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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
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0001九州王
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2020/09/30(水) 15:05:51.45
前スレhttp://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1591674558/-100
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。
0744日本@名無史さん
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2021/08/25(水) 21:50:15.30
>当時はまだ
なるほど。
考古学の成果が上がっているのだから、それを取り入れなければですね。

斯馬國の御床松原遺跡など、北部九州では紀元前の硯がどんどん見つかっています。
そして57年金印を貰った=外交文書で外交した。
木簡で長文を書いた痕跡である、細かいキズだらけの案も出土。
木簡での書き損じを削るための、弥生時代の消しゴム=金属製刀子も出土。

遅くとも後一世紀。
早ければ前二世紀くらいには、北部九州の知識層は文字を使用していた。
ということですね。
0745日本@名無史さん
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2021/08/25(水) 21:50:46.11
魏志倭人伝が初出で、魏略にすら記載されていない「邪馬壹國」というのは、
魏人の張政が充てた当て字でしょうから、ちょっと横に置いておきましょう。

漢魏人にとっては、倭国=わ国、であって、
倭人本人から、やまと国と聞いた漢魏人が、それに対して充てた当て字ですね。

倭面土國 107年 倭国王師升の謁見場にいた後漢の記録係
邪馬臺國 247年 来倭した魏の張政
が、それぞれ倭人から「やまと」という音を聞いて、それを表音で記したわけですね。

倭國 わ 音読み
倭面土國・邪馬臺國 やまと 訓読み
0746日本@名無史さん
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2021/08/25(水) 21:51:03.94
考古学出土物から、
北部九州倭人は紀元前から文字(漢字)を使用していた可能性が高いわけです。

伊都説であれば、
三雲南小路1号2号がニニギとコノハナサクヤであり、
糸島平野が筑紫の日向。

そこから逆算すると、
吉武高木大王がアマテラスで、早良平野が高天ヶ原。

神代=北部九州倭国の時代ということになり、
伊邪那岐・伊邪那美は、紀元前から漢字で記録されていたことになります。
0747日本@名無史さん
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2021/08/25(水) 21:52:09.41
伊邪那岐 伊耶那岐 イザナギ
伊邪那美 伊耶那美 イザナミ

前漢の武帝が楽浪郡を設置したのが前108年で、
楽浪土器の出土からして、楽浪郡使が伊都など北部九州倭国に常駐し始めたのは
ようやく0年前後からでしょうから、
紀元前に伊邪那岐・伊邪那美を木簡竹簡に記した倭人は、
漢字は知っていたかもしれませんが、
目の前に大陸の漢人はまずおらず、楽浪人が不定期にいたかどうか、という状況だったわけです。

つまり、一昔前の日本人の英語と同じで、
読み書きは非常に優秀だったが、
会話はダメダメだったわけです。

主要な漢字の音読み(漢読み)は知っていても、
本場での発音があやふやな漢字も沢山あったのですね。

ですから、>>742
邪=耶=や、ではなく、
邪=耶=ざ、として使用していたわけですね。

後の我々などは、漢字に「訓読み」などを充てて、
全く異なる読みで使用しているわけですから、
それに比べればかわいいものです。
0748日本@名無史さん
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2021/08/25(水) 21:52:20.83
そう考えると、
伊邪國=伊耶國=いざ國、ということになります。

伊耶=伊邪 いざ

伊佐 いさ

諫早

見事に繋がりますね。
0749日本@名無史さん
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2021/08/25(水) 21:53:56.18
佐賀県の県の木も県の花も楠(クスノキ)ですね。

防虫効果のあるクスノキは、古代から重宝された木で、
舟の材料にもなりましたし、
樟脳の材料として、絹布の保存にも用いられてきました。

クスノキがある→絹布を維持できる→絹布で銅鏡など青銅器を綺麗に磨いて品質管理できる
ということで、
北部九州倭国では、クスノキによって、絹布→銅鏡をピカピカに維持できたのですが、
本州など東方に銅鏡を持っていっても、クスノキも絹布も無くて、すぐ錆びたり緑青がついたりしてただの緑の塊になったわけです。

