邪馬台国畿内説 Part644
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1600936983/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ・女王国以北
・女王国の東の海を渡ると又倭種の国
・女王国の南には女王に属さない狗奴国
魏志倭人伝に置いて女王国の西側については一切触れられていない
これは女王国が倭の最西端である事を意味している 崇神天皇とか、なに時代錯誤してんだよ
卑弥呼は孝安天皇の時代の人だよ
卑弥呼を助けて国を治めていた弟が孝安天皇なんだよ 関東にはヤマトとはまったく別の王権うんたらって話もでてくるだろ
トヨキの子孫らの王権やぞ😃
実際に東国に勢力を伸ばしたのはトヨキのひ孫のミモロワケかららし〜がな
その子供が荒田別でその子供に竹葉瀬、田道兄弟がおる >>929
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定や、
范暢がやったような、ありもしない固有名詞の「東冶」で、
陳寿の説明文を捏造するような大和説はダメだな
>会稽の東は海までずっと会稽郡で、
いや、陳寿は「会稽郡」なんて書いておらず、「会稽」と書いた。
それは、「夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽であり、
「会稽郡」の事にはならない。
>他の郡治は無い
258年頃の分郡で、会稽の東方は、
江蘇省から臨海郡付近までずっと揚州の管轄下になった、という事情があったから、
所謂会稽の東方の「治」の地域、という表現になった。
>>「会稽東治之東」は、会稽の東方の揚州管轄下地域の最先端の、
揚子江河口域の上海付近の東方、という意味になり、
「ほぼ九州島の最南端の佐多岬付近だ」というに事になる。
>会稽の東に「揚子江河口域の上海付近」だなんて「北→東」の地理歪曲
歪曲にならない。
会稽の東方の揚州の管轄下の「江蘇省〜臨海州」のほぼ中央部付近であり、
その地域の最も東端の海岸付近でもあり、
会稽郡治付近から見ても「東北東〜東北」方向付近だ。 >>947
すぐ下でないと道里記載できないし
すごく遠いならわざわざ書かない >>953
記紀の時系列でモノを語るのならそもそもが機内説、九州説の議論に参加する意味はない 玉は白玉か青玉、桃。×おじさんそんな所に七万戸居てどうすんのよ >>958
北部九州の不彌國が会稽の東の九州南端あたりにあるという地理観は完全に間違っているので
行程を実際の地理には当てはめられない まだやってらっしゃるのか
卑弥呼の陵墓 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼の陵墓 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 神宮皇后が自分の子供が死んだから関東に存在する別王権の子供をすり替えて応神天皇に据えた説書いたろ😃
荒田別は大和では将軍的存在として神功皇后らに関わっとるで
替え玉説が本当なら
崇神一豊城一八綱田一彦挟島一御諸別一大荒田一応神天皇ってなるんだよ >>941
有明海を南に舟で行くんだから、投馬はサツマ。
投と殺の誤字。
今の南さつま市阿多の地がそれ。 >>963
>崇神一豊城一八綱田一彦挟島一御諸別一大荒田一応神天皇ってなるんだよ
云い貼るだけじゃどうしようのないだろ。オ〆は随分とアタマ割るそうだな。 わははははは @阿波 >>934
>>佐多岬付近だというに事になる
>つまり書いた本人の陳寿の地理観では北部九州をはるかに通り過ぎている
いや、
陳寿は(邪馬壹國女王之所都の位置推定ではなく)、
女王國の大体の位置推定であったのであり、
女王國には南九州地域の投馬國も含まれますから、
南九州の佐多岬付近が中心になる説明をした事になるんなら、
「会稽東治之東」という位置推定をした陳寿が間違っていた事にはならない。 >>957
>258年頃の分郡で、会稽の東方は、
>江蘇省から臨海郡付近までずっと揚州の管轄下になった、という事情があったから、
真っ赤なウソ
ずっと前から南は浙江省まで揚州の管轄下
会稽の東にあるのは海だけ >>964
2万戸の奴国からさらに東に陸行した後に水行するから
有明海ではないね >>954
関東は東国と並んで狗奴国。大彦系の子孫の国。
大彦は、出雲系の血が濃くなった磯城王朝「後期神武系」。中曽根氏や阿部氏の元になった。
物部嫌いで銅鐸祭祀にこだわった。
だから、関東や東国では前方後円墳や、銅鐸が出る。
但し、鏡は少ないよね。
偽装ヤマト国、魏書の邪馬台国は、蝦夷である狗奴国と戦うから朝貢したといい、今でいう天皇の錦の御旗に相当する、8本の旗と、鏡を貰った。
この鏡は平縁の神獣鏡が含まれていた。
後漢の鏡が景初年より前は殆ど北九州出土なのに、次第に瀬戸内海、近畿に集中するようになる。
その時代にっても東国と関東では鏡が殆どでない。出雲神、クナト王を信仰してた大彦系の国らしい。
男体山などに出た超レアな鉄鐸は、時代が少し古く、タテミナカタが諏訪の祭祀を乗っ取った頃のもので、埋められてない実物は、諏訪の神長官の守矢家系統。信濃国二宮の小野神社にも同じものがある。
諏訪から追い出されたとも言われる千鹿頭神が上州に到達し、福島、茨城あたりに落ち着くが、つつこわけ神社のあたりに落ちたいたとされる。
この神社はかつての一宮で、千鹿頭神に近い、ちかずの地名が今でも残るが、南部のそれは、祭神が豊来入彦と習合している。
その子孫が神功皇后に密かに呼ばれた竹葉瀬の君 >>966
>女王國には南九州地域の投馬國も含まれますから、
それが追い詰められたあんたの言い訳だろ
史料的根拠はゼロだ 関東には昔から大和とは別の王権の子孫らが潜んでいるみたいな伝承もあるだろ
