邪馬台国畿内説 Part649
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1602486712/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし 以上、破綻した畿内説
以下、これからの九州説
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国九州説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
九州説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし ・世界の考古学会から嘲笑される日本の考古学会
無駄な資料の羅列、それと関係なく断定される結論、話しが長く、つまらない
・科学性の欠如
一見現代科学の力を借りているようで、実際には自説の結論を強引に導き出す
ための道具でしか無い、科学的推論や弁証法などの論理的思考が出来ていない
・職人芸
土器編年、古墳編年など、何でも編年したがるが、海外では完全に無視
・偏狭な自己撞着
海外では、魔女狩りから近代のトンデモ説への冷笑無視に至るまで、後代には
それこそが時に重要な真実であったと言うことを思い知らされてきた。そのよう
な苦渋の歴史を乗り越えて現在に至った経緯から、科学的推論が瞳のように大切
にされており、突飛な説、あり得なさそうな説でもきちんと議論の対象になる。
日本人の役人のように頑迷な頭で理解できない説をなべてトンデモ扱いしてしま
う、現代科学の使徒とは呼べないその態度に対して、厳しい批判の目を向けられ
ている。
こういうカルト集団が国内では「学会では結論は出ている」「それ以外はトンデモ
説で検討するに値しない」などと、科学とかけ離れた権威主義で厳しい徒弟制のご
とき上下関係の締め付けと予算のぶんどり合戦を繰り広げており、国内の理系学者
からも疑いのまなざしは厳しい。
「神の手」を批判も出来ず放置し、皇太子の前でさえそれを行われてしまった無能
さを反省する事も、体質を変える事も自らの手ではできないのである。 >>75
>科学的推論や弁証法などの論理的思考が出来ていない
もはや、科学的推論や弁証法などの論理的思考が出来るのは、唯一「阿波」だけ。 @阿波 まさに徒弟制度
つまり親方に絶対服従の弟子たち、・・・生活のため 徐福ウェーイ
呉王夫差の後裔ウェーイ
松野連系図ウェーイ >>989
http://snk.or.jp/cda/kodaikyushu.pdf
旧家の伝承の影響を受けてないのにここまで徐福に肉薄する人もいるんだな。さすがに驚いた
>>990
(>989の)筑後デジタルアーカイブ研究会---シニアネット久留米(は何者?)
けっきょく、ヤスモト応援団の「邪馬台国大研究」者也、とクリソツ。 普通の人には徐福は大胆すぎて口に出すのも憚れるし、なんの根拠もなく吉野ヶ里に結びつけることは出来ない
一体何者なんだ。
上陸の地を占った浮盃の地名まで出てくる 物部氏 先祖はヒボコ 天皇
これで調べてたら何故かヒットした。
なんらかの葉頻度的な関連があると言うロボットの回答なのだろうが、出雲王家本が出るまえの日付
一体なんなのだ >>81
教えてあげよう
徐福と書いて、
「頭カラッポの中卒パッパラパー」
と読むのです 邪馬台国が畿内ならわざわざ内乱して大変だ助けてなんて言わないだろ
邪馬台国は間違いなく九州の勢力
しかし3世紀にはすでに北九州までヤマト連合政権が及んでるので、魏に朝貢したときは連合政権と熊襲に挟まれてる状態
そりゃ助けを求めるわな あるいは邪馬台国が熊襲そのもの説
熊襲の女酋は記紀にも出てくるし卑弥呼以来女酋を続けていた可能性もある >>944
>魏書と合わなくて当然。
日本書紀の大和の崇神王朝は、北部九州の台与の倭国を大和が呑み込んだ後に成立した王朝。
魏志倭人伝は、日本書紀よりも信頼性も確率も高く、
北部九州倭國の方が、「南≠東」や「東征毛人五十五國」や「正北抵新羅」などに拠って、列島盟主であり続け、大和も支配下に置いたの。
>だから、この王朝のもとに造営されたホケノ山や黒塚からは鉄器がざくざくと出る。
それ以前の墳墓から何も出ないのに、どうよ、この変化は。
輸入鉄器などを大和が独り占めした結果だ。
崇神王朝は、そういう体制だったつ〜こと。
大和は、九州倭國の別種分家の「大倭」職の旧小国の附庸國であったの。 邪馬台国=記紀の熊襲(中九州・肥)
、
これとは別に、倭人伝の狗奴国(南九州・球磨)有り >>85
>しかし3世紀にはすでに北九州までヤマト連合政権が及んでるので
どこまで能天気なんだ。 わははははは @阿波 >>951
>トヨは物部連合の重要な要。卑弥呼だからね。
魏志倭人伝では、「卑弥呼≠壹與」です。 どうやら記紀では、
博多湾岸で活躍した神功皇后を卑弥呼になぞらえた関係上、
中九州の肥前肥後・熊襲と、南九州の球磨・狗奴国を混ぜ混ぜ一体化して、邪馬台国を隠ぺいしたようだ >>85
銅矛制作が盛行した北部九州で
博多湾沿岸は元々銅矛の出土が僅かしかない
博多の東に2世紀後半から畿内第X様式が目立つ集落が出現し
3世紀前半に博多で畿内の供献土器の模倣制作が始まり一帯に搬出される
海の中道に中西部瀬戸内系製塩土器による製塩が始まる
今津湾沿岸で山陰の玉作りが始まる
北部九州の中心は春日から博多に移り3世紀前半中に九州最大の前方後円墳が築造される 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >(唐古鍵)まあ当時の国内最大規模の集落らしいしな
王都の集落遺跡でもおかしくないね
弥生銀座の方が、はるかに大きい。 >>92
それ全部、北部九州における「忌部はん」 の活動説明なんだよ。 @阿波 >>84
あ、激怒先生おはよう御座います。
本スレでも宜しくお願いします >>97
激怒なんか全然してないよ
ただ単に鼻で笑いながら、心の最も深いところから思いっきり見下して馬鹿にしているだけです 大和朝廷は、
新羅の血筋の神功皇后を「倭の悪女(倭女王)」に仕立てあげることで、
唐・新羅連合軍の白村江戦犯追求の手を緩めようと画策したのではないか。
そして一方では、伊都国・邪馬台国に係るさまざまな証拠を隠滅した。
だから小細工を弄した記紀・風土記伝説に惑わされて、邪馬台国への道が迷宮に入ったように思う・・。 >>99
なにをどう勘違いしたらそんな妄想が湧いてくるんだい?
最早、歴史学ではなく、小説の世界だな。 わははははは @阿波 >>89
阿波なんて全く蚊帳の外の地域。
戦乱に巻き込まれてこの葉の様にひらひらしてた地域 >>102
>阿波なんて全く蚊帳の外の地域。
だから、時代遅れって言われるんだよ。 石頭の無知の井戸かわず(蛙)!
いや、間違い。 実は一番「阿波」を恐れている臆病者だな。 わははははは @阿波 昭和40年代までは、各地の旧家は警戒を緩めず、言動には細心の注意を払っていたフシがある。
オコベ神社の社家の小野田さんも名草の伝承を他人に伝えるときは日本書紀風にイツセを出しながら神武と表現し、物部の名前を一切出さない。
イツセの子孫の社家も、社宝はアマテラス神話の3枚あるヒボコの鏡、のちに配られたモノだと言うし
出雲王家の先代に至っては、物部の名前は出しても徐福には言及なし。
筑紫舞の、都の翁の都とはどこかの質問も菊邑検校は絶対に秘密をもらさなかった。
国宝の家系図の海部氏も、先代旧事本紀の物部氏も、九州のコウラ神社も、出雲より古い宇佐家も、物部すらタブーで徐福などとんでもない
平成になってやっと徐福の話が出始めてお怒りをかう位なのに平然と吉野ヶ里と徐福を結びつけたり、文章の中には躊躇いすら感じない。
あのPDFは、九州にはさらに隠された伝承を持つ家がある事を示唆している様にしか見えない。
あんな書き方ができること自体、超弩級の思考。 大和は、元は毛人や出雲系銅鐸祭祀部族の地であり、
九州國の「東征毛人五十五國」の侵入で、更に(鍵古鍵にように)混合地域になり、
更に3世紀末に新たな東征軍が入って、在地民を生口や守墓人にして、
前方後円墳を造った。 >>103
出土物からもどう考えても阿波は蚊帳の外の地域。
阿波説は妄想とか風説の流布でしかないし、水銀ですら、メジャーの産地ではない。
発掘された古墳からも、ベンガラ→大陸輸入→宇陀の水銀ばかり。
銅鏡に至っては九州や大和に比べるべくもない出土数。
あれだけ大量に作られた和鏡の三角縁神獣鏡すらちょっとしか出ないw
思い込みはあっても裏付ける分布が存在せず、ごく少数のものから千倍くらい話を盛ってるだけのレベル >>105
先に出した徐福の関係のPDFには後に九州に入ってくる大陸や朝鮮系の渡来人との諍いの事まで出てくる。
詳し過ぎる そりゃそうだろw
ぜんぶ江戸時代以降に創られた創作だもの >>101
ま昔から@阿波先生は、正直・実直・単純が取柄だからなあ >>101
事実は、小説よりも奇なり・・、という言い振りもある。 小説もない野蛮国の阿波ヒトは知らないだろがな。 >>104
それにしてはあのPDFは、したたか大和朝廷の小細工にまんまと嵌められておるわ、、 >>106
>阿波説は妄想とか風説の流布でしかないし、水銀ですら、メジャーの産地ではない。
だから、時代遅れって言われるんだよ。 石頭の無知の井戸かわず(蛙)!
いや、間違い。 実は一番「阿波」を恐れている臆病者だな。 わははははは @阿波 >>111
うむ・・・
物語と前置きしてる割には参考文献もあるし、調べたことや、遺跡の話も出てくる。
書き方が物語じゃないし、朝廷側の隠したい事実にめっさスポットが当たりすぎてる気がするのです。 >>112
じゃあ、畿内と出雲で阿波の水銀を使った大規模古墳は?
ま、物部の影響下にあった土佐が隣なんだから。さぞかし旺盛な需要があったんだろ?
錫の話の二の舞にならなければいいな、阿波センセw >>114
>じゃあ、畿内と出雲で阿波の水銀を使った大規模古墳は?
畿内と出雲の大規模古墳ってなに古墳? @阿波 >>115
土から出たものなんて産地が分かるものだろ
ナニじゃないぜ?阿波さん >>116
だから君の言う畿内と出雲の大規模古墳ってなに古墳のことを言ってるんだよ。
調べようがないじゃないか。 アンポンタン わははははは @阿波 >>117
分析結果は既に発表されてるだろ
大丈夫か?
やってることは朝鮮人の歴史創作と同じだな。コリエイトに過ぎないんだな、阿波は >>118
>分析結果は既に発表されてるだろ
じゃあ、その分析結果を示してごらん。 わははははは @阿波 例のPDF抜粋 伊都の口碑(伊藤 久)
>福岡市から西へ向って唐津市へ出る中間が糸島郡であるが、
>この郡は、古くは南部の恰土と、北部の志摩のニ郡が合併して糸島になったところである。
>その南部の旧恰土郡はあの有名な中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」に相当するのを疑う人はいない、、、
記紀風土記の神功皇后記は、明らかに100余年繰り上げだという。
にもかかわらず、
その事績の具体的内容のほうは100%信用して、「伊都国相当を疑う人はいない」でホントに良いのかということだ。
年号が100余年繰り上げなら、事績内容も100余年繰り上げの小細工と疑うべきであろう。 >>119
その前に阿波産地の水銀使用例を知らずに水銀水銀吠えてたんだ?
バックボーンなしかよww >>118
>分析結果は既に発表されてるだろ
じゃあ、その分析結果を示してごらん。 わははははは @阿波 >>122
物事を進めるのに、スジくらい通したら?
(まだ引っ張れそうだな、面白い)
あんたさ、阿波の歴史を上書きして、阿波をバカにしてんだよ。 >>118
>分析結果は既に発表されてるだろ
じゃあ、その分析結果を示してごらん。
だから君の言う畿内と出雲の大規模古墳ってなに古墳のことを言ってるんだよ。
調べようがないじゃないか。 アンポンタン わははははは @阿波 >>124
出したところで虚言壁が治るわけでもあるまいに。 >>125
>出したところで虚言壁が治るわけでもあるまいに。
そう言うの、「負け犬の遠吠え」って言うらしいよ。 わははははは @阿波 ・水銀・朱の背景
天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。
辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。
再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。
九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。
本スレに関連する点としては、物部東征を九州の水銀の枯渇として結びつける論文もあるが
中央構造線に多く分布する水銀鉱脈は九州にもあるのでその線は薄いと思われる。
・士族との関連
辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生、丹生川、丹生神社が同じように分布している。祭神は丹生都比売神で、辰砂の産出を司る女神である。
丹生都比売の祭祀には丹生氏があたった。施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸をつつんだのであって、水銀にまで昇華させる必要はなかった。
施朱の風習は古墳時代前半には終わり、更に金製品が渡来し、国内でも金製品や鍍金製品が作られ始めた。金と水銀に溶かし込んだアマルガムを銅などに塗り
これに熱をかけて水銀を蒸発させると、表面に金がしっかりと食い込む。この時代になると水銀が必要になってくる。6世紀の頃である。
辰砂の採取を司る丹生氏は、水銀製錬・鍍金の技術を持っていなかった。この技術を持ち込んできたのは秦氏である。
辰砂と水銀の利用の主役は秦氏に移り、丹生氏は丹生都比売を祭祀する神官となった。秦氏もまた、丹生の地名、丹生神社の鎮座地に多く分布している。 出雲の最高の葬儀は風葬であり、遺体に朱を流し込んで腐敗を防ぎ、数年後に洗骨してそれから磐座に埋葬するスタイルだった。
千家の葬儀は水葬であり、出雲には千家の古墳は一切存在していない。
液体水銀の需要が増えるまでは、青銅器と同じく、古墳時代に一度終焉を迎える事が大前提。
つまり、大規模需要は青銅器、古墳時代という期間に重なる。
青銅器の材料の錫と同じで、需要と分布の世界。土から出るものはごまかしがきかない。
7世紀後半の記紀が編纂される頃には、丹生氏の影は薄くなっており、記記には丹生都比売神は登場していません。 神功皇后のエピソードの中にかろうじて天野祝の名が出てくる程度の扱いとなっている。
中央構造線沿いの水銀鉱床群
大和鉱床群 伊勢から紀ノ川河口の間 伊勢神宮と日前国縣神宮が東西の端に鎮座している。
阿波鉱床群 阿波吉野川沿い 若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡で石臼石杵が多数出土している。
九州鉱床群 大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附
九州西部鉱床群 佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市
実は大量に産出する三重県は大和鉱床群の一部なのである。
三重県のミエとは水銀中毒の症状で足が曲がるとかそんなイメージの水銀バリバリの言葉。
本スレに関連する点としては、三重などの東海地方との結びつきが、大彦の狗奴国以前から続いており
纏向でもそっち方面の土器が出ている事から関連が強いと判断する。 もうこの時点で水銀のど真ん中は忌部では無くなってるだろww 「若杉山遺跡」などの遺跡が四国にはあるが、重要なのは需要と供給量、分布である。
錫とは違い、今回は国産のものであるため、時代が合うものとして最盛期の正に古墳時代。
古墳などのでの大量使用例の変遷を見ることが適していると考えられる。 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 現状としてまとめると、阿波の水銀は確かに古いが、水銀遺跡が出れば出るほど、丹生氏と秦氏の投影が強くなり
忌部から遠のいていくという事だね。 >>131
>「若杉山遺跡」などの遺跡が四国にはあるが
縄文時代から採掘していたのは、日本で「若杉山辰砂採掘遺跡」だけだがね。 わははははは @阿波 邪馬台国の卑弥呼
卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。卑弥呼の支配地域に辰砂の出る山があったと言うことである。
どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。
倭国大乱の時の景初3年の朝貢では、丹はなんと、献上品ではなく、下賜されて10Kgほど貰う側であった。今まで献上品だったのに、何故今回貰ってるのかwww >>135
昔は露頭があったから集めるのは難しくなかった。
大量消費に向けた体制としては確かに鉱山が必要 徳島新聞
弥生時代後期〜古墳時代初期(3〜4世紀)の若杉山遺跡からは、辰砂採掘に伴う石くずや精製用の石器が出土している。水銀朱は奈良や大阪など各地の有力者の墓で使われており、徳島産だった可能性があるが、出荷先などは分かっていない。
残念ながら徳島も初期は採掘ではなかったようだなw >>138
>残念ながら徳島も初期は採掘ではなかったようだなw
悲痛だね。 わははははは @阿波 実際の阿波の水銀が確認されているのは「四世紀初め」につくられた闘鶏山古墳などがある。
だがしかし荻原古墳群・・・
【形状】突出部をもつ円形の積石塚墳墓
【年代】3世紀前半
【特徴】前方後円墳の原型ともいわれる突出部をもつ円形の墳墓。高さが1m未満の積石塚墳丘墓は讃岐・阿波独特の形状である。1・2号墳の埋葬施設の「石囲い木槨構造」は「奈良纏向のホケノ山古墳と同じ構造をもち」,さらに萩原墳墓群の方が時代的に先行する。破砕粉砕された「銅鏡」,「中国産の水銀朱が使用され」,中国との密接な関係が伺える。
おいおいおいwww中国産ですか?需要は?採掘量は?
めっちゃ物部氏の気配が強いぞ?w忌部氏どこに行った?w
どうする?阿波さん、まだ前に進める?w >>140
>めっちゃ物部氏の気配が強いぞ?w忌部氏どこに行った?w
必死のパッチだね。 わははははは @阿波 >>141
銅鏡も古墳もみんな阿波とか忌部とか言ってなかったか?w 弥生時代後期から晩期にかけた北九州(福岡県春日立石遺跡など)、山陰(島根県出雲西谷墳丘墓,鳥取県紙子谷門上谷 1 号墓)
丹後(京都府大風呂南遺跡)の王墓とみられる遺跡より出土した朱に,「中国陝西省産辰砂のイオウ同位体比と一致する値」が観察されている。
初期の古墳は大陸産地が多く、ベンガラからの移行期には、大陸産地の朱砂は欠かせない要素である。
あれ?古墳が阿波から行った割には阿波の水銀どこに行った?
次に、畿内の古墳を見ればばよいという事になるのだが、加茂氏の古墳など、後期の豪族の古墳はもうヤマト産地。
何なんだろうね、この乗り遅れ感はwww >>142
稲作でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波 出雲地方では出雲西谷墳丘墓を含め10 の遺跡出土朱を比較したところ,陝西省産を示したのは出雲西谷墳丘墓出土朱のみ。
他の 9 遺跡のうち 8 遺跡は大和水銀鉱山産か丹生鉱山産を示した。
出雲西谷墳丘墓と同時代でしかも同じ四隅突出型墳丘墓の出雲沢下遺跡では,頭部と思われる部分から採取した朱と足元と思われる部分から採取した朱では
値が異なり,しかも両者とも出雲西谷墳丘墓出土朱とも異なっていた。加えて,出雲西谷と覇権を争ったと推定されている吉備の楯築遺跡出土朱
も日本および中国の辰砂鉱山はみられなかったことから,人造朱を用いたか,あるいはいくつかの産地の朱を混合した可能性が示唆された。
あれ?四隅突出型古墳は阿波からって誰か言ってませんでした?www 「丹生都姫神社」の社数について、和歌山県は74社が最多であり、オホン、ゴホン、阿波にはさほどの数ではない。
歴史的にはともかく、物量的に阿波が水銀の中心地になることはない。大和鉱床軍のほうが圧倒的である。 >>146
必死のパッチだね。 わははははは @阿波 福岡や出雲、鳥取、丹後で使用された朱は、中国の陜西省産が多いという傾向
この地域使用の青銅溝鉱山は秦時代に開発されていたといいます。また近くの秦嶺山地の水銀鉱床は始皇帝の住んでいた長安の近くにある。
南氏とともに調査された鉱床学の島崎英彦氏によると、ここから漢水という川を下って揚子江に出れば日本まで容易に達するんだとさ。
弥生後期の北九州や山陰地方の豪族との交易品として、ここから辰砂が運ばれたのではないかと。
後漢書には57年に倭奴国の使者が洛陽の光武帝のもとに挨拶に来たと記されているが、洛陽からさらに西に360qで長安。洛陽にも漢水の支流が来ているので
簡単に揚子江に出ることができる。
弥生時代の大陸との交易品が朱であったとは。三国志魏書に記されたヒミコ以前の話になるわけだな。 本スレに近づけていこう
施朱の流行
施朱は古墳時代に入ったとたん一気に最盛期を迎え、北方系施朱の風習があった地域以外の各地で5世紀末まで続く。
3世紀後半から5世紀末までは全葬墓数に対して施朱を行っているのはほぼ100%。
弥生時代は1〜2割ほど。出雲伝承のいう、物部東征後に朱のブームが到来する事になるのだ。
ここにも出雲大和勢力と九州勢力の文化の違いが出始めていると言えよう。
せいぜい10Kgも使えば大金持ちなのだが、奈良の桜井茶臼山古墳には200Kgも使われている
3世紀末〜4世紀初めの築造で、施朱の最盛期の先駆にあたる古墳
施朱以外で日本における最古の朱の遺物としては、4500年ほど前の奈良県丹生川上村、宮の平遺跡で出土した朱の付着した石皿。
この頃には朱の採集、粉砕、製粉は始まっていたことになる。
徳島の加茂宮ノ前遺跡や三重の天白遺跡、森添遺跡はそれより1000年ほど後の物である。
1000年なら誤差じゃないよなぁ阿波さんw 阿波のご自慢の水銀の遺跡だが、邪馬台国以前から既に奈良に置いてけぼり
奈良なんて人が住めないとか嘘までついてコリエイトwwww
何がしたくて阿波ってるんだろうな。本当に理解不能。錫に次いで水銀でも大ウソ。 阿波はまったく反論できないんだね
誰からも信用されないわけだ 縄文時代に細々と始まっていた水銀朱による施朱は、吉野ヶ里遺跡から本格的に始まり各地に広がって行った。
次第に朱は権力の象徴となってくのだ。
有力な鉱山が後に発見されながらも九州にスポットが当たるのはやっぱり交易と紀元前200年代以降の文化の大きな変化 >>149
頑張れガンバレ、必死のパッチ君。 わははははは @阿波 >>151
あえて書きませんでしたが奈良の桜井茶臼山古墳は大和鉱床の物を数十年かけて集めた形跡があるようです。
ミマキヒメとの被葬者の予想がありますが、どう考えても物部氏には無理。加茂氏の墓ではないかと言われています。 本スレで卑弥呼の墓じゃね?の噂のある黒塚古墳。
木棺の遺体を置く中央部のみ水銀朱で両端はベンガラ。三重県丹生鉱山出土朱。
すぐ近くの天神山古墳には木製容器の中に41sの水銀朱が納められていた。こちらは大和水銀鉱山出土朱。
中国の古銭が100枚見つかったら、中国は阿波から始まったとか言い出すのが@阿波 >>155
頑張れガンバレ、必死のパッチ君。 わははははは @阿波 ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪ >>157
>ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪
もはや「勝者の貫録スレ」も形無しだね。 わははははは @阿波 本題に戻ると、
九州と出雲、奈良の凄さが錫や水銀からも分かると言うことですね。 >>159
稲作でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波 >ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪
もはや「勝者の貫録スレ」も張子の虎だね。 わははははは @阿波 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 ね?皆さん。
証拠を出せとか根拠を出せとか言いながら自分で調べもしないやつに限ってロクなのは居ない。
ホラは治らない >>149
奈良の墓で朱が用いられているのは、黒塚古墳が最初なん? >>166
もちろんウソ
ホケノ山でも使われている >>166
黒塚古墳は初期のものではありませんが、時代的に卑弥呼の時代に近いから候補としてあげた人が居たのではなかろうかと >>87
3世紀半ばまでは「列島の盟主」だった説はOK。
問題は、それ以降。
それ、旧小国=中国史書の誤解。 >>92
銅矛制作が盛行した北部九州であり
大和付近には元々銅矛の出土が、殆ど全くのようにない。
博多の弥生銀座付近に2〜3世紀頃から筑紫式第X様式が目立つ集落が出現し
3世紀前半に筑紫の胎土での供献土器の制作が始まり、
「市」や「東征毛人五十五國」などによって、3世紀後半に大和などに広がる
海の中道に中西部瀬戸内系製塩土器による製塩が始まる
今津湾沿岸で山陰の玉作りが始まる
北部九州の中心は弥生銀座付近に移り、
3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡などで、前方後円墳が始まり、
3世紀末に、「東征毛人五十五國」の征服部隊に拠って、大和などに広がる。
に九州最大の前方後円墳が築造される >>168
弥生中・後期の大和の墓で朱が用いられていたら、その朱の産出地が丹生である可能性が出てきますが、
弥生中・後期の大和の墓で朱が出ないとなれば、黒塚や天神山の朱はどこか別のところから集めてきた朱である可能性も出できますね。 >>170
九州説は
こうやって
歴史学に反したインチキ年代を捏造して
目先の困難だけ口先で凌ごうとするから
学者やちゃんと勉強した市民から軽蔑される存在に
落ちぶれたんだよね >>129
>出雲の最高の葬儀は風葬であり、遺体に朱を流し込んで腐敗を防ぎ、数年後に洗骨してそれから磐座に埋葬するスタイルだった。
千家の葬儀は水葬であり、出雲には千家の古墳は一切存在していない。
液体水銀の需要が増えるまでは、青銅器と同じく、古墳時代に一度終焉を迎える事が大前提。
つまり、大規模需要は青銅器、古墳時代という期間に重なる。
青銅器の材料の錫と同じで、需要と分布の世界。土から出るものはごまかしがきかない。
7世紀後半の記紀が編纂される頃には、丹生氏の影は薄くなっており、記記には丹生都比売神は登場していません。 神功皇后のエピソードの中にかろうじて天野祝の名が出てくる程度の扱いとなっている。
中央構造線沿いの水銀鉱床群
大和鉱床群 伊勢から紀ノ川河口の間 伊勢神宮と日前国縣神宮が東西の端に鎮座している。
阿波鉱床群 阿波吉野川沿い 若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡で石臼石杵が多数出土している。
九州鉱床群 大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附
九州西部鉱床群 佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市
実は大量に産出する三重県は大和鉱床群の一部なのである。
ふーん。 >>129
>阿波鉱床群 阿波吉野川沿い
無知の井戸かわず(蛙)!
