伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国ニダ
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〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸カス
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオの息子で新羅に降り立った
エラ猛神の事ニダ! そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸カス
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物に違いないニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
だから伊都国は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸カスの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf.png .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>2
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____ 〈⊃ }
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/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) / .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. >>5
朝鮮ヒトモドキどもは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡はさらに古いなどと言い出したが
同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された。
そして1999年にイ・サンギル氏、イ・ヒョンソク氏、ガク・ジョンチョル氏らによる
学術論文「ウルサンムゴドンオクヒョン遺跡」が発表されて以来20年以上も研究対象に
なっていないゴミ遺跡である。
同論文によれば、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され
既に文殊中学校になっているとの事。
またはウルサン市の公式サイトによれば、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は
大韓住宅公社運営のオクヒョン第二住公アパートになっているとの事。
いずれにしても本国ですら正確な位置を把握していない程のクソ遺跡であることは明白。
その無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑は
この地球上に存在すらしていない。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より
古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として
すでに韓国歴史学の恥部となっている。
※玉蟾岩土器とは
1998年に青森県の大平山元遺跡から出土した土器が2008年の炭素年代測定で
約1万6,500年前の世界最古と公表された翌年に中国湖南省の玉蟾岩洞穴から突如として
発掘され、炭素年代測定で約1万8,000年前の物だと主張。
しかし、ロシア国立博物館から再調査の依頼があった途端に盗難に遭い
忽然と姿を消してしまった土器のこと。
出典元:
学術論文「蔚山ムゴドンオクヒョン遺跡」
https://library.knou.ac.kr/user/login?returnUrl=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061&__referer=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061
ウルサン市公式サイト「ムゴドンオクヒョン遺跡」
http://ulsan.grandculture.net/Contents/Index?local=ulsan >>6
おまえの正体
五毛党(ごもうとう、英語: 50 Cent Party、拼音: wǔmáo dǎng)とは、
中華人民共和国における中国共産党配下のインターネット世論誘導集団を指す
ネットスラングである。正式名は網絡評論員(インターネットコメンテーター)
であり[1]、2005年ごろまでは書き込み1件当たり5毛(5角(=0.5元)を口語で
こう呼ぶ)が支払われていたことからこの蔑称が名づけられた。網軍[2][3]と
呼ばれることもある。
通常は一般人を装い、インターネット上のコメント欄や電子掲示板などに、
中国共産党政権に有利な書き込みをする。または共産党「それに関連する事」を
批判する人に対する集団攻撃をする。ネットを通じ、世論誘導をする役割を
担っている。2015年時点で、約1050万人程度いると見られている[4][5]。
中国政府が世論操作のためにSNSに投稿させている「やらせ書き込み」は、
年間で4億8800万件に上るという[6]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%AF%9B%E5%85%9A#:
. >>1
ワロタw
糸カス見つけたらこのスレに誘導すりゃ良いんだな? >>5
363 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2020/10/30(金) 15:42:29.34
糸カスが静かだとオクキョンが暴れまわるという謎現象(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603736641/363 華南ブタセロウだろw
玉蟾岩土器事件たたいて日本人アピールが超ウケる(Very嘲笑wwwwwwww .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. >>12
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| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
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◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>16
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(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>18-19
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(___) / いや、そうとも言えんよ
高天原(列島)から天降った先が新羅(半島)だと考え事も可能だからな
当時の航海技術を考えると、必ず行って帰って来れるような航海じゃなかったはず
数年後に新羅や高麗から生還しただけでも結構なヒーローになれたのではないか? >>24
俺が気になるのは新羅に木を植えなかったって記述。
ソシモリを嫌ったとかは帰国の理由付けとして理解できるが、わざわざ苗や種を植えなかったってのは何を示唆しているのだろうか? 例えばだが
予定外に長く新羅に滞在して帰国した事を咎められたら
どうしただろう
天照としては情報漏えいや寝返りなどあったのでは疑うに違いない
父 姉さーん!マジで帰りたかったんすよ!マジで!めちゃめちゃあの土地が嫌でー リアル直帰カマしたかったレベルっすよー
息子 オヤジの言ってっことマシっすから! オレら何も漏らしてないし、何なら種一つ置いて来なかったんすから! 叔母さんマジ俺らのこと信じてくださいってー!