過去スレで検討しましたが、
東方の開拓最前線における、収穫期のJアラート<銅鐸>などは、
クスノキ&絹布が無いので、
来襲時期が終わると、山の斜面の乾土に埋めて、なんとか温存していたのですね。

それでも錆びたら、酢をかけると錆を取れますが、
当然少しずつ溶けていってすり減ってしまいます。
0750sage
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2021/08/25(水) 21:54:36.33
肥前国風土記によると、
ヤマトタケルが今の佐賀市の辺りを巡幸した際に、
クスノキの大木が生い茂っているのを見て、
「この国は『栄(さか)の国』と呼ぶがよい。」
と言ったことから、栄の国となり、
後に転じて、佐嘉の国となった、とあります。

明治維新で、佐賀県、佐賀市、に統一されましたが、
佐嘉川→嘉瀬川 川上に與止日女神社(壹與)
佐嘉神社
など、佐嘉の字もある程度残っていますね。

栄 さか

佐嘉 さか・さが

佐賀 さが

となります。
0751日本@名無史さん
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2021/08/25(水) 21:56:49.99
そうなると、
>>671
『倭國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國』
の輪郭が浮かび上がってきますね。

>>742のように、
廣志に記された、『倭國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國』の部分は、
景初二年八月の時点で、難升米と司馬懿の共通知識だったことになり、
つまりは、「魏人が来倭する以前から存在する文字情報」だった。

>>735
>魏志倭人伝に書かれた里程は、57年金印の時に測定されたものでした
だった可能性が高い。
楽浪郡史が短里=東夷伝里で測定して、楽浪郡にも記録木簡が残されたし、
倭国側の責任者である奴国王の元にも記録木簡が残されていたわけです。
東夷世界での共通知識、共通認識だったわけですね。

と、いうことは、
「邪馬嘉國」とは、57年以前から、倭人が倭人独自に使っていた当て字の漢字表記であり、

>>748
>伊邪國=伊耶國=いざ國
なのだから、
邪馬嘉國の読みは、
「ざまか」あるいは「さまか」であったことになります。
0752日本@名無史さん
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2021/08/25(水) 21:57:54.87
現・嘉瀬川=旧・佐嘉川の川上にある、大和町の七ヶ瀬遺跡と、
吉野ヶ里遺跡の北にある、二塚山遺跡とを比較した場合、

後者は、東側、つまり奴国王時代の広義の奴国領域に近く、
副葬された銅鏡は内行花文鏡のみであり、
小型仿製鏡や、免田式土器など、奴国や狗奴国と繋がる性質がある。

前者は、西側で、末蘆國から佐賀平野へ進出する地点に近く、
副葬された銅鏡には方格規矩鏡が含まれており、
末蘆國の桜馬場遺跡の時代、つまりは伊都の井原鑓溝遺跡=107年師升の時代まで栄えており、
伊都天神族系の形質がある。

ことから、
魏志倭人伝の餘旁國を几帳面な陳寿が地理的順番に並べてくれていれば、

七ヶ瀬遺跡が伊都天神族系の都支國で、
二塚山遺跡は奴国奴族系の好古都國だった、
可能性が高いことになります。
0753日本@名無史さん
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2021/08/25(水) 21:58:26.95
現在の佐賀市を中心とする、佐賀県南部に、
末蘆國から峠を越えた、「邪馬嘉國」ざまか、さまか、国があった。
その首都は、現・嘉瀬川=旧・佐嘉川の川上にある、
大和町の、都支國であった。

>>689
>狗奴国を立ち上げて、久留米〜吉野ヶ里を急襲制圧したのでしょう。
>狗奴国軍は陸路で小城市→末蘆國(唐津)へ進軍。
倭国乱に乗じて、狗奴国が勃興し、
佐賀の邪馬嘉國王家と、
唐津の末蘆國王家を、
急襲して滅ぼした。

>>702
鉄鏡を手に入れた狗奴国王は、
220年に後漢が滅亡して漢委奴國王金印が失効すると、長崎タケミナカタを軽視し始め、
(あるいは難升米父と狗奴国内主導権争いをして殺〇して)
難升米は狗奴国王から離反して、倭国(邪馬台国)卑弥呼側へ寝返った。

