魏の薄葬令に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。面白いのでそのまま転載しよう(陳寿、心の声)w >>86
トヨタの下請け部品会社の社長は、高級車に乗れないそうだ。
乗ってれば、「社長、儲かってるんですね!もっと値引きお願いしますよ」と買い叩かれるからね。
卑弥呼も台与も、トヨタ(魏)の下請け中小企業の社長みたいなもんだから、墓を立派にできなかったんだよ。
曹魏が西晋(265-316)になって、三国の戦乱が終わり、社会が安定して薄葬令が解かれて、下請け会社の社長・崇神も、箸墓みたいな立派な墓が造れるようになったってこと。
箸墓で倭王墓が突然巨大化した理由はそういうこと。つまり箸墓の築造年代は3世紀第4四半期(275-300)。 実年代=古事記の没年補正(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+対中国朝貢記録
◆奴国@博多【後漢の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(光武帝、金印下賜=鉄輸入開始!)
帥升(情報なし)…107年(安帝に謁見。生口160人を献上=鉄輸入急増→タウポ山大噴火→大飢饉(黄巾の乱)発生→倭国大乱へ)
◆邪馬台国@筑紫【狗奴国と戦争→曹魏皇帝に水銀朱と引き換えに帯方郡の鉄、独占輸入権要請→親魏倭王】
卑弥呼(〜247年)…238年/240年/243年/245年
台与(235年〜?)…247年
◆伊都国@博多(崇神朝)…国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源独自確保)
10祟神(〜318年)…266年(西晋武帝へ)、四道将軍派遣270年頃。
11垂仁(情報なし)…330年頃没。伊勢神宮創建(紀伊半島の水銀鉱床独占)。
12景行(情報なし)…343年頃没。日本武尊の東征335年頃。 大臣・武内宿禰
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆邪馬台国@筑紫(応神朝)…半島派兵(高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)┐
18反正(〜437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆狗奴国@阿蘇(継体朝)…倭王磐井暗殺→日出処天子・阿毎多利思比孤→欽 明皇子を本州の飛鳥へ分家→現在の天皇家へ
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮) 少なくとも魏(220-265)の時代には、魏帝を上回るような巨大王墓は造りたくても造れなかった。
つまり、箸墓の築造は、崇神の朝貢「複立男王並受中国爵命」266年以降ということ。 少なくとも魏(220-265)の時代には、魏帝を上回るような巨大王墓は造りたくても造れなかった。
つまり、箸墓の築造は、崇神の朝貢「複立男王並受中国爵命」266年以降ということ。 上古の聖王って呼ばれるならおそらく仁徳帝やからな
あまり事跡残っとらんのよな
メシを炊く煙を見てなんちゃら
資料が少なすぎ 北方騎馬民族の侵略を受けて、西晋が滅びると、隋が再統一するまで南北朝時代(318-589)の混乱期に突入するからね。
前方後円墳の巨大化は、まさに中国南北朝の空隙に起こった倭国だけの現象。 >>91
>仁徳陵、アジアでも最大レベルやぞ
「大きいから天皇陵」 単細胞の思考回路。 わははははは @阿波 大連物部氏が司っていた巨大前方後円墳=倭国のガラパゴス現象を止めたのが大臣蘇我氏 >>91
「大きいから天皇陵」 単細胞の思考回路。
「忌部はん」 のお墓を有難がる隠れ忌部。 わははははは @阿波 >>88
>>95
崇神朝の后は物部氏から出ている。
魏(220-265)の薄葬令から考えても、真の崇神(266年西晋朝貢)陵である可能性が高い。 >>91
「大きいから天皇陵」 単細胞の思考回路。
「忌部はん」 のお墓を有難がる隠れ忌部。 わははははは @阿波 >>97
訂正
魏(220-265)の薄葬令から解放を示す(突如巨大化した)箸墓は、真の崇神陵である可能性が高い。 266年に晋に朝貢したのは女王だから台与
だから箸墓は台与陵になり、台与=百襲姫 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
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http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 266年以降の前方後円墳で百襲=台与だとしても国家統治と宗教祭祀の観点から外部流入だと思うけどね。 西晋の文部官僚陳寿が280年頃編纂した魏志倭人伝には、4人の倭王が記されている。
@卑弥呼A男王「国中不服」B台与C男王「受中国爵命」
266年の朝貢はC男王だったということ(じゃないと陳寿は「複立男王並受中国爵命」と書けない)。
つまり崇神であったということだ。 >>105
漏れもそう思う。
266年西晋武帝に朝貢した倭女王という記録は中国側の錯誤で、おそらく台与との混同が考えられる。
>>88
実際、珍を讃の弟と錯誤している。 >>105
一般的に266年の朝貢はトヨと推測されてるのに男王説もあるのか。 >>105
B男王「国中不服」が神武で、東征させられたのかな? 北史倭国伝
「正始中、卑彌呼死、更立男王。國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中國爵命」
>正始中、卑彌呼死
「卑彌呼」とは「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
>卑彌呼死、更立男王
その男王とは「須佐之男命」
>卑彌呼宗女臺與
その臺與とは「神武天皇」の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
>其後復立男王
その男王とは「神武天皇」 @阿波 @「倭國亂相攻伐」して、卑彌呼を立てた。
A卑彌呼死後、狗奴国の男王卑彌弓呼が卑彌呼の後釜として倭王となった。
B「國中不服更相誅」して、壹與が立った。
「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
C「其後復立男王」として、「神武天皇」が立った。 @阿波 卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」
記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。
なお、魏志倭人伝に云うところの「更立男王」は、須佐之男命。
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 >卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」
出雲狗奴国王「須佐之男命」 の息子「大国主命」は、卑彌呼宗女「壹與」と同世代である。 @阿波 >>105
それって梁書だろ
魏志倭人伝じゃないぞお馬鹿ちゃん
魏志倭人伝には台与の後の男王について一切書かれてません
だから定説通り、266年に晋に朝貢した女王は台与で正しい
ゆえに箸墓は台与陵で、台与=百襲姫で何ら矛盾しない >>113
>ゆえに箸墓は台与陵で、台与=百襲姫で何ら矛盾しない
どさくさ紛れに、勝手に「ゆえに」で決めつけたらイカンぜよ。 わははははは @阿波 >卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」
出雲狗奴国王「須佐之男命」 の息子「大国主命」は、卑彌呼宗女「壹與」と同世代である。 @阿波 卑弥呼=宇那比姫が249年頃に崩御して黒塚古墳に葬られる
その後の男王が卑弥呼の甥の孝霊天皇で15年くらいで国中不服の内紛に巻き込まれて
山背で戦死して椿井大塚山古墳に葬られる
その後に孝霊天皇の娘の台与が大王になり、266年に晋に朝貢して3C末に崩御して
箸墓に葬られる
その後の男王が崇神天皇と
これが今のところ分かる限界かな 千葉の神門は、奈良の纏向の地に本部を置く纏向連合の最初期からの加盟国。
なぜそれが分かるのかというと、神門では3世紀前半に前方後円型の墳丘墓を造っており、纏向連合の一翼を担っていたことが分かっているからだ。
この千葉神門を倭人伝の女王国から東千余里にある倭種の国であるとする意見があるが、
倭人伝の記述では倭種の国は女王国に属さない別の国だと書いてあり、奈良に倭国の盟主邪馬台国があったとすれば、
千葉神門はその奈良の邪馬台国を盟主とする倭国に属さない国であることになる。
しかるに、冒頭でも示したように、千葉神門は奈良の地に本部を置く纏向連合に属しているのだから、この奈良の纏向に倭国の都の地である邪馬台国を置く邪馬台国畿内説はそもそもが成り立たないことになる。
このようにみると、倭人伝の東渡海千余里にある倭国に属さない倭種の国とは、北部九州の倭国から千里ほど東の河内や奈良あたりにあったとする理解が正しいといえるのである。
倭 >>86
>「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径百歩(140m)の(円)冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
カラクリなんてない。
明帝の「征伐四千里」で1里≒76.5m(1歩≒25.5cm)の短里や短歩を使っているし、
郡の役人や魏使らも、韓や半島で短里を使っており、
1里≒76.5m(1歩≒25.5cm)は、魏朝の使用度量衡。 >>113
梁書であっても、台与の後の「複立男王並受中国爵命」は、崇神で間違いないだろ。
爵位を受けている以上、朝貢したわけで、最後の朝貢記録は266年なんだから、それが崇神の可能性もあるよんw >>117
しかるに、博多では3世紀前半に前方後円墳を造っているのである >>87
>・・・つまり箸墓の築造年代は3世紀第4四半期(275-300)。
間違い。
卑弥呼の墓は「冢」であって前方後円墳ではなく、
前方後円墳は、壹與の次の王墓である那珂八幡などが始まりであり、
大和の庄内1の石塚などは那珂八幡の「進化型」であるから、3世紀末であり、
更に進化型である箸墓は布留1であるから、4世紀になる。 >>117
前方後円型の墳丘墓を造っだからといって纏向連合の一翼だとは限らないし、
東千余里は単に倭人からの伝聞を元にアバウトに言ってるだけだろ
実際は伊勢から海路で五百里くらいの場所が狗奴国の都だから五十歩百歩 >>123
その纏向連合って何だよ?
妄想ベースで意見すんなよ >>124
あれ、纏向から地元の土器のほかに多数の外来土器が出てるし、それらの土器は各地から人が来て大墳丘墓や祭祀所をつくっていたことの証だとされているよ。
つまり、そうした各地の国が寄り集まって纏向に部族連合の本部を置いていたというのが考古学の知見だな。
その部族連合の本部のあったのが纏向なので、その部族連合を纏向連合と勝手に名付けているだけ。
妄想どころか、考古学の世紀の発見だよ。
知らんのか。 首尾一貫、倭人伝と記紀を理路整然と説明出来るのは「阿波」だけ。 トンデモ説では出来る訳もない。
出来るのは願望的妄想だけ。 わははははは @阿波 >>126
それを纏向連合と呼ぶ妄想のことだよ
強いて言えば吉備連合だろ馬鹿 >>126
>つまり、そうした各地の国が寄り集まって纏向に部族連合の本部を置いていたというのが考古学の知見だな。
各地の「忌部はん」 が寄り集まっただけのこと。 「纏向連合」? 大の大人がアホかいな。 @阿波 >>123
前方後円墳がヤマト政権の傘下に入っていることを示す物件だというのは、古代史の定説だし。
そのヤマト政権の極初期に前方後円墳の前身に当たる前方後円型墳丘墓がやはり纏向につくられていて、
これと同じ形の墳丘墓を造った地方政権はヤマト政権の初期に連合に加盟した国だというのが定説だよ。
神門は、その極初期の連合加盟国だとされているの。
関東はそれまで尾張の前方後方型の墳丘墓を造っていて、沼津の盟主墓も前方後方墳だ。
こうした前方後方型墳丘墓が広まっていた関東に、3世紀前半になると突然奈良の纏向に作られた前方後円型の墳丘墓と同じものがが神門で作られるのだから、
神門が奈良纏向の連合政権に加盟したことが分かるのよ。
久努はクノだからなぁ。
狗奴国=クナ国とは別だろう。 >>128
この纏向連合の最有力国は、初期には尾張と吉備。
しかし、吉備は河内が連合に入ってくると、スネて引いて行く。
その後、吉備にはその怨念が残って、ずっとヤマトに意地を張るようになる。 >>130
狗奴国はクノコクという発音が魏のメインの発音だぞ
ズバリ久努国じゃん >>101
>266年に晋に朝貢したのは女王だから台与
だから箸墓は台与陵になり、台与=百襲姫
「台与」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であり、
壹與なら、倭國の女王であるから北部九州の女王であり、
だから、「箸墓=壹與の墓」も、×。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 宣伝係をバイトの奥山に任せたばかりに信者を一気に失ってしまった畿内説あわれ 前方後円墳とは天円と地方で尚且つ水が無いとな。何れにしろ箸墓のような物は漢尺であり正史位は読んでいる環境の者がいなけりゃ造れん。 >>105
>西晋の文部官僚陳寿が280年頃編纂した魏志倭人伝には、4人の倭王が記されている。
@卑弥呼A男王「国中不服」B台与C男王「受中国爵命」
魏志倭人伝には「台与」なんて書かれておらず、
男王「受中国爵命」も書かれていないから、×。
>266年の朝貢はC男王だったということ(じゃないと陳寿は「複立男王並受中国爵命」と書けない)。
「複立男王並受中国爵命」は陳寿が書いたのではないし、
晋書では男王か?女王か?は書かれていないが、
書紀が神功紀にはめ込んでいるから、日本で「女王だった」という記憶の方が多かったようだし、
梁書が「復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命」と書いており、
「複立男王並受中国爵命」というように、わざわざ「男王」と言ったという事でも、
その文の筆者も266年の遣使の時は女王であった、と認識していた可能性が高いから、
その女王としては、壹與の事を考えていた、という可能性が高い。
>つまり崇神であったということだ。
つまり、×だ。 >>130
>こうした前方後方型墳丘墓が広まっていた関東に、3世紀前半になると突然奈良の纏向に作られた前方後円型の墳丘墓と同じものがが神門で作られるのだから
長ったらしく仰々しく書かなくとも、「忌部はん」 が関東へ進出しただけのこと! 簡単明瞭。 @阿波 >>113
>だから定説通り、266年に晋に朝貢した女王は台与で正しい
「台与」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×である。
>ゆえに箸墓は台与陵で、台与=百襲姫で何ら矛盾しない
箸墓説は「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」に矛盾するから×であるし、
箸墓は布留1なので4世紀であるから、卑弥呼の墓にも壹與の墓にもならず、×である。 >>132
>この纏向連合の最有力国は、初期には尾張と吉備。
尾張忌部と吉備忌部。 @阿波 >>116
>卑弥呼=宇那比姫が249年頃に崩御して黒塚古墳に葬られる
その後の男王が卑弥呼の甥の孝霊天皇で15年くらいで国中不服の内紛に巻き込まれて
山背で戦死して椿井大塚山古墳に葬られる
その後に孝霊天皇の娘の台与が大王になり、266年に晋に朝貢して3C末に崩御して
箸墓に葬られる その後の男王が崇神天皇と
これが今のところ分かる限界かな
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、
×である。 >>144
この時期、阿波には前方後円型の墓はないし〜。
阿波からは、土器職人が営業にあちこち出回っていたけどなぁ。 >>117
>千葉の神門は、奈良の纏向の地に本部を置く纏向連合の最初期からの加盟国。
なぜそれが分かるのかというと、神門では3世紀前半に前方後円型の墳丘墓を造っており、纏向連合の一翼を担っていたことが分かっているからだ。
ダメだ。
千葉も纏向も、九州倭國の「東征毛人五十五國」で征服され獲得された地であり、
それらの地の前方後円墳は、いずれも、
九州倭國の那珂八幡などの前方後円墳型の模倣や進化にしかならず、
3世紀後半半ば過ぎ以後の墓だ、という事になる。 >>148
>この時期、阿波には前方後円型の墓はないし〜。
発祥地の「阿波」に無い訳ないだろ。 ヤケクソか? わははははは @阿波 >>146
忌部阿波本部から纏向に来るのはそのあと河内、紀伊に紛れてじゃな〜いの。
あるいは、土器職人に化けてやってきていたのかもな。 >>150
あれ、那珂八幡は三角縁が出てるとされるから、せいぜい3世紀後半だろう。 >>119
>梁書であっても、台与の後の「複立男王並受中国爵命」は、崇神で間違いないだろ。
爵位を受けている以上、朝貢したわけで、最後の朝貢記録は266年なんだから、それが崇神の可能性もあるよんw
大和の崇神は、三道将軍らを記録してあるから、
九州倭國の「東征毛人五十五國」の征服軍に「協力し参加した」可能性が高く、
大和に建設された最初の前方後円墳の石塚が3世紀末であるから、
崇神も、3世紀末頃の人間であった可能性が高い。 >>123
>前方後円型の墳丘墓を造っだからといって纏向連合の一翼だとは限らないし、
東千余里は単に倭人からの伝聞を元にアバウトに言ってるだけだろ
実際は伊勢から海路で五百里くらいの場所が狗奴国の都だから五十歩百歩
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里」は、
「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の陸路の「參問倭地」の里数が、
それまでの記載事実とぴったり一致しており、
魏の役人らの実地での見聞移動距離であった事を示している事になる。 >>151
あの萩原の石積み墓は、東瀬戸特有の突起付き円墳。
円墳なのよ。突起は参道。
まあ、吉備の双方中円墳の二つの参道のうちの一つを取り除いたものと考えればOK。 「邪馬台国は別府温泉だった」 日本史最大のミステリーに新説
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1600137205/
距離・方向ともに魏志倭人伝の記述とぴったり一致するのです 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1600091221/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>157
纏向の前方後円型の墓のルーツは、阿波じゃありませんから〜。 >>144
神門の墓を造ったのは、地元部族だろうな。
忌部はんは、墓造る技術指導に行っただけ。 >>161
>忌部はんは、墓造る技術指導に行っただけ。
関東の土民も、朝鮮半島の先住民も、九州の土民も、畿内の土民も、倭国(阿波)の先進文化の移入を喜び受け入れ、尊敬し、「忌部一族」を王と仰いだ。 @阿波 >>155
その時期、関東は全域で前方後方型の墓が広まっていた中で、千葉の神門だけが纏向に現れた前方後円型の墓と同じもの造ったのだから、これはやはり纏向の指導があっと考えるのが筋。 >>163
>これはやはり纏向の指導があっと考えるのが筋。
それはつまり、「忌部はん」 の指導ってこと!
仰々しく書かなくとも、「忌部はん」 が関東へ進出しただけのこと! 簡単明瞭。 @阿波 >>164
夢が見られるのは君のようなトンデモ信者。
古墳の構造(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を目の当たりにして、
関東の土民も、朝鮮半島の先住民も、九州の土民も、畿内の土民も、倭国(阿波)の先進文化の移入を喜び受け入れ、尊敬し、「忌部一族」を王と仰いだ。 @阿波 >>153
>あれ、那珂八幡は三角縁が出てるとされるから、せいぜい3世紀後半だろう。
それは第二主体部 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>126
>あれ、纏向から地元の土器のほかに多数の外来土器が出てるし、それらの土器は各地から人が来て大墳丘墓や祭祀所をつくっていたことの証だとされているよ。
つまり、そうした各地の国が寄り集まって纏向に部族連合の本部を置いていたというのが考古学の知見だな。
ダメだな。
実態は、纏向は、九州倭國の東征毛人五十五國の征服軍の一拠点であり、
九州倭國の地方の市を監督した「大倭」職の地であるから、周囲からの土器が集まったのであり、
更に、征服した毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を生口や守墓人にして巨大墓を造らせた、
という事だ。
>その部族連合の本部のあったのが纏向なので、その部族連合を纏向連合と勝手に名付けているだけ。
妄想どころか、考古学の世紀の発見だよ。知らんのか。
部族連合ではなく「地方の市」があったんだよ、知らんのか?。 >>128
それを纏向連合と呼ぶのは妄想だよ
強いて言えば、九州倭國の「東征毛人五十五國」連合だろう?、馬鹿 >>130
前方後円墳が、
九州倭國の「東征毛人五十五國」の征服軍の傘下に入っていることを示す物件だ、
というのは、古代史の常識だし。
その九州倭國の東征の極初期の前方後円型墳丘墓の那珂八幡などと、
同じ形の墳丘墓を造った地方政権は、「東征毛人五十五國の諸国だ、というのが常識だよ。
神門は、その極初期の「東征毛人五十五國」の支配地だとされているの。
また関東では、それまで吉野ヶ里の前方後方型の墳丘墓を造っていて、
沼津の盟主墓も前方後方墳だ。
こうした前方後方型墳丘墓が広まっていた関東に、3世紀末になると、
新たに筑紫の那珂八幡部族の「東征毛人五十五國」の征服軍が到着し、
那珂八幡などの前方後円型の墳丘墓と同じものがが神門で作られるのだから、
神門も、九州倭國の「東征毛人五十五國」の連合政権に加盟したことが分かるのよ。 >>132
>この纏向連合の最有力国は、初期には尾張と吉備。
しかし、吉備は河内が連合に入ってくると、スネて引いて行く。
その後、吉備にはその怨念が残って、ずっとヤマトに意地を張るようになる。
いや、元は出雲銅鐸祭祀部族の一国であった吉備や讃岐や阿波は、
九州倭國の東征軍に先に征服されて、播磨以東への東征軍に参加し、
東征軍の主力は、摂津や河内や山城や近江から東海へ進み、
東征軍の別動隊が、丹後方面に行ってそこに留まるものもあれば、
阿波や淡路や紀伊や大和へ入って、それぞれで一地方政権や市を造るものもあった。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>163
その3世紀後半の時期、
関東は全域で前方後方型の墓が広まっていた中で、
千葉の神門だけが吉野ヶ里に現れた前方後円型の墓と同じもの造ったのだから、
これはやはり九州倭國の「東征毛人五十五國」の将軍らの指導があった、
と考えるのが筋。 >>167
墳形はホケノ山にそっくり。
ウィキが八幡は3世紀中頃としているように、
ホケノ山の直後頃に作られたのだろう。
それ以上古いことはないと思うね。 >>174
吉野ケ里は前方後方墳でね〜か?
