邪馬台国畿内説 Part650
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1602945069/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の 性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし 徐福が海幸彦、山幸彦の起源である。
激怒先生、一発お願いします。 >>990
祇園山の甕棺出土の画文帯神獣鏡片に穿孔がほどこされていて、こうしたペンダント形のものは伝世するので、甕棺の埋納は4世紀初頭だとするも、
鏡片に穿孔されたものは弥生V期〜庄内式の時期から出土しているとする論述がある。(「破鏡と四方転びの箱」高橋敏・27p)
また、穿孔されたペンダント形の鏡片が伝世するのが常であるとの記述もみあたらない。
完形鏡が伝世するとする意見はあるようだが、破砕された鏡片が伝世するとは聞かない。
いずれにしても、祇園山の穿孔された画文帯神獣鏡破片は庄内式期のものとするのがよい。
出土甕棺が西新式であることも考えると、祇園山の墳裾の築造は西新式期(庄内式期)とするのがよい。 祇園山の墳裾の築造時期については、各種データは西新式期(庄内式期)を指し示している。
そして、この時期は卑弥呼の時代であり、祇園山の墳墓が造られる背景としても、
卑弥呼がいた八女・山門の邪馬台国を想定すると整合性のとれたストーリーを構築することができる。
祇園山の墳裾部が卑弥呼の墓であることは、まず間違いないだろう。 >>745
大和説って、史料事実をどうでもいい扱いをする「皇国史観政治思想」の、
結論先にありきがルーツだもんな >>748
>?よくわからんけど、外国との云々と、畿内に政権があったかどうかは別の話では?
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、バツであり、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」であり、
「(大和)日本國者倭國之別種也」であり、
大和は「(九州倭國の)東征毛人五十五國」の中の一国の、
旧小国の(倭國の)附庸國だったんだよ。 >>749
>昔はアッチに何里コッチに何里なんて説は誰も相手にしなかった
自分たちの時代の測量がろくなもんじゃないって知ってたからね
倭人や俀國人は、隋代においても、
一般民は「夷人不知里數,但計以日」であったんだよ。 >>752
>3世紀前半の博多湾沿岸では大和型庄内甕の模倣制作や瀬戸内系製塩、山陰玉作りなど
東の本州との文化的交流が密になる
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」があったのだから、
筑紫型庄内甕が先にあり、大和がそれの模倣製作をしたの。 >>753
>それこそ巻向の遺跡じゃないの?
大陸様式を取り入れた巨大な建造物、地方の豪族が集まってた証拠の地域独特の土器の出戸
巻向は祭祀遺跡に近いから、土器は出ても生活の痕跡はあまりない特徴のある遺跡でしょ
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」があったのだから、
九州倭國からの征服軍が大和やその近辺を征服し、
毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を征服して彼らを生口や守墓人にし、
地方の市を監督する「大倭」職になって、九州倭國の土器や墓の模倣製作をしたの。 >>763
大和説者って、自分から殆ど史料根拠を言わず、
九州側から言って上げても知らん振りして、
「絶対に言っていなかった事」にしかしないんだな
印象操作そのものだ
霊感商法と一緒 >>765
>希薄ではないから九州の学者も畿内説
九州の公的学者らも、
「南→東」や「畿内」などの、
史料事実の曲解や否定の・・・・騙しの詐欺師だから、
国民や世界の人々を騙そうとする人種。 >>767
>巻向駅の近くには大型の建物群跡が発見されてるだろ。
3棟がバラバラではなく東西に方位を揃えて並んでいて、中心となる建物は現代の3階建ての高さをもち、南北約20m×東西約12mもある高床式神殿。
規模の小さい奴は、地方の豪族が宿泊した付属の建物だろ
纏向は、九州倭國の「東征毛人五十五國」に征服され、
地方の市を監督する「大倭」」職が置かれた地。 >>768
>高床式というのも印象操作だね
実際に大量の飯炊き土器は地面部分から出土している
高床式の床下で炊事してたのか?w
ふーん、成程。 >>769
>だから、その時代には既に大規模建造物もあったし、魏書の皇子の時代より前から畿内には政権があったんだよ
そういう話
だから九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って、
地方の市を監督する大倭職があったの。
そういう話 >>772
>巨大古墳が代々くらいの間隔で続く事実
もちろん人もいたのが確実だなあ
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って征服支配され、
生口や守墓人にされて、巨大墓を造らされたのが、確実だなあ。 >>773
>建物の周りは柱列で囲まれていたようで、柵などで遮蔽された場所と考えられている。
魏書に描かれた様子に似てる事は似てるわな
寝室やトイレや台所も見つからず、
「居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞」にも合わないし、
「以婢千人自侍」の場所もないなあ。 >>775
>>3棟がバラバラではなく東西に方位を揃えて並んでいて
>全てが同時期に建造されたものでは無いと判明しているが?
ふーん、成程。 >>778
>>高床式というのも印象操作だね
>という根拠をまったく言わないのは
九州説が懸命に印象操作で負けを取り戻そうとしてる証拠
「高床式」の残骸があった、という事の証拠を全く言えず、
「南≠東」などで負けた大和説が、
懸命に印象操作で負けを取り戻そうとしてる証拠 >>782
>それと
「集落構造については未解明な部分が多いですが、遺跡内では関東〜九州地方よりもたらされたと考えられる外来系土器が多く出土することから」
いまじゃコレが共通の認識だろ。
筑紫の土器は出土していなかった筈。 >>785
大和説者って、
ニセ情報と印象操作で
よく知らない人を騙す気まんまんで
詐欺師体質丸見えだな >>791
ほらまた、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説が、
ニセ情報と中傷しか打つ手がないって証拠が、また出た >>793
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」・・・
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、バツ。 >>793
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」・・・
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、バツ。 >>822
つまり「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は白痴なので
大和説が完全に破綻したと、自己主張してしまった >>824
>九州と奈良にはほぼ同時に我々が思ってるよりちょっとスゴめの政権(地方の王権)があったのだよ。
大和日本國は、九州倭國の「別種の旧小国の大倭職の国」だし、
大和の前方後円墳は、冢ではなく、前方後円墳の筑紫の那珂八幡の進化型だから、
3世紀末以後だよ。 >>855の訂正
鏡片は、殆ど「女王卑弥呼から親愛なる部下へのペンダント的に下賜された」ものであり、
一部は壹與からの下賜があった可能性があるだけであり、
下賜された「東征毛人五十五國」の将軍らが征服地で埋葬された時に副葬されたモノになり、
卑弥呼や壹與の後であり、四半世紀位後の墓だ。 >>871
だが大和説は、
大和に卑弥呼がいたと証明するどころか、
大和はますます「卑弥呼がいた事を否定するもの」が出始めている >>890
>道教を優遇した魏で三角縁が作られたのは納得いく
洛陽からは0〜1枚しか出土していないから、「優遇」にならないし、
それでは列島の500枚以上の△の根拠にならないから、バツ。 >>932
大和説の人って、そんな捏造歴史を作って何が楽しいの? >>934
>何故朝貢の年数が景初2年じゃなくて3年だったはずって>、
議論になったかと言えば
直前まで道教の乱があったからこの年の朝貢は無理だったはずってのが学説だろ
史料事実は、
「景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都」
だから、「戦中遣使」であった。 >>938
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」などの史料事実や史料実態に、
反論出来ないんなら、また大和説の負け >>938
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」などの史料事実や史料実態に、
反論出来ないんなら、また大和説の負け >>938
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」などの史料事実や史料実態に、
反論出来ないんなら、また大和説の負け >>941
伊都国が女王之所都の出先機関なのだから、
「王遣使詣京都帶方郡諸韓國,及郡使倭國、皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王,
不得差錯」が、
伊都で魏からの返礼品を皆臨津搜露することが出来た特殊事情
これが女王國議論の要だよ >>943
ウソをつくことでしか、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料実態の九州説に抵抗出来ない大和説
あわれ >>947
何故?「朝貢の年数が景初2年じゃなくて3年だった」筈?、
とかいった議論になったかと言えば
直前まで道教の乱があったからこの年の朝貢は無理だったはずってのが大和説だろ?
それを、言った本人が作り話と認めました
だから大和説は永遠の負け犬 >>950
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実に関する言い訳に必死な大和説者ら。
具体的なことが何も言えないお前の負けだよ >>952
この分だと景初四年の鏡も別に魏の鏡で問題ないはずだって言いだしそう
前から、
「景初3年12月「」の次は「景初3年後12月」であり、
その次が「正始元年2月だ」と言ってあって、大和説は反論が出来ない
史料事実や史料実態や時系列が理解できてないから >>954
「はずだから」の「記憶の説明」の一言だけで、
「ウソつきまくる九州」なんて誹謗する大和説者らは
もはや札付きだな >>957
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
そんな「史料事実の曲解や否定」のブラフで騙せるほどに
渡る世間は甘くはないぞ
人生なめるな大和説者。 >>966
また「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」や、
オウム返しされての誤魔化しか
それらの反論出来ないなら
大和説の負け >>967
また「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料実態の指摘に対しての誤魔化しか
それらの反論出来ないなら
大和説の負け >>977
と言うなら、なんで、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料実態の指摘に対して、誤魔化しか出来ず
反論できないの?
大和説学者らの大和説は負け犬だなあ >>978
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料実態の指摘に対しての誤魔化しか反論出来ないのなら、
大和説学者らの負け。 >>980
Intcal20でもダメ押しだったなぁ。
日本の年輪が参加しても、ますますバツであったし、
九州説は鉄板。 >>982
>北部九州では漢鏡6、7期から鏡の破砕が行われていて、漢鏡7期には画文帯神獣鏡が破砕されたそうだ。
この漢鏡7期は庄内期に当たるという。
「日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期」(上野祥史・353p)に詳しい。
祇園山は、ここでも庄内式期ということになるな。
ふーん。 >>983
つまり反論できない
はい、大和説の負け >>990
>>祇園山は、ここでも庄内式期ということになるな。
>ならないな
穿孔品が副葬されるのはレアケース
穿孔品とは「鏡片」の事か?。
それなら、筑紫から沢山出土し、
その他は、播磨や阿波や大和や東北方面や半島などに1枚位の例ばかりだ。
つまり高確率で卑弥呼や壹與からの「ペンダント下賜」ということ
しかも実例は卑弥呼の時代頃だけ
二重三重に、祇園山は3世紀半ばだ >>996
なにも反論できない大和説
つまり負け犬 >>122
>>穿孔品とは「鏡片」の事か?
>鏡を割った破片に穴を開けて、ペンダント式にしたもののようだ。
こういうふうに孔を開けてペンダント式にした鏡破片は、
人から人に伝えられるものであり、1代限りのお宝でないという意味のよう。
いや、与えられた部族のお宝、というよりは、
個人から個人へのお宝、という側面が強く、その与えられた個人が亡くなった折には、
その埋葬墓に副葬して上げるべきものだ。
>したがつて、ペンダント式に整形された鏡片自体は庄内式期につくられたものだとしても、伝世品であるので、祇園山の甕棺に副葬されたのは4世紀初頭頃だと言うわけ。
しかしまあ、ペンダント式に穴あけた鏡片は伝世品だというのは、脳内劇場だよ。
従って、与えられた人の一代限りのものであり、
だから、与えられたのは、その墓が出来た20〜30年位前の事だろう。 一年365日、朝昼晩このスレに張り付いて、
その結果間違えていた>>1君の人生大惨敗の原因は、
卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。
卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからその時代をとんでもない時代=BC660年に設定したのだ。
卑弥呼を隠すことは、卑弥呼から100年前の倭国王帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。
また女王国であった事実を神武東征紀という武勇伝で男王国のように塗り替えた。
そして女王と婿の関係を新称号「天皇・皇后」で男王優位に置き換えた。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。
>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜! 鏡片は、敵味方区別のため東征軍の将兵に割符として配ったモノ
今でいう軍隊の「認識票/マイクロチップ」だな
だから鏡片が出るということは、戦死した兵(又は縁者)の墓だったということさ >>112の小訂正
この分だと大和説者は、「景初四年の鏡」も、「別に魏の鏡で問題ないはずだ」って嘘つき騙しを言いだしそうだな。
前から、
「景初3年12月」の次は、景初3年の「後十二月」であり、
その次が「正始元年の2月だ」と言ってあって、
「正始元年の正月が存在しない」という事に、
大和説は反論が出来ない
史料事実や史料実態や時系列が理解できてないから >>127
>2020年は何の成果も無かった畿内説あわれ
何を偉そうに。 成果が有ったのは、「阿波」だけだろ! @阿波 >>128
>大和説は反論が出来ない
現実を見ろよ
テンプレに反論が書いてあって、
史料事実や史料実態や時系列が詳しく解説されてるから >>130
>史料事実や史料実態や時系列が詳しく解説されてるから
無知の井戸かわず(蛙)! @阿波 >>122
>それなら、筑紫から沢山出土し、
>その他は、播磨や阿波や大和や東北方面や半島などに1枚位の例ばかりだ。
いや、穿孔した鏡片は古墳から22件出土。うち半数が九州外だ。
弥生から庄内併行にかけては8件でほとんど九州
それと同じ時期に墳墓でなく集落から出たのは23件、過半数が九州で、特に大分県に10件と、非常に偏っている >>129
阿波の成果なんてすべて泡だろ
所詮は水の泡w >>135
研究者(畿内説)が採用するのは研究者の編年
お前らチョンの年代観など不要 >>135
プロが作ったちゃんとした案を使うんだよ >>76
>また、穿孔されたペンダント形の鏡片が伝世するのが常であるとの記述もみあたらない。
庄内ころの鏡が布留1の甕から出れば、伝世で確定だが >>79
×男はセンダイクジホンギを読んで時系列を整理するところから始めなよ。
大大和成立時期の整理がついていない >>81
筑紫型庄内甕は九州と出雲が時期的に近いはずだよ >>82
大倭の時代はそれこそ卑弥呼時代。
イクメの治世の事
もしくは五瀬の東征の事
学術的にはそのどっちか。 >>87
だから大倭が成立する時期を整理することと何度言えばw >>89
トイレは見つかってる。どうでもいいけど少しは調べてからにしなよ 巻向のHPに出てる。確認する事だね
公式見解
九州式土器が出たので大騒ぎになった 古墳が作られるようになったのは奈良より出雲が先でしょ。
出雲とつながりが大きかった初代神武朝が影響を受けるのは自然なこと
大型化するかどうかはまた別の話 典型的な九州説
大和に卑弥呼が居たのなら九州には居なくなると思って焦ってるだけ >>104
100年以上もたって書かれた書物だから誤記だったんじゃないかって話でしょ。
史料事実かどうかの問題じゃない
文字だけ読んでそれが証拠だったらそんな簡単な話はないし、余計他の文書も網羅してからモノを言うべき >>108
>これが女王國議論の要だよ
ですよね〜
九州説は伊都国の機能をどうとらえるかを明確にしなければならない。
伊都国長官は、物部氏も、タジマノモリも経験している
大和の出先機関だったのに、東征関係者が長官になってる >>110
出ました、クズ男ww
調べれば済む程度のレベルの低い議論なのに、まだここで口先だけで反論するカルト信者w >>112
国産鏡に時系列も何もないから検証が必要というだけの話
俺様の考えた歴史が資料実態ではない >>128
日本の天皇陛下と違って大陸では死を年末まで隠した
テンプレ踏まえて自分なりの裏付けをとってから口を動かせ 纏向遺跡は物部の遺跡であり、ここに卑弥呼はいない。
纏向遺跡が物部の遺跡だからこそ、崇神時代の物部 十千根からさかのぼること6世代、
ちょうどニギハヤヒやウマシマジの時代と纏向石塚や勝山の時代が符合する。
そして纏向遺跡の瀬戸内の強い要素も、
ニギハヤヒと共に大和入りした讃岐三野物部、播麻物部、筑紫聞物部、筑紫贄田物部などの記述で説明がつく。
おもしろいのはそれぞれ三人称複数で書かれている事である。
「彼ら播磨の物部たちは…」という書き方である。
では一人称、つまり主体はどこであるのか。
筑紫、讃岐、播磨に囲まれた有力地域とは吉備である。
つまりニギハヤヒとは吉備から来たのであろう。
ニギハヤヒは吉備から播磨や讃岐や筑紫の勢力を引き連れ大和入りした。
そして、あまり取り上げられることがないが物部の強い地盤である瀬戸内の有力地域がある。
それは大阪南部泉州である。
たとえば天神本紀に出てくる例でいえば、田尻物部は泉南の田尻漁港のあたり、
二田物部は泉大津市二田、久米物部は岸和田の久米田池周辺、大豆物部は堺の大豆塚
弦田(つるた)物部は堺の鶴田池周辺、五部の大庭造は堺の大庭寺、
などなど面白いように居住地が比定できるのである。
そしてなにより纏向石塚に先行する前方後円形周溝墓が和泉府中近辺に出る。
物部の地盤である泉州が前方後円形周溝墓で纏向より先行するのである。
つまり纏向遺跡、纏向古墳群とは物部の遺跡なのである。 >>96
穂高神社、乗鞍神社、弥彦神社など、何故菊の御紋なのかもそうだよね >>104
「戦中遣使」だったのは邪馬台国側
だから245年の武内宿祢が朝貢したときに敵を狗奴国と答えた >>153
物部トオチネと崇神が同一の時代の人物だとわかってる辺りはすごいよな
あとは物部東征が二回あったと気づけばよいだけになる。
東征の前段階では、第一次物部東征時に妥協して物部の姫イカガシコメを嫁に貰ったクニクルの息子
フツオシマコトが西軍として都万入りする。
クニクルの代で、磯城王家に物部の血が入った。
しかし、腹違いの兄弟の大彦とは当然に仲が悪かった。
父親の後を受けて武内宿祢も都万側になる。腹違いの額田宿祢も都万側。
ヒボコ勢を味方にするため、タジマノモリも招かれた
魏書にも書かれたメンバーである
敵は、出雲、吉備、ヤマトの磯城王朝
この段階でヤマト側が普段のルート九州都万から魏に朝貢出来るタイミングかどうかはもう分かると思う
対して磯城王朝側は9代のオオヒビである開化天皇のあと、記紀では出てこないヒコイマスが10代王になっていたが
東征前に没する。ここで磯城王朝が分裂状態になった。
兄彦多津彦、弟サホ彦(妹にサホ姫)。兄の方は、丹波道主御子とも彦道主御子ともいわれた。
これが魏書の男王、ヒコミチヌシミコ
彼は都万側の軍勢が来ることを知っており、拠点を亀岡に移した
この時点で崇神ことミマキはすでに死んでいた。
物部本体は瀬戸内海ルート。今回は吉備と正面衝突の作戦だった。
出雲ルートは、物部トオチネと物部朝倉、宇佐の兎上王、宇佐八編田、タジマノモリ
千家の韓久狭と、ウカツヌクが手引きし、出雲軍は総崩れになり17代出雲王、山崎帯は降伏する
その時に死んだのが振根。
記紀の出雲神宝事件のために、彼は書き直された。
東出雲王宮の後のカモス神社はトオチネに占領され、最後のスクナ彦、太田根は降伏する
この太田根が、野見宿祢である。 物部に対して中華が焦れ込む理由がわからん、やはり素直に卑弥呼に対して。ひょっとすると卑弥呼は張魯の娘。 物部本体はイクメ王と、卑弥呼豊玉姫。トヨ姫と豊彦の子供たち。
戦いは8年にも及んだ。
しかし安芸の国に上陸した段階で豊玉姫が病気になり、防御に楽な厳島にて養生にあたる。
しかし248年には亡くなってしまう。
トヨタマヒメは一番年長だったイクメを司令官に任命、戦争を続行させていた
戦時中だったので、そこに古墳は作られず、仮埋葬だったらしい。簡易的な何か。
張政はトヨを後継者に指名(つーか、8年以上も一緒にいたわけだw)総司令官イクメはトヨの部下になる
タジマ方面からはタジマのモリが先に大和入りし、占領を始めた
イクメは生駒山地でサホ彦に足止めを食らい、大和入りが遅れた
生駒山地はイクメから来ている
次第に優勢となる西軍に熊野勢が加わる。オオヒビの物部系の娘にミマツヒメが居た。
彼女は「弥馬升」と書かれた。弥馬獲支は、水口宿祢の誤記らしい
ヤマトの当時の卑弥呼は、先出のサホ姫。征服完了前のイクメはなんと彼女と組んでしまう。
姫巫女と組んだ方が統治が楽だと踏んだらしい(これだと第一次物部東征と同じ轍を踏むことになる)
これが原因で、目上のトヨやトヨヒコと揉めることになり。タジマのモリも同じ銀のハンコだったこともあり
朝政が帰国した後に、野美宿祢をヤマトに引き入れ、全員を奈良から追い出し、東征は終わった。 我甚哀汝、明帝は何故ここまで言うのか?、物部には言わないでしょ そんで跡継ぎ宗女壱輿に266年天円地方を学ばせたんじゃないか?卑弥呼墓、箸墓は張政等がつくったんじゃないのか?と考えているのが現段階私の妄想。陳寿は卑弥呼が誰だか知っていると思う、だから隠して書いた。 >>161
時系列的に、二度目の東征時期はもう確定できてますからあとは候補ですよね。
ヤマトの太陽の卑弥呼、サホ姫。
月の卑弥呼、トヨ様(豊来入姫・豊鋤入姫)
ヤマト姫(出雲本では、加茂家説と、物部イクメの娘説に分かれている) >>161
ただし、時代が50年くらい遡るとモモソ姫の時代になってしまうから
よう分からん 明帝はなぜ遠路はるばる朝貢に上がったのか難升米からその理由を聞いたから
我甚哀汝(貴方を不憫に思う、気の毒に思う)になる訳だ
理由とは不安定な国内情勢への不安だろうね
大国の皇帝が自分と同じ立場の卑弥呼の政治不安に同情しているのである 太陽だの月だのと言いつつ向きがめちゃくちゃな前方後円墳w
しかも向きがめちゃくちゃな前方後円墳で統一だとかw
学者というよりマジでボケ老人だろw んで、張政は、一緒に大和入り、もしくは少なくともトヨを指名した安芸までは来てるわけで
そこから随伴した役人がヤマトの位置を書けばよかったのに何もしなかった。
トヨと八坂入彦に見送られたんだったっけ?
つまり、ヤマトの位置の話なんて魏書を100年以上たって書いたときには、何かの紙切れか報告書になってて
時系列とか通過した場所とかはその時の物で、
張政の時には記録する意味すらなかったのかもしれない。
場所は明らかになっていたから。
年号が割り振られる前の卑弥呼の記述はあいまいで、伝聞、人の口からきいた程度の話でしかないような気がする。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. >>153
和泉府中の前方後円形墳墓の遺跡名、書けよ。
自信ないのか。 >>169
>和泉府中の前方後円形墳墓の遺跡名、書けよ
弥生時代における首長層の成長と墳丘墓の発達
岩永省三
突出部付き円形墳丘墓(周溝墓)には、後期前半に型不明の和泉市府中SX05、
後期に型不明の岸和田市下池田SD001がある。
纏向石塚をこれら平野部の円形墳丘墓の系譜と見る説(小山田1994)ある.
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こっちはお前のような妄想ではないのでね。 >>164
クニクル大王、孝元の物部系の息子である磯城家の血を引くフツオシマコトが都万入りしていたということが、ヤマトの出先機関である伊都を使うことができる大義名分になり、別にその手の人たちが、狗奴国が虐めるので困ってますと言っても問題ないことになる。
実際大彦勢とは揉めてばかりだったから。
これで
ヤマト側が朝貢出来なかったら理由。
物部勢力が大和を名乗れた理由。
この状況がそろったことになる。 >>124
>
その与えられた個人が亡くなった折には、そのは埋葬墓に副葬して上げるべきもの。
個人から個人へ与えたお宝が、その受け取った人が死ぬと墓に副葬されるということなら、それ、伝世品じゃないよな。
1代限りの個人のペンダント。 なので、出雲王家本は
ヤマトは昔からあって、卑弥呼も居たけど、年号の振られた卑弥呼は九州の卑弥呼で、偽装ヤマト国。
魏書で考えてる邪馬台国は都万の事。という主張の説明。
武内宿禰のお父さんが磯城家の大王の物部系の奥さんの子供だった。
だから自分の家のこととして魏に説明しても嘘にはならない状況だった。 >>171
なんだ、東瀬戸内系の突起付き円形周溝墓じゃないか。
この突起付き円形周溝墓が前方後円型墳丘墓につながるという話は耳タコだが、その突起が撥形に広がる例はない。
つまり、それぞれ別物。
唯一、橿原の瀬田遺跡の突起付き円形周溝墓の突起が撥形に広がるが、これは纏向の東田大塚古墳の前方部を真似したものだろう。
築造の時期も2世紀ではなく、3世紀半ば頃のようにみえる。
このようにみれば、瀬田遺跡の突起付き円形周溝墓の前に、纏向には周濠がぐるりと巡り前方部が陸側から切り離された石塚などの墳墓がすでに造られているので、
瀬田遺跡の墳墓が石塚などのルーツということにはならない。
箸墓吉備系説者の願望が、突起付き円形周溝墓を纏向の前方後円型墳墓のルーツに仕立て上げているのよ。 >>175
>その突起が撥形に広がる例はない。つまり、それぞれ別物。
ほんと負け惜しみの強い女々しい男だね。
形状というのは時代とともに発展していくのだ。
形状の一部の違いをもって別物というなら、
纏向石塚、ホケノ山と箸墓は別物でいいか?
>瀬田遺跡の突起付き円形周溝墓の前に、纏向には周濠がぐるりと巡り前方部が陸側から切り離された石塚などの墳墓がすでに造られているので、
瀬田遺跡の前に何で纏向石塚が造られてるんだよ、
自分の妄想を軸に考古学的史実を勝手に作るなら」zarakoku並みだぞ。 >>174
故に、張政は、最後まで西軍が狗奴国と戦っていたと思い込んでいただろうね。
フツオシマコト、クニクルの息子が居れば絶対に疑われない。
吉備国は、熊野系物部勢の血が入ってない磯城家だから、大彦と同一視できるもん ニュー速でもらってきた分かりやすい資料(要保管)
O1b2(L682) 朝鮮人固有の遺伝子
https://i.imgur.com/RBOQhB6.png >>140
は?崇神天皇が出てくるだろ
読んでからものを言え まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>181
どれが奥山だよ
お前また発病してんだな このように
九州説とは、証拠も出せないことを断定する病気
信用されるわけがない >>181
本当だ。暇なやつやなw さすが無職wwwww >>188
661 ニューノーマルの名無しさん 2020/10/22(木) 15:03:12.07 ID:FlFqPovC0
九州説は学問の世界では絶滅危惧種
10年後は旗振り役がいなくなって自然消滅だろう
俗説としては、今でも古田の亡霊が彷徨ってるようだが、安本の亡霊も彷徨うことになるだろうけど 徐福の子孫なんだろ?
