邪馬台国畿内説 Part642
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1600092866/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>749
そんな中傷しても無駄だぞ
古墳時代が3世紀半ばからって、もう教科書に載るくらい
定説だぞ その教科書が、畿内説の醜い御託の受け売りなのさ。畿内派の教科書も畿内派のマスコミもそんな程度よ。 >>751
やけくそだな九州説
畿内説の内容も知らないんだろ
滅んだ旧説は惨めなもんだ 斜面詐欺までして偽情報流してくる連中だからな九州説は 水行二十日、水行十日の時点でそんなものはない
夢、幻なり 宗女壹與ちゃんだからね、宗、卑弥呼の教団信奉者だから当然司馬炎の天円地方の衝撃の報告受け取るから箸墓に組み立てた動機は充分よ、壹與の教団がこしらえてきていたと言える。さて何処から来た奴等か? 内陸の不彌国から水行二十日、水行十日、そんなものはない
夢、幻、ゴタクなり 国を維持するには祭政一致には限界が有るんだよ、卜占から始り仏教まで持ち込んで誑かす訳だ、秦にも呂不いが居るように維持してくには祈ってたってダメさ。だから宮中祭祀は己れを護る者に祈るんだよ .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>725
「地山削り出し」を方墳部のみのことと誤認識していたようだから、始末がわるい。
地山削り出しとはどういう用語か分かるサイトを挙げただろ。
基壇からして「地山削り出し」であり、そして古賀氏はその地山削り出しが斜面でも行われたとしているのよ。
ということは、祇園山古墳の方墳の下の斜面部分も墳丘だったことになるの。
そして、その楕円形斜面裾の差し渡しが60mあるということ。
方墳部分の下の斜面部分も墳丘だとした宝賀氏は、まぎれもなく正しいことを言ってるわけよ。 >>765
で、張政が卑弥呼の墓を実見していない以上、卑弥呼の墓が径百歩としているのは伝聞であることになり、
その情報を伝えたのは倭人であって、その倭人が伝えた径百歩は倭人の歩の単位である半歩によるものだったという可能性が高くなるわけだ。
そして、半歩による百歩は70m程度であるので、その70mは祇園山古墳の楕円形墳丘底部の差し渡しが60mであることとほぼ重なるということになるのよ。
このようなことからして、径百歩は倭人の半歩を単位とした長さだったとなると、これまで魏の2歩を一歩とする単位による1歩140pとぴったりだとされてきた箸墓古墳の後円部は卑弥呼の墓としては長すぎることになり、
卑弥呼の墓の候補からは脱落することになる。
そうなると、倭人伝の邪馬台国は大和だとする主張はその根拠を失うことになってくる。
まあ、これが歴史の真実であるのだけどな。 もともと丘みたいなとこだったのを削りだして古墳作ったんじゃねえのかな? >>766
>で、張政が卑弥呼の墓を実見していない以上、卑弥呼の墓が径百歩としているのは伝聞であることになり・・、
という仮定条件付きのへ理屈であり、想像の範囲にとどまる、、。 詐術子ごくろうさーん! >>769
ごくろうさーんのねぎらいは正当なものだが、実見してなければ、誰かから聞いたわけで、それを伝聞というの。
張政らを除くと、卑弥呼の墓を実見できる者は倭人ということになるな。
実見した倭人が張政に伝えたとするより他にはないよ。 >>727
>斜面が整形されたものであるとか、だれひとり言ってない
宝賀氏の「卑弥呼の冢補論」に次のように書かれている。
「県教育委員会の報告の概要」の項目の冒頭あたりに、
祇園山古墳は「低台地(赤黒山)の上に位置しており、その高さ(赤黒山)の約1/4を地山から方形台状に削り出しており(中略)…これを基部にして、上部に盛り土がなされているが…」