3世紀後半とあるぞ。 >>173
沼津までの距離は、鳥羽から約200km。
千葉神門までは約400km。
なので、久努までは神門の半分の距離だから、里では五百里になる。
ということは「いくらなんでも、五百里のところを千里とは書かんだろう」ということになるね。 >>177
伝聞だけで書いてるから間違えてるだけだろ >>177
訂正
東千里の倭種の国と狗奴国をいっしょくたにしていた。
173は、なかったことにしたい。 女王国東渡海倭種で狗奴国は南であり對海一大共に卑狗で狗古智卑狗だから河内だよ。東の毛人相手に張政は檄せんよ >>169
市は、纏向が開かれる前からあったのよ。
唐子・鍵の邑で作った物や外から持ち込まれたものを取引する場所。
西は吉備から、東は伊勢・東国から物品が持ち込まれていた。
そんな奈良の一角に纏向の祭祀所が開かれて、また墓も造られたわけ。
元から人の行き来があったところなのよ。 >>97
>魏(220-265)の薄葬令から考えても、真の崇神(266年西晋朝貢)陵である可能性が高い。
崇神陵墓は古事記の記述からも、時代からも行灯山古墳の可能性が一番高い。
箸墓はその前時代、山城の五塚原古墳や交野の雷塚古墳と強い結びつきが想定される事から、
神班物者(かみのものあかつひと)こと伊香色雄命(いかがしこおのみこと)であろう。
伊香色雄の妻・真木媛の父親が長溝(山代国造の祖)、
伊香色雄と真木姫の子・タベノ宿禰が交野連であるから、
時代も地域性も一致する。 >>174
>千葉の神門だけが吉野ヶ里に現れた前方後円型の墓と同じもの造ったのだから、
神門のほうが古いよ、ハゲ ♪ 其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
2世紀末に卑弥呼が共立されたとして、倭國亂は2世紀後半〜末、
ちょうどそのころ、大和に瀬田遺跡に見られるような前方後円形の周溝墓が誕生し、
その後、纏向に前方後円墳が造られていきます。
この前方後円墳勢力の大和入りが倭國亂の原因ではないでしょうか。
前方後円墳のルーツは東瀬戸内のようですから、
播磨や讃岐の勢力を伴って大和入りしたニギハヤヒ、
その末裔のイカガノイシコメからミマキイリヒコこと崇神が生まれ、纏向に宮を構えてますから、
前方後円墳勢力とは物部であり、
神武はそのニギハヤヒを屈服させてますから、神武は倭国乱を終わらせた人物という事になりますでしょう。
それは2世紀末に環濠集落が終わり、緊張が解けて平和な時代が来て、
土師器が生産され、その土師器が全国に画一的に拡散されていく、
つまりその土師器の震源地である大和に卑弥呼がいた、
その卑弥呼の時代と倭国乱を終わらせた神武の時代が一致するわけです。
夫(=王配)の神武に先立たれた卑弥呼の姿が「歳すでに長大 夫婿なし」というわけです。 伊勢湾より東を一元的にみて、やれ女王国と敵対していただの言っても仕方ない。
纏向遺跡の搬入土器に関東の土器もあるのだから、
関東のどこか一部がすでに纏向連合に加わっていたということであろう。
おそらく高尾山古墳のある沼津、神門古墳群のある千葉、といったところであろう。
土器の胎土を研究すればいずれ分るであろう。 それにしても、おかしな話ばかり。
ラン科の植物もあったような・・・、すとーかーがいるのかな?
『オジギソウ 漫画』このような作品も? あとエビネ(ラン科)、ユリ?
一時期、そういうのもあった。 おかしな話ばかりだろう、
『西王母』ガンダムのような作品とかw 確実に、
そういう漫画などもなかった頃の写真だと言っているんだけど、
すとーかーだろう?
老婆が、創価に入ったからなのかな。 そういう植物があるという事なども、
家の人間か、親戚くらいしか知らない。
それとも近所に、おかしな人間が住んでいたのかな? >>186
>関東のどこか一部がすでに纏向連合に加わっていたということであろう。
海の無い山奥で、ジメジメした湿地帯の奈良盆地に「邪馬臺国」の王都など興る訳がない。
少し常識を働かせば簡単に分かりそうなものだがw @阿波 チンピラのような人間は、
漫画、アニメばかり観ていると言っている人もいたしな・・・。 何やら団体、右翼左翼?
そういう団体があるんだけど、漫画やアニメばかり観ているんだよなwとか。 だから言っているだろう『チェーンソー ゲーム』
どらごんぼーる、北斗の拳、何やら、???、???とか。 『クラマ・キッド・テングテング』
『オジギソウ 漫画』同じ存在なのかな? 『オジギソウ 漫画』
浦島太郎(髪の毛の色?)、・・・同じ存在なのかな? >>196
纏向遺跡の搬入土器に関東の土器もある。
これは動かせない事実。
このような事実無視するのはzarakoku並みの脳みそ。 『カードダス シャア』『』『』『猫神やおよろず』なども同じ。 >>204
>纏向遺跡の搬入土器に関東の土器もある。
関東忌部も古墳造営に参加しただけのこと。
纏向遺跡は「古墳造営前線基地」なんだから、当たり前。 わははははは @阿波 箸墓はその後を統治していく連中の者で計算されたしかも単位は漢尺なの。箸墓以前に前方後円墳があったあったはいいけどそれはどれとどれでどう造られた物だよ。やがて箸墓はいいけど中華を学んで知ってなければ箸墓は造られてないの。 記紀は大体この時を出発点にしてる皆似た連中で何役も同じ役者がこなしてるような気がしてんだけど、箸墓の南にイワレがあるのが面白いと思うだよね。 誰の話なんだろう、
本来ならイルミ、メーソン?とか、
宇宙に行ったり出来るような家なんだけど・・・何やら? じゃあ誰が意味も無く円墳と方墳を合わせたようなもんを造りだしてたまたま漢尺に合うようになった上に 信者が増えてくようなもんを説明してよ 成り済まし、騙り、
家を乗っ取られたのかな、冤罪事件? 確実に池沼の話だろう。
漫画、アニメ・・・ゲームばかり作っていたり、
調べてみると、ほとんど冤罪のような話、そういうキャラがいる。 ほとんど同じキャラクター?
ガンダムなども冤罪のような話でしょ。 『』『』・・・『』なども冤罪の話。
『ザ・モモタロウ』も同じ、冤罪。 例えば『猫神やおよろず』
>神界で問題を起こしたために、
>母親から神力を剥奪された上に実家の高天原から追放の身となった。
冤罪の話。 前方後円墳の向きがめちゃくちゃなのは宗教国家ではなかったという証拠だ 纏向は王都じゃないよ。威信財皆無の出土品(労働者の鍋=土器)も古墳造営基地そのものw 北部九州は、日本のローマ帝国か!?ってくらい大量の威信財と、地層全体が真っ赤に染まるほど鉄がザクザク出て来るのに、
纏向は大型建物と木製仮面と桃の種と大量の土器しか出てこない…鉄はすべて古墳の副葬品のみ。
つまり王都は北部九州にあり、纏向は王家の谷だってこと。 >>225
妄想だな
九州説の人の感想はいつも
専門家の分析と逆だ
w >>227
九州説がいかに現実を見ず願望のみ語るか
という実例がここに 仁徳天皇の時代はほとんど河内平野の治水開墾作業だからな >>163
>その時期、関東は全域で前方後方型の墓が広まっていた中で、
当然、北部九州の吉野ケ里や奴國系の前方後方墳部族の「東征毛人五十五國」軍が、
関東に入って支配した時期があった、という事を示すだけ。
>千葉の神門だけが纏向に現れた前方後円型の墓と同じもの造ったのだから、
これはやはり纏向の指導があっと考えるのが筋。
当然、那珂八幡などの天孫族系の「東征毛人五十五國」の「前方後円墳」部族の征服軍が、
関東に入った事を示すだけ。
九州倭國の「東征毛人五十五國」軍の主力は、別動隊の纏向到達よりも早くに近江に入って、
在地部族との混合遺跡を造っており、
その部族の関東到達が、纏向経由での関東到達の軍よりも早い。 >>231
>225
>王都だった時期もあるだろ
そういうことだ、立派な王都であったことは間違いない。
しかし残念なことに、それは三世紀でなく、4世紀以降のことだったのだよ。 >>175
>墳形はホケノ山にそっくり。
ウィキが八幡は3世紀中頃としているように、
ダメだ。
筑紫付近に於ける「3世紀中頃」は、卑弥呼の「冢」の時代であるから、
前方後円墳の那珂八幡は×であり、
更に266年過ぎ頃にモンゴルや高句麗の前方後円墳を知ったかの知れない壹與には、
「玉と鏡」の墓である平原1号があるから、
そのWikiの前方後円墳は×であり、前方後円墳は、まだダメだ。
>ホケノ山の直後頃に作られたのだろう。それ以上古いことはないと思うね。
ホケノは、3世紀最末〜4世紀の墓だから、×だ。 >>234
>しかし残念なことに、それは三世紀でなく、4世紀以降のことだったのだよ。
間違い! 8世紀以降。 @阿波 >>181
>女王国東渡海倭種で狗奴国は南であり對海一大共に卑狗で狗古智卑狗だから河内だよ。東の毛人相手に張政は檄せんよ
何だか意味不明な文だが、「狗古智卑狗だから河内だよ」は、×だよ。 >>235
>ホケノは、3世紀最末〜4世紀の墓だから、×だ。
俺様の結論しか言わない、理由を言わない九州説は、×だ。 >>182
>市は、纏向が開かれる前からあったのよ。
唐子・鍵の邑で作った物や外から持ち込まれたものを取引する場所。
西は吉備から、東は伊勢・東国から物品が持ち込まれていた。
そんな奈良の一角に纏向の祭祀所が開かれて、また墓も造られたわけ。
元から人の行き来があったところなのよ
古事記の(崇神以前の)「欠史八代」の中の4人にだけ、
その称号に「大倭(地方の市を監督する役人)」の文字が冠せられており、
従って、神武東征で大和に拠点を造った後の、
4人だけが「九州倭国から、市を監督する大倭職を命じられた」事になる。
そして、崇神の頃から、大和は、
九州倭国の「東征毛人五十五國」や三道将軍らに参加合流して、
征服獲得した毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を生口や守墓人にして、
前方後円墳も造り出したんでしょうね。 >>184
>>千葉の神門だけが吉野ヶ里に現れた前方後円型の墓と同じもの造ったのだから、
>神門のほうが古いよ、ハゲ ♪
神門は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の征服軍が伝えたんだから、
筑紫の前方後円墳の始まりの那珂八幡などよりも古くはならないんだよ。 学問の場では反日活動集団である土台人古田一派は除外(相手にされていない)されています。 >>243
このように九州説は宗教です
絶対に帰納をしません
確率も考えません .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>185
>・・・この前方後円墳勢力の大和入りが倭國亂の原因ではないでしょうか。
ダメです。
倭國亂は、「ほぼ九州島付近」での亂であり、
倭王武が上表文で書いた「西服眾夷六十六國」が大体該当し、
「舊百餘國」が「今使譯所通三十國」になったのも、
六十六國が征服されて減少した、という事で大体説明が出来、
「前方後円墳勢力の大和入り」は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の征服軍の話です。 前方後円墳を造り出したんでしょうね?が曖昧すぎる表現だね、説明になってないんですよ、造った連中がどのような者できっかけが必要なの。だから最初は266年以前に無いだろ?と言ったわけで箸墓が以前なら当然天円地方を理解した連中が居たということであり漢尺も知ってなきゃならない訳、4世紀以降ならそれは晋の即位北に環丘南に方墳その中心に司馬炎を観た辟邪狗らの流れが考えられると言ったの。 >>231
>王都だった時期もあるだろ
そういうことだ、立派な王都であったことは間違いない。
しかし残念なことに、それは三世紀でなく、4世紀以降〜のことだったのだよ。 >>250
>しかし残念なことに、それは三世紀でなく、4世紀以降のことだったのだよ。
8世紀の大和朝廷以降。 @阿波 >>243
>>>千葉の神門だけが吉野ヶ里に現れた前方後円型の墓と同じもの造ったのだから、
>>神門のほうが古いよ、ハゲ ♪
>神門は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の征服軍が伝えたんだから、
筑紫の前方後円墳の始まりの那珂八幡などよりも古くはならないんだよ
話をすり替えるな、吉野ヶ里の前方後円墳の話なの。
それが神門より古くはならないと言ってるわけ。 阿波先生極端過ぎるでしょ、忌部はんは連で物部の子分でしょ >>250
>しかし残念なことに、それは三世紀でなく、4世紀以降〜のことだったのだよ。
なにひとつ理由を言わない九州説
それは、おかしな宗教
w >>186
>伊勢湾より東を一元的にみて、やれ女王国と敵対していただの言っても仕方ない。
纏向遺跡の搬入土器に関東の土器もあるのだから、
関東のどこか一部がすでに纏向連合に加わっていたということであろう。・・・
「纏向連合」という奇妙なインチキ文言を造作した時点で、間違いであり、×。
纏向は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
地方の市を監督する「大倭」職の、旧小国の一つであったのであり、
連合を形成したのは、九州倭國なの。 >>204
>纏向遺跡の搬入土器に関東の土器もある。
これは動かせない事実
纏向への「重たい土器の搬入」は、「地方の市」での交換や商いが、中心的な意図。
それは動かせない実態。 >>253
「忌部一族」とは、衰退した平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部氏(斎部)ではない。
倭人とは「忌部一族」(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
みんな元を辿れば全部、「忌部一族」=「倭人」。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「忌部一族」。
忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 >>253
「忌部一族」とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の衰退した忌部氏(斎部)ではない。
倭人とは「忌部一族」(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
みんな元を辿れば全部、「忌部一族」=「倭人」。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「忌部一族」。
忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 >>208
>箸墓はその後を統治していく連中の者で計算されたしかも単位は漢尺なの。
箸墓以前に前方後円墳があったあったはいいけど
それはどれとどれでどう造られた物だよ。
やがて箸墓はいいけど中華を学んで知ってなければ箸墓は造られてないの。
新井さんに拠れば、箸墓などは「古韓尺」の使用。 ブタくせえボルネオくせえハッカク臭と萬金油のニオイが立ち込めてきましたな
実にセロくてハノハノしい >>260
キナイコシだって無職だろ?
俺は素人じゃない専門家だと言い張るなら定職についてからにしなよw To 奥山(畿内越)
日本国に納税している者が「日本人」です。 >>242
北部九州東遷説はうわごと。
南九州から来た神武に影響されすぎ。 キナイコシがいつまでたっても無職のままでいる理由が判明!
【学生減】考古学就職スレ【募集増】
2出土地不明2011/11/28(月) 04:52:13.46ID:LKl0KTwV>>25
FAQ
公務員ならコネ効く?
昔はきいた。今は微妙。
地元有力者レベルはほぼない(そんなもんがある奴は考古学なんかで就職しない)し、最近は論文歴や実務経験重視も多い。
口利きレベルならまああるけど、一次突破できなきゃ終わり。むしろ嘱託で人格を知られることにより、そこでは就職できないことも。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1322423510/
嘱託で人格を知られることにより、そこでは就職できないことも←注目!! >>256
その市での交換物が、ただっ広い人気のない墓域でたくさん出るのか。
七不思議の一つに入るかもな。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>228
妄想だな
大和説専門家の人の感想は、いつも
史料批判され分析された史料事実や、史料実態とは、逆だ 阿波から出発したヤマトタケルが全国戦い歩きの旅をやった説もあるからな >>271
>阿波から出発したヤマトタケルが全国戦い歩きの旅をやった説もあるからな
全国じゃないよ。 せいぜい東四国内だよ。 @阿波 日本武尊が東国遠征で狗奴国=久努国を滅ぼしたんだよ >>229
大和説や大和説学者らが、いかに史料事実や、史料批判された史料実態の現実を見ず、
嘘つき騙しの願望のみ語るか、
という実例がここに >>221
>(纏向)王都だった時期もあるだろ
九州倭國の「東征毛人五十五國」の中の、
九州倭國の別種分家の附庸國の「地方の市を監督する大倭職の旧小国として、
王都だった時期もある。 >>241
>モンゴルに古墳あったか?日本以外で古墳あるか?
>墳丘墓くらいだろあるの
>前方後円墳なんてないけどな
Yahooの議論で、
「検索大王」と呼ばれ、知能指数が200だったと言っておられた、
mutouhaというネームのお方が、
モンゴルの前方後円墳の図面や画像を何度も提示掲載されていた。 金海金氏の成立おもしろいな😬
首露王と許 黄玉(インドのサータバーハナ王朝の姫)から始まるんだな >>244
国民や世界の学問の場では、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者ら一派は、
極端な人種差別戦争極右の皇国史観の人種である事が明らかであり、
除外(相手にされていない)されています。 >>276
日本国民や世界の学問の場でも、
自己PR知能指数200の者がYahooで図面や画像を提示していたというような根拠は通用しない >>245
このように、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説は、極右殺戮戦争狂の宗教です
史料事実からの帰納も殆どしませんし、
確率的推論も考えません 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>254
なにひとつ史料事実的な理由を言えず、
ヘイトスピーチ的な口先攻撃で、国民を騙そうとする大和説
それは、おかしな宗教 キナイコシは偉そうなことばかり言っているが、こいつは無職の負け組ジジイ
自分は専門家だと言い張っているが、そんな主張はそれ相応の定職についてからすべき
現状ではキナイコシは古代史愛好家のど素人ジジイでしかない
まさか学会に入っているだけで専門家と認知してもらえると思っているわけじゃないだろうね? >>282
アンカを見れば嘘と解る愚かさにあきれる
そうやって嘘をついて
罵るだけの九州説に信用はゼロだ >>284
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの投稿を見れば、
嘘と解る愚かさにあきれる
そうやって嘘をついて
罵るだけの大和説は、信用はゼロだ スレ主=キナイコシ=奥山の連携プレーで崩壊した畿内説あわれ 神武天皇が掛けた日本不滅の呪い。世界最長国、日本の作り方。詳細編 EP2
https://youtu.be/k1zigBoe0tQ >>113
>ゆえに箸墓は台与陵で、台与=百襲姫で何ら矛盾しない
名前が全然似ていない。
せめて最低限「トヨ〇〇」とか、イヨなら「イヨ〇〇」でないとな。
何が何ら矛盾しないだ、この馬鹿。 >>289
だから、
「卑彌呼」とは「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
「男弟」とは「月読尊」
「卑彌弓呼」とは「須佐之男命」の3兄弟。
「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 だと、何度言えばw @阿波
>>289
ひとりが複数の名前を持つことなんてザラにあるから
矛盾でも何でもない >>276
>Yahooの議論で、
>「検索大王」と呼ばれ、知能指数が200だったと言っておられた、
>mutouhaというネームのお方が、
>モンゴルの前方後円墳の図面や画像を何度も提示掲載されていた。
じゃあ何度も出されたんなら
その正確な位置や遺跡の名称
取得した画像を出せ馬鹿者
「〜されていた」じゃあ何の根拠にもならんわゴミクズ
で、IQが200ってそいつの自称か?w
まあIQは120以上だとアドバンテージは薄れ
結局如何にその分野に精力傾けて努力したかが物を言うらしいがwww
ちなみに有名な物理学者のファインマンはIQが120程度だったという
本当九州説(一部畿内説にもいるが)肝心なところじゃソースを出さない >>291
> ひとりが複数の名前を持つことなんてザラにあるから
スレ主=キナイコシ=奥山
w >>289
馬鹿はおまえ
台与は諱で倭迹迹日百襲姫命は字だろうが
それくらい分かれよ中卒パッパラパー >>290は泡バカかな?
>これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 だと、何度言えばw @阿波
まだこいつ与太振りまいてるのか?
こいつに限らずアマテラ・ツクヨミ・スサノヲの三貴神を
やれ卑弥呼だ何だと当てはめて悦に浸るアホは多いが
例えばスサノヲが高天原で暴れて
アマテラスと敵対した場面は自分の与太に合致するから
好んで取り上げるが
高天原を追放され下界で
美姫アンドロメダを救うペルセウスの如き活躍をする
英雄譚の部分はスルーするんだよなwww
この手のアホにとって
神話は都合の良い所を都合よく解釈する
おもちゃに過ぎないwww >>292
>>Yahooの議論で、
「検索大王」と呼ばれ、知能指数が200だったと言っておられた、
mutouhaというネームのお方が、
モンゴルの前方後円墳の図面や画像を何度も提示掲載されていた。
>じゃあ何度も出されたんならその正確な位置や遺跡の名称
取得した画像を出せ馬鹿者
私は、「モンゴルに前方後円墳が存在した」という事実が判れば、それで十分。 >>291
>ひとりが複数の名前を持つことなんてザラにあるから
矛盾でも何でもない
だからモモソヒメの複数の名前にトヨまたはイヨがあるのかと聞いてるのだが。
おまえ頭悪いだろ。 >>296
>モンゴルの前方後円墳
どっかで見たことあるぞ >>296の小変更
>>Yahooの議論で、
「検索大王」と呼ばれ、知能指数が200だったと言っておられた、
mutouhaというネームのお方が、
モンゴルの前方後円墳の図面や画像を何度も提示掲載されていた。
>じゃあ何度も出されたんならその正確な位置や遺跡の名称
取得した画像を出せ馬鹿者
私は、「モンゴルに前方後円墳が存在した」という史料事実や史料実態が判れば、
それで十分。 >>295
卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」
記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。
なお、魏志倭人伝に云うところの「更立男王」は、須佐之男命。
出雲狗奴国王「須佐之男命」 の息子「大国主命」は、卑彌呼宗女「壹與」と同世代である。
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 だと、何度言えばw @阿波 >>283
>キナイコシは偉そうなことばかり言っているが、こいつは無職の負け組ジジイ
>自分は専門家だと言い張っているが、そんな主張はそれ相応の定職についてからすべき
この「キナイコシ」なんて語を使ってる基地外爺って
九州王朝説の残党だっけ?