徐福は新始皇帝の親父の呂不韋
呂不韋は失われたユダヤ支族の末裔の一団を引き連れて
永遠なる皇統を残すために日本へと参られた 徐福集団の渡来が事実なら、日本はそこからもう奈良時代 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>191
それがどうして奥山なんだ
お前って病気? >>189
>わかりやすいなww
オメと、老害と、その仲間たちが消えゆくのを、今か今かと待っているのが九州にはなんぼでもおる。
心置きなく逝ってくれい。 要するに、理由も言えない
証拠ひとつも出せない
でも結論がある
断定する
これ、九州説そのもの 倭人伝が書き記す通りだ、
男は黙って、東南へ進め! >>198
他人のことをそう心配するな。今まで死ななかった人間はいない。 >>133
>ど素人の年代案など誰も使わん
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らの「年代案」など、
まともな国民は、誰も使わん。 >>137
「畿内」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使わず、
まともな学者や研究者が採用するのは、
史料事実やそれの史料批判されて得られたまともな編年。
お前らのような、「南→東」は「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料事態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説者らの年代観など、
不要。 >>147
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの嘘吐き騙しが、
典型的な大和説者。
九州に卑弥呼が居たのなら、
大和には居なくなると思って、
焦ってるだけ >.148
>100年以上もたって書かれた書物だから誤記だったんじゃないかって話でしょ。
史料事実かどうかの問題じゃない
違うな。
同時代の梯儁や張政や裴清や郭務ソウらのような、
客観性の高い同時代の役人らの拠る、実地の見聞計測の情報は、信頼性が高いが、
はるか後代の人間の「自己解釈に拠る」記載情報は、信頼性が低い、という事なの。 >>149
>>これが女王國議論の要だよ
>ですよね〜
九州説は伊都国の機能をどうとらえるかを明確にしなければならない。
ですよね。
大和説は、伊都国の機能をどうとらえるかを明確にしなければならない .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. >>176
>形状というのは時代とともに発展していくのだ。
それが、東瀬戸内の突起付円形周溝墓の場合は、特記は発展してないんだよ。
纏向に石塚が造られる200年前後の時期にも、その突起はそれまでとおんなじなの。
前方後円型墳墓は前方部が最初から撥形に開いており、双方のルーツが別であることがまるわかり。
そして、瀬田遺跡の突起付き円形周溝墓と九州の小郡の津古生掛古墳はよく似ているが、
前者は2世紀後半、後者は3世紀後半とされる。
突起部分が陸側から切り離されないままだ。
一方、3世紀初頭の纏向の石塚古墳は前方部が陸側から完璧に切り離されている。
石塚に続く纏向の墳丘墓も同じく、完全に切り離されている。
突起付き円墳と前方後円型墳墓は別系統のものなのがよく分かる。
>瀬田遺跡の前に何で纏向石塚が造られているんだよ。
調査した奈良文研は、この周溝墓は2世紀後半の築造としているが、
この2世紀後半という時期を疑う人はいるようだ。
しかも、その突起は纏向遺跡の東田大塚の前方部の形と非常によく似ている。
つまり、時期が100年くらいずれてるのじゃないかというわけ。 >>209
瀬田遺跡の突起付き円形周溝墓の突起が比較的長いのは、周溝幅が広くなったためにそうなったのであり、
このように周溝が広くなるのは九州山門の権現塚と同じ傾向によるものとみられる。
なので、瀬田遺跡の突起付き円形周溝墓は3世紀半ば頃の築造ではないかというわけ。
実際、奈良文研などは、瀬田遺跡の周溝墓は「弥生終末期」としている。
弥生終末期は庄内式と重なる時期だ。 魏志倭人伝に邪馬台国の位置は会稽東治の東つまり
沖縄や台湾になる辺りと書いている
一方畿内からは魏の年号が入った三角縁神獣鏡や前方後円墳など
邪馬台国にあると魏志倭人伝に書いてるものがある
考古学と魏志倭人伝に書いてある事が一致するのが畿内 >>209
>前方後円型墳墓は前方部が最初から撥形に開いており、双方のルーツが別であることがまるわかり。
それは屁理屈であり、造り出しがない前期の前方後円墳と造り出しがある中期以降の前方後円墳は別系統と言ってるようなもの。
>調査した奈良文研は、この周溝墓は2世紀後半の築造としているが、
この2世紀後半という時期を疑う人はいるようだ。
しかも、その突起は纏向遺跡の東田大塚の前方部の形と非常によく似ている。
つまり、時期が100年くらいずれてるのじゃないかというわけ。
あのさぁ、地層とか土器で時代を決定するのでね。
今時100年もズレるなんてことを誰が言ってるのか、君は明記してないし。
ただ自分の願望を述べてるだけ。 前方後円形周溝墓がでた下池田遺跡だが、
また、泉州地域だけでなく、河内(大阪府東部)や近江(滋賀県)、
山城(京都府)、摂津(大阪府北西部)、播磨(兵庫県)、
吉備(岡山県)などの広範囲の地域の土器やそれらの影響を受けた土器なども多数みつかっており、
池上・曽根遺跡(和泉市・泉大津市)に次ぐ弥生時代中期の物流ネットワークの一拠点に位置づけられる集落だったことが考えられます。
という個となんで、これもろに物部なんだが。 「突出部を廃して円墳化した西山谷2号墳」
前代にいったん登場した突出部を廃して円墳化した西山谷2号墳の墳丘形態は以後しばらくの間、
吉野川下流域北岸地域で再現されつづけ、ある種の地域的規範が形成されている。 @阿波
https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12408409524.html 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>210
>なので、瀬田遺跡の突起付き円形周溝墓は3世紀半ば頃の築造ではないかというわけ。
妄想乙
庄内0っていってるよ >>128
>「景初3年12月」の次は、景初3年の「後十二月」であり、
>その次が「正始元年の2月だ」と言ってあって、
>「正始元年の正月が存在しない」という事に、
>大和説は反論が出来ない
ちょwwwww何言ってんの?w
「景初三年後十二月」の次の月は「正始元年正月」だぞw
「其以建寅之月爲正始元年正月,以建丑月爲後十二月。」
これを理解していないことが露見したなw
殷正(丑の月=正月)だったものを、夏正(寅の月=正月)に復したわけだ
つまり
殷正 子:十二月、丑:正月、 寅:二月
↓ ↓
夏正 子:十二月、丑:後十二月、寅:正月、卯:二月 >>216
庄内0なら、瀬田の突起付き円形周溝墓の整円形円墳はまだないよ。
この時期は、まだ不整円形だね。 >>222
現実より思想を優先すると
九州説のように滅ぶよ >>214
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E8%B0%B72%E5%8F%B7%E5%A2%B3&fr=top_ga1_sa&ei=UTF-8&ts=6937&aq=1&oq=%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E8%B0%B7&at=s&ai=6a01d58f-0c45-4aea-bae1-7e12d24410de
阿波ちゃんとしては、どうすんの、これ。
石室自体はいい形してるけどね。
大和と強いつながりだって。
博多で鉄器を一括取得して、それを大和まで運搬するのに、徳島のルートが活躍したというような理解がなされているね。
うむ、と唸るところだ。
瀬戸内海ルートは北岸ではなく、南岸が活躍したと? >>224
アドレスから目的のサイトにすぐつながらないね。
このアドレスの画面の上から6番目の「西山谷2号墳 レキシルとくしま-徳島県」を開いて、見てちょ。 >>222
>現実より思想を優先すると
整円の墳形は、箸墓などをはじめとして3世紀半ばころから。
それ以前の不整円形の墳形は弥生の象徴。
瀬田遺跡の周溝墓は、ほぼ整円の墳形になっている。
3世紀後半の初頭頃の築造だね。 >>213
下池田遺跡の円形周溝墓は、庄内式期とされているね。
この時期には、纏向では石塚などの周濠が全周する前方後円形の墳丘墓が造られていて、それらと比べると、下池田の円形周溝墓は明らかに別系統の墳墓ということができる。 >>212
この瀬田遺跡の円形周溝墓の年代について、2世紀なんてことはない、もっと新しいと言ってる人がいますね。
https://uminohakata.at.webry.info/201605/article_2.html
皆、ちょっと首を傾げてるのですよ。
ワイだけじゃあ〜りません。 >>228
九州説とかやってると頭おかしくなるのかな >>147
>典型的な九州説
大和に卑弥呼が居たのなら九州には居なくなると思って焦ってるだけ
この男も、史料批判が出来ず、
典型的な「皇国史観大和説という結論先にありき」の、・・・・アホ詐欺師。 >>148
>100年以上もたって書かれた書物だから誤記だったんじゃないかって話でしょ。
史料事実かどうかの問題じゃない
ダメだ。
同時代の役人たちに拠る実地での見聞計測の記録は、非常に信頼性も確率も高く、
後代学者らの「自己解釈に拠る内容説明」文書や、
(記年や記銘を伴わない)考古発掘物の解釈などは、信頼性も確率も低い。
文字だけ読んでそれが証拠だったらそんな簡単な話はないし、余計他の文書も網羅してからモノを言うべき >>149
>九州説は伊都国の機能をどうとらえるかを明確にしなければならない。
魏志倭人伝に記載された事実や実態が、最も確率が高い。
>伊都国長官は、物部氏も、タジマノモリも経験している
大和の出先機関だったのに、東征関係者が長官になってる
この男も、同時代の役人らの実地での見聞計測記録よりも、
後代の「結論先にありきの皇国史観宗教文書」の信仰、という似非学問になっている。 >>150
>出ました、クズ男ww
調べれば済む程度のレベルの低い議論なのに、まだここで口先だけで反論するカルト信者w
出ました、「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをするクズ大和説男。
一人の人間でも、多人数であっても、
その一生の間に、自然や歴史の全ての事象を知り得る事が出来ず、
だから、100%完全な演繹論は不可能なのであり、
あくまで、知り得た範囲内の事実からの「帰納的確率的な推論」をするしかないのであり、
「調べれば済む程度のレベル」の事ではないのに、
この大和説男は、まだここで口先だけで反論するカルト信者 >>151
>国産鏡に時系列も何もないから検証が必要というだけの話
俺様の考えた歴史が資料実態ではない
「国産鏡」なんて、「国家主義という結論先にありき」での論しか言えないこの男も、
バツ男。
全て、あくまで、自然や歴史において、
実地の見聞や計測から知り得た事実関係からの帰納的確率的な推論をすべきなのであり、
俺様の考えた歴史が史料実態ではない >>152
>日本の天皇陛下と違って大陸では死を年末まで隠した
そりゃ、そんな・・・・詐欺師がいた、という可能性は否定しないが、
常時衆人監視の元にあった皇帝が、「死を年末まで隠す」、
という事が起きる確率は殆どない。
>テンプレ踏まえて自分なりの裏付けをとってから口を動かせ
東大理系博士号自称男が、私の質問に反論出来なくなった事と、
「正始元年一月」の記載が見つからない、という事からの、
帰納的確率的な推論だ。 >>153
>・・・つまり纏向遺跡、纏向古墳群とは物部の遺跡なのである。
別に構わんが、
「物部」の呼称の淵源は、やはり、(古田推論に拠って)、
古代出雲王朝の「物品を扱う部の民」であった、というという事になる確率が高く、
筑紫の高良山の古系図にも「物部」の呼称の人物がいるから、
筑紫も以前は、出雲の「物品を扱う部の民」としていた時期があったんだろう、と思う。 ズラ酷使。
失礼、変換ミスです、改めて。
zarakoku氏。
>古代出雲王朝の「物品を扱う部の民」であった、というという事になる確率が高く、
はじめて意見が合った。
物品を扱う部の民でもあるし、軍事氏族でもある。
筑紫から瀬戸内に痕跡を残すのはその為。 >>228
>2016年05月15日、
奈良県橿原市城殿町の瀬田遺跡で現地説明会があり行って来ました。
(城殿町:きどのちょう)
弥生終末(庄内前半)の前方後円形の周溝墓が見つかったようです。
(弥生時代だから古墳といわずに周溝墓といったりします。)
2世紀後半とされています。
奈良文化財研究所の年代観は100年ずれています。
(ずいぶん派手にずれますねぇ。)
おそらくは3世紀後半が正しいと思われます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
何の根拠もなく断定してるだけじゃないか、こんなのが何の価値があるのだ。
庄内土器が出てるのであきらめろ。 >>227
しつこい男だなぁ。
和泉府中も下池田も弥生後期。
何で時代を遅らせようと必死なんだ? >>235
こいつテンプレ読んだとか吠えてたけど全く読んでねぇぞコイツ >>233
なるほど、冢とか喜納とか吠えてる奴がお前だったのかw
テンプレも読まず、その裏付けもとらずに帰納とか言ってたんだ?サンプル少なすぎだわ 絶対に機能しないで宗教的思想的な御託宣を続ける後期高齢者
その名はズラ酷使 >>228
そのど素人の年代観が100年ずれている >>245
統計学もやってるようには感じられないよな帰納男って
記紀の出来事が昨帰納、演繹で解釈できるだなんて話、それこそが帰納的ではないのに >>161
>そんで跡継ぎ宗女壱輿に266年天円地方を学ばせたんじゃないか?
卑弥呼墓、箸墓は張政等がつくったんじゃないのか?と考えているのが現段階私の妄想。
「卑弥呼墓 箸墓」というような、
「南≠東」や「正北抵新羅の否定」になる事を言っているから、確率が殆どなく、
「妄想」そのもの。
>陳寿は卑弥呼が誰だか知っていると思う、だから隠して書いた。
陳寿が隠す理由もないから、これも妄想。 >>248
ほら、絶対に機能しないし確率も計算しない
おかしな御託宣を金科玉条にするだけ >>162
>時系列的に、二度目の東征時期はもう確定できてますからあとは候補ですよね。
ヤマトの太陽の卑弥呼、サホ姫。
月の卑弥呼、トヨ様(豊来入姫・豊鋤入姫)
ヤマト姫(出雲本では、加茂家説と、物部イクメの娘説に分かれている)
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」は、
国生み神話時代から以後、波状的に非常に沢山あったようであり、
それを、「高地性集落期や、物部東征とか、卑弥呼の頃やそれ以後の東征もあり得るのに、
「二度目の東征」としか書かないのは、インチキ。 >>250
ほら、絶対に帰納しないしで
おかしな御託宣を金科玉条にして
何事も恣意的に断定する
じつに九州説っぽい >>251
帰納法男って、自分がラーメン食い始めた時期を帰納法で求められると思ってるらしい
そもそも中卒レベルだぜ?帰納法ってw
演算に行列もないしポアソン分布も無さそうだし、数理統計ですら感覚的にわかってなさそう。
最低限70のサンプルがなければ有意差は判定できない ×おじさん、やっぱ妄想ですか?考えが変わるような疑問を投げかけて下さいよ、九州じゃその後畿内の前方後円墳の説明がつきませんよ >>166
>んで、張政は、一緒に大和入り、もしくは少なくともトヨを指名した安芸までは来てるわけで・・・
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」であるから、バツ。 >>254
お前は帰納法が使える情報が出てくるまで黙ってろ。
お前のやってることは後出しジャンケンでしかない。
少しは自分の異常性に気付け 卑弥呼時代に合わせるべく、編年基準を変更した理由
<石野さんの説明>
布留1式のはじまりを、安本先生の言われるように
350年とすると、布留式の行われた期間が50年に満た
ない短い期間になってしまう。これはおかしいと思う
ので、布留式は290年頃から始まったと考える。
そして、布留式が始まる前の庄内式の時代のホケノ
山古墳の年代は250年ごろと考えている。
<理由は畿内的都合です>
「布留式の行われた期間が50年に満たない短い期間に
なってしまう。これはおかしいと思うので」 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 俺用メモ
よ う こ そ 邪 馬 台 国 へ
■邪馬台国の位置
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。
又南、至る邪馬臺国。
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている
■アクセス
伊都国の南、徒歩すぐ >>172
>クニクル大王、孝元の物部系の息子である磯城家の血を引くフツオシマコトが都万入りしていたということが、
ヤマトの出先機関である伊都を使うことができる大義名分になり、別にその手の人たちが、
狗奴国が虐めるので困ってますと言っても問題ないことになる。
この「都万」というのは、宮崎の事なのか?、隠岐の事なのか?が不明なままであるし、
「ヤマトの出先機関である伊都」なんて、
「南≠東」や「正北抵新羅を否定」などの史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しをしているから、
バツね。 >>258
徒歩って書いてないじゃん
倭人伝は無視か >>174
>ヤマトは昔からあって、卑弥呼も居たけど、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料事実や史料実態に拠って、バツ。
>年号の振られた卑弥呼は九州の卑弥呼で、偽装ヤマト国。
九州の卑弥呼が、「偽装ヤマト国」である筈がないから、バツ。 >>263
倭人伝で「船」を使って行く場所、と書いてあるのは侏儒国や黒歯国 >>175
>・・・唯一、橿原の瀬田遺跡の突起付き円形周溝墓の突起が撥形に広がるが、
これは纏向の東田大塚古墳の前方部を真似したものだろう。
築造の時期も2世紀ではなく、3世紀半ば頃のようにみえる。・・・
東田大塚は、石塚と同じ頃か?、石塚の後か?だから、
おそらく3世紀最末期の墓だな。 >>256
><理由は畿内的都合です>
>「布留式の行われた期間が50年に満たない短い期間に
>なってしまう。これはおかしいと思うので」
どんだけ心が濁ってると、これが畿内的都合に見えるのか
明らかに長い期間続いた布留式がたった50年間になってしまう安物トンデモの不合理を
客観的に指摘してるだけだよ >>177
>・・・故に、張政は、最後まで西軍が狗奴国と戦っていたと思い込んでいただろうね。
狗奴國は、張政らがいた卑弥呼がいた地域よりも「南」にあったんだから、
この男もバツだな。 >>184
このように
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態と矛盾している大和説者は、
証拠も出せないことを断定する病気
信用されるわけがない >>189
大和説は学問の世界では絶滅危惧種
10年後は旗振り役がいなくなって自然消滅だろう
俗説としては、
今でも文科省や教育委員会や皇国史観戦争狂のマスコミの亡霊が彷徨してるようだが、
学界や教科書会社の亡霊も彷徨うことになるだろうけど >>269
畿内説側がそんなことしたなんて
証拠も出せないことを断定するあなたは病気
信用されるわけがない >>269
大した学もないのに大見え切って、仮説も検証もない帰納法ww
大学のレポートですらまとめた事がないやつかもしれないな >>271みたいな、現実とかけ離れたことを公言して
もちろん証拠は絶対出さない
それが九州説の人 >>259
かつての都があった場所を指す西都原。
日向神話の舞台すら把握してないレベルのやつは黙ってな。
最低限の知識すら疑わしい >>271
>大和説は学問の世界では絶滅危惧種
九州説も同じ。 @阿波 ヤマトを地名だと思ってるやつはアホ
■万葉集における「ヤマト」と読む当て字は多種有り
『倭』 19首(1)
『山跡』 18首
『日本』 14首
『夜麻登』 5首
『八間跡』 1首(1)
『也麻等』 1首
『夜萬等』 1首
『夜未等』 1首
なお『やまと』は都を意味し、一か所ではない模様
■万葉集に登場する『やまと』と呼ぶ都の描写の一つ
海があり細長いトンボのような嶋がある。
※内陸部でない事は確か
■結論
『ヤマト』が『奈良』であるという認識は万葉集には無い。 >>278
このように、トンデモ説は結論を書けても理由が書けない >>278
ぐぬぅ、和歌に視点を当てた点は瞠目に値する。
例えば万葉集とかは口伝で極意が伝承されてきた。
戦乱の武将ですら戦いをやめてまで伝承してきた極意が。
出雲王家本には和歌から伺える時点でまだ別の本が出ているが、隠れた歴史を掘り起こすには高い学識が必要と説いていた。
大陸の史書でもどこに句読点が入るかですら知識がいる。
確か漢民族ではなく、今で言う少数民族の解釈がないと中々正確にならないらしい。
かつては記紀にもそういう極意の口伝があったような気がしてならない >>192
>徐福集団の渡来が事実なら、日本はそこからもう奈良時代
徐福集団の渡来は、未だに絶対的根拠がなく、不確定であり、
大和の奈良が列島盟主になったのは、701年の大宝元年の建元からだから、バツ。 >>196
要するに、」
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、」
史料事実や史料実態の曲解や否定の、理由も言えない
証拠ひとつも出せない
でも結論がある
断定する
これ、大和説そのもの >>198
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」など、
それで大和説死亡 >>281
は?
おまえ、大陸の史書でも、後年に元々我が国はヤバタイという国だったという事で、邪馬台国呼称は昔からあったって説明あったろ。
学がない上に頭ボケちゃってるわけか? >>282
九州説はどうしてそんなウソつくの?
会稽東冶の位置比定も、冢の用例も、平安貴族の使者も、いくつ証拠を突きつけられても見ないフリ 空想物語を骨格にチェリーピッキングを散りばめたような安っぽいテンプレ誰が作ったの?
そんなに邪馬台国論争が好きなの? >>285
倭人伝には「道里を計算すると、会稽東冶の東あたりに位置する」と記述されている
その前述の行程から陳寿がそう推測したという一文だよ 魏書で書かれている卑弥呼について、年号が降られる前の卑弥呼は別の卑弥呼と書いたが、
曲がりなりにも近畿のヤマトの行程を書いたのなら吉備国成立前でならねばならない。
吉備とヤマト、吉備と出雲は争ってたから、すべてに通用する黄門さまの印籠はまず無いだろうから。
安全な航路が無い。
そもそもが魏書が書きたかったのは、張政が何年にも渡って日本に出張った大事件であってヤマトそのものの細かいことでは無い。
100年後くらいに書いたときには、魏の書類と、日本に関する大体の説明の紙切れが別々だったんじゃ?
書き方や距離の記録の仕方が伊都辺りから全く違うもんなぁ
記紀を書いた人も、そこじゃないんだよ万世一系なんだよと、意図しないところが盛り上がる事など思ってもいやしなかったろう。
邪馬台国理論の感感は、自意識過剰かもしれないw ✖男って、アワと同じレベルのただの工作員じゃん。
朝鮮の水稲が前15世紀とか書きまくってる朝鮮人と何ら変わらない。 >>289
前11世紀だろボケ
しかもそれ国の研究機関の公表だぞ .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. >>290
ですよねぇ。ここのスレにもコピペ出てますけど、ホントウザい。 >>209
>それが、東瀬戸内の突起付円形周溝墓の場合は、突起は発展してないんだよ。
纏向に石塚が造られる200年前後の時期にも、その突起はそれまでとおんなじなの。
前方後円型墳墓は前方部が最初から撥形に開いており、双方のルーツが別であることがまるわかり。
石塚は3世紀末だが。
だから、100年位離れており、
人間の寿命からして、墓やその埋葬形態を継承する人間が残っていない。
>そして、瀬田遺跡の突起付き円形周溝墓と九州の小郡の津古生掛古墳はよく似ているが、
前者は2世紀後半、後者は3世紀後半とされる。
突起部分が陸側から切り離されないままだ。
一方、3世紀初頭の纏向の石塚古墳は前方部が陸側から完璧に切り離されている。
石塚に続く纏向の墳丘墓も同じく、完全に切り離されている。
突起付き円墳と前方後円型墳墓は別系統のものなのがよく分かる。
>調査した奈良文研は、この周溝墓は2世紀後半の築造としているが、
この2世紀後半という時期を疑う人はいるようだ。
しかも、その突起は纏向遺跡の東田大塚の前方部の形と非常によく似ている。
つまり、時期が100年くらいずれてるのじゃないかというわけ。
ふーん。 >>213
>瀬田遺跡の突起付き円形周溝墓の突起が比較的長いのは、周溝幅が広くなったためにそうなったのであり、
このように周溝が広くなるのは九州山門の権現塚と同じ傾向によるものとみられる。
なので、瀬田遺跡の突起付き円形周溝墓は3世紀半ば頃の築造ではないかというわけ。
実際、奈良文研などは、瀬田遺跡の周溝墓は「弥生終末期」としている。
弥生終末期は庄内式と重なる時期だ。
ふーん。 >>293
>石塚は3世紀末だが。
>だから、100年位離れており、
それは素人じいさんが理由もなく言い張ってるだけだろ
学者の言ってること完全に無視して >>293
>一方、3世紀初頭の纏向の石塚古墳は前方部が陸側から完璧に切り離されている。
>石塚に続く纏向の墳丘墓も同じく、完全に切り離されている。
>突起付き円墳と前方後円型墳墓は別系統のものなのがよく分かる。
ガセネタ
初期の前方後円墳には前方部正面に濠の無いものが多い >>296
奈良の初期の前方後円墳は吉備式の影響があるって出雲本には出ています。
正直私は土器や古墳は詳しくないのですが、物部の方の血が入ってない磯城家の古墳としては吉備が参考になるというのは一理あると考えております。 >>211
>魏志倭人伝に邪馬台国の位置は
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
「大和」と読ませようとする詐術的な文言であるから、バツ。
>会稽東治の東つまり沖縄や台湾になる辺りと書いている
書いていないから、バツ。
>一方畿内からは
畿内なんても存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
大和の範囲を広げようとする詐術的な文言であるから、バツ。
>魏の年号が入った三角縁神獣鏡や
△自体が、洛陽出土が0〜1枚であって、列島の500枚以上の△の根拠にならず、
魏の年号は、渡来の呉系楽浪鏡師らが、自分らの「呉の出目」では都合が悪いから、
「明帝→卑弥呼の銅鏡百枚」に迎合するために選択したもの。
>前方後円墳など邪馬台国にあると魏志倭人伝に書いてるものがある
「冢≠前方後円墳」であり、倭地は「有棺無槨」であるから、
大和の墓は、魏志倭人伝には書かれていない。
考古学と魏志倭人伝に書いてある事が一致しないのが大和説。 >>299
>畿内なんても存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
世間常識に反したことを理由もなく連呼されても
一般人にはまったく理解できない
頭おかしいとしか見えない >>212
>それは屁理屈であり、造り出しがない前期の前方後円墳と
造り出しがある中期以降の前方後円墳は別系統と言ってるようなもの。
墓本体の形状や性質の継承が大事であり、造り出しの有無は些細な差異。
>あのさぁ、地層とか土器で時代を決定するのでね。
今時100年もズレるなんてことを誰が言ってるのか、君は明記してないし。
キミは、何故「地層とか土器で決定」している根拠や例証を述べないのかね?。
ただ自分の願望を述べてるだけ。 >>299
>「冢≠前方後円墳」であり、
そうやって
田舎の素人じいさんが
自己流の独特な思想を
理由も言わずに結論だけ連呼しても
誰にも理解できない
頭おかしいと見えるだけ >>215
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」・・・
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、バツ。 >>301
>キミは、何故「地層とか土器で決定」している根拠や例証を述べないのかね?。
庄内式の層位と布留式の層位の話とか、今まで多くの人が説明してきて誰でも知ってるからだ まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>216
>>なので、瀬田遺跡の突起付き円形周溝墓は3世紀半ば頃の築造ではないかというわけ。
>妄想乙 庄内0っていってるよ
「庄内0」の設定自体が、
大和説の先輩学者らの庄内1の3世紀末の石塚では卑弥呼の時代には届かない、ための、
後輩弟子らの、先輩学者らへの忖度をした「嘘吐き騙しの造作文言」です。 >>303
>「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、バツ。
このように
史料から帰納は一切せず
確率を計算することも一切なく
ただ自分の発明した、なんの根拠もない
我流独特のオレサマ式法則に合わないからと
他人の主張を頭ごなし断定的に100%否定する
そんな非学問的なことばかり言ってる九州説には
誰も共感しないな >>306
>「庄内0」の設定自体が、
>大和説の先輩学者らの庄内1の3世紀末の石塚では卑弥呼の時代には届かない、ための、
>後輩弟子らの、先輩学者らへの忖度をした「嘘吐き騙しの造作文言」です。
という証拠は?
また脳内思いつきの断定?
これだから九州説はw >>296
纏向の石塚、矢塚、勝山などは3世紀前半築造とみられているが、周濠はすべて一周している。
周濠が完全に一周する墳墓は、この纏向のほかには尾張の前方後方型の墳墓があるのみ。
また、前方部が撥形に開くのも、同じだ。
纏向の石塚などは、尾張の前方後方型墳墓の系統とみて間違いない。
一方、この時期の突起付き円形周溝墓は周溝が一周しないものが多く、突起付き形、あるいは陸橋形となっていて、その後もそのままの形が続いて、周溝が一周することはない。
前方後円型墳墓と突起付き円形周溝墓は、明らかに別の系統だよ。 >>278
>なお『大和』は都を意味し、
そんな語源はないだろう。 >>310
おまえしつこい。
おまえが言ったとて前方後円形周溝墓が前方後円墳の前進であることは何も変わらん。
素人はそろそろ黙ろうか。 曹操の墓に関する記述
「古之葬者,必居瘠薄之地。其規西門豹祠西原上為壽陵,因高為基,不封不樹
(墳丘や石碑はいらない=簡潔にしなさい)」
箸墓古墳など巨大な前方後円墳の規模に「塚」という文字は使われない 【弥生時代における首長層の成長と墳丘墓の発達】
岩永省三
摂津
突出部付き円形墳丘墓(周溝墓)は、後期後葉に型不明の茨木市総持寺1号、
後期末〜終末期初頭に型不明の豊中市服部1号がある。
豊中市服部あたりは庄内式土器の名称の由来になった庄内のごく近くだ。
つまり突出部付き円形墳丘墓(周溝墓)と庄内式土器は一致する。
纏向石塚もしかり。 >>240
下池田の遺跡自体は弥生中期から続いているな。
しかし、前方後円形とされる突起付き円形周溝墓が出たのは庄内式期。
か〜んちがいすんじゃね〜。
「大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係」で検索し、画面の上から3番目のサイトを開く。
その論文の10pの「和泉の首長墓」を読むんだな。 >>314
>箸墓古墳など巨大な前方後円墳の規模に「塚」という文字は使われない
使わないという根拠は? >>310
>纏向の石塚、矢塚、勝山などは3世紀前半築造とみられているが、周濠はすべて一周している。
証拠は?