なんて会話が記録されたのかもしれない >>27
かわいいやんw
なんかムダに臨場感あるしww .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>29-30
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(___) / >>34
文盲チョンコには一致して見えるのかもしれんが、苗は高天原から持参したと記紀には明記してあるよ .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
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(___) / 歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の民族願望や妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから「早良区も伊都国ニダ!」「志賀島も伊都国ニダ!」「徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!」などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度であったのだろう。 〜突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧糸∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧糸∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧糸∧
<;l|l;`田´>
チョンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)
〜糸島朝鮮人だけが持つ独特の「正義」の概念を理解しよう♪〜
糸島朝鮮人の考える「正義」の概念は非常に独特で、根拠を必要としないという特徴があります。
なぜ根拠を必要としないかと言うと「この世に正義は一つしか存在しない」と考え、特に根拠もなく、糸島朝鮮人がその「正義」の側だと信じ込んでいるからに他なりません。
象徴的なのが後述する糸島朝鮮人の声闘連投です。
通常、それぞれが正義と信じる者同士が争った場合、ホモ・サピエンスは「相手の正義」の存在を認識しながらも「自分の正義」のために戦います。
「相手の正義」を認識しているからこそ、勝ったときには相手を称え、負けたとしても自分が「悪」だとは考えません。
一方、糸島朝鮮人は「相手の正義」を認知できず、相手の劣等性を指摘(曲解や捏造など)する事で「自分だけの正義」の担保とします。
ですから勝った時には殊更に負けた相手を「悪」と罵り、負けた時には難癖をつけて負けを認めないことで「自分だけの正義」を守ろうとするのです。
つまり負けは「悪」なので「感情的に受け入れられない」と逃げ回るのです。
また、自分自身に向けられた問題提議や指摘を模倣し、オウム返しのように相手にぶつけます。
こういった糸島朝鮮人の「正義観」は独特と言えるもので、予備知識を持たずに対峙すると「錯乱している」「気が狂っている」としか映らず対話を諦めてしまう結果となります。
しかし、糸島朝鮮人独自の正義「観」を知っておくことで対話は可能となるのです。
この特殊な「正義観」には「論点をすり替えさせる隙を与えない」ことで対処可能です。
多くの問題をいっぺんに片付けようとせず、一つずつ解決していくことです。
糸島朝鮮人にとって負けは「悪」ですから受け入れることは出来ません。
ですから負けを予感した瞬間に声闘連投と猿芝居を投稿して負けかけたことをなかった事にしようとします。
糸島朝鮮人以外の人が見れば「逃げた」「論点をすり替えた」「卑怯」と映るでしょうが、糸島朝鮮人独自の「正義観」では負けなければ「正義」であり、ウソでも何でも「自分だけの正義を貫くこと」が何よりも優先されているだけなのです。 突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の民族妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf 朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白。
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズガワ、糸島朝鮮人が愛してやまない伊覩縣主の祖である五十迹手も「イ」トテ。
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」〜だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう。
5日=「イ」つカ、10日=「トオ」カ、20日=「ハ」つカ、30日=「ミソ」カ、40日=「ヨソ」か、50日=「イ」カ、100日=「モモ」カが正式な大和読みである。
正式な大和読みで30日をミ「ソ」+カ、40日をヨ「ソ」+カと読むにも関わらず、続く50日は「ソ」と読ませず五十「イ」+「カ」なわけだから、やはり五十は「イ」と読むのが正しい。
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している。
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」は誤りです
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り で す
声闘連投で精神勝利するしか能のないち糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してあげました。 こっちも無能ヒトモドキと在日ヒトモドキ、嫌韓厨に荒らされとるんやな・・・ 〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸カス
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオの息子で新羅に降り立った
エラ猛神の事ニダ! そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸カス
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物に違いないニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
だから伊都国は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸カスの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf.png .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
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◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. ま
ず
パ
次 ク
に る
起
主 源
張 を
す
∧_∧ ___ る
<丶`∀´> |チョンこ| ニ
( )  ̄ ̄ ダ で、南方からも伝わっていると中卒ギャグってる頭の中がマンガチックでむぱな
考古学者の論文は?