県教育委員会の報告に、赤黒山が地山削り出しにより方形台状に整形されていると、はっきり書いているな。
おめ〜らの議論は事実無視だから、まあトンデモ主張ということになるよ。 >>772
そのような弥生墳墓は、総社市か岡山市あたりにしかない。
出雲に近い山間では、前方後円墳のルーツになるような弥生墓はないよ。 >>770
見た、或は聞いたものが、切った張ったの筋金入り張政だけであったとは限らない。
後漢の時代には楽浪郡の事務方役人、206年ごろからは帯方郡の事務方役人がやってきて、幾度となく倭国調査を行い、情勢報告書を上げていたのだろう。
卑弥呼の時代も臺与の時代も同様で、調査報告は文字に長けた事務屋の仕事さ。 楽浪郡や帯方郡は、旅行代理店ではない。
韓国倭国支配のための秘密調査・工作機関のようなものだった。
そして張政も物見遊山にやってきたわけではない。狗奴国などに対する軍事指導の軍師だった
のだよ。 投馬国は但馬はない
但馬から水行十日したら北陸に行ってしまうだろ 米の収穫高で見れば
築紫→但馬→越前て移ってるわけ
そのあと淡路や大和が増えてくる >>765
二万大塚古墳発掘調査
http://www.okayama-u.ac.jp/user/arch/nima/zenpouw.html
「前方部の構築過程については、まず【地山削り出し】で台上に古墳の基壇を整形した後」
=古墳の前方部の基壇部分の整形
「前方部もある程度のレベルまで【地山削り出し】で整形し、それより上部にのみ盛土を施したと考えいます。」
=古墳の前方部のある程度のレベルまでの部分の整形
「地山削り出し」という表現だけで基壇部分から墳頂までの全体を整形するような意味は無い 築紫が米の収穫量日本一だったのがちょうど1世紀ころ >>773
「その高さの約1/4を地山から方形台状に削り出しており、
この削出しの範囲は、西辺を除けば、いずれも葺石最下段線よりも広く、
底辺長は東西約二五M、南北約二四Mとなる。
これを基部にして、上部に盛り土がなされるが、基部の地山整形作業は裾部外周にも及び、
辺により異なるものの、三〜十三Mの幅で平坦面を設けている。」
だから削り出した基部の地山整形の底辺は(東西約二五M、南北約二四M)プラス(三〜十三Mの幅) 3世紀の邪馬台国の存在すら知らなかったド田舎大和民あわれ >>583 > 書紀の記述は、倭人伝の記述をあてはめただけ//
へぇ、書紀は、魏志の卑弥呼墓径100歩を、箸墓に当てはめたのかね。
だったらさ、書紀は箸墓が卑弥呼墓だと認識してた事になるんだがね。
序に云えば、1歩は1.4mで、距離の1里は500m、短里なんて妄想になっちまうぞ。
> あの大和の墓を短期間でつくるのは無理//
昼夜を分かたず短期間で、後円部を作っちまった、としか云い様が無いね。
むろん、突貫工事による粗製品だったから、前方部を付けたり、形を整えたりで、
完成までには相当な築造期間であっても構わんよ。
記紀と魏志の記載は完全に一致してるね。見落とすなよ。
まぁ、見落としても仕方がないが、支離滅裂な口答えには及ばない。
アンタのオツムではさ、何もかもが無理なんだよ。 >>584
> 檄を送って難升米へも台与へも告諭したんだから、直接会ってない。
ずっと迎賓所にいたのよ//
だからさ、物見遊山じゃないんだよ。
告諭するのが使命なら、万難排して会いに行く。
アンタの思い付きは、プータローのそれでしかないね。
>>580 > 史料事実や史料実態に拠って//
オ〆の膿味噌なぞには、そういう物に拠る機能はない。
莫迦は身の程を弁えな。 あ〜山台を与えるな😃
あとはその山を削りだして作れば古墳完成だ😑 山ってかちょっとした丘陵だな
それが二つ連なって削り出せばちょうど前方後円墳みたいな形になる😃
でかさからいってそんなもんやろ 日本は山谷多いゆえ今の農地になってるところは山なんか削って均したもんばかりなんやね😃