>若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡
無知の井戸かわず(蛙)! わははははは @阿波 それにしても、久留米祇園山は卑弥呼の寿陵である山門権現山のコピーだったという説は、かなり衝撃的な説だ。
この図式は、狗奴国に攻め込まれた邪馬台国の卑弥呼が、その邪馬台国の北限付近の御井まで避難し、そこで急死したとする図式とぴったり重なり、
卑弥呼の邪馬台国のエリアが如実に分かる説だといえる。
まあ、今後の邪馬台国九州説の核心説となることは間違いないな。 >>171
大和の墓の朱はホケノ山でも確認できるとのことですが、ホケノ山が大和最古の朱なんでしょうか。
弥生中・後期の大和の墓で朱が出ているのでしょうか。 俺の霊感では狗奴国が九州なんて1回も言ってきた試しがないわ
何度聞いたって、静岡の久能だ久能だとしか言ってこない >>136
>邪馬台国の卑弥呼
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言。
>卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。
「献上品」としては名を連ねていなかった筈。
>卑弥呼の支配地域に辰砂の出る山があったと言うことである。
「辰砂」とは特定していない。「以朱丹塗其身體,如中國用粉也」や、「其山有丹」や、
「丹木」の献上や、「鉛丹」の下賜の記録があるだけであり、
水銀朱だけではなくベンガラの使用例も見られ、鉛丹が下賜され、丹木を魏に献上している。
>どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。
九州には辰砂もベンガラも採れる。
>倭国大乱の時の景初3年の朝貢では、丹はなんと、献上品ではなく、下賜されて10Kgほど貰う側であった。今まで献上品だったのに、何故今回貰ってるのかwww
倭国大乱なんて存在もせず、卑弥呼の遣使は景初二年である。 奈良県五條市の吉野川沿いの大阿太が、伝統的に九州隼人が住んだエリアだとすると、そのルーツは神武天皇の畝傍山東南麓の宮に求められる。
神武天皇は一人で南九州阿多からやってきたわけではなく、多くの伴と一緒に大和入りしたのであるから、その隼人集団が橿原の南に位置する大阿太に住んで、天皇の世話を行ったことは十分考えられるのである。
そして、学者も認めるのは、神武天皇は崇神天皇は同一であり、崇神天皇の大和入りと崇神天皇のその後の統治の二つの姿が描き分けられたとする説だ。
この説に従えば、神武天皇は崇神天皇であり、その崇神天皇は橿原の畝傍山東南麓の地に宮を置き、纏向の大型建物跡の祭祀所での祭りごとのために、橿原から磯城の仮宮に赴いて斎戒沐浴し、その後に纏向で祭祀を行ったとすることが可能だ。
このようにみれば、三輪王朝といわれた崇神天皇の系譜と葛城王朝といわれた神武天皇の系譜は、実は崇神天皇のもとに開かれた一つの王朝の系譜であり、そのエリアは橿原・葛城から磯城・纏向までをカバーしていたと考えることができる。
その神武天皇と崇神天皇の皇后の名からすると、橿原が崇神天皇の正式の宮であり、磯城は纏向の祭祀に関連した仮宮であったことになってくる。
また、崇神天皇を南九州から招き、大シャーマンの位に載せたのは大連合の出先事務所であり、その出先事務所は纏向遺跡の南にある芝遺跡の地に置かれていたとみることができる。
この大連合事務所が崇神天皇の到着とともに衣替えしたのが大連合出先庁であり、大シャーマン崇神天皇と大連合出先庁が大和の大連合政権の中枢であったとすることができるのである。 >>179
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 一年365日、朝昼晩このスレに張り付いて、
その結果間違えていた>>1君の人生大惨敗の原因は、卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。
卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからその時代をとんでもない時代=BC660年に設定したのだ。
卑弥呼を隠すことは100年前の帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。
>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜! >ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪
もはや「勝者の貫録スレ」も張子の虎だね。 わははははは @阿波 >>181
瀬田遺跡がみつかっている。
こんなのがあちこちにあっただろうな。
神武の宮が崇神の宮だ。 >>185は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜! @阿波 >>176
200年頃の大和の遺跡に清水風遺跡があり、この遺跡は唐古・鍵遺跡関連の祭祀場と墓域だと考えられている。
この祭祀場から出土した土器に朱が付着しているそうだ。
朱生成に関わる土器とみられている。
この他の土器も含めて、一般的な土器構成であるとされている。
墓域については、朱の記事はみられない。
つまり、朱を多量に必要とする墓からは、そうした量の朱はみつかっていないということになる。
ホケノ山や黒塚の棺に塗布された朱はどこかから集められた朱であって、
それ以前の大和の墓ではそうした多量の朱を用いた墓はみつかっていないような状態からして、
近くに朱を産する丹生があったのかどうか、判然としないな。 >>185
>神武の宮が崇神の宮だ。
崇神の宮は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)
神武の宮はカシハラ(御所市柏原)の神武天皇社。
全然違う。 >>188は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜! @阿波 >ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪
もはや「勝者の貫録」も消え失せ、 ゴミスレの掃き溜めと化したね。 わははははは @阿波 >>185
崇神は、和歌山の紀の川から大阿太へ登り、そこから橿原に入った可能性が高い。
和歌山に上陸する前に徳島の手前の小松島から和歌山へ渡ったかもな。
阿波には行ってないし。 >>188
磯城は崇神の仮宮。
書紀の崇神の皇后の名前は、皇后とはみえない軽さ。
橿原の崇神が纏向の祭祀に赴く途中の仮宮にいた妃が、書記の皇后として記述されているのよ。
書記の崇神の皇后は、実は妃だ。
崇神の皇后は、媛蹈鞴五十鈴媛。 >>191
>阿波には行ってないし。
徳島も小松島も「阿波」なんだけど? どういうこと? @阿波 >>145
>出雲地方では出雲西谷墳丘墓を含め10 の遺跡出土朱を比較したところ,陝西省産を示したのは出雲西谷墳丘墓出土朱のみ。
他の 9 遺跡のうち 8 遺跡は大和水銀鉱山産か丹生鉱山産を示した。
出雲西谷墳丘墓と同時代でしかも同じ四隅突出型墳丘墓の出雲沢下遺跡では,頭部と思われる部分から採取した朱と足元と思われる部分から採取した朱では
値が異なり,しかも両者とも出雲西谷墳丘墓出土朱とも異なっていた。加えて,出雲西谷と覇権を争ったと推定されている吉備の楯築遺跡出土朱
も日本および中国の辰砂鉱山はみられなかったことから,人造朱を用いたか,あるいはいくつかの産地の朱を混合した可能性が示唆された。
ふーん。 倭人伝が、司馬氏を持ち上げるために原資料をあちこち書き換えて読者をたばかったように、
日本書紀も大和政権の歴史を古く遡らせるために歴史を変えたのよ。
神武は崇神の分身だった。南九州からやってきたのは崇神であって、橿原に宮を置いたのは崇神なのよ。
書記は崇神が磯城に宮を置いたとしているが、実はそれは仮宮であって、本宮はあくまで橿原にあった。
それを分離して時代を遡らせたのが崇神の分身である神武天皇だ。 >>195は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜! @阿波 >>193
ざんね〜ん !!!!
律令の阿波国の前は北の粟国と南の長国に別れていて、南の長国造の領域は徳島市、小松島市、阿南市、勝浦郡、那賀郡、海部郡だワイ。
小松島は古来和歌山と結ぶ港。
粟国造の範囲ではあ〜りません。 >>197
>南の長国造の領域は徳島市、小松島市、阿南市、勝浦郡、那賀郡、海部郡だワイ。
そこが「邪馬臺国」と不和である、超強大国の「狗奴国」だワイ。 よく覚えておけ。 わははははは @阿波 >>196
泣いてるの?
論破され続け阿波かわいそう >>199は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜! @阿波 >>195
書記の神武紀では、宇陀などの人民にはかなり厳しい対処をしているが、
これと一転して吉野の人民や下流の阿太の人民には優しく接している。
この態度を崇神(神武)と共にやってきた南九州の隼人たちと被せて眺めると、なんでまたそんなに優しく編集しているのか理解できるのよ。
この阿太の人民などは、そもそもが身内だから、やさしく接しているのは当然なのよ。
崇神(神武)が橿原に宮を置いたことを裏付けるものだな。 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>163
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」・・・
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などのよってバツ。 >>178
>>どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。
>九州には辰砂もベンガラも採れる。
開発時期が遅れたという事ですね。そんなことしなくとも九州の人たちは大陸から仕入れることが出来ましたので。 >>169
>3世紀半ばまでは「列島の盟主」だった説はOK。
問題は、それ以降。
それ、旧小国=中国史書の誤解。
中国からの役人の「梯儁」や「張政」や「裴清」や「郭務ソウ」らの、
同時代の実地の見聞計測などの記録は、信頼性や確率が非常に高く、
誤解などは殆どなく、
それに引き換え、中国のはるか後代の「自己解釈に拠る書き換え」や、
列島の旧家や大和政権などの自家伝承や記紀や風土記や系図などは、
どうしても自家の都合がよいようにした処理が多く、信頼性も確率も落ちるの。 >>170の訂正
銅矛制作が盛行した北部九州であり
大和付近には元々銅矛の出土が、殆ど全くのようにない。
また、博多の弥生銀座付近に2世紀末〜3世紀頃から筑紫式第X様式が目立つ集落が出現し
3世紀前半に筑紫の胎土での供献土器の制作が始まり、
「市」や「東征毛人五十五國」などによって、3世紀後半に大和などに広がる
そして、北部九州の中心は弥生銀座付近に移り、
3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡などで、前方後円墳が始まり、
3世紀末に、「東征毛人五十五國」の征服部隊に拠って、
大和などに広がって、最大の前方後円墳が築造された >>206
同時代の実地の見聞計測などの記録だという根拠のない決めつけこそ
現代日本というはるか後代の「自己解釈に拠る書き換え」であって
自説の都合がよいようにした処理が多く、信頼性も皆無ですな >>172
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実の曲解や嘘吐き騙しの大和説学者や大和説者らは、
これらの事に反論が出来ずに、その根拠提示出来ずに
こうやって歴史学に反したインチキ年代を捏造して
目先の困難だけ口先で凌ごうとするから
学者やちゃんと勉強した市民から軽蔑される存在に
落ちぶれたんだよね >>210
そりゃ、空想で制圧したんだろ。 わははははは @阿波 >>179
>そして、学者も認めるのは、神武天皇は崇神天皇は同一であり、
崇神天皇の大和入りと崇神天皇のその後の統治の二つの姿が描き分けられたとする説だ。
大和に天皇なんてまだおらず、
記紀ともに神武と崇神の間に欠史八代を挟んでいて別人であった、という証言であり、
「同一」論はバツだな。 >>195
>倭人伝が、司馬氏を持ち上げるために原資料をあちこち書き換えて読者をたばかったように、
陳寿が参考にした魏朝の記録の内容は、
梯儁や張政やや、その部下の役人たちや、
魏の役人に任ぜられた難升米や伊聲耆や掖邪狗らも関わっており、
陳寿がウソを付いておれば、直ぐにバレるのであり、
陳寿は「原資料をあちこち書き換え」てなど、いない。 >>213
それ、ただの想像でしょ
それも素人のおじいさんが理由なく勝手に言ってるだけの >>212
間に欠史をはさまないと、崇神と1世代しか違わなくなり、前660年に持って行けないのよ。
同一だとすぐばれちゃうからね。
編纂者は、いろいろ細工してるのよ、苦労してるの。 >>205
>開発時期が遅れたという事ですね。そんなことしなくとも九州の人たちは大陸から仕入れることが出来ましたので。
つまり九州は「其山有丹」に該当せず、そんなところに女王の都はないのだった >>201
でもって、この崇神(神武)の前には、祭祀場のあった纏向周辺に5基の大墳丘墓があって、これらの墓は連合有力国から持ち回りで派遣された代表シャーマンの墓であるので、180年頃から247年頃まで生きた卑弥呼が入る寿陵の余地はどこにもない。
卑弥呼は北部九州の倭国の女王なのでこれは当然のことであるが、大和説者はこの5基の大墳墓のどれに卑弥呼を入れるつもりなのだろうか。
まあ、あまり混乱するようなことをいうつもりはないが、卑弥呼を大和に設定するのは、そもそも無理ということだね。 >>213
まあ、魏略が太伯と書いたのを、倭人伝は大夫と書き換えたり、
対馬・壱岐・末盧・伊都の各国に魏の使節などが常に逗留したと魏略が書いているのを、使節が逗留するのは伊都国一国と倭人伝は書き換えたりしてるのだから、
倭人伝は相当にバイアスかけた史書であることが分かるのよ。
何のためにそんなことをしたのかというと、ひとえに時の皇帝の始祖を持ち上げ、その血統の今上皇帝も持ち上げるためなのは明らか。
まあ、そのおかげで、かなり詳細な倭国の様子が分かるので貴重な史書であることは変わらないけどね。 イニエが神武の場合は、草薙の剣を尾張家が絶対に渡さないので無理がある。
奈良から追い出した元凶になぜ協力するのかw >>217
>・・・大和説者はこの5基の大墳墓のどれに卑弥呼を入れるつもりなのだろうか。
箸墓でなんの問題もないが? >>220
大和説の重鎮の先生が、箸墓は台与の寿陵ではないかというておられるのだから、卑弥呼の墓=箸墓はないだろうね。 >>219
話のストーリーが、全然ワカメなんだが。 天武天皇のときに出雲始めいろんなとこが自分とこの御神宝みたいなもん献上したらしいんだよな
三種の神器だのそんときに決まったんじゃねえの?
壬申の乱で天武天皇が勝ったから日本て国号になったみたいだしな🤪 てより剣にしろそれ以前からいろんなとこで出てるからなあ
別に草薙だけじゃねえし >>192
好きに歴史を造り変えるなボケ。
そんなこと許されるなら何でもありだろ。 >>220
年輪年代で258年と時代が決まってるのに、それでは卑弥呼の時代に合わないから、
歴博が強引に炭素測定をいじくり240~260年にした。
最初から箸墓しか頭にないから卑弥呼の時代に合わせただけ、最低だな。 >>227
>年輪年代で258年と時代が決まってるのに、それでは卑弥呼の時代に合わないから、
決まっている?
誰が決めた?
まったく証拠がない
出せないだろ?
>歴博が強引に炭素測定をいじくり240~260年にした。
これも証拠がない
というか、中傷
つまり、全部くだらない難癖だな >>221
>大和説の重鎮の先生が、箸墓は台与の寿陵ではないかというておられるのだから、
説の価値は
言ってる人の地位や名声ではなく
言ってる理由の妥当性による >>228
年輪年代で二口かみあれた遺跡出土木片を258年としたのは光谷さん。
それが庄内3併行なのか布留0式古相併行なのかはおのおの学者さんの説はあるだろう。
庄内3が259年なら箸墓が卑弥呼の死258年になるわけがない。
布留0式古相でも258年にならない。
だから歴博の主導で、放射性炭素測定の結果をいじくり240〜260年になった。 あぁすまんすまん訂正。
× 庄内3が259年なら箸墓が卑弥呼の死258年になるわけがない。
〇 庄内3が258年なら箸墓が卑弥呼の死248年になるわけがない。
最近目が悪くなってきた。 >>230
>年輪年代で二口かみあれた遺跡出土木片を258年としたのは光谷さん。
・・・
>布留0式古相でも258年にならない。
ならないって理由は?
また理由なしの決めつけ? >>229
まあ、卑弥呼は高齢なのだから、すでに寿陵があって当然。
で、寿陵がすでにあったなら、卑弥呼が亡くなった翌年くらいには埋納できたのではないか。
そうすれば、築造が260年〜270年くらいとされる箸墓が卑弥呼の墓である線はなくなる。
卑弥呼のつぎに女王になった台与の寿陵として造られたのが箸墓というのであれば、時期的にOKではないか。
そういうことじゃないの?
一方、書紀では、箸墓はモモソ媛が亡くなった直後から造られたと書いてあるので、それなら相当な年数がかかり、
モモソ媛の死から10年くらいも埋納しない状態が続いたことが考えられ、実際にそんなことがあっただろうかと疑問を呼ぶ。
この書紀の記述は、倭人伝の卑弥呼の墓の築造記事を持って来て、モモソ媛=卑弥呼を臭わせたもののようにみえるので、
実際の箸墓築造とは異なる書紀の創作ではないかとするのが合理的だ。 >>233
>まあ、卑弥呼は高齢なのだから、すでに寿陵があって当然。
という想像が倭人伝の記事と合わないな
「卑彌呼以死、大作冢」 >>223
海部氏をきちんと考慮した場合の神武は、天村雲が神武に当たります。
天村雲が、後に尾張氏の管理することになる村雲の剣、草薙の剣を持っていました。
熱田神宮の草薙の剣は、尾張氏が作った熱田神宮に置かれています。
三代目の磯城津彦から尾張家と出雲家があまり仲が宜しくなくなって、剣を渡さなかったらしいですが >>224
一応、三種の神器の草薙の剣は、村雲王が即位したときに磯城登美家から贈られたものです。
流石に三種の神器は時系列的に無視できないから記紀も東征を紀元前に持って行ったのではないでしょうか >>233
一方、卑弥呼は八女・山門の邪馬台国にいたとすれば、狗奴国に攻め込まれて御井あたりへ避難してそこで急死し、
祇園山をその卑弥呼の墓とした場合、山を削るだけで墓とすることができたのだから、倭人伝の記述の築造時期はそのまま信用することができる。
ごくあたりまえの話になり、大和の箸墓のような無理な議論にならない。
大和については、そもそもそこに卑弥呼がいたとする設定自体が無理があるのだから、
箸墓卑弥呼の墓説はやめたほうがいい。 >>226
オメらは、書紀にだまされているんだよ。 >>234
大和説の場合は、合わないのよ。
倭人伝の記述が合うのは、久留米の祇園山の場合。
ここを卑弥呼の墓とすれば、築造時期や期間の問題は倭人伝の記述と合致する。
大和の場合は、全然整合性がみられない。 >>237
これに卑弥呼の寿陵を追加すると、
卑弥呼の寿陵は、山門の坂田にある権現塚がそれだろう。
普通であれば卑弥呼は高齢で亡くなって、この権現塚に埋納されたはず。
ところが、狗奴国が攻め込んできたので、卑弥呼は北の御井あたりまで避難して、そこで急死した。
まだ戦局は安定してないのだから、山門まで戻って寿陵に葬ることはできない。
そこで、この山門の寿陵と同じサイズの墓を造り、卑弥呼を葬ったのが祇園山というわけ。 >>239
>倭人伝の記述が合うのは、久留米の祇園山の場合。
>ここを卑弥呼の墓とすれば、築造時期や期間の問題は倭人伝の記述と合致する。
考古学者の言ってる築造年代と全く合わないんだが >>213の訂正
>>195
>倭人伝が、司馬氏を持ち上げるために原資料をあちこち書き換えて読者をたばかったように、
陳寿が参考にした魏朝の記録の内容は、
梯儁や張政や、その部下の役人たちや、
魏の役人に任ぜられた難升米や伊聲耆や掖邪狗らも関わっており、
陳寿がウソを付いておれば、直ぐにバレるのであり、
陳寿は「原資料をあちこち書き換え」など、していない。 >>215
>間に欠史をはさまないと、崇神と1世代しか違わなくなり、
8世紀の大和天皇家の記紀の筆者らの前には、
欠史八代が存在した、という情報があった、という事になるの。
>前660年に持って行けないのよ。
平安期の二中歴の筆者らは、
「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
継体五 元丁酉(五一七年〜五二一年)・・・」という情報があり、
517−569×2−39=−660
という「数え年数計算」をしている事になるから、
569年が二倍歴の年数であった事を知っており、
だから、神武即位元年の西暦年は、実際には、
ー660+569=−91で、紀元前91年頃であった、とという事になるの。
>同一だとすぐばれちゃうからね。編纂者は、いろいろ細工してるのよ、苦労してるの。
記紀の編者は、欠史八代があった、という事を知っているからね。
編纂者は、いろいろ苦労してるの。 >>216
>つまり九州は「其山有丹」に該当せず、そんなところに女王の都はないのだった
同時代の中国の役人たちに拠る実地での見聞計測の記録は、ほぼ否定出来ず、
だから、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態も否定出来ず、
「其山有丹」は九州の記録である事も否定出来ないんだよ。 >>218
>まあ、魏略が太伯と書いたのを、倭人伝は大夫と書き換えたり、
対馬・壱岐・末盧・伊都の各国に魏の使節などが常に逗留したと魏略が書いているのを、使節が逗留するのは伊都国一国と倭人伝は書き換えたりしてるのだから、
倭人伝は相当にバイアスかけた史書であることが分かるのよ。
まあ、反対だね。
魏志倭人伝の記載は、
ほぼ、3世紀の魏の役人らに拠る実地での見聞計測の記録が元になっており、
魏略は、その3世紀の同時代の原本内容が存在せず、始めから、
後代学者や唐代学者らに拠る「自己解釈に拠る書き換えの内容説明文」になっており、
半分偽書的な内容しか残っておらず、信頼性や確率が低く、
直接的な論拠にはならないんだよ。 >>219
>イニエが神武の場合は、草薙の剣を尾張家が絶対に渡さないので無理がある。
奈良から追い出した元凶になぜ協力するのかw
「東征毛人五十五國」の征服軍は、当初は、
天孫族系の倭奴國や伊都國系の「国生み神話」時代から始まり、
五瀬命や神武らの東征も、瀬戸内経由が中心であり、
出雲本体や侏儒國なども征服出来ておらず、
大和すらも完全制圧出来ておらず、
結局、紀元後頃からの「高地性集落」期以後に、
伊都国系を含めての九州倭国の全域からの東征が波状的に始まって倭種になり、
更に、三道将軍らのような東征軍本隊が、
瀬戸内〜播磨摂津河内山城近江を経て、北陸や東海や東北に達し、
それに、先に阿波から紀伊大和に入っていた先発別動隊の大和も、
本隊に応援合流したんだよ。
だから、尾張は大和よりも地位権力が強かった。 >>220
>>・・・大和説者はこの5基の大墳墓のどれに卑弥呼を入れるつもりなのだろうか。
>箸墓でなんの問題もないが?
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」や、
「日本國者倭國之別種也」などによって、バツ。 >>245
「3世紀の魏の役人らに拠る実地での見聞計測の記録」
だなんて何も証拠のないテーゼをシュプレヒコールしちゃってる
九州説の街宣車さんは
史料から決して帰納することなく
ただ思想宗教のたぐいの教義を主張されてるんですよね >>241
>>倭人伝の記述が合うのは、久留米の祇園山の場合。
ここを卑弥呼の墓とすれば、築造時期や期間の問題は倭人伝の記述と合致する。
>考古学者の言ってる築造年代と全く合わないんだが
学会所属の考古学者らは、始めから、「皇国史観という結論先にありき」であり、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをしており、
信頼性が全くない。 >>233
>まあ、卑弥呼は高齢なのだから、すでに寿陵があって当然。
で、寿陵がすでにあったなら、卑弥呼が亡くなった翌年くらいには埋納できたのではないか。
そうすれば、築造が260年〜270年くらいとされる箸墓が卑弥呼の墓である線はなくなる。
まったく賛成。
卑弥呼が死んで作り始めたのはいわゆる「ハカドコロ」。
埋葬のための部分的な場所。
>一方、書紀では、箸墓はモモソ媛が亡くなった直後から造られたと書いてあるので、それなら相当な年数がかかり、
モモソ媛の死から10年くらいも埋納しない状態が続いたことが考えられ、実際にそんなことがあっただろうかと疑問を呼ぶ。
この書紀の記述は、倭人伝の卑弥呼の墓の築造記事を持って来て、モモソ媛=卑弥呼を臭わせたもののようにみえるので、
実際の箸墓築造とは異なる書紀の創作ではないかとするのが合理的だ
7世紀朝廷が魏志倭人伝を意識して改変したのは確実だろうね。
モモソヒメの墓としての箸墓古墳の記述も、取ってつけたような不自然さ。
卑弥呼の墓。の記事を大いに意識して書かれたものと推定する。
ということは7世紀朝廷も箸墓が卑弥呼の墓ではないことを知っていた。 >>232
>>布留0式古相でも248年にならない。(258を修正)
>ならないって理由は?
>また理由なしの決めつけ?
布留0式古相が258年だからだよ。 一年365日、朝昼晩このスレに張り付いて、
その結果間違えていた>>1君の人生大惨敗の原因は、
卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。
卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからその時代をとんでもない時代=BC660年に設定したのだ。
卑弥呼を隠すことは100年前の帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。
>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜! 前期古墳が山稜にあることは常識、
子孫が始祖=祖先より高い位置に永眠するのは不敬だと考えたからであろう。
箸墓は巨大墓だが山稜ではなく平地だ。
2世紀前半にはいた其国の男王も卑弥呼もトヨもその墓は大和盆地の山稜にある。
その墓には石室がない。
「棺あり槨なし」である。
場所は神々が眠る高天原(=奈良県御所市高天)である。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png >>253は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜! @阿波 >>254
アワアワアワアワアワアワアワ言うんじゃない! いい加減、支那あたりもうぜえからなあ🤥
あいつらバカだからなんでも自分らの手柄にしたがるみたいなクセあるんじゃねえのか? >>257
いい加減、皇国史観学者や文科省あたりもうぜえからなあ🤥
あいつら、「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
「結論先にありき」での史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しのバカだから、
なんでも自分らの手柄にしたがるみたいなクセあるんじゃねえのか? >>252
>・・・卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化 G孝元 F孝霊 トヨ津 E孝安 D孝昭 トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」や「倭國の東征毛人五十五國」などに拠って、
バツね。 Q:なぜ畿内説は都合の悪い事実を軽視あるいは隠ぺいし、何者とも整合しない空想物語を史実であるかのように主張するのか?
A:典型的チョンの習性です
【人類学】地方別に見た縄文人の影響は? 高めなのは九州・東北 [すらいむ★]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1602725410/ >>251
>>>ならないって理由は?
>>また理由なしの決めつけ?
>布留0式古相が258年だからだよ。
もしかして異常に知能が低いのか?
というか、白痴に近いのか?
ある「昭和時代のモノ」を鑑定して、1964年という確実な年代が分かったとする
この事実から「1931年は昭和ではありえない」という結論が出るか?
いや、出るわけがない。
ある「布留0式古相」の遺物が258年だと判定が出たとする
それを見て「247年は布留0式古相ではない」と言う奴は、どんなやつだ?
それは白痴だ >>263
形無きものを「有る」と扱ってたら収拾が付かない
そして社会ではそれを妄言と言う >>264
で? 九州説の白痴くん
形無きものを「有る」と扱ったのは誰だ? >>246
イツセの東征は、隼人を味方につけて、四国の土佐の物部川辺りを経由し、阿波を素通りして紀伊国に上陸。
名草の民に追われて熊野契 経由だよ。
だから東征に、通り過ぎた地名の敵役が出てきたり、御所近くのクジラ地籍に因んだ話が出てくる。
名草の小野田伝承でもイツセ軍を追い払ったって言う伝承になってるし >>250
卑弥呼は奈良にもいたし、九州にも居た。
ただそれだけだよ。
日本には非人格神が三つあった。
三輪山祭祀の太陽の女神。
宇佐の月の女神。
物部の男神、カガセオ。
太陽の女神はカガセオと一緒になり、アマテラスに。
物部の神は、アマテルクニヒコだよね?
伊勢神宮の内宮に収まり、社の千木は出雲縦削ぎ。
豊玉姫やトヨが奉じた月読は隠されて、トヨ受の大神として下宮に。
だから社の千木が物部の横削ぎになっている。 太陽の女神、月の女神、星の男神は皇室管理になり、各氏族の手から離れた。 箸墓が年輪年代で258年と時代が決まってるとか
歴博が強引に炭素測定をいじくり240~260年にしたとか
祇園山に60mの基壇部があるとか
一切証拠の出せない形無きものを「有る」と扱って
まったく収拾が付かない九州説
社会ではそれを妄言と言う >>266
>阿波を素通りして
お粗末すぎて妄想話にもならない。 わははははは @阿波 >>270
じゃあイツセが立ち寄った記録でもあるのか?小僧ww 伊勢神宮の神様は、物部イクメの娘が守っていた。
しかし、物部の政権基盤は弱く、イクメの次の天皇は直接遠征して九州方面に税金を要求して回った。
しかし、副王の加茂氏の力が強くなり、息子であるさらに次の天皇とともにヤマトには戻れず亡くなる。
当然ヤマト姫だけじゃ奈良には残れないから各地を転々とした。
だから伊勢神宮が色々場所を変える故事になった。
神功皇后は、実はイクメから3代目の奥さんで、仲哀天皇とは再婚だった様である。
これは出雲伝承、神床家伝承で一致した内容。 >>269
箸墓とホケノ山は2018年に改めて新しい放射性炭素分析をしなおしたら、ホケノ山は4世紀になり、通説より新しく、箸墓は、通説より50ー100年くらい古くなり、魏書の卑弥呼とは合わなくなったんじゃなかったっけ?
奈良の人学者たち大ショックだったらしい >>271
じゃあイツセとかいう妄想の記録があるとでも言うのか?小僧ww わははははは @阿波 >>273
>箸墓とホケノ山は2018年に改めて新しい放射性炭素分析をしなおしたら、ホケノ山は4世紀になり、通説より新しく、箸墓は、通
ニセ情報ご黒うさま
もう、そんな方法でしか畿内説に抵抗出来ないんだな
九州説、亡んでかわいそうだね >>265
3世紀のホケノや箸墓などとのたまう池沼丸出し乙 >>276
言い張るだけ
全く論拠を出せない
そんな九州説が滅亡したのは当然だな >>260
もうとっくに歴史捏造が発覚してる九州説あわれ 九州説の捏造
短里
放射読み
呉系楽浪鏡師
奈良時代の九州王朝
鉛同位体測定による金属考古学
炭素年代のプラズマ化失敗現象あるいは
プラズマ化によって原子崩壊が促進するという未知の科学現象 .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>263
>>布留0式古相が258年だからだよ。
>もしかして異常に知能が低いのか?というか、白痴に近いのか?
ある「昭和時代のモノ」を鑑定して、1964年という確実な年代が分かったとする
この事実から「1931年は昭和ではありえない」という結論が出るか いや、出るわけがない。
ある「布留0式古相」の遺物が258年だと判定が出たとする
それを見て「247年は布留0式古相ではない」と言う奴は、どんなやつだ?
それは白痴だ
もしかしてこの大和説男(おそらく東大理系博士号自称音)は、
異常に知能が低いのか?というか、白痴に近いのか?