御諸別王から始まる古代王朝やよ😃
半ば独立的な存在として君臨していたらし〜からな >>957
>歪曲にならない。
>会稽の東方の揚州の管轄下の「江蘇省〜臨海州」のほぼ中央部付近であり、
会稽の東に「揚子江河口域の上海付近」だなんて存在しない
本当は北なんだから
「北→東」の地理歪曲 だ
九州説は嘘つきで、いつも人を騙そうとするんだな >>966
投馬國は邪馬壹(臺)國よりも前に書いてあるから北側に位置する
計其道里が投馬國の最南端の位置になってしまったら、
書いた本人の地理観は間違っている >>961
いや、実際の地理にぴったんこ。
末盧→多久→江北→嘉瀬川河口→薩摩→屋久島→沖縄
このルートは、弥生時代に博多からゴホウラ貝を仕入れに行った行程とまったく同じ。
魏の使節団が倭国で仕入れた情報だろう。
もちろん、魏の使節団は幻の仙人郷・扶桑への行程を知るのが目的だった。
沖縄あたりにあるとする邪馬台国は、そうした古代中国人の強固な固定観念が作り出したもの。 九州説の歴史歪曲は、ちゃんと学校に行った人間なら簡単に気付く程度の嘘だから
九州説が学問に戻れる日はもう来ない >>926
ダメダメ。
佐多岬では、「陸行一か月」で着くところが説明できないよ。 >>975
行程がゴホウラ貝仕入れルートなら国の比定には使えない >>977
邪馬台国の南に狗奴国がなけりゃならんのだし、狗奴国を吉野だとしても、吉野にそんだけの国はないし。
どうすんの、大和説は。
致命的だよね。 古代安倍氏ってのは大彦の子供の武渟川を祖先としてるじゃん
大彦の娘の方の子孫だよ御諸別 駿河あたりに見える安倍氏やろ
あの辺が拠点だったんか?😃 >>980
だから、その陸行一か月の邪馬台国は幻の邪馬台国だちゅうの。
そして、古代の中国人は屋久島〜沖縄あたりに大きな陸地があると信じ込んでいたということなのよ。
その幻の地理観を90度北へ回して、その陸地が大和だと胸を張っているのが古代史音痴の大和説なんだけど。
勝手に90度回すなよな。 >>980
>日本には陸行1ヶ月出来る土地が無い
有るよ。 @阿波 >>936
>つまり「南至投馬國 水行二十日」と、
「南至邪馬壹(臺)國 女王之所都 水行十日陸行一月」で
不彌國から九州島を通過するくらい南下しているという行程
いや、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている説明であり、
そして、「南至投馬國 水行二十日」は、途中移動の里数があった事の説明文言がないから、
不彌國からの側副傍線国の位置説明であり、
不彌國の次になる「南至邪馬壹國」は、
萬二千余里がほぼ終わっているし、途中移動の里数文言もないから、
不彌國のすぐ南に邪馬壹國があった事になり、
また「女王之所都」の後の「水行十日陸行一月」のいう所要日数説明は、
萬二千余里は当然、その直前にある「女王之所都」という目的地に対する日数説明であるから、
出発地の「郡」からの所要日数説明であった、という事になる。
「 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>981
後漢書では「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」となっている
倭人特有の風習である卜骨は九州では北部九州の2か所で東の関東にまで濃厚に広がっているので
陳寿の南方に拡がる倭地の地理観が間違っている >>886 魏の1里は414m。 訂正する。
で、魏の1里は414mだと、伊勢湾から渡海千里はどこなんだい? 房総半島を越えた太平洋上になるんじゃないの? わははははは @阿波 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601250629/1
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注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>941
>投馬国(ダウマコク)はやっぱ岡山の玉だろうな
「南≠東」などに拠って、×ね。 >>969
実際の奴国から東へ百余里で不彌に着く。
この実際の不彌から「南へ水行二十日」の記述に合う地理は、しかしどこにもない。
合理的な解釈は、実際の邪馬台国へ行く道筋が末盧→伊都→奴→不彌の方向だったということ。
そして、その道筋の拠点名を幻の邪馬台国へ行く道筋に上乗せしたというだけの話。
ではなぜ、幻の邪馬台国への行程を書き、実際の邪馬台国への道筋の地名の一部は伏せたのかというと、
魏本国では、実際の邪馬台国の所在地よりも、会稽東冶の沖にある幻の邪馬台国の位置の方が重要だったということに尽きる。
そこが神仙郷であり、邪馬台国はその理想の神仙郷にあると信じる強固な固定観念のほうが大事だったということだよ。
その古代中国人の固定観念である幻の邪馬台国の地理観を、現代人が間違っている、ウソだと言っても始まらんということだな。 >>989
後漢書の著者ハンヨウは、倭国王讃の使節団と面会できる立場にいた。
政治家であるとともに歴史家でもあったハンヨウは、倭国や邪馬台国の位置をその使節団に尋ねたはず。
その結果、大和からの使節団は自分たちの国に至る地理的ルートを教えたと考えると、ハンヨウの後漢書では倭国は大和にあたる位置にあると書かれている理由が分かる。
倭国についての地理的誤解は、このハンヨウの後漢書に始まるといえる。 キチスレ連呼荒らししている奴のスレなんかいくら荒らしたって何の問題もないぞ このスレッドは1000を超えました。
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