こいつもまだ生きてたんだ・・・
そもそも自身を専門家って言うのは九州説(九州王朝説含む)
と言うか専門家=プロの学者を相手にして在野の好事家が一発逆転
世に名を知らしむる・・・という夢で市井のマニアを釣りまくったのが
かつての「邪馬台国ブーム」
その成功者?が宮崎康平であり
松本清張もいくら弁が立つとはいえ史学に関しては
基本門外漢
コンプレックス・ルサンチマン或いは名声欲etcで
「専門家」にご就寝なのが九州説の爺どもwwww >>288
連日昼間っから荒らしてる九州説の方がよほど無職に見えるよ 前方後円墳は東瀬戸内発祥で決着していて、
モンゴルだ高句麗だを出されても今時誰も納得しない。
偶然、前方後円墳に似るということなら沖縄の確か久高島遥拝所なんかも似てはいる。
しかし時代が全然違うし、
極端な例でいえばストーンヘンジも上から見たら前方後円墳に形が似ている。
勿論偶然。 >>297
諱まで文献に書き残されてるヤマト王族って神武天皇くらいしかいないよ
それと三国志に諱を書き残された倭迹迹日百襲姫命なw
この二人だけ >>300 泡バカ
まあなんでギリシア神話のペルセウス出したか
意味わからんのだろうがw
つまみ食いして繋ぎ合わせた
お前のコラージュなんぞ全く意味がない
似たようなことほざくやつは
数え切れないほどいた
もうお腹いっぱい
泡説は泡スレでやれゴミクズ
(今ないのなら自分で立てろ) >>306
>まあなんでギリシア神話のペルセウス出したか
>意味わからんのだろうがw
おまえも意味わからんのだろうがw わははははは @阿波 >>304
そういえば「形が似てる」といえば
多摩ニュータウン遺跡(だったか)で住居跡が
まるで前方後円墳みたいなのがあったなw 卑弥呼=アマテラス説は、アマテラスの別命がオオヒルメだから、
このヒルメがヒミコを匂わすと言う事で、一応説として成り立つ。
俺は支持しないが。
ところがモモソヒメがトヨだと言い切って、トヨを匂わす別命を言えないというのは、
君が頭が悪い証拠。 諱の他に幼名というのもあるからもう訳分からんな
幼名、諱、字と名前が3つくらいあると思っといた方がいい >>309
>卑弥呼=アマテラス説は、アマテラスの別命がオオヒルメだから、
そのオオヒルメを祀る唯一の神社が、
天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」。
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われている。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」 @阿波
「天石門別八倉比賣神社
https://bqspot.com/shikoku/tokushima/569 まあ遺跡の平面プランで○と□が組み合わさったものを
前方後円墳だなんて言ってたらきりが無い
段築や葺石・・・等々古墳の構成要素まで
検討する必要があるのはアホでも分かる話
九州説のアホ爺って
エセ科学とか直ぐに騙されそうwwww >>309
幼名が狭野(さぬ)、諱が彦火火出見(ひこほほでみ)、字が神日本磐余彦神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこ)
これ誰か分かるか?
神武天皇だよ
幼名も諱も字も互いに何の関連性もないだろ >>306は、倭国(阿波)に対して、論理的な反論ができないw @阿波 >>276
本物だって証拠は?
それがアンタのデッチ上げでないって証拠は? >>314
>字が神日本磐余彦神日本磐余彦天皇
まあ日向を出立する前にすでに「磐余」ってのが
「お察し」って話wwww
もっとも「九州王朝説」に並ぶ与太「東遷説」なら
その地名も九州から持ってきた話になるんだろうがwww >>303
連日昼間っから、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをして荒らしてる大和説者の方が、
よほど無職に見えるよ 箸墓古墳の後円部の頂上から真東に線を引いて行くと、平安時代につくられた伊勢の斎宮跡にぴったんこつながっている。
ということは、平安時代に天照大神を祀った斎王は、箸墓古墳に葬られた倭迹迹日百襲媛の流れを汲む存在と擬せられていたことが分かる。
そして、その倭迹迹日百襲媛は三輪山の大物主の妻となった女性とされるから、百襲媛に擬せられた斎王が祀る天照大神は男神とみなされていたことが推測されるのだ。
このことは、伊勢の天照大神のために作る神服が男性用のものとされていることと矛盾しない。
では、天照大神が女神として記されている日本書紀や古事記は、現実とは別の架空のバーチャル世界を描いているということになるのだろうか。 書き間違えた
神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)な
台与が大王に即位したのって13歳だろ
台与が幼名なのか諱なのかまでは分からないが、倭迹迹日百襲姫命という字は
この時点ではまだないんだよ >>302
キナイコシって連呼してるのは連句点ひとりだろ
どれも重篤な全一病のひとだから >>318
そんな人がいるのか?
九州説はデッチ上げが多いから証拠出してもらわないと信用できない >>304
>前方後円墳は東瀬戸内発祥で決着していて、
モンゴルだ高句麗だを出されても今時誰も納得しない。
国内の前方後円墳は、
「始めから前方部と後円部の全体が一つの墓だ」として造られていた、
という建設実態があるから、
前方部が円墳の登り台だったとか、祭祀台だったとか言われても、
今時、誰も納得しない。 >>324
それ、またウソ
九州説ってウソ中毒なの? 前方部と後円部が一体となった前方後円墳は、
前の墳丘墓の段階では、陸橋付円形周溝墓だった >>324
陸橋でお祭りをしていて祭祀台へと発展したと言うのが定説 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 天照の元の名が
大日女尊(おおひるめのみこと)やからね 貴(むち)がついて
大日女貴尊(おおひるめむちのみこと)とも言う まあ「燃え盛る太陽」のイメージに近い描写なのは
天孫降臨の場面に出てくる
「嚮導の神」こと猿田彦なんだがなwwww >>324
>前方部が円墳の登り台だったとか、祭祀台だったとか言われても、
>今時、誰も納得しない。
本当こういうの見ると九州説爺が頭悪いと言うか
日本語通じないド低脳なのが分かるわ・・・
そりゃ「前方後円墳」と言われる段階において
前方部と後円部が一体なのは当たり前
登り台とか祭祀台というのはそこに至るまでの経緯の話
ちなみに登り台については真横水平方に見ると
前方部の端がせり上がってるので
仮にスロープだったとしても
既にその意味はなくなり形骸化してると思う >>331
>天照の元の名が
>大日女尊(おおひるめのみこと)やからね
天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」。
御祭神は大日?女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われている。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日?女命」=「天照大神」 @阿波
正一位、延喜式に記録された式内名神大社
「天石門別八倉比賣神社」:徳島県徳島市国府町西矢野 矢野神山
https://sueyasumas.exblog.jp/9415763/
http://www.genbu.net/data/awa2/yakurahime_title.htm >314
>幼名が狭野(さぬ)、諱が彦火火出見(ひこほほでみ)、字が神日本磐余彦神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこ)
これ誰か分かるか?
神武天皇だよ
幼名も諱も字も互いに何の関連性もないだろ
だから何を言ってるんだおまえ。
モモソヒメがトヨだというのなら、上記のアマテラスが別命オオヒルメであるように、
モモソヒメの別命がトヨに近いという例をださなければ説にもならない。
それをしなくていいというならだれでもトヨになりうる。 キナイコシは偉そうなことばかり言っているが、こいつは無職の負け組ジジイ
自分は専門家だと言い張っているが、そんな主張はそれ相応の定職についてからすべき
現状ではキナイコシは古代史愛好家のど素人ジジイでしかない
まさか学会に入っているだけで専門家と認知してもらえると思っているわけじゃないだろうね? >>331
>天照の元の名が
大日女尊(おおひるめのみこと)やからね
そうかなぁ、天照の元の名は高天原(金剛山)にいた「高姫」だと思う。
この高姫を別霊にして一方を天照として神話に、
もう一方を下照にして実性を託したのだと思う。
地元葛城では大倉媛とも呼ばれる。
ちなみにお兄さんが高彦、アジスキ「高彦」ネ、高天原で剣をもって暴れるそのキャラ、
つまりスサノオだ。 箸墓が台与ということは無いね、実績が卑弥呼より劣る。陸橋型の変化意味が違うと思うから違うと思うな >>339
>実績が卑弥呼より劣る。
それは根拠とするには「薄い」と思う
・・・というのは
古墳の大きさ
=被葬者の生前の権力の大きさ
或いは新王の権力の大きさ
という図式が必ず成り立つのかが疑問だから
むしろ求心力の低下を補うべく
力を誇示せんがため巨大なものを作ったという可能性を考える
古来求心力を失った権力者が
大掛かりな事業を起こし一発逆転を
狙うのはパターンかとw >>336
諱が額田部(ぬかたべ)、諡号が豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)
これ誰の事か分かるか?
推古天皇だよ
諱、諡号の間に何の関連性もないね
だから台与という幼名?諱?と倭迹迹日百襲姫命という諡号の間に
何らの関連性がなくても全然おかしな事ではないのである 倭迹迹日百襲姫命というのは死後に贈られた名前=諡号であって、
生前の名前=幼名、諱、字ではないのだよ
台与は生きているときの名前で13歳だからまだ幼名 >>340
頭の中だけで疑問疑問と言ったって説得力ないね
反論したいなら>>341みたいに具体的にしないと 卑弥呼の場合も通説では日女命の当て字とされているけど、本当に生前の諱
(成人後の本名)がヒミコ、ヒメコ、ヒミホ、ヒメホのどれかだった可能性も
存分にあるんだよ
でも記紀や系図で出てくる名前は諡号だから、それ以上探りようがない訳だ
系図に宇那比姫と書かれていても諡号だから生前の諱はウナビではない
本当にヒミコさんだったかもしれないのである かなり前のことになるんだけど書いた。
例えば『わたしの お墓の前で』
私の話だと主張している。 その謎のゲーム。
『北斗の拳』のような話(ネタ)なども出てくるし、
おまえは、もう死んでいる。すでに死んでいる? ほんとーにw誰が作ったんだと思う?あの謎のゲーム。 自分が〜〜(何々、誰々。仏神仙〜、あと聖人?)〜〜になる方法。
みたいな話wスレがあるんだけど。 例えば、
つーちゃんねる(5ちゃんねる)に書き込みをしているだけで、
とくに、これといった活動もしていない「❓」のような家(人物)などもある。 創作、漫画、アニメ・・・、
『』という作品なども、実際は「?」みたいな話ばかり。 松傾くんは基地外のように振る舞っているけど、単に自閉症なだけで、頭の中は健常者だよな
なぜそれが分かるのかと言うと、いつもこのスレを狙い撃って書き込みしているからだ
ホンモノの基地外にはそれは無理のはず
あなたは基地外ピエロに見えるだけの単なる健常者ですわ
横溝正史の仮面劇場に出てくるメクラを装って殺人を重ねていた虹之助と同じ
だだ違う点は、虹之助は単なる芝居だけど、あなたの場合は先天的にそうするように
できているという事だけ
松傾くんは基地外に見えるだけの単なる健常者 謎のガンダムなど、
騙り、成り済ましのテーマ、曲だろう。 >>319
>箸墓古墳の後円部の頂上から真東に線を引いて行くと、平安時代につくられた伊勢の斎宮跡にぴったんこつながっている。
ということは、平安時代に天照大神を祀った斎王は、箸墓古墳に葬られた倭迹迹日百襲媛の流れを汲む存在と擬せられていたことが分かる。
そして、その倭迹迹日百襲媛は三輪山の大物主の妻となった女性とされるから、百襲媛に擬せられた斎王が祀る天照大神は男神とみなされていたことが推測されるのだ。
このことは、伊勢の天照大神のために作る神服が男性用のものとされていることと矛盾しない。
では、天照大神が女神として記されている日本書紀や古事記は、現実とは別の架空のバーチャル世界を描いているということになるのだろうか。
ふーん。
何だか変だが、
しかし、大和説では、「南は東の間違いだ」説ではなかったのかな?。 >>320
>書き間違えた
神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)な
台与が大王に即位したのって13歳だろ
台与が幼名なのか諱なのかまでは分からないが、倭迹迹日百襲姫命という字は
この時点ではまだないんだよ
これも、少し?だな。
「台与」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
「壹與」の事なら、筑紫の女王であったし、
書紀の「日本」は、古事記では「倭」と書かれていたんだから、
書紀の「神日本磐余彦」は、原伝承は「神倭磐余彦」であった筈なんだよな。 >>322
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをして荒らしてる、
そんな人が大和説者にはいない、というのか?
大和説者はデッチ上げが多いから、
証拠出してもらわないと信用できない >>325
>>国内の前方後円墳は、
「始めから前方部と後円部の全体が一つの墓だ」として造られていた、
という建設実態があるから、
前方部が円墳の登り台だったとか、祭祀台だったとか言われても、
今時、誰も納得しない。
>それ、またウソ 九州説ってウソ中毒なの?
それ、またウソ。大和説者って、ウソ中毒なの?。
箸墓などの周溝付き巨大前方後円墳は、全て、
周溝を掘る時から、前方後円墳形にして設計されているし、
周溝がない前方後円墳もある。 >>356
大和説は南は東の誤記だとはっはり言わないが、頭の中でははっきり南は東の誤記だと大書しているよ。 近江の大戌亥・鴨田遺跡の前方後円形周溝墓は、纏向の石塚古墳の祖形なの?
あれは、近江に現れた前方後方型周溝墓の影響を受けて円形周溝墓に前方部をつけたものであって、
この時期には纏向にはすでに石塚古墳が造られていたから、前方後円墳の祖形ではないと思うけどね。 >>326
>前方部と後円部が一体となった前方後円墳は、
前の墳丘墓の段階では、陸橋付円形周溝墓だった
そうか。大和説者は、「陸橋」と言っていたのか。
しかし、陸橋にはなっておらず、
周溝が全体を取り巻いている「円墳+祭祀台的な墓」もいくつかあった筈だし、
陸橋になっていて周溝になっていなかったら、前方後円墳ではないな。 >>328
>陸橋でお祭りをしていて祭祀台へと発展したと言うのが定説
現実の周溝巨大前方後円墳は、始めの設計時点から周溝前方後円墳に設計されており、
「陸橋や祭祀台」ではなく、前方部も含めた墓になっている。 >>334
本当こういうの見ると大和説学者らが頭悪いと言うか
日本語通じないド低脳なのが分かるわ・・・
>そりゃ「前方後円墳」と言われる段階において
前方部と後円部が一体なのは当たり前
登り台とか祭祀台というのはそこに至るまでの経緯の話
登り台とか祭祀台であったんなら、永久に周溝付き「全」前方後円墳にばならんよ。
>ちなみに登り台については真横水平方に見ると前方部の端がせり上がってるので
仮にスロープだったとしても既にその意味はなくなり形骸化してると思う
だから、周溝付き巨大前方後円墳は、
天円地方思想学習と、モンゴルや高句麗の前方後円墳を学習模倣した、
という説の方が、ベターなんだよ。 >>341
>だから台与という幼名?諱?と倭迹迹日百襲姫命という諡号の間に
何らの関連性がなくても全然おかしな事ではないのである
「台与」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
全くおかしく、×なのである。 >>342
>倭迹迹日百襲姫命というのは死後に贈られた名前=諡号であって、
生前の名前=幼名、諱、字ではないのだよ
台与は生きているときの名前で13歳だからまだ幼名
「台与」なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×なの。 >>340
>力を誇示せんがため巨大なものを作ったという可能性を考える
「大きいから天皇陵」 単細胞の思考回路。
全国へ進出していった「忌部一族」は、本国「阿波」に勢力を誇示するために、各地で古墳を築造した。
そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地のような平地の湿地帯なんぞに築かない。
ましてや、前方後円墳など何をか言わんや。
少なくとも初期の天皇陵は、山の尾根や丘を利用して築かれた。 @阿波 斉明天皇あたり堀を掘れだの命令下して正気か?って当時のやつらに思われていただの記述あるからな
そんなんが重なったんだろ >>364
>天円地方思想学習と、モンゴルや高句麗の前方後円墳を学習模倣した、
>という説の方が、ベターなんだよ。
モンゴルや高句麗の前方後円墳とか
存在が証明できないんだからワースト >>363
>現実の周溝巨大前方後円墳は、始めの設計時点から周溝前方後円墳に設計されており、
>陸橋や祭祀台」ではなく、前方部も含めた墓になっている
なっていようが関係ない
陸橋部でお祭りをしていて祭祀台へと発展したのが前方部の起源というのが定説 陸橋墓は蘇塗で馬韓の墓だね、でそれが発展して前方後円墳になって行ったと言うんかい? つまり畿内説とは、畿内の前方後円墳を自慢気に語る説
つまり大和説とは、大和の前方後円墳を自慢気に語る説 「陸橋付円形周溝墓」は、さらに古いものが今までにいくつも発掘されているのです。
一つが、徳島県の名東(みょうどう)遺跡から出土してます。弥生時代中期前半「紀元前1世紀)ころのものとされてます。
さらに、弥生後期後葉になりますが、四国東部には、讃岐(香川県)の林・坊城1号・2号、尾崎西などがあります。
隣の阿波(徳島県)においては、「陸橋付円形周溝墓」の発展形とされる帆立貝型前方後円墳である萩原1・2号墓(弥生時代終末期、積石塚)があります。
萩原2号墓は、日本最古の前方後円墳、あるいはそのルーツとも言われ、奈良県の纏向型古墳であるホケノ山古墳との関連も指摘されてます。 @阿波 奈良県橿原市の瀬田遺跡で、弥生時代終末期(2世紀後半ごろ)の陸橋付き円形周溝墓が見つかった。
しかし「陸橋付円形周溝墓」は、さらに古いものが今までにいくつも発掘されているのです。
一つが、徳島県の名東(みょうどう)遺跡から出土してます。弥生時代中期前半「紀元前1世紀)ころのものとされてます。
さらに、弥生後期後葉になりますが、四国東部には、讃岐(香川県)の林・坊城1号・2号、尾崎西などがあります。
隣の阿波(徳島県)においては、「陸橋付円形周溝墓」の発展形とされる帆立貝型前方後円墳である萩原1・2号墓(弥生時代終末期、積石塚)があります。
萩原2号墓は、日本最古の前方後円墳、あるいはそのルーツとも言われ、奈良県の纏向型古墳であるホケノ山古墳との関連も指摘されてます。 @阿波 つまり畿内説とは、畿内のバカデカ古墳を自慢気に語る説
つまり阿波説とは、阿波の寂れた小村社を自慢気に語る説 テレビ(芸能など)の話をしていたのかな、数年前の、とあるスレ。
声のでかい者が勝ちなのかwという書き込みをしている人もいたしな・・・。
例えば、私の、お墓なんだよ?俺(私たち)がカミタマだという主張。 >>378
>つまり阿波説とは、阿波の寂れた小村社
その隠れた「阿波の寂れた小村社」にこそ、古代倭の神々が宿っている。 @阿波 以前から書いているだろう、
自分が〜〜〜()〜〜〜になる方法を悪用しているのかな? やたらデカイ古墳を造りたがる文化って縄文文化の名残りだよ つまり畿内説とは、其の巨大さに頭が舞い上がり、巨大古墳だから卑弥呼の墓だったのだろうと短絡した説
つまり阿波説とは、古寂れた社殿に心が折れ、古いから卑弥呼の宮殿だったのだろうと自分で自分を慰める説 つまり九州説は日本の古墳文化に対する恨が生んだ民族的心の病 >>384
弥生文化が到達しなかった奈良盆地民の負け惜しみですか?w >>373
蘇塗は大木を立てると韓伝に書かれている
平原や吉野ヶ里で立てられている >>385
奈良盆地に弥生文化が到達しなかったと言ってる日本の考古学者はいない
朝鮮の家畜層人種だけ >>387
>奈良盆地に弥生文化が到達しなかったと言ってる日本の考古学者はいない
大和忌部に感謝しなさい! @阿波 >>387
「桜井市纏向学センター」
辻河道出土の銅鐸と特殊埴輪(桜井市大字辻)
辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纏向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳があります。
銅鐸の飾耳は突線ちゅう式銅鐸の破片ですが、纏向遺跡では弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。
弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く
弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く
弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く >>389
そりゃ、古墳時代の「古墳造営前線基地」なんだから。 @阿波 邪馬台国論争における九州説とは
江戸時代の国学者による九州の熊襲偽僭(ホラッチョ)説が始まりであり
九州のいたいけなおじいちゃんの夢が本来の九州説
日本の文化や学者を罵る大阪、神戸の朝鮮の家畜先輩東征説と分けて考えなければならない 文系考古学者によるバイアス持論より
お前らの説明の方が圧倒的に現実味がある 考古学者が信用できないなら
弥生・古墳初頭遺跡の年代一切が論拠に使えない 陸橋墓、ホタテ系は弁辰宗像でしょ、天子を連れて来た者で祭祀統合の前方後円墳に飲み込まれた側だね、だから始皇帝稜ってのがピッタリなのよ、それでも抵抗すんのが狗古智卑狗の×おじさんよ >>392
「バイアス」って魔法の呪文を唱えるだけで
考古学の通説を否定できると思ってる
このおめでたい男は
連句点 >>384
つまり「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説は、
九州倭國の歴史や考古や古墳時代文化に対する恨が生んだ、
大和民族国家主義宗教の心の病 >>393
年代?