「布留0式古相が258年」という結果から、
「247年も布留0式古相だ」という結論が出る事はないし、いや、出るわけがない。
あくまで、可能性や確率的な推論の話だ。
それを見て「247年は布留0式古相だった」と断定的に言う奴は、どんなやつだ?
それは白痴の・・・・アホ詐欺師だ >>267
>卑弥呼は奈良にもいたし、九州にも居た。
ただそれだけだよ。
魏の役人たちが同時代に実地に見聞計測し記録した魏志倭人伝などに拠れば、
卑弥呼は、九州にいたが、大和にはいなかった。
ただそれだけよ。 >>268
>太陽の女神、月の女神、星の男神は皇室管理になり、各氏族の手から離れた。
列島では、6世紀以前には、「皇室」なんて存在しなかった。
ただそれだけよ。 >>282
>「布留0式古相が258年」という結果から、
>「247年も布留0式古相だ」という結論が出る事はないし、
また他人の言ってないことを捏造してるな
だから九州説は詐欺だと言われる 卑弥呼ってのは魏の関係者らって容疑は確定しとるわけだよな 魏の次が晋やがこれは倭の五王時代につながる話よな😃
日本における仏教は勝手に日本にきてそいつらが信仰していた仏教集団がおったと言われとるから日本内に存在する仏教は古い言われとるん 間違えた
もともとの日本内のやつらは信仰しとらんわけ😃 朝鮮から仏教を勧められたときが始まりじゃねえの
日本内にいた異民族のやつらが信仰していた仏教はあったの😃 >>269
>祇園山に60mの基壇部があるとか
あれれ、平地に接する祇園山の底面差し渡しが60mあるのは事実だけど。
なに妄想かましてるの? >>269
箸墓が「絶対性が全くない年輪年代計測で258年と時代が決まってるとか
歴博が炭素測定で240~260年にしたとか
祇園山に60mの基壇部があるとか
一切「絶対年代」証拠にならない形無きものを「有る」と扱って
まったく収拾が付かない大和説
社会ではそれを妄言と言う まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>272
>・・・これは出雲伝承、神床家伝承で一致した内容
その伝承資料を提示して貰わないと、史料批判も出来ず無意味無駄であり、
価値がない。 >>253
この時期、大型墳墓が平地にあるのは尾張と大和だけ。
出雲も吉備も山の上。
大和の大墳墓がどこから来たか言うまでもないこと。
尾張の前方後方型墳墓がベースなのよ。 >>250
>7世紀の朝廷も箸墓が卑弥呼の墓ではないことを知っていた。
そういう結論になるね。
アホの坂田ちゃん曰く、「イエス、アイ、ドゥ」。 >>250
>7世紀の朝廷も箸墓が卑弥呼の墓ではないことを知っていた。
そういう結論になるね。
アホの坂田ちゃん曰く、「イエス、アイ、ドゥ」。 >>278
証拠は?
魏志倭人伝の南は実は東だったという証拠は?
無いなら畿内説のすべてが妄想であり、こじつけの為の印象操作、情報操作は犯罪となるわけだが? >>275
>>箸墓とホケノ山は2018年に改めて新しい放射性炭素分析をしなおしたら、ホケノ山は4世紀になり、通説より新しく、箸墓は、通
>ニセ情報ご黒うさま
もう、そんな方法でしか畿内説に抵抗出来ないんだな
九州説、亡んでかわいそうだな
口先での騙しの詐欺情報、ご苦労様。
「畿内」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使い、
もう、史料事実や史料実態からの反論ではなく、
そんな口先や言葉尻の曲解での「宣伝」でしか、九州説に反論出来ないんだな >>278
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しを言い張るだけ
全く論拠を出せない
もうとっくに歴史捏造が発覚してる大和説あわれ
そんな大和説が滅亡したのは当然だな >>300
九州説さん
どうしてあなたは
そんなに嘘をつくの? >>241
>考古学者の言っている築造年代と全く合わないんだが。
考古学者が言っているというのは、祇園山の方墳のことではないか。
方墳はあとから付けたした可能性があるものだ。
卑弥呼の墓として妥当なのは、その方墳を載せている墳裾の部分。
この墳裾から出た甕棺は3世紀の西新式だと確定しており、卑弥呼の死去の時期と合っている。 >>299
>証拠は?
>魏志倭人伝の南は実は東だったという証拠は?
末盧国から伊都国へは「東南陸行」と書かれているが実際は北東だし
倭人伝に書かれたとおり進めばそこは日本列島などない海の上だし
実際に北部九州から二千里弱東方向に行けば
当時日本列島最大の勢力のあった畿内に着くのが証拠 >>303
>この墳裾から出た甕棺は3世紀の西新式だと確定しており、卑弥呼の死去の時期と合っている。
4世紀初頭だよ
考古学者の言っている年代と全く合わない >>301
>「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
>>301
>史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しを言い張るだけ
>全く論拠を出せない
いや、現実には論拠がテンプレに書いてあるのだから
あなたが嘘を言っていることは
誰にでもわかるよ >>300
>口先での騙しの詐欺情報、ご苦労様。
>「畿内」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使い、
九州説が
畿内が存在しないなどという
世間常識とかけ離れたことを
理由をひとことも言わないまま
機関銃のように連呼しておれば
九州説の評判は確実に地に落ちるのだから
トンデモ説が勝手に自滅してくれるのは楽でいい >>279
大和説学者らの捏造
存在もしなかった嘘吐き騙しの「畿内」説や邪馬台国や天皇
長里や、
「東治→東冶」や、
「吏人や母人」の記銘鏡や「呉年号鏡」や「海東浮由鏡」などの無視や、
「洛陽では0〜1枚」で「楽浪では数枚以上」や「列島では500枚以上」の△の無視や、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの史料実態の否定や、
「鉛同位体測定の不正な解釈による金属考古学」や、
「アインシュタインの電磁場と重力場の相互作用の存在」確認計測によっての、
「炭素年代のプラズマ化失敗現象」あるいは「プラズマ化によって原子核崩壊が促進する」
という既知の科学現象否定など。 >>292
>祇園山に60mの基壇部があるとか
>あれれ、平地に接する祇園山の底面差し渡しが60mあるのは事実だけど。
なに妄想かましてるの?
私は、「径30m位の少し傾斜のある不定形の基盤台」がある、という説なの。 >>235
天村雲と神武は、わずかに1代ずれてますね。 >>292
>あれれ、平地に接する祇園山の底面差し渡しが60mあるのは事実だけど。
>なに妄想かましてるの?
そんな事実があるって証拠は?
事実じゃないって証拠は出てたけどね >>304
末盧国から伊都国へは「東南方向へ出発」と書かれているだけで、
伊都国なんて見えないから、方向など計測出来ないし、
倭人伝に書かれたとおり進めばそこは「ほぼ九州島」の上付近だし、
実際に不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
南至邪馬壹國女王之所都は、ほぼ0里(50里以下)の不彌國のすぐ南からあった事になるし。
当時日本列島最大の繁栄のあった弥生銀座に着くのが証拠 >>234
そうでもないのよ。
倭人伝の卑弥呼の墓は久留米の祇園山。
その卑弥呼の寿陵は山門坂田の権現塚。
狗奴国の攻め込みで、卑弥呼は寿陵を捨てて邪馬台国北部へ避難し、そこで急死したことから、その避難先に新たに墓を造った。
こう考えれば、寿陵の存在と卑弥呼の墓は矛盾なく落ち着く。
まあ、大和の場合は、こうしたことは成り立たないがね。 >>309
>私は、「径30m位の少し傾斜のある不定形の基盤台」がある、という説なの。
事実じゃないことが明白な「説」って
そりゃないわ >>306
>>「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しを言い張るだけ 全く論拠を出せない
>いや、現実には論拠がテンプレに書いてあるのだから
あなたが嘘を言っていることは誰にでもわかるよ
いや、現実には、
その論点に関するテンプレを貼り付けないのだから、
あなた(おそらく東大理系博士号自称男)が嘘を言っていることは誰にでもわかるよ >>311
https://lunabura.exblog.jp/16145717/
このサイトにみえる平面図の底部の東西差し渡しは60m。
で、60mでないという“事実”は? >>307
大和説が
「五世紀以前の大和」に畿内が存在したなどという
史料実態や世間常識とかけ離れたことを
理由をひとことも言わないまま
機関銃のように連呼しておれば
大和説の評判は確実に地に落ちるのだから
トンデモ説が勝手に自滅してくれるのは楽でいい >>316
>このサイトにみえる平面図の底部の東西差し渡しは60m。
>で、60mでないという“事実”は?
もちろんその図が証拠だよ
平面図に、東西差し渡し60mの底部なんて
まったく書かれていないのが証拠 >>309
>30m位の少し傾斜のある不定形の基盤台が
祇園山の方墳を載せている平坦面のことだと思うけど、
その平坦面の下方向にもう一つテラス部分があって、
この墳裾は二段重ねだと宝賀という人が言っていますね。
その通りだと思います。
祇園山墳墓の元々の形は、この二段重ねの墳裾部分がそうでしょう。 >>318
>まったく書かれていない
平面図の右下に10mのスケールが付いているので、紐でスケールの10mを取り、それを6倍して、平面図の底部の東西と合わせてみると、きっちり60mなのが分かるよ。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>305
>4世紀初頭だよ
西新式が3世紀だというのは定説。
この形式の甕棺が祇園山の墳裾から出たということは、墳裾築造がちょうど卑弥呼死去の時期と合うということ。 >>322
>西新式が3世紀だというのは定説。
捏造はいかんね
3世紀の終わりもまだ西新式の時代だ
だから
「この形式の甕棺が祇園山の墳裾から出たということは、墳裾築造がちょうど卑弥呼死去の時期と合う」
は真っ赤なウソ 前方後円墳と供に畿内には存在してたよ、仙人思想の連中位しかあそこを拠点にしない。 >>320
>平面図の右下に10mのスケールが付いているので、紐でスケールの10mを取り、それを6倍して、平面図の底部の東西と合わせてみると、きっちり60mなのが分かるよ。
まだウソついてる
その図には、西側は51mコンター、東側は54mコンターまでしか書いてない
平地は標高45mほど
「底部の東西差し渡しは60m」とか
「平地に接する祇園山の底面差し渡しが60mあるのは事実」とか
ウソばっかり
なに妄想かましてるの? >>323
西新式は庄内式と併行するというのが定説。
庄内式は3世紀後半前葉まで。この時期は布留0式と重なる。
なので、西新式は3世紀後半前葉までの土器とするのが良い。
3世紀後半後葉まで続かない。 >>325
>西側は51mコンター…
等高線が消える平地接触部分というてるのに、妄想こきたい人種はダメダメね。
はい、墳裾底面で差し渡し、もう一度図り直し。 >>326
>西新式は庄内式と併行するというのが定説。
そんな定説はないな 324
中国の連中ら神さん信仰ないぞ🤪
連中らの世界観では神さんと呼ぶ連中らとの付き合いの歴史なんだわな
仙人らってのも人間として描いとろ
つまりやつらはもともと神に対する信仰なんぞあらん 中国の皇帝で龍家ってのあるだろ
劉ってのはもともとは龍を扱うものって意味から来とるらしいんだな >>328
西新式の中心の時期は3世紀中頃。
はずれのはずれである4世紀初頭に中心があるわけない。
その西新式の甕棺が祇園山で出ているのだから、無理に4世紀初頭へ持っていく必要がない。
もっとも、方墳部分は4世紀の可能性がある。 >>304
それ根本的に畿内説ありきの空想であり全く論証にならないね
そもそも博多湾から出雲の方角が南なら奈良盆地は西だろw
魏志倭人伝を読めば壱岐と対馬の位置関係を南北と認識していた事はわかるよな?
その認識でいけば魏志倭人伝の方角は合ってるわけよ >>333
>西新式の中心の時期は3世紀中頃。
>はずれのはずれである4世紀初頭に中心があるわけない。
祇園山の甕棺は 、そのはずれのはずれである4世紀初頭の技法だと報告されていますね 畿内説の論法が通るならむしろ東海の方が可能性高いよな
クナ国言うてるヤツどう思う? >>334
>それ根本的に畿内説ありきの空想であり全く論証にならないね
まったく反論しないでただ拒絶するのは、あなたが議論に負けた証拠
>そもそも博多湾から出雲の方角が南なら奈良盆地は西だろw
出雲が南と主張してないから関係ない
>その認識でいけば魏志倭人伝の方角は合ってるわけよ
強引にい言い張っても
末盧から伊都は北東の方角だし日本列島はどこも会稽より北
倭人伝記載の方位には間違いがある >>333
そもそも西新式は4段階の編年がある
最初は平底の痕跡が残るタイプ
二段階目には山陰や畿内の影響が出て来る
三段階目は在来より外来の影響の方が強い
四段階目は布留式の影響を受けている
祇園山の甕棺は4世紀初頭のもの >>319
>その平坦面の下方向にもう一つテラス部分があって、
>この墳裾は二段重ねだと宝賀という人が言っていますね。
学者は誰も言わない
自然の山だから これだな
魏志倭人伝の記述
「至對馬國(対馬)〜乗船南北市糴〜又南渡一海千餘里〜至一大國(壱岐)〜亦南北市糴」
つまり対馬←→壱岐の位置関係が南北と記載されているので、
https://i.imgur.com/Ixx2XXX.png
そして邪馬台国は上陸地点より南の方
https://i.imgur.com/t1La2wr.png
さらにその南には敵対していた狗奴国があった >>327
>等高線が消える平地接触部分というてるのに、妄想こきたい人種はダメダメね。
>はい、墳裾底面で差し渡し、もう一度図り直し。
平地接触部分?
平地は標高40m台なので、その図には書かれていない
平地接触部分はずっと遠くだ
山の中腹だけ書いた図だから等高線も消えない
調査範囲外が書かれていないだけ
墳裾底面は約23m ×24mだけだ
もしかして、知能が低くて地図の見方がわからないのか? >>341
>つまり対馬←→壱岐の位置関係が南北と記載されているので、
そこからもう倭人伝に載ってる方位は間違ってるわけだね
「南」だけ盲信してたらダメってことが >>338
卑弥呼の宮があったとされる瀬高町坂田の権現塚遺跡出土の甕棺はW期に分類されており、
この時期の甕棺は日田方面へ拡散する傾向にあったとされている。
祇園山の甕棺もW期ではないか。
橋口氏の編年ではKTV期であり、4世紀にはならない。 エー、毎度おなじみ畿内説の方角サギー、、、、
方角サギーはいかがですかー だめだめ、倭人伝にはまず対馬国なんて書かれていない、対海国、瀚海に対する国、此処から不思議とも言えるわけだ、半島から観た国だわ >>310
実際にはBC2からBC1の人らしいですが、記紀と明治政府によると前660年ですよね >>343
こじつけんなよ知事
相対的に合ってるという話だろ >>342
墳裾の底面は、最下段の等高線のその下だよ。
東側の最下段の等高線の下に棺が一つ描かれているが、
その部分は墳裾の最も下の斜面。
墳裾の底面はその棺のさらに下の線。
草みたいな線引きがあるその線だよ。 >>349
>墳裾の底面は、最下段の等高線のその下だよ。
最下段の等高線とは標高何m?
デタラメ言ってもすぐバレるぞ 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>348
>こじつけんなよ知事
>相対的に合ってるという話だろ
つまり、倭人伝の方位は正しく東西南北を把握できない人が書いたということだな
ならば「南水行」の方位を盲信するのは
間違いということだ >>353
魏志倭人伝を書いたのは倭国なんぞ何も知らん陳寿だ
お前真制のバカか? エー、毎度おなじみ畿内説の方角サギー、、、、
方角サギーはいかがですかー 方角の話だけでも畿内説が胡散臭いファンタジーなのは素人でもわかるよ >>263
>ある「昭和時代のモノ」を鑑定して、1964年という確実な年代が分かったとする
この事実から「1931年は昭和ではありえない」という結論が出るか?
いや、出るわけがない。<
昭和の例は意味がない、1926年から始まってる事が分かってるのだから。
例えとして不適格。
言えることは布留0式古相は258年の土器と併行するということだけ。
最古の須恵器の389年を20年古くして考えれないだろ、それと同じ。
白雉はおまえだ。 >>354
>魏志倭人伝を書いたのは倭国なんぞ何も知らん陳寿だ
>お前真制のバカか?
おやおや、また九州説さんが発狂した
陳寿が何の資料も見ず、誰の報告も聞かずに倭人伝を書いたとでも?
元の情報が間違っていただけですよ
倭人伝の記事は明らかに現実の地理に合っていない >>263
1964年のモノは1931年のモノにはならないよ♪
白雉はお前だ。 >>357
>言えることは布留0式古相は258年の土器と併行するということだけ。
間違いだな
布留0式古相の使われていた時間幅の中に
258年という1点が存在するという情報になるんだよ
だから、その情報だけからでは
布留0式古相が240〜260なのか、250〜270なのか
判別ができない
昭和の例をよく考えてみるんだね
理解できたかな?
白痴くんには無理かな? >>296
>この時期、大型墳墓が平地にあるのは尾張と大和だけ。
そうなん?尾張もか。
ならば山稜調べてみ、古い神社の境内に古墳かどうか微妙な山があったりする。
典型的なのは葛城の高鴨神社のご神体、
あるいは葛木御歳神社のご神体な。
「棺あり槨なし」の場合、とっくに土に還って大樹の養分になっている。 >>360
>布留0式古相が240〜260なのか、250〜270なのか
判別ができない
判別しなくてよい、258年を基点にしているだけでいい。
卑弥呼の墓にしたいからスケベ根性で240〜260にしようとしてるだけ。
昭和の例なんか「古墳時代」に置き換えれば済む話。
理解できたかな?
白痴くんには無理かな? >>359
>1964年のモノは1931年のモノにはならないよ♪
>白雉はお前だ。
ああ、本当に白痴くんなのだな
1964年が昭和だったという事実は、太平洋戦争が昭和年間にあったことを否定出来ない
もし258年判定の出た遺物が布留0式古相であるならば
この結果は布留0式古相240〜260説は否定できないが
布留0式270〜300説は否定する結果となる
布留0式古相260〜280説は若干機嫌が悪くなる
わかるかな?
白痴には無理かな? >>303
>卑弥呼の墓として妥当なのは、その方墳を載せている墳裾の部分。
この墳裾から出た甕棺は3世紀の西新式だと確定しており、卑弥呼の死去の時期と合っている。
成程。 >>362
>判別しなくてよい、258年を基点にしているだけでいい。
もう自暴自棄かな?
基点にする根拠が無いんだよ
布留0式古相の使われていた時間幅の中に
258年という1点が存在するという情報に過ぎないんだから >>364
なに納得してるかしれないが
墳裾って冢じゃないからな >>326
>西新式は庄内式と併行するというのが定説。
庄内式は3世紀後半前葉まで。この時期は布留0式と重なる。
なので、西新式は3世紀後半前葉までの土器とするのが良い。
3世紀後半後葉まで続かない。
ふーん、成程。 >>365
>基点にする根拠が無いんだよ
布留0式古相の使われていた時間幅の中に
258年という1点が存在するという情報に過ぎないんだから<
258年が基点だから問題はない。
おまえがいう時間軸が248年から始まるかもしれないが、258年から始まるかも知れない。
おまえがいう時間軸が248年から始まることを証明できないので、
箸墓は卑弥呼の墓とは証明できない。
意味が分かるかな? 248年から始まることを証明できたとて、
高齢の女王が死んで慌てて墓を造り始めましたなんて馬鹿なはなしはあるまい。
殯なんて例えば九州で死んだ仲哀天皇が行ってるね。
致し方ない場合のみ行われるのであって、ずっと宮に閉じこもってた卑弥呼がするものじゃない。
魏志の記述は埋葬部分=ハカドコロを造っただけ。
卑弥呼の墓を単独墓というなら庄内0期にはすでに完成してたとみるべき。 >>362
>昭和の例なんか「古墳時代」に置き換えれば済む話。
置き換えるとどう解決するか、もう説明不能に陥ってるんだろ
そういうのを九州説的思考停止というんだ
1964年が昭和だったという、たったひとつの情報で
1964を起点として昭和を語ったら、現代史が崩壊するだろ
数多くの学者の提示した年代史料を無視しての「基点」などナンセンスも甚だしい
それが思考停止なんだよ >>335
>>西新式の中心の時期は3世紀中頃。
はずれのはずれである4世紀初頭に中心があるわけない。
>祇園山の甕棺は 、そのはずれのはずれである4世紀初頭の技法だと報告されていますね
その報告をしたのが、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しをした大和説学者だ、
というんだから、
信頼性が全くないし、信用出来ない。 >>369
>248年から始まることを証明できたとて、
>高齢の女王が死んで慌てて墓を造り始めましたなんて馬鹿なはなしはあるまい。
九州説は倭人伝を無視?
それはいけないねえ 一年365日、朝昼晩このスレに張り付いて、
その結果間違えていた>>1君の人生大惨敗の原因は、
卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。
卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからその時代をとんでもない時代=BC660年に設定したのだ。
卑弥呼を隠すことは100年前の帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。
>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜! >>337
>強引にい言い張っても
末盧から伊都は北東の方角だし日本列島はどこも会稽より北
倭人伝記載の方位には間違いがある
いや、末盧國から伊都國は見えていないから、その方向が記録出来る筈もなく、
「東南」は、末盧國からの出発時点での出発方向の説明であり、
間違っていない。 >>368
>おまえがいう時間軸が248年から始まることを証明できないので、
>箸墓は卑弥呼の墓とは証明できない。
証明されたら畿内説一発確定なんでね
こっちは状況証拠の積み上げで畿内説が最有力というか
確信に足るという現状を説明してるだけ >>370
>置き換えるとどう解決するか、もう説明不能に陥ってるんだろ
そういうのを九州説的思考停止というんだ
1964年が昭和だったという、たったひとつの情報で
1964を起点として昭和を語ったら、現代史が崩壊するだろ
数多くの学者の提示した年代史料を無視しての「基点」などナンセンスも甚だしい
それが思考停止なんだよ<
昭和という何時から何時までなのか分かってる例を、何時から何時までか分からない話の例えにするな。
年輪年代は科学的な手法なので
「数多くの学者の提示した年代史料を無視しての「基点」などナンセンスも甚だしい」とはならない。
この基点258年を無視してるほうがよほど非科学的でナンセンス。 >>375
>こっちは状況証拠の積み上げで畿内説が最有力というか
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>374
>いや、末盧國から伊都國は見えていないから、その方向が記録出来る筈もなく、
唐津港から真東に十坊山が見えてるんだよ
糸島へは十坊山を越えて北東へ進むんだよ
末盧の北東に伊都があると理解できないのは
よほどの方向オンチか、記録をまったく取ってないで後でいい加減な伝聞を採用しちゃったかだ >>372
>九州説は倭人伝を無視?
>それはいけないねえ
俺は畿内説、ただし葛城説。 >>376
>この基点258年を無視してるほうがよほど非科学的でナンセンス。
だから「基点」だという論拠をなにも提示できないのに
「基点」「基点」と断定するのが
「非科学的でナンセンス」の典型なんだよ
258年は布留0古相の時間幅の中の定点たりうる
しかし「基点」だという根拠は何もない
現に、出せないだろ? >>380
>俺は畿内説、ただし葛城説。
なら九州説だな
ん?
九州って「クズ」って読むんだろ? >>344
>橋口氏の編年ではKTV期であり
もう50年ちかく前の説だよ
賞味期限切れだ
それにKTV期というのは間違い
KTV期だったら1世紀 >>381
>だから「基点」だという論拠をなにも提示できないのに
「基点」「基点」と断定するのが
「非科学的でナンセンス」の典型なんだよ<
科学的な手法である年輪年代で出た数字258年は庄内と布留の境目布留0式古相の年代で有り基点である。
>258年は布留0古相の時間幅の中の定点たりうる
しかし「基点」だという根拠は何もない
布留0古相の時間幅の中の定点たりうるという根拠がない。
258年が始点かもしれないし終点かもしれないから。
にもかかわらず箸墓を卑弥呼墓と決めてるおまえがナンセンス。 >>361
高鴨神社、葛木御歳神社は平地にあるようだ。
神社の社の下に遺跡があるというのは分かるが、その遺跡の時期が問題だな。
葛木御歳神社の場合、一説では、葛城氏配下の渡来人がこの地で殺牛農耕祭祀を行ったとする。
このことを重視すれば、5世紀以降のことであり、3世紀前半頃のことではないようだ。
高鴨神社においても、何かそうした祭祀が行われたのではないか。 >>385
>高鴨神社、葛木御歳神社は平地にあるようだ。
平地ではない、いいかげんなことを言うな。
行ったこともないだろ?
>葛木御歳神社の場合、一説では、葛城氏配下の渡来人がこの地で殺牛農耕祭祀を行ったとする。
このことを重視すれば、5世紀以降のことであり、3世紀前半頃のことではないようだ。
どんな屁理屈なんだ。高鴨神社は孝昭天皇の時代に創建。
その時点で崇神時代の大神神社甚神社より古く、日本で一番古い。
上座にある高天彦神社はさらに古いことが想定される。 >>384
>布留0古相の時間幅の中の定点たりうるという根拠がない。
>258年が始点かもしれないし終点かもしれないから。
おいおい、マジで知恵遅れなのか?
本当だったらシャレにならん差別になっちまうから言わないようにするぞ
258年が始点かもしれないし終点かもしれないから
「布留0古相」という時間幅の中での1つの定点にしかなり得ないんだぞ
258年が始点かもしれないし終点かもしれない
だから、「布留0古相」に築造された古墳は247年頃死んだ人の墓じゃあり得ないとか
そんなことを言う奴は白痴なんだ
何を隠そうお前のことだが >>384
>258年が始点かもしれないし終点かもしれないから。
>にもかかわらず箸墓を卑弥呼墓と決めてるおまえがナンセンス。
こっちは年輪年代一発で決めてるわけでもないのに
ナンセンスだとか妄想しちゃう理由は? まあ壬申の乱に天武天皇が勝ったときに日本て国号決まったみたいやからね〜
こ〜とも言われとる
天智系=倭王朝 天武系=日本王朝 >>388
>258年が始点かもしれないし終点かもしれないから
「布留0古相」という時間幅の中での1つの定点にしかなり得ないんだぞ
258年が始点かもしれないし終点かもしれない
だから、「布留0古相」に築造された古墳は247年頃死んだ人の墓じゃあり得ないとか
258年が始点と言うこともありうるということだね。
ならばその時点で卑弥呼の墓ではないね。
にもかかわらず卑弥呼の墓だと言ってるお前が白痴。
布留0式古相が卑弥呼の死の248年だと何ひとつ証明されてないのだから。
そんなことを言う奴は白痴なんだ
何を隠そうお前のことだが >>389
>こっちは年輪年代一発で決めてるわけでもないのに
ナンセンスだとか妄想しちゃう理由は?
とりあえず科学的な年輪年代258年一発で考えないと。
それをせずとにかく箸墓を卑弥呼の墓にしたいものだから、
昭和の例を出して時間幅を都合よく=248年を含むようにしてるお前がナンセンス。」 >>391
>258年が始点と言うこともありうるということだね。
>ならばその時点で卑弥呼の墓ではないね。
すまん、おまえマジ白痴だったんだな
論理が発狂してるぞ
258年が終点と言うこともありうる以上
「(でないことも)ありうる」から「ではない」は出ない >>383
権現塚北遺跡では弥生中期〜後期前半が甕棺の中心時期で、後期後半になると石棺や木棺が多くなるとされているが、甕棺がまったくなくなったわけではないようだ。
実際、この権現塚北遺跡からさほど離れていない祇園山では西新式の甕棺が出ているわけであり、
弥生終末期にも甕棺が残存していたことがうかがわれる。
この地域で甕棺が残ったのは弥生終末期までではないか。
この甕棺が4世紀までこの地域に残存していた可能性は極めて低いと思われる。 天武天皇が勝ち大津宮を占領したとき各地の豪族(出雲や近江朝)の連中らが御神宝を差し出したのが神器の始まりとな 海神(わたつみ)の、豊秦雲(とよはたくも)に、入日(いりひ)さし、
今夜(こよひ)の、月夜(つくよ)、あきらけくこそ。
作者: 中大兄(なかのおおえ(のちの天智天皇)) >>392
>とりあえず科学的な年輪年代258年一発で考えないと。
年輪年代ひとつだけを盲信する脳の構造が理解できない
多くの学者が多くの根拠を総合して3世紀の半ばごろからという年代感を提示しているのに、まったく無視するとは
しかも年輪年代一発では
「258年が始点かもしれないし終点かもしれない」
のだから「247年は含まない」なんて情報は取れないのに
「卑弥呼の墓ではない」などと論理飛躍する
お前の脳がわからない
死後の腐敗が進んでいるのか? 考古学の基本は、その遺跡の年代は最も新しいものに合わせるだから、
年輪年代258年一発で正解。 >>386
神社の創建が早い遅いではなく、その神社のマウンドは殺牛農耕祭祀に関連したものじゃないの、というのよ。
それに、地図でみると、そこは平地だぞ。 >>393
>258年が終点と言うこともありうる以上
「(でないことも)ありうる」から「ではない」は出ない
布留0式古相258年は科学的に出された年代。
布留0式古相が248年というのは科学的に出されていない。
にもかかわらず
箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
同定してるお前が白痴で童貞。 >>394
>実際、この権現塚北遺跡からさほど離れていない祇園山では西新式の甕棺が出ているわけであり、
その西新式は4世紀まで使われているんだから
その末期型の技術で作られた祇園山の甕棺は4世紀のものだな >>399
>その神社のマウンドは殺牛農耕祭祀に関連したものじゃないの、というのよ。
葛城の鴨族は出雲系で銅鐸族。
出雲大社荒垣外摂社で祀られてる神々と葛城の名神大社で祀られてる神々が一致する。
悪いが殺牛云々はかなり後の事だろう。 >>400
>布留0式古相258年は科学的に出された年代。
>布留0式古相が248年というのは科学的に出されていない。
>にもかかわらず
理化学的年代決定論は手段の一つだよ
オンリーワンだと思ってる学者は誰もいない
布留0式古相が3世紀半ばというのは考古学的年代決定論であって、多くの学者が唱えている >この歌も天智天皇が亡くなったときに大后が詠んだ挽歌です。
>この大后は倭大后(やまとのおほきさき)のこと。淡海(琵琶湖)の海で鯨取りとは?