じゃねえと稲作は無理なんだね まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>784
>だから削り出した基部の地山整形の底辺は(東西約二五M、南北約二四M)プラス(三〜十三Mの幅)
つまり、今ある斜面は整形してない
そして「プラス(三〜十三Mの幅)」部分は
平面だから冢じゃない
冢は「東西約二五M、南北約二四M」だ >>792
まーだやってらっしゃるのか
大和忌部陵 ← 黒塚古墳(天理市)
東海忌部陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 【佐賀】「よみがえる邪馬台国」展、「豊前の国」に焦点 「九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1600837970/ 奈良県天理市の黒塚古墳は、「三角縁神獣鏡」や「水銀朱」などの副葬品から、倭国(阿波)の「忌部はん」のお墓だと一発で分かる。 @阿波
静岡県沼津市の高尾山古墳は、「蛇紋岩製勾玉」や「水銀朱」などの副葬品から、倭国(阿波)の「忌部はん」のお墓だと一発で分かる。 @阿波 >>583 > 書紀は大和が邪馬台国だと刷り込みたくて、必死だよ//
全然違うね。書紀が必死なのはね、
皇室とさ、卑弥呼・トヨたんの家系が無関係と刷り込む事なんだよ。
崇神(ミマキイリヒコ)が皇室の祖であることは、まぁ、疑いは無かろう。
(手白香皇女は架空だが、敏達以降は、橘仲皇女・石姫を経て女系で崇神に繋がる)
卑弥呼・トヨたん、及び266年女王を神功にしちまう事で、
邪馬台王朝は皇室と同じと云い貼ってるんだよ、記紀はね。
皇室の起源は邪馬台王朝に遡ると認めたくなかった、という事だ。
で、本来の卑弥呼であるモモちゃんについては、その存在と墳墓は書き残したが、
モモちゃんは崇神に仕えた巫女、という事にしちまった。
事実は逆で、崇神が卑弥呼・トヨたんに仕えていた、という事だよ。
何かを刷り込みたいならば、マルっきりの嘘を書くのではなく、
ホントに嘘を混ぜておく、ってのは当たり前でしょ。
簡単に云えば、簒奪者の誹りは受けたくなかった、という事だ。 >>786
奈良の知識人たちは、後漢書の「大倭王居邪馬臺国」を引いて
奈良を邪馬台国とみなしヤマトと呼称していたので、邪馬台国の卑弥呼をぜひ奈良の地に引っ張り込みたかったの。
それで、その奈良の知識人の伝統となっていた卑弥呼引っ張り込み欲求が本格化したのが書紀の編纂。
ヤマトトトヒモモソヒメという卑弥呼似の霊能者を創出して箸墓の被葬者にし、また神功皇后という卑弥呼似の女傑を創出して、3世紀の人物として設定した。
いずれも卑弥呼奈良在住者設定欲求を強烈に表したもの。
奈良の知識人が倭人伝の卑弥呼を奈良に引っ張り込むのに熱を上げたのは明らか。
しかし、それはあくまで欲求であって、卑弥呼が奈良にいなかったのは歴史事実なので、卑弥呼似女性を設定するだけに終わった。
箸墓が卑弥呼の墓なわけないだろ。
箸墓は崇神の墓だ。 >>787
いや、卑弥呼や難升米、台与に会いたくても会えない状況だったということなのよ。
ただ、それだけ。
で、檄作って送ったんじゃん。 >>782
祇園山古墳の場合、基壇最上部のテラスまでが整形されていて、
その上は方墳なんだから、この方墳は人工構築物であり、整形という言葉は当たらない。 >>801
祇園山古墳は基壇最上部のテラスまでではなくて
テラスから上側が地山削り出し >>799
> ヤマトトトヒモモソヒメという卑弥呼似の霊能者を創出して箸墓の被葬者にし//
箸墓に眠る卑弥呼をモモちゃんという名前にして、崇神に仕える巫女にしたんだよ。
> 箸墓が卑弥呼の墓なわけないだろ。箸墓は崇神の墓だ//
始祖の墓を他人の墓にする理由がない。
径100歩の墓なんぞ、他にいくらでもあるだろ、書紀の編纂時点ではさ。
卑弥呼よばわりされてる、神功の墓にしとけばエエだろうさ。