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/ 中 ヽ● / 中 \●
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ヽ ___ /ヽ ヽ /
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| | | | l━━(t)━━━━┥ 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。
https://i.imgur.com/Km8Z0re 現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。
https://i.imgur.com/puurb8v .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>37
華南チンコロって本当面白いおもちゃだよなあ…
頭弱いし、こちらの貼った論文やソースに一切反論できてないし
本当見てるだけで笑える面白いおもちゃだよなあお前 >>55-57
反日教育に毒された哀れなチョンコロwww
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:/ :⊂ノ|: 糸チョンによる安曇氏族は糸国王というトンスル妄想による捏造はコレで完全敗北しました
https://i.imgur.com/oBTovjf.png 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
伊都国王=海人族だと言い張る猿はコチラ↓に移動
伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603956031/
伊都国=邪馬台国だと言い張る無能はコチラ↓に移動
女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/
or
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/
倭国=阿波だと言い張る阿呆はコチラ↓に移動
「邪馬臺国」は阿波だった Part.8
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
オクキョン?遺跡が名畑遺跡より古いと言い張るキチガイはコチラ↓に移動
日本に対する朝鮮起源説を真面目に考えるスレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1549585819/ こんだけ小馬鹿にされたスレには流石の糸クズも来たくないだろうよ。 .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>63
反日教育に毒された哀れなチョンコロwww
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:/ :⊂ノ|: 【捏造中】 糸島トンスル妄想ファンタジー 【創作中】
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三三)/) 声闘でゴリ押しし続けるニダよ〜
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/ ../) ウリたちが安曇ニダ♪ / ../)
三三)/) ∧_,,∧ ∧_,,∧ 三三)/)
三三)/ < `∀´> <`∀´ ;> 三三)/ 卑弥呼もウリナラ
ニダ ∧_,,∧ と φ) (つ φ) ∧_,,∧ 邪馬台国もウリナラ
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‖ ̄(l ノ  ̄( ノ ̄ ̄ ̄|| 三三)/
__`ー‐' ニダ `ー‐' 漁村という真実は感情的に
/ ../) __ 受け入れられないニダ!
三三)/) / ../)
三三)/) 三三)/) 〃∩ ∧_∧良い感じニダ♪
三三)/ 三三)/ ⊂⌒< `∀´>
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⌒⌒ 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
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文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)
https://i.imgur.com/faTpmpq .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>67
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\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
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(___) / 「邪馬台国」と「卑弥呼<ヒミコ/ヒメコ>」
卑弥呼はシャーマン(巫女)として祭祀を司り、政治は男子がとっていたと言われている。
これは、古代朝鮮の各国の王の筆頭ブレインの中に女性のシャーマンがいたことと似ている。
シャーマンは祈祷師として、古代朝鮮の各国の政治の中心人物に含まれ極めて重要なポストにあった。
古代朝鮮は、シャーマニズムをもつ北方民族(騎馬民族)の覇権争いによって形成されているので、シャーマンが政治の場に重く位置していた。
現在でも、神社での祈祷によって合格祈願、結婚祈願をし、災難、病などを逃れようとする人は恐るべき量に達する。
祈祷が生活に密着している先進国は、韓国・日本において最も顕著だ。
医者がいず、薬もなかった時代、病を恐れて祈祷にたよる生活が続けられていた時代、祈祷師は医者の役割を担っていた。
縄文時代以前から存在した倭人は、弥生時代でもって消滅に等しくなり、奈良時代に新天地として倭国へ渡来した人々は、倭国を日本として独立・建国させたのである。
好むと好まずとにかかわらず、現日本人の祖先のほとんどが朝鮮半島からの渡来人である。
「魏志倭人伝」に記録されている邪馬台国なるものの軌跡は、日本の歴史の流れが朝鮮半島を泉源としていることを明らかにする証明書であろう。
倭国の原住民から卑弥呼なる祈祷師が生まれたとすれば説明がつかない。
彼女を支える倭人は全て渡来人(朝鮮人)であったということを信じられない人は、縄文がなぜ弥生にかわったのか、
須恵器がなぜ弥生時代に生産され始めたのか、水稲がなぜ盛んになったのか、古墳時代の古墳はなぜ朝鮮の古墳とうり二つであるかを知るべきである。
高松塚古墳の彩色壁画の婦人像の着衣が古代朝鮮の服装そのままであり、高句麗にそっくりな古墳があるのはなぜか、
荒神谷の銅剣はなぜ出雲で発掘されたのか、出雲弁はなぜ韓国語に似ているのか・・あげれば数え切れないほどの古代朝鮮の文化の流れを見ることができる。
縷々申しあげた歴史を認識しなければ、邪馬台国があったのは九州だ近畿だといつまでも論争し、邪馬台国がどのような国であったかの解明をおろそかにする。
卑弥呼なる女王について、古代の人物として朦朧たる想像の世界に追いやり、日本の古代史はわけのわからぬ神々の斟酌にとらわれることで終わる。 イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。 〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf.png 朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る 地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、縄文人が生き延びられたのもこの地域くらい
