X



邪馬台国畿内説 Part648
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:11:52.81
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1602267560/l50
◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:13:03.74
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:14:24.53
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:15:00.65
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:15:32.44
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:16:01.67
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:16:32.55
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:17:01.92
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:17:39.23
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:18:17.02
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:18:46.92
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:19:15.74
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:19:47.31
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:21:31.44
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:22:01.46
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:22:34.09
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:23:16.38
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:23:46.62
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:24:16.50
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:24:46.98
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:25:16.46
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:25:46.71
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:26:16.78
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:26:47.08
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:27:16.75
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:27:46.46
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:28:18.52
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:28:54.54
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:29:27.59
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:30:00.78
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:30:31.66
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:31:03.19
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:31:36.04
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034uz ◆bq94Vh60JQ
垢版 |
2020/10/12(月) 16:31:44.12
箸墓の年代はどうするんだ。
卑弥呼を延命するのかい。
倭人条は正始8年記で終わりなんだよ。
0035◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:32:10.46
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0036◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:32:46.82
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0037◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:33:30.64
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0038◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:34:01.11
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0039◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:34:31.33
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0040◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:35:01.92
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0041◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:35:31.57
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0042◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:36:01.15
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0043◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:36:31.36
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0044◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:37:01.20
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0045◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:37:31.67
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0046◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:38:02.21
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0047◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:38:31.53
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0048◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:39:03.62
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0049◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:39:31.89
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0050◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:40:02.27
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0051◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:40:31.80
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
0052◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:41:01.01
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0053◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:41:46.81
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0054◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:42:16.87
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0055◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:42:47.54
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0056◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:43:18.45
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0057◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:43:46.57
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0058◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:44:17.25
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
0059◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:46:01.98
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
0060◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:46:31.20
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0061◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:47:02.37
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
0062◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:47:33.30
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。

三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0063◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:48:01.35
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0064◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:49:31.58
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0065◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:50:01.53
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
0066◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:50:32.33
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
0067◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:51:02.00
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0068◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:51:32.42
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0069◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:52:03.25
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:52:32.67
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:53:02.08
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:54:46.40
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0073◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/12(月) 16:55:21.41
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0074uz ◆bq94Vh60JQ
垢版 |
2020/10/12(月) 18:22:47.25
>>1 > 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです//
  毎度の事だがね、クイズ番組じゃないんだからさ、
当たってりゃいいって訳じゃないんだよ。
0075日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 18:27:11.39
>>74
>当たってりゃいいって訳じゃないんだよ

ハズレばかりだよ。
オ〆なんかの膿味噌なんかではな、何もかもが無理なんだよ、莫迦は身の程を弁えな。   @阿波
0076日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 18:30:45.50
>>74 は所詮荒らしの単細胞
0077日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 18:53:31.44
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)


馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0078日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 19:30:43.13
>>1君の失敗は、卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。


卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからその時代をとんでもない時代=BC660年に設定したのだ。
卑弥呼を隠すことは100年前の帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。

卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 

墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。

>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜!
0079日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 19:45:00.85
>>798
会稽東治の東が「ほぼ九州島付近」ではないとか
大和説のひとって、どうしてそんな
露骨な詐欺ができる神経なわけ?
0080日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 19:49:04.15
>>79
事実だろ
会稽郡内のどの場所だって足摺岬より南だ
九州説よ詐欺するな
0081日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 19:54:41.31
「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。      
https://blog-imgs-50origin.fc2.com/a/z/u/azuminodiary/141102_photo_01.jpg

中国史年表220 二世皇帝一 陳勝・呉広挙兵 前209年(前)
中国の史書『史記・項羽本紀』には、「項羽は、下相の出身である」とある。   
下相(現在の宿遷市)の人の項梁は会稽郡守の慇通を殺し、甥の項羽と共に「呉」で挙兵する。
項梁、項羽は会稽郡の役所があった所の実力者であった。
すなわち、会稽郡領内の下相(宿遷市宿城区)に、文献上から「会稽の治所」があったことがわかる。   @阿波
「項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見」
http://japanese.china.org.cn/japanese/231067.htm
0082日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 19:55:45.28
詐欺常習者師は、自分は決して詐欺師ではないという
0083日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 20:04:52.69
>>81
馬鹿まるだし
項梁が会稽太守を殺したのは呉に亡命した後だって、常識なのに
0084日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 20:16:04.01
>>83

いくら駄々をこねても、「阿波」で決着済みなんだから、君が間違いだってこと!  わははははは   @阿波
0085日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 20:18:16.74
>>811
>(末盧国から)東南陸行 五百里 到伊都國 北東の間違い

「東南す、陸行五百里す、伊都国へ到る」であり、
東南は末盧國からの出発時点での出発方向であるから、
出発時点や途中では伊都国が見えず、間違いではない。

>(伊都国から)東南至奴国 百里 東の間違い

伊都国と奴國の位置比定が間違い。
伊都国は「臨津搜露」が出来る国であるから、前原や糸島水道付近の千戸の国であり、
奴國は伊都國の東南百里に入り口がある二万戸の国であるから、
日向峠の西麓の平野部〜早良平野の国であり、
「東の間違い」にする必要がない。

>魏志倭人伝は方角がおかしい

この大和説者?の、脳がおかしい。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 20:24:19.26
>>85
>東南は末盧國からの出発時点での出発方向であるから、
>出発時点や途中では伊都国が見えず、間違いではない。

間違いなんだよ
東南に出発したって道が北へとカーブしてるのも見えてんだから

これは典型的な詐欺だ
0087日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 20:34:07.66
>>85
>伊都国は「臨津搜露」が出来る国であるから、前原や糸島水道付近の千戸の国であり、
>奴國は伊都國の東南百里に入り口がある二万戸の国であるから、
>日向峠の西麓の平野部〜早良平野の国であり、

糸島水道から古代の街道どおり真東の広石峠を抜けて早良だ
明らかに「東の間違い」

これも九州説の詐欺
0088日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 20:36:18.64
明治天皇の詠歌は日本の歴史を教えてくれる

人もわれも 道を守りてかはらずば この敷島の国はうごかじ

葦原のみづほの國の萬代もみだれぬ道は神ぞひらきし

月見れば 雁が飛んでゐる 水の中にも映るなりけり

雁や道は源氏物語の和歌にも登場する

心から常世を捨てて鳴く雁を雲のよそにも思ひけるかな

常世出でて旅の空なるかりがねも列に遅れぬほどぞなぐさむ

あかりなくにかりの常世を立ち別れ花の都に道やまどはむ
0089日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 20:40:28.88
>魏志倭人伝は方角がおかしい

畿内説の魂の叫びwww
0090日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 20:43:06.63
>>85
少しでも東南側に行けるように遺跡も何もない西唐津を末盧国にしたり、三雲の大きな遺跡を無視して糸島水道あたりを伊都国にしたり
無理を重ねる九州説は
歴史学とはまったく別物だね
0091日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 20:47:58.74
>>89
ウソをつき続ける九州説の醜い姿を見ちゃったら、誰でも驚いて叫ぶさ
0092日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 20:48:11.69
>>90
だから、「阿波」一択 だと、何度言えばw   @阿波
0093日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 20:48:14.26
>>815
だから
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説者は・・・
そういう世間常識とかけ離れたお経を
ぶつぶつ唱えているだけでは
おかしい人にしか見えない
0094日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 20:49:38.76
>>91
だから、「阿波」一択 だと、何度言えばw   @阿波
0095日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 20:54:42.96
西唐津から真東にトンボ山が見える
糸島への道はトンボ山を越えて北東へ北東へと続く
これが東南陸行というなら、倭人伝の方角は明らかにおかしい
0096日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 20:56:24.32
>>95
だから、「阿波」一択 だと、何度言えばw   @阿波
0097日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 20:59:00.14
歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。

千余里で、対馬国に着く。
また南に一海を渡ること千余里、一大国(一支・壱岐)に着く。
また一海をわたること千余里で末廬国(まつろこく。松浦付近)に着く。
東南に陸行五百里で、伊都国(いとこく・いつこく。糸島付近)に着く。
東東行して不弥国に(ふみこく・ふやこく)まで百里。
南の奴国(なこく・ぬこく。博多付近)まで百里。
南に進むと邪馬台国(邪馬壹国)に到達する。
帯方郡から女王国までは一万二千里。

不弥国から南、千三百里で邪馬壹国(邪馬台国)。
丁度その辺りにはネタ元、魏略には邪馬嘉国ヤマガ国(山鹿市)があると書かれてる。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 21:02:52.19
>>819
>梁書は「卑彌呼宗女臺與」って書いてるんだけど?

後代史書の唐代の梁書は、魏志倭人伝の記載に関して、
「自己解釈に拠る書き換え」が多い半分偽書だ、となっている部分が多く、
「臺與」も魏志の「壹與」の書き換えになっており、史料価値が殆どないんだよ。
あなたは自分に都合が悪いと何でも
信頼性の史料批判もせずに、「〜書は書いているんだよ」だとか、
意味不明な我流の解釈を叫んで
それで否定できた気分に浸るんだよね
0099日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 21:03:39.80
>>97
これも水行十日陸行一月を隠してて詐欺
九州説って詐欺
0100日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 21:05:11.49
そして、ネタ元である『広志』 『魏略』には「女国」としか書かれてない
「後漢書」「魏志」「隋書」等の参考文献として引用してるが、
『魏志倭人伝』には「倭国の女王」「女王国」と成ってるが、....引用元では「女国」

魏略では「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文.... で「女国」
広志には「百女国以北其戸数道里可得略...... でも「女国」
又、南して邪馬嘉国に至る。百女国より以北、其の戸数道里

「自帯方至女國萬二千餘里」(『太平御覧』 原文)
『御覧』での「万二千余里」も「帯方−女国」間であり。 「女王国」じゃなく「女国」。

文中の「邪馬嘉国ヤマガ山鹿」の嘉は臺と酷似しており「嘉は臺」の誤字で、
邪馬台国が定説だと考えられているが...、南には江田船山古墳そばに山鹿市などがある。

広志などは、(八.百)女国と邪馬嘉国(ヤマガ山鹿)以北、が邪馬台国と書かれており、
手前の女国とは八女津姫、田油津媛(たぶらつひめ)伝説などがある八女市だろう、
なお、南限(八.百)女国と邪馬嘉国(ヤマガ山鹿)のその南が敵対関係の狗奴国である。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 21:06:38.38
>>99
だから、「阿波」一択 だと、何度言えばw   @阿波
0102日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 21:07:01.22
>>98
>後代史書の唐代の梁書は、魏志倭人伝の記載に関して、
>「自己解釈に拠る書き換え」が多い半分偽書だ、となっている部分が多く、
>「臺與」も魏志の「壹與」の書き換えになっており、史料価値が殆どないんだよ。

あんたが今やったこと
     ↓
>あなたは自分に都合が悪いと何でも
>信頼性の史料批判もせずに、
0103日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 21:11:16.41
>>827
>百襲姫(臺与)は老いたので大王の座を若きミマキイリヒコに譲り、
自らは上皇になって巫女として神道活動や審神者(さにわ)活動=霊媒を
していたんだよ

「臺与」なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
この大和説男が、×。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 21:13:13.59
>>100
>そして、ネタ元である『広志』 『魏略』には「女国」としか書かれてない

それ、ネタ元じゃなくて、非常に品質が低いので有名な翰苑注の写本だから
0105日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 21:18:44.16
>>833
>・・・倭国は会稽、東冶の東に在ることになったよ

魏志倭人伝の陳寿の「女王國の位置推定」は、「会稽東治之東」であるから、×。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 22:02:04.34
>>943
>会稽郡の最北端は屋久島あたり

魏志には「会稽郡」なんて書かれておらず、「会稽」であるから、×。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 22:10:25.74
>>107
会稽郡でないところに会稽の名を冠する場所なんて無いんだよ
いつまでバレバレの詐欺やり続ける気だ九州説は
0109日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 22:12:12.66
「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。      
https://blog-imgs-50-origin.fc2.com/a/z/u/azuminodiary/141102_photo_01.jpg

中国史年表220 二世皇帝一 陳勝・呉広挙兵 前209年(前)
中国の史書『史記・項羽本紀』には、「項羽は、下相の出身である」とある。   
下相(現在の宿遷市)の人の項梁は会稽郡守の慇通を殺し、甥の項羽と共に「呉」で挙兵する。
項梁、項羽は会稽郡の役所があった所の実力者であった。
すなわち、会稽郡領内の下相(宿遷市宿城区)に、文献上から「会稽の治所」があったことがわかる。   @阿波
「項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見」
http://japanese.china.org.cn/japanese/231067.htm
0110日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 22:24:11.77
>>962
>臺与13歳が大王に即位する事で紛争が終結になり、張政が檄飛ばしに
謁見にやって来て、張政の見送りを兼ねて晋に朝貢したのが266年だろ
やっぱ臺与の誕生年は253年だよ

臺予なんておらず、
張政が「遣塞曹掾史張政等因齎詔書黃幢」をしたのは、正始8年か、それ過ぎになる。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 22:45:31.91
>>967
>卑弥呼は247年に崩御したとは限らんし、

其八年,太守王頎到官
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯烏越等詣郡說相攻擊狀
だから、「詣郡」したのは正始八年。
そして、「相攻擊狀」を説いて、
遣塞曹掾史張政等因齎詔書黃幢,拜假難升米為檄告喻之。
が出来たのは、準備も含めて、相攻擊狀の後、1年以内(数か月)位。
そして、卑彌呼以死大作冢徑百餘步徇葬者奴婢百餘人だから、
卑弥呼亡くなったのは、正始9年頃。

>箸墓は臺与陵だしな

臺与なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であり、
箸墓は、「冢≠前方後円墳」や「布留い」に拠って、4世紀。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 22:45:47.33
>>109
>すなわち、会稽郡領内の下相(宿遷市宿城区)に、

宿遷は会稽郡じゃないよ
揚州属ですらないよ
徐州の臨淮郡だよ
0113日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 22:51:03.48
>>973
>後漢書でも会稽郡東治県は
中国最南部でハワイやグアムと同じ緯度にある朱崖タンジ郡とお互いに近いと書いてある

後漢書も、
後代での「前史の魏志の自己解釈での書き換え」をやっている半分偽書であるから、
根拠にならず、×。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 22:54:39.38
>>974
>日本書紀、梁書、翰苑、太平御覧には卑弥呼が魏に遣使したのは景初三年と
はっきりと書いていて
それらが当時参照した魏志倭人伝には卑弥呼の遣使が景初三年であった事を白状している

書紀や通典が、
「明帝」や「景初二年」とはっきり書いているので、「景初三年」説は×。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 22:57:41.04
>>113
自分の説に都合の悪い事が書いてある史料を
罵るだけで記事を無視できると思うのは
間違い
0116日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 23:02:04.34
>>975
>九州が当時から九州と呼ばれていたというなら

いや「呼ばれていた」なんて言っていない。
自分らが「中国の九州」の出身であった、という事を知っており、
「大夫」という身分を使っていた、と言っているだけ。

>ちなみに大和の旧字は倭

大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の軍に支配され、
九州倭國から別れた「別種の旧小国の附庸國」であっただけ。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 23:05:48.39
>>976
>後漢書などの史書は自己解釈に拠る三国志などの書き換えでなければ根拠になるのであり
数世紀の隔たりがあるそれぞれの史書は魏書に曰くなど魏志を書き写したものである事を書いてあり
内容も共通しているので自己解釈による書き換えはなかったと言える

半分偽書である、という事は、
偽書である部分もあるが、前史の通りである部分もある、
という意味だよ。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 23:14:32.78
>>978
>現実に見つかっている魏で使われていたモノサシと
九州説の言う里歩系の尺度が関係ないというのなら
里歩系という尺度は現実には存在しなかったという事になる

ならん。
魏朝の長さの記録では、殆どが里歩系の使用である。

>いっぽう普通の里は見つかっている魏のモノサシによって
1尺が24cmで律歴志に書いてある魏で使われていた尺度1里=300歩=1800尺に当てはめて
1歩が144cmで1里は約430mだったという事が解明されている

明帝の「(遼東の)征伐四千里」や、韓の「方可四千里」や、
倭人伝の里記載や、天柱山や、如淳注など、1里≒76.5mの記録である。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 23:17:26.70
>>116
>自分らが「中国の九州」の出身であった、という事を知っており、

「中国の九州」とは皇帝が支配する中国全土のことだから
「中国の九州」の出身という言葉は
意味がメチャクチャ
0120日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 23:20:09.89
>>979
そうやって「南→東」とか「冢→前方後円墳」とか、
「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などのように、
史料事実や史料実態の曲解や否定、というワケワカラナイお手製の史料改竄を使って
恣意的にチェリーピックするのが
非学問の大和説
0121日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 23:21:44.60
>>118
>明帝の「(遼東の)征伐四千里」や、韓の「方可四千里」や、
>倭人伝の里記載や、天柱山や、如淳注など、1里≒76.5mの記録である。

それが1里≒76.5mだっていう証拠、一切無いですけど
0122日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 23:24:44.96
>>980
大和説者は、「南→東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」や、
「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」事などを無視しており、
しかし、魏志倭人伝には、
女王國のある所は会稽東治の東
つまり現在の「ほぼ九州島辺り」と、はっきり書いてある
0123日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 23:37:41.67
>>982
>對海國の方四百余里や一大國の方三百里は方と書いてあるので行程ではなく面積の事で
行や至などの移動を表す文言がついてないので
魏使は對海國や一大國を移動していなかったという事になる

魏志に書かれた「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」は、
「絕在海中洲島之上での参問倭地」、
つまり、陸路で参問の里数合計が「可五千餘里」である、と言っており、
だから、狗邪韓國から侏儒國付近までの陸路部分の計算をしてみると、
400余×2+300×2+500+100+(4000余ー1000余)=5000余(里)になり、
ぴったり合っており、
だから、魏の役人らは、對海國と一大國のそれぞれの二辺の陸路歩行を算定していた、
という事になる。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 23:40:54.24
>>985
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者や大和説者は、
幻覚が見えてるみたいだね
頭にアルミホイル巻いたら
0125日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 23:43:54.19
>>986
陳寿が女王國や倭國を、
現実の日本列島の中の「ほぼ九州島付近」だと思っているのが明らかな以上
彼の書いた行程を辿ってあっちだこっちだと、曲解は否定や捏造を言っても
現実にあった女王の都に着かないのは当然の結果なんだよね
0126日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 23:48:20.55
>>987
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説者は、
薬とかやってて幻覚が見えてる可能性があるから
医者やおまわりさんに、調べて貰った方がいいですよ
0127日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 23:52:11.08
>>988
それなら、
魏志倭人伝には、女王國や倭國の位置としては、
会稽東治の東つまり「ほぼ九州島付近」と書いてあるので
少なくとも魏使は女王國や倭國の位置について、
正しい見識を持っていたことになる
0128日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/12(月) 23:54:23.27
>>127
>会稽東治の東つまり「ほぼ九州島付近」と書いてあるので

それが、誰が見ても瞬時にわかる真っ赤なウソなので
九州説はまた信用を失なうのだった
0129日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 00:00:42.36
>>990
現在見れる魏志倭人伝は、同時代記録を元にした陳寿原本が失われているが、
「99.5%以上」の正確さで書き写しされた写本や版本群があり、
後漢書や隋書や梁書などのような後代史家の、
「自己解釈に拠る大量の書き換え」本の記載よりも
はるかに同時代の魏の役人たちの記録に近いと言える
0130日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 00:05:02.39
>>992
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙し大和説は、
世紀の大不正解 !
0131日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 00:20:56.47
もう気のふれた九州説の老人が
南→東とか嘘吐き騙し大和説とか同じ単語をくり返してるだけだな
0132日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 00:26:28.40
>>129
>「99.5%以上」の正確さで書き写しされた写本や版本群があり、

また九州説がインチキ統計を使っているな?
史料からの帰納も確率計算も一切しないで、そんな数字が出るわけがない
0133日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 06:09:05.01
>>112
>宿遷は会稽郡じゃないよ

いくら駄々をこねても、「阿波」で決着済みなんだから、君が間違いだってこと!  
阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」   
異論が有ればどうぞ。  わははははは   @阿波
0134日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 07:21:32.51
>>133
きも
0135日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 07:25:34.79
昔話の繰り返し、新しいことは耳に入らない、もうろく老人だらけの特養スレ悲し
0136日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 07:27:22.84
>>135

その通り。   @阿波
0137日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 07:54:34.96
もうろく九州説に、

もうろく畿内説に、

もうろく@阿波説、上等・別格の取り合わせだ。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 07:55:16.41
>>136
おい定型文はどうした?
サボってんじゃねえぞ糞ガイジ
0139日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 08:00:54.44
>>1君の失敗は、卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。
卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからその時代をとんでもない時代=BC660年に設定したのだ。
卑弥呼を隠すことは100年前の帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。

卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 

墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png


径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。

>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜!
0140日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 08:11:57.16
>>80
>事実だろ 会稽郡内のどの場所だって足摺岬より南だ

史料事実や史料実態では、陳寿は、女王國や倭地の位置推定として、
「計其道里,當在會稽東治之東」と書いたのであり、
「会稽郡」なんてどこにも書いていないし、
勿論「会稽東治」とは、「会稽郡」である事を否定して、
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」のような、
会稽地域の中の海岸付近の事を意図している。
そして、それからの「之東」は、ほぼ九州島付近を相当し、
足摺岬の事など、特定していない。

大和説者や東大理系博士号自称男よ、詐欺するな
0141日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 08:15:12.46
>>82
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの詐欺常習の大和説学者らは、
自分は決して詐欺師ではないという詐欺をする
0142日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 08:30:57.08
>>86
>>東南は末盧國からの出発時点での出発方向であるから、
出発時点や途中では伊都国が見えず、間違いではない。

>間違いなんだよ
東南に出発したって道が北へとカーブしてるのも見えてんだから

途中までの道が見えていても、
その先のどの方向に伊都国があるのか?が見えていなければ、
伊都国の絶対方向など、判る筈がない。
そして、人類の「行程や旅程の説明法」の原則は、
「出発の説明→途中の説明→到着の説明」の順に説明するものだ、
という事であり、それは、人類に普遍的な原則であり、
だからこの行程説明の先頭の文言の「東南」は、出発時点での出発方向の説明であり、
目的地の伊都國の方向の説明ではない。
また、途中は、案内人や道標を頼りに進むものだ。

この投稿も、また、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らに、典型的な詐欺だ
0144日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 08:51:23.41
>>142
>だからこの行程説明の先頭の文言の「東南」は、出発時点での出発方向の説明であり、
>目的地の伊都國の方向の説明ではない。

駅前ロータリーを東南に向けて発車し、ぐるっと回って北西方向へ向かうバスの行き先方角はどうなるのだ、
うそつき騙しのバスガイドするな!
0145日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 08:54:25.85
>>87
>>伊都国は「臨津搜露」が出来る国であるから、前原や糸島水道付近の千戸の国であり、
奴國は伊都國の東南百里に入り口がある二万戸の国であるから、
日向峠の西麓の平野部〜早良平野の国であり、

>糸島水道から古代の街道どおり真東の広石峠を抜けて早良だ

いや、「奴國」の説明文の「東南至奴國百里」も、(投馬國や邪馬壹國の説明と同じく)
「至の前には出発方向を示す東南しかなく、途中移動があった事を示す文言がない」から、
この場合も側副傍線の位置の説明であり、
魏氏らは、奴國へは行っておらず、
だから、伊都国の次の国は、「東行至不彌國百里」の不彌國になり、
この場合には「至」の前に「行」という途中移動を示す文言がきちんと書かれており、
だから、
「前原〜糸島水道」の伊都國の出口から、
姪浜などの海岸沿いの「東行百里」をした小戸付近が、
不彌國の入り口付近になり、藤崎西新町付近が不彌國の中心部になるんだろう、
という事になる。

>明らかに「東の間違い」

間違っていない。
この大和説者らの解釈が、陳寿の説明が理解できないハクチであった、というだけ。
これも大和説学者や東大理系博士号らの詐欺
0146日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 09:10:58.34
>>89
>>魏志倭人伝は方角がおかしい

>畿内説の魂の叫びwww

「畿内」なんても怪しい文言であり、
「方角がおかしい」というのも、人類の常識を否定する・・・・詐欺師の大和説者の、
狂気の魂の叫び。
・・・・は、怖い怖い。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 09:14:22.73
.








五毛党(ごもうとう、英語: 50 Cent Party、拼音: wǔmáo dǎng)とは、
中華人民共和国における中国共産党配下のインターネット世論誘導集団を指す
ネットスラングである。正式名は網絡評論員(インターネットコメンテーター)
であり[1]、2005年ごろまでは書き込み1件当たり5毛(5角(=0.5元)を口語で
こう呼ぶ)が支払われていたことからこの蔑称が名づけられた。網軍[2][3]と
呼ばれることもある。

通常は一般人を装い、インターネット上のコメント欄や電子掲示板などに、
中国共産党政権に有利な書き込みをする。または共産党「それに関連する事」を
批判する人に対する集団攻撃をする。ネットを通じ、世論誘導をする役割を
担っている。2015年時点で、約1050万人程度いると見られている[4][5]。
中国政府が世論操作のためにSNSに投稿させている「やらせ書き込み」は、
年間で4億8800万件に上るという[6]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%AF%9B%E5%85%9A#:







.
0148日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 09:48:43.54
>>90
少しでも「魏志記載の方向や距離を否定」して大和に届くようにしようとしたり、
三雲の大きな遺跡が伊都国と奴國の境界地域であり、
双方の「クシフルの西麓」の共同墓地地域になる事や、
「伊都国の臨津搜露」も無視して、「糸島水道あたりの伊都国」を否定したり
無理を重ねる大和説学者やスレ主や東大理系博士号詐欺師男らの主張は
歴史学とはまったく別物だね
0149日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 10:31:53.06
夜中にコッソリ罵倒レスするしかない引きこもり奥山あわれ
0150日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 11:32:33.39
>>91
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定のウソをつき続ける大和説の醜い姿を見ちゃったら、
誰でも驚いて叫ぶさ
0151日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 11:38:12.05
>>95
>西唐津から真東にトンボ山が見える
糸島への道はトンボ山を越えて北東へ北東へと続く
これが東南陸行というなら、倭人伝の方角は明らかにおかしい

旅程や紀行文の説明では、「出発の説明→途中の説明→到着の説明」を、
その順に記載するものである、という人類の常識が判らないらしい大和説者は、
どう見ても、明らかに脳がおかしい。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 12:02:23.37
.


日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》


クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!

耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!


伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

.
0153日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 12:03:35.66
>>151
>旅程や紀行文の説明では、「出発の説明→途中の説明→到着の説明」を、
>その順に記載するものである、

倭人伝においてもそのとおりだ。男はだまって東南へ行け。、
0154日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 12:08:14.23
>>99
>これも水行十日陸行一月を隠してて詐欺
九州説って詐欺

数量説明文言は、
「千里馬」などのような流行語的な形容詞として、
対象文言の前に冠する場合以外は、原則は、
対象文言の後に付加する形での叙述をするもの。
だから、「水行十日陸行一月」という数量説明は、
その前の文言である「女王之所都」に関する説明文言であり、
(更にその前の邪馬壹國の数量説明文言ではない)事になり)
その「日数の大量さ」などに拠っても、邪馬壹國からの所要日数ではなく、
行程の出発点の「帯方郡」から女王之所都への所要日数である、
という事になる。

大和説者って、全員、・・・・アホ詐欺師。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 12:36:53.47
そもそも大率というのは張政達の為にある訳でも無く半島の鉄やらの為の割には末羅は前が見えんような所で港や津とは言えんから流されたかわざと迂回してるわね。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 13:18:33.44
>末盧国の港付近は、草ボウボウで前を行く人が見えなかったとある。

それは、末盧国(福津市辺り・万津浦) から 伊都国(直方辺り)へ向かう道中の峠越えの場面だよ。  

こういう詳しい説明が出来るのは、倭国(阿波)への行程だけ。 わははははは   @阿波
0157日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 13:39:52.30
そうか、

まるで阿波の頭のようにボウボウぼさぼさだったのか、、、
0158日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 13:42:39.04
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@曹魏から禅譲を受け、呉を平定し中国を再統一。280年頃、再び天下に平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹魏の薄葬令に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
B「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形◎や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…

当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと無意味な論争が永続中!

もしも箸墓が卑弥呼の冢だったら、、、
魏使「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳が卑弥呼の冢だったら、、、
魏使「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大】作冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

「殉葬者奴婢百人」は、魏の薄葬令に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しよう(陳寿、心の声)w
0159日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 13:47:08.54
箸墓は魏の薄葬令から解放されたからこそ、突然巨大化した。
つまり西晋朝成立266年以降の築造ということ。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 14:11:10.68
>>159
薄葬令なんてもともと存在してないので、妄想
0161日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 14:50:00.94
>>106
>東冶と東治は同じ場所

東冶は、元は会稽郡に属していて、260年の分郡後は建安郡になった町の地名の固有名詞。
東治は、地名ではなく、
「夏后少康之子封於會稽」の会稽の、東の治「=東方の治所」という、
普通名詞が二つの連結語であり、
同じ場所ではない。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 14:59:02.68
>>108
>会稽郡でないところに会稽の名を冠する場所なんて無いんだよ

会稽は、
陳寿は、「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽の意味に使っているが、
会稽郡は、時代が変われば、合併や分郡などがあったりして、
幾らでも支配管轄地域が変わった事がある「地域が不確定」な文言であり、
だから陳寿も、「会稽郡」は使い難い呼称なんだよ。

いつまでバレバレの詐欺やり続ける気だ大和説は
0163日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 15:04:18.01
>>152

お前は三世紀の議論のスレッドで紀元前10世紀の話をしにくんなや

おかしいのは顔だけにしておけ
0164日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 15:09:01.94
>>115
大和説学者らが、
史料の信頼性の史料批判もせずに、
3世紀の同時代の魏の役人らに拠る実地の見聞計測の記録である魏志を抹殺して、
後代史家の「自己解釈に拠る書き換えを実行している」半分偽書の記載を採用して、
自分の説に都合の悪い事が書いてある魏志記載を罵るだけで、
記事を無視できると思うのは
間違い
0165日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 15:12:18.59
>>118の訂正
>>978
>現実に見つかっている魏で使われていたモノサシと
九州説の言う里歩系の尺度が関係ないというのなら
里歩系という尺度は現実には存在しなかったという事になる

ならん。
魏朝の長さの記録では、殆どが魏朝の「里歩系の長さ単位」の使用である。

>いっぽう普通の里は見つかっている魏のモノサシによって
1尺が24cmで律歴志に書いてある魏で使われていた尺度1里=300歩=1800尺に当てはめて
1歩が144cmで1里は約430mだったという事が解明されている

明帝の「(遼東の)征伐四千里」や、韓の「方可四千里」や、
倭人伝の里記載や、天柱山や、如淳注など、1里≒76.5mの記録である。
0166日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 15:13:20.55
.



日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。

釜が伝わったのは古墳期の5C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.
0167日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 15:14:05.74
南を東に置き換えただけだろ?南にそんな場所ないだろ、必然だよ
0168日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 15:18:01.95
>>128
>>会稽東治の東つまり「ほぼ九州島付近」と書いてあるので

>それが、誰が見ても瞬時にわかる真っ赤なウソなので
九州説はまた信用を失なうのだった

これは、誰が見ても瞬時にわかる史料実態であったので
大和説はまた信用を失なうのだった
0169日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 15:25:52.15
>>131
もう、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料事実や史料実態に拠って、
気のふれた・・・・アホ詐欺の大和説の狂人が
同じ事をくり返してるだけだな
0170日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 15:28:30.50
>>135
昔話の繰り返しばかりで新しいことは耳に入らない、
もうろく大和説老人だらけの特養スレ、悲し
0171日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 15:35:08.72
>>139
>卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。・・・
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。

「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、×。
0172日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 15:45:29.40
>>144
>だからこの行程説明の先頭の文言の「東南」は、出発時点での出発方向の説明であり、
目的地の伊都國の方向の説明ではない。

>駅前ロータリーを東南に向けて発車し、ぐるっと回って北西方向へ向かうバスの行き先方角はどうなるのだ、
うそつき騙しのバスガイドするな!

