X



邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001卑弥呼は伊都國で治す
垢版 |
2020/10/19(月) 20:46:19.91
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。

伊都國には、
女王卑弥呼の墓である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。

里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。

魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。

三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。
0952日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/11(木) 20:08:10.10
乙です。

それを踏まえて、倭王卑弥呼が住んでいた居城の姿を考えると、楼閣高くしてとあるのだから、竪穴式ということはあるまい。
吉野ヶ里の首長の竪穴式住居は、あくまでも王より格下の人物だろう。
そして吉野ヶ里が邪馬台国ではなく、邪馬台国の周辺都市の一つにすぎないか、邪馬台国という地域連合国家の一部に過ぎないという場合、卑弥呼の居城は少なくとも吉野ヶ里の高殿より小さいということもなかったろう。
邪馬台国が西日本全域を治めた国であったか、九州北部だけの国であったかはわからないが、いずれにしても玄界灘を制していた伊都の大率が、山一つ隔てただけの吉野ヶ里を知らなかったわけはない。
そうしたら、卑弥呼の居城を吉野ヶ里の高殿より小さくつくったとは考えにくい。
つまり卑弥呼の居城は、竪穴式などではなく、吉野ヶ里の建物より大きな高殿であったはずだ。
それよりかなり先行する吉武高木も高殿だったのだから、弥生時代を通じて、福岡県内の王は高殿に住んでいたことが察せられるのである。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/11(木) 21:51:07.24
楼閣は物見櫓のことだと思うけど。

吉野ケ里では神社境内の発掘があるとのことだから、
そこから何が見つかるかで弥生時代の方向性が決まりそう。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/11(木) 22:28:43.52
吉野ヶ里遺跡の鉄器は正直なとこ弥生時代ではぶっちぎりダントツトップの内容だと思うが、
なぜに兄弟遺跡のような平塚川添遺跡には鉄器が無いのだろうね。
ふしぎ。
0956日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/12(金) 07:17:42.65
>>954
>楼閣は物見櫓のことだと思うけど。

どちらとも言えないのではないか。
弥生遺跡で物見櫓の出土例はないだろう。

wiki 楼閣
楼閣(ろうかく)とは、重層の建築物をいう。 たかどの、高楼のこと。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/12(金) 08:22:41.36
0959日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/12(金) 12:53:03.01
>>948
吉野ヶ里の "高床住居" と名の付いたアレって
拙い絵から "想定" して建ててるんだよな
デザインも高さも何案か出して会議で決まったっていう

囲いや方角的には確かに祭祀施設のような場だろうから
一族の宝や祭壇はあったんだろうけど、
そんな神聖なところで寝起きしたのかについては疑問が残る
本当に "住居" なのかねえ

寒冷期だし会議が足りんかったとしか思えない
後の大和には出来ても卑弥呼の時代に住むには無理ある
0960日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/12(金) 12:54:44.05
>>948
ちなみに出雲大社だって、記紀編纂の後で8世紀ごろに後付けで建ててるからなあ
0961日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/12(金) 18:04:05.64
>>959
祭壇は他にあるじゃん(南の方だっけ?)。
王がいたなら広い意味では「まつりごと」だが、祖先を祭るのは別の場所だろうね。
ただ、後世の神社でいうところの本殿(住居)にあたるのか、会議を行う拝殿なのか、それがわからない。
吉野ヶ里は衛星都市であり、王は常駐していなかったかもしれない。
0962日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/12(金) 18:09:20.23
もしも、

>>901
>日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
>天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
>これが建物Cである。

にあるように纒向の建物が崇神天皇の宮であれば、やはり王族は高床建物に住んでいたということになる。
神武や崇神は竪穴建物に住んでいた?
卑弥呼も竪穴に住んでいた?
魏の使いは、卑弥呼の竪穴を見て「楼閣高し」と感嘆した?
そんなことはないだろう。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/12(金) 18:50:52.83
だから浅い柱穴から偽造した遺跡を持ち出してんじゃないよ
高床建物じゃないんだろ
しかもスレ違いだし
0964日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/12(金) 18:57:40.68
>>961
普通に考えたら倉庫
いいとこ会議を行う拝殿(ただし厳冬は使えない)

住居なんて無理ってのは考えたらわかるよね。
0965日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/12(金) 20:03:55.86
纒向にしても吉野ヶ里にしても、倉庫とは別の高床建物があったことは確からしいので、あとはそれが拝殿か本殿かということになる。
あ、ちなみに個人的には九州説なので、悪しからず。
決して、纏向が邪馬台国だなんて言ってはいないからね。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/12(金) 20:06:22.67
.