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼 名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
阿曇氏いわく名島のナは浦と同義で壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている >>75
まさにコレやんけ(笑)
↓
〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
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記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
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文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
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<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
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⌒⌒ .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず
. >>78の在日ヒトモドキは執拗に玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを流布して回っていますが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された程度の価値しかありません。
1999年に学術論文「ウルサンムゴドン オクヒョン遺跡」(イ・サンギル、イ・ヒョンソク、ガク・ジョンチョル共著)が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文に在日ヒトモドキが言うような紀元前15世紀や紀元前11世紀などという記述は皆無な上、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
加えてウルサン市の公式サイトには、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社運営の「オクヒョン第二住公アパート」になっていると明記されています。
本国ですら正確な位置を把握していないという無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。
そもそも玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを始めたのは元国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。
にも関わらず、在日ヒトモドキは学術論文や行政の発表という現実から逃げ回り、グーグル地図うんぬんやら国の研究機関の公表だとホラを吹き、中国共産党への被害妄想に嵌まり込むという醜態を繰り返すしか能のない卑しくも憐れな無能生物なのです。
グ ー グ ル 地 図 う ん ぬ ん や ら
国 の 研 究 機 関 の 公 表 だ と
ホ ラ を 吹 き 、
中 国 共 産 党 へ の 被 害 妄 想 に
嵌 まり 込 む と い う 醜 態 を
繰 り 返 す し か 能 の な い
卑 し く も 憐 れ な 無 能 生 物な の で す。
グ ー グ ル 地 図 う ん ぬ ん や ら
国 の 研 究 機 関 の 公 表 だ と
ホ ラ を 吹 く こ と で 精 神 勝 利 を 画 策 す る
惨 め な 無 能 生 物 が >>78 で す。 糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 このスレで言えば>>◯のような連投が糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、>>◯のように大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. 古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘 郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。 〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。 歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf.png .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>88
∩_
〈〈〈 ヽ
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/( ●) (●)\ ! !
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| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) / 朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>92-93
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| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) / こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず 反日教育に洗脳され過ぎて
蔚山市の行政公式発表である
オクヒョン第二住公アパートに
埋没されているという客観的事実すら
受け入れられず、ついに被害妄想に走った
惨めで卑しい在日ヒトモドキの憐れな姿をご覧ください
人
(( (ヽ三/) (;.__.;)
(((i ) (;;:::.:.__.;) 五毛党ぉニダぁぁぁ!
/ / (; >>95 :) < 中国共産党ニダぁぁぁ!
| :i /(;;゚\)ll(;;/゚)\ 世論誘導〜世論操作〜
l :i/ ⌒(__人__)⌒ \
< ノ( |r┬- | u > (ヽ三/) ))
\ ⌒ |r l | / ( i)))
`7ι `ー' 〈 __ /
/ |
/ |
,r――--、,,_ノ r、 三 η L___,,..-―‐-、
( 〃ヽヽ //ヾヽ )
ヽ `ヽ、 ⊂ニ;「9cm」ニ⊃ ,r'' /
ヽ } ` ー-ヾヽ// ヽヽ〃ー‐''7 /
ヽ .{ ι' 三 ヽ) {. /
〉 イ 〉 |
/ ) (_ヽ \、
(。mnノ `ヽ、_nm。 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
阿曇氏いわく名島のナは浦と同義で壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている ・囲いに接して溝がある
・溝の下流の穴ぽこにカエルの骨が残っていた
・溝に流れた液体はアルカリ性であった
・糞石は見つかっていない
・イノシシやシカの骨がある
・浅い柱穴
この条件を満たす建物とわ!