鯨魚(いさな)取り 淡海(あふみ)の海(うみ)を 沖放(さ)けて 漕(こ)ぎ来る船 辺(へ)附きて
漕ぎ来る船 沖つ櫂(かい) いたくな撥(は)ねそ 辺(へ)つ櫂 いたくな撥ねそ
若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ
鯨を取るような淡海の海を沖遠く漕ぎ来る船よ。岸辺に付きて漕ぎ来る船よ。
沖で櫂をそんなに撥ねないでください。岸辺で櫂をそんなに撥ねないでください。
若草のようだった夫が愛おしんだ鳥たちが驚いて飛び立ってしまいます。 >>397
>「247年は含まない」なんて情報は取れないのに
「卑弥呼の墓ではない」などと論理飛躍する
お前の脳がわからない
死後の腐敗が進んでいるのか?
「247年は含んでる」なんて情報は取れないのに
「卑弥呼の墓である」などと論理飛躍する
お前の脳がわからない
死後の腐敗が進んでいるのか? 鯨を取るような大きな淡海の海の沖や岸辺近くを行く船に向かって、
「そんなに櫂を撥ねないでください。天智天皇の愛しんだ鳥が飛び立ってしまいます。」
と訴えかけている内容がなんとも読む者のこころに響いてくるような長歌となっています。
ただ、この歌ももちろん、実際に舟の漕ぎ手に訴えているのではなく、
天智天皇の愛しんだ鳥たちを見ることで天皇の魂を近くに感じその魂に
いつまでも飛び去らないで側にいてほしいと訴えているわけですね。
今の世でも、亡くなった人の形見や大切にしていたものを見るとその人のことを思い出し
その人を近くに感じることがあることと思いますが、
万葉に時代の人々の感受性はさらにするどくその魂の存在を感じ取っていたのでしょう。
そんな、この時代の人々が死者の魂というものの存在をどれほど身近に感じていたかが
よく分かる一首だと思います。 >>398
>考古学の基本は、その遺跡の年代は最も新しいものに合わせるだから、
そういう機械的な考えは前世紀のものだ
どこまでを一括資料とするかは層位の判断によるしコンタミも考えねばならない
布留0古相の時間幅の中に258年があるという情報一つから「布留0古相は258年以降」と考える学者はいない >>403
>理化学的年代決定論は手段の一つだよ
普通は年代幅のある放射性炭素測定より年輪年代を重視するけどね。
箸墓を卑弥呼墓にしたいがため逆にしてるのさ。
ま、たとえ何人が箸墓説を唱えようとも、
卑弥呼は記紀という文献に出てるし葛城で決定なので馬鹿を檻越しに覗いてる気分なのだが。 >>405
>「247年は含んでる」なんて情報は取れないのに
>「卑弥呼の墓である」などと論理飛躍する
年輪年代から「247年は含んでる」という情報を取った事実は無いのだから
結論「卑弥呼の墓である」は論理飛躍ではあり得ない >>408
>「布留0古相は258年以降」と考える学者はいない
寺澤さんも石野さんも箸墓説を降りてるが?
とてもじゃないが布留0式古相が248年にはならないであろうということであろう。 大津京跡 大津京を偲ぶ史跡として
「近江大津宮錦織遺跡」(おうみおおつのみやに しこうりいせき)があります。
がこの地には後世、 源頼義の屋敷が有った所で
子の義光がここで元服し、新羅三郎義光となったそうです。
ほんとに大津宮が有ったのか?? >>409
>年輪年代から「247年は含んでる」という情報を取った事実は無いのだから
結論「卑弥呼の墓である」は論理飛躍ではあり得ない
事実は無いのに何で同定してるの?
かも知れないで止めておけばいいものを同定してるね、君。 >>408
>>理化学的年代決定論は手段の一つだよ
>普通は年代幅のある放射性炭素測定より年輪年代を重視するけどね。
>箸墓を卑弥呼墓にしたいがため逆にしてるのさ。
放射性炭素測定も理化学的年代決定論の手段の一つなんだが
おまえは知能ゼロだな
かわいそうだ .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>412
>事実は無いのに何で同定してるの?
>かも知れないで止めておけばいいものを同定してるね、君。
年輪年代以外の情報から「247年は含んでる」と判断したからに決まってるだろ
そう書いてあるぞ
含んでなくても「卑弥呼の墓である」のは問題ないし >>410
>寺澤さんも石野さんも箸墓説を降りてるが?
これもウソ
二人とも元から箸墓説でない
世代的に古いので保守的な年代観の人だ >年輪年代以外の情報から「247年は含んでる」と判断したからに決まってるだろ
そう書いてあるぞ
年輪年代以外の情報って放射性炭素測定か?
あんなもの本来は100年、200年幅の大まかな年代しか分からない。
それを逆にして強引に比定しようとしてるだけ。
結論先にありきの石器捏造事件と根本は変わらない。
>含んでなくても「卑弥呼の墓である」のは問題ないし
箸墓には奴婢殉葬痕跡もないのに馬鹿なのか。 >二人とも元から箸墓説でない
賢明な学者さんだね、白石とは大違い。 あんなもの本来は100年、200年幅の大まかな年代しか分からない。
IntCal20への魂の叫びW >>404
>鯨を取るような
「ような」とはなんだ! 小賢しい愚か者め。
「阿波」の海で鯨を捕っていたに決まってるだろ! @阿波 誰が箸墓古墳を卑弥呼の墓だと言ってるの?
白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの
可能性は低い、というよりは証明しがたい。」と述べる
石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓、
箸墓を寿陵と考える寺沢薫は壹与の墓説やミマキイリヒコ
(崇神)などの男王の墓説も浮上してこようと評価している。
奈良県立橿原考古学研究所自体は築造時期を
280〜300年(±10〜20年)と推定しており、
卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。
またC14炭素年代測定法による推定は100年程度古く
出ることがわかっており、この墓が卑弥呼の墓で
ある可能性は低くなっている。 >>411
>ほんとに大津宮が有ったのか??
ない! あったのは、鳴門市大津。 @阿波 発狂したか?
>これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。 >>338
>そもそも西新式は4段階の編年がある
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定をしているな嘘吐き騙しの大和説学者らの「編年」など、
全く信用出来ない。
>最初は平底の痕跡が残るタイプ
二段階目には山陰や畿内の影響が出て来る
三段階目は在来より外来の影響の方が強い
西新町は半島渡来民の生活痕跡があり、半島の影響が強く、山陰の影響はメインではなく、
畿内なんて存在もしなかった地域の影響がある訳もなく、
大和は、「東征毛人五十五國」の被征服地であるから、西新町が大和に影響を与えた方。
>四段階目は布留式の影響を受けている
布留の始まりは、米田の越前説と、筑紫説があるが、
年代的に筑紫が独力で始めた可能性の方が高い。
>祇園山の甕棺は4世紀初頭のもの
祇園山自体が、「土師器の古い方=庄内」や△の初期や須恵器があって、
3世紀前半末の卑弥呼の死の頃になる。 「天智天皇 淡海の大津宮」とは「淡海には、鯨魚(いさな)を漁る舟が見え、時には沖の波が荒れ、
多くの島々と湊(泊)があった古津神浦である鳴門市撫養町の木津金比羅宮なのである。
以前に紹介した鳴門市北灘に鎮座する葛城神社の隠された祭神が天智天皇であるように、
天智天皇は阿波の鳴門一帯を政治の拠点としていたのである。 @阿波 >>426
>祇園山自体が、「土師器の古い方=庄内」や△の初期や須恵器があって、
>3世紀前半末の卑弥呼の死の頃になる。
祇園山が「土師器の古い方=庄内」という情報はない
須恵器があって3世紀前半末とか、あり得ない
。 本来、「淡海」とは「阿波海」のこと。
そもそも通説とされる滋賀県の「大津」は平安遷都の際に「大津」の地名が誕生している。
よって天智天皇の時代には滋賀県(近江)に「大津」の地名は存在しおらず、現在の通説では不都合が生じてしまう。
「山背を山城と改め新京を平安京と名付ける、また近江の古津を大津と称する」とあり、
天智天皇が六六七年に、淡海の大津宮を拓いた当時、滋賀県大津はまだ存在していない。
近江=「淡海」とされているが、これは後世の解釈によって踏襲されているだけ。
本居宣長も、「あふみ(淡海?近江)は「阿波宇美(あわうみ)が切(つづ)ま」ったものと説き、
また記紀にみえる淡洲(あわのしま)・阿波国(あわのくに)・淡島・阿波島(あわしま)の用例や、
淡路島の名の由来が阿波への道(阿波に至る途中の島)の意味から、「淡海」は「阿波海」が転記されたもの。 @阿波 >>423
>白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの
可能性は低い、というよりは証明しがたい。」と述べる
そうなん?
俺が聞いたのはもはや箸墓以外にないという話だったが俺が古いのか。
ま、どっちにしても、
>奈良県立橿原考古学研究所自体は築造時期を
280〜300年(±10〜20年)と推定しており、
卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。
よしよしw >>423
>白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの
>可能性は低い、というよりは証明しがたい。」と述べる
ニセ情報
>奈良県立橿原考古学研究所自体は築造時期を 280〜300年(±10〜20年)と推定しており、
ニセ情報
>またC14炭素年代測定法による推定は100年程度古く 出ることがわかっており
素人の主張 壬申の乱は梅の歌序のこの部分だろう
曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封□而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈
朝庭に新しい蝶が舞い、鴈は(巣へ)帰っていった
花札の世界
牡丹に蝶
山とススキに鴈 例えば「万葉集(巻二ー 一五三)の大后の御歌では
鯨魚(いさな)取り 近江(淡海)の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る舟 辺(へ)付きて 漕ぎ来る舟
沖つ櫂(かい) いたくなはねそ 辺つ櫂 いたくなはねそ 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ
ここで歌われている「いさな」とは鯨の古称。鯨が滋賀県大津に隣接する琵琶湖に生息しているのだろうか。
ここの「近江(淡海)」とは紀伊水道の「淡海(阿波海)」なのである。 @阿波 倭国大乱も壬申の乱も同じ構図かな
東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨 >>340
>>その平坦面の下方向にもう一つテラス部分があって、
この墳裾は二段重ねだと宝賀という人が言っていますね。
>学者は誰も言わない 自然の山だから
発掘の標高地図を見れば、「四隅円弧に類角錐台」の下の不定形の基盤面が、
少し(山頂方向からの傾斜を持って)偏在的に存在し、
その基盤台の周囲にも、また等高線が狭くなった急斜面部分が多く見られ、
その周りにまた少し平坦面的な部分も見られ、
だから、基盤台が「二段」的になっているようだ、という事になる。
その縁部に、また傾斜面が 卑弥呼墓=箸墓論者
大和盆地をザッと見渡して150mほどの墳墓が箸墓円墳部しか見当たらない。
しかも箸墓の年代が微妙に卑弥呼死亡時期に近づいてきた。
もはや間違いない、決定だ!
これはここのアホの>>1と同じく、ルアーに食らいついたアホなブラックバスと同じw
崇神が4世紀初頭から前半なのはもはや疑いがない。
ならばトヨが数十年先にいることになる。
その時代の最高位のトヨは4代懿徳天皇の后・トヨ津媛しかいない。
しかも国宝中平銘鉄刀の和邇氏の祖・孝昭天皇の母親である。
この時点で邪馬台国論争は終わり。
邪馬台国は九州でも纏向でもない、トヨ津媛の住んだ葛城である。 「壬申の乱」での大海人皇子 吉野挙兵行軍
・奈良吉野の宮→→岐阜県不破関(吉野の険しい山越えで、しかも女人連れ)4日間で170km走破
・4日間で手勢30人→3万人に急増兵」
常識的に考えて、これは不可能である!
ちなみに、16世紀の整備された主要街道行軍の「秀吉中国大返し」ですら「備中高松城→山城国山崎 230km 10日」である。
壬申の乱の舞台も、もちろん「阿波」での出来事。
こういう単純素朴な指摘が出来るのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>436
>だから、基盤台が「二段」的になっているようだ、という事になる。
自然の山だから冢じゃないぞ >>343
>>つまり対馬←→壱岐の位置関係が南北と記載されているので、
>そこからもう倭人伝に載ってる方位は間違ってるわけだね
「南」だけ盲信してたらダメってことが
ダメだ。
狗邪韓国の真南はほぼ平戸付近であり、東南が関門海付近であるから、
その間の末盧國〜不彌國付近は、「南〜東南」の範囲内になり、
「東」には全くならず、「ほぼ南方向」でよい。
従って、「南→東」とした大和説はバツだ。 この和歌も壬申の乱の頃かな
にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも
群れで水面を泳ぎ回るカモ類の隙間に、時々現れてはさっと消えてしまう、小さなカイツブリの姿も見られます。
いつの間にか現れ、気がつくと消えて、別のところにまた現れ、まるで忍者のように群れの隙間に出没します。
潜ってから数十秒以上は出てきませんし、思わぬところに浮いてきてはすぐ潜ってしまいますから、じっくりと観察するのはとても大変です。
「にほとり(におとり)」は、カイツブリの古名です。
にほ鳥は鳰鳥
【鳰の海】は【琵琶湖】の別名 >>352
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」・・・
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料実態に拠って、バツ。 大津皇子の辞世の句2つ
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向 >>353
つまり、倭人伝の東西南北の方位はほぼ正しく、
東西南北程度の方向を把握が出来る人が書いたということだな
ならば「南→東」の方位を盲信する大和説は
間違いということだ 奈良の当麻と投馬は似ているな
因みに当麻寺は牡丹の名所
九州南部の投馬国、霧島、天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊 >>354
魏志倭人伝の行程情報を書いたのは、同時期に倭國に来て、
実地に見聞計測した事を記録した梯儁らや張政らやその部下らだ。
それが判らん大和説のおまえは、真性のバカか? >>358
おやおや、また大和説さんが発狂した
陳寿が何の資料も見ず、誰の報告も読まずにに倭人伝を書いたとでも?
元の情報が間違っていなかっただけですよ
倭人伝の記事は明らかに現実の地理に「ほぼ合っている」。 >>360
>>言えることは布留0式古相は258年の土器と併行するということだけ。
>間違いだな 布留0式古相の使われていた時間幅の中に
258年という1点が存在するという情報になるんだよ
間違いだな。
「南→東」や「冢→前方後円墳」などの嘘吐き騙しの大和説学者らが判定した、
布留0式古相や「258年の土器」とが、たまたま「同時期的に思えた」、
というだけの事だよ。
だから、その情報だけからでは
布留0式古相が240〜260なのか、250〜270なのかは、勿論判別ができない
昭和の例をよく考えてみるんだね
理解できたかな?
大和説の白痴くんには無理かな? >>449
だからヤマトにも卑弥呼は居たんだって〜
大陸の制度は男系社会
当時の日本の王家以外は女系社会だったのよ〜
だから妻問いという習慣があったのよ だから、王と巫女制は、当時の日本では落とし所の制度だったのよ〜 >>370
確率的なデータを元にして、置き換えるとどう解決するかとかを言い出した時点で、
もう説明不能に陥ってるんだろ
そういうのを「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などと同じような、、
大和説学者的思考停止というんだ
また、1964年が昭和だったという、たったひとつの情報で
1964年の歴史事実や昭和全体を語ったら、現代史が崩壊するだろ
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの数多くの大和学者らの提示した年代データを、
絶対的な「基点」にするなど、ナンセンスも甚だしい
それが思考停止なんだよ >>382
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らは、
倭人伝も無視?
それはいけないねえ 一年365日、朝昼晩このスレに張り付いて、
その結果間違えていた>>1君の人生大惨敗の原因は、
卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。
卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからその時代をとんでもない時代=BC660年に設定したのだ。
卑弥呼を隠すことは卑弥呼か、卑弥呼から100年前の帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。
また女王国であった事実を神武東征紀という武勇伝で男王国のように塗り替えた。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。
>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜! >>373
>・・・卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
・・・墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
「南≠東」や「正北抵新羅」や「冢≠前方後円墳」などの史料事実や史料実態に拠って、
バツ。 × 卑弥呼を隠すことは卑弥呼か、卑弥呼から100年前の帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ
〇 卑弥呼を隠すことは卑弥呼から100年前の帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ >>375
>証明されたら畿内説一発確定なんでね
「畿内」なんて存在もしなかった嘘吐き騙しであるから、一発バツ。
>こっちは状況証拠の積み上げで畿内説が最有力というか
確信に足るという現状を説明してるだけ
いくら確率の殆どない状況証拠を積み上げても、絶対的な論拠にならず、バツ。 >>376
>昭和という何時から何時までなのか分かってる例を、何時から何時までか分からない話の例えにするな。
年輪年代は科学的な手法なので
「数多くの学者の提示した年代史料を無視しての「基点」などナンセンスも甚だしい」とはならない。
この基点258年を無視してるほうがよほど非科学的でナンセンス。
年輪年代の非絶対性は、もう何度も示してあり、
その258年というのも、全く絶対性がない。
勿論「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らの論なども、全く論拠にならない。
だから、それらを基点にした論を立てた時点で、この男もバツ。 霊感で見えたものはおまえらと全然違うわ
卑弥呼陵←黒塚古墳だと言ってる
狗奴国←静岡のクノだと言ってる
投馬国←岡山のタマだと言ってる
箸墓←臺与だと言ってる >>384
>科学的な手法である年輪年代で出た数字258年は庄内と布留の境目布留0式古相の年代で有り基点である。
年輪年代は、基準木と検体木との気温変化や降水量や日射時間数などの、
幾つも差異や非論理があり、絶対年代決定にはなっていない。 >>460
このように九州説はあらゆる科学を認めない 正北抵新羅とか言っているが、新羅の真南は五島列島である。愚か者め! >>401
>その西新式は4世紀まで使われているんだから
その末期型の技術で作られた祇園山の甕棺は4世紀のものだな
その「末期型の技術で造られた」という事の根拠が必要だな。 >>402
>葛城の鴨族は出雲系で銅鐸族。
出雲大社荒垣外摂社で祀られてる神々と葛城の名神大社で祀られてる神々が一致する。
「出雲系で銅鐸族」であるんなら、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、
葛城説は、またバツだな。 名草戸畔のトベって言葉があるでしょ
昔の女系の習慣だよね。
『日本書紀』の神武天皇紀には、天皇に服従しない紀ノ川河口の名草戸畔(ナグサトベ)
熊野地方の丹敷戸畔(ニシキトベ)、および
「大和国」層富県(そほのあがた) の新城(磯城?)戸畔(ニキトベ)という首長の名が残されている。
それが蘇我の始まり、継体のことなら刀自とじ、女主人
物部五瀬の東征の時は、磯城家に物部の姫を二人嫁がせたけど、卑弥呼にはなれなかった。
一般人が従わなかったから、結局磯城家に取り込まれてグダグダで終わった。
その反省を踏まえ、九州物部氏は宇佐の女主人、ウサツ姫に手を伸ばした。
宇佐家の伝承にも、ウサツ彦がウサツ姫を物部に献上するシーンが描かれる。
更に念には念を入れ、出雲系の血が濃くなり、隠然たる力を持つ副王、加茂家の事もあり
東征に際して出雲も滅ぼすことにした。それが二回目の東征。 >>464
センダイクジホンギには、磯城家の家系まできちんと書かれてるじゃん。
物部氏がぶっ倒した相手の家系を残すくらいの事だとは認識したほうが良いよ >>403
>理化学的年代決定論は手段の一つだよ
オンリーワンだと思ってる学者は誰もいない
当然の事だ。年輪年代も土器編年も絶対性はない。
>布留0式古相が3世紀半ばというのは考古学的年代決定論であって、
多くの学者が唱えている
その「多くの学者」というのが、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らであるから、
根拠にならず、バツである。 >>407
>布留0古相の時間幅の中に258年があるという情報一つから
「布留0古相は258年以降」と考える学者はいない
「布留0古相の時間幅の中に258年がある」という論自体が、
既に始めから、確率的であり、
庄内1の石塚が3世紀末になる、という事との矛盾があって、否定的だ。 もはや畿内説学者からも見捨てられてしまった奥山の妄想作文>>1あわれ >>436の訂正
>>340
>>その平坦面の下方向にもう一つテラス部分があって、
この墳裾は二段重ねだと宝賀という人が言っていますね。
>学者は誰も言わない 自然の山だから
>その縁部に、また傾斜面が
発掘の標高地図を見れば、「四隅円弧に類角錐台」の下の不定形の基盤面が、
少し(山頂方向からの傾斜を持って)偏在的に存在し、
その基盤台の周囲にも、また等高線が狭くなった急斜面部分が多く見られ、
その周りにまた少し平坦面的な部分も見られ、
だから、基盤台が「二段」的になっているようだ、という事になる。 >>459
>霊感で見えたものはおまえらと全然違うわ
卑弥呼陵←黒塚古墳だと言ってる
狗奴国←静岡のクノだと言ってる
投馬国←岡山のタマだと言ってる
箸墓←臺与だと言ってる
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態や、
「臺与」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、バツ。 宇那比姫の宇那比とは畝傍山と似てるが何か関係があるのだろうか? 魏志を読む限り九州以外あり得ないのに
畿内説は魏志から「邪馬台国」「卑弥呼」の固有名詞だけパクって、それ以外の記述全部無視する 狗奴国との勝敗は残されてはいないが男王が一時立った所を考えると狗奴国に交代したのかな?ならば30か国外の狗奴国なら狗奴国のある場所が都だろ?そうは書かれていない、狗奴国は女王国連合体河内。 畿内説を取る人でも、村雲が神武であることを不審に思う人も多いのにはちょっとびっくり。
センダイクジホンギには、尾張氏の家系がきちんと出てるよね。
そこから奥さんの家系三代が、出雲系のお嫁さん。
ヤマトの歴史がどれだけ古いのか、きちんと畿内派の人には認識してほしい。
そして何故記紀作成者が万世一系を目的としながら、それでも尾張、海部氏を重要視し残したかを理解するべき。
並べてみる
続きはCMの後で 天孫本記に出てくる名前がまずは
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 初期の天照は男神だった。 天照国照彦、天火明、櫛玉(命)、饒速日尊は同一人物
次が、ホアカリの父親である除猛からとった、五十猛
(徐猛+万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命)→(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊+宗像の高照姫:天道姫ともいう)
→(五十猛(大和入りしてからは天香語山命)+大屋姫と、もうひとり穂屋姫)→天村雲と、天御陰
・ここで天孫本記:天香語山命(あまのかごやまのみこと)は、異腹の妹の穂屋姫(ほやひめ)を妻として、一男をお生みになった。
・穂屋姫は、物部系の祖である天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と、宗像の市杵姫との間の娘。
・大屋姫系の子供が、紀伊家のタカクラジになり、子孫の珍彦が五瀬を撃退する、
・穂屋姫系の子供が天村雲。これが尾張氏の始まり。弟に、天御陰がおり、海部家は村雲の兄弟の家系。(ただし海部家の系譜では天御陰は村雲の子供になってる)
・尾張氏→熱田神宮
・海部氏→現在の丹後の籠神社宮司(秘密の社殿に出雲の大神を祭る)
→@(天村雲(神武)+タタライスズヒメ(事代主の本妻の三島家の娘。タテミナカタの異母兄妹)
・村雲王は別名天五多手(イタテは、もうイソタケ系の名前だよね)
→A(沼名川耳・本記では天忍人命(綏靖)+イズズヨリヒメ)
・この命は異腹の妹の角屋姫(つぬやひめ)、またの名は葛木(かずらき)の出石姫(いずしひめ)を妻として、二男をお生みになった。
・他の皇子に、八井耳。古事記編纂に関わった太安万侶の先祖
→B(玉手看(安寧)磯城津彦ともいう+ヌナゾコ姫)
三代目の磯城津彦の時に、尾張家と関係が悪化し、尾張家は村雲の剣を大王に渡さなくなった。 そこで母系社会の伝統だ。
古代日本は母系家族制なので、生まれた子どもたちは母の実家で育ちます。
なのでDNAだけでなく、女性側の文化の影響が強くなる。
磯城津彦は出雲の分家、登美家で育てられるようになった。故に、尾張家との関係が悪化した 磯城王朝とは、三代目の磯城津彦から始まる。葛城国ともいう。
五瀬が来る前からの古い歴史が近畿の歴史。ちゃんと覚えたほうがいい。すごく立派なものではないか? タタライスズヒメが三輪山祭祀の本当の最初の姫巫女(卑弥呼)
巻向遺跡が出来る前の話だよ んでセンダイクジホンギから分かるように、九州にも同じ血筋が根付くことになる。
これが九州物部氏。イチキシマヒメと、饒速日の家系
つまりは、物部イクメは、竜宮の乙姫と弁天様の血筋なのだ。
九州と近畿にはほぼ同時に日本の歴史の萌芽があったのだよ。
だから、魏書の景初3年の卑弥呼と、それより前に出てる年号のない卑弥呼は別の卑弥呼。
姫巫女職=卑弥呼だから、どっちにも卑弥呼が居たというのはそういう事。
出土する遺物、青銅器生産にかかわる錫、水銀砂の一ランク上の精錬技術は、祖が同じだから出来たこと。
青銅製品の分布からも、近畿と奈良には同時に大きな勢力があった。 重要なのは五十猛が、異母兄弟で結婚しているという事。
物部家の祖になる彦ホホデミの妹だか、お姉さんだかを妻にしてるので
「両者はどう考えても自分らが親戚の家だと認識してた」だろうね。 だから
血筋上の@神武、A記紀上、学説上の神武、B最後の東征の神武(崇神)は別のものとして考えるべきだよ〜
A、Bを消すと尾張氏と、竜宮神話が消えて無くなる。
記紀は@を消し去ったが、竜宮神話で籠神社に関連する記述が出てくる。
そういう考えが詰まったものが記紀 上記の事柄を前提とした場合に導かれる後漢書の「帥升」は誰か?
どっちの政権か?
帥升
107年だと、第六代孝安天皇こと、国押人。
日本語のシヒにアクセントがあるのを、大陸の人が短く行書で「帥升」とした。
記紀が最も嫌ったのは魏書だが、まあこういう話も記紀的状況なわけでなんとか誤魔化すことにした。
日本書紀に出てくる大王ヤマトタラシヒコと、その兄アマタラシヒコ
古事記では国押人は一人で兄が居るとは書かれていない
そして兄の国押人が使いとして後漢に行ったことにした。
まあ、海幸彦も山幸彦もスサノオの子孫だから当たらずとも遠からずという事で。 近畿のヤマトが九州より先に朝貢してたのは事実だよ〜 >>467
>当然の事だ。年輪年代も土器編年も絶対性はない。
この無知後期高齢者さん、絶対性って言葉の意味を知らないんじゃ・・? >>484
という事で現在でも籠神社の社宝が、前漢鏡(約二千年前)、後漢鏡(約1950年前)になってる。
中津鏡、辺津鏡と名前がついている内行花文鏡
それと元伊勢である籠神社だが、ヤマト姫が太陽と月の女神を奉じてと書いたが
あの神社には、外宮元宮もある。それが奥社の眞名井神社
雄略天皇の時代に伊勢の下宮に遷宮したというのが籠神社の説明 大津宮があったのかって?