(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html



.
0967日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/12(金) 20:09:14.99
.




7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html



.
0968日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/12(金) 20:26:49.59
土蜘蛛てのは高床建物に住む殿上人が竪穴住居に住む縄文人を馬鹿にした差別用語と思っていたけどそうなのか
0969日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/12(金) 22:36:09.81
wiki 竪穴住居より引用

竪穴住居自体は平安時代ごろまで造られ、さらに時代が下がった例で東北地方では室町時代まで造られていた。
特に近畿地方では平安時代にはほとんどが平地住居へ移行したとされる。

稲作文化を持ち込んだ、顔が平らな弥生人(渡来人)は、支配層すなわち殿上人として後世まで君臨した。
高殿に住まうやんごとなき方々と、縄文時代から続く竪穴住居に住む庶民は、血統からして違うのだよ。
平安時代の絵巻物で貴族の顔がのっぺりとして細い目で書かれているのは、実際にそういう遺伝子が多かったため(あとは肥満もあるが)。
光源氏は大変魅力的に描かれているが、紫式部らが想定していたのはぽっちゃりとした、金と権力と血統に恵まれた貴公子だ。
それが高殿に住み、奴婢に作らせた米を食べていた。
これが弥生時代から少なくとも室町時代まで続く。
戦国時代の下克上でだいぶひっくり返ってごちゃ混ぜになった。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/12(金) 22:54:27.92
>>966-967
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
      ____   〈⊃  }
     /⌒  ⌒\   |   |
   /( ●)  (●)\  !   !
  / :::::⌒(__人__)⌒:::::\|   l   
  |     |r┬-|       |  / < 反日教育に洗脳された
  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしで草wwww
  (___)      /
0972日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/12(金) 23:06:11.24
>>965
やんごとなき方々はさぞかし楽しく暮らしてたのでしょうなあ
0973日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/12(金) 23:21:07.26
・囲いに接して溝がある
・溝の下流の穴ぽこにカエルの骨が残っていた
・溝に流れた液体はアルカリ性であった
・糞石は見つかっていない
・イノシシやシカの骨がある
・浅い柱穴

この条件を満たす建物とわ!

「豚便所」(ググレカス)

念願の、海外との交流を示す証拠が、ついに、ついに、発見されました!!
0975日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 00:46:58.74
>>972
いやマジでそうなんです。
魏志倭人伝には、倭と魏で錦(絹)を贈りあっているし、平原遺跡からは中国から輸入した宝飾品がザクザク。
高床建物でも、寒い中国大陸と同じような厚着をすればいいだけです。
卑弥呼も錦の衣とガラス宝飾品で着飾っていたはずです。
中国の時代劇でも、寒そうに厚着していますからね。
帯方郡と交流していた上流階級は同じような格好をしていたかもしれません。
ただし庶民は粗末な貫頭衣を着て、竪穴住居で暖をとっていたのです。
0977日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 08:01:37.07
>寒そうに厚着
おいおい。
中国は版築で分厚い壁を作ってたでしょう。(横
庶民は土間。貴人は床。(下
0978日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 08:04:32.37
>>955
>吉野ヶ里遺跡の鉄器は正直なとこ弥生時代ではぶっちぎりダントツトップの内容だと思うが、
>なぜに兄弟遺跡のような平塚川添遺跡には鉄器が無いのだろうね。