当然、出発方向が「東南」であり、
その後に向かった「北西」は途中の移動になる。
0173日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 15:48:47.76
>>145の訂正
>>87
>>伊都国は「臨津搜露」が出来る国であるから、前原や糸島水道付近の千戸の国であり、
奴國は伊都國の東南百里に入り口がある二万戸の国であるから、
日向峠の西麓の平野部〜早良平野の国であり、

>糸島水道から古代の街道どおり真東の広石峠を抜けて早良だ

いや、「奴國」の説明文の「東南至奴國百里」も、(投馬國や邪馬壹國の説明と同じく)
「至の前には出発方向を示す東南しかなく、途中移動があった事を示す文言がない」から、
この場合も側副傍線の位置の説明であり、
魏使らは、奴國へは行っておらず、
だから、伊都国の次の国は、「東行至不彌國百里」の不彌國になり、
この場合には「至」の前に「行」という途中移動を示す文言がきちんと書かれており、
だから、
「前原〜糸島水道」の伊都國の出口から、
姪浜などの海岸沿いの「東行百里」をした小戸付近が、
不彌國の入り口付近になり、藤崎西新町付近が不彌國の中心部になるんだろう、
という事になる。

>明らかに「東の間違い」

間違っていない。
この大和説者らの解釈が、陳寿の説明が理解できないハクチであった、というだけ。
これも大和説学者や東大理系博士号らの詐欺
0174日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 15:50:43.55
>>104
部分的にはそうした省略がみられるが、文章全体の構文は倭人伝のそれと同じなので、品質が低いとは決して言えんな。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 15:59:27.86
>>174
また九州説が無知を晒して恥かいたか
0176日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 16:09:13.06
大倭と邪馬台がひとつの構文の中に見えるのは、後漢書の「大倭王居邪馬臺国」だけだからな。
大倭(ダイワ)をヤマトと読むようになったのは、後漢書の大倭王から王を取り除き、邪馬臺国から国を取り除いて、
大倭=邪馬臺とし、奈良の知識人がこの邪馬臺(ヤマド)をヤマトと奈良弁で発音したのが大倭=ヤマトなのよ。
ヤマトの呼称の成立の経緯がこのようなものだったので、奈良には元々からヤマトの地名はなかったことが分かる。
したがって、奈良は倭人伝の邪馬臺臺の地ではない以上、卑弥呼も奈良にはいなかったことになる。
もう、大和邪馬台国説者は、廃業してはどうか。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 16:10:49.41
いわゆる徐福のいた頃の山東省・田斉(前386年 - 前221年)戦国期
首都は姜斉の時と変わらず臨淄
三足式土器、鼎に関しては生活用具としての鬲,甗などの三足土器は「戦国時代に入ると急激に減少する」
田斉で盛んだった産業は、「漁業、製塩、製鉄業、絹織物」
弥生時代が始まり水田稲作が開始されて後の約600年後、中国東北系の鋳造鉄器が紀元前3世紀に北部九州に持ち込まれたことで日本に於ける本格的鉄器使用が始まる。
前3世紀以降には朝鮮系の鎌などの小鉄器鍛造品も出現する。
徐福の前2世紀以降には北部九州で鉄斧や鉄製鍬先や鋤先など農工具の鉄器化が進んだことによって耕地開発が進んだ。
弥生時代の3世紀までに鉄器が普及していたのは北部九州地域に限られており、日本のその他の地域から出土する鉄器は僅かである

三足式土器 おそらく徐福嫌いの彼が主張する鼎的なモノはこういうものを指すと思われるが、最も隆盛を極めたのは竜山文化時代ですごく古い。
大陸においては、コレが原型になって後に青銅器に移行する。青銅器のほうが後という事だ
縄文晩期には既に青森まで伸張している。鼎的なモノの流入が徐福到来の指標にはならない。
縄文人がワンタンをすでに食べていた可能性があるという話は別に置いておくw
遮光土偶で有名な亀ヶ岡式土器は後に九州にまで影響を及ぼし、その後稲作伝播と同じくして次第に逆方向に押し返されていく。
一説には銅鐸の模様の原型ではという説もある
亀ヶ岡式土器の影響は沖縄にまで及んでおり、九州は青森よりも遅い時期の出土となっている
0178日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 16:11:10.82
>>177
刀銭:田斉では利用されているが、日本での出土は少ないので、コレが出ればある程度の指標にはなる
しかし吉野ヶ里遺跡においては形の似ている鉄製の刀子が燕製であることが分かっており、輸入という視点においては
これまでの定説よりも約250年前の紀元前4世紀中頃、すでに燕国や東方の遼寧地域との間に直接的な交流があったことと現在では判断されている。
http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/yosinogariiseki/ibutu_tetu_isi/tekki/IPA-yos600.htm
つまり、国内での本格的鉄器製造が、徐福以降ではないかという事だな。
話は逸れるが、古代製鉄という観点からは日本の歴史は古く。福岡県の曲がり田遺跡の出土品はAMS法分析では紀元前900年となっており
中国最古の西周末から出土した鉄剣より古い者が出ており、一部で中国伝来ではないのではないかとの議論が出ている。
褐鉄鋼を利用した製鉄なら、長持ちはしないが800度くらいで可能だからね。

徐福時代の北九州には実用的な製鉄、海童のイメージからくる造船、特に青銅器と織物の伝播が一大イベント

青銅器は合金の技術だったからね。製鉄より新しい技術だったという事ではなかろうかね
0179日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 16:29:09.15
福岡県の曲り田遺跡の注釈
http://ito-denki.biz/old/report/kodaishi/ishii.html

曲り田遺跡の鉄器は公式には紀元前3〜4になっている。


(註)夜ゆ臼うす式土器 福岡市の板付遺跡で1979年、それまで縄文土器に分類されていた夜臼式土器とともに水田の遺構が発見され、弥生時代が早まると考えるべきか、縄文時代に稲作が始まったと考えるべきかで論争が続いている。ただし、福岡県二丈町の曲がり田遺跡では弥生早期の鉄器が出土しており、これが紀元前9−8世紀となれば中国で本格的に鉄器が普及する前に日本に鉄器が存在していたことになってしまう。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 16:33:12.55
破綻した畿内説が奥山を解雇したので奥山が破産するかもとの情報有りあわれ
0181日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 16:35:03.58
>>177-178
あのな、バカ中卒チンコロ

搬入した楽浪帯方文物などの搬入文物なんかどーだってイイんだわ





縄文弥生を通して日本列島には中国系の衣食住に関する生活痕遺構がないの



古代中国大陸人が住んでいた事が証明できる中国大陸系の衣食住に関する生活痕遺構がないの





だから徐福やら呉王夫差の後裔やら呉越人やらの渡来定着なんてあり得んの

つか、五毛チンコロは日本のサイトに来るなバカ!死ね!
0182日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 16:40:57.09
>>158
>280年頃、再び天下に平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、
30年前の魏使の報告書「径百尺」を見た陳寿は、
当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、
官僚だけに読み知っていた。

この時点で、この男も×だな。
陳寿は、既に、
明帝の「(遼東)征伐四千里」の発言や、、
韓の方可四千里や、倭地への行程記載や、天柱山の高さなどの、
短里での記載をしており、
1里=300歩に拠って、「1歩≒25.5m」位の短里も知っていた事になる。

また、卑弥呼の墓の説明は、
「径百尺」ではなく、「径百余歩」だな。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 16:41:19.22
>>162
>会稽は、
>陳寿は、「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽の意味に使っているが、
>会稽郡は、時代が変われば、合併や分郡などがあったりして、、、、

陳寿が記して云う会稽東治の東とは、夏后少康之子封於會稽の時代の会稽のことである。
後世の「時代が変われば、合併や分郡などがあったりして、、、、」などと関係のない時代を云々する必要はない。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 16:42:01.69
弥生開始時代と、鉄器の話

http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/yayoi.htm

日本最古の佐賀の水稲遺跡は朝鮮半島の最古の遺跡と同時期
しかし、そのころの朝鮮半島においては鉄器が出ていない

だから半島経由ではないね。半島が日本と同時期に開始されたというだけで
0185日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 16:43:51.28
>>181

>縄文弥生を通して日本列島には中国系の衣食住に関する生活痕遺構がないの

へーほー?wwwそんあ研究結果が一切ないのだが?

どうしてすぐにばれる嘘を書くの?wwwワンタンマン君w
0186日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 16:46:10.81
まーだやってらっしゃるのか


卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)

卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)



ハイ終了

解散!
0187日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 16:48:35.07
>>181

田斉で盛んだった産業は、「漁業、製塩、製鉄業、絹織物」

ねーねー、何で徐福が来てない証拠とかに、中国の中粒種とかの嘘を書いちゃったの?ねーねーww
0188日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 16:53:52.92
>>181

>古代中国大陸人が住んでいた事が証明できる中国大陸系の衣食住に関する生活痕遺構がないの

ねーねー、土井ケ浜遺跡の話読んだ?どうして嘘を書いちゃうの〜?ねーねーwww
0189日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 16:54:39.38
>>160
>薄葬令なんてもともと存在してないので、妄想

親魏倭王を拝命した卑弥呼の墓を、難升米や掖邪狗らが、
文帝の指示に逆らって、
曹操や文帝や明帝の墓よりも厚葬墓に出来る筈がない。
また、卑弥呼の宗女で王になった壹與の遺族も、
壹與の墓を厚葬墓に出来る筈がない。
厚葬墓や前方後円墳に出来るのは、
西晋武帝の天円地方を教わって、壹與も亡くなって、影響が無くなってから。
0190日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 16:55:34.62
>>172
>当然、出発方向が「東南」であり、
>その後に向かった「北西」は途中の移動になる。

「東南」が出発方向だというなら、
それに続く「途中移動の方向」も「到着の方向」も書かなくては、どっちへ行ったらよいかわからぬだろうが、、
「途中」及び「到着」のそれぞれはどの方向で、其の里数はいかほどか追加説明せよ。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:04:49.31
石器が淘汰されるのは言わゆる邪馬台国時代。

https://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020102.htm

稲作の事でいろいろコピーを書いてる人が居るだが、確かに朝鮮半島伝来ではないと思われる。
何故かと言えば、水稲が日本と同時期に開始されていながら朝鮮半島においては鉄器の使用が確認されていない

それも、鉄鉱石が産出される朝鮮半島においては不自然な事であり、鉱石の発見そのものが後世のモノだったからとしか考えられない
0192日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:05:26.21
>>1こと奥山君の失敗は、卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。

卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからこそ、その時代がとんでもない時代=BC660年に設定されてるのだ。
卑弥呼を隠すことは、卑弥呼より100年前の倭国王帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。

卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 

墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png




径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。

>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜!
0193日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:09:47.70
>>187
徐福集団は五穀を持ってきたんだよな?

実際は徐福集団の時代よりも700年以上前には既に日本列島に五穀はあった訳だが、
徐福集団の五穀のイネには中粒種が3割近く混ざっていたはずだろ

なぜなら、その1000年後に来日した鑑真が持ってきた正倉院に
収められているイネには中粒種が17%含まれていたんだから 
0194日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:20:53.41
>>193

今現在でも稲って一種類だけ?
古代米だっていくつも種類あるでしょ

中粒種かどうかなんて指標にはならない
0195日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:21:05.64
>>188
で、土井ヶ浜遺跡が古代中国大陸人が生活した中国大陸系の衣食住に関する
生活痕遺構だとギャグ飛ばしてる頭の中がジュリアナ東京な考古学者の論文は?
0196日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:22:07.25
>>189
>厚葬墓や前方後円墳に出来るのは、
>西晋武帝の天円地方を教わって、壹與も亡くなって、影響が無くなってから。

まったく九州説は妄想ばっかりだな
魏と同じく、晋でも薄葬の終制が続いてる事をまったく知らないとか
九州説ってホント、ばかだよね
0197日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:24:55.12
>>195
さっさと自分で調べに行け。
DNA分析の結果だよ

お前が認める指標など、お前個人の思い込みに過ぎない。

おこちゃまは、まずはお勉強が先だ
0198日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:25:21.83
>>191
中国大陸から鉄器が伝わったのなら、漢字の銘入りの金文だらけのはずだろがパッパラパーチンコロ
0199日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:28:06.48
>>198

なんだ、朝鮮人だったのかw
徐福が朝鮮に行ってなくて残念だったなw
0200日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:30:06.19
弥生時代の九州の人口爆上げについて

http://www.fengxian-urawa.com/ancient/yayoi-age-japan.html

北九州って昔から大都会かと思ってたら極端に人口が少なかった時期があるらしいね。

出雲族がバイカル湖経由で日本に来たという伝承があるが、それとも一致するかもしれない
0201日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:30:06.76
>>189
魏志倭人伝には卑弥呼の死で大きな径百歩の墓を作ると書いてあるので
卑弥呼は薄葬ではなかった事が伺われる
0202日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:30:56.51
>>197





で、土井ヶ浜遺跡が古代中国大陸人が生活していた中国大陸系の衣食住に関する
生活痕遺構だとギャグ飛ばしてる頭の中がジュリアナ東京な考古学者の論文は?





早く持ってこいよ五毛ブタニグチンコロのおまえ
0203日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:32:20.52
>>202

お勉強が先だと言ったろ嘘つき朝鮮人w

大陸の権威まで参加して結論出してるだろ?

朝鮮人の癖に宗主国様に逆らうなよwwww
0204日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:36:22.33
鉄器と徐福は関係ない
中部ベトナムのサーフィン文化では甕棺に鉄器が入れてある
0205日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:37:01.14
>>165
魏の長さの証拠は
1尺24cmの尺定規と
魏の度量衡が書いてある律歴志から1尺=300里=1800尺が使われていて
1里430mほどだったというものが唯一だよ
0206日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:39:33.59
>>204

サーフィン文化
青銅器文化wwwwwww
0207日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:43:45.21
>>175
>(翰苑などの後代史書の魏志の内容紹介)
部分的にはそうした省略がみられるが、文章全体の構文は倭人伝のそれと同じなので、
品質が低いとは決して言えんな。

また大和説が、無知を晒して、恥かいたか
0208日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:44:59.78
>>199
生粋の日本人だバカブタニガー


じゃあ、鉄器が中国大陸から伝わったなんてギャグ飛ばしてる頭の中が
エキセントリックワールドな考古学者の論文は?
0209日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:46:59.93
>>191
大和説者にいわせると、鉄器は土中で溶けて跡形もなくなるらしいから、朝鮮半島でも溶けたのかもな〜♪
0210日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 17:56:24.23
>>208

いやいや、どう考えても朝鮮人
先祖や親せきに必ずいるわ

どう考えても日本人離れしているか、もう精神の抑制の無くなった老人としか思えない
0211日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 18:05:38.68
>>210
じゃあ日本の考古学者は全員朝鮮人じゃねえかバカブタニガー




で、土井ヶ浜遺跡が古代中国大陸人が生活していた中国大陸系の衣食住に関する
生活痕遺構だとギャグ飛ばしてる頭の中がジュリアナ東京な考古学者の論文は?



で、鉄器が中国大陸から伝わったなんてギャグ飛ばしてる頭の中が
メルヘンファンタジーな考古学者の論文は?




早く持ってこいよ五毛ブタチックプノンペピーノ
0212日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 18:07:10.99
>>211

慈悲の心で、調べようと思えば調べれるとまで言ってるのにw

朝鮮人は結論を先に決めてものをいうから、証拠があっても全く意味がなく、会話そのものが無駄に終わると言われているが

正にその通りw
0213日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 18:09:32.16
>>212
んなコト聞いてねえんだバカブタセロイピーノ




で、土井ヶ浜遺跡が古代中国大陸人が生活していた中国大陸系の衣食住に関する
生活痕遺構だとギャグ飛ばしてる頭の中がジュリアナ東京な考古学者の論文は?



で、鉄器が中国大陸から伝わったなんてギャグ飛ばしてる頭の中が
メルヘンファンタジーな考古学者の論文は?




早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい!五毛ブタチックプノンペピーノ
0214日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 18:19:37.27
>>213

ねーねー、徐福の時代より前から大陸との交流があったのになんで鼎が徐福渡来のこんきょになるって嘘かいちゃったのー?

ねーねーなんで?www
0215日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 18:25:17.20
>>214
じゃあ、徐福集団はどんな調理器を使って主食の蒸し餃子やワンタンスープを作ってたの?




で、土井ヶ浜遺跡が古代中国大陸人が生活していた中国大陸系の衣食住に関する
生活痕遺構だとギャグ飛ばしてる頭の中がジュリアナ東京な考古学者の論文は?



で、鉄器が中国大陸から伝わったなんてギャグ飛ばしてる頭の中が
メルヘンファンタジーな考古学者の論文は?




早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい!五毛ブタチックプノンペピーノ
0216日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 18:31:24.32
>>198
弥生中期からの鉄は、燕とかそのあたりのくず鉄が輸入されたのだろう。
そのくず鉄輸入ルートで、中華本土の中古鉄器も取り引きされたのじゃあるまいか。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 18:41:27.59
檄を飛ばすというのは、矢文のことではないぞ。
檄文を相手に届けるについて、早く着くことを願って鳥の羽を付けて送った。
鳥が早く運んでくれるという縁起担ぎであるし、受け取る相手も差出人の気持ちを知ることができた。
つまり、檄文を鳥に運ばせるという意味で檄を飛ばすと洒落たわけだ。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 18:44:17.67
>>216
漢字の銘入りの金文鉄器が一つも出土しとらんだろ

燕から直接はないな

出雲は朝鮮東北部の高句麗から鉄を輸入していた

それを狙ってフトニ(孝霊天皇)が侵略した吉備から出雲の侵略を開始

このとき出雲軍とフトニ軍の双方に多くの死者が出たという

これが卑弥呼の次の国中不服の相誅殺男王の全容
0219日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 18:45:54.53
>>215

ねーねー何で徐福集団の主食が蒸し餃子やワンタンスープって嘘書いちゃったのー?ww

ねーねー何で?w
0220日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 18:46:58.35
奥山並みの妄想やなw
0221日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 18:48:35.06
ま、土井ケ浜人類ミュージアムに関しては、調査結果がすでに公表され

頭の向いている方向が中国大陸で、他の遺跡と違う点に関してはもう報告書がまとまってるよ

朝鮮人にはありかは教えないが、実際に存在するwww面白いからぜってー教えねぇーww
0222日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 18:52:27.26
>>219
炭水化物をオカズに炭水化物を食うのかよバカブタニガー




で、徐福集団はどんな調理器を使って主食の蒸し餃子やワンタンスープを作ってたの?



で、土井ヶ浜遺跡が古代中国大陸人が生活していた中国大陸系の衣食住に関する
生活痕遺構だとギャグ飛ばしてる頭の中がジュリアナ東京な考古学者の論文は?



で、鉄器が中国大陸から伝わったなんてギャグ飛ばしてる頭の中が
メルヘンファンタジーな考古学者の論文は?




早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい!五毛ブタチックプノンペピーノ
0223日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 18:53:28.97
梯儁や張政が来たのは明らかだし、
本国ならずとも楽浪人だって大勢来たのに、
別に風俗が大きく変わったりしていない。
0224日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 18:58:34.66
>>222

ねーねー、何で道教の方士である徐福と全く無関係な出雲の龍蛇信仰を結び付けて嘘かいちゃったのー?ww

君が根拠としたものってすべてが嘘だったんだけど何で嘘書いちゃったのーーー?w
0225日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 18:59:16.16
>>222

で、ほぼすべてが嘘なのに、君の残った突破口がなんでワンタンなのーーー?wwwww
0226日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:03:13.08
北から魏軍👹

東から邪馬台国軍🔥

これで呉を滅ぼす計画
0227日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:04:40.60
邪馬台国は台湾のこと

あそこを拠点として海から呉を攻めるための計画

魏の方が先に滅んじゃった🥺
0228日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:04:51.45
>>222

ねーねー、臨淄集団と、徐福期の人骨DNAが極めて近かったという調査結果

人類学ミュージアムの松下さんと、中国人の人類学者さんの韓さんの共同研究結果、まだ見つからないのーーー?www

何の根拠もないのになんで嘘つくのーーーー?資料教えられても何でこんな大事なこと裏付けとらないのーーー?www
0229日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:12:26.99
邪馬台国は北部九州のこと

あそこを拠点として全日本からキナイコシを攻めるための計画

畿内説の方が先に滅んじゃった🥺
0230日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:13:15.86
天のホヒ、千家が先遣隊として出雲にやってきたのは伝承によれば219年とされる。

当初から徐福の移住許可願を出してたらしい。
銅鐸の元になるものは既にその時差し出していたとのことである。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:15:11.65
>>123
周旋可五千餘里も行や至などの移動を表す文言がついてないので
邪馬台国までの行程ではなくて倭国のだいたいの大きさを推定して書いたもの
0232日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:19:46.65
>>228
ねーねー、言ってる事が意味不明なんだが知能指数80ないバカ五毛の華南ブタニグロなの?



で、徐福集団はどんな調理器を使って主食の蒸し餃子やワンタンスープを作ってたの?



で、土井ヶ浜遺跡が古代中国大陸人が生活していた中国大陸系の衣食住に関する
生活痕遺構だとギャグ飛ばしてる頭の中がジュリアナ東京な考古学者の論文は?



で、鉄器が中国大陸から伝わったなんてギャグ飛ばしてる頭の中が
メルヘンファンタジーな考古学者の論文は?




早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい!五毛ブタチックプノンペピーノ
0233日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:24:47.46
>>232

君の次節は願望に近く、その投影が今の妄言なんだろうな
お前は論文があっても絶対に見に行かないし意見も替えない朝鮮人だよwww

論文はある。たがお前の様な40過ぎにもなって小僧レベルの知識しかない奴には絶対に教えないwwwそのほうが面白いから
0234日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:29:17.36
さてお口直しに、弩の話にしようか

まず弩だが、秦時代にも使われており、大陸の史記にも出ているよな
始皇帝本紀
そこにモロに徐福が弩を使う話をしている描写がある

出雲でも出てるんだよな。
ちょっと変わった人が居て修理して引き金を引いたら動いちゃったという話がある

ワンタンなんかよりは万倍有力なものになるだろうなw
0235日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:34:22.35
出雲ではヤマタノオロチの伝説にあるように
人身御供を行っていたらしき痕跡がある
中国でも古代道教は川の神や土地の神に人身御供をする習慣があった事が
古文献にも出てくる
出雲地方は徐福伝説とまでは行かないけれど
想像される以上に古代中国文化と関わりは深かったのかも知れない
0236日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:36:42.76
人身御供なんて古代なら全世界共通文化じゃないの?
0237日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:38:22.38
>>234
ねーねー、で、徐福集団が作った在地産の弩は?



で、徐福集団はどんな調理器を使って主食の蒸し餃子やワンタンスープを作ってたの?



で、土井ヶ浜遺跡が古代中国大陸人が生活していた中国大陸系の衣食住に関する
生活痕遺構だとギャグ飛ばしてる頭の中がジュリアナ東京な考古学者の論文は?



で、鉄器が中国大陸から伝わったなんてギャグ飛ばしてる頭の中が
メルヘンファンタジーな考古学者の論文は?




早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい!五毛インドシナ華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇ニガー
0238日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:41:21.55
>>234
弩は製法が高度なので、
徐福が持ってきて継続的に作られたのなら、
日本の職人に技術の継承がなされて、時代をまたいで複数の弩が見つかったり、工房が見つかったりしなければならない。
単品が見つかっただけなら、その時いた有力者一人だけの元に、単なる交易品として一つだけあるいはごく少数が輸入されただけだろう。
0239日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:42:32.19
>>238

まずは背景から

始皇帝は海神と闘う夢を見たので、弩(ど。射撃武器)を持って海に臨み、之罘(しふ)という場所で大鮫魚(だいこうぎょ。古代中国の伝説の魚)を射抜いたそうな。
これは徐福が、「蓬莱の不老不死の薬を得られないのは大鮫魚に妨げられているからだ」と言ったのがきっかけなんじゃないのーってお話。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:44:57.47
>>235
ねーねー、出雲地方の古代中国系の衣食住に関する生活痕を遺した中国系生活遺構は?



で、徐福集団が作った在地産の弩は?



で、徐福集団はどんな調理器を使って主食の蒸し餃子やワンタンスープを作ってたの?



で、土井ヶ浜遺跡が古代中国大陸人が生活していた中国大陸系の衣食住に関する
生活痕遺構だとギャグ飛ばしてる頭の中がジュリアナ東京な考古学者の論文は?



で、鉄器が中国大陸から伝わったなんてギャグ飛ばしてる頭の中が
メルヘンファンタジーな考古学者の論文は?




早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい!五毛インドシナ華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇ニガー
0241日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:45:34.58
>>236
古墳に奴婢の殉葬をする習慣というのは出雲地方が中心だった可能性があるよ
特殊器台という特殊壺を載せる古い時代の古墳に据え付けられていた祭器は
出雲地方で発達したようで古いものが見つかる

中国の殷王朝では人身御供として奴婢の血を器に盛って捧げる祭式があったそうだから
もしかして特殊器台と特殊壺はそうした用途に使われていたのかも
0242日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:47:14.30
>>231
>周旋可五千餘里も行や至などの移動を表す文言がついてないので
>邪馬台国までの行程ではなくて倭国のだいたいの大きさを推定して書いたもの

その通り。
参問するに倭地は5千里・・・、となっているので、倭国+狗奴国=倭地(九州島)のだいたいの大きさ(南北長)を書いたのであろう。
ちなみに、九州島北端の香椎あたりから、薩摩・大隅の南端までがおよそ5千里だ。
なお、対馬は方可400里、壱岐は方可300里と、既に大体の大きさがかかれているので、その残りの九州島のみとなる。。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:48:09.54
>>240
落ち着け
折れはお前がレスバしている相手とは違うから
中国系生活遺構はと言われてもわからん
0244日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:52:35.34
>>241
そういえば、殉葬をやめてはいかがでしょうと建議したのは野見宿祢だったという。
その野見宿祢は、出雲大社所縁の者だった。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:52:57.60
>>238

1999年に発見された弩は木製
姫原西遺跡
難しいモノなら余計に徐福時代の伝来の可能性がw

平成になってからの復元品
島根県立古代出雲歴史資料館
検索画面で「ど」を入力するべし
0246日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:54:16.13
>>240

>で、徐福集団が作った在地産の弩は?

徐福集団が作ったなどとはひとことも言ってねぇ

お前、本当のバカだなw
0247日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:55:44.96
>>238
弩は意外にも古代律令時代の兵士も装備してたらしいぞ
長弓の性能向上と馬上から打てないという弱点で次第に廃れたらしいけど
0248日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:56:37.18
>>245
日本国には在地産の弩がないだろ

だから単なる搬入された楽浪文物だよ
0249日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:58:49.56
>>235
出雲風土記にはヤマタノオロチの話はない
0250日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:59:07.38
>>245
徐福が来たかどうかと、出雲の弩は関係ないと思うよ。
点と点で繋がりが見えない。
まだ貨泉とかのがありそう。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 19:59:14.01
>>238

ほい
https://lunabura.exblog.jp/17231839/

そういや、何かの天皇と弓矢の話の逸話って記紀にもあったね
まさか弩の事だったりしてw

>>238
お前には話しかけてねぇ。
さっさと論文調べる宿題を済ませろ、小僧www
0252日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:00:20.36
>>249
ヤマタノオロチははるか昔の出雲の話で、
出雲風土記の今の出雲には無かった場所の話だからね。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:01:19.31
>>250

>徐福が来たかどうかと、出雲の弩は関係ないと思うよ。

そのとおり。ワンタンよりは有力であろうという位かw
0254日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:04:24.61
>>244

>その野見宿祢は、出雲大社所縁の者だった

ゆかりどころか、杵築大社を作った一族ですよ。東出雲王家の向家の先祖ですよ

千家は出雲大社の所有者ではありません。資金の大半は向家。敷地と資材は神門臣家といって西出雲王家側が負担してます。
大社のカギは神門臣家の分家である別火家で管理しており、千家は許可がないと大社には入れませんでした
0255日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:05:53.34
>>244
日本書紀では垂仁天皇が殉葬の代わりに象形埴輪を埋めたとなってたな
それで実際に象形埴輪が見られるより前の古墳には
代わって特殊器台と特殊壺があるらしい
0256日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:07:00.51
>>238

弩の発射装置は青銅で作られる

木製の弩はその後、見よう見まねで模倣したものの可能性が高いとされるもので
弥生期のものです
0257日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:09:31.40
そもそも沖縄でも古代ローマのコインが見つかってるからな
古代にローマと沖縄は交易をしていた
0258日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:11:53.98
>>238

島根県立古代出雲歴史資料館では、復元品の木製の弩と
伝統的な青銅の射出部分の収蔵が確認できます
http://www.izm.ed.jp/db/search50.php

ここで「ど」と入力
0259日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:13:41.15
>>252
>ヤマタノオロチははるか昔の出雲の話で、

その通り。  「阿波」の海岸地域の話だ。   @阿波
0260日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:14:55.22
>>259

阿波には弩はでないからもうこの辺でサヨウナラ
0261日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:15:41.94
>>254
いずれにせよ、出雲忌部の話だ。   @阿波
0262日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:16:43.68
>>261

じゃあ千家は要らないから阿波にプレゼントするねw
0264日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:19:46.81
>>260
>阿波には弩はでないから

そんなもの、目じゃないよ。 「丹」で腹いっぱい。  わははははは   @阿波
0266日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:21:38.72
>>264
「弩」を持った数人の兵によって阿波は制圧されて「丹」を掘らされてたんだろう
0267日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:23:22.53
幻想の阿波大台国
0268日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:25:59.61
何でもかんでも阿波のものにする歴史のブラックホール、それが阿波

奥様も「驚きの吸引力」である。
0269日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:26:09.83
いくら駄々をこねても、「阿波」で決着済みなんだから、君が間違いだってこと!  

阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」   

異論が有ればどうぞ。  わははははは   @阿波
0270日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:30:28.33
>>268
>何でもかんでも阿波のものにする

何でもかんでも阿波のものにしたい訳じゃないんだが、
稲作でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波

※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着いてしまうんだよ。 ごめんね。   @阿波
0271日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:30:51.75
>>270

おま、何でもかんでもじゃねぇかwww
0272日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:31:34.47
よしわかった、せっかくだからワンタンも受け取ってやれ。
二人で仲良くしろw
0273日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:33:04.01
>>271
>おま、何でもかんでもじゃねぇかwww

こればっかりは、どうしようもない。  真実は曲げられないからね。   @阿波
0274日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:34:20.09
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
0275日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:34:46.12
>>273

どうでもいいからワンタンだけは引き取れ。あとはどうでもいい
0276日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:43:18.45
ペテン邪馬台国畿内説史

ノーベル賞を連続受賞してきた日本、何故いつも研究能力低下が問題になるのか?
〜 中国メディア
http://news.nicovideo.jp/watch/nw8259611

コメント欄
○よく調べもしない情報弱者が、マスコミの受け売りに共感して
「日本はエンジニアを軽視〜」「海外流出〜」と、大嘘を流布してるからだろ。

○特定の業種だけ特別扱いして堪るかっつのよ。なお青色ダイオードの「中村修二」は
 とっくにペテン師として浸透してる。 
「 中村修二 ペテン師 」で検索しろよ情報弱者のクズ達

○中村修二の裁判内容が自分たちの思惑と異なってきたとたんに放送しなくなったもんな
 マスゴミは。

○中村修二を、「日本の企業叩き」の道具にしようと群がったマスコミだったが
 中村がマスコミを裁判で利用(世論誘導)してるのを、読売がスッパ抜き
 青ダイ特許を詳しく調べた結果、大嘘のペテン師だと知り、マスコミ連中も一斉に掌返しした。
 その後、たまに日本叩きの記事に使われたり、情報弱者のクズが引き合いに出す。
0277日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:44:01.06
305 学究学士 2020/08/08(土) 22:13:35.970
>>209
マスコミによる大衆世論誘導は戦前から行われてきたから
知を振りかざすジャーナリズムによる思い込みの読者誘導記事は別に驚くに値しない
具体的なニュースで代表的パターンを紹介すると
共同通信による伝説の卑弥呼の墓モドキの発信ニュース記事だけど
学術記事を飛ばして読む傾向のある一般大衆に
見出しだけで大衆に強くに印象を植え付ける為

「卑弥呼の墓」を素粒子で探査 奈良・箸墓古墳の内部
https://news.yahoo.co.jp/articles/4beb5201a33dced31d005d95e1fcab569543f7fc

と奈良・箸墓古墳は卑弥呼の墓と断定しながら冒頭記事では

「卑弥呼の墓」の可能性が指摘される奈良県桜井市の前方後円墳・箸墓古墳
と可能性が指摘されるとトーンダウン
つまり共同通信社にとって邪馬台国奈良説を押す為に
見出しタイトル・テクニックで邪馬台国は奈良に存在したと
共同通信いち押しの間違った知識を大衆に植え付けることなんかもしている
新聞社、報道機関による戦前の大翼賛による戦争煽り記事は有名だけど
文章操作を屈指して現在もなおマスコミは一方的な世論誘導してるのには注意が必要

https://this.kiji.is/587970300458878049
0278日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:44:12.65
>>242
倭地というてるのだから、倭種の人民が住んでるところの意味だ。
倭国はその倭種の人民の国の中の一つ。
で、その倭地のぐるりが五千余里というわけだから、魏里(1里=434m)でみれば、ちょうど九州、四国と伊勢鳥羽までの紀伊半島の範囲だ。
ぴつたり五千余里となる。
0279日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 20:54:07.65
>>277
「文章操作を屈指して」

「文章操作を駆使して」だよ。   @阿波
0280日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:01:46.08
所謂、邪馬台国が自分の国をヤマトと偽ることができたのか?

伊都国は奈良ヤマトの出先機関、後の言う大宰府のような処だったのだが

何と築秦国から発展した後の筑前の物部氏が伊都国の長官になっていた。

爾支と出ている名前。饒速日のニギ
0282日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:17:49.91
.



日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。

釜が伝わったのは古墳期の5C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.
0283日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:21:37.67
>>249
>出雲風土記にはヤマタノオロチの話はない

そう、出雲風土記にはヤマタノオロチのくだりはなかったと記憶する。
その代わり、肥後地方に同様の言い伝えがあるという。
肥後の川上のヤマタノオロチが、古事記・日本書紀では、いつの間にか出雲の簸之川上(肥伊川→斐伊川)のヤマタノオロチにすり替えられているらしい。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:22:12.90
阿波さんも食わない毒まんじゅう。それがワンタンw
0285日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:23:42.86
きっとワンタンのタンは水銀の丹だよ。

ほぉらぁ〜阿波さん、ワンタンほしくなってきたぁ〜www
0286日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:28:17.14
泡は足元を見られ、すっかり遊ばれてしまってるな
0287日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:28:32.01
>>285
>ほぉらぁ〜阿波さん、ワンタンほしくなってきたぁ〜www

「阿波」の真正「丹」で腹いっぱいなんだよ。 そんなの要らないよ。  わははははは   @阿波
0288日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:32:27.00
>>146
>怖い怖い徳島にはコンプライアンスも存在しないw

島勝さんは自信があるから、晒してるんだよ。 トンデモの九州説や畿内説と違ってね。  わははははは   @阿波
0289日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:35:05.16
>>287

ちくしょぉおおwww(セル)
変わり者同士仲良くしろよぉwwwww
0290日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:36:48.23
>>289



で、徐福集団はどんな調理器を使って主食の蒸し餃子やワンタンスープを作ってたの?



で、土井ヶ浜遺跡が古代中国大陸人が生活していた中国大陸系の衣食住に関する
生活痕遺構だとギャグ飛ばしてる頭の中がジュリアナ東京な考古学者の論文は?



で、鉄器が中国大陸から伝わったなんてギャグ飛ばしてる頭の中が
メルヘンファンタジーな考古学者の論文は?




早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい!五毛インドシナ華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇ニガー
0291日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:40:34.35
>>290

じゃ、あとは阿波さんに任せました。
おれワン丹要らねw

口から出まかせばかりで何の裏付けも取らない奴に資料など出すわけがねぇwww
0292日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:40:58.11
>>290
ところで君は、半島渡来人なわけ?   @阿波
0293日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:42:19.73
>>292

きっと朝鮮半島ではワンタン食べてたんですよ

いや、そのうちワンタンは朝鮮から世界に広がった事になるでしょうw
0294日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:47:03.30
>>292
生粋のジャポネーゼの土器キッドだが何か?
0295日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:48:07.46
>>293
ところで君は、中国帰化人なわけ?   @阿波
0296日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:49:20.19
>>295

いいや、さすがに日本人ですよ、阿波原人さん
0297日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:50:14.10
>>294
>生粋のジャポネーゼの土器キッドだが何か?