なら魏志倭人伝なんかも記事には書かれているが遺跡がでないからほんとにあったのか?って疑うレベルの話やで >>471
>・・・狗奴国は女王国連合体河内。
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、バツ。 >>477
>狗奴国は東海地方を勢力圏に収めていた…
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、バツ。 >>480
>タタライスズヒメが三輪山祭祀の本当の最初の姫巫女(卑弥呼)
巻向遺跡が出来る前の話だよ
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」であるから、バツ。 いくらお経を唱えても、死んだ九州説は生き返らないよ >>481
>・・・九州と近畿にはほぼ同時に日本の歴史の萌芽があったのだよ。
出雲が先に「国引き」建国をしており、
それから九州倭國の「東征毛人五十五國」が始まる事になるから、バツ。
>だから、魏書の景初3年の卑弥呼と、それより前に出てる年号のない卑弥呼は別の卑弥呼。
歴代中国史書群では、
卑弥呼は一人だ、として書かれているから、バツ。 >>483
>だから
血筋上の@神武、A記紀上、学説上の神武、B最後の東征の神武(崇神)は別のものとして考えるべきだよ〜
神武は、大和の始祖として記紀に描かれており、一人だから、バツだよ。 卑弥呼はヒメミコでは無いだろ、卑弥弓呼素はヒメ弓呼素じゃないだろ?30か国の共立国だが首都は男王立つで同じ畿内だろ、新たな教団の内輪揉め、五斗米道と太平道。箸墓と河内 >>480
>タタライスズヒメが三輪山祭祀の本当の最初の姫巫女(卑弥呼)
巻向遺跡が出来る前の話だよ
十数年前からヒミコ=ヒメ(蹈鞴五十鈴)后といってるわしはもちろん賛成なんだが、
三輪山というのは古来から三角錐の典型的神南備で信仰対象であったと思うが、
崇神以降、その信仰の形を変え大物主を祀ってるだろ。
それはそれまでの「主=大物主=阿田賀田須」を崇神が殺したからだ。
その怨霊封じのために大神神社が建てられる。
崇神は大物主の怨霊が怖いのか、手元にあった鏡を放逐、
それが今も20年に一度「式年遷宮」という形で彷徨い続けるのが伊勢神宮。
また山陰出雲では出雲振根が殺されその怨霊封じのために出雲大社が建てられる。
そして出雲の神宝が奪われる。
それが今も皇室に受け継がれる三種の神器の一つ「八尺瓊勾玉」だ。 >>497
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。 @阿波 「壬申の乱」での大海人皇子 吉野挙兵行軍
・奈良吉野の宮→→岐阜県不破関(吉野の険しい山越えで、しかも女人連れ)4日間で170km走破
・4日間で手勢30人→3万人に急増兵」
常識的に考えて、これは不可能である!
ちなみに、16世紀の整備された主要街道行軍の「秀吉中国大返し」ですら「備中高松城→山城国山崎 230km 10日」である。
壬申の乱の舞台も、もちろん「阿波」での出来事。
こういう単純素朴な指摘が出来るのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>493
>いくらお経を唱えても、死んだ九州説は生き返らないよ
おいキナイコシ、勘違いするな。
お経というのは生き返らせないために唱えるのだww
神社のしめ縄もそうだ。祀っている神々の亡霊が、生き返って出てこないことを願って張り巡らすのだww 「万葉集(巻二ー 一五三)の大后の御歌では
鯨魚(いさな)取り 近江(淡海)の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る舟 辺(へ)付きて 漕ぎ来る舟
沖つ櫂(かい) いたくなはねそ 辺つ櫂 いたくなはねそ 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ
ここで歌われている「いさな」とは鯨の古称。鯨が滋賀県大津に隣接する琵琶湖に生息しているのだろうか。
ここの「近江(淡海)」とは紀伊水道の「淡海(阿波海)」なのである。 @阿波 本来、「淡海」とは「阿波海」のこと。
そもそも通説とされる滋賀県の「大津」は、平安遷都の際に「大津」の地名が誕生している。
よって天智天皇の時代には滋賀県(近江)に「大津」の地名は存在しおらず、現在の通説では不都合が生じてしまう。
「山背を山城と改め新京を平安京と名付ける、また近江の古津を大津と称する」 とあり、
天智天皇が六六七年に淡海の大津宮を拓いた当時、滋賀県大津はまだ存在していない。
近江=「淡海」とされているが、これは後世の解釈によって誤認されているだけ。
本居宣長も、「あふみ(淡海・近江)は「阿波宇美(あわうみ)が切(つづ)ま」ったものと説き、
また記紀にみえる淡洲(あわのしま)・阿波国(あわのくに)・淡島・阿波島(あわしま)の用例や、
淡路島の名の由来が、阿波への道(阿波に至る途中の島)の意味から、「淡海」は「阿波海」が転記されたもの。 @阿波 >>484
>上記の事柄を前提とした場合に導かれる後漢書の「帥升」は誰か?
どっちの政権か?
帥升 107年だと、第六代孝安天皇こと、国押人。・・・
帥升は、九州の倭國王であったように書かれており、
また「天皇」なんて、全く存在していなかった時期だから、
大和の「第六代孝安天皇こと、国押人」の比定は、バツ。 >>485
>近畿のヤマトが九州より先に朝貢してたのは事実だよ〜
大和は、元は毛人縄文人と出雲銅鐸祭祀系との混合地であったのであり、
それを、九州倭國の「国生み神話」や「東征毛人五十五國」に拠って征服されて、
旧小国の附庸國になっていたのであるから、
「ヤマトが九州より先に朝貢してた」は、バツ。 >>487
>現在でも籠神社の社宝が、前漢鏡(約二千年前)、後漢鏡(約1950年前)になってる。
中津鏡、辺津鏡と名前がついている内行花文鏡
それと元伊勢である籠神社だが、ヤマト姫が太陽と月の女神を奉じてと書いたが
あの神社には、外宮元宮もある。それが奥社の眞名井神社
ふーん。
「元伊勢」の「伊勢」は、やはり、伊都国の糸島の「伊勢」だったんだろうなあ。
雄略天皇の時代に伊勢の下宮に遷宮したというのが籠神社の説明 だから書記なんかに書かれている場所には武家の連中らが積極的に進出して占領したんだって
後世な 吉備なんかは渡来人伝承があるから亡命者らの渡来地として選ばれたし源氏の東国の拠点となった八幡庄は古代東国の拠点やし出雲は嵯峨源氏が抑えたし >>493
いくら史料事実や史料実態を否定抹殺して、
皇国史観宗教的なお経を唱えても、
死んだ大和説は生き返らないよ 九州八幡宮があるとこには信濃源氏の小笠原氏が配置されてるし名所はすべて抑えていた >>496
>卑弥呼はヒメミコでは無いだろ、卑弥弓呼素はヒメ弓呼素じゃないだろ?
30か国の共立国だが 首都は男王立つで同じ畿内だろ、
新たな教団の内輪揉め、五斗米道と太平道。箸墓と河内
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料実態に拠って、バツ。 >>497
>>タタライスズヒメが三輪山祭祀の本当の最初の姫巫女(卑弥呼)
巻向遺跡が出来る前の話だよ
>十数年前からヒミコ=ヒメ(蹈鞴五十鈴)后といってるわしはもちろん賛成なんだが、・・・
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、
「卑弥呼、大和説」はバツ。 >>506の訂正
>>487
>現在でも籠神社の社宝が、前漢鏡(約二千年前)、後漢鏡(約1950年前)になってる。
中津鏡、辺津鏡と名前がついている内行花文鏡
それと元伊勢である籠神社だが、ヤマト姫が太陽と月の女神を奉じてと書いたが
あの神社には、外宮元宮もある。それが奥社の眞名井神社
雄略天皇の時代に伊勢の下宮に遷宮したというのが籠神社の説明
ふーん。
「元伊勢」の「伊勢」は、やはり、伊都国の糸島の「伊勢」だったんだろうなあ。 >>505
先代旧事本紀読みましょうね?いい子だからw 「皇祖に係わる大女王 豊玉比賣命」
御毛沼命(三毛入野命)は鵜草葺不合命の息子で、神武天皇の兄にあたる。
御毛沼命の母:玉依姫神 姨:豊玉姫 父:鵜草葺不合命 弟:神倭伊波礼琵古命(神武天皇)
御祭神を豊玉姫命とする豊玉姫神社(とよたまひめじんじゃ)は、各地に鎮座しているが、
同名の延喜式式内社は全国で唯一、阿波国のみにある。
式内社「豊玉比賣神社」が阿波だけにあることから分かるように、もちろん豊玉比賣は阿波の神である。
他国には、豊玉比賣の名を冠する式内社はないにもかかわらず、
阿波には「和多都美豊玉比賣神社」「天石門別豊玉比賣神社」と、二社もある。
古事記にも、皇祖に係わる大女王として豊玉比賣の物語がはっきり記述されている。 @阿波 全国で唯一、饒速日命の孫「天村雲」を祀る「阿波国式内社 天村雲神社」(徳島県旧麻植郡)。
延喜式神名帳には麻植郡天村雲神伊自波夜比売神社二座とある。
その論社が徳島県旧麻植郡山川町村雲にある「天村雲神社」である。
祭神は,「天村雲命」と「伊志波夜比女命(いしはやひめ)」の二柱である。 @阿波 伊勢神宮で天皇皇后両陛下の「親謁の儀」が外宮で執り行われた。 翌日、内宮で執り行われる。
やはり、外宮が優先か。
「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。 @阿波 阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、
6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。 @阿波 「伊勢大神」というのは「天照大神」を指していて、
穀物神である豊受大神を祭神とする外宮「豊受大神宮」の記録 『豊受皇太神御鎮座本記』に、
この「伊勢大神」=「天照大神」の記述があるのは、非常に不自然である。
つまり、「豊受大神」(外宮)=「伊勢大神」=「天照大神」(内宮)ということか。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>494
出雲が先なのはあってるが、国譲り事件はその後でしょ。意味わかってないで書いてるだろ >>495
記紀での神武は別だと書いてるだろ
その回答が記紀にはって頭おかしいとしか。
人間の会話になっていない >>496
卑弥弓呼素
開化天皇の息子の代のヒコイマスと言われてる。
漢の人。
もちろん卑弥呼ではない。 >>515
>先代旧事本紀読みましょうね?いい子だからw
先代旧事本紀は、後代の記紀や他の旧家の伝承や系図と同じく、どうしても、
魏志などのような「同時代の中国の役人らに拠る実地の見聞計測の記録」よりも、
客観性や信頼性が落ち、確率が低い「半分バツ書」的である場合が多く、
若い頃は「いつかは読もう」と思った事もあるが、
後期高齢の今となっては、そんな時間も暇も気力も体力もなく、
もう読む事はないだろう、と思う。 >>497
三輪山祭祀は元々出雲の太陽の女神と、事代主が祀られていました。
そこから女神が移動して、事代主のみ残りました。
戦乱が治まった後は太田氏が祭祀を再開します。
だから今現在は事代主が大物主に変えられ、男神のみになっています。
アタカタスは、国引き神話の第6代大国主オミツヌの次男で、宗像家の祖です。
物部氏はアタカタスを無くしたりはしません。
三輪山は怨霊の神様ではありませんよ。
出雲大社の前身の杵築大社は、国造職が廃止され、失職を恐れた千家が東西出雲王家に頼んで作ってもらった神社。
資金の大半は東出雲王家。
敷地と資材は西出雲王家。
上官職筆頭は西出雲王家。
千家は雇われる神主でした。
神話だと立派な社を作ってくれば黄泉の国を管理しますとなってるけど、自分たちで作った神社。
三刀屋神社に祀ってた大国主をあそこに移した。
出雲大社は怨霊じゃないよ。
怨霊に感じるのは悪さをした一部の人たち。殆どの人には関係ない。
千家にとったら怨霊だということだろうね。 >>504
伊都国が太宰府と同じでヤマトの出先機関だろ
今更ナニを?w >>508
先代の出雲伝承者は、出雲と吉備戦争を、葛城とヒボコの朝鮮系が習合した勢力だとしていたが、時間的にそんな余裕はないから基本的には吉備単独の戦争。
ヒボコは、それからスサ族と習合が進んだ。 >>504
天皇呼称なんて後からつけてものだろ。そんなこと分かり切ってることだろ。
系譜が後から作られたからそれに当てはめてるだけ。
あなた大丈夫か? >>524
間違えた
漢の人。 →男の人。男と入れると漢が出ちゃう >>525
それ読んでからじゃないと無理。
インターネットに原文と読み下し文くらいあるから読まないのは✖
物部氏が尾張家など、一般論から外れるけど、他の家の家系図を残していること自体が重い。 出雲地方には生馬神が祀られている
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている
出雲風土記かな、生馬神の子はもう荒ぶらないと言ったとか
火の神っぽい
生駒の神と同じじゃないか >>527
だから国押人は、九州の人ではない。
その出先機関から大陸に渡った。
この時点で一応、名目上はヤマトがキチンと国の代表を公式にはやってる訳だ >>534
生馬神って、物部イクメに見えちゃいますね >>504 > 帥升は、九州の倭國王であったように書かれており//
頓珍漢な返信なぞ付してないで、少しはモノを考えな。
フリーメーソンを九州王朝国に置き換えてるだけのオカルト莫迦には無理だろうがね。
・魏志では時期不明の倭国大乱を、何で後漢書は桓霊の間、と特定したのか?
・地域王である倭奴国王と違って、帥升のタイトルが倭國王なのは、なぜか?
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601272756/219
>「天皇」なんて、全く存在していなかった時期だから//
ならば、どういう家柄が存したと書かれてるかでも考えな。 >>517
饒速日命の孫「天村雲」って書いてる時点で先代旧事本紀。語るに落ちてる。
阿波には独自の歴史を残す視点が全く欠けており、後出しジャンケンで吠えてるだけ。
朱砂ですら大和とは千年の差があるのに、ウリたちが一番最初ニダとか言ってる。
この方向性は@阿波だけじゃないんだよなw 繁栄を極めていた島根の神庭地方の遺跡は、紀元前後に営みを終焉
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が畿内各地で出ている
神庭地方の人々を追いやった集団がいたんじゃないのかな?
イザナギなのかイザナミが産んだ火の神なのか >>537
ふ、フリーメーソン?お、おう・・
頑張りなw 途轍もなく高い社を建てたり、20年に一度建て替えたり
その地域の人に莫大な負担がかかる
荒魂を鎮魂する為に科せられた労働、罪滅ぼしかもしれん
想像だが >>538
>独自の歴史を残す視点が全く欠けており
トンデモ畿内説は、独自の妄想を垂れる才能が備わっている。 わははははは @阿波 >>540 > ふ、フリーメーソン?お、おう・・//
九州王朝ヨタって、要するにそれでしょ。
邪馬台国も何でもかんでもが、九州王朝のやってる事だ、てんだからさ。 鎮火祭
高天原に神留り坐す皇親神漏義・神漏美の命持ちて、
皇御孫命は豊葦原乃水穂国を安国と平けく知食せと、天下寄さし奉りし時に、
事寄さし奉りし天都詞太詞事を以て申さく、
神伊佐奈伎・伊佐奈美乃命、妹背二柱嫁継ぎ給ひて、国の八十国・嶋の八十嶋を生み給ひ、八百万神等を生み給ひて、
麻奈弟子に火結神を生み給ひて、美保止焼かえて石隠り坐して、
夜は七夜昼は七日、吾をな見給ひそ、吾が奈^背乃命と申し給ひき。
此の七日には足らずて、隠り坐す事奇しとて、見そなはす時に、火を生み給ひて、御保止を焼かえ坐しき。
如是る時に、吾が名^背乃命の吾を見給ふなと申すを、吾を見阿波多志給ひつと申し給ひて、吾が名^背能命は上津国を知食すべし。
吾は下津国を知らむと白して、石隠り給ひて、与美津枚坂に至り坐して思食さく、吾が名^背命の知食す上津国に、心悪しき子を生み置きて来ぬと宣りたまひて、返り坐して、更に子を生みたまふ。
水神・匏・川菜・埴山姫、四種の物を生み給ひて、此の心悪しき子の心荒びそば、水神匏、埴山姫川菜を持ちて鎮め奉れと事教へ悟し給ひき。
此に依りて称辞竟へ奉らば、皇御孫の朝廷に御心一速び給はじと為て、進る物は、明妙・照妙・和妙・荒妙・五色物を備へ奉りて、
青海原に住む物は、鰭広物・鰭狭物、奥津海菜・辺津海菜に至るまでに、御酒は�辺高知り、�腹満て雙べて、
和稲・荒稲に至るまでに、横山の如く置き高成して、天津祝詞の太祝詞事以て、称辞竟へ奉らくと申す。 埴山姫は河内の姫か
武埴安彦の母と関係あるのかな
下津国の与美津枚坂
大体どの辺りか見当はつくが >>545
>埴山姫は河内の姫か
もちろん、「阿波」。
【日本一社 阿波國美馬郡 延喜式式内社 波尓移麻比祢(ハニヤスヒメ」神社】
鎮座地 徳島県美馬市脇町北庄
御祭神 埴山姫神
イザナミから生まれた神様です!!
イザナミがカグツチを生んで「みほとを焼かれ」死の間際に生み出した土を司る女神であり、
『古事記』では「波邇夜須毘売神」、『日本書紀』では「埴安神」と表記する。
この神社は全国でここだけ・・・「土の神様」を祭っています!! @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/16794662/ かたや「水の神様」も「阿波」。
【日本一社 阿波國美馬郡 延喜式式内社 弥都波能賣(ミツハノメ)神社】
「八坂神社(論社)」
鎮座地 徳島県美馬市美馬町字滝ノ宮231
御祭神 素盞嗚命
創立年代不詳
弥都波能売神は、古事記の神産みにおいて、カグツチを生んだため陰部を火傷し苦しむ。
亡くなる間際のイザナミの命の尿から、和久産巣日(ワクムスビ)神とともに生まれたとしている。
すなわち代表的な「水神」である。
この「八坂神社」は、式内社「弥都波能賣神社」論社の一社。
比定社は他にも美馬市脇町拝原にある「八大龍王神社」、美馬市脇町猪尻の「建神社」、三好市井川町井内「武大神社」などがある。
「武大神社」は、「八坂神社」の鎮座地名と同じ「滝宮」と称されており、御祭神も「八坂神社」と同じく「素盞嗚尊」。
「建神社」の御祭神も「素盞嗚尊」で、それぞれの論社に共通点がある。
神名そのままの「弥都波能賣神社」という式内社は、日本で唯一阿波にしかない。 @阿波
https://momijiaoi.net/yasaka-mimatakinomiya/ 阿波の大麻比古神社
忌部氏の祖、大麻比古祀る
かつてはサルタヒコを祀っていたようだ
阿波とサルタヒコ、どう関係するのか?
出雲地方でオオナムチの前に信仰されていたサルタヒコ >>548 日本@名無史さん ▼ New! 2020/10/20(火) 12:13:53.46 [0回目]
>阿波とサルタヒコ、どう関係するのか?
「猿田彦大神」と「天鈿女命」とは夫婦であることは、日本神話に詳しい人はご存知だろう。
徳島県鳴門市にある「大麻比古神社」の祭神は「猿田彦大神」とされている。
その大麻比古神社背後の大麻山には「猿田彦」を祀る祠があったという。
実はこの大麻山の隣には峰続きで「天円山(あまがつぶやま)」がある。
そして、この天円山山頂には「天鈿女命」を祀る「天ヶ津神社」が鎮座している。
「猿田彦大神」と「天鈿女命」両神は、仲良く阿波国鳴門の「大麻比古神社」背後の「大麻山」・「天円山」に祀られている。
阿波って実に面白いところである。 @阿波 毎日いともたやすく論破され引きこもるだけのキナイコシあわれ >>547
水銀の文化と関係するミズハメを恥ずかしくもなく出してくるとはwww
流石ペテンの阿波 まあ壱輿が豊玉姫は悪くないよね、この時重要なのは桃と青白玉と朱位だろうから宇和の白玉の支配拠点として宇佐はあるからな、不弥国が宇佐に繋がる所かな?。ところで不弥は文かね? >>549
天細女がトヨである事すら伝わってない阿波w
そのうちキリストの墓もできる事だろう >>548
猿田彦は古くは出雲西出雲王家、神門臣家で中心的に祀られていた。
出雲の神奈備神社とかが麓にある北山山地。
そこの鼻高山に鎮座する。
大山がクナトの大神
三瓶山が幸姫の命
御子神が猿田彦。鼻高山。
これを幸の神三神と言います。
諏訪大社も、奥出雲の熊野大社も、そして杵築大社も、これを祀ってました。
阿波は全く関係なしw >>553
>天細女がトヨである事すら伝わってない阿波w
なにをどう勘違いしたらそんな自分勝手読みができるんだい?
最早、歴史学ではなく、小説の世界だな。 わははははは @阿波 >>545
三輪山の南側、ダンノダイラの北側、荒神社の近くが埴山と呼ばれていて、岩に丸の穴が空いたものが今でも残ってる。
兵主神社の管理する白石の神域のもう少し奥にある。
埴輪の土が取れたらしい。 >>554
なにをどう勘違いしたらそんな妄想が湧いてくるんだい?
最早、歴史学ではなく、小説の世界だな。 わははははは @阿波 >>555
イヤイヤホント、歴史泥棒の気質は@阿波だけじゃないよね
阿波の遺跡や歴史を書いてるやつ、おんなじ方向性のペテン師が多いじゃん
それも大和より1000年も遅い水銀の遺跡を最古級とか平気で吠えてる
もは虚言癖のレベル。自分の嘘を嘘と認識できないレベル。
まさに朝鮮人w クナトの神は高天之原に事始めた、道饗祭の神さま
道と言えば黄泉に行ったイザナミは道敷大神として黄泉の主祭神となった
サルタヒコの母、出雲の姫神の幸神と関係あるかもな
道饗祭
高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申して辞竟へ奉らくは、
根国底国より麁び疎び来む物に、相率り相口会ふ事無くて、下より行かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守・日の守に守り奉り斎ひ奉れと、
進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備へ奉り、御酒は・辺高知り、・腹満て雙べて、汁にも穎にも、
山野に住む物は、毛の和物・毛の荒物、青海原に住む物は、鰭の広物・鰭の狭物、奥津海菜・辺津海菜に至るまでに、
横山の如く置き足らはして進る宇豆の幣帛を、平けく聞食して、
大八衢に湯津磐村の如く塞り坐して、皇御孫命を堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂御世に幸へ奉り給へと申す。
又親王・王等・臣等・百官人等、天下の公民に至るまでに、平けく斎ひ給へと、神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉らくと申す。 明治天皇が詠まれた歌にも道が出てくる
人もわれも 道を守りてかはらずば この敷島の国はうごかじ
葦原のみづほの國の萬代もみだれぬ道は神ぞひらきし >>525
そもそもが日本書紀と古事記が内容違うからね。
あれだけだと確度が低くなる。
ほぼ同じ側の人間たちが作ったものだからね 道の神、道祖神はお地蔵さんと集合
近畿地方はお地蔵さんだらけ
村の辻々、都会の道路の片隅、何処にでもお地蔵さんがある
出勤前に通学途中で皆手を合わせる
地蔵盆は今でも子どもの祭として受け継がれている
お地蔵さんほど信仰を集めている存在はない >>559
2回目の物部東征の際に出雲は滅びますが、松江市の王庭の東出雲王宮は、物部トオチネによって体制側の拠点にされます。
地名は神社と違って中々変わりません。淡路島の古い地名の残存率は9割を超え、四国は6割と言われていますので、@阿波がナニを言おうがすぐに嘘ばバレるくらい。
時代が変わり、物部が体制側から転落すると、秋上氏と名前を変えた物部氏は王宮を出雲側に返還すると申し出ますが、向家はそれを固辞。
過去を乗り越えてこれからは協力していこうと申し出ます。
今の神魂神社は、元のフツノミツタマを近くの剣神社に移し、出雲の幸神を名前を変えて祀ることにします。それがイザナミ、イザナギ。
記紀の話はその後にとってつけられた後付けのお話です。
剣神社の千木は友好の証であることを示し、本殿の千木が、半分が出雲縦削ぎ、半分が物部の横削ぎになってるとても珍しい神社。
よく様式を今に伝えてくれたと思う。
神魂神社はイザナギ、イザナミの一番最初の神社。
阿波がまた何か言ってきそうだが歴史は変わらない >>563
>阿波がまた何か言ってきそうだが
畿内説や九州説がいくらウダウダ言っても、「阿波」にとっては相手にならない戯言。 わははははは @阿波 >>565
>なら、他所にいけば?
もはや「勝者の貫録」も消え失せてしまったようだ。 わははははは @阿波 .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. そおいうことなんだね😑
系図が残ってれば勝ち
後期武家政権時代の連中らが尊重してくれるからね >>568
先代旧事本紀は、尾張家の家系を書いたげど、実は同じ家の先祖の家系を書いたもの。
だから書かれた >>570
もちろん、先代旧事本紀は「忌部一族」の家系を書いたもの。 @阿波 >>496
その大和の卑弥呼は、倭人伝が書いている倭国の卑弥呼じゃないんだよ。
倭国の卑弥呼は北部九州。
山門・八女に邪馬台国があったの。
くどいようだけど、大和の卑弥呼は魏志倭人伝の卑弥呼とは別なの。 >>572
このことからして、大和説の学者らが箸墓は卑弥呼の墓だろうと臭わしてもかまわんが、
それはあくまで大和の卑弥呼であって、北部九州にあった魏志倭人伝の倭国の卑弥呼とは別ものということだよ。
魏に朝貢したのはこの北部九州の倭国の使節であって大和の卑弥呼は使節を送っていないからね。 『記紀は、4世紀ころ天皇が自ら遠征して、ヤマト軍と九州軍がさかんに戦ったことを描いています。
もし邪馬台国が畿内にあったなら、すでに2世紀末には、伊都国や奴国など北九州の主要国家も、
邪馬台国の傘下に置かれているはずなのに、なぜ敵として戦うのでしょう?矛盾してますよね?』
だそうです >>498
>妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
伊勢神宮の成り立ち、大神神社、出雲大社の成り立ちで崇神による易姓革命を十分説明できるが。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 一年365日、朝昼晩このスレに張り付いて、
その結果間違えていた>>1君の人生大惨敗の原因は、
卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。
卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからその時代をとんでもない時代=BC660年に設定したのだ。
卑弥呼を隠すことは、卑弥呼から100年前の倭国王帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。
また女王国であった事実を神武東征紀という武勇伝で男王国のように塗り替えた。
そして女王と婿の関係を新称号「天皇・皇后」で男王優位に置き換えた。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。
>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜! >>580
1ってあんまりいない
一年365日、朝昼晩このスレに張り付いて荒らしてるのがお前 >>527
大和は、伊都国や太宰府などからの旧小国の附庸國であり、出先機関だろ
今更ナニを? 出先機関だったら鉄器が分布してるだろが
お前だって電化製品すらない未開の土地に赴任させられたらイヤだろ >>470
さすがに、慧眼。
この墳裾が「二段」的になってることは、これまで誰も指摘しなかったもの。
そして、この二段墳裾こそ、卑弥呼の寿陵である瀬高坂田の権現塚のコピーであることを示している。
卑弥呼は、この墳裾の最も上の方墳を載せている平坦面に葬られているだろう。
方墳はあとから付け足したものと思われる。 徐福伝説を信じてるのは呉の人だぞ
魏も西晋も否定はしてないように感じる
呉書・孫権伝抜粋
二年(略)
遣將軍衞温・諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。
亶洲在海中、長老傳言
秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海、 ←徐福
求蓬?神山及仙藥、止此洲不還。
世相承有數萬家、
其上人民、時有至會稽貨布、
會稽東縣人海行、
亦有遭風流移至亶洲者。
所在絶遠、卒不可得至、
但得夷洲數千人還。
呉の黄龍二年(230)(略)
将軍衛温・諸葛直に甲士万人を率いて浮海して夷洲および亶洲を求めさせた。
亶洲は海中に在り、長老が伝え言うには
秦始皇帝が方士徐福に童男童女数千人を率いて入海させ、
蓬?の神山および仙薬を求めさせ、この洲に止まって還らなかったと。
世々に相い継承して数万家があり、その上の人民は時に会稽に至って布を貨(あきな)う者があり、
会稽の東の県の人が海に行き、
亦た風に遭って流移して亶洲に至る者もあった。
所在は絶遠であって卒(つい)に至る事が出来ず、
ただ夷州の数千人を得て帰還した。 徐福が引き連れた数千人の子供たちが
亶洲(琉球列島?)に住み着いた伝説が
3世紀の中国でよく言われていたんじゃないか >>533
>それ読んでからじゃないと無理。
卑弥呼の時代の文献情報でもなく、はるか後代の卑弥呼に関係のない文書いようだし、
読む必要がない。
>インターネットに原文と読み下し文くらいあるから読まないのは✖
私は、インターネットもほぼ素人。
>物部氏が尾張家など、一般論から外れるけど、他の家の家系図を残していること自体が重い
遥か後代の文書であれば、半分位価値がないもの。 >>587
>>物部氏が尾張家など、一般論から外れるけど、他の家の家系図を残していること自体が重い
>遥か後代の文書であれば、半分位価値がないもの。
はい、松野連系図は半分も価値なし 徐福の2回目の出航(紀元前210年 同年始皇帝崩御)で
亶洲(琉球?)に行きは徐福に連れられた子供たち数千人が住み着く
(派遣から440年経って)亶洲(琉球?)には代々継承して数万の家がある
亶洲(琉球?)の人の中には会稽に来て布を売る人もいるし
会稽の人が漂流して亶洲(琉球?)にたどり着くこともあった
呉の将軍の衛温と諸葛直は亶洲(琉球?)にはたどり着けなかったが
夷州(台湾?)の数千人を得て帰還した。
これを魏志倭人伝と組み合わせる
徐福に同行した子孫の数万の家がある亶洲(琉球?) → 投馬国 5万戸
数千人を連れ帰った夷州(台湾?) → 邪馬台国 7万戸 おそらく3世紀の中国人は邪馬台国が台湾にあると信じてた >>537
>・魏志では時期不明の倭国大乱を、何で後漢書は桓霊の間、と特定したのか?
