邪馬台国畿内説 Part642
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1600092866/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 老婆の話によると、
凄い刀(謎の剣、刀)を持っていてwそういう話もしているし。
なんで詳しいんだろう。 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし このスレも自動で立てたんだろ
その委託金はどこから出てるのかな。 ま、どうせどっかの予算からだろうけどな。 >>918
この大和説男みたいに、
一目でハレるウソついちゃうのが
大和説の癌だね >>922
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定みたいな、
一目でバレるウソついちゃうのが
大和説の癌だね >>873
卑弥呼の墓の冢を前方後円墳と思い込み、それを報告書に書いたということになると
倭人伝中のいろんなことが思い込み、それを報告書に書いたということになってくる
じゃあ倭人伝の何が信じられるのかということが人によって違ってきて
一人一説に分かれてくる
それが「大和説お爺さんらの作り話」説 >>82の訂正
82日本@名無史さん2020/09/20(日) 18:15:57.15
>>973
卑弥呼の墓の冢を前方後円墳と思い込み、それを報告書に書いたということになると
倭人伝中のいろんなことが思い込み、それを報告書に書いたということになってくる
じゃあ倭人伝の何が信じられるのかということが人によって違ってきて
一人一説に分かれてくる
それが「大和説お爺さんらの作り話」説 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 前スレ>>999
墳裾の埋葬主体が残って上面カットされたのだから
墳裾埋葬主体よりも上部の方墳部分を削出したということ
方墳より下の斜面は成形されていない _∧_∧
/ ̄ ( ・∀・)⌒\
__ / _| | |
ヽヽ / / \ | | ,,,,,,,iiiiillllll!!!!!!!lllllliiiii,,,,,,,
\\| |____| .| | .,llll゙゙゙゙゙ ゙゙゙゙゙lllll,
\/ \ | | .|!!!!,,,,,,,, ,,,,,,,,,!!!!|
| ヽ_「\ | |、 | ゙゙゙゙!!!!llllliiiiiiiiiilllll!!!!゙゙゙゙ .|
| \ \――、. | | ヽ .| .゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙ |
| / \ "-、, `| | ヽ | |
_/ / "-, "' (_ ヽ ヽ .| |
/ __ノ "'m__`\ヽ_,,,, ヽ | |
`ー― ̄ ヽ、__`/ー_,,,, ゙゙゙゙!!!!!!!lllllllliii| |
\゙゙゙゙゙゙゙!!!!!lllllllliiiii| |
\ ヽ | |
ヽ \ | |
| \.| |
`ヽ、,,_ノ| |
゙゙!!!,,,,,,,, ,,,,,,,,,!!!゙゙
゙゙゙゙!!!!llllliiiiiiiiiilllll!!!!゙゙゙゙
/.// ・l|∵ ヽ\ ←>>1 _∧_∧
/ ̄ ( ・∀・)⌒\
__ / _| | |
ヽヽ / / \ | | ,,,,,,,iiiiillllll!!!!!!!lllllliiiii,,,,,,,
\\| |____| .| | .,llll゙゙゙゙゙ ゙゙゙゙゙lllll,
\/ \ | | .|!!!!,,,,,,,, ,,,,,,,,,!!!!|
| ヽ_「\ | |、 | ゙゙゙゙!!!!llllliiiiiiiiiilllll!!!!゙゙゙゙ .|
| \ \――、. | | ヽ .| .゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙ |
| / \ "-、, `| | ヽ | |
_/ / "-, "' (_ ヽ ヽ .| |
/ __ノ "'m__`\ヽ_,,,, ヽ | |
`ー― ̄ ヽ、__`/ー_,,,, ゙゙゙゙!!!!!!!lllllllliii| |
\゙゙゙゙゙゙゙!!!!!lllllllliiiii| |
\ ヽ | |
ヽ \ | |
| \.| |
`ヽ、,,_ノ| |
゙゙!!!,,,,,,,, ,,,,,,,,,!!!゙゙
゙゙゙゙!!!!llllliiiiiiiiiilllll!!!!゙゙゙゙
/.// ・l|∵ ヽ\ ←>>1 _∧_∧
/ ̄ ( ・∀・)⌒\
__ / _| | |
ヽヽ / / \ | | ,,,,,,,iiiiillllll!!!!!!!lllllliiiii,,,,,,,
\\| |____| .| | .,llll゙゙゙゙゙ ゙゙゙゙゙lllll,
\/ \ | | .|!!!!,,,,,,,, ,,,,,,,,,!!!!|
| ヽ_「\ | |、 | ゙゙゙゙!!!!llllliiiiiiiiiilllll!!!!゙゙゙゙ .|
| \ \――、. | | ヽ .| .゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙ |
| / \ "-、, `| | ヽ | |
_/ / "-, "' (_ ヽ ヽ .| |
/ __ノ "'m__`\ヽ_,,,, ヽ | |
`ー― ̄ ヽ、__`/ー_,,,, ゙゙゙゙!!!!!!!lllllllliii| |
\゙゙゙゙゙゙゙!!!!!lllllllliiiii| |
\ ヽ | |
ヽ \ | |
| \.| |
`ヽ、,,_ノ| |
゙゙!!!,,,,,,,, ,,,,,,,,,!!!゙゙
゙゙゙゙!!!!llllliiiiiiiiiilllll!!!!゙゙゙゙
/.// ・l|∵ ヽ\ ←>>1 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. >>91
在日チョンしつこすぎ(笑) ↓で完敗してるんだから諦めろ(笑)
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは、
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
松菊里遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです
松菊里に水田遺構は発見されておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は150Km東にある芋田里(ウジェオンニ)遺跡の「紀元前700年」です
一部の在日チョンは玉峴(オクヒョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定を行わず隣国からの共同研究を頑なに拒み、埋め戻すという隠蔽工作を行いました
すでに同地には立派な文殊中学校(←1999年論文「蔚山ムゴドンオクヒョン遺跡」による)
またはオクヒョン第二住公アパート(←蔚山市の発表による)が建っており、
遺跡を示す記念碑すら存在していません
一部のヒトモドキの主張するように本当に学術的価値があれば炭素年代測定を頑なに拒む理由もなければ埋め戻す必要もなかったはずです
つまり、玉峴(オクヒョン)遺跡歴史学的にも考古学的にも価値が低い、または無価値ということに他なりません
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l コレが揺るぎない事実じゃん
| |r┬-| | / < お前は藤尾チョン一郎に騙された
\ ` ー'´ // 哀れで滑稽な在日チョンって事www
/ __ / 前スレ999日本@名無史さん2020/09/20(日) 21:04:33.30
>それ、だめ。
>上部が破砕されてる甕棺が発掘調査時に認められたということだから、
>方墳の部分だと斜面が全面撤去されており、その甕棺自体が残っていないのよ。
ああ、こうやって九州説の人は
原文にまったく書いてないことを空想で作って
書いてある書いてあると言い張るんだな 反日教育に洗脳され過ぎて
蔚山市の行政公式発表である
オクヒョン第二住公アパートに
埋没されているという客観的事実すら
受け入れられない
惨めで卑しい在日ヒトモドキの憐れな姿をご覧ください
人
(( (ヽ三/) (;.__.;)
(((i ) (;;:::.:.__.;) ウソぉウソぉ!
/ / (;;:>>91 :) < チ〜ンコロォォォ!
| :i /(;;゚\)ll(;;/゚)\ 強弁〜強弁〜!!!
l :i/ ⌒(__人__)⌒ \
< ノ( |r┬- | u > (ヽ三/) ))
\ ⌒ |r l | / ( i)))
`7ι `ー' 〈 __ /
/ |
/ |
,r――--、,,_ノ r、 三 η L___,,..-―‐-、
( 〃ヽヽ //ヾヽ )
ヽ `ヽ、 ⊂ニ;「9cm」ニ⊃ ,r'' /
ヽ } ` ー-ヾヽ// ヽヽ〃ー‐''7 /
ヽ .{ ι' 三 ヽ) {. /
〉 イ 〉 |
/ ) (_ヽ \、
(。mnノ `ヽ、_nm。 >>92
おまえの正体
五毛党(ごもうとう、英語: 50 Cent Party、拼音: wǔmáo dǎng)とは、
中華人民共和国における中国共産党配下のインターネット世論誘導集団を指す
ネットスラングである。正式名は網絡評論員(インターネットコメンテーター)
であり[1]、2005年ごろまでは書き込み1件当たり5毛(5角(=0.5元)を口語で
こう呼ぶ)が支払われていたことからこの蔑称が名づけられた。網軍[2][3]と
呼ばれることもある。
通常は一般人を装い、インターネット上のコメント欄や電子掲示板などに、
中国共産党政権に有利な書き込みをする。または共産党「それに関連する事」を
批判する人に対する集団攻撃をする。ネットを通じ、世論誘導をする役割を
担っている。2015年時点で、約1050万人程度いると見られている[4][5]。
中国政府が世論操作のためにSNSに投稿させている「やらせ書き込み」は、
年間で4億8800万件に上るという[6]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%AF%9B%E5%85%9A#:
. ウィキ「歩」。
現代日本人は片足を前に出すことを1歩とする…と書いてあるが、これは今に始まったことではなく、ずっと昔から片足を出すことを1歩とした。
だから、中国式に片足を交互に二つ出すことを1歩とする習慣とは異なる。
卑弥呼の時代においても同じ。
中国でいう跬が日本の1歩ということ。 >>93
読解力に疑問符がつくな。
ちよっと考えれば分かることよ。
しかしまあ、そのままがんばりたまえ。 >>96
ずっと昔から片足を出すことを1歩としたという根拠は? 反日教育に洗脳され過ぎて
蔚山市の行政公式発表である
オクヒョン第二住公アパートに
埋没されているという客観的事実すら
受け入れられない
惨めで卑しい在日ヒトモドキの憐れな姿をご覧ください
人
(( (ヽ三/) (;.__.;)
(((i ) (;;:::.:.__.;) ウソぉウソぉ!
/ / (;;:>>95 :) < チ〜ンコロォォォ!
| :i /(;;゚\)ll(;;/゚)\ 強弁〜強弁〜!!!
l :i/ ⌒(__人__)⌒ \
< ノ( |r┬- | u > (ヽ三/) ))
\ ⌒ |r l | / ( i)))
`7ι `ー' 〈 __ /
/ |
/ |
,r――--、,,_ノ r、 三 η L___,,..-―‐-、
( 〃ヽヽ //ヾヽ )
ヽ `ヽ、 ⊂ニ;「9cm」ニ⊃ ,r'' /
ヽ } ` ー-ヾヽ// ヽヽ〃ー‐''7 /
ヽ .{ ι' 三 ヽ) {. /
〉 イ 〉 |
/ ) (_ヽ \、
(。mnノ `ヽ、_nm。 >>1
,、‐'''''''''ヽ、
/:::::;;-‐-、:::ヽ _,,,,,,,_
l::::::l _,,、-‐"iiiiiilllllllllllliiiiiiiー-、__ゞ:::::::::::`ヽ,
ヽ::`/: : : : iiiiiilllll||llllliiiiii: : : : : : ヽイ~`ヽ:::::::i
. /;,..-‐、: : : : : l|l: : : : : : : : : : : : : \ ノ:::::}
/: /: : : : :`.: : : : : : : : :/´ ̄\ : : : : : ヽ:::ノ
. !: : : :iflllli、: : : : : : : : : : : : : : : :ヽ: : : : : :.!
|: : : :llllf l: : : : : : : : : : :.iflllli、: : : : : <iiii|
|: : : :|llll |: : : : : : : : : : .llllf l: : : : : : : : :.|
|: : : :.!lllll!' : : : : : : : : : : |llll |: : : : : : : : :i
/: : : : : ○ : : .!lllll!' : : : : : : : :.i
 ̄|: : :" ,,,,,,,,,,,,,|____ : : : : : : : :.<iii/ ______________
. /!.: |:::::/  ̄''''''''l ヽ: : : : :-─/─ />>1くん!もう二度とくそスレをたてないで!
ヽ ヽ/ ノ : : :ヽ/ < すぐにくびをつってしんでね!
\ \,,_ _,,,/ : /\ \しまじろうとお約束だよ!!!
`''‐、、__  ̄ ̄ __,,,、-‐"  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. //:::::/ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ノ::::/\
. / /:::::/ ` ̄ ̄ ̄/:::::/. \ >>1
,、‐'''''''''ヽ、
/:::::;;-‐-、:::ヽ _,,,,,,,_
l::::::l _,,、-‐"iiiiiilllllllllllliiiiiiiー-、__ゞ:::::::::::`ヽ,
ヽ::`/: : : : iiiiiilllll||llllliiiiii: : : : : : ヽイ~`ヽ:::::::i
. /;,..-‐、: : : : : l|l: : : : : : : : : : : : : \ ノ:::::}
/: /: : : : :`.: : : : : : : : :/´ ̄\ : : : : : ヽ:::ノ
. !: : : :iflllli、: : : : : : : : : : : : : : : :ヽ: : : : : :.!
|: : : :llllf l: : : : : : : : : : :.iflllli、: : : : : <iiii|
|: : : :|llll |: : : : : : : : : : .llllf l: : : : : : : : :.|
|: : : :.!lllll!' : : : : : : : : : : |llll |: : : : : : : : :i
/: : : : : ○ : : .!lllll!' : : : : : : : :.i
 ̄|: : :" ,,,,,,,,,,,,,|____ : : : : : : : :.<iii/ ______________
. /!.: |:::::/  ̄''''''''l ヽ: : : : :-─/─ />>1くん!もう二度とくそスレをたてないで!
ヽ ヽ/ ノ : : :ヽ/ < すぐにくびをつってしんでね!
\ \,,_ _,,,/ : /\ \しまじろうとお約束だよ!!!
`''‐、、__  ̄ ̄ __,,,、-‐"  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. //:::::/ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ノ::::/\
. / /:::::/ ` ̄ ̄ ̄/:::::/. \ >>1
,、‐'''''''''ヽ、
/:::::;;-‐-、:::ヽ _,,,,,,,_
l::::::l _,,、-‐"iiiiiilllllllllllliiiiiiiー-、__ゞ:::::::::::`ヽ,
ヽ::`/: : : : iiiiiilllll||llllliiiiii: : : : : : ヽイ~`ヽ:::::::i
. /;,..-‐、: : : : : l|l: : : : : : : : : : : : : \ ノ:::::}
/: /: : : : :`.: : : : : : : : :/´ ̄\ : : : : : ヽ:::ノ
. !: : : :iflllli、: : : : : : : : : : : : : : : :ヽ: : : : : :.!
|: : : :llllf l: : : : : : : : : : :.iflllli、: : : : : <iiii|
|: : : :|llll |: : : : : : : : : : .llllf l: : : : : : : : :.|
|: : : :.!lllll!' : : : : : : : : : : |llll |: : : : : : : : :i
/: : : : : ○ : : .!lllll!' : : : : : : : :.i
 ̄|: : :" ,,,,,,,,,,,,,|____ : : : : : : : :.<iii/ ______________
. /!.: |:::::/  ̄''''''''l ヽ: : : : :-─/─ />>1くん!もう二度とくそスレをたてないで!
ヽ ヽ/ ノ : : :ヽ/ < すぐにくびをつってしんでね!
\ \,,_ _,,,/ : /\ \しまじろうとお約束だよ!!!
`''‐、、__  ̄ ̄ __,,,、-‐"  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. //:::::/ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ノ::::/\
. / /:::::/ ` ̄ ̄ ̄/:::::/. \ キナイコシ改めキナチョン
畿内在住のキナ臭いチョンコロだからキナチョン あれ?
削平で「上部が破砕されてる甕棺が発掘調査時に認められた」って話
どっから出てきたんだ?
九州説は、また出所不明情報? >>97
>読解力に疑問符がつくな。
>ちよっと考えれば分かることよ。
>しかしまあ、そのままがんばりたまえ。
また九州説が説明不能に陥って逃げ出した
いつものアノ人かな? 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>107
まあ口先から思いつきの言い訳を言ってて破綻に気づいたから逃げたんだろ
いつものことだ
自然の山を標高54〜55mで平らに削って中央を高さ1.5mくらい四角く削り残したわけだ
つまり墳丘のすぐ近くは深く掘ってるけど斜面側の端っこはほとんど掘ってない
平らにするって、そう言うことだ
頂上寄りには跡形残さず削られた墓もあったろうが、斜面寄りで上をちょっと削られただけのものは残る
「斜面整形」なんて話は妄想じいさんの脳内だけだ 箸墓古墳は、墳長が約278メートル、後円部の直径が約150メートルであり「百余歩」よりも桁違いに大きい。
長里なら、「百余歩」は、180メートル強だから、後円部の直径にほぼ等しいが、墳長としては短い。
だから、箸墓古墳は、最初円墳として築造され、後に前方部分が付け加えられたという後円部先行説がかつて唱えられた。
『三国志』魏書東夷伝倭人条を含む『三国志』では、「塚(冢)」と「墳」が
区別されていたことに注意しよう。
『三国志』には「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」という諸葛亮伝
の発言や、通常、大君公侯の墓が「墳」であったという記事があり、高さのある
人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を
「冢」というように区別していたことが窺える。
よって畿内説は破綻しました 【基本です】
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています
・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語で読む「シャマイ」国となる
・以降の史書に出てくるのは「邪馬臺」や「邪摩堆」であり、すべて語尾は「タイorダー」と発音する漢字が充てられている
・後世のヤマトは深く考えず邪馬臺=ヤマトだと思っていたが、新井白石と本居宣長が間違いに気付いたのが九州説vs機内説論争の始まりである
・「大和」は、魏志倭人伝では女王国の市場を監視する官職として「大倭」と記載されている 国際的史実です
■旧唐書より
※倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
<倭国伝>
倭国(九州)は古の倭奴国なり。
※漢委倭奴国王の金印は福岡で発見された
<日本伝>
日本国(ヤマト)は倭国の別種なり。
■史書における「別種」の使用例
<高麗伝>
高麗は出自、扶余の別種なり。
<百済伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。
■結論
・畿内ヤマトと倭国は別の国(連合国)だった >>112
もちろんそれは冗談以下のウソ
冢は高墳なのだから、常識的には冢の方が大きい >>114
史実じゃなくて後世の人のカンチガイだな
古い史料を読み間違えただけ >>113
九州説って百年くらい進歩止まってるのね >>112
>人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を
>「冢」というように区別していたことが窺える。
始皇帝冢は大きいよ
史料から帰納しないから、そういうトンデモな間違いに陥る ヤマトの影響を受けていない城野遺跡/福岡県 北九州市
中国産の水銀朱がたっぷりと敷き詰められた石棺
https://i.imgur.com/T09gWYm.png
動画で畿内では鉄の刀子が映ってたな
畿内では見られない光景だったwww ヤマトの影響を受けていない城野遺跡/福岡県 北九州市
中国産の水銀朱がたっぷりと敷き詰められた石棺
https://i.imgur.com/T09gWYm.png
動画では鉄の刀子が映ってたな
畿内では見られない光景だったwww >>112
>長里なら、「百余歩」は、180メートル強だから、後円部の直径にほぼ等しいが、墳長としては短い。
? 百歩は150m弱だけど?
径というなら径だろ
墳長なら径でない >>1の妄想作文よりずっと説得力があるな↓
魏志倭人伝の方角基準
https://i.imgur.com/ROzuNPh.png
魏の時代の三韓の一つ馬韓50国に対し、倭国は30国
4千里四方と表現された韓国領土に対し、周旋5千里と書かれた倭
https://i.imgur.com/SrtRAmy.png 重要事項
■万葉集における「ヤマト」と読む当て字は多種有り
『倭』 19首(1)
『山跡』 18首
『日本』 14首
『夜麻登』 5首
『八間跡』 1首(1)
『也麻等』 1首
『夜萬等』 1首
『夜未等』 1首
結論:「ヤマト≠奈良」である 印象操作は犯罪です
纏向大型建物で桃の種が発見され、畿内説は祭祀のお供え物だと主張していたが、
桃の種が発見されたのは柵列の下の穴
柵があった時代に穴は掘れませんし何故そんな場所に?という疑問が湧くだけですね。
桃の種が埋まっていたのは柵の下
https://i.imgur.com/cBG2BFm.png
よって纏向遺跡の大型建物と桃の種は関係ありません。
これも捏造考古学会による印象操作の一つです。 >>121
当時の畿内はクソ田舎だから、こんなすごいものあるわけないなw >>126
印象操作は犯罪です よ九州説さん
捏造はダメ
柵が取り壊された後に穴が掘られたと判明済み
でなけりゃ穴の埋まった土に柵の柱穴が残るよ >>126
>纏向大型建物で桃の種が発見され、畿内説は祭祀のお供え物だと主張していたが、
>桃の種が発見されたのは柵列の下の穴
>柵があった時代に穴は掘れませんし何故そんな場所に?という疑問が湧くだけですね。
いやこのデマ馬鹿すぎるだろう
建物廃絶に関わる祭祀だという見解で発表されてるのに >>132
柱もきれいに抜き取ってるから住んでた女王が死んだんだろう >>129
>柵が取り壊された後に穴が掘られたと判明済み
判明済みwww
「〜と思われる」←いつものバイアス脳から湧き出た妄想www >>133
根拠なき妄想で反論←畿内教信者の常www >>135
根拠なき妄想とか罵るだけで何も反論できない九州説あわれ >>134
バイアスだとか決めつける理由は何かな、連続句点さん >>121
城野遺跡は玉作り工房がある山陰系の集落で衰退期
約4キロ南東に臼山前方後円墳が出現している >>138
■邪馬台国連合=女王国30国(卑弥呼は親中派)
https://i.imgur.com/mMRCUQc.png
魏志韓伝には「倭人が半島まで鉄を採りに来ていた」記述があり、弥生遺跡の鉄器の出土量が一部に集中している。
これが女王国の経済共同体すなわち邪馬台国連合と考えられる。
■狗奴国連合=男王派70国(半島派?) → のちのヤマト王権
https://i.imgur.com/8StzbQ6.png 九州説は大体が捏造情報か空想で畿内説にイチャモン付けてくるので
正しい情報で返すと簡単に撃退できる >>139
「と考えられる」←いつもの九州バイアス脳から湧き出た妄想www
すべての「倭人が半島まで鉄を採りに来ていた」なんて記述はないからな >>139
乾燥耳垢なら九州には約86%狗奴国系がいることになる 祇園山は卑弥呼の墓にしたがっても無理筋なの、気づいたかな? >>98
「計量の起源を探る-計量史への誘い」(岩田重雄)の「日本の物差し-中国との関係」の項目などによると、
日本では、前1000年頃に1尺は17.3p、3世紀では1尺は23.1pの単位だったとしている。
また、片足を踏み出したときの長さの半歩=跬(キ)は69.2pとしている。
https://www.keiryou-keisoku.co.jp/databank/gakkai/izanai.htm
半歩をおよそ70pとすると祇園山古墳の径60mはほぼ100跬(半歩)と重なることになり、
このことは倭人伝の卑弥呼の墓の径百歩が魏の単位による百歩ではなく倭国の単位である倭人歩(半歩)による百歩が誤認されたものであるとする考えを裏付けるものであると言える。
岩田氏が大変な業績をあげておられることに拍手を送りたい。 >>111
なに言っちゃって。
調査した人が斜面成形されていると報告してますがな。
脳内劇場で慰めるしかないて、その年になってアハレ〜だなぁ。 >>146
跬は跬、歩ではないし
祇園山古墳の径60mも妄想
無理筋無理筋 >>145
いやいや、さらに確証が増えてきていますけど。 >>147
>調査した人が斜面成形されていると報告してますがな。
どこで?
なんと言って?
証拠は?
また捏造かな? >>147
>調査した人が斜面成形されていると報告してますがな。
そんな捏造までして珍説守りたいのか >>148
跬は半歩のことだよ。
祇園山古墳の平面図見てみなよ。
その平面図にスケールが置かれているから、紐あてて計ってみたらどう。
径60mきっちりよ。
倭人伝の径百歩は、倭人歩(半歩)による百歩を魏の百歩と誤認したものだろう。
その可能性は高いな。 >>153
>径60mきっちりよ
自然の山が大きくても
径百余歩の冢にはならないよ >>153
いやだから倭人がずっと昔から片足を出すことを1歩としたという根拠を訊いている >>152
ちゃんと読めよ。
調査した古賀氏に関する記述では「墳丘の削りだし」としており、この墳丘は祇園山古墳全体をさしている。
別の記述では方墳とする記述もあり、墳丘と方墳は分けて記述されているのよ。
第一、祇園山古墳の平面図をみれば、方墳部分には被葬者以外の棺はないのがわかる。
方墳部分より下に多くの棺があるんだから、この古賀氏のいう「削りだし」は斜面成形のことなのよ。 >>153
>その平面図にスケールが置かれているから、紐あてて計ってみたらどう。
どこからどこまで測る気だ?
自然の山に墳丘裾なんて無いぞ >>155
だから、岩田重雄氏が69.2pの単位が認められるとしてるでしょ。
これは中国語でいう跬(半歩)に当たるというわけよ。
建物の柱穴などから導き出したものだから、倭人がそうした単位を用いていたということを言っているわけだな。 >>156
>別の記述では方墳とする記述もあり、墳丘と方墳は分けて記述されているのよ。
お前、日本語わかるの?
円墳でも方墳でも墳丘だぞ >>156
古賀氏のいう「削りだし」は方墳部分の斜面成形
だから方墳より下の墓の埋葬主体は残っている >>157
その地図の等高線のうち、ぐるっと全周する線の最下段の線の南北、あるいは東西の差し渡しを計ればいいの。 >>162
自然が造った小山だから裾の測る場所で変わる >>161
邪馬台国の役人が倭人歩(半歩単位)で百歩と言ったのを、その倍の1歩(半歩の倍)のことだと張政は誤認したわけよ。 >>163
北のほうに山道があって、そのあたりに棺が密集してるから、正面は北側から南に向かう面だろう。
そうすると差し渡しは東西の長さを測ればOK。
当時の役人もそうしただろう。 >>156
>方墳部分より下に多くの棺があるんだから、この古賀氏のいう「削りだし」は斜面成形のことなのよ。
つまり
「調査した人が斜面成形されていると報告してますがな。」
は真っ赤なウソで
「斜面成形されていると報告」などしていないわけだね
あんたがそう思っただけだ
報告にそんな文言は無いのだから
「古賀寿氏は、同墳の墳丘が地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められること」云々
日本人ならわかるだろう?