陸橋付き→全周の進化は定説で、否定出来るような根拠は無い >>316
>前方後円形とされる突起付き円形周溝墓が出たのは庄内式期。
>か〜んちがいすんじゃね〜。
前方後円形とされる突起付き円形周溝墓が出たのは庄内式期だろうね、だから何なんだ。
お前が「尾張の前方後方墳墓が纏向石塚のルーツ」と嘘を100回言おうが、
公庫額では真実にはならないのだよ、韓国と違って。 >>318
ジョーダンは、バスケットだけにしとけよ。
>陸橋付き→全周の進化は定説で、
は、突起付き円形周溝墓が前方後円型墳墓の起源だとする大和説者の脳内劇場。
大和説者がそう言っているだけで、何の根拠も示せない。
単なる「〜だろう」説にすぎない。
突起付き円形周溝墓が前方後円型墳墓につながった証拠はないよ。 <倭国共通の記述>
其死 有棺無槨 封土作「冢」
<卑弥呼の死に関する記述>
卑彌呼以死 大作「冢」 徑百餘歩 殉葬者奴碑百餘人
つまり卑弥呼の墓は一般的な倭人の墓と同じ形式の「塚」であり「有棺無槨」であると考えられる >>316
>しかし、前方後円形とされる突起付き円形周溝墓が出たのは庄内式期。
>か〜んちがいすんじゃね〜。
>「大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係」で検索し、画面の上から3番目のサイトを開く。
なに「か〜んちがい」してるか知らんが
岩永なら下池田のSD001を弥生後期としてるぞ
庄内式期ではない >>322
>使われていないから
使われていないという証拠は? >>319
>考古学では真実にならないのだよ、
突起付き円形周溝墓が前方後円型墳墓のルーツと言うのも同じ。
ブーメランが即、後頭部に突き刺さるようなこと言うんじゃね〜よ。 >>323
>大和説者がそう言っているだけで、何の根拠も示せない。
>単なる「〜だろう」説にすぎない。
>突起付き円形周溝墓が前方後円型墳墓につながった証拠はないよ。
瀬田から纒向石塚の進化がその証拠だと誰もが納得していて、反論した学者の姿は見えないが? メモメモ
■旧唐書
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
倭国条:倭国は古の倭奴国なり。
日本条:日本は倭の別種なり。
↓
【参考】倭国の使者と日本の使者がはちあわせ?
遣唐使に参加した伊吉博徳書には、我客(倭国)と別倭種(日本国)の使節団が
中国で争いを起こしたと書かれている
↓
----- 壬申の乱などを経て統一国家「日本国」となる -----
↓
■新唐書
日本は古の倭奴なり。京師を去る万四千里。新羅の東南に直る。
海中に在りて島にして居す。東西五月行、南北三月行。
其の王の姓、阿毎氏。自ら初主を号して天御中主と言う。
彦瀲に至る凡そ三十二世、皆尊を以て号と為し、筑紫城に居す。 >>328
>史書嫁
また証拠出せなくて逃走するトンデモ説は
また九州説の人?
情けないな >>323
>大和説者がそう言っているだけで、何の根拠も示せない。
考古学ではほぼすべて大和説なのでそれでいい。
逆に尾張の前方後方型墳丘墓が纏向石塚の祖形だなんて誰も言ってない。
何の根拠も示せない。
単なる「〜だろう」説にすぎない。
尾張の前方後方型墳丘墓が前方後円型墳墓につながった証拠はないよ。 >>330
>遣唐使に参加した伊吉博徳書には、我客(倭国)と別倭種(日本国)の使節団が
>中国で争いを起こしたと書かれている
カッコ内が捏造 >>325
>岩永なら下池田のSD001を弥生後期としてるぞ
だから何なんだ。
庄内式土器より古くから前方後円型墳丘墓を造ってたというだけの話だが。 >>331
曹操の墓の規模はほぼ前方後円墳と同規模
そこに「塚」という文字は使われていない
という意味だろ、日本語に疎いチョンキナイコシよ >>333
重要なポイントは、倭国から2つの勢力が使者を中国へ送り込んでいたという事 尾張の前方後方型墳丘墓が纏向石塚の祖形だと言ってる馬鹿は、
豊中の庄内に前方後円型周溝墓が出てるという現実が見えないようだ。 >>335
だから証拠出せないんだろ?
また九州説の負けだよ >>336
>重要なポイントは、倭国から2つの勢力が使者を中国へ送り込んでいたという事
そんな史料ないよ >>335
>曹操の墓の規模はほぼ前方後円墳と同規模
これは詐欺だな
高陵の地下埋葬施設と前方後円墳の墳丘の大きさを比べるのはインチキだ 【弥生時代における首長層の成長と墳丘墓の発達】
岩永省三
讃岐
突出部付き円形墳丘墓は、後期前葉頃に複数群在型の綾歌町平尾2号、後期後葉に型不明の長尾町
尾崎西ST24、前方後円形墳丘墓は、終末期末に単数型の高松市鶴尾神社4号 (方格規矩四神鏡・石槨)、方形墳丘墓は、
後期末〜終末期初頭に奥10号(石槨)、終末期〜古墳時代初頭に複数格差型の寒川町極楽寺1号がある。
つまり同地域で突出部付き円形墳丘墓→前方後円形墳丘墓へと変化(進化)してるのだよ。
わかったか、尾張の後方墳墓バカw >>310
奈良県橿原市の瀬田遺跡で、弥生時代終末期(2世紀後半ごろ)の陸橋付き円形周溝墓が見つかった。
しかし「陸橋付円形周溝墓」は、さらに古いものが今までにいくつも発掘されているのです。
一つが、徳島県の名東(みょうどう)遺跡から出土してます。弥生時代中期前半「紀元前1世紀)ころのものとされてます。
さらに、弥生後期後葉になりますが、四国東部には、讃岐(香川県)の林・坊城1号・2号、尾崎西などがあります。
隣の阿波(徳島県)においては、「陸橋付円形周溝墓」の発展形とされる帆立貝型前方後円墳である萩原1・2号墓(弥生時代終末期、積石塚)があります。
萩原2号墓は、日本最古の前方後円墳、あるいはそのルーツとも言われ、奈良県の纏向型古墳であるホケノ山古墳との関連も指摘されてます。 @阿波 自分の反論の根拠が私情だと理解できていない日本語が不自由で不細工な奥山あわれ 九州説というと
もう創作ニセ情報か
学者がけして唱えることのない素人我流珍説
二つにひたつということで
完全に定着したようだ >>344
どれが奥山の投稿で
どこが私情なんだ?
具体的なことがなにも言えない九州説はあわれだな >>343
このアワ工作員は、荻原古墳を出雲の四隅突出型古墳とか詐欺吠えてたよな。
モノホンのクズ。 >>344
これまで、日本語が不自由だと具体的に指摘された人は、なぜか九州説ばかりのようなのだが >>347
なんで速攻反応するんだよバレバレじゃんw >>348
「前代にいったん登場した突出部をもつ墳丘墓」
萩原1号墳・萩原2号墳・足代東原1号墳・奥谷2号墳・寺山3号墳 @阿波 「突出部を廃して円墳化した西山谷2号墳」
前代にいったん登場した突出部を廃して円墳化した西山谷2号墳の墳丘形態は以後しばらくの間、
吉野川下流域北岸地域で再現されつづけ、ある種の地域的規範が形成されている。 @阿波
https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12408409524.html >>325
>庄内式期ではない
SB001は庄内式期だ。
岩永の論文に、そう書いてあるだろ。
おぬしの言う弥生後期のSD001は、第1次調査の円形周溝墓と混同してる臭いな。 >>352
四隅突出型を円墳にしたわけではあるまい。
まだ嘘に嘘を重ねるのか? >>353
>SB001は庄内式期だ。
>岩永の論文に、そう書いてあるだろ。
>おぬしの言う弥生後期のSD001は、第1次調査の円形周溝墓と混同してる臭いな。
あたま変なんだな
突出部付円形墳丘墓の話をしてるんだろ?
突出部付円形墳丘墓なら弥生後期のSD001 だ。
SB001とか聞いたことないな
「突出部付き円形墳丘墓(周溝墓)には、後期前半に型不明の和泉市府中SX05、後期に型不明の岸和田市 下池田SD001がある」岩永 >>352
赤穂の有年原・田中遺跡の突起付き円形周溝墓も、当初は前方後円型墳墓へ変化するだろうと見られていたが、そのあとの発掘では実際には方墳へと変化し、前方後円型へは発展しなかったことが分かっているそうだ。
阿波の西谷山2号墳も、そのアドレスのサイトによると、突起がなくなって円墳へ変化したとされているようだ。
つまり、東瀬戸内系の突起付き円形周溝墓は、前方後円型墳墓へは発展しなかったということになる。
まあ、それが妥当だね。
前方後円型墳墓のルーツは、尾張の前方後方型墳墓なんだから。 >>353
>SB001は庄内式期だ。
>岩永の論文に、そう書いてあるだろ。
岩永の論文にSB001とか出てこない件について >>354
>四隅突出型を円墳にしたわけではあるまい。
四隅だろうが一隅だろうが、いずれにせよ「忌部一族」のお墓だよ。 アンポンタン。 わははははは @阿波 >>356
>赤穂の有年原・田中遺跡の突起付き円形周溝墓も、当初は前方後円型墳墓へ変化するだろうと見られていたが、そのあとの発掘では実際には方墳へと変化し、前方後円型へは発展しなかったことが分かっているそうだ。
だれがそう言った?
九州説さん、また捏造? >>356
>阿波の西谷山2号墳も、そのアドレスのサイトによると、突起がなくなって円墳へ変化したとされているようだ。
一方で、萩原2号墳では、前方後円墳へ変化している。 @阿波 >>355
>「…下池田SD001がある」岩永。
認めたがらん性格だなぁ。
岩永は「大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係」の中の「和泉の首長墓」(10p)で、下池田遺跡の庄内式期の円形周溝墓SB001が前方後円型墳墓に発展する系統の可能性があるとする「中村編1987」の注記を載せている。
おぬしの言うSD001は、第一次調査で出た円形周溝墓だよ。 前方後円墳は方墳部分は後世の子孫が付け足したという説はなかったっけ? >>353
>SB001は庄内式期だ。
>岩永の論文に、そう書いてあるだろ。
どこに書いてある?
>しかし、前方後円形とされる突起付き円形周溝墓が出たのは庄内式期。
>か〜んちがいすんじゃね〜。
>「大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係」で検索し、画面の上から3番目のサイトを開く。
とか言ってたけど
岩永論文のどこに下池田のSB001だとか庄内式期だとか書いてある?
また捏造なんでしょ?
九州説はまたまた捏造したんでしょ?
またも詐欺なんでしょ? >>217
>>「景初3年12月」の次は、景初3年の「後十二月」であり、
その次が「正始元年の2月だ」と言ってあって、
「正始元年の正月が存在しない」という事に、大和説は反論が出来ない
>ちょwwwww何言ってんの?w
「景初三年後十二月」の次の月は「正始元年正月」だぞw
「其以建寅之月爲正始元年正月,以建丑月爲後十二月。」
これを理解していないことが露見したなw
殷正(丑の月=正月)だったものを、夏正(寅の月=正月)に復したわけだ
つまり殷正 子:十二月、丑:正月、 寅:二月
↓夏正 子:十二月、丑:後十二月、寅:正月、卯:二月
おや?、以前の議論では、東大理系博士号が、
私の「正始元年1月」があった証拠を示せ、という要求に返事しなかったから、
私は、「正始元年1月」があった事の証拠がないんだな、と返事して置いたままになっていたのであり、
その後、勉強したらしいな。
それで私も検索してみると、「魏書四 齊王紀」には、
(景初三年)十二月,詔曰:「烈祖明皇帝以正月棄背天下,臣子永惟忌日之哀,其復用夏正;雖違先帝通三統之義,斯亦禮制所由變改也。
又夏正於數為得天正,其以建寅之月為正始元年正月,以建丑月為後十二月。」
とあり、確かに、景初三年12月の次が正始三年の後十二月であり、
その次が「正始元年正月」となっており、私の推定が間違っていた、という事が判った。
申し訳ない。
しかし、そうすると、以前の議論での東大理系博士号男の、
「景初四年があった」説も存在しなかった事に決着し、
東大理系博士号が間違っていた、という事にもなった。 >>218
「南→東」や「正北抵新羅の否定」などのように、
大和説学者や東大理系博士号らは、史料事実や史料実態の曲解捏造をするばかりで、
史料をまともに読まないから仕方ない >>357
岩永の論文にSB001とか出てこない件について
「大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係」の「和泉の首長墓」(10p)の中で、下池田の円形周溝墓について「図4-L」(9p)と注記されているだろう。
9pへスクロールして図解をみてみろ。
その円形周溝墓の図を拡大すれば、SB001とちゃんと書いてのが分かる。
たいがいにしてほしいわ。 >>362
畿内説のアホが箸墓はもともと円墳だったとか言ってたなw
畿内説も卑弥呼の墓が前方後円墳だとは考えてなかったから
畿内説のネタが無くなってきたら前方後円墳を卑弥呼の墓だと言い出した
邪馬台国論争が低能学者の飯の種と言われるのもわかるな >>361
>岩永は「大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係」の中の「和泉の首長墓」(10p)で、下池田遺跡の庄内式期の円形周溝墓SB001が前方後円型墳墓に発展する系統の可能性があるとする「中村編1987」の注記を載せている。
載せてないな
現実の岩永は2010年の論文で弥生後期の下池田SD001を突出部付き円形墳丘墓(周溝墓)として紹介し、纏向石塚をこれら平野部の円形墳丘墓の系譜と見る説(小山田1994)を併せ紹介している
1987年の説より研究が進んでいるのが事実
>しかし、前方後円形とされる突起付き円形周溝墓が出たのは庄内式期。
>か〜んちがいすんじゃね〜。
とか言ってるひとのか〜んちがいは明白だ
いくら事実を「認めたがらん人」でも、もうあきらめろ >>360
>一方で、萩原2号墳では、前方後円墳へ変化している。
ああ言えばこう言う癖をなくすと、とてもいい性格になると思うよ。
萩原2号墳は柄鏡型円墳。
赤穂の西条52号墳とおんなじ。
萩原も西条も、前方後円墳のルーツかと希望的観測者によって唱えられたが、
単に、吉備の双方中円墳の参道の片方を取り除いただけのもの。
その柄鏡の柄の部分が撥型に開く後続墳墓は、その付近で見当たらんのよ。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>371
>単に、吉備の双方中円墳
それ、吉備忌部のお墓だから。 わははははは @阿波 >>365
>しかし、そうすると、以前の議論での東大理系博士号男の、
>「景初四年があった」説も存在しなかった事に決着し、
なる理由がないが?
公布と施行が同時でないのは法律の常だもの >>367
>その円形周溝墓の図を拡大すれば、SB001とちゃんと書いてのが分かる。
>たいがいにしてほしいわ。
たいがいにしろってイカサマ爺さん
SBってのは建物に付ける記号で、円形周溝墓ならSDなんだよ
捏造はたいがいに >>369
>畿内説も卑弥呼の墓が前方後円墳だとは考えてなかったから
九州説また捏造か
畿内説で卑弥呼の墓候補は最初から箸墓 >>370
その岩永の2010年の論文の表題と下池田SD001関連の記事のあるページを挙げろ。
論文の表題も言わずに逃げまくるとは、風上には置けん。臭うからよ。^^ >>377
>>>370
>その岩永の2010年の論文の表題と下池田SD001関連の記事のあるページを挙げろ。
>論文の表題も言わずに逃げまくるとは、風上には置けん。臭うからよ。^^
え? 岩永の
「弥生時代における首長層の成長と墳丘墓の発達」
を知らんのか?
モグリだな
質問もしないで相手が「逃げた」とか言い出すのも詐欺師根性だ
2016年段階で全国的に有名になってる弥生後期の下池田SD001を知らないばかりか、原文に書かれてもいないSB001を書き加えて捏造三昧
たいがいにしろよ >>377
岩永の「弥生時代における首長層の成長と墳丘墓の発達」は見た。
おぬしが言うように、後期の突起付き円形周溝墓SD001と書いてある。
この後期の突起付き円形周溝墓SD001は、第一次調査で出た周溝墓だ。
第二次調査で出た突起付き円形周濠墓は庄内式期のものだ。
いずれも、研究者が前方後円型墳墓(纏向石塚など)に発展する可能性について述べている。
しかし、下池田遺跡では前方後円型墳墓は出現せず、弥生後期の突起付き円形周溝墓が庄内式期になっても突起付き円形周溝墓のままであり、前方後円型墳墓へ変化していない。
しかも、この下池田の庄内式期の段階には、すでに大和では周濠が全周し前方部が撥形に開く纏向石塚古墳などが造られているのだから、
下池田の円形周溝墓と大和纏向の前方後円型墳墓は別系統であることは、まったく明らかだ。 >>379
インチキ野郎
弥生後期の下池田SD001は有名で瀬田の先行例として広く知られてるのに、下池田は庄内と言い張った
事実を指摘されると、SB001とかニセ情報流して誤魔化そうとした
すべてバレると、似てない似てないとダダ捏ねて逃亡かよ
お前どんだけウソつくの? 真実をウソと誤認識したまま一生を終えてしまう手遅れの奥山あわれ >>379
>下池田の円形周溝墓と大和纏向の前方後円型墳墓は別系統であることは、まったく明らかだ。
(弥生後期)和泉下池田SD001ー波及→(庄内0)橿原瀬田ー波及→(庄内1)纒向石塚
瀬田〜石塚間で、C字型周溝→全周周濠に発展
で、展開は自然そのものなのに、なんでそんな
認めたがらん人なわけ? >>383
周溝墓SB001だとか、下池田は庄内だとか
明らかにウソついてんのに、どこが真実だよ >>375
ジョーダンはバスケットだけにしろと言うてるだろ。
へたなバスケットはやめろ。
その下池田の図解の前方後円型周溝墓の右側の円墳がSB002、その右側はSB003とナンバーが振られているのだから、
SB001はその前方後円型墳墓の標識ナンバーだ。
知らんふりはジョーダンバスケットだけにしろ。
とにかく、下池田では、弥生後期のSD001から庄内式期のSB001まで、突起付き円形周溝墓はまったく変化してないの。
突起付き円形周溝墓は、この形で完成形なんよ。
一方、庄内式期には下池田の突起付き周溝墓とは関係なく、大和纏向に突然周濠が全周し前方部が撥型にひらく形の墳墓が出現する。
周濠が全周して前方部が撥型に開く墳墓は、尾張廻間遺跡の弥生後期末のSZ01にすでにみられる。
この前方後方型墳墓をベースとして、後方部を円墳に置き換えたのが大和纏向の前方後円型墳墓なんだヨ。
これは常識だろ。 古墳前期に日本で一番大きな古墳を作りまくっていたのは奈良しかないんだから
邪馬台国は奈良以外考えられないんだよね >>388
>古墳前期に日本で一番大きな古墳を作りまくっていたのは
「忌部はん」しかいないんだから。 わははははは @阿波 >>381
下池田の第二次調査を知らなかったジョーダンバスケット。
この第二次調査で出た庄内式期のSB001の突起付き円形周溝墓がすべてを語っている。
下池田の突起付き円形周溝墓は、有年原・田中遺跡の突起付き円形周溝墓と同じく、前方後円型墳墓へは発展しなかったのだよ。
このことは、赤穂有年原や阿波西谷山が前方後円型に発展せずに、方墳や円墳に変化したのと同じ。
東瀬戸内系の突起付き円形周溝墓は、前方後円型周溝墓には発展せず、そのままで完成形だったということに尽きる。 >>387
>SB001はその前方後円型墳墓の標識ナンバーだ。
ウソ
SBは建物に付ける記号
周溝墓ならSD
>一方、庄内式期には下池田の突起付き周溝墓とは関係なく、大和纏向に突然周濠が全周し前方部が撥型にひらく形の墳墓が出現する。
ウソ
庄内0の大和橿原に周濠が全周せず前方部が撥型に開く瀬田円形周溝墓が登場する
続く庄内1の纒向に周濠が全周して前方部が撥型に開く纒向型前方後円墳の石塚が出来る
自然な展開だ
>これは常識だろ。
ウソ
そう主張する学者がいない 九州が邪馬台国なら明帝の100枚の鏡はどれなの?どれなの? >>388
奈良は単なる古墳置き場つまり霊園
そこに居たとすれば土方と古墳掃除係 九州の都で死んだのにわざわざ奈良まで運んで埋葬するのかよ
あほくさ >>390
>下池田の突起付き円形周溝墓は、有年原・田中遺跡の突起付き円形周溝墓と同じく、前方後円型墳墓へは発展しなかったのだよ。
そんな学説はない
播磨は元々が方形周溝墓の地域だから、有年原田中は吉備楯築型の東伝過程と理解するのが普通
畿内域に波及して前方後円墳に習合する >>394
石棺の石だって阿蘇から運ぶぐらいだからな .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. 尾張に弥生後期から週末期にかけての前方後円形周溝墓なんて皆無なのに、何で巻向石塚のルーツになるんだよ、バカなのか、必死こいてるやつ。 >>384
その前後の墳形をつなぐ途中経過形墳墓がまったく見つからないのよ。
その途中経過形墳墓さえ提示してくれれば、考え直してもいいかも系の思考に行けるのだけど、
残念ながら、その途中経過形墳墓が提示されない限り、無理無理系思考に止まらざるをえないのよ。
はよ、出してチョ。 >>399
>その前後の墳形をつなぐ途中経過形墳墓がまったく見つからないのよ。
>その途中経過形墳墓さえ提示してくれれば、
(弥生後期)和泉下池田SD001ー波及→
(庄内0)橿原瀬田ー波及→
(庄内1)纒向石塚
瀬田〜石塚間で、C字型周溝→全周周濠に発展
これ以上、どんな中間が欲しいわけ?
具体的に言ってみな >>387
>その下池田の図解の前方後円型周溝墓の右側の円墳がSB002、その右側はSB003とナンバーが振られているのだから、
>SB001はその前方後円型墳墓の標識ナンバーだ。
素人がどんなに言い張っても
SBは建物にふる符号だからSB001は周溝墓じゃない
周溝墓ならSD
それが証拠に
学者は誰も円形周溝墓SB001なんて言ってない >>398
まあ、余裕で纏向石塚墳墓のルーツが尾張の廻間遺跡SZ01だな。
前方後方型墳墓。
この墳墓の後方部を吉備の円墳に置き換えたのが、前方後円型墳墓の石塚なのよ。
なんで、後方部を吉備の円墳に置き換えたかについては、各自試論を提出してね。 >>401
>素人がどんなに言い張っても
学者が描いた図解にSB001と番号がふってあるね。
その右側がSB002、その右側隣がSB003。
見たら分かるでしょ。 >>403
まだゴネるの?
SB001は左の逆L字型建物遺構
SBは建物に振る記号 >>400
だめだめ。
瀬田も周溝が途切れている。
そのあとの下池田の庄内式期のも周溝が途切れたまま。
この下池田の庄内式期のが全周の周溝になっていたなら、石塚につなげてもいいが、実際には周溝は途切れたまま。
石塚につなぐのは無理。 >>406
現実が見えない奴だな
(弥生後期)和泉下池田SD001ー周溝閉じない→
(庄内0)橿原瀬田ー周溝閉じない・撥型→
(庄内1)纒向石塚ー周濠閉じる・撥型
綺麗に発展段階踏んでるだろ >>405
ワイも最初はそのL字型の標識かなと思ったが、その右側の円形周溝墓にSB002、その次のものにもSB003と振っているので、建物を示すナンバーでないことは明らか。 >>407
脳内劇場。
尾張廻間SZ01はすでに周濠が全周してるんだから、この後方部を円墳に置き換えたら、そのまま前方後円型の石塚になるのよ。
何の問題もない。 >>408
>ワイも最初はそのL字型の標識かなと思ったが、その右側の円形周溝墓にSB002、その次のものにもSB003と振っているので、建物を示すナンバーでないことは明らか。
お前さ、病気か?
SB002とSB003が円形周溝墓だって
誰が言ったの? 最初の前方後円墳位は封禅が行われただろ?、円丘方丘が無いとね、無いと陳寿も山泰とは呼ばない 「竪穴式石室の出現過程を考える上でも重要な古墳」
鳴門板野古墳群 「西山谷2号墳」 @阿波 萩原1号墓の近隣地に所在する尾根を削り出して整形した、墳丘の長径20m、短径18m、高さ約2mの不整形の円墳である。
墳丘の中央部に長さ4.72m、幅 北端で1.05m、南端で0.83mの南北方向を主軸とする長大な竪穴式石室がある。
竪穴式石室は、南北6.5m、東西4.8mの墓壙全体が結晶片岩と呼ばれる阿波特有の青い石で覆うように造られている。
石室内には、粘土床があり、その上に朱を敷き詰めたU字形の刳抜式木棺を安置していたものと推定されている。 @阿波 斜縁上方作銘獣帯鏡と呼ばれる中国製の青銅鏡1面をはじめ、鉄剣・鉄槍・鉄鏃・土器などが出土している。
鏡は面径12.5cm、重量約157.6gで、右回りに「上方乍鏡竟大工青龍白虎子」の銘文と神仙像と5体の獣形のレリーフがある。
鏡は一部を欠損するが、当時は完全品として副葬されたものとみられる。 @阿波 >>220
>邪馬台国は奈良だった
全ての災いの始まり
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
奈良説も、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」などに拠って、バツ。 同種の鏡は数例出土しているが、そのうち、広島県広島市中子田1号古墳出土鏡が最も類似している。
出土した土器から、3世紀中葉の築造と考えられ、徳島県内をはじめ、畿内でも最古段階の竪穴式石室を持つ古墳として、
竪穴式石室の出現過程を考える上でも重要な古墳である。 @阿波 >>220
>庄内0なら、瀬田の突起付き円形周溝墓の整円形円墳はまだないよ。
この時期は、まだ不整円形だね。
ふーん。 >>223
史料事実や現実より皇国戦争史観の宗教思想を優先すると
大和説のように、滅ぶよ 「奈良県天理市中山大塚古墳は西山谷2号墳の劣化コピー」
徳島県鳴門市大麻町大谷の四国横断自動車道予定地内の西山谷古墳群を調査。
西山谷2号墳は四国最古(3世紀中)の古墳と見られ、中山大塚古墳と類似の竪穴式石室が検出されました。
畿内型石室の祖形??? @阿波
http://obito1.web.fc2.com/nisiyamatani.html >>229
「南→東」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の皇国史観殺戮戦争狂の大和説とかやってると、
頭おかしくなるのかな >>241
>(大和の瀬田遺跡の年代)遅らせないと九州説が死ぬもの
遅らせても、遅らせなくても、大和説が死ぬもの >>245
知り得た史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論を、絶対にしないで、
「皇国史観人種差別殺戮戦争」の結論先にありきの宗教的御託宣を続ける人種
その名は東大理系博士号自称男や、大和説学者ら。 >>395
そ〜では、あ〜りまへん。
吉備の双方中円墳は、有年原の両方突起付き円墳が発展した、とする西方波及説が正しい。
有年原は、その後方墳に変わる。 >>251
ほら、絶対に「史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論」をしないしで
おかしな「結論先にありき」の宗教思想的な御託宣を金科玉条にして
何事も恣意的に断定する
じつに大和説っぽい >>253
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、」
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
皇国史観宗教の大和説の×おじさん、やっぱ妄想ですか?
考えが変わるような疑問を投げかけて下さいよ、
大和説じゃ「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
説明がつきませんよ >>255
お前ら「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説者らはら、
帰納的な確率的推論を使える情報が出てくるまで黙ってろ。
お前のやってることは後出しジャンケンでしかない。
少しは自分の異常性に気付け >>257
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」・・・
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料事実や史料実態に拠って、バツ。
しかしこの男の貼り付けも、今忙しいから、しばらく放置しましょうね。 >>410
円形の周囲に細い溝状の縁が取り巻いているだろ。
その円形が建物だと言い張るなら、墓の隣に家がある時代はいつか説明しないとな。
たいがいにしてよ。 >>272
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使って、
証拠も出せないことを断定する大和説のあなたは、精神の病気
信用されるわけがない >>274
大した学もないのに大見え切って、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、」
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをし、
その説も検証もない帰納法
大学のレポートですらまとめた事がないやつかもしれないな >>275
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の、現実とかけ離れたことを公言して
もちろん証拠は絶対出さない
それが大和説の人 >>279
このように、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解は否定の嘘吐き騙しの」トンデモ大和説は、
結論を書けても理由が書けない >>284
>は? おまえ、
大陸の史書でも、後年に元々我が国はヤバタイという国だったという事で、
邪馬台国呼称は昔からあったって説明あったろ。
「ヤバタイ」なんてなかったよ。
大和説者は、学がない上に頭ボケちゃってるわけか? >>285
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の4曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説は、
どうしてそんなウソつくの?