てか、五社神古墳(全長275m)って箸墓(同280m)と同規模だから、
神功墓ってことにしたのかもな、日本書紀は。
張政・邪馬台国の時点では、径100歩の墓は、卑弥呼墓である箸墓しかなかったので、
張政は卑弥呼墓を特定すべきID情報として、径100歩と記載し、
箸墓は卑弥呼墓であるのだから、事実として径100歩だったという事だ。
邪馬台国が大和でなかったのならば、あんなん田舎の女酋ですと、
本居宣長よろしく云い切りゃいいだけのハナシだろ。 >>800 > 会いたくても会えない状況だったということなのよ//
で、オ〆は死沼で無職童帝かね。
> で、檄作って送ったんじゃん//
で、ポストに投げ込んだラブレターはゴミ箱に捨てられてそれっきりかね。
チャンとしたヒトはね、きちんと会いに行って思いを伝えるもんなんだよ。
グダグダと無意味な口答えをするには及ばんのだよ、お莫迦様。 >>799 > いずれも卑弥呼奈良在住者設定欲求を強烈に表したもの//
あはは、それって非大和者によくあるハナシだね。
おらが村さ邪馬台国、てやつだ。
アンタの発想って、そんな域のシロモノでしかないね。
日本中に邪馬台国が溢れてるのは、アンタの在住者設定欲求の強烈な表象でしかないね。
非大和だと云い貼りたいならさ、少しは読ませるフィクションでも書くことだ。 箸墓が3C末に築造された大王陵で被葬者が百襲姫という女性であるなら、
卑弥呼(249年頃に崩御)→国中不服の男王→台与(266年に晋に朝貢)→男王
という流れなのだから、必然的に箸墓は台与陵だとしか考えられなくなる
被葬者の名前が違うのは台与が幼名か諱で百襲姫が諡号だからだろう
台与が百襲姫であるなら、その前の国中不服の男王は必然的に百襲姫の父親である
孝霊天皇という事になる
その前の大王が卑弥呼であるはずなのだが、系図では孝安天皇という事になっている
これはおかしい
しかも孝安天皇には兄はいるが姉も妹もいない
しかし兄の天足彦国押人命の配偶者は義理の姉という事になる
その人物とは宇那比姫である
倭人伝には卑弥呼には夫はいない事になっているが、早くに夫に先立たれて、
義理の弟である孝安天皇が宇那比姫である卑弥呼の補佐をしていたと考えると
倭人伝と辻褄があってくるのである
中国から卑しいと呼ばれた卑弥呼の存在を隠すために記紀では宇那比姫の存在を
抹消し、その補佐であった義理の弟である大倭帯日子国押人命を架空の大王である
孝安天皇に仕立て上げる事で卑弥呼の空白を補完したのである >>805
自分の都合ばかり言っては、ダメ。
この世の中には、いろんな事情があるもんなのよ。
そうした都合があって、張政は迎賓所を出て倭国の重鎮らには会えなかったということ。 >>624
>魏で見つかった1尺24cmの尺定規は短里の根拠にはならないかも知れないけれど
魏で使われていた尺度は1歩=6尺の1里=300歩なので
24cm×6×300=430mと普通の里が存在した根拠になる
魏朝は皇帝も役人も郡役人も短里を使ったが、魏の一般人は、長里を使った人もおれば、短里を使った人もいた。
>・・・一方九州説の言う1里75mの短里は
現実に見つかっている尺定規が根拠にならないのなら現実には存在してない可能性が
資料事実によって示される
魏朝では、尺寸系は触らず、里歩系の長さを周髀算経の一寸千里の法の長さ単位を使った。 >>650
>まあ、その構図は3世紀中ほど以降の話。
庄内式土器が博多で出るのは、3世紀半ば頃からだし。
そして、3世紀後半になると、大和の古墳には鉄器がどっさり副葬されるようになる。
何が起こったのか明らか。
鉄器、鉄素材などの貴重財の一括管理が大和の手で行われるようになったから。
つまり、博多にあった鉄器などの貴重財の輸入販売権が、3世紀半ば頃に大和に移ったということ。
その輸入販売権の大和への移動には、武力が介在したことは間違いないだろう。
違うな。