倭国大乱なんて存在せず、後漢書の「自己解釈による誇大な表現」であり、
「桓霊の間」も、後漢書の自己解釈による失敗記載。
。
>・地域王である倭奴国王と違って、帥升のタイトルが倭國王なのは、なぜか?
それぞれ、倭地からの遣使が「倭奴國」と名乗り、
「倭國王」と名乗った者もいたから。 三国志(歴史書)全65巻で記述に矛盾が生じないように
3世紀当時の中国人の常識に当てはめたと思われる
亶洲(琉球?) → 投馬国 5万戸
夷州(台湾?) → 邪馬台国 7万戸
とりあえずひとつ言える事は
対馬や壱岐や唐津や糸島市や福岡市と
この周辺から陸行一月でいける距離に邪馬台国はない
てことが三国志(歴史書)には書かれていると言うこと >>592 > 失敗記載 乗った者もいたから//
そんな頓珍漢ではどう仕様もないよ、阿呆。 徐福だ!松野だ!
一気に中卒パッパラパーの世界へGO!GO! >>579
基本的なデータ収集でミスしてる。
黒塚古墳からは刀や槍、鏃などが出ていて、これらの副葬品は被葬者が男性であることを示している。
卑弥呼は女性だから、黒塚は無理。
また、高尾山古墳は沼津にあり、大和の纏向には東海と関東の土器が多数出土しているので、大和の連合に加盟している東海の国である沼津の高尾山の古墳被葬者が大和に攻め込むストーリーは、無理。 >>596
霊感が言ってる答えがそれだから仕方がない
あきらめなさい 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>596
奈良県天理市の黒塚古墳は、「三角縁神獣鏡」や「水銀朱」などの副葬品から、倭国(阿波)の「忌部はん」のお墓だと一発で分かる。
静岡県沼津市の高尾山古墳は、「蛇紋岩製勾玉」や「水銀朱」などの副葬品から、倭国(阿波)の「忌部はん」のお墓だと一発で分かる。 @阿波 >>600
おっしゃる通り
霊感を使っても一番難しかったのが投馬国
オレも最初はみんなが言ってる鞆か出雲かと思ってたんだよ
ところが霊感が言ってくるのは岡山のタマ、タマ・・・
何度聞いても頑なに、岡山のタマ、タマ、そればかり
だから地図で岡山の玉を見てみたんだが、近くにそれらしい遺跡がないんだよね
霊感が何が言いたいのか半年くらい分からなかったんだよ
で、神様のお導きなのか昔の岡山の海岸線の地図を見つけて、
ようやく霊感の言っている意味が分かったという訳
投馬国は本当に難しかった 三国志(歴史書)の呉書と照らし合わせると
魏志倭人伝は連続説で書かれていることがわかる
連続でないと夷州(台湾?)に着かないし
>その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。
これにも合致しない
なので放射説は否定されて
邪馬台国が九州北部てのだけは否定できる 【佐賀】鏡から探る邪馬台国の謎…吉野ヶ里歴史公園フォーラムで3氏講演、討論 「年代論の解決が邪馬台国論争の決定的な課題」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1603192213/ >>599
阿波さんそろそろいい加減にしたら?
誰も幸せにならない嘘ばかり。世の中に悪意を振り撒くのやめたら?人間のすることじゃないよ
三角縁神獣鏡は、武内宿禰が絡んで日本国内で、呉の三角縁仏獣鏡の技術を使って、国内生産で大型化を実現した和鏡。
畿内で爆発的に発掘されるが阿波は数枚しか出てこないだろ >>587
記紀だと作為が大きすぎるからダメだって話なのに、記紀の内容を出すだけならここにいる必要ないだろww >>583
だから、朝貢の時の伊都の長官は地元の物部氏じゃん >>595
激怒先生、今日はまだ私は徐福ってませんww >>570
ホォ、なるほど、徐福は忌部だったのかw >>562
お地蔵さんや道祖神と習合していったとする話は、出雲本を書いた人も言ています。
凄いですね、どうやったらそこまで見当つけれるんですか? >>584
倭人伝は、卑弥呼の殉葬者を百余人としており、祇園山では60余人の墓が見つかっているそうだ。
その差し引き約40人はどこに消えたか。
祇園山の方墳があとから造られたものだとすれば、残りの約40人はその方墳の下にあると考えることが可能だ。
とすると、卑弥呼の棺はその方墳の下の中心点あたりにあると考えられるから、
残りの殉葬者約40人はその卑弥呼の棺の周りにびっしりと取り巻くように埋められていることもあり得る。
こうしたことを考えると、祇園山古墳の実に壮観な一大パノラマ状の卑弥呼の墓が浮かび上がってくるな。 んなら徐福集団が居着いたのが阿波か?
なんせ忌部発祥の地やけ .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>610
祇園山は卑弥呼の墓なら20m程度と小さすぎ
周りの墓も年代がバラバアrで複数の時代に跨って徐々に埋葬されたものと判明してるので
殉葬の跡とは見なされてないね >>1は反論できないと相手を荒らし呼ばわりするらしい >1ってあんまりいないと言い、
まるで自分が>>1ではないかのように装いながら、
>>580に即レスwww >>601
投馬国がどこか、そうむずかしく考えなくても正解は簡単。
有明海を南下して二十日舟で行くのだから、
おおむね薩摩の阿多が投馬国。
投は殺の誤字だとすれば、殺馬は薩摩。
ぴったんこじゃん。 >>616
葛城先生は、>>1ほど理屈ぽくないよ。 >>613
須恵器などはさすがに後の代のものだけど、棺はおおむね3世紀だろうね。
20m程度の方墳は、後に付け足したものじゃないの。
三角縁云々の話あるしね。 九州の伊都がさ、後の大宰府のようにヤマトの出先機関であったことはまあ、他の方にもある程度の認識としてあるわけだよな?
じゃあ、どういう事か少し考えたらって事で。
・九州都万にヤマトの出先機関があった。
つまり、朝貢の出先の拠点なわけで、この時点でもうヤマトが先に朝貢してるって事じゃん。
・大陸の史書にあるように都万の長官「ニギ」が居た。
つまり、ヤマトは物部氏だろうが何だろうが、使える奴は採用して仕事をさせてたって事じゃん。
雇ってる主体はヤマトでしょ。
九州はヤマトの朝貢を真っ先に知ることができる立場だよな?
なんせ、物部氏の長官に段取りさせてるわけだから、真っ先に情報が物部氏に入る。
・九州物部はヤマトと敵対してなかったし、大和側も疑いもしなかった。
・更に魏に朝貢した際の返礼品の受領は本人が必ず来るしきたりになってた。
だから、ヤマトの人間のお偉いさん本人を迎えて大陸の使者にあったのは都万だよな?
情報のみならず、物部氏の目の前でお偉いさんを見てきてるわけだw
物部氏が東征を行う際に行った朝貢、使った拠点も当然、都万になるわな?
じゃなきゃ邪馬台国なんて書かれないよ。ほかの処からくるわけには行かない。
都万は、本土防衛のために、外国人が好き勝手に王都に入らないようにした、まさに大宰府。
ここから大陸に行かなきゃ意味がない。
物部氏はヤマトの対外政治の動向を真っ先に知りうる立場にあったのだよ。 >>617
はぁ??
オレのはホンモノの超能力を使った答えだよ
妄想のあんたとは違う >自郡至女王國 萬二千餘里
一万二千余里は帯方郡から邪馬台国までの距離ではなく
女王国30ヶ国連合で一番北にある奴国までの距離を表してる
でないとこれ↓と合わない
>計其道里 當在會稽東治之東 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>431
>>奈良県立橿原考古学研究所自体は築造時期を
280〜300年(±10〜20年)と推定しており、
卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。
箸墓被葬者は崇神陵墓でほぼ間違いがない行灯山古墳(布留1式)の前代。
崇神より大きな墓を造れた人物である。
いや崇神が自分の墓はこの人より小さな墓で結構と恐縮したほどの人物である。
山代の五塚原古墳、大阪交野の雷塚古墳は箸墓古墳と同型のミニチュアサイズと言われている。
時代も箸墓と同時代である。
崇神の前代、山城、交野、この3つのキーワードで箸墓被葬者は判明する。
それは崇神の叔父である神班物者(かみのものあかつひと)ことイカガノシコオである。
イカガノシコオは崇神の一世代前になり、
イカガノシコオの妻の真木姫は先代旧事本紀によれば山代県主の祖・長溝の娘とある。
またイカガノシコオと真木姫の子・タベノスクネは同じく先代旧事本紀によれば交野連と明記されている。
崇神の叔父である事、そしてその時代、肉親が山城や交野が地盤であるという地域性、
これらを考慮すれば、箸墓古墳被葬者はイカガノシコオ以外にはあるまい。 以前、徐福の先遣隊であるホヒがタケヒナドリと一緒に出雲王の前に出て、クヨウに似たものを差し出したと書いた。
実際には編鐘というものだったらしい。こんな感じ。
https://www.afpbb.com/articles/-/3245505
後に崇神記60年「出雲の宝とやらを見てみたい」と詔して出雲神宝事件が起きる。
その際の神宝が編鐘だったらしい。
この宝を捧げる、お気に召さなければ倭国好みに作り替える。そうホヒたちは申し出たらしい。 米子市淀江町の稲吉角田遺跡からは、木につるされた同鐘らしい絵が描かれた大型の弥生式土器が出土している。 >>626
>後に崇神記60年「出雲の宝とやらを見てみたい」と詔して出雲神宝事件が起きる。
その際の神宝が編鐘だったらしい。
おかしいね、崇神が出雲の神宝を奪ったのだから、
崇神の末裔である現皇室にも受け継がれているはずだろ。
現皇室が編鐘とやらを受け継いではいないね。
出雲といえば太古から勾玉作りが盛んだ。
実際、出雲の西谷3号墳墓からは大きな翡翠の玉、コバルトブルーのガラスの勾玉が見つかっている。
つまり出雲振根が奪われた「神宝」とは大きな勾玉であろう。
それは現皇室にも受け継がれている。
それが三種の神器の一つ「八尺瓊勾玉」である。 西谷墳墓群は出雲振根の出雲王統の墳墓であろう。
そしてここでも大和三輪山の大神神社と同じことが行われている。
征服者側が、被征服者の怨霊が祟らないように崇め祀っているのである。
「祟(たた)り」を怖れ「崇(あが)める」のである。
それが出雲大社であろう。
出雲大社で祟らぬように今も祀られているのは神宝を奪われ殺された出雲振根の荒魂である。 >>628
確か、出雲の神宝も約十くらい。
物部の宝も十。
そして、ヒボコの神宝も同じくらいの数じゃなかったっけ?
どのみち一部しか伝わってないと思う。 >>625
>いや崇神が自分の墓はこの人より小さな墓で結構と恐縮したほどの人物である。<
だから臺与こと百襲姫だろ
百襲姫は優れた予知能力者で武埴安彦の謀反を事前に予知し、崇神は事無きを得た
百襲姫は崇神が元服すると皇位を崇神に譲り、自らは巫女として余生を捧げた人
崇神は百襲姫にだけには頭が上がらない 一方、瀬高町坂田の権現塚は広い周濠を持っており、福岡県屈指の円墳とされている。
このあたりは、日本書紀の神功皇后紀で田油津媛という首長がいた山門郷と同一の場所とみられており、
この田油津媛は魏志倭人伝の卑弥呼と非常に似た背景に描かれている。
この山門を倭人伝の卑弥呼の祭祀所のあった所とした場合、この権現塚は卑弥呼の寿陵であった可能性が出てくる。
瀬高町教育委員会は権現塚を5世紀の築造と推定されているとしているが、
墳丘などの調査はされていず、あくまで推測であり、確定したものではないようだ。
卑弥呼の寿陵であった可能性は残っているのである。
そして、権現山の周濠と円墳のサイズは、久留米の祇園山の墳裾下裾と上裾のサイズがほぼぴったり合うことから、
山門から避難して御井の地で急死した卑弥呼の墓として、寿陵の権現塚と同サイズに急遽造られたが祇園山だったという構図を描くことができるのである。
おそらく、間違いないだろう。 山門は江戸時代でも国学者が詐欺ババアがいた土地と考えたくらいだから
被差別地域のような土地だろうな >>630
>確か、出雲の神宝も約十くらい。
>物部の宝も十。
それは大変面白い指摘だ。
十種の神宝か。
ただし出雲は鏡文化ではないから、もともと物部が持ってた物と合わせたのかもしれない。
どちらにしても三種の神器「八尺瓊勾玉」は崇神に奪われた物だ。 >>631
>>いや崇神が自分の墓はこの人より小さな墓で結構と恐縮したほどの人物である。<
>だから臺与こと百襲姫だろ
なんで臺与が百襲姫なんだ、名前が全然違う。
時代も違う。
崇神は仁徳、応神、仲哀、成務とさかのぼってきて4世紀初から前半で決まり。
あと纏向古墳群の瀬戸内の強い要素と百襲姫の関係は説明ができない。
イカガノシコオならそれができる。
かつて複数の瀬戸内集団を引き連れて大和入りしたニギハヤヒの末裔だからだ。 >>632
>瀬高町教育委員会は権現塚を5世紀の築造と推定されているとしているが、
墳丘などの調査はされていず、あくまで推測であり、確定したものではないようだ。
墳丘などの調査というか、土器の表面採取くらいはしてるはず。
それは違法ではないからね。
その結果が5世紀と出たのだろう。
権現塚を卑弥呼の墓にすることは無理です。 >>632
>そして、権現山の周濠と円墳のサイズは、久留米の祇園山の墳裾下裾と上裾のサイズがほぼぴったり合うことから、
祇園山に墳裾下裾など無い
完全なデッチ上げ
これだから九州説は醜い >>636
>土器の表面採取くらいはしてるはず。
まあ、墳丘を掘った結果ではないから、「5世紀とされたものと推定されています」と言っても、アバウトすぎて根拠なしとおんなじだろう。
しかも、これまでの古墳調査では、当初知見から1世紀くらいの誤差のある結果が出るのはごく普通だし、権現山は実際に墳丘を掘ってみんことにはなんともいえんな。
ただ、その地が山門だけに、福岡県随一の円墳の築造時期が卑弥呼の寿陵の3世紀半ば頃と出る確率は低くないよ。 >>637
>墳丘下裾など無い
とは言っても、その下裾上部から西新式の甕棺が出てるんだから、その下裾や上裾が3世紀中頃の築造の可能性は高い。 >>634
十種の神宝なら本来ならば石上神宮になければならないが、全部散逸している。
そして自称十種の神宝を持っているのが秋田物部氏。
秋田物部氏の本には、何とかの玉の白黒写真が出ている。 >>639
>>墳丘下裾など無い
>とは言っても、その下裾上部から西新式の甕棺が出てるんだから、その下裾や上裾が3世紀中頃の築造の可能性は高い。
下裾なんて場所は実在しないんだから、最初からあり得ない妄想だ
そして西新式は3世紀末〜4世紀初頭まで続いてて末期の特徴ある甕棺なんだから
3世紀中頃の築造の可能性なんて無い >>641
>下裾なんて場所は実在しないんだから、
祇園山古墳の平面図をみれば、北側の墳丘底面の左端から等高線を4つ上に登る道が見える。
この道を登り切ったところに小さな平坦面があり、この平坦面と同じ等高線上の広い平坦面がその右側に見える。
また、道を登り切ったところの平坦面の等高線を南側にたどると、棺が二つ埋納されている平坦面に出る。
そこからさらに南側へぐるっと同じ等高線をたどると、棺が1つ埋納されているところを通り、その先は別の山へつながる場所に行き着く。
この等高線が墳裾の下と上を分ける段状の箇所だろう。
そして、この段状をなす等高線より上の裾部におおかたの棺が埋納されていて、下の裾部にはそれよりはかなり少ない数の棺が見える。
この等高線を境に棺の数が分かれていることは明らかであり、棺を埋葬した人たちもその段状部によって下と上を区別する意識を持っていたように見える。
このように見ると、墳裾は下と上の二段の築成となっていたと考えるのが妥当だ。
この段分けは、墳丘斜面の安定のためでもあったのだろう。
宝賀氏が言うように、墳裾は二段に築成された可能性が高い。 >>641
祇園山古墳の西新式甕棺から出た鏡片は、画文帯神獣鏡のものだそうだ。
この画文帯神獣鏡は、三角縁神獣鏡の前に用いられたものだという。
三角縁神獣鏡は3世紀後半後葉から現れてくるとされるので、その前の時期の3世紀後半前葉以前がこの画文帯神獣鏡の時期ということになる。
こうしたことからして、この画文帯神獣鏡片が副葬されていた西新式甕棺が4世紀のものであるということは、まず考えられない。
祇園山が3世紀中頃の築造だとするウィキの時期設定は、妥当だというほかない。 >>589
>>遥か後代の文書であれば、半分位価値がないもの。
>はい、松野連系図は半分も価値なし
いや、記紀も風土記も万葉集も松野氏姫氏系図も東日流などの和田家文書群も、
何らかの真実情報を伝えている部分もあるのであり、
個々の記録の信頼性や確率を十分史料批判して採否を決めるべきもの。 >>625
>これらを考慮すれば、箸墓古墳被葬者はイカガノシコオ以外にはあるまい。
だから、イカガノシコオは「阿波」の忌部の郷で、大事に祀られている と、何度言えばw @阿波 「物部氏」「蘇我氏」「葛城氏」の祖神とされている「伊加賀志許賣命・伊加賀色許雄命」が
日本で唯一、阿波國旧麻殖郡 「伊加々志神社」で祀られている。
このことから、物部氏の本貫地が、旧麻植郡周辺である可能性が高い。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外にはどこにも存在しないのである。 @阿波
延喜式式内社「伊加々志神社」https://sueyasumas.exblog.jp/10039623/ 日本人の遺伝子を「47都道府県レベル」で初めて解析することに成功
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1603219355/
四国・近畿がもっとも渡来人の遺伝子に近かった 八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。 出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、
タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。 @阿波 3132座の式内社の中に、
これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社 等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。 @阿波
https://awanonoraneko.hatenadiary.com/entry/47852915 「伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせた菊理媛神を祀る阿波」
阿波市 阿波町勝命北に鎮座する「勝命神社」
御祭神は菊理媛命(くくりひめのみこと)
「阿波誌」に、「菊理祠勝命村に在り、旧事記に云ふ伊奘諾伊弉冉二尊、泉津平坂に相争ふ。菊理媛神白す事あり伊奘諾尊聞きて之を善とす」とある。
なんと、伊奘諾尊と伊弉冉尊が泉平坂で相争ったとき、二人を仲裁した菊理媛神(くくりひめのかみ)が、阿波市阿波町で祀られているのである。
なんでこんなマイナーな神様を阿波で祀る必要があるのだろうか。 後は推して知るべし。
http://goutara.blogspot.com/2012/11/blog-post_29.html
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外にはどこにも存在しないのである。 @阿波 記録によれば、九州にいた倭人は呉越の末裔であり、畿内の渡来人とは別種
渡来ルートが複数存在した証拠である
(当たり前だが)
科学的事実
【人類学】東大、都道府県レベルでみた日本人の遺伝的集団構造の調査結果を発表 [すらいむ★]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1602838706/ >>642
>祇園山古墳の平面図をみれば、北側の墳丘底面の左端から等高線を4つ上に登る道が見える。
見えるわけないだろう
九州説のやつは平気でウソつくんだな
墳丘底面は四角く葺石の残る標高55mあたりだ
もそ、そんな「墳丘底面」が実在するというなら標高何mだか言ってみろ
言えないだろう
真っ赤なウソだからだ
すぐバレる作り話をするな
だから九州説は世間から信用されないんだぞ
上にあがる道など無い 日本は1879年3月27日に琉球王国を武力併合しているから安倍内閣の閣僚は口が裂けても「沖縄は日本固有の領土」とは言えない。
事実、歴代内閣で「沖縄は日本固有の領土」と発言した閣僚は一人もいない。
もし仮にそのような発言をする閣僚が現れたら、「ではなぜ沖縄の前身である琉球王国を武力併合したのか?」と追及されて、その閣僚は沖縄県民に謝罪しなくてはならなくなるし、対応次第では辞任に追い込まれることになる。 相変わらずお互いたいした証拠もないのに
自説を開陳するだけのクソスレだな オイこのスレで言われてた事が本当だと判明したぞw
倭国(九州)と日本国(畿内)は別種w
史書に登場する倭人は呉越出身だったよなw
半島系の奥山とは別種w
【研究】日本人の遺伝子を「47都道府県レベル」で初めて解析することに成功! 四国・近畿がもっとも“渡来人”の遺伝子に近かった ★5 [樽悶★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1603232785/ これだなwww
乾燥耳垢:後期渡来人(ツングース系≒現朝鮮人)
湿潤耳垢:縄文系弥生人(本来の日本人)
https://i.imgur.com/wPgk6Bx.png
参考)
DNAの違い
https://i.imgur.com/IbqopHU.png >>423 古いよ 昭和か
> 奈良県立橿原考古学研究所自体は築造時期を
> 280〜300年(±10〜20年)と推定しており、
> 卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。
> またC14炭素年代測定法による推定は100年程度古く
> 出ることがわかっており、この墓が卑弥呼の墓で
> ある可能性は低くなっている。
ヤマト王権とは何か 奈良県の坂さん、新説で迫る 2020年3月18日
https://www.asahi.com/articles/ASN3K4D1FN38PTFC002.html
坂さんは長年、奈良県橿原(かしはら)市の県立橿原考古学研究所(橿考研)に勤め、
県内各地の遺跡の発掘調査にあたってきた。
新著では県内各地を中心とする発掘調査の成果を踏まえ、
考古学の立場からヤマト王権成立の謎に迫った。
近年、奈良盆地東南部に位置する纒向遺跡からは、
3世紀前半では国内最大規模とされる大型建物跡や、
木製仮面、ベニバナ花粉などの重要な発見が相次いでいる。
卑弥呼の墓との説もあり、最初に定型化された
大型前方後円墳とみられる箸墓(はしはか)古墳も遺跡内に位置する。
この纒向遺跡に、中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する
邪馬台国の政治中枢が置かれ、
それが発展して初期ヤマト王権が成立したとみる見方が、
考古学者を中心に強まっている。 たしかに現状ではまだ橿原考古学研究所は昭和から引き続き
箸墓を3世紀後半としたままだが
纒向石塚古墳、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳を3世紀前半として
ホケノ山を3世紀中葉にしてきてる
これらの古墳と違って中を確認できない箸墓の判断は難しいけど
昭和の分析と変わる可能性はある >ホケノ山を3世紀中葉
ホケノ山古墳を弥生時代に入れるとすると
畿内の出土した鉄製品が130らい増えるんだよな
九州との差がかなり減る 一年365日、朝昼晩このスレに張り付いて、
その結果間違えていた>>1君の人生大惨敗の原因は、
卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。
卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからその時代をとんでもない時代=BC660年に設定したのだ。
卑弥呼を隠すことは、卑弥呼から100年前の倭国王帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。
また女王国であった事実を神武東征紀という武勇伝で男王国のように塗り替えた。
そして女王と婿の関係を新称号「天皇・皇后」で男王優位に置き換えた。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。
>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜! >>662
たしかホケノ山や椿井大塚山の発掘で、鉄製品の出土量が九州を上回る、ということだったはず。
ということは平たく言えば「鉄の親方」「鉄の元締め」のような大ボスが大和入りしたことを意味する。
それがニギハヤヒであろう。
纏向古墳群はニギハヤヒの末裔・物部の墳墓である。 >>651 > 投馬を玉島とすると彌馬升は三島だな//
何で邪馬台国の事務次官が、そんなとこにいるのさ。
投馬って出雲でしょ。倭人条では邪馬台国に次ぐ規模の国と認識されてるんだし、
邪馬台国の後継王朝創始者は、真っ先に何らかの宗教政策を施したのは出雲なんだし、
日中両史料が重要国と位置づけてる国が、同一であっても不思議は無いね。
> 神武の時代か//
王朝起源をBC660に設定する為だけに作られたキャラにしか過ぎない。 そりゃ毛人以外は皆渡来だろ、毛人だって流れてきたんだろ、ところで、対海国は瀚海の対で瀚海を渡ると1の大国があるから半島から見た国々。宗像の沖ノ島は蘇と、宗像は3韓人。 吉備は桃を生産してる国なのよ、五万居ておかしくないの >>662
>ホケノ山古墳を弥生時代に入れるとすると
>畿内の出土した鉄製品が130らい増えるんだよな
>九州との差がかなり減る
そりゃそうだろう、何とかして九州との差をちじめてやろうと、無理やり繰り上げるんだからな。 >>660
建物が3世紀前半?
それ桃の種だろ?
畿内説ありきの学者は強引な解釈が多すぎるんだよ
一歩間違えば歴史捏造事件だぞ >>669
公的機関に調査されて3世紀前半とういう報告が出てる
抵抗しても無駄だ >>661
箸墓を3世紀前半とすると周壕から出た馬具も3世紀となる
畿内は3世紀既に馬を導入していたことになる
参考)馬を導入した時期
中国:4世紀初頭
半島:5世紀
畿内説はアホか詐欺w >>643
>三角縁神獣鏡は3世紀後半後葉から現れてくるとされるので、その前の時期の3世紀後半前葉以前がこの画文帯神獣鏡の時期ということになる。
>こうしたことからして、この画文帯神獣鏡片が副葬されていた西新式甕棺が4世紀のものであるということは、まず考えられない。
画文帯神獣鏡片なら柏原の玉手山6号墳でも出てるよ
3世紀末から4世紀初頭の古墳だ
祇園山を無理やり古くするのは不可能 >>673
非科学・非学問の九州説としては
学界を中傷するくらいしか打つ手が無いのは
よくわかる 桃の祭祀にヒメミコ制、天地水と漢尺に蜀漢陳寿が鬼道で五斗米道だよ >>671
>箸墓を3世紀前半とすると周壕から出た馬具も3世紀となる
ならないよ
周濠が機能停止して埋没する時期に捨てられたアブミだもの 息をするように嘘を吐く半島人がゴリ押ししてるのが畿内説なんだなw >>669
>畿内説ありきの学者は強引な解釈が多すぎるんだよ
何が「強引」なのか説明できないだろ?
つまり九州説は
理由なき反抗しか出来ない
もう負けたってことだよ諦めろ >>680
>苦しい言い訳w
何が「苦しい」のか説明できないだろ?