なんでそんなに、半島推しなんだい?   @阿波
0298日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:51:33.12
>>296
>いいや、さすがに日本人ですよ、阿波原人さん

なんでそんなに、大陸推しなんだい?   @阿波
0299日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:51:44.36
>>297
わはははは はどうした?
さては貴様偽物だな
0300日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:53:18.60
>>298

別に利害関係がないので淡々と遺跡の出土物。
人口分泌の推移
旧家の伝承
自分で歩いて回った神社

それらを書いてるだけですよ。徐福アレルギーがないというだけの日本人ですわ
0301日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:54:38.27
>>299

ですよね、どう考えても日本人の思考ではないですよねw

まるで朝鮮人。これで日本人だったら、親の顔が見てみたいw
相当に不幸な生い立ちとしかw
0302日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:54:55.42
>>299
心配ご無用。 本物だよ。 いや、ふたりがいつも争ってるから、ふしぎにおもっていたからさ。 わはははははを付けないときもあるよ。  わははははは   @阿波  
0303日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:55:12.88
>>297
考古事実だから仕方がねえじゃん

京大で 徐福ガーーーーーー なんて言ってたら単位貰えんぞw
0304日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 21:59:01.88
>>300
>徐福アレルギーがないというだけの日本人ですわ

徐福について、知らないし興味もないんだけれど、
徐福と「邪馬臺国」って、関係あるの?  まず、それが分からん。   @阿波
0305日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:01:08.73
>>303

それワンタンになる理由は徐福よりも奇想天外だという事がまだ認識できないらしい

山東の主要産業まで前振りで出してやり、餃子に必要な小麦粉が普及しておらず、一部の人間しか食べてなかった餃子が徐福のベンチマークだなんて言ったら
まだ徐福単体で議論を展開する方がまともなのにw
小麦粉なんて明代になるまでまともに大量には供給できなかったのによw

時代考証からやり直せ京大www
https://www.epochtimes.jp/p/2018/12/38357.html

どうせ共産系の何年も留年して卒業しねぇ特定の寮に居たやつだろw
0306日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:02:44.14
徐福が紀元前に来てて里を知らないなんて無いんだよ、布教活動は無知を相手にしてくれ
0307日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:03:00.91
>>302
なにコイツきんもー
0308日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:05:30.65
>>304

初代神武であり、山幸彦である尾張氏、海部氏の先祖
山幸彦である物部氏の共通の先祖が

センダイクジホンギに出ているアメノホアカリニギハヤヒだからです。
彼は別人ではなく、一人の人間で徐福とされています。

千家はスサノオ
丹波の国のホアカリ
築秦国においてはニギハヤヒ
熊野系の物部氏は速玉の命
庶子である秦氏はハタツミ
筑紫舞の源流翁

すべて同一人物
0309日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:05:46.53
>>303
>考古事実だから仕方がねえじゃん

しかし、どんなに逆立ちしても、「阿波」の遺跡や神社などによる裏付けには太刀打ちできないとは思わないのかね?  マジで聞いてみる。   @阿波
 
0310日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:06:39.00
>>309

ワンタンがありゃ何とかなると思ってるらしいぞ?
0311日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:09:37.10
>>308
>すべて同一人物

結局、「忌部一族」なんだよ。  徐福もいいけど。   @阿波
0312日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:14:46.57
>>305
バーカ

秦から前漢初めには点心はもう一般化してるんだよ




紀元前206〜220年(漢代)
小麦食が一般化し、点心が小麦の食べ方の一つとして根付く。

https://www.moranbong.co.jp/tuqro/tri/tips01
0313日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:16:50.15
奈良、平安時代以前はみんな仲良く「忌部一族」。

後にも先にも、「阿波」から出ていった「忌部一族」しかいないの!   @阿波
0314日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:17:00.39
ちなみに、布津主の、徐市の市から来ている。

徐福が出港した地域はかつては千童県と言われており、漢書の地理史にも書かれているが
約370年その地名は続く。
そののち、地名が変わる。饒の字がつくんだよね。
唐代の書である書物に、「饒安県はもと漢の千童県で、徐福が〜」との記述がある

京大程度の人間でも事実として調べれるだろうさw
0315日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:18:23.43
>>314

徐福が二度目に日本に来て和名のニギハヤヒを名乗ったのはその地名からともいわれている
0316日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:19:11.53
その後、東征毛人五十五国… 東は毛人西は衆夷、北は無し、卑弥呼の国東渡海倭種、陳寿ですら倭人と呼ぶのに毛人、倭人が支配者では無いんだよ。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:21:40.96
>>312

だから、山東の産業構造では合わないって最初に書いただろw
たしか、結構後の大陸の書物でも、小麦は富裕層の食べ物でめったに口にはできないって書かれてる

餃子のホームページじゃなくてもっと真面な書物を出してこいやwwwww
正月料理で年に数度の事で出てくるレベルの時代の話を餃子屋のHPでご紹介かよwwww
0318日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:24:13.82
>>312

でさ、徐福の子分の千家が出雲に来たのは前219年(紀元前218年)だろ?
普及が一番遅かったのが海産と製鉄、機織りの山東省

お前自分で紀元前206〜220年(漢代)って書いてておかしいとは思わないのか?www
0319日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:28:56.42
ねえ阿波さん、今からどこかに移住するのにタピオカ持っていきます?
0320日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:31:26.47
>>176
ちょっとだけ違うな。
中国での「大王」とは、原則は「複数以上の国や王」を従える王であり、
後漢書の「大倭王」は、范曄の「自己解釈に拠る書き換え」文言であった可能性が高く、
列島での「大倭」は、「國有市,交易有無,使大倭監之」の「大倭」であり、
古事記の欠史八代の内の4人にだけ付けられた「大倭」の事。
そして、大和の「大倭」の継体が、九州倭國に反乱を起こして勝利して、
九州倭国の王家の一員になり、
更に開皇末に隋に日本國としての独立を求めたが失敗し、
白村江の後頃に、「大倭」を「大和」に変えた、という事になる。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:40:06.49
>>190
>「東南」が出発方向だというなら、
それに続く「途中移動の方向」も「到着の方向」も書かなくては、どっちへ行ったらよいかわからぬだろうが、

魏使らの場合は、原則として、案内人がいて、案内してくれる。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:43:04.04
>>312

あとさ紀元前206〜220年(漢代)って「手作り餃子のHPww」で書いてるけどさ
時系列で分かりやすく書くと紀元前220〜206年とかの書き方になるんじゃね?

そうすると既に徐福が居なくなってる感じなんだがwwww
京大って中卒やFラン以下の大学の認識しかないわけ?
0323日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:43:04.32
>>191
>何故かと言えば、水稲が日本と同時期に開始されていながら、
朝鮮半島においては鉄器の使用が確認されていない

ふーん。
0324日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:45:14.45
>>323

同じく台湾においても稲作と鉄器で判断すれば、もう徐福の行き先は消去法になるかもしれませんよ
0325日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:49:49.56
>>192
>卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
・・・墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。

「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、×。
0326日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:51:51.28
>>325

「×さん」ちょっとワンタンにトドメ刺してやってくれませんか?w
0327日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:55:42.36
>>323
まあ、日本でも鉄器が出始めるのは弥生前期末頃からだから、
水稲栽培が始まった3000年前頃には、鉄器はまだもたらされてないけどね。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 22:55:53.93
>>196
>>厚葬墓や前方後円墳に出来るのは、
西晋武帝の天円地方を教わって、壹與も亡くなって、影響が無くなってから。

>まったく九州説は妄想ばっかりだな
魏と同じく、晋でも薄葬の終制が続いてる事をまったく知らないとか

西晋になれば、魏の薄葬令の制約がとれ、
倭國も「天円地方墓」を開始出来る。
大和説学者らってホント、ばかだよね
0329日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:01:33.77
>>317
>>324
いいや、徐福は餃子もワンタンも食ってるよ

主食でな(嘲笑


で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である

三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と

漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と

渡来時に伝わった中国系言語の単語と

原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と

山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?


で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がエレクトリカルパレードな
考古学者の論文は?


.
0330日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:02:19.24
>>320
倭人伝の大倭は意味不明の語彙であり、誤記の可能性もある。
一方、後漢書の大倭王は、(倭国のおおいなる王)と意味ははっきりしている。
倭人伝の大倭と後漢書の大倭王を同列にとらえるのは、躊躇されるよ。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:07:47.39
>>329

そこまで言うんなら自分で書いた紀元前206〜220年(漢代)と徐福の書かれた年代をきちんと整合性とって説明しろよww

自分で言った言葉だぞ?

人に論文をとか抜かす割に、餃子屋のHPを出してくるその性格が朝鮮人呼ばわりされる理由ww

こりゃ、日常生活でも相当な支障が出てるなww
歳は70からどんなに若くとも45歳
仕事はしてないかもしれない。日常生活においても落としどころを作るのが苦手で他社批判が多く
それゆえに周辺との調和がとれなくなり、孤独な人物像が浮かぶw

配偶者や子供が居るとすれば、自らの不幸な生い立ちと重なる冷たい家庭になってるだろうな。

少なくとも彼女は居ないw
0332日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:08:41.98
>>201
>魏志倭人伝には卑弥呼の死で大きな径百歩の墓を作ると書いてあるので
卑弥呼は薄葬ではなかった事が伺われる

「大作冢」は、「冢を大いに作る」であって、「大きな冢を作る」ではなく、
「径百余歩」は、25.5〜30m位の「大きくない」墓であるから、
この大和説男が、×。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:10:17.69
>意味不明の語彙であり、

>誤記の可能性もある。

んなこと言ったらなんでも
「意味不明の語彙であり、誤記の可能性もある。」
で否定できるなw
0334日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:10:50.33
>>329

>石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

そういや日本刀の技術に特徴的な「芯鉄」の技術が使われた農機具の刃先部分が出土したって最近のニュースであったな
探してはいるんだがどうしても見つからない

あれの出土も九州だったら、九州最強だなw
0335日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:13:59.47
>>331


で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である

三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と

漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と

渡来時に伝わった中国系言語の単語と

原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と

山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?


で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がエレクトリカルパレードな
考古学者の論文は?


早く持ってこいよチンコロ
0336日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:15:25.91
>>205
>魏の長さの証拠は
1尺24cmの尺定規と
魏の度量衡が書いてある律歴志から1尺=300里=1800尺が使われていて
1里430mほどだったというものが唯一だよ

魏朝は、周朝の周髀算経の一寸千里の「短里」の度量衡であったが、
魏の一般住民は、「短里」と「始皇帝の長里」の混在だよ。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:19:54.99
>>335

219年に出向して210年にもう一度大陸に戻ってきた徐福
220〜206年の間に徐福が主食で餃子を食ってたというなら証拠と論文を出せよ京大www

お前、もう一度言うが、何故他のものに目を付けずに私がワンタンに突っ込みを入れたのかまだ分からないのか?
どこまで仮説を立てられ、どこまで読まれてたのかまだ分からないのか?www
0338日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:22:25.41
>>337
餃子ワンタンは徐福の故郷の山東省生まれだ馬鹿チンコロw

徐福のソウルフードだぞ(嘲笑


で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である

三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と

漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と

渡来時に伝わった中国系言語の単語と

原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と

山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?


で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がエレクトリカルパレードな
考古学者の論文は?


早く持ってこいよ中卒チンコロw
0339日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:23:33.63
>>338

紀元前の数え方すら知らない京大って初めてみたわ〜www
0340日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:29:05.74
>>339
BC6Cに徐福の故郷の山東省で食われていたものがBC3Cの徐福が
食ってない訳ねえだろ馬鹿チンコロw


で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である

三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と

漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と

渡来時に伝わった中国系言語の単語と

原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と

山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?


で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がエレクトリカルパレードな
考古学者の論文は?


早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい! 中卒チンコロw
0341日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:29:46.05
>>330
倭人伝の「大倭」は、「収租賦有邸閣。国国有市、交易有無。使大倭監之」にみえる大倭のこと。
この倭の字は、前後の文脈からみて意味不明だ。
管理監督の意味においては委の字が適当であり、委には「隅々までつまびらかにする」という意味があり、委吏は「穀物の倉庫の管理をする役人」のことだ。
この隅々まで管理する者という意味で大倭の字が使われているのであれば、この倭の字は委の字の誤記だろう。
本来は「使大委監之」が正しいと思われる。
そうすると、倭人伝の大倭は大委に置き換えられるべきであり、その大委は当然大倭王とは発音が異なるので、同じに扱うことができなくなる。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:50:31.81
>>308

徐福と邪馬台国の関係ですが
海幸彦のほうの家系は、海部(天になる)家と書きましたが
彼の孫が神武、村雲の命だから、バッチリ関係してきます。
徐福の子供は父親の除猛から五十猛(後の天香具山)
記紀にも出てくる人なので、邪馬台国が畿内なのか、九州かの議論には本来欠かせない人物
160年代の九州物部東征(黒潮・和歌山ルート)の五瀬の兄弟がウマシマジ(架空の人物)
実はウマシマジは、第二次物部東征、邪馬台国事件での武内宿祢の弟の甘内宿祢(後の額田宿祢)をもじったと言われている
名草姫に殺された五瀬の後を継いで物部軍の指揮を執った人間が、記紀の作者は分からず兄弟の誰かをウマシマジに比定した

道案内をしたとされる珍彦はタカクラジの子孫で物部勢を攻撃した人物。
160年代の東征は、葛城国から吉備国が分裂し、出雲勢力が分断された事による東征
だから吉備を通るルートが物部勢は使えなかった。
熊野本宮大社は五瀬の陣地があったところ。

記紀では、二回にわたる物部東征を神武の前にもってきているから、時代的には徐福時代にもかかってる話なんだよね
0343日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:54:25.78
>>340

お前は自分で一般化したのが220〜206って書いてるだろw

山東省は農業に向かず、製塩、製鉄、織物の工業国家だったんだよ

そもそもが日本に持ってく下地はないんだよ。バッカじゃねーの?ww
0344日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:55:36.29
>>333
余裕の>>341だな。
0345日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/13(火) 23:58:30.97
>>332
九州にあるのは25.5〜30m位の「大きくない」墓なので
魏志倭人伝に径百歩の大きなものと書いてある卑弥呼の墓はないということ
0346日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:02:19.99
>>308

五瀬の命の親族は、彼の死後、少数のみが残って墓守になります。
墓守たちは竈山神社の旧社家になる。五瀬の直系の子孫は現在でも和歌山に存名。
現在でも歴史を伝承している。
更に攻撃した珍彦、紀伊國国造家と五瀬家は近くに住んでいたこともあり後に婚姻関係が生まれる。

紀伊家は日前神社を立て、五瀬家は後にその横に国懸神宮を立て、五瀬を祭った。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:02:37.57
>>336
魏では文帝による度量衡の統一令があったので
短里と長里の混在はなかったという事になる
当時の尺定規などの現存で使われていた証拠があるのは長里
0348日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:10:59.76
>>343
少なくともBC6Cには既に徐福の故郷の山東省で食われていたものが、
BC3Cの徐福が食ってない訳ねえだろが馬鹿チンコロw


で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である

三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と

漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と

渡来時に伝わった中国系言語の単語と

原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と

山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?


で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がエレクトリカルパレードな
考古学者の論文は?


早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい! 中卒チンコロw
0349日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:14:50.27
>>308

そんな下地もあるので、神武の葛城国の系譜である孝元天皇=クニクル大王の息子の大彦系の狗奴国と、熊野勢は仲が悪かった。
熊野勢が入ったころの卑弥呼が登美家のモモソ姫
結局、巫女を欠いた物部勢は単独では政権を維持できず、出雲のトビ家と習合してしまい事実上の失敗に終わる。

原因は、ヤマトの前の権威である出雲をそのままにしたこと。
大王、巫女政を甘く見て男の王だけで支配ができると思い込んだこととされる

第二次物部東征は、開化天皇のあとの隠された王、ヒコイマスの代で再び葛城国が分裂になったから。

畿内ヤマトの出先機関の伊都国の長官であった物部氏は魏の役人を誤魔化して都万の人間をヤマトの人間だとごまかした
狗奴国をぶち倒すために魏の後ろ盾が欲しいと申し出て、てタジマノモリや物部イニエ、などを朝貢にだす。
黄色の八本の属国旗を貰って宇佐八幡に収め、挙兵する。

親戚の物部トオチネとタジマノモリに出雲を攻めさせる。
卑弥呼として宇佐の月の女神を奉じる豊玉姫を瀬戸内海ルートで
出雲を速攻で落としたタジマノモリは播磨から吉備国を攻め、物部イクメより先に大和入りを果たす。
0350日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:20:20.94
>>308

属国であることや、大王に比定された人物が朝貢したなんてとても大陸に差し出す日本の歴史書には書けないので
すべて消えてもらう。

徐福なんてもっての外で徹底的に九州勢に圧力をかけ続け、黙らせる。

明治の時の悪法、皇室典範で男子男系が書かれてしまう。
これにより、未来の皇族は乗っ取りから守られるが、時代を遡ることが出来なくなってしまった。
血筋やDNAの血の濃さより、男なら自動的に王様になってしまうため、理論上は徐福でも天皇陛下になれてしまうのだ

だから徹底的に隠された。
神社の舞にもそれはあらわれ、筑紫舞の源流翁は、舞えるのは一生に一度だけ。それも50を超えてからとなる。

要は昔の寿命で言ったら死ぬ寸前の人しか舞えなかった
0351日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:25:23.45
熊野が畿内に来てからは、三輪山祭祀を世襲で守ってきた出雲の分家、磯城登美家は、物部氏と強調し祭祀を変更する。
ここで前政権の初代神武朝の狗奴国である銅鐸祭祀とは距離が出てしまった。
三輪山は銅鐸祭祀に加え、そのころに銅鏡を取り入れたらしいね。だから昔の卑弥呼は純粋に道教の巫女ではなかった。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:28:50.29
畿内型の銅鐸は後に見る銅鐸として大型化していく。大型銅鐸の地域は物部嫌いの狗奴国であり銅鏡がほとんど出ないから分かりやすい。

阿波には出雲と並ぶ銅鐸遺跡があり、物部氏にいじめられた銅鐸祭祀の終焉を示す、大量の銅鐸の埋葬地がある。
これは全国的に見ても出雲と阿波しか確認されていない。

阿波は160年代以降の銅鐸祭祀の南限だった。
だから発掘された銅鐸は畿内式で新しい時代のモノだった。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:29:55.18
で、卑弥呼も阿波もヤマトも餃子を食ってたはずだ、餃子マンセーってのが京大の見解らしいですww
0354日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:37:44.90
>>350
徐福集団が来てたら漢字の銘入りの金文銅鐸が出まくるはずだろうが中卒
0355日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:41:46.82
>>354
茶化して誤魔化すなブタ広鼻半ニガー


で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である

三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と

漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と

渡来時に伝わった中国系言語の単語と

原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と

山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?


で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がエレクトリカルパレードな
考古学者の論文は?


早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい! 中卒ブタニガーチンコロw
0356日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:41:57.18
>>354

銅鐸が出来たのは基本、日本だろ。
そもそもが、青森のほうの土器から銅鐸の文様が出来たかもしれないって説が出始めてるのに漢字って何だよw

魏の朝貢の時ですらまともに日本には漢字は導入されてなかっただろ。
お前本格的に頭悪いなw

徐福とワンタン、漢字、稲作は関係ない。まだ分らんらしいwww
0357日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:42:41.46
>>353
茶化して誤魔化すなブタ広鼻半ニガー


で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である

三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と

漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と

渡来時に伝わった中国系言語の単語と

原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と

山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?


で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がエレクトリカルパレードな
考古学者の論文は?


早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい! 中卒ブタニガーチンコロw
0358日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:44:40.37
>>357

徐福の部下のスパイの千家に、漢字はどうしました?餃子は食べてましたか?って手紙でも書いておけw
0359日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:49:39.97
>>356
そんな詭弁が通用するほど考古学は甘くないんでなブタ広鼻巨大タラコ唇半ニガー


で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である

三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と

漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と

渡来時に伝わった中国系言語の単語と

原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と

山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?


で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がエレクトリカルパレードな
考古学者の論文は?


早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい! 中卒ブタニガーチンコロw
0360日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:51:15.27
>>358
そんなギャグが通用するほど考古学は甘くないんでなブタ広鼻巨大タラコ唇半ニガー


で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である

三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と

漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と

渡来時に伝わった中国系言語の単語と

原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と

山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?


で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がエレクトリカルパレードな
考古学者の論文は?


早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい! 中卒ブタニガーチンコロw
0361日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:51:44.60
>>359
銅鐸を遡るともう越の時代になるからね。

日本のそれとは違ってるじゃん。考古学の基本も身に着けてないのか?京大はw
越の時代云々だって、平成に入ってからだぜ?

こいつ、三角縁神獣鏡も大陸産とか言い出しそうw
0362日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 00:54:47.88
>>361
そんな詭弁が通用するほど考古学は甘くないんでなブタ広鼻巨大タラコ唇半ニガー


で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である

三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と

漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と

渡来時に伝わった中国系言語の単語と

原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と

山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?


で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がエレクトリカルパレードな
考古学者の論文は?


早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい! 中卒ブタニガーチンコロw
0363日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 01:16:44.44
邪馬台国議論で沸いた吉野ヶ里遺跡。
後に、徐福の時代であることが判明したため、邪馬台国ブームは終焉してしまうが
特徴なのは街づくり。

山東のモノと共通点がありその辺は注目されている。
春秋戦国時代の斉の首都の古築城方法に似ているコの字型の突起部分。
臨淄古城のややあとの甕城も吉野ヶ里遺跡に似ており、L字型の鍵型構造を持っている

福岡の黒坂遺跡から出土した弥生前期の壺型土器は、吉林省の陶壺に形が酷似
日本でいう高坏の原型は中国にあり、筑紫平野の小郡から出土したものは山東省の陶豆にそっくりである。

甕棺も、山東省の省歴城県出土のものと同じ
吉野ヶ里から広がったとされる巴型銅器の鋳型は、元が殷の時代のものとされる
後に出雲にも伝わることになる銅剣や鋳型工具は、大陸の研究者、安作氏はその形状により秦時代のものと判定を下している。

大陸の研究者ですら、ワンタンや餃子なんてアホなことは発言してないのに、スゲーよな京大ってww
0364日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 01:19:58.21
>>1こと奥山君の失敗は、卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。

卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからこそ、その時代がとんでもない時代=BC660年に設定されてるのだ。
卑弥呼を隠すことは、卑弥呼より100年前の倭国王帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。

卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 

墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png






径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。

>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜!
0365日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 01:24:38.11
>>363
そんなマヤカシが通用するほど京大考古学は甘くないんでなブタ広鼻巨大タラコ唇半ニガー


で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である

三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と

漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と

渡来時に伝わった中国系言語の単語と

原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と

山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?


で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がエレクトリカルパレードな
考古学者の論文は?


早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい! 中卒ブタニガーチンコロw
0366日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 01:29:01.13
>>365
んで?

徐福餃子論のお前の根拠となる大陸側の研究者の結果は?論文は?
まさか次も餃子の店じゃあるまいなww

お前のニンニク臭い口先だけの言葉じゃ誰も相手しないぞ?ww
そもそも徐福と餃子セット論などという学問を私は聞いたことがない
0367日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 01:35:35.31
>>366
そんなスットボケが通用するほど京大考古学は甘くないんでなブタ広鼻巨大タラコ唇半ニガー


で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である

三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と

漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と

渡来時に伝わった中国系言語の単語と

原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と

山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?


で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がエレクトリカルパレードな
考古学者の論文は?


早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい! 中卒ブタニガーチンコロw
0368日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 01:48:22.95
>>367

だいたいお前、京大で考古学やってねぇだろw
京大の公式見解とでも言うつもりか?w

三足式土器の話だって導入時期は古く、お前の話も嘘だったのにまだ鼎って書いてるだろ

お前は知りたいわけじゃない、言いたいだけの嘘つきだ。
0369日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 01:54:36.51
>>368
おまえ以上のウソツキがどこに居るんだよブタ広鼻巨大タラコ唇半ニガー


で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である

三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と

漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と

渡来時に伝わった中国系言語の単語と

原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と

山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?


で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がエレクトリカルパレードな
考古学者の論文は?


早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい! 中卒ブタニガーチンコロw
0370日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 02:03:01.40
>>369

そんなんだから第三者にも真顔で「朝鮮人なんですか?」って言われるんだよ。w
0371日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 02:15:07.38
>>321
>魏使らの場合は、原則として、案内人がいて、案内してくれる。

案内人がいるから、途中の説明や、到着の説明は要らないというのなら、
出発時の説明だっていらぬだろう。それとも、原則として案内人は途中から付いたというのか??
0372日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 02:21:41.50
>>370
100%チンコロのおまえよりはマシだわ(嘲笑


で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である

三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と

漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と

渡来時に伝わった中国系言語の単語と

原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と

山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?


で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がエレクトリカルパレードな
考古学者の論文は?


早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい! 中卒ブタニガーチンコロw
0373日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 02:23:08.29
>>372

なんと、朝鮮人のくせして宗主国を馬鹿にするとはww

流石朝鮮人ww
0374日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 02:34:47.97
>>373
こちとら1000%チンコロのおまえと違って生粋の日本人だバーカ(嘲笑


で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である

三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と

漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と

渡来時に伝わった中国系言語の単語と

原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と

山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?


で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がエレクトリカルパレードな
考古学者の論文は?


早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい! 中卒ブタニガーチンコロw
0375日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 02:42:26.39
>>374

>こちとら1000%チンコロのおまえと違って生粋の日本人だバーカ(嘲笑

えっ?そうなの?朝鮮人だったら良かったのにねぇって言われるんじゃ。
これで日本人じゃ、余計可哀そうww
0376日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 02:51:11.93
>>304

記紀が何故漢文で書かれたのか?
古事記に関しては大陸に見せるためのモノで、偽書に書かれた名前は隠しきれないという事で
上手いこと時系列を変えてごまかして、日本は昔から独立国家でしたよと言いたかったのでしょう。
大陸から見れば噴飯モノだったとは思いますが

出雲風土記も漢文で書かれているんですよね。別に万葉仮名で書いてもいいのにね。
これには千家の事情が絡んでます。
出雲風土記の成立はなんと、記紀がまとまってから10年くらい後。だから出雲風土記だけ残ってるんです。
記紀では都合の悪いことを隠すため、全ての風土記は破却されることに決まりましたので、実は出雲風土記も同じく隠されました。

意味不明に取られるかもしれませんが、原典は出雲風土記も失われています。

出雲大社の前身である杵築大社の雇われ宮司の千家は東出雲王家の向家には逆らえませんでしたので、向井家に見せろと言われて10年以上ひた隠しにしてきたとされます。
そして記紀が編まれたあと、出雲風土記を書き直して向家に見せたのです。これが現在の出雲風土記。
出雲風土記が残った理由。

記紀の編纂に関われたのは徐福の子孫の千家が漢文を扱えたからでしょうね。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 03:33:38.92
邪馬台国と千家の関係と言えばですが

三世紀の邪馬台国時代に、物部の王が奈良で乗っ取りを完了して王として政治を始めますが

その時の地方の役人の名前が国造。国司の前の国造。記紀が編纂されたときには既に国造職は廃止され、国司になっていました。

物部イクメは当初は出雲を倒した自身の親戚である物部トオチネを国造に任命しますが、物部軍を手引きして出雲の防御の弱いところを案内した千家のウカツヌクなどが「奈良までおしかけて文句を言った」そうな。
西軍勝利の立役者である能見の宿祢。
東出雲王家の向井家の野美の宿祢はうちの親戚だとホラを吹き、だから千家のほうが出雲は上手くまとまると吠えまくったらしいね。
根負けしたイクメは千家に国造を任命しなおしてしまう。

千家は二回目の物部東征の時に出雲に関わってる乗っ取りの家系なんですよね。
だからスサノオと一緒に千家も邪馬台国論には欠かせない要素となっています。

魏書に出てくる物部東征、邪馬台国事件は記紀に書かれた通りの紀元前ではありません。最後の東征は邪馬台国時代の三世紀です。
故に、後につけられたオクリ名がハツクニシラスになったのです。
神武も同じですよね。
しかし、当時の日本が、ヤマトも偽装大和国=邪馬台国の都万国も両方朝貢してましたから、仲よく属国の歴史は記紀によって消されました。

朝鮮系のタジマのモリは漢文が読め、通訳が出来たのでばっちり魏書にナシメと書かれてしまい、誤魔化せなくなったので、八本の旗を別のモノに置き換えられ、ミカンのどうでもいい逸話を添えられて忠臣として描かれました。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 03:45:38.03
臣と宿祢

臣とは実は役職名ではありません。出雲王家と婚姻関係を結んだ家が、臣と名乗ることを許されました。
政権基盤が弱かった物部は、東軍に寝返った武内宿祢の親戚すら従えざるを得ませんでした。

故に、蘇我氏は臣と宿祢の両方で呼ばれることがあります。

蘇我臣石河、蘇我宿祢石河

時代が変わって、千家は出雲王家から嫁さんを下さいと願い出ます。
向家はそれを許しますが、なんとその時に千臣ではなく出雲臣を名乗ることにwww

だから出雲風土記の編纂の名前が千家ではなく出雲臣広島になっています。
何百年もかけて出雲臣乗っ取りを行ってきたんですね。
今では出雲王家の人間を野美の宿祢以外にも何人も家系図に組み入れて居ますよ。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 03:47:39.82
236
中国の夏も有名やしアフリカでは食人祭もあった
中東ヨーロッパでは古代狩った人間の首を首飾りにしたしマヤでも生贄の儀式あったな
日本では水神祭が有名や
0380日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 03:57:13.86
ヤマト(台湾)トトビ(飛び)モモソ姫

つまり卑弥呼がモモソ姫
0381日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 03:58:17.99
ヤマトって地が日本にはないよ

日本は倭、ただしヤマトの女王としての名前はある個人に
0382日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 04:04:21.56
>>380

記紀では二回にわたる物部東征をハツクニシラスの前に合体して持ってきたので卑弥呼もそうせざるを得ませんでした。

ヤマトトビモモソ姫は、物部イクメの娘の三世紀のヤマト姫と、160年代の熊野大和侵入の際の登美家のモモソ姫の合体名です。
なので、二つの名前の間にトビがが入りました。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 04:30:57.69
邪馬台国とイザナギと、イザナミ

記紀では実際の血縁、人物でたどれる存在と
その人物が行動した内容をうまくすり替えて書かれています。

イザナギ、イザナミは、カモス神社の社家が作った神様で、物部政権が短命に終わって後ろ盾を失い、千家に圧迫され始めたトオチネの子孫が作った神様
後に出雲王宮を向家に変換すると申し出るが、向家はそれを固辞。
カモス神社は「徐市からくる布津主を祭ってた」けど、トオチネの子孫である秋上氏は、和解の印として幸の神を祭ることにした。
しかし、出雲の幸姫とクナトの大神をどうどうと祭ることはできなかったのでイザナミ、イザナギを作り出した。
フツノミツタマは、ちょっと離れた剣神社に移すことになるが、その神社の千木は半分が物部の横削ぎ、半分が出雲の縦削ぎになっている。
この神様が記紀に組み入れられた。
実際には出雲の祖神である、幸姫とクナトの大神にあたるのだが、イザナミ、イザナギの不仲は、物部イクメと前政権のヒバス姫の不仲を投影していると言われている。
だから女神のほうは、最後にヒバ山に葬られたと書かれた。

だからイザナミのお墓はヒバ山を探しても絶対にたどり着くことはない。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 04:50:20.32
邪馬台国と神功皇后

さて、記紀では邪馬台国事件を紀元前にもっていくことが出来ましたので歴史に余裕が生まれました。

そこで、朝貢してない人で歴史上の偉人に登場して貰えれば、大陸で漢文で書いた日本の歴史書に華が添えられます。

そこで、日本の記紀では三世紀にあたる段階で神功皇后に白羽の矢があたります。
100年くらい後の話なので、この辺はもう誤差の範囲。彼女さえ登場させてしまえばあとは適当に古事記がかけます。
隠したい歴史はもうありません。徐市は徹底的に隠しましたので大陸に舐められる要素はありません。
しかしちょっとだけ困ったことがありました。
魏書にかれた武内宿祢の扱いです。もう記紀の編纂者は疲れてしまったのでしょうか?
武内宿祢をスーパー寿命の長い人にしてごまかしてしまいます。

かくして三韓征伐の功績者である4世紀の神功皇后が卑弥呼であるような誤解の認識をするような演出が完了します。

お疲れさまでしたと皆さん解散して終わります。
藤原不比等は、柿本人麻呂を出雲に飛ばしてサヨナラ。人麻呂は山辺赤人となって万葉集の人に。

出雲王家の先代伝承者は、赤人と人麻呂が別人だと次代に伝承したようですが、現在の伝承者は赤人と人麻呂を同じ人だとして本を出しています。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 05:14:18.15
熊野国ってのは紀伊半島東部から伊勢南部あたりにあった古代国名

畿内やら紀伊やら木がつくでしょ

つまりあの辺はもともと木の国

大阪平野開拓されたんが河内国
0386日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 05:16:23.12
京都なんてのももちろんなくてかなり初期に日本海側の京都に近い位置にあったのが多婆那国
0387日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 05:17:40.44
>>385
最初の紀伊国国造は出雲系
160年代以降、しばらくたってからの国造は物部家が任命されます。
熊野国国造家

物部五瀬と、戦ったほうの珍彦の子孫である紀伊家は婚姻関係を結びますから、もめごとは起きなかったのでしょうね
0388日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 05:27:55.60
@ぽ
0389日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 05:28:19.67
>>386

多婆那国は一説によると丹波国とも言われていますね。

最初に出雲に来た徐福の息子、海幸彦=五十猛は、親の方針に従って丹波の国に移住したと言われています。
昔の丹波国は但馬、丹後を合わせた国でした。タジマの国が生まれるのは律令時代なので。国の分裂にタジマのモリは関係していません。

邪馬台国事件の際に前政権の尾張家、海部家は物部氏に追い出されて奈良西部の拠点を失います。
海部家は京都の北方のコノ神社の社家になって、家系図が国宝に指定
尾張家は出雲の分家から贈られた草薙の剣を守り熱田神宮の社家に
0390日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 06:00:34.51
初代神武のヤマト国が何故三世紀に都万国より先に朝貢出来たのか?

元々徐福軍団は海童だったので、構造船を持っていました。山東の主要産業の一つが海産でした。
都万国は奈良のヤマトの出先機関だったので朝貢は可能でした。
それまで日本は丸木船だったとされています。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 06:18:34.28
>>352
>阿波は160年代以降の銅鐸祭祀の南限だった。
>だから発掘された銅鐸は畿内式で新しい時代のモノだった。

無知。

銅鐸の出土数もさることながら、 銅鐸の出土遺跡の多さに驚かされる。
まさに、倭国(阿波)は、銅鐸王国。   @阿波
徳島県の銅鐸出土地
『日本古代遺跡37徳島』14ページより  後ろの数値は銅鐸の高さ(cm)
                       
1. 檜銅鐸           鳴門市大麻町檜字乾谷    90
2.神宅銅鐸         板野郡上板町神宅      41
3. 川島銅鐸          麻植郡川島町神後     45.6
4. 森藤銅鐸         麻植郡鴨島町森藤      21
5. 牛島銅鐸         麻植郡鴨島町上浦      34.7
6. 伝久勝銅鐸        阿波郡阿波町久勝   
7. 久千田銅鐸        阿波郡阿波町久勝      30
8. 伝榎瀬銅鐸        徳島市川内町榎瀬      44.5
0392日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 06:22:09.62
>最初に出雲に来た徐福の息子、海幸彦=五十猛は、親の方針に従って丹波の国に移住したと言われています。

どこの誰に言われてるんだアホ。

早朝からアホw
多分一日中アホw
0393日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 06:22:51.22
>>391
以下略   @阿波
0394日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 06:48:02.96
>>391

>3. 川島銅鐸          麻植郡川島町神後     45.6

https://pbs.twimg.com/media/Cvrt_epVMAAvfKz?format=jpg&;name=small

出雲と同じ型鋳。
最近発見された松帆銅鐸も出雲と同じ型鋳。
松帆銅鐸はっ放射性炭素測定でBC4〜BC2世紀。
川島銅鐸をはじめ、他の銅鐸の拡散もおおよそこの時期だと推定される。

この出雲から畿内を中心に銅鐸が拡散した時期と、海の向こうで始皇帝が秦を建国した時期が一致する。

これはつまり出雲の神々の防衛上の移住、逃避。
だから地名に神がつくところが多い。
0395日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 07:09:05.17
>>394
>この出雲から畿内を中心に銅鐸が拡散した

何をスットボケたこと言ってるんだい?  「阿波」からの拡散だよ。   @阿波
0396日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 07:32:54.91
さてと、

今日も一日、@阿波忌部を怒らせて遊ぶとしよう、ウヒヒ
0397日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 07:48:49.79
出雲系の神職は、頑強な大和説者ばかりだからなぁ、、
0398日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 07:57:37.25
>>396
>今日も一日、@阿波忌部を怒らせて遊ぶとしよう、ウヒヒ

王者「阿波」に構ってほしいんだな。 よしよし。   @阿波
0400日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 08:31:08.98
>>399
実際いつも具体的に
思い込みの激しさを指摘されてるのは
九州説の方じゃなかった?