理系の科学的結果があればいいだけ
想像任せの考古学者は不要
そいつが埋めたものかもしれないしなw >>397
弥生時代各遺跡の理系の科学的結果があるのかよ? >>399
このように
考古学馬鹿はいつも無知満開だ >>400
おうむ返しか
九州説者の言うことはホントに内容がないな 理系であることだけが人生の拠り所
キナイコシ連呼=連句点 .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>402
>理由は?
簡単に解る
「このように」の対象がアンカ先に無い スレ主→奥山→キナイコシとドングリの背比べ的劣化を続ける宣伝係を持ったが為に多くの信者を失ってしまった畿内説あわれ >>406
妄想ばっかりで、まったく歴史を語れない九州説があわれなんだよ >>406
追跡妄想だけじゃなくて陰謀論にも毒されてるのな 弥生時代後期においてもヤマトの影響が全く見られない城野遺跡
城野遺跡/福岡県 北九州市
中国産の水銀朱がたっぷりと敷き詰められた石棺
https://i.imgur.com/T09gWYm.png >>361
近江の最古級の前方後円墳は4世紀前半のもの。
一方鴨田遺跡の前方後円形周溝墓は弥生末頃とされている。
この鴨田遺跡の周溝墓が前方後円墳の祖形であるとすれば、4世紀前半に前方後円墳が近江に現れるまでの約100年の間にその変化形が造られているはずであるが、
そのような変化形はみられないようだ。
つまり、鴨田遺跡の前方後円形周溝墓の発展形はなく、そのまま固定された状態だといえそうだ。
これは同時期に現れた前方後方形周溝墓の影響を受けて、それまでにあった円形周溝墓に前方部を付け足したものと考えるのが妥当と思われる。
また、東瀬戸内に一般的な突起付き円墳の突起は、それ以降も突起の裾が周溝内においてバチ形に開くことはなく、陸橋状態が続くものとなっている。
東瀬戸内の突起付き円形周溝墓はこの形が完成形であり、周溝が墳丘を全周する形に発展することはなかった。
このことからしても、近江鴨田遺跡の前方後円形周溝墓は、瀬戸内の突起付き円墳の影響を受けたものではないことが分かる。
近江の鴨田遺跡の前方後円形周溝墓は、纏向で弥生終末期前半に造られた前方後円型墳丘墓である纏向石塚の祖形とはみなし難いということになってくる。 つまり畿内説とは、巨大古墳に舞い上がり、巨大だから卑弥呼の墓に違いないと短絡した説
つまり阿波説とは、古寂れた社殿に心が折れ、古いから卑弥呼の宮殿だったと自分を慰める説 ニュース速報+で畿内説が虫の息になってるがスレ主は何してんだ? >>414
日本史で考古学を扱わないとか
さすが九州説は頭がおかしいな まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! なんか勘違いしている人がいるようだが、考古学という学問は存在しませんのであしからず 教えるもんじゃなくそれぞれが研究するもんやからな
とっかかり教えたらそいつが興味持って調べなきゃ発展しないだ 害児ンの爺さん、ちゃんと日本語学校を卒業してから書き込んで下さい
419 日本@名無史さん 2020/09/17(木) 16:34:20.82 ID:
>>417
また九州説の能たりんが発狂してるのか >>395
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定や、
「大阪神戸の朝鮮の家畜先輩」って嘘つき騙しの魔法の呪文を唱えるだけで
文献考古の史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論の九州説を、
否定できると思ってるこのおめでたい男は、
おそらく東大理系博士号自称男。 奈良時代の遺構からクソ集めて、当時の連中がどんな物食ってたとか、どんな虫を抱え込んでいたとか調べる社会学があるくらいやから、
土器や建物跡などを掘り出して調べる歴史学があって当たり前。
なんでも学問にしてしまうのが人間やからな。 >>393
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
文献考古の史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者は、
全く信用できないから
彼らの弥生・古墳初頭遺跡の年代比定は、一切が論拠に使えない 下たまねぎ国では親日派破墓法(墓暴き法)まで出るくらいだから
土台人古田反日人種は日本の学者は信用しないだろ 社会貢献も期待できないし就職するにしても雇う側からすると「何ができるの?」となってしまう考古学ってもう必要ないよね
発掘の手法に関しても地学や土木建築の方が詳しいだろうし
『1)大学の人員や組織改編に関するもの
考古学に関する教員の増員や新規開講が行われ,あるいは行われる予定であると述べたものは各 1 件,
増員を要望しているとしたものが 1 件と極めてわずかである。
これに対し,すでにあるいは近い将来において減員(退職後不補充を含む)が決まった,講座が廃止
になったとするものは 8 件,その可能性が高い(考古学を含む組織全体でのポストの削減を含む)とし
た回答も 3 件あり,全体的に考古学関連の人員,講義が減少,縮小傾向にあることは明らかである。』 九州説が考古学を憎むのは、考古学で畿内説が通説になったから >>399
このように、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
文献考古の史料事実や史料事態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説説学者らは、
いつも無知と詐欺が満開だ >>427
というより、考古学の成果で九州説が死んだからだら >>401
また「おうむ返しされ」か。
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者学らの言うことは、
ホントに内容がないな。 >>427
いや俺は九州説じゃないよ
邪馬台国云々関係なく、考古学は必要ないと考えてる
実際、考古学という学科はすでに無いよね
まだ残ってる? >>426
>行政的に「文化財」と定義されるのは基本的に人工遺物だけで、その他の考古学的には重要な情報を持つデータ、
>例えば植物遺存体などは考慮されないのが全体である。
24年前の発表だが、吉野ヶ里での大失敗を経て
現在は動植物や花粉分析がなされているね >>432
>現在は動植物や花粉分析がなされているね
それ環境科学だよ
無理やり環境考古学と呼ぶ馬鹿もいるけどw >>403
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説を、
連呼することだけが、人生の拠り所なんだな。
大和説連呼=東大理系博士号の自称男 >>407
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの妄想ばっかりで、
まったく歴史を語れない大和説があわれなんだよ >>434
それ俺へのレスか?
反日でもないしもちろん右翼でもないけど? >>408
大和説学者らは、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの妄想だけじゃなくて、
「近隣諸国の陰謀」説にも毒されてるのな >>435
環境科学は古環境だけではなくて、主に現代の都市の人間をとりまく自然環境を研究する学問
進次郎の省が特に関わってくる >>439
正常な人は空想する事を学問とは呼ばないんだよ
畿内説ってさあ、強いて言えば宗教じゃね?w >>441
それを極めることによって、じゃあ過去はどうだったのかを調べる事ができるようになるわけで
要するに考古学者という無知に推論を語らないで欲しいんだよ >>442
反論できないで、そんな悪口しか言えないから九州説はダメなんだ >>446
縦割りじゃないよ
何の専門家でもない分野からの推論はノイズでしかないから >>447
お前は考古学にも興味ないし、説もないんだから
邪馬台国関連スレに来なければいいだけの話 >>449
>お前は考古学にも興味ないし、説もないんだから
証拠は?
w >>448
埋蔵文化財包蔵地の場合は考古学研究者と連携しないと
古環境分析に必要なものが採取できないの >>447
反論してないだろ?
悪口しか言わないだろ? 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww それにしても凄い話ばかり。
謎のゲームなど(ほとんど)日本の話だろう。 キナイコシは偉そうなことばかり言っているが、こいつは無職の負け組ジジイ
自分は専門家だと言い張っているが、そんな主張はそれ相応の定職についてからすべき
現状ではキナイコシは古代史愛好家のど素人ジジイでしかない
まさか学会に入っているだけで専門家と認知してもらえると思っているわけじゃないだろうね? >>455
其(=女王国)南有狗奴国…だけどな。
いつまで夢みてるのよ。 >>410
>近江の最古級の前方後円墳は4世紀前半のもの。
一方鴨田遺跡の前方後円形周溝墓は弥生末頃とされている。
この鴨田遺跡の周溝墓が前方後円墳の祖形であるとすれば、
4世紀前半に前方後円墳が近江に現れるまでの約100年の間にその変化形が造られているはずであるが、
そのような変化形はみられないようだ。
つまり、鴨田遺跡の前方後円形周溝墓の発展形はなく、そのまま固定された状態だといえそうだ。
これは同時期に現れた前方後方形周溝墓の影響を受けて、
それまでにあった円形周溝墓に前方部を付け足したものと考えるのが妥当と思われる。
また、東瀬戸内に一般的な突起付き円墳の突起は、
それ以降も突起の裾が周溝内においてバチ形に開くことはなく、
陸橋状態が続くものとなっている。
東瀬戸内の突起付き円形周溝墓はこの形が完成形であり、
周溝が墳丘を全周する形に発展することはなかった。
このことからしても、近江鴨田遺跡の前方後円形周溝墓は、
瀬戸内の突起付き円墳の影響を受けたものではないことが分かる。
近江の鴨田遺跡の前方後円形周溝墓は、
纏向で弥生終末期前半に造られた前方後円型墳丘墓である纏向石塚の祖形とは
みなし難いということになってくる。
ふーん。成程。 藤原鎌足
↓
藤原不比等
↓
藤原房前
↓妾
板野命婦(いたののみょうぶ)
生年:生没年不詳。
奈良時代の女官。粟凡直国造若子とも。 外従五位下。 藤原房前の七男 楓麻呂を出産。
阿波国板野郡貢上の采女で,光明皇后の御所に仕え、写経事業のための経典貸借などの責任者として活躍し、造東大寺司との連絡係などを務めた。
出家し、尼となった。 <参考文献>『正倉院文書』、「板野命婦」(『角田文衛著作集』5巻)
「板野命婦」も8世紀の奈良遷都に伴い、天皇家に付き従い、阿波国板野郡から奈良の都へ移住したとみられる。 @阿波 >>415
日本史で、考古学だけを扱って、文献を扱わないとか?、
さすが大和説者は、頭がおかしいな >>457
ほら、畿内説に反論しないで悪口ばかりだ
証拠ばっちり >>419
また、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説の能たりんが、
発狂してるのかい? >>463
そんな畿内説の人はいないから、また九州説はウソをついたことになるね 藤原鎌足
↓
藤原不比等
↓
藤原房前
↓妾
板野命婦(いたののみょうぶ)
生年:生没年不詳。
奈良時代の女官。粟凡直国造若子とも。 外従五位下。 藤原房前の七男 楓麻呂を出産。
阿波国板野郡貢上の采女で,光明皇后の御所に仕え、写経事業のための経典貸借などの責任者として活躍し、造東大寺司との連絡係などを務めた。
出家し、尼となった。 <参考文献>『正倉院文書』、「板野命婦」(『角田文衛著作集』5巻)
「板野命婦」も8世紀の奈良遷都に伴い、天皇家に付き従い、阿波国板野郡から奈良の都へ移住したとみられる。 @阿波 >>465
この人も、曲解だ嘘だと叫ぶだけで、反論せず罵るだけの人種 奥山の数年前のレスと、最近のレスを見てると面白いなw
まるで別人w 「紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」は日本で最初の戸籍。
この中に「建部」と見えるが「建部」とは、景行天皇御宇に日本武尊命の功名を記録しようと定められた御名代部である。
「建部」は、日本武尊命の西討東伐の道筋に置かれた。
この「紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」には11名の「建部」が見える。
阿波に日本最古の戸籍。
阿波に「建部」
阿波ってなに?
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>427
大和説が文献や考古学の学問を憎むのは、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
正北抵新羅の倭國は北部九州」などの文献考古の史料事実や史料実態で、
大和説が国民や世界の学者から否定されたから。 「紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」は日本で最初の戸籍。
この中に「建部」と見えるが「建部」とは、景行天皇御宇に日本武尊命の功名を記録しようと定められた御名代部である。
「建部」は、日本武尊命の西討東伐の道筋に置かれた。
この「紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」には11名の「建部」が見える。
阿波に日本最古の戸籍。
阿波に「建部」
阿波ってなに?
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>427
というより、文献学や考古学の学問的成果で、
大和説が死んだからだろ?。 >>471
>大和説が文献や考古学の学問を憎むのは、
こういうウソが平気でつける九州説はすごい 「紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」
『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。
この郷の民の一部を記した延喜2年の「紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」が遺っている。 23氏487口の名簿である。
この「紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、
「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。
この「紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>439
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説が、
反学問だとよくわかる そもそも畿内説を「大和説」と歪曲するあたりから、もう九州説の捏造体質がモロ出てるな すとーかー?がいるのかな、ほとんど老婆の話と同じような?
謎の日本昔話などもw >>445
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
文献考古の史料事実や史料実態反論できないで、
そんな悪口しか言えないから、
大和説者はダメなんだ >>447
縦割りじゃないよ
他の分野からであっても、
史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論や指摘は、
ノイズにはならないんだから >>482
で、絶対に帰納しない九州説が学問にとってノイズなわけだ >>464
ほら、大和説は、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の提示に、反論しないで悪口ばかりだ
証拠ばっちり >>466
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
畿内説と言った大和説の人は、またウソをついたことになるね >>486
いやそれ、あんた「オレ様の考えに合わないから×」と言ってるだけでしょ >>475
>>大和説が文献や考古学の学問を憎むのは、
>こういうウソが平気でつける九州説はすごい
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などは、
文献や考古の学問の成果だよ?。
こういうウソが平気でつける大和説はすごい >>489
それ、学問じゃないから
そんなこと言ってる学者いない >>478
>そもそも畿内説を「大和説」と歪曲するあたりから、もう九州説の捏造体質がモロ出てるな
そもそも、40年位前までは、
「畿内説」なんてなくて、「大和説」と言っていたのであり、
それを「大和説→畿内説」の歪曲した辺りから、
もう大和説者の「嘘つき騙しの捏造体質」が、モロに出ていたな。 >>491
>「畿内説」なんてなくて、「大和説」と言っていたのであり、
なんの証拠も出さないのが
九州説 >>484
で、「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定をして、
絶対に帰納的確率的な推論をしない大和説が、
学問にとってノイズなわけだ >>488
>九州も存在しなかったぞ
倭人が中国にいた時には(中国の)九州にいたんだから、
倭人にとっては「九州」は存在したの。 >>495
メチャクチャ
それ、倭人が中国全土津々浦々にいたことになるぞ >>495
卑弥呼の時代に九州があった証拠は
当時の倭人が心の中で九州があると思っていたから? >>494
>土器編年が帰納してる恒例だがね
大和説学者らは、土器の相対年代はある程度の帰納をしているが、
その土器の絶対年代はかなり間違っており、帰納出来ていない好例だよ。 >>495
もし当時九州地方が九州と呼ばれていたのなら
卑弥呼の受けた称号は親魏九州王ではなくて親魏倭王なので
九州にいた女王ではなかったという事になる >>496
>メチャクチャ
それ、倭人が中国全土津々浦々にいたことになるぞ
いや、倭人は、「燕の南」や「呉付近」、という九州にいた、
という伝承を持っていただけだよ。 >>501
それ、「九州のどこか」であって「九州」ではない 倭人が中国にいた時には(中国の)九州にいたという理由だと
比定地が限定されていない説になる >>500
>(土器の絶対年代比定)間違ってるって証拠は?
大和の石塚の庄内1を3世紀前半に比定した事。
石塚は、「冢≠前方後円墳」などに拠って、3世紀末であった。 >>504
その素人個人説、なにも根拠ないよね
もちろん論文で発表もされてない >>498
クロスデーティングした複数の土器編年の階梯を年代のわかる共伴物と突き合わせて絶対年代を割り出していく考古学の手法こそ、帰納そのものだ .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>506
>クロスデーティングした複数の土器編年の階梯を年代のわかる共伴物と突き合わせて絶対年代を割り出していく考古学の手法こそ、帰納そのものだ
「年代のわかる共伴物」となれば、
紀年鏡や記年土器やAMS法や年輪年代や酸素同位元素などしかないが、
いずれも絶対年代物にはなっていない。 >>508
「なってない」とか、なんの理由も言わずに言い張られても話にならんだろ
説得力ゼロだ キナイコシは偉そうなことばかり言っているが、こいつは無職の負け組ジジイ
自分は専門家だと言い張っているが、そんな主張はそれ相応の定職についてからすべき
現状ではキナイコシは古代史愛好家のど素人ジジイでしかない
まさか学会に入っているだけで専門家と認知してもらえると思っているわけじゃないだろうね? 官は卑狗で次が卑奴母離、彦と夷守。女王国は彌馬升と彌馬獲支だから三輪の何か。 狗古智卑狗は河内、河内は物部だから争いがあった、阿波は狗奴国連合。 >>386
神になる方法
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1586818112/
45本当にあった怖い名無し2020/05/05(火) 23:26:10.59ID:jKX9e+mZ0
我こそは神とか思い始めたヒッキー
-------------
統合失調症
思考内容の障害(妄想)
宗教妄想:自分は神だ、などと思い込む。
血統妄想:自分は貴人の隠し子だ、などと思い込む。 >>381
神になる方法
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1586818112/
45本当にあった怖い名無し2020/05/05(火) 23:26:10.59ID:jKX9e+mZ0
我こそは神とか思い始めたヒッキー
-------------
統合失調症
思考内容の障害(妄想)
宗教妄想:自分は神だ、などと思い込む。
血統妄想:自分は貴人の隠し子だ、などと思い込む。 >>459
近江鴨田遺跡の前方後円形周溝墓は纏向の前方後円型墳丘墓の祖形ではないが、尾張の前方後方形墳丘墓と吉備の円墳をドッキングさせたら、
纏向の前方後円型墳丘墓の墳形になるよい例と言える。
纏向の石塚古墳には祖形はなく、突然纏向に創出された墳丘墓だ。
尾張の前方後方型墳丘墓をベースに、その後方部に吉備の円墳を置き換えたものが纏向石塚古墳だといえる。
いわば、尾張と吉備の墳丘墓を合作したものが前方後円型墳丘墓で、それが箸墓古墳へと発展したと考えればよい。 >>509
>>「年代のわかる共伴物」となれば、
紀年鏡や記年土器やAMS法や年輪年代や酸素同位元素などしかないが、
いずれも絶対年代物にはなっていない。
>「なってない」とか、なんの理由も言わずに言い張られても話にならんだろ
説得力ゼロだ
もうこれまでに数え切れない位説明して来た事だ。
紀年鏡や記年土器などは、
製作時期とそれの使用後の副葬や遺棄時期との間に、数十年位の差異がいくらでも起こり得るし、
AMS法や年輪年代や酸素同位元素なども、
寝かせ期間や樹皮から採取部位間の年輪数や、
プラズマ化のような計測法自体の失敗もある。 >>516
3世紀中頃まで奈良には鉄器はみられず、鉄器の過疎地帯だった。
それが、黒塚古墳、椿井大塚山古墳ともに大量の鉄器が副葬されていることから、
これらの鉄器は博多などからもたらされたものと考えられ、
また、副葬された多数の三角縁神獣鏡の形式分類の研究からみても、それぞれの築造時期は箸墓→黒塚古墳→椿井大塚山古墳の順だろう。 518
もたらされたものじゃなくて使用したものだろ
鉄器が一人で勝手に歩くんか? それよりも、すとーかー?がいるのかな。
ほとんど同じような話ばかり。 >>511
>官は卑狗で次が卑奴母離、彦と夷守。女王国は彌馬升と彌馬獲支だから三輪の何か。
この男は「三輪」と書いているから、やはり(嘘吐き騙しの)大和説男だな。
まず、この男は、女王國や倭國と邪馬壹国の概念とを、未だに区別が出来ていない。
邪馬壹國は、あくまで「共立の女王の之所都」の国であり、
共立29國?の中の最も戸数家数の大きい国である、というだけである、という事だ。
そして、「東征毛人五十五國」を構成した将軍や部将らには、
邪馬壹國の将軍や部将らもおれば、
倭國(女王國)の直属の、大夫の下の地位の、鏡片を貰った将軍的地位の者もおれば、
阿毎氏の神武らのような、一大率の居た伊都国系の将軍や部将もおれば、
(魏の支配下を示す戸数表記の国ではない)「家数表記の国」である一大國や不彌國の部将らもあれば、
(五瀬命や神武らのような)はるか南九州の投馬國から来て東征に参加した部将らもおれば、
卑弥呼には抵抗したが壹與には共立に参加したようである狗奴國の部将らもいた。
そして、卑狗がいたのは、對海國と一大國と不彌國と狗奴國であり、
卑奴母離がいたのは、對海國と一大國と奴國と不彌國であり、
末盧國は、東松浦半島西北部の鷹島と黒島が松浦水軍家の「都市」氏の支配下の国であり、
都市牛利が魏の直属臣下の率善校尉を貰ったために、官副の存在が記載されず、
書き分けられた、と考えられる。 >>512
>狗古智卑狗は河内、河内は物部だから争いがあった、阿波は狗奴国連合。
狗古智卑狗の名前を出した時点で、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、×だ。 >>515
>近江鴨田遺跡の前方後円形周溝墓は纏向の前方後円型墳丘墓の祖形ではないが、尾張の前方後方形墳丘墓と吉備の円墳をドッキングさせたら、
纏向の前方後円型墳丘墓の墳形になるよい例と言える。
纏向の石塚古墳には祖形はなく、突然纏向に創出された墳丘墓だ。
尾張の前方後方型墳丘墓をベースに、その後方部に吉備の円墳を置き換えたものが纏向石塚古墳だといえる。
いわば、尾張と吉備の墳丘墓を合作したものが前方後円型墳丘墓で、それが箸墓古墳へと発展したと考えればよい。
ふーん。 それにしても、まさかの都市伝説。
写真を撮られたりすると〜とか、嫌いだという話。
かなり、むかーしの謎の写真はあるんだけど、その後の写真はなかったり。 キュウリの葉、葱の華・・・w謎の写真。
確実に、その後の写真はないし。
それとも他にもあったのかな?