「周囲の埋葬主体」は地山削出しで墳丘を作る前にあった
つまり墳丘には含まれない
地山は方墳の芯にする部分を残して水平に削った
地山を斜面成形などしていない >>166
祇園山古墳の基底部が60mだから、倭人伝の百歩140mを半分にした70mとその60mはほぼ重なる。
そこから推論すれば、そのようなことが考えられるということ。
みごとな謎解きじゃないか。
ということは、祇園山古墳は卑弥呼の墓である可能性ががぜん高くなってくるということだな。 >>162
>その地図の等高線のうち、ぐるっと全周する線の最下段の線の南北、あるいは東西の差し渡しを計ればいいの。
標高何メートルの等高線のことを言っている? >>168
「地山削りだし」=裾までの斜面成形。
方墳部分のことではないよ。
ただ、宝賀氏は、その際に「上面カット」されていないと主張しているわな。
その主張は正しいのちとちゃう? >>170
岩田重雄の話は日本だけじゃなくて
「私はそのころ、東アジアの中で、中国大陸、朝鮮半島、日本列島の古代の建物址の柱穴の間隔から
一七・三cmとその四倍の六九・二cmの二つの単位を検出しました。
そしてこれを古代の遺跡に応用したところ、東アジアでは共通の単位を使用していたことがわかり、
文明の発生をとびこえて日本では紀元前一万年前までさかのぼって長さの単位を使っていたことがわかりました。」
左右で1歩、約140cm
倭人が片足を1歩とした根拠はない 調査者が方墳の外側も墳丘だと言っているとか
日本語の読めない人間しか妄想しないことだ >>173
左右1歩で140p。
その半分は70p。
岩田氏が算出した建物建築の単位69.2pは、半歩70pにぴったんこじゃん。
その単位は日本でもおんなじなのよ。 >>175
中国大陸、朝鮮半島でも同様の単位を検出したのに
倭人だけ半分を1歩としたというのはお前の作った話 >>172
>「地山削りだし」=裾までの斜面成形。
おいおい
「斜面成形」なんて言葉を使ってるの、お前だけだぞ
そして当然「裾」というのは方墳の裾だ
削り出しで整形したのは平面で、斜面じゃ無い >>174
方墳の部分に古賀氏が指摘する棺がないのだから、
その指摘の棺は方墳の下ということになるよ。
つまり、方墳下の斜面な。
そこも墳丘だろう。
先にも言ったけど、前方後円墳でも地山成形しているものがあり、その地山成形の部分も墳丘とされとるし。 >>177
その斜面成形部分は、棺が埋められている部分。
地図みたら分かるだろう。 >>178
>つまり、方墳下の斜面な。
>そこも墳丘だろう。
それなら祇園山古墳は方墳だなどと誰も言わないよ
方墳なんだから墳丘とは四角い部分だ >>176
左右2倍を1歩とした中国が変なんだよ。 >>180
斜面を削って方墳より下の埋葬主体が残ったのなら
削る前の斜面で後に斜面を削ることを想定した深さに埋めたということになってしまう >>180
>その斜面成形部分は、棺が埋められている部分。
だから、斜面成形部分なんて存在しないだろう
自然地形だ
墳丘は四角い
だから方墳と呼ばれている 方墳裾部外周まで墳丘と言っている人類なんて存在しないぞ 県教育委の報告書の概要では
その高さの約1/4を地山から方形台状に削り出しており、
この削出しの範囲は、西辺を除けば、いずれも葺石最下段線よりも広く、
底辺長は東西約二五M、南北約二四Mとなる。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm >>182
ステップは一歩。
英語でも、ホップ、ステップ、ジャンプのステップは片足だよ。
日本の一歩が半歩なのは、世界標準。
中国の左右2歩を1歩とするのが変なの。 >>187
その解説は方墳部分についてのもの。
そこより下の斜面部分も当時は墳丘とみなされたのだろう。 >>189
現地見てないのか?
境目なんてないただの自然の山だぞ >>189
方墳の外側を墳丘だなんて言った人はいない >>189
方墳より下の斜面を削り出したと言ってるのはお前だけ >>183
斜面の棺は、斜面も含めて地山成形して卑弥呼の葬儀が終わったあとに埋められたものじゃないの。
だから、宝賀氏は古賀氏の説はおかしいと主張しているのだと思うけど。 >>193
斜面を削ってあることは、古賀氏が認めているじゃないの。 >>191
自然の山だと思っていたら、前方後円墳だったなんて、ざらにあるよ。 >>195
斜面を削ってあると古賀氏が認めている?
どの箇所で?
「斜面を削ってある」なんて一言も言ってないよな
妄想してる?
さすが九州説 >>196
>自然の山だと思っていたら、前方後円墳だったなんて、ざらにあるよ。
ずっと境目がない斜面なんだから、あり得ないな >>194
斜面成形爺はその古賀氏の話を根拠にしている >>170
>祇園山古墳の基底部が60mだから、倭人伝の百歩140mを半分にした70mとその60mはほぼ重なる。
>そこから推論すれば、そのようなことが考えられるということ。
祇園山古墳の基底部が60mだなんて事実がないから
どう推論しても、そのようなことは考えられない
祇園山古墳は方墳で東西約23.7メートル、南北約22.9メートル、高さ約6メートルだ >>192
宝賀氏は「墳裾」という言葉を使っているから、宝賀氏は平地部までを墳丘と考えているのは明らか。 >>201
宝賀は調査してないど素人なのでどうでもよい >>199
>斜面成形爺はその古賀氏の話を根拠にしている
つまり日本語が読めないということか
「古賀寿氏は、同墳の墳丘が地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められること、それらの出土品に鏡・装身具・鉄器のほか土師器・須恵器があること、高良大社所蔵の三角縁神獣鏡がかって祇園山古墳で発掘されたと推定されること等の事情から、同種の鏡を出土する古墳の全国的な編年のうえで、四世紀後半の古墳かとみた、とのことである」
ここから「斜面成形」とか
発狂してないと無理なんでは? >>201
>宝賀氏は「墳裾」という言葉を使っているから、宝賀氏は平地部までを墳丘と考えているのは明らか。
その素人宝賀ですら「墳裾外周という位置には多数の小型墓がある」と言ってるのだから
方墳の裾の外側がまだ墳丘だなんて言った人類はいない
猿だけだということになる それよりも、この曲『Kaya - Glitter Arch』
光のツブ(とあるゲームのスレ。ツブサワ、ツブサワと言っている人がいた。)、
ツブサワ・コウのテーマ?
なぜかポケモソの『七色アーチ』と同じだしな・・・。 とあるゲームのスレによると、通称:ツブ(ツブサワ・コウ?) 古墳の大きさばかリにこだわって、被葬者の眠る位置に考慮してない論者は、
永遠に卑弥呼の墓にたどり着けない。
卑弥呼墓を箸墓、勝山、ホケノ山、祇園山、平原、などというのはアホである。
卑弥呼を生んだのは2世紀前半からは続いていた王権である。
当時、彼らは王族などと呼ばれていない、彼らは神々と呼ばれていた。
ではその神々はどこにいた?
高天原だろ。
ではその高天原はどこにあった?
新井白石が常陸説を出す以前、高天原は大和葛城の金剛山で完結していた。
古今和歌集など平安・鎌倉の文献でそれが分る。
その金剛山の標高435mの高天原=奈良県御所市高天に、土蜘蛛塚がある。
これこそ魏志倭人伝の殉葬奴婢百余人である。
そしてその隣に経百余歩の塚がある。
卑弥呼の墓は高天原にあったのである。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
おまえら馬鹿だろ。 謎のガンダムの曲・・・など、なぜか繋がっているし。
〜☆物語とか、まさかツブ(コウ・ツブサワ)のテーマだったとか? それにしても『』w
謎のスレなど、ほとんど家の老婆と同じ話をしているし。
すとーかー?
まさか親戚に、そういう人がいるとか?すとーかーだったとか。 >>115
もちろんそれは冗談以下のウソ
「墳」とは、「土の盛り上がり」状態を言うのであり、
「錐体(台)的な冢も、墳に含まれる」という事になるのだから、
常識的には「冢は墳に含まれる」という事であり、
「冢は、高さを感じる墳だ」という意味。 >>116
>史実じゃなくて後世の人のカンチガイだな
古い史料を読み間違えただけ
史料事実や史料実態は、過去の人の認識や処理の実態の表れであり、
それを「古い史料を読み間違えただけ」と否定抹殺しようとするこ大和説男?は、
一種の「結論先にありき」の思想宗教に狂った?、嘘つき騙しの・・・・だな。 >>117
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説者って、
百年くらい進歩止まってるのね >>119
>始皇帝冢は大きいよ
始皇帝冢は、明らかに、斜面が直線的な「錐体(台)的な形状」だよ。
史料事実や史料事態から帰納しないから、そういう「大きい」というような、
トンデモな間違いに陥る >>123
>? 百歩は150m弱だけど?
?。魏志の「径百余歩」の「歩」は、周髀算経の度量衡であり、「1足底長」だよ。
>径というなら径だろ 墳長なら径でない
「径」は、「方形の一辺長」の表現に対比して、
「方形ではない不定形に関する長径」の表現だよ。 >>129
印象操作は犯罪ですよ、大和説さん
捏造はダメ
>柵が取り壊された後に穴が掘られたと判明済み
でなけりゃ穴の埋まった土に柵の柱穴が残るよ
当たり前。
そして、1棟の大型建物を含む建物群と「柵」は、当然同時期に造られたのだから、
桃種や庄内3があった穴は、建物群や柵が壊された後(布留期)に掘られた、
という事になる。
また、「柵」では、卑弥呼がいた「居處宮室樓觀城柵嚴設」にはならないよ。 >>210
>「冢は、高さを感じる墳だ」という意味。
つまり冢は墳の中でも大きいものだ
ばかは孔明の言葉を取り違えて逆に冢が小さいと言う
本当に九州説はばかばかりだな >>211
>史料事実や史料実態は、過去の人の認識や処理の実態の表れであり、
そう
後晋や宋の人が隋唐の古い史料を読み間違えていた、という記録だな 司馬懿軍師連盟でとうがいが屯田測量してたけど一歩は六尺だよ。倭は里を知らず、倭に固有が有るなら説明されてんだろ? >>213
>始皇帝冢は、明らかに、斜面が直線的な「錐体(台)的な形状」だよ。
九州説さんまたニセ情報?
始皇帝冢には段築あるよ
>史料事実や史料事態から帰納しないから、そういう「大きい」というような、
大きい
事実だ
九州説は目の前の事実を認めないから
学問でいられなくなった >>214
>?。魏志の「径百余歩」の「歩」は、周髀算経の度量衡であり、「1足底長」だよ。
九州説はそうやだて
史料に基づがない空想ばかりしているから
学問でいられなくなった >>215
>桃種や庄内3があった穴は、建物群や柵が壊された後(布留期)に掘られた、
辻褄合ってないよ >>131
>>纏向大型建物で桃の種が発見され、畿内説は祭祀のお供え物だと主張していたが、
桃の種が発見されたのは柵列の下の穴
柵があった時代に穴は掘れませんし何故そんな場所に?という疑問が湧くだけですね。
>いやこのデマ馬鹿すぎるだろう
建物廃絶に関わる祭祀だという見解で発表されてるのに
いや、宮室樓觀の建物が使われていた限り、城柵は必要であったのであり、
「桃種や庄内3の土坑」は、「宮室樓觀城柵」の廃絶時ではなく、後の造作だ。 >>136
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説は、
九州説に対して、「根拠なき妄想」、とか罵るだけで何も反論できない。
大和説あわれ 祇園とは、京都の花街のことでなく、本来は仏教の聖地をいう
祇園山は、古代仏教の聖地、つまり早くから仏教を信仰した蘇我氏一族の霊山である 飛鳥・蘇我氏の古墳を見よ。
それらと久留米祇園山古墳との類似性が理解できる。
久留米祇園山は渡来間もない時代の九州・蘇我氏のベースキャンプであり、一族を祀る廟でもあったのであろう。 >>140
大和説は大体が、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や捏造情報か、空想で、
九州説にイチャモン付けてくるので
正しい情報で返すと、
簡単に撃退できる >>224
>いや、宮室樓觀の建物が使われていた限り、城柵は必要であったのであり、
>「桃種や庄内3の土坑」は、「宮室樓觀城柵」の廃絶時ではなく、後の造作だ。
支離滅裂だな
宮室樓觀の建物が使われなくなれば城柵は不要なんだろ?
つまり「桃種や庄内3の土坑」は「宮室樓觀城柵」の廃絶時でいい 2016年自宅を加湿器の過剰使用により追い出されて生活保護受給者の自分は
「03-3953-8555特別区人事・厚生事務組合更生施設けやき荘東京都 新宿区西落合1−18−18 更生施設けやき荘」に入所した。
そこで酷い苛めを受けて虐めに関して仲裁に入ってくれるよう職員に申し出たが無視された。
翌日あまりの虐めの酷さに思わず感情的になったら(仲裁してくれない事にも苦しんで)警察を呼ばれた。
警察では「施設内のルール違反」に関して怒号を浴びせられた。
「ルール違反」で警察を呼ばれた訳ではないのに分かってはくれず犯罪者たる「03-3953-8555特別区人事・厚生事務組合更生施設けやき荘東京都 新宿区西落合1−18−18 更生施設けやき荘」に勤める「佐藤と柳沢」も虐め
が起こった結果感情的になったと警察に説明してくれなかった(してくれていたら「ルール違反」で怒号を浴びせられるわけがない)
生活保護を誤診に基づいた(実際には自分は発達障害なのだが、不登校で精神科に親に繋がれて誤診を受けていて二級の手帳保持、自分の幼少時には、そもそも「発達障害」は滅多につけられる病名ではなかった、現在40代)
二級の手帳保持者が警察沙汰になると必然的に「精神鑑定」を受ける。
そもそもは、こちらが虐めの被害者だった為からあまりに理不尽な為経緯をうまく説明出来なかった。
推測だが「話のまとまりがない、統合失調症」と誤診されたのではないか。
誤診だったので、すぐ退院でき住居もみつけてすぐ退院したが、「ルール違反で怒号を浴びせた」
戸塚警察に問い合わせても「侮辱」しかしない。
けやき荘に至っては、施設関係の第三者委員会に問い合わせても応答してくれずこちらが度を越えた人権侵害が行われた訳だからその事に関して提訴したいと思い問い合わせても「侮辱」を行う。
「虐めが起こった事」を警察に説明しなかった
03-3953-8555特別区人事・厚生事務組合更生施設けやき荘東京都 新宿区西落合1−18−18 更生施設けやき荘 >>143
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説は、
また簡単に負けすぎ >>225
>九州説に対して、「根拠なき妄想」、とか罵るだけで何も反論できない。
ほらまた根拠なき妄想してる >>145
大和説者は、「祇園山は卑弥呼の墓」を否定抹殺したがっても、
無理筋なの、気づいたかな? 蘇我の本貫は富田林の一須賀。
一須賀古墳群はおおよそ蘇我の興亡時期に合う。 飛鳥・蘇我氏の古墳を見よ。
それらと久留米祇園山古墳との類似性が理解できる。
久留米祇園山は渡来間もない時代の九州・蘇我氏のベースキャンプであり、一族を祀る廟地でもあったのであろう。 >>168
>>方墳部分より下に多くの棺があるんだから、この古賀氏のいう「削りだし」は斜面成形のことなのよ。
>つまり「調査した人が斜面成形されていると報告してますがな。」は真っ赤なウソで
「斜面成形されていると報告」などしていないわけだね
あんたがそう思っただけだ報告にそんな文言は無いのだから
「古賀寿氏は、同墳の墳丘が地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められること」云々
日本人ならわかるだろう?
「周囲の埋葬主体」は地山削出しで墳丘を作る前にあった つまり墳丘には含まれない
地山は方墳の芯にする部分を残して水平に削った地山を斜面成形などしていない
ダメだ。
墳裾の「鏡片を付けた成人女性の甕棺」は、当然「徇葬者奴婢百餘人」の先駆けとして、
墳頂の被葬者(卑弥呼)に先がけて殉葬された1号甕棺であり、
その後に基盤の成型が行われ、その時に1号甕棺の上縁を傷付けてしまい、
その後、その上に「四隅円弧の類方形錐体台」を造成して、
墳頂に巨大箱式石棺で主葬(の卑弥呼?)を埋葬し、
墳裾に61個の(複数陪葬などの)殉葬墓を埋葬した、という事になり、
従って、1号陪葬甕棺も、墳頂の主体も、61個の陪葬墓も、
祇園山の全「造成や葬儀」の間に造られた墓だ、という事になる。 >>214
「曹仁伝」
仁不應、遂被甲上馬、將其麾下壯士數十騎出城。
去賊百餘歩、迫溝、矯等以為仁當住溝上、為金形勢也、
仁徑渡溝直前、衝入賊圍、金等乃得解。
曹仁は応えず、かくて被甲して上馬し、麾下の壮士数十騎を率いて出城した。
賊を去ること【百余歩】の溝に迫った処で、
陳矯らは曹仁が溝の辺りで往って牛金救援の形勢とすると考えていたが、
曹仁は溝を渡って真直ぐ前進して賊の包囲に衝入し、かくして牛金らは解放された。
25m程度まで近づくと弓で射貫かれるのでとどまる意味がない
歩は約145m 「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
@曹魏から禅譲を受け、呉を平定し中国を再統一。280年頃、再び天下に平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに聞き知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹魏の薄葬令に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
B「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形◎や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、魏使は直接見ていない、南だ東だと無意味な論争が継続中!
もしも箸墓が卑弥呼の冢だったら、、、
魏使「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(✕不正解)
もしも祇園山古墳が卑弥呼の冢だったら、、、
魏使「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大】作冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
「殉葬者奴婢百人」は、魏の薄葬令に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しよう(陳寿、心の声)w >>239の訂正
歩は約145m → 百歩は約145m >>173
岩田重雄の話は日本だけじゃなくて
「私はそのころ、東アジアの中で、中国大陸、朝鮮半島、日本列島の古代の建物址の柱穴の間隔から
一七・三cmとその四倍の六九・二cmの二つの単位を検出しました。
そしてこれを古代の遺跡に応用したところ、東アジアでは共通の単位を使用していたことがわかり、
文明の発生をとびこえて日本では紀元前一万年前までさかのぼって長さの単位を使っていたことがわかりました。」
左右で1歩、約140cm 倭人が片足を1歩とした根拠はない
岩田氏の話の「一七・三cm」は、当然「1足底長」であった筈だ。
勿論、紀元前一万年前から「十七・三cm」を使っていたのか?、は、怪しい。 つまり、箸墓は倭王墓である以上、西晋が曹魏(薄葬令)の禅譲を受けて成立した、265年以降の築造ということだね。 >>238
>ダメだ。
>墳裾の「鏡片を付けた成人女性の甕棺」は、当然「徇葬者奴婢百餘人」の先駆けとして、
無理
布留1で4世紀だから
>墳裾に61個の(複数陪葬などの)殉葬墓を埋葬した、という事になり、
無理無理
須恵器も出てる
時代違いすぎ >>174
調査者が、方墳の外側の基盤台部分も墳丘の一部ではない、と言っているとか?は、
日本語の読めない人間しか妄想しないことだ >>246
>つまり、箸墓は倭王墓である以上、西晋が曹魏(薄葬令)の禅譲を受けて成立した、265年以降の築造ということだね。
つまりと書いて理由は書かない
それは詐欺 >>179
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者とは、
・・・・馬鹿詐欺師の品評会か >>248
>調査者が、方墳の外側の基盤台部分も墳丘の一部ではない、と言っているとか?は、
>日本語の読めない人間しか妄想しないことだ
墳丘裾の外側に小型墓群がある
墳丘は葺き石のある方墳
地山は墳丘でない 九州説とは、ここまでデタラメなんだね
方墳の墳丘は四角い
九州説に都合がよければ、あたりまえのことも無視する 九州説の人は報告書とか読まないから言うことは主観のデタラメばかりさ >>181
>それなら祇園山古墳は方墳だなどと誰も言わないよ
方墳なんだから墳丘とは四角い部分だ
祇園山古墳を「方墳だ」なんて言わないよ。
「不定形基盤台上の四隅円弧の類錐体台の冢」だろう、と言って来てある。 九州説の人は(反日古田集団は除外)、
一爺一作り話なので相互に議論することはほとんどない
だから畿内説スレに作り話を聞いてもらいにやってくる
いろいろな指摘を受けるがしばらくするとすっかり忘れてまた同じ作り話をもってやってくる
そうやって日々暮らしている >>183
>斜面を削って方墳より下の埋葬主体が残ったのなら
削る前の斜面で後に斜面を削ることを想定した深さに埋めたということになってしまう
勿論、1号甕棺の成人女性は、錐体台の形成の前に墳裾に陪葬殉葬されたのであり、
だから、錐体台形成の時に、甕棺の頂部が削られてしまったのであり、
彼女の殉葬を知って「奴婢百餘人」も悲嘆絶望の余り、殉葬を希望したため、
錐体台の形成の後に、それを取り囲むように、墳裾に61個の陪葬墓を造って、
殉葬墓を造ったんだろう、という事になる。 >>186
>方墳裾部外周まで墳丘と言っている人類なんて存在しないぞ
62個の陪葬殉葬墓は、いずれも、
「四隅円弧の類方墳の錐体台」墓の墳裾部に陪葬された、という事だ。 百余歩(145〜159.5m未満)に該当する古墳前期までの古墳って全国に
10基くらいしかないんだよね
しかも3Cまでに築造された古墳となると1基しかねえの
天理にある波多子塚古墳ただ一つ
しかも前方後方墳
しかも未盗掘なのに金属器がゼロ
ショボすぎる
どう見ても卑弥呼陵ではないよね 九州説はやさしい
各人各様の考え方をもっていてお互いの意見を尊重している
考え方の違いでムキになったり怒鳴り合いの激論をしない
たまに過去の書き込みを見つけてきて他山の石にすることもある
一方畿内説はその逆。
答えは一つしかないという強迫概念に駆り立てられ
我は富士山ほかは並びの山というように
権威主義的な発想で人を追い詰め排斥していく
そうやって毎日を消費していく無職 祇園とは京都の花街のことでなく、古来、仏教の聖地をいう
飛鳥・蘇我氏の古墳を見よ。
それらと久留米祇園山古墳との類似性が理解できる。
久留米・祇園山は渡来間もない時代の九州・蘇我氏のベースキャンプであり、一族代々を祀る聖廟の地でもあったのであろう。 >>256
祇園山古墳裾の甕棺は在地系最終期のUC期(4世紀初くらい)
博多62次方形周溝墓(UB期)周溝外周隅埋葬と同じUC期
だから方墳削り出しは4世紀以降
墳頂の石棺墓の時期は不明 >>188
>ステップは一歩。
英語でも、ホップ、ステップ、ジャンプのステップは片足だよ。
日本の一歩が半歩なのは、世界標準。
中国の左右2歩を1歩とするのが変なの。
周末の秦では「1歩=6尺」であり、
始皇帝は統一後にそれを中国全土に命令したが、
秦滅亡の漢代では既に、「1歩≒1尺」の周制との混乱が発生していた、というだけ。
ちなみに、周制では、始めは「1歩」はほぼ「1足底長」であった。
というだけ。 >>190
>斜面成形部分なんて存在しない 墳丘は四角い
ダメだ。祇園山は、
基盤台が不定形で、その上に「四隅円弧の類方形の錐体台」が造られた、
という形状だ。 >>254
>祇園山古墳を「方墳だ」なんて言わないよ。
>「不定形基盤台上の四隅円弧の類錐体台の冢」だろう、と言って来てある。
あんたが勝手にそう言っても世間が認めないよ
どっちにせよ、その下の山は冢でない
墳丘じゃないから当然だ >>260
実際は九州説が異常に好戦的、攻撃的で口汚ない >>260
九州お爺さん説は作り話なのでお互いの意見に反論する知識がない
畿内説から心優しく反論されるとわりとムキになったり意固地になる
もう何回も聞いた作り話なのでどうしても指摘が厳しくなっていく >>264
四角いものを見て四角いと認めない
自然の山を墳丘と言う
それが九州説 >>203
>「古賀寿氏は、同墳の墳丘が地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められること、それらの出土品に鏡・装身具・鉄器のほか土師器・須恵器があること、高良大社所蔵の三角縁神獣鏡がかって祇園山古墳で発掘されたと推定されること等の事情から、同種の鏡を出土する古墳の全国的な編年のうえで、四世紀後半の古墳かとみた、とのことである」
ここから「斜面成形」とか
発狂してないと無理なんでは?
古賀寿は、既に、教育委員会などの公的機関の公務員的学者として、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者である事がバレており、
そんな学者の「祇園山古墳解釈」など、信頼性が全くなく、根拠にはならないもの。 筑豊には地元市教委から否定されても
自然丘陵を超巨大前方後円墳だと言い張る素人愛好家もいる >>204
>>宝賀氏は「墳裾」という言葉を使っているから、宝賀氏は平地部までを墳丘と考えているのは明らか。
>その素人宝賀ですら「墳裾外周という位置には多数の小型墓がある」と言ってるのだから
方墳の裾の外側がまだ墳丘だなんて言った人類はいない
猿だけだということになる
基盤台部分から成型造成がなされているんだから、
「類方形の錐体台」墓の墳裾は、当然、墳丘の一部だ。 >>271
>基盤台部分から成型造成がなされているんだから、
>「類方形の錐体台」墓の墳裾は、当然、墳丘の一部だ。
平らに整地しただけだ
基盤台部分を成型造成したとか、九州説らしい妄想でしかないぞ
あれは自然の山だから >>216
>>「冢は、高さを感じる墳だ」という意味。
>つまり冢は墳の中でも大きいものだ
違うな。
「大きさ」なんて書いていないし、言ってもいない。
要は、「冢」を墓説明文言として使う場合には、
「聳えるように高さを感じる錐体台的な形状」を示す文言である、という事だ。
ばかは孔明の言葉を取り違えて逆に、冢が王きい、と言う
本当に大和説者はばかばかりだな >>276
>「大きさ」なんて書いていないし、言ってもいない。
言い張っても無駄だ
当時の技術的にあまり急勾配は作れない
高いなら高いぶん必然的に底面積も大きくなる
九州説は現実を認めろ
>要は、「冢」を墓説明文言として使う場合には、
>「聳えるように高さを感じる錐体台的な形状」を示す文言である、という事だ。
そんなこと、あんたが決めることではない
また文献からまったく帰納をせず恣意的に言い張っているな
無駄だ 冢は、高墳也。(說文解字)なので
大的;地位高的 [eldest]という形容詞でも使われる 「同墳の墳丘が地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められる」
という情報から
「斜面成形」なんて情報はまったく出て来ない
九州説とは、そういうものだ
文献解釈も、まったく書かれてない情報を作り出し
書いてある、書いてあると言い張るのだ
そういう病状としか思えない .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. 古墳の円形部の中心には卑弥呼の屋形があったし埴輪騎馬兵が伝令に行ってなきゃおかしい 九州のお爺さん作り話は時としてムキになったりやけのやんぱちになったりはするが
海よりも深く、空よりも広い大和心をもつ大和民族アカデミック畿内説は
同じ大和民族であるお爺さんにいつも温かい心で答えてあげている
我国の歴史とは何の関係もない古田反日有害活動集団は完全除されている 古来、祇園とは仏教の聖地をいう
飛鳥・蘇我氏の古墳を見よ。
それらと久留米祇園山古墳との類似性が理解できる。
久留米・祇園山は渡来間もない時代の九州・蘇我氏のベースキャンプであり、一族代々を祀る聖廟の地でもあったのであろう 古来、祇園とは仏教の聖地をいう
飛鳥・蘇我氏の古墳を見よ。
それらと久留米祇園山古墳との類似性が理解できる。
久留米・祇園山は渡来間もない時代の九州・蘇我氏のベースキャンプであり、一族代々を祀る聖廟の地でもあったのであろう >>287
スレタイは邪馬台国畿内説として
邪馬台国九州説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
と書いてあるので不要 >>280
龍信仰はワニであり蛇信仰てかいてあったぞ >>279
国語理解力が相当低下しとる。
「地山削りだしの際(に)」→地山の成形中に
「周囲の埋葬主体」→斜面に埋納の甕棺
「上面かットした」→その甕棺の上部を破砕した
これを一つの文にすると、→地山の成形中に斜面に埋納された甕棺の上部を破砕した
この文章は、「甕棺が埋められた地山斜面の成形中に、甕棺の上部を壊してしまった」という内容になる。
したがって、この文章は斜面の成形が行われたことを示すもの。
これが「斜面成形」を意味しないとは、三日寝とぼけた発言といえる。
つまり、国語理解力の著しい減退がみとめられる。
病院行きがふさわしい。 >>295
脳の病気?