難升米は大率長官として外交で成果を上げ、親魏倭王金印を入手した。
卑弥呼の死去にて攻勢に転じた狗奴国との合戦で討ち死にした。

実力者の難升米を亡くしたタケミナカタ一族は、喪に服している間に、
卑弥呼の後継者争いが決着して、
勝者である伊都国系男王の元に恭順して辺境豪族としてそのまま召し抱えられた。

前方後方墳は、タケミナカタ一族が服従を示す墓制であり、
北部九州にある前方後方墳の初期のもの、
例えば吉野ヶ里の前方後方墳などは、難升米のものである可能性が高い。
0754日本@名無史さん
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2021/08/25(水) 22:00:27.95
狗奴国の息の根を止めるべく、
第12代が鉄鏡回収作戦を発動した。

大分→宮崎→熊本→筑後と、
狗奴国王の退路を断ちながら、
時計回りに侵攻して、北へと追い立てる。

挟撃して鉄鏡ごと捕獲回収する作戦であり、
神夏磯媛(與止日女=壹與か、その次代)並びにヤマトタケルには、
牽制のみしておくよう指示しておいたが、
若いヤマトタケルが血気にはやって、
西の肥前川上(旧邪馬嘉國の首都=都支國)に逃げ込んだ
狗奴国王クマソタケル(川上タケル)を討ち取ってしまう。

>>329
クマソタケルは息子の一人に鉄鏡を持たせて、日田に潜伏させ、
さらにデコイの諜報部員を数人、東国へと放つ。

完璧だったはずの作戦を台無しにされて、
鉄鏡を逃した=金印を逃して狗奴国勃興を許した失敗を繰り返した
第12代は激怒し、
ヤマトタケルに東方捜索を命じて、旅立たせた。
もちろん見つからず。

数百年後の筑紫の磐井が滅亡し、そもそもの北部九州倭国も滅亡したことで、
鉄鏡はその存在意義を終えて、
手の者によって、ダンワラ古墳へ秘匿副葬された。

ヤマトタケルが捜した鉄鏡が発見されたのは二十世紀になってからであり、
二十一世紀に、曹操墓から鉄鏡が見つかったことで、
その意味が理解されることとなった。
0755日本@名無史さん
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2021/08/25(水) 22:01:12.70
伊耶=伊邪 いざ

伊佐 いさ

諫早

邪馬嘉國 ざまか(さまか) 天神族系

狗奴国によって一旦滅亡(魏志倭人伝の時期)

天神族系ヤマトタケルによって栄国=佐嘉 さか さが として復活

佐賀 さが
0756日本@名無史さん
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2021/08/25(水) 22:04:21.75
57年の記録の一部抜粋なわけですね。
『廣志曰 倭(誤字)國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國安倭(誤字)西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』
『倭國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國 百女國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國 安倭西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』
『倭國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國 自奴國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國 案倭西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』

後漢から倭国に到着して、夏至の太陽を基準にした方角で、
末蘆國から東南に短里=東夷伝里で五百里で、伊都国の吉武高木宮殿へ到着する。
また、
末蘆國から南に行くと、邪馬嘉國(さまが国=現・佐賀市など)へ至る。

57年当時に倭国の南界を極めていた、奴国王全盛期の広義の奴国(中広形銅矛分布域)
広義の奴国よりも北の部分、つまり北部九州倭国の各地については、
戸数や里程を略載できる。

伊都の次には御床松原遺跡を中心とする斯馬國があり、
その次には現伊万里を中心とする巴百支國(みもきorみまき)があり、
その次に、現諫早を中心とする伊邪國(いざorいさ)がある。

>>693
>包囲中はヒマなので、
>上機嫌の司馬懿に毎夜接待され、プライベートなことまで語り合う。
司馬懿が、救世主の難升米どのの故郷について聞いたことから勘案するに、

後漢から倭国に到着して、
末蘆國から西南に海行一日すると、
倭国の中の分国としての(日本国の中の大和国や肥前国など、現在の県の意味合い)
伊邪分國(伊邪市・県)がある。

長らく伊族と敵対していたから、絹布は無く、革衣を身にまとっている。

正確には本来は、卑字の伊邪國ではなく、伊耶國である。
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