だって今回もまた、具体的な事実を指摘できないでいるだろ?
0401日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 08:41:35.49
>>400
それが思い込みだw
0402日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 09:06:51.54
>>401
ほら、また九州説は
具体的な事実が指摘できないで
事実に反することを言ってる

それに対して>>400
>>399が具体的な事実を指摘できてないという
具体的な事実を指摘している

どちらが思い込みか、明らかだろ?
九州説側が思い込みオンリーだ
0403日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 09:27:18.12
>>402
どうでもよい。

妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。

まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 

碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波 
0404日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 09:59:04.55
ぽい
0406日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 10:27:25.43
>>212
慈悲の心で、文献考古の史料事実や史料実態を調べようと思えば調べれる、
とまで言ってるのに
「南→東や冢→前方後円墳や正北抵新羅否定などの曲解や否定の大和説学者らはら、
結論を先に決めてものをいうから、証拠があっても全く意味がなく、
会話そのものが無駄に終わると言われているが
正にその通り
0407日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 10:29:21.78
畿内説:学問
九州諸説:老人

阿波説:1名
九州王朝説:除外済不要鮮人
0408日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 10:29:58.65
.








五毛党(ごもうとう、英語: 50 Cent Party、拼音: wǔmáo dǎng)とは、
中華人民共和国における中国共産党配下のインターネット世論誘導集団を指す
ネットスラングである。正式名は網絡評論員(インターネットコメンテーター)
であり[1]、2005年ごろまでは書き込み1件当たり5毛(5角(=0.5元)を口語で
こう呼ぶ)が支払われていたことからこの蔑称が名づけられた。網軍[2][3]と
呼ばれることもある。

通常は一般人を装い、インターネット上のコメント欄や電子掲示板などに、
中国共産党政権に有利な書き込みをする。または共産党「それに関連する事」を
批判する人に対する集団攻撃をする。ネットを通じ、世論誘導をする役割を
担っている。2015年時点で、約1050万人程度いると見られている[4][5]。
中国政府が世論操作のためにSNSに投稿させている「やらせ書き込み」は、
年間で4億8800万件に上るという[6]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%AF%9B%E5%85%9A#:







.
0409日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 10:32:08.98
>>218
>出雲は朝鮮東北部の高句麗から鉄を輸入していた
それを狙ってフトニ(孝霊天皇)が侵略した吉備から出雲の侵略を開始
このとき出雲軍とフトニ軍の双方に多くの死者が出たという
これが卑弥呼の次の国中不服の相誅殺男王の全容

卑弥呼の話にした瞬間に、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、この男は×。
0410日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 10:35:38.45
>>226
>北から魏軍👹 東から邪馬台国軍🔥
これで呉を滅ぼす計画

「邪馬台国」なんて、存在もしなかった思想宗教的な嘘つき騙しの造語であるから、
この男も、×男。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 10:37:27.82
>>227
>邪馬台国は台湾のこと

邪馬台国なんて、存在もしなかった「思想宗教的な嘘つき騙しの造語」であるから、
この男も、×男。
0412日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 11:27:22.27
世界中が九州説だね
畿内説はガラパゴス考古学会とその取り巻きぐらいで
0413日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 11:28:32.69
>>242
>参問するに倭地は5千里・・・、となっているので

違うだろうな。
「參問倭地絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」であるから、
「倭地絕在海中洲島之上」を参問する、と言っているのであり、
その倭地は「洲島之上(=陸上の地)」とはっきり言っているのであり、
その陸上の倭地での話として「或絕或連,周旋可五千餘里」であった、と言っている事になり、
つまり、「可五千餘里」は、陸上の周旋部分の里数合計の推定値なんですよ。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 11:43:57.94
>>412

世界中の老人は邪馬台国などには興味はないw
0415日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 11:54:29.41
×さんも流石にワンタンを相手にするのはお嫌らしい
0416日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 12:10:27.93
>>415





おまえの正体





五毛党(ごもうとう、英語: 50 Cent Party、拼音: wǔmáo dǎng)とは、
中華人民共和国における中国共産党配下のインターネット世論誘導集団を指す
ネットスラングである。正式名は網絡評論員(インターネットコメンテーター)
であり[1]、2005年ごろまでは書き込み1件当たり5毛(5角(=0.5元)を口語で
こう呼ぶ)が支払われていたことからこの蔑称が名づけられた。網軍[2][3]と
呼ばれることもある。

通常は一般人を装い、インターネット上のコメント欄や電子掲示板などに、
中国共産党政権に有利な書き込みをする。または共産党「それに関連する事」を
批判する人に対する集団攻撃をする。ネットを通じ、世論誘導をする役割を
担っている。2015年時点で、約1050万人程度いると見られている[4][5]。
中国政府が世論操作のためにSNSに投稿させている「やらせ書き込み」は、
年間で4億8800万件に上るという[6]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%AF%9B%E5%85%9A#:




.
0420日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 13:23:11.60
文字文化の浸透が5世紀以降である畿内とは無縁の史実

魏志倭人伝より
 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」
 
0421日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 13:32:58.57
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません


.
0422日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 13:36:35.64
>>421
だが徐福は朝鮮には居ついていない。

鉄器もない時代に大規模な開削は出来ない。
日本に来てまでコリエイトとは、歴史の改竄に余念がないなw
0423日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 13:41:20.49
>>421

思いっきり朝鮮顔の人が出てきて笑った

更には「青銅器の国産化には朝鮮半島出身者が影響を与えている」

とかそんな内容の事ばかりが並べられているw
0424日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 13:58:00.96
>>413
>「參問倭地絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」であるから、
>「倭地絕在海中洲島之上」を参問する、と言っているのであり、
>その倭地は「洲島之上(=陸上の地)」とはっきり言っているのであり、

九州説って、漢文ぜんぜん読めないから九州説なんだな
「倭地」は「絶在海中洲島之上」で
その島々が「或絶或連」なんだ
つまり島々に散在してるんだよ
日本列島だ

常識だろ
0425日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 14:07:01.37
起源前5世紀以前に逆に日本から伝わったもんも向こうに現れとる(朝鮮半島あたりにな)

徐福がこんでも往来していた連中らはおるわけ
0426日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 14:08:52.65
徐福中心の世界観じゃないんでなこちらわな😃

いい加減にしとけや😃
0427日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 14:18:33.05
徐福の記述自体がそおとうバカにしとるからの
0428日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 14:32:07.34
>>427
誰に対して?
0429日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 14:43:10.88
>>425
例えばどんな物が?
0431日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 15:41:56.18
>>424
いくらなんでも、日本アルプスより東は入ってないだろ。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 16:04:24.66
東夷伝で倭人特有の卜骨は本州各地からたくさん出ており
日本アルプスの東の関東からも多く出ている
九州からは2カ所だけ
0433日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 16:19:29.02
>>276
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料実態に拠って、×。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 16:39:25.46
>>287
>倭地というてるのだから、倭種の人民が住んでるところの意味だ。

いや、「參問倭地」は、実際に参問出来た倭地の地域の話だ、という事だ。

>倭国はその倭種の人民の国の中の一つ。

倭國は、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などによって、
その中心が北部九州であった事が確定している国だ。

>で、その倭地のぐるりが五千余里というわけだから、魏里(1里=434m)でみれば、ちょうど九州、四国と伊勢鳥羽までの紀伊半島の範囲だ。
ぴつたり五千余里となる。

魏の役人らが「參問倭地」して「周旋可五千餘里」出来たのは、
「絕在海中洲島之上,或絕或連」の陸地部分であり、
「狗邪韓國から侏儒國の近くまでの間」で、陸路里数が計測記録出来た部分の合計だ。
0435日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 16:42:52.02
>>280
>所謂、邪馬台国が自分の国をヤマトと偽ることができたのか?・・・

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この男が×だ。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 16:45:21.62
>>283
>そう、出雲風土記にはヤマタノオロチのくだりはなかったと記憶する。
その代わり、肥後地方に同様の言い伝えがあるという。
肥後の川上のヤマタノオロチが、古事記・日本書紀では、いつの間にか
出雲の簸之川上(肥伊川→斐伊川)のヤマタノオロチにすり替えられているらしい。

ふーん。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 17:08:09.32
>>434
ダメダメ。
誰かも既に書いているように、島伝いにぐるっとコンバットだから、九州だけじゃないの。
倭地、は倭国よりも広い倭種が住むエリア。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 17:16:43.04
>>424
しっかり答えろよキナイコシw

430日本@名無史さん2020/10/14(水) 15:38:36.89
>>424
そして九州島の東の海を渡るとまた倭種の国があるんだよな
0439日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 18:08:44.11
まーだやってらっしゃるのか


卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)

卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)



ハイ終了

解散!
0440日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 18:09:17.15
>>316
>その後、東征毛人五十五国… 東は毛人西は衆夷、北は無し、
卑弥呼の国東渡海倭種、陳寿ですら倭人と呼ぶのに毛人、倭人が支配者では無いんだよ。

倭國は、唐代まで、「正北抵新羅」であるから、北部九州。
そして、「西服眾夷六十六國」は、
「服」が「服従している」という自動詞が本来の意味であるから、
「西は衆夷66国が既に服属し終わっている」という過去形の意味になる。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 18:18:54.57
纏向に卑弥呼の宮があったのなら、それは王権ということなので、
何かしらそれにふさわしい謂れ伝承があるはずだ。
しかし何もない。
箸墓がモモソヒメの墓だという日本書紀の記述があるだけ。
これはなにやら取って付けた感のある7世紀に付加された記述であろう。

崇神の宮は別として、それ以前の纏向になぜ王権の謂れがないのか。
あれは途中で滅んだ一族の遺跡だからだ。
前方後円墳の造営自体が6世紀末には途絶えるだろ。
6世紀末、それは物部守屋の死によって物部宗家が滅亡する時期だ。

つまり纏向遺跡とは物部の遺跡だ。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 18:25:36.92
>>441
>箸墓がモモソヒメの墓だという日本書紀の記述があるだけ。

ない!   @阿波
0443日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 18:27:13.84
>>441
まあそうだよな
畿内を中心とした痕跡なんて何も無いんだし
ところで東海と物部氏の関係は?
0444日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 18:27:41.31
>>330
>倭人伝の大倭は意味不明の語彙であり、誤記の可能性もある。

「國有市,交易有無,使大倭監之」という記録は、
魏の役人らが倭人から伝聞聴取しなければ、記録出来ないもの。
また、古事記の欠史八代の中の四人の称号に「大倭」を冠せられた、という事も、
八人全部に「冠せていない」という事の説明が付かず、
8世紀の大和の史官が、
大和の欠史八代伝承の中の4人にだけ「大倭」という称号を冠せられた、
という事を知っていた、という事にしかならない。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 18:30:31.14
>>443
>ところで東海と物部氏の関係は?

東海忌部だということ。   @阿波
0447日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 18:32:53.40
>>434
魏使は東千里の倭種の国には行ってないので、その倭種の国のことがつまびらかには書いてない。
ただ、その倭種の地までを含めて、周囲がざっと五千余里と言っているの。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 18:35:37.68
以前誰かが言ってたな
邪馬台国で市を取り仕切る大倭が狗奴国派に付いてクーデターを起こしたって
0449日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 18:44:47.04
>>444
古事記欠史八代の天皇の贈り名に倭の字が使われているのはヤマトの発音。
日本書紀ではこの部分は日本の字になっているので、倭もヤマトと読むのがよい。
し〜かし、倭人伝の租税を収蔵した倉庫の管理や市場の物と物の交換を監視する役目の者を大倭としているのは誤記で、本来は大委(ダイイ)とすべきもの。
天皇の贈り名の大倭や倭と、倭人伝の大倭(委)は、別ものチャンチャンコなのよ。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 18:52:23.13
>>440
>「西服眾夷六十六國」は、
>「西は衆夷66国が既に服属し終わっている」という過去形の意味になる。

漢文法がメチャクチャだな
「服」が動詞で目的語が「眾夷六十六國」なら
「服」は他動詞に読むしかない


漢文が読めない人ばかりから
九州説はいつもデタラメだ
0451日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 18:53:51.50
>>446は、東海忌部に対して、何一つ論理的な反論ができないw    @阿波
0452日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 18:55:48.60
>>448
中国ならありそうな話だな。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 18:55:55.38
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)


馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0454日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 19:00:44.85
>>441
物部が天理へ現れるのは5世紀後半からだし、
3世紀の纏向に物部がいたという証拠は、残念ながら〜、ない。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 19:01:30.56
>>452
卑弥呼の時代は大飢饉があったそうだ
そんな時代であれば国内交易と取り仕切る大倭が大きな権力を持った可能性はある
物資を狗奴国へ優先的に供給するとか
0457日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 19:10:26.57
>>440
>倭國は、唐代まで、「正北抵新羅」であるから、北部九州。

平安時代にもまだ「九州倭国」なんてものがあったとか
九州説も妄想はもう病的だね

「正北抵新羅」というのは
宋の頃になってもまだ
方位を間違えて
日本列島が朝鮮半島の南、浙江省の東あたりに
北から南へ伸びていたと
中国側が間違った地理観を持っていた
ことを示す史料事実だ

こんなふうに
https://i.imgur.com/nIVTpBY.png

つまり畿内説が正しいという証拠の一つだね
0458日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 19:21:22.75
>>454
そもそもイクメ王=垂仁天皇が物部氏なんだけど
0459日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 19:22:24.16
>>328
>西晋になれば、魏の薄葬令の制約がとれ、
>倭國も「天円地方墓」を開始出来る。

真っ赤なウソ
魏と同じく、晋でも薄葬の終制が続いてる
九州説は史料に基づかず脳内で作られたニセモノの歴史
つまり捏造

宣帝予自於首陽山為土蔵、不墳不樹、作顧命終制、斂以時服、不設明器。
景、文皆謹奉成命、無所加焉。景帝崩、喪事制度又依宣帝故事。(晋書志礼中)
0460日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 19:24:18.87
>>441
物部守屋は本家筋の人ではなく、出雲に残った物部トオチネの子孫。
本家は物部イクメで、垂仁天皇ね。
物部政権が倒れた後も物部氏などの旧政権担当は、地方の豪族として政権を支えていました。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 19:25:35.44
>>456
>それ以前に、東海忌部の根拠が無いw

たとえば
織田信長が「忌部一族」とか伊豆神津島の「阿波命神社」とか。
また、高尾山古墳の「水銀朱」や「勾玉」などから、一発で東海忌部のお墓だと分かる。  @阿波
0462日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 19:35:32.40
>>341
>倭人伝の「大倭」は、「収租賦有邸閣。国国有市、交易有無。使大倭監之」にみえる大倭のこと。
この倭の字は、前後の文脈からみて意味不明だ
管理監督の意味においては委の字が適当であり、
委には「隅々までつまびらかにする」という意味があり、
委吏は「穀物の倉庫の管理をする役人」のことだ。・・・。

意味不明ではない。
当然魏志倭人伝の記載の「倭」であり、
「委」の文字使用は、一つもないから、混用も誤記も有り得ず、
また「壹」の文字も、「掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬」と「壹與」の時にしか使われておらず、
「倭≠壹」という使用であり、
だから、「使大倭監之」は、
「大倭を使して之を監す」と読むか、「使大倭が之を監す」と読むしかなく、
倭國や倭地に「大倭」という身分呼称があった事は、明らかである。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 19:52:01.26
>>454
>物部が天理へ現れるのは5世紀後半からだし、

何を言ってる。
布留遺跡は物部以外にない。
和田萃さんなど講演会で物部の遺跡と思われる、などではなく、
物部の遺跡である布留遺跡とはっきり言っておられる。
また西山古墳など、4世紀の大型古墳も物部以外にあるまい。

>3世紀の纏向に物部がいたという証拠は、残念ながら〜、ない。

纏向遺跡の強い瀬戸内の要素を説明できるのは物部以外にない。
また物部の謂れ痕跡ということではニギハヤヒの曾孫のイズモシコオという人物を祀る稚桜神社がある。
このようなマイナーな人物を創作して祀っても何もカッコよくはなく、箔が付かない。
これは桜井市にある稚桜神社が実在したイズモシコオと関わっていた証拠でもある。
その時期は3世紀で有り纏向古墳群の時期でもある。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 19:56:05.17
>>443
>ところで東海と物部氏の関係は?

ニギハヤヒの子ウマシマジが東海から北陸を制圧したことが物部神社社伝に書かれている。
また名古屋の味鋺祭神がウマシマジ。
味鋺は纏向の味間という地名と通じる。
また纏向遺跡の東海土器の多さもウマシマジで説明ができる。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 20:02:22.88
マスコミにとって纏向はそろそろ番茶のデガラシになってきたので、マスコミは九州に手を染め始めた印象だ。
卑弥呼の寿陵は山門権現塚、卑弥呼の墓は久留米祇園山の企画で売り込み図ると、マスコミは飛びつくかもな。
菊池狗奴国に攻め込まれて、山門の卑弥呼は邪馬台国の北部の御井まで避難して、そこで急死して祇園山に葬られた。
そして、その祇園山は卑弥呼の寿陵の山門権現塚のコピーだったと三拍子そろえば、これはもう20年は引っ張れる企画だよ。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 20:03:18.23
>>464
東海忌部だよ。  わははははは   @阿波
0467日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 20:07:59.18
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
0468日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 20:27:36.09
>>465
このように九州説は所詮が印象論で終わり
学問になることはない
0471日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 20:35:38.00
>>463
布留遺跡の工房跡は5世紀後半から。
そのあたりの古墳群もその時期。
西山古墳は4世紀とされるが、これは前方後方墳。
崇神朝や応神朝のもとで前方後方墳をつくったとすれば、別筋の勢力のものだろうな。
物部氏の古墳とは別だよ。

纏向の瀬戸内関連は箸墓後円部の特殊基台と、石塚古墳周濠の弧文板片だけ。
このうち石塚の弧文板は周濠に沈めており、この祭祀様式は近江・大和系のものであり、吉備ではこれらの祭祀具を水に沈める祭祀様式はない。吉備の墳墓は元々周濠を持たないので、水際祭祀は吉備のものではない。
弧文板は、吉備の手を離れて、近江・大和系の者の祭祀の道具とされたもの。
残るのは特殊器台だけであり、箸墓の特殊器台は吉備から直接搬入されてものなので、これだけでは物部の大和在住の証拠とはならない。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 21:09:04.32
>>463
この曾孫のイズモシコヲは、物部氏系図では代禰(大禰)と書かれている者を指していると思われるが、
この大禰(オホネ)はオホナムチ(大国主)のオホナを採ったものだと考えられるので、物部氏系図の大禰は決して小さな人物を想定していないようだ。
稚桜神社の主祭神の出雲色男命は明らかにオホナムチ神を指しており、神社の所在地も十市郡であることからして、物部氏と関連があるのかも知れない。
いずれにしても、イズモシコヲは大物だな。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 21:20:23.12
>>472

いづれにしても、稚桜神社の主祭神の出雲色男命は明らかに大和忌部だよ。   @阿波
0474日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 21:20:35.65
>>347
魏朝では文帝による度量衡の統一令があったので
明帝も「(遼東)征伐四千里」などの短里をつかったという事になる
当時の尺定規などは、魏朝は殆ど変更していなかったから、
「里歩系」の長さとは関係がなかった。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 21:25:41.59
>>349
>卑弥呼が登美家のモモソ姫

「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、×。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 21:28:24.37
>>474
>魏朝では文帝による度量衡の統一令があったので
>明帝も「(遼東)征伐四千里」などの短里をつかったという事になる

度量衡の統一令なんて
史料にない妄想だから
「四千里征伐」は洛陽から遼東までの距離のこと
つまり
 1里=約400
の正常な一里だな
0477日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 21:31:18.49
>>454
天孫本紀読んでみ。

物部十千根の代は既に石上神宮とかが出来てたりする。
6世の孫当たりではヤマトに居たと考えるのが妥当
0478日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 21:37:00.20
>>475
「正北抵新羅の倭國は北部九州」なんて妄想を
いつまでも連呼してるだけだけだから
九州説は死んだんだよ

平安時代に九州倭国なんて無いのは誰でもわかるから
そんな九州説が妄想だと
誰にでもわかる
0479日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 21:39:13.17
>>462
「使大倭監之」の読み方は、普通の漢文としては「大倭をしてこれを監せしむ」しかない。
そうすると、「大倭」の倭の字は倭人としての倭か、背の低い者という意味の倭だけなので、
それに大の字を添えた場合、「大きな背丈の倭人」か「大きな背の低い者」という内容になり、
後者は意味をなさなず、前者は管理者になぜ背の高い者を用いたのか理解しにくいということになる。
そこで、倭の字にはイの発音もあり、このイの音に委の字を当てた場合、委の字には「つまびらかにする」の意味があり、
委吏の言葉が「穀物の倉庫の管理をする役人」の意味であることから倭人伝のこの文章の文脈にぴったりだといえる。
要するに、倭人伝のこの大倭はダイワではなく、ダイイと読むのが良く、そのイ(倭)音は委(イ)に通じるので、
元々の倭人伝のダイイの発音には大委の字が書かれていたとみるのが合理的だ。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 21:40:14.86
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません


.
0481日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 21:42:14.84
>>371
>>魏使らの場合は、原則として、案内人がいて、案内してくれる。

>案内人がいるから、途中の説明や、到着の説明は要らないというのなら、
出発時の説明だっていらぬだろう。それとも、原則として案内人は途中から付いたというのか??

魏使らへの案内人は、当然、出発も途中も到着まで案内してくれるし、
しかし、魏の役人らの仕事は、「出発説明+途中説明+到着説明」の順番の記録である。
0482日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 21:48:38.28
>>380
>卑弥呼がモモソ姫

「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、×。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 21:54:33.79
>>477
ざんね〜ん。
十千根の前の人物の名は、みな神社の祭神から採ったものだ。
生身の者の名ではないようだ。
とすると、生身の者の名としては十千根が最初であり、十千根が物部氏の初代の人物だったとするのが妥当。
石上神社の名が出てきたりするのは、その系譜が平安時代に書かれたものだからだな。
十千根が大和にいたのは分かるとして、その時期は布留に刀鍛冶の工房や玉造りの工房ができた5世紀後半頃とするのが本来の系譜と思うね。
3世紀は無理じゃないか。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 22:11:06.68
>>473
大和の忌部首の本拠地は高市郡、今の橿原市忌部町だとウィキは書いてるし。
忌部首は、タケチノシコヲじゃないの。
0485日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 22:16:30.89
>>381
>日本は倭

「日本國者倭國之別種也」であり、「舊小国」。
0486日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 22:21:33.17
天孫本紀

大新河命(おおにいかわのみこと)。
この命は、纏向珠城宮(まきむくのたまきみや)で天下を治められた垂仁天皇の御世、はじめに大臣となり、
ついで物部連公(もののべのむらじのきみ)の姓を賜った。そのため、改めて大連となって、神宮をお祀りした。
大連の号は、このとき初めて起こった。
弟に、十市根命

この時に既に纏向に拠点があったかどうかだよね。
0487日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 22:22:26.64
>>483

魏書の登場人物〜w

難升米   タジマノモリ→善中郎将
都市牛利  物部十千根「入」彦→率善校尉 都市牛利の牛は子の写し間違いで、トチネイリ→トシネリ。(都市牛利に関しては、十市瓊入姫との説もある)
伊聲耆   物部イクメ「伊声耆イセシ」は古事記の「伊佐知」であり、イクメ「イリ」ビコイサチノ命=のちの垂仁天皇→率善中郎将
掖邪狗   八坂「入」彦、イクメの異母兄弟→率善中郎将
載斯烏越  武内宿祢(イクメと豊玉姫の奸計で朝貢して無役に終わる。これが第二次物部東征時に大和側の東軍に寝返るきっかけになった)
奴佳提   額田宿祢(武内宿祢の異母兄弟)

卑弥弓呼  出雲伝承では磯城王朝の彦道主之御子ヒコミチヌシノミコとしている。このころのヤマトの都は和邇であったらしい。

「イリ」はイクメの父親、イニエ(崇神天皇)にも付く名前。何しろ後の人間に分かりやすい示唆は記紀の特徴。ミマキ「イリ」ビコ
0488日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 22:26:04.60
>>483
物部トオチネは出雲の王宮を支配しましたので、島根の松江に居ましたよ
だから出雲神宝事件の当事者になるのです。
物部政権成立後、一度は出雲国造に任命されますが、千家のペテンにあってその地位を失います。

子孫は直系が現在でも生きていて、秋上氏を名乗っています。
秋上氏文書とかも出版してます。すごく難解ですが
0489日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 22:30:12.46
ヒコミチヌシの時の和邇の都って、天理市の北部に和邇下神社があるが、あの辺りが当時のヤマトの都だったようだ。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 22:40:43.25
>>481
>しかし、魏の役人らの仕事は、「出発説明+途中説明+到着説明」の順番の記録である。

そうなのか、案内人もきちんと仕事をするし、
魏の役人も「出発説明+途中説明+到着説明」の順番をきちんと記録していたわけだ。
つまり、「出発の方向と里数+途中の方向と里数+到着の方向と里数」の三つとも、正しく記録できていたということだな。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 22:41:38.78
卑弥呼 ← 宇那比姫
相誅殺男王 ← 孝霊天皇(侵略王フトニ)
臺与 ← 百襲姫
次の男王 ← 崇神天皇(ミマキ)
0492日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 22:42:32.01
>>490

倭人伝の距離の記述が途中でおかしくなったのは担当が変わったからだともいわれてるね。

出雲伝承では、伊都国で足止めされて、口で説明されたものを信じ込んだという解釈になってる。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 22:48:45.29
天孫本紀を見れば、物部東征が記紀でまとめられた神武の紀元前ではないことが分かる。
0494日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:04:00.11
あんな、突然天地水漢尺の桃が出て来ちゃう箸墓が現れたの、今まで居た倭人では造れないの、中国人に教えて貰わなければ、出雲も南九州辺りも直接は関係無いの、話繋げようが中国人が絡まなきゃ何言っても無駄。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:06:58.19
出雲伝承とやらにほんとにそんな話あるの?
0496日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:07:49.42
でも徐福はまったくお呼びで無い。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:10:42.17
>>474
見つかっている当時使われていた魏の尺定規と関係ないのなら
里歩系という独立した単位が存在していた証拠は何もなくて
そして魏では度量衡の統一令があったのなら使われていた尺度は
証拠の見つかっている普通の里のみだったという事になる
0498日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:11:37.80
>>495

30年ぶりに先代のお子さんがウサ八幡の人と同じく、伝承を公開し始めていますよ。
本にもなってる。

山幸彦物部氏、海幸彦尾張氏の祖は同じ人物で先代旧事本紀
尾張氏と海部氏は親戚で家系図が国宝。
あと、足りないのはあと出雲だけだった。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:12:27.36
>>496

お前の都合など知った事か。さっさと宿題をやれ。ワンタン野郎w
0500日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:21:07.82
中国の混乱と大飢饉、半島への新たな制圧等から流れて来た原始道教の教団が吉備、難波辺りに上陸して畿内に拠点を築いたっつうのが普通でしょ、その後東征毛人五十五…、毛人と衆夷を蔑視する人種が征服し、半島を平らげ、巨大王国を造ったんでしょ
0501日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:24:09.92
>>495

代表的な伝承を受け継ぐ旧家といえば

・出雲族より古く、物部イニエに豊玉姫を差し出したウサ族。宇佐八幡の社家も宇佐氏
これは既に伝承を公開済
・東出雲王家、杵築大社上官職筆頭の向家(今回の出雲伝承)先代は司馬遼太郎の「歴史の中の日本」に出てくる
 先々代は西郷隆盛と一緒に戦った人。
・家系図が国宝になったコノ神社(眞名井神社)の海部家
・ヒボコに嫁をやった神床家(タジマノモリ、神功皇后が繋がる)出石神社社家
・160年代の第一次物部東征、熊野勢の五瀬の子孫

他にもいろいろあるけど伝承は公開していてほぼ一致。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:24:56.19
突然現れたんで徐福なんてまったくお呼びじゃない、ワンタンは知らない人。徐福は唯の詐欺師
0503日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:26:02.41
>>501

物部トオチネの子孫の秋上氏
徐福の部下(親戚だったらしい?)の出雲大社宮司の千家

記紀の神話の時代の主だった家ってまだ続いている。

宗像家と諏訪家は宗家は断絶。
武内宿祢の子孫の(北陸)蘇我本家はまだ続いている
0504日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:26:57.41
>>502

あっそ、突然現れた割には・・だよなw
ま、旧家の伝承は一致しているから君が何か言っても意味はないけどね
0505日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:30:24.56
>>501

今回の話にはあまり関係ないけど、物部守屋の子供たちも死んでない。

守屋の屋敷だけ、四天王寺に上書きされ
蘇我氏の奥さんが物部だったので、相続の関係で石上神宮は無傷
長男は村屋神社の社家
次男は諏訪の神長官家の守矢家の三代目で養子入り。後に蚕で大設けした片倉氏を輩出。
0506日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:32:15.21
>>504
俺ならこっちだぞニグロブタチンコロw


で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その衣食住に関する生活痕たる中国系生活文物と中国系住居である

三足や耳の付いた中国系生活土器の炊飯器や調理器である鬲や鼎と

竈や釜や甑や皿や大きな双耳の付いた壺と

石刃や鉄刃の中国系耕作用農具の耜や鋤と

中粒種の中国系イネと 瓦屋根に土壁の中国系住居と

漢服と木沓と 龍信仰と亀卜と

渡来時に伝わった中国系言語の単語と

原始漢字の文章を記した金石文や木簡や竹簡や経木や筆や墨や硯と

山東省生まれの蒸し餃子やワンタンは?


で、徐福集団が渡来定着したとギャグ飛ばしてる頭の中がメルヘンファンタジーな
ナンチャッテ考古学者の論文は?


早く持ってこいよ持ってこいよ持ってこい! 中卒ブタニガーチンコロw
0507日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:32:47.27
>>506

くっそwwww
0508日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:41:42.86
漢代は國皆稱王丗丗傳統であったので邪馬臺國に居すのが倭の大王(大倭王)
卑弥呼を女王に共立して租賦、交易を監察する大倭政権となったわけだな
0509日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:42:17.89
まあまさに詐欺師だよな
0510日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/14(水) 23:47:06.87
豊玉姫の実家がウサ家なんだけどさ、偽書に載った人が自分の家の卑弥呼かどうか、分からん筈がないじゃんw
0511日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 00:04:38.19
>>486
物部氏系図では、十千根〜アラカイまでの人物は8人。
一人が当主を務める年数を平均10年とすると、十千根〜アラカイの間は80年になる。
アラカイは継体天皇のときに活躍しているので、継体天皇の崩御年である531年から十千根までの80年を引くと451年となり、
この451年はほぼ5世紀半ばであり、布留に刀鍛冶工房が現われる5世紀後半と近い年数になる。
十千根が布留の工房を運営し始めたのはこの頃だ、とするのは妥当ではないだろうか。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 00:15:14.69
>>511

たしか、旧都和邇は石上神宮のあたりだったかと。
どうもそこで政治をやったらしい。

石上神宮の武器庫の故事は、イクメとヒバス姫の御子である、イニシキイリ彦が
鉄剣1000本を作って石上神宮に納めた件じゃないかと。
0513日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 00:16:08.36
>>468
いや、この企画が歴史の真実なのよ。
真実だからリアリティがある。
卑弥呼の骨は、祇園山の墳丘裾部の最も上の平坦地に埋納されている。
後にその上に方墳を造ったのは、卑弥呼の墓が荒らされないようにカモフラージュしたのだろうな。
方墳から出たとされる三角縁神獣鏡が、それを物語っている。
纏向に飽きたマスコミたちは、この卑弥呼のミステリーに果たしてたどり着けるだろうか。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 00:27:30.15
>>513

出雲王家の最初の本が吉田さんによる「謎の出雲帝国」
その人が別に書いた本「龍神よ我に来たれ」の抜粋

 (日本の神社など、つぶされてしまうだろう。いや、明日のことさえわからないのだ)広瀬宮司は酔いにまかせて、「神社にはいろいろ秘密があるだろうが、ここまできたんだ、お互いにバラしてしまおうじゃないか」と、
宮司に言いました。「いいとも。なんでも話そう」「お前さんのところの祭神は、アマテラスだとか天のミクマリだとか言われているが、いったいどんな神さんを祭っているのかね」
「うむ……。実は、主祭神は出雲の大神さんなんだ。あんたのほうは?」「中央は空位でね、左がミホツ姫とオオクニヌシ。右は天つヒコネの命と、天のヒナドリの命となっている」。
籠神社では、祭神を知っていても公表しなかったのです。(いつ、弾圧されるかわからない)そう考えてのことでしょう。出雲大神宮の中央の空座には、クナトの大神が鎮座していたに違いありません。
何代目かの宮司が危険を感じ、どこかへ遷座するなどして、心の中では礼拝を続けていたのでしょう。しかし、数代、数十年たつうち、祭神が不明になったものと思われます。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 00:30:00.84
ここに書き込んでいる九州説は邪馬台国の会から金を貰ってるバイト
0516日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 00:33:11.69
>>513

出雲伝承だと豊玉姫卑弥呼はこんな感じ

248年、豊玉姫は多祁理の宮で亡くなった。遺体は厳島に仮埋葬され、その後遺骨は宇佐に戻された。
遺骨の一部は宇佐神宮の本殿の二ノ御殿の下に、ウサ王家の祖先とともに姫大神として祀られている。

此処から推
お墓は神宮の奥宮の山中に墳墓があると言われ、それではないか。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 00:33:37.70
>>512
垂仁天皇のときのエピソードだね。

刀鍛冶の物部氏が、王権のもとで天皇や有力豪族などに刀を納める職務を担ったのだろう。
垂仁天皇のときに1000口の刀を石上神宮に納めたとするエピソードは、この物部氏の職務と関連があるのではないか。
また、岡山赤磐市の神社が持っていたフツ刀を布留の石上神宮へ移したとされるのも、物部氏が刀作りの総本山となっていたためだろう。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 00:39:52.49
>>517

といいますか、石上神宮が東征後の奈良の物部氏の実家と言いますかw
蘇我氏の奥さんの物部氏の実家でもあるといいますかw
0519日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 00:55:03.92
>>517
布留遺跡では、刀の柄とする木製柄頭が大量に出土している。
イニシキイリヒコが和泉の刀鍛冶に造らせた1000本の刀とは、まだ柄を取り付けていない刀身であった可能性もあるかも。
そうした刀身に柄を取り付けて鞘に収め、豪族などに納入したのかもしれない。
0520日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 00:56:51.90
全ての旧家で文書化されてきた伝承は絶対に徐福を参照しない。
口伝で残ってきたものだけ、これは徐福なんだぞと受け継いできた。

徐福どころか、物部すら隠さなければならない時代だってあった

>「高良大社の文書、高良記(中世末期成立)には、玉垂命が物部であることは秘すべし、
それが洩れたら全山滅亡だと、穏やかではないことが書かれている。」

という本が今では「高良玉垂宮神秘書・同紙背」となって出ているのだw
0521日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 01:06:32.55
>>519
いずれにしても、物部氏が大和に現れるのは5世紀後半頃。
蘇我氏の奥さんの実家となるのはずっとあとのことでは。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 01:12:18.43
>>519
石上神宮の磐座遺跡から出た剣
神話の時代の七支刀は何とか現存
フツノミツタマノツルギはボロボロの状態だったそうですね
0523日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 01:16:15.10
>>521
いえ、イクメ時代が、いわゆる邪馬台国事件のあった三世紀なんです。
だから、魏書にイクメの別名、イサチと、三角縁神獣鏡を倭国で生産して配りまくった武内宿祢が出てくるんです
0525日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 07:28:52.13
>>491
>卑弥呼 ← 宇那比姫

一皇女であり女王ではない。
あと勘注系図に日女命と書かれてるからヒミコを連想すると思うけど、
日女をピンインで検索してみ。
ri nu
卑弥呼 bei mi hu とは全然違う。

つまりこれは日本語でしかヒミコの発音に近くないのせで、
日本側がわざとヒミコにイメージを連想させるように挿入した証拠になる。

そういうわけで宇那比姫説はありえない。
というか曲学さんの説をパクるな。
0526日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 07:59:54.04
>>525
どうでもよい。

妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。

まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 

碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波   
0528日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 08:04:10.99
>>526
>王都たる集落遺跡の筈。

おきのどくになあ、阿波徳島には集落程度の王都しかなかったのか。。。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 08:16:01.55
>>382
>記紀では二回にわたる物部東征をハツクニシラスの前に合体して持ってきたので
卑弥呼もそうせざるを得ませんでした。・・・

九州倭國の卑弥呼を「半分偽書である大和の記紀」に合体させた説明になったら、
そりゃ×だな。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 08:22:16.65
>>529
「半分偽書」とか言って
都合の良い個所だけ使い
都合の悪い個所は無視する

こういうのをチェリーピッキングの詐欺といいます
0531日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 08:30:53.65
>>400
実際いつも具体的に
思い込みの激しさを指摘されてるのは
徐福説や大和説や阿波説の方じゃなかった?