会稽東治の位置比定も、冢の用例も、唐会要倭國伝の記載など、
いくつ証拠を突きつけられても見ないフリ >>287
倭人伝には「道里を計算すると、会稽東治の東あたりに位置する」と記述されている
その前述の行程から陳寿がそう推測したという一文だよ >>300
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
世間常識に反したことを理由もなく連呼されても
一般人にはまったく理解できない
大和説者って人種は、頭おかしいとしか見えない >>302
そうやって
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの素人大和説じいさんが
自己流の独特な思想を
理由も言わずに結論だけ連呼しても
誰にも理解できない
頭おかしいと見えるだけ >>308
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、バツ。
このように 史料から帰納は一切せず
確率を推定することも一切なく
ただ自分の発明した、なんの根拠もない
我流独特のオレサマ式法則に合わないからと
他人の主張を頭ごなし断定的に100%否定する
そんな非学問的なことばかり言ってる大和説には
誰も共感しないな >>318
陸橋付き→全周の進化は、
「南→東」などの史料事実の曲解の嘘吐き騙しの大和説学者らの説であり、
肯定出来るような根拠は無い >>330
また「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の証拠出せなくて逃走するトンデモ説は
また大和説の人?
情けないな とりあえず基本に立ち返って伊都から。
伊都はヤマトの出先機関であり、大宰府の様な機能を持っていたと書いた。
伊都国が、歴史上特筆すべき存在となるのはなんと言っても弥生時代である。
伊都国という名前の初現も魏志倭人伝の中であるし、「帯方郡使や魏使が常駐していた都」でもある。
魏は、中国の三国時代に華北を支配した王朝で、「220年 - 265年」所謂邪馬台国の景初3年は238年。
この時点で、他国に常駐しながら本気でヤマトの国の場所が分からないなどあり得ない話である・・・と言いたいところだが
吉備国の存在がある。
160年、葛城王朝(磯城王朝)のフトニ大王(この時は天皇ではなく大王だが、後に記紀によって勝手に孝霊天皇にされる)が出雲に戦争をしかけ
山陽の出雲南から播磨のあたりを領土として吉備国を建国する。
物部五瀬の軍勢が奈良に入り込んだことによって葛城国王はヤマトに帰れなくなる。
強力な国家で鉄器の製造もおこなっており、瀬戸内海は吉備国によって分断されてしまう。
ただし、日本海側ルートを通れば、尾張氏の奮戦により丹後の国から、出雲経由、親戚の九州宗像のルートは生きている状態であった。
その後、240年以降の西軍の東征まで吉備国は続き、戦闘は8年ほど続くほど、強力な国家であった。
それは鉄器の出土からも伺え、150年代にあった「朝鮮ヒボコ一族播磨侵攻→敗走」とその後の習合からも伺える事である。
張政は東征に関わり、軍の司令官卑弥呼に選定し、卑弥呼の死を確認し、次代の卑弥呼であるトヨを指名し
戦闘の終わりを確認し、トヨと八坂入彦に見送られて帰国している。倭国を見てきているが、その際に軍事的に重要な情報である道順を記録していないのは特筆に値する。
つまり、魏国の建国時にはヤマトの位置が伝聞になった可能性は否定できない。九州勢に案内されて気軽に通れる場所ではない。
ヤマトに残った磯城王朝の残りも、吉備国とは対立していた。これは纏向遺跡の出土数が吉備式が少ないことからも推測できる(あとで交流が生まれたと考えるべきか)
東海系49%、北陸・山陰系17%、河内系10%、吉備系7%、近江系5%、関東系5%、播磨系3%、西部瀬戸内海系3%、紀伊系1% 古代の糸島半島は、海に突き出ている「志麻(しま)郡」と内陸部の「怡土(いと:郡地名の文章での初出は筑前国続風土記)」とに別れていて、
ふたつの地域は「糸島水道」によって分断されており、志麻郡にあたる部分は島であったと考えられていた。
筑前とは、築秦国からわかれた筑前筑後のその後の国である。めっちゃ「例の人の拠点である。」
しかし最近の縄文時代の海面変動の分析や地質調査、海生動物の化石分布調査、遺跡発掘調査の分析などから、下図のように、
縄文時代以後の糸島半島は、泊−志登間では、南北に陸地としてつながっていた可能性が高いとされている。
怡土と志麻が元来陸続きであったとすると、泊−志登地区が両地を結ぶ橋の役目を果たすとともに、
東西から入り込んだ湾の接点に位置しているため、伊都国の海の玄関口として重要な地形を有していたと考えられるようになっている。
防御面でも優れた地形と考えられる。
http://inoues.net/ruins/sito_sisekibo17.jpg
注意:参考に引用したHPは「紀元前3世紀から3世紀ごろまで約600年間」を弥生時代としているので、これでも古い情報
魏、呉の位置関係
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8%89%E5%9B%BD)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Sanguo_map.jpg
さて、奈良のヤマトの政権の有無、朝貢に関してであるが大がかりなものとしては初出が後漢書にあたるであろう。
諡号に関してはその成立は基本的に8世紀(淡海三船)とされる。8世紀の視点からの付け方が重要である。
和風諡号に関しては「持統説」「欽明説」があるが、死後の諡号なのか生前からの別名(尊号)なのか判然とせず、決め手もないのが現状である。
が、物部イクメのように、生前から使っている偽名、イサチが魏書に載るなど、8世紀の視点には一定の歴史への深い造形が伺えるものもある。 >>428
>その円形が建物だと言い張るなら、墓の隣に家がある時代はいつか説明しないとな。
お前さあ、いくら言い張ったって
SB001。SB002、SB003が円形周溝墓だって言ってるのはお前一人なんだよ
そしてSBってのは建物遺構につける記号で、周溝墓ならSDなんだよ
ゴネても無駄だ
そして根本の問題
下池田には弥生後期から突出部付き円形周溝墓があった
お前が庄内期だと言ったのはウソ
そして大和橿原の庄内0期に前方部がバチ型に開いて周溝が全周しない円形周溝墓がある
これが大和纒向の庄内1期に前方部がバチ型に開いて周濠が全周する纒向型と下池田SD 001の中間形態だ
いくらウソを重ねて誤魔化そうとしても、皆の前に事実が晒されているから
無駄だ 朝貢に戻す
107年の朝貢である。これは伊都大好きマニアでは伊都国王という説や、スサノオ説もこのスレで出たりしているが
【後漢書 東夷伝 倭条】に記された
『安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見』
これは明治時代より、孝元天皇であるクニオシヒトであるという事が言われてきている。
クニオシヒトのアクセント部分、ヒシを短く行書で書いたというもの。
しかしながら、倭国王ではなく、倭ので始めると結構分かりやすかったりする。
倭の国【クニ】王【オ】帥【シ】升【ヒ】等【ト】(升は飛の略字とも写し間違いともいわれている)
記紀には属国の歴史も朝貢の事実みっともないので兄が朝貢したことにされ、大和足彦、天足彦に分離された。 >>332
日本の大和説考古学者は、ほぼすべて、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者なので、
それでよくない。 そして、クニオシヒト孝霊天皇の朝貢した時が107年だとした場合の当時の漢の皇帝の名前はと言えばもう、諡号を付けた人の視点には一目置かざるを得ないであろう。 >>433
Y染色体ハプログループO1b2系統 【弥生系】
東南アジア、ベトナム、タイなど稲作地帯の発祥。華南から日本列島へ伝播。さらに朝鮮半島を北上し満洲方面へも拡散した系統。
https://wiki3.jp/famousdna/page/50
と書いてある。 >>339
だから
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの証拠が出せないんだろ?
また大和説の負けだよ >>346
「南→東」などの史料事実の巨魁の嘘吐き騙しの大和説者というと
もう創作ニセ情報か
世界の学者がけして唱えることのない素人我流珍説
二つにひたつということで
完全に定着したようだ >>347
どれが史料事実や史料実態の投稿で
どこが私情なんだ?
具体的なことがなにも言えない大和説はあわれだな >>444
下池田庄内式期の突起付き円形周溝墓については3ザルを決め込む変態野郎に、周溝墓を語る免許は与えられてない。
尾張廻間SZ01のような前方後方型墳墓が、前方後円型纏向石塚のベースなのだ。
SZ01は周濠は全周してるし、前方部は撥型に開いているし、問題はない。
そして、なぜ吉備の円墳がその前方後方型墳墓の後方部に置き換わったのか、はい、試論を出してね。 >>349
これまで、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の説明が判らず、
日本語が不自由だ、と具体的に指摘された人は、
なぜか大和説者らばかりのようなのだが >>353
>岩永の論文に、そう書いてあるだろ。・・・
岩永も、「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者の仲間なんだろ?。
そんな嘘吐き騙しの詐欺師仲間の岩永の論文なんて、
それだけでも信用出来ず、バツ学者だよ。 >>448
日本に来たO1b2の出身地は、中国江蘇省の淮河下流域。
彼らは、稲作発祥の長江中流域から北上した。
その時期は周の穆王のとき。
周穆王に攻められて、淮河下流域から逃避した。
彼らは淮河下流域の降水量と北部九州の降水量が同じことをよく知っていた。
特に、走り梅雨から梅雨は、双方ともにまったく同じ時期に訪れた。
稲作民にとっては、走り梅雨と梅雨が最も重要だった。
水稲生育の作業手順を変えなくてよかったのだ。
その点、朝鮮半島南部は走り梅雨や梅雨の訪れが半月ほど遅れるので、彼らにとっては朝鮮半島南部は水稲の最適地ではなかった。 >>356
>赤穂の有年原・田中遺跡の突起付き円形周溝墓も、当初は前方後円型墳墓へ変化するだろうと見られていたが、そのあとの発掘では実際には方墳へと変化し、前方後円型へは発展しなかったことが分かっているそうだ。
阿波の西谷山2号墳も、そのアドレスのサイトによると、突起がなくなって円墳へ変化したとされているようだ。
つまり、東瀬戸内系の突起付き円形周溝墓は、前方後円型墳墓へは発展しなかったということになる。
まあ、それが妥当だね。
ふーん。 >>445
ごめんなさい
これは明治時代より、孝元天皇であるクニオシヒトであるという事が言われてきている。
これは明治時代より、孝安天皇であるクニオシヒトであるという事が言われてきている。 >>369
>畿内説のアホが箸墓はもともと円墳だったとか言ってたなw
畿内説も卑弥呼の墓が前方後円墳だとは考えてなかったから
畿内説のネタが無くなってきたら前方後円墳を卑弥呼の墓だと言い出した
邪馬台国論争が低能学者の飯の種と言われるのもわかるな
ふーん、成程。 >>371
>萩原2号墳は柄鏡型円墳。
赤穂の西条52号墳とおんなじ。
萩原も西条も、前方後円墳のルーツかと希望的観測者によって唱えられたが、
単に、吉備の双方中円墳の参道の片方を取り除いただけのもの。
その柄鏡の柄の部分が撥型に開く後続墳墓は、その付近で見当たらんのよ。
ふーん、成程。 >>365の訂正
「魏書四 齊王紀」には、
(景初三年)十二月,詔曰:「烈祖明皇帝以正月棄背天下,臣子永惟忌日之哀,其復用夏正;雖違先帝通三統之義,斯亦禮制所由變改也。
又夏正於數為得天正,其以建寅之月為正始元年正月,以建丑月為後十二月。」
とあり、確かに、景初三年12月の次が景初三年の後十二月であり、
その次が「正始元年正月」となっており、
景初四年の記載など全くなく >>374
>>しかし、そうすると、以前の議論での東大理系博士号男の、
>「景初四年があった」説も存在しなかった事に決着し、
>なる理由がないが? 公布と施行が同時でないのは法律の常だもの
齊王紀の記載内には、「景初四年」なんて年号の記載がないよ。 博多で鉄器一括仕入れを行った纏向連合政権庁は、瀬戸内海の運搬コースを四国沿岸とし、高松から徳島へ伝い、
それから淡路南岸、和歌山へと進んで、紀の川を登って大淀あたりから奈良入りしたのか?
それなら、吉備などを伝い、大阪湾の大和川を登って奈良入りする北岸コースはいったいどうなるのよ。 >>376
大和説また捏造か
>畿内説で卑弥呼の墓候補は最初から箸墓
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、捏造であり、
箸墓説も、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。 >>382
大和説、なんでそんなに、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
ウソつくの? >>385
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説者って、
皇国史観宗教に狂った国粋国家主義の・・・・アホ詐欺師ですか >>455
で、周の穆王のときに淮河下流域から渡来定着したなんてギャグ飛ばしてる
頭の中がダイアナエクストラバガンザなナンチャッテ考古学者の論文は?
. >>388
>古墳前期に日本で一番大きな古墳を作りまくっていたのは奈良しかないんだから
邪馬台国は奈良以外考えられないんだよね
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
この大和説男は・・・・アホ詐欺師であり、
大和の巨大古墳群は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の将軍らが、
征服した毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を生口や守墓人にしてこき使ったから、
造れた。 訂正 107年朝貢 孝安天皇=クニオシヒトの時代
和国大乱(147〜188)について記す。これは出雲伝承と、一部、小野田伝承。
150年代 ヒボコの勢力が播磨へ侵攻。フトニ(後に孝霊天皇にされる)は播磨の出雲の救援要請を無視する。大和の豪族同士の覇権争い始まる。
ヒボコは尾張氏とフトニによって孤立し淡路島方面に敗走する。
160年代 吉備のフトニ大王が出雲王国を攻撃。出雲の南あたりまで侵攻
165年 物部五瀬が東征を開始、フトニが出雲侵攻を中止する。五瀬死亡。五瀬はイチキチマヒメと饒速日の子、ホホデミの息子である彦渚武の息子である。
物部四代目である五瀬のどの兄弟が大和入りしたか不明であったため、記紀は額田宿祢のもう一つの名前、甘内宿祢より、ウマシマジを創出する。
小野田伝承では、4男が大和入りして神武になったと記紀風の伝承を残している。
175年 物部勢の大和入り(出雲系の分家、加茂氏である八咫烏が奈良に引き入れる)、磯城王朝8代クニクル(孝元天皇)は物部の姫を娶り、
そこから9代オオヒビ大王(のちに開化天皇にされる)と、フツオシマコト(記紀にも出る)をもうける。大彦、モモソ姫の時代。加茂家9代大田田根子。
オオヒビは物部系の嫁さんの子供。モモソ姫は太田氏の出自で磯城家と加茂氏の世襲の三輪山の姫巫女。
大王を物部、姫巫女を加茂家とし、融和を図る政策をとる。この時代に三輪山祭祀に物部の銅鏡祭祀が取り入れられるようになる。
その一方、物部勢が地域の村々で銅鐸祭祀を弾圧してヤマト側と軋轢を深めていき、不満分子が増大する。。
大彦が三島に居た時に出雲の東出雲王家に救援を要請。しかし、都万からの進軍の情報をすでに察知してた出雲王家により、救援は断られ、トミの名前も使用をやめるよう通達される。
以降、大彦は阿部氏を名乗る。摂津三島の阿武山に因んでいるとされる。
おそらくフツオシマコトはこの近辺で都万入りしていたと思われる。「伊都国の朝貢窓口が利用できるようになる。」 183年 大彦が物部に敗れ大和から北へ退却を始める。纏向の時代。魏書に書かれた戦乱を納めた卑弥呼がモモソ姫という説をとるのであれば、モモソ姫は高齢である。とりあえず騒乱は収まる。
モモソ姫、人気が出ちゃって、姫巫女職の重要性が際立って認識されるようになる。→一部で魏書の卑弥呼と言われるようになる。
大彦は最終的に信濃の犀川近辺で布施氏と協力関係になり布施地籍で亡くなる。将軍塚古墳に埋葬されたと伝承に残る。
上記の事からヤマトには統一した第王家が居なかったことが分かる。
230年代 オオヒビの息子である記紀に隠された王、磯城王朝最後の10代ヒコイマス大王の時に、息子であるサホ彦、ヒコミチヌシ(魏書の男王)が跡目争いで再び磯城家が分裂状態になる(物部イニエ崇神の時代)
238年 景初2年 リャオトンの公孫淵親子が殺され、帯万群が魏に属し、朝鮮半島経由の朝貢が可能になる。 239年正月 魏の明帝退位 魏書の卑弥呼が新皇帝の即位に合わせ朝貢。タジマノモリ、トオチネ、が魏書に載る。記紀は仕方なくみかんの話を作る。
倭国は分裂状態にあり、吉備国と、狗奴国に挟まれ大変であるという話を聞かされ新皇帝は、こんな時にも我が即位を祝いに来るとは大いに健気だと朝貢団を評する。
240年 魏国からの返礼品を貰って帰国
243年 再び朝貢 その時に八坂入彦、物部イクメが魏書に載る(イサチ)
245年 伊都国長官になっていたタジマノモリは魏両領 帯方に行く。八本の黄色い属国旗を貰う。しかしそれはなぜか不思議なことに都万国に送られ、何故か宇佐神宮に届き、宇佐が八幡宮になってしまうw
247年 俺も銀のハンコが貰いたいという事で、武内宿祢が帯方軍に行き、長官オウキに戦況報告をする。この時に男王、ヒコミチヌシが魏書に載る。
しかし豊玉姫とイクメの奸計で、ハンコを貰えなかった武内宿祢は衝撃を受け、倍返しを誓う。呉から鏡職人と材料を仕入れ、帰国する。四国ルートで和歌山に職人を連れていく。
腹違いの弟額田宿祢、甘内宿祢も武内宿祢の後を追う。
加茂氏より、都万が魏から100枚鏡を貰ったうわさを聞き付けたことで、武内宿祢に豪族に配るための鏡政策を頼まれる。
武内宿祢、自軍のシンボル笠松模様を入れた鏡を作る。これが三角縁神獣鏡。初期ロットの物は少数で大陸材料だったはずである。
248年 物部豊国連合軍が東征を開始。 という事で
きちんと畿内の倭国は107年に大陸にダイナミックエントリーしてるじゃん
魏書の卑弥呼の時代より前に畿内政権は存在してるじゃんというという事になる。 >>472
>伊都国は邪馬台国の重要なピースである。
伊都国は邪馬台国(阿波)への通過国の一つである。 @阿波 まったくだめだめ、墓が進化するわけないだろ?思想が進化するんだよ、で天地水であり漢尺で桃園を守ってるの、正北抵新羅南は越州は完全に陳寿に惑わされた結果、陳寿は卑弥呼の居所を我甚哀汝から隠してるの。円方丘で壱輿の封禅がおこなわれ、ばっちし266年跡継ぎ教育をしたのが山泰国。 >>409
>尾張廻間SZ01はすでに周濠が全周してるんだから、この後方部を円墳に置き換えたら、そのまま前方後円型の石塚になるのよ。
>何の問題もない。
それこそ阿呆の脳内劇場だ
SZ01じゃ廻間I−2頃でどっちも庄内期
石塚とどっちが古いか判らんだろ ヒコイマス、ヒコミチヌシは、センダイクジホンギの国造本紀、因幡国造の条に出ている。 >>472
それは物事の水準(レベル)がくるっている。
伊都国は倭国の重要なピースだった。つまり倭国と邪馬台国では段違いの制度水準だったのさ。 >>478
う、ヤベ。
そうですね、倭国の方でしたな。 >>478
う、ヤベ。
そうですね、倭国の方でしたな。 邪馬台国の会の解説抄
倭国大乱
>桓帝・霊帝時代(147〜188)の極東アジアは(中略)・・、戦乱が続いた。
>このため、流民が馬韓・辰韓・弁韓に流れ込み、これが引き金になって、北九州地域で倭国の大乱が起こった。
>・・(中略)・・
>したがって、倭国の大乱は九州のなかでの戦乱で、その後30ヶ国の原始国家が北部九州に生まれ、邪馬台国が盟主として君臨する時代になる。
>北九州地域で倭国の大乱が起こった云々・・
解説は、(倭国の中の)九州という狭い地域で大乱が起った、と認識して書いているように読める。
しかしそもそも「倭国」の定義には、東渡海千里の倭種の国は含まれない。
まさに九州地域のみの事であった。だから(倭国=九州で起こったから)倭国の大乱と記述されたのだ。
>したがって、倭国の大乱は九州のなかでの戦乱で云々・・
ここもそうだ。
繰り返すが、倭国という広域の中に九州という一部小地域があったのでなく、九州地域こそが倭国であった。
だから、まさしく(倭国=九州に於いて)倭国の大乱が起ったのだ。簡単なことだ。、 3世紀の博多湾沿岸はその九州という仮想の括りには属していない >>392
>九州が邪馬台国なら明帝の100枚の鏡はどれなの?どれなの?
平原1号の21枚の「尚方作の方格規矩鏡」は全部。
平原1号の他の鏡も明帝鏡であった可能性がある。
また、祇園山の殉葬の1号甕棺の高級奴婢が身に付けていた鏡片も、
おそらく「明帝→卑弥呼の下賜」鏡。
また、筑紫付近の諸国王や、瀬戸内以東への東征将軍らにも、
内向花文鏡や方格規矩鏡や画文帯などに、卑弥呼や壹與からの下賜の明帝鏡があった可能性があるが、
明らかに呉系楽浪鏡師らの作鏡だと判る三角などの記銘鏡は、明帝鏡である筈もなく、
同范鏡が存在するものは、その原鏡は明帝下賜鏡であった可能性があるが、
同范されて造られた事が判る鏡は、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であった可能性が高い。 >>461
ま、三角縁神獣鏡魏国産説を捏造しなくとも機内の政権の存在は普通に100年代の朝貢の大陸の史書で分かるのにね。
それも明治の時代から言われてたような程度の話でさ。
しかし、他国の大陸の年号にまで手を突っ込んで魏国産説を言うのって相当浅ましいよな。 >>394
>九州の都で死んだのにわざわざ奈良まで運んで埋葬するのかよ あほくさ
いや、埋葬された中心は、
東征毛人五十五國の将軍や武将らや、「市」を監督する役人ら。 >>395
>>下池田の突起付き円形周溝墓は、有年原・田中遺跡の突起付き円形周溝墓と同じく、前方後円型墳墓へは発展しなかったのだよ。
>そんな学説はない
播磨は元々が方形周溝墓の地域だから、有年原田中は吉備楯築型の東伝過程と理解するのが普通
畿内域に波及して前方後円墳に習合する
人類の常識は、部族の埋葬形態は非常に保守的であり変更は少なく、
埋葬形態に変更があるのは、新支配者の支配下になった場合が多いもの。
その「変更」の根本的な原因になったのが、
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の軍に拠る征服支配。 東征開始事に西軍側に驚きの情報が流れる。
何と武内宿禰が東軍に寝返ったのだ。
武内宿禰の提供した三角縁神獣鏡は、ヒコミチヌシや加茂氏が大量に買い付け、コピーも作られるようになる。
2015年には国産と見られてきたものと、船で運ばれてきたものと言われていたのが同じ鋳型から作られている事が判明し、両者の境が曖昧になるという分析結果が出される。
西軍本体のイクメは生駒山地でサホヒコの抵抗もあり足止めになる。
この事が後に深刻な状況をもたらす。
自分と同じ銀のハンコのタジマノモリと、豊国の部隊が先に倭入りし、三輪山を占領する。
イクメが倭入りしたときにはかなりの勢力になってしまっていた。
対策を取る必要に迫られたイクメは、前政権の娘であるヒバス姫を娶り、姫巫女であるサホ姫を祭祀の要に置く。
そこに一番遅れてきた腹違いの兄弟であるトヨ姫トヨ彦がヤマトに到着する。 >>398
>尾張に弥生後期から週末期にかけての前方後円形周溝墓なんて皆無なのに、
何で巻向石塚のルーツになるんだよ、バカなのか、必死こいてるやつ。
尾張は、九州倭國の東征毛人五十五國の中心的な、
安芸〜吉備〜播磨〜河内摂津〜山城〜近江〜東海の本隊の征服地であり、
讃岐〜阿波〜紀伊〜大和や、丹波方面は、別動隊らの征服地。 そもそも論として、東征の大前提が、男王をイクメとし、卑弥呼をトヨとする作戦だったのに、事もあろうかイクメがサホ姫と組んでしまったのだ。
当然揉めに揉める。
トヨは正式な魏国によって指名された女王卑弥呼であり、イクメは銀のハンコ、部下だったのだ。
さらにはタジマノモリは同じ銀のハンコ。
東征開始の際には豊玉姫も存命で、西軍の総大将は魏から旗を貰った伊都国長官のタジマノモリだったから。
流石のイクメもそれには逆らえなかった >>411
>最初の前方後円墳位は封禅が行われただろ?、
だから、前方後円墳の始まりは、266年の後であり、
筑紫の那珂八幡などが先行し、那珂八幡の進化型である石塚は、3世紀末。
>円丘方丘が無いとね、無いと陳寿も山泰とは呼ばない
「山泰」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツ。 それもこれも武内宿禰のせいだと後々までイクメは恨みを募らせていた事であろう。
そこでイクメは色々考える。
まずは制御不能になったタジマノモリを国造に任命した出雲の千家に命じる。
しかし、終戦処理を任されただけの千家には従うものはなく、自分が物部軍を手引きして滅した出雲王家に頭を下げて、出動を要請する。
三輪山を聖地とみなしていた東出雲王家の富家は名を野見と変え、三輪山に軍を出す。
密約は三輪山の領地の安堵だったらしい
加えてイクメはトヨ彦には生駒山地に陣を動かしていたサホヒコの討伐を命じる。
三輪山は息を吹き返した分家の太田氏と、野見により奪還される。
タジマノモリは先祖と同じく淡路島方面に敗走する。野見はイクメより宿禰を貰い、これが野見宿禰になり、戦いの様子が相撲になる。 結局サホヒコもイクメに嵌められ奈良から追い出される。
かろうじてイクメは物部王朝の大王になった。
磯城王朝最後のヒコミチヌシは因幡に流されて国造家となる。
プライドも高く野心家の武内宿禰であったが、義理堅いところもあり、稲葉まで付き従う、
ヒコミチヌシは、ミカドワケ家を名乗り、神社の社家になっていく。
イライラが治らないイクメ王は武内宿禰に刺客を差し向けるが、ヒバス姫の機転で難を逃れる。
そして彼は出雲に向かう。 海家と尾張家はここで別れた。
海家=海部家は丹後に行き、籠神社を作り、社家になる。
後にここにはヤマト姫が訪れる事になる。元伊勢。
尾張家は草薙の剣を守り一部は熱田神宮を作る事になる。
これが天皇家に本体の剣がない理由。
元々違う家の管理物であった。
出雲の東出雲王家では武内宿禰を匿い。嫁さんを世話した事により、彼は王家と婚姻関係を結んだ証、臣姓を貰い武内臣を名乗る事になる。
本名武内臣太田根。
彼は晩年に、現在の武内神社のあたりに住んだらしいが、亡くなった時はついてきた弟、額田臣が小さな古墳を作ったとされる。
後に神原神社と言われた遺跡からは、日本で唯一発掘された景初三年の三角縁神獣鏡が出ている。
これは出雲からの一枚しか現在は確認されていない。
武内宿禰が作らせた最初の鏡は全部で10枚あるらしいが見つかっているのはそれだけである。
日本の歴史上、北九州ではなく、畿内発祥の唯一の鏡が三角縁神獣鏡。
この鏡だけが他の大陸の鏡と違った分布になってるのは、国産鏡だから。
邪馬台国ど真ん中の重要アイテムのこの鏡を畿内説の人が欲を張って、魏国から貰った鏡と裏付けもなく言い始めた事が今の揉め事に繋がり、国産説になった事を九州説に利用される様になってしまった。
九州説も、後漢の頃の倭の朝貢を伊都国からという事にし、年号が書かれる前のヒミコも九州に居たと言い出し、お互いが関連するものを全部自分らのものとして議論を始めてしまったのが揉め事の始まり。 また×ですか、卑弥呼は布教でやがて共立されたんで武力を行使して征服、共立させた訳では無いだろ、言わば国譲りだよ。東征五十五で畿内を支配したのなら西服衆夷六十六国の蝦夷扱いと266年に司馬炎即位を知る壱輿らは九州に前方後円墳造らんで畿内なの?なんであんな所行ったの?おかしいでしょ。 トヨ彦は東海方面に逃げていく。
彼らの足跡はトヨタとかトヨハシの地名になって最終的には上州に落ち着いたとされる。
昔の習慣で、物部氏の様に名前を変えて遠くに行った場合は許す習慣があった。
トヨ彦の系譜が歴史に出るのは神功皇后下の応神天皇奈良時代である。
ウサ家の血もまた、武内宿禰の子孫の血と合わさり歴史を作っていく事になる。
ヒバス姫の古墳を作った後は出雲兵は暇になり物部政権側から豊彦勢を近場から追い立てる様に依頼される。
最終的には関東の国造家は出雲系になる。
安房国造もその一つ。
後に宗像大社や、出雲の熊野大社と同じく8神郡に指定される。 茨城と福島の境辺りから南方面は、アジスキタカヒコとトヨ鋤入彦が習合した神社が多い。 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>490
>だから、前方後円墳の始まりは、266年の後であり、
なんの理由もないな
墓で封禅はやらない 近年の歴史学者の失敗は、卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという常識を打ち破ることが出来なかった事。
卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからその時代をとんでもない時代=BC660年に設定したのだ。
卑弥呼を隠すことは100年前の帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。
おまえらみんなアフォだ、アホアホアホォ〜〜! 「邪馬臺国」の「卑彌呼」とは、「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
「有男弟佐治國」の「男弟」とは、「月読尊」
「狗邪國男王」の「卑彌弓呼」とは、「須佐之男命」の3兄弟。
「卑彌呼宗女」の「壹與」とは、神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売
命」
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 彦渚武ウガヤフキアエズは、ヤマトトビモモソヒメと同じで二人の名前が合体した名前であるという説がある。
実際に物部氏の系譜にはホホデミの後に彦渚武がいる。
豊玉姫話は日向神話に作り替えられたので、ウガヤフキアエズはトヨ彦、豊来入彦にあたる。
ウガヤフキアエズは九州王朝の中心人物でしたっけ 卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」
記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。
なお、魏志倭人伝に云うところの「更立男王」は、須佐之男命。
出雲狗奴国王「須佐之男命」 の息子「大国主命」は、卑彌呼宗女「壹與」と同世代である。
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 >>477
豊中の服部遺跡1号墓の築造年代は、弥生終末期〜古墳時代前期初頭とされている。
同時期の築造らしい。
とすると、終末期前葉頃とされる石塚よりも遅く、この服部遺跡1号墓よりもかなり早い時期に石塚が造られているわけだから、石塚のルーツが服部遺跡1号墓だということにはならない。
むしろ、全周する周溝は石塚などの影響を受けたものとみるのが妥当。
また、近江の大戌亥・鴨田は、尾張から入った前方後方型墳墓の影響を受けて、在地の円形周溝墓が前方後円型に変化したものとする研究がすでにあり、
築造時期も弥生終末期〜古墳前期初頭とされ、上の豊中服部1号墓と同じ時期の墓だ。
やはり纏向では石塚が既に築造されており、この大戌亥の前方後円型周溝墓が石塚のルーツとみることはできない。 北史倭国伝
「正始中、卑彌呼死、更立男王。國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中國爵命」
>正始中、卑彌呼死
「卑彌呼」とは「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
>卑彌呼死、更立男王
その男王とは「須佐之男命」
>卑彌呼宗女臺與
その臺與とは「神武天皇」の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
>其後復立男王
その男王とは「神武天皇」
出雲狗奴国王「須佐之男命」 の息子「大国主命」と、卑彌呼宗女「壹與」とは、同世代である。
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 飛騨王朝。
飛騨には王朝伝説があり、ざっくり纏めると須佐男マンセーのイメージ。
琵琶湖から関ヶ原を遠田でまっすぐ来れば飛騨。
あの地には物部氏に因んだ位山があり、そこを御神体とするのが水無神社。
島崎藤村のお父さんが宮司をしていた神社である。
秩父の神社と同じ、狛犬がオオカミになっている。
岐阜には物部神社が少しだけあり、祭神が物部トオチネと、物部守屋。
守屋の系譜伝説もある。
戦時中に、草薙の剣の疎開先でもあった。
水無神社が、物部の神社なのか、磯城系、尾張家の親戚の神社なのか興味は尽きない チョォ〜、面白いィ〜 !!!!