九州倭國の「東征毛人五十五國」があった事を、はっきり認めようね。 >>657
>熊本には鉄素材が博多から入っている。
熊本はこの鉄素材を切り取って主に鏃に加工していた。
また、八女あたりでも鉄素材を切り取って加工していたようだ。
弥生後期には、筑後南部は鉄素材などの貴重財の流通圏内にあった。
ふーん。 >>806
奈良を邪馬台国に当てる限り、卑弥呼の所在を確かにしたくなるのよ。
今の箸墓卑弥呼の墓説も、8世紀の書紀でその3世紀あたりに卑弥呼似女性を二人も引っ張り込んだのも、同じ動機。
卑弥呼のいない邪馬台国なんて、タコ入れないタコ焼きみたいに偽物らしいからね。
で、大和説者はみんな必死に箸墓を卑弥呼の墓にしたがるのよ。
そして、なにもかも無理が生じて来るわけ。 >>659
>鉄素材は朝鮮半島から入るから関東でも出る
当然、九州倭國の「東征毛人五十五國」の征服軍が関東にも達して、
鉄や鉄器を齎した。 814
その理屈で行けば侵略者以外のなにもんでもないわけなんだが >>803
しかし、江戸時代の学者たちは、前方後円墳をヒョウタン形と認識していたそうだ。
墳形をみれば、だれでもそんなふうに思うよな。
しかるに、卑弥呼の墓を“実見”したらしい張政は、卑弥呼の墓のサイズを円墳に用いる径の字を使って表しているのだから、箸墓を本当に見たのかよと疑ってしまうのよ。
実見したのなら、「円墳を方墳につなぐ」とかなんとか書きそうなものだけどね。
そもそもが、卑弥呼の話を奈良に持ってくるからチグハグな話になってしまうのよ。 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>765
>「地山削り出し」を方墳部のみのことと誤認識していたようだから、始末がわるい。
>地山削り出しとはどういう用語か分かるサイトを挙げただろ。
>基壇からして「地山削り出し」であり、そして古賀氏はその地山削り出しが斜面でも行われたとしているのよ。
>ということは、祇園山古墳の方墳の下の斜面部分も墳丘だったことになるの。
この人マジで日本語読めないんだな
削り出したのは方墳の下部だけ
テラスの平面は削っただけ
テラスより下の、祇園山古墳の方墳の下の斜面部分は元の山のまま
削ってないから
墳丘なのは葺石のある方墳だけ >>819
>しかし、江戸時代の学者たちは、前方後円墳をヒョウタン形と認識していたそうだ。
・・・
>実見したのなら、「円墳を方墳につなぐ」とかなんとか書きそうなものだけどね。
ハズレ
「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」(河村秀根『書紀集解』) >>663
>・・・ついでに正北抵新羅は南は越州接で出鱈目。
九州倭國から南へ、島伝いに進めば、越州に着き、
倭國は越州とは(敵対的ではなく)友好的だ、という意味だ。 >>819 > しかし、江戸時代の学者たちは//
本居宣長と聞いてそれかね。条件反射でしかないね。
> 卑弥呼の話を奈良に持ってくるからチグハグな話になってしまうのよ//
チグハグなのはオ〆だろ、アホ。
箸墓にまつわるエピソードが日中史料で一致してるんだから、
邪馬台国は大和なんだよ。
> 卑弥呼の墓のサイズを円墳に用いる径の字を使って表しているのだから、
箸墓を本当に見たのかよと疑ってしまうのよ//
だったら彼が見た時は円墳だった、でエエだろが。
>>484 で書いた通りだ。振り出しに戻る、だよアホ。
対してオツムも良くない癖して、思い付きでダラダラ書いてるんじゃない。
>>813
> 3世紀あたりに卑弥呼似女性を二人も引っ張り込んだのも、同じ動機//
違うね。卑弥呼を卑弥呼ではないと云うためにモモちゃんを引っ張り込み、
卑弥呼でない者を卑弥呼だと云い貼るために神功を引っ張り込んだんだよ。
> なにもかも無理が生じて来るわけ//