「豚便所」(ググレカス)
念願の、海外との交流を示す証拠が、ついに、ついに、発見されました!! >>97
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 このスレで言えば>>◯のような連投が糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、>>◯のように大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。
https://i.imgur.com/LZ2BRD3 古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘 郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。 .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。 .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. 郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。 イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。 じゃあ阿曇磯良=ウガヤフキアエズって主張してる>>1の下の画像も捏造やん 歴史の真実は一つだけ!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf その調子で革命を画策してるクズどもの魂胆を破壊しろ 朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る 地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼 名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
阿曇氏いわく名島のナは浦と同義で壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. 糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 古代史関連スレにトンスル妄想を連投し続けるのが糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されているウリナラファンタジーの長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 古代史関連スレの四大迷惑朝鮮系、徳島朝鮮人、糸島朝鮮人、キナイコシ朝鮮人、在日朝鮮ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む徳島朝鮮人は巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸島朝鮮人も巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナイコシ朝鮮人は首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日朝鮮ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑朝鮮系の得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘 >>114
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したと中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ 郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず
. >>122の在日ヒトモドキは執拗に玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを流布して回っていますが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された程度の価値しかありません。
1999年に学術論文「ウルサンムゴドン オクヒョン遺跡」(イ・サンギル、イ・ヒョンソク、ガク・ジョンチョル共著)が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文に在日ヒトモドキが言うような紀元前15世紀や紀元前11世紀などという記述は皆無な上、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
加えてウルサン市の公式サイトには、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社運営の「オクヒョン第二住公アパート」になっていると明記されています。
本国ですら正確な位置を把握していないという無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。
そもそも玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを始めたのは元国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。
にも関わらず、在日ヒトモドキは学術論文や行政の発表という現実から逃げ回り、グーグル地図うんぬんやら国の研究機関の公表だとホラを吹き、中国共産党への被害妄想に嵌まり込むという醜態を繰り返すしか能のない卑しくも憐れな無能生物なのです。
グ ー グ ル 地 図 う ん ぬ ん や ら
国 の 研 究 機 関 の 公 表 だ と
ホ ラ を 吹 き 、
中 国 共 産 党 へ の 被 害 妄 想 に
嵌 まり 込 む と い う 醜 態 を
繰 り 返 す し か 能 の な い
卑 し く も 憐 れ な 無 能 生 物な の で す。
グ ー グ ル 地 図 う ん ぬ ん や ら
国 の 研 究 機 関 の 公 表 だ と
ホ ラ を 吹 く こ と で 精 神 勝 利 を 画 策 す る
惨 め な 無 能 生 物 が >>122 で す。 >>123=>>114
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ >>123=>>114
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ 歴史の真実は一つだけ!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。 〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。 歴史の真実は一つだけ!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf 朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る 地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. 名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
阿曇氏いわく名島のナは浦と同義で壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている >>131
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ >>131
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ 【捏造中】 糸島トンスル妄想ファンタジー 【創作中】
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/ ../)
三三)/) 声闘でゴリ押しし続けるニダよ〜
__ 三三)/ __
/ ../) ウリたちが安曇ニダ♪ / ../)
三三)/) ∧_,,∧ ∧_,,∧ 三三)/)
三三)/ < `∀´> <`∀´ ;> 三三)/ 卑弥呼もウリナラ
ニダ ∧_,,∧ と φ) (つ φ) ∧_,,∧ 邪馬台国もウリナラ
< #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#> / ../)
/ _∧_,,∧口 ∧_,,∧ ⌒ φと_ ヽ 三三)/)
(/< `>口 < #>φ/⌒//(__ム 三三)/)
‖ ̄(l ノ  ̄( ノ ̄ ̄ ̄|| 三三)/
__`ー‐' ニダ `ー‐' 漁村という真実は感情的に
/ ../) __ 受け入れられないニダ!