阿波神話は、それで行きたまえ。
ついでに、イザナギの禊は鳴門の渦の中だったことにしたらァええぞ。 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>475
廻間SZ01のほうが古いに決まってる。
尾張の前方後方型墳墓の成立過程は解明されていて、
このSZ01には前段階のものがあるのよ。
その前段階の前方後方型墳墓は弥生後期だから、
周濠が全周し前方部が撥形に開く墓形はすでにあったということ。
廻間SZ01を挙げたのは、そうした1例にすぎんのよ。 >>507
アワさんもうイッちゃってますよね。
時系列も何もない >>509
廻間SZ01の築造時期については、岩永は弥生終末期初頭としており、2世紀末頃に当たる。
纏向の石塚が200年〜220年頃とされているので、石塚よりも古いのは明らか。
ただし、寺沢薫はSZ01はぐんと新しいとしているが、その幅が大きすぎて、現実的ではない。
https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-11827306298.html 因みに阿波国造は物部系。
大王家より権威は上で、みんな阿波からとか言いながら国造は物部系でしたとさ。 >>507
>ついでに、イザナギの禊は鳴門の渦の中だったことにしたらァええぞ。
ついでに、イザナギの禊は、出雲狗奴国(長国)阿南市周辺の海での話だ。 @阿波 >>511
おいおい、わかってないな
弥生終末を180〜250にしてる人にとって弥生終末期初頭は180〜200だし
200〜260にしてる人にとって弥生終末期初頭は200〜220だ
同じベースで比べなきゃインチキだぞ >>512
>因みに阿波国造は物部系。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「忌部一族」。
みんな元を辿れば全部、「忌部一族」=「倭人」。 @阿波 >>504
纏向石塚は庄内1〜2式期
突出部付円形墳丘墓は後期前半に讃岐、播磨、河内和泉に出現する
豊中服部遺跡は全周する突出付円形周溝墓の東に3基の全周しない突出付円形周溝墓がある >>515
おかわいそうに。
そんな貧相なものが阿波の歴史なんだな。 >>517
>そんな貧相なもの
ってなに? @阿波 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>520
まーだやってらっしゃるのか
「大和忌部」陵 ← 黒塚古墳(天理市)
「東海忌部」陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>511
>廻間SZ01の築造時期については、岩永は弥生終末期初頭としており、2世紀末頃に当たる。
お前って円形竪穴住宅見て周溝墓だって騒ぐようなド素人だろ
岩永は弥生終末=庄内併行って定義なんだから弥生終末期初頭は3世紀初頭だよ >>516
東瀬戸内系の突起付き円形周溝墓の周溝は全周しないのが完成形とみられ、豊中の服部1号墓のみ周溝が全周し、突起が陸側から切り離される前方後円型となっている。
その築造時期は弥生終末期後葉と古墳前期初頭がつながる時期とされるので、実年代を当てはめてみると、240年〜270年頃か。
石塚を220年頃の築造とした場合でも、服部1号はかなり遅れる。
突起付き円形周溝墓としては異例の周溝全周型なので、石塚や矢塚など纏向の墳墓の影響を受けたものとみるのが妥当ではないか。 >>522
>弥生終末期初頭は3世紀初頭だ。
弥生終末期は、普通は180年〜260年頃だよ。
また、墓に隣接した竪穴式住宅なんて、聞いたことないわ。 花文鏡の出土。
初期の頃は圧倒的に九州に偏って出ており、次第に東征を裏付けるかの様に瀬戸内海川に移転する。
後に国産化されたらしく、終末期には奈良でも出土する様になる。
対して三角縁神獣鏡は、畿内で爆発的に出土し、次第に地方に拡散していった。
九州においてはごく僅か。
三角縁神獣鏡を正しく認識すれば、東軍側の豪族のその後の動きが追跡できる可能性がある。
非常に重要な遺物と言える。 >>524
>弥生終末期は、普通は180年〜260年頃だよ。
>また、墓に隣接した竪穴式住宅なんて、聞いたことないわ。
だからお前は無知無学な上無能なんだよ
庄内0を入れるから180年〜260年になる
岩永は庄内併行だけと言ってるのだから3世紀初頭以降になる
お前は本当に無能だ
下池田の二次調査で出てる円形周溝墓は1つ、円形竪穴住宅は3つなんだぞ
円形なだけで周溝のないものが円形周溝墓じゃないのは白痴同然じゃなきゃ分別つくんだよ
白痴同然じゃなきゃな
お前、学校で成績最低クラスだったろ
わかるぞ >>514
岩永が言う弥生終末期は180年〜260年頃だよ。
これが普通の弥生終末期観。
それにしたがうのがよい。 >尾張の前方後方バカ
周溝全周型であろうが、撥型であろうが関係ないのだわ。
勝手に都合よく基準を創るな、 >>442
>とりあえず基本に立ち返って伊都から。
伊都はヤマトの出先機関であり、大宰府の様な機能を持っていたと書いた。
「ヤマト≠邪馬壹國」であり、
「ヤマト」は大和を意図する文言になってしまうから、バツだな。 >>527
おぬしはいつもそうだが、遺跡調査の報告書などの文章読解に難がある。
下池田の遺跡では墓地と竪穴式建物と井戸がみつかっており、そのうち墓地では前方後円型の周溝墓1基と他に周溝が途切れる3基の円形周溝墓がみつかっているそうだ。
おぬしが言う住宅は、墓地とは少し離れた別の所にあるのよ。
墓地に住宅建てるわけないだろ。
普通に常識的に考えようぜ。
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2014/09/post-a90d.html >>528
>岩永が言う弥生終末期は180年〜260年頃だよ。
証拠でもあるのか?
お前は捏造しすぎだ
どうしてデタラメばかり言う?
円形竪穴穴住宅を見て周溝墓だとかも、もしかして意識してウソ振りまいてるのか? 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 石野・豊岡纏向新編年では地層の古さでいえば順に纏向石塚→ホケノヤマ→勝山だったと記憶している。
その纏向石塚が年輪年代で177+18だからホケノ山は200年ごろ、
勝山は年輪年代で3世紀前半と出てるから210年ごろかな。
。 >>534
いくらあーだこーだ言ったところで、
畿内古墳の構造(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を見れば、一目で「忌部はん」 のお墓と判るのに、いつまでもwww @阿波 >>525
弥生終末期と古墳時代前期初頭がつながる年代といえば、240年〜270年くらいの間だろうな。
下池田の前方後円型周溝墓は弥生終末期と古墳前期初頭の両方の可能性があるとされるのだから、
終末期後葉か古墳初頭の築造ということになるよ。 >>531
>おぬしはいつもそうだが、遺跡調査の報告書などの文章読解に難がある。
お前が異常に知能が低い上にウソつきなのは
バレてんだから無駄な抵抗するなよ
具体的に指摘できないんだからバレバレだぞ
>下池田の遺跡では墓地と竪穴式建物と井戸がみつかっており、そのうち墓地では前方後円型の周溝墓1基と他に周溝が途切れる3基の円形周溝墓がみつかっているそうだ。
ほら、ソース出せないだろ
ウソだからだよ
SB001,002,003が周溝墓じゃないのは誰が見てもバレバレだ
あんな狭い周溝があるか
お前、知能低すぎ >>536
>下池田の前方後円型周溝墓は弥生終末期と古墳前期初頭の両方の可能性があるとされるのだから、
終末期後葉か古墳初頭の築造ということになるよ。
下池田の前方後円型周溝墓は(弥生)後期後葉。
和泉府中は(弥生)後期前葉と岩永さんは書いておられる。
勝手に話しを創るな。 >>534
地層からみるとそうかも知れんけど、ホケノ山は副葬品からみると鉄器数が多いので3世紀中頃だね。 >>539
いくらあーだこーだ言ったところで、
畿内古墳の構造(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を見れば、一目で「忌部はん」 のお墓と判るのに、いつまでもwww @阿波 まず自分のくだらない結論=長年培ってきた説があり、
考古学的発見も強引にそのくだらない結論に結びつけようとする。
ほんとzarakokuと同じ。
なんで古代史マニアにはこんなやつが多いのか。
アホは死ななきゃ治らない。 >>531
>おぬしはいつもそうだが、遺跡調査の報告書などの文章読解に難がある。
>下池田の遺跡では墓地と竪穴式建物と井戸がみつかっており、そのうち墓地では前方後円型の周溝墓1基と他に周溝が途切れる3基の円形周溝墓がみつかっているそうだ。
>おぬしが言う住宅は、墓地とは少し離れた別の所にあるのよ。
・・・
>http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2014/09/post-a90d.html
まったく別の遺跡の情報みたいだけど
あんた、また詐欺? >>470
>239年正月 魏の明帝退位 魏書の卑弥呼が新皇帝の即位に合わせ朝貢・・・
「景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月,詔書報倭女王曰:・・・」
であるから、バツ。 >>538
下池田の後期後葉の墓は、第一次調査で出たものだということ。
第二次調査の前方後円型墳墓は、庄内式期。
あちゃこちゃごっちゃにするな。 >>539
別に3世紀初頭あたりに鉄器があったっていいじゃないか。
なんでそんなに無理やり曲げようとするの? >>544
>下池田の後期後葉の墓は、第一次調査で出たものだということ。
第一次調査で出たのならそれでいいではないか。 >>542
脳内劇場が固着してしまって、現実が見えないと? >>546
そのあと第二次調査が行われ、この調査で前方後円型周溝墓が出たの。
いつまで抵抗する気?
まあ、時間はいくらでもあるけどね。 >>545
大和では3世紀中頃まで鉄器は出ないのよ。
だから、ホケノ山を3世紀初頭にもっていくのは、無理無理。 >>547
九州説さん、またまったく反論できないで逃げ回る気?
ミットモなさすぎない? まあ、纏向の石塚などのルーツは、尾張の前方後方型墳墓であるのは動かんな。
廻間SZ01などがその祖形だよ。
ただ、纏向の石塚は、その後方部を吉備の円墳に置き換えたもの。
はい、置き換えた理由についての試論は、いつでも受付てますからね。 >>550
>たいがいにしてよ。^^
九州説さん、あんた人生でウソつかなかった日って、あるの?
今日もウソつきまくりだよね >>553
根拠出せずに連呼で言い張るだけか
九州説、もう終わったね >>548
>そのあと第二次調査が行われ、この調査で前方後円型周溝墓が出たの。
だから何なの?
どっちみち尾張の前方後方墳が纏向石塚の祖型などにはならない。
無駄な抵抗してるのはお前。
前方後方墳といえば纏向で埋没古墳であったメクリ1号がある。
道教的天円地方史観でいえば後方墳は下座。
後円墳は上座。
後方墳ごときが天円の纏向石塚につながるわけなかろう、どアホ。 >>549
>だから、ホケノ山を3世紀初頭にもっていくのは、無理無理
無理ったって勝山古墳の祭祀に使われたであろう板材が年輪年代で3世紀前半。
ホケノ山はその勝山より建造時期の地層が古いので3世紀初頭になる。
こっちは科学の話をしてるのだが。 まあ周溝墓の陸橋部が切り離される例は庄内併行期になって各地で続々出てくるからね
どこがルーツとか一元主義を強弁しても通用しないし、そんなこと言ってる学者も当然いない
播磨の有年原田中が双突起部の片方切断で、移行形態かも知らん >>551
ホケノ山の場合は、地層判定が間違っている可能性が高いな。 >地層判定が間違っている可能性が高いな。
纏向地域の地層を丹念に精査してみればいい。
やってない人間がやってる人たち(石野・豊岡)に文句言うな。 >>559
>周溝墓の陸橋部が切り離される例は庄内併行期になって各地で続々出てくるからね
石塚が造られたあとだよ、切り離される例が出てくるのは。
また、有年原の双突起付き円形周溝墓のあとは方墳に変化するから、瀬戸内の突起付き円形周溝墓は前方後円型には発展しないね。 >>562
じゃ、なんでホケノ山から鉄器がざくざく出てくるのよ。 >>558
勝山は石塚、矢塚と並んで造られているから、3世紀前半はうなづける。
しかし、ホケノ山は箸墓の近くだし、箸墓と近似した時期とみるのが妥当。
そのホケノ山から鉄器がいっぱい出るのだから、箸墓と似た3世紀中頃とするのがいいのよ。
そっちは科学的なら、こちらは考古学的なんだから、なんの問題もない。 >>564
>じゃ、なんでホケノ山から鉄器がざくざく出てくるのよ。
ホケノ山の被葬者が鉄器をざくざく持ってたからだが? >>557
現実を見たくなければ、サングラスかけとくんだな。 >>556
アホちゃう?
その下座がなければ、上座は転げ落ちるだろ。
上座は下座に感謝せんとな。
そのうちに振り落とされるぞ。 >>565
近くだから箸墓と近似した時期ってバカかよ。
堂ノ後古墳はホケノの隣だが須恵器が出てるぞ。 >>566
>ホケノ山の被葬者が鉄器をざくざく持ってたからだが?
どこから持って来たの? >>1
邪馬台国畿内説は、国家が公式に設置した機関から、具体的な証拠が全く無いと発表されたので、完全に破綻したのではないのかな。 >>569
>つくり話じゃないし。^^
つくり話でないならソースを出しな
出せないならつくり話だ >>572
>どこから持って来たの?
北部九州からだろうね。
纏向には筑紫形のフイゴも出てるからね。
おそらく筑紫の物部の一派だろうね。 >>571
メクリ1号墳は3世紀前半〜中頃とされている。
その近くには方形周溝墓が複数みられるから、尾張系の者の墓域ではないか。
尾張では、大型前方後方型墳墓の近くに方形周溝墓がみられるから、そうした尾張系の部族が造営したのがメクリ1号墳などだろう。
何の問題もない。 >>563
>また、有年原の双突起付き円形周溝墓のあとは方墳に変化するから、瀬戸内の突起付き円形周溝墓は前方後円型には発展しないね。
それ、誰の説?
絶対に学者じゃないよね >>543
だから三年だっていう話だろ。
お前は検証資料も持たないんだから反論する事自体が✖ >>576
大和でホケノ山以前に鉄器の出た墳墓はみられない。
このホケノ山を嚆矢として、黒塚など鉄器がざくざく出る墳墓が現われて来る。
ホケノ山は3世紀中頃の築造だよ。
ホケノ山を3世紀初頭とすれば、それ以降鉄器が出る黒塚まで間が空きすぎる。
ちょっと考えにくい。 >>577
なんで尾張が主役になってるんだよ。
吉備だろ。
>>579
物部氏なんて言ってない、血族としての物部はあっただろう。
多少形は変えても2世紀末から前方後円墳が連なってるのはその証拠。 >>530
最低限の知識がない奴が意見するのはそもそもが✖だな >>581
建造開始時期と被葬者の埋葬時期にかなり時間差があるのだろう。
卑弥呼がそうであったように長生きすればそうなる。 >>582
>吉備だろ。
その主役の吉備の円墳が、なぜ尾張の前方後方型墳墓の後方部に置き換えられたのか。
はい、その試論をどうぞ。 >>586
ホケノ山のざくざく鉄器が3世紀初頭頃に大和にもたらされていたとすれば、
博多の鉄器が一括して大和にもたらされるようになっていなければならない。
3世紀初頭にそうした流通の変革はまだ行われていない。
博多の鉄器の大和への一括搬入が始まるのは3世紀中頃のホケノ山から。 >>587
>その主役の吉備の円墳が、なぜ尾張の前方後方型墳墓の後方部に置き換えられたのか。
いや置き換えられてないしw
そもそも尾張なんてお呼びでないしw >>587
>その主役の吉備の円墳が、なぜ尾張の前方後方型墳墓の後方部に置き換えられたのか。
そんな置き換えは起こらなかったので、理由もない トンデモ同士、もっとやれ!もっとやれ! わははははは @阿波 >>588
被葬者が3世紀初頭=30歳の頃にホケノヤマが造られ始めて、
その人物が70歳まで生きたなら何も問題はない。
70歳で死んだ頃=3世紀中ころの文化があるだけ。 ところで纏向遺跡の搬入土器で東海が多いのだが、東海って尾張かな?
伊勢方面だと聞いたが。
この尾張バカが尾張尾張とうるさいので。
アワアワアワアワアワアワとウザさはいい勝負だw >>586
3世紀初頭期に鉄器がざくざくもたらされていたのなら、ホケノ山以外の部族の墓からも鉄器が出ていてしかるべき。
それが全然みられない。
ホケノ山を3世紀中頃とすれば、後続する黒塚など次世代の墓からも鉄器が出るから、連続する。
ホケノ山は3世紀中頃とすれば、ちようどいい。 >>594
纏向で出るのは東海系の土器だからなぁ。
三重は東海というには大和に近すぎる。
東海は尾張から東だろう。 最大の遺跡が造営されたのだから鉄は管理されていたということだろう >>596
>3世紀初頭期に鉄器がざくざくもたらされていたのなら、ホケノ山以外の部族の墓からも鉄器が出ていてしかるべき。
>それが全然みられない。
だってホケノしか発掘してないもの >>594
>ところで纏向遺跡の搬入土器で東海が多いのだが
工法はすべて「東阿波型土器」だよ。 わははははは @阿波 >>604
>小型丸底壺だけだろう。
小型丸底壺も含めて、工法はすべて「東阿波型土器」だよ。 わははははは @阿波 >>599
三重県の話し言葉の発音は三重弁と言われるが、実際は紀州弁、志摩弁、伊勢弁、伊賀弁と分れる。
そして、これらの各弁はみな近畿弁の範疇に入り、愛知、岐阜とはおおきな違いがあるそうだ。
伊勢は近畿だよ。
東海は愛知、静岡。
ただ、尾張の二重口縁壺は松阪の北の一志とつながりがあるから、中伊勢は東海の端だとしてもOK。 >>606
>ホケノの小型丸底壺は東瀬戸内のものとは全く違う
ホケノ古墳の副葬品(土器・水銀朱・鉄器・銅鏡など) も 古墳構造も倭国(阿波)。 @阿波 >>603
>ウソ。
ウソ。
じゃ、他のどこを発掘できた?
高塚の埋葬施設は地表より高い
どこも発掘できていない
道路や河川の工事で端っこ掘ったくらい .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>611
阿波と同レベルのウザさ加減。
たまにはコピペではなく他の事書いてみたら? >>612
>>612は、倭国(阿波)に対して、何一つ論理的な反論ができないw @阿波 >>575
何回出したら、納得するのよ。
たいがいにしてほしいわ。^^ >>610
鉄器は、北部九州の場合、住居跡などから普通に出土している。
ホケノ山が3世紀初頭で、大和に鉄器などがざくざくもたらされていたのであれば、住居跡などからも鉄器は出るはず。
しかし、大和では3世紀前半には、そうした鉄器は出ていない。
まあ、この論議は過去にいやというほどなされ、3世紀前半まで大和は鉄器過疎地帯だったということで落ち着いた経緯がある。
鉄器がざくざく出るホケノ山を3世紀初頭にもっていくのは、無理。 北部九州の場合朝鮮から渡って来るので管理されておらず
住居の大きさに関係なく出る つまり大陸との玄関口である北部九州では
鉄器の保有による差がでない
本州の倭人勢力と関係をもった首長が優位になる 鉄のあるのは防人の土地。
北部九州がそれな。
北九州は弥生時代の青銅器でも銅剣などの武具がほとんどだろ。
畿内は銅鐸は出るが銅剣などほとんど出ない。
今でいえば皇居や国会議事堂のある東京都千代田区に武器はあまりないだろ。
というかほとんどないだろ。
それと同じ。 >>616
>ホケノ山が3世紀初頭で、大和に鉄器などがざくざくもたらされていたのであれば、住居跡などからも鉄器は出るはず。
大和に鉄器などが実際ざくざくもたらされる時代になっても、住居跡などからは鉄器は出ないんだよ
だから、その考えは間違いだ >>614
>何回出したら、納得するのよ。
お前は証拠を一度も出さないので納得する人は誰もいない
お前はウソばかりつく
それ以外していない 報告書の遺構に付けられている記号は歴博の遺構名統一一覧表というのを見たらいい
それ以外の記号が付けられている場合はその報告書に記載してある >>620
えっ、以前は溶けたと言うとったのにィ。 また5chに「投稿掲載拒否」をされたので、テスト投稿 いずれにせよ、3世紀前半の大和に鉄器がなかったことは、徐々に正直な学者によって認められつつあるようだ。
https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-11827306298.html >>471
>という事で
きちんと畿内の倭国は107年に大陸にダイナミックエントリーしてるじゃん
魏書の卑弥呼の時代より前に畿内政権は存在してるじゃんというという事になる。
畿内なんて存在もしていなかった嘘吐き騙し文言であるから、バツであり、
倭國の中心は、唐会要の倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、
唐代まで北部九州にあった事が確実であるから、
卑弥呼の時代には、大和は、
列島の盟主ではなく、
せいぜい、九州倭國の別種分家の倭種の旧小国の、
「市を監督する大倭」職の地域でしかなかったの。、 単純な製鉄という事であれば、島根にも邑南町日貫湯谷にある3世紀の悪谷遺跡から出土した金糞が砂鉄系鉄滓であることが確認されている。
鉄器の出土と製鉄はきちんと分けて考えなければならない。
そもそもタタライスズヒメの名前のタタラは製鉄にちなんだ名前でしょ。 >>628
だったら大陸の史書の文言に関してきちんと反論しなよ
お前のいつも吠えてる資料事実だろ。頭おかしいのか?w >>474
>まったくだめだめ、墓が進化するわけないだろ?思想が進化するんだよ、・・・
全くダメだな。
人類や支配者の祭祀やセレモニーの変化の原則は、次代の政権や新権力者は、
前代の形式形態よりも後退させては、自分の地位の低下を天下にに示す事になりかねず、
だから、前代の形式形態よりも、同等以上になるように計らうものであり、
それが「セレモニーの進化」の原則であり、
それは、その支配者の支配が破綻するまで続き、
菅政権の「安部政権の踏襲と、学術会議の任命の変更政策」なども、
一種の「セレモニーの進化」を目論んでいる事になるの。
だから、文帝らの墓祭祀の「薄葬令」は、英断であったの。 >>623
>えっ、以前は溶けたと言うとったのにィ。
あー、それ私ですよ。
629でも書きましたが、本当に消えて無くなります。
大規模な和鉄精錬と単純な製鉄はきちんと区別しないと駄目ですよ。基礎知識としては「『高師小僧」で検索してください。
例
http://www.webchikuma.jp/articles/-/1409
出雲族は鉄文化を持ってたインドからの渡来とされ、出雲に落ち着いたのは砂鉄があったからだとされています。
不純物が少なく、最も低温で還元できる材料が豊富だったからと言われています。
それより前の製鉄は酸化鉄。諏訪湖の周りには褐色鉄が植物の根にたまる高師小僧。大阪湾も高師小僧出ますよ。
古墳というの基本的に道教的な文化と言ってもよいので、埋葬する習慣があるかないかでも違います。ヒボコの居たタジマとかは半島からの輸入が早い段階から始まっていました。
九州なんて単純な輸入なら紀元前2位です。三世紀には鍛造鉄器の技術が既に存在していたとされています。
開発前の奈良は奈良湖があり、纏向は湖の畔にありました。出雲族や尾張氏が住んだのもその反対側の湖畔です。
近畿は湿地の開発に鉄器が必要とされなかったので鉄器の後進国になったという学説がありますね。
九州から瀬戸内海のルートがあるのに日本海側が奈良より先に鉄文化が進んでいたのは余程必要とされてなかったと思ってください。
青銅器、銅鏡の畿内への流入と比べれ本当に遅い。モッサリです
同じように高師小僧が産出された諏訪湖も同じです。あそこはタテミナカタが最後の落ち着いた場所ですから製鉄そのものはやってました。
デイダラボッチ伝説などはモロに製鉄に関わる地名です。
基本、昔の戦は現地調達で野ダタラを吹いて鉄器を作ってました。
精錬技術と鍛造鉄の鉄の違い、焼き入れ等の話はきちんと押さえたほうがいいですよ。 >>484
>ま、三角縁神獣鏡魏国産説を捏造しなくとも機内の政権の存在は普通に100年代の朝貢の大陸の史書で分かるのにね。
それも明治の時代から言われてたような程度の話でさ。・・・
「機内」なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、バツであり、
大和政権は、九州倭國の「東征毛人五十五國」で征服された倭種のひとつであり、
倭國の地方の市を監督する大倭職を貰った「倭國の別種の附庸國」であった。 青銅器というのは宗教にとても関係してて、本当に戦争に使ったのか?という疑問が湧いてきます。
それは日本で錫や鉛がほぼ産出されなかったので青銅は超貴重品だったからです。
出雲の十の神宝にも青銅器があったとされています
古代の戦は鉄の品位の差で決まったのではないかと最近考えています。 >>634
大陸の史書という資料的事実と明治のころからそういわれてたという帰納法だかでお前の言う通り判断しろ
後半の妄言は聞き飽きた。焦点はそこではない。 >>627
イズズヨリヒメの鈴も製鉄の名前。
信濃の枕詞もミズズカル。
単純な鉄器出土の話で鉄文化の浸透は判断できませんよ。 >>493
>・・・邪馬台国ど真ん中の重要アイテムのこの鏡を畿内説の人が欲を張って、
魏国から貰った鏡と裏付けもなく言い始めた事が今の揉め事に繋がり、
国産説になった事を九州説に利用される様になってしまった。
九州説も、後漢の頃の倭の朝貢を伊都国からという事にし、
年号が書かれる前のヒミコも九州に居たと言い出し、
お互いが関連するものを全部自分らのものとして議論を始めてしまったのが
揉め事の始まり。
何だ?、この男も、結局は、
「南→東」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
・・・・アホ小説家の詐欺師であったのか。
読んで、損をしてしまった。 >>640
詐欺師はお前だ。抑えてる資料が少なすぎるだろw >>635
だから相誅殺男王フトニは吉備を侵略したあげく、出雲も侵略しようとした訳だ
出雲は半島東北部の高句麗の領土から鉄を輸入していたからだ
ところが出雲は激しく抵抗し、双方に多くの犠牲が出たのである >>642
一応BC2の徐福の大陸の史書の時代、単純な製鉄なら出雲でやってましたよ。
輸入を先駆けてやってたのは朝鮮ヒボコ。出土する説の成分で既に判明しています。
出雲より一世紀遅れだったかな。
錫や鉛を輸入できたのは九州とヤマトです。
出雲の銅鐸は初期は自前で作ってましたが、中期以降は畿内型で、ヤマトから交易で入手していました。
出雲からは銅と砂鉄。大和からは完成品の青銅製品 >>642
後に吉備国を作るフトニが出雲領であった播磨と吉備に侵攻したのは
出雲領の砂鉄が目当てだったと言われています。
あと、神無月にあるように地方豪族が集まるときの返礼品で、鉄製品が好まれ、青銅製品が余っていたことをフトニが知っていたから
出雲に青銅を寄越せと詰め寄ったんですよね。
だから、西出雲分だけ渡して、東出雲文は土中に埋めた。後にそれが大量に一か所で発見されます。 >>494
>また×ですか、卑弥呼は布教でやがて共立されたんで
武力を行使して征服、共立させた訳では無いだろ、言わば国譲りだよ。
違うな。卑弥呼は、
当然、呉王夫差の遺民で「火の国山門」に渡来して来た姫氏で、
一旦委奴の地で天孫族と合同した後、また別れて「大野」の地にいた姫氏の娘であり、
だから、「倭國亂」の後を纏めるのに適していたから、共立されたんだよ。
>東征五十五で畿内を支配したのなら
大和は、別種分家の附庸國であり、倭國から半独立的な倭種であり、
倭國は大和を直接的支配をしていない。
>西服衆夷六十六国の蝦夷扱いと
倭王武の時には、「西は既に衆夷六十六国を服属せしめ終わっている」という意味だ。
>266年に司馬炎即位を知る壱輿らは九州に前方後円墳造らんで畿内なの?