誰かが持って行ってしまったとか、親戚かな。 >>515
>いわば、尾張と吉備の墳丘墓を合作したものが前方後円型墳丘墓で、それが箸墓古墳へと発展したと考えればよい。
萩原墳丘墓だよ。 尾張も吉備も、どのみち「阿波」発祥。 @阿波 >>517
>もうこれまでに数え切れない位説明して来た事だ。
>紀年鏡や記年土器などは、
>製作時期とそれの使用後の副葬や遺棄時期との間に、数十年位の差異がいくらでも起こり得るし、
その説明に説得力がゼロ
「起こり得る」と言う偶然性に依拠した説明は
帰納によって簡単に否定される アマテラスの別名をピンイン検索すると、
大日女(おおひるめ)の日女 rinu
大日孁(おおひるめ)の日孁 rilng
卑弥呼(Bei mei hu)とは程遠いわけだが(笑)
卑弥呼(Bei mei hu)の発音に一番近いのが比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ(蹈鞴五十鈴)后だ。
日本語ではアマテラスの別名・日女(ひるめ)日孁(ひるめ)がhimikoに「近い」という感覚はある。
日女(ひめ)と読めるからな。
が、中国語ではrinu rilngなどと全然違う。
ということは、日本側が魏志倭人伝の卑弥呼という名前をを意識して日女・日孁という別名を創作したという事が分かる。 >>529
>>もうこれまでに数え切れない位説明して来た事だ。
紀年鏡や記年土器などは、製作時期とそれの使用後の副葬や遺棄時期との間に、
数十年位の差異がいくらでも起こり得るし、
>その説明に説得力がゼロ
「起こり得る」と言う偶然性に依拠した説明は 帰納によって簡単に否定される
その反論に説得力がゼロ。
「製作時期とそれの使用後の副葬や遺棄時期との間に、数十年位の差異」という事は、
「偶然に依拠した説明」ではなく、人類の常識が根拠であり、
その実態や事実からの帰納的確率的な推論であり、
この男の「否認」は簡単に否定される。 系図に出てるのは諡号だろ
でも卑弥呼は諱で台与は幼名
系図で追いかけるのはほとんど無理 >>531
>「偶然に依拠した説明」ではなく、人類の常識が根拠であり、
つまり何の根拠もないってことだ
「その実態や事実からの帰納的確率的な推論」と言うのも当然ウソ
それなら元データ出せるはずだからね
「人類の常識」で済ませたらウソ確定
ばかですか 俺もキナイコシという言葉の意味が分からないんですが 金属器などの副葬品の場合は入手した時期と墓に入る(死ぬ)時期が人によって違うので差に幅が出る
葬送儀礼に伴う祭祀土器は築造時期とほぼ同じ >>537
副葬土器があれば、それが一番だろうね
周辺から出土したものでは信用度低い
周辺の出土土器から
箸墓→黒塚→椿井大塚山
の順だと言われているけど
黒塚→椿井大塚山→箸墓
の順だとしか思えないんだよね
順に、卑弥呼(諡号:宇那比姫)→国中不服男王(諡号:孝霊天皇)→台与(諡号:百襲姫) 吉備と尾張の合作でもいいがするとそれを発想した宗教指導者がまず居り、次に吉備、尾張の各寸法の問題があり固有の寸法か漢尺かでは何故漢尺箸墓なのか?が生じ、尾張か吉備のどちらかが狗奴国連合と思われ、結局合作のきっかけは266年の司馬炎即位に思われて仕方がなくなる。266年以前に無いとなる 卑弥呼が即位したのが西暦180年ころやぞ
倭国大乱がそのころやからな
それから数十年経ち卑弥呼がババアになったときにクコチヒコとやらと仲違いしただのって話やろ
卑弥呼80歳くらいが親族の中からトヨ13歳を選び後継の女王に建てたって話やろ >>532
>系図に出てるのは諡号だろ
でも卑弥呼は諱で台与は幼名 系図で追いかけるのはほとんど無理
松野氏姫氏系図では、
「刀良」という名前の所に「卑弥呼姫氏也」という右説明文があり、
「刀良」の3代後の「市鹿文」に、
「同賜火国造 魏正始八年立為王 景初二年貢奉 被称壱歎?(文字がはっきり読めない)」という下注文があるが、
「魏正始八年立為王」という事であれば、「壱歎?」という読めない文字は「壹與」であった、
という可能性が高い。
>>533
>>「偶然に依拠した説明」ではなく、人類の常識が根拠であり、
>つまり何の根拠もないってことだ
「その実態や事実からの帰納的確率的な推論」と言うのも当然ウソ
それなら元データ出せるはずだからね 「人類の常識」で済ませたらウソ確定
ばかですか
「南≠東」などの人類の常識に従った論の場合と同じように、
人類の常識を根拠にした帰納的確率的な推論は、正しい確率が非常に高いもの。
大和説者は、人類の常識が大和説を否定するから、非常に都合が悪い、というだけ。
・・・・バカですか?。 >>537
>金属器などの副葬品の場合は入手した時期と墓に入る(死ぬ)時期が人によって違うので差に幅が出る
葬送儀礼に伴う祭祀土器は築造時期とほぼ同じ
墓内の副葬に使うのは、原則として、生前の愛用品や嗜好品。
墓外の祭壇的のような葬送祭祀場に使うものは、
葬儀が仕事の人物の持ち込み品が中心。 >>549
>・・・順に、卑弥呼(諡号:宇那比姫)→国中不服男王(諡号:孝霊天皇)→台与(諡号:百襲姫)
「台与」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であり、
卑弥呼を大和の人物に比定した事も、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、×。 キナイコシは偉そうなことばかり言っているが、こいつは無職の負け組ジジイ
自分は専門家だと言い張っているが、そんな主張はそれ相応の定職についてからすべき
現状ではキナイコシは古代史愛好家のど素人ジジイでしかない
まさか学会に入っているだけで専門家と認知してもらえると思っているわけじゃないだろうね? >>528
萩原は柄鏡型円墳。
吉備の双方中円墳の参道を一つ取り除いた形。
東瀬戸内の円墳系は前方後円墳につながらない。
阿波のは吉備系だな。 >>541
長さの単位が弥生時代にはどのようなものであったかは重大な問題であるが、
例えば箸墓古墳の2分の1の大きさに造られた古墳があるので、何らかの長さの単位があったはず。
倭人伝に書かれている狗奴国は女王国の南にあるとする確かな記述があり、
奈良が邪馬台国であればその南=吉野、熊野あたりに狗奴国が求められるが、邪馬台国に攻め入るほどの勢力はこの吉野、熊野にはみあたらない。
その南を東に振るのは間違いじゃないでしょうか。
吉野、熊野に狗奴国はないとなれば、別のところに邪馬台国を求めなければならないということになります。
吉備と尾張の合作と考えられる最初の前方後円型の墳丘墓は纏向石塚古墳であり200年前後には造られていたとされていて、
その後266年頃に造られたのはそうした初期の前方後円型墳丘墓から発展した箸墓古墳ではないか。
この箸墓古墳が晋の司馬炎の即位に合わせて造られたのかどうかは検討を要する。 逆々
箸墓が黒塚と椿井大塚山の倍のスケールで設計築造されてるの .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. スレ主→奥山→キナイコシとキャラが劣化してゆく宣伝係1人しか雇えない畿内説あわれ >>552
>吉備と尾張の合作と考えられる最初の前方後円型の墳丘墓は纏向石塚古墳であり
200年前後には造られていたとされていて、その後266年頃に造られたのは
そうした初期の前方後円型墳丘墓から発展した箸墓古墳ではないか。
「冢≠前方後円墳」であり、
筑紫の那珂八幡などは、266年の後の3世紀後半半ば過ぎであり、
庄内1の石塚は那珂八幡の「進化型」であるから、3世紀末であり、
更に箸墓は布留1であるから、4世紀である。 『弥生時代がどこかで終わり、古墳時代が始まったというのが畿内説のコンセプトだが、遺構や遺物は弥生時代と古墳時代が並行して進展している
つまり複数の文化圏が共存していたということだ
邪馬台国→「銅矛文化圏=九州〜出雲」は弥生文化=鉄器文化が発展し、
狗奴国→「銅鐸文化圏=吉備〜近畿〜東海」は巨大古墳文化を発展させた』
なるほどねえ >>559
世間常識と正反対のこと
言い張っておられますね >>558
ウィキ「纏向編年」にみえる表中の説明では、庄内1式は210年〜250年となっている。
3世紀末というのは庄内3式だ。
なんか、理解に混乱があるのじゃ。 >>558
>「冢≠前方後円墳」であり、
理由のまったく無いアナタの信仰を何度連呼されましても困りますね
>筑紫の那珂八幡などは、266年の後の3世紀後半半ば過ぎであり、
専門の学者たちの研究結果と全然違うことを、素人のおじいさんが理由も言わずに断定なさっても困ります
>庄内1の石塚は那珂八幡の「進化型」であるから、3世紀末であり、
証拠も出さず、事実と正反対のことを言い張られてもも困ります
>更に箸墓は布留1であるから、
現場を調査した学者の報告と全然違うことを、根拠も出さず言い張られても困ります
困った人ですね
九州説って、わざとニセ情報を流してるんですか? >>554
なんでまた、黒塚と椿井が同じサイズで造られたの?
それに、どちらも前方後円墳でしょ。
その前身の墓があるはず。
それはどの古墳? >>561
>今の世間常識が非常識にあたんじゃねえの?
形容矛盾 寸法は非常に問題となるところだよ。知ってなきゃ築造出来ないんだから、以前から独自性のある祖形墳墓があるなら何故漢尺の箸墓なのか?と。 >>567
その箸墓が漢尺で造られているというのは、どんな根拠なんでしょうか。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>569
段築ごとに径を精査して最大公約数を求めた >>555
稲のDNAを調べたら江南由来だそうです。 >>570
狗奴国が沼津ですか、びっくりしました。 >>574
またいつものマジシャン佐藤洋一郎のタネも仕掛けもある現代朝鮮イネを
使うというトリックのインチキ調査結果だろ
おまえはマジックを見せられて
「本当に空を飛んでいる!」
「破いた紙幣が元通りに戻った!」
と言っているだけ >>576
稲作は九州から朝鮮に普及したそうです。
DNAは嘘つきませんよ。 このスレのスレ主さんは奥山さんですか。
あごです、よろしくお願いしますね。 >>575
沼津は都なだけ
当時の東日本最大の集落遺跡の足高尾遺跡群が都
狗奴国領土は天竜川以東から神奈川東部あたりまで >>571
古墳なんかの場合、その長さなどは基底の差し渡しでもって表すと思いますが。 >>577
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本の調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島の調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
. >>559
>邪馬台国→「銅矛文化圏=九州〜出雲」は弥生文化=鉄器文化が発展し、
狗奴国→「銅鐸文化圏=吉備〜近畿〜東海」は巨大古墳文化を発展させた』
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×であるし、
狗奴國は、「南≠東」であるから吉備以東は×であり、
「正北抵新羅の倭國は北部九州」の南であるから、×だ。 >>563
>ウィキ「纏向編年」にみえる表中の説明では、庄内1式は210年〜250年となっている。
3世紀末というのは庄内3式だ。
なんか、理解に混乱があるのじゃ。
ウィキ「纏向編年」の筆者の頭が、
「冢→前方後円墳」や「南→東」などの史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しで、
狂っているんじゃないの?。 >>580
最下段は崩れたり削られたりしてるのが常だから不正確になるんだよ >>577
>稲作は九州から朝鮮に普及したそうです。
九州へは「阿波」から普及したそうです。 @阿波 >>582
>「正北抵新羅の倭國は北部九州」の南であるから、×だ。
その倭国は都が京都府なんだから、○だよ >>579
狗奴国は邪馬台国に敵対していたと思われますが、邪馬台国を奈良に置いたとき、沼津の勢力がその敵対していた狗奴国だという根拠はなんなんでしょうか。 >>583
いくらなんでも、庄内1式が4世紀初頭頃というのはないでしょう。 >>564
>>「冢≠前方後円墳」であり、
>理由のまったく無いアナタの信仰を何度連呼されましても困りますね
「冢」は、錐体や錐体台である事を示す文言である、
という理由は、もう数え切れない位申し上げました。
それを、「理由のまったく無い信仰を何度連呼された」と、嘘つき騙しを宣伝されても、
困りますね。 >>584
しかし、卑弥呼の墓については、造りたてのほやほやを径百歩と書いてるわけですから、まだ崩れてないと思いますよ。 >>563
>ウィキ「纏向編年」にみえる表中の説明では、庄内1式は210年〜250年となっている。
>3世紀末というのは庄内3式だ。
それはもう捨てるべき旧情報
楽浪は230年代末に大打撃を受けて対外活動が衰え、3世紀後半には見る影もない
だから布留0は3世紀半ば過ぎぐらいでないと辻褄が合わないんだ >>264
>>筑紫の那珂八幡などは、266年の後の3世紀後半半ば過ぎであり、
>専門の学者たちの研究結果と全然違うことを、素人のおじいさんが理由も言わずに断定なさっても困ります
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの、大和説学者らの意見を、
理由も言わずに「専門の学者たちの研究成果」と褒め称えて貰っても困りますね。 まあしかし、帯方郡から派遣された張政一行は迎賓所で待機していたので、卑弥呼の墓の現地には行ってないでしょう。
卑弥呼の墓の大きさ径百歩については、倭国の役人から百歩と報告を受けたものをそのまま記録したと思われます。
そして、倭人の一歩は片足の幅ですので、倭国の役人の報告の百歩は魏の単位からすると五十歩に当たります。
そうした単位の誤認がそのまま記録されたのが「径百歩」だと思われます。
ですので、径五十歩は直径65m程度と理解するのがよいでしょう。
箸墓の後円部は直系が約130m程度ですから、卑弥呼の墓としては大きすぎます。
箸墓は卑弥呼の墓ではないでしょう。
卑弥呼の墓は別に求めなければなりませんね。 >>564
>>庄内1の石塚は那珂八幡の「進化型」であるから、3世紀末であり、
>証拠も出さず、事実と正反対のことを言い張られてもも困ります
事実は、那珂八幡のくびれ部は、石塚よりに滑らかである事と、
前方部長と後円部長の比率が、石塚の方が簡単な整数比になっている事であり、
それは、以前から何度も繰り返し説明して来てあることであり、
だがら、石塚は3世紀末になるのであり、」
証拠も出さず、事実と正反対のことを言い張られてもも困ります。 >>593
罵っても反論にならないんだよ
知らないのか? >>588
まさか、久努国(くののくに)も知らない中卒パッパラパーじゃないよね?
ヒント
狗奴国の魏のメインの発音はクノコク >>592
最近の編年では、庄内式は200年頃〜250年頃に圧縮されているようです。
布留0を3世紀半ば過ぎとするのは、そうした編年によるものと思われます。
どんどん圧縮されていきますね。 卑弥呼の塚は久留米御井にある祇園山古墳だそうです。 >>581
絹のDNAを調べたら江南由来だそうですよ、蘇州あたりでしょうか。 >>597
>狗奴国の魏のメインの発音はクノコク
狗奴国を発音で決めてんの? わははははは お粗末すぎ。
「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。 何を考えているんだかwww @阿波 >>595
>事実は、那珂八幡のくびれ部は、石塚よりに滑らかである事と、
滑らかだから古いとか、素人じいさんの思いつき独断だろ?
まったく帰納しない珍説に価値ないでしょ
>前方部長と後円部長の比率が、石塚の方が簡単な整数比になっている事であり、
簡単な整数比だと何で新しいの?
素人じいさんの独断個人説でしょ
価値ない
>だがら、石塚は3世紀末になるのであり、」
要するに素人じいさんが一人で思いついて
根拠もなく言い張ってるんだよね
意味ないよ九州説 >>598
庄内がそんなに長くないのは明らかだもの >>599
>卑弥呼の塚は久留米御井にある祇園山古墳だそうです。
まったく根拠ないけどな >>564
>>更に箸墓は布留1であるから、
>現場を調査した学者の報告と全然違うことを、根拠も出さず言い張られても困ります 困った人ですね 九州説って、わざとニセ情報を流してるんですか?
箸墓には庄内は出土しておらず、全て布留以後であるから、本来は布留1以後です。
それを、「現場を調査した一部ので大和説学者」が、
布留0というインチキ区分けを造作してでっち上げをして、
ニセ情報を流しただけであり、
だから箸墓は、布留の最初期であり、布留1で」いいのです。 >>564
>>更に箸墓は布留1であるから、
>現場を調査した学者の報告と全然違うことを、根拠も出さず言い張られても困ります 困った人ですね 九州説って、わざとニセ情報を流してるんですか?