>「地山削りだしの際(に)」→地山の成形中に
>「周囲の埋葬主体」→斜面に埋納の甕棺
「斜面に埋納の甕棺」などと書かれていない
>「上面かットした」→その甕棺の上部を破砕した
「その甕棺の上部」などと書かれていない
妄想する病気? >>263
漢代では1歩≒1尺…とのことだけど、1尺は23p程度なので、いくらなんでも1歩≒23pはないのとちがう? >>296
上面は、上部でよし。
棺が埋納されているのは斜面部分だから、そこは斜面なんだよ。
病院行き決定だな。
とにかく、甕棺が埋納されていたとされる斜面は、墳墓を造る際に成形されたということだよ。 (>>298
>棺が埋納されているのは斜面部分だから、そこは斜面なんだよ。
そんなこと、どこに書いてある?
あなたの捏造?
>とにかく、甕棺が埋納されていたとされる斜面は、墳墓を造る際に成形されたということだよ。
甕棺だなんて書いてないのに、なんで甕棺の話になる?
捏造? >>299
>祇園山古墳の甕棺はKVfとされる形式で、年代は240年頃とされているな。
70年代の研究ではね
今は違う
四世紀とされる >>251
その地山は成形してあるのだから、墳丘の一部だよ。 >>295
>国語理解力が相当低下しとる。
>「地山削りだしの際(に)」→地山の成形中に
>「周囲の埋葬主体」→斜面に埋納の甕棺
>「上面かットした」→その甕棺の上部を破砕した
原文に書かれていない文言に勝手に書き換えることを
一般に捏造歪曲といいますが >>302
>その地山は成形してあるのだから、墳丘の一部だよ。
山頂を平らに整地しても、山全体が墳丘の一部になったりしないよ >>302
「筑紫古代文化研究会」で検索し、上から二番目のサイトを開く。
このホームページ画面の左側の「目次」の第123号を開く。
この会報に古い祇園山古墳の全景写真が載っている。
方墳部分の下も完全に墳丘だよ。 >>306
>4世紀は、諸説ありの中の一つ。
最も研究の進んだ最新の説だが? >>305
>方墳部分の下も完全に墳丘だよ。
理由も言わず
主観だけで決め付けられてもな まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>308
卑弥呼が死んだ248年ごろの墓が発掘されたところで、
同じ年に死んで甕棺や塚や墳に葬られた貴人・諸侯は全国にたくさんいる。年代一致だけでは何の証拠にもならない。 >>218
>>史料事実や史料実態は、過去の人の認識や処理の実態の表れであり、
>そう
後晋や宋の人が隋唐の古い史料を読み間違えていた、という記録だな
違うな。
後晋や宋の人は、後晋や宋の時の、実地の見聞した事実や実態を記録し、
また、知り得た「後晋や宋以前の過去の史料事実や史料実態」への自己の判断、
という記録だな >>219
>司馬懿軍師連盟でとうがいが屯田測量してたけど一歩は六尺だよ。倭は里を知らず、倭に固有が有るなら説明されてんだろ?
意味不明な文だな。
根拠の史料事実を書きだしてみろ。 >>220
>>始皇帝冢は、明らかに、斜面が直線的な「錐体(台)的な形状」だよ。
>九州説さんまたニセ情報?始皇帝冢には段築あるよ
始皇帝冢も、華山の尖り山々も、馬韓の家屋も、ピラミッドも、
近接して見れば、凸凹があるだろうが、
遠目には、「斜面が直線的」に見えるものだよ。
>史料事実や史料事態から帰納しないから、そういう「大きい」というような、
>大きい 事実だ
いや、孔明の遺言の冢は、明らかに「墳よりも小さい」し、
華山の山々にも、大きな冢もあるし小さな冢もあるし、
馬韓の家は普通の家の大きさであるから、「大きい」なんて、全く言えない。
大和説は目の前の史料事実を認めないから、学問でいられなくなった >>221
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説は、
そうやって、史料事実や史料実態に基づがない空想ばかりしているから
学問でいられなくなった >>230
>>いや、宮室樓觀の建物が使われていた限り、城柵は必要であったのであり、
「桃種や庄内3の土坑」は、「宮室樓觀城柵」の廃絶時ではなく、後の造作だ。
>支離滅裂だな
宮室樓觀の建物が使われなくなれば城柵は不要なんだろ?
つまり「桃種や庄内3の土坑」は「宮室樓觀城柵」の廃絶時でいい
支離滅裂だな。
「宮室樓觀城柵」の廃絶時では、一旦「「土坑なども要らなくなっていた」のであり、
その後改めて、城柵の後の場所に土坑が掘られた事になるから、
「桃種や庄内3の土坑」は「宮室樓觀城柵」の廃絶時よりも後だ。 >>318
史料から一切帰納せず漢字の意味を個人の主観で新作するとか
傲慢な真似ができるのは九州説老人だけ >>315
場所が大事よ。
東北に同時期の墓あっても、それは卑弥呼の墓と別なのははっきりしてる。
祇園山古墳は、久留米の高良山の御先にあるから、問題になるのよ。
熊菊池の狗奴国がその北の山門に攻め込んだので、山門の祭祀所にいた卑弥呼が邪馬台国の北の端まで避難した。
そこが高良山の御先の平野部だったと考えるのが妥当。
その避難先で卑弥呼が死んだものだから、すぐ近くの高良山の御先に葬ったわけ。
このように、同じ時期だといっても、場所が大事なのよ。 >>322
まさにそのとおりだが、
ならば、末盧国から祇園山に至る行程ルートを、方角里数と共に示してみろ。皆が納得するようにな、、。 >>311
調査した古賀寿男氏が、甕棺のある斜面は成形しているとみなしているのだから、方墳下の地山斜面は成形してあるということなの。
成形したという事は、当時、地山斜面は墳丘の一部とみなされたということを示しているわけ。
そして、その地山斜面が平地と接する部分の楕円形東西差し渡しが60mほどあるということだよ。
この60mは、倭人伝の卑弥呼の墓径百歩は魏の左右の足で1歩とする単位によるものではなく、倭人が用いていた半歩を1歩とする単位による百歩であること(70m程度)とよく重なる。
祇園山古墳は、卑弥呼の墓の最有力候補といえるわけよ。 ERROR: スレッドストッパーが働いたみたいなのでこのスレッドには書けません >>299
橋口の単純に30年割り当ては末期の甕棺の年代がおかしい
久住の年代が福岡の他地域出土甕棺と整合している >>239
>「曹仁伝」仁不應、遂被甲上馬、將其麾下壯士數十騎出城。
去賊百餘歩、迫溝、矯等以為仁當住溝上、為金形勢也、
仁徑渡溝直前、衝入賊圍、金等乃得解。
曹仁は応えず、かくて被甲して上馬し、麾下の壮士数十騎を率いて出城した。
賊を去ること【百余歩】の溝に迫った処で、
陳矯らは曹仁が溝の辺りで往って牛金救援の形勢とすると考えていたが、
曹仁は溝を渡って真直ぐ前進して賊の包囲に衝入し、かくして牛金らは解放された。
25m程度まで近づくと弓で射貫かれるのでとどまる意味がない
根本的のこの男は、
魏朝の短里は、文帝の時に指示されて明帝の時に採用された、という史料実態を知らず、
だから、(魏代ではなく)漢代の記録であれば、それが長里記録であっても、
陳寿はそのまま記録通りに記載する、という事も知らず、
また、三国志の魏代の記録では蜀や呉の記録では、
(短里ではなく)長里で記載されていた事もある、という事も知らず、
上表文や手紙や報告が長里で書かれていても、短里で書かれていても、
その記載通りの里数を記載する、という事も知らないアホ。
そして、曹仁の記録は、曹操の生存期の活躍した人物の記録であるから、
漢代の長里の単位系で書かれていた、という可能性は幾らでも有り得るもの。
>歩は約145m
この男は全くのアホ。魏朝では、原則として、1里≒76.5mであり、1歩≒25.5cm。 >>247
>>ダメだ。
墳裾の「鏡片を付けた成人女性の甕棺」は、当然「徇葬者奴婢百餘人」の先駆けとして、
>無理 布留1で4世紀だから
筑紫の祇園山の甕棺が「布留1」である、としたのは誰だったのか?は知らんが、
4世紀は、その学者の判定間違い。
>>墳裾に61個の(複数陪葬などの)殉葬墓を埋葬した、という事になり、
>無理無理 須恵器も出てる 時代違いすぎ
無理無理。
筑紫では須恵器は吉武高木から出土しているし、
内倉さんの報告では、弥生期の筑紫の土器出土では、
褐色の土器と灰色〜白色の土器の混在が非常に多かった、
という事。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>327
魏朝の短里は、文帝の時に指示されて明帝の時に採用されたというのは
日本の反日朝鮮人だけが言い張ってることで
三國志では1歩=約145mで書かれている >>329
複合遺跡の吉武高木からは古墳時代の須恵器が多く出ている
ど素人が分類前のコンテナを覗いただけで判断するのは無理 >>331訂正
三國志では1歩=約145mで書かれている ×
三國志では1歩=約145cmで書かれている 〇 >>324
古賀寿は「同墳の墳丘が地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められる」としか言っていない
つまり削出した墳丘は、墳裾埋葬主体上面よりも上側=方墳部分 >>323
魏の使節団が通った実際の卑弥呼の祭祀所のある邪馬台国までの道筋は、次のルートだろう。
倭人伝が道筋として国名をあげている通りに、末盧から東北に五百里で伊都国へ、そして同じく東北の奴国へ百里行って、そこから東へと向かい百里で不彌国へと進む。
この不彌国は筑紫野から小郡あたりに位置していたと思われる。
そして、ここから先が問題となる。小郡からどこに向かうか倭人伝は何も書いてないからだ。
そこで、目を女王国の南にあるとする狗奴国に転じる。
狗奴国の本拠地を熊本の菊池あたりとみなすと、女王国はその北に位置するわけであるから、狗奴国の北端は玉名、山鹿あたり、一方女王国の南端にある邪馬台国の南の境は大牟田あたりということになる。
このように邪馬台国の南の端は大牟田あたりとすると、そこから北へ地理的にまとまりのあるのは広川あたりまでであるので、邪馬台国の北の端は八女の北にある広川あたりとすることができる。
この南北の範囲が邪馬台国だろう。
となると、筑後川の南北岸に位置する久留米は、地理的に別の国とするのがよい。
そこで、小郡あたりから久留米の筑後川を南に渡り、そのあと広川に入るのが邪馬台国への魏の使節団の通った道筋とみるのが妥当だ。(続く) >>335
ではなぜ、広川までが邪馬台国だとみなすことができるのかというと、
卑弥呼は山門の祭祀所にいて、その弟は別の所で世俗の政治に携わっていたとみられるので、
その世俗政治の中心地は八女と考えるのがよく、北に高良山系が東西にかぶさっていることから、
その高良山の西側の先端あたりが久留米との境とみなすのが地理的に正しいと思われるからである。
そして、その高良山の西側の先端あたりが広川になる。
このように、大牟田から広川までが、倭国乱の結果成立した邪馬台国だとみなすことが可能だ。
つまり、倭国乱以前は山門・大牟田地域と八女・広川地域は矢部川を境として別の国だったが、
倭国乱の結果この二国は合併し、山門は卑弥呼の祭祀所のあるところ、八女は政治の中心地という構成になったのではないか。
邪馬台国の成立は、このように考えることができる。(続く) 卑弥呼の時代、銅鐸は祭りの道具だった
銅鐸を崇めて五穀豊穣を祈った
こんなん弥生人がただのオカルトのバカだろっての
銅鐸ってのはカレンダーだったんだよ
実用的な道具 >>336
さて、末盧から奴、不彌、小郡、久留米、八女山門(邪馬台国)へと行く道筋は遠回りであり、むしろ末盧から東南に松浦川を遡って多久に出て、
それから吉野ケ里、鳥栖を通lり、筑後川を渡って八女山門(邪馬台国)に入るのが近道だ。
しかるに、なぜ魏の使節団は遠回りの道筋をとったのかというと、後漢に朝貢した奴国の顔を立てるためだったと考えるのがよいだろう。
魏は後漢から王権を禅譲されたとする建前をとっている国なので、その後漢に朝貢した奴国を無視してないがしろにするわけには行かなかったということだろうと思われる。
そこで、遠回りになるものの奴国に挨拶をして、それから邪馬台国へ向かったと考えるのがよいのではないか。
まあ、私考としては、魏の使節団がとった邪馬台国までの道筋はこのようなものだな。 大牟田あたりに炭鉱があったので、どうしてもその近隣地域には
山門信号機爺のような古田反日有害活動集団と意見が近い、というか根が同じ人がいる >>334
平面図をみると、方墳部分には第一主体以外の棺が描かれてないから、方墳部分での甕棺の上面カットはあり得ん。 そもそも里なんて概念ないからな〜
それでないのがおかしいと言われてもな
違う尺度でもよいわけの話なんだね >>340
方墳の裾に甕棺他がある
その上面がカットされてたと言ってるのだから
地山から方墳部分を削り出したということ
それはUC期(4世紀初くらい)以降
墳頂の石棺の年代は不明 >>252
大和説とは、「南→東」や「冢→前方後円墳」とか「正北抵新羅の否定」とか、
ここまでデタラメなんだね
祇園山は、不定形の基盤台上の「四隅円弧の類方形の錐体台」的墓。
大和説に都合が悪ければ、あたりまえのことも無視する とうがいの一歩六尺はテレビドラマで計る道具と長さを出してきていたと言うだけの話よ、何れにしろ前方後円墳はそれまでの円丘方墳水を合わせ持つもので完成形とも言える、また元に戻るが266年以前にあったのか?無かったのか?卑弥呼の死で築造したわりには直ぐに争いが起き築造効果が無いとも言える。 >>253
大和説の人は、史料事実よまず、
史料事実からの帰納的確率的な推論をせずに、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをし、
嘘吐き騙しの詐欺師の大和説学者ら報告書ばかり読むから、
言うことは主観のデタラメばかりさ >>310
つい、最も研究の進んだ最新の説、と言われてもなあ。 >>255
大和説の人は、全て、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らの受け売り話ばかりなので、
相互にも議論することはほとんどない
だからこの大和説スレに嘘吐き作り話を聞いてもらいにやってくる
いろいろな指摘を受けるが、
しばらくするとすっかり忘れてまた同じ作り話をもってやってくる
そうやって日々暮らしている >>259
>百余歩(145〜159.5m未満)に該当する古墳前期までの古墳って全国に
10基くらいしかないんだよね
しかも3Cまでに築造された古墳となると1基しかねえの
天理にある波多子塚古墳ただ一つ
しかも前方後方墳
しかも未盗掘なのに金属器がゼロ
ショボすぎる
どう見ても卑弥呼陵ではないよね
ふーん。
しかし、「古墳前期」とか「3世紀まで」とかが、疑問だね。 >>345
そのとおり
コンターを見れば標高54か55mあたりにテラス面があるのが
正常な人なら分かるはず
自然の山の頂上近くを水平にカットして平坦面を作り
削り残した方形部分にさらに土を持って
平坦面から数えて6mほどの方墳を築いた
平坦面は平らに削っただけだから
山の斜面に手は加えていない
つまり基壇部などは築いていない
墳丘は山から削り出し土を盛って葺石を葺いた方墳だけだ >>349
反論せず否認するのが九州説
能力なさすぎ そして>>350のように、ひたすら嘘をつき続ける
絶対に証拠は出さない
それが九州説 >>262
>祇園山古墳裾の甕棺は在地系最終期のUC期(4世紀初くらい)
ダメだ。祇園山には甕棺が3個も出ており、
他の墓での甕棺年代を根拠にした年代決定論は×であり、
須恵器や、土師器の古い方(庄内)や、△や、「冢」や、「径百余歩」や、
「徇葬者奴婢百餘人」などの史料事実からの年代推定の方が有効だ。
>博多62次方形周溝墓(UB期)周溝外周隅埋葬と同じUC期
だから方墳削り出しは4世紀以降
祇園山は周溝がなく、だから「周溝墓」の年代推定など、何の関係もなく、
年代論拠にならない。
>墳頂の石棺墓の時期は不明
盗掘を受けたから、巨大な箱式石棺で、朱丹が残っていた事位しか、論拠がない。 日本で弥生遺跡みたいなんが出回りだすのが紀元前10世紀なの
あまり漢とか関係ない
向こうの基準も >卑弥呼の冢? 聞きなれない言葉ですね。
>しかしそのヒントは『三国志』の中にありました。ズバリ、これですね。
山に因(よ)りて墳を為し、冢は棺を容(い)るるに足る。(蜀志・諸葛亮伝)
>これは、かの諸葛孔明の遺言に出てくる一節ですが、
>孔明は自分の死後の墓としては、山を墳と見立てて、その山の適当な個所に土盛りの墓を作れば十分だ≠ニいっているのです。
こんもりとした丘陵(小山)の上にそれなりの土盛りがあるところ。それが卑弥呼の墓(墳+冢)だ。
つまり径百余歩とは、いわゆる前方後円墳などの定型墳でなく、自然丘陵(小山)の差し渡しのことであろう。 >>355
反日ど素人のみの集団内ならな
会話が不可能なので我国の学問の場では古田集団は完全除外されている >>265
>>祇園山古墳を「方墳だ」なんて言わないよ。
「不定形基盤台上の四隅円弧の類錐体台の冢」だろう、と言って来てある。
>あんたが勝手にそう言っても世間が認めないよ
どっちにせよ、その下の山は冢でない 墳丘じゃないから当然だ
風雨や温度差が激し温帯モンスーン気候の列島では、
基盤台を造らず、段築や葺石だけの冢では、
底面斜面の流水などのために、直ぐに崩壊してしまうもの。 倭人伝では少なくとも短里であろうが投馬、女王都まで水行1ヶ月徒歩1ヶ月かかるわけで北九州は無いでしょ、それとその後東征毛人西服衆夷、違う奴等だよといってる 魏の1歩はだいたい140cmくらい
百歩は約140mなので魏志倭人伝に径百歩とある卑弥呼の墓は
畿内にある前方後円墳くらいのサイズ >>266
実際は、
人種差別戦争狂的な権力的皇国史観宗教の大和説らの方が、
異常に好戦的、攻撃的で、口汚ない 末盧国から祇園山へ至る具体的な行程論(方角・里・道)はどうしたのだ。
さっぱり要領を得ないではないか。 >>267
大和説者らは、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態を曲解や否定をする嘘吐き騙しの、作り話なので,
九州説の意見に反論する知識がない
九州説から心優しく反論されると、
わりとムキになったり意固地になる
もう何回も聞いた作り話なので、
どうしても指摘が厳しくなっていく >>268
「南」を見ても「東」という。
「冢」を見ても「前方後円墳」という。
「正北抵新羅」を見ても「北部九州ではない」という。
「四隅円弧の類方形の錐体台」を見ても、「方墳」という。
四角くないものを見て四角くないと認めない
自然の山に造られた冢を見ても墳丘だとしかと言わない
それが大和説 >>364
その説が揺らいできている。
祇園山古墳の楕円形裾部の東西差し渡しが60mほどあることから、
倭人伝の径百歩(一歩=140p)は張政の誤認であり、実は倭人役人が張政に伝えたのは倭人歩(半歩=70p)による百歩だったという考えが有力になりつつあるの。
実際、倭人伝では張政は卑弥呼にあっていず、ずっと迎賓所にいたフシがあり、倭人伝の滞在中の記事はすべて倭人役人からの伝聞である可能性が高くなっている。
径百歩は実は70mほどだったと言えそう。 >>270
>筑豊には地元市教委から否定されても
自然丘陵を超巨大前方後円墳だと言い張る素人愛好家もいる
大和説者らのように「冢だとは言わない」んなら、
まだましだ。 >>336
さて、末盧から奴、不彌、小郡、久留米、八女山門(邪馬台国)へと行く道筋は遠回りであり、むしろ末盧から東南に松浦川を遡って多久に出て、
それから吉野ケ里、鳥栖を通lり、筑後川を渡って八女山門(邪馬台国)に入るのが近道だ。 >>360
亮遺命葬漢中定軍山、因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物。
諸葛亮は漢中の定軍山に葬る事を遺命し、
山に因って墳とし、冢は棺を容れるに足る大きさで、時服にて斂め、器物は副葬させなかった。
つまり諸葛亮は大いに冢は作らせなかった >>272
>クズ説は水行二十日、水行十日の時点で終わっている
クズ大和説は、
「水行二十日」が、不彌國から投馬國への「南への水行での所要日数」であり、
「水行十日」は、郡から女王之所都への行程の「水行移動部分の所要日数」である事が、
判らなかった時点でも、終わっている。 >>369
張政は誤認してなくて
卑弥呼の墓は魏志倭人伝の通り径140mの可能性もあるよ >>372
>つまり諸葛亮は大いに冢は作らせなかった
「大いに・・」は大きいという意味ではない。多くの人が集まって大々的に・・という意味だ。
冢そのものの大きさはささやかでも、実際に100人もの奴婢を殉葬したわけだから、小山全体の大きさは百余歩だったのであろうな。 >>273
>>基盤台部分から成型造成がなされているんだから、
「類方形の錐体台」墓の墳裾は、当然、墳丘の一部だ。
>平らに整地しただけだ
基盤台部分を成型造成したとか、九州説らしい妄想でしかないぞ
あれは自然の山だから
自然の山や丘陵地域で平ら整地したんなら、そりゃ、成型造成だ。 >>375
祇園山古墳の親玉は大いに冢は作ってもらえなかった
あの小山の上でよかろ的な >>366
ああ、祇園山への道程だった。
卑弥呼の祭祀所は邪馬台国の山門に設けられていて、そこで祭儀を執り行っていた。
そこで、狗奴国が玉名から大牟田に侵入して山門の卑弥呼を攻め、激しく迫ったため、卑弥呼は邪馬台国の最北端にある広川にまで避難した。
そして、そうこうするうちに、高齢の卑弥呼はその広川で急死し、広川のすぐ東にある高良山系の先端部分に造られた墳墓に葬られた。
その墳墓が祇園山古墳であり、卑弥呼の墓ということになる。
これが今議論になっている祇園山古墳の成立のいきさつの真実。
なので、末盧から邪馬台国への方角、里、道筋はすでに書いた通り。
祇園山古墳はその邪馬台国の中の山の先端部に造られた卑弥呼の墳墓ということになる。 >>274
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
存在しない情報を脳内で作るのが
大和説 >>276の訂正
>>216
>>「冢は、高さを感じる墳だ」という意味。
>つまり冢は墳の中でも大きいものだ
違うな。
「大きさ」なんて書いていないし、説文解字は言ってもいない。
要は、「冢」を墓に関する説明文言として使う場合には、
「聳えるように高さを感じる錐体台的な形状」を示す文言である、という事だ。
大和説ばかは、孔明の言葉を取り違えて逆に、冢が大きい、と言う
本当に大和説者はばかばかりだな 3世紀前半の博多に、全長約75m、後円部(冢)の直径約48mが造られているので
九州説の場合はこれより大掛かりな冢が3世紀後半の九州の下地域になければならない >>378
畿内の大和の箸墓古墳は
円墳部分が魏の尺度で径百歩つまり140mちょうどあるよ >>376
>自然の山や丘陵地域で平ら整地したんなら、そりゃ、成型造成だ。
あるものを削っただけじゃ整形だな
成形ではない
盛ってないだろ? >>369
>その説が揺らいできている。
君が空想しただけじゃ、揺らがないよ >>381
土盛で高くする(高墳)とどうしても全体的に大きくなる
「聳えるように高さを感じる錐体台的な形状」というのは反日朝鮮人以外は言っていない >>277
>>(説文解字は冢の説明として)「大きさ」なんて書いていないし、言ってもいない。
>言い張っても無駄だ
当時の技術的にあまり急勾配は作れない
関係がない。「冢」は「錐体(台)」的な形状を言う文言であり、
大きさの事を言っているのでもなく、急勾配の事に断定しているのではない。
高いなら高いぶん必然的に底面積も大きくなる
大和説は「冢」の現実を認めろ >>279
「同墳の墳丘が地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められる」
という情報から
「斜面成形」なんて情報はまったく出て来ない
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説とは、
そういうものだ
文献解釈でも、まったく書かれてない情報を作り出し
書いてある、書いてあると言い張るのだ
そういう病状としか思えない >>378
>高齢の卑弥呼はその広川で急死し、広川のすぐ東にある高良山系の先端部分に造られた墳墓に葬られた。
この位置関係は違う。
祇園山は、広川から北へ百里(7-8q)行った久留米にある。そしてその久留米は邪馬台国の範囲でなくて、別の国だったと云っておるぞ。
正しくは、高良山の西端は久留米と祇園山古墳であり、この久留米から高速で1区間下ったところに広川がある。
どうやら広川と久留米、久留米と鳥栖がごっちゃになっているのではないか?? >>282
「南≠東」や「冢≠東」や「正北抵新羅」の否定の、
史料事実や史料実態の否定の嘘吐き騙しの大和説のお爺さんの作り話は、
時としてムキになったりやけのやんぱちになったりはするが
海よりも深く、空よりも広い心をもつ九州説者らは
同じ国民であるお爺さんに、
いつも温かい心で答えてあげている
我国の歴史とは何の関係もない古田反日有害活動集団は完全除されている >>391
九州説にできることは
罵ることだけなのかい? >>286
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」などの、
史料事実や史料実態の議論に負けて、無力な大和説には、
荒らししか出来ない >>296
>>「上面かットした」→その甕棺の上部を破砕した
>「その甕棺の上部」などと書かれていない 妄想する病気?
その甕棺の中央部を破砕したら、
その中の「鏡片や刀を所持した成人女性」の体も、破砕してしまう事が免れないが、
実際には破砕されていないから、
「その甕棺の上面だけを壊した」という事になる。 >>301
>>祇園山古墳の甕棺はKVfとされる形式で、年代は240年頃とされているな。
>70年代の研究ではね 今は違う 四世紀とされる
70年代の研究ではね
今は違う 250年頃とされる >>374
その可能性もある。
しかし、そのためには張政ら使節団が卑弥呼の墓を実見していたということが前提になる。
確かに魏歩で百歩くらいある、と実測したことが推定できないとね。
今までは、実測しただろうと思い込んで、魏歩で百歩だと書いてあるとみなしていたのだけど、
張政らが卑弥呼の墓を実見していないとなると、話は違ってくる。 どっちにせよ斜面整形など行われたなんて話は空想
現地調査者は誰も言っていない
山頂を平らに削ってその上に墳丘を作っただけ
墳丘は方墳だけだ >>395
亀棺って弥生時代じゃないの?