なんであんな所行ったの?おかしいでしょ。
壹與は、大和などには行っておらず、壹與の墓は平原1号であり、
前方後円墳の始まりは、壹與の平原1号の次の、那珂八幡などからであり、
大和の石塚などは、那珂八幡などの「進化型」であるから、3世紀末以後だ。 島根や岡山や大阪、近江、名古屋はそれぞれ国内の流通ルート握ってた
北部九州は輸入業者に特化してたから、韓国人のバイヤーが奥地まで入り込んで商売始めると、衰退するしかなかった >>639
3世紀中頃まで大和が鉄器過疎地帯であったことが、ようやく素直に認められ始めたということでしょう。
しかし油断がならないのは、このサイトが示すように、大和に邪馬台国があり得た理屈をこねくり始めたように見えることですね。
大胆にも、王権成立の要とされる鉄器分配権なくしても、卑弥呼の倭国が成立できたのだと説いているようです。
まあ、あれがだめならこれで行くと、自信たっぷりですね。 >>645
あんたの空想は空疎だから誰もマジメに聞いてないぜ >>644
出雲は自らも砂鉄を産出するだけでなく、高句麗領の半島東北部からも良質の鉄を
輸入していたのだよ
まさに金脈
フトニが何度も攻め入るのも当たり前なんだよね >>637
古代史熟練ファンが学者のシンポジウム聞いて書いたものだから、学者が述べた大筋は間違ってないだろう。 >>648
呉王夫差の後裔で、姫氏で、松野で、超パッパラパーとw
あれが真実なら、その山門から鼎の一つ、漢字の書かれた木簡の一つも
出土するはずだろうにw
呉王夫差、姫氏と書かれた木簡や金石文がなw >>650
いずれにしても、3世紀中頃まで東近江〜木津川〜大和のラインが鉄器過疎地帯の最前線だったのはもう皆が理解し始めたことであり、へたに3世紀前半にも大和に鉄器があったとは主張しなくなったのはめでたい。
しかし、それはあくまで理解力のある者たちの話。
この板のように、まだまだ大和鉄器保有地帯と思い込んでいて、認識転換できない御仁たちもいるのは確か。
時代に遅れたままの古代史ファンほど面白い者はいない。
脳内劇場の映写技師が、まぼろしのフィルムを盛んに回しているわけだから、表彰してやるべきだな。 >>652
先出のここのスレでも鉄器の出土のグラフみたいのがあったけど時代で見ると丹後。
出た総数ではなく、どの時期に出たかも重要
引用
丹後の鉄が全国的に注目されるのは、遠處よりもむしろもっと古い弥生中期後半ごろから、終末期くらいの時代。
ただし、ヒボコが出雲に来るのはBC1くらいなのでちょっと盛ってる気がしないでもない
この時期の丹後は全国No.1の鉄器の出土量。北九州も大和も寄せ付けない。奈具岡や日吉ヶ丘や大風呂南の時代で、絶対年代で言えばだいたい紀元0年くらいから卑弥呼時代の頃までの丹後である。
奈良の北の丹後でそれだけはやってたのに余程奈良は物量的に必要とされてなかったか
埋葬するほど貴重と思われてなかったのでしょうな >>647
>大胆にも、王権成立の要とされる鉄器分配権なくしても、卑弥呼の倭国が成立できたのだと説いているようです。
鉄器が必要ないという事は王権成立と関係がないという事なのでは? かつての大阪湾は血の海と呼ばれるほど酸化鉄の宝庫でした。 >>638
>イスズヨリヒメの鈴も鉄製の名前。
いや〜、青銅製かもよ。 >>633
褐鉄鋼は、ベンガラの材料になったそうですね。
真弓常忠氏の話は面白いですが、さて、この高師小僧でもって製鉄していたかどうか、注目されるところですね。 >>654
鉄器を保有しない状態で、どの程度の権威権力が成立し得たかですね。
鉄器がなかった弥生前期に、吉野ケ里や出雲などのような権威権力の社会構造が成立していたかどうか。 >>653
丹後も含めて山陰地方で鉄器鉄材が盛んに用いられるようになるのは、博多からの流通に頼るのではなく、独自に半島などへ仕入れに行った結果だという研究がある。
山陰では元々は勾玉作りを行っていなかったが、その鉄素材を玉造りの工具に加工し、それを用いて定型的な高級勾玉を作って流通させるようになったそうだ。
その結果、それまで勾玉作りを活発に行っていた近江の玉造り拠点はあおりをくらい、商品価値が下落して競争力ががた落ちとなったという。
つまり、山陰は直接輸入した鉄素材を加工して勾玉造りの工具とし、近江などの石材を用いていた勾玉造りに対して各段の優位な立場を築いて市場を席捲したというわけだ。
これが、弥生後期に山陰の鉄器鉄素材が急激に増えた理由とみられている。 >>629
徳島市 「金山神社・立岩神社」
「八尺(やあた)の鏡はこの地で作られた」
ご存知のように日本の皇室に代々伝わる『三種の神器』とは、『天叢雲の剣(草薙の剣)』、『八尺の鏡』、『八尺(やさか)にの勾玉』をいうが、
その神器のひとつ『八尺の鏡』の製作地はこの神社であるという伝承がある。
その背景には、銅鐸や銅鏡の出土が多く「たたら跡」と見られる史跡もあるこの地区が「日本の治金技術発祥の地」ではないかという説がある。
見渡すと周辺にも「金谷」、「多々羅(古来、精錬所のことを『たたら』という)」、「八田(八尺)」という地名が残り、
まさにこの「金山神社・立岩神社」の鎮座地自体も『多家良(たから)』というそのまんまの地名。 @阿波 >>656
出雲は鉄文化遅れてましたけど国でしたよ。
更にヤマトは出雲の分家が開拓した土地ですから。奈良に行ったのはBC2〜1くらいです >>662
丹後半島は、ヒボコが開拓した富岡盆地のある地域。
たしか、二世紀には宜しい感じの鉄器が出土したかと思いますが、ちょうど播磨侵攻からタジマノモリの邪馬台国三世紀に集中するという事
成分的に朝鮮半島の鉄が出ているようですのでその可能性はあるような気がいたします >>665
碌な鍛冶炉遺構の無いところに、鉄器文化など興る訳がない。
碌な鍛冶炉遺構の無いところは、鉄器被供給地域。 @阿波 >>665
碌な鍛冶炉遺構の無いところに、鉄器文化など興る訳がない。
碌な鍛冶炉遺構の無いところは、倭国(阿波)からの鉄器被供給地域。 @阿波 >>661
なんで鉄がそんな権威なのか説明できない以上、脳内劇場だな 鉄器を持っていた甕棺集団は九州東部にも拡大せずにど没悪した
鉄器で首を狩っていてはダメだということだな >>669
>鉄器を持っていた甕棺集団は九州東部にも拡大せずにど没悪した
そりゃ、自前で鉄器を作れない、鉄器被供給地域だったからさ。 わははははは @阿波 >>671
そんなテスト投稿してるから、また投稿回数制限超過で拒否られるんだよ 2020年の魅力度ランキングが発表された
ワースト3は45位佐賀県、46位徳島県、47位栃木県だったが
栃木県は13位の日光市や観光地那須と県名のイメージが一致していないとされるので
実質的には45位佐賀県と46位徳島県が日本人にとってどうでもいいということになる
両県にも美しい日本の秘境の自然がある
自然はいいけど県民性がちょっとということだろう >>673
「阿波」には千年、都があったからもうそれで充分。 わははははは @阿波 >>674
ヤマトも出雲も九州も、そしてタジマですら2000年以上の歴史だから、アワなんてそんなもんだよなw >>666
鉄を輸入できてたら、わざわざ砂鉄から鉄を作ったりはしないし、鍛冶場も要らない。 テスト投稿
マスコミさん、
5chは、史料事実や史料実態に拠って大和説者らの投稿を批判すると、
「ERROR:当分お断りしております」と表示して、投稿を拒否する組織なんですね?。 >>676
>ヤマトも出雲も九州も、そしてタジマですら2000年以上の歴史
王都ではない。 でも、「忌部はん」が納めていたがね。 わははははは @阿波 >>677
>鉄を輸入できてたら
倭国(阿波)からね。 わははははは @阿波 >>678
一人で大量投稿しすぎ、あるいは差別用語などを連呼したケース 塊錬鉄 製鉄法 (直接製鉄法)
鉄鉱石・砂鉄などを比較的低い温度で加熱。 溶かさずに半溶融状態のまま還元して 海綿状の鉄や鉄塊を得る。 ここの塊を再度加熱精錬・鍛造。不純物を搾り出すとともに 炭素量も調整して、強靭な鋼を得る。この鉄素材を塊錬鉄という。 たたら」製鉄・ヒッタイトの初期製鉄法もこれである
溶融銑鉄 製鉄法 (間接製鉄法)
鉄鉱石を高温に加熱して、鉱石を溶融しながら還元して鉄を得る。 この時 高温のため、鉄は大量の炭素を吸って、脆い銑鉄となる。 この銑鉄を再度加熱溶融して、銑鉄中の炭素を燃やして 炭素調整して強靭な鋼を得る。
現代の製鉄法 ならびに 中国では古代からこの方法が発展した
農機具に使うには昔の古代製鉄は向かなくて、脱炭ができる様になってからが、本格的鉄器の普及段階。
銑鉄とかそういのはちょっと難しい話になるので、大枠としては昔の製鉄は残らない製鉄。
砂鉄と鉄鉱石の鉄は残る製鉄。
水酸化鉄と磁鉄鉱の違い。脱炭や浸炭ができる様になるまで鉄器は戦闘用にはなっても日常の実用用具にはならなかった。
農機具の鉄の方が上の技術が要求される 手間かけて鍛えた鋼ほど放置すると錆びで跡形なく消える
単純な鋳物は丈夫で残る >>684
ヤマトは水銀朱の名産地
水銀がヤマトの権力を支えたという説も有名 >>686
>ヤマトは水銀朱の名産地
そのカタカナ「ヤマト」ってどこ? わははははは @阿波 >>661
特異的なのは、吉備国と思われます。
葛城国の分裂した国であればよくても砂鉄の文化。
しかし、残る製鉄で見てみると吉備もそこそこの出土量。
朝鮮系のタジマノモリが播磨に侵攻し敗れた後は残った人は吉備と集合していったと伝承にありますが、急速に材料が良くなったと考えられます。
だから東征の時にも吉備国で8年も足止めになり途中で卑弥呼が死んでしまったのではと思います。 中国から日本に来たのは製鉄ではなく、鉄器が製作可能になる材料と製造方法と思われます。
朝鮮半島の鉄鉱石と中国の製鉄技術が合わさって良質な道具が作られる様になったと考えられます。 >>688
そりゃマガネ吹く吉備と二つ名があるくらいだ
工業、農産、そして貿易中継と三拍子揃った大国だよ まだジンムトーセーとか言ってる20世紀の遺物はアホ老害 >>691
つまりは吉備国はヒボコ勢を圧倒した後は、丹後やタジマを勢力下に抑えていた事になりますね。 >>678
くだらん捏造の朝鮮半島の稲作開始時期のコピペとか方々で投稿してた人? >>692
ですよねぇ。
イツセが出てくる段階で普通はおかしいとか気付きそうなものなのに。 >>692
>まだジンムトーセーとか言ってる20世紀の遺物はアホ老害
その通り!
海の無い山奥で、しかもジメジメした湿地帯の奈良盆地に、わざわざ東征する九州バカが、まだいるらしい。 わははははは @阿波 >>661
徐福集団だとしたら紀元前2世紀の頃のシャントンの主要産業は製鉄と製塩、織物と漁業です。
稲作以外の全てを彼らは持っていました。 >>660
ベンガラからより高級品の水銀朱に変わっていくんですよね。 >>693
どうかな
丹後美作は大和吉備の連合が出来たの見てから、とても敵わんと下った気配がある そういや石上神宮の朝鮮伝来の七支刀ですが、確か土中からの出土ですよね。
伝承に従って掘り出したら出てきたと。
私の気が確かならw伝承には七支刀と、フツノミツタマの剣が埋葬されたとあり、確かにボロボロの握りつかのみにった剣が出ているはずです。
国産の刀と朝鮮伝来のそれとの材料の差が出た様な気がしてなりません >>701
さらに私の気が確かならw
朝鮮半島の前方後円墳もしくはその周辺では、出土物に鉄のインゴットがあったはずです。
よほどよろしいものだったのではないでしょうか。 畿内が歴史歪曲の温床となった理由
【研究】日本人の遺伝子を「47都道府県レベル」で初めて解析することに成功! 四国・近畿がもっとも“渡来人”の遺伝子に近かった
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1603547052/ >>702
鉄テイはどこにでもある
使用量の少ない錫や鉛は棒や錠剤型 >>703つづき
邪馬台国民とは異なるルートで入植した渡来人がヤマト王権の源となったのです >>699
そうしますと、瀬戸内海ルートしかないわけで、敵対する地域からの急速な技術の導入は難しかったのではないかと推測いたします。
ヒボコを追いやったのは吉備国勢力と尾張氏。
邪馬台国事件以降は海部氏と尾張氏は別れて他の地にさりますので、良質な鉄器を東征に間に合わせるにはほとんど時間がなかった様に思えます。
吉備国侵攻前のヒボコ播磨侵攻から邪馬台国東征までの間で技術が向上しているはずなのです >>708
どう歪曲したか言ってみな
実は「オレサマの創作歴史を許してくれない定説派」のことだったりするから >>710
桃の種を纏向の編年に利用してはいけません。
桃の種が埋まっていたのは柵の下
https://i.imgur.com/cBG2BFm.png
纏向遺跡の大型建物と桃の種は関係ありません。
これも捏造考古学会による印象操作の一つです。 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>711
関係ないという理由は?
捏造九州さん、また捏造?
毎日だね >>678
蒸し料理とかどうでもいい事連発してた人かも知れぬ >>714
おまえ中卒すぎるぞ
中国大陸人は7000年前から主食の穀物はもちろん、肉や魚を蒸して食べていた人類集団だぞ
ところが、3000年前に渡来した我々の祖先の弥生人は主食の穀物や肉や魚を
蒸して食べる事を知らなかったんだぞ
つまり彼らは中国大陸から渡来したのではないという事なんだぞ
これは歴史的にめちゃくちゃ重要な事なんだぞゴミカス >>715
重要な点はそこじゃなくて貴方が規制を受けてるかどうかなのでは? >>678
オメは研究心が足りぬ。
「当分お断りします」と言われた投稿をコピー操作して、いったん5ちゃんの外に出る。
そして改めて5ちゃん・日本史に入り直して、カキコ欄に貼り付け、書き込み欄をクリックしてみろ。 オウム返しの無意味投稿
月に何千投稿もしてる馬鹿
規制てしなきゃ運営は無管理で怠慢 >>717
>キナイコシの反論は?
反論って、>>711の論理がおかしいの指摘されてるぞ >>528
>岩永が言う弥生終末期は180年〜260年頃だよ。
これが普通の弥生終末期観。それにしたがうのがよい。
そうか。
岩永も、弥生時代と古墳時代の時代区分をインチキしようとしてのか。
弥生土器の終焉期は、
当然、前方後円墳出現後までにオーバーラップし、
そもそも弥生時代と古墳時代の明確な区分などあり得ない。
また、古墳時代の方も、
卑弥呼の墓は冢であって、前方後円墳ではない事など、
古墳時代の開始を墳丘墓とするのか?、前方後円墳にするのか?で、
年代が大幅に変わってしまい、これも、定義が不十分で、明確な時代区分になり得ない。
要するに、岩永も、「大和説という結論先にありき」の似非学者であったんだろう、
という事だな。
大和説者は、大和の前方後円墳を古墳時代の始まりだ、としているんだから、
266年の天円地方を学んだ壹與の墓の平原1号が前方後円墳ではなく、
その後に出てきた前方後円墳の那珂八幡などを古墳時代の始まりとし、
大和での前方後円墳の3世紀末頃になる石塚などを、大和の古墳時代の始まりだ、
とすべきだな。 >>720
つまりキナイコシは論破されたんですね
わかりました >>724
誰に何と言って?
また九州説白痴の証明が出てしまった >>526
>花文鏡の出土。
初期の頃は圧倒的に九州に偏って出ており、次第に東征を裏付けるかの様に瀬戸内海川に移転する。
後に国産化されたらしく、終末期には奈良でも出土する様になる。
奈良の花文鏡は、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与に拠って九州で造られたものを、
東征将軍らに下賜されて、征服した大和で副葬されたもの。
>対して三角縁神獣鏡は、畿内で爆発的に出土し、次第に地方に拡散してい。った 九州においてはごく僅か。
これも、当初は渡来の呉系楽浪鏡師らの関与に拠ってま、まず九州で造られ、
楽浪鏡師らが、明帝→卑弥呼への下賜の銅鏡百枚に拠って、商売にならじと諦め、地方の鏡作り神社で、在地の子弟らに教えて造らせたもの。
三角縁神獣鏡を正しく認識すれば、東征軍側の豪族のその後の動きが追跡できる可能性がある。 どうした?トンデモ同士。 元気がないぞ! わははははは @阿波 >>726
>東征軍側の豪族のその後の動きが追跡できる可能性がある。
海の無い山奥で、しかもジメジメした湿地帯の奈良盆地に、わざわざ東征する九州バカが、まだいるらしい。 わははははは @阿波 >>726
>奈良の花文鏡は、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与に拠って九州で造られたものを、
東征将軍らに下賜されて・・・
>これも、当初は渡来の呉系楽浪鏡師らの関与に拠ってま、まず九州で造られ、
>楽浪鏡師らが、明帝→卑弥呼への下賜の銅鏡百枚に拠って、商売にならじと諦め
前提が空想なら結論は妄想 また「ERROR: 当分お断りしております」とされたので、テスト投稿
>>539
>地層からみるとそうかも知れんけど、ホケノ山は副葬品からみると鉄器数が多いので3世紀中頃だね。
ホケノは、前方後円墳であるから、卑弥呼の「冢」の3世紀中頃でもないし、
有棺有槨であるから、魏使らが見た3世紀中頃の倭國の「有棺無槨」でもなく、
庄内1の石塚の後であるから、3世紀最末〜4世紀の墓。
鉄鏃が多いには、九州倭國の東征将軍や部将らの墓であったから。 また「ERROR: 当分お断りしております」とされたので、テスト投稿
>>541
まず自分のくだらない結論=長年培ってきた大和説があり、
考古学的発見も強引にそのくだらない結論に結びつけようとする。
ほんと・・・・アホ詐欺師と同じ。
なんで古代史マニアにはこんなやつが多いのか。
アホは死ななきゃ治らない。 >>731
>蚊帳の外の水の泡さん何か?
なにかじゃないよ。 どうした? 元気がないぞ、トンデモ同士。 @阿波 >>733
口汚い悪口しか言わない人って
当分お断りした運営えらいな またテスト投稿
>>552
大和説さんや5chさん、
またまったく反論できないで逃げ回る気?
ミットモなさすぎない? また「ERROR: 当分お断りしております」とされたので、テスト投稿
>>554
大和説さんやスレ主や東大理系博士号さん、
またまったく反論できないで逃げ回る気?
ミットモなさすぎない? また「ERROR: 当分お断りしております」とされたので、テスト投稿
>>555
根拠出せずに連呼で言い張るだけか
大和説さんら、もう終わったね >>730
だめだめ。
ホケノ山はまだ定型化していない弥生型。
箸墓以前の纏向型。
3世紀中頃。
鉄鏃が多いのは、博多からの凱旋将軍だから。 また「ERROR: 当分お断りしております」とされたので、テスト投稿
>>558
>>だから、ホケノ山を3世紀初頭にもっていくのは、無理無理
>無理ったって勝山古墳の祭祀に使われたであろう板材が年輪年代で3世紀前半。
年輪年代は、
基準木と検体木の生育時の年次別の気象や環境条件の同一性の保証が全くなく、
年輪幅が不定になってしまって、根拠にならない。
>ホケノ山はその勝山より建造時期の地層が古いので3世紀初頭になる。
ホケノは、有棺有槨であり前方後円墳の庄内3であるから、
卑弥呼の頃の有棺無槨や冢や庄内初期とは全く合わず、
更に3世紀末の「大和の最初期の前方後円墳の石塚」の庄内1の後だから、
3世紀最末〜4世紀になる。
こっちは科学の話をしてるのだが。 >>739
そんな口汚い悪口しか言わない人を
当分お断りした運営えらいな >>698
ベンガラの需要がなくなったということではないけどね。 >>736
当分お断りってスゲーw
そんな目にあった事がないわ >>740
どう考えてもホケノの方が新しいじゃん。
そんな調査結果あるの?
マジで? >>745
どう考えたの?
何も考えてない気がする >>745
「どう考えても」は
考えてない人間の常套句 >>560
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者や大和説者らは、
頭がボケの山だから、何を言っても無駄だよ 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>678
>「ERROR:当分お断りしております」と表示して、投稿を拒否する組織なんですね?。
そうです。
しつこいハゲの投稿はお断りしてます。 そうだそうだ、トンデモ同士、もっとやれ!もっとやれ! わははははは @阿波 >>562
纏向地域の地層の考古文献やを丹念に精査してみればいい。
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」などの史料実態の精査を、
やってない石野・豊岡や大和説の人間らが、
やってる人たち(九州説者ら)に文句言うな >>752
そんな史料実態があるって証拠は?
証拠出せないなら、精査なんてしてない
ただのウソ >>564
>じゃ、なんでホケノ山から鉄器がざくざく出てくるのよ。
ホケノは、
有棺有槨や「冢ではない前方後円墳」であるから、卑弥呼の時代ではなく、
もっと後の、九州倭國の「東征毛人五十五國」の、
(鉄鏃を大量に使った)将軍や部将らの墓であったから。 >>754
それ。なんか証拠あるの?
証拠出せないなら、寝言 >>558
>ホケノ山はその勝山より建造時期の地層が古いので…
この「地層が古い」というのは、ホケノ山の基盤の地層という意味なの?
勝山の基盤の地層より古い地層がホケノ山の基盤となっている、ということかな。 >>565
>勝山は石塚、矢塚と並んで造られているから、3世紀前半はうなづける。
石塚が庄内1の前方後円墳で、3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡などの進化型であるから、
3世紀末でうなずける。
>しかし、ホケノ山は箸墓の近くだし、箸墓と近似した時期とみるのが妥当。
そのホケノ山から鉄器がいっぱい出るのだから、箸墓と似た3世紀中頃とするのがいいのよ。
石塚は庄内1で、ホケノは庄内3であるから、
ホケノは3世紀最末〜4世紀頃とするのがよい。
そっちは科学的なら、こちらは文献考古学的学問なんだから、なんの問題もない。 >>576
>>どこから持って来たの?
>北部九州からだろうね。
纏向には筑紫形のフイゴも出てるからね。・・・
ふーん。 >>577
>メクリ1号墳は3世紀前半〜中頃とされている。
その近くには方形周溝墓が複数みられるから、尾張系の者の墓域ではないか。
尾張では、大型前方後方型墳墓の近くに方形周溝墓がみられるから、そうした尾張系の部族が造営したのがメクリ1号墳などだろう。
何の問題もない。
3世紀中程の卑弥呼の墓は冢であって、前方後方墳ではないから、3世紀前半はダメ。
だから、尾張や大和の前方後方墳も、那珂八幡と同じく、3世紀後半半ば過ぎ以後。 >>580
>だから三年だっていう話だろ。
お前は検証資料も持たないんだから反論する事自体が✖
「景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。
其年十二月,詔書報倭女王曰・・・」だから、」
景初二年だって話だろ?。
お前は検証資料も出せないんだから反論する事自体が✖ >>581
>大和でホケノ山以前に鉄器の出た墳墓はみられない。
このホケノ山を嚆矢として、黒塚など鉄器がざくざく出る墳墓が現われて来る。
ホケノ山は3世紀中頃の築造だよ。
ホケノ山を3世紀初頭とすれば、それ以降鉄器が出る黒塚まで間が空きすぎる。
ちょっと考えにくい。
ホケノは庄内3であり、3世紀末の庄内1の石塚の後だから、
3世紀最末〜4世紀の墓。 前方後円墳で統一されたなどとほざくが、史書に記載されている倭人の墓形式は時代とともに変化している 倭人の墓にも卑弥呼の墓にも「塚」という文字が使われている
よって卑弥呼の墓も基本的には棺を埋めて土を盛っただけの墓=墳丘である可能性が高い >>761
ホケノ山古墳も4世紀濃厚
https://i.imgur.com/pEXMJYL.png
「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」 >>582
>物部氏なんて言ってない、血族としての物部はあっただろう。
多少形は変えても2世紀末から前方後円墳が連なってるのはその証拠。
大和の前方後円墳は、
筑紫での266年の壹與の時の天円地方の学習の後の那珂八幡などの後の、
那珂八幡の進化型である庄内1の石塚からになるから、3世紀末以後。 >>741
>勝山古墳の…板材が年輪年代で3世紀前半。
勝山の3世紀前半は通説通り。
ホケノ山を勝山より古くするのは、無理。
大和の鉄器出土は3世紀中頃から。
ホケノ山はその嚆矢。 >>588
>博多の鉄器の大和への一括搬入が始まるのは3世紀中頃のホケノ山から。
庄内3のホケノは3世紀最末〜4世紀の墓であり、
始めて鉄鏃の大量副葬があったのだから、
3世紀末頃の九州倭國の東征毛人五十五國の将軍か部将の墓であったから。 >>593
>被葬者が3世紀初頭=30歳の頃にホケノヤマが造られ始めて、
その人物が70歳まで生きたなら何も問題はない。
70歳で死んだ頃=3世紀中ころの文化があるだけ。
ホケノは、3世紀最末〜4世紀の墓になるからね。 >>596
>3世紀初頭期に鉄器がざくざくもたらされていたのなら、ホケノ山以外の部族の墓からも鉄器が出ていてしかるべき。
それが全然みられない。
ホケノ山を3世紀中頃とすれば、後続する黒塚など次世代の墓からも鉄器が出るから、連続する。
ホケノ山は3世紀中頃とすれば、ちようどいい。
ホケノは3世紀最末〜4世紀の墓で、ちょうどいい。 トンデモ同士、もっとやれ!もっとやれ! わははははは @阿波 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>619
>鉄のあるのは防人の土地。・・・
いや、王の存在地の防御が必要な地と、
その征服軍が新規に征服した地の征服軍の、
副葬品。 >>627
>いずれにせよ、3世紀前半の大和に鉄器がなかったことは、徐々に正直な学者によって認められつつあるようだ。
https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-11827306298.html
ふーん。
しかし「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学者らに、
「正直な学者」というのは、疑問だな。 >>707
人種差別大好き大和説
歴史歪曲大好き大和説 >>713
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」という理由は?