箸墓には庄内は出土しておらず、全て布留以後であるから、本来は布留1以後です。
それを、「現場を調査した一部ので大和説学者」が、
布留0というインチキ区分けを造作してでっち上げをして、
ニセ情報を流しただけであり、
だから箸墓は、布留の最初期であり、布留1で」いいのです。 そもそも前方後円墳は日本にしかないだろ
つまりもともと日本で生まれたもん
これは否定できないでな >>608
>つまりもともと日本で生まれたもん
「阿波」だよ。 @阿波 >>601
狗奴国の場合、魏の発音とずれていない
クノコク
そのまんま久努国じゃん >>597
奴の字の魏のメインの発音はヌ、ノのようですが、奴国など固有名詞は古音のナで読んだようです。
ですので、固有名詞の狗奴国はクナコクとなります。
しかも、久努の字は久能とも書かれますから、クノーが本来の発音でしょう。
このクノーは沼津湾に注いでいる狩野川(カノ―ガワ)のカノーが変化したものと思われますので、
狗奴国(クナコク)の発音とは、まったく合いません。
別の国でしょう。 >狗奴国の魏のメインの発音はクノコク
狗奴国を発音で決めてんの? わははははは お粗末すぎ。
「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。 何を考えているんだかwww @阿波 阿波先生の仰る通り超大国の河内だよ、その傍らの子分が四国にある >>613
>阿波先生の仰る通り超大国の河内だよ
河内にあるのは、お墓だけ。
「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。 何を考えているんだかwww @阿波 >>611
根拠なし強弁
魏の奴の発音にヌという発音はない
ノだけだ
クノコク
この発音が魏のメイン
ズバリ久努国です >>579
>・・・狗奴国領土は天竜川以東から神奈川東部あたりまで
狗奴國は卑弥呼の女王國の南であり、
卑弥呼の所都は、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って北部九州であり、
だから、「狗奴国領土は天竜川以東から神奈川東部あたりまで」は×な。 >>586
>ザラコク教に入信してないだけだな
この男も、「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説宗教に入信した、というだけだな。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>594
卑弥呼の墓として有力視されている久留米市の祇園山古墳の場合、
墳丘の裾部分にまで追葬とみられる棺が確認されていて、この裾部までを墳墓とした場合、祇園山古墳の裾部の径は約60m程度となる。
この60m程度の大きさは、倭人役人が魏の張政らに伝えた径百歩(一歩=半歩)とぴったり重なる。
祇園山古墳の上部は方墳となっているが、裾部は楕円形となっているので、この楕円部の差し渡しを径と表現したことが考えられる。 >>607
>箸墓には庄内は出土しておらず、全て布留以後であるから、本来は布留1以後です。
はい、ニセ情報ごくろうさま
九州説はウソばかりつくと証明ありがとう >>620
>卑弥呼の墓として有力視されている久留米市の祇園山古墳の場合、
その「祇園山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」なんだよ。 これ、理解できる? わははははは @阿波 >>616
東方語源学
中古音
奴
高本漢ら5氏…nuo
王力…nu
李栄ら2氏…no >>587
>>「正北抵新羅の倭國は北部九州」の南であるから、×だ。
>その倭国は都が京都府なんだから、○だよ
唐会要は、倭國伝と日本國伝とを全く離れた別の場所に書き分けており、
また、同時代にも別個の国として存在した国として書き分けており、
「正北抵新羅」はその倭國伝での記載であるから、京都府にならないんだよ。 >>622
阿波は倭地なんだから、若杉山の朱が九州まで運ばれてOK。
倭の山に丹あり…問題なし。 >>627
>阿波は倭地なんだから
九州は倭地ではないけどね。 @阿波 >>626
>「正北抵新羅」はその倭國伝での記載であるから、京都府にならないんだよ。
でも唐に行った倭国の使者が平安時代の貴族なんでしょ?都は京都府で間違いないね .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>628
そう、九州は倭の国。
阿波は倭地。
ちょっと、へこんだ? >>637
>阿波は倭地なんだから
九州は倭の国でも倭地でもないけどね。 @阿波 >>638
九州はイザナギ禊の郷、ニニギ降臨の里。
すべては九州南部から始まった。
忌部も含めた倭の人民の宗主の地。
何を隠そう、その名も輝く万之瀬王国〜。
一名投馬国ともされるが、これは実はサツマの誤字にすぎない。
列島随一の長い浜には清々しき風がわたり、木の花の色も茜に染まる今日この頃なのだ。
まあいちど、鹿児島へおじゃったもんせ。 >>626
阿部仲麻呂は日本つまり奈良から来ていたでよろしいな
例の歌には序があって、王維は「日本」と言っている
あえて言うなら卑弥呼にも言及している
北部九州という認識は全くない
《送祕書晁監還日本國 [幷序] 王維》
「舜覲羣后。(略)卑彌遣使。報以蛟龍之錦。(略)海東國。日本爲大。服聖人之訓。育君子之風。正朔本乎夏時。衣裳同乎漢制。歴歳方達。繼舊好於行人。滔天無涯。貢方物於天子。(略)」 >>620
祇園山古墳は高さ10m程度の地山の頂上付近を4分の1程度の >>620
祇園山古墳は高さ10m程度の地山の頂上付近を4分の1程度の >>641
>>642
操作ミス。
祇園山古墳は高さ10m程度の地山の頂上付近を4分の1程度削って整地した所へ土盛りして方墳を築造したそうだ。
その下の裾部にかけても削って整えてあるという。
この祇園山古墳を卑弥呼の墓とみなした場合、倭人伝では比較的早く卑弥呼の墳墓を作り上げたように書かれていることと、
この祇園山古墳の方墳部分だけが土盛りしたものであることとは符号するように見える。
箸墓の場合は建設会社の見積もりでは相当な年月を要するとするとしており、祇園山古墳とは好対象といえる。
祇園山古墳はかなり早く築造できたのではないか。
この点、倭人伝の卑弥呼の墓の記述とよく重なるといえる。 >>643
大作冢じゃないから全く重ならないよ
時代も違うし なに言ってんのおまえ?😃
変な言葉を使っちゃってよ
死にたいよ〜だから望み叶えてやろ〜か? >>594
>まあしかし、帯方郡から派遣された張政一行は迎賓所で待機していたので、
卑弥呼の墓の現地には行ってないでしょう・・・
いや、「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人」は、
張政らの実見記録ですよ。
難升米や伊聲耆や掖邪狗のような、「率善中郎將」の印綬を受けた魏の役人らも見ていますから、
いい加減な報告を書いて、皇帝らに知られたら、張政らの首が危なくなります。 >>596
「南」や「冢」や「正北抵新羅」などの史料事実や史料実態に反するウソを付いて、
いくら罵っても反論にならないんだよ
知らないのか? >>597
>まさか、久努国(くののくに)も知らない中卒パッパラパーじゃないよね?
ヒント 狗奴国の魏のメインの発音はクノコク
世間の皆様、この「中卒」貼り付け男は、
話が通じる筈もない嘘吐き騙しの精神的に異常な男のようですから、
現在放置中です。 >>589
>最近の編年では、庄内式は200年頃〜250年頃に圧縮されているようです。
布留0を3世紀半ば過ぎとするのは、そうした編年によるものと思われます。
どんどん圧縮されていきますね。
そうですね。
通説大和説学者らは、文科省や一部マスコミの許容をいい事に、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しに、盛り上がっているようですね。 >>602
>>事実は、那珂八幡のくびれ部は、石塚よりに滑らかである事と、
>滑らかだから古いとか、素人じいさんの思いつき独断だろ?
まったく帰納しない珍説に価値ないでしょ
どなたか?の学者さんクラスのお方の説明であったの。
>>前方部長と後円部長の比率が、石塚の方が簡単な整数比になっている事であり、
>簡単な整数比だと何で新しいの?素人じいさんの独断個人説でしょ価値ない
権力の交代などのような遺族や政権の崩壊がない限り、
次代のセレモニーは前代のセレモニーよりも、見すぼらしくならないようにするものであり、
だから、墓の形や見栄えは、少しずつ改良され、進化していくものなの。
>>だがら、石塚は3世紀末になるのであり、」
>要するに素人じいさんが一人で思いついて根拠もなく言い張ってるんだよ
意味ないよ九州説
マスコミに皆さま、
要するに、「大和説という結論先にありき」の大和説学者らは、
根拠もなく「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをして、
世間の人々やマスコミを騙そう、としているんですよね。 >>608
>そもそも前方後円墳は日本にしかないだろ
つまりもともと日本で生まれたもん これは否定できないでな
モンゴルや、高句麗などの半島に、前方後円墳形の墓があったそうです。 >>610
>狗奴国の場合、魏の発音とずれていない
クノコク そのまんま久努国じゃん
音韻論は絶対的な根拠になり難いです。
文字文化の国々では、文字の一致や意味が、非常に確率の高い証拠になります。 653
どこにあるん?
古墳なんか作られる前に弥生時代に多く作られたんで支石墓制ってんがあるんだぞ
これが朝鮮半島南部や北九州および長江入江あたりに痕跡が見られる
前方後円墳が発祥したのは日本だぞ ちょうど大和墓制と出雲墓制の中間あたりや
これを受けて発祥したものと思われる >>621
はい、ニセ情報ごくろうさま
土器編年のような編年では、順番の番号付けの必要があれば、
普通は「1」から始めるものであり、
「0」を付けるのは、上司らの「1」からの編年を否定出来ずに、
上司らにおもねって造った造作のインチキ編年です。
九州説はウソばかりつくと証明ありがとう 九州で前方後円墳が盛んに作られるよ〜になったのならその勢力が九州に移って作られた可能性が高い モンゴルあたりに前方後円墳があるならそいつらはその時代に日本にきていた勢力ってなるわな😃
その連中らがモンゴルに移り作ったとしかならんぞ >>624
>東方語源学
中古音
奴
高本漢ら5氏…nuo
王力…nu
李栄ら2氏…no
魏代には、中国ではまだは匈奴が残存していますから、
魏の役人らは「奴」は、「do」と発音した、と思いますね。 >>655
>前方後円墳が発祥したのは日本だぞ
大雑把すぎ! 発祥したのは日本の「阿波」だぞ。 わははははは @阿波 >>658
>九州で前方後円墳が盛んに作られるよ〜になったのならその勢力が九州に移って作られた可能性が高い
だから、筑紫忌部 だと、何度言えばw @阿波 >>630
>>「正北抵新羅」はその倭國伝での記載であるから、京都府にならないんだよ。
>でも唐に行った倭国の使者が平安時代の貴族なんでしょ?都は京都府で間違いないね
唐代の白村江で大敗して大和日本国に併合吸収継承された九州倭國は、
それでも、平安期まで、日本国内での「半独立的な権威のある国」として存続していて、
新羅や渤海などの使節の渡来もあり、
宋代には、太宰府の国が宋に国交を求めて遣使を派遣して、断られた事もあったの。 >>640
>阿部仲麻呂は日本つまり奈良から来ていたでよろしいな
例の歌には序があって、王維は「日本」と言っている
いや、その「歌」では、阿倍仲麻呂の帰る所を、
日本の中の「九州」と表現している事になる。
>あえて言うなら卑弥呼にも言及している 北部九州という認識は全くない
《送祕書晁監還日本國 [幷序] 王維》
「舜覲羣后。(略)卑彌遣使。報以蛟龍之錦。(略)海東國。日本爲大。服聖人之訓。
育君子之風。正朔本乎夏時。衣裳同乎漢制。歴歳方達。繼舊好於行人。滔天無涯。貢方物於天子。(略)」
情報提供、有難う。
「卑彌」の名前を出したんなら、王維は、
白村江の後で、大和日本国が九州倭國を併合吸収継承した、
という事も知っている。 元小国の日本が倭国を併合したというのは乙巳の変のこと、大化の改新
倭国は新羅、日本は百済は基本。 邪馬台国の最後は筑紫君磐井の乱、そのご大分に秦王国を建設 百済から来た連中らの日本での配置先は記録に取ってあるよ 従五位以上には入れなかったから地方の役人に当てられたりしたんだろ その集団らを集めて郡を設置し郡司となったやつらもおる😬
あまりバカな主張しているとおまえらの命取りだぞ 新羅からきたやつらも新羅族としてまとめて住み着いたりしたがこいつら反乱ばかり起こしたんだとや😬
どうもこいつら日本と向こうの貿易に割り込み自分らが儲けることを狙っていた節があるからな
新羅人らは賊レベルのやつらしかおらん😃
そらが日本におけるやつらの評価だ😊 >>666
>倭国の都は大宰府ですよ。
北部九州は、倭国(阿波)を皮切りに、後に続く代々王権の防人出先機関でしかなかった。 @阿波 >>667
>元小国の日本が倭国を併合したというのは乙巳の変のこと、大化の改新
元小国の日本とは、8世紀以前の田舎の奈良盆地のこと。
倭国とは、奈良大和遷都まえの倭国(阿波)。 @阿波 朝廷に出仕できるの従三位以上やぞ
これを内裏と呼ぶ
それ以下は朝廷に出仕できなえんだよ
役につけば京都の周りの警護くらいや 天皇に面会することもできないしな
将軍や大将ならそれ以下でもなれる 小国?
継体王朝のこと指してんじゃねえの?
もともと婿入りだしな 西暦507年に於保土王(おほどのきみ)が婿入りで大王家に入ってるがもともと分家なんだよ😃
大王家本家は内紛だなんだで皇党が途絶えたの
継体天皇が即位してからはやたら言うこと聞かない連中らが増え出してきたわけ 中国の記録ではこれ日本の王って認めてなかった節があるからな
継体天皇が即位したときの立役者が物部麤鹿火だの大伴金村だのだぞ
蘇我氏は滅んだ葛城氏と関連あるから!ってんで台頭してきた連中らなわけ
そんで旧葛城領の支配領域を天皇に対してよこせ!😬ってんで主張してやがて滅ぼされた 九州磐井は新羅と手を組み反乱おこすだろ
継体派の物部麤鹿火将軍が乗り込み築紫一族を討伐したわけな
半島には近江毛野将軍が乗り込み百済、新羅、伽耶の将軍らに対してすぐさま登城って命令を下したわけ
伽耶の将軍らは倭軍と連合していたし百済は軍議に参加できなかったことからやがて日本離れに繋がったと言われとる
新羅は最初から下級役人しか送ってこなかった 倭国が握っていたのは向こうの国の王権じゃないの
軍事権、つまり現地の将軍らに対して命令を下せる権限 新羅に対してしつこく要求したら最後は軍勢を率いて乗り込んできたんだとさ😃
これ完全に独立して動いてるだろw 高句麗はもともと敵や😃
敵として戦い続けて最後はお互いに和睦して同盟となった
高句麗滅んだあとは渤海に後継国を作ったことも当然、日本では知っとる
通商や貿易もやっていたから情報もはいるしな 刀伊の入港では同盟国の渤海が荒らしたらしいが最初はしんじなかったらしいからな
だから向こうに調査に乗り込んだ連中も現れた 昔は武士団なんておらんからほとんど成人男性3人の中から1人だせみたいなんで諸国に対して命令をだし兵隊を集めたらしいんだ
この賦役がハンパなくきつかったらしいからな >>664
>唐代の白村江で大敗して大和日本国に併合吸収継承された九州倭國は、
それでも、平安期まで、日本国内での「半独立的な権威のある国」として存続していて、
そんなラノベ書いてるから
九州説は学問と認められない身分まで落ちぶれた 新羅は手切れからは完全な敵やろ
これが西暦507年から
当然向こうから来る連中らに対しても制限をかける
新羅系氏族ほとんどおらんやろ
向こうから逃げ出してきた連中らのみを日本では受け入れたらしいからよ
そんな連中らでもやがては日本内で反乱を起こしたらしいだ
そんときから完全に締め出し もともと新羅の王家は倭人王朝らし〜けどな
ただそんだけ
味方だった時代はない😃 新羅滅んだあとは中国系の王朝の高麗が建国された
もともと祖先が唐の王家から出た子孫だのらしいからな
ニセ高麗が出現した
当然、公的な貿易なんかやっとらん >>672
おやおや、百済の末裔さんですか。
そんなに新羅が憎いとは、、、、 旧唐書の日本が倭国を併合したというのは乙巳の変、、大化の改新、それまでは九州倭国元号。
新唐書の倭国が日本を併合したというのは壬申の乱で親唐、親新羅の大海人王子が勝って
天武天皇政権が誕生したことを意味します。
旧唐書、新唐書の記述が相反するのはこういうこと。 隋と国交結んだのは阿毎多利思比孤大菩薩天子(聖徳太子)やけどな 日出る処の大菩薩天子、日暮れる処の隋国皇帝菩薩天子に連絡いたす😬
恙無きよ〜😊 西の国では菩薩天子が仏教を隆興させていると聞く😬
ならんのよ我が国から修行者らを渡来させるからぜひ学ばせてほし〜!って申し込んだの 日本に仏教が導入され始めたのが西暦552年
蘇我氏が賛成派だったらしいが本人もかなり仏教にのめり込んだらしいだ😬
なんかどっかから娘を三人選び出しその者らに仏教にちなんだ名前を与えて仏教の本尊として崇めたらし〜だ
その者らの前で拝んでいたらし〜ぞ 百済とか言っとるが百済は西暦512年に任那四郡の割譲を日本側に要求してんだぞ
そらぞれみな独立して動きだしてんだよ 武烈天皇の宗家が滅んだろ
応神天皇以来、将軍なんかを出した氏族としては平群将軍なんてのもある
この時代は内乱時代だから日本でも古代氏族なんか滅んでるんだよ
葛城氏も滅んだ、平群氏も滅んだ 継体天皇の家柄は半島に対して朝貢しろ、指揮下に入れだの言ったことはない😬
百済の王らがそのあと日本に来ることもなくなったしな
日本から指図することもなくなった
どちらかと言えばその影響によりど〜なるかみな確認しながら動いている
日本と高句麗が同盟したのはそのあと >>694
阿海多利思比孤は隋に怒られましたね、倭国は唐と仲良くなりました。 継体天皇は北百済の皇子であった(ふむ
畿内の前方後円墳のあとに百済に前方後円墳ができました。
百済は畿内政権が作ったということ。 あきれたもんだな
よくそんな妄想がでるもんだ
ほんと都合のいい連中らや 日本書紀での武烈天皇の書かれかたを見ると体制がかわったというみかたが
多いですね。 その他人と自分らを同一視するクセやめた方がいいぞ😃
気持ち悪いだけだからよ 継体天皇はもともとは越前あたり出身の小領主だからな
57歳で天皇に即位した
武烈天皇の姉(当時20代)と結婚してな 他にも候補いたがみんな怖がって逃げちまったんだよ
相続するのを受けたのが継体天皇なの😬 705
ならてめえがやってみ😬
あっと言う間に殺されるからよ そいからさ
なんで他国から来てる皇子とやらが日本の天皇になれるんだ?
まず候補にすら上がらないぞ
天皇家から枝分かれしたのは主に山王家ってんでそれぞれ自分の領地に住んでるの そんなん企てたならそいつら皆殺しだ😃
当たり前だろ 百済から来た王族らみたいなんもあくまで百済を相続させるための存在なの
日本の王族が百済の皇帝になることもないしな
百済滅んだのならそいつらはどっかに養子にだしてその家を継がせるくらいやでな
結婚させたりしてな ほんと日本乗っ取られてんじゃねえの?
あまりにも常識ないやつらが多いぞ 下手に日本内で中国の皇帝の子孫だの朝鮮の王族の子孫だの名乗るのがいればそいつらは正統性では向こうの王権よこせ!だの主張できるって話にはなるわな
そゆのは過去の例から見ても認められない😃
日本内でも同じ
日本の場合はとくに連合会議開いて推薦された場合のみ継承が決まる 適任者おらんならいつまでも空位の場合もある
それでも別に困らん
摂政おけるからな
あとは皇族の女性らを引き継ぎとして天皇に立てる場合もある
女性皇族だのあったがあんなイギリスの真似みたいな存在は日本にはおらん >>692
>旧唐書の日本が倭国を併合したというのは乙巳の変、、大化の改新、それまでは九州倭国元号。
そういう妄想するわけは? 1300年前の大和朝廷のお役人に、今もっていいようにあしらわれている伊都/怡土クズ(笑) >>665
>いや、その「歌」では、阿倍仲麻呂の帰る所を、
>日本の中の「九州」と表現している事になる。
おかしなことを言うね
お前の説だと倭国が併存しているはず
ゆえに「日本の中の」という表現は論理的におかしい
当時、現在の九州地方を「九州」と呼称する根拠が無い
阿倍仲麻呂の帰る所は、日本(大和)である
>「卑彌」の名前を出したんなら、王維は、
白村江の後で、大和日本国が九州倭國を併合吸収継承した、
という事も知っている。
王維には、卑弥呼が居た所も阿部仲麻呂が帰る所も日本(大和)だという認識しかない >>665
ヤツは、未だに古田の周辺を駆け回っているホラ吹き .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>724
旧唐書の日本が倭国を併合したというのはどんな出来事だと思いますか?
新唐書の倭国が日本を併合したというのはどんな出来事だと思いますか? >>730
絹が江南由来だということを認めましたね。
七福神が宝船に乗り九州に絹を持ってきたのです、招き猫も乗っていましたね。 >>731
「阿波」以外、答えられるわけないだろ? @阿波 特に中国、朝鮮のやつらは先祖伝来の族譜と言ったものを保存していると聞く
ならそれを頼りに新たな自分らの王を決めることも可能なんだよ >>734
「壬申の乱」での大海人皇子 吉野挙兵行軍
・奈良吉野の宮→→岐阜県不破関(吉野の険しい山越えで、しかも女人連れ) 4日間で170km走破
・4日間で手勢30人→3万人に急増兵」
常識的に考えて、これは不可能である!
これを愚直に信じている人は畿内説だけ? それとも九州説も?
ちなみに、16世紀の整備された主要街道行軍の「秀吉中国大返し」ですら「備中高松城→山城国山崎 230km 10日」である。
壬申の乱の舞台も、もちろん「阿波」での出来事。 @阿波 そもそも首露王が国を作りだしたときに出回り始めたのが弥生式土器
倭人らが増えてきて国勢が高まった結果が狗邪韓国の建国と言われとるわけ
首露王墓の周りからは弥生式同盟でとるけ
これが後に名を変えて伽耶となる 伽耶諸国には大国は存在しない
それぞれが将軍レベルの連中らだからな
つまり自分らの王を担がなかったわけ
これが伽耶連合 古墳は朝鮮半島南部には広がらなかったが史石墓制と言う墓制は存在したわけ >>734
「壬申の乱」での大海人皇子 吉野挙兵行軍
・奈良吉野の宮→→岐阜県不破関(吉野の険しい山越えで、しかも女人連れ) 4日間で170km走破
・4日間で手勢30人→3万人に急増兵」
常識的に考えて、これは不可能である!
これを愚直に信じている人は畿内説だけ? それとも九州説も?
ちなみに、16世紀の整備された主要街道行軍の「秀吉中国大返し」ですら「備中高松城→山城国山崎 230km 10日」である。
壬申の乱の舞台も、もちろん「阿波」での出来事。 @阿波 西暦507年以降は日本からの半島への関与権は消滅したと見てよい
これを推進してきたのは前大王家やからな
日本が高句麗との同盟を結んだ時点で半島の統治権は高句麗にあると認めたのと同じ
こらを持った日本側からの半島における支配権は消滅した 魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡
この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。 @阿波 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! そうです、新唐書の倭国が日本を併合したというのは壬申の乱のことです。
白村江の戦いのあと唐が大宰府に乗り込んできて天智天皇を暗殺しましたね。 >>660
奴は、手と女の会意字で、発音を表すのは女の字によります。
そこで、東方語言学によりますと、
女は上古音でnio、nia、naとされ、中古音ではnio、nai、neiとされています。
このために、奴の字の発音は上古音ではno、naとされ、中古音ではnuo、nu、noとされるわけです。
奴の発音は、女字の発音に従っているということですね。
これらの発音の中にdo音はみられません。
ただ、日本の藤堂明保は、奴の中古音にnoとともにndoの音を認めています。 古田説によると壬申の乱は熊本の大津の出来事だそうですか、違うと思っております。
阿波さんは、そうですか >>653
それ、クルガンという積み石墓の系統ね。 >>648
張政らが卑弥呼や倭国の高官らに直接会ったという証拠はありません。
一方、会っていないとする根拠は、「檄(ゲキ)」の字にあります。
倭人伝には、張政は檄文を作って難升米らに告諭した、と書かれています。
檄は、文書をしたためてこれを相手に送ることを意味する文字です。
ということは、張政は告諭の文をしたためて難升米に送ったという意味になりますから、張政は難升米に会っていないことが分かります。
また、女王になった台与にも告諭しますが、この際も「檄を以て」と書かれています。
これらのことから、倭に赴いた張政一行は迎賓所に逗留していて、そこから檄文を送っていたことになります。
会っていないのです。
張政によるすべての内容は、倭国の役人からの伝聞ということになってきます。
ですので、魏本国は張政が卑弥呼らに会っていないことは承知していたということですね。 >>644
研究によると、祇園山古墳の方墳自体はこの時期の帯方郡の墳墓よりやや小さめであることから、
魏の墓制の範囲に収まるものだとされている。
しかし、地山の裾の差し渡しは60mほどあるので、地山の裾までを含めた全体は決して小さくない。
これは、倭人伝の「大いに冢を作る」とする記述と符号するね。
築造時期は3世紀中頃とする研究がある。 >>666
>倭国の都は大宰府ですよ。
さすがにこれはバカだろう >>753
「されている」ってどこの阿呆にされているんだ?