鉄といっても、旧来の普通鉄(軟鉄)と、漢代の後半に発明されたハガネ鉄とでは、製法も威力も利用範囲も段違いだ。
その漢の最新のハガネ鉄文化を継承した魏王朝に連なる女王国の主要メンバー不彌国(吉野ヶ里)に鉄器類が豊富で、
非女王で其余の傍国だった平塚川添遺跡に鉄器が数無いのは頷ける結果だ。
つまり、三世紀のハガネ鉄器の豊富さから、女王国とそのメンバー国が俯瞰されるわけだ・・。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 08:06:57.11
女王国の主要メンバーだったのか、
非女王で其余の傍国だったのか、
は、ハガネ鉄器の出土量以外に判定材料はないのかな?
0980日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 08:49:51.30
>>979
判定材料のもう一つは、倭人伝などに書かれている末盧国上陸から女王国に到る陸行ルート。
ほぼ、一本道である。つまり末盧国に上陸後は、特定の(東南への)ルートに沿って(最新のハガネ鉄武器の威力を以て)突き進んだように思える。
はっきり言えば、最新のハガネ鉄武器で武装した親魏の女王軍が侵攻したということではないか。
それが弥生以来の倭奴国体制を打ち砕いた「倭国の大乱」だったのだろう・・。
0981日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 09:22:29.88
神武が宇佐に立ち寄った時の宮が「あしひとつあがりのみや」
古事記だと一柱騰宮、日本書紀だと足一騰宮
急いで作った仮宮ということで、古事記の表記だと柱が一本しかない?
日本書紀の表記と訓読みからは、床の高さが一歩分しかない低床建物であったと思われる。
逆に言うと、それは宮としてはおかしな構造だったので、わざわざそのように呼んだのだろう。
つまり、本来の宮の様式は、一つ柱でも低床でもないということ。
弥生時代において、すでに王宮の定型と破格の概念はあったということになる。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 09:25:16.81
>>980
時系列が違う。
大乱は2世紀後半、卑弥呼の治世は3世紀前半。
博多湾沿岸に上陸した何者かが鉄の力を以て侵攻したのだろうが、卑弥呼はその地盤を継承しただけ。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 10:12:02.51
>>982
卑弥呼がいつ共立されたかは不明だ、が、共立以前も邪馬台国のみの女王だったと考えるべきだろう。
但し仰せの通り、卑弥呼自身が大乱の指揮を執ったとは思えないので、その前の男王(後漢書に云う大倭王)が指揮したと考えるのが順当だ。

なお、博多湾岸に上陸したのでは、倭人伝や、魏略や、廣志と合致しない。
今は佐賀県、昔は肥前だったのであるが、末盧国唐津に上陸してそのまま東南へ進み、
佐賀市(伊都国)から吉野ヶ里(不彌国)へ至って、背後から博多湾岸を襲ったとみるべきだろう。
つまり平塚川添遺跡など朝倉・甘木・筑前町の邑は、真っ先に攻撃を受けて敗走四散した・・、発掘の状況はそれを物語っているように思える。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 10:41:52.36
次スレおつ
0988日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 15:00:28.22
>>797

41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ


とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw
0990日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 15:01:36.95
>>799

> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw
0992日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 15:02:26.69
>>801
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw

日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html

君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw
0993日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 15:05:17.79
>>802

http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。

安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです

関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw
0994日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 15:06:24.00
>>804
一切反論できない負け犬乙w
0995日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 15:11:18.25
>>722
倭人伝に鉄鏃を使っていると書かれていて、南の狗奴国と戦争していると書かれているのだから、これはもはや明らかに勝負あったね。
0996日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 15:29:16.05
次スレももうあるようだしここは埋めるか

2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし
0997日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 15:29:43.75
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる

なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い

そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった

つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる
0998日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 15:30:16.27
4 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:41.00
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン

https://i.imgur.com/31R7rP6.jpg

熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ
これは免田式土器の分布とも一致する

https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg
0999日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 15:30:35.64
5 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:55.57
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな

309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg


当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう
1000日本@名無史さん
垢版 |
2021/03/13(土) 15:31:48.72
8 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:26:10.90
考古学的にはどう見ても伊都国は当時の先進国
それは紀元前からの流れ

福岡、国内最古級の「すずり」か 糸島市の御床松原遺跡
https://www.tokyo-np.co.jp/article/71187
> 福岡県糸島市の御床松原遺跡で出土していた板状石製品は弥生時代中期前半(紀元前150年ごろ)で、国内最古級のすずりとみられることが分かったと
> 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が28日、九州考古学会総会で発表した。
> 柳田氏は御床松原遺跡の発掘報告書で「くわ」とされた石製品(長さ18・6センチ、幅6・8センチ、厚さ1・2センチ)を鑑定。
> 柳田氏が2017年に墨の付着跡などから完形品のすずりと発表した薬師ノ上遺跡(同県筑前町)の石製品(長さ15・3センチ、最大幅6・3センチ、厚さ0・7センチ)と同じ形状と分かり、
> 御床松原の石製品は製作途中のすずりと判断した。

キナイコシの発言には考古学的裏付けが全くありません、ただの嘘です
10011001
垢版 |
Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 144日 18時間 45分 29秒
10021002
垢版 |
Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。

▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/

▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

ニューススポーツなんでも実況