だって今回もまた、具体的な事実の指摘や、反論ができないでいるだろ?
0532日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 08:31:47.87
大和の正史である記紀とも中国の記録とも整合しない畿内説というファンタジー小説を唱えるだけの信者あわれ
0533日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 08:33:29.30
>>402
ほら、また大和説者らは
具体的なら史料事実の提示や指摘ができないで
事実に反することを言ってる
どちらが思い込みか、明らかだろ?
大和説者側が思い込みオンリーだ
0534日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 08:41:09.28
>>407
大和説と阿波説:史料事実や史料実態を曲解否定する嘘つき騙しの思想宗教的似非学問
九州王朝説:史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論の学問や科学
その他の九州諸説:史料事実や史料実態との細かい矛盾があるが、許容範囲
0535日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 08:44:09.44
>>534
でも、九州説って
史料事実や史料から何か帰納したり
確率の計算をしたりというは
絶対にしないんでしょ?

言ってることがおかしいよね
0536日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 08:45:28.46
>>535
それやった結果はすべて九州という結果が出てたよな
確かAI使ってたはずだ
0537日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 08:49:42.66
>>531
旧家は徐福説と九州説なんだけど、なるほどダメかぁ。

じゃ、九州説は完全に死亡という事でw
0538日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 08:50:20.77
>>535
でも畿内説だと、
何度やっても絶対にあわないんでしょ。 言ってることがおかしいよね
0539日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 08:53:10.64
>>418
それはお前だ
大和説は、皇国史観極右の組織の、
ヘイトスピーチ殺戮戦争狂下部組織のバイト
0540日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 09:01:16.85
>>432
>東夷伝で倭人特有の卜骨は本州各地からたくさん出ており
日本アルプスの東の関東からも多く出ている
九州からは2カ所だけ

ト骨は、当然、縄文毛人蝦夷や出雲系の習俗であり、
九州にも毛人らはいたが、渡来倭人の支配下になってからは、廃れたもの。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 09:14:44.15
>>536

AIで、奈良のヤマトと、九州の偽装大和である邪馬台国の存在は導き出せんだろ
0542日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 09:21:16.13
ウサ家ってなんだよそれ😃?
0544日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 09:32:53.87
>>534
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、

九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治
天皇行幸まで一切無いこと。

なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?

九州に「邪馬台国女王制国家」倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波
0545日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 09:40:19.97
>>544
九州親征の話ならあるじゃん
0546日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 09:43:00.48
>>543

ぶち倒す相手もいないのに東征なんてするんかい
0547日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 09:53:03.17
畿内説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、

畿内には近場の有馬温泉や白浜温泉があるのに、

なんで、遠くて危険な渡海を要する四国の道後温泉より、天皇行幸がずっと遅れたのだろうか?

畿内に「邪馬台国女王制国家」倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波
0548日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 09:54:58.49
夢でも見てるんじゃねえの?
0549日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 09:59:06.45
>>539

竹島どろぼう反日種族
0550日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 10:02:12.24
>>548
四国の方半分は出土物から見ても出雲系の支配下なんだけど、そういうの分かって無い人だから
0551日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 10:03:13.59
>>540

ト骨は、弥生時代前期になってから山陰、大和、愛媛で出土する
「其辭如令龜法 視火坼占兆」
0552日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 10:07:08.36
>>550
>四国の方半分は出土物から見ても出雲系の支配下

夢でも見てるんじゃねえの?   @阿波
0553日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 10:21:03.25
ほう、阿波は徐福の支配下だったんですか阿波先生☺、先生の表札は秦の度量衡のサイズの板に篆書体ですか?羨ましい
0554日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 10:33:02.50
播磨有馬温泉への天皇の行幸:第34代舒明天皇から。

南紀白浜温泉への天皇の行幸:第35代斉明天皇から。

それ以前の天皇は、四国道後温泉だけしか行幸していない。

このことから、第34代舒明天皇の御宇頃から 、倭国(阿波)から奈良大和への、王都遷都の関心が高まったとみられる。   @阿波
0555日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 10:35:21.50
>>538
>でも畿内説だと、
>何度やっても絶対にあわないんでしょ。

何が「あわない」んだか
九州説の人が書く日本語はいつも意味不明
0556日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 10:39:31.99
>>536
>それやった結果はすべて九州という結果が出てたよな

このように決して具体的な内容を言わず
出典も示さず
風評の流布に終始する

それが九州説
0557日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 10:43:49.45
徐福が出た瞬間に中卒のスレ
0558日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 11:09:23.17
日本の天皇の呼び名は東夷王(天皇)なんだが
0559日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 11:10:11.75
別に倭王じゃねえよ

モンゴルのやつらは日本を攻めるときに

日本の王を東夷王と呼んどる
0560日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 11:12:34.37
別に違うかもしれんがそお呼んでるわけ

そいから俺の意見も間違ってるかもしれん😃

てめえら責任なすり付ける場合だけ人の話を信じるからな
0561日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 11:21:17.45
>>437
>ダメダメ。
誰かも既に書いているように、島伝いにぐるっとコンバットだから、九州だけじゃないの。
倭地、は倭国よりも広い倭種が住むエリア。

ダメダメ。
既に書いているように、女王國東渡海千餘里して、其南に向かって陸行參問して、
女王國から四千余里になるような場所は、足摺付近しかないの。
だから、魏の役人らは、復有國皆倭種の中で、実地に參問倭地出来たのは、
四国の西岸地域にしかならないのであり、それ以上東へは行っていないの。
勿論、「又有裸國、K齒國復在其東南,船行一年可至」の情報は、
足摺岬付近からのアメリカ大陸の中南米への船行の話であり、
倭種の倭人から伝聞した事になる。


倭地、は倭国よりも広い倭種が住むエリア。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 11:35:15.15
>>449
>古事記欠史八代の天皇の贈り名に倭の字が使われているのはヤマトの発音。
日本書紀ではこの部分は日本の字になっているので、倭もヤマトと読むのがよい。

古事記と書紀の記載違いに関しては、
先に書かれた古事記の方が、古伝承をそのまま記載してしまった部分がある可能性が高く、
後から書かれた書紀は、古事記に書かれた古伝承の内で、
大和政権にとっては都合の悪い伝承を抹殺改竄した可能性が非常に高くなるもの。
従って、欠史八代の内の4人の称号に関しては、「大倭」の方が古伝承であり、
日本書紀の欠史八代の中の4人の称号に関して「大倭→日本」の書き換えがあった、
という可能性の方が高い。
0563日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 11:45:32.70
>>450
>>「西服眾夷六十六國」は、
「西は衆夷66国が既に服属し終わっている」という過去形の意味になる。

>漢文法がメチャクチャだな
「服」が動詞で目的語が「眾夷六十六國」なら
「服」は他動詞に読むしかない

「服」が目的語を持った他動詞的に使用していたのであれば、
漢文での動詞は、自動詞にも他動詞にも解せるものだから、
「服属せしめ終えていた」と解すれば良い事になるだけ。

大和説学者や東大理系博士号自称男らは、漢文が読めない人ばかりから
大和説はいつもデタラメだ
0564日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 11:56:40.36
>>563
>「服」が目的語を持った他動詞的に使用していたのであれば、
>漢文での動詞は、自動詞にも他動詞にも解せるものだから、
>「服属せしめ終えていた」と解すれば良い事になるだけ。

「西服眾夷六十六國」に
「終えていた」と勝手に書き加えたら
それは捏造

九州説は史料を改竄捏造するインチキ説ということになるだけ
0565日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:04:12.28
具体的な説明がないとかいう奴に限って具体的な話がない

ならと、唯一の補完として旧家の伝承ということになるが、当事者でもないのに文句を言う

天皇陛下のハンコ付きの紙切れが出てくるまでおとなしくしてたら?w
0566日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:08:05.28
>>563
>「服」が目的語を持った他動詞的に使用していたのであれば、
>漢文での動詞は、自動詞にも他動詞にも解せるものだから、

「西服眾夷六十六國」は
動詞「服」が目的語「眾夷六十六國」をとるので他動詞にしか解せない
漢文の読めない九州説信者の言うことは
いつもデタラメだな
0567日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:08:34.50
>>562

古事記と日本書紀の役割が違うからでしょ

大陸の朝貢には古事記を。
一般人は日本書紀。

だから神改で、日本の神社は日本書紀風の神様に書き換えられてきたんだよ。

美保関の美保神社は出雲のお姫様ミホススミだけど、ミホツ姫になるとか。
明治の時は半島の神様はかなり圧迫を受けたから、白髭神社なんてみーんなタケミナカタになってる。
ヒボコをまともに祀るなんて兵主神社と、出石神社くらいのもの。
0568日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:10:10.37
>>565
>具体的な説明がないとかいう奴に限って具体的な話がない

それが自分自身の投稿>>565に該当している件について
0569日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:10:13.87
>>557
徐福が出た瞬間に脊髄反射のスレ
0570日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:11:56.54
>>552
銅剣と銅鐸の出土は、阿波さんが何を言っても変わらないよ。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:13:14.25
>>568
資料はまさかの魏志倭人伝と記紀なのか?

せめて先代旧事本紀くらい入れてやれよw
0572日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:14:22.50
バカやなほんと😃

支那土人ぶっ殺すか?
 
ここまで話が通じないなら殺すしかねえぞ🤪
0573日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:16:11.78
>>570
>銅剣と銅鐸の出土は、阿波さんが何を言っても変わらないよ。


「銅剣・銅鉾文化圏」 と 「銅鐸文化圏」、さらに「銅鏡文化圏」 これらすべての青銅器分布が含まれているのは唯一倭国(阿波)だけ。

それらが重なる位置の倭国(阿波)が、「銅剣・銅鉾文化」および「銅鐸文化」

さらに「銅鏡文化圏」の、まさに発信地といえる。 

これは、倭の王権が「倭国(阿波)」に在ったことの明らかな証拠。  

 「銅鉾/銅鐸分布」 https://i.imgur.com/QsuokqV.png

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0574日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:17:56.10
>>554
古伝承とかじゃなくて史書のきちんとした記録だと、天皇行幸のあった温湯って有馬が一等古くないか?
0575日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:20:41.74
>>570は、倭国(阿波)に対して、何一つ論理的な反論ができないw    @阿波
0576日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:22:26.43
>>573
>「銅剣・銅鉾文化圏」 と 「銅鐸文化圏」、さらに「銅鏡文化圏」 これらすべての青銅器分布が含まれているのは唯一倭国(阿波)だけ。

両方の文化圏の境目なだけじゃね?
数はそんなに多くないもの
0577日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:23:11.28
570
おめえの場合はただのバカ
0578日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:24:32.42
>>573

四国の北側にしかほとんど出ない出雲型銅剣と、四国東にしか出ない時代の新しい機内型銅鐸
後漢時代の銅鏡だって物部東遷ルートにしか出ないでしょ。

あなた基本的なところから押さえてないじゃん
0579日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:28:08.94
タコかこいつら

死ぬ目に合えば物分かりよくなるかな?😃
0580日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:38:05.99
諡って和式と漢式があるが、確か確立されたのは先代旧事本紀の出来た時代だった気がする。

しかし、イクメの名前にイサチが入るなど、生前の偽名を知らなければつけれない名前が入ってたりする。
ま、今から2000年前の話よりは、記紀成立から700年なら余裕で歴史を遡れたって事だわな
0581日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:41:13.25
>>576
>両方の文化圏の境目なだけじゃね?


これらすべての青銅器分布が含まれているのは唯一倭国(阿波)だけ。

それらが重なる位置の倭国(阿波)が、「銅剣・銅鉾文化」および「銅鐸文化」

さらに「銅鏡文化圏」の、まさに発信地といえる。   

この分布に外れる地域は、倭国の中心足り得ない!   @阿波 
0582日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:43:19.37
>>581
含まれていると言うだけで、出るものは新しいし、出土する地域も偏りがあるって話でしょ。

話を聞きなよw
0583日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:45:58.03
>>582
>出るものは新しいし

なにが?   @阿波
0584日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:46:35.18
『市教委によると、剣や矛などの青銅器は、紀元前3世紀ごろに伝来してまもなく国内生産が始まった。
一方、同遺跡の調査に携わった九州考古学会会長の武末純一・福岡大教授らによると、
鏡の鋳型は寺徳古墳(福岡県久留米市)などの紀元後1世紀ごろの出土品が最古級とされていた。
遺跡の竪穴住居では昨年、鋳型と同時期の紀元前2世紀ごろの剣や矛など青銅器の鋳型が大量に出土。』

なるほど
0585日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:47:06.49
漢だの主張してるやつらがいるならいい目安じゃん😃

あぶり出しに使えるわ
0586日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:48:09.40
ぶん殴ってそいつらの首を斬り落とせばよいやん😊

すっきりするぜ気分的にもよ
0587日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:56:24.74
血の繋がりのある先祖なら、女王なのにそれを隠し、200ヵ国にも及ぶ大国の倭武王すら誰だかわからんようにしてる訳がない、簒奪者の記紀の勝手な諡名を信じる訳にはいかない。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 12:56:33.01
>>583
銅鐸の写真でも見てこい。
見て判断できないのなら貴方は思い込みの人間だよ。
0589日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 13:02:12.98
>>587
いみなの制度で遡れるのは継体天皇位まで。
それまでは死後の名前とは限らない。
制度的に成立した年代くらい押さえておくべき
0590日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 13:03:33.07
>>584
これってどこの遺跡の話ですか?
0591日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 13:11:37.52
>>588
>銅鐸の写真でも見てこい。
>見て判断できないのなら貴方は思い込みの人間だよ。

これも新しいのかね?  判断できないから教えてください。   @阿波
↓ 
伝 美馬郡脇町江原 小銅鐸 6.2cm
0592日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 13:15:09.74
>>591
四国の北、瀬戸内海方面だろ。
住所で一発アウト
0593日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 13:17:22.62
>>591

それと、阿波には後世の大型になった後の畿内型が中心でしょ。数的に圧倒的に。
0594日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 13:22:24.07
>>590  福岡市内の須玖タカウタ遺跡だろ

遺跡の竪穴住居では昨年、鋳型と同時期の紀元前2世紀ごろの剣や矛など
青銅器の鋳型が大量に出土。
多鈕鏡の鋳型は近くの墓から見つかったが、
石材が似ていることから同時期のものと判断したという。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 13:22:30.22
>>592
>四国の北、瀬戸内海方面だろ。


旧美馬郡脇町が?  なに言ってんの?   @阿波
0596日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 13:26:33.27
>>593
>それと、阿波には後世の大型になった後の畿内型が中心でしょ。数的に圧倒的に。

小銅鐸から中型銅鐸、大型銅鐸と、いろいろ取り揃えております。
ところで
これも新しいのかね?  判断できないから教えてください。   @阿波
↓ 
伝 美馬郡脇町江原 小銅鐸 6.2cm
0597日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 13:27:53.95
>>595
物部川あたりで出たのならまだしも
あの場所じゃあね

それと、分布って話分かります?一個じゃダメなんだよ?
四国の北側は出雲型銅剣と吉備時代の両方が出る地域だったはずだぞ。
0598日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 13:29:27.40
>>594
情報有難うございます。
0599日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 13:32:24.17
>>597
>四国の北側は出雲型銅剣と吉備時代の両方が出る地域だったはずだぞ。

それがどうかしたかい? ぜんぶ「阿波」から伝播したものだよ、石頭君!  わははははは   @阿波
0600日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 13:34:50.10
>>599

嘆かわしいw
青銅器のキモは錫。
日本ではほとんど出ない。吉野ヶ里遺跡では錫インゴットが出たけどね。
阿波が青銅器の中心になる事はあり得ない。
水銀に目をつけたのは慧眼と言えようが。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 13:44:20.54
>>600
水銀は奈良や三重でも取れてるから阿波全滅
0602日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 13:47:29.23
>>581
>これらすべての青銅器分布が含まれているのは唯一倭国(阿波)だけ。

アッチにもコッチにもペコペコしてただけかもよ
0603日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 13:58:43.57
.



◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!


.
0604日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 14:54:09.00
九州説ってダメでしょう

末盧国から東南陸行
 1 ごまかさない
 2 ごまかす

1:対外交流の核、糸島や博多を通らないで女王国へ→ありえない
2:ごまかしたら学説になれない→即死

九州説が死亡してます
0605日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 15:23:55.47
>>601

青銅器と錫のお話

http://doutaku.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_22c9.html

当時、鈴をを輸入できたのは九州と大和だけ。
出雲の銅鐸ですら初期以外は畿内生産。

吉備王国の祖になった葛城フトニ王は、出雲の祭祀が銅鐸から物部から影響を受けた銅剣に切り替えたことを不快に思っていたのも出雲に侵攻した理由とも言われている。

戦争終結の講和条件には、出雲青銅を寄越せと言ってきた。
故に、西出雲王家のインゴットだけ渡し、東出雲の✖の印がつく物が、銅剣と銅鐸の大量に出てきた遺跡で出土した。

後にそれがバレてもう一度出雲は吉備に攻撃されるがw
0606日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 15:46:22.45
だから卑弥呼の次の国中不服男王は侵略王フトニ(孝霊天皇)だろ

で、フトニが戦死か暗殺か何らかの理由で皇位を降ろされたかで、
次の皇位に付いた臺与がフトニの娘の諡号で百襲姫と

ちゃんと整合している

卑弥呼←宇那比姫
国中不服男王←侵略王フトニ
臺与←百襲姫
0607日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 15:51:04.57
>>606
フトニさん揉め事は180年代だから3世紀では無いのです
0608日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 16:19:11.61
>>607
フトニの侵略が180年頃だとすると百襲姫が卑弥呼になるけど、
卑弥呼の甥の息子の崇神天皇が3C初めから前半中頃に生まれた事になってしまう

通説とぜんぜん整合しない
0609日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 16:27:32.64
>>608

はい。
モモソ姫は160年代の熊野勢侵攻の時だから、フトニ王とは相当宜しい線でかすってます。

しかしトヨは、魏書の朝貢以降になるので合いません。
物部イクメイコール垂仁天皇の娘の大和姫ならあいますが、乗っ取り側のヒメなので大和姫もトヨ様ではありません。
後に天ウズメにされる豊来入姫=豊鋤入姫がトヨ様です。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 16:35:49.32
>>581

という事で、青銅のそのものの生産と、極端に言えば鋳型さえあれば溶かし直していつでも作り直せる青銅器の制作とは大きく意味が違うということです。
出雲は錫はなく、銅と鉄が出ましたので、大和に交易品として出して、完成品の銅鐸を大和から交換で入手していました。

大陸からきた海童一族が構造船の技術を持っていたから、海幸彦と、山幸彦しか事実上錫は入手出来ませんでした。
そこに目をつけて怪人族と呼ばれる存在になったのが、物部氏の祖になった人物に嫁さんをやった宗方家です。
出雲の第6代王家からの分家で、九州に勢力を持ってました。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 16:38:44.10
故に、戦略物資の錫は、正規ルートが伊都国の畿内大和ルート。

並行輸入や密輸ルートは九州しか無いわけです。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 16:49:25.69
>>608
>通説とぜんぜん整合しない

いや、2世紀3世紀にナニ天皇が西暦何年とか
そんな通説ねえだろう
0613日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 16:58:31.25
銅鐸に限らずですが、国内の青銅器は時代を追うごとに錫の含有量が少なくなり、銅の比率が高まっていきます。

もしかしたら、錫の入手は九州に山幸彦が中心で、大和の出先の伊都で、売り込んでいた可能性もあります。

3世紀の邪馬台国事件では、イクメはトヨに張政を送らせた後に裏切って大和から追い出します。

その際に魏と縁切りしてます。

それもありしばらく錫は手に入らない状態になったのかもしれません
0614日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 17:00:00.93
>>593
>それと、阿波には後世の大型になった後の畿内型が中心でしょ。数的に圧倒的に。


小銅鐸から中型銅鐸、大型銅鐸と、いろいろ取り揃えております。

ところで
これも新しいのかね?  判断できないから教えてください。   @阿波
↓ 
伝 美馬郡脇町江原 小銅鐸 6.2cm
0615日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 17:00:48.21
>>609
それだと崇神天皇の誕生年が3C初めから前半中頃で、即位が250年頃で、
266年頃に娘の豊鋤入姫が即位した事になるけど、崇神陵が4C前半末頃だから
整合しないな

崇神陵は須恵器が出てるから4C後半の可能性もあるんだよね
0616日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 17:11:25.11
>>614
運ばれてきた銅鐸としか判断できませんが?

それでよろしいですか?w
0617日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 17:19:11.77
>>616
>運ばれてきた銅鐸としか判断できませんが?


銅鐸の出土数もさることながら、 銅鐸の出土遺跡の多さに驚かされる。
まさに、倭国(阿波)は、銅鐸王国。   @阿波

徳島県の銅鐸出土地
『日本古代遺跡37徳島』14ページより  後ろの数値は銅鐸の高さ(cm)
                       
1. 檜銅鐸           鳴門市大麻町檜字乾谷    90
2.神宅銅鐸         板野郡上板町神宅      41
3. 川島銅鐸          麻植郡川島町神後     45.6
4. 森藤銅鐸         麻植郡鴨島町森藤      21
5. 牛島銅鐸         麻植郡鴨島町上浦      34.7
6. 伝久勝銅鐸        阿波郡阿波町久勝   
7. 久千田銅鐸        阿波郡阿波町久勝      30
8. 伝榎瀬銅鐸        徳島市川内町榎瀬      44.5
9. 星河内美田1号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
10. 星河内美田2号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
11. 星河内美田3号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
12. 星河内美田4号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
13. 星河内美田5号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
14. 星河内美田6号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
15. 星河内美田7号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
16. 源田1号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   41.3
17. 源田2号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   41.3
18. 源田3号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   52.0
0618日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 17:19:58.47
19. 安都真1号銅鐸     徳島市入田町安都真     29.5
20. 安都真2号銅鐸     徳島市入田町安都真     21.7
21. 安都真3号銅鐸     徳島市入田町安都真     24.6
22. 安都真4号銅鐸     徳島市入田町安都真     21
23. 名東銅鐸        徳島市名東1丁目       40
24. 多家良銅鐸       徳島市八多町多家良     90.9
25. 多家良銅鐸       徳島市八多町多家良     45.4
26. 伝福万谷銅鐸      徳島市八万町福万谷     
27. 勢合銅鐸        小松島市立江町赤石     36
28. 畑田銅鐸        阿南市下大野町畑田     54.02
29. 八貫渡銅鐸       阿南市下大野町八貫渡    
30. 才見銅鐸        阿南市才見町
31. 長者原1号銅鐸     阿南市山口町長者原     64.25
32. 長者原2号銅鐸     阿南市山口町長者原     41
33. 田村谷銅鐸       阿南市山口町田村谷     62 
34. 曲がり1号銅鐸     阿南市椿町曲り          42.4
35. 曲がり1号銅鐸     阿南市椿町曲り          31
36. 伝長生銅鐸       那賀郡長生町
37. 榎名銅鐸        三好郡西祖谷山村榎名     推定55
38. 伝吉野川沿岸銅鐸   美馬郡脇町拝原        6.2
39. 伝脇町銅鐸
40. 伝阿波銅鐸
41. 江原小銅鐸

遺跡発掘後進県なのに、なぜ徳島で、このように非常に多くの場所から出土するのだろうか?  あとは推して知るべし。   @阿波
0619日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 17:22:25.29
>>616
>運ばれてきた銅鐸としか判断できませんが?


無知の井戸かわず(蛙)。  わははははは   @阿波
0620日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 17:47:55.09
>>615
>崇神陵は須恵器が出てるから4C後半の可能性もあるんだよね

いやそれ、池の中からだから
0621日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 17:52:54.09
>>620
>いやそれ、池の中からだから

井戸じゃないの?

無知の井戸かわず(蛙)。  わははははは   @阿波
0622日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 18:16:14.65
行灯山は4世紀初頭だな。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 18:23:40.24
銅鐸出土地には神とか加茂、鴨という地名が多いはず。
加茂岩倉、神庭荒神谷など。
またそこには地祇、国津神系神社があるはず。
近くに前方後円墳があると銅鐸は破砕されてる場合が多いはず。
前方後円墳と銅鐸文化は相入れなかったからね。
0624日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 18:25:34.20
>>622
それでもキツイな

崇神が100歳近く生きたという事になっちまう
0625日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 18:35:13.29
>>624
何で?
3世紀後半に生まれ4世紀前半、おそらく古事記の没年干支を信用して318年没だろうが。
応神が390年元年、仲哀が362年没、成務が355年没、景行、垂仁不明、崇神318年没。

考古学的にも整合するし何も問題がないと思われるが。
0626日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 18:36:29.45
>>624
実在の人物だと決めてかかるから
いけないだけだな
0627日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 18:41:52.17
>>625
フトニ侵略が180年で百襲姫誕生が160年代なんだろ?

崇神は百襲姫の甥の息子

年齢差は40年くらいだから、崇神誕生は210年頃になるぞ
0628日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 18:41:58.12
崇神が318年没の時点で、その何十年か前にいる最高位のトヨは一人であって、
その住処は>>1のいう纏向ではない、葛城だ。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 18:42:40.45
>>625
崇神を卑弥呼似のモモ襲姫に合わせているのだから、崇神の時代は3世紀半ば頃。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 18:43:02.10
フトニ侵略って何の話だ、知らんわボケ。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 18:44:31.95
>>629
モモソヒメは一皇女であり女王ではない。
またその時代は4世紀初頭。
卑弥呼であるわけがない。
0632日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 18:48:59.88
>>629
それだと崇神崩御=臺与即位の266年頃だから、崇神陵の築造時代と合わないだろ
0633日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 18:53:48.85
>>628
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。

まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 

碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波   
0634日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 18:56:27.52
>>631
やっぱ


卑弥呼←宇那比姫
国中不服男王←侵略王フトニ(孝霊天皇)
臺与←百襲姫(フトニの娘)
次の男王←崇神天皇


の方が整合してるやろ
0635日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 18:58:41.64
>>634

なにをどう勘違いしたらそんな妄想が湧いてくるんだい?  わははははは   @阿波
0636日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 19:49:41.10
>>457
>>倭國は、唐代まで、「正北抵新羅」であるから、北部九州。

>平安時代にもまだ「九州倭国」なんてものがあったとか
九州説も妄想はもう病的だね

唐代まで、と言っているのに、
勝手に「平安時代」と摩り替えるこの男(おそらく東大理系大和説自称男)の詐欺性は、
最早病的だな。

>「正北抵新羅」というのは宋の頃になってもまだ方位を間違えて
日本列島が朝鮮半島の南、浙江省の東あたりに北から南へ伸びていたと
中国側が間違った地理観を持っていたことを示す史料事実だ

ダメだ。「西北接百濟」は百済のほぼ東南にある、という意味であり、
「正北抵新羅」は新羅のほぼ真南にある、という意味であり、
その両方の交点が北部九州になる事になり、
「浙江省の東あたり」なんてインチキを書いたこの男は、
嘘つき騙しの詐欺師であった、という事になるだけだ。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 19:54:24.42
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
0638日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 20:02:01.60
>>459
>>西晋になれば、魏の薄葬令の制約がとれ、倭國も「天円地方墓」を開始出来る。

>真っ赤なウソ 魏と同じく、晋でも薄葬の終制が続いてる
九州説は史料に基づかず脳内で作られたニセモノの歴史 つまり捏造

ダメだ。
卑弥呼は魏代の魏帝から親魏倭王を拝命しており、
壹與も、魏代である内は、薄葬令に従わなくてはならないのであるが、
266年の遣使が「天円地方」の思想を教授された時点で、
西晋からの薄葬令の制約が取れた、と当然受け止める事になる。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 20:09:00.81
>>467
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、×。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 20:12:31.57
>>468
このように「南→東」や「冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の否定」などの、史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説は、
所詮「口先騙しの印象論」で終わり
学問になることはない
0641日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 20:18:07.12
>>606

ごめんなさい、嘘書いちゃいましたw

吉備王国の成立はヒボコ勢の播磨侵攻と関係していますので180年代だと大彦の頃まで行ってしまいます。

150年頃ヒボコ播磨侵攻→葛城国と尾張氏にボコボコにされ、淡路島に逃げる
それから葛城国のフトニが侵攻。なんと吉備まで占領します。ちょうど地理的には出雲の真南あたりまで。
160年頃フトニ(孝霊天皇)が出雲に戦争を仕掛けます。西出雲の青銅インゴットゲット。そしてヤマトに帰れなくなります。倭は荒れます。
165年頃、物部五瀬が東征開始。
175年、磯城登美家の八咫烏が物部氏を手引きし、ヤマトの戦乱終結に導きます。
183年大彦が破れ北に退く(孝元天皇・クニクルの代)
この辺は、頑張って符号させると大陸の史書に出ている年号になります。

モモソ姫は180年代ころの人で、五瀬の東征開始と同時期と思い込んで書き込みしちゃってました。
ちなみに、クニクルのお嬢さんとタカクラジの子孫が結婚します。だから、武内宿祢は磯城、物部、出雲の全ての血が入ってる名門でした。

孝元天皇は磯城登美家の卑弥呼、クニアレ姫と結婚し、その娘が卑弥呼モモソ姫になっています。
ただし、娘ではなく、磯城登家の分家、太田家の姫ではないかとも言われています。
まあ、時期的には180年代までは存命という認識で居て下さい。
フトニさんのほうがモモソ姫より前になります。

基本的に、三輪山祭祀、姫巫女職(卑弥呼)は出雲の分家、磯城登美家の世襲になっていました。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 20:40:25.56
>>617

銅鐸の基本ね
1世紀末ごろを境にして急に大型化する
近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産された。
近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地方に、
三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、
例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸にそれぞれ分布する。
2世紀末葉になると近畿式のみとなる。(銅鐸が統一される)
3世紀になると突然造られなくなる。
青銅文化は、銅矛、銅剣、銅鐸共に3世紀(卑弥呼の時代)に無くなる感じ。

何故か同じ時代に吉野ケ里の様な大陸様式の環濠集落も突然に国を捨てたかのような感じになる。

弥生後期
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/5b/1d4b00e63e666660a33ce4198c4dac67.jpg
徳島は物部系と狗奴国家の境目。

弥生中期
https://ameblo.jp/syokatsu-akira/image-11949830250-13215393007.html
0644日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 20:52:40.14
>>642
>徳島は物部系と狗奴国家の境目。

なんのこっちゃ。  訳の分からんことを言うでない、無知の井戸かわず!   @阿波
0645日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 20:53:30.46
>>617

銅剣や銅鐸に比べれば新しいけど、銅鏡になるとさらに四国は蚊帳の外

とくに南部、太平洋側はほとんど出てない。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 20:56:21.87
>>645
>とくに南部、太平洋側はほとんど出てない。

なにがだね? 無知の井戸かわず!   @阿波 
0647日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 20:58:47.49
>>646

更に既存の青銅器を溶かして作ったともいわれ、600枚以上の数の確認のある国産の三角縁神獣鏡鏡も
東征ルートの瀬都内側に偏っており、四国の太平洋側にはほとんど出ない。

これは東軍にも西軍にも相手にされてない地域だったという事www
0648日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 20:59:07.84
>>645

九州説ごときがいくらウダウダ言っても、「阿波」にとっては相手にならない戯言。   @阿波
0649日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 21:01:31.06
>>647
>東征ルート


海の無い山奥で、しかもジメジメした湿地帯の奈良盆地に、わざわざ東征する九州バカが、まだいるらしい。  わははははは   @阿波
0650日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 21:04:41.59
>>648

こんにゃろう、全然出雲式ではないではないかww
http://kamnavi.jp/jm/ketusi8dai.htm

あ、でもここの年表記紀の年表で見やすくて使いやすいかも
0651日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 21:25:23.67
三世紀に終わったものは、殉葬ではなく、青銅文化だったのかもしれない。

それが埴輪の逸話になぞらえられたのかもしれない。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 21:32:23.23
という事で強引にまとめると

青銅という材料が特殊過ぎる製品の発生時期を見ると。製造という観点からは

九州と、奈良にほぼ同時に同時に大きな勢力が発生していることが分かるという事。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 21:37:54.10
>>476
>>魏朝では文帝による度量衡の統一令があったので
明帝も「(遼東)征伐四千里」などの短里をつかったという事になる

>度量衡の統一令なんて史料にない妄想だから

この議論で、「度量衡の統一令」と言ったのは、大和説者。
私が言ったのは「度を同じゅうする」という文言の話。

>「四千里征伐」は洛陽から遼東までの距離のこと
つまり 1里=約400の正常な一里だな

御前会議での明帝の「四千里征伐」の発言に関する議論では、
「征伐」は「遼東での征伐戦」の話になっており、
その範囲は韓の方可四千里と大体同じであり、その「四千里」は短里。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 21:38:07.16
.



◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!


.
0655日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 21:40:41.76
>>478
「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定なんて妄想を
いつまでも連呼してるだけだけだから
大和説は死んだんだよ

唐代に九州に倭国があった事は誰でもわかるから
それを否定する大和説が妄想だと
誰にでもわかる
0656日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 21:48:42.35
>>479
>「使大倭監之」の読み方は、普通の漢文としては「大倭をしてこれを監せしむ」しかない。

「大倭」は、「拡大した倭」という意味の呼称。
0657日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 21:50:55.32
>>652
>九州と、奈良にほぼ同時に同時に大きな勢力が発生していることが分かるという事。


妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。

まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 

碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波   
0658日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 21:55:01.51
そもそも倭ってな中国の連中らが呼んだ呼称なわけな

日本の連中らそれ認めたんか?

じゃなけりゃ単なる中国からみた自称でしかねえんだよ
0659日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 21:57:20.30
中国のやつらがそお呼んでるだけの自称なん😃

日本の文献には日本を倭なんて呼んでる呼称はないしそれを交渉するなりして認めた記事もない
0660日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 21:58:56.14
だから中国中心観は日本じゃあ通用しないって書いてるだろ

それを無理にゴリ押しするならそれはそいつが中国の手先だってことだ😃
0661日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 21:59:26.33
まあそのバカにとっちゃそれが当たり前なんだろけどな
0662日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:02:39.22
>>657

残念でしたねぇ阿波さんw

東出雲王家の分家であるフト玉の命を祖とする忌部さんですが、思いっきり大陸の職人が成りすましてますよね〜

魏より道教の禁止が緩かった呉だが、国が無くなる前から少数が大和入りしてた。
本格的に職人を連れてきたのが朝貢で騙され無役に終わった武内宿祢とされる。

結局呉の職人は呉の滅亡後、日本に流れてくるが、青銅の政策は邪馬台国事件以降殆ど需要が無くなる。

同じくして水防に向かった吉野ヶ里遺跡だが、ここにも阿波の品部は居たとされるが、
剣と銅鏡の忌部は散逸してしまって現在では地名が残るのみ。
製鉄にとって代わられたんだろうな。

大陸の海童と一緒に来たとされる忌部。そして道教に通じた呉の職人。

これらが生き延びる先に忌部の祭祀があったのだろう。

フト玉の命は組合の神様で合って、忌部氏の祖神ではない。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:04:39.05
>>662
なにをどう勘違いしたらそんな妄想が湧いてくるんだい?  わははははは   

最早、歴史学ではなく、小説の世界だな。  わははははは   @阿波
0664日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:04:46.47
656
漢文だじゃないんだよ🤪
倭の起源は向こうだみたいな記事も向こうの文献にあるだろ
そんで日本のことを倭だの読んでるならそれは日本に来たそいつらが自分らが倭人だと主張し日本を勝手に倭国だの呼んでいたって証拠なんだよ
そんな主張を認めるバカがいるのかよアホ
0665日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:05:55.90
>>662
なにをどう勘違いしたらそんな妄想が湧いてくるんだい?  わははははは   

最早、歴史学ではなく、小説の世界だな。  わははははは   @阿波
0666日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:07:36.74
だから遣唐使のときもそおだが日本を倭と呼んでいた向こうからきた連中らがいたって話だろ
それは他ならぬそいつら自身の自称だったって話だろ
それを日本と唐の交易のときに倭から日本に改めさせた!ってことだろ
中国から来た連中らの自称なんだから当たり前だよな
0667日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:08:21.20
>>535
でも、大和説者って
史料事実や史料から何か帰納したり
確率の計算をしたりというは
絶対にしないんでしょ?

言ってることがおかしいよね
0668日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:08:35.79
>>634
>卑弥呼←宇那比姫
国中不服男王←侵略王フトニ(孝霊天皇)
臺与←百襲姫(フトニの娘)
次の男王←崇神天皇
の方が整合してるやろ

宇那比比米も一皇女やと言ってるのが分からんのか、このハゲ。

    事代主
     ┣━━━━━━━━━━━━┓
   天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
     ┣━━━━━━━━┓
    建飯勝    渟名底仲媛━━ 安寧
     ┃           ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没)
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津媛━━ 懿徳
     ┃              ┃
   大御気主            孝昭
     ┃             ┃
    阿田賀田須       天足彦国押人命

ヒメ后の3世代後にトヨ津媛、そのトヨ津媛のまえに建甕尻ことタケミカヅチ。
つまり卑弥呼の死後に立った男王とはタケミカヅチであり、7世紀の朝廷はタケミカヅチをわざと神代にずらし卑弥呼もトヨを隠した。
タケミナカタ(諏訪の大神)と戦った場所こそ狗奴国だ。
タケミナカタは天竜川を遡上して諏訪に入った、つまり戦った場所は天竜川河口、磐田、袋井、、浜松あたり。
久努の国こそ狗奴国だ。
0669日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:08:58.68
だいたい倭人の祖は呉の太白って向こうの文献に書かれてるもんよ
そんなふざけた話ないぞ😬
0670日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:10:39.31
呉の太白ってな周王家から分岐した子孫のことやろ

丸っ切りでたらめじゃん😬

向こうから来た連中らしかその可能性は存在せん🤪
0671日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:12:15.97
>>642
>2世紀末葉になると近畿式のみとなる。(銅鐸が統一される)
3世紀になると突然造られなくなる。

シレッとごまかすな。
銅鐸(三遠式)の最終集積地は静岡。
狗奴国のあった所だ。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:13:03.92
卑弥呼やトヨにしろ朝貢とやらしてたんは魏や晋だろ、その晋の後継国が宋やぞ
0673日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:14:38.07
ここをおかしいと認めないならそいつの出どこおかしいでよ😬
0674日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:15:46.45
>>556
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などのように、
のように決して具体的な内容を言わず
出典も示さず
風評の流布に終始する

それが大和説
0675日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:17:17.35
魏の後継国自体が中国南朝なんだよ😃
0676日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:19:01.17
晋が中国統一したあと宋に変わるわな

そのあと北部を失陥してんだよ

そんで南宋のみが残った

これが南朝の始まり
0677日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:19:15.91
>>671
>銅鐸(三遠式)の最終集積地は静岡。
>狗奴国のあった所だ。

シレッとごまかすな。
「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。   
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。  何を考えているんだかwww  @阿波
0678日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:19:54.75
さてスレ主の纒向遺跡に移ろうか。

南北1.5q、東西2qの広大な面積をもつ大規模遺跡である。
1971年より発掘調査が始まったにもかかわらず、住宅地ゆえまだ2%ほどしか調査されていない。
出雲伝承ではここは暮らすための場所ではなく、祭祀を行うために全国から豪族が集まった場所との事であるが
確かに出土品がおかしく、全国各地の土器と、造成とかそういった意味合いの農?機具が多い。

現在の纏向駅駅近くになるが、真南に数百メートル行くと箸墓古墳、西側に行くと纏向古墳群がある。
現在の発掘地の近くには、磯城登美家の分家、太田家がかつて住んだと思われる「太田村」があり、現在でも太田地籍が残る

この遺跡は「2世紀末から3世紀の初頭頃」に「誕生」したとされている。通常の集落の様子はなく、初の都市、または首都として造られたのではないかとも言われている。
巻向駅の近くには大型の建物群跡も発掘されており、3棟がバラバラではなく東西に方位を揃えて並んでいて、中心となる建物は現代の3階建ての高さをもち、南北約20m×東西約12mもある高床式神殿。
「すでに大陸の宮殿文化を取り入れていると言われている」
柱穴も丸ではなく四角であったりと、日本でも現在確認されている限りは、非常に高度な技術を持った規格の高い建造物である。

「もちろんそんなものは阿波にはありませんw」

弥生から古墳時代にかけてもこのような遺跡は他に発見されていないのが現状。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:21:28.70
>>677

アホかw

信濃の安曇族だって元海童ではないか。
頭おかしいのか?
内陸に住んでたかどうかなんて関係ないし、そもそも大彦狗奴国は海幸彦系の海童
0680日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:26:16.33
>>678
「西長峰遺跡:弥生時代中期の大形掘立柱建物 分銅形土製品」 徳島県阿波市阿波町

竪穴住居跡が26棟、掘立柱建物跡(14棟大型のものを含む)。

西長峰遺跡は、中心の建物を取り巻くように中小建物を放射状に計画配置しているもので、纏向遺跡より遥かに企画性を持つ。   @阿波

西長峰遺跡の建物は、弥生中期後半から後期初頭にかけての遺跡。
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023030/
0681日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:27:46.91
>>680

掘立柱建物跡
掘立柱建物跡
掘立柱建物跡

wwwwwww
0682日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:28:55.86
>>604
大和説学者ってダメでしょう
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」は「正北抵新羅の否定」など、
史料事実や史料実態の嘘吐き騙しで、
大和説が死亡してます
0683日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:50:12.02
>>679
その通り、海人だからといって内陸部にいないわけではない。
安曇もそう、川を遡上して内陸に入ったのは良質の木材を伐採するためではないかという説を読んだことがある。
物部も遠賀川の上流に根拠があるね。
鞍手だったか、物部の根拠があるね。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:56:16.31
>>606
>卑弥呼←宇那比姫
国中不服男王←侵略王フトニ
臺与←百襲姫

臺与なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であるし、
卑弥呼は、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、
×。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:57:02.44
>>678
>弥生から古墳時代にかけてもこのような遺跡は他に発見されていないのが現状。

そう、3世紀前半の大型建物は他にないね。
しかし、それが卑弥呼の館だとして、なんでその謂れがすっかりなくなり、地下から遺跡として発掘されたのかが問題。
卑弥呼の王宮ならなにかしら聖域化され、今では神社として存在してる可能性の方が高いと俺は思う。

崇神を4世紀前半として、それ以前の神社が葛城にしか存在しない。
たとえば高鴨神社は孝昭天皇の時代に創建。
この時点で日本一古いのだ。
それは卑弥呼の時代、3世紀にまでさかのぼるのだ。
0686日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 22:57:33.78
>>683

ここで紀伊の国の、名草の伝承。

次は名草地方の伝承。名草のトベのほぼ唯一の本
なかひらまい著「名草戸畔、古代紀国の女王伝説」

その中心となるのは小野田口伝
あのルパング島から戦後30年たって帰還した小野田寛郎氏の家に伝わる口伝。
小野田氏の実家は名草戸畔の遺体の一部(頭部)を祀る宇賀部おこべ神社で、小野田家は名草戸畔の子孫らしい。

小野田口伝の抜粋。

名草の祖先は何千年も前、宮崎から大分のリアス式海岸に住んで半農半漁の暮らしをしていたが、やがて人口が増えたため、
よく似た地形(前の海で魚が捕れ、後ろの田で米が採れるところ)の和歌山に移住した。神武がやって来るよりずっと前のこと。
紀ノ川流域にキビが生えていたのを全部田んぼになおした。

神武軍との戦いについては、ニギハヤヒがナガスネヒコを斬って降伏したからこちらも降伏したことになった。
五瀬はナガスネヒコ軍の毒矢に当たって亡くなり竃山に葬られたが、名草戸畔も戦死した。けれど神武軍は名草軍に撃退されて
紀ノ川を上れずに仕方なく海路で熊野へ行った。その後はヤタガラスが案内した。名草の人たちは負けたつもりはない。降伏したのはナガスネヒコだ。

戦の後、国懸クニカカスと日前ニチゼンが統治しにきたが、名草は負けた意識がなかったので反抗し、うまく治まらなかった。国懸はヤマトへ帰り、紀氏である日前が残ってまとめた。
権威を振り回さないから土地の人とうまくやっていけた。
伊太祁曽いたきそ神社は植林を教えた神様。大きい太い木を増やした初めの人、という意味がある。「木曽の国はここから植林技術を移した。」
0687日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 23:05:42.34
>>686

この口伝はある程度記紀を意識しているが、出雲伝承とほぼ一致。

五瀬の兄弟が神武って事だけがミソ。
五瀬の兄弟は三人ほどいたっけか。五瀬の死後、磐余という地名を通ったため、磐余彦になったが、記紀の製作者も五瀬のどの兄弟が大和入りしたか分からなかったらしい。

故に、属国の歴史を消すために、物部東征を一つにまとめ、架空の磐余彦を神武にした。
0688日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 23:09:58.12
そんな話を認めたことはないぞ
0689日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 23:10:49.69
それを自称してる連中らがおるってことやろ😃

ならやることは一つよな😬
0690日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 23:11:13.66
皆殺しだ🤪
0691日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 23:14:00.97
>>656
租税を納めた倉や市場の交易を管理する者として「大倭」の字が用いられているので、
その大の字を「拡大した」の意味とすると、「租賦の拡大した管理者」ということになり、意味不明となる。
0692日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 23:24:33.69
>>691
大=長。
大委=租税管理の長官。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 23:27:30.97
奈良の邪馬台国、河内の狗奴国
0694日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 23:32:16.05
>>685

これには683さんの家系図が宜しくてですね。

出雲王家第八代の副王スクナ彦である、事代主こと八重波津身は国譲り事件で死んじゃいますが
息子の天日方奇日方(鴨王)は、母親の実家に一緒についていきます。摂津の三島家。

そこから奈良の発展性を見出し、湿地を開拓し、摂津から移住をします。
人の住めない奈良盆地の中央を開拓するのに葛城が一番楽だったらしい。

最初に出来たのが鴨都波神社。八重波津身の名前が入っています。

その次に来たのが西出雲王家の神門臣家がやってきました。彼らの住んでたところに出来たのが高鴨神社

そこに後から入ってきたのが丹波の五十猛(天香具山)と息子の天村雲。国譲り事件の犯人たちがwww
そこに笛吹神社を建てます。

結局数の上で勝る村雲一派が事実上の奈良の政治を掌握します。
三輪山祭祀の東出雲王家の娘を娶り、初代大王に。(後に記紀に勝手に神武にされる)
権力の証の村雲の剣は、登美家から贈られました。
高尾張村に居たことから、神武さんの実家は尾張家と言われるようになります。
そこから海部家などが分かれます。

出雲から娘さんを3代続けてもらったことにより圧倒的に出雲の血が濃くなってしまい、出雲系の磯城王朝になってしまいますが、これが初代神武朝、葛城国になります。
BC2〜BC1です。

つまり、北九州の物部氏と同時期に大王が奈良に出現したわけです。

海幸彦、山幸彦、海童。鈴の輸入。こういう事です。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 23:37:13.02
>>694

記紀でも、神武から三代目までは出雲の姫を貰った系図になっていますよね。

神武は存在しました。
しかし、記紀により東征が紀元前になった事と、二度にわたる物部の東征が一つにされたことにより
160年代の熊野勢のはずの磐余彦が神武にされました
そのあとの物部イクメもおかしなことになってしまい、イクメ=垂仁天皇が神武なのではないか、神武は架空なのではないかという学説が出されるようになってしまいます。
0696日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 23:41:38.93
結局、いちば〜ん揉めるのがいつの時代も親族同士の争いなんです。

神功皇后なんて何百年も昔の話を持ち出して、ヒボコ(王権の長男だった)の故郷の国が王様から部下が国を掌握した途端に
「相続権」を持ち出して、朝鮮半島に三韓征伐で納税させてましたからね。

昔は家督や相続、血筋、祖神である神様って命がけで奪ったりしたものなんですよ。

だから兄弟の海幸彦、山幸彦って書いてあるんですよ
0697日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 23:50:08.86
>>685
葛城と神武を関連させるなら、御所市の中西遺跡から順を追って地域の発展を述べて行くのが効果があるよ。
そもそもの弥生前期から、列島随一の規模の水田が開発されていたのだからね。
神武が最初から畝傍山の東南へ向かったのは明らかなんだから、秋津あたりから畝傍山あたりまでが何らかの拠点だった可能性はある。
その拠点の上に葛城氏が現われてくる。
0698日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 23:55:04.73
>>697

オウフ。
鴨都波(かもつば)神社と近鉄五所駅めっさ近いw
0699日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/15(木) 23:57:13.36
>>697

阿波さんが、一生懸命、奈良は人が住めない住めない〜って言ってたので

ようやく時間をかけてココまでこぎつけましたよwww
0700日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 00:09:14.31
>>697

葛木坐火雷神社から畝傍山をまっすぐ行くと天香山神社
その先がもう大神神社ww
0701日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 00:16:20.75
出雲大神宮の宮司さんと、コノ神社(海部家)の宮司さんの内緒話を書きましたが

コノ神社の空位の神様が、出雲の大神様って言う話は、出雲の血が濃くなった磯城王朝(葛城王朝)を考えれば無理もないことと思います。

普通は神武さんとか天香具山(徐福の息子の五十猛)のはずですよね、海部氏なら。
海部氏は、二代目の天皇の兄弟の、天御陰の家系。
0702日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 02:09:41.43
>>683

大分の宇佐国造家に伝わる口伝を宇佐公康氏が「宇佐家伝承、古伝が語る古代史」として出版されていて、その中で、

「宇佐国造家の口伝によると、木造建築の文化は、古の日子国(日向王朝)から国東半島におよんで木国の文化となり、さらに、その文化は近畿地方に移入されて紀国となったといわれている。」

どれも名草の人たちと関係があるかどうかは推測でしかありませんが、九州の東岸から和歌山への人や文化の流れはあったようですね。
0703日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 05:53:04.11
>>691
>租税を納めた倉や市場の交易を管理する者として「大倭」の字が用いられているので、
その大の字を「拡大した」の意味とすると、「租賦の拡大した管理者」ということになり、意味不明となる。

それほど詳細な意味はない、と思う。
単に「倭の支配地が大きくなった地」という程度の意味なんだろう。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 05:56:35.96
>>693
>奈良の邪馬台国、河内の狗奴国

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であり、
両方とも、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、×。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 06:34:46.25
>>697
>神武が最初から畝傍山の東南へ向かったのは明らかなんだから

神武天皇を冒とくするな。 神武天皇がそんな糞田舎へ攻め込む訳ないだろ!   @阿波
0706日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 07:00:12.76
神武なぞ、500年後に勝手につけたいもしないフィクション
0707日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 07:12:38.39
>>706
>神武なぞ、500年後に勝手につけたいもしないフィクション

そう思いたいのは、トンデモ説だから。   @阿波
0708日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 07:59:15.44
バカやろ🤪

都合よくなきゃ全否定か?

キチガイが😬
0709日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 08:12:16.50
>>706
神武という人物を創作しなければいけない理由がない。
とはいえ、神武東征紀はさすがに大げさすぎる。
ニギハヤヒが神武に屈する金鵄伝説の場面など、北朝鮮の金正恩礼賛みたいだ。
なんでこんなに大げさなのか。
神武の時代が魏志倭人伝に書かれた女王国だったからだ。
だから大げさな武勇伝でこの時代は女王国ではありません、男王国でしたと編纂したのだ。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 08:19:31.84
>>705
糞田舎は徳島定期
0711日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 08:20:08.88
桃の種をネタにしたこじつけ論を発表したが為にココ数年で信者が激減してしまった畿内説あわれ
0712日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 08:46:46.36
九州説ってもしかしたら詐欺説か?
0713日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 09:00:24.53
>>712
もしかしなくても、そうだが
0714日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 09:05:04.06
>>704

そうすると海幸彦、山幸彦が居なくなるので✖
0715日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 09:11:38.86
>>706
BC1年頃からすれば記紀は900年経ってから。
さらに諡が付けられたのはさらに後年。

確かに神武という名前そのものは適当ではあるが、それは神武に限ったことでは無い
0716日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 09:45:36.12
>>712
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説って、
もしかしたら詐欺説か?

もしかしなくても、そうだろうが
0717日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 10:06:15.30
>>690

昔はマジで皆殺しだったから命がけで隠した。
小野田口伝には物部のもの字も出てこない。
小野田口伝なら熊野勢の磐余彦の本当の名前を知ってるかもしれないね
0718日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 10:18:12.47
勝手に記紀を頼りに否定してるだけで絶対的な物的証拠、何故突然今まで居た倭人では造れない前方後円墳が現れたのか?の答えにはならない。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 10:38:36.63
>>718
田んぼを開梱するのとさして変わらんだろ。
何故日本人が作ったとは思わないw
0720日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 10:40:56.68
>>709
記紀の制作の時に一番隠したかった物が一番か描かれいるとも取れる。

別にもっと古くから居るウサ家を書いてもよかったのだが、面倒だっただけでは?
だから適当に昔の一族をお隠れになった神様で省略した。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 10:54:52.05
>>521
>いずれにしても、物部氏が大和に現れるのは5世紀後半頃。

4世紀初頭の崇神のお母さん(イカガノシコメ)や叔父さん(イカガノシコオ)は
確実に纏向にいたのだから3世紀後半に物部は纏向にいた。
ならばその古墳群=纏向古墳群は2世紀末にさかのぼる。

物部氏が大和に現れるのは5世紀後半頃などと、
津田史学のげっぷのようなクソ説者は失せてくれ。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 11:05:07.63
宇佐家ってなんや?
0723日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 11:06:28.52
>>722
宇佐八幡宮の元社家の古いお宅。
出雲族より古くから日本に土着したらしい。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 11:26:24.58
754年の厭魅事件で大神氏が大宮司を外されてからだな
0725日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 11:29:31.88
>>702
>「宇佐国造家の口伝によると、木造建築の文化は、古の日子国(日向王朝)から国東半島におよんで木国の文化となり、
さらに、その文化は近畿地方に移入されて紀国となったといわれている。」

宇佐家の祖(男系の祖)は、日向の祖母山の大蛇であり夜な夜な宇佐に通い、子をもうけて栄えたという(伝・平家物語)。
その大蛇の巣窟の祖母山の東南の麓には、日本神話の天孫降臨の日向高千穂がある。
しかしのちにその地が荒れ果てていたので、大蛇の孫の宇佐の大神の嫡男が高千穂に入り、
三田井( ≒マタイ ≒馬臺)に居を定めて一帯を再興したのが今の高千穂地方の姿と伝わる。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 11:38:17.78
>>712奥山
>>713キナイコシ
0727日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 11:56:50.91
>>725 修正
>宇佐家の祖(男系の祖)は、→ 宇佐地方の祖(男系の祖)は
0728日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 12:17:10.81
まーだやってらっしゃるのか


卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)

卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)



ハイ終了

解散!
0729日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 12:24:33.21
倭人が造ったんなら東征毛人五十五…にならないでしょう、列島民族を蔑視してる連中でしょう、何故日本人が造ったと言える?
0730日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 12:29:31.39
所有権主張してるんか?

バカなら死ねばよいやね😃

なんでそんなドロボー思考になったんだ?
0731日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 12:29:52.99
おまえらの行き先は五体バラバラ

それしかないぞ😃
0732日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 12:42:55.76
ならキチンと説明することだね、誰が企画し測量し漢尺を使えるようになったのか?何故毛人と周夷なのか?日本人である筈なのに中国に対して。是非聴きたい
0734日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 12:53:12.14
口伝とか伝承とか、歴史学の根拠にはなりえない
「ドゴン族の神話」の教訓を学ぼう
0735日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 13:00:19.23
>>724
お勉強になります。
0736日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 13:01:54.63
>>729
前方後円墳より古い形態のお墓なんていくらでもあるし、普通は余程のことがなければ外来の祭祀を突然受け入れるような子孫はいない
0737日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 13:04:42.44
>>732
聖徳太子は差し金を持ち込んだと逸話があるが、使いこなしたのは日本人だろ。
それと同じだろ
0738日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 13:06:48.80
>>734
ばっかじゃねぇの?

記紀を作る前に風土記が集められたが、文字にしたのは口伝ではなくなるのか?

少しは考えてものを言ったら?

逆に言えば口伝の集まりでしか無いだろ、記紀なんて。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 13:17:22.18
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約5500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.
0740日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 13:54:37.38
忌部の研究必要だな〜
0741日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 13:55:05.79
738
それを調べとるわけだろ😃
0742日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 14:10:17.81
>>734
>「ドゴン族の神話」の教訓を学ぼう

「黒い瞳の伝説」もおもろいな
0743日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 15:11:08.51
そう銅鐸祭祀消滅は受け入れて無いの?より良き原始道教に信者が増えたように見えるけどねぇ、五斗米道 らは100万の信者がおったがなあ
0744日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 15:22:51.14
>>740
イラネw

少なくとも邪馬台国にはカスりもしない
0745日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 15:49:49.90
>>743
呉が滅んだ後は道教の信徒はどうなったんだろ

鏡職人は相当こっちに来たらしいけど
0746日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 15:51:56.60
>>721
>纏向古墳群は2世紀末にさかのぼる。

石塚は200年前後の築造とされるので、上はOK。
しかし、そのあとだよ。
3世紀〜4世紀の間の200年間に、物部が大和のどこにいたのか、ちゃあ〜ンと証拠ださんことにはな。
物部は倭系の刀鍛冶なんだから、工房あとなんかを示さんことには、物部大和在住説は脳内劇場になるぞ。

イカガは単なる交野の地域名。
物部が系図に取り込んで、十千根の親に仕立て上げただけ。
交野に物部の鍛冶工房ができるのも5世紀後半だから、物部はその頃にやってきたのよ。
0747日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 16:04:58.12
>>705
>神武天皇がそんな糞田舎へ攻め込む訳ないだろ !

神武は阿波のどから上陸したのよ。
室戸回って小松島ありから上陸したとしても、生駒に当たる山に登るのは西向きになる。
西向きに山に登るなら、朝に日神に向かって攻めることにならんからな。
生駒に当たるのはどこよ。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 16:10:07.69
>>703
その大倭の読みはダイイだよ。
意味は、租賦を納めた倉や市場の交易を管理する役職の長官のことだ。
大倭の倭をワと読んでいるうちは、まともな解釈に行き着かん。
0750日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 16:18:23.21
>>748
3世紀頃は大和(大倭)という国では無く、そういうグループ組織が居たんだよ
卑弥呼の死後、その組織が狗奴国派に寝返ったという事だろう
物資供給が止まった邪馬台国は衰退し消滅
その名残りが任那かもしれん
0751日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 16:25:17.08
>>700
畝傍山と天香具山を結ぶ線を西に伸ばすと岩橋山に届く。
この三つの山は、竹内街道の竹内〜平石峠〜加納のルートの目印だろう。
つまり、葛城は和歌山ともつながっていたが、平石峠から富田林、佐山、和泉ともつながっていて、
池上・曽根遺跡のあるあのあたりとも交易していたのよ。
その両地域との交易が、葛城の力の源泉だな。
弥生中期の鴨都波遺跡から紀伊系の土器が出ているが、塩などは和泉から仕入れたのだろ。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 16:26:36.28
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)


馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0753日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 16:31:02.19
>>750
話としては、その大倭が内乱のどさくさに紛れて伊都国を乗っ取って、対馬海峡の交易路を牛耳り、任那にも出張って両方から海峡国家を作り上げた、とするほうが三国志的で面白い。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 16:32:17.51
745
道教真っ盛りやん!😃

あれ確か国教としては最初は仏教が優勢で漢だの魏あたりでもまったく認められてなかったと思ったが

だからどっちかっちゃかなり民間における信仰が強かったろ

そんで中国の国は王朝が何回も変わるからどの宗教を国教にするか争ってるんだい

中国は儒教のあとに来たのは仏教、そんで唐代あたりになって道教にのめり込む皇帝とか現れだして国教になった
0755日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 16:34:33.23
漢の国までは儒教だからなあれ

そのあと魏あたりが各地の宗教の状況などを調べてその役人らが研究して中国の仏教を制度化したんだわ
これが中国仏教

唐代にはいり道教が盛りだすのが900年ころから
0756日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 16:35:00.71
>>749
大倭は、ダイイだよ。
中国の知識人なら、粗賦の管理や市場の交易の管理に関した倭の字なら、普通にイ(倭=委)と読んだのよ。
それが静岡の川勝のアホのいう教養だな。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 16:38:51.37
なんでトンデモ説の皆さんは
意見を言うとき
理由をまったく言わないのだろうね
0758日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 16:39:40.29
魏って国は滅んでもその役人らの中身はあまり変わらないのよ

これが始まったのが魏の時代ってだけなん
0759日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 16:44:40.19
この頭の悪い新人はだれだよ?


756日本@名無史さん2020/10/16(金) 16:35:00.71
>>749
大倭は、ダイイだよ。
中国の知識人なら、粗賦の管理や市場の交易の管理に関した倭の字なら、普通にイ(倭=委)と読んだのよ。
それが静岡の川勝のアホのいう教養だな。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 16:49:45.98
あれ隋も仏教国だからね
そのあと唐のときに道教となったが宋なんかは変わらず仏教国なのよ
そのあと中国においては仏教が廃止になってその連中らが周りに散ったんだね
そんでチベット方面に仏教の本場を移して滅亡から逃れた
こんときからチベット密教の始まり
0761日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 16:50:08.42
>>709
神武紀からナガスネヒコとの交戦を取り除けば、神武紀には神武が南九州から大和にやってきたということしかないことになる。
神武のモデルは崇神と名付けられた人物だが、この人物を英雄に仕立て上げるには、長い苦難の旅路とナガスネヒコとの交戦のエピソードが必要だったということ。
なので、大和の政権の始祖は崇神という人物であったのは明らか。
次期は3世紀中頃だよ。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 17:04:22.71
>>718
前方後円墳のルーツは尾張の前方後方型の墳丘墓。
この尾張と円墳の吉備が張り合って、妥協的にできたのが前方後円型の墳丘墓。
なので、前方後円墳は普通に倭人が造ったのよ。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 17:05:34.20
>>755
おいおい
北朝あたりだと道教に手厚く仏教弾圧とか有るぞ
0764日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 17:19:46.36
763
だから魏の後継国が中国南朝なんだよ
0765日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 17:21:19.17
中国を統一したあとに北部で反乱が起こり中国北部を失陥してるの

そんときに都を中国南部に移動したの

そらが中国南朝の始まり
0766日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 17:21:48.22
>>761
>神武のモデルは崇神と名付けられた人物だが

そんなの古いよ。
黙っててくれ。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 17:26:45.20
>>746
>3世紀〜4世紀の間の200年間に、物部が大和のどこにいたのか、ちゃあ〜ンと証拠ださんことにはな。

崇神は古事記の記述からも、応神仁徳からさかのぼった時代を考慮しても4世紀初頭の行灯山古墳。
ならば2世紀末まで前方後円墳がさかのぼれるので、崇神の母方物部のウマシマジあたりと符合する。

お前の妄想はもういいから消えろ。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 17:31:09.06
>>746
>交野に物部の鍛冶工房ができるのも5世紀後半だから、物部はその頃にやってきたのよ。

馬鹿か、交野の森古墳群は3世紀後半からだ。
先代旧事本紀に交野連と明記されてるイカガノシコオの子タベノスクネの時代から。

おまえすこし黙れ、この糞が。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 17:38:26.88
>>747
>神武は阿波のどから上陸したのよ。

神武東征は「阿波」の大吉野川北岸での戦闘譚 だと、何度言えばw   @阿波
0770日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 17:39:52.61
>>762
>前方後円墳のルーツは尾張の前方後方型の墳丘墓。

嘘を言うな、東瀬戸内だ。
円形に突起が付いた周溝墓なら讃岐あたり。

後円墳のルーツが後方墳にはならない、適当な嘘を言うな、失せろボンクラ。
0771日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 17:40:02.27
>>726
>>厚葬墓や前方後円墳に出来るのは、
西晋武帝の天円地方を教わって、壹與も亡くなって、影響が無くなってから。

>まったく九州説は妄想ばっかりだな
魏と同じく、晋でも薄葬の終制が続いてる事をまったく知らないとか
九州説ってホント、ばかだよね

まったく大和説や東大理系博士号らは妄想ばっかりだな
西晋武帝が(倭の遣使らに)天円地方墓を教えた、という事は、
西晋は、魏の薄葬指示から、倭に対しては厚葬許可に転向し、
だから、前方後円墳も許容した、という事なるではないか。
大和説者は、自分らの3世紀後半の厚葬の前方後円墳まで、否定するんかい?。
大和説ってホント、ばかだよね
0772日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 17:51:56.84
>>767
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている

1里≒75m

1万2千里じゃ畿内まで届かないな
よって畿内は東の倭種の国確定
0773日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 17:53:38.26
そもそも3世紀時点で大阪平野はない
7万戸の所在は?w

『仁徳期の治水事業により、河内湖の水域が減少するとともに、流入している大和川枝川等が河口に三角州をつくります。
そして湿地・草原あるいは堤防敷となり、その後、河内低地の陸地化が始まります。』
https://www.suito-osaka.jp/history/history_2.html
0774日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 18:03:56.88
>>761
五條の吉野川沿いにある阿太(阿田)には、古くから鵜飼や簗などがみられ、薩摩阿多との関連が考えられている。
神武紀ではこの阿田の贄持の子が登場している。
また、この地では縄文早期の遺跡があり、吉野川を少し遡ると宮滝遺跡があって、ここでも縄文早期の遺物がみられ、縄文後期にも巻貝で模様を付けた貝殻文土器が出土する。
この宮滝土器と愛知県渥美半島の遺跡の土器が貝殻文でつながっていることが分かっている。
貝殻文土器は縄文草創期からの南九州の伝統的な施文方法だ。
この阿太と日本書紀のニニギが住んだ吾田は地名として関連があるのではないかとされる。
そして、五條の阿太には隼人が住んだとする説もみられるようだ。
おそらく、崇神が南九州からきたときに従った吾田族が土地を与えられて住んだところだろう。
書紀で神武がめざした畝傍山の麓が崇神の住んだところであり、五條阿太にはその隼人集団が住んで、崇神の世話のために人を出したことが考えられる。
書紀の編纂者は、そうした歴史をよく知っていたということだろう。
0775日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 18:13:07.96
>>770
盆暗はオメだ。
東瀬戸の円墳の突起は、それで完成型だ。
その突起は撥型に開かない。
前方部が撥型に開く墓形は尾張の前方後方型墳墓以外にない。
その尾張の前方後方型墳墓の後方部を吉備の円墳に置き換えたのが石塚などの前方後円型墳墓だ。
オメは盆の暗がりで踊ってろ。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 18:16:16.61
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
0777日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 18:19:06.79
>>769
>大吉野川北岸での戦闘譚だと、