捏造大和説さん、また捏造?
毎日だね >>766
>勝山の3世紀前半は通説通り。
庄内1の3世紀末の石塚と同じ頃。
>ホケノ山を勝山より古くするのは、無理。
大和の鉄器出土は3世紀中頃から。
ホケノは庄内3だから、石塚の後であり、3世紀最末〜4世紀。 このスレ次からワッチョイ導入しようぜ
張り付いてる九州説のアホを一括で処分できるからな
ここはアホの九州説の相手するスレじゃないからな
アホを消しておけば有意義なスレになる >>775
末盧国から伊都国は東南でなく北東。会稽の東には日本列島などない。
倭人伝記載の方位は間違っている
冢とは高墳である。前方後円墳が冢(=塚)
に該当するのは常識
「正北抵新羅」だと言う国からは平安時代に藤原氏の貴族が使者として来ている
当時の都は京都。つまり方位の認識間違いなのは明か >>776
>庄内1の3世紀末の石塚と同じ頃。
纒向石塚が3世紀末だというのが妄想なだけ
何の根拠もない !extend:checked:vvvvv:1000:512
↑
冒頭にコレを入れて立てる
(先頭の空白はなくして)
これで名前にIDとニックネーム?が付く
延々と張り付いてる九州説のバカを一括でNG出来る
偽スレもすぐに判明するしな
良いことしかない
次のスレ立ての時頼むよ 自分のレスに自分で同意する猿芝居とかも排除できるしな
ワッチョイぜひ頼む 天地水に桃園で漢尺で倭の独自性から産まれた事にするのは無理だよ、巫女鬼道のヒメミコ制を成したのは五斗米道 【福岡】「Go To 邪馬台国!!」 伊都国歴史博物館「伊都国から魏志倭人伝の国々を探る」企画第3弾、特別展「末盧国」開催
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1603637964/ >>776
そもそも編年が古過ぎ。
石塚は3世紀前半前葉。 >>783
そこ含め九州北部は邪馬台国じゃないよ
魏志倭人伝によれば九州北部は邪馬台国に向かうに通り過ぎる地点 しかし、大和説者は箸墓を卑弥呼の急死の年の近辺に持っていくのに大変な労力を費やしてるけど、
大和が倭国の東千余里の倭種の国なのは動かんのだけどな。
大和=卑弥呼の邪馬台国は、もう無理だと思うよ。 >>787
>しかし、大和説者は箸墓を卑弥呼の急死の年の近辺に持っていくのに大変な労力を費やしてるけど、
なんて事実があるって証拠も
>大和が倭国の東千余里の倭種の国なのは動かんのだけどな。
なんて主張する根拠も
なんにも提示できない君が
>大和=卑弥呼の邪馬台国は、もう無理だと思うよ。
なんて思ったら
それは喜劇の脳内劇場 雲の龍蛇信仰の四隅突出型古墳(墳丘墓) 概要一部抜粋。
初期型の物は突出部は控えめで約100年間に渡って作られる。道教の影響下にない古墳で大型化するのは珍しい。
一般論としては、四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期の後半(約2,100年前)に、中国地方一の大河、江の川をさかのぼった中国山地の山あいで誕生したと考えられている。
最初は、規模も小さく突出部もあまり目立たない形であった。
しかし、弥生時代後期(約2,000年前)になると、日野川を下り、「妻木晩田遺跡の洞ノ原2号墓:現在確認される最古級のタイプ」を端緒にして、伯耆地方を中心に一気に分布を広げていく。
規模も少しずつ大きなものが造られるようになり、突出部も急速に発達していく。
弥生時代後期の後半(約1,900年前)になると、分布の中心を出雲地方に移して墳丘の一層の大型化が進むとともに、分布する範囲を出雲系の親族が住む北陸地方などにも広げていった。
しかし、弥生時代の終わりとともに忽こつ然ぜんとその姿を消してしまう。
このことから、四隅突出型墳丘墓は、前方後円墳に象徴される古墳時代の幕開けを前に、山陰地方や北陸地方などで地域の有力首長の墓として築かれたと考えられている。
出雲の王墓、西谷3号墓では、地元の土器とともに吉備(今の岡山県と広島県東部)や北近畿(兵庫県と京都府の北部)などの土器も多量に供えられ、
中国の歴史書に「和国大乱(147〜188)」としるされたこの時期、地域間の交渉が盛んに行われていたことが分かっている。これまでに可能性のあるものも含めると全国で約90基の四隅突出型墳丘墓が見つかっている。
160年代の出雲と吉備の戦争。ちょうど和国大乱の時期である。 フトニ王(後に記紀により孝霊天皇に比定されることになる)は出雲最古期の四隅突出型古墳が出来た妻木晩田遺跡の南東2Kmあたりにある孝霊山に住んだとされる。
伯耆国は出雲の直轄領であり地理的に確認すると出雲王宮に本当に近い。フトニの宮の跡地は高杉神社(孝霊天皇宮)が立っている。
吉備国は強力化していき、山陽側に拠点を移すが、出雲との戦争の時には目と鼻の先まで来ていた。ここなら、東西出雲王家に領地の割譲と、青銅器の引渡し要求が出来ると思われる。
銅鐸祭祀を始めた出雲であったが、BC2には大和に伝播。その後出雲国は九州物部氏の影響で銅剣祭祀に移行する。そのことをフトニは不快に思っていたらしい。
つまり、この時期には既にヤマトの銅鐸を買う側になっていた事が分かる。青銅器に必須の錫の入手も早い段階から始まっていたと考えられる。
最終的には孝霊山から更に西の母塚山まで進軍して戦いは終わった。ヤマトに物部五瀬軍が加茂氏の手引きによって侵入してきたからである。
戦いは苛烈を極め、出雲兵の三分の一が死んだ。
フトニは最終的には少し東の日の川まで戦線を下げたとされる。フトニゆかりの楽楽福神社には現在でも当時の戦いの様子が古文書に残されている。
フトニはヤマトには帰れず、地方の豪族になってしまい、そのまま亡くなる。
出雲地方の青銅祭祀は基本的にはこの戦争で終わったとされる。その後は古墳造りを中心にし、祭祀もするようになった。
宗教の違いがきっかけにされ大乱になったので祭祀を目だな無いように方針を変えた。これが古墳造りのきっかけである。
ヤマトで物部氏が銅鐸祭祀を弾圧して回ったのと同じ構図が出雲と親戚の国同士で起きていた。 野見宿祢の子孫が土師氏で、古墳造りを任されるようになった下地が吉備国との戦いの後であった。
妻木晩田遺跡は東出雲王家、西谷古墳群は神門臣家の古墳だそうである。
親族に攻められたこの事件で出雲は大いに考えを変えるきっかけになったとされる。祭りの祭祀も目立たぬように田和山に移した。
そこには日本で最初の9本柱の神殿式建物が作られ、後に田和山の神殿の祭日には各地の豪族が集まるようになった。これが神無月の起源とされる。
各地から集まった豪族はその時にあった出来事を報告するしきたりがあり、それを記録する家が、後に杵築大社上官職筆頭になる向家(富家)であった。
そして、出雲王国が滅ぶ第二次物部東征により、出雲王国が滅び、古墳も作られなくなった。弥生時代の終焉とともに忽然と姿を消すのである。 前方後円墳
吉備国では徐福に倣い道教を深く信仰している国であった。鬼林山の南方の山に登り星神を拝んだとされる。現在では妙見山と呼ばれている。
初期型の前方後円墳はその関係もあり原型が吉備で作られ始めたとされる。出雲から奪った銅のインゴットを利用し新型の平型銅剣を作る。
これは後に四国北部にまで伝播していく。瀬戸内海ルートは吉備の傘下に入ってた事を示す資料となっている。
二世紀後半には盾築古墳が作られ、この墓は吉備津彦の墓ではないかと言われている。二方突出円墳。
武氏祠画像石をイメージしたとも一部では言われており、墳丘の上の上には5つの石が並べられ、四獣(神)対応をしている。
古墳の横には盾築神社が祀られ、ご神体石には弧帯文と呼ばれるものが刻まれているが、棺桶の上にも同じ模様が刻まれていたらしい。
この古墳では特殊器台が発掘されている。これは武氏祠画像石の西王母が乗っている壺から突出した長方形部の形にそっくりらしい。
つまり、長方形突出部分を筒にしたものが特殊器台に発展した・・・という説をとってる人が居る。
この古墳からは脚付き壺が数10個ほど出ており、その上部は筒状になっていた。
この筒突出壺を横から見ると前方後円墳に似ている・・・・・・・・らしいwww
盾築古墳の特殊器台には弧帯文が刻まれていた。
故に、吉備発祥説をとる研究者は、最も古いタイプを吉備と四国に設定している。 あとは古墳や出土物に詳しい先生方ヨロシクお願いいたします。 訂正
長方形突出部分を筒にしたものが特殊器台に発展した・・・という説をとってる人が居る。
長方形突出部分を筒にしたものが前方後円墳の形に発展した・・・という説をとってる人が居る。 二方突出円墳って数が少ないらしく、養久山5号墳と、奈良の櫛山古墳(しかし4世紀のものと言われている
)くらいが代表例 その後の四隅突出古墳
備後国の矢谷1号墳は、変形四角墓にちいさな突出があり、3世紀初頭
特殊器台がしつらえてあり、吉備と出雲の影響があるのではと言われている。
西谷2号墳、3号墳には朱が使われており、石棺の外側にも付着していた。
昔の葬儀は長期間に渡って行われ、モガリ(荒城)と呼ばれており(遺体は埋められている)
遺体のある土の上に丸い石を置き、石には朱が塗られていた。
後期の古墳が横穴式になったのはモガリの時に石棺の近くで参拝するためだったらしい。
参拝者は土器に入れた土産物を捧げたらしいが3号墳は200個も出たらしい。
そこには吉備式の物もあり土器の中に特殊器台もあった。これにより3号墳は盾築遺跡より後に作られたものであることが判明している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%B0%B7%E5%A2%B3%E5%A2%93%E7%BE%A4 以上の事から、四国の北側は吉備の勢力下
南は物部氏の勢力下
東の先端のアワは・・知らね >>798
以上の事から、朝貢後、呉の鏡職人を連れて帰った武内宿祢が四国南側を通って和歌山入したという伝承とも状況的には合ってくる。 そして纏向へ
弧帯文石(弧帯石)
墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社に、代々伝世し、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる全表面に毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石が安置されていたが、現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られている。
こちらは「伝世弧帯文石」と呼ばれる。 この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれている。ここにも吉備津神社や鬼ノ城などのように温羅伝説が残っており、吉備津彦命が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わっている。 >>778
>末盧国から伊都国は東南でなく北東。
「東南」とは、末盧國から伊都國の方向ではなく、末盧國での出発時点での出発方向。
>会稽の東には日本列島などない。
陳寿は女王國の位置推定として、会稽の東の地の東方だ、と位置推定をした。
>倭人伝記載の方位は間違っている
ほぼ合っている。
>冢とは高墳である。
冢とは、錐体(台)的形状を言うのであり、
単なる土の盛り上がりの墳ではなく、高さを感じるような形態を言うのであり、
「高墳」とは「墳の否定」である。
>前方後円墳が冢(=塚)に該当するのは常識
前方後円墳≠冢であり、冢≠塚でもある。
>「正北抵新羅」だと言う国からは平安時代に藤原氏の貴族が使者として来ている
当時の都は京都。つまり方位の認識間違いなのは明か
唐会要も、倭國と日本國とを、別の存在であった、として書き分けており、
倭國からの遣使が開成四年まで来ていた事を記録している。 >>779
>>庄内1の3世紀末の石塚と同じ頃。
>纒向石塚が3世紀末だというのが妄想なだけ 何の根拠もない
前方後円墳の石塚は、卑弥呼の冢でもなく、
天円地方を知った壹與の次代頃の墓と思われる那珂八幡の進化型であるから、3世紀末。 >>782
>天地水に桃園で漢尺で倭の独自性から産まれた事にするのは無理だよ、
列島の前方後円墳は、おそらく、
モンゴルや高句麗の前方後円墳形の模倣と、古韓尺の使用。
>巫女鬼道のヒメミコ制を成したのは五斗米道
魏の役人らや陳寿は、「五斗米道」や「巫女鬼道のヒメミコ制」とは、書いていない。 >>784
>そもそも編年が古過ぎ。石塚は3世紀前半前葉。
そもそも、その編年が古過ぎ。
卑弥呼の墓は「冢」であって前方後円墳ではなく、
前方後円墳は、卑弥呼の墓の「冢」よりもずっと後になるから、
3世紀前半前葉よりもはるかに後。 >>785
>そこ含め九州北部は邪馬台国じゃないよ
魏志倭人伝によれば九州北部は邪馬台国に向かうに通り過ぎる地点
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、バツであり、
また、魏志倭人伝に拠れば、
邪馬壹國女王之所都はほぼ筑紫付近であり、
女王國はほぼ九州島付近であり、
また、宋書〜唐書に拠って、大和は、
九州倭國の「東征毛人五十五國」で出来た別種の旧小国で、
倭國の地方の市を監督する大倭職、という、倭國の附庸國であった存在であり、
白村江での大敗の後で亡国の運命に晒された倭國を併合吸収継承して、
列島の盟主になった存在。 >>冢とは高墳である。
>冢とは、錐体(台)的形状を言うのであり、
単なる土の盛り上がりの墳ではなく、高さを感じるような形態を言うのであり、
「高墳」とは「墳の否定」である。
>>前方後円墳が冢(=塚)に該当するのは常識
>前方後円墳≠冢であり、冢≠塚でもある。
経百余歩 殉葬奴婢百余人、これは土蜘蛛ね。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
分りやすく国土地理院の地図より。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_23.jpg >>777
このスレ次からワッチョイ導入しようぜ 張り付いてる九州説のアホを一括で処分できるからな
ここはアホの九州説の相手するスレじゃないからな アホを消しておけば有意義なスレになる
>>780
!extend:checked:vvvvv:1000:512
↑冒頭にコレを入れて立てる(先頭の空白はなくして)
これで名前にIDとニックネーム?が付く 延々と張り付いてる九州説のバカを一括でNG出来る
偽スレもすぐに判明するしな 良いことしかない
次のスレ立ての時頼むよ
マスコミさん、これは、大和説者が、
5chの議論では九州説にどうしても勝てなくなってしまい、
5chも仲間に引き込んで、九州説者の投稿を全部拒否しようとしている、
という事を示すんでしょうね。
大和説が、九州説に完敗した、という事を表しているんですよね。 >>787
>しかし、大和説者は箸墓を卑弥呼の急死の年の近辺に持っていくのに大変な労力を費やしてるけど、
大和が倭国の東千余里の倭種の国なのは動かんのだけどな。
魏志倭人伝には、「大和が倭国の東千余里の倭種の国」だ、とは書いていないな。
女王國はほぼ九州島付近であり、
その「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」であるから、
「皆」の中には大和も含まれる可能性があるというだけであり、
また、「東渡海千餘里」の後は「又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里」であるから、
魏の役人らは「東渡海千餘里」をして上陸後に、
南へ三千余里陸路を進んで、侏儒國付近に達した事になり、
侏儒國は、ほぼ足摺付近になる。
そして「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の陸路参問里数も、
400余×2+300×2+500+100+(4000余ー1000余)=5000余(里)
の計算にピッタリなるから、魏の役人らや陳寿は、大和の事など、全く知らないし、書いていない。。
また、この計算が出来ている、という事は、
伊都国から奴国の百里や、不彌國から投馬國への水行二十日も計上されておらず、
奴国や投馬國の記載が側副傍線行程の説明であって、主行程の説明ではなく、
魏の役人たちは「通っていない」という事も判る。
大和=卑弥呼の邪馬台国は、もう無理だと思うよ。 >>747
お前こそ一般的に言われてて調査された結果を確認しろよ思い込み野郎 >>785
>魏志倭人伝によれば九州北部は邪馬台国に向かうに通り過ぎる地点
まさに、その通り!
九州北部は邪馬台国(阿波)に向かうに通り過ぎる地点。 @阿波 >>802
>陳寿は女王國の位置推定として、会稽の東の地の東方だ、と位置推定をした。
だったら会稽の東と書くだろう
解釈がおかしい >>810
>お前こそ一般的に言われてて調査された結果を確認しろよ思い込み野郎
一般的に言われてて調査された結果は
石塚ーホケノ山ー箸墓の順
あんたは何も確認せずに思い込みで変なことを言ってる人だな 崇神が4世紀初頭から前半の時点で邪馬台国論争は終わり。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
ヒメ(踏鞴五十鈴)后もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地が高天原(奈良県御所市高天)。
その高天原に魏志倭人伝の記述通りの卑弥呼の墓がある。
経百余歩 殉葬奴婢百余人、この奴婢とは土蜘蛛ね。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
分りやすく国土地理院の地図より。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_23.jpg 史書曲解と印象操作を繰り返すばかりの畿内説という詐欺あわれ >>814
つまり墳丘がない
卑弥呼の墓ではありえない
終了 また「ERROR: 当分お断りしております。🤮・・・」とされ、投稿拒否されたので、
テスト投稿
>>790
>・・・出雲の王墓、西谷3号墓では、地元の土器とともに吉備(今の岡山県と広島県東部)や北近畿(兵庫県と京都府の北部)などの土器も多量に供えられ、
中国の歴史書に「和国大乱(147〜188)」としるされたこの時期、地域間の交渉が盛んに行われていたことが分かっている。これまでに可能性のあるものも含めると全国で約90基の四隅突出型墳丘墓が見つかっている。
160年代の出雲と吉備の戦争。ちょうど和国大乱の時期である。
誰の文か?は知らんが、「和国大乱」なんてなかったし、
魏志倭人伝の「倭國亂」は、ほぼ3世紀初頭頃になるし、
九州倭國との関係が全く書かれていないし、
九州倭國の東征毛人五十五國が、
出雲と越を征服出来ておらず梁代まで存続させているようである事と、
侏儒國と中部山岳以北の毛人蝦夷の征服出来ていない、という事も無視しているし、
東征毛人五十五國は、瀬戸内南北岸から、丹波方面と讃岐阿波紀伊方面の別働隊と、
播磨摂津河内伊山城近江東海方面の本隊に別れていた、という事も理解出来ていない、
と思う。 >>816
>つまり墳丘がない
墳ではない塚
塚は「棺を入るるに足る」蜀史亮伝 また「ERROR: 当分お断りしております。🤮・・・」とされ、投稿拒否されたので、
テスト投稿
>>792
>・・・そして、出雲王国が滅ぶ第二次物部東征により、
出雲王国が滅び、古墳も作られなくなった。
弥生時代の終焉とともに忽然と姿を消すのである。
梁書は、九州倭國と大和扶桑國と区別して、
出雲を文身國と記録し、越を大漢國と記録しているから、
出雲は、「弥生時代の終焉とともに忽然と姿を消していない」し、
「滅んで」もいなかった。 諸葛亮は自身の遺言により漢中の定軍山に葬られた。墳墓は山の地形を利用し作り、棺を入れるだけの小規模なもので、遺体も着用していた衣服を着せたままで、副葬品は一切入れないという質素なものであった。 >>818
>墳ではない塚
そんなものは実在しない
冢は高墳だ
馬でない白馬がいるものか >>821
>冢は高墳だ
例えれば首の長い馬、つまりはキリンのことだ。 >>820
>諸葛亮は自身の遺言により漢中の定軍山に葬られた。墳墓は山の地形を利用し作り、棺を入れるだけの小規模なもので
「卑彌呼」の墓も同じ形態だろう。 @阿波 卑弥呼陵はここ。
矢野神山には200基近い古墳があり、江戸時代、神陵(古墳)の一部を削り本殿を造営。
この本殿裏の神陵(古墳)が卑弥呼の陵墓だと伝え、神社に伝わる由緒には、塚に"金印"が埋められたことまで記されているという。
後円部の直径は約35m、頂上部には五角形の祭壇が築かれ、祭壇の上には永遠の生命を象徴するという鶴亀の石が祭られている。
正一位、延喜式に記録された式内名神大社。 @阿波
「天石門別八倉比賣神社」:徳島県徳島市国府町西矢野 矢野神山
https://sueyasumas.exblog.jp/9415763/
http://www.genbu.net/data/awa2/yakurahime_title.htm >>817
〉誰の文か?は知らんが、「和国大乱」なんてなかったし、
うん、知らない程度の知識量なら黙ってようね?
いい子だから。
ここは邪馬台国の話のスレッド。
ど真ん中で大陸の史書に書かれてる事を知らない人が来るところではないからね?w 倭人の墓は冢
卑弥呼の墓も大作冢
同じ冢が使われている=同じ形式という事だ
よって箸墓古墳など前方後円墳を候補に上げるのは見当違いよ >>813
どこの資料かは知らんが、箸墓の後がホケノ山でしょ。
もう一度その辺インターネットで調べたら?
2018年の再分析前からも、箸墓の方が古いとされてきたじゃん
土師氏が作らなかったのなら当然に墳丘の形状は違う。
もうさ、弥生式墳丘墓と古墳の区別は出土物から曖昧になってきてるでしょ。
昔は炭素分析なんてやってなかったからこれからだよ、古墳の話の課題は。 >>819
あのね、物部氏のその後の支配と出雲王家が滅んだのは別の話でしょ。 >>828
古墳時代という特別な時代は無かったと言う事だよ >>821
>そんなものは実在しない
冢は高墳だ
山に因りて墳となし、冢は棺を入るるにたる。
つまり墳と冢を明確に別けている。
冢は日本書紀の蘇我蝦夷・入鹿の双墓の記事の「ハカドコロ」のような意味だろう。 冢という漢字は供えられた足を縛った豚を人が抱えている象形で
冢は大きなりっぱな墓であるので
諸葛亮は棺を入れるのに足る大きさでいいと遺命を残した .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>792
>吉備国では徐福に倣い道教を深く信仰している国であった。鬼林山の南方の山に登り星神を拝んだとされる。現在では妙見山と呼ばれている。
初期型の前方後円墳はその関係もあり原型が吉備で作られ始めたとされる。
初期型の前方後円墳は、266年に西晋で天円地方を教わり、
モンゴルや高句麗などの前方後円墳の形状を真似て、筑紫での那珂八幡などで採用され始めた、
と考えられる。 >>819
出雲王朝最後の大穴持は、山崎帯。
そこで四隅突出古墳の作り手は滅んだ。
もちろん人間的に。血筋が途絶えたわけではないが、前政権の象徴の古墳は作れないだろうね。 >>836
朝鮮半島の前方後円墳は日本のより新しいでしょ。 >>828
どこの資料かは知らんが、
ホケノは庄内3がメインの墓だし、箸墓は布留1がメインの墓だから、
箸墓はホケノの後でしょ。
もう一度その辺インターネットで調べたら?
始めからずっと、箸墓の方が新しい、とされてきたじゃん >>836
栄山江流域に14基あるけど5世紀以降のだよ >>839
>始めからずっと、箸墓の方が新しい、とされてきたじゃん
どのみち、「忌部はん」のお墓なんだがね。 わははははは @阿波 >>840
>栄山江流域に14基あるけど5世紀以降のだよ
それは、半島忌部のお墓。 @阿波 そういえば神武の墓も畝傍山を墳となし、丸山という塚にあるね。
丸山は後世に整備された感もあるが、古代中国と同じだろう。 >>833
>冢は大きなりっぱな墓であるので
諸葛亮は棺を入れるのに足る大きさでいいと遺命を残した
山に因りた墳が大きなりっぱな墓であるので、
冢は棺を入れるのに足る大きさでいいと遺命を残したのだ。 >>843
神武天皇陵=徳島市丈六町秋葉神社(畝傍山の北東)
天の香具山=日の峯山(籠山かごやま) 海が間近の小松島市
畝傍山=徳島市南部(渋野町・勝浦町・丈六町・多家良町・八多町・飯谷町)一帯の山塊
耳成山=中津峰山 徳島市と勝浦町との境界地
橿原の宮=徳島市丈六町辺り
こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>839
当初は4世紀とされてたけど、70年代からどんどん古い物だと言われ始めて、2018年の再調査では下手すると50から100年くらい差が出たよね?
いつの情報なの?
https://blog.goo.ne.jp/akuto508/e/a9607c580bca401815d89a6d85c9b465 >>839
ホケノ山は、初期の武器用の鉄ではなく、後世のすり減らない鉄、農業用の鉄器が出ているから、遅い年代になるんじゃないかと。
さらに確度の問題はあるが炭素14だと4世紀になって、箸墓と逆に新しい年代のものと変わってきている。 >>828
>どこの資料かは知らんが、箸墓の後がホケノ山でしょ。
>もう一度その辺インターネットで調べたら?
自分では一切ソース出さないって
もしやあんた、いつもウソばかりついてるあの人か?
九州説ってこんな連中ばっかりだな >>847
またニセ情報ですか
九州説さん困りますね 確かホケノ山は、三角縁神獣鏡は出なくて後漢鏡とかばっかで、物部か豊国の投影が強い古墳だった気がする
箸墓は円筒埴輪になる前の特殊器台が出てるから初期の吉備の投影がある
しかし、出雲本は土師氏が作った事が箸墓になったと言う話を残しており、それだと遅すぎる
土師氏の先祖が作ったというのならまだ解る >>809
>ほぼ足摺岬付近になる。
頭、沸き沸きしてるんじゃない?
河内、大和に達しているのなら、その南は紀伊半島。
足摺岬まで引き返してどうすんのよ。 箸墓やホケノ山の年代であれこれ沸いているけど、そもそもの魏略や倭人伝では「倭国の東千余里にはまた別の国があり、そこに住んでいる者も皆倭種だ」と書かれているの。
卑弥呼の居る倭国は北部九州にあり、千里東の国は河内や大和などだ。
つまり、いきら騒いでも箸墓やホケノ山は卑弥呼と関係ないよ、って話。
好きなだけ、箸墓などの年代の話したらいいよ。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>853
>卑弥呼の居る倭国は北部九州にあり、千里東の国は河内や大和などだ。
>つまり、いきら騒いでも箸墓やホケノ山は卑弥呼と関係ないよ、って話。
「畿内説は間違いだ
なぜなら九州説が正しいからだ」
って論理?
それなら「オレって知能ひくいよ」って告白になるぞ >>852
>>ほぼ足摺岬付近になる。
>頭、沸き沸きしてるんじゃない? 河内、大和に達しているのなら、その南は紀伊半島。
頭、沸き沸きしてるんじゃない?