地山の大きさが「冢を作」ったサイズだとか
言ってることが馬鹿すぎるだろう 卑弥呼に謁見できたかどうかは分からないけど、王宮や卑弥呼陵には行ってると思うぞ
でないと、
「ただ、男子一人がいて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の
住んでいる所に出入りしている。宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、
武器を持ち守衛している。」
という具体的な描写ができんだろ >>600
>絹のDNAを調べたら江南由来だそうですよ、蘇州あたりでしょうか。
ふーん。 魏使は卑弥呼に会っていないとおもわれます、なにしろ狗奴国と戦争状態ですから
魏使にもしものことがあったら大変です。
ということで里程は途中で終わっています。 >>752
>ということは、張政は告諭の文をしたためて難升米に送ったという意味になりますから、張政は難升米に会っていないことが分かります。
馬鹿か?
それじゃ黃幢を拝仮できないだろ >>753
>築造時期は3世紀中頃とする研究がある。
どこに? >>657の訂正はい、ニセ情報ごくろうさま
土器編年のような編年では、順番の番号付けの必要があれば、
普通は「1」から始めるものであり、
「0」を付けるのは、上司らの「1」からの編年を否定出来ずに、
上司らにおもねって造った造作のインチキ編年です。
大和説学者はウソばかりつくという証明、ありがとう >>762
ザラコクったら、また偽情報流してるの? >>762
寺澤の編年は単独研究だから上司とかいない
布留式成立前の庄内式最終段階を、布留前夜という意味でゼロと命名しただけ
九州説はニセ情報が好きだなあ >>761
宝賀寿男。
ウィキ「祇園山古墳」の中の「卑弥呼の墓説」参照してちょ。 >>753
畿内の前方後円墳の方が
もっと大いに冢を作る >>680
>継体派の物部麤鹿火将軍が乗り込み築紫一族を討伐したわけな
少し違うな。
九州倭國は「東海姫氏國」とも呼ばれ、倭王武の次の倭國王哲まで、姫氏が王家であった。
しかし、倭國王哲で、姫氏王家が途絶えて、
阿毎氏の伊都国系の磐井が、久留米や高良大社で倭國王を継いだ。
そして、阿毎氏系であった大和の継体の配下の物部は、高良大社に関係があり、
突然三井まで来れて、反乱を起こし、倭國の皇子らの殆どを殺戮したが、
磐井は負傷して、豊前まで逃げてそこで亡くなり、
物部軍は必死に探したが、見つけられなかった。
そして、肥前肥後豊前豊後の倭國軍や、(阿毎氏系の)伊都国や、半島の倭國軍が、
磐井の救援に出てくると、物部軍はたまらず、磐井の遺児の葛子と講和し、
糟屋の屯倉を獲得して、秦王國として倭國王家の一員になり、
九州倭國の王家に参加出来る事にし、太宰などの執政にもなれる身分になり、
更に、宣化らが九州支配を強化し、欽明や推古が筑紫に「宮」を造り、
難波にも九州倭國の分都を建設した、
というのが、白村江までの経過なの。 >>760
拝仮は、必ずしも直接手渡すことを意味しない。
謹んで一時的に与えるというもの。
魏の皇帝が卑弥呼の朝貢への返礼使を遣わしたときにも詔書と印授を倭王に拝仮したと書かれており、
これは、魏の使いが直接卑弥呼に詔書と印授を手渡したことを意味していない。
それと同じで、難升米への拝仮の語句は直接手渡したことを意味しないといえる。
そして、それに続けて、檄文を作って難升米に送ったと書かれているのだから、難升米は拝仮のその場にいないことが分かるのよ。
つまり、張政らは難升米に会っていない。 つまりな
天皇家本宗家が途絶えたんだよ
それにより新羅は自らの宗主権を主張しだし百済は独立志向となり高句麗は自らの力を誇示しだしたってことだよ
日本は新王権と同じだから前と同じよ〜な政策は取れないんだよ >>692
>旧唐書の日本が倭国を併合したというのは乙巳の変、、大化の改新、それまでは九州倭国元号。
新唐書の倭国が日本を併合したというのは壬申の乱で親唐、親新羅の大海人王子が勝って
天武天皇政権が誕生したことを意味します。
違うな。
旧唐書も唐会要も新唐書も、
旧小国の附庸國であった大和日本國が、九州倭國を併合九州継承したのは、
白村江の後であり、
正式には「大宝元年」の建元から。 >>769
東海姫氏国は耶馬臺詩なので邪馬壱とは音が違う >>770
そもそも、魏の皇帝の使いが激戦中の戦線のある危険な邪馬台国へ行くわけがないし、
卑弥呼の側近の難升米が戦線を離れて迎賓所へ赴くこともない。
それが常識よ。 そおなればそのあとどお動くか確認して確かめながら行動しないと命取りになるんだよ
実際に領土を割譲しろだの勝手に同盟結ぶだのやってるだろ
そのあと日本から自ら出兵したのあるか? 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 太宰府におったのは物部一族
麤鹿火が九州を平定したときから物部将軍が太宰府を抑えていたからな 朝鮮における軍事指揮なども物部将軍がみな取ったの
白杉江で敗れたあとは主兵残して撤退だよ普通に >>694
>隋と国交結んだのは阿毎多利思比孤大菩薩天子(聖徳太子)やけどな
少し違うな。
隋と国交を結んだのは、阿蘇山のある俀國の「姓阿每,字多利思北孤,號阿輩雞彌」。
大和日本國は、小野妹子を隋文帝に派遣して日本國を申請したが認められず、
中国に認められたのは唐の「武徳中」になってからであり、裴世清の渡来も武徳中。
だから、大業3年の隋への遣使は、書紀の造作。
また、「聖徳太子」は、書紀の盗用造作文言であり、
「聖徳」は利歌彌多弗利の仏教年号であった。 >>780
>大宰府におったのは物部一族
その物部一族も「忌部一族」 @阿波 応神天皇〜武烈天皇の時代は平群氏なんかが朝廷における将軍の家柄みたいなんで強かったわな
これ武烈天皇が平群氏の勢力を恐れて宗家滅しちゃったんだよ
あとは皇后をだすばき家柄の葛城一族も滅んだ
継体天皇の時代から軍事氏族として台頭してきたのが物部一族やぞ
なんせ継体天皇に天皇になってくれ!って出迎えに行ったのが物部麤鹿火だからな >>784
>継体天皇の時代から軍事氏族として台頭してきたのが物部一族やぞ
その物部一族も「忌部一族」 @阿波 蘇我氏なんてのはもともと葛城氏の家臣だったやつらなんだよ
葛城氏の地盤を引き継ぐ形で台頭してきたの
みな継体天皇以降に台頭してきた連中らばかりなんだよ >>786
>蘇我氏なんてのはもともと葛城氏の家臣だったやつらなんだよ
その蘇我氏も葛城氏も、「忌部一族」 @阿波 >>700
>日本に仏教が導入され始めたのが西暦552年
大和日本國への仏教伝来は、538年や552年説があるが、
筑紫の雷山の千如寺では、400年頃の渡来僧伝承が残っており、
熊野の那智山にも仁徳の頃の渡来僧伝承があるらしい。 788
それ導入違う
仏教を信仰していた連中らは確かにいたがそいつら向こうから来て住み着いた連中らだけ >>767
石野博信は、祇園山古墳を祇園山墳丘墓としているそうだ。
墳丘墓は弥生時代の墓を指している。 中国あたりから来て九州あたりに住み着いた連中らくらいいるさ
だが国家として仏教を取り入れるってことはそれを公布するってことだぞ >>788
「得道山灌頂院大野寺」(とくどうさん かんちょういん おおのじ)
天智天皇の勅願により、同天皇2年(663)に現寺域の西方、大野島御所原に創建された。
その後、平安初期に嵯峨天皇の尊崇を得て、七堂伽藍が整えられた。
しかし、度重なる吉野川の氾濫に被害を受け、文亀年間に現寺域の北方、山野上白坂に移転、享保年間に現在地に移転した。
四国八十八ヶ所札所となっている切幡寺と土成町秋月の光福寺は、大野寺の末寺であった。
天智天皇十年、病床に臥した天智天皇は、皇太弟大海人に即位を求めたが、大海人は固辞し、
「私は出家して、天皇のために功徳を積みたい」と申し出た。そして、天智天皇が創建したこの寺で得度し、灌頂を受けた。
これが当寺の山号院号の由来である。 @阿波
https://omairi.club/spots/86432/point?post_id=42549#42549 >>791
>石野博信は、祇園山古墳を祇園山墳丘墓としているそうだ。
その祇園山古墳の水銀朱が「若杉山辰砂採掘遺跡」の水銀朱という落ち。 わははははは @阿波 日本のやつらで公式に僧になる連中らもいないしな
またそいつらに寺社領を支給することもないし布教もできない
あくまでそいつらだけの信仰 >>768
>畿内の前方後円墳の方が
もっと大いに冢を作る
その通りだけど、畿内の前方後円墳のことについては、倭人伝は何も言及していないし。 >>728
「南→東」や「冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定のウソ以外のこと言う大和説のひとは、
実にまれ >>729
「南→東」や「冢→前方後円墳」や、「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定のウソ以外のこと言う大和説のヤツは、
未だにフジモリの周辺を駆け回っているホラ吹き それにしても、『』で調べてみた?
扇風機の話をしている人達もいるし、すとーかーなのかな。
あの老婆談、
お尻から空気が入り、死んだ人の話、なぜか男だと言っていたり。
扇風機を、かけたまま(つけたまま?)寝てしまって・・・。 >>731
>新唐書の倭国が日本を併合したというのはどんな出来事だと思いますか?
新唐書には、「倭国が日本を併合した」とは、書いていない、
と思うよ。 >>795
魏の皇帝が卑弥呼に贈った品々の中には「鉛丹五十斤」があり、
この鉛丹が祇園山の石棺に塗布された可能性も考えられる。
あるいは若杉山の朱であったとしても、献上品であることが考えられる。
下賜品とは考えにくいな。 詳しいことは、わからないけど
『尻子玉』・・・そういう話もあるし。 同じようなネタがあるんだけど、ジョジョ(SBR)?
馬に乗って・・・とか。 金官国は古墳作った形跡ないからおそらくは安羅王が古墳作ったと思うがな >>803
>下賜品とは考えにくいな。
いや、筑紫忌部の親分に対する哀悼の意を示す葬儀の下賜品だよ。 @阿波 >>770
假は、「今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 【假】銀印綬」のように
直接本人に与える場合にも【假】
印綬のように位を示すものや皇帝軍旗の黄幢は仮す=貸す
後で返さなければならない >>770日本@名無史さん2020/09/19(土) 17:55:12.26>>776
>760
>拝仮は、必ずしも直接手渡すことを意味しない。
>魏の皇帝が卑弥呼の朝貢への返礼使を遣わしたときにも詔書と印授を倭王に拝仮したと書かれており、
魏の皇帝が、、詔書と印授を倭王に拝仮したとは書かれていない、
口から出まかせ、ハチャメチャ、書かれてもいないのに適当な講釈を付けてしゃべくる口裂け男奴。 >>764
>寺澤の編年は単独研究だから上司とかいない
布留式成立前の庄内式最終段階を、布留前夜という意味でゼロと命名しただけ
寺澤が普通の学者や人間であったんなら、
「庄内式最終段階」であれば、その前が庄内3なら、「庄内4」と命名するもの。
大和説者はニセ情報が好きだなあ >>770
いずれにしても、祇園山古墳の楕円形状の裾部の差し渡しが60m程度の規模であり、
この裾部にも棺が追葬されているので、裾部までを墳丘とみなすことが可能だ。
楕円形差し渡し60mといえば、倭人歩(1歩=半歩)ではおよそ百歩であり、
倭人の役人から報告を受けた張政がそれを魏の1歩(半歩の倍)だとして、そのまま百歩と記したと考えれば、何の問題もない。
こうしたことから、祇園山古墳が卑弥呼の墓である可能性は最も高いといえる。 >>765
「南→東」や「冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」に否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しのような、
無知と傲慢が大和説の核 たしか、ジョジョ(SBR)だった、
『超時空要塞』のようなキャラもいたり。 >>768
>畿内の前方後円墳の方が もっと大いに冢を作る
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
「前方後円墳≠冢」であるから、×。 なんでそないに必死だや?😃
見てると無理矢理、中国あたりの王朝と結びつけたがる連中らおるが?
そゆやつら日本に来てもみなヤマト朝廷の指揮下に入ってるよ 『愛・おぼえていますか』?
同じようなシーン『尻子玉』〜『SBR』とあるキャラなど。 >>810
正始元年の記述だ。
「…奉詔書印授詣倭国拝仮倭王…」
調べろよ。 >>775
>東海姫氏国は耶馬臺詩なので邪馬壱とは音が違う
いや、日本書紀私記には、「東海姫氏國=倭國」と、はっきり書いてある。
また「耶馬臺詩」ではなく「野馬臺詩」であり、
文字が恣意的に選択されている可能性がある「詩」であるから、
100%全面的な根拠にはなり難い。 可能性が高いという表現は、10のうち3程度の確かさのこと
誉め言葉がないときに使う素人相手のまやかしだな >>789
>邪馬台国はどこにあったのかそろそろ決着つけよう
・・・九州説劣勢だぞ
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
始めから「ヤマト説=大和説」を宣伝するための「結論先にありき」の、
造作インチキ文言であり、
そんなインチキ文言を使う詐欺師の人間は、始めから×人間であるから、
根拠にもならないし、信用も出来ない。 何かの家なのかな?
つーちゃん(5ちゃん)などではないんだけどw
戦前〜戦後、川崎区・・・、家の周辺の話をしている人もいるし。
ほとんど同じような? >>809
仮の字は、動詞として用いるときは「一時だけ貸し与える」の意味。
この仮は「一時だけ」の意味に重点がある。
一時だけ与えるということは、貸しておくことを意味することになる。 >>803
>魏の皇帝が卑弥呼に贈った品々の中には「鉛丹五十斤」があり、
この鉛丹が祇園山の石棺に塗布された可能性も考えられる。
あるいは若杉山の朱であったとしても、献上品であることが考えられる。
下賜品とは考えにくいな。
ふーん、成程。 卑弥呼の話は知らんが墓制から考えれば弥生墓制というものが存在したのは北九州から半島南部だぞ 謎の写真の子供w
制服を着ているけど、軍人でもないような?という話もしている。 しつこく繰り返すやつらは結局は日本の歴史自体を否定してるだけなんだよ😃
どこの工作員だおまえら😬 老婆談、なぜか『日本昔話 石楠花』の話もしているし。 宣言をしつこく繰り返し日本側から見た意見を封じるならそれは乗っ取りかけよ〜としてる連中らに対して協力してるのと同じだぞ
それ行き着くとこど〜なるか分かるか?
向こうの軍隊を日本に招き寄せる協力してんだよおまえらがな なぜか、むかーし(かみよ?)の芸能関係w
『天財若子』 以前から言っている事なんだけど、お前たちの解釈は必要ないw
王母〜龍宮と書いてある家(人物)があるでしょ? >>811
>魏の皇帝が、、詔書と印授を倭王に拝仮したとは書かれていない
「太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,并齎詔賜金、帛、錦𦋺、刀、鏡、采物」
だから、
太守弓遵が、建中校尉梯儁等を遣し、詔書印綬を奉して倭國を詣ぜしめ、
倭王に拜假せしめ、并せて詔、賜金、帛、錦𦋺、刀、鏡、采物を齎らしめた、
だから、
建中校尉梯儁等は倭王に直接拜假したんだろうなあ。 どこだったかな、土俵もあって・・・という話もしているし、
相撲が好きだった、でも相撲取り、関取ではない。 >>770
>拝仮は、必ずしも直接手渡すことを意味しない。
>謹んで一時的に与えるというもの。
そんなこと決め付ける理由は? >>791
>石野博信は、祇園山古墳を祇園山墳丘墓としているそうだ。
>墳丘墓は弥生時代の墓を指している。
証拠は? >>819
12世紀の版本以降にしかない邪馬壹は他の史書には引用されていないから
「因詣臺」の存在によって文字が恣意的に選択されている可能性がある >>811
>「庄内式最終段階」であれば、その前が庄内3なら、「庄内4」と命名するもの。
あんたが勝手にそんなこと決めて他人に命令できて、他人がそれに従わないと罵るとか
九州説のひとは傲慢だなあ 学者によっては庄内式から布留式への過程は
布留式傾向甕、布留式影響庄内形甕という言い方もする >>824
>仮の字は、動詞として用いるときは「一時だけ貸し与える」の意味。
この仮は「一時だけ」の意味に重点がある。
一時だけ与えるということは、貸しておくことを意味することになる。
検索では、
「假とは、かり/一時的な間に合わせ/臨時/かりになどの意味をもつ漢字」
とあり、「仮」よりも少し広い意味であるが、「仮」とかなり近いほぼ同じ意味。
いずれにしても、「拝假倭王」は「皇帝や太守弓遵に代わって仮に倭王に拝し」の意味であり、
「詔賜倭難升米、黄幢付郡假授」の「假授」は「黄幢は付郡して郡より假授す」の意味であり、
「遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢,拜假難升米為檄告諭(但し口偏)之」の「拜假」は、
「難升米に仮に(代わりに)拝し、檄を為して之を告諭した」という意味であり、
張政等は卑弥呼に直接面会していない。
つまり、卑弥呼は病床にいた、という事を暗に示している事になる。 駆け落ち?したんだったかな〜・・・、ほとんど同じ話をしている。 >>844
>布留式傾向甕、布留式影響庄内形甕という言い方もする
何れにせよ、「東阿波型土器」だよ。 纏向で出る土器はほとんどすべて「東阿波型土器」。 @阿波 >>845
>「遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢,拜假難升米為檄告諭(但し口偏)之」の「拜假」は、
>「難升米に仮に(代わりに)拝し、檄を為して之を告諭した」という意味であり、
>張政等は卑弥呼に直接面会していない。
九州説さん
デタラメは、いい加減にやめない?
難升米には逢ったんでしょ?