祇園山の周りからは亀棺から箱式石棺墓まで
およそ200年くらいに渡って形成されたと思われる墓が存在する
よってそれらはいわゆる殉葬による死者ではないとされているのさ >>397
倭人伝にいい加減な情報が書いてあったと認めると
九州説全体が崩壊するよ
いいんだね? >>313
東大理系博士号自称男が、また、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」などの、
史料事実や史料実態に反論出来ずに、
口先での騙し投稿宣伝だけになっている。
大和説が負けたのか >>397
箸墓古墳は円墳部分がちょうど径百歩に相当するから
もしかして卑弥呼の葬儀に招かれた張政が実見してたかも知れないなあ これだと李氏朝鮮時代に家畜扱いされたのもうなずける >>315
>卑弥呼が死んだ248年ごろの墓が発掘されたところで、
同じ年に死んで甕棺や塚や墳に葬られた貴人・諸侯は全国にたくさんいる。年代一致だけでは何の証拠にもならない。
いや、祇園山は、日本で唯一、
「大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人」を満たし得る墓である。 >>395
>70年代の研究ではね
>今は違う 250年頃とされる
それは真っ赤なウソ
甕棺KVfを240年頃としたのは1970年台の橋口編年
4世紀としたのは21世紀の久住編年 >>404
そうやって自分の思想を言い張るだけ
何も情報を持っていない
理由が言えない
それが九州説 >>321
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」などの、
史料事実や史料実態から帰納的確率的な推論を一切せず、
漢字の意味を個人の主観で新作するとか
傲慢な真似ができるのは、
皇国史観人種差別殺戮狂の大和説老人だけ >>326
>橋口の単純に30年割り当ては末期の甕棺の年代がおかしい
久住の年代が福岡の他地域出土甕棺と整合している
ふーん。 >>390
現地に不案内なもんでね。
確かに地図でみると、祇園山古墳から4kmほど南が八女郡広川町の町境になる。
だとすると、邪馬台国の北限は久留米市の御井町あたりだった、と変更するよ。 九州王朝説は関西の朝鮮部落民だからね
九州のことは知らない >>332
>複合遺跡の吉武高木からは古墳時代の須恵器が多く出ている
大和説学者らの「古墳時代」は、卑弥呼の墓の頃も含む。
ど素人が分類前のコンテナを覗いただけで判断するのは無理 >>410
魏志倭人伝には邪馬台国のある場所は
九州北部から南に水行して沖縄のあたりと書いてるぞ >>345
>方墳の裾に甕棺他がある
その上面がカットされてたと言ってるのだから
地山から方墳部分を削り出したということ
それはUC期(4世紀初くらい)以降
墳頂の石棺の年代は不明
祇園山の土器は「土師器の古い方」であるから庄内であり、
筑紫の庄内は3世紀前半であるから、
祇園山は、ほぼ3世紀前半頃でよい。 >祇園山の土器は「土師器の古い方」であるから庄内であり
学問じゃないw >>353
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」などに反論せず、
否認するの大和説
能力なさすぎ >>354
そして「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」の否認などのように、
ひたすら史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘をつき続ける
絶対に証拠は出さない
それが大和説 >>368 > それが大和説//
それはオ〆の脳内大和説。
オ〆の妄想の如何に係わらず、邪馬台国は大和だよ。 >>418 > 絶対に証拠は出さない それが大和説//
それはオ〆の脳内大和説。
オ〆の妄想の如何に係わらず、邪馬台国は大和だよ、エテ公。 >>363
>倭人伝では少なくとも短里であろうが投馬、女王都まで水行1ヶ月徒歩1ヶ月かかるわけで北九州は無いでしょ、
いや、そんな事は書かれていない。
不彌國や邪馬壹國女王之所都で、萬二千余里がほぼ終わり、
群から「水行二十日、陸行一月」を要した、という書き方であり、
投馬國へは南へ「水行二十日」かかる、という説明である。
>それとその後東征毛人西服衆夷、違う奴等だよといってる
倭國は「正北抵新羅」に拠って、九州にある事になり、
だから「西服衆夷」は、「服=服従」の本義は自動詞であるから、
「西は(既に)周囲の衆夷を服属せしめ済みだ」という意味。 >>415 > 祇園山は//
邪馬台国とは何の関係もない荒廃墳墓だよ。
盛り土は切り崩されて、集団墓地になっただけだ。 「郡から」と書いてあればな
書いてないものを挿入したら文意が変わる >>421 > 萬二千余里が//
道程記事は、いかなる所在説の根拠にもなりえない。
まさに会稽(紹興)東冶(福州)の東なりって、
そんなとこに倭があるわけないだろヴォケ、って意味だ。 >>417 >否認するの大和説 能力なさすぎ//
オウム返ししか取柄のないオ〆には、なにもかもが無理なんだよ。
莫迦は身の程を弁えな。 その通りですよ西服衆夷、衆夷六十六国、衆夷、我々とは違う種です。 >>421 > 倭國は「正北抵新羅」に拠って、九州にある事になり//
ならない。九州も倭の一部、ってだけだ。
頓珍漢なオウム返しに及んでも、邪馬台国は大和なんだよ、お莫迦さんん。 実際の地理では九州島の真北は海
対馬がぎりぎり半島東南部の真南 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. >>421
(既に)なんて原文にない言葉を書き加えて
ニセ解釈を作る九州説って
トンデモですねえ >>405
久住猛雄は、祇園山古墳の甕棺を土器編年のUC期に併行するとしているようだ。
そして、このUC期は布留1式新相に併行するとしている。
布留1式は、従来の年代では290年〜350年とされるので、このことから祇園山古墳の甕棺を4世紀と言っているのだと思うが、
しかし、最近の土器編年では庄内3式(布留0式)の終わりが250年とされるので、それに続く布留1式は250年からの年代となる。
このことからして、祇園山古墳の甕棺は決して4世紀にはならないと思うよ。 >>431
>>11
◆10 実年代目安の参考
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 >>413
その沖縄あたりにある倭人伝の邪馬台国は、古代の中国人にとっての「幻の仙人郷=邪馬台国」とでもいうような固定観念であり、
倭人伝はそこまでの行程を入念に書いている。
この沖縄あたりの邪馬台国が現実の邪馬台国でないことは明らか。
倭人伝に先行する魏略では、冒頭に倭国の東千余里にまた別の倭種の国があると書いていて、
これを地理的にみると倭国は北部九州、倭種の国は奈良であることが分かる。
なので、北部九州にあった実際の邪馬台国と古代中国人の強固な固定観念である沖縄あたりの仙人郷の邪馬台国は別に考える必要がある。
ついでに言えば、倭人伝の幻の邪馬台国までの行程は、弥生時代に九州から沖縄へゴホウラ貝を仕入れに行った行程をそのままなぞったものであり、
水行何日などのデータは博多あたりの商人から仕入れたものだろう。
だから、末盧から南東に行き、それから有明海を水行二十日などといった具体的なデータは沖縄まで行くについての実に正確なものである。
まあ、そういうわけだから、現実の邪馬台国への道筋と、沖縄あたりの幻の邪馬台国への行程は別個にとらえる必要がある。
これまで多くの学者や研究者がこの迷路にはまりこんで、行程についてとてつもない解釈をしてきたが、
そのことについては倭人伝の実態についての理解不足のなせるわざであり、ご苦労さんとしか言いようがない。
いずれにしても、南東に行く行程は古代中国人の海上の仙人郷に対する強固な固定観念にもとづいた幻の邪馬台国に行くためのものであって、
実際の卑弥呼が女王を務めていた北部九州の邪馬台国とは別物であると思わなければならない。 >>433
魏の銅鏡や大きな墓である前方後円墳など
考古学的なものは畿内で見つかるよ >>433
「沖縄あたりの邪馬台国が現実の邪馬台国でない」から
「倭国は北部九州、倭種の国は奈良であることが分かる」へ飛躍し過ぎで
考古を完全に無視している 文献上は邪馬台国は沖縄
考古学では畿内
九州説は怪しくなって来ましたなあ >>432
まあ、久住猛雄の祇園山古墳出土甕棺の年代がUC期(布留1式新相)であるとする考えが、そのまま正しいものだとだれが保証するかだけどね。 >>435
完全に考古学のデータだけで邪馬台国は奈良と証明できてるなら、すでに纏向に卑弥呼の里館が建ってるはず。
それが建ってないところをみると、考古学のデータでは奈良が邪馬台国と証明できていない証拠よ。
そもそも、卑弥呼や倭国などは文献に出ているのだから、文献無視じゃ話にならんわな。 >>437
保証というのはしない
他の研究者の編年で久住の北部九州編年に異論があるかないかだけで >>438
お前のは文献の都合が悪い記載を誤認や別個にとらえるとしてるだけ >>439
よくは知らないが、祇園山の甕棺が4世紀だとする研究者が久住氏のほかにいるのかな。 >>441
文脈における整合性をまず考えろよな。
そして、じっくり考えれば、その文章がどういう意図で書かれているか分かって来る。
短絡的に一か所だけみても、真相にはたどりつけんな。 >>446
畿内に卑弥呼の大きな墓があると聞いて
瀬戸内海を船で渡って見に行ったかも知れない >>443
まあ、橋本達也のKVf(祇園山古墳甕棺)=240年説は動かんな。
古墳時代に入ると甕棺自体が筑後地方で用いられなくなるというのが通説となっている。
しかも、その古墳時代も4世紀にまで筑後地方で甕棺が用いられていたとする論には出会わない。
久住氏の祇園山古墳甕棺UC期(布留1式期)説は単独説であって、広く認められているようにはみえない。
現状としては、祇園山古墳甕棺は3世紀中頃説は動かないとみるのがよい。 >>449
俺は知らない、俺はそう思わない
以外ひとことも
理由を言わないんだね
九州説ってさ 要するの九州説は
1970年代以前の旧説に無批判に依存してないと
消滅する
つまりオワコン >>364
>魏の1歩はだいたい140cmくらい
百歩は約140mなので魏志倭人伝に径百歩とある卑弥呼の墓は
畿内にある前方後円墳くらいのサイズ
明帝や魏の役人らの1里は大体76.5m位であるから、
この大和説男も×。 >>366
>末盧国から祇園山へ至る具体的な行程論(方角・里・道)はどうしたのだ。
さっぱり要領を得ないではないか。
倭人伝の行程説明を、
人類の常識通りの「出発説明+途中説明+到着説明」の順に書かれている、
として理解すれば、博多湾岸の不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
その南になる邪馬壹國女王之所都は、不彌國から残り里数がほぼ0里になり、
邪馬壹国は「福岡平野中央部から筑紫平野及びその周辺丘陵地」になり、
卑弥呼の所都は、松野氏姫氏系図が記録する「大野」になり、
卑弥呼の墓は、卑弥呼の出身母体であった姫氏の居住中心地域の、
熊襲や狗奴國や伊都国や奴国のほぼ中央にある祇園山古墳になる。 新しく進んだ研究をことごとく拒否するが反論はしない
古い説を盲信するが、そっちの方が正しいという理由は一切言えない
違うか?
違うというなら反論しろよ
理由を言ってみろよ
できないだろ
そんな拒絶と盲信だけでしがみ付いてる終わった説
それが九州説だよ >>374
>張政は誤認してなくて
卑弥呼の墓は魏志倭人伝の通り径140mの可能性もあるよ
魏朝や明帝や魏の役人らは、「1里≒76.5m」の周髀算経里を使っており、
「径百余歩」は、ほぼ25.5m〜30m位になり、祇園山でピッタリであり、
張政らは誤認していない。 >>380
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説者さん、
また嘘をついてますね? >>382
>3世紀前半の博多に、全長約75m、後円部(冢)の直径約48mが造られているので
九州説の場合はこれより大掛かりな冢が3世紀後半の九州の下地域になければならない
那珂八幡は、
冢ではなく前方後円墳であるから、勿論卑弥呼の墓ではなく、
また天円地方を知ったが平原1号に埋葬された壹與の墓でもなく、
壹與の次の男王らの墓になるから、3世紀後半半ば過ぎであり、
だから、この大和説?男も、×。 >>383
>畿内の大和の箸墓古墳は
円墳部分が魏の尺度で径百歩つまり140mちょうどあるよ
畿内なんて存在もしていなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であり、
大和の前方後円墳は、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、×であり、
しかも箸墓は、布留1であるから4世紀であり、
また「径百余歩」は当然「(方形ではない)不定形の長径表現」であるから、
箸墓は全く合わず、始めから×。 >>457-459
そうやって
なんにも理由を言わず
「俺様の主張」結論部分だけ連呼する
理由がないから九州説はお互い理解し合えない
だから九州説はいつまでも一人一説のまま連帯できない
だから少数説なんだよ >>384
>>自然の山や丘陵地域で平ら整地したんなら、そりゃ、成型造成だ。
>あるものを削っただけじゃ整形だな 成形ではな 盛ってないだろ?
削って出てきた「土」は、当然基盤台や冢部分の成型に使うもんだ。 >>388
>つまり冢は大きい
孔明は「冢」を、
「大きい」という意味には使っていない。 >>462
その「当然」って、誰が決めたの?
あんたが一人で勝手に理由もなく決めtんでしょ
現に「基盤台」の成形なんて存在しない >>463
使わなくたって、冢は大きい物なんだよ
それを小さく作れというのが修辞だ
対句になってるから漢文が読める者なら分かる >>455
>倭人伝の行程説明を、
>人類の常識通りの「出発説明+途中説明+到着説明」の順に書かれている、
>として理解すれば・・・、
「として理解すれば・・」の仮定条件付きでは全く話にも議論にもならん、悪いクセだ。 >>465
大いに・・、
これは、大きい小さいの対句ではない。原文通り「大いに」であり、対句は「ささやかに」となる。 >>455
>卑弥呼の所都は、松野氏姫氏系図が記録する「大野」になり、
この「大野」は、肥後と豊後の中間の大分県大野郡(大野郷)のことと見るべきだろうな。 >>469
こんなかんじで、いつも決してマトモな説明ができないのが九州説
だから他人から理解されない
それで一人一説の少数派で終わる >>470
末盧国から邪馬台国へ至るマトモで具体的な行程論(方角・里・道)はどうしたのだ。
さっぱり要領を得ないではないか。 偽書松野なんか謳ってる頭の湧いた考古学者の論文がどこにあるんだよボケカス 華奴蘇奴国が秦王国の前身ですよ、狗奴国が河内。河内が通り難いんで投馬が出雲。 >>391の訂正
>>282
「南≠東」や「冢≠東」や「正北抵新羅」の否定の、
史料事実や史料実態の否定の嘘吐き騙しの大和説のお爺さんの作り話は、
時としてムキになったりやけのやんぱちになったりはするが
海よりも深く、空よりも広い心をもつ九州説者らは
同じ国民であるお爺さんに、
いつも温かい心で答えてあげている
しかし、我国の歴史とは何の関係もない、
人種差別ヘイトスピーチ的な有害投稿や、
極右殺戮戦争を鼓舞扇動する有害投稿は、ほぼ完全に、黙殺排除せしめている >>392
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説者にできることは
国民を騙して、近隣諸国民へのヘイトスピーチで憎悪を罵り、
殺戮戦争を煽ることだけなのかい?
諸行無常。栄枯盛衰。盛者必滅。万物流転。奢る大和説者久しからず。
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と云えり。
人類皆兄弟。奢る国家国粋主義者久しからず。 土台人古田が集めた反日集団を差別したのは朝鮮の両班 花園だとしても華夷ど真ん中でやっぱ秦王国でしょ、筑紫国の次だから宇佐だね >>400
通説大和説学者らが、
同時代の魏の役人たちの実地の見聞計測の記録を元にして陳寿が紹介した倭人伝に対して、
「いい加減な情報が書いてあった」と主張すると
大和説全体が崩壊するよ >>402
>箸墓古墳は円墳部分がちょうど径百歩に相当するから
箸墓は前方後円墳であり、(正方形ではなく)不定形であり、
「径」は「不定形の長径」の計測であるから、
箸墓の円墳部分だけの直径で議論する大和説者自体が、×なの。
>もしかして卑弥呼の葬儀に招かれた張政が実見してたかも知れないなあ
実見していなければ「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人」なんて、
記録出来るものではない。 倭人伝に記載の倭人に特徴的な風習である卜骨が
山陰、瀬戸内、畿内、東海、関東で多く出ているのでいい加減な情報ではない
九州からは庄内式を模倣する時期に山陰、畿内の土器とともに2か所だけ出るようになる >>440 > 張政は迎賓所から出てないよ//
そんな訳ないでしょ、物見遊山に行ったんじゃないんだから。
告諭対象の卑弥呼が既に死んでいて(以死)、
邪馬台国が騒乱状態で王も定まらない状態だったんだから、
情報求めて駆けずり回ったんだよ。辺縁国の記載もそれゆえだ。
最終的には投馬国(まぁ、出雲だ)に滞在して、
邪馬台国の後継体制が立ち上がるのを見届けて、
使命を果たしに邪馬台国へ赴いた、という事だ。
そのためには、卑弥呼墓である箸墓のあり様を、正確に記載しなければならなかった。
>>453 > 明帝や魏の役人らの1里は大体76.5m位であるから//
短里なぞ存在しない。距離単位の里は、
定義としてはキッチリ500mであり(mと同じで、地球円周から定めた)、
1里が360歩なら、1歩は1.4m、百歩は140mであり、箸墓に一致する。
張政が見た時点では、径百歩の墳墓は箸墓しかなかったのだから、
彼は使命に基づいて、それを正確に報じる必要があった。
それゆえ後世の我々は、箸墓が卑弥呼墓である事を知ることが出来る。 >>405
>甕棺KVfを240年頃としたのは1970年台の橋口編年
橋口は、筑紫の最終甕棺のKVfを、3世紀後半にして、
それに祇園山の甕棺をくっつけていた、という記憶があるが、
彼は、祇園山に甕棺が3個ある事や、個々の甕棺の差異がある可能性を、
考慮しなかったような記憶がある。
>4世紀としたのは21世紀の久住編年
久住は、編年に関して、
「南→東」などの史料事実の曲解の大和説という、
「結論先にありき」というインチキ編年をしていた、という記憶があり、
根拠にならず、信用していない。 >>480 > 箸墓は前方後円墳であり、(正方形ではなく)不定形であり//
張政が見た時点では円墳だったんだよ。既に前方後円墳だったなら、
使命ゆえに卑弥呼墓である箸墓のあり様を、正確に記載しなければならなかった彼は、
大喜びでそう書いてるよ、径百歩に方百歩の基壇あり、とでもね。
卑弥呼は突然に死んだので(以死)、墳墓は突貫工事で作らざるをえなかった。
昼は人が作り、夜は神が作ったという記紀の記載は、みるみる作られた様子を書いたのであり、
魏志の記載と一致する。 >>406
そうやって、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しをして、
自分の思想を言い張るだけで、
何も情報を持っていない
理由が言えない
それが大和説学者や大和説者 >>483 >「南→東」などの史料事実の曲解の大和説//
それはオ〆の脳内大和説でしかなく、オ〆の妄想の如何に係わらず、
邪馬台国は大和なのであり、箸墓は卑弥呼墓なんだよ、エテ公。 橋口が甕棺の編年した'79はまだ吉野ヶ里すら調査されていない >>413
>魏志倭人伝には邪馬台国のある場所は
九州北部から南に水行して沖縄のあたりと書いてるぞ
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
邪馬壹國を「ヤマト国」と読ませるためのインチキ読みであるから、×。
また、倭人伝の行程説明では、
九州北岸の不彌國やそのすぐ南の邪馬壹國女王之所都で、萬二千余里がほぼ終わっている記載であり、
沖縄なんてになる筈がなく、
この大和説男は、・・・・詐欺師。 >>414
>出土した土器を分類してる学者の通説が畿内説
年次が書かれた土器ではなく、単なる土器の相対編年では、
絶対年代の根拠にならず絶対年代も決められず、
そんな土器編年で、絶対年代を決定主張する通説大和説学者らの、
脳が異常。 >>489
つまり九州説は
土器編年のことを何も知らずにイチャモンつけてると
そういうことですか >>483
>「結論先にありき」というインチキ編年をしていた、という記憶があり、
>根拠にならず、信用していない。
アナタの「結論先にあり」なインチキ記憶は
根拠にならず、誰も信用していない 土台人古田集団のような罵声専門反日チョンは日本には要らない そろそろテレビの歴史番組で祇園山古墳を取り上げる勇気を持って欲しい。
いままで一度も邪馬台国を取り上げた内容で祇園山古墳を取り上げたことないと思う。 >>488 > 邪馬台国なんて、存在もしなかった//
曹爽は邪馬台国なんて云ってますが、ありゃ実は邪馬一国なんですよ藁、
と、曹爽の政敵であり、晋を建国して三国志を編纂した司馬氏は云ってるんだよ。
邪馬台国は大和に存在し、邪馬一国は存在しなかった、史書の戯言の上でしかな。 >>416
>>祇園山の土器は「土師器の古い方」であるから庄内であり
>学問じゃないw
「土師器の古い方」という論になる事を主張した学者は、柳田や都出ら。 土師器の古い方であるから庄内である
などとは学者は言わない >>428
>実際の地理では九州島の真北は海
対馬がぎりぎり半島東南部の真南
新羅の真南は、ほぼ平戸であり、
正北抵新羅になるのは北部九州であり、大和ではない。 何故日本固有の前方後円墳を拒絶し、築造年代を遅らせ
方形階段状古墳を卑弥呼の墓にしたがるかというと
朝鮮部落民だから >>497
>新羅の真南は、ほぼ平戸であり、
じゃ、ダメじゃん九州説
方位違うわ >>495
>「土師器の古い方」という論になる事を主張した学者は、柳田や都出ら。
真っ赤なウソ
かれらは祇園山から「土師器の古い方」が出たなんて言ってない
九州説発のデマだな 末盧国から邪馬台国へ至るマトモで具体的な行程論(方角・里・道)はどうしたのだ。
ガラクタ土器の話しばかりで、さっぱり正答がないではないか。 >>493
>いままで一度も邪馬台国を取り上げた内容で祇園山古墳を取り上げたことないと思う。
そりゃそうだ
あれを「径百余歩」だなんてオンエアしたら
視聴率ガタ落ち間違いないもの >>430
>(既に)なんて原文にない言葉を書き加えて
ニセ解釈を作る九州説って
トンデモですねえ
当然、原文にはないが、その意図している事であるから、
・・・・あほの大和説者にも判るように、()をして書き足しておいた。
勿論、「東征毛人五十五國」が出来るには、
その前に、九州をほぼ服属せしめておかなければならない、
という事は当然であり、人類の常識である事だから。 マスコミは誰もどこも祇園山をせせら笑ってるってこった(笑笑笑、、 >>502
末盧国(福津市辺り・万津浦) に上陸したら、東南の伊都国 (直方辺り) へお進みなさい。
倭女王卑弥呼のお話しは、そこから始まります。 @阿波 >>507
その祇園山古墳は、「水銀朱」や「勾玉」「葺き石」「箱式石棺」等から、一発で筑紫忌部のお墓だと分かる。 @阿波 末蘆国というのは松浦国です、松浦はマツラと読みます。 その祇園山古墳は、「水銀朱」や「勾玉」「葺き石」「箱式石棺」等から、一発で筑紫忌部のお墓だと分かる。 @阿波 >>505
>勿論、「東征毛人五十五國」が出来るには、
>その前に、九州をほぼ服属せしめておかなければならない、
つまり九州説は、原文にない言葉を書き足さないと不自然になる珍解釈をしてるのさ
語るに落ちたね >>510
>末蘆国というのは松浦国です、松浦はマツラと読みます。
もし松浦や唐津や呼子が大陸からの玄関口だったら、もっと大陸の遺物が出土していなければならない。
福津や宗像のようにね。 もっと冷静に現実を見ないとw
また、魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも松浦や唐津や呼子に上陸していない。
あとは推して知るべし @阿波 吉野ヶ里周辺は面土国(米多郷・目達原)と呼ばれていました。 >>431
>久住猛雄は、祇園山古墳の甕棺を土器編年のUC期に併行するとしているようだ。
そして、このUC期は布留1式新相に併行するとしている。
布留1式は、従来の年代では290年〜350年とされるので、このことから祇園山古墳の甕棺を4世紀と言っているのだと思うが、
この書き方では、どうも、
筑紫の土器編年期と、同じタイプの土器の大和の土器編年期が同じ頃だ、
としているように見えますが、私は、筑紫の土器が先行していて、
大和や米田の越前の同じ土器は、筑紫に遅れる、という意見なんですよ。
>しかし、最近の土器編年では庄内3式(布留0式)の終わりが250年とされるので、
これも同じ。筑紫の土器編年と、同じ土器の大和の土器編年の区別が、ないようですね。
>それに続く布留1式は250年からの年代となる。
祇園山では「土師器の古い方」という説明であり、
私は筑紫の庄内だろう、という意見です。
>このことからして、祇園山古墳の甕棺は決して4世紀にはならないと思うよ。
賛成です。 >>528
>祇園山では「土師器の古い方」という説明であり、
そんな説明は実在しないな >>527
筑紫忌部のお墓に、そんなに一生懸命にならなくてもいいよ。 ご苦労様 わははははは @阿波 >>528
>筑紫の土器編年期と、同じタイプの土器の大和の土器編年期が同じ頃だ、
>としているように見えますが、私は、筑紫の土器が先行していて、
>大和や米田の越前の同じ土器は、筑紫に遅れる、という意見なんですよ。
それで安物さんが庄内式九州起源論やらかして信用を完全に失った 要するに九州説は学問の常識を否定しないと成り立たない >それで安物さんが庄内式九州起源論やらかして信用を完全に失った
安物さんは肥後嫌いで、何が何でも福岡県内に限定するからそうなるのよ
庄内式の発祥は、肥後の方保田東原遺跡などなど・・。 九州説が祇園山なんてちっさな墓を無理やり卑弥呼の墓候補に持ち上げなきゃならないのは、どんだけ九州説が不利かってことの端的なあらわれだね >>534
あそこが糸島や博多を部下にできたと思う?