三三)/) / ../)
三三)/) 三三)/) 〃∩ ∧_∧良い感じニダ♪
三三)/ 三三)/ ⊂⌒< `∀´>
`ヽ_っ⌒/⌒c
⌒⌒ >>131
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ SD-1009は海水生簀。
SM-1001はその排水溝で、
魚が逃げないよう下流にスクリーンが張られており、
スクリーン手前には、ゴミ沈殿堆積への対策として大型土坑が掘られていた。
サバ、アジ、マダイ、などの海水魚を、海水ごと輸送してきて、
海水生簀SD-1009で養殖。
運んできた海水並びに、周囲の河川水+塩添加で塩水を維持。
輸送で疲労した魚に、
桃や人糞などを餌として与えて、栄養をつけることで魚の品質を向上させていた。
桃の種や、人糞中の蛙の骨などは、魚が食べないため、下流へ流れて、
スクリーン手前の土坑に沈殿。
海水はアルカリ性なので、スクリーン手前の土坑に沈殿した骨は溶けずに残った。
SD-1009とSM-1001は、庄内3式期〜布留0式期であり、
布留0式が副葬されていたホケノ山古墳被葬者の生前活動時期に一致する。
内行花文鏡片、大量の鉄器、そして海水魚への熱烈なこだわり。
ホケノ山古墳被葬者は、北部九州からやってきた海人族であった。
今や世界中に普及した倭食の歴史を物語る貴重な遺蹟である。 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>1
SD-1009は海水生簀。
SM-1001はその排水溝で、
魚が逃げないよう下流にスクリーンが張られており、
スクリーン手前には、ゴミ沈殿堆積への対策として大型土坑が掘られていた。
サバ、アジ、マダイ、などの海水魚を、海水ごと輸送してきて、
海水生簀SD-1009で養殖。
運んできた海水並びに、周囲の河川水+塩添加で塩水を維持。
輸送で疲労した魚に、
桃や人糞などを餌として与えて、栄養をつけることで魚の品質を向上させていた。
桃の種や、人糞中の蛙の骨などは、魚が食べないため、下流へ流れて、
スクリーン手前の土坑に沈殿。
海水はアルカリ性なので、スクリーン手前の土坑に沈殿した骨は溶けずに残った。
SD-1009とSM-1001は、庄内3式期〜布留0式期であり、
布留0式が副葬されていたホケノ山古墳被葬者の生前活動時期に一致する。
内行花文鏡片、大量の鉄器、そして海水魚への熱烈なこだわり。
ホケノ山古墳被葬者は、北部九州からやってきた海人族であった。
今や世界中に普及した倭食の歴史を物語る貴重な遺蹟である。
. >>131
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ 糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 古代史関連スレ各所で執拗に連投を続けているのが糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、>考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるトンスルファンタジーの長文コピペ連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 古代史関連スレ各所で執拗に連投を続けているのが糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、>考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるトンスルファンタジーの長文コピペ連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 古代史関連スレの四大迷惑チョンの徳島朝鮮人、糸島朝鮮人、畿内朝鮮人、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む徳島朝鮮人は巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸島朝鮮人も巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込む畿内朝鮮人は首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>131
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ 郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 歴史の真実は一つだけ!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!
徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、
なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、
稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。 イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。 朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>131
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ >>131
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ 歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/e7fbldM 朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. 地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼である >>158
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ 名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば、奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる。
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社のみであり、先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている。
阿曇氏いわく名島の「ナ」は「浦」と同義であり、壱岐・対馬では今でも「浦」を「ナ」と読む習慣があるという(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)。
つまり「ナ」島は阿曇読みで、大和読みでは「ウラ」島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている。
一方で、風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で、儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は那珂川市の現人神社だとしている。
また住吉大社に伝わる住吉神代記や筑前住吉神社の社殿では現人神社こそ檍原(阿波岐原)だとしている。 >>158
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ 糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 古代史関連スレ各所で執拗に連投を続けているのが糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、>考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるトンスルファンタジーの長文コピペ連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 古代史関連スレの四大迷惑チョンの徳島朝鮮人、糸島朝鮮人、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む徳島朝鮮人は巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸島朝鮮人も巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘 郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>158
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>158
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ 歴史の真実は一つだけ!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!
徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、
なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、
稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。
https://i.imgur.com/puurb8v.jpeg .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>158
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ >>158
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ 〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)
https://i.imgur.com/6j9Vxm9.jpg 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 このスレで言えば>>◯のような連投が糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、>>◯のように大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。
https://i.imgur.com/C4BUClz.jpg
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず
. >>158
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ >>175
在日ヒトモドキは執拗に玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを流布して回っていますが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された程度の価値しかありません。
1999年に学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」(イ・サンギル、イ・ヒョンソク、ガク・ジョンチョル共著)が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文に在日ヒトモドキが言うような紀元前15世紀や紀元前11世紀などという記述は皆無な上、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
※学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」
https://library.knou.ac.kr/user/login?returnUrl=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061&__referer=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061
加えてウルサン市の公式サイトには、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社運営の「オクヒョン第二住公アパート」になっていると明記されています。
※ウルサン市公式サイト「ムゴドン オクヒョン遺跡」
http://ulsan.grandculture.net/Contents/Index?local=ulsan
本国ですら正確な位置を把握していないという無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。
玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを始めたのは元国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。
にも関わらず、在日ヒトモドキは学術論文や行政の発表という現実から逃げ回り、グーグル地図うんぬんやら国の研究機関の公表だとホラを吹き、中国共産党への被害妄想に嵌まり込むという醜態を繰り返すしか能のない
賤しくも憐れな無能生物なのです。 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの徳島朝鮮人、糸島朝鮮人、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む徳島朝鮮人は巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸島朝鮮人も巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘
https://i.imgur.com/faTpmpq
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. >>158
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ >>158
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ 郷土愛に狂う糸島工作員を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 歴史の真実は一つだけ!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!
徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、
なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、
稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度で確定。 イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。 歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸島工作員の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
現実はコチラ
https://i.imgur.com/e7fbldM.png 今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw
https://i.imgur.com/NMb6QGp.jpg
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww 地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼である 名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば
奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる。
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは
名島神社のみであり、先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている。
阿曇氏いわく名島の「ナ」は「浦」と同義であり、壱岐・対馬では今でも「浦」を「ナ」と読む習慣があるという(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)。
つまり「ナ」島は阿曇読みで、大和読みでは「ウラ」島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている。
一方で、風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で、儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている。
また住吉大社に伝わる住吉神代記や筑前住吉神社の社殿では現人神社こそ檍原(阿波岐原)だとしている。 糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 古代史関連スレ各所で執拗に連投を続けているのが糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、>考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるトンスルファンタジーの長文コピペ連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 古代史関連スレの四大迷惑チョンの徳島朝鮮人、糸島朝鮮人、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む徳島朝鮮人は巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸島朝鮮人も巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘 歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島工作員の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!
徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、
なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、
稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度で確定している。 イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。 歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸島工作員の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
現実はコチラ
https://i.imgur.com/e7fbldM.png 朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島工作員の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島工作員が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る 地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼である 名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば
奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる。
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは
名島神社のみであり、先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている。
阿曇氏いわく名島の「ナ」は「浦」と同義であり、壱岐・対馬では今でも「浦」を「ナ」と読む習慣があるという(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)。
つまり「ナ」島は阿曇読みで、大和読みでは「ウラ」島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている。
一方で、風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で、儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている。
また住吉大社に伝わる住吉神代記や筑前住吉神社の社殿では現人神社こそ檍原(阿波岐原)だとしている。 糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 古代史関連スレ各所で執拗に連投を続けているのが糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、>考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるトンスルファンタジーの長文コピペ連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 古代史関連スレの四大迷惑チョンの徳島朝鮮人、糸島朝鮮人、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む徳島朝鮮人は巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸島朝鮮人も巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居 郷土愛に狂う糸島工作員を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 反日教育に洗脳され過ぎて、蔚山市の行政公式発表である
オクヒョン第二住公アパートに埋没されているという客観的事実すら
受け入れられず、ついに被害妄想に走った
自称純日の中卒コンプレックスで藤尾信者の
惨めで卑しい帰化ヒトモドキのの憐れな姿をご覧ください
、、; (⌒ヾ ((⌒⌒)) /⌒) ), ,
、ヾ (⌒ ⌒⌒);;)/,
丶 l|l l|l / '
ファビョ━ l|l l|l ━ン!
../ i / i
..(゜\./,_ ┴./゜)(
\ \iii'/ /,!||!ヽ 五毛党ぉニダぁぁぁ!
/V,,ニ..,ニ、、u ノ(\ 中国共産党ニダぁぁぁ!
\ヽY~ω~yi ./⌒/ 世論誘導〜世論操作〜
| .|⌒/⌒:} !. く
./ ! k.;:,!:;:;r| ,! ヽ
<ニニニ'.ノ
>>203 歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島工作員の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!
徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、
なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、
稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
何 の 理 由 も な く 伊 都 国 だ っ た 地 域 が 松 浦 郡 (末 廬 国) に 取 り 込 ま れ た り、
志 摩 半 島 だ け 独 立 し た 郡 に 切 り 分 け ら れ た り す る は ず も な く、
稜 線 で 生 活 空 間 の 隔 た り の あ る 早 良 郡、
沖 と い う 生 活 空 間 の 隔 た り の あ る 志 賀 島 が 伊 都 国 だ っ た な ど 世 迷 い 言 で し か な い。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度で確定している。 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)
https://i.imgur.com/fRDLNVG.jpg
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。 歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸島工作員の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
現実はコチラ
https://i.imgur.com/e7fbldM.png 地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼である >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では方角や距離を正しく測れなかった可能性が高いが、
日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、この時点で不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が真っ先に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめろ 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば
奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる。
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは
名島神社のみであり、先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている。
阿曇氏いわく名島の「ナ」は「浦」と同義であり、壱岐・対馬では今でも「浦」を「ナ」と読む習慣があるという(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)。
つまり「ナ」島は阿曇読みで、大和読みでは「ウラ」島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている。
一方で、風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で、儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている。
また住吉大社に伝わる住吉神代記や筑前住吉神社の社殿では現人神社こそ檍原(阿波岐原)だとしている。
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
【捏造中】 糸島トンスル妄想ファンタジー 【創作中】
__
/ ../)
三三)/) 声闘でゴリ押しし続けるニダよ〜
__ 三三)/ __
/ ../) ウリたちが安曇ニダ♪ / ../)
三三)/) ∧_,,∧ ∧_,,∧ 三三)/)
三三)/ < `∀´> <`∀´ ;> 三三)/ 卑弥呼もウリナラ
ニダ ∧_,,∧ と φ) (つ φ) ∧_,,∧ 邪馬台国もウリナラ
< #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#> / ../)
/ _∧_,,∧口 ∧_,,∧ ⌒ φと_ ヽ 三三)/)
(/< `>口 < #>φ/⌒//(__ム 三三)/)
‖ ̄(l ノ  ̄( ノ ̄ ̄ ̄|| 三三)/
__`ー‐' ニダ `ー‐' 漁村という真実は感情的に
/ ../) __ 受け入れられないニダ!
三三)/) / ../)
三三)/) 三三)/) 〃∩ ∧_∧良い感じニダ♪
三三)/ 三三)/ ⊂⌒< `∀´>
`ヽ_っ⌒/⌒c
⌒⌒
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww 糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 古代史関連スレ各所で執拗に連投を続けているのが糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、>考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるトンスルファンタジーの長文コピペ連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの徳島朝鮮人、糸島朝鮮人、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む徳島朝鮮人は巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸島朝鮮人も巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘
https://i.imgur.com/6j9Vxm9.jpg
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww 郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。
https://i.imgur.com/Km8Z0re.jpeg 現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!
徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、
なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、
稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
何 の 理 由 も な く 伊 都 国 だ っ た 地 域 が 松 浦 郡 (末 廬 国) に 取 り 込 ま れ た り、
志 摩 半 島 だ け 独 立 し た 郡 に 切 り 分 け ら れ た り す る は ず も な く、
稜 線 で 生 活 空 間 の 隔 た り の あ る 早 良 郡、
沖 と い う 生 活 空 間 の 隔 た り の あ る 志 賀 島 が 伊 都 国 だ っ た な ど 世 迷 い 言 で し か な い。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度で確定している。 イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島工作員は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。 朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島工作員の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る 委奴=伊都 なんて言う馬鹿げたことを言うのは、漢字の読みを現代日本の漢字音だけしか知らない人。
奴 の発音は、古代の中国語、昔の中国語発音をよく保存している客家、福建、広東語を含めて全て “ヌ” 、“ノ” 及び”ナ”であり、”ト” と言う発音は日本にしか存在しない。
古代中国語で、”奴”の発音は”ナ”であって、(wiktionary参照)、那津(なのつ)との名前も残る奴国、博多エリアとも整合するが、伊都の発音とは全く異なる。
委奴= ウェナ(当時の中国語発音)
伊都= イトゥオ(当時の中国語発音)
魏志倭人伝にも、伊都国は”伊都”つまり、イトゥオと書かれているので、わざわざそれを委奴(ウェナ)と書くのは全く考えられない。
ちなみに委の現代中国語発音はウェイ、韓国語、ベトナム語の発音はウィ、日本語の明治以前の本来の発音はゐ(ウィ)で、伊と委の発音は各国だけでなく、日本でさえ別なもの。
https://i.imgur.com/FWBWrai.jpg
https://en.wiktionary.org/wiki/%E5%A5%B4 >>220
>委奴=伊都 なんて言う馬鹿げたことを言う・・・・
術語「委奴」はこのスレでは>>220が初出なんだが?
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