つまり九州説は
理由なき反抗しか出来ない
もう負けたってことだよ諦めろ 詳しく
ということは平たく言えば「鉄の親方」「鉄の元締め」のような大ボスが九州から、
または九州勢力を伴って大和入りしたことを意味する。
筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。
筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)
ほか幾多の瀬戸内集団を伴って大和入りしたニギハヤヒであろう。 >>675
遺伝学では過去の分布がどうだったか分からないし、人のフローも一切分からんの
考古学では無用の長物
だから考古学界のジャマナカ君と呼ばれてしまう >>685
遺伝学は生物学の一分野
考古学は人類が残した物質文化の痕跡の研究 >>683
トンデモ同士、もっとやれ! もっとやれ! わははははは @阿波 >>671
>箸墓を3世紀前半とすると周壕から出た馬具も3世紀となる
じゃ、仁徳天皇陵の濠に空き缶でも投げて「令和の古墳だ」と言って騒いでみろよ
馬鹿扱いされるぞ >>689
>阿波説は総勢1名
その通り。
その総勢1名に、何一つ論理的な反論が出来ず、手も足も出ないトンデモ畿内・九州。 わははははは @阿波 >>690
馬具の上の堆積物を数十年分と推測し、4世紀初頭の馬具と判断した
<箸墓古墳で馬具出土>
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
<参考>
・発見場所は周濠の底で、4世紀の土器の破片の下に埋もれていた。
・半島・日本ともにこれまで出土してきた馬具は5世紀のものが最古である。
<馬具研究史より>
樋口隆康「鐙の発生について」は、中央アジアの騎馬民族に
鐙が出てくるのは7世紀以降であるが、中国では4世紀初頭の騎人俑に
足踏みとしてのみ利用された片側だけにつけられた鐙の存在を指摘し、
中国における鐙の発生を4世紀初頭と推定した。 >>690
何言ってんだよお前w
>>692だから箸墓を3世紀前半とすると馬具も3世紀末までの物となる >>1
邪馬台国畿内説は、国家が公式に設置した機関から、具体的な証拠が全く無いと発表されたので、完全に破綻したのではないのかな。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>691
それを日本の社会では相手にされていないという 朝鮮式畿内説は破綻しましたね
もう手遅れですよ
【研究】日本人の遺伝子を「47都道府県レベル」で初めて解析することに成功! 四国・近畿がもっとも“渡来人”の遺伝子に近かった
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1603240583/ >>695
また九州説が自滅してるな
実際の放送は
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
04;00
「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。」
つまり>>695は白痴なので
九州説が完全に破綻したと主張してしまった >>699
>つまり>>695は白痴なので
>九州説が完全に破綻したと主張してしまった
このように非論理的思考しかない畿内説は破綻して当たり前ですね >>694
>何言ってんだよお前w
>>>692だから箸墓を3世紀前半とすると馬具も3世紀末までの物となる
「箸墓を3世紀前半とすると馬具も3世紀末までの物となる」という
理由は?
墓の築造と濠 の埋没は時代が違うんだよ >>700の脳は、自分が
九州説の完全破綻を主張してしまったことすら
理解できないほど
完全に破綻している >>698
畿内説は学者の通説なので全国に分布している
関西中心に日本の権力には従わないスローガンを掲げたのが九州王朝説 いろんなんは昔からある
研究者ではほぼ畿内説に絞られてきた >>698
どうりで胡散臭い話なわけだ
朝鮮式ってのは的確な表現だよ >>707
>研究者ではほぼ畿内説に絞られてきた
「阿波」だよ。 @阿波 >>706
このように、敗者九州説は実態のない遠吠えをする
負け犬だから >>658
沖縄と北海道が遠いから、母系、父系とはあまり関連してない第三の調査方法なのかこれ? 声の小さな遠吠えじゃ聞こえませんねw
> >>706
> このように、敗者九州説は実態のない遠吠えをする
> 負け犬だから >>659
すげーww
西都原、都万の都から第二次物部東征ルートにヒボコの足跡がw
播磨侵攻して須佐族と習合したヒボコの痕跡がwww
物部政権下で出雲族はそこそこイクメと仲良くやってる派閥があった
豊来入彦の軍勢を蹴散らせと言われて関東にまで進軍する。
狗奴国領土を通れるのは出雲族しかいない。
関東に居た豊国軍を上州にまで追いやった後は土着して開墾し、出雲系の国造(安房も出雲系・故に八神群になった)が
いずれ裏切られることを想定し、天のホヒの名前を家系図に入れて警戒していたと伝わる。
物部氏のヒボコ勢との習合、葛城系の一部のヒボコ系との習合は、ヒボコ勢が負けて散り散りになった伝承と緩やかな一致を示す
神功皇后が出た後の朝鮮系と武内宿祢系の政権下では、ヒボコの子孫と発言することが身を守る手段だったのだろう。
後半の物部氏、五瀬の子孫、秋田物部氏までが神功皇后やヒボコの事を尊重する伝承になってるのは身を守るための警戒だったのだろう >>659
阿波の孤立具合が分かるww
渡来人にも無視されまくりなのに、性格が起源説朝鮮人そっくりになる下地はこれかwww 畿内に政権があったかどうか、邪馬台国論の本スレでは、魏志倭人伝の時にヤマトに政権があったかどうかという事でOK? >>717
>ヤマトに政権
そもそも、そのカタカナ「ヤマト」ってなに? @阿波 >>718
じゃあアワにしてやるよ。お前はすっこんでろ。
出土物でも蚊帳の外、DNAでも蚊帳の外 711
離れてるのは縄文時代中期に起こったと思われる西日本縄文人絶滅説があるから
ほとんど火山の大噴火で西日本から朝鮮半島あたりにかけ死に絶えたらしい >>719
お前がいくらウダウダ言っても、「阿波」にとっては相手にならない戯言。 わははははは @阿波 およそ6000年前あたりに起こったんだはないか?みたいなんだな
そら以来、西日本では人口増えないだ >>720
なるほど、あくまでDNA的な分布であって、そいつが「朝鮮人かどうかの判断基準」とは別だという事ね。
だよなぁ、一滴でも朝鮮人の血が入ってたら朝鮮人呼ばわりなんて発狂ものだわw そもそも、そのカタカナ「ヤマト」ってなに? @阿波 >>721
くやしいのう、くやしいのうww
アワにあるのは風説の流布のみ。何の裏付けも出土物も人間の歴史もない
ただの口先論w1000年も遅い遺跡を最古級とか吠えるだけのことはあるよなw 最近、科学的に判明してきたらしい。
倭国と日本国を別記した旧唐書は正しかった。
■2〜3世紀は2文化が並行する時代だった
<弥生時代に山陰ルートで日本に渡った半島政権の天下りが畿内政権の源>
九州〜山陰:縄文時代→弥生時代→古墳時代
若狭湾から半島人大量入植
↓
近畿:縄文時代→古墳時代ー古墳時代
■結論
近畿に弥生時代は訪れませんでした。
■裏付け
<弥生鉄文化の浸透具合〜3世紀〜>
九州〜山陰まで。
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png >>724
そもそも阿波ってナに?いつからその名前になったの?
どうせ邪馬台国時代のあとなのに、昔から阿波だったとか吠えるんだろう?w .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>692
>馬具の上の堆積物を数十年分と推測し、4世紀初頭の馬具と判断した
なんで平気でこういうウソをつくんだろう
九州説って、自分たちの信用を地に落としてるって
なんで気づかないの?
ウソをつけば、報いは自分たちに返って来るんだよ >>726
おお、元出雲領(吉備まで含む)と、九州、ヒボコのタジマから播磨
までは砂鉄がでるからやっぱり多いね
ただ、鉄器の出土と生産は必ずしも一致しないのでは?
小規模の製鉄なら野ダタラでドコでも生産できましたぞ? >>729
>ウソをつけば、報いは自分たちに返って来るんだよ
畿内説の経験談ですね
わかります >>727
昔は、粟国=「邪馬臺国」
長国=「狗奴国」だよ。 分かったかい? わははははは @阿波 >>732
どうせ1000年くらい盛ってる話なんだろ?
ナイナイwwww >>730
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
弥生時代の鉄器出土量
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png
史書によると、倭はもともと100国あったが魏が交流できたのは30国とのこと。
鉄器の出土量が多い北側が「邪馬台国連合=女王国、その南側が邪馬台国と敵対していた「狗奴国」の領域と思われます。
https://i.imgur.com/8StzbQ6.png ※丸で囲まれた地域が狗奴国 >>733
「阿波で千年、京で千年」 だよ。 わははははは @阿波 >>731
子供じゃないんだからさ
九州説のじいさんよ
脊髄反射みたいな言い返しだけじゃなくて
ちゃんと反論したら?
そうすれば少しは世間の目も変わるだろうに >>734
>よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
三世紀に弥生時代の話してても意味ないし
九州説が時代ズラシに必死なのはわかるけどさ
時代から取り残されるだけだよ 〜 中国の記録に記された女王国の規模 〜
魏志の韓伝および倭人伝に記された領土に関する情報
・三韓からなる韓国領土は4000里四方
・馬韓の国数は50国
・倭の国数は30国
・倭は約5000里で巡回出来る
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
・女王国の南には敵対する狗奴国がある
https://i.imgur.com/yLFScGN.png 〜 中国史書に記された女王国(邪馬台国)の位置 〜
■魏志韓伝より
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里」
韓国はソウルの南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する
■魏志倭人伝より
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・帯方郡から女王国までの総距離が12000里
・女王国起点で紹介されている倭人の国々の方角は北、東、南のみ
・南に4000里航行すると侏儒国(小人の国)がある→種子島
■結論
女王国の位置は倭地の西の端=九州島の何処かである
■参考
日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
つまり1里=約75m >>738
>・倭は約5000里で巡回出来る
対馬国の手前(領海)から東の倭種の国手前(領海)までな
うまく合ってる >>737
>>726
奈良盆地は弥生時代が訪れなかった地域なんだよ
博多湾から見て奈良を南だとする畿内説に従えば、むしろ奈良以東は狗奴国と見るべき
実際、纏向遺跡は九州における同時期の遺跡とは様相が著しく異なる >>734
それでも、最近は弥生時代がどんどん昔にさかのぼってて、その視点では、紀元前10世紀に九州の日本最古の水稲遺跡が出てる訳でしょ?
邪馬台国時代より遡り過ぎてるから、畿内に政権があったかどうかの話とはちょっとかけ離れちゃうのでは? >>741
日本有数の水稲遺跡は奈良にあるじゃん。
邪馬台国時代にはとっくにデカい水田があったよ? >>739
>・南に4000里航行すると侏儒国(小人の国)がある→種子島
そこ、コビト住んでないから
>■結論
>女王国の位置は倭地の西の端=九州島の何処かである
飛躍しすぎ 九州説って、史実をどうでもいい扱いする皇国主義政治思想がルーツだもんな >>742
>>734の弥生時代の鉄器出土量の図は弥生後期〜終末期だよ
その時点で奈良方面は交易の痕跡が希薄であり、そこに政権が存在したと考える方が難しい
纏向遺跡で出土した土器の産地(3世紀末〜4世紀初頭)
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
↑
九州と交流があったと考えられない >>744
>>・南に4000里航行すると侏儒国(小人の国)がある→種子島
>
>そこ、コビト住んでないから
広田遺跡の人骨は確かに小さい
>>■結論
>>女王国の位置は倭地の西の端=九州島の何処かである
>
>飛躍しすぎ
まあこれは直観だよ
魏志倭人伝に出てくる方角は北、東、南しか記載されていない=視点は西に在り >>746
?よくわからんけど、外国との云々と、畿内に政権があったかどうかは別の話では?
鎖国中の江戸幕府は世間じゃないって話になっちゃうけどww 昔はアッチに何里コッチに何里なんて説は誰も相手にしなかった
自分たちの時代の測量がろくなもんじゃないって知ってたからね
だから何里何里で邪馬台国探そうなんて、明治時代に生まれたOパーツ思考だ
現代ではまた、相手にされないよ
みんなが目覚めたから >>748
逆に卑弥呼時代の奈良盆地に政権があったとする証拠は?
ちなみに大阪はまだ海だった時代だぞ >>746
公開してくれた土器にこそ答えがあるのでは?
吉備の国は葛城国から分裂したフトニ王(孝霊)の国
その前にヒボコの播磨侵攻があるから既に畿内政権と出雲勢力は山城国方面、日本海側では分断されている
んで、吉備国は五瀬の物部勢力のせいでヤマトに帰れなくなってる訳だ。
吉備国は瀬戸内海系を抑えているから、四国経由は遠回り
つまり、当時の畿内は九州と出雲とは分断されてた時期と思われるので、こういう出土になるのでは? >>741
3世紀前半の博多湾沿岸では大和型庄内甕の模倣制作や瀬戸内系製塩、山陰玉作りなど
東の本州との文化的交流が密になる
寧ろ博多と異人コマビト地域など九州の筑前の南側との様相が著しく異なる >>750
それこそ巻向の遺跡じゃないの?
大陸様式を取り入れた巨大な建造物、地方の豪族が集まってた証拠の地域独特の土器の出戸
巻向は祭祀遺跡に近いから、土器は出ても生活の痕跡はあまりない特徴のある遺跡でしょ >>752
>東の本州との文化的交流が密になる
ものすごく希薄だが?
印象操作は犯罪ですよ
霊感商法と一緒 >>746
>九州と交流があったと考えられない
あたまの悪い人には能力的に、な
それは妄想か、ウソなんだよ
北部九州製の庄内式があるんだからな
九州ローカルの勢力が利益代表を纒向に送れなかった
という力関係がわかるだけだよ 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>747
>広田遺跡の人骨は確かに小さい
何センチだか言ってみな >>755
>九州ローカルの勢力が利益代表を纒向に送れなかった
という力関係がわかるだけだよ
私もそう思います。
だから、東征説を裏付けるように、九州式の土器はちょびっとだけ出たけど、大騒ぎになった。 >>747
広田遺跡の人骨の身長は西北九州や南九州山間部の弥生人と変わらない >>753
代々続く歴史もなく人の居なかった政権って何それ?w
銅鐸ですら破片一個だけ
卑弥呼時代は2世紀から3世紀前半だぞ?
纏向センターより
『 辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纒向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳しょくじがあります。
銅鐸の飾耳は突線鈕式とっせんちゅうしき銅鐸の破片ですが、纒向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。
特殊埴輪は都月とつき型と呼ばれるもので、特殊器台から派生した最古の埴輪とも呼ばれるものです。』
「纒向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく」
「纒向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく」
「纒向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく」 >>760
じゃあ、その弥生遺跡の認識だよ。
何世紀の話さ。
今じゃ弥生時代はBC10まで遡ってるぜ? >>753
>大陸様式を取り入れた巨大な建造物
捏造はいけませんね
むしろ巨大な大壁住居でしょ
大壁住居(朝鮮式住居)
https://i.imgur.com/7OaT8Uw.png >>754
>ものすごく希薄だが?
>印象操作は犯罪ですよ
九州説って絶対に根拠を言わないんだな
印象操作そのものだ
>霊感商法と一緒
九州は、な >>762
高床式の巨大建造物出てるじゃん
朝鮮式ってwwwwwあれで地方の豪族集めて祭祀など出来るものかよw >>761
ちょっと何言ってるかわからないんですけど?w
纏向遺跡の出土品は軒並み3世紀半ば〜4世紀初頭のもの
もともと卑弥呼の時代とはかけ離れている >>762
巻向駅の近くには大型の建物群跡が発見されてるだろ。
3棟がバラバラではなく東西に方位を揃えて並んでいて、中心となる建物は現代の3階建ての高さをもち、南北約20m×東西約12mもある高床式神殿。
規模の小さい奴は、地方の豪族が宿泊した付属の建物だろ >>764
高床式というのも印象操作だね
実際に大量の飯炊き土器は地面部分から出土している
高床式の床下で炊事してたのか?w >>766
だから、その時代には既に大規模建造物もあったし、魏書の皇子の時代より前から畿内には政権があったんだよ
そういう話 >>768
お前な、祭りが行われる場所で飯を食うのか?www >>760
>代々続く歴史もなく人の居なかった政権って何それ?w
巨大古墳が代々くらいの間隔で続く事実
もちろん人もいたのが確実だなあ >>768
建物の周りは柱列で囲まれていたようで、柵などで遮蔽された場所と考えられている。
魏書に描かれた様子に似てる事は似てるわな
そもそもが、景初の卑弥呼と、その前の卑弥呼が同一人物だなんて誰にも分らん話だろw >>767
>3棟がバラバラではなく東西に方位を揃えて並んでいて
全てが同時期に建造されたものでは無いと判明しているが? >>774
じゃあそこに居たのは東海政権だろw
伊勢・東海系:49% >>768
>高床式というのも印象操作だね
という根拠をまったく言わないのは
九州説が懸命に印象操作で
負けを取り戻そうとしてる証拠 伊勢・東海政権が居たとして、じゃあ「狗?国」はどこなんだよ?w
邪馬台国が中国に支援を助けを求めるほど強大な国だぞ?w >>777
まずは最低限の知識から
http://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/bunkashigen/main00601.html
纒向遺跡大型建物跡の写真
それと
>「集落構造については未解明な部分が多いですが、遺跡内では関東〜九州地方よりもたらされたと考えられる外来系土器が多く出土することから」
いまじゃコレが共通の認識だろ。
伊勢東海は、もともと出雲系の地域だから分断されてなきゃ当然畿内には土器に入れた貢物もってくるわなw
柱の形状からは後の出雲の国司館の後レベルの構造の物が出土してるよ >>777
>じゃあそこに居たのは東海政権だろw
>伊勢・東海系:49%
ほら
九州説が印象操作でインチキ狙ってる証拠がまた出た
外来系は多くて3割
つまり纒向にいる東海系の人は1割前後 何で奈良に色々集まってきてるのに、奈良にだけ政治の中心が無いって事になるんだよww 九州説ってニセ情報と印象操作で
よく知らない人を騙す気まんまんで
詐欺師体質丸見えだな まあ、発掘が今でも続いていることもあるけどさ、最低限今の纏向の情報くらいは洗いなおしておいたら?w >>782
>伊勢東海は、もともと出雲系の地域だから分断されてなきゃ当然畿内には土器に入れた貢物もってくるわなw
なんの根拠もないから
妄言だよな、それ >>787
国立吉野ヶ里夢ロマン軽トラ市公園の建物は
他の遺跡出土遺物を参考にしている >>787
ほら、九州説がニセ情報と中傷しか打つ手がないって証拠が、また出た >>789
>この纏向の柱の細さよw
つまり先進文明 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 畿内説のクソどもの駄目な点は、欲をかき過ぎて、三角縁神獣鏡を、卑弥呼の鏡だと吠えたこと。
三角縁神獣鏡は、東軍西軍の戦い、物部最後の二回目の東征の時に武内宿祢と、畿内の加茂氏、政権側のヒコイマスが配りまくった国産鏡
ど真ん中で邪馬台国時代にかぶってる重要な出土物なのに、畿内説のアホどもが、これこそ魏から貰った鏡だと吠えてっしまったんだよ
そうこうしてるうちに魏書を超える枚数の鏡が出てしまい、現在6倍程発見されている
九州の乞食どもは、欲をかき過ぎて、卑弥呼は一人だ、年号が書かれる前の卑弥呼もぜーんぶ九州の卑弥呼だって吠えて振り上げたこぶしを下げれないこと。
全員、矛盾をそのまま放置して責任取らないクズども まあまずは学術会議の解体が先だが、次は考古学会だなw
もう公立では学部は廃止されてるそうだがw
ボケ爺さんの妄言を学問と呼ぶ宗教時代は終わったんだよw >>792
世界共通、高貴な建物には太い柱が使われている(現在進行形)
物理的に当たり前のことだが 結婚してないほうの卑弥呼は、ヤマトの卑弥呼
だいたい、トヨタマヒメは、イニエと結婚して、トヨ姫と、トヨ彦を生んでるだろ
魏の張政が、都合よく誰もが納得する次の卑弥呼を戦の最中に選定できるかっつーのw 最初が銅鐸、次が銅剣、最後は銅矛だが、もう一つ重要なのが銅鏡
銅鏡だけは、更に特徴が強くでる出土物。
後漢鏡とかの出土は九州が圧倒的に多く、時代を経るごとに少数が畿内方面に
三角縁神獣鏡だけは畿内で爆発的に発生し、瀬戸内海や東海、北陸方面に少数が移動
三角縁神獣鏡だけ、畿内発生しているという特異な点が銅鏡。 >>792
>つまり先進文明、 ・・・つまりひ弱な弥生文明 >>797
柱は建築技術が未熟な縄文時代の三内丸山遺跡のほうが太い
瓦屋根の寺院建築時代になると太くなる >>794
>そうこうしてるうちに魏書を超える枚数の鏡が出てしまい、現在6倍程発見されている
なんかご不満でも?
半数は国内産のコピー品だし、朝貢は一度下賜すれば前例になるから何百枚あっても問題ない >>802
うっわ出たクソがww
そもそも1980年代に三角縁神獣鏡の大陸説、国産説の議論は学界では終わってるよ >>799
銅鏡は1世紀すでに国産化されてるだろ
もっと難しい銅鐸を作れてたんだから鏡なんていくらでもあっただろうに
不要となった銅鐸を溶かして銅鏡に作り替えたと考えるのが妥当 朝日新聞は、原材料が中国製の鏡と同じであることを理由にして、三角縁神獣鏡を中国製だと思わせるようなコメントを載せている。
銅鐸には、材料の銅に含まれる鉛同位体の分析によって中国の原材料が使用されたと考えられている。
しかし、日本でしか出土しない銅鐸を中国製という人はいない。三角縁神獣鏡に中国の原料が使われていても、
それだけで三角縁神獣鏡を中国製と判断するのはおかしな話である。 >>805
そこまで分かっていながら何故wwwww
東軍と西軍の争いに鏡を配りまくったんだよ
当時は国産鏡の良いものが国内で発掘されてなかったから、だから三角縁神獣鏡が国産じゃない説が大勢を占めていた
大陸の銅鏡の専門家が日本に招かれ、あれは日本製だよって事でもう決着ついたのにw >>808
なるほど、畿内と九州は人種が違うのかww >>810
最近また畿内説が三角は中国産だと騒いでるんだけど何でだろう?
流石にちょっと悪質だと思う >>809
政権レベルの話って需要と供給、分布じゃないの?
あれだけ短期間に作られたって事が重要なんだよ
それと三角縁の技術ね
あれは呉の技術。
だから魏の鏡は平縁とかそういう様式。道教の圧迫のされ方が魏と呉では全く違っていた。 >>800
>つまりひ弱な弥生文明
理由も言わすに勝手に結論されてもな >>812
ですよねぇ。
少量の物なら国産の鏡ってすごく良いものが出土しています。
あれが出てたら三角縁神獣鏡が魏国産だなんて話はなかっただろうと言われる立派なものまで存在します。
しかし、大量に必要になると話は違ってきます。
日本では採掘できなかった錫は時代を経るごとに比率が少なくなりますから溶かして作り直したって事まで分かってる人ならもう少し好い答えが導き出されてもいいのにね >>654
平面図の北側墳丘底面=平地面だよ。
墳裾が平地面に接するところ。
ちゃんと読め。
ほんに、認めたがらん性格だな。
世の中、生きにくいだろ。 三角縁神獣鏡は魏書の邪馬台国ビンゴの、畿内発生の最重要遺物。
確実に畿内には政権は存在したが、正しい認識のもとに歴史に敬意を払って議論するべき。
記紀の内容や、東征が物部氏だったかどうかの議論とは別に、あの鏡だけできちんとした話が本来はできるはずなのに・・ >>819
呉の職人さんは、少数がヤマトには既に入ってたらしい
武内宿祢の朝貢時に、結構多めに彼が日本に連れてきた
最終的には呉の滅亡に合わせて大量に日本に逃げ込んできたらしいが
古墳時代の終了とともに急速に青銅器の需要はなくなる
呉の職人さんたち、結局何で食いつないでいったのでしょうかね つまり、やはり、「邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く無い」という、日本国家が設置した機関が発表した真実は、覆せないのだね。
699日本@名無史さん2020/10/21(水) 11:22:11.75
>>695
また九州説が自滅してるな
実際の放送は
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
04;00
「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。」
つまり>>695は白痴なので
九州説が完全に破綻したと主張してしまった >>821
武内宿祢は物部、出雲、磯城の全ての血が入ってた人でね
母方の祖母が物部氏だったから、最初は九州の陣営に参加してた
しかし、朝貢の際に豊玉姫とイニエに邪魔されて、彼と弟の額田彦は銀のハンコがもらえなかった
通訳のタジマノモリですら貰えたハンコをだ
そうとう面白くなかったらしい。
その際に、九州勢が朝貢して鏡を貰った話を聞きつけたもう一方の親戚の加茂氏から相談を受け、あの鏡が大量作られた
中国の専門家は、鏡の模様にまで言及。大陸にはない模様なんだよね。
朝貢の際にそんな短時間でオリジナルの模様を決定して倭国のために特注で下賜できるわけがない そもそもが朝貢の倭国の出先機関が九州の伊都なのに
何故ヤマトには政権が無かったという話になるのかw
九州と奈良にはほぼ同時に我々が思ってるよりちょっとスゴめの政権(地方の王権)があったのだよ。
だから大きな戦いになり、大陸の史書にも書かれた 畿内説、完全に終わったよ。やっぱり日本の考古学者なんて素人以下って言われるだけの事はあるね。
邪馬台国に関してはねwww >>825
そうそう。材料も持ってきたらしいけど、本当にすぐなくなっちゃったらしい。
ヤマトの職人さんはごく少数
武内宿祢はちょっと多めに連れてきて、最初は故郷の拠点、和歌山に連れてきたらしい
昔の人の情報網って凄いよね。今でいう忍者の草みたいのが居たとしか思えない
ちなみに唯一の景初3年の鏡は、武内宿祢が10枚作ったと伝承されてて見つかってるのは一枚
出雲の武内宿祢の住んでた場所、武内神社の式内社、神原神社からの一枚のみ
伝承だと、弟の額田宿祢が兄のお墓を作ったらしい >>631
>・・・だから臺与こと百襲姫だろ・・・
「臺与」なんて、後漢書の造作であって、存在しない嘘つき騙し文言であるから、バツ。 >>826
いやいや、我々が認識する「魏書の卑弥呼を中心とした邪馬台国」は
畿内も正しい
九州も正しい
これが正解だと思う。魏書には二人の卑弥呼が書かれてるからね。
結婚してないほうのヤマトの卑弥呼
途中で死んじゃったトヨの母親の卑弥呼
あくまで魏書に書かれた邪馬台国という認識だとね 九州の邪馬台国は都万の事らしい。
西都原には相当の豪族が集まった
だからさっきの耳垢DNA分布でも西都原がモロにwww
機能不全に陥ってたと容易に予想されるヤマトの出先機関、伊都を利用して物部氏が秘密裏に朝貢した
それが可能だったのは共犯者。伊都の長官が物部氏だったから。魏書にニギと書かれてる
だが、後に出雲散家を組織し、忍者も使ってた出雲の情報網があったのか、その動きは大和側に筒抜けだった。
これが三角縁神獣鏡が作られたきっかけにった。
もしかしたらね、魏のお墨付きで九州方は、黄色の属国旗を貰っちゃったから
それに対抗する為に呉の職人を使って鏡を作らせ
我々のヤマトほうこそ魏のお墨付きがあると言いながら豪族に鏡を配ってた可能性はある。 >>637
>祇園山に墳裾下裾など無い
完全なデッチ上げ これだから九州説は醜い
祇園山の墳裾の微傾斜の不定形の基盤台が、
更にその周りに断続的に傾斜面を持っていて、
更に下に不定形の基盤台がある形だから、
この男は完全なデッチ上げ
これだから大和説者人種は醜い 魏の国が景初の朝貢の際に下賜した黄色の旗8本は宇佐神宮に収められた
だから八幡神社になった。
畿内の朝貢なら、平時は戦争のための旗なんて必要ないし、仮に貰っても畿内に八幡神社が出来てるはずだよ >>832
そもそもが、ヤマトが九州を懲らしめるために、戦いの前の八本の旗を貰うのに九州の伊都から旅立ったったのなら地理的におかしい
そんなことをする前に普通に直接吸収をぶっ叩きにくるでしょ。めんどくさい。 >>817
祇園山が4世紀の築造だとする材料は、さすがにもう無いだろう。
祇園山3世紀中頃築造を認めるんだな。 >>651
>投馬を玉島とすると彌馬升は三島だな、神武の時代か
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」であるので、
「投馬を玉島」とする事が、バツ。 >>804
>そもそも1980年代に三角縁神獣鏡の大陸説、国産説の議論は学界では終わってるよ
妄想はお好きにどうぞ >>837
王仲殊「関于日本三角縁神獣鏡的問題」『考古』4期、科学出版社、1981年。
王仲殊「論日本出土的景初四年銘三角縁盤龍鏡」『考古』3期、科学出版社、1987年。
この人が日本に招かれた。
ま、願望を垂れ流す前に自分の愚かさを少しは認識したら?
妄想するにしても何年まえの妄想だよwww >>660
>・・・この纒向遺跡に、中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する
邪馬台国の政治中枢が置かれ、
それが発展して初期ヤマト王権が成立したとみる見方が、
考古学者を中心に強まっている。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、バツであり、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの拠って、
この大和説学者も嘘吐き騙しの詐欺師であり、バツ人間。 >>840
記紀しかよまないおじさんはもう黙っててねw >>661
>たしかに現状ではまだ橿原考古学研究所は昭和から引き続き
箸墓を3世紀後半としたままだが
纒向石塚古墳、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳を3世紀前半として
ホケノ山を3世紀中葉にしてきてる・・・
3世紀中葉の卑弥呼の墓は「冢」であって、前方後円墳ではなく、
前方後円墳の石塚や勝山や矢塚やホケノや箸墓は3世紀末以後であるから、バツ。 >>662
>ホケノ山を3世紀中葉
ホケノ山古墳を弥生時代に入れるとすると
畿内の出土した鉄製品が130らい増えるんだよな
九州との差がかなり減る
どっち道、大和は、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「日本国は倭國の別種分家の旧小国の附庸國」や、
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」で支配された国の中の一国などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。 >>835
無駄。
祇園山は4世紀初からの集団墓地 >>665
>投馬って出雲でしょ。
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、バツね。 >>667
>吉備は桃を生産してる国なのよ、五万居ておかしくないの
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、バツね。 奈良盆地は周辺勢力の単なる古墳設置区域(霊園)だったことが判明しつつあるので纏向説→纏向学に変更させられた畿内説あわれ >>学670
>公的機関に調査されて3世紀前半とういう報告が出てる
抵抗しても無駄だ
「公的機関」というと、文科省や教育委員会や大学やその下部組織の研究所などか?。
そんなものは、「南→東」や「冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
「自昔・・・東征毛人五十五國」の隠蔽や、
「日本國者倭國之別種也」の旧小国の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをしている、
皇国史観思想宗教という「結論先にありき」の・・・・アホ集団であり、
根拠にならず、バツ人種だ。 >>837
景初四年の号がある三角縁神獣鏡についても彼は言及してる
魏鏡説に関してはとっくの昔にトドメが刺されている
以後気を付けるように
http://www7b.biglobe.ne.jp/~ronnrinomichibiki/1hp-ronbun-keisho4nen-ouchuushu-yamataikoku.pdf 「しかし3世紀前半の遺構は多くなく、遺跡の最盛期は
3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。
2011年に大型建物跡の約5メートル東側から別の
大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が
3世紀後半以降の可能性がある。」
なるほどねえ >>853
古墳の年数推定って何気に微妙じゃないかって思うのですが。
建造そのものに時間がかかりますよね。
でも、遺物としては伝わってきた大事にしてきたものを埋めるでしょうからもっと前のものだって出る
出土物で惑わされるような気がするのですが >>674
>>三角縁神獣鏡は3世紀後半後葉から現れてくるとされるので、その前の時期の3世紀後半前葉以前がこの画文帯神獣鏡の時期ということになる。
こうしたことからして、この画文帯神獣鏡片が副葬されていた西新式甕棺が4世紀のものであるということは、まず考えられない。
>画文帯神獣鏡片なら柏原の玉手山6号墳でも出てるよ
3世紀末から4世紀初頭の古墳だ
祇園山を無理やり古くするのは不可能
鏡片は、殆ど「女王卑弥呼から親愛なる部下へペンダンテ的に下賜された」ものであり、
一部は壹與からの下賜があった可能性があるだけであり、
下賜された「東征毛人五十五國」の将軍らが征服地で埋葬された時に副葬されたモノになり、
卑弥呼や壹與の四半世紀位後の墓だ。 >>854
いろんな遺跡が何層も重なっているので全く関係のない遺物で年代を操作すこともできるわけです
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png
纏向の建物と桃の種は無関係 三角縁神獣鏡に関しては相当に昔の銅剣や銅鐸が溶かされて使われた可能性はあるよね
元々奈良の祭祀は銅鐸だったという点はみんなもある程度は認識してるんじゃないかと。
奈良に銅鏡が入った時期は、物部五瀬の最初の東征の時だったらしい。簡単に言うと宗教戦争が起きた。
銅鐸祭祀をいじめて回ったらしい。
これが大彦中心とするかなりの人たちの反感をかった。
結局、武内宿祢のおばあさんのように、奈良の政権に物部の姫様が嫁入りし、モモソ姫のあたりで銅鏡祭祀を落としどころで始めたようです
これで戦乱は一度収まった
故に、三輪山の西にある出雲屋敷と呼ばれた奈良の祭祀の聖地からも銅鏡が出土しています
つまりは、年数の書かれていない結婚してない卑弥呼の鬼道
それと、年数の書かれてる途中で没したトヨの前の卑弥呼(当然銅鏡貰ってるから)の鬼道
は、本当にごく短期間の事を指す記録の可能性がある。
旧家伝承の物部五瀬の東征は160年代。大彦が狗奴国になって敗退するのが180年代モモソ姫の時代
それから後の景初の卑弥呼なんて何百年の話じゃない。 >>856
おお〜大型建築物がw
今確認してませんが、確か柱が四角に加工されたとかなんとかだった気がする
桃ってけっこう端からなんですね。この頃まだ陰陽道ないからあまり呪術的なモノじゃなかったんじゃ >>859
豪族が集まるから、権威の象徴として、建物は大きくし
周辺には大陸の樹木を植えたりとかそういう場所だったんじゃないかと思う
庭園の始まりだったという見方の方がしっくりくる。
だから土器以外は土木関係の遺物が出てくるんじゃないですかね >>676
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの、
非科学・非学問の大和説としては
「思想宗教的皇国史観」という「結論先にありき」で中傷するくらいしか、
打つ手が無いのは
よくわかる なんで畿内説の人や九州説の人は
共通して「相手方には政権や権力の集中がなかったはずだと」互いに主張しあうのか
同時にあったからそこの東征だと思うんですが。 >>681
>竹島どろぼう有害鮮人は九州王朝説
ポツダム宣言を具体化した昭和21年1月29日の連合国総司令部訓令で、
北方四島や竹島や尖閣などは、
「日本國領土ではなくなって連合国側の管理下」になって、
サンフランシスコ条約でも、それの変更を一切述べられていないから、
法的には、連合国側の管理下のままである。
だから、日本政府や右翼やマスコミは、それがはっきりしてから、
「日本固有の領土だ」という言い方をして、国民を騙して、
国民に「戦争をさせようと、鼓舞宣伝しよう」として来ている。 >>682
>>畿内説ありきの学者は強引な解釈が多すぎるんだよ
>何が「強引」なのか説明できないだろ?
つまり九州説は
理由なき反抗しか出来ない
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅」の否定などが、強引な解釈だ。
つまり大和説は、理由なき反抗しか出来ず、
もう負けたってことだよ、
諦めろ >>867
それな、もう畿内説には無理があるのは現場の人間がよくわかっている Intcal20でダメ押しだなぁ。日本の年輪も参加してるしもう鉄板。 >>868
>箸墓は3世紀後半
箸墓は、布留1の前方後円墳であり、
だから、卑弥呼の冢や、壹與の平原の後であり、
那珂八幡の進化型の「庄内1の3世紀末の石塚」の後であり、
庄内3の(3世紀最末=4世紀の)ホケノの後でもあり、
いずれにしても、4世紀。 >>868
だが九州説は畿内に政権が無かったと証明するどころか、畿内ではガンガン大規模なものが出始めている >>871
>畿内ではガンガン大規模なものが出始めている
むなしい虚勢。 わははははは @阿波 >>871
畿内で何が出てるの?
倭種の国の詳細な記録は残ってないから常に意味不明な遺物しか出土してないよ >>874
・・マジで今までのスレの流れで分からないのか?
それどころか、記紀に消されたのは吉野ヶ里もおなじだろw
意味不明具合ならそっちの方が上という事になるだろww
なーにが記録だよw >>875
魏志倭人伝に女王国の東の海を渡ったらまた倭種の国があると書いてあるじゃん
卑弥呼女王の管轄外だから詳細説明は記載されてないけど >>877
ほ、ほう。
DNA的にはその大陸の倭種とやらは南部にも居るらしいが?
他に倭種が分布してなかった理由とか、大陸のそれ?wwwwww >>856
古墳の良いところは、収められている遺物は適当なそれより前の時代の物が入るけど
地層の影響を受けないのは点が挙げられますよね >>880
鉄器は溶けちゃう。青銅器のほうが圧倒的に残る >>807
>玉手山古墳群は3世紀後半〜4世紀中頃の墳墓群だそうだ。
>古いのは3世紀後半。
>ざんね〜ん。
ざんね〜ん
その中で肝心の
玉手山6号墳は布留1で
3世紀末〜4世紀初頭なんだよ 全国どこでも出土するものが畿内だけ溶けるわけないよな >>882
日本刀の歴史でも学んできなよ
上古刀どころか古墳時代の物なんでほとんど残ってない
初期の製鉄なんて野ダタラなんだから、我々が思ってるよりはるかに昔から製鉄はあるよ。
戦場でも戦いながら鉄器って作れたんだよ
酸化鉄は品位が低いから全く残らないけど、褐鉄鋼やベンガラみたいのから900度以下で作れる鉄は昔から使われてた >>810
>大陸の銅鏡の専門家が日本に招かれ、あれは日本製だよって事でもう決着ついたのにw
まだあまり研究が進んでなかった頃の研究者が何か言っても、それで決定とか言い張るのは学問ではない >>85
鉄器の話を、古墳時代の鉄刀にすりかえる詐欺 Intcal20でダメ押しだなぁ。日本の年輪も参加してるしもう鉄板。 >>886
その反証は一切日本国内から出てない
それが学問
あなた何様の人?自分の嘘を誤魔化したくて言い訳だけしに来てる訳?
そりゃー、鏡の国産決着の後の責任をとらなかった畿内派の典型的特徴だなw
ここで言いに来ること自体が無意味なのにw >>813
>道教の圧迫のされ方が魏と呉では全く違っていた。
道教を優遇した魏で三角縁が作られたのは納得いく >>887
あんたアホなの?
邪馬台国って古墳時代の話だろ
いまここは何のスレよwwwwwww >>891
鉄器(大量)の話を、古墳時代の鉄刀(希少)にすりかえる詐欺 >>890
逆。
魏では朝貢時、銅鏡はご法度の時代
そのちょっと前の時代が、魏に銅鏡や方士の集まってた地域が魏に相当。
三角縁の技術は呉の技術。魏には無かった。
日本に呉の職人が入ってきた記録は伝承以外には他の方も言及しているが
魏の職人が入ってきたって話はあまり聞かないな >>892
現地調達の消耗品と古墳に入るほどのお宝を一緒にするとはw 当たり前のように棺から刀子などが出土する地球の九州とは違い、奈良は金星の古墳でも発掘してるのだろうか? >>895
奈良は発掘できない古墳が多いから分布はまだ確定しているとは言い難い。
それと、鉄の成分も問題になるかもしれない。
青銅の話に貼るけど、九州は独特の地域で、銅鐸が今まで出なかった。本当に出なかった。
しかし、鋳型だけはあったんだよ。
そしてやっと、吉野ヶ里で九州で初の銅鐸が出た。
しかし状態はボロボロ。
鉄も同じで成分の話かもしれない。 >>895
九州は倭国(阿波)からの鉄器被供給地域。 @阿波 >>896
九州には我々が知ることのできない銅鐸の文化が眠ってる気がする。
奈良の鉄も同じとは思わないか? >>897
鉄器の分布を公開してくれた人が居るけど
阿波なんて鉄器もまともに出てないだろ
運んで運用されることすらまともになかったという事だ
鉄が産出される以前の問題 >>894
>現地調達の消耗品と古墳に入るほどのお宝を一緒にするとはw
ほらね。
鉄が溶けるかどうか、という話を、
消耗品と宝物の話にすりかえている。 >>699
また大和説が自滅してるな
>実際の放送は
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
04;00
「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。」
NHKは、
「邪馬台国」なんて、「南→東」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙し文言を使っており、
九州説の具体的な証拠がある事も否定するようなインチキもしており、
信用が出来ない。
つまり>>695は白痴なので
九州説が完全に破綻したと主張してしまった Intcal20でダメ押しだなぁ。日本の年輪も参加してるしもう鉄板。 >>902
そうそう、確たる証拠もないのに言い切る奴ってホント阿波みたいにキモイ。
議論ですらなく、自分の言いたいだけのことを書きに来て、話が盛り上がったところに毒を注入するw >>902の訂正
NHKは、
「邪馬台国」なんて、「南→東」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙し文言を使っており、
九州説の具体的な証拠がある事も否定するようなインチキもしており、
信用が出来ない。
つまりNHkは白痴と同じなので
大和説が完全に破綻したと主張してしまったのと同じ。 >>896
銅鐸?
九州で出土した小銅鐸の事かな?
それは銅鐸とは全く異なる「楽器」だよ
しかも倭人の銅鐸文化より古い時代の >>900
おまえなあ、ウーツ鉄とかそういう話を最低限調べてから来いよ
鉄の持ちなんて製法によって全く違うだろw
奈良時代は実用の鉄器、祭祀用の青銅器。 >>702
この男の発言も脳も、
大和説の完全破綻を主張してしまっていた事になる。 >>907
出土物の一覧を確認してこい。
銅鐸だよ
ただ、本当に初期のものではないか目され、小型であはある。
元々銅鐸そのものが楽器だろ。
出雲の初期の銅鐸と時期的には近い。
反論になってない。意味不明。 >>703
大和説は、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者の説なので、
全国の国民や世界の学者らから、否定されている
関西中心に、
「史料事実の否定」や「結論先にありきの日本皇国史観政府や文科省」の、
権力に隷従するスローガンを掲げたのが大和説 鉄器の大量使用、戦術的利用、物量的、成分的な優位性は確かに九州。
しかし、そもそもが昔から畿内と出雲の交易の品は砂鉄だったし、吉備王国が出雲領に入り込んだのは鉄が欲しかったから。
出雲が交易品で大和側が出してた銅鐸祭祀をやめちゃったから、鉄が不足した。 製鉄と後の鉄器の出土は、運用のされ方と成分、製法による依存度が高い。
鉄器で政権があったかどうかは判断が難しい
それよりも国産で錫が無かったので青銅器の方が確実。
青銅器そのものは朝鮮半島においては古いが、日本に製法が入ってきたのはBC2位。
合金の材料である鉛と錫は生産量に影響したからね。
国産材料の鉄よりはもっと判断がしやすい >>707
「畿内」なんて存在もしなかった文言を使う、
「結論先にありきの似非学者の皇国史観大和説者」は昔はいなかった
現在ではほぼ九州説に絞られてきた それと前スレに書いたけど、日本のもっとも古い鉄は、大陸が製鉄を始める前の時代のもの。
結構問題になってるw
単純な製鉄は合金技術じゃないから誰でもできた。
つまり、鉄器の出土の分布は物量と生産技術の向上の指標にはなっても歴史の説明には若干補完材料が居るという事だよ 槍の先に取り付ける鉄製のウメガイ程度の物じゃ、九州の鉄剣にはかなわなかったんだろうね。 >>915
「結論先にありきの似非学者の皇国史観大和説者」なんて昔からいなかった
そういった輩はほぼ九州説に絞られている >>710
このように、敗者大和説は実態のない遠吠えをする
負け犬だから 九州ってさ、コメが二回とれるところでしょ?
正直金も持ってたと思うし、大陸とのコネクションも、出雲中心から物部氏が築秦に移転してからはもう無双状態だったんじゃないかと
構造船も作れたし、水銀の精錬技術も日本にはないものを持ってた
錫の合金技術なんて、成分5%。結構高度な技術を日本に持ち込んだんだよね。
でも出雲では銅がでたのに、青銅器の性差は畿内にとってかわられた。
最初に銅鐸を作った出雲だけど、後には畿内から輸入する様になってた。砂鉄、銅の原料と引き換えにね。 一年365日、朝昼晩このスレに張り付いて、
その結果間違えていた>>1君の人生大惨敗の原因は、
卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。
卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからその時代をとんでもない時代=BC660年に設定したのだ。
卑弥呼を隠すことは卑弥呼か、卑弥呼から100年前の帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。
また女王国であった事実を神武東征紀という武勇伝で男王国のように塗り替えた。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。
>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜! >>717
>畿内に政権があったかどうか、邪馬台国論の本スレでは、魏志倭人伝の時にヤマトに政権があったかどうかという事でOK?
「畿内」も「邪馬台国」も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
「大和説」は、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料実態に拠って、バツ。 【神武の時代が実は女王国であった】
頭を天動説から地動説に変えてみたら邪馬台国論争は解ける 九州生産の製鉄が優秀だったのはもしかしたら朝鮮半島製の鉄鉱石の鉄が理由かもしれない
鉄だけは朝鮮半島が本当に良いものを産出した。
神功皇后の時代から本格的に日本に大量に入るようになるけど、それよりもっと前から入ってたんじゃないかな
鎌倉までの古刀は輸入鉄だったとも言われているね >>893
>魏では朝貢時、銅鏡はご法度の時代
九州説って、なんでこういうニセ情報流すんだろね
損するのは自分なのに >>729
なんで平気で「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などのような、
史料事実や史料実態の曲解や否定の、
そういうウソをつくんだろう
大和説って、自分たちの信用を地に落としてるって
なんで気づかないの?
ウソをつけば、報いは自分たちに返って来るんだよ >>925
まずは黄巾の乱から学びなおしたら?
それこそ五斗米道の話からさ
彼らが拝んでたのが二神神獣鏡だろ。 >>736
子供じゃないんだからさ
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説のじいさんよ
脊髄反射みたいな言い返しだけじゃなくて
ちゃんと反論したら?
そうすれば少しは世間の目も変わるだろうに >>926
それはね、あんたのトンデモ説が通説側から反論受けて耐えられなくなって
自分に都合の悪いものを何でも「ウソだウソだ」と叫ぶだけの思考停止状態になってるってことだよ 呉の職人が日本に入ってきてるという話は他の人も把握していると、先ほど書いた。
これは、実は魏の銅鏡弾圧と関連してて、青龍元年(233)年の政変において顕著となる。
燕王国と、公孫淵の話だね。
結局その政変で呉の職人が朝鮮半島を通って日本に来るんだけど、都万が魏に朝貢するって話を聞いてそれでやむなく近畿に入ったそうな。
だから、日本で作られた和鏡の古い物は景初3年より古い年数が記された物が出てくる。
ま、もっとも古い渡来なんてもっと前からだったとは思うけど、技術集団という観点からはこの時代が大きな動きだったと思われる。
日本は魏に朝貢したけど、鏡の技術は呉からという特殊な経緯を辿ってる。
だから、大陸の物とは違うし、三角縁神獣鏡は呉とつながりのあった朝鮮半島の方が技術的に近い >>927
>まずは黄巾の乱から学びなおしたら?
>それこそ五斗米道の話からさ
九州はってホントに無知なんだな
黄巾の青州軍団は曹操の親衛隊になったし、曹操本人も道教の神々を讃える詩を作ってる
五斗米の教祖は魏の諸侯として迎えられて厚遇された >>930
九州説の人って、そんな捏造歴史を作って何が楽しいの? キナイコシの力ない反論が小学生の泣き言みたいであわれ >>931
だから、利用する政策が変わったんだよ
マジでその程度の知識だったとはwww
何故朝貢の年数が景初2年じゃなくて3年だったはずって議論になったかと言えば直前まで道教の乱があったからこの年の朝貢は無理だったはずってのが学説だろ
だいたい、魏との国交が可能になったのって公孫淵親子が魏によって殺され、帯方軍が魏の国になったからだろ? >>933
あんたの中身のない悪口が
イジメられた小学生の恨み言そのものだよ 三角縁神獣鏡は魏から下賜された鏡のはずニダってみっともないから止めなよね >>934
>何故朝貢の年数が景初2年じゃなくて3年だったはずって議論になったかと言えば直前まで道教の乱があったからこの年の朝貢は無理だったはずってのが学説だろ
そんな学説どこにある?
言ってる学者は誰?
論文名は? >>937
うっわ出たよ、出しても何もいう事かえない奴
さんざん今まで出してきたけど、こういう手合いは自分じゃ何もしないからね
アワと仲良くやってろw 伊都国がヤマトの出先機関なのに、九州の卑弥呼が、伊都で魏からの返礼品を受け取ることが出来た特殊事情
これが邪馬台国議論の要だよ >>939
出した?
いつ、何処で何を?
また九州説のあるある詐欺かな? ウソをつくことでしか通説に抵抗出来ない九州説
あわれ >>942
その前に民間道教と他の国家主体の道教くらい区別付けろよww
魏の朝廷は民間の巫鬼道の活動を禁止し、もし「でたらめな祷祝を行い、禁令に違反 する」と処罰された。
晋の皇帝も、むやみに祭祀を行うことを禁じ、民間道教、特に「巫鬼道」の活動を制限した。
じゃあ、魏書に書かれた鬼道とは?
鬼って出てる段階で気付けボケwww 論文名は、論文名は、論文名はだってよwwwwwwwww >>944
>じゃあ、魏書に書かれた鬼道とは?
典型が五斗米道。弾圧してない
太平道も同類。曹操が親衛隊にした
道教弾圧とか、妄想
九州説はいつも妄想 >>945
>論文名は、論文名は、論文名はだってよwwwwwwwww
「何故朝貢の年数が景初2年じゃなくて3年だったはずって議論になったかと言えば直前まで道教の乱があったからこの年の朝貢は無理だったはずってのが学説だろ」
を、言った本人が作り話と認めました
だから九州説は永遠の負け犬 ある宗派の道教は国家管理者とに許容し他は弾圧した。
銅鏡の宗派から学びなおせ。言えるのはそこまでだ。 ふふ、効いてる効いてる
この分だと景初四年の鏡も別に魏の鏡で問題ないはずニダって言いだしそうw
この辺の時系列とか全くわかってなさそうwww >>948
言い訳に必死な九州説w
具体的なことが何も言えないお前の負けだよ >直前まで道教の乱があったからこの年の朝貢は無理だったはず
え?そんだけ? >>949
>この分だと景初四年の鏡も別に魏の鏡で問題ないはずニダって言いだしそうw
前から言ってて、九州説は反論が出来ない
時系列が理解できてないから >>951
>>直前まで道教の乱があったからこの年の朝貢は無理だったはず
>え?そんだけ?
「はずだから」の一言だけでウソつきまくる九州は
もはや札付きだな >>953
ほかの人はお前よりずっと知識があるから
そんな嘘では騙せない そもそも楽浪郡って道教にとってどういう地域だったか
魏に組み込まれるという事はどういう意味だったのか、それも考えたら?
燕が滅んで楽浪郡と帯方が魏に入り、朝鮮半島が属国化して豪族がハンコを貰い始めたから、それを欲しいと考え朝貢が検討された
ヒボコの子孫であるタジマノモリが呼び寄せられたのは、朝鮮語が話せ、漢文が読め通訳が出来るから
繋がってる話なのにねぇ・・ >>953
そんなブラフで騙せるほどに
渡る世間は甘くはないぞ
人生なめるな九州 >>952
やっぱ知らないんだ?w
景初四年は存在しない。だから三角縁神獣鏡は揉めに揉めた トンデモ同士、もっとやれ! もっとやれ! わははははは @阿波 >>957
おいら別に九州説じゃないけど?
魏書の邪馬台国は九州の都万であって、ヤマトではないが
ヤマトには既に政権がきちんと存在してたってずーっと書いてる
日本語が読めなさそうだし空気も読めないらしいなw >>960
そんなブラフで騙せるほどに
渡る世間は甘くはないぞ
人生なめるなキナイコシ >>960
ええええええええ?マジ
本当に知らなかったんだ。それマジでまずいレベルだぞw
魏で年号が変わる理由って何だよ、ちょと考えてみろwww >>964
横だけど、
考え抜いた上での詐欺なんだから、確信犯だよ。 >>963
またオウム返しで誤魔化しか
反論出来ないなら
九州説の負け 証拠を出せとか吠えてる奴に限って何もしない奴はアワと同じだなw
証拠、論文wwww 景初四年があった証明のほうが先。
それができないからキナイコシはレッドカード退場。 >>968
証拠出せない言い訳としては
最低クラスだな
あきらめろ >>969
いや、さすがに驚きました・・・
景初四年問題は、三角縁神獣鏡の話の基礎だと思っておりました故・・・ >>974
>んなもん証明になっとらんし。
と言うなら、なんで反論できないの?
九州説は負け犬だなあ >>976
読んだ。
感想文
ああ、キナイコシのいつもの詐欺だなと思いました。 Intcal20でダメ押しだなぁ。日本の年輪も参加してるしもう鉄板。 そっかぁ、まだ畿内派の人って三角縁神獣鏡が拠り所なんだねww
畿内中心に出てる鏡ってあれだけで、他の鏡は圧倒的に九州の出土なのにw >>674
>画文帯神獣鏡片なら…3世紀末から4世紀初頭の古墳だ
北部九州では漢鏡6、7期から鏡の破砕が行われていて、漢鏡7期には画文帯神獣鏡が破砕されたそうだ。
この漢鏡7期は庄内期に当たるという。
「日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期」(上野祥史・353p)に詳しい。
祇園山は、ここでも庄内式期ということになるな。 >>979
つまり反論できない
はい、九州説の負け >>981
それで食べてるからね。
例の推薦を受ける人生設計じゃないの? >>981
>そっかぁ、まだ畿内派の人って三角縁神獣鏡が拠り所なんだねww
そんなこと言ってないな
重要な証拠なひとつなだけ >>985
数多く粉砕された重要な証拠なひとつなだけ >>979
へー、ほー?じゃお前の持ってる証拠と論部は?
人に言えるんだから自分は率先してやるよなぁ?アワ二世さんよ 纏向遺跡は物部の遺跡であり、ここに卑弥呼はいない。
纏向遺跡が物部の遺跡だからこそ、崇神時代の物部 十千根からさかのぼること6世代、
ちょうどニギハヤヒやウマシマジの時代と纏向石塚や勝山の時代が符合する。
そして纏向遺跡の瀬戸内の強い要素も、ニギハヤヒと共に大和入りした讃岐三野物部、播麻物部、
筑紫聞物部、筑紫贄田物部などの記述で説明がつく。
おもしろいのはこれらの物部がそれぞれ三人称複数で書かれている。
「彼ら播磨の物部たちは…」という書き方である。
では一人称、つまり主体はどこであるのか。
筑紫、讃岐、播磨に囲まれた有力地域とは吉備である。
つまりニギハヤヒとは吉備から来たのであろう。
ニギハヤヒは吉備から播磨や讃岐や筑紫の勢力を引き連れ大和入りした。
面白いのはあまり取り上げられることがないが物部の強い地盤である瀬戸内の有力地域がある。
それは大阪南部泉州である。
たとえば天神本紀に出てくる例でいえば、田尻物部は泉南の田尻漁港のあたり、
二田物部は泉大津市二田、久米物部は岸和田の久米田池周辺、大豆物部は堺の大豆塚、
弦田(つるた)物部は堺の鶴田池周辺、五部の大庭造は堺の大庭寺、
などなど面白いように居住地が比定できるのである。
そしてなにより纏向石塚に先行する前方後円形周溝墓が和泉府中近辺に出る。
つまり纏向古墳群は物部の遺跡なのである。 >>982
>祇園山は、ここでも庄内式期ということになるな。
ならないな
穿孔品が副葬されるのはレアケース
つまり高確率で伝世品ということ
しかも実例は古墳時代だけ
二重三重に、祇園山は四世紀だ >>986
>数多く粉砕された重要な証拠なひとつなだけ
粉砕した人がいない >>737
三世紀の卑弥呼の冢の話なのに、
前方後円墳時代の大和の話をしてても意味ないし
大和説が時代ズラシに必死なのはわかるけどさ
時代から取り残されるだけだよ >>987
あれ?
なんでそんなに顔真っ赤なの?
キナイコシさんwww
へー、ほー?じゃお前の持ってる証拠と論部は?
>へー、ほー
>へー、ほー
>証拠と論部は?
>証拠と論部は?
>アワ二世さんよ
>アワ二世さんよ
阿波二世って言いたいのかな?
詐欺師キナイコシさんはw >>993
取り残されてるのは反日キナイコシだけ。
纏向説→纏向学 >>994
景初四年、四年、四年www
あったとする論文は?証拠はないニダか?w >>997
なにも出土しないキナイコシ
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