それはアンタの膿味噌の特性でしかないだろ。 >>808 > いろんな事情があるもんなのよ。そうした都合があって//
その事情とか都合って何かね、アフォ。
> 自分の都合ばかり言っては、ダメ//
そりゃオ〆にしか過ぎないぞ、ノータリン
>>807 > 箸墓が3C末に築造された大王陵で//
卑弥呼墓である箸墓は、後円部に関しては3世紀中葉と考えるしかないよ。
> 孝安天皇に仕立て上げる事で//
何の事績もないモンなぞ考慮する必要はない。
神武即位をBC660にするための、嵩上げでしかない。 >>690
>九州の倭国は、3世紀中頃で実質的に終わってるんだけど。
九州の倭国は、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」の記録に拠って、
唐代まで北部九州に存在した、
という事で、実質的に終わってるんだけど。 >>691
>「山の斜面が成形されている」とかは明かに捏造
いや、山の尾根地域に基盤台のような地形が存在する事は殆どはなく、
「成形」しなければ、存在し得ない。 >>692
まず畿内や邪馬台国や大和という括りからしておかしい 827
もともと凸凹していたとこばかりで平地らしい平地なんてほとんどないよ
平地に見えるところはほとんど均したとこばかり
山間地だって山を削って土砂運んで平地に見えるよ〜なとこみな均したんだぞ >>694
>いや、来てないな そもそも楽浪漢人の定着遺構がないだろ
来てたら3Cの段階で畿内に竈のある土壁の住居遺構が登場してくるはずだし、
漢服や木沓や革靴も伝わるだろうし、漢字の文章を記した木簡や竹簡や金石文も
出土するはずだろ
渡来の呉系楽浪鏡師らは、魏の楽浪帯方攻撃戦争からの流浪避難民であり、
郷に入りては郷に従え、の原則。
>むしろ帯方郡に直接オーダーメイドさせて搬入していただけだろう
そんな事をして、魏軍にバレれば、魏軍が列島や大和までも討伐して来るよ。 近年だって土地改良などによりみな平地になっただけやろ😃
家などを作る場合にしろ山を削ったりして場所を作ったり
そゆのずっとやってきたの >>696
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
自分が言い張ってる史料事実や史料実態の曲解や否定を、
立証するすべを全く持たないのが大和説
いや、立証することすら拒否するのが大和説
常識じゃないんだー、とか叫んじゃう馬鹿 >>697
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らは、
まともな日本人と違って、
自己絶対正義、という非常識の人種だから >>833
鳴きながらオウム返しに及んでも、大和以外に邪馬台国は発生せず、
祇園山古墳は、邪馬台国とは何の関係もない荒廃墳墓でしかない。 >>699
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らは、
自分の主張を立証する意思がないから
大和説は滅んだ >>836
鳴きながらオウム返しに及んでも、大和以外に邪馬台国は発生しないぞ莫迦。
何の考えもない癖して涌くには及ばんのだよ、寡頭生物が。 >>701
>なら、祇園山古墳の甕棺がUC期だと言ってる人を久住氏のほかに挙げてみてよ。
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らのアホ論文など、
関心も全くなく、
読む気も、探す気も、全く起きないからな。 >>705
>柳田が、既に庄内期の特徴が失われていると主張した つまり布留以降
他の小墳墓の土器が柏田U以降なのは皆が言ってる つまり布留1
「土師器の古い方」と言えば、それは庄内。 >>706
>宝賀はど素人だからどうでもいい話
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの大和説学者らは、、