妄想だね 祇園山は古代仏教の聖地だ。
此のスレは爺やばかりで、聖地が気にはなるだろうが、残念ながら時代が違う。卑弥呼とは関係なし。 >>535
畿内説も、近畿「忌部はん」 のお墓が大きいからと言って、舞い上がってはイカンぜよ。 わははははは @阿波 どっちかっちゃ侵略者として日本にやってきてそれ自慢してる感じだからな >>535
畿内説も、近畿「忌部はん」 のお墓が大きいからと言って、舞い上がってはイカンぜよ。 わははははは @阿波 畿内にもヤマトがあり、九州にもヤマトがあった
ヤマトゥ=神の地の意味
卑弥呼は九州のヤマト
魏に対しては、我らがオールヤマトの代表ということにしたかったので、色々と嘘をついた
沖ノ島から出土した卑弥呼由来の宝物などから九州であることは明らか >>434
>魏の銅鏡や大きな墓である前方後円墳など 考古学的なものは畿内で見つかるよ
ダメだ。畿内なんて存在もしなかったし、
大和の支配地を意図的に広くしたインチキ騙し文言であるし、
魏の銅鏡は、明帝の下賜の銅鏡百枚以外は殆ど存在せず、
それも平原や筑紫や、鏡片として使われたようで、
僅かに「青龍三年の顔氏作の方格規矩四神鏡」が可能性があるが、
それも同范鏡であるから、そんなみっともないものを明帝が下賜に選択する可能性が殆どなく、
また、その他の鏡は、殆ど「渡来の呉系楽浪鏡師」らの関与鏡にしかならないもの。
また、大和の前方後円墳は、卑弥呼の墓の冢ではないから、これも×。 >>536
おっ、いい指摘だ。
新しい渡来種族のあそこは、旧宗主国の糸島や博多と対立し、帯方郡を後ろ盾にして激しく戦ってきた。それが倭国大乱だったのよ。 ちなみに卑弥呼=日皇子は、太陽を崇拝しており、暦も太陽暦を用いていた
沖ノ島から出土した卑弥呼の銅鏡は太陽暦のカレンダーでもある >>543
機内の銅鏡は卑弥呼の時代より後のもの
卑弥呼の属したヤマトゥが畿内に合流して、オールヤマトの本拠地が畿内になってから作られたものだろう >>546
などと言い張るが
なにも証拠の出せない九州説 魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収
暦は何故か無かったようだ お〜お〜それとな😃
天皇って呼称はかなり古くからあるらしく漢の時代あたりに書かれたのかな?って感じの向こうの文献にこ〜ある
どっかの勾踐?とやら言うやつもまたどっかの天皇になったみたいなこと書かれとる >>548
>暦は何故か無かったようだ
そりゃ月齢から潤まで計算できてこそ暦だという中国人がレベル高すぎだからだ .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 倭人伝には、卑奴母離という副官職が登場する。
対馬や壱岐はまあそれとして、辺鄙でもない奴国や不彌国になぜ卑奴母離が要るのか。
この卑奴母離は辺地を守る武人ではなくて、邪馬台国から見て奴なる人民を守りする副官職で、
後世云うところの「○○の守」に相当したのだろう。
つまり、博多奴国や不彌国は邪馬台国の監視対象だったので、卑なる奴の守(卑那之守、卑奴母離)を置いたのだ。 >>552
外国からの襲撃がありうる地区にはヒナモリが置かれたんだよ >>436
>文献上は邪馬台国は沖縄 考古学では畿内 九州説は怪しくなって来ましたなあ
「邪馬台国」も「畿内」も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、文献でも考古学でも、
大和説は怪しくなって来ましたなあ >>453
魏の1里は約430mと当時使われていた尺定規と
魏の度量衡が書いてある律歴志から判明しているぞ >>447
>畿内に卑弥呼の大きな墓があると聞いて
瀬戸内海を船で渡って見に行ったかも知れない
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であり、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、×。 >>451
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に関して、
俺は知らない、俺はそう思わない
以外ひとことも
理由を言わないんだね
大和説ってさ >>559
魏志倭人伝には邪馬台国の位置は
会稽東治の東つまり沖縄と書いているのと
卑弥呼が貰った魏の鏡である魏年号の入った三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡が畿内から出る史料事実は
どう考えたらいいのですか >>452
要するに、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説は
1970年代以後の大和説に無批判に依存してないと
消滅する >>456
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」などの、
新しく進んだ研究をことごとく拒否するが、反論はしない
古い説を盲信するが、そっちの方が正しいという理由は一切言えない
違うか?
違うというなら反論しろよ
理由を言ってみろよ
できないだろ
そんな拒絶と盲信だけでしがみ付いてる終わった説
それが大和説だよ >>461
そうやって
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に対して、なんにも理由を言わず
「俺様の主張」結論部分だけ連呼する
理由がないから大和説者同士もはお互い理解し合えない
だから大和説は、いつまでも一人一説のまま連帯できない
だから国民や世界の中でも、少数説なんだよ >>559
>「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
>史料事実や史料実態に拠って、×。
それ、史料事実じやないよな >>464
>現に「基盤台」の成形なんて存在しない
その上に、「四隅円弧の類方形の錐体台」的な墓を造るんなら、
その基盤は、ある程度、土も盛ったり、削ったりして、
平面になるように成型しておかないと、
錐体台が斜めになってしまって、崩れたりしてしまう事があるもんだよ。 >>568
>その基盤は、ある程度、土も盛ったり、削ったりして、
>平面になるように成型しておかないと、
>錐体台が斜めになってしまって、崩れたりしてしまう事があるもんだよ。
それを実際やってない、ってことは
九州説終わりだな >>465
>使わなくたって、冢は大きい物なんだよ
それを小さく作れというのが修辞だ
対句になってるから漢文が読める者なら分かる
孔明は、自分は墓は小さく簡素にして欲しかったんだよ。 >>466
>>倭人伝の行程説明を、
人類の常識通りの「出発説明+途中説明+到着説明」の順に書かれている、
として理解すれば・・・、
>「として理解すれば・・」の仮定条件付きでは全く話にも議論にもならん、悪いクセだ。
いや、「人類の常識通りに理解したから・・・」という意味だ。 祇園山古墳は小さいから小山のてっぺんを大雑把に平坦に削って盛れば
10人くらいでやっつけ仕事で半月だな >>571
>孔明は、自分は墓は小さく簡素にして欲しかったんだよ。
「常識的な大きさ」よりね
つまり冢とは大きいのか、世間じゃ普通 >>469
>>卑弥呼の所都は、松野氏姫氏系図が記録する「大野」になり、
>この「大野」は、肥後と豊後の中間の大分県大野郡(大野郷)のことと見るべきだろうな。
それ以外にも、
日田の近くの「黄金鉄鏡が出土した(邪馬國の)古墳?」付近にも「大野」の地名があるが、
筑前にも太宰府へ行く途中に「大野」がある。 >>470
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しのように、
こんなかんじで、いつも決してマトモな説明ができないのが大和説
だから他人から理解されない
それで全員が一人一説の独自派で終わる >>472
>偽書松野なんか謳ってる頭の湧いた考古学者の論文がどこにあるんだよボケカス
明治初期の東大教授の鈴木真年さんが収集した松野氏姫氏系図は、
国立国会図書館と静嘉堂文庫の二か所にある筈だ。 >>473
>華奴蘇奴国が秦王国の前身ですよ、狗奴国が河内。河内が通り難いんで投馬が出雲
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、×。 >>528
九州の土器編年と大和の土器編年は、どれくらいずれるという意見なんでしょうか。 >>482
>最終的には投馬国(まぁ、出雲だ)に滞在して、
邪馬台国の後継体制が立ち上がるのを見届けて、
使命を果たしに邪馬台国へ赴いた、という事だ。
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料事実や史料実態に拠って、×。 松野氏姫氏系図は熊襲の梟師の取石鹿文が書かれた
江戸時代の熊襲偽僭説の偽系図 毎日大量にデマと反日罵声流してるから
総連系企業から金もらってるんだろうね >>484
大和の墓は、大手建設会社の試算では、相当な築造期間になるとされとるようだが。
書紀の記述は、倭人伝の記述をあてはめただけ。
書紀は大和が邪馬台国だと刷り込みたくて、必死だよ。
あの大和の墓を短期間でつくるのは無理。 >>482
無理無理。
檄を送って難升米へも台与へも告諭したんだから、直接会ってない。
ずっと迎賓所にいたのよ。
すべて倭国の役人からの伝聞情報だ。
卑弥呼の墓を実見してない。 >>504
>九州説はデマ多すぎだろ
大和説は「邪馬台国」や「畿内」や、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などのように、
全部デマだろ。 >>572
>いや、「人類の常識通りに理解したから・・・」という意味だ。
その「常識」をどう決めたのかね?
お前さんの欲望でか? >>480
径百歩や殉葬奴婢百余人だけの記述では実見とは言い難い。
これくらいなら、伝聞で十分書ける。
冊封国の王が死んで葬儀が行われたという記事にしては、細部が一切書かれてない。 >>587
>冊封国の王が死んで葬儀が行われたという記事にしては、細部が一切書かれてない。
それ、ほかの冊封国の王が死んで葬儀が行われて、細部が書かれる実例とか、あんの?
また九州説オウンゴール >>577
誰も所蔵先なんか聞いてないんだが
おまえ国語力ゼロのパッパラパーなんじゃねえの?
偽書松野なんか謳ってる頭の湧いた考古学者の
『論文』 がどこにあるんだよ
と言ってるんだが >>518
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説は、
ニセ情報と捏造読みで出来てるからね >>525
箸墓も惜しかろうが無理筋だな
時代違いだ >>533
要するに、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭国は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説は、
学問や人類の常識を否定しないと成り立たない >>535
大和説が
箸墓なんてでっか過ぎる墓を、
無理やり卑弥呼の墓候補に持ち上げなきゃならないのは、
どんだけ九州説が不利かってことの端的なあらわれだね こういう罵声スピーカーの仕事は考える人は無理だな
オウム返しは2、3人でやってる可能性もある
こいつらを集めるのが朝鮮土台人古田の仕事だった 投馬国(ドゥマコク)が岡山の玉と出雲のどちらなのか?
発音から見ると玉なんだけど、陸行一月から見ると出雲なんだよな
山陰にドゥマという発音に近い場所ないか? >>547
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などと言い張るが
なにも証拠の出せない大和説 >>552
倭人伝の卑奴母離の卑奴(ヒナ)は鄙(ヒ=田舎)の意味であると考えられているが、この田舎の意味は比較的新しいものであり、
3世紀当時に卑奴(ヒナ)は果たして田舎の意味で用いられていたかどうかはっきりしないのではないか。
この卑奴(ヒナ)は、次のように考えることができるように思う。
まず、倭人伝の卑奴(ヒナ)の言葉と狗奴国の狗奴(クナ)の言葉は対照している言葉だと仮定する。
そして、いずれも場所に関連する言葉とみなす。
そうすると、狗奴(クナ)のクは熊本(隈本)のクとし、その隅(ク)は奥まって薄暗いの意味が考えられる。
では狗奴(クナ)の奴(ナ)は何をあらわしているのかということになるが、この奴(ナ)は中(ナカ)のナと同じ言葉だと想定することができる。
中(ナカ)はナ・カの構成であり、カは場所を意味する処(カ=棲み処など)の意味を表しているとすることが可能だ。
となると、中(ナカ)のナは、例えば穴(アナ)の言葉をみると、穴(アナ)のアは開く、空くの意味を表し、何もない空間を意味しているとみなすことができ、
そして、その何も無い空間を表す空(ア)の言葉に「内側の場所」を表すナを加えて「何も無い内側の場所」を表したのが、穴(アナ)の言葉だと考えることができる。
そうすると、中(ナカ)のナもカ(処)と同じく場所を表している言葉であることが推定されるが、
場所を表すナとカのそれぞれの違いは、ナが「内側の場所」と場所の位置を示していることだといえる。
例えば、川の中洲に土塁を設けて浸水を防いだ居住区域を輪中(わじゅう、わなか)と呼ぶが、この場合の中(ナカ)は土塁の内側を意味しているので、
中(ナカ)のナが内側の場所を表す言葉であることの説明がつく。
このように考えると、狗奴国の奴(ナ)は「内側の場所」を表している言葉だとすることができ、
狗(ク)は隈(クマ)のクだとすると、狗奴(クナ)とは「奥まった(木々に囲まれた)薄暗い場所」の意味であることが考えられるのである。
では、卑奴(ヒナ)とはどのような場所を指しているのかということになる。(続く) >>588
いや、張政が卑弥呼の墓を実見したのなら、もう少し詳しく書けるんじゃないかってこと。
前方後円墳の箸墓なら、「円墳と方墳あり、その差し渡し長大」とかなんとかね。 >>558
>魏の1里は約430mと当時使われていた尺定規と
尺定規は尺寸系の定規であり、里歩系の里の長さとは関係がないから、
論拠になっていない。
>魏の度量衡が書いてある律歴志から判明しているぞ
律歴志も、誰が何時、どこで?、書いたものなのか?が問題になり、
魏朝では、初代文帝の「度量衡の同一化」の指示の詔書や、
重臣たちの「周制への復古」の上表や、
明帝の周髀算経の一寸千里の里(短里)の採用で、
明帝も魏の役人らも、短里を採用し使用していた。 倭人伝には、卑奴母離という副官が登場する。
対馬や壱岐はまあそれとして、
世有王の伊都国のすぐ隣の、全く辺鄙でない奴国(博多)や不彌国(宇美)になぜ卑奴母離が要るのか。 >>599
東夷伝では各国をそれほど詳しくは書いてない >>598
狗奴国の狗奴(クナ)は以上のような意味の言葉だとすると、卑奴母離の卑奴(ヒナ)の意味は次のように推定することが可能だ。
卑奴(ヒナ)のナは「内側の場所」の意味とすると、卑(ヒ)は何を意味しているのかということであるが、
後代にヒナ(鄙)は田舎の意味に用いられるようになるので、では田舎とはどのような場所であるのかを考えると、
田舎は稲穂が揺れる水田があり、広々とした空間が開けている情景は3世紀頃も今と変わらないであろう。
そうすると、稲穂の揺れる水田が広がる空間には、日が溢れんばかりに射していることになる。
稲には日照が不可欠であるから、水田には日陰はなく、そこは日射しが溢れる場所だということである。
その日射しが溢れる水田の場所は、日本の場合はたいがいが谷筋に作られていて、周りは木々が生い茂る山が取り囲んでいる。
この水田の景観を表現すれば、「山々に囲まれた内側の日射しの多い明るい場所」がヒナであり、そのヒは日を表していると考えることができる。
そして、狗奴(クナ)が「木々に囲まれた奥まった薄暗い場所」の意味であるとしたのとは対照的に、卑奴(ヒナ)は「山々に囲まれた内側の日射しの多い明るい場所」を表した言葉だと推定することができるのである。
この水田のある場所が家並みが続く都市と比べて田舎(いなか)と観念されるようになる前は、ヒナは単に水田の多い明るい場所という意味であったとみなすことができるのではないだろうか。
そうすると、この水田 >>561
>魏志倭人伝には邪馬台国の位置は
邪馬台国なんて存在もせず、
大和説者が「ヤマト」にしたいための嘘つき騙しの造作文言なの。
>会稽東治の東つまり沖縄と書いているのと
会稽東治の東は、ほぼ九州島付近なの。
>卑弥呼が貰った魏の鏡である魏年号の
明帝の銅鏡百枚には、魏年号は書かれていなかったようであり、
青龍三年の方格規矩四神鏡は可能性があったが、同范鏡があったために、
確率が低くなったの。
>入った三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡が畿内から出る史料事実は
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であり、
三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡は、いずれも、
(魏の楽浪帯方攻撃から避難して来た)渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であり、
3世紀最末以前には大和からも出土していなかったの。
>どう考えたらいいのですか
史料事実の曲解否定の詐欺で、警察へ自首されたらどうですか?。 >>603
良田が無い對海國にも卑奴母離がいるので違う
卑奴母離がいるのは特に置いた一大率が諸國を檢察している地域 >>603
このように考えると、倭人伝にみえる卑奴母離(ヒナモリ)は、水田のある村々を監督する役人の意味であることが考えられる。
この役人は、江戸時代の肝煎に相当する役目の者とみなすことが可能だろう。
総責任者の庄屋に対して、惣中の村々を監督する現場責任者(肝煎)という役職とみて間違いないのではないか。 そなんだね〜
そもそも穢狛の民を集めて帯方郡や楽浪郡作られたんだね〜 >>605
良田はなくても、田んぼはあるのだから、対馬にも卑奴母離はいたのよ。 奴婢という単語が出てくるから狗奴国の発音はクノコクだよ >>608
良田がなく南北に米を買いに行ってる離島に置いて
投馬國や邪馬台國に置かないということはない
ヒナは都から遠いところ >>579
>九州の土器編年と大和の土器編年は、どれくらいずれるという意見なんでしょうか。
九州の土器編年にも、西新式の年代などに問題があるが、
基準になる「庄内」に関しては、筑紫は3世紀前半の後半の卑弥呼の頃でよいが、
大和の庄内1の石塚は、3世紀末であり、
大体50年位のずれだな。 >>606
このほかに、ヒナタは、日の当たる場所を表す言葉であり、このヒナタには日向と漢字を当てていることからしても、ヒナは「山に囲まれた日射しの多い水田のある場所」とするのが正しいと思われる。 >>581
>松野氏姫氏系図は熊襲の梟師の取石鹿文が書かれた
江戸時代の熊襲偽僭説の偽系図
誰が、何のために、そんな造作をする必要があったんだい?。
何故、系図の最後の人物が、宇喜多の家来になって、関ヶ原で西軍が負けた後、
その系図が断絶したんだい?。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>593の訂正
>>535
大和説が
箸墓なんてでっか過ぎる墓を、
無理やり卑弥呼の墓候補に持ち上げなきゃならないのは、
どんだけ大和説が不利かってことの、端的なあらわれだね >>595
>投馬国(ドゥマコク)が岡山の玉と出雲のどちらなのか?
発音から見ると玉なんだけど、陸行一月から見ると出雲なんだよな
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、
×ね。 >>612
ヒナタはヒ‐ナタ
ヒナからは、ひなびた 大和に稲作が伝わったのが4世紀なんだとさ😬
北九州は1世紀には日本最大の稲作量を誇ってたんだと
3世紀に日本最大の稲作量を誇っていたのが福井県なんだってさ >>617
>「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、
×ね。
それ、「実態だ〜」と言い張る珍説じいさんのワガママだけだろ
>>610
ヒナモリは役職名だから、対馬、壱岐、奴、不彌が行政事務的に同一圏を形成していたと考えるのがよいな。
投馬や邪馬台国はこの行政圏とは別で、独自の役職名をつけていたということだろう。
ただ、行政的に総責任者と現場責任者がいたということでは、九州はみな同じということになるよ。
ヒナが都から遠いところの意味になるのは、平安時代頃からじゃないの。
都の文化が周辺に及んでだんだんと開けてくるものの、関東や南九州などは都から遠く都文化がまだ波及していないということだな。 >>600
魏で見つかった1尺24cmの尺定規は短里の根拠にはならないかも知れないけれど
魏で使われていた尺度は1歩=6尺の1里=300歩なので
24cm×6×300=430mと普通の里が存在した根拠になる
一方九州説の言う1里75mの短里は
現実に見つかっている尺定規が根拠にならないのなら現実には存在してない可能性が
資料事実によって示される 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
この時代で短里が何の疑いもなく記されているのだから、当時の人も過去に短里があったことを知っていたのであろう >>601
ヒナモリのヒナは「水田のある日当たりのよい所」の意味が原義だと考えられ、ヒナモリは水田のある集落を監督する者の意味でしょう。
奴国や不彌にも水田はあったでしょうから、ヒナモリがいてもおかしくないでしょうね。 >>627
ヒナモリのヒナは都から遠いところ
一大率が諸國を檢察している地域に置かれた副官
筑後南部の山門はその外 >>628
北部九州は、倭国(阿波)を皮切りに、後に続く代々王権の防人出先機関でしかなかった。 @阿波 >>604
6世紀ごろの大和朝廷と国交を持った隋では
大和を魏志にある邪馬臺の事であると書いている
会稽郡東治(冶)県は現在の福建省福州市あたり
その東は沖縄か台湾
会稽東冶が南方にあった郡である事は
後漢書にも会稽東冶は中国の最南部に相当する朱崖タン耳郡とお互いに近いと書いてある事からも推定される >>630
>6世紀ごろの大和朝廷と国交を持った隋では
大和朝廷は、8世紀から。 @阿波 >>604
卑弥呼が貰った銅鏡に魏年号が書いてあろうとなかろうと
畿内からは卑弥呼が魏に使いを送った年と魏志倭人伝に書いてある
景初や正始と魏の年号が入った鏡が見つかるので
畿内と魏は卑弥呼の時代に国交を持っていたことの証拠 >>631
大和朝廷を8世紀からとする根拠は乏しい まあ、地山を楕円形に成形しつつ、その地山の上部だけを平地に削り取りって、そこに方墳を造ったのが祇園山古墳だろう。
その楕円形の裾の差し渡しが60m程度あるので、倭人伝の径百余歩を倭人の1歩(半歩)でみれば
おおむね70m程度となり、この祇園山古墳の裾部とほぼ同じ差し渡しになる。
倭人伝の卑弥呼の墓は、祇園山古墳とみてまず間違いないだろう。
このようにみると、纏向の箸墓古墳の後円部140mほどあって大き過ぎ、倭人伝の卑弥呼の墓とするには不適当といわざるを得ない。
まして、前方と後方を合わせれば墳長は差し渡し278mにもなり、とても径(差し渡し)70m程度ではないので無理。
祇園山古墳や倭人伝の地理的な記述を合わせると、卑弥呼の邪馬台国は八女・山門地域にあったと考えるのが妥当だ。 >>632
「阿波」で仿製した鏡を畿内忌部に下賜しただけのこと。 わははははは @阿波 >>634
筑後北部は広域ネットワーク=倭国の端
八女・山門は外 >>636
北部九州は、倭国(阿波)を皮切りに、後に続く代々王権の防人出先機関でしかなかった。 @阿波 やっぱ鏡の枚数が多いのは大王陵だからなんだな
金属器が多いのは大王陵 >>612
>ヒナタは、日の当たる場所を表す言葉であり、このヒナタには日向と漢字を当てていることからしても・・、
伊都国にも、投馬国にも、邪馬台国にも、日当たりのよい水田はあったであろう。
しかしこれらの国々にヒナモリを置いていなかったというのは解せんぞ
逆に、良田なくの対馬・壱岐にはヒナモリがいる。これまたおかしいではないか。 >>628
>ヒナモリのヒナは都から遠いところ、一大率が諸國を檢察している地域に置かれた副官
「自女王国以北、特置一大率」とある。
ならば邪馬台国にも、投馬国にも、伊都国にもヒナモリが居てしかるべし、なのにこれらの国には置かれていないではないか。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>628
筑後南部の八女・山門にあった邪馬台国が伊都国に派遣していたのが一大率。
主に奴国など玄界灘側の国を検察していた。
なぜ検察機関を伊都国に置いたのかというと、玄界灘側の北部諸国と筑紫平野側の南部諸国が戦ったのが倭国乱であり、
筑紫平野側が優勢で手打ちしたものの、筑紫平野側は玄界灘側に対する警戒を解いていなかったため。
そして、卑弥呼が死ぬと、どさくさに紛れて玄界灘側は再び男王を立てたので、卑弥呼を立てていた筑紫平野側が怒って騒乱になった。
そこで、帯方郡から派遣されていた張政が中に入り、筑紫平野側が立てた男王を排除させ、筑紫平野側から台与を卑弥呼の跡継ぎとして立てさせて騒乱が収まった。
その手腕を買われて、張政は帯方郡で出世した。
一大率が置かれていた背景には、玄界灘側と筑紫平野側の対立が倭国乱のあとも依然としてあったからなのよ。 >>624
>魏で見つかった1尺24cmの尺定規は短里の根拠にはならないかも知れないけれど
魏で使われていた尺度は1歩=6尺の1里=300歩なので
24cm×6×300=430mと普通の里が存在した根拠になる
ダメだ。
漢代でも、魏においても、蜀や呉においても、
史料実態は、長里使用と短里使用の混在であり、
魏地においても、残された里使用記録文や上表文や学者本や史家本においては、
混在していた、という事であり、
しかし、魏朝の公的記録文書では、
明帝の「征伐四千里」発言や、郡役人らの韓の「方可四千里」などのように、
明確に短里を使用しており、
陳寿の倭人伝でも短里を当然使用していた、という事になる。
>一方九州説の言う1里75mの短里は
現実に見つかっている尺定規が根拠にならないのなら現実には存在してない可能性が
資料事実によって示される
ダメだ。
魏の役人らは、短里で記録した。 >>643
筑紫・筑後平野 対 玄界灘側の旧宗主国
対立の概略構図としては、大略まずまず良いのではないか。 >>639
3世紀頃には、このヒナモリは奴国とその圏内の国の単なる役職名となっていて、
行政的に奴国の圏内であったところにはヒナモリが置かれたが、それ以外のところは勝手に自分たちに都合のいい役職名を付けていただけ。
それを一元的に役職名をまとめ上げられるほど倭国連合の盟主の力は強くなかったということだな。 >>646
3世紀頃には、このヒナモリは、、、行政的には奴国の圏内であったところに置かれた・・
、
この見方は、上の>>643 と共に極めて重要と思う。これこそ当時の政経地図を解き明かす大きなカギになるのではないか。 >>636
まあ、その構図は3世紀中ほど以降の話。
庄内式土器が博多で出るのは、3世紀半ば頃からだし。
そして、3世紀後半になると、大和の古墳には鉄器がどっさり副葬されるようになる。
何が起こったのか明らか。
鉄器、鉄素材などの貴重財の一括管理が大和の手で行われるようになったから。
つまり、博多にあった鉄器などの貴重財の輸入販売権が、3世紀半ば頃に大和に移ったということ。
その輸入販売権の大和への移動には、武力が介在したことは間違いないだろう。 >>643
無駄な作り話
博多が交流してるのは畿内や瀬戸内や山陰
筑後南部は産物もないから何のメリットもない >>646
ヒナモリは、都から遠いヒナの異民族からの守り >>651
そういうことなんだろな。
つまり、筑後南部〜と激しく敵対してきたからこそ、博多側が交流していたのは畿内や瀬戸内や山陰だったわけさ。
なお、筑後南部は産物もないから何のメリットもないというのはそうだろう。確かに見るべきものはない。。
ただそこで足踏みするから解けないのだ。
従来は全く想定外だったようだが、さらに南の肥後の方保田東原まで行けば溢れんばかりの鉄器や土器がある。もしかして庄内式土器の発祥は肥後だったのかもしれぬ。
誰かさんのように、頭っからの肥後嫌いでは大事な古代を見誤る・・。 >>654
>ヒナモリは、都から遠いヒナの異民族からの守り
それが逆だ。
ヒナモリは、都から遠い異民族の蛮族や夷族の監視役(守役)から転じた奴(奴婢・下賤の卑族)の監視役(母離・守) >>651
熊本には鉄素材が博多から入っている。
熊本はこの鉄素材を切り取って主に鏃に加工していた。
また、八女あたりでも鉄素材を切り取って加工していたようだ。
弥生後期には、筑後南部は鉄素材などの貴重財の流通圏内にあった。 >>657
鉄素材は朝鮮半島から入るから関東でも出る >>658
ただ、弥生終末期直前までは、関東には鉄刀などの鉄器、鉄素材は入っていなかったそうだ。
それが突然弥生後期の末頃から鉄刀などが入るようになったことが、同じ鉄器過疎地だった大和、尾張などを鉄器入手に動かしたという説があるようだ。
日本列島の交易構造を根本から変えたきっかけが、関東への鉄刀などの流入だったという驚きの古代史だな。 >>660
>関東への鉄刀などの流入だったという驚きの古代史だな。
それは、「忌部一族」の関東進出を物語っている。 @阿波 >>660
筑前の鉄器の出土状況は朝鮮半島から入った鉄器は管理されていない
筑後南部に鉄が流れていても、弥生終末期に博多の首長層が筑後南部と交流した根拠はない 官は卑狗、彦、卑奴母離は夷守、狗奴国は女王国の南河内、官は狗古智卑狗、河内彦。女王の都官は三輪なんとか、次も三輪なんとか、ついでに正北抵新羅は南は越州接で出鱈目。 >>659
そういうことだ
つまり邪馬台国側からすれば、「(建前として)奴国2万戸は監視・使役下に置かれるべき奴婢・下賤の卑族の国」であったということだ。
だからこの間の事情を込めて、那の津の国を「奴国」と記述したのだろう。これも「卑弥呼」と同様の卑語置き換えというわけだ。 >>664
その邪馬台国側ってまさか山門だとかいうんじゃないだろうな? .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 昔から戦争ってのは山頂に登った方がかつんだね〜
山頂から一気に駆け下りながら蹂躙すんだね >>666
>関東への鉄刀などの流入だったという驚きの古代史だな。
それは、「忌部一族」の関東進出を物語っている。 @阿波 >>634
>まあ、地山を楕円形に成形しつつ、その地山の上部だけを平地に削り取りって、そこに方墳を造ったのが祇園山古墳だろう。
事実は地山を楕円形に成形したりしていないのだから
冢と呼んでいいのは葺石のある方墳のみ
もちろん径百余歩などなく、時代も四世紀の古墳だ
卑弥呼ー祇園山説は非現実的な妄想ということだ
ろくな古墳のない九州説の苦し紛れが丸見えで
まさに墓穴を掘った墓だな >>630
>6世紀ごろの大和朝廷と国交を持った隋では
600年頃の開皇末に隋と国交を持ったのは、九州俀國であり、
大和は、小野妹子を派遣して日本國を名乗ったが、隋文帝に断られ、
大業3年の遣使も俀國であり、書紀の小野妹子の遣使は書紀の造作であり、
大和は隋代には隋と正式国交を持てず、
次の唐の武徳中に「日本國」号を認められ、裴世清の大和訪問も、その武徳中の事。
>大和を魏志にある邪馬臺の事であると書いている
隋書の魏徴らに拠る「則魏志所謂邪馬臺者也」の注釈的な挿入文は、
魏徴らによる「後漢書の誤読」や「梁書の曲解を踏襲してしまった」失敗記載であり、
根拠にならない×文。
>会稽郡東治(冶)県は現在の福建省福州市あたり その東は沖縄か台湾
会稽東冶が南方にあった郡である事は
後漢書にも会稽東冶は中国の最南部に相当する朱崖タン耳郡とお互いに近いと書いてある事からも推定される
これも×。会稽東治の東治は、地名の固有名詞ではなく、
「東方の治所」という普通名詞の連結文であり、
会稽の東方の(揚州の管理下の治所」という意味であり、
揚子江河口の南北の広範な地域を指し、その「之東」は、ほぼ九州島付近を指す。 >>632
>卑弥呼が貰った銅鏡に魏年号が書いてあろうとなかろうと
魏年号は書かれていなかったらしい。
>畿内からは卑弥呼が魏に使いを送った年と魏志倭人伝に書いてある
畿内なんて存在もしなかった文言であり、
存在もしなかった場所から魏に使いを送れる筈もなく、
また、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、卑弥呼は九州の倭國の女王である。
>景初や正始と魏の年号が入った鏡が見つかるので
畿内と魏は卑弥呼の時代に国交を持っていたことの証拠
「景初三年や正始元年の魏の年号が入った鏡」には、
陳氏が楽浪役人や母人を伴って来た記銘があり、
陳氏らは、魏の楽浪帯方攻撃戦争からに逃れて列島に避難して来た、
「渡来の呉系楽浪鏡師」らであった事になり、
また、大和からは「景初三年や正始元年の魏の年号が入った鏡」は出土していない。 >>638
>やっぱ鏡の枚数が多いのは大王陵だからなんだな
大和では、渡来の呉系楽浪鏡師らを鏡作り神社に来て貰い、
大和の子弟に「副葬用の粗悪な大量の△」を造る事に、関与して貰ったから。
金属器が多いのは大王陵 >>669
>昔から戦争ってのは山頂に登った方がかつんだね〜
孔明の弟子がそのセオリー盲信して破滅したぞ >>675の訂正
>>638
>やっぱ鏡の枚数が多いのは大王陵だからなんだな
大和では、渡来の呉系楽浪鏡師らを鏡作り神社に来て貰い、
大和の子弟に「副葬用の粗悪な大量の△」を造る事に、関与して貰ったから。
>金属器が多いのは大王陵
いや、大和の金属器の多い墓は、
九州倭國の「東征毛人五十五國」の将軍や部将らが持参した武器や、
鏡作り神社で、渡来の呉系楽浪鏡師らの助けで、粗悪な副葬用の大量の鏡を造れた、
などに拠って。
征服して生口や守墓人 >>672
>これも×。会稽東治の東治は、地名の固有名詞ではなく、
>「東方の治所」という普通名詞の連結文であり、
そんな名詞はないよ
九州説はそういうインチキ読みに依存しないと消滅するから
マトモな研究者から見捨てられて
ますます凋落する
>会稽の東方の(揚州の管理下の治所」という意味であり、
だったら、なに郡か言えるか?
治のあった場所の地名が言えるか?
言えないだろ
インチキ読みだからだよ
>揚子江河口の南北の広範な地域を指し、その「之東」は、ほぼ九州島付近を指す。
そこが会稽の東になるか?
北だよ
ましてや揚子江の北は揚州ですらない
九州説は「東→北」のインチキをしてる
これも×だな
九州説は倭人伝を無視してる
祇園山も、そう
一般人から見て明らかなインチキを言い張るようになったから
九州説は滅びたんだよ >>650
>そして、3世紀後半になると、大和の古墳には鉄器がどっさり副葬されるようになる。
何が起こったのか明らか。
鉄器、鉄素材などの貴重財の一括管理が大和の手で行われるようになったから。
いや、九州倭國の「東征毛人五十五國」の将軍や部将らが、
鉄器や鉄武器を大量に持っていたので、
亡くなってから、副葬された。 >>660
>ただ、弥生終末期直前までは、関東には鉄刀などの鉄器、鉄素材は入っていなかったそうだ。
それが突然弥生後期の末頃から鉄刀などが入るようになったことが、同じ鉄器過疎地だった大和、尾張などを鉄器入手に動かしたという説があるようだ。
日本列島の交易構造を根本から変えたきっかけが、関東への鉄刀などの流入だったという驚きの古代史だな。
九州倭國の「東征毛人五十五國」の征服軍が到達したから。 九州倭國の「東征毛人五十五國」の征服軍?
そんな捏造してるから九州説が滅んだ >>663
>狗奴国は女王国の南河内、官は狗古智卑狗、河内
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、×。 キナイコシは偉そうなことばかり言っているが、こいつは単なる無職の負け組ジジイ
自分は専門家だと言い張っているが、そんな主張はそれ相応の定職についてからすべき
現状ではキナイコシは古代史愛好家のど素人ジジイでしかない
まさか学会に入っているだけで専門家と認知してもらえると思っているわけじゃないだろうね? >>1
,、‐'''''''''ヽ、
/:::::;;-‐-、:::ヽ _,,,,,,,_
l::::::l _,,、-‐"iiiiiilllllllllllliiiiiiiー-、__ゞ:::::::::::`ヽ,
ヽ::`/: : : : iiiiiilllll||llllliiiiii: : : : : : ヽイ~`ヽ:::::::i
. /;,..-‐、: : : : : l|l: : : : : : : : : : : : : \ ノ:::::}
/: /: : : : :`.: : : : : : : : :/´ ̄\ : : : : : ヽ:::ノ
. !: : : :iflllli、: : : : : : : : : : : : : : : :ヽ: : : : : :.!
|: : : :llllf l: : : : : : : : : : :.iflllli、: : : : : <iiii|
|: : : :|llll |: : : : : : : : : : .llllf l: : : : : : : : :.|
|: : : :.!lllll!' : : : : : : : : : : |llll |: : : : : : : : :i
/: : : : : ○ : : .!lllll!' : : : : : : : :.i
 ̄|: : :" ,,,,,,,,,,,,,|____ : : : : : : : :.<iii/ ______________
. /!.: |:::::/  ̄''''''''l ヽ: : : : :-─/─ />>1くん!もう二度とくそスレをたてないで!
ヽ ヽ/ ノ : : :ヽ/ < すぐにくびをつってしんでね!
\ \,,_ _,,,/ : /\ \しまじろうとお約束だよ!!!
`''‐、、__  ̄ ̄ __,,,、-‐"  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. //:::::/ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ノ::::/\
. / /:::::/ ` ̄ ̄ ̄/:::::/. \ >>1
,、‐'''''''''ヽ、
/:::::;;-‐-、:::ヽ _,,,,,,,_
l::::::l _,,、-‐"iiiiiilllllllllllliiiiiiiー-、__ゞ:::::::::::`ヽ,
ヽ::`/: : : : iiiiiilllll||llllliiiiii: : : : : : ヽイ~`ヽ:::::::i
. /;,..-‐、: : : : : l|l: : : : : : : : : : : : : \ ノ:::::}
/: /: : : : :`.: : : : : : : : :/´ ̄\ : : : : : ヽ:::ノ
. !: : : :iflllli、: : : : : : : : : : : : : : : :ヽ: : : : : :.!
|: : : :llllf l: : : : : : : : : : :.iflllli、: : : : : <iiii|
|: : : :|llll |: : : : : : : : : : .llllf l: : : : : : : : :.|
|: : : :.!lllll!' : : : : : : : : : : |llll |: : : : : : : : :i
/: : : : : ○ : : .!lllll!' : : : : : : : :.i
 ̄|: : :" ,,,,,,,,,,,,,|____ : : : : : : : :.<iii/ ______________
. /!.: |:::::/  ̄''''''''l ヽ: : : : :-─/─ />>1くん!もう二度とくそスレをたてないで!
ヽ ヽ/ ノ : : :ヽ/ < すぐにくびをつってしんでね!
\ \,,_ _,,,/ : /\ \しまじろうとお約束だよ!!!
`''‐、、__  ̄ ̄ __,,,、-‐"  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. //:::::/ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ノ::::/\
. / /:::::/ ` ̄ ̄ ̄/:::::/. \ >>671
楕円形なのは自然の山の形。
その山のデコボコを均したのが成形。
山の斜面が成形されていることは調査した古賀氏が証明済み。
山の斜面のデコボコを均して成形したということは、斜面部も墳丘の部分とみなしていたことを示す。
その裾部の楕円形の差し渡しは60mほどある。
四世紀というのは久住氏一人が言っていることであり、甕棺は弥生終末期には終焉したとするこれまでの定説を揺るがすものではなく、祇園山古墳の築造を3世紀中頃とする説は妥当といえる。
祇園山古墳は卑弥呼の墓の最有力候補。
百歩の単位を倭人の1歩(半歩=70p)とすれば、纏向の箸墓古墳は大きすぎる。 竹島どろぼうのチョンが妄想する歴史は、
異民族と接する筑紫が朝鮮半島からの侵略をまったく警戒しない
東の日本列島を侵略することしか考えていないということ >>687
山の斜面が成形されていることは調査した古賀氏が、言っていない
お前のデマ >>679
九州の倭国は、3世紀中頃で実質的に終わってるんだけど。 >>687
>山の斜面が成形されていることは調査した古賀氏が証明済み。
それが捏造だから九州説が死んだ
調査した古賀氏は
「同墳の墳丘が地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められる」
としか言ってないので
「調査した古賀氏が証明済み」
は真っ赤なウソ
「山の斜面が成形されている」
とかは明かに捏造 >>687
>四世紀というのは久住氏一人が言っていることであり、甕棺は弥生終末期には終焉したとするこれまでの定説を揺るがすものではな
これも妄想
1970年代の旧説が崩壊済みって方が定説だよ >>675
いや、来てないな
そもそも楽浪漢人の定着遺構がないだろ
来てたら3Cの段階で畿内に竈のある土壁の住居遺構が登場してくるはずだし、
漢服や木沓や革靴も伝わるだろうし、漢字の文章を記した木簡や竹簡や金石文も
出土するはずだろ
むしろ帯方郡に直接オーダーメイドさせて搬入していただけだろう >>687
なんの立証もしないで
「久住氏一人が言っている」とか
こっちが定説だとか
あんた、思い込みが強すぎない? 自分が言い張ってることを立証するすべを全く持たないのが九州説
いや、立証することすら拒否するのが九州説
常識だーとか叫んじゃう馬鹿 九州の将軍とやらの遺品が大和に副葬されんのかよ?
それから古代の軍隊にしろ大和が指揮取ったなんて書かれた書物ないぞ >>697
自分の主張を立証する意思がないから
九州説は滅んだ >>689
祇園山古墳の調査時に山の斜面に埋められていた甕棺の上部が破砕されていたのは事実であり、
調査責任者の古賀氏は古墳築造者が地山成形の際に前からあるその甕棺の上部をカットしてしまったものだと判断したが、
実際には甕棺は古墳築造のあとにうめられたものであり、それが盗掘などの際に上部が破砕されたものであるというのが宝賀寿男氏の主張。
このことからして、調査責任者の古賀氏が山の斜面は成形されていると認識していたことは明らかであり、また誰もそのことを否定していないのであるから、
その斜面成形は古墳築造時に行われたものと考えるのが妥当なのである。
そして、山の斜面が成形されているということは、この斜面は墳丘の一部であるとみなされたことを意味しているというわけなのである。
このことは、前方後円墳においても同じことであり、前方後円形に地山を成形した上に土盛りをした例はいくらでもあるのであって、祇園山古墳だけがそうした地山成形をしたというものではないといえるのである。 >>695
なら、祇園山古墳の甕棺がUC期だと言ってる人を久住氏のほかに挙げてみてよ。 >>700
>調査責任者の古賀氏は古墳築造者が地山成形の際に前からあるその甕棺の上部をカットしてしまったものだと判断したが、
そんな記述、どこにもないよね
アナタの勝手な作文でしょ?
「地山削りだしの際(に)」→地山の成形中に
「周囲の埋葬主体」→斜面に埋納の甕棺
「上面かットした」→その甕棺の上部を破砕した
なんて勝手に書き換えれば
どんな捏造でもできるよね
>このことからして、調査責任者の古賀氏が山の斜面は成形されていると認識していたことは明らかであり、また誰もそのことを否定していないのであるから、
「調査責任者の古賀氏が山の斜面は成形されていると認識していたことは明らかであり」
理由もないのに明らかなわけないでしょ
理由がなきゃ、それはあんたの妄想
>また誰もそのことを否定していないのであるから、
否定するわけないでしょ
「山の斜面は成形されている」なんて主張した人がゼロなんだから
誰も言ってないことは誰も否定しない
全部あんたの妄想 >>693
旧説が崩壊済みとする論説、みたことないわ。 >>701
柳田が、既に庄内期の特徴が失われていると主張した
つまり布留以降
他の小墳墓の土器が柏田U以降なのは皆が言ってる
つまり布留1 >>704
>宝賀氏がそう書いてあるけど。
どこに、なんと?
あんたはウソつくから、具体的な証拠出さなきゃ信用しちゃダメと分かった 結局、調査した古賀氏は
「同墳の墳丘が地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められる」
としか言ってない
「古墳築造者が地山成形の際に前からあるその甕棺の上部をカットしてしまったものだ」
という主張では無い
斜面とも言ってないし
甕棺とも言ってない
誰が言った?
斜面じいさんの捏造だな >>706
キナイコシだって素人、無職の負け組だろ?
俺は素人じゃ無い、俺は専門家だ、と言い張るならそれ相応の定職についてからにしなよ
今のキナイコシは一介の古代史愛好家のど素人でしかない
まさか学会に入っているだけで専門家と認知してもらえると思っているわけじゃないだろうね? >>702
宝賀氏が書いているというのは、「…古賀寿氏は、同墳の墳丘が地山削り出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められること(中略)…とのことである」という一文。
内容は、卑弥呼の墓を造る作業員が墳丘の地山削り出しのときに、周囲に埋められていた埋葬主体の棺の上面を削ってしまったと認められる、というもの。
このことからすると、墳丘とする山の斜面を削る作業が行われたと古賀氏は判断していたことになる。
その作業があったことを宝賀氏も否定していない。
このことからして、古墳築造当時、山の斜面が削られた、つまり成形されたということは、その斜面も墳丘の一部とみなされたということなのだというわけよ。 >>713
周囲の埋葬主体の上面より上側の斜面はな >>713
>内容は、卑弥呼の墓を造る作業員が墳丘の地山削り出しのときに、周囲に埋められていた埋葬主体の棺の上面を削ってしまったと認められる、というもの。
>このことからすると、墳丘とする山の斜面を削る作業が行われたと古賀氏は判断していたことになる。
おいおい
斜面だったところを削って水平面に整地したんだから
削られたところは今はテラス状で
いま斜面なところは昔も斜面だ
斜面成形したなんて誰も言ってない
甕棺がどうとかも誰も言ってない
斜面爺が捏造してるだけだ
>その作業があったことを宝賀氏も否定していない。
斜面成形なんて誰も言ってないどころか想像もしてないのだから
否定するわけもない >>715
おいおい。
この上面破砕されていた棺から鏡やらなんやらたくさん出土しているのよ。
こうした棺が埋められているのは、地図みたら分かるが、全部斜面部分なんよ。
上部の方墳を乗せているテラスには棺はひとつもないの。
お分かりか。
古賀氏が述べている「上面カット」の場所はテラスではなく、斜面なの。
そういう無理な脳内劇場つくるから、まともな結論に行き着かないわけ。
まあ、おぬしは祇園山古墳が卑弥呼の墓である可能性を否定するために、そういう捻じ曲げ理解をしているのだが、
祇園山古墳が卑弥呼の墓である可能性が非常に高いのは、明らか。
いくら捻じ曲げ理解しても無理。 >>716
>上部の方墳を乗せているテラスには棺はひとつもないの。
何でそんなウソが平気でつけるんだ
D1〜11石蓋土壙墓、竪穴式T1に箱式H1。みんな55mの墳丘裾テラス平面にある。
54mコンターでT4,6,7,8,10,12,13、D13,14,15,19,21,27,29,31、H11,14
みんなテラス部だ
九州説はどうしてそんな、すぐバレる嘘をつく? >>716
>上部の方墳を乗せているテラスには棺はひとつもないの。
>お分かりか。
小墓は斜面にしかなくて整地で上部カットされてるというの?
それって殉葬墓説の否定じゃね?
>祇園山古墳が卑弥呼の墓である可能性が非常に高いのは、明らか。
その可能性、いま自分で否定してなくね? それよりも、
日本の漫画〜ゲームなど、ほとんど家の話だろう。 >>717
確かにテラスにも棺があるな。
勘違いだ。
しかし、古賀氏の発言は「周囲の埋葬主体」ということであるから、斜面の棺もテラスの棺も含めた全体の棺をさしており、
斜面が整形されていると認識されていることに変わりはない。 >>718
この古賀氏の認識は間違いで、棺は整形前からあったのではなく、山を整形し、被葬者が葬られたあとにその斜面とテラスに棺が埋められた
と宝賀氏が主張しているわけ。
なので、宝賀氏は殉葬があったと言う説なのよ。
ワイも、その宝賀氏に賛成よ。 >>720
>しかし、古賀氏の発言は「周囲の埋葬主体」ということであるから、斜面の棺もテラスの棺も含めた全体の棺をさしており、
おいおい
古賀氏そんなこと言ってないだろ
勝手におかしな拡大解釈するな
テラスを削り出すのに平面に削ったとき。浅いとこにあった棺なら上部が削れるじゃないか
彼は「斜面が整形されている」なんて
ひとことも言ってない
甕棺を削ったとも言ってない
お前の勝手な作文だ
というか捏造だ
斜面はあんなに凸凹な不整形なのに
成形されてるとか言い張れば
九州説が恥かくぞ
捏造屋だとか >>717
「地山削り出し」の用語については、下のサイトを見てちょ。
http://www.okayama-u.ac.jp/user/arch/nima/zenpouw.html
基壇となる山の斜面もテラスもともに「地山削り出し」であることが分かる。 >>721
だから、斜面の成形なんてないんだろ
捏造だ >>723
基壇となる山の斜面もテラスもともに「地山削り出し」である
とか妙なことを言い出すネタは
ひとことも書かれていないな >>722
冗談だろう。
宝賀氏が古賀氏の発言として書いているのは、「周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められること」だ。
この古賀氏の発言について議論してるんだから、今さらこの発言をなかったことにせんでくれよ。
テラスでも、斜面でも、整形があれば埋められている棺の上面が破砕されるのはおんなじよ。
古賀氏の発言は周囲の埋葬主体ということだから、テラスに限らず斜面の棺についても言ってるのよ。
それに、埋葬主体は棺のことだよ。
しかし、その棺が破砕されていることが、今ここでの議論の対象ではないのよ。
問題なのは、古賀氏は斜面が整形して整えられていると認識していたことなの。
専門家が、斜面が整形されたものであるか自然のものであるか、間違うわけないだろ。 >>726
知能ないんだな
「周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められること」
は、全ての周囲の埋葬主体を上面カットされてるって話じゃないんだよ
>専門家が、斜面が整形されたものであるか自然のものであるか、間違うわけないだろ。
そして、斜面が整形されたものであるとか
だれひとり言ってない
調査した専門家も
読んだだけの素人も
あんた以外はな ほんとーに、誰ならわかるんだろう、
子供w制服を着ているんだけど軍人、警察・・・、そういう家でもないと言っているし。 『天財若子 天若日子』神話?
などの話と同じ?後付けで〜みたいな事を言っている人もいるしw 『王母 龍宮』
このような家なんだけど。
馬に乗って、腰に何かの刀(剣)を差して・・・、
そういう家、人物。あの写真の家。 冤罪事件なのかな?
神代〜何やらというのも、かなり、むかーしの話。 『❓』
実際は神武?テンノウなどもいなかった頃の人物みたいな話ばかりだろう。 泥棒(?)のようなものに入られたという話もしている。
現在では通用しないような話ばかり、頭の良い人は知っている。
何やらプロパガンダでもなさそうだしな? だから、言っているだろう、系図中(系譜、系図が、すべてみたいな意味)?
そういう家などがあるとか、ないとか・・・言っている人もいたり。 系図中=中毒、厨?
よくわからないけど、そういう意味。 ほんとーのアマテラス、スサノオ、そういう話ばかり。
『天財若子 天若日子』 すとーかー?それとも、かなり、すごい家なのかな。
漫画、ゲーム・・・なども家の話の気がしたり。 『』の家の人物。
浦島太郎、龍宮など、ほとんど仮名(キャラクター名)、
自ら姿を隠したんだろう。
オレをネタ(作品のモデルなど)にして良いから、
生計を立ててくれみたいな話。 その祇園山古墳も「水銀朱」や「勾玉」「葺き石」「箱式石棺」等から、一発で筑紫忌部のお墓だと分かる。 @阿波 最近、急にぎやかになってきたようだが、祇園山を担いでいるのは誰かいな。
ま、卑弥呼の都は朝倉だが、その周辺に卑弥呼の墓らしきを見つけ出せないで来た例の怪人達ってとこかな。 744
大和で古墳群が作られるな4世紀からなんだよね
残念ながらそれはない 前方後円墳のみを古墳とするならちょうど出雲と吉備の間あたりで3世紀に前方後円墳が現れ始めてんだね
これが前方後円墳の始まり
そこから広がった >>749
そんな中傷しても無駄だぞ
古墳時代が3世紀半ばからって、もう教科書に載るくらい
定説だぞ その教科書が、畿内説の醜い御託の受け売りなのさ。畿内派の教科書も畿内派のマスコミもそんな程度よ。 >>751
やけくそだな九州説
畿内説の内容も知らないんだろ
滅んだ旧説は惨めなもんだ 斜面詐欺までして偽情報流してくる連中だからな九州説は 水行二十日、水行十日の時点でそんなものはない
夢、幻なり 宗女壹與ちゃんだからね、宗、卑弥呼の教団信奉者だから当然司馬炎の天円地方の衝撃の報告受け取るから箸墓に組み立てた動機は充分よ、壹與の教団がこしらえてきていたと言える。さて何処から来た奴等か? 内陸の不彌国から水行二十日、水行十日、そんなものはない
夢、幻、ゴタクなり 国を維持するには祭政一致には限界が有るんだよ、卜占から始り仏教まで持ち込んで誑かす訳だ、秦にも呂不いが居るように維持してくには祈ってたってダメさ。だから宮中祭祀は己れを護る者に祈るんだよ .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>725
「地山削り出し」を方墳部のみのことと誤認識していたようだから、始末がわるい。
地山削り出しとはどういう用語か分かるサイトを挙げただろ。
基壇からして「地山削り出し」であり、そして古賀氏はその地山削り出しが斜面でも行われたとしているのよ。
ということは、祇園山古墳の方墳の下の斜面部分も墳丘だったことになるの。
そして、その楕円形斜面裾の差し渡しが60mあるということ。
方墳部分の下の斜面部分も墳丘だとした宝賀氏は、まぎれもなく正しいことを言ってるわけよ。 >>765
で、張政が卑弥呼の墓を実見していない以上、卑弥呼の墓が径百歩としているのは伝聞であることになり、
その情報を伝えたのは倭人であって、その倭人が伝えた径百歩は倭人の歩の単位である半歩によるものだったという可能性が高くなるわけだ。
そして、半歩による百歩は70m程度であるので、その70mは祇園山古墳の楕円形墳丘底部の差し渡しが60mであることとほぼ重なるということになるのよ。
このようなことからして、径百歩は倭人の半歩を単位とした長さだったとなると、これまで魏の2歩を一歩とする単位による1歩140pとぴったりだとされてきた箸墓古墳の後円部は卑弥呼の墓としては長すぎることになり、
卑弥呼の墓の候補からは脱落することになる。
そうなると、倭人伝の邪馬台国は大和だとする主張はその根拠を失うことになってくる。
まあ、これが歴史の真実であるのだけどな。 もともと丘みたいなとこだったのを削りだして古墳作ったんじゃねえのかな? >>766
>で、張政が卑弥呼の墓を実見していない以上、卑弥呼の墓が径百歩としているのは伝聞であることになり・・、
という仮定条件付きのへ理屈であり、想像の範囲にとどまる、、。 詐術子ごくろうさーん! >>769
ごくろうさーんのねぎらいは正当なものだが、実見してなければ、誰かから聞いたわけで、それを伝聞というの。
張政らを除くと、卑弥呼の墓を実見できる者は倭人ということになるな。
実見した倭人が張政に伝えたとするより他にはないよ。 >>727
>斜面が整形されたものであるとか、だれひとり言ってない
宝賀氏の「卑弥呼の冢補論」に次のように書かれている。
「県教育委員会の報告の概要」の項目の冒頭あたりに、
祇園山古墳は「低台地(赤黒山)の上に位置しており、その高さ(赤黒山)の約1/4を地山から方形台状に削り出しており(中略)…これを基部にして、上部に盛り土がなされているが…」
県教育委員会の報告に、赤黒山が地山削り出しにより方形台状に整形されていると、はっきり書いているな。
おめ〜らの議論は事実無視だから、まあトンデモ主張ということになるよ。 >>772
そのような弥生墳墓は、総社市か岡山市あたりにしかない。
出雲に近い山間では、前方後円墳のルーツになるような弥生墓はないよ。 >>770
見た、或は聞いたものが、切った張ったの筋金入り張政だけであったとは限らない。
後漢の時代には楽浪郡の事務方役人、206年ごろからは帯方郡の事務方役人がやってきて、幾度となく倭国調査を行い、情勢報告書を上げていたのだろう。
卑弥呼の時代も臺与の時代も同様で、調査報告は文字に長けた事務屋の仕事さ。 楽浪郡や帯方郡は、旅行代理店ではない。
韓国倭国支配のための秘密調査・工作機関のようなものだった。
そして張政も物見遊山にやってきたわけではない。狗奴国などに対する軍事指導の軍師だった
のだよ。 投馬国は但馬はない
但馬から水行十日したら北陸に行ってしまうだろ 米の収穫高で見れば
築紫→但馬→越前て移ってるわけ
そのあと淡路や大和が増えてくる >>765
二万大塚古墳発掘調査
http://www.okayama-u.ac.jp/user/arch/nima/zenpouw.html
「前方部の構築過程については、まず【地山削り出し】で台上に古墳の基壇を整形した後」
=古墳の前方部の基壇部分の整形
「前方部もある程度のレベルまで【地山削り出し】で整形し、それより上部にのみ盛土を施したと考えいます。」
=古墳の前方部のある程度のレベルまでの部分の整形
「地山削り出し」という表現だけで基壇部分から墳頂までの全体を整形するような意味は無い 築紫が米の収穫量日本一だったのがちょうど1世紀ころ >>773
「その高さの約1/4を地山から方形台状に削り出しており、
この削出しの範囲は、西辺を除けば、いずれも葺石最下段線よりも広く、
底辺長は東西約二五M、南北約二四Mとなる。
これを基部にして、上部に盛り土がなされるが、基部の地山整形作業は裾部外周にも及び、
辺により異なるものの、三〜十三Mの幅で平坦面を設けている。」
だから削り出した基部の地山整形の底辺は(東西約二五M、南北約二四M)プラス(三〜十三Mの幅) 3世紀の邪馬台国の存在すら知らなかったド田舎大和民あわれ >>583 > 書紀の記述は、倭人伝の記述をあてはめただけ//
へぇ、書紀は、魏志の卑弥呼墓径100歩を、箸墓に当てはめたのかね。
だったらさ、書紀は箸墓が卑弥呼墓だと認識してた事になるんだがね。
序に云えば、1歩は1.4mで、距離の1里は500m、短里なんて妄想になっちまうぞ。
> あの大和の墓を短期間でつくるのは無理//
昼夜を分かたず短期間で、後円部を作っちまった、としか云い様が無いね。
むろん、突貫工事による粗製品だったから、前方部を付けたり、形を整えたりで、
完成までには相当な築造期間であっても構わんよ。
記紀と魏志の記載は完全に一致してるね。見落とすなよ。
まぁ、見落としても仕方がないが、支離滅裂な口答えには及ばない。
アンタのオツムではさ、何もかもが無理なんだよ。 >>584
> 檄を送って難升米へも台与へも告諭したんだから、直接会ってない。
ずっと迎賓所にいたのよ//
だからさ、物見遊山じゃないんだよ。
告諭するのが使命なら、万難排して会いに行く。
アンタの思い付きは、プータローのそれでしかないね。
>>580 > 史料事実や史料実態に拠って//
オ〆の膿味噌なぞには、そういう物に拠る機能はない。
莫迦は身の程を弁えな。 あ〜山台を与えるな😃
あとはその山を削りだして作れば古墳完成だ😑 山ってかちょっとした丘陵だな
それが二つ連なって削り出せばちょうど前方後円墳みたいな形になる😃
でかさからいってそんなもんやろ 日本は山谷多いゆえ今の農地になってるところは山なんか削って均したもんばかりなんやね😃
じゃねえと稲作は無理なんだね まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>784
>だから削り出した基部の地山整形の底辺は(東西約二五M、南北約二四M)プラス(三〜十三Mの幅)
つまり、今ある斜面は整形してない
そして「プラス(三〜十三Mの幅)」部分は
平面だから冢じゃない
冢は「東西約二五M、南北約二四M」だ >>792
まーだやってらっしゃるのか
大和忌部陵 ← 黒塚古墳(天理市)
東海忌部陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 【佐賀】「よみがえる邪馬台国」展、「豊前の国」に焦点 「九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1600837970/ 奈良県天理市の黒塚古墳は、「三角縁神獣鏡」や「水銀朱」などの副葬品から、倭国(阿波)の「忌部はん」のお墓だと一発で分かる。 @阿波
静岡県沼津市の高尾山古墳は、「蛇紋岩製勾玉」や「水銀朱」などの副葬品から、倭国(阿波)の「忌部はん」のお墓だと一発で分かる。 @阿波 >>583 > 書紀は大和が邪馬台国だと刷り込みたくて、必死だよ//
全然違うね。書紀が必死なのはね、
皇室とさ、卑弥呼・トヨたんの家系が無関係と刷り込む事なんだよ。
崇神(ミマキイリヒコ)が皇室の祖であることは、まぁ、疑いは無かろう。
(手白香皇女は架空だが、敏達以降は、橘仲皇女・石姫を経て女系で崇神に繋がる)
卑弥呼・トヨたん、及び266年女王を神功にしちまう事で、
邪馬台王朝は皇室と同じと云い貼ってるんだよ、記紀はね。
皇室の起源は邪馬台王朝に遡ると認めたくなかった、という事だ。
で、本来の卑弥呼であるモモちゃんについては、その存在と墳墓は書き残したが、
モモちゃんは崇神に仕えた巫女、という事にしちまった。
事実は逆で、崇神が卑弥呼・トヨたんに仕えていた、という事だよ。
何かを刷り込みたいならば、マルっきりの嘘を書くのではなく、
ホントに嘘を混ぜておく、ってのは当たり前でしょ。
簡単に云えば、簒奪者の誹りは受けたくなかった、という事だ。 >>786
奈良の知識人たちは、後漢書の「大倭王居邪馬臺国」を引いて
奈良を邪馬台国とみなしヤマトと呼称していたので、邪馬台国の卑弥呼をぜひ奈良の地に引っ張り込みたかったの。
それで、その奈良の知識人の伝統となっていた卑弥呼引っ張り込み欲求が本格化したのが書紀の編纂。
ヤマトトトヒモモソヒメという卑弥呼似の霊能者を創出して箸墓の被葬者にし、また神功皇后という卑弥呼似の女傑を創出して、3世紀の人物として設定した。
いずれも卑弥呼奈良在住者設定欲求を強烈に表したもの。
奈良の知識人が倭人伝の卑弥呼を奈良に引っ張り込むのに熱を上げたのは明らか。
しかし、それはあくまで欲求であって、卑弥呼が奈良にいなかったのは歴史事実なので、卑弥呼似女性を設定するだけに終わった。
箸墓が卑弥呼の墓なわけないだろ。
箸墓は崇神の墓だ。 >>787
いや、卑弥呼や難升米、台与に会いたくても会えない状況だったということなのよ。
ただ、それだけ。
で、檄作って送ったんじゃん。 >>782
祇園山古墳の場合、基壇最上部のテラスまでが整形されていて、
その上は方墳なんだから、この方墳は人工構築物であり、整形という言葉は当たらない。 >>801
祇園山古墳は基壇最上部のテラスまでではなくて
テラスから上側が地山削り出し >>799
> ヤマトトトヒモモソヒメという卑弥呼似の霊能者を創出して箸墓の被葬者にし//
箸墓に眠る卑弥呼をモモちゃんという名前にして、崇神に仕える巫女にしたんだよ。
> 箸墓が卑弥呼の墓なわけないだろ。箸墓は崇神の墓だ//
始祖の墓を他人の墓にする理由がない。
径100歩の墓なんぞ、他にいくらでもあるだろ、書紀の編纂時点ではさ。
卑弥呼よばわりされてる、神功の墓にしとけばエエだろうさ。
てか、五社神古墳(全長275m)って箸墓(同280m)と同規模だから、
神功墓ってことにしたのかもな、日本書紀は。
張政・邪馬台国の時点では、径100歩の墓は、卑弥呼墓である箸墓しかなかったので、
張政は卑弥呼墓を特定すべきID情報として、径100歩と記載し、
箸墓は卑弥呼墓であるのだから、事実として径100歩だったという事だ。
邪馬台国が大和でなかったのならば、あんなん田舎の女酋ですと、
本居宣長よろしく云い切りゃいいだけのハナシだろ。 >>800 > 会いたくても会えない状況だったということなのよ//
で、オ〆は死沼で無職童帝かね。
> で、檄作って送ったんじゃん//
で、ポストに投げ込んだラブレターはゴミ箱に捨てられてそれっきりかね。
チャンとしたヒトはね、きちんと会いに行って思いを伝えるもんなんだよ。
グダグダと無意味な口答えをするには及ばんのだよ、お莫迦様。 >>799 > いずれも卑弥呼奈良在住者設定欲求を強烈に表したもの//
あはは、それって非大和者によくあるハナシだね。
おらが村さ邪馬台国、てやつだ。
アンタの発想って、そんな域のシロモノでしかないね。
日本中に邪馬台国が溢れてるのは、アンタの在住者設定欲求の強烈な表象でしかないね。
非大和だと云い貼りたいならさ、少しは読ませるフィクションでも書くことだ。 箸墓が3C末に築造された大王陵で被葬者が百襲姫という女性であるなら、
卑弥呼(249年頃に崩御)→国中不服の男王→台与(266年に晋に朝貢)→男王
という流れなのだから、必然的に箸墓は台与陵だとしか考えられなくなる
被葬者の名前が違うのは台与が幼名か諱で百襲姫が諡号だからだろう
台与が百襲姫であるなら、その前の国中不服の男王は必然的に百襲姫の父親である
孝霊天皇という事になる
その前の大王が卑弥呼であるはずなのだが、系図では孝安天皇という事になっている
これはおかしい
しかも孝安天皇には兄はいるが姉も妹もいない
しかし兄の天足彦国押人命の配偶者は義理の姉という事になる
その人物とは宇那比姫である
倭人伝には卑弥呼には夫はいない事になっているが、早くに夫に先立たれて、
義理の弟である孝安天皇が宇那比姫である卑弥呼の補佐をしていたと考えると
倭人伝と辻褄があってくるのである
中国から卑しいと呼ばれた卑弥呼の存在を隠すために記紀では宇那比姫の存在を
抹消し、その補佐であった義理の弟である大倭帯日子国押人命を架空の大王である
孝安天皇に仕立て上げる事で卑弥呼の空白を補完したのである >>805
自分の都合ばかり言っては、ダメ。
この世の中には、いろんな事情があるもんなのよ。
そうした都合があって、張政は迎賓所を出て倭国の重鎮らには会えなかったということ。 >>624
>魏で見つかった1尺24cmの尺定規は短里の根拠にはならないかも知れないけれど
魏で使われていた尺度は1歩=6尺の1里=300歩なので
24cm×6×300=430mと普通の里が存在した根拠になる
魏朝は皇帝も役人も郡役人も短里を使ったが、魏の一般人は、長里を使った人もおれば、短里を使った人もいた。
>・・・一方九州説の言う1里75mの短里は
現実に見つかっている尺定規が根拠にならないのなら現実には存在してない可能性が
資料事実によって示される
魏朝では、尺寸系は触らず、里歩系の長さを周髀算経の一寸千里の法の長さ単位を使った。 >>650
>まあ、その構図は3世紀中ほど以降の話。
庄内式土器が博多で出るのは、3世紀半ば頃からだし。
そして、3世紀後半になると、大和の古墳には鉄器がどっさり副葬されるようになる。
何が起こったのか明らか。
鉄器、鉄素材などの貴重財の一括管理が大和の手で行われるようになったから。
つまり、博多にあった鉄器などの貴重財の輸入販売権が、3世紀半ば頃に大和に移ったということ。
その輸入販売権の大和への移動には、武力が介在したことは間違いないだろう。
違うな。
九州倭國の「東征毛人五十五國」があった事を、はっきり認めようね。 >>657
>熊本には鉄素材が博多から入っている。
熊本はこの鉄素材を切り取って主に鏃に加工していた。
また、八女あたりでも鉄素材を切り取って加工していたようだ。
弥生後期には、筑後南部は鉄素材などの貴重財の流通圏内にあった。
ふーん。 >>806
奈良を邪馬台国に当てる限り、卑弥呼の所在を確かにしたくなるのよ。
今の箸墓卑弥呼の墓説も、8世紀の書紀でその3世紀あたりに卑弥呼似女性を二人も引っ張り込んだのも、同じ動機。
卑弥呼のいない邪馬台国なんて、タコ入れないタコ焼きみたいに偽物らしいからね。
で、大和説者はみんな必死に箸墓を卑弥呼の墓にしたがるのよ。
そして、なにもかも無理が生じて来るわけ。 >>659
>鉄素材は朝鮮半島から入るから関東でも出る
当然、九州倭國の「東征毛人五十五國」の征服軍が関東にも達して、
鉄や鉄器を齎した。 814
その理屈で行けば侵略者以外のなにもんでもないわけなんだが >>803
しかし、江戸時代の学者たちは、前方後円墳をヒョウタン形と認識していたそうだ。
墳形をみれば、だれでもそんなふうに思うよな。
しかるに、卑弥呼の墓を“実見”したらしい張政は、卑弥呼の墓のサイズを円墳に用いる径の字を使って表しているのだから、箸墓を本当に見たのかよと疑ってしまうのよ。
実見したのなら、「円墳を方墳につなぐ」とかなんとか書きそうなものだけどね。
そもそもが、卑弥呼の話を奈良に持ってくるからチグハグな話になってしまうのよ。 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>765
>「地山削り出し」を方墳部のみのことと誤認識していたようだから、始末がわるい。
>地山削り出しとはどういう用語か分かるサイトを挙げただろ。
>基壇からして「地山削り出し」であり、そして古賀氏はその地山削り出しが斜面でも行われたとしているのよ。
>ということは、祇園山古墳の方墳の下の斜面部分も墳丘だったことになるの。
この人マジで日本語読めないんだな
削り出したのは方墳の下部だけ
テラスの平面は削っただけ
テラスより下の、祇園山古墳の方墳の下の斜面部分は元の山のまま
削ってないから
墳丘なのは葺石のある方墳だけ >>819
>しかし、江戸時代の学者たちは、前方後円墳をヒョウタン形と認識していたそうだ。
・・・
>実見したのなら、「円墳を方墳につなぐ」とかなんとか書きそうなものだけどね。
ハズレ
「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」(河村秀根『書紀集解』) >>663
>・・・ついでに正北抵新羅は南は越州接で出鱈目。
九州倭國から南へ、島伝いに進めば、越州に着き、
倭國は越州とは(敵対的ではなく)友好的だ、という意味だ。 >>819 > しかし、江戸時代の学者たちは//
本居宣長と聞いてそれかね。条件反射でしかないね。
> 卑弥呼の話を奈良に持ってくるからチグハグな話になってしまうのよ//
チグハグなのはオ〆だろ、アホ。
箸墓にまつわるエピソードが日中史料で一致してるんだから、
邪馬台国は大和なんだよ。
> 卑弥呼の墓のサイズを円墳に用いる径の字を使って表しているのだから、
箸墓を本当に見たのかよと疑ってしまうのよ//
だったら彼が見た時は円墳だった、でエエだろが。
>>484 で書いた通りだ。振り出しに戻る、だよアホ。
対してオツムも良くない癖して、思い付きでダラダラ書いてるんじゃない。
>>813
> 3世紀あたりに卑弥呼似女性を二人も引っ張り込んだのも、同じ動機//
違うね。卑弥呼を卑弥呼ではないと云うためにモモちゃんを引っ張り込み、
卑弥呼でない者を卑弥呼だと云い貼るために神功を引っ張り込んだんだよ。
> なにもかも無理が生じて来るわけ//
それはアンタの膿味噌の特性でしかないだろ。 >>808 > いろんな事情があるもんなのよ。そうした都合があって//
その事情とか都合って何かね、アフォ。
> 自分の都合ばかり言っては、ダメ//
そりゃオ〆にしか過ぎないぞ、ノータリン
>>807 > 箸墓が3C末に築造された大王陵で//
卑弥呼墓である箸墓は、後円部に関しては3世紀中葉と考えるしかないよ。
> 孝安天皇に仕立て上げる事で//
何の事績もないモンなぞ考慮する必要はない。
神武即位をBC660にするための、嵩上げでしかない。 >>690
>九州の倭国は、3世紀中頃で実質的に終わってるんだけど。
九州の倭国は、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」の記録に拠って、
唐代まで北部九州に存在した、
という事で、実質的に終わってるんだけど。 >>691
>「山の斜面が成形されている」とかは明かに捏造
いや、山の尾根地域に基盤台のような地形が存在する事は殆どはなく、
「成形」しなければ、存在し得ない。 >>692
まず畿内や邪馬台国や大和という括りからしておかしい 827
もともと凸凹していたとこばかりで平地らしい平地なんてほとんどないよ
平地に見えるところはほとんど均したとこばかり
山間地だって山を削って土砂運んで平地に見えるよ〜なとこみな均したんだぞ >>694
>いや、来てないな そもそも楽浪漢人の定着遺構がないだろ
来てたら3Cの段階で畿内に竈のある土壁の住居遺構が登場してくるはずだし、
漢服や木沓や革靴も伝わるだろうし、漢字の文章を記した木簡や竹簡や金石文も
出土するはずだろ
渡来の呉系楽浪鏡師らは、魏の楽浪帯方攻撃戦争からの流浪避難民であり、
郷に入りては郷に従え、の原則。
>むしろ帯方郡に直接オーダーメイドさせて搬入していただけだろう
そんな事をして、魏軍にバレれば、魏軍が列島や大和までも討伐して来るよ。 近年だって土地改良などによりみな平地になっただけやろ😃
家などを作る場合にしろ山を削ったりして場所を作ったり
そゆのずっとやってきたの >>696
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
自分が言い張ってる史料事実や史料実態の曲解や否定を、
立証するすべを全く持たないのが大和説
いや、立証することすら拒否するのが大和説
常識じゃないんだー、とか叫んじゃう馬鹿 >>697
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らは、
まともな日本人と違って、
自己絶対正義、という非常識の人種だから >>833
鳴きながらオウム返しに及んでも、大和以外に邪馬台国は発生せず、
祇園山古墳は、邪馬台国とは何の関係もない荒廃墳墓でしかない。 >>699
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らは、
自分の主張を立証する意思がないから
大和説は滅んだ >>836
鳴きながらオウム返しに及んでも、大和以外に邪馬台国は発生しないぞ莫迦。
何の考えもない癖して涌くには及ばんのだよ、寡頭生物が。 >>701
>なら、祇園山古墳の甕棺がUC期だと言ってる人を久住氏のほかに挙げてみてよ。
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らのアホ論文など、
関心も全くなく、
読む気も、探す気も、全く起きないからな。 >>705
>柳田が、既に庄内期の特徴が失われていると主張した つまり布留以降
他の小墳墓の土器が柏田U以降なのは皆が言ってる つまり布留1
「土師器の古い方」と言えば、それは庄内。 >>706
>宝賀はど素人だからどうでもいい話
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの大和説学者らは、、
全員が、史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの・・・・詐欺師であるから、
どうでもよい話。 >>721
>この古賀氏の認識は間違いで、棺は整形前からあったのではなく、
山を整形し、被葬者が葬られたあとにその斜面とテラスに棺が埋められた
と宝賀氏が主張しているわけ。
なので、宝賀氏は殉葬があったと言う説なのよ。
ワイも、その宝賀氏に賛成よ。
ふーん。 >>840
おい宝賀、どうでもいい詐欺師の莫迦はオ〆だろが。 >>825
>>>卑弥呼墓である箸墓は、後円部に関しては3世紀中葉と考えるしかないよ<<<
そういうあまりにも都合の良すぎる出来過ぎた解釈は一切支持しない
戦時中であるという時代背景から考えても、築造に国力を殺ぐ箸墓は卑弥呼陵ではあり得ないね
>>>何の事績もないモンなぞ考慮する必要はない<<<
半分は補佐の孝安天皇が国政を動かしていたのだから、卑弥呼が出せないなら孝安天皇を
表に出すしかないじゃないか >>807 > 台与(266年に晋に朝貢)//
266年女王がトヨたんとは限らないと思うのだが。
日本書紀では、卑弥呼もトヨたんも神功皇后呼ばわされているのだから、
同じく神功皇后呼ばわされている266年女王もまた、3人目の女王であっても構わない。
卑弥呼はモモちゃんとして登場する。
トヨたんもまた、登場している。ただし、何の事績も記載されてないけどね。
ヤタラと登場する、トヨ何とかという女性は、全てカモフラージュで、
実際のトヨたんは、トヨを含まない極めて没個性な名前になってるけどね。
266年女王についても、記紀に心当たりがある。 >>826
この唐会要倭国伝の文中には「耶古、波耶、多尼」が倭に服属しているという文があり、
日本側の史料では天武11年には種子島、屋久島、奄美に対して大和の朝廷が禄を賜ったとの記事があり、
また文武3年には種子島、屋久島、奄美の人が大和の朝廷に入貢したとする記事がみられる。
なので、唐会要がいう倭とは大和朝廷のことであり、「正北抵新羅(正北は新羅にあたる)」は古い中国の史書にみえる北部九州にあった倭国の地理観をそっくり踏襲したものにすぎない。
この中国側の大和朝廷に関する地理的な誤認はずっとあとまで続くものであり、その誤認の最初の史書は范曄の後漢書である。 >>726
>問題なのは、古賀氏は斜面が整形して整えられていると認識していたことなの。
専門家が、斜面が整形されたものであるか自然のものであるか、間違うわけないだろ。
ダメだ。
古賀は、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の隠蔽」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説者側の学者であり、
そんな人間が正確な判断をする訳がなく、
×男だ。 >>731
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」などのに、
史料実態や史料事実に負けた大和説者が、
また呟き荒らしを始めた >>747
>前方後円墳のみを古墳とするなら
ちょうど出雲と吉備の間あたりで3世紀に前方後円墳が現れ始めてんだね
これが前方後円墳の始まり そこから広がった
これも×。
前方後円墳は、筑紫での天円地方の思想が入った後の、
那珂八幡などで始まり、
それから、東征毛人諸国や南九州や半島などにも広がった。 >>825
その都合とは何かて、知るかいな。
難升米に会いに来て、会えずに檄を送って告諭し、
新たに女王になった台与にも会えずに檄を作って送って告諭してるんだからよ、
なんか邪馬台国側に都合があったのだろうとしか言いようがないわ。 >>839
>「土師器の古い方」と言えば、それは庄内。
そんなこと田舎の素人おじいさんが勝手に決めようとしても
誰も従わないよ
先に「土師器の古い方」と言った人も、そんな意味で言ってないだろう >>750
>そんな中傷しても無駄だぞ
古墳時代が3世紀半ばからって、もう教科書に載るくらい定説だぞ
山川や東京や清水などの、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の隠蔽」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの教科書なんて、
信頼性が全くなく、
筑紫の前方後円墳の始まりは、那珂八幡などの3世紀後半半ば過ぎであり、
大和の前方後円墳は、九州倭國の「東征毛人五十五國」軍に拠って、
3世紀末の石塚などが始まりだ。 >>850
>難升米に会いに来て、会えずに檄を送って告諭し、
捏造はダメよ
会ってる 半島制圧中の魏が何度も行き来して卑弥呼等と会わない訳無いでしょ、千人自侍、壹與遣倭大夫‥送政等還掖邪狗等21人に送らす。 都行ってるに決まってるよ266年はご招待だよ >>753
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の隠蔽」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しがバレた大和説者は、やけくそだな
九州説の内容も知らないんだろ
滅んだ旧説は惨めなもんだ >>754
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の隠蔽」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説には、
まともな学者がいないから、
理論的な話は不可能だ >>852
>筑紫の前方後円墳の始まりは、那珂八幡などの3世紀後半半ば過ぎであり、
>大和の前方後円墳は、九州倭國の「東征毛人五十五國」軍に拠って、
>3世紀末の石塚などが始まりだ。
そんな世間常識に反すること
田舎の素人おじいさんが理由も言わず
結論だけいくら連呼しても誰も信じないし
九州説って頭おかしいのかなーって思われるだけだよ >>755
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の隠蔽」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しだけではなく、
基盤台隠蔽詐欺までして、
偽情報流してくる連中だからな大和説者らは >>756
「水行二十日、水行十日」という引用をした時点で、
そんなものはなく、
大和説者らの、夢、幻なり >>843
> そういうあまりにも都合の良すぎる出来過ぎた解釈は一切支持しない//
自分を一切支持しないのかね。
箸墓が3世紀中葉だと都合が悪いから、3世紀末なんてホザいてるのはオ〆だろ。
> 戦時中であるという時代背景から考えても、
築造に国力を殺ぐ箸墓は卑弥呼陵ではあり得ないね//
張政がそう云ってるんだから、国力費やして築造した、と考えるしかないだろ。
彼は道程記載は無茶苦茶書いてるが、その使命のためには、
卑弥呼墓については正確に書かねばならなかったんだよ。
むろん、短里なぞ存在せず、径百歩の円墳は、箸墓以外にはありえない。
なお、箸墓築造って、終戦事業でもあったんだよ。ヒントは、殉葬なんだがね。
> 孝安天皇を表に出すしかないじゃないか//
繰り返すが、嵩上げ天皇なぞ、表も裏もなく、実態もない。
因みに、孝安って新唐書には天安って書いてあるが、あれはね、
治世102年なんて、随分オメデタイネ藁、って事なんだよ。
>>850 > その都合とは何かて、知るかいな//
知らんのなら、って、分からんのなら黙っときゃエエだろ。
> 檄を作って送って//
回って踊らんでもええのか?
>>859 > アホォォォォォォォォ賀寿男
だな。 >>854
卑弥呼朝貢の返礼使は卑弥呼に会ってるだろう。
しかし、そのあと来た張政は会ってない。 ところで倭人伝と言われながら中国人か半島渡来者の支配下でただ一大卒に畏れおののいていてチッとも倭人が国をこさえた匂いのしない中で2000年もの間謎とされていた支配者になりながら国中不服の男は、孝霊君で良いのかな?良かったよ実在が認められて >>817
ああ、
「「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の隠蔽」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの幻想の、
大和帝国一元主義史観 誤解の無いよう申し上げておきますが、
「田舎の素人おじいさん」と言っても
この>>852 の竹島どろぼう反日有害人種活動集団員は
九州人ではなくて兵庫の加古川あたりか神戸近くの反日朝鮮人ど素人ですので 前方後円墳って槨があると聞きました。
ということは倭人の墓では無いということですよね? >>831
>>>渡来の呉系楽浪鏡師らは、魏の楽浪帯方攻撃戦争からの流浪避難民であり、
郷に入りては郷に従え、の原則<<<
そういう現実味のない原則など一切支持しない
文明は郷には入れば郷に従わず郷に伝わる
だから今、人類は世界中で文明的な生活をしているのである 槨は、韓伝も「有棺無槨」だが
2世紀頃には洛東江流域に木槨墓が出現する >>861
>知らんのなら、分からんのなら黙っときゃエエだろ。
書いてないこと推測するのは神業であり、この板には神業師がいやというほどいるからな。
でその神業使うと、ウソ、寝言、病院予約しろなどとお褒めの言葉が飛び交うことになる。
ワイは奥ゆかしく逆説的に知るかいなと言ったのはそのためじゃ。
またあとで皆が寝静まったことろに、教えてやるから、待っときんしゃい。 >>824
>彼が見た時は円墳だった
アホちゃう?
円墳で葬儀済ましたあと、なんで前方部を付け足すのよ。
普通は葬儀済ますと完了形となり、あとは被葬者が安らかに眠りにつくように静かにしているの。
その安らかに眠りにつくころに、ドカドカデンデンと工事始めたら、祟って出てくるぞ。
どう責任とるのよ。 圧倒的に九州説が増えてしまった現実に為す術もない畿内説宣伝係あわれ >>877 > 圧倒的に九州説が増えてしまった現実に//
九州々々と鳴き喚いたって、非大和地域に邪馬台国が発生する訳もない。
> 為す術もない畿内説宣伝係あわれ//
そりゃ寡頭生物のオ〆に他ならん。 >>878
大和々々と鳴き喚いたって、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」などの史料事実や史料実態が覆る訳もなく、
非九州地域に卑弥呼や女王國が発生する訳もない。
嘘つき騙しの・・・・詐欺師は、そりゃ寡頭生物のオ〆に他ならん。 >>879
鳴き喚いてオウム返しに及んでも、非大和に邪馬台国が発生する訳ではない。
道程記事に拘ってる様じゃ、死沼で何もわからんのだよ。
白鳥内藤論争においては、道程記事は錯誤ありという事で、
それについては言及はされなかった。それは方向としては間違えではない。
オ〆の鳴き事なぞ、百年前の認識を一歩すら超えるものではない。
オ〆の膿味噌では、何もかもが無理、身の程弁えな。 >>874
> ワイは奥ゆかしく逆説的に知るかいなと言ったのはそのためじゃ//
鳴き喚いてるだけだろアホ。
大体さ、魏使が邪馬台国には行かなかったてのは、
張政の出鱈目な道程記事の理由付けのために、
昔から云われてるハナシでしかないだろ。
聞きかじっただけのハナシをエロそうに書いてるんじゃないよ。
なお、張政が出鱈目書いたのは、行かなかったためでもなければ、
地理不案内だったからでもなく、使命を果たすためのプロパガンダだったんだよ。
> またあとで皆が寝静まったことろに、教えてやるから、待っときんしゃい//
アンタのオツムには、教えるべき内容なぞ皆無だよ。
道程記事が出鱈目なのは、なにも倭に入ってからではない。
タチマチ南しタチマチ東し北岸クヤ韓国7000里、の時点でヘンだろが。
ソウルからプザンまでだって、7000里(3500km)もありはしない。
どうせならさ、張政は使命も受けても出掛けることなく、
ソウルのスパに入り浸って日焼け機でくつろいでた事にしちまえよ。
草ボウボウで前人見えなくて、真っ黒クロスケですワハハハハァ、
で言い訳もたつだろが。
アンタの膿味噌では、何もかもが無理なんだよ、身の程弁えな。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>881
>タチマチ南しタチマチ東し北岸クヤ韓国7000里、の時点でヘンだろが。
少しも変ではない。 @阿波
帯方郡(沙里院市)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
∴1里=70mは、概ね妥当。 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 魏書には奈良の地名が一切出てこないのに何故か畿内説ww
物部系の若狭彦に因んだ若狭の地名すら出てこない。
政治や国力と密接に結びついてた水銀=朱砂の産地すら出てこない
纏向遺跡からごく短期間に九州式土器が出てきてもまだ畿内説w >>883 > ∴1里=70mは、概ね妥当//
距離の1里は定義上、キッチリ500mだよ。
mと同じで、地球円周をもとに決められたからだ。
というより、mって実は、中国の理屈を、まぁ、カンニングしたんだろうさ。
>>888 > 魏書には奈良の地名が一切出てこないのに//
邪馬台は大和だよ、アホ。 >>889
第一次物部東征で熊野勢に敗れた大彦系の子孫は各地を転戦するが、第二次物部東征=邪馬台国畿内乗っ取り、で出雲王家本体と連合を組み、豊国系を上州に追いやり、その後本格的に定住。出雲系の国造家となっていく。
信仰の本体を出雲のクナト王にした関係でクナト国と呼ばれた。
クナト国そのものは第二次物部東征前から存在しており、九州の都万国に都を作ってた物部イニエとウサ家出身の豊玉姫は、魏に朝貢したときにヤマト国を名乗り、国内平定の大義名分としてクナト国を平らげるとした。
故に、魏からは8本の旗をもらう事ができ、ウサハチマンは、八幡神社惣社になった。
だから魏書に出てくる邪馬台国は都万国。
実際の大和の「地理的な場所」は機内であってるけど、魏書に出てくる邪馬台国は都万国だよ。
だから奈良の地名が出てこない 魏の張政は伊都国だかで足止めになってだんだっけ?
卑弥呼には直接逢えませんとしたんだよね。
この国防上の二重体制の利点はのちに評価され、同じ体制が取られたのが太宰府と言われている。
確かに位置的な大和は畿内の事だが、クナト国を攻めると偽装して東征した物部氏は、九州の都万国なのに、自分たちは大和の人間だと嘘をついた。
魏から八幡をもらった時の卑弥呼がそれ。
通訳には朝鮮系のアメノヒボコの子孫であるタジマノモリが選ばれた。
漢字が読める彼は通訳になったからね。
難升米は、ナシメではなく、タジマノモリの当て字だよ。
当座の大陸は日本も同じだけど他国を別称で当て字をし、人命は短く、字名は載せなかった 正始四年(243年)12月 - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
という記述に出ている伊聲耆は、物部イニエ。
彼は大和入りしていないが、後に宗神天皇だかに比定されることになる。
だからそれが問題視され、物部氏の名前は系譜からうまく隠され、記紀によって隠された >>881
なんか、脳みそ沸いてる感いっぱいの文章だな。
病園に行ったらどう? >>893 > 病園に行ったらどう?//
はァ? 私が病院に行ったって、オ〆の膿味噌が治るわけでなかろ。 最も整合性のある卑弥呼の墓は、久留米市御井町の祇園山古墳だな。
大和の箸墓なんて、どこにも整合性がない。
8世紀の書紀編纂者が奈良=ヤマト説の根拠を求めて創出したのが、箸墓=卑弥呼似モモソヒメの墓説。
後漢書の記述から奈良の知識人が大倭=邪馬台→ヤマトとして、奈良の地名変更を行ったのがそもそもの仇。
そして、結局、奈良を邪馬台国にしそこねて、いまだにその幻影に惑っているというわけ。
実際の卑弥呼の墓は、祇園山古墳だよ。 >>892 > 宗神天皇だかに比定されることになる//
そういう誤変換は何とかならんのか。
むろん、トヨたんと同時代人であり、皇室の始祖となったミマキは、
邪馬台国と無関係ではありえない重要人物だ。
> 物部氏の名前は系譜からうまく隠され//
物部王朝ウンヌンなんぞにカブれてるんじゃないよ。
所詮オ〆の妄想なぞ、読み齧りを混ぜ合わせただけのシロモノでしかない。
闕史9代なんぞに惑うなよ。あんなもんは、神武即位をBC660にするための、
充填物にしか過ぎんのだよ。
>>895
ようノータリン、莫迦だけあって無駄に元気なんだな。 >>896
ワイの脳味噌は、いたって健全。
元気いっぱい、はつらつ、爽快。
大和説のおめは、無理。
病園に行って、頭下げとけ。 >>897 > 米市御井町の祇園山古墳だな//
径100歩とされた卑弥呼墓であり得るのは、箸墓だけだ。
なぜなら当時、径100歩に該当する墳墓は箸墓以外にないのであり、
張政も、使命とそれゆえに、態々卑弥呼墓の規模を書いたんだよ。
確定だ。
むろん、短里なんてものは存在せず、距離単位の里は、定義としてはキッチリ500mだ。 >>899 > ワイの脳味噌は、いたって健全。元気いっぱい//
オ〆の膿味噌は、体温調節と代謝制御を司るだけのシロモノでしかない。 しかし、文化庁もそろそろ大和説に飽きがきているから、おめらも気をつけとくのがいいぞ。
そのうち風向きが変わって、気が付いたら文化庁は祇園山押ししてて、予算は御井町にどっさり配分されているということになる。
尾羽うち枯らして、北風が身に染む事態になるまえに、祇園山に鞍替えしとくんだな。 >>897
>最も整合性のある卑弥呼の墓は、久留米市御井町の祇園山古墳だな。
と言う、祇園山古墳も「水銀朱」や「勾玉」「葺き石」「箱式石棺」等から、一発で筑紫忌部のお墓だと分かる。 @阿波 ここの馬鹿無職ども調子のってるな。
一辺シメた方がいいな。 >>900
>径100歩とされた卑弥呼の墓であり得るのは、箸墓だけだ。
そういう思い込みから出発したテーゼが、すべて崩壊消滅してきたのが歴史。
細部の具体的な整合性を詰めていって、合理的な結論に至るのがよい。
この手法でいくと、箸墓は無理。
御井町の祇園山が合理的。
テーゼ信奉者は、病園で頭下げとくのが唯一の治療法。 >>898
>皇室の始祖となったミマキ
「倭大国魂神社」が建立されている美馬郡美馬町重清の境内には「大国魂古墳」数基と、下段に「八幡古墳群」が現存している。
また、神社の東側(重清城台地)からはサヌカイト製の石鏃や、阿波の青石による石斧、石鎗の出土も確認されており、
この地が古くから拓かれていたことがわかる。
「倭大国魂神社」を祀らせた「崇神天皇」は、「初国知(はつくにし)らしし、御真木(みまき)天皇… 」と称えられ、
また、和名は「御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)命」と呼ばれており、「みま(き)」との関わりを示している。
天皇の尊号に「美馬(みま)」を用いたのは、神々の母神が鎮まる美馬地方に天皇が入り込んだため、由緒あるその名を冠したものである。 @阿波 >>903
祇園山の水銀朱は魏皇帝が卑弥呼に贈った鉛丹五十斤の一部かもね。 >>905
>御井町の祇園山が合理的。
不合理だな
20mちょいの小さい墓だし時代も会わない
失格 なんか、畿内説がいろんな説に成りすまして、あちこち出没してるようだ。
祇園山もその一つで、畿内説がなりすまして九州荒らしをしてるんだろうな。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>907
>祇園山の水銀朱は魏皇帝が卑弥呼に贈った鉛丹五十斤の一部かもね。
まず間違いなく、「若杉山辰砂採掘遺跡」産だよ。 わははははは @阿波 >>910
まーだやってらっしゃるのか
大和忌部陵 ← 黒塚古墳(天理市)
東海忌部陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>898
トヨたんと同時代人であり、皇室の始祖となったミマキは、
邪馬台国と無関係ではありえない重要人物だ。
崇神天皇の死後の諡は、ミマキイリヒコイニエだろうに。
都万国は西都原まで広がっていて、ウサ族との居住地とも重なってるでしょ。
大陸の史書にも書かれた彼を消すわけにもいかなかったから、物部の系譜を消したんだよ。 崇神天皇は第二次物部東征開始の230年代に亡くなってるから、神武朝廷よりずっとあと。
初代天皇でも何でもない。 UC期の祇園山よりも早い時期のTB期〜UB期は
博多の那珂八幡を筆頭に今宿、糸島に60m超の前方後円墳が造られる
その周辺の粕谷、宗像、三国丘陵、甘木に40、50m級が造られる >>898
闕史9代なんぞに惑うなよ。あんなもんは、神武即位をBC660にするための、
充填物にしか過ぎんのだよ。
徐福の五十建海岸への到着が紀元前200年ごろだから、明治の時のBC600年代なんてーのは適当に作った年数。
そもそも記紀が作られた720年近辺なんて、邪馬台国の話など、現代から見れば江戸時代程度しか遡らない。
相当な作為が為されてるのは普通にわかるでしょ。 >>915
>博多の那珂八幡を筆頭に今宿、糸島に60m超の前方後円墳が造られる
その那珂八幡古墳もまず間違いなく、「若杉山辰砂採掘遺跡」産だよ。 わははははは @阿波 いくら古墳がどうだこうだ言ったところで、所詮は「忌部一族」のお墓。 ご苦労さん。 @阿波 >>905
卑弥呼であってる。
王権祭祀には、神の宣託を受ける姫巫女が必須だったから。
物部イクメ王=後に垂仁天皇に比定される
の娘、ヤマト姫姫が、伊勢神宮最初の巫女になり、その死後あそこに葬られたとされる。
古墳を作ったのは、東出雲王家の系統、野見宿禰の系譜の土師氏。だから後で箸墓に名前が変わった。
ヤマト百襲姫は二人の卑弥呼が重なった名前で、モモソ姫は大彦の妹の卑弥呼。
第一次物部東征でやられたクニクル王の娘。
記紀では二回の物部東征が一つになり、海幸彦=神武の前に つづき
前に偽装されて創作されたから、物部氏の功績はとにかく消されてきたと言えよう。
しかし、海幸彦系の五十健を祀る弥彦神社、安曇系の穂高神社や乗鞍神社、第一次物部東征の熊野勢の熊野大社の神紋が、菊の御紋である意味をよく考えた方が良い >>916 > 明治の時のBC600年代なんてーのは適当に作った年数//
全然違うよ。神武即位をBC660としたのは意味がある(重要ではないが)。
まぁ、三善清行も那珂通世も見落としてるがね。
> 相当な作為が為されてるのは普通にわかるでしょ//
アンタは普通にさ、あんまり頭がよくないね。 確か、箸墓古墳の近くにホケノ山古墳だっけ?
あれは豊来入姫=トヨの墓らしいね。
腹違いの兄弟であるイクメに追い出され、椿大社近くで暗殺された彼女は最終的に、あそこに葬られたらしい あと、日向神話の舞台は都万国だよね。
西都原もそこにある。
その北側が筑前筑後の国。ウサ八幡と都万国=日向は隣の国だよ。
第二次物部東征に関わった旧家は今でも直系が存命。
朝鮮王族に嫁をやった神床家、東出雲王宮を完了した物部十千根の秋上げ家、そして出雲王家の向家。
それら全ての伝承は一致してるよ >>922 > あれは豊来入姫=トヨの墓らしいね//
トヨたんは記紀に登場してるが、矢鱈と出て来るトヨなんとかってのは、
全てカモフラージュだよ。地味、というか個性のない名称で、
何の事績も無いんだが、重要な位置ではある。要するに、隠されたってこと。
> 確か、箸墓古墳の近くにホケノ山古墳だっけ?//
ふつうさ、卑弥呼トヨたん一族のうち、尊属と考えるのが適切でしょ。
箸墓より前の墳墓なんだしさ。 >>926
ヤマト姫と、トヨは親族でしょ。
イクメの腹違いの兄弟がトヨ。
ヤマト姫はイクメの娘だもん 全然違うよ。神武即位をBC660としたのは意味がある(重要ではないが)。
へーほー、どんな意味があるのかお聞きしたいモノだなw
肝心の中身を言わないとねえww
零戦の号式の根拠ってのは知ってるけど、年数の決め方そのものに意味があるなんて話し、初めて聞いたわw >>927
残念ながら、アナタの如き者が引っ掛かるのを予定して、
記紀編集者は、カモフラージュとして矢鱈とトヨなんとかをばら撒いた。 豊来入姫は、ウサから来たから、ウサ女の命とも呼ばれていた。
故に天ウズメに後に変えられた。
今でも鈴鹿の椿大社の奥には、椿岸神社があり、そこにはウサの月読が祀られ、細女(うずめ)本宮とも呼ばれている。
ホケノ山古墳は放射性炭素測定により245以前に造成開始。邪馬台国の時代と一致した。
出土した鏡は母親である豊玉姫である卑弥呼が魏から貰った時代の花文鏡。
三角縁神獣鏡ではない。 >>931
いくら古墳がどうだこうだ言ったところで、所詮は「忌部一族」のお墓。 ご苦労さん。 @阿波 >>933
>何故阿波で纏めたしww
魏志倭人伝も記紀も「阿波」を書いているから、自然と「阿波」で纏まってしまうんだよ。
稲作でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波 >>928 > へーほー、どんな意味があるのかお聞きしたいモノだなw//
そりゃ、>>921 に対してかね。BC660にどういう意味があるのか。
単なる教えてくんの癖して、随分態度がデカイんだな、自分で考えろ。
とはいえ、ヒントくらいは呉れてやるよ。明日香という地名を作った理由と同じなんだよ。
香という字って、分解して再編すると、日本、になるよな。
つまりどちらも、極めてナショナリズムの強い理由による、という事だ。
重要ではない、ってのもそれゆえだ。 >>934 > 何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波//
ダジャレだけのマイクロナショナリストにしか過ぎないな。
>>906 > 美馬地方に天皇が入り込んだため、由緒あるそ//
御牧なんて地名、場所なんて、日本中に、いや、中国にだっていくらでもあるだろ。 >>888
>鳴き喚いてオウム返しに及んでも、非大和に邪馬台国が発生する訳ではない。
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料実態に拠って、
大和に女王之所都が発生する訳ではない。」 >>889
>邪馬台は大和だよ、アホ。
「邪馬台」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。 >>890
>・・・だから魏書に出てくる邪馬台国は都万国。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。 >>938 >×。//
レス元の通りだノータリンのエテ公。 >>936
>ダジャレだけのマイクロナショナリストにしか過ぎないな。
いくら妄想を並べ立てても、妄想でしかないよ。 わははははは @阿波 >>941 > いくら妄想を並べ立てても、妄想でしかない//
レス元の通りで、それは普通にオ〆だろが。
本当に莫迦なんだなぁ。 >>898
>むろん、トヨたんと同時代人であり、皇室の始祖となったミマキは、
邪馬台国と無関係ではありえない重要人物だ。
「トヨたん」も「邪馬台国」もなかったから、×。 >>943 >×。//
レス元の通りだノータリンのエテ公。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>945
莫迦のだジャレ妄想はツマンナイだけだ。 >>900
>径100歩とされた卑弥呼墓であり得るのは、箸墓だけだ。
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、×。
>なぜなら当時、径100歩に該当する墳墓は箸墓以外にないのであり、
径は、原則として「(方形ではない)不定形の長径」であり、
箸墓の長径は278m位であり、100歩に全くならないから、×。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1600936983/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>908
>>御井町の祇園山が合理的。
>不合理だな 20mちょいの小さい墓だし、
「径百余歩」は、25.5〜30m位であり、祇園山にぴったり。
>時代も会わない
「土師器の古い方=庄内」も合うし、
△も、志登や藤崎西新町の△と同じ頃で、合う。
失格 >>513
>トヨたんと同時代人であり、皇室の始祖となったミマキは、
邪馬台国と無関係ではありえない重要人物だ。
トヨも邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。 >>914
>崇神天皇は第二次物部東征開始の230年代に亡くなってるから、神武朝廷よりずっとあと
天皇も朝廷もまだ存在しなかったから、×。 >>915
>UC期の祇園山
大和説学者は、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しをしているから、
そんな学者の編年は、全く信用できず、×。 >>888
奈良の地名は大和と出てくるよ
魏志倭人伝に九州とくに北部の地名が多く書かれてるのは
そこは通り過ぎる通過点だったからに過ぎない
魏志倭人伝に多くの地名が書かれてしまう九州北部 >>916
>徐福の五十建海岸への到着
ふーん。
>邪馬台国
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。 >>919
>ヤマト百襲姫は二人の卑弥呼が重なった名前で、モモソ姫は大彦の妹の卑弥呼
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、×。 >>922
>確か、箸墓古墳の近くにホケノ山古墳だっけ?
あれは豊来入姫=トヨの墓らしいね。
「トヨ」なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。 >>923
>台与陵こそ箸墓
「台与」なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。 神武の時代はおおよそいつ頃なのか。
神武に近い時期を定点にする方が正確なのは言うまでもない。
考古学的にも文献史的(古事記の没年干支)でも10代崇神が318年没が有力である。
では次代の11代垂仁天皇を319年に即位と仮定してみる。
そこから20人後、30人後の平均在位を割り出し、その年数で10代遡り神武のおおよその時代を特定してみる。
⓵ 垂仁から神功皇后を含め20人後は29代欽明天皇。
在位期間に議論がある様だが571年までの在位として計算してみる。
571から319を引くと252
20人で割ると12.6
垂仁以降20人の平均在位は12.6年
12.6×10は126年 319から126を引くと193
神武即位は193年前後。
A 垂仁から30人後を計算してみる。
重祚が入るのでややこしいが39代弘文天皇で672年まで在位。
672から319を引くと353年
353を30人で割ると11.76年 垂仁以降30人の平均在位は11.76年
11.76を四捨五入した11.8に10をかけたら118 319から118を引くと201
神武即位は201年前後。
崇神没を318年とすれば神武は200年前後に即位となる。
神武は卑弥呼の時代である。
つまり平均在位からみれば、どうあがいても卑弥呼はアマテラスにはならない。 そのあとは豊岡平野において米作りが盛んに行われる
そのあとが越前平野やな
んで次が淡路や大和で米作りが始まった >>926
>>ホケノ山古墳だっけ?//
>ふつうさ、卑弥呼トヨたん一族のうち、尊属と考えるのが適切でしょ。
箸墓より前の墳墓なんだしさ。
トヨなんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
ホケノに卑弥呼を出したのは、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、×。 大和で作ってた米なんかを御奉米ってんで伊勢なんかに進ぜたりしたろ
東国における稲作は伊勢から広まった 日本の灌漑稲作は、「阿波」が発祥地。 根拠:「庄・蔵本遺跡」
日本のイネは、日本固有種。 @阿波 >>927
>ヤマト姫と、トヨは親族でしょ。
イクメの腹違いの兄弟がトヨ。
ヤマト姫はイクメの娘だもん
トヨなんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。 >>929
>残念ながら、アナタの如き者が引っ掛かるのを予定して、
記紀編集者は、カモフラージュとして矢鱈とトヨなんとかをばら撒いた
トヨなんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。 淡路から阿波に伝わり国成型
古代な国名が那賀だからね >>931
>ホケノ山古墳は放射性炭素測定により245以前に造成開始。邪馬台国の時代と一致した。
木棺から採取では、寝かせ期間や、樹皮から採取部の間の年輪数や、
AMS法のプラズマ化の失敗に拠り、50〜100位古い年代が計測されているから、
245年は×。3世紀最末〜4世紀の墓。
>出土した鏡は母親である豊玉姫である卑弥呼が魏から貰った時代の花文鏡。
三角縁神獣鏡ではない。
ホケノの鏡は、(花文鏡ではなく)、画文帯神獣鏡であるから、×。 >>975
>那賀でしょ
那賀の古代米(赤米)かな? @阿波 >>976
>古代な国名が那賀だからね
長(那賀)だよ。 長国=狗奴国 @阿波 >>964
>神武即位は201年前後。
二中歴に拠って、神武即位元年は紀元前91年頃にあるから、×。 >>957
普通、通過地点はごちゃごちゃ記録しない。
たいていは、相当数、端折るけどな。 >>915
糟谷地域最古の前方後円墳は宇美町の光正寺古墳。
3世紀中頃〜後半。 >>952
>不合理だな 20mちょいの小さい墓だし、
その楕円形の基壇裾部は径60mほど。
倭人伝の径100歩(倭人単位の半歩)70mとほほど重なる。
今のところ、卑弥呼の墓の最有力墳墓となっている。 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>978
出てるよ。花文鏡。よく見てみ。
あと、そこで出た神獣鏡には、京初3年の銘のある鏡も大阪から出てる >>984
それは基壇じゃなくて小山の裾
反日有害朝鮮人集団が連呼してる小さな方墳
高句麗、百済支配層の方壇階梯式だから 狗奴国の邪馬台国攻め込みにより、卑弥呼は邪馬台国内の北限の御井あたりまで避難し、
そこで急死たことから、御井の高良山の先端部分にある権現山(赤黒山)に葬られた可能性が極めて高い。
とすると、非常に高齢であった卑弥呼にはこの時期にはすでに寿陵が造られていたはずで、
その寿陵の場所は卑弥呼の祭祀所があった山門がその場所として考えるのが妥当だ。
この寿陵は山門のどこにあったのか。
おそらく瀬高町坂田の権現塚古墳がそれだろう。
権現塚古墳は円墳だが、調査が行われていないために築造時期は判明していない。
卑弥呼の墓とする説もあるようだが、卑弥呼の墓ではなく、卑弥呼の生前に造られていた寿陵の可能性もある。
ここに卑弥呼が葬られなかったのは、当時まだ狗奴国との戦いは終結しきっていなかったと考えられることから、
卑弥呼をその寿陵に葬れば、狗奴国が再攻撃して寿陵を破壊することが恐れられたためではないか。
いずれにしても、卑弥呼の長寿を考えれば、すでに寿陵が造られていた公算は高いと思われる。 ホケノ山古墳の2008年の調査をまとめた邪馬台国の会では、九州説をとってるんだね >>984
>その楕円形の基壇裾部は径60mほど。
祇園山に基壇があるなんて情報は無いんだが、どこから出てきた?
九州説はまた捏造? >>935
だから660年なんつーのは、明治政府の時に適当に決めた年代だろ?
作為の多い記紀を使って逆算したとかのw >>989
>祭祀所があった山門
ない、そんなものは >>990
ホケノ山古墳の2008年の調査をまとめた邪馬台国の会?
調査していない人が、なんでそんなことするの? >>991
宝賀氏の「福岡県教育委員会の報告書概要」によると、その部分は「基部」と書いてあるな。
この基部の最上平坦地に方墳を載せているのだから、その基部は「壇」であり、基部の呼称として基壇はOK。
物を載せるのが、壇なんだよ。 >>992
> だから660年なんつーのは、明治政府の時に適当に決めた年代だろ?//
日本書紀では、各天皇の在位期間がリチギに書かれれる。
全部たしゃ神武即位はBC660になるのであって、
明治政府が適当に決めたわけでなく、書紀編纂者も適当に決めたわけではない。
むろん、決めた訳が、他死して重要ではなくともな。
> 作為の多い記紀を使って逆算したとかのw//
だからさ、神武即位がBC660てのも作為なんだよ、莫迦だな。
>>981 > 二中歴に拠って//
そんなモンありゃせん。
没年干支が月の半分に偏ってるのには、他に理由があるんだよ。
> 神武即位元年は紀元前91年頃にある//
架空キャラだが神武即位は、BC660だ。
架空キャラ即位の絶対年代を枉げる事には、
何の意味もないんだよ、莫迦。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 4日 12時間 29分 7秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。