北側に向かって攻めたら、東に向かって日の神を攻めることにはならん。
阿波日本書紀を大和日本書紀が改竄したというのか、ヨ。
0778日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 18:41:44.32
>>768
森古墳群を造った在地勢力の田んぼを突然埋め立てて鍛冶工房が造られている。
その時期は5世紀後半。
この5世紀後半からの鍛冶集団が物部だとみられ、在来の稲作をやっていた在地勢力は物部とは別だというのが通説よ。
アホォォォォォ !
0779日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 18:41:52.06
>>736への返事を書きましたが、
「ERROR: 当分お断りしております。🤮・・・」
だそうです。
0780日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 19:03:22.72
>>766
神武のモデルは崇神以外にあるかよ。
古いも新しいもない。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 19:53:00.58
>>780
畝傍山の東南麓に宮を作った神武(崇神)は、纏向での祭祀のためにまず磯城に設けた仮宮に行って斎戒沐浴精進し、そのあとに纏向大型建物跡で祭祀を行ったということだろう。
そのため、磯城の仮宮を後世に崇神の宮の所在地としたのではないか。
このパターンは、景行天皇まで続くようだ。
したがって、いわゆる葛城王朝は存在したが、それは磯城の地域も含めたものであり、むしろ行政的には磯城の地域に政権が所在したのではないか。
0782日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 19:56:38.00
日本(東夷)やしな
0783日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 20:03:52.13
>>774

宮滝式土器に見られるヘナタリ属の小巻貝を回転押捺させた文様は擬似縄文で
瀬戸内海周辺に特徴的な文様
0784日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 20:08:36.64
>>781
磯城の地域に政権が所在したというのは、合理的だ。
纏向遺跡のある地域の開発は2世紀末頃から広域連合政権によって進められていたのであり、
その開発事務所は人の住んでいた磯城地域に所在したと考えるのが妥当。
そして、それまでの開発事務所から連合政権庁への衣替え後も所在地は変わらなかったとした場合、
南九州からやって来た大シャーマンは喧騒をさけて樫原に宮を建て、そこに住んだとするのは、むしろ合理的といえる。
日本書紀はその大シャーマンを英雄イワレヒコとして描いたものの、宮の所在地は変えなかったということが正しい見かただろう。
したがって、書紀が崇神の宮の所在地を磯城とするのは、纏向で祭祀を行うときの仮宮のことであると考えることができるのである。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 20:13:04.98
>>783
南九州に発祥した貝殻文土器は明石付近までの西日本に全般的にみられるので、
その瀬戸内海周辺に特徴的な模様は、南九州に起源を持つ様式であるのは言を待たない。
なので、宮滝や渥美半島へと続く縄文後期の貝殻文は、南九州に起源を持つものであることは動かせない。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 20:15:11.37
>>785

擬似縄文は縄文に似せた文様
0787日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 20:37:17.11
>>785
吉野川沿いの縄文早期の五條阿太や宮滝の縄文人は、瀬戸内海から南下したのか、四国南岸を経て紀伊水道を北上し、
徳島あたりから和歌山の紀の川河口に入ったのかは、興味深い問題であるが、四国南岸からのルートが正しいようにみえる。
0788日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 20:44:56.94
>>786
五條阿太や宮滝、渥美半島の貝殻文は疑似縄文という判定はないように思うが。
とすれば、この縄文人たちは四国南岸を経て、紀の川河口を登った可能性が高い。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 21:02:27.66
縄文早期と後期でどんだけ年代差があると思ってんねん
0790日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 21:04:30.49
>>788
コトバンク「貝殻文」によると、ヘナタリの貝殻文は縄文早期後半に東日本や南九州でみられるもので、
その後も地域的に継続的にみられるとしている。
五條阿太や宮滝のヘタナリ貝殻文は、南九州系ではないか。
この時期には太平洋岸に沿って、南九州系の縄文人の移動が東海、関東に向かってみられるようだ。
そうした南九州系の縄文人の移動の跡の一つが五條阿太や宮滝のヘナタリ貝殻文だろう。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 21:05:33.71
>>789
その長い年月の間も、その伝統様式が変わらなんだというこだな。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 21:10:16.88
>>788
阿太や宮滝の貝殻文については、ヘナタリ貝殻文であるとコトバンクに出ているので、ヘナタリでないとしたのは誤りだ。
「疑似縄文」という言葉は誤解を生みやすい。
疑似縄文とは、縄目に似せた模様という意味であるが、縄文時代の模様に似せた模様という意味にとらえられる可能性がある。
別の用語にしたほうがよい。
0793日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 21:10:25.56
>>787

南九州にも瀬戸内地方の影響を受けた貝殻を使った疑似縄文の土器が在地化している
0794日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 21:14:43.31
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約5500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.
0796日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 21:21:46.82
土器に貝殻で模様をつける様式は、縄文草創期から南九州でみられる。
貝殻を土器の模様として用いる方式は南九州発祥で、これが西日本一帯に広がった。
模様をつけるのにどの貝を用いるかは、それぞれだ。
この貝殻文の西日本の範囲と南九州が発祥のゴホウラ貝腕輪の出土範囲は、完全に一致している。
南九州縄文人の文化がその範囲まで広がったということだと思うよ。
0797日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 21:24:25.22
>>793
貝殻文を土器にほどこす方法は、南九州では縄文草創期からある。
南九州でヘナタリを用いることがあってもおかしくない。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 21:25:54.02
邪馬台国畿内説は、なぜ、完全に、破綻してしまったのだろうか、、、
0799日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 21:35:49.92
>>797
ヘナタリを土器の模様に用いるのは中国・四国に多くみられるというから、
五條阿太や宮滝のヘナタリ文も四国あたりからの影響かもしれんな。
しかし、この阿太や宮滝の縄文人の系譜は南九州から移動してきた縄文人だろう。
もとから貝殻文を使っていた者たちだな。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 21:43:34.22
>>798
そういった中身のない悪口は
九州説がとっくに滅んだ証拠だな
0801日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 21:53:06.32
>>775
>東瀬戸の円墳の突起は、それで完成型だ。

盆暗はオメだ。

「突出部を廃して円墳化した西山谷2号墳」

前代にいったん登場した突出部を廃して円墳化した西山谷2号墳の墳丘形態は以後しばらくの間、

吉野川下流域北岸地域で再現されつづけ、ある種の地域的規範が形成されている。   @阿波

https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12408409524.html
0802日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 21:54:46.86
>>799

石棒が出てるから東日本からだろう
0803日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 21:58:32.64
>>777
>北側に向かって攻めたら

だれが北へ向かうと言った! アンポンタン

大吉野川の北岸の阿波市(西)→鳴門市(東)への東征だ。   @阿波
0804日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 22:05:36.65
>>802
>石棒が出てるから東日本からだろう

縄文晩期末からは、「阿波」(徳島市三谷遺跡)からだよ。   @阿波
0805日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 22:09:11.73
>>775
>東瀬戸の円墳の突起は、それで完成型だ。


「前代にいったん登場した突出部をもつ墳丘墓」

萩原1号墳・萩原2号墳・足代東原1号墳・奥谷2号墳・寺山3号墳   @阿波
0806日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 22:11:37.37
>>805
格上は突起付き
丸だけは下っ端
0807日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 22:16:46.86
>>806
>格上は突起付き

突起付きしか無いからね。 それ以降の変遷した墓がない地方は。  無知の井戸かわず(蛙)  わははははは   @阿波
0808日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 22:36:48.29
テスト投稿
0809日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 22:38:53.59
>>776
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、、
史料事実や史料実態に拠って、×。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 22:39:47.92
テスト投稿
0811日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 22:40:06.47
>>747

神武をどの時代の神武にするかですが。

@天村雲  伝承
A磐余彦  学説
B崇神天皇 学説
C垂仁天皇 学説

Aなら土佐の物部側あたりに寄港して「阿波を素通り」して和歌山の紀川あたりで名草のトベにやられて熊野川から吉野を通って、磐余の地を経て大和入り
Bなら大和入りしていません。邪馬台国事件の二回目の物部東征前に都万で無くなります。記紀によって便宜上天皇にされたハツクニシラス
Cは実際にヤマトで政権を取ったイクメ王。かれは瀬戸内海ルートで大和入り
0812日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 22:42:43.00
>>697
>神武が最初から畝傍山の東南へ向かったのは明らかなんだから

神武天皇を冒とくするな。 神武天皇がそんな糞田舎へ攻め込む訳ないだろ!   @阿波
0813日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 22:45:04.67
>>784
>磯城の地域に政権が所在したというのは、合理的だ。

大和政権があってもよいが、
それは、「(大和)日本國者(九州)倭國之別種也」のに国であり、
「倭國から別れた旧小国」の国だ。
0814日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 22:51:45.80
>>813
そういった中身のない悪口は
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料実態に拠って、
大和説がとっくに滅んだ証拠だな
0815日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 23:23:37.63
>>813
卑弥呼の倭国は北部九州。
大和の広域連合は卑弥呼の倭国とは別で、魏略や倭人伝にいう倭種の国などに当たる。
吉備、山陰、北陸、播磨、近江、大和、河内、尾張、東海、関東、南九州など諸地域からなる大連合であり、その連合事務所が大和に置かれていた。
「倭国から分かれた旧小国」というのは旧唐書などの誤解。
むしろ、この連合が北部九州の倭国を飲み込んだというのが正解。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 23:34:03.84
>>815

3世紀の筑前は畿内や山陰との交流が密
南側との交流はほ無い
0817日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 23:41:33.79
>>811
神武のモデルは崇神と応神なので、時代を設定するのはむずかしい。
しかしながら、畝傍山の東南麓に宮を置いて、そのあと桜井の外山で天神を祀るなどしたことなどからすると、崇神の時代とするのがよいのではないか。
Bの説明の意味がよく分からんな。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 23:50:36.57
>>774

物部イニエ(崇神天皇)の最初の奥さんは、アタツ姫(後に記紀に此花サクヤヒメに比定される)です。

薩摩隼人は最初の五瀬の東征で物部軍に味方したとされます
0819日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 23:53:26.72
全然四隅突出古墳でも何でもないじゃん

よくもまあポンポンと嘘が出てくるものだ。

この前の自称大規模集落も自分で勝手にナレーション付けたり。もう異常だな
0820日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/16(金) 23:56:06.39
>>781

奈良の政治は、男の王様と姫巫女のセットになっていました。
大王、姫巫女制ですね。

だから卑弥呼は役職名で、何人も存在ます。
卑弥呼は磯城登美家の世襲でした
0821日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 00:00:04.82
>>812
神武天皇が小松原あたりに上陸して進軍したとすれば、方向は西か北しかない。
しかし、その場合は西か北に向かって山に進むのだから、
そこでナガスネヒコの攻撃うけて戦えば日神に攻撃しかける態勢とはならないので、
戦いが不利になって引き返すことにはならない。
神武は、阿波のナガスネヒコを簡単に打倒して勝利できたはず。
どうすんの、これ。
0822日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 00:04:42.30
>>817

応神天皇は神功皇后の時代なので後世の人です。
豊来入彦の子孫で、上州から密かに呼び寄せられた人。
あまり神武の投影は感じませんが・・

Bはイクメの父親。Cはイニエの息子でイクメ。魏の朝貢した人物で、名前がバッチリ載っています。故にBCの時代が邪馬台国事件、物部東征の時代、魏志倭人伝の時代です。
記紀は、二回にわたる物部東征を神武がやったことにして@の前にもってきています。
天村雲は、BC2〜BC1の人物です。
0823日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 00:20:10.00
>>820
書紀の編纂者は、大和を卑弥呼の倭国にダブらせようと必死だが、卑弥呼の時代の大和に大王、姫巫女制があったフシはない。
纏向の祭祀所で祀りを行ったシャーマンが男だったか、女だったかを示す物証はないが、
そのシャーマンが男だったとしたら、ホケノ山古墳の副葬品の種類と合う。
卑弥呼の時代が終わったあとに造られたとされる箸墓古墳は崇神の時代と合うので、南九州から来た男の大シャーマンである崇神の墓だろう。
0824日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 00:21:21.78
>>821

ナガスネヒコは孝元天皇クニクルの息子で、邪馬台国、崇神や垂仁の時代とは合いません。戦ったのは熊野から入った物部勢です。
名草のトベに毒矢で射抜かれた方の物部氏。

熊野本宮大社が陣地になっていました。旧跡地の中州、オオユノハラと呼ばれるところです。

後白河院は歌います。

熊野の権現は 名草の浜にこそ 降り給へ〜

若王子社は、五瀬を祭る場所になります。

熊野川支流の北山川(大峰奥駆道方面)に向かって北進
大峰山脈の東を抜け、井光近くの吉野川から国栖から高見川に沿って上流へ
宇賀志を過ぎて宇陀に到着。ここで一度終結を待ったとされる

墨坂のあとは、「磐余」に

物部軍が大和入りしたことによって、葛城国フトニは出雲への攻撃を中止する。
熊野物部氏のせいでフトニはヤマトには帰還できず、吉備国で無くなることになる
0825日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 00:31:20.79
>>823

>「書紀の編纂者は、大和を卑弥呼の倭国にダブらせようと必死だが、卑弥呼の時代の大和に大王、姫巫女制があったフシはない。」

逆です。危機の編纂者の目的は、徐福と絶対的禁忌の徐福を徹底的に隠す事と、天皇の系譜が万世一系でつながる事、朝貢の事実を消す事を目的としています。
大陸に見せることを前提として作られ、それで漢文で作られています。
記紀の編纂者は魏書の内容を知っていたとされています。
だから魏書に載った人物は渋々登場させ時系列や血縁を偽って繋げています。

初代神武の政権(三代までは尾張家、それ以降は海部家)は三代まで登美家から奥さんを貰いますが
三輪山の祭祀が始まった時点で、登美家の姫巫女は、いわゆる卑弥呼職を担当します

箸墓古墳は180年代に生きてたモモソ姫の墓ではないかと言われています(時代は合わないが垂仁天皇の娘のヤマト姫の可能性もありとされる)
原則今のところ箸墓古墳は放射瀬炭素分析で50年ほど古くなったので、モモソ姫の時代の墓の可能性が高くなっています

王様はシャーマニズムの省庁にはなれません。だから、東征の時に豊玉姫、月の女神を奉じる卑弥呼を連れてきたのです。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 00:34:14.49
神武は記紀に磐余彦と書かれているのに、崇神、垂仁のように「入」り彦のように、入が付いていません。
最初の東征と後の東征が区別できるようにわざと入が付いてないように思えます。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 00:37:04.00
>>825

訂正
徐福と絶対的禁忌の徐福を徹底的に隠す事と
物部と絶対的禁忌の徐福を徹底的に隠す事と

徐福はスサノオにされ、出雲の初代大国主の伝承と合わせて誤魔化しています。
出雲とスサノオに舅の血縁はありません。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 00:52:18.28
>>823

三輪山祭祀がいつ始まったかは判然としませんが
狭井川の上流付近にむかし、出雲屋敷と呼ばれた場所があり、そこに斎宮が出来て
クシヒカタの妹君が住んだとされるので初期の段階から祭祀はあったと思われます。

登美家の世襲と書きましたが、実際には磯城王家と登美家の女性が卑弥呼職になっていました。

三輪山登山口のある「狭井神社」を通り過ぎ、山ノ神遺跡に向かう。
「辰五郎大明神」が途中の目印
辰五郎大明神の手前を左に折れて山中に入る。
「山ノ神遺跡」

そこが出雲屋敷跡。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 01:01:50.65
カモス神社の西側に、忌部の里がある。
忌部川のほとりに忌部神社もある。

フト玉の命は東出雲王家の分家で、クシヒカタが奈良に行ったときに一緒に葛城に行っている。
本当の忌部は阿波を発祥としない。

渡来の忌部がフト玉を神様として担いでいるだけ
0830日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 02:02:44.38
奈良県五條市の吉野川沿いにある阿太は、隼人とつながりのある地域のようだ。
律令の時代には阿太の近くの原町に境合部(土地の境目を確定する役職)があり、この境合部は隼人系だったとされている。
またこの地域で竹細工に用いる竹は、九州からもたらされたとされているようだ。
万葉集の歌では、この地の鵜飼のことが詠われており、古事記では鵜飼は隼人の文化だとする記事がみえるそうだ。
また、書紀では、神武天皇がこの地で出会った贄持の子という人物は鵜飼を行っていた。
書紀の履中天皇紀や雄略天皇紀では、皇族の近習や天皇の宮の警護人として隼人が記述されている。
どうも、この五條の阿太は南九州由来の隼人が多く暮らしていたようなのだ。
そして、縄文時代には、この地では南九州系の縄文人が住んでいたことが分かっている。

崇神天皇をモデルにしたとみられる神武天皇は、南九州の吾田からやってきたことになっており、
崇神天皇は南九州から一人でやってくるわけがないので、崇神天皇を支える集団一式が一緒にやってきたと考えれば、
神武天皇が宮を置いた畝傍山の東南麓の地から真南に当たる阿太は、その崇神天皇の隼人集団が入植した土地だった可能性を考えることができるのではないか。
その入植地の選定に当たっては、縄文時代や弥生時代を通じてずっとそこに南九州系の者たちが暮らしていたことが考慮されたとすれば、納得しやすい。
つまり、縁故の地というわけだ。
そういうわけで、崇神天皇(神武天皇)の生活を支えた集団が、その五條の大阿太の隼人集団だったと考えれば、そこから真北に位置する橿原の崇神天皇(神武天皇)の宮の位置選択の理由も分かりやすいということになるのである。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 02:10:41.42
>>826
神武は南九州の吾田を出発して大和に来たわけですから、その物語で「入り」の人物であることは明らかな事であるので、「入り」を贈り名に付ける必要がなかったということではないでしょうか。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 02:18:42.52
>>830

崇神天皇を神武とする学説とすれば、宮は石上です。
後に石上神宮になりました。3世紀

出雲伝承の神武、BC2〜BC1の村雲王の宮は、クシヒカタの住んだ地域、鴨都波(かもつば)神社(下鴨社)の北西、葛木坐火雷神社(笛吹神社)のあたりとのです。
確かその後、二上山方面にも勢力を伸ばしたんじゃなかったかと
0833日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 02:28:14.40
>>831

豊国、物部の連合国の都は都万との事です。

ヤマトに行く前に死んだイニエ(崇神天皇)は記紀によって大和入りしたことにされたので入を付けたのではないでしょうか
腹違いの兄弟、八坂入彦
息子のイクメの偽名、イサチの前にも入
豊玉姫は途中で死んだので、入無し
息子と娘は、豊来入姫と、豊来入彦

熊野勢第一次物部東征は、磐余彦とウマシマジ

これらが全部同時期のように書かれたので、当然に邪馬台国も消滅
モモソ姫も、大彦、タジマノモリまで同時に参加せざるを得ない状況になったと言えます。

それなら160年代の磐余彦を神武にしてそこから始めればいいじゃんという事になりますが
それだと草薙の剣の尾張家が繋がらなくなるのでと、神武東征を紀元前に持っていった。

最終的に三人の神武候補が一度の事件で登場するという事態にw

しかし、後世の人たちは魏書に3世紀とバッチリ書かれちゃってるのを誰でも目にすることができます
これだけ大勢の人が魏書を目にする事などは記紀は想定してなかったでしょうね。

基本、古事記は一般から隠され、一般には日本書紀。

これだけ古事記がみんなに見れるようになったのは実は明治から。明治政府の政策で見れるようになった

だから、記紀と違う内容の伝承や神社はかなり圧迫された様です。
0834日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 02:37:24.17
>>831

物部軍は西都原に集結したという事なのでもうちょっと北の方面ですかね
0835日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 02:39:20.47
たぶん、邪馬台国事件の関係者を中心に「入」なんじゃないかと

奈良に残らなかったタジマノモリや、野美宿祢も武内宿祢も、額田宿祢も入は無し。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 02:47:55.63
>>825
>箸墓古墳は180年代に生きていたモモソ姫の墓ではないかと言われています。

トトヒモモソ姫は、十日×十日=百という九九をもじった名前ですので、
九九がもたらされたあとの創作でしょう。
この創作モモソ姫をもって卑弥呼に当てることは、無理です。
そして、モモソ姫が創作された人物であったとすれば、ヒコヒメ制のような統治体制の証拠がなくなります。
書紀の編纂者が必死になって卑弥呼とその弟の二人三脚を演出していると考えるのは、そのためです。
書紀の編纂者がなぜ大和に卑弥呼がいたと臭わせなければならないかのかというと、後漢書の記述から奈良の地をヤマトと名付けてしまったからです。
奈良がヤマトである以上、そこに卑弥呼がいなければ筋が通らないからですね。
そういうことなのでしょう。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 03:00:42.32
>>836

ヤマトトビモモソ姫ではなかったかと。
事件が一緒にされてしまったので、この名前は二人の名前が一つになったという事です。

ヤマト姫(伊勢の初の巫女様)イクメの娘
モモソ姫 登美家の分家、太田氏の出。弟が大田田根子とされています。

なので、間にトビが入ってるという事でした。

ヤマトは元々昔からありましたよ。村雲の神武の頃から。紀元前からです。
北九州より先に朝貢してたから魏書にも書かれたのです。

日本に同時発生した二大勢力、ヤマトと九州。

九州勢がヤマトを乗っ取るのに、張政を騙して、自分たちがヤマトの人間で、狗奴国をぶっ倒したいと朝貢したわけです。
これが魏書の邪馬台国。
張政は最後まで豊国物部連合軍が戦ってるのは狗奴国勢と思い込んでました

東軍も連合軍だったのでバレなかったのでしょうね
0838日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 03:25:09.02
>>793
かりにそうであっても、縄文後期であるので、問題ない。
南九州に始まった貝殻文が、中国・四国あたりで縄文後期になってヘナタリ貝が用いられたということ。
その影響が吉野川の宮滝にも波及したとするもOK。
一方、南九州では、後期の市来土器にも二枚貝の貝殻文が施されていて、これは薩南諸島にも及んでいるそうだ。
こうした貝殻文の発祥地は南九州であり、それが縄文早期までに西日本に広がったそうだ。
後期になって、瀬戸内でヘナタリ貝の貝殻文が施されるのも、こうした貝殻文文化のひとつということになるな。
0839日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 03:30:18.41
そおいうのは飽きた
0840日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 03:36:16.58
>>837
話の筋目が全然見えてませんね。
2世紀の末頃から大和に連合政権が生まれて、北部九州と大和に2大連合国があったとするのは、今は通説ですね。
で、そのあとが初耳の展開となっていますから、構図がよく呑み込めません。
書記のヤマトトトヒモモソヒメは創作された人物だと思いますが。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 04:07:55.34
名誉毀損
0842日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 04:29:47.59
おまえが結論を決めてよい事柄じゃねえの
0843日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 07:11:30.95
>>815
>吉備、山陰、北陸、播磨、近江、大和、河内、尾張、東海、関東、南九州など諸地域からなる大連合であり、その連合事務所が大和に置かれていた。


妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。

まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 

碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波 
0844日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 07:24:51.95
>>821
>神武天皇が小松原あたりに上陸

小松原? 小松島のことか?  いずれにせよ、そんな所に上陸などしないよ。   @阿波
0845日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 07:25:28.65
>>838

南九州は約7,300年前の鬼界カルデラの大噴火で滅亡した
貝殻条痕文は縄文時代早期から各地で採用されている
0846日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 08:06:19.01
モモソヒメという一皇女は女王ではない。
したがって卑弥呼ではない。

時代も約100年は違う。
卑弥呼は西暦200年ごろには推定20歳くらい。
モモソヒメは西暦300年ごろに20歳。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 08:10:43.68
吉備と尾張の集合でもかまわんがそれには新しい思想が収めなきゃならない、卑弥呼らが行うなら何処から得た知識なのか?という話になる。ヒメミコ制は五斗米道がこなす。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 08:20:49.96
卑弥呼←宇那比姫
相誅殺男王←侵略王フトニ
臺与←百襲姫(フトニの娘)
次の男王←ミマキ 
0849日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 08:37:29.39
>>840

二世紀末だと、熊野勢の物部氏が入った時で、磐余彦を神武とする場合です。そういう意味です。

もっと前から神武は居ました。
尾張家出身です。村雲の剣が草薙の剣で尾張氏所有です。

熱田神宮を作った尾張氏が居なくなったら正に記紀的状況w
0850日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 08:40:35.49
テスト投稿
0851日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 08:44:10.08
再テスト投稿
0852日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 08:57:27.83
>>846

モモソ姫は160年頃葛城国のフトニ(孝霊天皇)が出雲に戦争を仕掛け、最終的にヤマトに帰れなくなります。この頃倭は荒れます。
175年、磯城登美家の八咫烏が物部氏を手引きし、ヤマトの戦乱終結に導きます。
183年、大彦が負けて北に逃れます。

昔の人の平均寿命は50に届かないくらい。フトニの頃からの卑弥呼であれば高齢になります。
女王と書かれただけで、女王単独だったかといえばどうなんでしょうね。女王単独で戦乱を鎮めたは思えません。

景初3年と出る以前の卑弥呼はモモソ姫の事だと出雲伝承は書いています。
年号の出たあとの卑弥呼は別人で、東征の卑弥呼としています
0853日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 09:22:36.15
伊豆毛外三郡誌
0854日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 09:23:51.79
>>852
なに言ってんだか要領を得ない
0855日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 09:34:31.35
>>854

大和の方が先に朝貢してて、途中で死んじゃう方の卑弥呼は豊玉姫。景初三年の卑弥呼はそれより前に出てくる卑弥呼とは別人
0856日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 10:31:20.50
>>815
>卑弥呼の倭国は北部九州。
大和の広域連合は卑弥呼の倭国とは別で、魏略や倭人伝にいう倭種の国などに当たる。

倭種は、九州倭國の「繰り返しの東征毛人五十五國」で得られた地域への倭人の定住民。

>吉備、山陰、北陸、播磨、近江、大和、河内、尾張、東海、関東、南九州など諸地域からなる大連合であり、その連合事務所が大和に置かれていた。

当然、その連合事務所は北部九州にあり、
大和は、三道将軍に参加出来たりして生口や守墓人を獲得出来てよかった旧小国。

>「倭国から分かれた旧小国」というのは旧唐書などの誤解。
むしろ、この連合が北部九州の倭国を飲み込んだというのが正解。

魏使らや裴清や郭務ソウらのような、
倭国倭地での実地の見聞計測記で書かれた中国史書群は、
信頼性や確率が非常に高く、
8世紀になってからの大和などの史書群などの記載は、
後代の自家解釈に拠る創作話が多く、信頼性も確率も低い。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 10:50:29.00
もう宗教だな
0858日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 11:32:25.33
また投稿を拒否されたので、テスト投稿
0859日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 11:36:45.10
テスト投稿が通ったので、元の投稿を再投稿したら、
また5chに掲載を拒否された
0860日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 11:36:56.11
>>857
まあその、卑弥呼さんそのものが宗教の象徴でありますから
0861日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 11:37:51.33
売り上げのための規制うぜー
0862日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 11:48:42.14
>吉備、山陰、北陸、播磨、近江、大和、河内、尾張、東海、関東、南九州など諸地域からなる大連合であり、その連合事務所が大和に置かれていた。

出雲の国は段々大きくなって、初めは北九州のアタカタス、宗像家が広がり、その後に移住で大和。
その時には既に北陸から翡翠が運ばれてましたのでまさにその通り。

東海、関東は大彦の息子の軍勢が邪馬台国事件以降入り込んでますが、纏向からは元々そっち方面の土器も出ていたと思いますので、結びつきはあったと思います。

そこにヒボコが播磨侵攻を始め、領地確保のために葛城と尾張が動き、葛城のフトニが砂鉄の確保のために出雲領のの吉備まで侵攻。
そしたら熊野の物部が入ってきてしまい、フトニは大和王様ではなくなりました。
しかし物部のお陰で吉備出雲侵攻は止まりました。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 12:24:00.83
大元出版の出雲伝承本は、複数の人が本を書いており、出雲王家の子孫の人と別の方では若干書いてある内容が異なる。

出雲と大和のあけぼの
親魏倭王の都

箸墓古墳の被葬者がモモソヒメとヤマトヒメで分かれている

大和姫説の人はモモソヒメの墓を
登美家が造っていた纒向の初期の古墳の中にあるだろうと推論を述べている。
有力なのは纒向石塚古墳。3世紀初頭に造られた全長100mほどの最古級の前方後円墳。
纏向遺跡の西側の太田地籍、さらにその西側ではなかったかと。
周濠からは楯築由来の弧帯文様が彫られた弧文円板という祭祀用品が出土している。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 12:32:47.27
尾張氏と海部氏

大和の高尾張村にいた尾張一族は、イツセの物部勢力に圧され、一部は紀伊国の高倉下の子孫と合流、残りは摂津三島へ。
そこで尾張家と分かれた海家(海部氏)は先祖の地、丹波へと引きあげたとされる。
残りの尾張一族は伊勢湾岸へと移住し、熱田神宮を建て勢力を伸ばし、のちに尾張国と呼ばれるようになりました。
その時に草薙の剣も持って行ったのでしょうね。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 13:00:26.13
>>1こと奥山君の失敗は、卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。

卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからこそ、その時代がとんでもない時代=BC660年に設定されてるのだ。
卑弥呼を隠すことは、卑弥呼より100年前の倭国王帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。

卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 

墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png








径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。

>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜!
0866日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 13:04:44.39
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8

アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.
0867日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 13:17:50.63
175年から183年の間が倭国大乱。
先王家の二大勢力の尾張家と海部家は大和を去った。
残るは王家と連立相手の登美家。

クニクル大王はまずクニアレ姫との間に大彦とモモソ姫をもうけ、その後
物部東征の影響で、物部の2人の姫君を后とし、そのうちのひとりとの間にオオヒビをもうけ、他方の姫君との間に彦フツオシノマコトをもうけているようだ。
この彦フツオシノマコトが紀伊の高倉下の子孫である山下陰姫との間に武内大田根、いわゆる武内宿祢をもうける。
その息子たちがこの後大和を大きく動かしていく。
武内宿禰が長命になる理由。物部、出雲、磯城家のすべての血が入った蘇我氏の祖はこうして生まれた。

最初の物部東征は、物部の姫が三輪山祭祀の卑弥呼を継げなかったのでグダグダで終わる。
物部氏は銅鐸を壊して回って銅鏡を強要したようだ。当然うまくいかない。紀州の名草の様な反骨気質の人だって沢山いただろう。

登美家のモモソ姫はこの時に、落とし所として物部の銅鏡祭祀を取り入れたらしい。
だから出雲屋敷後からも銅鏡が出ている。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 13:19:05.46
クニクルとモモソヒメの妥協に反発したのは物部嫌いの大彦。
彼は家出したww
0869日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 13:22:46.25
2回目の東征は、一回目と同じく、倭国の分裂が起きたタイミングで仕掛けられている。

オオヒビ、開化天皇の時に家督争いが起きて分裂状態になった段階で2回目の東征が始まった。

サホヒコと、ヒコイマスと大彦だったけっかなー、三つの勢力で争っていたらしい
0870日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 15:35:14.15
第一次物部東征と磐余彦
神武がどこに向かったか

前に、磐余彦は通過した地名と書きましたが、東征のお話でポコポコ出てくる敵役や、呑気な磐余彦の歌は、殆どが通過した地名になっています。
実は磐余までは殆ど戦闘がなかったらしいです。

じゃあ、クジラが出てくるじゃん?という話になりますが
「葛城山の麓、御所市に櫛羅くじらという地名がある」

それから北西に向かえば高尾張村。

記紀は分かる人には分かる様に上手いこと例え話を書いています。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 15:44:31.29
>>865

正直、散々書きてきたけど徐福は相当ヤバいと思う。
私が研究者や、国の威信を意識する立場の人間ならどんな証拠を積み上げられても絶対に認められないと思う。
無理だ、影響が大きすぎる。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 15:50:23.59
>>845
ところがどっこい、滅亡していなかったという研究がある。
火山灰下の轟A式と火山灰上の轟B式は連続していて、火山灰の降下が終わって植生が回復するや避難していた阿多族が帰還して、南九州の文化が復活したというもの。
なので、縄文草創期以来の貝殻文文化は鬼界カルデラ大噴火によって壊滅的被害を受けたものの、前期に入ってその文化は回復し継承されたとみなされている。
0873日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 16:05:10.02
>>872
火山の噴火で住んでた人たちは四国とか色々移住したらしいね。
その辺の昔になると、宇佐族しか伝承がない。
その頃は出雲も物部も九州には居なかったから。
0874日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 16:05:18.26
当たり前だよ

徐福徐福言っていたキチガイはてめえで何言ってるか分かってねえんだもんよ
0875日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 16:17:58.30
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定をする大和説者は、
嘘吐き騙しです。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 16:23:07.27
>>872

南九州のアカホヤ火山灰以前と後では遺跡数が激減し
轟B式土器自体は 1 つの遺跡から少ししか見つかっていない
滑石を混入した曽畑式土器から遺構が少しずつ増えるから
西北九州から移動している
0877日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 16:38:11.07
>>875
>「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、

それ、史料事実や史料実態じゃなくて
あんた独特の政治思想だから
0878日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 16:39:30.40
>>856
中国側の使節が何度も大和に行っているのに、魏志などが記す北部九州の倭国と隋などと関係が生じた大和との関係を解明できていないのは、大和側がちゃんと説明しなかったことに原因がある。
この不審な大和側の態度は、後漢書のハンヨウが宋の都で讃の使節に対して言を左右にして卑弥呼の倭国と大和との関係を知らせなかったこととおんなじであり、唐はこうした大和の態度に不信感を抱いていて、信用できないと不満をあらわにしている。
おそらく、大和側は卑弥呼の倭国を攻略したことを中国の王朝に知られたくなかったのだろう。
魏の家来となった卑弥呼の倭国を攻略したことが知れると、外交や通商で制裁をくらうと考えたからではないか。
そうしたことから、日本書紀の編纂では、卑弥呼の倭国と大和が一貫した国であると臭わせる操作を行ったのだろう。
0879日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 16:43:04.08
まーだやってらっしゃるのか


卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)

卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)



ハイ終了

解散!
0880日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 16:45:34.53
>>876
第一陣が現地に帰還して、見た状況を博多などにいた仲間に知らせたのだろう。
そうした状況がわかるにつれて、徐々に帰還する者たちが出てきたということだろう。
轟B式がアカホヤ直下の轟A式とつながるという研究成果であるから、壊滅前の文化が生き延びていたことを証明していることになる。
0881日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 16:47:24.71
>>873
宇佐族のその伝承は、どんなものなの?
0882日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 16:47:32.40
大和国に始まり近畿全域は『狗奴国』の勢力圏だと確信してるけどね
東海もかな
0883日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 16:53:15.15
>>859
結局、二つの投稿が5chにより拒否されて、掲載不能になった。
いずれも、史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論の論であったが、
またいずれ説明出来る事もあろうから、
それらは、一旦投稿断念。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 16:54:15.78
>>849
北部九州の倭国が魏に朝貢する前に、すでに大和が朝貢していたとする根拠が示されていませんね。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 16:56:57.96
>>844
吉野川の河口かな。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 17:01:15.46
狗奴国=邪馬台国…?
0887日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 17:06:11.00
>>843
芝遺跡付近だろうな。
連合事務所はここにあった可能性が高い。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 17:14:12.55
>>887
>芝遺跡付近だろうな。

それが卑彌呼がいた王都遺跡だと言うのかね? 矜持はないのかね、畿内信者には。  わははははは   @阿波
0889日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 17:38:07.83
>>874

九州と大和には同時に文化の進んだ時期があり、先代旧事本紀や、海部氏家系図からも、同一人物が大和と九州の祖になってることは明らか。
おっさんが何を言おうがねw

徐福じゃなきゃいいんだろ?

じゃ、アメノホアカリニギハヤヒだな。

あなた解散w
0890日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 17:39:05.71
>>837
ヤマトトトヒモモソヒメと似た名前では、ヤマトトトワカヤヒメ、ヤマトトハヤワカヤヒメがみられますが、
ヤマトトビモモソヒメの名はみかけませんけどね。
ただ、ウィキでは、トトヒを鳥飛とし、脱魂型巫女を指しているとする説があると言っています。

ヤマトトビモモソ姫は、このトトヒ(=鳥飛)説なのでしょうか。
0891日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 17:43:07.27
>>888
卑弥呼は北部九州。
この大和の芝遺跡あたりが、広域大連合の事務所のあったところじゃないかと思うんだけどね。
0892日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 17:45:40.87
>>891
>卑弥呼は北部九州。


妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。

まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 

碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波 
0893日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 17:49:29.80
>>878

例えば、景初三年と、二年の問題がありますよね。
魏国は前の年まで揉めてたから、二年の朝貢はあり得ないと。ここ重要。

さて、本土防衛のために大和出先機関、伊都は、基本的に朝貢団の出発地点であると同時に、外国人が一度そこで足止めになってた場所。
つまり本国が分裂すると、その時に朝貢は出来るのか、出来ないのか。

景初三年近辺の伊都の長官は物部氏。
誰が朝貢してもバレない。

そもそも九州物部は、伊都とは敵対しておらず、魏から見れば大和の支配体制に反対していない勢力に見えるだろうね。

誰でも朝貢団なんて偽装できるんだよね。
長官ならすぐに本国の揉め事が伝わるだろうから。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 17:51:48.50
>>884
元々畿内の大和しか朝貢してなかった。
混乱の隙をついて都万国が朝貢した。
その時に機能不全に陥ってた伊都の出先機関を利用した。
長官は当時は物部氏。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 17:53:11.20
おう😃

徐福なんて嘘吐きだましのインチキだからな🤪
0896日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 17:55:04.55
>>881
宇佐族は9000年前に渡来し、出雲族は6000年前に来たという内容だったかと。
ただ、出雲伝承では3500年前らしい。

噴火の時の話を口伝にきて残してる
0897日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 17:57:25.92
>>891
>広域大連合

よくもまあ、そんな大言壮語を吐けるもんだ。  常識と言うものが無いのだろうか?   @阿波
0898日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 18:09:00.68
>>880

鬼界カルデラ噴火は九州編年の轟A式古段階から新段階の間で
森林植生の回復がうかがわれる時期は,南九州の中部以北では遅くとも轟B式中段階以降であり,
南部においては轟B式新段階から曽畑式期以降だから
壊滅した南九州の森林が少しずつ回復するにしたがって
西北九州人や半島人と交配した人たちの南下が後続したんだろう
0899日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 18:21:50.37
南九州から大和に招かれた阿多族の大シャーマン(のちに崇神と諱を贈られた)が宮を置いて住んだのは畝傍山の東南麓の橿原の地。
その大シャーマンを世話するために従ってきた阿多族の隼人集団は、その橿原の南の吉野川沿いの大阿太に住んだ。
この大阿太の地は縄文時代から南九州系の隼人が住んでいたところであり、大シャーマンに従ってきた隼人集団にとっては縁故の地ということであった。
そして、この大阿太に住んだ隼人集団から、大シャーマンの世話をする者たちが送られていたということになる。
大シャーマンは、纏向の大型建物跡の祭祀所で各種の祭祀を行ったが、そのために橿原から磯城へ行ってまず仮宮で斎戒沐浴精進し、それから纏向の祭祀所に赴いたのだろう。
この南九州阿多から来た大シャーマンはのちに崇神と諱を贈られた人物であるが、日本書紀では神武天皇のモデルになった人物でもある。
それで、日本書紀では大シャーマン(神武)の宮は橿原にあったとし、一方では崇神天皇の宮は磯城にあったともしている。
この磯城の宮は、先に記したように、大シャーマンが纏向での祭祀のためにまず磯城に行き、そこで斎戒沐浴のために仮宮を置いたことにちなんだものだ。
つまり、日本書紀のカラクリは、連合政権の大シャーマンとして大和にやってきた人物を神武天皇と崇神天皇に描き分けたということにあるのだ。
こうした観点からすると、いわゆる葛城王朝は実在したのであり、その葛城王朝は磯城や纏向も含むエリアで活動し、三輪山の麓の芝遺跡の地に置かれていた連合政権の事務所がその大シャーマンを南九州阿多から招き、活動を支援したということになる。
葛城王朝も三輪王朝もその実態は一つであり、それは崇神王朝のことなのである。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 18:22:54.11
実際に、本国が分裂して揉め事が起きると、自分の立場を保証する国が無くなるかもしれないし、場合によっては攻め込まれるかもしれないから逃げたり、実家に戻って戦うかもしれない

表向き上は、本国大和の名代として、魏から錦の御旗を貰ってくるから、大和さん待っててねと言えば残留した小役人も誰も疑わない

実際に卑弥呼は狗奴国をブチ倒すから旗をくれと言ってる訳だしね
0901日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 18:39:36.68
>>899
>この南九州阿多から来た大シャーマンはのちに崇神と諱を贈られた人物であるが、日本書紀では神武天皇のモデルになった人物でもある。
自分の妄想を断定調で書くな。
それは典型的な詐欺師の手法だ。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 18:41:23.89
>>899
能書きはいいからヒミコは誰なのかスカッと言えやボンクラ。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 18:44:15.98
当時の長官はニギさんと言ってモロに物部の名前。
お前らうろたえるな、私は地元出身だ、最後までここに居るからと言えば、キャー所長ステキーとなるに違いない
0904日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 18:56:40.12
そしてニギさんは部下を鼓舞する。

いいかお前ら、弱みを見せるな、大和が危機にあると言えば、義 魏は我々を軽んじて何もしない可能性がある。決して弱みを見せるな。
本国に帰った何某のためにも立派に勤めを果たせた鼓舞する。
みんな涙ウルウルで社長の話を聞く
0905日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:02:21.39
最大の危険ポイントは、魏からの下賜されたものが届く時。
朝貢の返礼品だけは絶対に本人が受け取りに来なければならなかった。
豊玉姫は嫌がったらしいが決まりなので仕方がない。
なんでか知らないが、黄色の属国旗以外に金のハンコと銀のハンコ、大量の鏡があるが、アレ?チョコボールのオマケ?くらいでおかしいと思っても誰も何も気にしない。

つーか、張政まで来ちゃってすごくね?と、伊都の人たちは喜んでしまう。

意外にさ、出雲本に出てる、北九州が大和を偽装したって簡単に出来そうなんだけど。

そもそも物部は長官に任命されるほど信用されてた訳だし。

ま、もちろん私の創作で妄想ですが。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:24:06.22
>>898
この半島人とはどのような種族であったかということは非常に重要な問題となっており、相当に興味を引く問題だ。
半島における櫛目文土器が曽畑式に影響を与えたとされるが、その櫛目文土器の最古のものはソウルで出土したものであり、6000年前とされる。
櫛目文土器は8000年前の遼河地方に発祥したものであるので、その2000年後にソウルで造られたことになる。
この時期に半島にいたのは九州縄文系の種族だけであり、ソウルの櫛目文土器を造った種族はその縄文系種族であるとみることが可能だ。
その後4500年前頃からの気候変動で遼河文明は四散し、そのあとにY-O2、C2系種族が進出したとされている。
したがつて、6000年前頃に曽畑式土器を半島南岸付近までもたらしたのは半島を北上していた縄文系種族であることが推測されるものであり、
この時期の半島人とは九州系縄文人であったとすることが可能である。
曽畑式土器に影響を与えた櫛目文土器を半島南岸にもたらしたのは、縄文同族だったとする構図を描くことが可能だ。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:27:05.32
縄文時代の阿蘇の噴火で西日本から半島に住んでいたやつらみな死に絶えたんだっけ?
0908日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:27:52.26
確かそんな資料みたいなもんあったはず

つまり無人の空白時代ができたはすなんだわな
0909日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:29:51.85
そのあと東日本しか縄文人らは生き残らず沖縄あたりもそこまでは被害が及ばなかったから生き残ったと

どっちにしろ東日本からの流入か沖縄からの北上しかそのあと広がるならそれしかありえないんだわ
0910日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:30:21.95
>>902
アホォォォォォ。
卑弥呼は女シャーマンに決まっとるやろ。
倭人伝には名前が書かれてないんだから、その卑弥呼の名前が分かるわけないわ。
分かるというやつは、脳内劇場の持ち主以外にない。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:30:55.67
これにより大陸までのルートはあったが絶滅により遅れたって話なんかのお
0912日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:33:46.69
だいたい崇神と神武を同一人物にしようというやつはアマテラスを卑弥呼に持ってこようとしてるやつね。

それ間違い。
崇神は4世紀初頭の行灯山、神武は纏向石塚の時代。
纏向石塚が神武の墓ということじゃなく、あくまで時代が同じということね。
それ(=纏向石塚)は卑弥呼の時代でもある。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:36:01.62
>>901
この板は、それくらいでOK。
少々データ不足でも、確定事項として押し出さないと、迫力に欠ける。
学者の論文じゃないんだし。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:36:23.53
>>910
脳内劇場はお前だろ。

卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 
0915日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:46:34.01
>>908
おお、その情報凄いですね。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:49:23.94
>>906

>この時期に半島にいたのは九州縄文系の種族だけであり

根拠は?
0917日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:51:10.73
>>913

お前のは全てが作り話
0918日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:51:55.07
>>896
宇佐族は南方系なん?
0919日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:52:52.59
>>917
いや、歴史事実だ。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:57:59.31
>>919

ホラ爺アッシーだろw
0921日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:59:25.58
>>897
ブーメラン刺さってますよ😅
0922日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 19:59:37.00
>>916
韓国の国立博物館は、1万2000年間から6000年前まで半島には人が住んだ遺跡がみあたらんといておるそうや。
ということは無人やったということ。
しかし、考古学的には半島南岸域や島で遺跡がみつかつている。
その時期は1万年前〜6000年前頃やな。
ということは、その時期に半島に居たのはその種族だけということになる。
その種族の土器などは九州縄文人の土器などと実によく似ているそうや。
これ、常識やぞ。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 20:02:51.11
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
0924日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 20:03:44.59
>>912
崇神が担いできたのは日神だろうな。
天照大神は後の創作じゃないの?
0925日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 20:07:54.00
>>920
吉井信号は、もう掘ったのか。
0926日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 20:20:49.02
>>901
>>この南九州阿多から来た大シャーマンはのちに崇神と諱を贈られた人物であるが、
日本書紀では神武天皇のモデルになった人物でもある。

>自分の妄想を断定調で書くな。それは典型的な詐欺師の手法だ。

賛成です。
自分が論拠にした文献考古の史料事実や、
それに関する信頼性や確率的な史料批判という史料実態の推論、
が必要です。
0927日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 20:26:10.53
>>922

それが鬼界カルデラの大噴火後の轟B式土器だろ
0928日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 20:27:29.84
>>905
>・・・ま、もちろん私の創作で妄想ですが。

勿論、根拠の史料事実や、それからの帰納的確率的な史料実態の推論、
などが書かれていないから、
始めから、信頼性がありません。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 20:35:55.72
>>910
>倭人伝には名前が書かれてないんだから、その卑弥呼の名前が分かるわけないわ。
分かるというやつは、脳内劇場の持ち主以外にない。

松野氏姫氏系図には、卑弥呼は「刀良」という名前であった、と書かれている。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 20:42:39.97
>>929
それ、古文書ですらねえし
0931日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 20:43:00.48
>松野氏姫氏系図に

倭の五王を強引に継ぎ足したり、いいかげんな代物www
しかも五王の名前を中国史書そのままにしてやんのwww
0932日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 20:45:17.91
>>912
>それ間違い。
崇神は4世紀初頭の行灯山、神武は纏向石塚の時代。
纏向石塚が神武の墓ということじゃなく、あくまで時代が同じということね。

それ間違い。
神武即位元年は、二中歴などに拠って、紀元前91年頃。
石塚は、卑弥呼の墓は冢であって前方後円墳ではなく、
最初期の前方後円墳の那珂八幡などが3世紀後半半ば過ぎ頃になるから、
それの「進化型」である庄内は、3世紀末以後。

>それ(=纏向石塚)は卑弥呼の時代でもある。

バツ。
0933日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 20:50:49.07
>>923
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」・・・

「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、
バツですね。
0934日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 20:55:25.38
半島には縄文人が住んでいたんだろ

鬼界カルデラの活動により滅んだと
0935日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 20:56:04.87
滅亡の時期の特定によりかなり歴史資料変わるね
0936日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 20:57:41.11
そのあとに色んなのが流入したんやろ
0937日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:04:21.16
>>934
滅んでねえ〜つうの。
火砕流が来たのは鹿児島市付近まで。
その北のほうは、みんな避難したのよ。
だから、轟Bが轟Aにつながってるわけ。
勝手に滅ぼすなヨ。
0938日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:11:04.02
>>928
まさかのマジレスが付くとはww
0939日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:11:49.77
>>913
それをホラという
0940日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:16:13.52
>>899
そのシャーマンは途中で死ぬじゃん。
3分の一行く前に魏書と合わない
0941日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:19:08.30
>>926
そうした推論を経た結果が、葛城王朝、三輪王朝=崇神王朝論だよ。
君らとなんら変わらん。
確かな根拠がある。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:20:44.70
>>890

倭迹迹日百襲姫

との字は、後という意味の漢字。意味のある当て字だとしたらと考えちゃいますね。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:25:05.34
徐福の布教活動はかまわんがほどほどにするのと規制はすんなよ。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:26:29.73
>>940
魏書と合わなくて当然。
日本書紀の大和の崇神王朝は、北部九州の台与の倭国を大和が呑み込んだ後に成立した王朝。
だから、この王朝のもとに造営されたホケノ山や黒塚からは鉄器がざくざくと出る。
それ以前の墳墓から何も出ないのに、どうよ、この変化は。
輸入鉄器などを大和が独り占めした結果だ。
崇神王朝は、そういう体制だったつ〜こと。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:29:51.12
>>944
>日本書紀の大和の崇神王朝は、北部九州の台与の倭国を大和が呑み込んだ後に成立した王朝。


よくもまあ、そんな大言壮語を吐けるもんだ。  常識と言うものが無いのだろうか?   

妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。

まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 

碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波  
0946日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:32:40.29
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8

アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.
0947日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:38:32.83
>>942
迹の漢音はセキ、シャクなので、この字をトと発音しているのは、この字の日本語の読みであるアトのト音を取っているように見える。
何か意味付けがあるのか、単に数字の十(ト)の音を表すのにこの字を用いたのか。
後者であれば、十十日とすれば九九であることがもろ分かりなので、別の字を用いたということかもね。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:45:14.50
>>945
フフ、効いてる効いてるw
0950日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:47:19.11
>>945
神武が宮を置いた畝傍山東南麓の北東すぐのところに瀬田遺跡がある。
たくさんの遺物が出ている。
ここに東瀬戸内系の前方後円型墳墓がみられる。
2世紀末頃の築造だとされるものの、その形状からすれば纏向遺跡の東田大塚古墳を真似たもののようにみえる。
時期は3世紀後半ではないか。
つまり、崇神(神武)の宮の近くには、こうした集落がたくさんあって、賑わっていたのではないか。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:49:03.44
>>944
そもそもが、紀元前から尾張氏と磯城登美家は奈良で製鉄やってましたよ。

出雲系の国で製鉄や出てないはずないでしょ

トヨは物部連合の重要な要。卑弥呼だからね。
大和の制服には絶対に欠かせない要素だった。

東征なのに逆になんで呑まれちゃうのさ
0952日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:51:00.22
>>941
ミマキイリヒコなのに、葛城や三輪山祭祀がイコールなんてあり得ませんよ。

根拠どころか、時系列がおかしい。
0953日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:51:49.62
>>949
>畿内には唐古鍵遺跡と言う大きな集落跡があるよ

その唐古鍵遺跡が、「王都たる集落遺跡」でいいのかい?   @阿波
0954日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:54:18.04
>>922
そもそもが、旧石器時代の遺跡なんて圧倒的に日本の方が多いですよね。

地続きだった頃にあんな寒い朝鮮に住む人はいない。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 21:56:37.46
>>947

後と言う字がまさかのビンゴなら

ヤマト、後、登美モモソ姫と言うことになるかもで、なんらかの示唆の様な気がする
0956日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 22:11:32.35
>>953
>その唐古鍵遺跡が、「王都たる集落遺跡」でいいのかい?

全然ダメ、王都であるわけがない。
崇神の宮は磯城瑞籬宮と言われてるが驚くほど小さい敷地。
王宮が神社として残ってるという事実が大事。

卑弥呼やトヨの宮も今では神社として残ってるのであろう。
もちろん式内名神大社。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 22:14:01.05
>>953
まあ当時の国内最大規模の集落らしいしな
王都の集落遺跡でもおかしくないね
0958日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 22:16:47.75
>>950
>崇神(神武)の宮の近くには

簡単に同一人物にするな、50年くらい前の古い説。
崇神と神武では后の名前も違えば宮の場所も違う。
神武は日向から来たが崇神はずっと磯城。
なんで同一人物になるんだ。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 22:18:53.79
>>957
>(唐古鍵を)王都の集落遺跡でもおかしくないね

へぇ、じゃその時代の王墓は?
0961日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 22:26:21.13
>>958

>神武は日向から来たが崇神はずっと磯城

逆で、神武はずっと磯城で、崇神は日向から来た、じゃないの?
0962日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 22:26:47.55
>>960
唐古鍵時代の王墓がなんで前方後円墳なんだよ。
時代が全然違うだろ。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 22:28:45.06
>>961
>神武はずっと磯城で、崇神は日向から来た、じゃないの?

おまえウザいから消えろ。
歴史を好きに作り替えて良いならなんだってできる
0965日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 22:37:21.20
>>956

トヨの宮は確かに今でも残ってますね。
椿大社から招かれたトヨ来入姫は、島子に連れられてそこに落ち延びます。

椿大社の奥に、豊玉姫のための別宮を立て、椿岸神社が建てられます。
そこではツクヨミも一緒に祭られ、細女(うずめ)本宮と呼ばれています。

後に彼女はイクメの放った刺客により暗殺され、後世にホケノ山古墳に埋葬されたと伝承されます。
あの古墳からは三角縁神獣鏡はでず、後漢鏡が出土しています。

しかし、放射性炭素分析により、2018年度の再度の検討により年代が50−100年ほど新しくなってしまい。4世紀の判定。
若干トヨの時代と合わないのではないかと言われ始めています。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 22:49:14.51
>>964
>唐古鍵は古墳時代も存続してたしいいだろ

いいわけないだろ、たとえば2世紀前半頃、
魏志に書かれた其国の男王の墓はどう説明するの?
0967日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 22:50:45.56
>>954


寒いときの方が食料の大型獣がいたんだよ

温暖化が始まって半島の大型獣が北上してしまったから半島の旧石器人たちは
それを追ってみんな北上してしまった

だから半島からほとんど人が消えてしまった訳だ

日本列島の場合はそうする訳にはいかなかったから代替食料に捕鯨や
サケ、マス、マグロなど、漁労に移行していった

元は同じ朝鮮半島から入ってきた旧石器人なんだがな

ただ日本列島の場合は樺太からも違った旧石器人が後から入ってきて、
朝鮮半島にはない技術や文化をもたらした

縄文土器は樺太経由の旧石器人がもたらした技術の内の一つ

それから何千年も後の3500年くらい前に沿海州と海を越えての黒曜石交易が
たびたびあった

黒曜石を求めて山陰地方に渡来していた沿海州ツングースの一部が山陰地方に定着した

これが弥生人の祖先になっていったのである
0968日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 22:52:23.21
>>965
>後に彼女はイクメの放った刺客により暗殺され、後世にホケノ山古墳に埋葬されたと伝承されます。

いつ、どこで、誰によって伝承されてきたんだよ、ボケナス。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 22:55:30.07
>>963

口から出まかせ言ってると周囲と調和がとれなくなるよ?w

崇神は物部イニエで大和入りしていない。
そもそもが、息子のイクメがイサチとして魏書に書かれてるだろ。その時点で察しろw
万世一系のために、磯城王朝の大日日(開化天皇)だが、ミマキイリヒコをオオヒビの皇子に偽装して磯城王朝の系譜に入れ込んだのが記紀の作為

そうするとミマキイリヒコの母親をでっち上げないといけないことになる。
なんと先代の磯城クニクルの奥さんをあててしまう。
そうすると、開化は地位の配偶者を嫁さんに迎えたことになってしまう

古事記に登場するミマツヒメは、開化記では崇神の妹にされている
しかし、崇神記ではイクメの母はアタツ姫の処をミマツヒメに替えられてる

万世一系、二つの王朝を一つにまとめる作為の結果、オオヒビのあとにいろんな人を詰め込んで書かざるを得なくなった。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 22:56:58.14
>>968

さあ?地球が何回廻ったころでしょうね?w
0971日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 23:14:55.34
>>967

ツングースに環濠集落は無い
0972日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 23:15:08.57
宇佐家極秘口伝書

大分県の宇佐神宮宮司であった故宇佐公康氏(宇佐国造池守公より57世)が、宇佐家に代々伝わる極秘口伝書の内容を1990年に著書「古伝が語る古代史」にて公開。
次世代に受け継ぐ者がいないため、一子相伝の「口伝書」と「忘備録」を世に公表して残そうと決意した。この辺は諏訪の神長官と同じだね。

この宇佐家伝承によると、物部氏の原住地は筑後平野で、高良神社が氏神であり、神武東征以前にニギハヤヒが部族を率いて大和へ移ったとある。
そして崇神天皇は物部氏の首長であったと。

五瀬の東征なのか、イクメの東征なのかは判然としない書き方だが、物部の血は何しろ隠さねばならぬ秘密だった
0973日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 23:20:45.84
>>967

>これが弥生人の祖先になっていったのである

惜しい。弥生人じゃなくて、縄文人の祖先

縄文人の母系のハプロタイプDは、北海道、沖縄、そして本州では出雲にのみ分布する。
紀元前200年代では出雲王朝は第八代。
その前のクナト王の系譜は50代ほど遡れるらしい。

出雲伝承では渡来が3500年ほど前とされており、ロシア経由での渡来と伝承される。
彼らは最初からインドの製鉄を持ってた。だから、日本最古の鉄の出土は中国より古い物が出ている。

ロシアの「ブリヤート人 日本人」で検索。日本人激似。
0974日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 23:25:55.79
>>967

遮光土偶で有名な亀ヶ岡式土器は、後に九州にまで影響を及ぼし、その後、水稲伝播と同じくして次第に逆方向に押し返されていく。
一説には銅鐸の模様の原型ではという説もある
亀ヶ岡式土器の影響は沖縄にまで及んでおり、九州は青森よりも遅い時期の出土となっている

出雲族渡来、縄文人の母系DNA、土器から見ても朝鮮半島は日本に影響はしてないと考えるのが一般的
0975日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 23:30:43.44
>>962

あの遺跡、埋没古墳が発見されてて前方後円墳だよね。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/17(土) 23:42:55.26
>>971
それはずっと後になってから半島からパクっただけの話

稲作や金属器もな


>>973
頭の中が隅田川花火大会のひと乙
0977日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 00:00:48.06
>>918

宇佐氏の伝承では、
宇佐族は、9000年前の早期縄文時代には山城国の稲荷山を根拠地として狩猟・採取の生活をしていた(宇佐家伝承)p36
続く出雲族が、8500年前にシベリアから来た、と本には書かれていますが、
宇佐族が来て過ごしていた時代、日本列島は定住していない(稲作のない)縄文時代でありました。
宇佐氏の縄文時代については、宇佐族はどこから来て、という内容は伝承にはないようでした。
そして、やはり水稲耕作はしていなかったようです(縄文土器は使っていた)。宇佐家伝承1巻p106<日本最古の先住民族イザナギ族は、先妻の子がアイヌで東日本に展開、後妻の子が西日本で宇佐族になった、という伝承があるようです)
0978日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 00:02:16.67
>>976

それはお前が言ってるだけの話
0979日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 00:03:03.82
>>976

何でもかんでも朝鮮半島の、昔の先生みたいな人、久々に見たわw
0980日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 00:10:10.77
>>976

水稲に関しては日本最古の佐賀の遺跡と同時期の物が朝鮮半島にはあるけど
その時代、朝鮮半島には鉄器の出土がない状態になってる
0983日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 00:16:03.13
>>979
弥生人自体は朝鮮半島じゃないぞ

弥生人が朝鮮半島から渡来したなら、朝鮮土器から弥生土器が始まっている
はずだろうが

ところが弥生土器は沿海州南部と特徴が一致する土器から始まっている

ちなみに弥生土器が始まったときの朝鮮土器は孔列文土器だ

弥生人が朝鮮半島から渡来したなら、孔列文土器から弥生土器が始まってないと
話がおかしいね
0984◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2020/10/18(日) 00:19:01.74
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1602945069/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0985日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 00:25:18.94
>>958
学者の説では、神武=崇神説が根強い。
神武が南九州阿多から大和入りするまでを表し、
連合の大シャーマンに就任したあとは崇神で表しているとする。
この説に従えば、生身の人物としては崇神と諱を贈られた人物が南九州阿多からやってきた人物であるとするのが妥当。
で、橿原にいた崇神(神武)が皇后としたのが媛蹈鞴五十鈴媛で、崇神(神武)が纏向での祭祀のために逗留した磯城の仮宮での妻が御真城姫。
橿原の媛蹈鞴五十鈴媛の名に比べて、磯城での御間城姫の名は皇后としては軽い。
その違いは皇后と妃の違いといえる。
崇神(神武)の本拠地は橿原だったつ〜ことだよ。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 00:34:34.41
>>977
宇佐八幡宮の大スポンサーは秦氏だったから、宇佐族渡来後の本拠地が山城の稲荷山だったとする伝承は、正直でよいと思います。
0987日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 00:43:23.68
卑弥呼 ← 宇那比姫
相誅殺男王 ← 侵略王フトニ
臺与 ← 百襲姫(フトニの娘)
次の男王 ← ミマキ
0988日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 00:59:31.15
>>955
まあ、そのまま考え続けていたまえ。
0989日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 01:21:39.87
物部氏が、その後のヒボコ勢力に対する姿勢に大きな変化が現れ、
物部何某が、我はヒボコの子孫であると天皇だか役人に発言した逸話
五瀬家の作った神社の社宝が日鉾の鏡と名付けられている
などをもう一度探していたらこんなものが

http://snk.or.jp/cda/kodaikyushu.pdf

旧家の伝承の影響を受けてないのにここまで徐福に肉薄する人もいるんだな。さすがに驚いた
0990日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 01:22:49.09
>>989

筑後デジタルアーカイブ研究会---シニアネット久留米

いったどんな集団なのだ・・
0991日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 01:51:20.60
兵頭神社に関してはヒボコが祀られているという話は聞いたことがあり訪れたこともある。
神紋はミカン(橘)。タジマノモリの憲章なのか、今でも神社周辺には橘が植えられている
通常であれば祭神はタジマノモリである。
しかし、吉田太洋の、謎の出雲帝国においては、著者がヒボコを狙い撃ちして宮司さんに切り込んでいる。
野美の宿祢とタジマノモリの古事が相撲の逸話につながる現場で何故ヒボコなのか・・。
元は尾張氏が作った神社で、中国の蚩尤を祭り、渡来勢力を見張る拠点としていたところで、五十猛の字が入った神社で会った。
イタテヒョウズ神社。いつヒボコが合祀されたのかずっと謎であった。
そしたらこんなものを見つけた。本スレにも関係しそうなので載せる

つづく
0992日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 01:51:36.97
 >銅鐸の時代から銅鏡の時代へ、倭国大乱の後、邪馬台国が倭国を代表する時代が到来した。
 地霊信仰から天神信仰への変化でもあった。大国主の時代から天日槍の時代への変遷であった。
 
 『播磨国風土記』、記紀が伝える葦原志挙乎命・伊和大神と天日槍との戦いは、魏志倭人伝に伝えられる倭国大乱を思わせる。

 石窟に隠れた天照大神を誘い出すべく作った「日矛」は紀の国の日前国懸神宮に祀られていると言う。近くの太田黒田遺跡は銅鐸から銅鏡への祭祀の変遷を語る。また日前国懸神宮の地にはかっては素盞嗚尊の御子神を祀る伊太祁曽神社が鎮座しており、社地交代があったと言う。国譲りである。
 『大倭本紀』には、天皇始めて天降り来ましし時、ともに斎鏡三面・子鈴一合を副え護らしめたもう。鏡の一つは伊勢神宮に、一つは紀の国の国懸神宮に、残る一つの鏡と子鈴は穴師社におさめたたとある。穴師社とは大和国城上郡に鎮座する穴師坐兵主神社である。ここは纏向遺跡を見おろす位置である。

 穴師坐兵主神社の神体は日矛とされる。天日槍である。兵主神とは日本では日矛が神体であり、人格神としては天日槍命である。この神社は、国津神の頂点である三輪山の大神神社と、物部氏の斎祀る石上神宮の間を割くように鎮座する。それぞれの年代の大和の支配者の斎き祀る神であった。

 邪馬台国の一大率の駐在地であった伊都国の県主に末裔に五十跡がおり、天日槍の末裔と名乗っている。ここには天日槍の妻を祀る高磯神社が鎮座している。

http://kamnavi.jp/ym/hiboko/index.htm

物部の拠点や伊都国にヒボコの痕跡があるとは思わなかった。

これなら、五瀬家の口伝や、名草の子孫の小野田さんの口伝と整合する
伊太祁曽神社は元はスサノオをまつる神社だったらしい
0993日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 01:56:32.09
>>985
この皇后のパターンは、次の垂仁天皇でも同じである。
2代綏靖天皇は葛城高丘宮に住み、皇后は五十鈴依媛。
一方、崇神天皇の次の垂仁天皇は纏向珠城宮に住み、皇后は狭穂姫、日葉酢媛。
垂仁天皇の皇后とされる狭穂姫の名は軽い。日葉酢媛も五十鈴依媛に比べると軽い。
実際には、垂仁天皇も橿原・葛城地域に宮を置いて住み、纏向での祭祀のために磯城・纏向地域に仮宮を置いて斎戒沐浴精進したとすれば、
葛城の五十鈴依媛が皇后で、纏向の仮宮の狭穂姫は妃ということになる。
このように、崇神王朝は、橿原・葛城地域と磯城・纏向地域にまたがるエリアをカバーしていたとみるのが正しいだろう。
つまり、葛城王朝と三輪王朝とは、実は崇神天皇を始祖とする一つの王朝だったということになる。
0994日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 02:10:38.96
>>993

垂仁天皇じゃなくて、畿内ヤマトと九州物部を曲がりなりにも統一した王はイクメ垂仁だよ。
事実上の日本史上、初の日本統一をしたのがイクメ。
記紀ではイクメの業績を崇神にしている。

イクメは前政権の娘であるヒバス姫、卑弥呼職のサホ姫の両方を手に入れた。
卑弥呼候補の豊国の連中の大和入りが遅れちゃったからね。
垂仁王朝は、橿原・葛城地域と磯城・纏向地域にまたがるエリアをカバーしていた
都は旧王朝の和邇。そこで政治をやった。今は石上神宮になってる。

先に入ってたタジマのモリは、魏からすれば同じ位を与えた人物なのでタジマノモリとすれば対等の相手という認識しかなかった
遅れてきた豊国兄妹は少なくともサホ姫とは縁を切れと詰め寄った。
そんな折に張政が、トヨを次の卑弥呼に指定しちゃうもんだからイクメも逆らえなかった。
未だ生駒山地に陣取るサホ彦も健在だったし、イクメは悩める王だった
0995日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 04:59:33.23
>>933
>(松野氏姫氏系図)それ、古文書ですらねえしそれ、古文書ですらねえし

勿論、史料批判をすれば、
魏使や張政や裴清や郭務ソウらのような、同時代の実地の見聞記録ではなく、
普通に旧家にある自家系図文書であり、
記紀や風土記や、東日流などの和田家文書や、
このサイトに投稿された出雲などの旧家の自家伝承文書などと同じように、
はるか後代の自己解釈による文書であるから、信頼性や確率は低く、
半分偽書であり、史料批判無しには採用困難であるが、
真実性部分もある程度あり得る情報。」
0996日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 05:03:05.39
>>931
>>松野氏姫氏系図に

>倭の五王を強引に継ぎ足したり、いいかげんな代物www
しかも五王の名前を中国史書そのままにしてやんのwww

卑弥呼の本名の「刀良」などの、他では全く出て来なかった呼称が書かれるなど、
一定の価値がある古系図。
0997日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 05:24:47.58
>>996
おい、九州説また史料批判しないのか
0998日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 06:22:03.88
徐福だの呉王夫差だの偽書松野だのが出たトタン、ただの中卒のスレ
0999日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 06:41:24.39
;lk
1000日本@名無史さん
垢版 |
2020/10/18(日) 07:18:49.48
>>996
>卑弥呼の本名の「刀良」などの、他では全く出て来なかった呼称が書かれるな

「刀良」ってヒミコと読めないのだが。
10011001
垢版 |
Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 5日 15時間 6分 57秒
10021002
垢版 |
Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。

▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/

▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

ニューススポーツなんでも実況