「つまり、張政らは難升米に会っていない」
がウソなのは確実 >>836
その資料を探したけど、どこかへ潜り込んでしまったようで、みつからない。
確かに、石野博信がそう話していた、と書いてあった。
そのサイト、またそのうち出てくるかもな。 >>851
石野博信が言ったことより確かなことは、「忌部はん」 のお墓だということ! わははははは @阿波 箸墓は3C後半の陵で被葬者は百襲姫という女性
卑弥呼が249年頃に崩御して、次が男王で、次が266年に晋に朝貢した女王で、
次が男王
この流れから見ると、卑弥呼の次の男王は倭人伝に出てくる国中不服の男王で、
266年に朝貢した女王は台与という事になる
箸墓が3C後半の大王陵で被葬者が女性なら、上の流れから被葬者は
台与だとしか考えられない
台与は幼名で百襲姫は諡号という事になる
台与が百襲姫なら、その前の国中不服男王は百襲姫の父親の孝霊天皇という事になる
その前は卑弥呼のはずだが孝安天皇という事になっている
これはおかしい
孝安天皇には姉はいない
しかし兄の天足彦国押人命の配偶者は孝安天皇の義理の姉になる
その人物は宇那比姫である
倭人伝では卑弥呼には配偶者はいない事になっているが、天足彦国押人命に
先立たれて、その弟の孝安天皇が卑弥呼を補佐していたと考えると辻褄が合うのである >>835
拝詔は「慎んで天子のおおせを承る」こと。
このことから、拝仮の拝は「慎んで」の意味となる。
仮は「一時的に(与える)」という意味なので、拝仮は「慎んで一時的に(与える)」という意味になるんだよ。
決め付けてるのは辞書であって、オレではあ〜りません。 卑弥呼の正体は行き着くところ周王朝の末裔か
あるいは天皇の正体は秦の始皇帝の末裔か
みたいなんじゃなきゃ認めないみたいなとこまで来てるからな
こんなんだったらいらんわ >>837
>12世紀の版本以降にしかない邪馬壹は他の史書には引用されていないから
「因詣臺」の存在によって文字が恣意的に選択されている可能性がある
現在までの魏志の写本版本に於いては、ほぼ全ての写本版本が「邪馬壹國」であるから、
陳寿原本以後の後代史書に書かれた「邪馬臺國」は、
対象が別であったり、
その史家の「自己解釈に拠る書き換え」のインチキであったりした可能性が非常に高く、
更に、魏志での「因詣臺」の存在によって、
「壹と臺とがはっきり書き分けられている」から、
陳寿も、「壹と臺の文字を間違えた可能性」は全くない。 >>850
直接会ってるなら、その場で告諭すればいいだけ。
わさわざ檄文を作って送る必要はなし。
しかるに、わざわざ檄文作って送っているのだから、難升米はその場に来られない事情があったということなのよ。 >>859
12世紀の版本以降にしかない壹だから
陳寿が字を間違えた可能性という問題ではない >>844
>学者によっては庄内式から布留式への過程は
布留式傾向甕、布留式影響庄内形甕という言い方もする
布留式傾向甕なら布留1とすればよいのであり、
布留式影響庄内形甕なら、庄内3とか庄内4とかすれば済む事。 >布留式傾向甕、布留式影響庄内形甕という言い方もする
何れにせよ、「東阿波型土器」だよ。 纏向で出る土器はほとんどすべて「東阿波型土器」。 @阿波 >>855
>決め付けてるのは辞書であって、オレではあ〜りません。
「拝仮は、必ずしも直接手渡すことを意味しない」
とか
理由もなく勝手に決め付けたのは
アナタだね >>843
結局また、
自分は史料事実や史料実態証拠が出せず、
相手の帰納的確率的な推論には100%完全な証拠を要求する
それが「思想宗教的な結論先にありき」の大和説者 .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>860
スポーツの応援に来てるわけではないので、檄は公文書 >>862
>布留式傾向甕なら布留1とすればよいのであり、
>布留式影響庄内形甕なら、庄内3とか庄内4とかすれば済む事。
お前にそんなこと決める権利ないし
そんな決めに合理性も無い
「傾向」や「影響」が出てるだけで布留に分類する意味も無い。ただのデタラメだ
九州説は無知で傲慢、僭越で図々しいな >>866
>自分は史料事実や史料実態証拠が出せず、
>相手の帰納的確率的な推論には100%完全な証拠を要求する
そんなウソついて、なんか楽しいの?
自分が傷つくだけなのに >>836
前に見たサイトととは別だが、それと同じ様式のサイトに石野博信の話が出ている。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko1.htm
(エラーの場合は「卑弥呼の冢」で検索し、一番上の「卑弥呼の冢-UCOM光レジデンス」を開く)
このサイトの下段の
【註】詳細版
に石野博信の発言が出ている。 黄幢を仮授してる事実があるので
「檄告諭は本人に会わない」説は死んでいる
まだ足掻く? >>860
>わさわざ檄文を作って送る必要はなし。
檄文というのは個人宛のラブレターではない。
その他多くの将軍・兵士たちにも、此れこの通りおっしゃっておられる、必死で戦え、といって見せびらかすためのものだ。 >>871
だから、石野博信が言ったことより確かなことは、「忌部はん」 のお墓だということ! わははははは @阿波 老婆談?『都市伝説 写真 魂』
扇風機の話があるでしょ、
正確には、お尻から空気が入って死亡、なぜか男。 >>871
>前に見たサイトととは別だが、それと同じ様式のサイトに石野博信の話が出ている。
そのサイトには
「例えば、ごく最近でも、考古学者の石野博信氏が『邪馬台国の考古学』(二〇〇一年三月刊、吉川弘文館)を著して、そこでは、「卑弥呼の墓」という項目を立てるものの、この両視点からの検討は全くなされていない。石野氏が三世紀中葉のものと考える伴出土器によって墳墓の時代を推定して、「卑弥呼の墓を三世紀中葉の日本列島に求めれば、墳丘では大和・中山大塚古墳、埋葬施設・木棺の規模では大和・ホケノ山古墳、副葬品の質量では筑紫・平原方形墓となる」と記述している。同書の各種土器の年代比定がかなり遡りすぎではないかとみられるうえ、卑弥呼の墓の検討に際して『魏志倭人伝』の記事を全く無視しているのは、学問的検討としてバランスを欠くものではなかろうか。
と書いてある
> 791日本@名無史さん2020/09/19(土) 18:29:34.09
> 石野博信は、祇園山古墳を祇園山墳丘墓としているそうだ。
> 墳丘墓は弥生時代の墓を指している。
はデマということで、よろしいか? >>871
先に挙げた石野博信の発言の箇所が分かった。
この「卑弥呼の冢」の画面の一番下にある(続く)を押し、次の画面の一番下の(補論へ続く)を押す。
その画面の(はじめに)の項目の最後の付近に石野博信の発言が出ている。 すると邪馬台国とは邪馬泰国で前方後円墳もどちらも黄帝に繋がるからどちらかわからんな、まあ間取って阿波だな 箸墓古墳は大物主の塚でモモソ姫は殉葬された、三輪山伝承より >>874
邪馬台国の人民が忌部であるのなら♪
卑弥呼が「忌部はん」なのは、おおいにケッコー♪ >>877
>石野博信編『全国古墳編年集成』でも、
>ほぼ同様の内容であり、古墳T期(あるいは古墳前期の前半)に本墳の築造年代を位置づけている。
古墳。 最近のwikiで古代史関連を検索すると「宝賀寿男によれば…」がやたら目立つんだ。
ウザいので止めて欲しい。 >>880
ようやく本性を現したな華南ブタニガーw
で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がファンキーな
考古学者の論文は?
. >>872
難升米の使いの者に渡したのだよ。
その時に、檄文も渡して難升米に送ったということだな。 >>854
>その人物は宇那比姫である
一皇女で女王には程遠い。
また崇神を4世紀前半とすると時代が合わない。
またトヨ候補が武諸隅の娘当たりしかいなかったはず、
これも時代が合わない。
なにより勘注系図で日女命とかかれてるのが根拠であろうが、、
ピンインで日女はrinu
卑弥呼(Bei mei hu)とは程遠い。
以上、宇那比姫は卑弥呼ではない。 >>887
1985年に徐福村の存在が中国で確認された。
日本では徐福伝承は30箇所以上、佐賀には徐福が植樹した樹暦2200年のビャクシンの
木がある。
いちど徐福めぐりの旅にでるといいだろう。 >>889
箸墓の百襲姫=台与を基準に遡っているんだから、時代は合うはずだろ
鴨鍋オジサンw >>890
んなコト聞いてねえ
で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がファンキーな
考古学者の論文は?
早く持ってこいよ華南ブタセロイピーノのおまえ …徳島文理大学の石野博信氏は祇園山古墳と庄内式土器の関係について次のように述べる。
「九州の祇園山というのは、一辺が30メートル位の大きな方形墳ですが、墳丘上につくられている甕棺の
時期が報告書では狐塚二式であって、それは西新式に併行すると言われています。九州でも西新式の土器と一緒に庄内ガメが出ていますので、祇園山古墳を庄内式に併行させたのです」(邪馬台国の会 第238回 謎の四世紀 庄内式土器の時代)
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku238.htm 徐福が来た言われてんの済州島やろ
日本までたどり着いていないぞ >>868
その通り。
そして、その檄文で告諭した相手は難升米なのよ。
目の前にいないから、わざわざ檄文を送ったわけ。
目の前にいれば、口頭で告諭したのよ。 >>896
違う
どこにも行ってないの
金を取るだけ取った始皇帝に出航を見送ってもらったあと、
半日くらいクルージングを楽しんで隣町の港でみんなを降ろして解散
そのまま自らもドロン
イタリア人並みの詐欺師 >>895
最近の土器編年では、庄内式は200年頃〜250年頃だし、とすると、祇園山古墳はちょうど卑弥呼が死んで葬られた時期に重なるな。
もう、決まりだろ。 >>896
書き忘れた
で、始皇帝はその帰路の途中で亡くなったの
踏んだり蹴ったりな始皇帝w >>898
目の前にいないということは書いていない >>1
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成り済まし、騙り・・・チンピラの集団など?何がしたいんだ? 始皇帝がきたなんて伝承ないぞ
向こうに墓でもあるんだろ
夢でも見てるんか? 素人だましみたいなん増えたわな😃
それで主張してそいつはそれが丸っ切り事実と思いこんでるよ〜なやつな 九州説は考古学を無視せざるを得ないから新しい発見を生かせない
だから、新説を立てるには文献に新しい読み方を発明しなきゃならない
だから、どんどん変になって行かざるを得ないんだよ 九州説は最もまともな人間でも1970年代くらいで情報が止まってるから
とっくに非常識になった旧聞に基づいてて
悲惨なことになっている >>913
気色悪いやって増えたなあ
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定や、
「土器や古墳や鏡などの相対編年→発生製作時期〜埋葬時期の無視での絶対年代化」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しのような、
素人だましみたいなん増えたわな
考古資料なんて、紀年鏡や記年土器や墓碑や発生年次確定史料でなければ、
相対編年だけでは、絶対年代史料にはならないもんなんだがな。
それで主張してそいつはそれが丸っ切り事実と思いこんでるよ〜なやつな
まあ大和説学者なんてみんなそうなんだが >>914
大和説は、相対年代の編年の考古学では、絶対年代がどうしても殆ど決まらず、
だから文献を無視せざるを得ず、新しい発見も生かせない
だから、新説を立てるには、文献を否定や曲解捏造する読み方を発明しなきゃならない
だから、どんどん変になって行かざるを得ないんだよ >>916-917みたいな一目でハレるウソついちゃうのが
九州説の癌だね >>915
大和説学者らは、山尾が古田さんに負けて反論不能になったままであるように、
最もまともな人間でも、
1970年代くらいで文献的な進歩が止まってるから
とっくに非常識になった考古の相対編年だけに基づいて、絶対編年を誤魔化して、
悲惨なことになっている 阿波では、毎年のように特異な遺跡が発掘されるが、すこしも進展しない旧態依然の旧説(九州・畿内)。
今のこの板の現状をみても、旧来の九州・畿内邪馬台国スレッドの凋落が痛々しいかぎりだ。 いと哀れなり! @阿波 >>919
>大和説学者らは、山尾が古田さんに負けて反論不能になったままであるように、
そういう現代の歴史まで捏造しちゃう人々が古代をどう扱ってるかは
お察し 古田反日有害集団のは研究を一切やらない反日主観年代 ここは畿内説のスレなのに、関係ない大和説に文句言ってる変な人がいる >>919
>1970年代くらいで文献的な進歩が止まってるから
新しい文献なんて無いんだから、もっと前から止まってて当然なんだがね
素人が専門の文献学者と違う新しい読み方を発明しちゃう九州説が
異常 >>896
徐福は済州島にもいったと言い伝えがありますね。 原文読んで、目には入るがアタマには入りません、・・・オクヤマ 日本に来ただろ〜って願望が定着して一般化しただけの話
向こう(中国)の文献残ってるだろ
確か済州島あたりの話だと思った えと、倭人ての唱えたの徐福だっけ?
最初
なら済州島のやつらを見て倭人だの言い始めたって話になるでな >>932
>魏志倭人伝について質問ありますか?
魏志倭人伝にある「其山有丹」は、「若杉山辰砂採掘遺跡」でよろしいでしょうか? @阿波 そいから古代の日本の記録なんかを取ってたのも渡来人のやつらなの
連中らは史(ふみひと)って呼ばれていて古代の日本の王族らの記録も取っていた😃
それで対抗させてもらうわ
向こうの主張に対してもな 奥山某ではなく、角川某だろうw
たしか、そのような人物がいたでしょ。
『奥山某 角川某』 『奥山某 角川某』調べてみた?
とあるスレなどでも、同じような話ばかりしているし、創価か何かなんだろう? 『』調べてみた?宇宙戦艦のスレも出てくる。
そもそも宇宙戦艦〜?・・・、
出てくるキャラなども、ほとんど成り済まし、騙り。
ダレソレみたいな人物ばかり。 日本のはっきりした記録は4世紀に入らないと分からない
そのころ来た連中らいるからな
帝辞って呼ばれたのが古代の日本の王族らに関する記録
旧辞って呼ばれたのがそれ以外の一般的な記録
どちらも失われたんだっけ? 日本書記らに書き写されたのもそおいうもんだろ
角川って?
それ作家らの創作書だろ 銀〜?という名前のキャラなどは、
ほんとーは『天財若子 天若日子』・・・この家だろうw つーちゃんねる(5ちゃんねる)の話ではないんだけど、
天財〜なども、ほとんど同じような話ばかり。
>八幡若宮ではなく、
>大国主命の娘夫婦という意味での若宮ということらしい。 >大国主命の娘夫婦という意味での若宮ということらしい。
この存在、人物自体、『❓』・・・、仮名? 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1600565268/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ このスレは自動で立ててるんだろ
その委託金は、どこから出てるのかな。 ま、どうせどっかの予算からだろうけどな。 >>956
九州説は自分が邪馬台国の会から金もらって荒らしてるバイトだからそんな発想が出てくる つい奥山憎悪の発作起こして、あごが誰だかバレちゃったね >>957
語るに落ちるなかなかの発想だ。どっちもどっち、似たり寄ったりというわけか。 >>959
被害妄想と陰謀論に二重苦九州説
低知能が加わり三重苦 >>959
普通の人には>>956が語るに落ちたとしか見えない 今回は1が呟きだという悪質デマの虚構が暴かれて
めでたしめでたし >>959
どっちもどっちじゃないぞ
畿内説が金貰ってるというのは九州説のホラだから平気だけど
九州説は本当に邪馬台国の会から金貰ってるから言われたらダメージが入る 関川の本買った人いる?
どんなトンデモが書かれているか興味ある >>964
どうせ大学出たての頃かいた論文の焼き直しだろ >>909
檄を作ったら、それを相手に送るのよ。
手元に置いておいても意味な〜いじゃん。 現世の邪馬台国
常世の狗奴国
邪馬台国と狗奴国は裏表、裏が表に表が裏に
黄泉、常世、道、お地蔵さん >>967
読み聞かせをするんだよ
公示なんだからな 祇園山古墳の楕円形裾部の差し渡しが60mであることからすると、
倭人伝の卑弥呼の墓の径百歩は元々は倭人歩(一歩=半歩)によるものであった可能性が高まる。
邪馬台国の役人が卑弥呼の墓の差し渡しは百歩(倭人歩)であると張政に伝えたのを、
張政はその百歩を魏の単位(一歩=倭人歩の二倍)による百歩だと思い込み、それを報告書に書いたというわけだ。
このことから判断すると、卑弥呼の墓かと喧伝される纏向の箸墓古墳の後円部は卑弥呼の墓としては大き過ぎ、卑弥呼の墓の可能性はなくなる。
箸墓の築造年代も卑弥呼の死より十数年新しいとされることもあり、箸墓=卑弥呼の墓説は誤りとみるのがよいのではないか。 >>970
>祇園山古墳の楕円形裾部の差し渡しが60mであることからすると、
それ、地山だから作ってない
山の中腹に突き出た尾根は頂上を平らに削って墳丘をつくっただけ >>970
魏人歩とか、また新発明ですか
九州アホですね >>970
卑弥呼の墓の百歩を思い込み、それを報告書に書いたということになると
倭人伝中のいろんなことが思い込み、それを報告書に書いたということになってくる
じゃあ倭人伝の何が信じられるのかということが人によって違ってきて
一人一説に分かれてくる
それが九州お爺さん作り話説 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. このスレは自動で立ててるんだろ
その委託金はどこから出てるのかな。 ま、どうせどっかの予算からだろうけどな。 >>974在チョンしつこすぎ(笑) ↓で完敗してるんだから諦めろ(笑)
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは、
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
松菊里遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです
松菊里に水田遺構は発見されておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は150Km東にある芋田里(ウジェオンニ)遺跡の「紀元前700年」です
一部の在チョンは玉峴(オクヒョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定を行わず隣国からの共同研究を頑なに拒み、埋め戻すという隠蔽工作を行いました
すでに同地には立派な文殊中学校(←1999年論文「蔚山ムゴドンオクヒョン遺跡」による)
またはオクヒョン第二住公アパート(←蔚山市の発表による)が建っており、
遺跡を示す記念碑すら存在していません
一部の在チョンの主張するように本当に学術的価値があれば炭素年代測定を頑なに拒む理由もなければ埋め戻す必要もなかったはずです
つまり、玉峴(オクヒョン)遺跡歴史学的にも考古学的にも価値が低い、または無価値ということに他なりません
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l コレが揺るぎない事実じゃん
| |r┬-| | / < お前は藤尾チョン一郎に騙された
\ ` ー'´ // 哀れで滑稽な在チョンって事www
/ __ / 松菊里遺跡の「炭化米」のDNA解析結果はないの? きっとbがあるよ。 @阿波 >>976
>>>朝鮮ヒトモドキは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが
炭素年代測定を行わず隣国からの共同研究を頑なに拒み、埋め戻すという隠蔽工作を行いました<<<
証拠が一度たりとも出た事がない、根も葉もない事実無根の中共チンコロ工作員のおまえの創作狂言
>>>同地には立派な文殊中学校(←1999年論文「蔚山ムゴドンオクヒョン遺跡」による)
またはオクヒョン第二住公アパート(←蔚山市の発表による)が建っており、
遺跡を示す記念碑すら存在していません<<<
遺跡の主要部分はちゃんと空き地になっていてアスファルト舗装もされていない
残念! 中卒華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇ボルネオロピテクス >>978
松菊里遺跡の「炭化米」のDNA解析結果はないの? きっとbがあるよ。 @阿波 >>973
それは短絡的といえる。
怪しい部分と他の文献と整合性がとれる部分とがあって、
怪しい部分はこういうふうに怪しい、他の文献と照らし合わすとこれこれが正しいのではないか、などの客観的検証作業が必要ということ。
おぬしみたいに検証ということの意味を履き違えると、右足と左足の靴がさかさまになって違和感いっぱいな極端な説になる。
靴は履き違えないようにしたいものだよ。 >>972
倭人の一歩の単位は半歩であり、魏など中国の一歩の単位は半歩+半歩であることは、ウィキに書いてあることだし。
なにが新発明だよ。
そんなこと言ってたら、大和説はおおアホということになるな。
大和説は、おおアホォォォォォォォォ! >>979
たまにはイイ事言うじゃねえかw
あるだろうね
例の佐藤洋一郎のマジックのタネが現代朝鮮イネを調査サンプルに使う事だから、
20年以上も佐藤洋一郎は古代朝鮮イネを調査する事から逃げてるの
とんだ すっとぼけペテン師オヤジだよ >>971
その地山の斜面も成形してあるんだから、裾までが全体とみなされたとするのがよい。
そして、方墳部分は墳頂とみなされていたとするのが妥当。 >>983
前方後円墳だって、地山を成形して前方後円形にしてあるものがあるんだから、祇園山古墳の地山成形も普通に楕円成形し、墳頂部には方墳を造ったと考えて何の問題もない。 >>982
>たまにはイイ事言うじゃねえかw
日本のイネが日本固有種であることと、人が大陸からやってきたことは、別問題。
大陸のイネを持ってきた訳じゃない。 イイ事言うだろ? わははははは @阿波 >>969
立札の前に立つ難升米に、その漢文を九州弁に翻訳して聞かせるのか。
アホちゃう。
中国語で口頭で言って、それを逐一九州弁に翻訳するほうが早いだろ。
わざわざ立札書く必要ないわ、それ。 >>981
>倭人の一歩の単位は半歩
ウィキのどこに? まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>984
>前方後円墳だって、地山を成形して前方後円形にしてあるものがあるんだから、祇園山古墳の地山成形も普通に楕円成形し、墳頂部には方墳を造ったと考えて何の問題もない。
地山が楕円成形されてるなんて話、どっから湧いたんだ?
九州説はまた捏造? >>986
>立札の前に立つ難升米に、その漢文を九州弁に翻訳して聞かせるのか。
>アホちゃう。
布告なんだから読み上げて公開するんだよ >>990
「卑弥呼の冢補論」の「今日時点での再検討」の中の(1)裾部外周主体群と方墳との関係の1行目あたりに、古賀氏の見解として「斜面成形」が指摘されている。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm >>993
地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められる
だから斜面じゃなくて方墳の部分 >>993
「斜面成形」なんて、どこにも書いてないぞ
九州説はまた捏造? しかし詔書と黄幢を持ってきて難升米に拝仮した張政が
難升米に会ってないと言い張る馬鹿がこの世に実在するとは
九州説って驚異的な馬鹿が唱えてるんだなあ
いや驚いた >>992
檄って表彰状みたいなもんだろうな
本人の前で読み上げて手渡すという >>994
それ、だめ。
上部が破砕されてる甕棺が発掘調査時に認められたということだから、
方墳の部分だと斜面が全面撤去されており、その甕棺自体が残っていないのよ。
上部破砕されている甕棺は、現存する斜面部分にあったというわけ。
だから、地山の斜面成形がなされていたの。 >>977
泡チヨンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ
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