ほぼ九州島付近の女王國の中心部から「東渡海千餘里,復有國」じゃ、
千餘里を對海國から一大國の距離として、愛媛県西北部海岸付近にしかならず、
その後で「又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里」なら、
渡海の千余里を差し引いて、残りの三千余里南に陸路で言った事になり、
足摺付近にしかならないではないか。
つまり、河内大和になんか行っていない。
>足摺岬まで引き返してどうすんのよ。
魏の役人らは、「又有裸國、K齒國復在其東南,船行一年可至」の、
「裸國、K齒國」への出発港と、
そこからの方向や所要日数情報が得たかったの。 >>856
なーにを偉そうに言い切ったってトンデモは所詮トンデモ
成人の身長が1m以下の人類なんていないんだから
その島まで何里だとか、魏の使者が行ったとか
嘲笑買うだけよ >>857
小人国は空想で邪馬台国は信じるのか?w
畿内説ありきのご都合解釈w >>858
畿内説ありきのご都合解釈だと思うのは気が狂ってるからさ
自覚しろよ
だって成人の身長1m以下だって人類の存在を疑わないとか
何の理由もなく邪馬台国を疑うとか
正気じゃあり得ないだろ、おまえ
それと「畿内説ありき」の関連も言及できない
白痴が発狂って、どんな二重苦だ
気の毒だな >>860
幼稚園児みたいな悪口しか言えないんだな
こんなのが信奉者な
九州説がかわいそうだ
まあ、そうなるべくして
こうなったんだろうけど >>861
南と書いて東を候補に上げる畿内バカは池沼レベルなんだよwww 時代ごとに倭人の葬祭について詳しく書かれているが女王の役目などは全く記載が無いな
これは卑弥呼と古墳文化が無縁で有ることを示していると言える >>856
>千餘里を對海国から一大国の距離として、愛媛県…
伽耶〜対馬の間を千余里と書いてあるその数字は、一万二千余里から単に三つの海峡に千余里をそれぞれ割り振っただけのもの。
それを信じて、愛媛県あたりが千余里だなんて、頭沸き沸き度超過剰。
1里=414mで、千里はちょうど奈良の天理あたりだ。 >>863
女王の役目が書いてないって主張と
古墳文化と無縁だって結論部分と
この2つの因果関係が何も書いてないですけど
やっぱり白痴さんですか? 東南陸行は間違いだーーー、などと、倭人伝を小ばかにしたものに天罰・天誅が下った。 >>862
>南と書いて東を候補に上げる畿内バカは池沼レベルなんだよwww
じゃあ末盧国は具体的になに県なに市何丁目で、伊都国はなに県なに市何丁目で
方位はどっちにあるんだ? >>866
どんな天罰が?
ウソでないなら具体的に言ってみな 卑弥呼の墓は倭人の墓とは異なるから槨が合ってもいいニダーとほざく畿内説w
どちらも「塚」と表記されてるよなw >>855
無理無理。
倭国から千余里だからね。
この地理的な位置関係は、九州から河内あたり以外にないと中国の学者が言ってたし。
国際的にも倭国は九州。
ガラパゴスにすら認められない変態説が大和説。 >>867
呼子のあたりに上陸してまず唐津方面へ向かうから東南だろうな >>867
魏志倭人伝には対馬と壱岐の位置関係を南として描かれている
伊都国の位置に疑念をもつ必要はないね 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>870
魏志倭人伝に記載された道里を計算すれば、と書いてあるな
つまり陳寿の勝手な想像 >>874
中国の学者に否定されてるのに、いまさら〜 !!!! トンデモ同士、いいぞいいぞ、もっとやれ!もっとやれ! わははははは @阿波 方角は
東南から南西までの範囲を「南」
東から南までの範囲を「東南」
として大雑把に考えればいいんじゃないの? >>869
>卑弥呼の墓は倭人の墓とは異なるから槨が合ってもいいニダーとほざく畿内説w
九州説さん、また捏造?
それとも脳内九州お笑い劇場?
実在する畿内説に反論しなきゃ、永遠に負け組だよ
それって逃避だから >>876
>魏志倭人伝に記載された道里を計算すれば、と書いてあるな
>つまり陳寿の勝手な想像
九州説が
倭人伝を否定して
またまた自滅してるぞ
ゴミだな 罵声しか返せないキナイコシは低脳畿内説の象徴だwww IDもワッチョイもないのによく決めつけが出来るよなwww >>872
>呼子のあたりに上陸してまず唐津方面へ向かうから東南だろうな
だから末盧国は具体的になに県なに市ぼどの辺で
伊都国はなに県なに市のどこで
方位はどっち方向なんだ?
漠然とイメージでごまかすなよ
だから九州説はダメなんだろ >>881
文盲か?
「道里を計算すれば会稽東冶の東あたりだ」と書いてあるだろ
陳寿は一般的な里で想像していたが手元に集まった記録は短里だったというのが最も辻褄の合う解釈だが? >>884
呼子って書いてるんだから呼子だろうにwww
伊都国は糸島あたりなんじゃね?
例え話
鹿児島市から佐多岬へ向かう時
方角だけなら南東だろうけど
船を使わず陸路で行くのなら、まずは北上する
その時、方向をどちらで書くべきか?
南東なのか、北なのか?
ってことだろ
で、「北」
それと同じ 畿内説だと博多湾あたりから出雲へ向かうことになるがそれを南と勘違いするつてどんな古代人だ?w >>886
「鹿児島市から佐多岬へは北に○○キロです」
って説明する人がいたら
正常じゃない人だ >>887
>畿内説だと博多湾あたりから出雲へ向かうことになるが
どうして?
理由は? >>888
「南東に○○キロ」と書いたらいきなり南東に向かうからたどり着けないだろwww >>885
>陳寿は一般的な里で想像していたが手元に集まった記録は短里だったというのが最も辻褄の合う解釈だが?
魏の役人が魏で使われてない単位で報告するとか
非現実的そのものだ
どこが辻褄合うんだ >>890
なんで「海に沿って」と書く知能が無い人なんだ? トンデモ同士、いいぞいいぞ、もっとやれ!もっとやれ! わははははは @阿波 >>892
魏志倭人伝の他の部分で、海に沿ってとか川に沿ってとか書かれているのか?
迂回するのは海だけではない
川や山も迂回することはあるだろう
そのたびに川に沿って、山に沿ってとか書くのか?
北に向かって道なりに進めば佐多岬までたどり着けるだろ 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>894
鹿児島から佐多岬へは北に100キロとか
そんな説明する狂人を見つけてから言えよ
そんなことだから九州説はいつまでも脳内お笑い劇場なんだよ >>896
「鹿児島市から佐多岬へ向かうには南東へ進みます」
と書いてたら、北上せずにいきなり南東に進み始めるからたどり着けない
そんな簡単なことすら理解できないから畿内説はバカの集まり >>894
>魏志倭人伝の他の部分で、海に沿ってとか川に沿ってとか書かれているのか?
頭がマトモなら
鹿児島市から南に水行15km、陸行75kmで佐多岬に至ると書くね
北へ陸行100キロと書くのは異常者 トンデモ同志がトンデモ議論、此れじゃ脳ミソにいいわけないよwww >>898
それは船を使った場合だろ?
「陸路」という前提を無視しないと成立しない頭のおかしい奴の言い訳だな >>899
>トンデモ同志がトンデモ議論、此れじゃ脳ミソにいいわけないよwww
まさに、その通り! @阿波 >>897
九州説って知能低いから九州説なんだって、よくわかるよ
「鹿児島市から佐多岬へは北に陸路100キロです」
と書いてたら、北上して方向転換しないから人吉あたりに行っちまって佐多岬にゃたどり着けないよ
そんな簡単なことすら理解できないから九州説は白痴しかいない現状ってわかる 日本書紀では、神武天皇は初め大和川をさかのぼって竜田に出るコースを取って、
後に畝傍山の東南の地に宮を置いた、と書かれている。
このことからして、神武天皇は初めから畝傍山を目指していたことが分かる。
磯城ではなく、畝傍山がそもそもからの目的地だったように日本書紀が書いているのは、なぜか。
この謎は、祭祀と関係があるようだ。
というのも、畝傍山は東南の方向ぴったりにある竜門岳に冬至の日の朝日が昇るのを見ることができ、
東北の方向ぴったりにある三輪山に夏至の日の朝日が昇るのを見ることができる、稀有な場所なのだ。
このことは、おそらく縄文時代には発見されていただろう。
なので、3世紀頃には農耕に関わる日照時間と冬至・夏至が密接な関係にあることが分かっていたと思われることから、
日本書紀で神武天皇がこの畝傍山をめざしていたらしいことは、十分に納得できることなのである。
つまり、神武天皇は聖地をめざしていたということになる。
そして、神武天皇はこの聖地畝傍山から冬至の朝日が昇る竜門岳の方角に宮を置き、
また畝傍山から夏至の朝日が昇る三輪山の方角に神武天皇の陵墓が設けられた、と日本書紀は記す。
神武天皇の行程には、このような事実が盛り込まれている、ということなのである。 >>873
>魏志倭人伝には対馬と壱岐の位置関係を南として描かれてい
じゃ、倭人伝は方位間違ってるよね 方向音痴どもうるさいぞ
魏志倭人伝の記述
至對馬國(対馬)〜乗船南北市糴〜
又南渡一海千餘里〜至一大國(壱岐)〜亦南北市糴
つまり対馬←→壱岐位置関係が南北だ
https://i.imgur.com/Ixx2XXX.png
よって邪馬台国はこの南のどこか
https://i.imgur.com/t1La2wr.png こうして
はるか昔に、遠い異国の話なんて間違い情報が混じってて当然という
あたりまえな常識を、どうしても認められない九州説は
倭人伝が絶対に正しいってことにするために
常識的にはどう見ても無理な解釈をこじつける
その醜態が常識人を遠ざける つまり、邪馬台国畿内説は、完全に、破綻したのだね。 もう900超えたな
次スレ建てるときマジでワッチョイ頼むよ
張り付いてる九州説が目障りでしょうがない
たぶん3人くらいだろうけど延々と荒し続けて鬱陶しくてしょうがない
!extend:checked:vvvvv:1000:512
↑
冒頭にコレを入れて立てる
(先頭の空白はなくして)
これ入れて建てればワッチョイになるからよろしく頼む
IDとニックネームが付くだけだから
アホの九州説の追放には絶大だから 畿内説派死んだ。
その死んだ子の弱いを数える畿内ジージ、、、 >>827
>倭人の墓は冢
卑弥呼の墓も大作冢
同じ冢が使われている=同じ形式という事だ
よって箸墓古墳など前方後円墳を候補に上げるのは見当違いよ
成程。 >>835
繰り返しのテンプレはイラね。そろそろやめたら? .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>828
>どこの資料かは知らんが、箸墓の後がホケノ山でしょ。
もう一度その辺インターネットで調べたら?
2018年の再分析前からも、箸墓の方が古いとされてきたじゃん
ダメだよ。
ホケノは庄内3であり、箸墓は布留1だから、ホケノの方が古い。 北極星を拝む道教の星見の本場で普通方角間違えるか?
夜になりゃ一発じゃん。
伊都国で伝聞で聞いたのがそのまま魏書になったんじゃ?
適当過ぎる >>920
箸墓が布留1とか
また九州説がニセ情報流してるな
彼らに良心は無いのか? >>920
古墳の担い手が違えば形も変わるだろ。
形での分類は意味がないし、それなら出雲式もずっと後まで続いてるよ。
吉備の時代に新しい形式の古墳が生まれる機運があったってその辺のHPにも出てるよ。
そもそもが形での分類は過渡期の混ざった可能性を否定しすぎている。 >>848
自分では一切、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などのソース出さないって、
もしやあんた、いつもウソばかりついてるあの大和説の人か?
大和説ってこんな連中ばっかりだな >>850
またニセ情報ですか
大和説さん困りますね >>855
大和説は正しい。
なぜなら「存在もしなかった畿内」という説が正しいからだ、
って論理?。
それなら「オレって知能ひくいよ」って告白になるぞ >>857
>なーにを偉そうに言い切ったってトンデモは所詮トンデモ
成人の身長が1m以下の人類なんていないんだから
その島まで何里だとか、魏の使者が行ったとか嘲笑買うだけよ
赤ちゃんの時は、人類は全員低身長であったのであり、
成長ホルモンの量が少なかったり、成長ホルモンが早く終わる遺伝子を持てば、
誰でもどんな種族でも、低身長になる事があり得るよ。 >>924
>自分では一切、
>「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などのソース出さないって、
九州説はいつもウソをつく
ソースは採算出している
「東南陸行」の末盧国から伊都国は東南でなく北東。「当在会稽東治之東」では会稽の東には日本列島などない
倭人伝記載の方位は間違っている
冢とは高墳である。(『説文』)
前方後円墳が冢(=塚) に該当するのは常識
「正北抵新羅」だと言う国からは平安時代に藤原氏の貴族が使者として来ている (『唐会要』)
当時の都は京都。つまり方位の認識間違いなのは明か >>861
幼稚園児みたいな悪口しか言えないんだな
こんなのが信奉者な大和説がかわいそうだ
まあ、そうなるべくして
こうなったんだろうけど >>928
それで成人の身長が1m以下の人類が実在するのかよ
実在を前提に、その島まで何里だとか、魏の使者が行ったとか
全国的に嘲笑されたいのか九州説は >>930
このオウムがえし・・・
まさに幼稚園児ですね
九州説って悲惨 >>864
>伽耶〜対馬の間を千余里と書いてあるその数字は、
一万二千余里から単に三つの海峡に千余里をそれぞれ割り振っただけのもの。
いや、魏使らの「有効数字1桁程度の近似的実測値」だ。
>それを信じて、愛媛県あたりが千余里だなんて、頭沸き沸き度超過剰。
史料事実や史料実態だ。
>1里=414mで、千里はちょうど奈良の天理あたりだ。
いや、千里≒76.5km位で、
女王國の国東半島付近から愛媛県の西北海岸付近の距離だ。 >>933
>いや、千里≒76.5km位で、
>女王國の国東半島付近から愛媛県の西北海岸付近の距離だ。
算出根拠出せないでしょ?
つまりガセネタ >>867
>>南と書いて東を候補に上げる畿内バカは池沼レベルなんだよwww
>じゃあ末盧国は具体的になに県なに市何丁目で、伊都国はなに県なに市何丁目で
方位はどっちにあるんだ?
いや、「東南陸行五百里到伊都國」の東南は、
末盧國の出発や途中からは伊都国が見えていないから、伊都国への方向計測は出来ず、
だから、人類の行程説明の原則に従って、
「東南」は末盧國の出発時点での出発方向の説明文言だ。 >>868
>どんな天罰が?
ウソでないなら具体的に言ってみな
国民や世界の学者らから、蔑みや冷笑を喰らう、という天罰が。 >>933
>女王國の国東半島付近から愛媛県の西北海岸付近の距離だ。
今度は国東半島が女王国なの?
九州説って目先の都合でコロコロ変わるんだね >>936
>国民や世界の学者らから、蔑みや冷笑を喰らう、という天罰が。
具体的でない
実在する証拠すらない >>870
>南は会稽よりも南な
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているんだから、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國の直ぐ南な。 >>935
>末盧國の出発や途中からは伊都国が見えていないから、伊都国への方向計測は出来ず、
その程度の三角測量もできないなら、魏使一行測量説は脆くも崩壊
九州説は妄想だったということ
>だから、人類の行程説明の原則に従って、
そんな原則があるって証拠は皆無
つまり妄想 >>939
>不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているんだから、
>邪馬壹國女王之所都は、不彌國の直ぐ南な。
ならば到底ムリ。
会稽にも遠く届かないので
九州説崩壊 まもなくスレも終わりだな
次は本当にワッチョイ頼む
!extend:checked:vvvvv:1000:512
↑
冒頭にコレを入れて立てる
(先頭の空白はなくして)
オウム返しバカも自作自演同意バカも何年も張り付いてる異常者全員まとめて排除できるから
バカがイチイチ湧いてくるから邪魔でしょうがない >>876
魏志倭人伝には、魏の役人たちに拠って記録された道里を計算すれば、と書いてあるな
つまり陳寿の「記録史料事実からの女王國の位置推定」。 >>880
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙し大和説さん、
また「無槨→有槨」などの捏造?
それとも脳内大和お笑い劇場?
実在する史料事実で反論しなきゃ、永遠に負け組だよ
それって逃避だから >>881
大和説が
倭人伝の「冢や無槨」を否定して
またまた自滅してるぞ
ゴミだな >>929
>前方後円墳が冢(=塚) に該当するのは常識
というか前方後円墳にも冢(=塚)=ハカドコロ(日本書紀) に該当する部分があるということであろう。 >>944
九州説はまたウソをつく
「東南陸行」の末盧国から伊都国は東南でなく北東。「当在会稽東治之東」では会稽の東には日本列島などない
倭人伝記載の方位は間違っている
冢とは高墳である。(『説文』)
前方後円墳が冢(=塚) に該当するのは常識
「正北抵新羅」だと言う国からは平安時代に藤原氏の貴族が使者として来ている (『唐会要』)
当時の都は京都。つまり方位の認識間違いなのは明らか
すべて史料事実に基づいている
もちろん前方後円墳には槨は無い >>884
だから、末盧國からや途中からは伊都国は見えておらず、
東南は末盧國からの出発時点での出発方向記録であり、
「末盧國から伊都国の方向」ではないんだぞ。
漠然とイメージでごまかすなよ
だから大和説はダメなんだろ >>945
>倭人伝の「冢や無槨」を否定して
前方後円墳は冢に該当し、その竪穴式石室には槨は無い >>945
>大和説が
倭人伝の「冢や無槨」を否定して
またまた自滅してるぞ<
いや俺はしてないぞ。
冢に木棺直葬で槨はなし。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png
石槨のある纏向古墳群だというやつには矛盾がある。 >>949
>竪穴式石室には槨は無い
竪穴式石槨だから槨だろ。 >>885
大和説者のなりすましの文盲か?
「道里を計算すれば会稽東治の東あたりだ」と書いてあるだろ
魏の役人たちや陳寿は、魏朝の里で記録しており、
手元に集まった記録は短里だったというのが最も辻褄の合う解釈だが? >>888
「末盧國から、見えてもいない伊都国へは、北東に○○キロです」
って説明する人がいたら
正常じゃない人だ >>890
>「南東に○○キロ」と書いたらいきなり南東に向かうからたどり着けないだろwww
末盧國から伊都国は見えないから、魏の役人らは、
出発方向を記録して、後は案内人や道しるべに従って、伊都国に着くの。 >>891
>魏の役人が魏で使われてない単位で報告するとか
非現実的そのものだ どこが辻褄合うんだ
明帝が遼東を「征伐四千里」と発言し、
郡役人らは韓國を「方可四千里」と記録しているんだから、
魏の役人らが「魏朝で使われていた単位」で報告した、という事は現実的であり、
辻褄が合う。 >>892
>なんで「海に沿って」と書く知能が無い人なんだ?
出発の手段や方向を記載しておけば、後は案内人や道標を頼りに進むんだから。 >>895
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。 >>896
「南→東」とか「冢→前方後円墳」とか「治→冶」とか
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定とかの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
そんな説明する狂人を見つけてから言えよ
そんなことだから大和説はいつまでも脳内お笑い劇場なんだよ >>899
トンデモ大和説者同志がトンデモ議論、
此れじゃ脳ミソにいいわけないよ >>902
大和説者って知能低いから大和説なんだって、よくわかるよ
「邪馬壹国女王之所都は不彌國の南だ」と書かれているんだから、
南に行くかぎり、大和にゃたどり着けないよ
そんな簡単なことすら理解できないから、
大和説は白痴しかいない現状ってわかる >>904
>日本書紀では、神武天皇は初め大和川をさかのぼって竜田に出るコースを取って、
後に畝傍山の東南の地に宮を置いた、と書かれている。・・・
そんな事、どこに書かれているの?。 >>911
こうして、はるか昔の遠い異国であっても、
同時代魏の役人らの実地の見聞計測の記録であれば、
間違い情報が殆ど混じっていなくて当然という
あたりまえな常識を、どうしても認められない大和説は
倭人伝が絶対に間違っているってことにするために
常識的にはどう見ても無理な解釈をこじつける
その醜態が常識人を遠ざける >>922
箸墓が布留1ではないとか
また大和説がニセ情報流してるな
彼らに良心は無いのか? >>929
大和説者や東大理系博士号自称男らは、いつもウソをつく
反論は再三その都度出してあったのに、
それには触れず、
同じ「嘘吐き騙し宣伝」をしゃべり続ける。 >>931
>それで成人の身長が1m以下の人類が実在するのかよ
アッ、その低身長部族の実例を挙げたら、5chに投稿拒否されたんですよ。 >>530
このオウム返され・・・
まさに幼稚園児ですね
大和説って悲惨 >>934
>>いや、千里≒76.5km位で、
>女王國の国東半島付近から愛媛県の西北海岸付近の距離だ。
>算出根拠出せないでしょ?つまりガセネタ
「千里≒76.5km位」は、
周髀算経の一寸千里の法に関する「谷本計算」が根拠。 >>937
>>女王國の国東半島付近から愛媛県の西北海岸付近の距離だ。
>今度は国東半島が女王国なの?
九州説って目先の都合でコロコロ変わるんだね
いや、国東半島は、「ほぼ九州島付近」の一番東になる地であり、
「女王國東渡海千餘里」の出発地として、一番適切だ。 >>938
>>国民や世界の学者らから、蔑みや冷笑を喰らう、という天罰が。
>具体的でない 実在する証拠すらない
いや、マスコミのアンケートでは、国民の3分の2が「大和説の否定」であり、
漢文の本家である中国学者らも、殆どが「大和説の否定」だ。 >>940
>>末盧國の出発や途中からは伊都国が見えていないから、伊都国への方向計測は出来ず、
>その程度の三角測量もできないなら、魏使一行測量説は脆くも崩壊
九州説は妄想だったということ
いや、「見えていない地への三角測量が出来る」、と言った時点で、
大和説の崩壊であり、妄想。 >>941
>>不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているんだから、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國の直ぐ南な。
>ならば到底ムリ。会稽にも遠く届かないので九州説崩壊
「会稽東治之東」は「女王國の位置推定」であり、ほぼ九州島付近。
そして、今回の話は「邪馬壹國女王之所都」の位置の論であり、
「邪馬壹國女王之所都は女王國内の北部にある」ので、
大和説や東大理系博士号自称男らがまた崩壊。 >>946
>>前方後円墳が冢(=塚) に該当するのは常識
>というか前方後円墳にも冢(=塚)=ハカドコロ(日本書紀) に該当する部分がある
ということであろう。
「冢≠塚」であるから、どちらもペケ。 旧唐書では、倭国と日本国(ヤマト)が別記されている。
https://i.imgur.com/iRqJslq.png
■倭国条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭国者,古倭奴国也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
■日本条 701年〜 (畿内ヤマト政権時代)
「日本国者,倭国之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれと言い訳をする。
「日本舊小国,併倭国之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言葉である。
■参考
遣唐使に参加した伊吉博徳書には、我客(倭国)と別倭種(日本国)の使節団が
中国で争いを起こしたと書かれている
■結論
この時点で倭国と日本国は別政権でした
やはり日本が統一政権となったのは8世紀という事で間違いない >>947
>九州説はまたウソをつく・・・
大和説者や東大理系博士号自称男は、また、
既に反論否定された話に知らん振りして、
同じ事を書き続けるウソをつく >>949
>>倭人伝の「冢や無槨」を否定して
>前方後円墳は冢に該当し、その竪穴式石室には槨は無い
前方後円墳は「冢=錐体」ではないし、
魏の役人らが記録した槨は、棺や遺体を包むに足る(非居住性の)構造物であるから、
竪穴式石室は、槨の一種である。 >>968
東千余里の出発地の一番適切なのは、福岡県の行橋市あたり。 >>976
>東千余里の出発地の一番適切なのは、福岡県の行橋市あたり。
行橋あたりなら、「東渡海千餘里」するんなら、
北の非常に狭い関門海峡を渡ってのコースを採った方が、安全であり、
「東渡海千餘里」に不適切。 神武天皇の出身地が日向なんだから九州に決まってるだろ 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603726333/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>961
>そんな事、どこに書かれているの?
「…河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります。…歩(かち)より龍田に趣く。しこうしてその路狭く嶮くして、人並み行くことを得ず。すなはち還りて更に東の生駒山を越えて…。」
↓
「…かの畝傍山の東南の橿原の地は、けだし国の墺区(もなか)か。治(みやこつく)るべしとのたまふ。この月に、即ち有司(つかさ)に命(みことおほ)せて、帝宅(みやこ)をつくり始む」 >>975
>前方後円墳は「冢=錐体」ではないし、
冢が錐体でなきゃいかんなんて決まりは無いし >>977
>関門海峡を渡ってのコースを採った方が…
地図みたら一目瞭然。
仮に、博多から出るとして、行橋市までの陸行と北九州市までの陸行では、どちらも同じ。
なので、北九州市から周防灘へ出て瀬戸内海を東へ行くコースと、行橋市から周防灘を東へ行って瀬戸内海に入るコースを比べると、
北九州市から関門海峡を通って周防灘に出る分だけ遠くなる。
ということは、行橋市から出航するのが近道ということになる。 >>973
>「日本舊小国,併倭国之地。」
>(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
>これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言葉である。
百余国もあった倭国を統一したってだけじゃね? そもそも冢なんてのは中国の言葉
古墳は日本の言葉
そんなものが定義になるなど笑止 地名はめったに変わらぬいうのに、九州のどこにヤマトがあるというのだ?w >>933
>愛媛県の西北海岸付近の距離だ。
そんな近所なら、わざわざ皆倭種なんて書かなくても、最初から分かってることだろう。
お隣さんなんだから。 >>978
>九州に決まってるだろう。
南九州な。 >>986
同意
付き合いの古い西四国を名も知らぬ国にするのは無理 >>985
山門(ヤマド)だよ。
みやま市瀬高町山門。
この山門の近くの坂田にある権現塚が、卑弥呼の寿陵。
菊池の狗奴国に攻め込まれて、卑弥呼はこの寿陵に入ることができなかった。
避難先の御井の赤黒山を削って、土盛りしてそこに葬られた。
この山を祇園山古墳と今は言う。
夏草や兵どもが夢の跡。 >>990
ちっちゃい方墳だろ
倭人伝とぜんぜん合わない >>951
>竪穴式石槨だから槨だろ。
石室だから槨じゃない >>981
>>前方後円墳は「冢=錐体」ではないし、
>冢が錐体でなきゃいかんなんて決まりは無いし
中国では、ほぼ全て、「錐体」状のものにばかり、使われている。 >>982
>地図みたら一目瞭然。
仮に、博多から出るとして、行橋市までの陸行と北九州市までの陸行では、どちらも同じ。
なので、北九州市から周防灘へ出て瀬戸内海を東へ行くコースと、行橋市から周防灘を東へ行って瀬戸内海に入るコースを比べると、
北九州市から関門海峡を通って周防灘に出る分だけ遠くなる。
ということは、行橋市から出航するのが近道ということになる。
魏の役人らのコース選択は、常に、
「渡海になるようなコースは出来るだけ最小限にする」という原則であるように見える。
沿岸航行も控えめであるようにも見える。 >>983
>>「日本舊小国,併倭国之地。」(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言葉である。
>百余国もあった倭国を統一したってだけじゃね?
その前に、唐書群は、「日本國者倭國之別種也」としており、
(大和の)日本國が(九州)倭國から別れた種の国であった、と書かれている。 >>986
>>愛媛県の西北海岸付近の距離だ。
>そんな近所なら、わざわざ皆倭種なんて書かなくても、最初から分かってることだろう。
お隣さんなんだから。
魏の役人らにとっては、「東渡海千餘里」は、やはり危険が大きい行為であり、
近所ではない。
そして、女王國と倭種とを区別している。 >>989
>同意 付き合いの古い西四国を名も知らぬ国にするのは無理
魏の役人らにとっては、初めての地であり、
裸國とK齒國への出航地を確認する行程。 >>991
>ちっちゃい方墳だろ 倭人伝とぜんぜん合わない
>>992
>祇園山は無理だね 望みなし
祇園山は、魏の役人らが使用した短里や短歩の、
「径百余歩≒径25.5〜30m」にほぼぴったし。 >>993
>>竪穴式石槨だから槨だろ。
>石室だから槨じゃない
槨は、遺体や棺を容るるに足る(非居住性の)小部屋の構造物であり、
そう言う構造であれば、石室も槨。 このスレッドは1000を超えました。
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