全員が、史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの・・・・詐欺師であるから、
どうでもよい話。 >>721
>この古賀氏の認識は間違いで、棺は整形前からあったのではなく、
山を整形し、被葬者が葬られたあとにその斜面とテラスに棺が埋められた
と宝賀氏が主張しているわけ。
なので、宝賀氏は殉葬があったと言う説なのよ。
ワイも、その宝賀氏に賛成よ。
ふーん。 >>840
おい宝賀、どうでもいい詐欺師の莫迦はオ〆だろが。 >>825
>>>卑弥呼墓である箸墓は、後円部に関しては3世紀中葉と考えるしかないよ<<<
そういうあまりにも都合の良すぎる出来過ぎた解釈は一切支持しない
戦時中であるという時代背景から考えても、築造に国力を殺ぐ箸墓は卑弥呼陵ではあり得ないね
>>>何の事績もないモンなぞ考慮する必要はない<<<
半分は補佐の孝安天皇が国政を動かしていたのだから、卑弥呼が出せないなら孝安天皇を
表に出すしかないじゃないか >>807 > 台与(266年に晋に朝貢)//
266年女王がトヨたんとは限らないと思うのだが。
日本書紀では、卑弥呼もトヨたんも神功皇后呼ばわされているのだから、
同じく神功皇后呼ばわされている266年女王もまた、3人目の女王であっても構わない。
卑弥呼はモモちゃんとして登場する。
トヨたんもまた、登場している。ただし、何の事績も記載されてないけどね。
ヤタラと登場する、トヨ何とかという女性は、全てカモフラージュで、
実際のトヨたんは、トヨを含まない極めて没個性な名前になってるけどね。
266年女王についても、記紀に心当たりがある。 >>826
この唐会要倭国伝の文中には「耶古、波耶、多尼」が倭に服属しているという文があり、
日本側の史料では天武11年には種子島、屋久島、奄美に対して大和の朝廷が禄を賜ったとの記事があり、
また文武3年には種子島、屋久島、奄美の人が大和の朝廷に入貢したとする記事がみられる。
なので、唐会要がいう倭とは大和朝廷のことであり、「正北抵新羅(正北は新羅にあたる)」は古い中国の史書にみえる北部九州にあった倭国の地理観をそっくり踏襲したものにすぎない。
この中国側の大和朝廷に関する地理的な誤認はずっとあとまで続くものであり、その誤認の最初の史書は范曄の後漢書である。 >>726
>問題なのは、古賀氏は斜面が整形して整えられていると認識していたことなの。
専門家が、斜面が整形されたものであるか自然のものであるか、間違うわけないだろ。
ダメだ。
古賀は、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の隠蔽」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説者側の学者であり、
そんな人間が正確な判断をする訳がなく、
×男だ。 >>731
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」などのに、
史料実態や史料事実に負けた大和説者が、
また呟き荒らしを始めた >>747
>前方後円墳のみを古墳とするなら
ちょうど出雲と吉備の間あたりで3世紀に前方後円墳が現れ始めてんだね
これが前方後円墳の始まり そこから広がった
これも×。
前方後円墳は、筑紫での天円地方の思想が入った後の、
那珂八幡などで始まり、
それから、東征毛人諸国や南九州や半島などにも広がった。 >>825
その都合とは何かて、知るかいな。
難升米に会いに来て、会えずに檄を送って告諭し、
新たに女王になった台与にも会えずに檄を作って送って告諭してるんだからよ、
なんか邪馬台国側に都合があったのだろうとしか言いようがないわ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています