邪馬台国畿内説 Part653
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1604072328/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし >>73
このように朝から晩まで発狂してるのが
九州説 >>74
このように朝から晩まで駄々をこねてるのが
畿内説 中国の呉越から流れ着いた渡来人たちは北部九州に定住し、2世紀末頃から3世紀半ばにかけて女王を軸とした邪馬台国連合という女王国家をつくりました
3世紀頃、奈良盆地は邪馬台国連合と対立していた狗奴国連合の共同墓地でした
4世紀半ば頃、纒向の古墳造営局が破綻してしまったので、奈良盆地は再び過疎化しまいました
しばらくは空き地でしたが4世紀末頃、半島情勢の都合により多くの渡来人が若狭湾から入植してきました
しかしどこも倭人で満員だったので、人気の少ない奈良盆地の共同墓地周辺にに定住することになりました
渡来人たちは半島時代に培った統治ノウハウを活かし、ヤマト王権を爆誕させました
あとは記紀の通り >>76
中国の呉越から流れ着いた事が証明できる中国系の証拠遺跡も生活痕遺構もない
ギャグ乙
醜悪すぎる孔子学院ブタ広鼻インドシナ突顎セロイピーデ >>71
>FAQ98-A
伊勢遺跡の円周上の建物の配置は、太陽の運行を元にした農耕暦の二十四節気に対応した祭祀が行われたことが認められ(仮説)、
弥生後期にはこの二十四節気暦が列島で農耕祭祀に用いられていたとすることが可能になる。
纏向遺跡の大型建物の東西の軸線は、真東真西の東西線に対して南に5度振れており、この5度の角度は二十四節気の啓蟄初日の方位と重なる角度である。
伊勢遺跡の例や、纏向の大型建物の軸線の方位から、纏向遺跡でもこの二十四節気暦が農耕祭祀のために用いられていたとして、
箸墓古墳などの纏向古墳群やその東の山麓の大和古墳群の首長級大古墳の後円部に大型建物の中心点から軸線を伸ばすと、全て三年分の二十四節気の円環上の特定の節気がその上を通過しており、
このことから、纏向では特定の古墳について農耕関連祭祀が行われていたことが推測される(仮説)ものとなっている。
この農耕暦としての二十四節気暦は、銅鏡の裏面の図像(例えば椿井大塚古墳出土の三角縁獣文四神四獣鏡など)に配置されていると考えられる状況にある。
こうしたことから、私説としてではあるが、古墳の祭祀が農耕関連祭祀でもあることが推測され、この仮説にしたがえば、纏向の古墳を祭祀する行為は行われていたとみなすことができる。
そのようなことから、纏向で古墳の祭祀はあったとする意見を支持することができる。 ここに居れば分かるだろ呉越が流れてきていたらいつまでも争ってるわ 呉越から定着したら、呉越と書かれた金石文や木簡竹簡が出るわな .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>81
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ヽ ._ ._ ._ __| | ̄  ̄. ..| _,,,..;-‐‐`
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/ `ンく ヽ く ヽ く \ . . . | .┌‐┐ || l__ノ`ー┐
/ / l ヽヽ ヽヽ ヽ,.....| .|ヾ´ || l
`‐-、/ l__;--゙ l__;--゙ |__;--゙ ...|______| l__ノ ヽ______ノ と言うか「畿内は呉と交流してた」とか言う話を言うけどさ
普通におかしいよな
九州には魏と交流してる勢力がいるって言う設定なんだよな?
畿内から呉に行くのに九州を通過しないで行くってほとんど不可能じゃないか?
瀬戸内海は九州の目の前に出るから当然当然使えない
日本海側から行くとしても対馬海峡を通過して九州の西を通過して一気に呉に行くわけか?
太平洋側からなら大きく迂回して沖縄とか通っていくのか
遣唐使の時代ですら危険なのに完全な外洋ルートのみってあり得ないだろ
現実として成り立ちようがないと思うんだが >>77
,..-──- 、
/. : : : : : : : : : \
/.: : : : : : : : : : : : : : ヽ
,!::: : : :,-…-…-ミ: : : : :',
r、r.r {:: : : : :i '⌒' '⌒'i: : : : :}
r |_,|_,|_,|{: : : : | ェェ ェェ|: : : : :}
|_,|_,|_,|/.{ : : : :| ,.、 |:: : : :;! なるほどなるほど・・・バカはオマエだ
|_,|_,|_人そ(^i :i r‐-ニ-| : : :ノ
| ) ヽノ |イ! ヽ二゙ イゞ
| `".`´ ノ\ ` ー一'丿 \
人 入_ノ \___/ /`丶´
/ \_/ \ /~ト、 / l \
/ \/l::::|ハ/ l-7 _ヽ
/i ⊂ニ''ー-ゝ_`ヽ、 |_厂 _゙:i
/| >‐- ̄` \. | .r'´ ヽ
/ | 丁二_ 7\、|イ _/ ̄ \ 呉と交流できるって事は要は九州を普通に通過できるって事だろう
つまり魏だろうが呉だろうが、畿内が行けるって事は九州は素通りさせてるって事だろ
で、そうなると九州が魏と交渉してたと言う話が成り立たない
敵国と通じる勢力を普通にスルーしてるんだろ?
魏の同盟国としてあり得んだろ
要は「畿内は呉と繋がってる」と言うのであれば、九州は魏と交流な点そもそもしてない、もしくは畿内の支配下になってると言う事になるだけだろう >>86
,,..,,_
, -''"´ `゙''-、 ,, -‐ 、
,." `ヽ /' ヽ
l l / i おまえに言われたくない
l__ 、、、_ } { _、、、 __ l/ ...........i
{l〈 ヽ., --)-(-=-_ノ / ..:::::::::::::::|
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/ ̄ ̄ ̄ \ ホジホジ
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( 二二二ニ) ノΘ(__ ) ゙ 、∵.;|∵’,
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c に≠==ー 厶- il,/ 〃 ー/, { { i ヽ
`ート、 〃 {i ヘ. :丶ヽ: : :ヽ: : : : : : : : : : { :\
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\ 廿 ノ
\__∪ / 我らは呉から来たとする唯一の文献は、魏略だな。
太伯の子孫だとするもので、これは北部九州の倭国の倭人から魏の使節が聞いた資料から採録したもの。
倭人伝は、この太伯を大夫と書き換えている。
まあ、魏略が正確に魏使の資料を伝えている。
そして、この呉の太伯の子孫云々については、稲籾をもって北部九州の菜畑などにやってきた初期稲作民の伝承だったのだろう。 >>89
あーこれ出雲王家本にも出てたわ。
スゲーな、こう言うのに注目する人居るんだ。 >>99
また詐欺か孔子学院ブタニグロ
菜畑に呉から来た痕跡がないだろが中卒
稲籾から農具から炊飯土器から住居から衣服から何から何まで中国系とは全く異なる >>99
魏略の太伯を大夫と書き換えた倭人伝の陳寿は、倭人が呉人と血縁があるとすると困ることがあったのだな。
敵対する呉を牽制するために卑弥呼の倭国を朝貢させたのが魏の司馬氏だったのだから、その倭国の倭人が呉の血脈だったと分かる記述をすれば、司馬氏の戦略眼はゼロだったと言っていることになるからだ。
司馬氏の作った晋の官吏だったのが陳寿であるから、魏略が堂々と描いた「倭人は(呉の)太伯の子孫」を陳寿は絶対に書けなかったということなのだ。
このあたりは、歴史を楽しむ者にとって、醍醐味といえることだということになる。 >>101
淮河あたりは、呉だろ。
北部九州の倭人が、「わいら、太伯の子孫じゃけん」と証言してるのが、証拠。
証言が証拠の一つとなるのは、裁判の常識。
さる国みたいに、証言だけで裁判勝訴するわけではないがな。 103
言っとらんよ😗
その言ったとされる倭人とやらが北九州にいただのって証拠は上がってない >>101
伽耶で倭人の舟に乗る時、置いて行けと水主に言われたんだよ。 まぁたいつか神獣鏡で魏鏡だと平気で嘘つく詐欺師が復活するんだろうなぁ・・
いつ見てもあの嘘は精神病レベルww >>104
魏略に用いられた倭国関連資料は、倭国の魏への朝貢の前折衝のために倭へ渡った魏の使節団が作成した報告書に記述されていたものだろう。
使節団による報告書の存在については、この板の論者はおおむね認めていることだよ。 >>103
>淮河あたりは、呉だろ。
三国時代の地図さえ全く知らない
九州説の無知蒙昧ぶりに
正直、驚愕 >>105
記憶からの再現で幾らでも日本で作れるだろがスットボケブタニグロ
衣食住に関する生活から稲作に至る文物や衣類や住居、稲籾の粒種に至るまで
何から何まで中国大陸とはさっぱり異なるものが菜畑には伝わっている
呉越のシンボルだった龍も鼎すら伝わってねえ >>107
>使節団による報告書の存在については、この板の論者はおおむね認めていることだよ。
なんの証拠もないことを認めちゃう人って
どんな人?
魯鈍? >>107
前スレにも書いたけど、もう少し詳しく書いてみた。
どうも魏志倭人伝は、書かれてる文章の時系列が少しおかしい部分があるらしい。
それが長官を紹介する下り。
南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日弥馬升 次日弥馬獲支 次日奴佳鞮 可七万余戸
「南、邪馬壱(ヤバヰ)国に至る。女王の都である。水行十日、陸行一月。官にイシバがある。次はビバショウといい、次はビバクワシといい、次をドカテイという。およそ七万余戸。」
・伊支馬・・まさかのイクメ?これが本当なら、イクメは二度、別の名前で魏書に載ったことになる。(イサチの方は通常使わない偽名だったらしい)
・弥馬升・・ミマツヒメ(オオヒビ大王の娘)
・弥馬獲支・・水口宿祢らしい
・奴佳鞮・・額田宿祢。
この並びは、物部イクメ(イクメイリヒコイサチ)が奈良入りしてから、大王になる直前の状態でないと説明が付かないらしいのだ。
額田宿祢が役職についている。
東征の際に魏の張政は伊都国から動かなかったらしいけど、部下か張政が、東征軍に随伴して奈良入りしていないとどうしてもここは書けないらしい。
額田は地名でもあって摂津の国の、今で言う大阪府東大阪市山手町あたり。額田駅がある。
魏書を纏めたときは紙切れのメモから書き起こしてるだろうから、こうなってもおかしくはない気がするが。
今までヤマトを示す地名が全くないというのが魏志倭人伝の通説であったが、個人名にちなんだ地名なら追跡が出来るようになるかもしれない。
とある本には、ここに出てくる卑弥呼は第三の卑弥呼で、磯城王朝第十代ヒコイマス(彦坐)の娘、サホ姫の事を指すらしい。
とある本の伝承には、ミマツヒメは熊野系物部氏の子供、オオヒビの娘で西軍側に合流したとされる。
そのミマツヒメの仲介で卑弥呼のサホ姫と話し合いの場が持て、一時休戦協定が交わされたとされる。
畿内説の突破口になるかもしれない妄想がww >>744
このように朝から晩まで、「南→東」や「冢→前方後円墳」は、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘付き騙しをして、
発狂してるのが
大和説 >>111
自己レス。
魏志倭人伝の邪馬壱国に至る道程で、おかしなところと言えば
歩数で書かれているところから急に水行とか記述が変化する処が挙げられる。
加えて、東征軍が摂津入りした時期は、和邇側(石上神宮あたり)に陣取ってたサホ彦
と、サホ彦に足止めされてたイクメが、生駒山で対峙してた時期からミマツヒメが合流して戦線が東に移動した時期。
この頃には吉備国はやられちゃっており、瀬戸内海ルートが通行可能になっていた。
つまり、距離の書き方が異なるほうの片方は、実際の奈良入りの道程である可能性が出てきた。 >>114
自分で書いてて何ですが、もうどうしましょうかねw >>110
>魯鈍?
いやいや。
邪馬台国超絶マニアきちだよ。 >>109
龍はミズチに化けたんだから、いいじゃないか。
一方、鼎なんて、窯がなけりゃできない代物。
野焼きじゃ、足がすぐ折れてしまう。
縄文社会だった菜畑で、鼎が出てくるわけないよ。 >>117
じゃあ、窯ごと伝えりゃイイだけじゃないの
馬鹿?
そもそも鼎は窯が普及していない7000年前には既に黄河と長江の下流域で見られる
逆だ逆逆、逆だ逆
鼎はむしろ靱性の高い野焼きの方が向いている器種なんだよ
硬くなればなるほど土器は脆くなり、足がすぐ折れる
で、菜畑に龍やミズチがどこにあんの?
龍は紀元後の1Cに楽浪郡から伝わったんだから倭人伝の時代には既にあるけどな
菜畑にはない >>118
窯造りの技術者でない水稲農民が、窯を造れるわけな〜いじゃん。
アタマ、ワイテル?
また、中国では早くから野焼きの燃料の上に土を被せて焼く温度高める工夫をしていたから、野焼きより少し高い温度で焼けた。
鼎などを焼けたのはそのため。
さらに、龍と言ったって縄文人には、何、それよ。
ミズチという言葉を覚えるのに、だいぶんかかったということ。 >>108
まあ、太伯の呉は今の蘇州あたりだが、その後、呉人の領域は淮河下流域あたりまで伸びていた。 >>120
で、3世紀頃の三国時代になると呉は魏の強敵だったところへ、その呉の始祖の血脈だと倭人が胸張ったわけなんだけど、
魏に朝貢した倭国のことを書くについて陳寿は、「いやあ〜、それ、呉を牽制しようとして倭国と同盟関係を進めた司馬氏にとって都合悪すぎじゃん」と忖度して、
呉の「太伯」の子孫という部分を書き換え、「大夫」と音のよく似た文字に変えてしまったというわけなんよ。
だから、倭人伝を正確に読むということは、こうした裏話もしっかりと把握しておくということだね。
と、寿陳先生もおっしゃっておられる。
まあ、がんばりたまえ。 >>120
>まあ、太伯の呉は今の蘇州あたりだが、その後、呉人の領域は淮河下流域あたりまで伸びていた。
そりゃ戦国時代の最大版図のことだ
そんな暴論が通じるなら「淮河下流は越だった」も「楚だった」も成り立ってしまう
中国人にそんな常識はないから徐国の名が記憶されて徐州と呼ばれてるんだ
九州説はデタラメすぎる 水口宿祢(みまくち?)
奈良県天理市水口神社 式内社 水口宿祢
『神社覈録』「祭神大水口宿禰歟」
『特選神名牒』「祭神大水口宿禰」
『風俗調』「祭神 大水口宿禰」 ミマツヒメ
奈良県奈良市三松
生駒山地の更に東。うーむ。 >>83
邪馬台国は九州全域を支配していたわけではなく、南半分は熊襲でしょ
ならば南九州→四国→紀伊半島で行ける >>122
デタラメなのは畿内説のほう
纏向が邪馬台国だなんて証拠は何一つないのに
「墳墓がデカいから邪馬台国」
「炭素年代測定法によって邪馬台国と同時代のものだとわかった」
って、その程度の根拠しかない
邪馬台国とほぼ同時代に、デカい墳墓が作られてるからって
なんでそこが邪馬台国になるんだよ
そんなもの、「邪馬台国」って名前だけを魏志から剽窃したキメラ学説だろ ___
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\__∪ / そうだな、
知識人たる学者が著名国家・著名人の名前を勝手に使ったんだから著作権・商標権侵害みたいなものだ。つまりパクリ学者。 またテスト投稿
>自己レス。
魏志倭人伝の邪馬壱国に至る道程で、おかしなところと言えば
歩数で書かれているところから急に水行とか記述が変化する処が挙げられる。・・・
関係がない。
不彌國や、その南約0里の邪馬壹國で、萬二千余里がほぼ終わっており、
「水行二十日」は、不彌國からの側副傍線行程國への説明であり、
「水行十日陸行一月」は、
行程の説明の目的地であった「女王之所都」の説明になるから、
郡から女王之所都への所要日数説明である事になる。 歴史学者が歴史的著名国家・歴史的著名人の名前を勝手に使ったんだから歴史著作権・歴史商標権侵害みたいなものだ。
つまり歴史パクリ学者による歴史アカハラ またテスト投稿
>>116
>いやいや。邪馬台国超絶マニアきちだよ。
いやいや、大和説者らは、
邪馬台国とか畿内とか存在もしなかった嘘つき騙し文言を使う異常者であり、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの、
超絶・・・・アホ詐欺師ばかりだよ。 >>119
アタマ湧いてんのは詭弁チンコロのおまえだろが馬鹿
窯作って土器を焼いてたのはむしろ農民だぞカス
古代は家も土器も衣類も自分たちで作るんだぞ
窯がなくても野焼きで粗製の鬲鼎なんか幾らだって作れるし
それが証拠に青森では鬲型土器が30点ほど出土している
交流していた沿海州でも宝器だったものを得て、それを青森でコピーしたものだがな
この時点でおまえの詭弁などすべて破たんしている
7000年前から江南にある竈と釜だって菜畑には伝わっていない
すでに7000年前から住居に設置する竈と運べる携帯用の竈の両方あった
それ以前に土壁の中国系住居も菜畑にはない
それに菜畑に龍なんか伝わっていない
伝わっていれば土器画があるはずだ
農民の漢服だって菜畑には伝わっていない
中国大陸の農民の漢服にはズボンがあった
日本にズボンが伝わるのは古墳期以降の話だ
おまえの詭弁など全て破たんしている またテスト投稿
>>125
>邪馬台国は九州全域を支配していたわけではなく、南半分は熊襲でしょ
ならば南九州→四国→紀伊半島で行ける
関係がない。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
魏の役人たちは、女王國(≒倭國)はほぼ九州島付近だとしている事になるが、
女王之所都の邪馬壹國は、
萬二千余里が不彌國でほぼ終わっていてそのすぐ南にある事になるから、筑紫付近であり、
また、南九州の投馬國へは魏の役人たちは行っていないので、
「南九州→四国→紀伊半島」ルートなど、書かれていない。 だから呉の商人が九州と中国の方を船で行き交ったんだって😗 呉は兵を出したが判りませんでしただよ、中国に直接行くには賭けだって書いて有るだろ、大体仙人は南には行かないの、ひ・が・し。南に行ったら笑われるわ >>134
つまり畿内は畿内式土器の生産地であり、一時期よく売れた事があるというだけですね
わずかですが九州でコピー品が出回っていたとか
魏志倭人伝によれば、大倭が市場を設け、各国が有無を交易していたんですよね 太伯之後を自称する倭人の風習の黥面の痕跡である
黥面土器は九州にはほとんど無くて瀬戸内と伊勢湾岸に多い
卜骨も九州は2カ所だけで本州の関東までの広範囲に圧倒的に多い >>136
してる訳がないだろっての
長江下流域は3000年前から原始青磁のメッカだぞ
呉の商人が来て一番の商品を売らない訳がないだろっての 都民は東京以外でどこ出身?
1位 神奈川
2位 千葉
3位 埼玉
4位 北海道
5位 大阪
以下その他
大阪人は大阪以外でどこ出身?
1位 兵庫
2位 国外 ←(笑)
3位 京都
4位 奈良
5位 鹿児島
以下その他
愛知県民は愛知以外でどこ出身?
1位 岐阜
2位 三重
3位 静岡
4位 東京
5位 大阪
以下その他
(国立社会保障・人口問題研究所) >>127
>邪馬台国とほぼ同時代に、デカい墳墓が作られてるからって
なんでそこが邪馬台国になるんだよ
その古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられるから
(通説) 九州王朝説とは秦王国の事か57年か住むこと7、80年の引っ越す前の国だろ しかるに帥升は奈良に来たか?或いは半島から北九州に来たか?という事だろ。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず
. どちらにしろその後は前方後円墳時代であり倭王武の毛人蝦夷扱いも問題が無い。倭人伝ではあるが倭人支配の国とは言い難い。 >>153
朝鮮ヒトモドキは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻されました。
そして1999年にイ・サンギル氏、イ・ヒョンソク氏、ガク・ジョンチョル氏らによる学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文には、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
加えてウルサン市の公式サイトには、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社運営の「オクヒョン第二住公アパート」になっていると明記されています。
いずれにしても韓国本国ですら正確な位置を把握していない程度の遺跡であることは明白で、その無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。
何より本国唯一の学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」に紀元前15世紀や紀元前11世紀という記述は皆無なのです。
これらの主張をしたのは元国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。
にも関わらず、在日ヒトモドキは国の研究機関の公表だとホラを吹き始め、以前にも増して現実を直視することから逃げ回っているのです。
※玉蟾岩土器とは
1998年に青森県の大平山元遺跡から出土した土器が2008年の炭素年代測定で約1万6,500年前の世界最古と公表されました。
しかし突如として翌年に中国湖南省の玉蟾岩洞穴から件の土器が発掘され、炭素年代測定で約1万8,000年前の物だと主張。
しかし、ロシア国立博物館から再調査の依頼を受けた途端に盗難に遭い、忽然と姿を消してしまったと言い張っています。
出典元:
学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」
https://library.knou.ac.kr/user/login?returnUrl=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061&__referer=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061
ウルサン市公式サイト「ムゴドン オクヒョン遺跡」
http://ulsan.grandculture.net/Contents/Index?local=ulsan >>150
>その古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、
その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていた
ことが考えられるから(通説)
ダメだな。
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
九州倭國の「東征毛人五十五國」があった事や、
大和は、日本國者倭國之別種也の倭種の旧小国の附庸國であって、
唐代になって、九州倭國を併合吸収継承した、
という事を隠蔽しているから、
「通説」は、嘘吐き騙しの詐欺だ。 >>157
> それ、ぜんぶ素人じいさんの空想だろ?
畿内説がな >>130
>不彌國や、その南約0里の邪馬壹國で、萬二千余里がほぼ終わっており、
だと
会稽よりはるか北だから
完全にあり得ないトンデモ珍解釈だな >>127
>邪馬台国とほぼ同時代に、デカい墳墓が作られてるからって
>なんでそこが邪馬台国になるんだよ
そこが倭国の権力中枢だとわかるから
に決まってるだろ
九州説って白痴ですか? >>142
>黥面土器は九州にはほとんど無くて瀬戸内と伊勢湾岸に多い
『「土製仮面」の使われた時期と地域の偏りから、今の状況では四国東部から発生』
「土製仮面」はこれまでに全国で約120点見つかっているが、出土地点は阿波国の「矢野遺跡」が最西端に位置する。
同遺跡は縄文時代から中世にかけての県内有数の複合遺跡で、調査の結果、「土製仮面」は縄文時代後期(約4千年前)のものとみられる。
この「土製仮面」作成時期も国内では最古のクラスにあたる。「貝製仮面」は5000年前の物が九州からも発見されているようだが、
土製のモノはこれが最古級である。
「土製仮面」の使われた時期と地域の偏りから、今の状況では四国東部から発生し、近畿・中部・東北方面へと伝播していったことが明確である。
用途としては、土偶、石棒などが同時に出土している事を考えると、祭祀の時に使われたと考えるのが妥当である。
また、仮面表面の多数の穴の跡は、後年の魏志倭人伝にも「男子無大小,皆面黥面文身」とあるように入墨(文身)を表したものであろう。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>163
という理由は?
そんなオウム返しして、九州説って幼稚園児? 小さな日本列島といえど馬のいない時代だと広大な土地だ
政権統一なんてしてたら逆に脆弱な国家になってしまう
というか物理的に無理だな >>159
>>不彌國や、その南約0里の邪馬壹國で、萬二千余里がほぼ終わっており、
>だと 会稽よりはるか北だから
完全にあり得ないトンデモ珍解釈だな
いや、「計其道里,當在會稽東治之東」は、陳寿の「女王國の位置推定」の文であり、
ほぼ九州島付近を指しており、問題はない。
この大和説男(おそらく東大理系博士号自称男」の、
「完全にあり得ないトンデモ珍解釈」だな >>166
>いや、「計其道里,當在會稽東治之東」は、陳寿の「女王國の位置推定」の文であり、
>ほぼ九州島付近を指しており、問題はない。
それがほぼ九州島付近を指しているという思考は、間違いなく脳に問題がある >>155
おまえの正体
孔子学院(こうしがくいん)とは、中華人民共和国が諸外国の大学などの教育機関と提携し、
中国語や中国文化の教育及び宣伝(プロパガンダ)、中華人民共和国との友好関係醸成を
目的に設立した中国政府の機関である。中国共産党中央統一戦線工作部の強い影響下に
置かれている。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90%E5%AD%A6%E9%99%A2
. >>168
ほら、幼稚園児なオウム返しをする九州説 ま、よろず理由説明の出来ない九州説の面々が知能サル並みなのは自明なのだ >>161
>いや、そこが倭国の権力中枢だとわかるからに決まってるだろ
いや、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、九州倭國の「東征毛人五十五國」があった事や、
大和は、日本國者倭國之別種也の倭種の旧小国の附庸國であって、
唐代になって、九州倭國を併合吸収継承した、
という事は、史料事実や史料実態である。
大和説者って白痴ですか? >>172
ま、よろず理由説明の出来ない大和説の面々や、
スレ主や東大理系博士号自称男らが、
知能サル並みなのは自明なのだ >>176
こんなオウム返しする九州説の知能はサル以下で鳥並み 畿内説の理屈だと、東海は南に位置する
纏向の出土品を見ると敵国である狗奴国と仲が良かったという矛盾
■纏向遺跡で出土した飯炊き土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
■結論
嘘つきは畿内説のはじまりです >>160
鎌倉時代以降の九州の支配層は下向した東国武士団なので
古人骨から核DNAを抽出しないと古代の分布はわからない >>178
>畿内説の理屈だと、東海は南に位置する
>纏向の出土品を見ると敵国である狗奴国と仲が良かったという矛盾
どこが矛盾?
南ならぜんぶ狗奴国だなんて理屈は無いし、中伊勢が狗奴国だという理由もない
そうだとしても、狗奴国の領民が卑弥呼の宗教にハマったから狗奴国王と仲が悪いのかも知れないし、事実信長も家康も領内の一向宗や本願寺と戦争してる
九州説はあたま悪すぎるだろ >>180
じゃあ纏向に対し、狗奴国はどこなんだよ? >>178
接点がない場所とは戦争にならんだろ
日本とエジプトが戦争になるか?
戦争になるのはだいたい隣国同士 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>183
日本とエジプトは民族も違うので
倭国と狗奴国の関係とは違いましょうな >>183
>戦争になるのはだいたい隣国同士
だから、
邪馬台国=卑弥呼を君主とする領域:県北 吉野川流域・鮎喰川流域
狗奴国=卑弥弓呼を君主とする領域:県南 勝浦川流域・那賀川流域・海部川流域 だと何度言えばw @阿波 >>182
>畿内説とくに纏向説はあたま悪すぎるだろ
理由の言えない罵声はあたま悪い証拠
ブーメランだったな >>181
>じゃあ纏向に対し、狗奴国はどこなんだよ?
江濃尾遠と東山道方面だな
纒向では三世紀前半から前方後円>前方後方の序列がある
これが三世紀末から全国に広がる
これで、いつ勝負がついたか判かる >>189
理由の言えない罵声はあたま悪い敗者の証拠
九州説ブーメラン連投しすぎ >>162
弥生後期の鯨面土器の目から流線が出る意匠と、縄文後期の土製仮面の意匠はかなり異なっているようだ。
そうした土製仮面のうち縄文後期の三貫地貝塚の仮面が目からでる流線を付けていて、この三貫地貝塚の土製仮面は鯨面土器と同じ意匠になっているのがわかる。
弥生後期の鯨面土器は、縄文後期の三貫地貝塚の土製仮面の意匠を引き継ぐものといえるのではないか。 キナイコシが嘘つきだという事には誰も異議なしですね
可決します
190 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2020/11/07(土) 15:37:25.27
略して
畿内越は嘘つきです >>193
■纏向出土の木製仮面に入れ墨はありません
『これまで日本列島における木製仮面の最古の事例としては、7世紀初頭頃の神戸市宅原遺跡出土例が知られていたが、今回の事例はそれを大きく遡る時期に位置付けられるものである。
考古資料に見られる仮面としては、縄文時代では土製仮面が知られており、このほか鼻・口・耳などの土製品の存在から、木製・皮製などの仮面が存在したと推定されている。
また奈良時代以降では、大陸より伝わった舞楽で使用されたと考えられる仮面が複数知られている。
弥生時代においては、東日本を中心に存在する土偶形容器に仮面状の表現が見られ、土器絵画にも仮面を装着しているとみられる人物が描かれる例が存在する。
しかし弥生時代の仮面の実例はほとんど知られておらず、古墳時代においても確認されていなかった。』 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>194
理由の言えない罵声はあたま悪い敗者の証拠
九州説は無惨なブーメラン連投しすぎ 纏向出土の木製仮面はわずかに赤色顔料が付着していたから
当時は「朱丹塗」だったかもしれない >>134
ワイテルのはてめだ。
各村に窯があったなんて考古知見はない。
窯が作られる時代には、土器づくりは専門化しており、野良仕事に忙しい農民は自分で土器をつくっておらん。
ウソもたいがいにしろ。
青森のは祭祀用だろ。
実用のものじゃね〜よ。
その青森のものも、それ以上に広がって実用に用いられたという痕跡はない。
痕跡がないのは、菜畑もおんなじ。
ということは、青森のは特殊例であって、普通のパターンとしては、そんな土器はどこにも見られんということよ。
菜畑へはその土器は来なかった。
それは、青森以外のところにみられんのと同じなんだよ。
たいがいにしてよ。 >>198
ベンガラでしょう
黒塚の朱も殆どがベンガラだった >>198
>纏向出土の木製仮面はわずかに赤色顔料が付着していたから
だから、纏向遺跡「朱塗りの盾」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw @阿波 >>150
その「共通の認識」は、いつ作られ、どれくらいの期間で全国に定着したの?
今みたいに通信手段とか発達してなかった時代だよ?
日本の前方後円墳が任那に普及するまでに約200〜300年くらいかかってるよな >>199
詭弁チンコロ乙
>野良仕事に忙しい農民は自分で土器をつくっておらん
↑で、こうウソブいている考古学者の論文は?
華南ブタ広鼻ブラックのおまえ >>161
倭国=邪馬台国、は確定なんですか?
女王国ってなんですか? またテスト投稿
>という理由は?
「何に関する理由」なのか?をはっきり言わず、
何が「?」なのか?もはっきり言わず、
そんなオウム返しのような投稿をして、
大和説って幼稚園児? またテスト投稿
>>165
>小さな日本列島といえど馬のいない時代だと広大な土地だ
政権統一なんてしてたら逆に脆弱な国家になってしまう
というか物理的に無理だな
ふーん、馬か。成程な。
だから、船を操って、海岸沿いの「国生み神話」が多かったんだな。 またテスト投稿
>>165
>小さな日本列島といえど馬のいない時代だと広大な土地だ
政権統一なんてしてたら逆に脆弱な国家になってしまう
というか物理的に無理だな
ふーん、馬か。成程な。
だから、船を操って、海岸沿いの「国生み神話」が多かったんだな。 >>193
そこで問題となるのが、この縄文後期の三貫地貝塚の土製仮面の目から出る流線や、弥生時代後期の目から流線が出る鯨面土器の流線が、果たして入れ墨なのかどうかという点。
実際には、このような流線が目から流れ出る入れ墨の意匠はなかったのではないか。
この流線は、目から放出されるエネルギーを描いたものである可能性もある。
有名な火炎土器にも円空の輪から流線が出る意匠が用いられていて、三貫地貝塚の土製仮面の目から出る流線と同じ意匠だとみることができる。
こうしたエネルギーの放出を表したとみられる流線は銅鐸の流水紋にもみられ、この銅鐸の流水文もエネルギーの放出を具象化したものではないか。
このようにみると、弥生後期の鯨面土器の目から流線が出る意匠は、実際に顔面にほどこした刺青の意匠ではなく、目から放出されるエネルギーを具象化したものとみなすことが可能になってくる。 またテスト投稿
>>171
>ほら、幼稚園児なオウム返しをする九州説
ほらまた、まるでトランプやヒトラーや安部や菅らと同じように、
幼稚園児的な人種差別的アジテートをする大和説者 >>204
倭国=「忌部一族」が集落を形成する領域:卑弥呼時代の倭国は邪馬台国+狗奴国+讃岐+淡路島南部
※女王国=卑弥呼の住む集落:鮎喰川下流域
邪馬台国=卑弥呼を君主とする領域:県北 吉野川流域・鮎喰川流域
狗奴国=卑弥弓呼を君主とする領域:県南 勝浦川流域・那賀川流域・海部川流域 @阿波 またテスト投稿
ま、よろず理由説明が出来ず、
トランプやヒトラーや一部マスコミらのようなアジテートで、
いくら国民や世界を騙そうとしても、
大和学者らの面々が、知能サル並みなのは自明なのだ 文末に @阿波 って書いてあると、読んで損した気分になる
読む前に文末確認しないとダメだな またテスト投稿
>>177
こんなアジテーションで、
「オウム返し」をし、
「オウム返しされ」をされている大和説者の知能は、
サル以下で鳥並み >>212は、倭国(阿波)に対して、何一つ論理的な反論ができないw @阿波 また投稿を拒否されたので、テスト投稿
>>184
>纒向に対して狗奴国は足高尾遺跡群
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、
「狗奴国は足高尾遺跡群」論は、ダメでしょうね。 >>1
古墳出現111期段階って何ですか?
何期まであるの? またテスト投稿
>>188
>>畿内説とくに纏向説はあたま悪すぎるだろ
>理由の言えない罵声はあたま悪い証拠 ブーメランだったな
「畿内」は存在もしなかったは文言だし、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの、理由の言えない罵声は、
あたま悪い証拠
ブーメランだったな >>203
窯が造られる前の時代には、村総出で一日で土器焼いたの。
だから、農作業の支障にはならなかった。
しかし、窯の場合は、土器が仕上がるまで一週間はかかる。
その間、農作業を停止するわけにはいかんから、窯による土器づくりが専門化したわけよ。
村の者は、その窯で職人が造った土器を買い入れたということ。
これは、学者の論文待つまでもなく、一般常識だからな。 またテスト投稿
>>191
>>じゃあ纏向に対し、狗奴国はどこなんだよ?
>江濃尾遠と東山道方面だな
纒向では三世紀前半から前方後円>前方後方の序列がある
これが三世紀末から全国に広がる これで、いつ勝負がついたか判かる
これもダメだな。
勿論、纏向の前方後円墳や前方後方墳の始まりは3世紀末以後であるし、
「江濃尾遠と東山道方面」は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の地域であるし、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」である、という事からもダメ。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww またテスト投稿
>>192
理由の言えない罵声はあたま悪い敗者の証拠
大和説は、鸚鵡返しされ投稿や、ブーメラン投稿の連投しすぎ またテスト投稿
>倭国=邪馬台国、は確定なんですか?
「邪馬台国」なんて文言は存在もしなかった嘘つき騙し文言です。
>女王国ってなんですか?
陳寿は、卑弥呼や壹與を王として共立?した国や地域を「女王國」と呼び、
更に、その支配下や影響下の国々全体を「倭國」と呼んでいたようです。 >>204
倭国=「忌部一族」が集落を形成する領域:卑弥呼時代の倭国は邪馬台国+狗奴国+讃岐+淡路島南部
※女王国=卑弥呼の住む集落:鮎喰川下流域
邪馬台国=卑弥呼を君主とする領域:県北 吉野川流域・鮎喰川流域
狗奴国=卑弥弓呼を君主とする領域:県南 勝浦川流域・那賀川流域・海部川流域 @阿波 >>199
誰もおまえのウソサギ詭弁なんか聴いてねえんだゴミカス
>野良仕事に忙しい農民は自分で土器をつくっておらん
↑で、こうウソブいている考古学者の論文は?
一般常識なんだろ?
早く持ってこいよ華南 黒人形質ブタ広鼻原人のおまえ >>180
>どこが矛盾?
大和説は、始めから全部矛盾。
>南ならぜんぶ狗奴国だなんて理屈は無いし、
狗奴國は、女王之所都の地よりも南にあるし。
>中伊勢が狗奴国だという理由もない
中伊勢は、始めから「正北抵新羅の倭國の中心の北部九州」の南でなければならないし。
>そうだとしても、狗奴国の領民が卑弥呼の宗教にハマったから狗奴国王と仲が悪いのかも知れないし、
事実信長も家康も領内の一向宗や本願寺と戦争してる
狗奴國王は「卑彌弓呼」で、卑弥呼と類似名を以っているから、
同じ氏鏃の中の王であった可能性が高いし。
大和説者や東大理系博士号自称男らはあたま悪すぎるだろ >>184と>>185
>纒向に対して狗奴国は足高尾遺跡群
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
どちらも、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、バツね。 >>178
狗奴国の土器が多いのは当然。
狗奴国は物部にやられた前政権の大彦の国。
物部氏の血が入ってない磯城王家。
狗奴国が旧政権。 >>188
>理由の言えない罵声はあたま悪い証拠
ブーメランだったな
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しに関して、
理由の言えない大和説者らの罵声は、あたま悪い証拠
ブーメランだったな >>134
かなり前のスレで三足土器なら青森のがあるって教えてやったのにまだ自説連投してやがるアホ。
それと龍蛇信仰なんて古いものは既に出雲がそれをやってた。
渡来系そのものが龍蛇を守護神としてはいなかっただけの話。
お前の思い込みは阿波と同レベル >>229
>物部氏の血が入ってない磯城王家。
どのみち、「忌部一族」なんだから。 @阿波 魏志倭人伝の行程はつぎはぎだよ
■中国に残っていた記録を転写した部分
帯方郡〜狗邪韓国〜対海國〜一大国〜末廬国〜伊都国〜奴国〜不弥国 で合計約12000里
■卑弥呼時代に朝貢に来た倭人に確認したときの中国側の記録
帯方郡〜投馬国(半島南部)〜邪馬台国(北部九州) で12000里(水行30日+陸行1日)
■考えられること
・海洋民族である倭人にとって渡海と水行の区別は無く、船で移動することを水行と表現していた
・倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国と呼び、北部九州側を邪馬壹(臺)国と呼んでいた
・倭人は「里」を知らず「日」を使っていた(隋書倭国伝に記載あり) >>231
アホはおまえだよおまえ
青森にあって、何で菜畑に三足土器がないの?
青森にあって、何で渡来系弥生人のメッカ、山陰&九州北部に三足土器がないんだ?
説明してみろよ
で、紀元前に龍が伝わっていた証拠は?
早く言えよ詭弁チンコロ >>229
>狗奴国の土器が多いのは当然。
狗奴国は物部にやられた前政権の大彦の国。
物部氏の血が入ってない磯城王家。狗奴国が旧政権。
狗奴國に関しては、
魏志倭人伝の「魏の役人らの実地の見聞計測の記録の狗奴國」が最も信頼性が高く、
後代の5世紀の後漢書の倭の記載は、殆ど大半が、
「魏志倭人伝の記載の盗用」や「自己解釈に拠る書き換え」になっている、
半分偽記載であり、3世紀の倭の情報根拠にならないもの。
だから、狗奴國は、卑弥呼の女王國の「南」にあって、
その王の卑彌弓呼は卑弥呼と同じ部族であったらしい、という事までしか判らないもの。
従って「狗奴國=磯城王家」説は、ダメ。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず
. >>234
アホちゃう?
菜畑から秋田まで、日本海沿岸域では青森の鬲形土器はまったく出てないの。
出雲でも出てないわ、北陸でも秋田でも出てないんだから、出てないほうが正常なのよ。
青森が特殊というわけ。
その特殊事例を普遍的に広げて、どこでも出るのがあたりまえと考えるのは脳内劇場よ。
なぜ青森だけで出て、ほかではまったく出てないのか、それを考えろよな。 >>237
だから三足土器のメッカ、呉越から弥生人が菜畑や山陰&九州北部に来たんだろ?
だったら、何で青森にあって菜畑に三足土器がないの?
何で青森にあって渡来系弥生人のメッカ、山陰&九州北部に三足土器がないんだ?
説明してみろよ
で、紀元前に龍が伝わっていた証拠は?
早く言ってみろよウソサギ詭弁チンコロ >>238
ワンタン、お前は誰にも話しかけられないと同じ事を連騰してるだけの無能だろ?
たまに話しかけられた時にだけみっともなく騒ぐな。
このスレに有益な事、このスレに関係のない話はもうやめろ。
モノホンのクズだな。いいか?畿内説に関係する話は持ってねぇのか?
ねぇしこれからも態度は変えないというのなら自分のスレを作って同じコピペをそこで連投しテロや >>239
んなコト聞いてねえ
だから三足土器のメッカ、呉越から弥生人が菜畑や山陰&九州北部に来たんだろ?
だったら、何で青森にあって菜畑に三足土器がないの?
何で青森にあって渡来系弥生人のメッカ、山陰&九州北部に三足土器がないんだ?
早くみんなが納得いくように説明してみろよ
で、紀元前に龍が伝わっていた証拠は?
早く言ってみろよウソサギ詭弁チンコロ ニュー速のキナイコシよりアホな畿内説らしき奴が来てたなw ニュー速+にだね
キナイコシよりアホな畿内説らしき奴が来てたw 普段は同じことしか連投するくらいしか能のない病気持ちがこういうのにはストーキングだもんな
別の人間が書いてるのに気づきもしねぇ馬鹿w >>240
お前さんの意味のないコピペ。
規制を掻い潜るためのあの悲しいレベルの・の位置w
あれで自分の惨めさを感じないんだからスゲーよな
スレの住民に八つ当たりしてんじゃねーよ >>275
んなコト聞いてねえ
だから三足土器のメッカ、呉越から弥生人が菜畑や山陰&九州北部に来たんだろ?
だったら、何で青森にあって菜畑に三足土器がないの?
何で青森にあって渡来系弥生人のメッカ、山陰&九州北部に三足土器がないんだ?
早くみんなが納得いくように説明してみろよ
で、紀元前に龍が伝わっていた証拠は?
早く言ってみろよウソサギ詭弁チンコロ >>245
んなコト聞いてねえ
だから三足土器のメッカ、呉越から弥生人が菜畑や山陰&九州北部に来たんだろ?
だったら、何で青森にあって菜畑に三足土器がないの?
何で青森にあって渡来系弥生人のメッカ、山陰&九州北部に三足土器がないんだ?
早くみんなが納得いくように説明してみろよ
で、紀元前に龍が伝わっていた証拠は?
早く言ってみろよウソサギ詭弁チンコロ >>247
別に俺はお前と話してたわけじゃねーもん。
お前がウザいと書いただけ。
それが証拠とかなんとかで返したらイミフだろ。
マジでキモいなお前。
それ、自分は気持ち悪い人ではありませんと言うのが反論だろ?やってみろよ病気持ち >>248
んなコト聞いてねえ
だから三足土器のメッカ、呉越から弥生人が菜畑や山陰&九州北部に来たんだろ?
だったら、何で青森にあって菜畑に三足土器がないの?
何で青森にあって渡来系弥生人のメッカ、山陰&九州北部に三足土器がないんだ?
早くみんなが納得いくように説明してみろよ
で、紀元前に龍が伝わっていた証拠は?
早く言ってみろよウソサギ詭弁チンコロ >>249
どうせなら俺様がキモい証拠でも出してみろとか言ってみろや >>249
俺様がキモいと言うみんなが納得する証拠でも出してみろやとか言ってみろ キモいと言われた時点で論点はキモいかどうかだろキモ男。
お前人間なのか? >>250-253
んなコト聞いてねえ
だから三足土器のメッカ、呉越から弥生人が菜畑や山陰&九州北部に来たんだろ?
だったら、何で青森にあって菜畑に三足土器がないの?
何で青森にあって渡来系弥生人のメッカ、山陰&九州北部に三足土器がないんだ?
早くみんなが納得いくように説明してみろよ
で、紀元前に龍が伝わっていた証拠は?
早く言ってみろよウソサギ詭弁チンコロ >>255
俺はお前に何も聞かれてねえんだよキモ男。 >>255
聞かれても居ないのに何を答えればいいんだ?キモ男 負け犬九州説は
荒らし一つ見ても
知性のなさが滲み出してるな >>259
んなコト聞いてねえ
だから三足土器のメッカ、呉越から弥生人が菜畑や山陰&九州北部に来たんだろ?
だったら、何で青森にあって菜畑に三足土器がないの?
何で青森にあって渡来系弥生人のメッカ、山陰&九州北部に三足土器がないんだ?
早くみんなが納得いくように説明してみろよ
で、紀元前に龍が伝わっていた証拠は?
早く言ってみろよウソサギ詭弁チンコロ >>260
俺も聞いてねえよキモ男。
そんなくだないこと知るか、これで終わりか? 九州説は邪馬台国の話をすれば必ず
論破されるから怖くて
慧然と関係ない話を投稿して
イヤガラセをするんだよね
心が醜いね キモいと言われて逆ギレされんならまだしも、なんなんだコイツ。 >>261
んなコト聞いてねえ
だから三足土器のメッカ、呉越から弥生人が菜畑や山陰&九州北部に来たんだろ?
だったら、何で青森にあって菜畑に三足土器がないの?
何で青森にあって渡来系弥生人のメッカ、山陰&九州北部に三足土器がないんだ?
早くみんなが納得いくように説明してみろよ
で、紀元前に龍が伝わっていた証拠は?
早く言ってみろよウソサギ詭弁チンコロ >>264
聞かれても居ねえし、そんなくだねぇ事知らねーってんだろキモ男。 九州説は邪馬台国の話をすれば必ず
論破されるから
怖くて
慧然と関係ない話を一人芝居で投稿して
醜いイヤガラセをするんだよね
心が腐ってるね >>265
んなコト聞いてねえ
だから三足土器のメッカ、呉越から弥生人が菜畑や山陰&九州北部に来たんだろ?
だったら、何で青森にあって菜畑に三足土器がないの?
何で青森にあって渡来系弥生人のメッカ、山陰&九州北部に三足土器がないんだ?
早くみんなが納得いくように説明してみろよ
で、紀元前に龍が伝わっていた証拠は?
早く言ってみろよウソサギ詭弁チンコロ 下賜鏡については疑問が多いな
三角縁にしても他の鏡にしても、100枚の下賜鏡は鏡種がバラバラという事だよな
普通ならそういう物って揃えるものじゃないのかね
イチイチ別々に作ったという事だろうか
年号鏡も記念品なら全部に付けるのが自然ではないだろうか?
で、たくさんある同じ鋳型の鏡がそうだというにしてもこれもやたらと色んな種類があってバラバラだし
@下賜鏡は一枚一枚別々に作った
A魏の鏡作りの貧弱さから古い鏡をかき集めてとりあえず数揃えた
B下賜鏡は特定の人間が独占しており未発見
みたいなことになるんだろうか
もし別々に作ったなら画像の意味がそれぞれあるという事になるが年号までバラバラだし
謎だな 普通の質問とかでると途端にスレが静まり返るのが面白い
九州説と九州説をあおる奴の遊び場でしかないなここ >>268
>三角縁にしても他の鏡にしても、100枚の下賜鏡は鏡種がバラバラという事だよな
>普通ならそういう物って揃えるものじゃないのかね
揃えるさ
だから下賜鏡候補が三角縁一択なわけで 年号鏡にしても年号がバラバラなのがおかしい
景初3年が分かってるならみんなこれに合わせるのが自然じゃないかね
なんで正始だの、青龍だの、別の年だの書いてんだろう
記念の記載なんだったら合わせればいいだろうに
そもそも何度も鏡を下賜したわけでもないんだし
都まで行ってない遣使は朝貢じゃなくて単なる使者扱いっぽいからな
鏡を作るのに時間がかかったから最終的にズレたとかかね?
それにしても青龍は前過ぎだが >>6
河内と吉備の交流には桃太郎伝説もあるのかな >>272
>景初3年が分かってるならみんなこれに合わせるのが自然じゃないかね
大忙しなんだから細かい打ち合わせなんかできないさ
短期間で複数の工房が競作したことまで判明してるんだ
基本仕様だけ決めて、あとは時間との勝負だろ
ちなみに青龍は三角縁じゃないから別枠だな >>267
その青森の三足土器は3か所で各1個くらいしか出てない。
移住者が継続的にその地の住んで蒸し器として使っていたのなら、もっと出ていいはず。
ということは、生活道具として使われたのではなく、なんか別の用途に使われたのだろう。
そんなぐあいだから、三足土器が出た出たとわめいても、その実態はどういうものなのか、解明がついてるわけじゃないわな。 >>275
んなコトぜんぶ分かってますわw
交流していた沿海州でも宝器だったものを手に入れて、それを縄文人が
コピーしただけの単なる宝器
ぜんぶで30点ほど出土している
何でそれが分かるのかと言うと、まず甑がないだろ
甑がなければ蒸し器としての鬲本来の利用ができない
それに粘土の段階で内側から叩いて袋足を作る中国鬲とは製法が異なり、足が後付け
それに伝わっているのは鬲型土器と皿形土器の器種だけで、沿海州の土器自体は
伝わっていない
だから縄文人自身が作ったものだと分かる訳で、鬲ではなく鬲型土器の名がある訳だ
今だと床の間に飾ってある中国や朝鮮の焼き物と同じようなものだろう
ただ眺めて異国情緒を味わう
ただそれだけの物 >>267
知らねえって言ってんのにまだ聞いてくるキモ漢。まさに異常者 >>271
まだ懲りない三足土器野郎と同じクズがへばりついてるし >>258
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しがバレた負け犬大和説者は
荒らし一つ見ても
知性のなさが滲み出してるな >>262
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しがバレた負け犬大和説者は、
存在もしなかった「邪馬台国」や「畿内」の話を論点にすれば
必ず論破されるから
怖くて慧然と関係ない話を投稿して
イヤガラセをするんだよね
心が醜いね >>266
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しがバレた負け犬大和説者は,
存在もしなかった嘘吐き騙しの邪馬台国とか畿内の話をすれば
必ず論破されるから
怖くて慧然と関係ない話を一人芝居で投稿して
醜いイヤガラセをしているかも知れないんだよね
心が腐ってるね >>268
>下賜鏡については疑問が多いな
三角縁にしても他の鏡にしても、100枚の下賜鏡は鏡種がバラバラという事だよな
明帝や魏朝の家臣らは、明らかに「敵国の呉系の鏡だと判る△」は、
「銅鏡百枚」には選ばないだろうなあ。
>普通ならそういう物って揃えるものじゃないのかね
イチイチ別々に作ったという事だろうか
年号鏡も記念品なら全部に付けるのが自然ではないだろうか?
普通なら、魏朝の名誉のためにも、
出来るだけ立派な価値のある銅鏡を百枚揃えるだろう、と思うよ。
>で、たくさんある同じ鋳型の鏡がそうだというにしてもこれもやたらと色んな種類があってバラバラだし
@下賜鏡は一枚一枚別々に作った
A魏の鏡作りの貧弱さから古い鏡をかき集めてとりあえず数揃えた
B下賜鏡は特定の人間が独占しており未発見 みたいなことになるんだろうか
もし別々に作ったなら画像の意味がそれぞれあるという事になるが年号までバラバラだし
謎だな
謎ではないな。明帝や魏朝の名誉を傷付けず、
卑弥呼の立場も傷付けないような選択をする、と思うよ。 >>269
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」などのような、
史料事実や史料実態の関わる普通の質問とかでると、
途端にスレが静まり返るのが面白い
嘘吐き騙しの大和説をあおる奴の、狂気の詐欺遊び場でしかないな、ここ >>271
>>三角縁にしても他の鏡にしても、100枚の下賜鏡は鏡種がバラバラという事だよな
普通ならそういう物って揃えるものじゃないのかね
>揃えるさ だから下賜鏡候補が三角縁一択なわけで
関係がないな。
やはり、明帝や魏にとっては、名誉や利益を傷付けず、
卑弥呼が「悉可以示汝國中人,使知國家哀汝,故鄭重賜汝好物也」する事が出来るような、
同種異種も含めての鏡種を選択するんだろうなあ。 >>272
>年号鏡にしても年号がバラバラなのがおかしい
「年号」なんて、古くなれば古びて価値が低くなってしまうものだから、
入れない、と思うよ。
「尚方作」なら年号が判らないから、古くなっても価値があるから、入れてもよい。
>景初3年が分かってるならみんなこれに合わせるのが自然じゃないかね
明帝の詔書は景初二年12月だから、「景初三年」の鏡はない。
>なんで正始だの、青龍だの、別の年だの書いてんだろう
記念の記載なんだったら合わせればいいだろうに
>鏡を作るのに時間がかかったから最終的にズレたとかかね?
それにしても青龍は前過ぎだが
青龍三年鏡は、可能だが、同范鏡は渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡だろうなあ。
>そもそも何度も鏡を下賜したわけでもないんだし
都まで行ってない遣使は朝貢じゃなくて単なる使者扱いっぽいからな
難升米らは、都へ行って、明帝から詔書も受けている。 >>288
いつまで呉系楽浪鏡師なんて妄想してんの? 相変わらず、「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群や古文献・古神社のまえに、ぐうの音も出ない九州説や畿内説。 @阿波 >>289
いつまでホラを吹き続けるの?ワンタン野郎と同じレベルの知識と阿波並みのしつこさと思い込みしか根拠がないくせに >>291は、倭国(阿波)に対して、何一つ論理的な反論ができないw @阿波 阿波の完全否定は
岩手説やハワイ説やギリシャ説やラピュタ説と同様に難しい
ないことの証明だからな >>249
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) / 今のこの板の現状をみても、旧来の九州・畿内邪馬台国説(ガラパ説)の凋落が痛々しいかぎりだ。 いと哀れなり! @阿波 >>297
その総数ジジイ1名と言う阿波説に、何一つ論理的な反論ができない九州・畿内邪馬台国説(ガラパ説)。 わははははは @阿波 自分の思い込みを大事にしたいのなら誰とも話さない事だよなw
わざわざ不幸になるために生きている様なものだ
キモ過ぎる >>298
阿波こそ畿内説になに一つ反論できないのではなくて またテスト投稿
>>274
>>景初3年が分かってるならみんなこれに合わせるのが自然じゃないかね
明帝の詔書は景初二年だから、景初三年の記年鏡は、明帝の下賜鏡ではない。
>大忙しなんだから細かい打ち合わせなんかできないさ
短期間で複数の工房が競作したことまで判明してるんだ
基本仕様だけ決めて、あとは時間との勝負だろ
ちなみに青龍は三角縁じゃないから別枠だな
青龍三年鏡は、明帝の下賜鏡であった可能性があるが、
それの同范鏡は、明帝賜の下賜鏡ではないなあ。 またテスト投稿
>>280
荒らしをしてるのは大和説者と阿波説者だけだ またテスト投稿
>>280
「邪馬台国畿内説」なんて、詐欺でっちあげたの誰ですか? >>300
>纒向遺跡が女王国の中にあったことは確実だ
奈良大和の纒向遺跡の東は、笠置山地や布引山地など、山ばかり。
纒向遺跡は「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にあきらかに矛盾している。
もし女王国が奈良大和であれば、「女王國 東 越山 復 渡海千餘里」 である。 @阿波 またテスト投稿
>>288
「邪馬台国畿内説」なんて、詐欺でっちあげたの誰ですか? >>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にありえない。
奈良大和の纒向遺跡の東は、笠置山地や布引山地など、山ばかり。
纒向遺跡は「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にあきらかに矛盾している。
もし女王国が奈良大和であれば、「女王國 東 越山 復 渡海千餘里復有國皆倭種」 である。 @阿波 またテスト投稿
>>293
>阿波の完全否定は
岩手説やハワイ説やギリシャ説やラピュタ説と同様に難しい
ないことの証明だからな
大和や阿波の否定は、いつも書いておいたように、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、
ほぼ完全否定。 またテスト投稿
>>295
ははは、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に反論出来ないから、
大和説の人も阿波説の人も、ゴミのようだ >>308
>「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
>史料事実や史料実態に反論出来ないから、
?
それ、もうとっくに反論され露派されちゃっただろ?
史料事実じゃないし
実態だという根拠もないってさ >>306 に、何一つ論理的な反論ができない畿内邪馬台国説(ガラパ説)。 わははははは @阿波 >>312
>>>306 に、何一つ論理的な反論ができない畿内邪馬台国説(ガラパ説)。 わははははは @阿波
あんたのソレ、とっくに論破されてるだろ .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. >>276
なるほどなあ。
こんだけ主張されたら、三足土器くんは負けだろう。
ごくろうさん。 >>271
だ〜が、その特注三角縁出る古墳が4世紀からというのは、なんでなん?
卑弥呼がもらったのは3世紀前半のことだから、それが分配されたとして、4世紀からというのは遅すぎ。
どう説明してくれるのよ。 >>316
>だ〜が、その特注三角縁出る古墳が4世紀からというのは、なんでなん?
その古墳が4世紀からという理由が「三角縁が出たから」だからだ なにもかもぴったんこに整合性がとれるのは、久留米御井の祇園山だけ。
祇園山が卑弥呼の墓。
そして、卑弥呼の寿陵としてつくられたのは、山門の権現塚。
卑弥呼はその権現塚に眠る予定だったが、熊本菊池の狗奴国に攻められて山門から邪馬台国北部の御井に避難し、そこで急死。
権現塚に葬ることができずに、新たに権現塚のコピー墳墓を祇園山に造って葬った。
原典の倭人伝の記述と整合性がとれるのは、この祇園山だけ。
大和箸墓説は脳内劇場に過ぎん。 >>271
同じものを百枚ももらって、うれしい奴いる?
いくらなんでも、魏の皇帝がそんなに無粋なわけないよ。 >>317
>その古墳が4世紀からという理由が「三角縁が出たから」だからだ
そんな世迷言が信じられるわけない。
その古墳から出た土器やなんやの遺物が決め手なんよ。
だから、4世紀ころの古墳から出る三角縁は、卑弥呼がもらった鏡としては遅すぎるの。
三角縁が纏向政権が造った鍬形石や車輪石などと同じ新たに造った威信財に過ぎんわ。
出土時期からみて、卑弥呼につなげられる代物じゃないよ。 >>320
>その古墳から出た土器やなんやの遺物が決め手なんよ。
そんな空想言っても意味がない >>309
>呉系楽浪鏡師でおそらく正解だろうな
有難う御座います。
古田さんは、50年近く前の初期三部作の頃に、「海東・・・浮由」鏡などに拠って、
呉の鏡師の渡来説を語っておられましたが、
明確に「楽浪鏡師の渡来」論を主張されたのは、
もう亡くなられたらしい呉仲殊氏のようです。 >>321
あれれ。
例えば、纏向石塚の築造年代推定に関して3説あるが、そのいずれも出土土器が根拠になっているよ。
おぬしの脳内劇場もひどいな。 >>317
>>だ〜が、その特注三角縁出る古墳が4世紀からというのは、なんでなん?
卑弥呼がもらったのは3世紀前半のことだから、それが分配されたとして、4世紀からというのは遅すぎ。
どう説明してくれるのよ。
>その古墳が4世紀からという理由が「三角縁が出たから」だからだ
成程。
九州倭國の卑弥呼から東征将軍らに△が下賜された、としても、
大和の前方後円墳に副葬されたのは、4世紀としても50〜60年後になるし、
余った鏡を壹與が相続したとしても、壹與の墓の平原1号には△はないから、
やはり東征将軍らに下賜されて、△は壹與は持っておらず、
無くなってしまっていた事になり、
やはり、大和の△が「明帝の下賜の銅鏡百枚」説は、バツであった事になるな。 >>313
>あんたのソレ、とっくに論破されてるだろ
証拠は? @阿波 田中健太郎という暴力詐欺師のクズに注意せよ
600万盗んでその相手を入院させて逃亡した挙句相手に暴力振るわれたと警察に訴えるクズ 低脳乙、はやく頭の病院に行ったほうが良いぞ、何度言えばわかるんだ。
『❓』?お前に言っているんだよ。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>322
楽浪は始め漢の領土でのちに魏の領土
呉系楽浪鏡師というのは歴史無知のたわごと >>306 に、何一つ論理的な反論ができない畿内邪馬台国説(ガラパ説)。 わははははは @阿波 >>268
邪馬台国は魏に複数回遣使していて
色んなタイプの文様の三角縁神獣鏡を貰っていた事が判明していて
その文様の違いで年代も特定されている >>288
詔書なので景初2年12月に倭国を魏に招く命令を発したということ
なので鏡を渡すのはどうしても景初三年に入る >>331
相変わらずのクズっぷりだが、
いいぜ?聞いてやるよ。その複数回の朝貢の事実を指すソース
それと貰ったという根拠とその複数タイプの鏡の情報を出してみろ >>315
そもそもが必要とされたたら残るわ
渡来人がそれを使わなかったのはイラねってなったからでは?
代用品があるのならふつうそれを使うだろ 遂に見つかったな、全長430メートルの前方後円墳にみえる地形!我々の負けだわ >>331
>邪馬台国は魏に複数回遣使していて
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言。
>色んなタイプの文様の三角縁神獣鏡を貰っていた事が判明していて
判明していないし、
洛陽の出土は0〜1枚であり、列島の500枚以上の△の根拠にならない。
>その文様の違いで年代も特定されている
記年は景初三年以後であり、明帝の詔書の景初二年12月以前にはなっていない。 >>333
魏志倭人伝に書いてあるところによれば
景初三年と正始四年
正始六年と正始八年に邪馬台国は魏に遣使している
鏡の年代は彫ってある年号と文様の分類による
これでいいか >>336
魏志倭人伝には景初二年に三角縁神獣鏡を作ったとはどこにも書いてない
詔書つまり倭への招待状が出たのは景初二年の12月なので
それから鏡を作れば出来上がるのはどうしても景初三年より以降 またテスト投稿
>>332
>詔書なので景初2年12月に倭国を魏に招く命令を発したということ
「景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。
其年十二月,詔書報倭女王曰:
「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利奉汝所獻男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈,以到。・・・」
であるから、景初二年十二月には、明帝が卑弥呼への詔書を読み上げており、
難升米らが「以到」していた、と書いている。
>なので鏡を渡すのはどうしても景初三年に入る
だから、この大和説男がウソを付いている。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 魏から持ち込まれた(?)鏡はそのあと日本国内で製造されて多くがあちこちの勢力みたいなんに配布されとるだろ😗
それがあちこちから出る倭鏡やろ 成分が違うってことは工房が違うってことに他ならん
中国で製造して配合率だの決まってるならそれが日本からでなければ向こうで作られたものなどとは言えない 日本内で当時作れるやつらがおるか?ったら疑問やな😗
呉系の鏡師の存在の方が信憑性あるわな 三角縁神獣鏡の現状
従来、「文様の違いから」舶載鏡(中国製)・仿製鏡(国産)に分類していた。(つまり外観と磨きの出来栄えでしか分類していなかった。素材での分析は近年になってから)
三角縁神獣鏡は仕上げの研磨が徹底しておらず鋳造時の鋳型の傷などの状態がかえって確認しやすい。
これを応用して2015年に鏡の精密3次元形状計測が行われ、それまで舶載鏡とされたヘボソ塚古墳(神戸市)のものと、仿製鏡とされた鶴山丸山古墳(岡山県備前市)などからの3枚が、実際には同鋳型であることが判明した。
さらに舶載鏡とされた筒野古墳(三重県松阪市)のものと仿製鏡とされた造山1号墳(島根県安来市)のものとが、これも同鋳型と判明した。
この結果から、同じ鋳型から先に鋳造した銅鏡の文様を削った後に別の文様を彫り込んだ可能性を指摘した。つまり調査した「すべてが舶載、もしくはすべてが仿製」ということになり、「現在では文様や銘の違いで分類には意味がないとされるのが通説になっている。」
魏鏡説の人間にはもう物証が何もない状態。
そもそもが笠松形は日本独特のもので、中国の鏡の権威も1984年に中国制作を否定。(模様と、中国と朝鮮半島では一枚も出てない事から)
更に、卑弥呼の時代である250年頃につくられた古墳に副葬された三角縁神獣鏡は「一面もない。」
石川県中能登町の小田中親王塚古墳(4世紀後半)で明治時代以前に出土した三角縁神獣鏡が、「中国製」と「日本製」の双方の特徴がある過渡的な鏡だったことが宮内庁書陵部の調査で分かり、詳細が書陵部紀要に掲載された。
「卑弥呼の鏡」ともいわれる三角縁神獣鏡は、初期ヤマト王権が権威の象徴として配布したとの説が有力。文様のパターンや正確さなどから中国製と国産に分類されるが、小田中親王塚古墳の鏡は両者が一連のもので、中国か日本のどちらかで作られ続けた可能性を示している。 華北の漢鏡は平縁であるが、呉の領域の江南の紹興市とその周辺では、大型で縁が三角形の鏡がつくられるようになった。
元になった鏡は「三角縁画像鏡」か、「三角縁仏獣鏡」
魏から貰った説にするには、当時最新の技術が呉からもたらされていなければならないことになるが、魏の鏡は平縁である。
魏鏡説をとる人間たちに共通していることが一つある。それは必ず「特鋳説」を持ち出しているということである(ある時期から突然後出しジャンケンでww)。
今や「魏鏡説」が生き残るには、考古学的根拠の薄い「特鋳説」に頼るしかないということのようである。「魏鏡説」の苦しさを自ら暴露しているようにみえる。
更には洛陽からも出ているとか嘘をつくクズも出る始末である。もはや万策が尽きたのであろう。
「魏鏡説」の危うさは西川寿勝氏の「楽浪郡製作鏡説」にも現われている。これは、魏の領域には三角縁神獣鏡そのもの、あるいはそれに似た鏡を見出すことができない、ということを証明したともいえる。
その概要
岡村秀典は、佐味田宝塚古墳出土の三角縁画像鏡に図像文様・銘文が類似し、新山古墳出土の三角縁神獣鏡と同様の銘文をもつ「三角縁神人車馬画像鏡」が「洛陽で発見されている」ことを、魏鏡説の根拠の一つとしているが
岡山が舶載鏡の紋様や特徴について、中国の出土鏡とその傾向を比較調査したところ、中国のどの地域の鏡とも合致せず、事もあろうに唯一合致したのが「三角縁神獣鏡が一枚も出ていない」楽浪郡出土鏡だった。
三角縁神獣鏡は、材料のみ朝鮮半島と一致し、他は全く両者ともに関連が無い。
唯一関連する技術は呉の三角縁を使った鏡の大型化技術である。
ソース
「中国製」「国産」同じ鋳型か 卑弥呼の「神獣鏡」、傷ほぼ一致 2015年日本経済新聞 あの形体を御神体とするなら祠しかないだろ
つまり穴みたいのを掘ってそこに御神物として祀る
それが祠 >>331
さっさと証拠を出せ人間のクズ。
出せないのならせめてここでは2度と嘘をつくな。
他でヤレ >>339
詔書なので招待状
招待状を使者を招いてその場で読むわけないね
景初二年12月に使者を通じて倭国に招待状を発したということ
また難升米が景初2年6月に洛陽に行った事になってるけれど
景初2年6月は魏は帯方の公孫氏と交戦中で朝鮮半島を通れないので
難升米が洛陽に行ったのは実際は景初3年の6月というのが通説 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 箸墓ですら、卑弥呼の墓としては新しすぎると突っ込まれて大和説者が右往左往してるくらいだのに、
その箸墓よりも30年くらいあとの墓から出る三角縁が240年頃に卑弥呼が受け取った鏡のわけがないよ。
卑弥呼が魏帝から鏡を受け取ってからおよそ60年も経って墓から出てくる三角縁は、卑弥呼の受け取った鏡であるはずがなく、纏向政権が威信財として造り配布した国産鏡というのが真実だよ。 >>352
だから
魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡
この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。 @阿波 >>352
>纏向政権が威信財として造り配布した国産鏡というのが真実だよ。
纏向政権?
なにをどう勘違いしたらそんな妄想が湧いてくるんだい? わははははは @阿波 >>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にありえない。
奈良大和の纒向遺跡の東は、笠置山地や布引山地など、山ばかり。
纒向遺跡は「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にあきらかに矛盾している。
もし女王国が奈良大和であれば、「女王國 東 越山 復 渡海千餘里復有國皆倭種」 である。 @阿波 >>350
>詔書なので招待状
招待状を使者を招いてその場で読むわけないね
景初二年12月に使者を通じて倭国に招待状を発したということ
この大和説男も、脳がおかしいんではないか?。
詔書は皇帝や天皇の「みことのり」であり、発言や命令の事。
招待状ではないな。
>また難升米が景初2年6月に洛陽に行った事になってるけれど
これも間違い。
「景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻」であり、
その後で、「太守劉夏遣吏將送詣京都」をした。
>景初2年6月は魏は帯方の公孫氏と交戦中で朝鮮半島を通れないので
勿論、難升米らは、言うならば「戦中遣使」の形。
勿論、陸路であったのか?、長串岬→海路山東半島の経由であったのか?は不明。
>難升米が洛陽に行ったのは実際は景初3年の6月というのが通説
「景初三年6月」であれば、明帝が亡くなった後。
その通説大和説学者は、おそらく嘘吐き騙しの詐欺師。 >>356
詔書は発されてから効力を発揮する
いわば招待状
魏志には明帝は景初2年12月に詔書を発したと書いてるので
倭国が魏に赴くのはそれ以降
下賜用の鏡が作られるのはもちろんそれ以降になるので
景初三年銘の三角縁神獣鏡はその時に作られた卑弥呼への下賜用の鏡となる 銅鏡百枚について、次のような疑問が出てくる。
まず、時系列をみてみよう。
難升米らの使節団が帯方郡に着いて、魏の都に向かったのが6月。
山東半島へ船で渡海し、その後洛陽へ陸行したとして、渡海の準備などを含めると、都に至るまで1か月は要するから都到着を7月とする。
使節団は休養して、魏の役人と面接するのは7月中頃とする。
面接が済んで、役人たちが卑弥呼への返礼の贈り物の内容を協議し、それを皇帝に上奏して決済をもらうのが8月初頭頃。
この8月時点から皇帝が卑弥呼への詔書を難升米に示す12月までは、8、9、10、11月の4か月の期間があることになる。
そして、この詔書に銅鏡百枚が贈られることが記されているのであるから、この時点で百枚がすでに造られていることになる。
というのも、これから造るというような不確定なことを詔書に書くわけがないので、すでに造られているとみるのがよい。
とすると、4か月で三角縁神獣鏡を百枚造ることができるかという問題が出てくる。
まあ、無理じゃないか。
。 >>358
>とすると、4か月で三角縁神獣鏡を百枚造ることができるかという問題が出てくる。
だから
魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡
この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。 @阿波 >>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にありえない。
奈良大和の纒向遺跡の東は、笠置山地や布引山地など、山ばかり。
纒向遺跡は「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にあきらかに矛盾している。
もし女王国が奈良大和であれば、「女王國 東 越山 復 渡海千餘里復有國皆倭種」 である。 @阿波 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. >>361
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 惨めで卑しく哀れな
/ __ / 在日ヒトモドキ丸出しw
(___) / >>358
>この時点で百枚がすでに造られていることになる。
根拠なし。 >>360
矛盾なんて無いよ
畿内説は
女王国=奈良大和なんて主張してないもの >>342
>中国で製造して配合率だの決まってるならそれが日本からでなければ向こうで作られたものなどとは言えない
この日本語?は、意味がわからない >>358
さらに、卑弥呼は金印を授けられるわけであり、金印は外国の王に授ける印としては最高のもの。
この最高の金印に見合う贈り物として詔書に書かれている絹織物は、やはり最高級品なのではないか。
この絹織物は卑弥呼が献上したものへの答礼である。
そして、詔書では、この外交的に正しく選別された交換品に加え、皇帝からの好意として卑弥呼への各種の贈り物も記しており、その中に銅鏡百枚が含まれている。
記載の順番としては、銅鏡は8品目中の五尺刀2口の次の5番目に位置し、直後の真珠や鉛丹の前となっている。
銅鏡百枚は五尺刀2口よりも評価が下がるわけだ。
これらのことからみると、銅鏡百枚は特別に新たに造らせた新品としては、評価が低いようにみえる。
皇帝が収蔵庫に収集していた既成の銅鏡の中から選んだ各種合わせて百枚ということなら、この5番目の順位の位置は順当なところだろう。
また、銅鏡百枚の前に記されている五尺刀2口についても、新造品ではなく、既成の物と理解するのがよいだろう。
要するに、銅鏡百枚は皇帝の収蔵庫に収集されていた既成の逸品の銅鏡の中から選ばれた百枚ということだろう。
卑弥呼が贈られた銅鏡百枚の贈り物としての位置づけは、決して高くはないのである。 >>369
中國の天子には周囲の国々が朝見してくる
諸侯にも下賜しなければならない
どれだけ必要になるかわからない多くの品々全てをストックしておくわけにはいかない >>364
信長だって、あちこちから収集した茶器を収蔵していて、褒美として部下に与えていたが、
それと同じよ、卑弥呼がもらった銅鏡百枚も。
皇帝としては、わざわざ新造したりしない。 >>369
洛陽は董卓の手で炎上してるので、宮殿からして新造
漢代の銅鏡が100枚も収蔵されてるとかは妄想 >>370
当時、銅鏡を好んだ国は、そう多くはなかったような。 >>371
信長wと中國の天子とではスケールが違いすぎる 要するに九州説には卑弥呼の墓の候補もなければ、銅鏡百枚も見つけられないって
お寒い現況ってことだな 卑弥呼は相攻伐した倭人の国で鬼道によって民心を集め女王となり朝献してきた
まだ統一されていなかった倭国に何を下賜すれば倭の女王に従属する国が増え
倭地の産物を中國にもたらさすか
下賜する側の視点で考えなければならない >>372
董卓が洛陽の宮殿や民家を焼いたのは190年のこと。
卑弥呼の朝貢は239年なので、洛陽が焼かれたのは卑弥呼の朝貢の50年前。
それに、その後、都は長安に置かれたし、魏になると再び洛陽に都が置かれた。
収蔵庫はいつでも新築できた。
50年もあれば、皇帝の収蔵庫は再び満杯になったよ。 そもそも畿内説の主張がいつも印象操作によるこじつけなんだよ
桃の種が埋まっていたのは柵の下の別の遺構
https://i.imgur.com/cBG2BFm.png
纏向遺跡の大型建物と桃の種は関係ありませんので、纏向遺跡の年代は4世紀です。
実際、3世紀前半の遺物はほとんと見当たりません。 >>376
皇帝側とすれば、朝貢使が来るたびに多数の品目を答礼しなければならないので、あまりたびたび来ないでと思っていたらしい。
それに、蛮地は産物が乏しいというのが前提なので、たいした貢物は期待していないから、皇帝側として蛮地からの貢物はほとんど意味を持たなかった。
ただ、民間の交易については別だろう。
皇帝の政府は、蛮地との民間の交易は奨励したのではないか。 >>374
人間、することは同じだよ。
部下を餌でこき使う。
餌は、いろいろあるけどね。 黄巾の乱で多くの漢代の富裕層の墓が盗掘され
副葬品が裏市場に流通するので漢代の鏡は中國の天子の下賜とは関係ない者も所有できる >>377
>収蔵庫はいつでも新築できた。
新築できても収蔵品は無いんだよ >>381
この黄巾の乱が原因で、魏は国家管理の道教と異端の道教を区別して
一般市民の道教を取り締まったとされますね。
一般道教を圧迫して国力を伸ばしたとも。
このタイミングで新皇帝即位に合わせて朝貢してきた卑弥呼。
銅鏡が欲しいと申し出られて相当慌ててたのか
「汝は遠いところを来た健気なものである、よって汝の「好物」を与えようぞ」
三角縁神獣鏡が特注説などあり得んわな そもそもが「鬼道」って書いている段階で、魏から見た倭国の道教への視点が分かろうというものだ
鬼道のために特注鏡を作るなんざありえんよ >>331
・邪馬台国は魏に複数回遣使の裏付け
・色んなタイプの文様の三角縁神獣鏡を貰っていた事が判明している事の裏付け
・その文様の違いで年代も特定されている事の裏付け
さっさと出しなよ。 >>357
>詔書は発されてから効力を発揮する いわば招待状
明帝は、招待などしていない。
>魏志には明帝は景初2年12月に詔書を発したと書いてるの
倭国が魏に赴くのはそれ以降
魏志は、
景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。
其年十二月,詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:
帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利奉汝所獻男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈,以到・・・」
という時系列の順に記載しており、だから、
難升米らが郡に先に到着して、求詣天子朝獻したから、それから太守劉夏遣吏將送詣京都した。
>下賜用の鏡が作られるのはもちろんそれ以降になるので
下賜用の銅鏡百枚の全てが新たに作られた、というのではない。
以前から購入してあったり、造り置いてあったり、新規に造った鏡の合計である。
>景初三年銘の三角縁神獣鏡はその時に作られた卑弥呼への下賜用の鏡となる
景初二年12月の詔書を出した時点では、銅鏡百枚などの下賜品が揃え終わっていた。
それが人類の常識。
この大和説学者らは、人類の常識知らずの・・・・。 >>383
>この黄巾の乱が原因で、魏は国家管理の道教と異端の道教を区別して
>一般市民の道教を取り締まったとされますね。
誰に、された? >>386
>景初二年12月の詔書を出した時点では、銅鏡百枚などの下賜品が揃え終わっていた。
>それが人類の常識。
つまり、なんの根拠もない妄想という意味ですね >>365
>矛盾なんて無いよ
畿内説は女王国=奈良大和なんて主張してないもの
「畿内」なんて存在もしていなかったから、矛盾であり、
「畿内=大和周辺」であっても、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに矛盾するから、
「畿内説」はバツである事になる。 >>372
>洛陽は董卓の手で炎上してるので、宮殿からして新造
漢代の銅鏡が100枚も収蔵されてるとかは妄想
明帝が下賜した「銅鏡百枚」は、
既に購入してあったり、
魏の工房で造り貯めてあった「尚方作」方格規矩鏡などや、
新たに工房で造った鏡などの、合計。
また、画文帯神獣鏡は、「神獣=道教的な思想」の鏡になるので、
明帝や魏朝の選択にはなり難く、
おそらく「楽浪の呉系鏡師らの関与」鏡。 >>375
要するに大和説では、
卑弥呼の墓の候補もなければ、銅鏡百枚も見つけられないって
お寒い現況ってことだな >>377
>董卓が洛陽の宮殿や民家を焼いたのは190年のこと。
卑弥呼の朝貢は239年なので、洛陽が焼かれたのは卑弥呼の朝貢の50年前。・・・
卑弥呼の朝貢は景初二年(238年)であるので、バツ。 >>390
>明帝が下賜した「銅鏡百枚」は、
>既に購入してあったり、
>魏の工房で造り貯めてあった「尚方作」方格規矩鏡などや、
>新たに工房で造った鏡などの、合計。
相変わらず
九州説は100%脳内だけで創作されるんだな
史料からの帰納など絶対にしないわけだ >>393
>>明帝が下賜した「銅鏡百枚」は、
既に購入してあったり、
魏の工房で造り貯めてあった「尚方作」方格規矩鏡などや、
新たに工房で造った鏡などの、合計。
>相変わらず 九州説は100%脳内だけで創作されるんだな
史料からの帰納など絶対にしないわけだ
九州説は、ほぼ全て、原則として、
「知り得た史料事実や史料実態からの帰納的高確率的な推論」。
大和説やスレ主や東大理系博士号自称男らは、ほぼ全て、
「邪馬台国畿内」などの存在もしなかった嘘吐き騙し文言、という、
思想宗教的な「結論先にありき」の似非学問。
まあ、ヒトラーやトランプや菅自民らの、
人種差別的戦争アジテーターや、ヤクザ暴力団と同じだな。 >>394
>九州説は、ほぼ全て、原則として、
>「知り得た史料事実や史料実態からの帰納的高確率的な推論」。
なら、どうして史料からの帰納を絶対にしないの?
街宣車みたいな思想的なアジテーションしかしないの? >>392
景初2年6月には、大尉司馬氏が四万の兵を率いて遼東に到着し、公孫氏の軍と対峙したあと直接公孫氏の都を包囲して攻防戦が展開された。
その後、司馬氏は公孫氏を滅ぼして12月に魏の都に帰還する途中、重病の皇帝から早く帰るようにと知らせがあり、司馬氏が都に帰ったのは翌年の正月。
こうした状況の6月の激戦中のところ、その戦地の南の帯方郡に卑弥呼の使節団が突然現われ、魏の皇帝に朝貢したいと申し出たので、はいよと都へ送ったというのである。
しかも、その都では12月に、重病の皇帝が使節団に冊封国として最高の金印を賜い、皇帝の答礼の詔書を渡したというもの。
この倭人伝の流れを信じられるとすれば、それは信じがたい話だよ。
出先機関の窓口に突然現れた様子も知れん外国の国に、はいよと最高の金印を贈って、国のみなさんによろしくなと送り返してくれたというのだから、漫画みたいな話だ。
普通、冊封関係を結ぶについては、事前折衝があり、双方合意ができた上で、予定通りに上洛して皇帝にお目見えするということになる。
だから、金印が渡されることは事前に合意されていたことになる。
とすると、景初元年か二年の正月ころにそうした事前折衝が行われていなければならないことになる。
しかるに、景初元年には前半のうちに公孫氏は魏に対して上洛を拒否し、その七月には反旗を翻して自立し、燕王を称して戦力増強を始めた。
この状況下に、魏は倭と冊封を結ぶための使節を送ることは可能だったかというと、帯方郡は公孫氏の治下にあるのだから、とても無理。
では、景初二年の正月頃に魏は使節団を倭に送れたかというと、魏はもうそれどころではなく、皇帝が司馬氏に公孫氏討伐の命令を下し、春には司馬氏は遼東に向けて進軍を始めていた。
一方卑弥呼の倭国では、その頃には使節団を送り出す準備を進め、5月頃には出発の壮行会が行われていたことになる。
で、公孫氏がまだ陥落していない6月に倭国の使節団が帯方郡に到着し、太守は使節団をほいよと魏の都に送り出すことになる。
倭人伝の記述はこういう成り行きなんだから、つまり、いつ冊封関係を結ぶ事前折衝を行ったのだよ、ということになってくるわけ。
これが景初3年6月の使節団の帯方郡訪問だったら、十分に事前折衝の時間はあったということになる。
まあ、倭人伝の景初2年は3年が妥当じゃないの。 >邪馬台国や卑弥呼が
>日本書紀や古事記から抜け落ちているのはなぜか?
いえ、抜け落ちていません、我々が気づいていなかっただけです。
今は散逸してしまった「帝紀」「旧辞」に書かれていた事、未来の日本人に伝えなければいけなかった、
しかしそのまま伝えるわけにはいかなかった、これが記紀編纂の本質的な意図だと思われます。
だから日本書紀は神武天皇をBC660年に即位、127歳で死去、
などというトンデモない時代にずらした奇怪な史書になってるわけです。
これは後漢書東夷伝の倭国王帥升がスサノオであることを隠すためでしょう。
AD107年、倭国王スサノオが自ら渡海し、後漢皇帝・安帝に謁見要請つまり土下座したという、
この屈辱的史実を国史に書いてしまえば、未来に生れてくる日本人の子供たちの額に、
「中華属国民」という焼キゴテを永遠に入れ続けるようなものですから。
そのスサノオの5世代後の神武が卑弥呼(Bei mei hu)の時代になります。
今日、10代崇神天皇がおおよそ4世紀前半の人物でほぼ確定しています。
ならばその数十年前にトヨ、そして卑弥呼がいるわけです。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の様相は、夫である神武に先立たれたヒメ(踏鞴 五十鈴)后の姿と一致します。 卑弥呼(Bei mei hu)、比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后=女王の都は葛城・奈良県御所市という事になります。
大和朝廷の発祥地ですからさもありなんという事ではありますが。 >>397
>今日、10代崇神天皇がおおよそ4世紀前半の人物でほぼ確定しています。
しとらんだろ >>399
>葛城と関係ないじゃん
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后もトヨ津姫も葛城である。
なぜならこの二人の夫やその子供も宮が葛城だからである。
また魏志倭人伝の「殉葬奴婢百余人」、つまり大量の奴婢が埋葬されてる場所が葛城にしかない。
一つは葛城一言主神社参道、
もう一つは高天彦神社参道。
卑弥呼をはじめ王族(=神々)の墓域は高天彦神社参道の土蜘蛛塚の隣の150mの塚である。
日本神話、歴史の原点「高天原」である。
崇神以前の日本に大量の奴婢が埋葬されてる場所がここしかない以上あきらめろ。
箸墓古墳?
バカなのかあれはイカガノシコオの墓だ。 >>400
15代応神天皇か390年元年であることは百濟・武寧王陵墓の買地券=金石文からアケ王擁立時期が分るので疑いがない。
そこからさかのぼり、古事記の没年干支を信用し、
仲哀=362年没
成務=355年没
ならば崇神没年は318年没。
古事記の記述から崇神陵墓が行灯山であり、その時期が4世紀初頭、
また稲荷山鉄研のヲワケの7世代前のオオヒコが4世紀前半になること、
四道将軍ゆかりの会津に4世紀前半の一箕古墳群という前方後円墳ができること、
あるいは吉備津彦の墓で間違いないであろう中山茶臼山古墳が4世紀前半であること、
などから崇神=4世紀前半であることは間違いはないだろう。 >>403
最新レベルと自惚れてる君が、
卑弥呼も帥升も見抜いていた新井白石がわざと創った邪馬台国論争に巻き込まれていること自体が滑稽。
帥升=スサノオだと仮定すれば5世代100年後の卑弥呼などすぐわかる。
何が300年論争だ、こんなものカップヌードルが出来上がる3分で解ける話だ。 またテスト投稿
>>396
>景初2年6月には、大尉司馬氏が四万の兵を率いて遼東に到着し、公孫氏の軍と対峙したあと直接公孫氏の都を包囲して攻防戦が展開された。
その後、司馬氏は公孫氏を滅ぼして12月に魏の都に帰還する途中、重病の皇帝から早く帰るようにと知らせがあり、司馬氏が都に帰ったのは翌年の正月。
こうした状況の6月の激戦中のところ、その戦地の南の帯方郡に卑弥呼の使節団が突然現われ、魏の皇帝に朝貢したいと申し出たので、
はいよと都へ送ったというのである。
しかも、その都では12月に、重病の皇帝が使節団に冊封国として最高の金印を賜い、皇帝の答礼の詔書を渡したというもの。
卑弥呼は、魏の楽浪帯方攻撃戦争を、避難して来た楽浪鏡師らの説明で知り、
司馬懿の遼東征伐開始の戦中であったが、敢えて、
とりあえず最小限の「男生口四人女生口六人班布二匹二丈」を持たせて、
難升米らを帯方に派遣して求詣天子朝獻をして、太守劉夏遣吏將送して貰って、
詣京都した「戦中遣使」であったのである。
当初から、魏の都〜遼東の行程は百日位(三月余り)、
遼東征伐も百日位、と計算されている。
何もおかしくない。 >>401
>バカなのかあれはイカガノシコオの墓だ。
バカなのか? イカガノシコオは全国唯一、阿波国麻植郡の「忌部の郷」で葬られ、祀られている。 @阿波 >>410
五斗米道という説があるだけで、何も確定してはいない。
三角縁神獣鏡をはじめ鏡ばかりが注目されているが、
鬼道というのはヒメ(踏鞴五十鈴)后の素性から見ても銅鐸祭祀であろう。
中国側が中国発祥の鏡祭祀を「鬼道」などとは呼ばないであろうから。 大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
大麻といえば、阿波忌部。
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』 『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 @阿波 またテスト投稿 >>397
>>邪馬台国や卑弥呼が日本書紀や古事記から抜け落ちているのはなぜか?
>いえ、抜け落ちていません、我々が気づいていなかっただけです。
今は散逸してしまった「帝紀」「旧辞」に書かれていた事、未来の日本人に伝えなければいけなかった、
しかしそのまま伝えるわけにはいかなかった、これが記紀編纂の本質的な意図だと思われます。
「帝紀」「旧辞」が散逸していたのであれば、その内容も不明であったのであり、
そんな内容不明なものは、根拠になどならないし、出来ない。
>だから日本書紀は神武天皇をBC660年に即位、127歳で死去、
などというトンデモない時代にずらした奇怪な史書になってるわけです。
記紀が九州倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書である事が確定しており、
しかし、平安末期の二中歴は、
「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
継体五 元丁酉・・・」(注、継体元年は西暦五一七年)
としており、数え年計算で517−39−569×2=−660が成立するから、
書紀では年始からの569年が二倍年歴計算がされていた、という事になり、
全部一倍年歴計算をすると、517−39−569=ー91(年)になり、
神武即位元年はおよそ紀元前91年頃、という事になり、
平安末期の二中歴筆者らは、日本書紀を読んでいるんだから、
日本書紀が二倍年歴で書かれていた時期があった、という事を知っていた事になる。
つまり、西暦で517−39=478(年)頃以前は、
九州倭國も大和政権も二倍年歴を使用していて、
478年以後は大和では、結縄刻木をして一倍年歴での年代計測を始め、
おそらく、九州倭国での「それ以前頃から一倍年歴計算を始めていた」事を踏襲し、
517年の九州倭國の継体元年の建元を知って、
大和でも九州年号の継体の次の「善記」から、九州年号を使用し始めた。 またテスト投稿
>>398
>卑弥呼(Bei mei hu)、比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉
つまりヒメ后=女王の都は葛城・奈良県御所市という事になります。
大和朝廷の発祥地ですからさもありなんという事ではありますが。
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、バツです。 >>413
>記紀が九州倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書である事が確定しており、
あんたの脳内で何がどう確定しても
世間はそれ知らないから 文系の落ちこぼれは軽々しく確定という言葉を使うんだよな
ここのスレ主とか 三角縁は国産説が強いな
下賜鏡説は全体的にやはり弱い
・例外なく4世紀以後の定型化後の古墳から出てくる
・中国に一枚もない
・鉛素材は武昌周辺の鉛
・鏡式が南方系
・神原神社古墳の紀年鏡は画文帯神獣鏡をそのままコピーしてる等の他の鏡からの引き写しがみられる
・三角縁は棺外に大量に並べるなど雑な扱いをしている
・長期に渡っての画像の変遷がみられる(出土が4世紀の古墳からなのでそこから変遷するのだから4世紀初頭から5世紀にかけての鏡となる)
等の状況から三角縁は畿内政権が280年の呉滅亡後→南朝との交渉の後に素材を手に入れて配布のために作り出した鏡ではないかと思う >>418
>・例外なく4世紀以後の定型化後の古墳から出てくる
それ、考古学者に見捨てられた九州説の我流編年だろ >>420
三角縁神獣鏡の国産説は、九州説、機内説関係なく普通に言われている事。
新聞でも報道されるレベルの話 >>411
国家管理の道教以外は異端扱いだったので、一般道教は鬼道と呼ばれてもなんら不思議はない。
昔は政治と宗教が一体になっていた >>404
帥升=スサノオではありませんので。
もう少しカスってそうな名前を選ぶべきですな >>402
崇神は3世紀。少し遅い。
4世紀の神功皇后が3世紀に上書きされているのに崇神がそれではかち合う >>392
景初三年説もあり、紙に書かれたものでしか判断しない人にはこの話に参加する資格はない。
結果が見えてるんだからわざわざ前に出てくる必要はない >>391
九州説には、歴代大王の陵墓もないし、記紀に相当する様な書物もない 265年に曹魏が滅び、晋が引き継いだ楽浪郡が313年に滅ぶ
博多湾岸では4世紀中頃のVA期に遺構が減少し
大阪湾では布留U式期に中田遺跡群が激減し
吉備の足守川遺跡群も同時期に衰退する
纏向遺跡も同じころ消失する
これが3世紀前半に始まる博多湾貿易と呼ばれる時期で
この時期に配布された三角縁が畿内を中心に筑前で多く出土する
4世紀後半頃に沖ノ島祭祀が始まり
ヤマト政権と伽耶中枢部との直接交易の金海貿易に移行する >>394
九州物部を排除し、先代旧事本紀すら目が悪くて資料実態を確認しない奴に帰納するかどうかの判断など出来るわけがない。 >>390
黄巾の乱と、この後の一般道教である五斗米道集団から没収した鏡を卑弥呼に渡したらしいですね。
鬼道の鏡ですが、その象徴ごと国外に持ち出されるので魏からみれば問題ない事になります 三角は景初四年が出た時点で国産の模倣品という事で確定済み
駄々をこねてる奥山などはほぼ詐欺
畿内説の手法が徴用工問題を蒸し返した某国民族と共通するのは何故だろう?
お察しください >>430
>三角は景初四年が出た時点で国産の模倣品という事で確定済み
なら、どうして国産説が通説にならないの? 考古学会の通説=日本国の通説だとか思ってんのか?
何様のつもりだ? >>435
通説って学者の間のものだろ
素人の噂は関係ない >>385
邪馬台国は魏に何回か遣使してる事は魏志倭人伝に書いてるし常識
まさか知らなかったの?
そして三角縁神獣鏡は色々研究されてて本も出てるから
詳しく知りたいならそれを読め >>437
だからさっさとそれを出せクズが。
何回か朝貢してるのは邪馬台国で、登場人物は物部氏とアメノヒボコ。
さっさと出せ大嘘つきが。
お前、わかってんだろうな?2015年以前の古い本なんざ出すなよ? お前、まだ嘘をばら撒いて他人様に絡んでやがるのか?
いい加減にしたら? >>438
九州説が最後にすがるメモリアル・イヤー説が死んだ瞬間であった .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>425
同時代の陳寿の実地に見聞した魏志の記録では、
卑弥呼の遣使も、明帝の詔書も景初二年であり、
それを「卑弥呼の遣使も景初三年」という嘘吐き騙しの説を主張するこの男は、
史料事実や史料実態を否定して、自分の空想でしか議論が出来ない・・・・アホ詐欺師である事になり、
この話に参加する資格はない。
結果が見えてるんだからわざわざ前に出てくる必要はない >>426
>九州説には、歴代大王の陵墓もないし、記紀に相当する様な書物もない
九州には、歴代倭國王に相当するような墳墓は幾らでもあるし、
701年に九州倭國を併合吸収継承した大和の「禁書」によって、
大量の九州倭國文献が失われたが、
歴代中国史書群や半島文献や金石文などに拠って、
九州倭國の記録はいくらでも残っているが、
大和には、歴代倭國大王の陵墓もないし、大陸文書史料に相当する様な書物もない >>444
じゃあ既に比定の作業は終わってるだろうから、孝元天皇までの墳墓の比定地を教えて。
そもそも岡山は唯一三角縁神獣鏡が多めに出るところ。それ以外は圧倒的に近畿を中心とする。
ただでさえ畿内の影響を受けてるのが明らかなのに、陵墓もはっきりしてないなどあり得ない。
ヤマトが先祖の陵墓を蔑ろにするはずがない。
よほどの確度の伝承でもない限り不可能 >>436
昭和脳炎のお爺ちゃん、時代は令和ですよ >>406
無理。
卑弥呼の遣使が景初2年6月に帯方郡に到着しているのなら、その準備は年初頃には初めてなければならない。
とすれば、魏が倭国に冊封関係をもちかけたのは景初元年中だということになる。
しかし、その前年の青龍4年(236年)には公孫氏は魏に反旗を翻していて、対決は必死となっていた。
こうした時期に、公孫氏治下の帯方郡を経て魏の使節が倭国に赴くというのは、非常に無理がある。
魏による倭国との事前折衝は、戦いが収まった景初三年の年初頃から始まり、折衝は迅速に進んだのだろう。 全てにおいて長い想像作文を添付しなければ誰にも相手にしてもらえない畿内説あわれ >>427
>265年に曹魏が滅び、晋が引き継いだ楽浪郡が313年に滅ぶ 博多湾岸では4世紀中頃のVA期に遺構が減少し
九州では、卑弥呼の3世紀前半は福岡平野から筑紫平野の邪馬壹國が非常に繁栄し、
壹與の後からは糸島付近に中心が移り、
楽浪や西晋の滅亡や東晋の建国の大陸戦乱の影響を避けるために、
317年頃に糸島→久留米から筑後付近の邪馬臺後への遷宮遷都があり、
そのまま617年頃に太宰府への遷都まで続いた。
>大阪湾では布留U式期に中田遺跡群が激減し吉備の足守川遺跡群も同時期に衰退する
纏向遺跡も同じころ消失する これが3世紀前半に始まる博多湾貿易と呼ばれる時期で
いや、布留Uの激減は、4世紀後半であり、九州倭國の「東征毛人五十五國」の中心が、
中部や関東付近に移ったから。
>この時期に配布された三角縁が畿内を中心に筑前で多く出土する
大和の△は、大和などに、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与する「鏡作り神社」が出来たから。
>4世紀後半頃に沖ノ島祭祀が始まり ヤマト政権と伽耶中枢部との直接交易の金海貿易に移行する
沖ノ島は、元は、出雲系の宗像の島であったが、
海峡の阿毎氏の天照らの「天国(アマの国)」の地域になり、
ずっと糸島の伊都國の阿毎氏の「天の岩屋」であったが、
6世紀前半の(姫氏から倭國王を譲られた)阿毎氏の磐井が、大和の阿毎氏の継体らの反乱で死亡してから、
大和の阿毎氏が九州倭國の王家に秦王や太宰として参加する事になり、
沖ノ島祭祀にも参加出来るようになった。 >>428
>九州物部を排除し、
九州倭國は物部を排除しない。
「物部」とは、元は出雲王朝の「部」の民の一つであり、
九州倭國の高良山の古系図にも「物部」の名前が載っている。
>先代旧事本紀すら目が悪くて資料実態を確認しない奴に帰納するかどうかの判断など出来るわけがない。
素人オジンは、知り得た範囲内の、情報や記録やデータからの、
帰納的確率的な推論が出来れば、十分なの。 >>429
>黄巾の乱と、この後の一般道教である五斗米道集団から没収した鏡を卑弥呼に渡したらしいですね。
鬼道の鏡ですが、その象徴ごと国外に持ち出されるので魏からみれば問題ない事になります
明帝は、せっかく、
「男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈,以到。汝所在踰遠,乃遣使貢獻,是汝之忠孝,我甚哀汝」
とまで詔書で言っておいて、
「一般道教である五斗米道集団から没収した鏡を卑弥呼に渡した」なんてアホな事を、
する筈がないの。 >>441
>九州説が最後にすがるメモリアル・イヤー説が死んだ瞬間であった
大和説が最後にすがる、
「明帝の詔書は、景初三年の△のメモリアル・イヤー」説が死んだ瞬間であった。 >>453
朝貢した本人たちが欲しいと言ったからでしょ
事情を聞かれ、狗奴国と戦うのでと話したら、魏がそんな大変な時期に朝貢するとはと痛く感じ入った。
我が国の役人を遣わすから、勝利で持ってわが国に孝順を尽くせとなったわけだ。
大陸が日本国内の小競り合いに介入した大事件だったから魏書にも詳しく書かれた。
普段の朝貢なんて書くにも値しないありふれた情景だったのであろう。
だから九州を中心に後漢鏡がたくさん出る。
朝貢は貿易的な側面もあったらしいね 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>452
じゃあその絶対的な情報量が少ないんだから、少しは読んでる人に礼節をもて。
帰納法の確度は情報量に関係する。 >>445
>じゃあ既に比定の作業は終わってるだろうから、孝元天皇までの墳墓の比定地を教えて。
勿論、大和に天皇なんて、7世紀末以後まで全く存在せず、
「孝元」の欠史八代の一人であるから、
九州倭國の「地方の市を監督する大倭職」程度の地位でしかなく、その時代の大和は、
毛人や出雲系銅鐸祭祀部族と、九州倭国の東征後の大倭職の国の混合時代でしかなく、
前方後円墳など全くなかった。
>そもそも岡山は唯一三角縁神獣鏡が多めに出るところ。それ以外は圧倒的に近畿を中心とする。
ただでさえ畿内の影響を受けてるのが明らかなのに、陵墓もはっきりしてないなどあり得ない。
ヤマトが先祖の陵墓を蔑ろにするはずがない。
よほどの確度の伝承でもない限り不可能
「畿内」なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言だよ。 >>458
あんた九州説の人ならもっと真面目にやれよ >>448
>無理。
卑弥呼の遣使が景初2年6月に帯方郡に到着しているのなら、その準備は年初頃には初めてなければならない。
いや、難升米らは、魏の楽浪帯方征服戦争を知っての、緊急遣使。
とすれば、魏が倭国に冊封関係をもちかけたのは景初元年中だということになる。
持ちかけていない。「男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈」だけを持っての、
戦中緊急遣使。
>しかし、その前年の青龍4年(236年)には公孫氏は魏に反旗を翻していて、対決は必死となっていた。
こうした時期に、公孫氏治下の帯方郡を経て魏の使節が倭国に赴くというのは、非常に無理がある。
魏による倭国との事前折衝は、戦いが収まった景初三年の年初頃から始まり、折衝は迅速に進んだのだろう。
いや、緊急の「戦中遣使」。 >>455
大和説さん、実体のない悪口しか言えないんですね またテスト投稿
>>450
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説さん、
実体のない悪口しか言えないんですね >>465
曲解だっていう理由は?
また実体なしの悪口? @畿内説に合わない倭人伝を認めない。
A畿内説に合わない記紀を認めない。
B畿内以外の考古学的出土物を認めない。
Cフルボッコされた畿内説の負けを認めない。
D無視されると勝利宣言する。
E自分で荒らして他説のせいにする。
F論を批判せずに個人を罵倒する。
G存在しない遺跡や確認できない資料を提示して煙に巻く。
H畿内説に合わない鏡を認めない。後で作り始めたことにする。
I証拠を要求するが何を出しても証拠を認めない。
J証明を要求するが畿内説自身は証明ができない。
K論破していないことを論破したと主張する。
L計算ができない。
M方位も距離も畿内に合わせて読み替える。
N川と海の区別がつかない。
O東西南北が分からない。
P日本製を中国製と偽る。
ことで畿内説は成立しています。 >>467
17項目に一つも証拠の出せない九州説って
なんて空虚な妄想なの >>461
>いや、難升米らは、…緊急遣使。
ぽっと帯方郡へ行って、そのアポなし遣使にぽっと金印やるわということをそのまま信じられるオツムは、おめでたいというかなんというか、いや、やはりおめでたいとしか…。
>戦中緊急遣使。
アポなし朝貢なんて、しんじらませ〜ん。
それ、脳内劇場?
>いや、緊急の「戦中遣使」。
事前に朝貢の打ち合わせしてたのなら、戦中遣使もOK。
で、いつ事前折衝したのって話。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>449
切れ切れの短文しか、アップできないその理由は? 日本書紀の世界観
聖徳太子が日本で初めてシナに遣いを送った政治家。
天皇とシナ皇帝は対等であり、日本とシナも対等。
かつてシナに朝貢していた事実なんてないし、卑弥呼や倭の五王は大和朝廷とは無関係 しかしこれは、あくまで当時の大和朝廷が「…ということに、したい」というものであって
実際には卑弥呼も倭の五王も大和朝廷とめっちゃ繋がってる 魏皇帝は、通常の外交儀礼として正しい交換品を卑弥呼に贈ったほかに、皇帝の好意の現れとして別に8品目の品を贈った。
銅鏡百枚はその8品目の中の5番目に記されている。下から3番目だ。
魏側の銅鏡百枚に対する評価は、決して高くないのが分かる。
日本の古代史ファンなどはその銅鏡を非常に高く評価し、特別に造らせたものだと主張する者がいるが、当の魏の評価は特注した鏡というような評価でなかったことは、8品目のうちの5番目、下から3番目に記載されていることで察しがつく。
皇帝が臣下に分配するためにあちこちから集めて収蔵していた銅鏡の中から百枚を選んで、それを卑弥呼に贈ったということだろう。
銅鏡百枚の前に記されている五尺刀2口もそうした収蔵物とみるのがよい。
また、特注している時間的余裕もなかったとみるべき。 >>475
3世紀時点で奈良中心の統一国家だったと捏造に走るファンタジー脳学者は悪質だよな
このスレのの主も然り >>476
>日本の古代史ファンなどはその銅鏡を非常に高く評価し、特別に造らせたものだと主張する者がいるが、
在庫切れなら特注するだろ
当然のビヘイビアなんだがな >>478
否定する理由は、王都たる集落遺跡がないことだな。 わははははは @阿波 >>478
五王時代:各地勢力ライバル時代
秦王国:外国勢力が建国できてしまうほどの無防備さ
天智が滋賀に移住:奈良は安全では無かった >>479
発注先は福岡かな?w
『市教委によると、剣や矛などの青銅器は、紀元前3世紀ごろに伝来してまもなく国内生産が始まった。
一方、同遺跡の調査に携わった九州考古学会会長の武末純一・福岡大教授らによると、
鏡の鋳型は寺徳古墳(福岡県久留米市)などの紀元後1世紀ごろの出土品が最古級とされていた。
遺跡の竪穴住居では昨年、鋳型と同時期の紀元前2世紀ごろの剣や矛など青銅器の鋳型が大量に出土。』 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww またテスト投稿
>帰納法の確度は情報量に関係する。
世の中の情報には、相互に矛盾する情報が非常に多いから、
情報量が多いだけではだめだし、
帰納法の確度は、
知り得た個々の情報に対する「信頼性や確率の史料批判」を考察して、それを含めた帰納が必要だ。 >>481
>天智が滋賀に移住
阿波の天智がなんで滋賀に移住するんだよ。 馬鹿ですか? わははははは @阿波 >>485
はいはいはいはい何でもかんでも阿波阿波阿波
その努力もどーせ水の泡になるのにw >>439
邪馬台国が魏に朝貢したと魏志倭人伝に書いてる下りに物部氏もアメノヒボコも出てこないぞ
出てくるのは倭の使者の難升米や楽浪太守の劉夏など
そしてそんなに三角縁神獣鏡に詳しくなりたいならこれでも読めよ
https://books.rakuten.co.jp/rb/6532076/ >>486
>はいはいはいはい何でもかんでも阿波阿波阿波
何でもかんでも阿波なんだから、それをどうしろと? 無理を言ってはいけないよ。 わははははは @阿波 >>484
>知り得た個々の情報に対する「信頼性や確率の史料批判」を考察して、それを含めた帰納が必要だ。
九州説さん、その帰納をあなたが絶対にやらないのは、なぜ? そもそも銅鏡の話は記紀にも出てこないので論外だねw >>476
>また、特注している時間的余裕もなかったとみるべき。
なぜ?
制詔が238年で使者が行ったのが240年
余裕たっぷりでは? >>488
別に何もしなくても自然に消えるから
なんたって水の泡だからw >>492
>別に何もしなくても自然に消えるから
そりゃ、無理だって。 「邪馬臺国」は阿波だったんだから。 無茶言ったらイカンぜよ。 わははははは @阿波 >>491
>余裕たっぷりでは?
6月に帯方郡に着いて、それから渡海、陸行して洛陽まで進むには3か月かかるという人もいる。
ということは、8月いっぱいは道中。
9月に魏の役人と面会して、それから役人が皇帝の裁可を得て、銅鏡新造に取り掛かるとすれば、12月に皇帝に謁見するまで2か月くらいしか時間がない。
2か月で銅鏡百枚を新造するのは無理では?
制詔は皇帝の命令、即ち「みことのり」の意味だから、魏皇帝の詔書の冒頭に書かれている「制詔」以下は、「親魏倭王卑弥呼に制詔す…」と読むのが普通の読み方。
なので、皇帝がみことのりしたのは「其年十二月」だから、難升米らが帯方郡に到着した6月から6か月後となる。 >>479
>在庫切れなら…
皇帝がそんな無様な状況に陥るときは、政権崩壊のとき。
この時期はまだ万全。 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>487
お前いい加減死んだら?
2010年刊行の古い奴ではないか。お前人の話も聞けないのか? >>487
難升米 タジマノモリ。
アメノヒボコの子孫。彼が朝鮮語が使え漢文が読めたことから西軍大将と朝貢のメンバーになった。
イサチ事、物部イクメと同じ銀のハンコ。
彼は後に朝貢し、八本の黄色の属国旗を魏から貰い日本に持ち帰った。
ナシメちゃん程度の認識はともかくとしても、三角縁神獣鏡のデマは何だ?
詳しいとかそんなレベルではなく悪意すら感じるわ どちらにしろ、三角縁は4世紀頃からの古墳で出る鏡だから、3世紀前半の魏の皇帝からの贈り物説は無理だな。
だれかも書いているように特注は、日本の工房の話だろう。
三角縁=卑弥呼の鏡は、とにかく無理。 >>500
せっかく紹介してやってるのに文句ばかり垂れてるなよ
三角縁神獣鏡のことを語りたいなら最低限基礎的な知識は身につけろ >>501
どれがデマか?
どれも単なる事実を書いただけだが >>503
それは逆だよ
三角縁神獣鏡は景初三年つまり239年と年号が入ってるので
三角縁神獣鏡の出る古墳は基本的にその年代のものと鑑定される >>478
神武東遷
最初から畿内だったら東遷する意味ないだろ せっかく魏からもらった銅鏡を、ボスが死んだからと言って墓に埋めちゃうのもったいなくない?
普通は後継者に渡すよね、 >>504
そんなものは既にあるわ。
鉛同位体の分析でも既に魏鏡説は既に死んでる。
混合できたとしても後漢6−7期の物との特殊な組み合わせ以外不可能な同位体分析の結果が出ている。
楽浪郡の鉛か、対馬の鉛しか三角縁神獣鏡は作れない。
仿製鏡の技術が既にそのころには日本に存在してたのによ。
同原料は中国南方系。呉。
三角縁の技術も呉
上から目線でお高く留まる前に現実位認識しろ。
基礎情報位は押さえておけド素人が >>507
魏鏡説のアホからすると、鏡に触った途端に死んでしまう事になるらしいねw >>504
もう一度言うぞ?詐欺師。
・邪馬台国は魏に複数回遣使の裏付け
・色んなタイプの文様の三角縁神獣鏡を貰っていた事が判明している事の裏付け
・その文様の違いで年代も特定されている事の裏付け
さっさと出しなよ。
材料分析や文様、仕上げでも分類が意味をなさないのに破却された過去の情報を基礎情報として再び出すような真似をしたんだ
筋を通してきちんと説明しろ詐欺師 >>504
それと
https://books.rakuten.co.jp/rb/6532076/
の先生は、斜縁と三角縁を分けて考えてる人だぞ?
斜縁の鏡だけを扱った論文にも出てくる人だ。
流石詐欺師のチョイスだよなw >>516
それしか言う事はねぇんだろうさw
お前、阿波や×男以下の詐欺師だな 科学で纏向が邪馬台国っていう名前だったことがわかるの? やっぱ畿内説カルトって話してると朝鮮人を相手にしてるようでw
レーダー照射じゃないけど、証拠を出されてもインチキだってwwww >>521
どれが証拠?
九州説って、出所不明の噂話のほか何もしてなくない? >>522
論文にもなってる科学分析結果をインチキとかもうレベルが半島人
どれが証拠ニダ?だってよww >>524
などと言って誤魔化して、絶対に証拠を出さない九州説 >>502
>だったら先代旧事本紀読めや。
もう何十年か前に、断片的な記載情報を読んだ事が何度かあったが、
客観性の高い国外文献記録や金石文などの根拠の確認が取れず、
半分偽書の記紀と同レベルの、
「九州倭國の存在や歴史」を隠蔽したり、盗用したり、造作している記載が多く、
半分偽書的系図伝承であったから信頼性が低く、
私は、もう年取って病気勝ちになって、体力も視力も気力もなく、
おそらく、もう読まない。 >>509
>せっかく魏からもらった銅鏡を、ボスが死んだからと言って墓に埋めちゃうのもったいなくない?
普通は後継者に渡すよね、
「魏から貰った銅鏡」と断定している事が、そもそもインチキであり、
また、その鏡が遺族にとっても「お宝や家宝」になるものであれば、
副葬しないで保存するんだろうが、
個人だけの栄誉なものであったんなら、副葬されるのであり、
だから、記載された製作年次からその人物が生存していた期間か?、
それ以上後の時期の墓だ、という事になるな。 >>510
>そんなものは既にあるわ。鉛同位体の分析でも既に魏鏡説は既に死んでる。
混合できたとしても後漢6−7期の物との特殊な組み合わせ以外不可能な同位体分析の結果が出ている。
楽浪郡の鉛か、対馬の鉛しか三角縁神獣鏡は作れない。
仿製鏡の技術が既にそのころには日本に存在してたのによ。
同原料は中国南方系。呉。三角縁の技術も呉
ふーん、成程。
皆様は、よく勉強しておられますね。 >>512
>などと、素人じいさん夢を語る
などと、「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の否定や曲解の嘘吐き騙しの・・・・大和説の思想宗教的詐欺師は、
また、世間や国民を「口先で騙そう」とする。 >>518
>九州説は科学の拒否でしか延命措置ができないからね
大和説は、史料事実や、史料批判された史料実態の、学問や科学の拒否でしか、
延命措置ができないからね 、>>522
>九州説って、出所不明の噂話のほか何もしてなくない?
大和説者って、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などのような、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの他は、
何もしてなくない?。 >>525
>などと言って誤魔化して、絶対に証拠を出さない九州説
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅→否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しで誤魔化して、
絶対に証拠を出さない大和説者。 虚勢を張るだけで、相変わらず
具体的なことが何も言えない
張子の虎、九州説 陳寿は韓伝では穢は虎を神とし弁辰でも中国人に対して細かく説明している、が倭は鬼道と記しただけ、これで判る訳よ中国人わ。 >>532
「南→東」は当たり前
い「東南陸行」で末盧国から着く伊都国は北東にある
「冢→前方後円墳」って、どっちも墳冢なのは常識
始皇帝冢や華山の例は採算示した
「正北抵新羅」は誰でも鼻で笑って否定する
平安時代に九州倭国なんて存在しないことは中学生でも知っている >>534
悟性ないのは九州説の常
だって知性がないから /|∧_∧|
||. (・ω・`|
||oと. U|
|| |(__)J|
||/彡 ̄ ガチャ
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||. (´・ω・| うわっ、クソスレに来てしまった。
||oと. U|
|| |(__)J|
||/ ̄ ̄
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彡 ̄ ̄ パタン、 ┌┼┐
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○_____
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.|| (阿 波) |
.|| |
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( `・ω・||
ヽ っo
`u―u' >>1
優良スレ 普通 クソスレ
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88彡ミ8。 /)
8ノ/ノ^^ヾ8。( i )))
|(| ∩ ∩|| / / <ココ!
从ゝ__▽_.从 /
/||_、_|| /
/ (___)
\(ミl_,_(
/. _ \
/_ / \ _.〉
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(二/ (二)
○_____
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.|| (阿 波) |
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( `・ω・||
ヽ っo
`u―u'>>1 >>1
出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。
文字があったのならば、7世紀の朝廷は古代の王のおおよその実年を把握できており、
2世紀初頭の後漢書東夷伝の倭国王師升がスサノオ(Shuai sheng)だと分っていたでしょう。
記紀編纂時の7世紀後半と言えば、白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
かつてヤマト民族の始祖たるスサノオが渡海し生口160人を捧げて後漢の皇帝に朝貢していた。
ものすごくみじめであり自尊心がズタズタです。
彼ら7世紀の記紀編纂者たちは、古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、時代を古く古くすることでごまかしました。
また記紀編纂者たちはスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代になることも分ってたでしょう。
朝貢年
266年 台与 トヨ津媛
・
238年 卑弥呼Bei mei hu 比売后〈Bi; mai hou〉=ヒメ(踏鞴五十鈴)后
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升Shuai sheng スサノオ
だから記紀において神武東征をやたらクローズアップして、まるで男王国であったかのような記述をし、
卑弥呼であるヒメ(踏鞴五十鈴)媛の記述を最小限にとどめました。
そして神武をBC660年という遠い遠い過去に葬り去り、神武以降の天皇の年齢もそれに合わせました。
これが古代の天皇が100歳を超える日本の歴史の真相でしょう。 _,,、 ─‐'''''''''''''‐.、.っ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
,、‐'`::::::::::::::::::::::::::::::::::`、 っ | |
,r.'::://:::::i:::::::::::::::::::::::::::::::ヽ っ | >>1の母です。 |
,/::::::/:::;':i::::::!:::::::::::::::::::::::::::::::::゙、 | |
/::i:::::!i:::::::i:::::::i:::::::::::::::::::::::::::::::::::i | ・・・ごめんなさい、 |
l:i:i::::l_,|l::!:::i、:::::ヽ:::::::::::::::::::::::::::::::l .| 軽い気持ちで. |
!l::!:::|=、゙!`、!`ニ 、::`:::、:::::::::::::::::::::! | このスレをのぞいた |
ヽ:!:l|  ̄`u`、:::::::::::::::::::::::ノ | 私が馬鹿でした。 |
|{l 〈 u l:l`irr、:::::::::< _ノ こんな糞スレに |
. |ハ 、,,,__ リ ,ヒノ:::::::::::::', . ̄ ̄| 書き込みをしていたなんて !!|
/7'i、`='" u ' !;::::::::::::::ノ | 私が今日 |
. iY/,/,ヘ:、_,、‐'` `'---'" .| このスレを読んだこと、 |
!', , , ノ l ヽ u / | | >>1 には |
. 〈 ' ' ' / :l `i、 ,/ l .| 黙っておいてくださいね。 |
i 'i | !, ,/ l. \___________/
i u ヽ. l ,−'、 /へ l
i, }ノイ. ~ Y ゚ ヽ l >>509
だから実は鏡そのものは大した意味がないのかも知れないな
古墳と言う見てわかるモニュメントの大きさや形の方が重要なんだろう
古墳と言う大型の墳丘を作るようになったことで歴代の権力の流れを分かりやすく理解できるようになった
そういう意味では墳丘を作らない九州の墓は歴代じゃなくて一代限りの王なのかも知れないな
それこそ埋めてしまえば何も分からなくなる >>526
読まないのなら帰納出来ないから吠えるな 奥山氏の頭は、固いだけではなく、あまり出来栄えもよくないのだったな。 >>546
奥山氏の頭は、固いだけではなく、あまり出来栄えもよくないので、「纏向遺蹟は邪馬台国なのだ。」という嘘を信じてしまったのではないのかな。 巻向遺蹟は、魏志倭人伝とは全く無関係の相撲大会の遺蹟なのだったな。。。 魏志倭人伝とは全く無関係の相撲大会の遺蹟に、徳勝龍誠氏の優勝を記念して、記念碑が建てられたのではないのかな。。。 魏志倭人伝とは全く無関係の相撲大会の遺蹟には、相撲取りが実行する鉄砲という物事のために、掘立柱が立っていたのだったね。 >>551
秘密に行われる相撲の訓練を、外部から見られない様にするために、柵で囲っていたのだったな。。。 巻向の相撲取り達は、カエルと桃を食べていた可能性が高いな。 驚いたな。。。
昨夜、信州ブレイブウォリアーズが、死闘の末に、アイシンを打ち破ったのだな。。。 >>555
去年の今頃に、バンビシャスは、信州ブレイブウォリアーズと互角の死闘を闘ったのではないのかな。。。 >>547
そんなふうに
九州説がすぐ悪口を言うだけの卑小な存在に堕落するのは
論争で徹底的に敗れた証拠だな >>546
奥山氏の頭は、固いだけではなく、あまり出来栄えもよくないので、「纏向遺蹟は邪馬台国なのだ。」という嘘を信じてしまったのではないのかな。 細かいことは言わないで、畿内説はロマンですからwww >>556
最後まで、1点を争ったのだったね。。。 >>561
今は新型コロナウイルスの感染が恐ろしいので、アリーナでの観戦が出来なくなってしまったな。 呟き連句点は知能がないので
他人と対話してしまうと敗北を重ねる
なので、いつも通り最後は
自分の殻に閉じこもり呟きを始めるのだった
それが自我の崩壊を防ぐ最後の砦だった 頭が、固いだけではなく、あまり出来栄えもよくないので、「纏向遺蹟は邪馬台国なのだ。」という嘘を信じてしまった奥山氏が、魏志倭人伝時代の討論会で、完全に敗北したので、卑小な存在に堕落し、悪口を言い放ってきた。。。
563日本@名無史さん2020/11/10(火) 11:24:42.95
呟き連句点は知能がないので
他人と対話してしまうと敗北を重ねる
なので、いつも通り最後は
自分の殻に閉じこもり呟きを始めるのだった
それが自我の崩壊を防ぐ最後の砦だった >>562
ワクチンの開発が、必要なのではないのかな。。。 細かいことは言わないで、畿内説はロマンですからwwwwwww なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだろうか。 かつての絶対的な王者アイシンは、名前を変えるたびに、弱くなってきているな。 そもそもが東征してきてるんだから、畿内から発の東征なんてどっち方面よw 拾い物置き場
奈良県立橿原考古学研究所企画学芸部長
坂靖氏
現在の古代史・考古学界では邪馬台国がヤマト王権に発展したという邪馬台国大和(やまと)説が有力である。
けれども著者は、中国との直接交渉を示す考古資料(遺物)が弥生時代中期から後期の畿内地方ではほとんど確認できず北部九州に集中していることから、邪馬台国北部九州説を支持する。 >>571
坂靖
森浩一の最後の弟子
彼が定年を迎え、現役学者最後の 九州説が消えた 住むこと7、80年。北九州ならどっから来たんだよ。 >>568
日本国政府が正式に設置した機関が、邪馬台国畿内説に証拠が無い事を発表したからではないのかな。
そして、同時に、纏向には掘立柱跡だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法を使用された真実が、放送されたのだったな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html >>574
纏向の掘立柱跡は、建物跡ではなく、相撲取りの訓練のための柱の跡だった可能性も高いのではないのかな。 なぜ、今、 ドナルド・ジョン・トランプ氏は、軍隊の長官を交代させたのだろうか。 バイデン何某氏は、アメリカ国の政権を平和的に掌握できるのだろうか。。。 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 11月の最初の8日間で2020年の全期間を上回る太陽フレアが観測された可能性が、高いな。 >>546
奥山氏の頭は、固いだけではなく、あまり出来栄えもよくないので、「纏向遺蹟は邪馬台国なのだ。」という嘘を信じてしまったのではないのかな。 >弥生時代中期から後期
本当に九州とか言い出す人ってバカなのかね?
卑弥呼から100年以上前の話を持ち出してどうしたんだろう なぜ、今、 ドナルド・ジョン・トランプ氏は、軍隊の長官を交代させたのだろうか。 邪馬台国畿内説が成立する可能性が、まだ、少しでも残っているのか、それとも、可能性が全くなくなってしまったのかを、討論するためのこのスレッドが、邪馬台国畿内説が完全に破綻してしまい、討論が決着してしまったので、不活発になってしまった。。。 >>584
5ちゃんねるが不活発になると困る者達が、「纏向遺蹟は邪馬台国なのだ。」という嘘をまき散らして、討論が続いているかのように見せかけるだけのスレッドになってしまっているな。 11月の最初の8日間で2020年の全期間を上回る太陽フレアが観測された可能性が、高いな。 鏡といえば太陽信仰なのに何故前方後円墳の向きはめちゃくなのだろう >>585
奥山氏の頭は、固いだけではなく、あまり出来栄えもよくないので、スレッドを活発化できないのではないのかな。 相撲大会といえば土俵なのに何故前方後円墳の向きはめちゃくなのだろう まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 卑弥呼の寿陵は、山門権現塚。
卑弥呼の墓は、久留米御井祇園山。
邪馬台国論争は、めでたく決着。 >>568
日本国政府が正式に設置した機関が、邪馬台国畿内説に証拠が無い事を発表したからではないのかな。
そして、同時に、纏向には掘立柱跡だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、見事な対比法が使用され、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立柱跡には卑弥呼の城の条件が揃っていないという物事が理解できるように、真実が放送されたのだったな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html 桜木ジェイアール氏は、どうしているのだろうか、、、 >>587
ダメダメ。
主体は前方後円墳。
鏡は付けたり。
主客さかさまにしては、ダメダメのダメ。 京大霊長類研巨額会計不正
産経新聞 2020/11/10 12:35
京都大霊長類研究所(愛知県犬山市)のチンパンジー飼育施設の整備工事をめぐり、
元所長の京大特別教授(70)ら4人が公的研究費など約5億円を不正支出したとする問題で、
会計検査院は10日、新たに27件計約6億2千万円の不適正な経理があったと指摘した。 >>593
そういう詐欺やってるから九州説が亡んだんだぞ
まだ自覚がないのか
深刻だな >>568
元々、ヤマトの呼称に乗っかっていた大和邪馬台国説が、証拠固めのために持ち出した諸物件がことごとく論破されて丸裸になってしまって、
最後のヤマトの呼称すら後漢書から剽窃したものであることがバレてしまい、
ついに大和邪馬台国説者がまったくやる気をなくしてしまったということだな。
一方、九州説は、祇園山がいよいよ卑弥呼の墓らしい姿を現してきて、倭人伝の記述と祇園山がぴったしかんかんとみられるようになったことが大きい。
軍配は、九州説に上がったということだ。
とにかくめでたい。 だからなんで祇園山っていうのよ?、牛頭山だろ、スサノオの墓、古の辰韓。 またテスト投稿
>虚勢を張るだけで、相変わらず具体的なことが何も言えない
張子の虎、九州説
「南→東」や「冢→前項後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの虚勢を張るだけで、
相変わらず
具体的な反論が何も言えない
張子の虎、大和説 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>535
「南≠東」は、人類の常識であり、当たり前
「東南陸行五百里到伊都國」の東南は、末盧国からの出発時点での出発方向である事も、
人類の常識。
「冢≠前方後円墳」っても、人類の常識。
始皇帝冢や華山や馬韓の家屋の例は採算示した
「正北抵新羅」も、唐会要倭國伝の説明であり、唐代の東アジアの常識。
平安時代の二中歴の知識人は、九州倭國の存在も二倍年歴の存在も知っていた。 またテスト投稿
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態が判らず、
悟性ないのは大和説学者らの常
だって知性がないし、嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師だから またテスト投稿
>だから実は鏡そのものは大した意味がないのかも知れないな
古墳と言う見てわかるモニュメントの大きさや形の方が重要なんだろう
古墳と言う大型の墳丘を作るようになったことで歴代の権力の流れを分かりやすく理解できるようになった
そういう意味では墳丘を作らない九州の墓は歴代じゃなくて一代限りの王なのかも知れないな
それこそ埋めてしまえば何も分からなくなる
違うな。
巨大古墳は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の将軍らが、
征服した毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を支配威圧する必要があって、
生口や守墓人にして、巨大墓を造ったから、出来たのだ。 またテスト投稿
>>557
そんなふうに、大和説者が、
すぐ悪口を言うだけの卑小な存在に堕落するのは
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「倭國=正北抵新羅」などの論争で、
徹底的に敗れた証拠だな またテスト投稿
>奈良県立橿原考古学研究所企画学芸部長 坂靖氏
現在の古代史・考古学界では
邪馬台国がヤマト王権に発展したという邪馬台国大和(やまと)説が有力である。
けれども著者は、中国との直接交渉を示す考古資料(遺物)が
弥生時代中期から後期の畿内地方ではほとんど確認できず北部九州に集中していることから、
邪馬台国北部九州説を支持する。
ふーん。橿考研か。 またテスト投稿
>>弥生時代中期から後期
>本当に九州とか言い出す人ってバカなのかね?
卑弥呼から100年以上前の話を持ち出してどうしたんだろう
本当に「大和」とか言い出す男って、バカなのかね。
卑弥呼から100年以上前の大和の「毛人や出雲系銅鐸祭祀部族」時代の話を持ち出して、
どうしたんだろう?。 またテスト投稿
>>798
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しのような、
そういう詐欺やってるから大和説が亡んだんだぞ
まだ自覚がないのか
深刻だな 本日、桜井市民とお話ししましたところ、纏向は勘違いとの結論に至りました。 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>568
日本国政府が正式に設置した機関が、邪馬台国畿内説に証拠が無い事を発表したからではないのかな。
そして、同時に、纏向には掘立柱跡だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、見事な対比法が使用され、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立柱跡には卑弥呼の城の条件が揃っていないという物事が理解できるような真実が、放送されたのだったな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html 大和説者はとうとう辞表出して、姿くらましたようだ。 桜木ジェイアール氏は、日本を愛してくれたのだったな。 >>616
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、日本人を憎んでいるのだったね。 桜木ジェイアール氏は、アイシンに再雇用されたのでは、ないのかな。 だから原始道教集団なんじゃねえの?
日本に来たかは分からないが >>585
奥山氏の頭は、固いだけではなく、あまり出来栄えもよくないので、スレッドを活発化できないのではないのかな。 >>562
bリーグは、高齢者に対して、
「新型コロナウイルス感染症に罹患した際に、重篤化のリスクが高いと言われています。お客さまの健康を守るために、健康状態や来場時に感染リスクが高い状況が懸念される場合には来場自粛のご検討をお願いいたします。」
という要請を発表したのだったね。 >>622
僕達は、アリーナでの観戦以外でのバンビシャスへのブーストをすれぱ、良いよ。 邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、頭が悪いな。 邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、日本人を憎んでいることを、告白したのだったね。 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. ファンダメンタルを絶対に忘れてはいけないのでは、ないのかな。 邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、奥山氏が朝鮮人だという真実を、隠さなくなってしまった。 >>622
来場時に感染リスクが高い状況とは、免疫力が低い状況のことなのでは、ないのかな。 邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏が、「邪馬台国畿内説は朝鮮人の妄想である。」という真実をバラされ、焦っているな。 荒らしと中傷しか出来ないのは
九州説が死に体な証拠だな 叩かれても論破されてもコメだけはがんばってた奥山も心が折れたか >>461の訂正
>>448
>無理。卑弥呼の遣使が景初2年6月に帯方郡に到着しているのなら、その準備は年初頃には初めてなければならない。
いや、難升米らは、魏の楽浪帯方征服戦争を知っての、緊急遣使。
>とすれば、魏が倭国に冊封関係をもちかけたのは景初元年中だということになる。
持ちかけていない。
「男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈」だけを持っての、戦中緊急遣使。
>しかし、その前年の青龍4年(236年)には公孫氏は魏に反旗を翻していて、対決は必死となっていた。
こうした時期に、公孫氏治下の帯方郡を経て魏の使節が倭国に赴くというのは、非常に無理がある。
魏による倭国との事前折衝は、戦いが収まった景初三年の年初頃から始まり、折衝は迅速に進んだのだろう。
いや、史料事実は、緊急の「戦中遣使」。 >>468
17項目に、一つも、反論論拠を出せない大和説って
なんて空虚な妄想なの >>475
>しかしこれは、あくまで当時の大和朝廷が「…ということに、したい」というものであって
実際には卑弥呼も倭の五王も大和朝廷とめっちゃ繋がってる
これもダメだ。
「大和朝廷」なんて存在もしていなかったし、大和は、
卑弥呼や倭の五王らが派遣した「東征毛人五十五國」の中の旧小国の一国で、
地方の市を監督する「大倭」職で、附庸國であったの。 >>491
>なぜ?制詔が238年で使者が行ったのが240年余裕たっぷりでは?
使者が言ったのは238年だから、バツ。 >>640
お前も駄目だ。
さっさと他の資料にも目を通せ。
ただの邪魔な老害に過ぎない >>495
>・・・難升米らが帯方郡に到着した6月から6か月後となる。
これも間違い。
難升米らが帯方郡に到着した景初二年6月。 >>638
>17項目に、一つも、反論論拠を出せない大和説って
>なんて空虚な妄想なの
またウソをついてる
>>467の九州説 が
「17項目に一つも証拠の出せない」
って具体的な事実の指摘は
動かぬ証拠なのに 荒らしの原因を作ってるのは自分のニセスレの削除依頼も出さない自分にある
という事も分からない非常識人間だからな
バカ奥山は
頭のネジが100本くらい飛んでる奴だよ
荒らしてる奴と大して変わらない >>637
>いや、史料事実は、緊急の「戦中遣使」。
この投稿によって
九州説は無学すぎて
「史料事実」という基本的な言葉の意味も知らないで
濫発乱用していることが明らかになった >>514
斜縁と三角縁神獣鏡を分けて考えたから何かな
もともと分類上は別だと言っただろ
三角縁神獣鏡は楽浪でも見つかってるけれど
それを斜縁神獣鏡と意味不明なゴネ方をしてたのはそちらな事をお忘れか >>635
史料事実の曲解や布袋と、
荒らしと中傷しか出来ないのは
大和説が死に体な証拠だな >>646
この投稿によって
大和説は無学すぎて
「史料事実」という基本的な言葉の意味も知らないで
濫発乱用していることが明らかになった >>645
>荒らしの原因を作ってるのは自分のニセスレの削除依頼も出さない自分にある
>という事も分からない非常識人間だからな
荒らし犯人は気が狂ってる様だな
荒らし犯人が勝手に偽スレを立てる
これは悪事だ
荒らし犯人が畿内説スレを荒らしに来る
これも悪事だ
どこにこのスレの1の責任があるの? >>648の訂正
史料事実の曲解や否定と、
荒らしと中傷しか出来ないのは
大和説が死に体な証拠だな >>647
>三角縁神獣鏡は楽浪でも見つかってるけれど
ない。さっさとソースを出せ。
それと2018年とは言わねぇ。おまけで2015年以降にしといてやる
その年代以降のソースを出せ。この前みたいな2010年の本がソースだなんて間抜けはややるなよ?wwww >>517
三角縁神獣鏡を蛍光分析機Spring−8で分析した分析結果と
鉛同位体を分析したら違う結果が出たと言うならどちらかの計測方法が間違い
そして蛍光分析機による分析法は科学的に確立されたもので
鉛同位体分析法は朝鮮学者が世界でただ一人主張してるだけ
鉛同位体は同じ地域で同じ時期に作られた銅鏡でも成分が違ってると解析結果が出たりして
銅鏡の銅の産地を特定するのに有意な結果は出ていない >>652
楽浪では三角縁二神二獣鏡や三角縁四神二獣鏡
三角縁半肉彫神獣鏡などが見つかっているよ >>652
そんなに2015年以降に三角縁神獣鏡について書かれた本が読みたいか?
なら自分で探すというのは思いつかないの? >>650
「あの女が婦女暴行されたのはスカートが短かった自分の責任ザマス。ウチの坊やが襲ったのはちっとも悪くないザマス」
とか拡声器で怒鳴っちゃうモンスターママみたいだな
>>645には九州説の狂った倫理がよく出てる >>650
まだ分かんねえんだw
分かるまで645を1万回声読したらどうだ?
バカ東大さん(苦笑 >>651
>史料事実の曲解や否定と、
>荒らしと中傷しか出来ないのは
>大和説が死に体な証拠だな
九州説ってホントに愚かだな
オウム返しすると自動的にウソツキになるんだよ
自覚しろ >>657
ほら、そんなふうに説明能力ゼロで
直ぐ逃げるのも
九州説の特徴 >>653
>鉛同位体分析法は朝鮮学者が世界でただ一人主張してるだけ
お勉強からやり直しだな >>657
荒らしを正当化してる時点で
九州説は詰んでるんだが >>659
大和説ですんでw
畿内説じゃないぞ
大和盆地説ですんでねw >>654
ソースを出せ。
まさかの斜縁二神二獣鏡の話か?ww >>655
さっさと出せ。宿題が終わるまで出てくるな。
それと洛陽出土鏡に三角縁半肉彫神獣鏡はない。
半肉彫神獣鏡ならある。
あとは出自の怪しい三角縁神獣鏡の話なら加工技術跡が日本の国内の物と一致。
他には? >>660
勉強した結果が
鉛同位体測定とやらは朝鮮学者がただ一人主張してるもので世界で同様の測定法は行われてなくて
世界で使われてる蛍光分析とは違った解析結果の出るものという事がわかったんだよ >>662
そうやって、すぐウソをつくのも九州説の特徴 鉛同位体分析は広く行われてる
別に新井氏だけの話じゃない >>668
ウソつくな新井だけだろ
それに蛍光分析はさらに広く行われてる >>665
80年代から行われてきた同位体分析なのにか?w
さっさとソースを出せクズ。
2015年の洛陽出土の三角縁神獣鏡は二期の物で、日本国内の工人の加工方法と同じだと結論づけられている。 >>663
それなら楽浪で斜縁二神二獣鏡が出たというソースは >>668
いまじゃ錫同位体がトレーサーとして分析できる手法まで考えられてるのにw
鉛の同位体は非常に特徴があり、世界でも対馬の鉛だけが近い特性を持つ。
しかし、対馬の鉛の発掘時期との照合や使用例の確認はされていない。 >>671
2016年度版の洛陽出土鏡の一覧でも見てきたら?
本にもなってるだろ。検索してもすぐ出てくるぞ? むしろ馬淵氏や平尾氏のほうが鉛同位体の分野でずっと権威となってる
で、この人たちの見解だと三角縁の鉛は中国産だが年代鏡以外は全部畿内で作ったとしてる
その鏡も武昌の呉の領域のものと判断してる >>669
新井は統計だけ
測定はやったことがない >>670
80年代から新井が鉛同位体分析で青銅器の銅の産地がわかると詐称してても
有意な結果が出てない物は出てない
銅の産地がわかるなら当然現在考古学分野に取り入れられてるはずだけど
世界の考古学分野でその手法が使われてるというのは全くない
どうやら学者間ではとっくにインチキがバレてるもよう >>672
>鉛の同位体は非常に特徴があり、世界でも対馬の鉛だけが近い特性を持つ。
そんな変な主張をした人の名は? >>671
『古鏡聚英』(後藤守一編修)には、楽浪出土の三角縁二神二獣鏡がいくつか掲載されているが、現在、これらの三角縁二神二獣鏡は三角縁神獣鏡ではなく、斜縁二神二獣鏡という鏡式になる
こんな程度の話でも2009年前後の話だぜ? >>672
だから銅の鉛同位体を計測したって
どうやら製造時のロットごとに違う数値が出るらしいというだけで
製造時期や製造場所の特定には全く使えない
どうやら製造時に銅に添加する鉛の量で鉛同位体の量は決まるらしくて
要するに無意味な数値しか出てこない >>679
錫と銅の字も区別できないほど慌ててるのか?www 馬淵氏の研究によって
前漢鏡
後漢鏡
日本の鉛
朝鮮半島の鉛
という鉛の分布が明らかになってる
で、鏡がこのカテゴリーで判断できるようになった
仮に日本や半島の鉛を混ぜた鏡を作るなら漢鏡と違う分布を示すのが明らかになるわけだ >>681
よくわからない言いがかりをつけるくらい慌ててるの? 「張氏車騎神獣画像鏡」の方がよっぽど三角縁神獣鏡に近いわ〜と自ら暴露してみるww
これだと魏の時代にも合いそうな感じはする。
しかしなぜかこれは三角縁神獣鏡の中にはないっていない。 >>684
そう、そして朝鮮半島の鉛の配合と一緒にするには
後漢鏡代6期とある材料を組み合わせて鋳溶かさないかぎり同じものは作れない事まで論文になってる そもそもフチが三角になってる鏡は普通に中国でよく見られるし
三角縁神獣鏡と斜縁神獣鏡は文様に共通点も多い
それを三角縁神獣鏡と名付け別カテゴリにして
倭でしか見つからない鏡と印象操作をしてるのが九州説 邪馬台国の会の九州説荒らしバイトの中身が変わったせいか
三角縁神獣鏡に果敢に挑みかかっては粉砕されてるな
ちょっと前までのバイトは三角縁神獣鏡でさんざんな目にあって
三角縁神獣鏡と出るだけで逃げ出してたものなのにね 洛陽出土鏡は「三角縁」ではなく「斜縁」であるという見方があるのに対し、紹興出土鏡の方は明らかに「三角縁」であり、紹興からの影響をより強く感じざるを得ない。
樋口隆康氏は、会稽は呉の領域内であるのに魏鏡を作っていたという。このことは洛陽岳家村出土の鏡も呉の領域内でつくられたものではないかということを想像させる。
https://www.ne.jp/asahi/isshun/original/note38.html ほら邪馬台国の会の新人バイトはザラコクや連続句読点や阿波を見習って
もっと狂気じみた書き込みをやってかないと
でないと他説はこのスレでは生き延びれないぞ >>677
>そんな変な主張をした人の名は?
気になってるフリしてるだけだろ?
証拠を出されてもインチキとか吠える奴にそんな徒労をしようとは思わない。w 魏書に載った武内宿祢が作らせた自分用の鏡は10面あったと出雲伝承には伝わる。
そのうちの一枚が景初3年の鏡。畿内ではなく出雲の神原神社。
武内宿祢の墓は、弟の額田宿祢(出雲に行ったのは息子との伝承もある)が作った。
初期ロットの10枚と、武内宿祢用の10枚が同じものかは不明だがね。
出雲伝承を基にするのであれば、三角縁神獣鏡は少なくとも下賜されたものではない。
しかし、ど真ん中で卑弥呼時代の物部東征時期にかかってくる重要なアイテムである。 >>527
卑弥呼が魏がらもらった鏡が個人的な栄誉なわけがないから
卑弥呼の墳墓に魏からもらった鏡を生めるわけがないんだよ
と思ったんだけど、どうも噛み合ってないようだな ちなみに景初3年の鏡は一期に相当するもので、2016年近辺に突然洛陽で出たとされたものは二期の物に近い。 >>696
書かれたレスをちょっこと変えて延々オウム返しする
九州説のオウム人間ザラコク先輩に
意味不明な事を呟いてAA連投して板全体を荒らして畿内説になすりつけようとしてバレた
連続句読点先輩
早いとここういう風になりたいんだろ >>541
日本人は実はけっこう昔から文字を使っていた
古代日本がシナに朝貢していた事実を記紀の編纂者たちは隠そうとした
この2点は同意できる >>688
三角縁神獣鏡が国産かどうかと、畿内説、九州説は本質的に無関係。
どっかの誰かが欲を張って言い出しただけの幻。
国産説だとどうだというのだ?畿内が聞出て無くなるわけでもあるまい。
嘘までつかなければならないその人間性こそを憂うべきだ >>695
>証拠を出されてもインチキとか吠える奴にそんな徒労をしようとは思わない。w
要するに証拠は出したくない=出せない
証拠が出せない=デッチ上げ
言い訳としては下手すぎ >>571
もしも邪馬台国が大和朝廷に発展したのであれば
じゃあ神武東遷の物語はなんなのか、と >>703
お前が要求しているものを出さないのにこっちが出すわけねぇだろ
どんだけ上から目線のおぼっちゃまなのよwww >>704
物部氏のヤマト乗っ取りは成功して垂仁天皇ことイクメが政権を取ったから間違ってはいない。
しかし、その瞬間に倒した相手がヤマトだったという事を認めることになり、畿内ヤマトの存在が成立するw >>702
それ、おかしい
畿内説は三角縁が国産でも中国製でも成り立つ
九州説は三角縁が中国製だと即死する
立ち位置がまるで違う >>707
何で?もともと100枚の鏡は別物なんでしょ?
もう少し詳しく。 >>707
魏鏡説は基本的に邪馬台国畿内説の人が主張するものでは? >>705
>お前が要求しているものを出さないのにこっちが出すわけねぇだろ
苦しい言い訳しまくりだな
お前が自分の主張の証拠を頑として出さないなら
お前の主張が「証拠なし」になるだけ
お前が損をするだけだ
つまり
お目はバカということだ >>710
そこまで言うのならこっちが出した要求を先に満たせよ
いつまでグダグダやってやがるんだ?
こっちは何時でもいいんだぜ?お前と違ってなwww
どうせまたインチキとか吠えるんだろうがよw鉛分析みたいになw >>708
>何で?もともと100枚の鏡は別物なんでしょ?
別物?
何を言っているのか意味がわからない
三角縁が魏からの下賜鏡なら九州説は即死
これ、わかる? >>599
なぜ邪馬台国との連続性を否定したい大和朝廷が後漢書からヤマトをパクるんだ? >>711
>そこまで言うのならこっちが出した要求を先に満たせよ
要求ってなんだ?
いつ、誰に要求した? >>712
三角縁神獣鏡が畿内発の大量の出土物だから?
これって諸刃の剣で、伝統的に畿内派が卑弥呼の鏡だって言ってたら100枚超えちゃって、まいっちんぐ、の話だろ?
九州では例外的に福岡のみ、大量に出てる >>714
さっさとソースを出せ。
本記で朝鮮人と話をしてるような気分だわw >>702
三角縁神獣鏡は今のところ国産である証拠はないよ >>709
>魏鏡説は基本的に邪馬台国畿内説の人が主張するものでは?
畿内説には魏鏡説の人と国産説の人がいる
九州説には国産説しかいない
三角縁が魏鏡なら九州説は即死する
三角縁が国産でも畿内説は痛くも痒くもない >>717
三角縁神獣鏡は今のところ魏国産である証拠はないよ。
鉛の分析からね。そのうち錫でも裏付けがでるだろう。 >>716
>さっさとソースを出せ。
なんのソースを?
日本語が不自由なやつだな >>715
邪馬台国は魏に4回は遣使してるので
100枚超えたって問題なし
そして国内で粘土で鋳型をとって複製したぼう製鏡も存在 >>718
>九州説には国産説しかいない
そうなの?九州説は、卑弥呼が貰った鏡は後漢鏡とか、別の鏡だって主張かと思ってたが。
だってもともと三角縁神獣鏡は九州全体から見れば畿内より最初から圧倒的に出土が少ないわけだし
後漢鏡の出土は圧倒的に九州が多く、畿内は少ないもん。
そもそもが三角縁神獣鏡は九州説はあまり重要視してない気がする >>715
>これって諸刃の剣で、伝統的に畿内派が卑弥呼の鏡だって言ってたら100枚超えちゃって、まいっちんぐ、の話だろ?
まいっちんぐって何?
そうなるって理由は? >>640
日本語読解力のないアフォ
「当時の大和朝廷」というのは、記紀を編纂した当時の大和朝廷という意味だ。 >>721
>邪馬台国は魏に4回は遣使してるので
邪馬台国はね
畿内ヤマトはその時代、吉備国で瀬戸内海が分断されており、朝貢はできなかったよ。
武内宿祢ですら四国ルートで和歌山入りしてるくらいだもん。 >>719
鉛の分析は意味ないよ
景初三年や正始元年の魏の年号の記名や銀アンチモン比が魏鏡と同じこと
銅出徐州 師出洛陽 徐州の銅で魏の鏡師が作ったと書いてる事や
洛陽や楽浪でも出土が見られるので
三角縁神獣鏡は魏鏡とされている >>725
畿内ヤマトはその時代吉備国で瀬戸内海が分断されていたというソースは? >>723
なん・・だと?まいっちんぐマチ子先生を知らんのか?
日本人ではないかもしれないwww >>722
>後漢鏡の出土は圧倒的に九州が多く、畿内は少ないもん。
5期とか6期とか、魏の成立より100年以上古いものが弥生遺跡から出るだけだから
九州説の弱点だな
それも致命的な >>718
九州説は即死しません
そもそも、なぜ鏡を墓に埋めるのだ?普通うめないだろ、せっかくもらったものを >>727
和国大乱期と、出雲伝承。
それと磯城登美家の家系図。
加茂氏の八咫烏の時代は孝元天皇の時代。
魏書の邪馬台国時代で吉備国は滅ぶ。
記紀は二回にわたる東征をBC660年にしてるから参考にはならない >>731
ですよねぇ。w
鏡詐欺師必死過ぎですよねぇww
墓穴を掘るってこういう事を言うのでしょうか?w
元々銅鐸祭祀の畿内ヤマトが何故鏡が出るようになったのかすら疑問にも思ってこなかった人なのでしょう >>728
ググったら1980年代のアニメだってw
やっぱり九州説は前世紀の遺物だった >>734
なんだ?まさか20代の若者なのか?君はw >>726
そんなソースはこのスレッドでしかヒットしませんなぁwww
>「景初三年や正始元年の魏の年号の記名や銀アンチモン比が魏鏡と同じ」 >>731
>九州説は即死しません
死なない理由は?
卑弥呼のもらった鏡が畿内の古墳を中心に全国に分布することになるんだよ
どうして九州説が死なないと思えるの? >>726
>鉛の分析は意味ないよ
wwwwwwwwもうダメ俺もオシッコ漏れそうww >>732
倭国大乱はAD180年
畿内にあった邪馬台国の魏への遣使はAD239年 >>737
なぜ鏡がいつまでも九州だけに留まってると思うの?
邪馬台国は他国と交流なかったとでも? >>737
>卑弥呼のもらった鏡が畿内の古墳を中心に全国に分布することになるんだよ
卑弥呼が貰った鏡が別の鏡だって話は、あの鏡が国産説だとかえって有利にはなるわな、九州説にとってwwwww >>736
三角縁神獣鏡 景初三年鏡と
三角縁神獣鏡 Spring8とそれぞれ検索すれば出てくるよ >>740
また発狂か?
邪馬台国が他国と交流あると
魏の皇帝から下賜された鏡が畿内大和中心に分布する様になるのか? 後漢鏡の出土状況(仿製鏡も含め、三角縁神獣鏡を除いたすべて)
は圧倒的に九州が多く、卑弥呼時代の東征時期に合わせ、じわりと畿内に移動していく。
吉備国の瀬戸内海沿岸にも東方向に展開していく
鏡の東遷説ってのはずいぶん昔から言われている事。
そもそもが九州説にとっては三角縁神獣鏡がどこの出土でも影響はない
逆に、三角縁神獣鏡が畿内発の唯一の鏡であることが畿内政権の存在の証明にはなっても、九州の政権の比定にはならないという事が畿内派にとっては困ったことになるんじゃないのか?www >>738
九州説ってまたオムツが必要になる高齢者世代なんだな >>744
三角縁神獣鏡には景初や正始と
魏志倭人伝に卑弥呼が魏に遣使した年と書いてる魏の年号が彫ってあるよ >>744
>後漢鏡の出土状況(仿製鏡も含め、三角縁神獣鏡を除いたすべて)
>は圧倒的に九州が多く
間違いだな
九州に多いのは魏の成立より100年は古い鏡ばかり
2世紀後半あたりの鏡から西日本に広く分布するようになる
卑弥呼の時代の鏡は三角縁に限らず畿内が中心だ
九州説は死んだんだよ >>742
http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/press_release/2004/040515/
これだろ?
だから、材料の話と制作地域の特定は別の問題なんだよ。
出雲伝承でも材料はすぐに不足したって思いっきり出てるからね。
そもそもが、さっき出したけど魏の鏡を呉の職人が作ってたという学者の話があるくらいなのにwwww >>744
>逆に、三角縁神獣鏡が畿内発の唯一の鏡であることが畿内政権の存在の証明にはなっても、九州の政権の比定にはならないという事が畿内派にとっては困ったことになるんじゃないのか?www
魏帝からもらった鏡が無くって、配布もできなかったのなら
九州の政権とか脳内劇場でしょ >>748
>そもそもが、さっき出したけど魏の鏡を呉の職人が作ってたという学者の話があるくらいなのにwwww
話じゃなくて歴史上の事実だぞ
呉が魏に臣従していた時代に献上してるから >>751
呉が魏に臣従していた時代に献上してるから
じゃあ三角縁の技術が呉の発祥の技術だって認めるようなものだなw >>750
>そもそも当時の日本には既に国産鏡を作る技能があったのによwww
あっても三角縁神獣鏡をデザインする能力がないんだよ >>749
三角縁神獣鏡の産地が変わると困るのは畿内説であって九州説ではない。(鼻ほじ) >>754
デザインは武内宿祢の軍隊の笠松模様
能力が無かっただって?wwww
そもそもが中国の鏡の権威が、大陸にはない文様だって言ってるのにか?www
お前不死身の男だなw >>752
>ほれほれ〜ww
お脳が可哀想なやつだな
それ、お前が反論したがってる>>747が言ってるとおり
畿内説の学者が言ってる
卑弥呼の時代には漢鏡の分布は畿内中心って説を
紹介してるじゃないか
九州説死亡で確定なんだよ >>757
ばっかじゃねぇの?
東征完了の時代を考えてみろよwww
ぜーんぶ畿内のブラックホールだなwwww
いいか?卑弥呼の時代の鏡の分布が九州から端を発してるって無いようだろ?
お前、畿内が好きすぎてぜーんぶそんなものの見え方しちゃうわけ?www 畿内説の無能さは、鏡に執着しすぎたことにあるよなw
銅鐸とか銅剣で話をすればよかったのにw
銅鐸が淘汰され銅鏡が侵食してきた。宗教戦争が起きてたとかそういうのにも想像が行かないわけか?
とんだ素人だなww あと吉備国の瀬戸内海支配は、新型の平型銅剣でも分かる。
あれは出雲の銅を吉備国が奪って作った剣だから材料でもすぐにわかる。
四国の北側まで吉備国が抑えてたから、畿内ヤマトの朝貢は不可能。
そして、吉備国そのものがヤマト王朝(葛城国)が分裂した国だから、日本海側の出雲も敵に回っており、ヒボコの丹後の国もあったから日本海ルートも寸断
九州勢しか朝貢出来ない時期だったwwww >>758の知能ゼロを確認した
>ほれほれ〜ww
https://blog.goo.ne.jp/osamufuruta/e/e34e7e58d53c215217da7bed370ebcd4
サイトの内容
「その後、魏志倭人伝によれば、倭国内で乱があって、卑弥呼が倭国王になった約100年後の時代の漢の銅鏡の出土分布をみると、下図のようになる。」
「北九州はほとんどなく、畿内に分布が固まっていることがわかる。
明らかに、銅鏡が列島に入ってくる場所が変わったことが明確になる。
この岡村氏の銅鏡の編年研究だけで、二世紀の終わりから三世紀の最初に、古代の日本で、権力の場所が北九州から、畿内に移動したことが推定できる。」
九州説死亡のお知らせだ ちなみに唯一残った四国の南ルートは物部氏の勢力圏内だから、畿内からの朝貢も無理。 >>758
>いいか?卑弥呼の時代の鏡の分布が九州から端を発してるって無いようだろ?
お前に脳が無いようだ >>761
九州勢にヤマトが乗っ取られた、東征を裏付けるものだろ
畿内説の近視眼ってスゲーよなwwww >>758
>東征完了の時代を考えてみろよwww
東征なんてものが九州説が思いついたフィクションだから
話にならない >>765
>東征なんてものが九州説が思いついたフィクションだから
話にならない
ギャハハハハハハハwwwww
東征は記紀で書かれた畿内の書物によるものだろwww
おいいいwwww >>764
>九州勢にヤマトが乗っ取られた、東征を裏付けるものだろ
>畿内説の近視眼ってスゲーよなwwww
あなたが得意顔で紹介したサイトには
あなたが言ってることと正反対の畿内説が紹介されてますね
「二世紀の終わりから三世紀の最初に、古代の日本で、権力の場所が北九州から、畿内に移動したことが推定できる。」 >>766
>東征は記紀で書かれた畿内の書物によるものだろwww
つまり邪馬台国畿内説には関係ないわけだが >>767
その時代は倭国大乱期wwww吉備国の裏付けwwww
もう馬鹿すぎて話にならないwwww 「権力の場所が北九州から、畿内に移動したことが推定できる。」
「権力の場所が北九州から、畿内に移動したことが推定できる。」
「権力の場所が北九州から、畿内に移動したことが推定できる。」
まずは大前提として九州に権力があったって話だろ。
それは引っ越しのサカイの話とでも言うつもりなのか?銅鐸から銅鏡に入れ替わってるのにか?ww もうさ、畿内説が好きすぎて、その辺のエロ本見ても畿内説の補完に見えちゃうんだろうなw 知能がない
日本語が読めない
これが九州説入信の必須条件なようだな
これ、最高に笑えるww 九州説の息の根とめた畿内説紹介したよこのバカ
↓
752日本@名無史さん2020/11/11(水) 01:18:50.03>>757
ほれほれ〜ww
https://blog.goo.ne.jp/osamufuruta/e/e34e7e58d53c215217da7bed370ebcd4 >>770
>まずは大前提として九州に権力があったって話だろ。
その九州がド没落して
卑弥呼の時代には畿内勢力の尻に敷かれてたって
畿内説が書いてあるだろ >>771
>もうさ、畿内説が好きすぎて、その辺のエロ本見ても畿内説の補完に見えちゃうんだろうなw
あなたが紹介したのは京大の岡村説
典型的な畿内説ですが 第一次物部東征が、五瀬の東征。倭国大乱期。
日向神話は五瀬が物部氏であることを隠している。
畿内ヤマトに銅鏡が入り込んだのは熊野から入ってきた物部氏が持ち込んだもの。
そこころわんさか銅鏡が九州にあったからね。
フトニが吉備に攻め込んだおかげで葛城国は人口が減少してしまい、五瀬の兄弟が奈良入りした時には抵抗しきれなかった。
次の代のクニクルの時代に物部氏の奥さんを貰う。その際に登美家のモモソ姫が三輪山祭祀に銅鏡祭祀を取り入れ落としどころにした。
それに反発したのが大彦。かれは180年代に熊野勢に敗れ北陸や東海に引くが、物部嫌いで合った彼は逃れた先で銅鐸祭祀を続けた
だから特に東国は銅鏡の出土が少ない。
阿部氏を名乗った大彦が作った国がクナト国(クナ国)
二度目の東征が九州勢卑弥呼の宇佐の豊国と、九州物部勢の連合国。
三角縁神獣鏡は西軍側、畿内ヤマト側で配られた鏡で、畿内ヤマトに関連した鏡ではあるが、朝貢出来ない時期の鏡で魏の鏡ではない。
九州説は死亡しないww勝手に自説が崩れたら九州はおしまいだぞなんて、まるで朝鮮思考だなw >>775
そういう脳内劇場100%になったら
九州「説」は死んだということで >>774
>「京大の岡村 典型的な畿内説ですが」
だからさ、何でこれを出したかって言うとさ
「お前そっくりだろ?」wwwwww
自分で答えを出しておいて、結論だけ畿内説って、まさにそっくりじゃんwww 三角縁神獣鏡が東遷してきた話なのならまだわかるけど、なんであの人後漢鏡とかで論文書いて畿内説に収束したんだろうなww >>778
あなた記紀もまともに読んでない人?
クニクルの時代に物部氏の奥さんを貰うって書いたけど、イカガシコメ事だよ。
子供に開化天皇と、孫にフツオシマコト。ひ孫に武内宿祢だ。
魏書の朝貢メンバーくらい最低限抑えておいたら?ww無知丸出しwww >>779
>自分で答えを出しておいて、結論だけ畿内説って、まさにそっくりじゃんwww
結論だけ?
何を言っているのか意味不明だ
「二世紀の終わりから三世紀の最初に、古代の日本で、権力の場所が北九州から、畿内に移動したことが推定できる。」
からは
畿内にいた卑弥呼が魏に朝貢した
という答えしか出ないんだが? >>782
その畿内の国が分裂して吉備国作ってるのにか?ww
お前の脳みそは人の話を聞くようにはできてないようだなw
発信力はあっても全く受け止める能力はない。きっと周辺の誰かにも同じこと言われててもおかしくはないレベルw >>782
吉備の国の位置分かってる?
仮に吉備国の卑弥呼が朝貢したという事ならまだわかるがww >>779
>だからさ、何でこれを出したかって言うとさ
>「お前そっくりだろ?」wwwwww
>自分で答えを出しておいて、結論だけ畿内説って、まさにそっくりじゃんwww
間違いに気づいて必死にごまかす九州説男がミジメすぎる
>>752で
>ほれほれ〜ww
https://blog.goo.ne.jp/osamufuruta/e/e34e7e58d53c215217da7bed370ebcd4
>三角縁神獣鏡みたいなものじゃなくて、ベンチマークは別の鏡だぜ?
>なーにが九州説が死亡するだよwww
と言ってた時は明らかに、そのサイトに書いてあることが正しくて畿内説からの追及をかわせると思ってたくせ
そのブログ程度の簡単な日本語も満足に読めない九州説男の貧弱な脳が可哀想でならない >>786
上手く飛べなさそうだからもういちど
http://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/361chiiki-y.html
ま、三角物神獣鏡ごときで全体を俯瞰する事など逆に不可能という事だよ。畿内説さん残念でした〜。
これから先はもっと物証をそろえないとね >>785
それ、弥生中期だぞ
時代の観念がない人が歴史を語るの無理だ >>788
吉備国が何年続いたかも知らない奴が何か吠えてるようですが?ww 早い段階から、銅鐸祭祀と銅鏡祭祀の宗教戦争って前置きしてたのに、ホントお前馬鹿だなw
ここに銅鏡の編年を重ねろよ。
畿内説って無能ばかりなのか?w >>787
ほら、内容を把握できてないから説明がまったく出来ない
自分の主張を否定しちゃうサイトを引用してはドヤ顔する
そしてまた恥をかく
そのサイトも畿内説だよ
脳の可哀想な人だ だからその畿内の政権が東征でボコられたんだろ?
お前さ、このスレッドって畿内政権の存在の証明の場じゃないんだよ。
邪馬台国のスレッドなの。それも魏志倭人伝に載った時代の。 >>783
>その畿内の国が分裂して吉備国作ってるのにか?ww
また新しい珍説かね?
素人さん新発明の珍説で学者の発表してる学説を否定しようって
とんだ蟷螂の斧じゃないか
だから九州説が物笑になるんだ >>793
だいたいさ、適当とは言え、BC660年に神武ってなってるんだから畿内に昔から村長さんレベルの物は存在しただろ。
邪馬台国畿内説と、畿内の政権の証明は別なんだよ。
お前の捏造の三角縁神獣鏡の話は全く関係が無いの。まだそれを言われてるのが分からないのか?
畿内に政権が有ったらそれは畿内説ニダってお前の我田引水だろwww >>792
>だからその畿内の政権が東征でボコられたんだろ?
東征なんて九州説の妄想で邪馬台国畿内説という学説を否定できると思ってるところで、もう九州説は失笑買ってるから
自覚してね >>795
だいたい吉備国を知らない時点でもう落第。
箸墓の埴輪の元になった特殊器台が生まれたのは吉備
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E5%9B%BD
これを否定した段階でタダの鏡オタク。役に立たない情報ばかりをここで並べてるだけのおっさん。 三角縁神獣鏡国産説にすると九州もダメージがある筈ニダ。
だから畿内説が勝ってるはずニダwwww >>794
>だいたいさ、適当とは言え、BC660年に神武ってなってるんだから畿内に昔から村長さんレベルの物は存在しただろ。
>邪馬台国畿内説と、畿内の政権の証明は別なんだよ。
ホントにお脳が弱いんだな
お前がまたウッカリ引用しちゃった守山のサイトにも
「ここで大切なのは、武力による制圧ではなく、祭祀(宗教と言っていいか)を通じた統合であったことです。」
「瀬戸内、近畿、東海に広がる銅鐸祭祀圏では、銅鐸の形状・文様の変遷から、倭国が統合されていく様子が読み取れます」
とあるんだよ
この統合の先に三角縁と前方後円墳を通して見える卑弥呼のヤマト王権があるんだよ
>お前の捏造の三角縁神獣鏡の話は全く関係が無いの。
あるってのがまた、お前が引用しちゃった京大の岡村説なんだよ >>798
>「ホントにお脳が弱いんだな
お前がまたウッカリ引用しちゃった守山のサイトにも
「ここで大切なのは、武力による制圧ではなく、祭祀(宗教と言っていいか)を通じた統合であったことです。」
「瀬戸内、近畿、東海に広がる銅鐸祭祀圏では、銅鐸の形状・文様の変遷から、倭国が統合されていく様子が読み取れます」
とあるんだよ
この統合の先に三角縁と前方後円墳を通して見える卑弥呼のヤマト王権があるんだよ」
お前さ、この中のどこに銅鏡が入ってくるんだよ。
だからエロ本読んでも畿内説って言われるんだよwww
馬鹿馬鹿しい。
クニクルの時代に銅鏡祭祀が入ったって言っただろ?
それは宗教戦争の落としどころだったとも。
三角縁神獣鏡なんてそのころには関係ないんだよ。
景初の頃はもう開化天皇の息子の代。ヒコミチヌシとサホ彦の代。
ヒコミチヌシは先代旧事本紀の国造本紀にも出てる。畿内の本流は奈良から追い出されてる。
鏡オタクがド顔すんのも大概にしとけや >>796
>だいたい吉備国を知らない時点でもう落第。
>箸墓の埴輪の元になった特殊器台が生まれたのは吉備
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E5%9B%BD
>これを否定した段階でタダの鏡オタク。役に立たない情報ばかりをここで並べてるだけのおっさん。
そんなテンプレにも書かれてる程度のことを知らない畿内説のものが居る訳ないじゃないか
畿内と吉備の連合が卑弥呼の新生倭国が誕生する最大のキーだというのが畿内説主流派 >>800
奈良から追い出されたヒコミチヌシは、丹波の国に逃れ、そこに網野神社を建て、父親のヒコイマス(磯城王朝10代)を祭る。
その後、若いころの彦多津彦の名前に戻し、稲葉国に移住。因幡国造になる。
武内宿祢は彼についていったが、物部イクメの暗殺を逃れ、出雲に。
だから、景初の鏡が出雲から出ることになった。お前の好物、三角縁神獣鏡の第一期の鏡だぞ?w >>800
>畿内と吉備の連合
www仰天の展開だなw敵国同士のはずが仲良しとはw
青銅器の分布からもそれはあり得ない >>799
>お前さ、この中のどこに銅鏡が入ってくるんだよ。
ホント、知能低いんだな
そのサイトは伊勢遺跡メインで、銅鐸祭祀圏がまとまって、のちに卑弥呼のヤマト王権草創を主導するって立場だから、まだ鏡の話は出てこないんだよ
その後が岡村の漢鏡7期2段階の話につながるのさ
>クニクルの時代に銅鏡祭祀が入ったって言っただろ?
>それは宗教戦争の落としどころだったとも。
そのお前がドヤ顔で引用したサイトが
「ここで大切なのは、武力による制圧ではなく、祭祀(宗教と言っていいか)を通じた統合であったことです。」
って立場なんだよ 物部氏のまとめた先代旧事本紀の国造本紀に出てくる段階でもう察したら?
嘘の鏡の事しか知らないオジサンww
吉備国は銅鐸祭祀もあったけど、銅剣は畿内とは違う。別の王権。
銅鐸というキーワードで畿内からわかれたことくらい理解したら? >>802
>www仰天の展開だなw敵国同士のはずが仲良しとはw
理由のない「はず」は馬鹿の証拠だ
>青銅器の分布からもそれはあり得ない
その分布、時代が違うから
その分立が解消して倭国が統合されていく
纒向を見れば畿内と吉備が連合した歴史的事実は
ちゃんと見える それと、鉄器の流入が一番遅く、丹後、物部の九州を除けば、吉備が相当な鉄器の技術を持ってた。
鏡だけのおっさんは妄想だけで吉備と畿内連合したと思い込みたいらしいが、肝心の鏡が更に分布が違う
東征時期には奈良と吉備は連合してなかった。それは三角縁神獣鏡が配られてなかったことからも分かる。 >>805
纏向からはもちろん吉備式の土器は出るがすごくランキングは低い。
銅鏡の殆どでない狗奴国系の東海の土器が圧倒的に多い。
これは実質の副王、加茂氏が狗奴国とは対立してなかったから。
加茂氏を経由して繋がりは復活したけど、土器の少なさで疎遠になってた時期を察したら?
連合してたはずなのに、銅鐸祭祀圏の方が交流が盛んだった事実をさw おかわいそうにw
何を言っても後出しジャンケンで必死に食らいついてくるw という事で魏志倭人伝と記紀、先代旧事本紀からやり直してこい。
国産の三角縁神獣鏡が無くとも九州説も、畿内説も全く影響がない。 >>653
>三角縁神獣鏡を蛍光分析機Spring−8で分析した分析結果と
鉛同位体を分析したら違う結果が出たと言うならどちらかの計測方法が間違い
根本的に、この男(おそらく東大理系博士号自称男)が、
検体△の材料に使用銅が、
製作鏡師の選択や地域や時代などに拠って、千差万別であり、
「どちらかの計測方法が間違い」であるのではなく、
どちらも、その計測結果も、(絶対断定出来るものではなく)近似値的であった、
という事が判らなかった・・・・アホであった、という事を示すだけ。
>そして蛍光分析機による分析法は科学的に確立されたもので
鉛同位体分析法は朝鮮学者が世界でただ一人主張してるだけ
この男も、「朝鮮学者」という差別的文言使用をしているから、
非科学的で非学問的な結論先にありきの、
人種差別的宗教思想の・・・・人間である、という事を表している。
>鉛同位体は同じ地域で同じ時期に作られた銅鏡でも成分が違ってると解析結果が出たりして
銅鏡の銅の産地を特定するのに有意な結果は出ていない
使用する材料銅も、当然、時代や鏡師や製作地に拠って千差万別であり、
その一つの産地内でも全く一定である筈もなく、
鏡師に拠っても、一定の産地の銅だけではなく、
いろんな産地の銅や既存の銅製品の銅を混ぜて鏡を造るものであり、
この東大理系博士号自称男?の「絶対断定論」は、
この男が、・・・・アホ詐欺師である事を示すもの。 >>804
>吉備国は銅鐸祭祀もあったけど、銅剣は畿内とは違う。別の王権。
>銅鐸というキーワードで畿内からわかれたことくらい理解したら?
支離滅裂だな
吉備国は畿内と違う別の王権だったら
畿内から別れたんじゃないだろうに >>656
「あの女が婦女暴行されたのはスカートが短かった自分の責任ザマス。ウチの坊やが襲ったのはちっとも悪くないザマス」
とか拡声器で怒鳴っちゃうモンスターママみたいだな
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「唐会要倭國伝の正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
スレ主や東大理系博士号自称男らの大和説者らの、
狂った倫理がよく出てる >>658
大和説者や東大理系博士号自称男らってホントに愚かだな
簡単にオウム返しをされるとされいう事は、自動的に、
大和説者らがウソツキ騙しの詐欺師であったらしい、」という事になるんだよ
自覚しろ >>659
ほら、そんなふうに説明能力ゼロで
直ぐ逃げるのも
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実などの曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説者の特徴 >>661
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実などの曲解や否定の嘘吐き騙しを正当化している時点で、
大和説は詰んでるんだが >>664
>さっさと出せ。宿題が終わるまで出てくるな。
それと洛陽出土鏡に三角縁半肉彫神獣鏡はない。
半肉彫神獣鏡ならある。
あとは出自の怪しい三角縁神獣鏡の話なら加工技術跡が日本の国内の物と一致。
ふーん、成程。 >>667
そうやって、すぐ、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実などの曲解や否定の嘘吐き騙しの、
ウソをつくのも大和説の特徴 >>670
>2015年の洛陽出土の三角縁神獣鏡は二期の物で、
日本国内の工人の加工方法と同じだと結論づけられている。
そうか。
やはり、「2015年の洛陽出土の三角縁神獣鏡」は、
楽浪鏡師らの関与鏡であり、それを持っていた楽浪人間が洛陽に戻った、
って可能性があったのか。 >>806
>鏡だけのおっさんは妄想だけで吉備と畿内連合したと思い込みたいらしいが、肝心の鏡が更に分布が違う
相手が「纏向」と言ってるそばから
「鏡だけのおっさん」と呼ぶとか
纒向と吉備のつながりを知らんとは
随分とまた無知なやつだな >>674
>むしろ馬淵氏や平尾氏のほうが鉛同位体の分野でずっと権威となってる
で、この人たちの見解だと三角縁の鉛は中国産だが年代鏡以外は全部畿内で作ったとしてる
その鏡も武昌の呉の領域のものと判断してる
ふーん。
しかし、「馬淵氏や平尾氏」は、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使っていたのか?。
また、年代鏡は、どこで造った、と言っているんだい?。 >>806
>東征時期には奈良と吉備は連合してなかった。それは三角縁神獣鏡が配られてなかったことからも分かる。
は?
舶載三角縁なら岡山県は24枚出てるけど? >>820
>また、年代鏡は、どこで造った、と言っているんだい?。
魏 >>807
>纏向からはもちろん吉備式の土器は出るがすごくランキングは低い。
外来土器の7%もあるのに? >>747
だからさ
卑弥呼の時代の鏡がどうして卑弥呼の時代に埋められてしまうのだ?
まだ使えるのに、もったいなくない? 神武天皇から二十九代の欽明天皇に至るまでの大部分の天皇の即位年と崩御年が作為的に設定されています。
というかそもそもこの時代は記と紀で干支が違うわけですから、どちらかが真であり、どちらかが偽であるのでしょうが、
それは、例えば一方的に古事記が偽であり日本書紀が正しいとかいうものではなく、
この両書は二つでワンセットになっていて、交互に真と偽とがつづられているのではないかと考えてます。
例えば上記の崇神から応神までの没年干支は古事記が正しく、
応神元年は日本書紀の「庚寅(かのえとら)」が正しいとか、
要所要所で交互に真をちりばめているのではないかと考えてます。
ちなみに応神元年の庚寅(かのえとら)は日本書紀ではAD270年に設定されてますが、
干支を2運120年、意図的に古くしたものと考えてます。
なぜそうしたか。
応神のお母さんの神功皇后を魏志倭人伝の卑弥呼の時代に持って行くためでしょう。
それは日本書紀の神功皇后紀にわざわざ魏志倭人伝の卑弥呼の記事を挿入していることでも分かります。
つまり漢文で書かれた日本書紀は、中国側が見るであろうことを充分意識し、
その中国側に対して、
「あなた方の国の史書である魏志倭人伝に登場する卑弥呼という女王は、我が国の神功皇后という女性であり、三韓征伐もした勇猛果敢な女性なのです」
とアピールしたかったのでしょう。
ということは、7世紀後半の朝廷は、真の卑弥呼が誰なのか分っていた、
そしてその人物を、時代設定を大きくずらすことで隠した、という事が分かります。
ならば神功皇后を本来の時代である4世紀後半に戻せばいいわけです。
そうすると必然的に崇神が4世紀前半、その数十年前にトヨが出てきて、
その3世代前に卑弥呼(Bei mei hu)=比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后が出てきます。
蹈鞴と五十鈴を名前にプラスして、わざと長ったらしい名前「姫蹈鞴五十鈴媛」にして、一見ヒミコとは分らないようにしていますが。 >>826
反論ができないと罵る
いつも必ず論破される阿呆の行動パターン >>829
反論ができないのは認めるんだね
やはり阿呆だ テスト投稿
>・・・どうやら学者間ではとっくにインチキがバレてるもよう
何だ?、「インチキがバレてるもよう」なんて、
また、大和説者らに特有の、根拠なしでの、
人種差別的ヘイトスピーチ的なアジテーションだったのか。 またテスト投稿
>>688
>そもそもフチが三角になってる鏡は普通に中国でよく見られるし
三角縁神獣鏡と斜縁神獣鏡は文様に共通点も多い
それを三角縁神獣鏡と名付け別カテゴリにして
倭でしか見つからない鏡と印象操作をしてるのが九州説
また大和説者が、印象操作をしているらしいな。
>>689
>邪馬台国の会の九州説荒らしバイトの中身が変わったせいか
三角縁神獣鏡に果敢に挑みかかっては粉砕されてるな
ちょっと前までのバイトは三角縁神獣鏡でさんざんな目にあって
三角縁神獣鏡と出るだけで逃げ出してたものなのにね
それで、「三角縁神獣鏡」と名付けたのは、だれなんだい?。何説者なんだい?。
古田さんは、「三角縁人獣鏡」説であったが。 またテスト投稿
>>712
列島の△が、渡来の楽浪鏡師の関与鏡なら、大和説は即死
これ、わかる? またテスト投稿
>三角縁神獣鏡は今のところ国産である証拠はないよ
三角縁神獣鏡は今のところ、魏鏡や明帝鏡である証拠は、
全くのようにないよ
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡だ。 またテスト投稿
>>718
>畿内説には魏鏡説の人と国産説の人がいる
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
そんな「畿内説」自体が、バツである。
>九州説には国産説しかいない
違うな。△は、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡説であり、
ホウ製鏡説ではない。
>三角縁が魏鏡なら九州説は即死する
三角縁が国産でも畿内説は痛くも痒くもない
△が「渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡」であれば、大和説は即死するが、
九州説は、地方の豪族や東征毛人五十五國の将軍らへの下賜鏡論になり、即死しない。 またテスト投稿
>>721
>邪馬台国は魏に4回は遣使してるので
100枚超えたって問題なし
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
魏帝からの「銅鏡の下賜」が書かれたのは明帝だけであるから、やはりバツ。
>そして国内で粘土で鋳型をとって複製したぼう製鏡も存在
△は、渡来の呉系楽浪鏡らの関与鏡であるから、複製してもぼう製鏡にならず、バツ。 >>811
国が別れたって言われて想像するのはそれだけなのか?ばっかじゃねーの?
葛城国のフトニは記紀で天皇に比定されてるからか?
ま、吉備とヤマトが連合して西軍と戦ったなんて言ってるうちはろくな答えは返ってこないだろうが 朝起きてみたら鏡インチキ男がフルボッコで笑ったw
まだ大陸で出た二種類の三角縁神獣鏡とやらのソースも出さないし、クズっぷりは読んで字の如くww >>568
日本国政府が正式に設置した機関が、邪馬台国畿内説に証拠が無い事を発表したからではないのかな。
そして、同時に、纏向には掘立柱跡だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、見事な対比法が使用され、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立柱跡には卑弥呼の城の条件が揃っていないという物事が理解できるような真実が、放送されたのだったな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html >>834
当然誰にも理解不能
だって渡来工人説を出した王仲殊も畿内説だもの ,,-‐----‐、 , -'"` ̄ ̄"`''-,__, --‐‐-..,
/ 、゙ヽ、 ‐-'´ ヽ‐- / / ヽ
,/´ .., ヽ,,l_)' ヽ ,ト/ / ヽ
/ ヽ,r' ,l′ ⌒ヽ、 /⌒ ,l゙.-〈__r,'、 ヽ_
_.l ヽ」 ,l '-=・‐ i'. ‐・=-,/ ゙‐ヽ、_,, /l
,l l| −'´ll ,l ヽ  ̄ |  ̄イ f゙l .,//゙l //\
l`l| l|ヽ v'⌒ヽ ^ ^ j/ |l // } おめえココおかしいだろ
l \ l| ,l l_U> ‐^^‐ l |,l // l
/ '\ l|`l ゝ_,´ .,.' ___l ヽ // |
,l '\ l| .lヽ__lL..,,, 二二イ___./ | ∨/ ,}
| ヽl | ,| .ヽ \ //ヽ ,| ,l
| l ,l ヽ \// l \ /
ヽ | \. ヽ/ l ヽ /j
\ / ヽ ヽ | l /
゙l\.. / ヽ ヽj | , /
ヾ ヽ ヽ ヽ / ,l
ヽ、 ヽ l } / ,r′
ヽ ヽ | /′ ,,...'' >>844
鏡が国産かどうかと畿内説が本質的に関係ない証拠が王仲殊の視点だって事じゃんww >>843
貴方は、邪馬台国畿内説の立場の者にとっては、全く反論できない真実を紹介してしまいましたね。 >>848
「邪馬台国畿内説には、全く証拠が無いのだ。」という、日本国政府が正式に設置した機関が発表した真実に逆らい、無意味で無駄に長い妄想をテンプレートにしてしまった狂人が、可哀想になってきたな。。。 >>847
鏡が国産かどうかと畿内説は本質的に関係ない
しかし三角縁が魏鏡なら九州説は即死する さっさと楽浪で出たって吠えてる
・三角縁二神二獣鏡とやら
・三角縁四神二獣鏡とやら
・三角縁半肉彫神獣鏡とやら
これの直リンクだせやwwwwいつまでなにやってんの?
鏡業界の大事件なのにまーったく探せないんだが?w >>837
×男は先代旧事本紀を読んでから出直してこい
お前は三角縁野郎と同じレベルの詐欺師だろ 纏向の掘立柱跡は、建物跡ではなく、相撲取りの訓練のための柱の跡だった可能性も高いのではないのかな。 またテスト投稿
>>726
>鉛の分析は意味ないよ 景初三年や正始元年の魏の年号の記名や
渡来の呉系楽浪鏡師の陳氏が関与鏡であり、魏鏡ではない。
>銀アンチモン比が魏鏡と同じこと
鏡の材料銅に関して、近似的であっただけ。
>銅出徐州 師出洛陽 徐州の銅で魏の鏡師が作ったと書いてる事や
「師出洛陽」とは、師がその鏡の製作時点では、洛陽にいなかった事を示すもの。
>洛陽や楽浪でも出土が見られるので三角縁神獣鏡は魏鏡とされている
洛陽の0〜1枚や、楽浪の数枚では、列島の500枚以上の△の根拠にならず、バツ。 邪馬台国畿内説が成立する可能性が、まだ、少しでも残っているのか、それとも、可能性が全くなくなってしまったのかを、討論するためのこのスレッドが、邪馬台国畿内説が完全に破綻してしまい、討論が決着してしまったので、不活発になってしまった。。。 >>859
5ちゃんねるが不活発になると困る者達が、「纏向遺蹟は邪馬台国なのだ。」という嘘をまき散らして、討論が続いているかのように見せかけるだけのスレッドになってしまっているな。 またテスト投稿
>畿内ヤマトはその時代吉備国で瀬戸内海が分断されていたというソースは?
畿内とか大和には殆ど関係なく、
九州倭國の「東征毛人五十五國」で征服されて、
地方の市を監督する大倭職が置かれた旧小国群があり、
その征服時期が吉備の方が大和よりも早かった、というだけの事。 またテスト投稿
>>729
>>後漢鏡の出土は圧倒的に九州が多く、畿内は少ないもん。
>5期とか6期とか、魏の成立より100年以上古いものが弥生遺跡から出るだけだから
九州説の弱点だな それも致命的な
後漢鏡の話だけをするのが、大和説のインチキであり、弱点であり、致命的だな。
魏代の鏡なら、根本的に、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡や、
明帝→卑弥呼の銅鏡百枚や、
その中の「尚方作」鏡や鏡片が祇園山や平原や筑紫付近から出土するし、
更に、その後は糸島の一貴山銚子塚などから黄金鏡なども出土し、
317年頃の筑後や久留米付近への遷宮期には、日田の黄金鉄鏡などの出土する。 和国大乱期の吉備を独自にまとめた人の記述
独自論も多いけど、吉備国と倭国大乱期がほかの地方の伝承に結構近い
http://mb1527.thick.jp/wanotairannenpyou.html
出雲伝承での倭国大乱は以下の通り
150年代
ヒボコの勢力が丹後から播磨へ侵攻。大和の豪族同士の覇権争い始まる。
結局この時は物部氏に騙され孤立したヒボコは尾張氏(神武朝)と磯城家(フトニ)
によって分断され敗れ、淡路島に逃れたと伝わる。
後に吉備国系住民と習合し、朝鮮半島材料の鉄器生産技術を獲得する
一般に3世紀からの鉄器論が主流だが、淡路島には五斗長垣内遺跡のように
国内最大級の鉄器生産集落跡(1〜2世紀)が伝承を裏付けるかのように存在する
160年代
吉備のフトニ大王が出雲王国を攻撃。瀬戸内海分断
独自論での方の年表でも孝霊山に移動とある(171後半となるので若干のずれ)
吉備国は最初は伯耆国、つまり山陰側に進軍した。
西出雲王家から青銅のインゴットを獲得する。東出雲王家の×印の分は土に埋葬され
後に大量発掘される 165年頃
物部五瀬が東征を開始(第1次物部東征)吉備国を避け、四国ルートで紀国に。
兄弟の誰かが磐余彦(記紀の熊野から磐余、クジラまでの豪族の名前は、道順を示す奈良の地名)
紀国で名草にやられて五瀬死亡。熊野本宮大社陣地から八咫烏の手引きで奈良入りが始まる
三島系と出雲の家である磯城(登美家)家第八代が八咫烏。加茂氏の祖
175年頃
物部勢の大和入り。フトニ王、ヤマトに戻れなくなり、地方の豪族に転落。
この時モモソ姫:だいぶ高齢。弟に加茂氏の分家太田田根子。三輪山祭祀の太田家。
大彦、第八代孝元天皇クニクルの時代。イカガシコメが嫁入り。
物部系の開化天皇が後に即位することになる。
さらにその息子フツオシマコトと孫の武内宿祢の代で景初年間に突入
183年頃
大彦が物部に敗れ大和から北へ退却。
向家の通告のより、大彦は阿部氏を名乗る。クナト国(狗奴国)
大彦は北陸方面から最後には信濃の布施まで展開(鏡少ない地域)
息子の勢力が東海方面に展開(鏡少ない地域)
景初年間
魏書の東征の時代
第二次物部東征開始は240年代。ヒボコ5世の孫、タジマノモリ物部に合流。
この時代、丹後の鉄器の生産が九州を超えるほどの物量になっている事が出土状況からも明らかになっている
ヤマトと吉備が連携したって?www
地域伝承でもある程度の復元が出来る状況の中で三角縁畿内説って、噂や伝承程度のバックアップすらないのか?ww 景初年間より前から九州物部と畿内の政権が小競り合いを始めて大陸の史書にも
和国大乱期と書かれてるのに
三角縁畿内説は、銅鏡程度のレベルの出自で九州説が死亡とか意味不明の嘘を垂れ流しww←今ここ またテスト投稿
>>737
>卑弥呼のもらった鏡が畿内の古墳を中心に全国に分布することになるんだよ
どうして九州説が死なないと思えるの?
卑弥呼が貰った鏡は、明帝の指示通りに、
地方の豪族や、筑紫付近の諸国王らや、東征毛人将軍や部将らや、親愛なる部下らには、
鏡そのものや、鏡片として与え、
一部は、渡来の呉系楽浪鏡師らに拠って同范鏡を造って貰って与え、
余った鏡は、宗女の壹與が相続した。 纏向遺跡の箸墓に吉備国の投影が伺われるまでこれだけの時間的余裕があるのだよ。 >>394
,、-'''´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄, ヽ
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. | ,' l !::::::: ヽ
. | l ,ィ,ニミt:、, 、 ,.ィzzt:、 | |:::::: \
,! i ` _`'=:` ',ィツ''´ ̄` ! l:: ヽ
r゙、 l <O > .::'' :::: ィf~ラ゙ヽ | i::: /
| ' l | .::: ::::::. `゙゙゙´ | /゙i::: /
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ヽ-! / __ _ '; l / ̄
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゙i、 ; li ⌒''''''⌒;/ ; /
,..、」ヽ 'ヾヽ、.....、ノ: ' ,イ__
. / / !. \ ゝ=='´ // |┐!
-‐‐'/. | { \ / | | ヽ,__
/ | '、 `ー―― ' .ノノ | `'
正に、畿内説の連中はネトウヨの権化だ!! >>1
>>868
) ,)
__,,-ー―‐-x、_ ビキビキ ( 国賊ネトウヨめ…! (
/~ ,,ィォャ-ー…、:::::丶、 ) つぶしてやる! ,)
/: : ,,ィ`~ ) ( .\:::::`'、 ( r'⌒`ー´
./:::::/)( __, ⌒ ヽ,ミミヽ `〜〜〜'⌒⌒´
/彡/: : : __,, ―‐‐ : : :ミ从)、 〇
{ ll|{: : : ,,ィ=≡、 : .}州|l} O°
{州|: : ,,r≡=-'、 .,ィー-、 .ミ/'~`, o
,,ヘl|lj. ィ'ンt-j、: .〈rーヒッァ Y リ.j ゚
.{れ、! ´``¨ノ.::: ..:.` .=-' }yシ .{
ヽrヘ ~ /" y、 } ノ
.ヽ,ヘ i' `^.ー"~´ ヽ ./-'′
.`ー、 ,r'ニニニ≧ッ`, /
ヘ ノ`  ̄ ̄"´ ヽ./::|、
.ヘ  ̄ /::::/|:..\ ̄`ー-。、
_,,。-ー"´/{`丶::.. ...::ノ´./::/ j:..:..: .ヽ:..: : .`ー- 、
,。ィ": : : :..:..: / ! ヽ `、 ̄ r"./ ./:..:..:..: : .\:..: : :
: : : :..: /:..:..: ム \ j / ./\:..:..:..: : : :>: :
: :..:..: /: : :..:..:.ム \/ ./:..:..: .\:..:..:<:..: : :
: :..: >: :..:..:..:ム ,r彡三ミヽ /:..:..: : : : : `ー、:..:
/: : :..:..:..:..:..:.ムヘ三三/ ノ:..:..:..:..:..: ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< 畿内説は考古学的事実と解釈・歴史叙述の乖離が著しすぎる。
( ) \_____
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(__)_) ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< 要は、畿内説ほどご都合主義はない。学問からほど遠いたんなるインチキ。 ( ) \_____
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(__)_) ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< 考古学の専門的なことを並べ、あたかも学問ぶっているが、
( ) \_____
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(__)_) ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< そんなものは考古学至上主義でしかなく、考古学の限界を認識していない。
( ) \_____
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(__)_) >>855
三角縁二神二獣鏡や三角縁四神二獣鏡が楽浪から見つかってないと申すか
見つかってないというソースは ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<考古学に対する冒涜でしかなく、学問・学術への冒涜でもある。
( ) \_____
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(__)_) ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<つまり、社会に対し害悪でしか内ないのが畿内説である。
( ) \_____
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(__)_) もうさ、独自色の強いもはや伝承や裏付けのない思い込みレベルの「三角縁畿内説」と、「普通の真面目な畿内説」は区別してやらないと駄目だよねww .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>874
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<例えば、このバカは“分布の空白”を知らないようだ。
( ) \_____
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(__)_) >>858
楽浪はもとは漢の領地でのちに魏の領地
なので呉系楽浪鏡師と言うのは存在しなかった
三角縁神獣鏡の銀・アンチモン比は魏鏡のとまったく同じ
呉で三角縁神獣鏡の出土は0枚なので
三角縁神獣鏡が呉鏡という根拠は全くなし >>877
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<その通り。自分のアタマで考えることのできないバカが畿内説。
( ) \_____
| | |
(__)_) >>881
さっさとソース出せ
お前の妄言は聞き飽きたw
それまでなーんにもする必要はないから三角縁畿内説は黙ってな >>881
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<例えば、原材料なんてモノはいくらでも人間によって移動されるものとの認識がまるでない。
( ) \_____
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(__)_) ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<京都学派の考古学者でもないバカほど、三角縁三角縁と騒ぐ。
( ) \_____
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(__)_) ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<小林の三角縁神獣鏡説はとっくに再検討しなければならないものとして認識されているのである。
( ) \_____
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(__)_) ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<考古資料の実態に合わない畿内説は一端捨てて考えることが学問の進歩である。
( ) \_____
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(__)_) 非鉄金属である鉛の不純物である銀やアンチモンに注目しておきながら
鉛の同位体分析はインチキというのが三角縁畿内説www
鉛の不純物には銅だって含まれるのにね〜。非鉄金属の基礎すら知らないでアンチモ〜ンとか言っちゃうあたりww ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<纏向遺跡も土器編年も同じ。例えば、実際の遺跡での“同時性の把握”をどれだけ検証できるものなのか?
( ) \_____
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(__)_) >>880
そちらこそ「三角縁神獣鏡の分布の集約」を知らないようだな?
>>883
自分で調べな
>>884
国内で作られた銅鏡の銀・アンチモン比も調べられていて
それらは魏鏡・三角縁神獣鏡とは違っていた
それも三角縁神獣鏡が魏で作られた銅鏡である事の根拠 ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<まともな調査経験もないバカほど纏向やら土器編年を持ち出す。
( ) \_____
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(__)_) ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<他人である考古学研究者の地道な研究成果だけを何の検証もなしに持ち出すバカ。
( ) \_____
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(__)_) なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだろうか。 ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<遺跡や土器編年で畿内説云々と発言できる研究権をもつのはそれぞれの研究者のみであることを識れ。
( ) \_____
| | |
(__)_) >>894
なら九州説はどうなんだ?
そもそも学者には九州説を主張してる者はおらんので
九州説は邪馬台国について発言は一切できない事になるが >>893
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<そもそも畿内説なんてものは戦後すぐの京大考古学教室における梅原と小林の確執に起因する。
( ) \_____
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(__)_) >>890
>>>883
>自分で調べな
調べたけどでてこねーよww
バッカじゃねぇの?お前、自説の一番強固になる根拠だけ、ずーっと説明しないよな?
だから異常者呼ばわりされてるのに。最初から >>893
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<資料数の少なかった頃に小林のひらめきで老齢の戦前考古学・梅原を叩き潰した裏学史に畿内説は立脚していたと言って良い。
( ) \_____
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(__)_) 何を言ってるんだ、前方後円墳なんてもんを造るのは鬼道位しかおらんわ。穢は虎神、弁辰は蘇と、卑弥呼は五斗米道、道があるのは太平道と五斗米道、北九州は祇園山=牛頭山、何で牛の頭被ってる族連中らに親魏倭王を与えるんだ、笑われるわ >>895
畿内から東征してたら東海系の土器が大量に出るわけがなかろうww
粗悪品の三角縁を起点とした思考には、畿内説に対しても、九州説に対しても意見する立場にないという事を認識したら?
三角縁神獣鏡大陸産出を否定した中国の王さんが畿内説をとってるんだろ?
その時点で三角縁神獣鏡は論争の要素から切り捨てられちゃってるわけだw >>895
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<当たり前だ。しかし、ほかの説やほかの者はオマエほど考古学を識らないくせに考古学至上主義ぶっているバカはおらんのだよ。わからぬか?。
( ) \_____
| | |
(__)_) >>897
そっちの調べ方が悪いのを人のせいにされても >>902
だからさっさと出せやクズ
正直三角縁神獣鏡大好きなアカヒ新聞が飛びつくほどの大ニュースなのによ
出ないという情報だけで出てるという話は全くない
俺はお前と違って証拠出されてもインチキとか吠える朝鮮脳ではない。
いいからさっさと出せクズ >>900
ほおー切り捨てられてるなら無視したら?
それができなくて九州説は三角縁神獣鏡に反応せざるを得ない時点で色々とお察し ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<安直に学者研究者のいいとこ取りするバカには、黄金塚を調査報告した森浩一を思い出してもらいたいね。
( ) \_____
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(__)_) >>901
悪いけどこっちは本格的に考古学に詳しいというわけではなくて
ネットで仕入れられる知識を単に並べてるだけだよ >>904
いや?俺はお前の嘘に反応してるだけ。
まだ現実が分かってないようだな。
そもそもが通常の畿内説の人たちにも三角縁神獣鏡は無視され始めてるのにww
三角縁畿内説キモ〜ww 奥山氏が、自作自演で、スレッドを活発化させているな。 なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだろうか。 >>903
へー楽浪で三角縁神獣鏡が出てないという情報があるんだ
ソースは? >>908
え?わたし奥山さんと話をしてたの?
これはこれで有名人だな・・ ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<邪馬台国畿内説を決定づける発言をしたかった考古学者こそ森浩一であったろう。何故、森はそうしなかったのか? ( ) \_____
| | |
(__)_) 人種交替説によって、奥山ことスレ主が朝鮮人であることが判明しました >>910
お前アホなのか?普通に検索できる情報はそっちのほうだわ。
出たという話はない。何でおれがお前の嘘の尻ぬぐいをしなきゃならんのかと思いながらもやっぱり検索してみた。
ない。 ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<いいとこ取りバカ畿内説の者に、そうした森浩一のような学問学術・学史は理解できぬであろう。
( ) \_____
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(__)_) >>907
なら普通のガラス鏡の話しような?
普通のガラスの鏡は14世紀にイタリアのベネチアで発明された ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)<せいぜいパクリ畿内説、やってきだされ。
( ) \_____
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(__)_) >>916
?ガラスに含まれる鉛不純物の話をしたいのか? 朝鮮民族であることを誇らしげに自慢していた奥山氏は、日本の真実の歴史を憎んでいるのだったな。。。 >>918
やっぱ三角縁神獣鏡の話しよう
三角縁神獣鏡は魏の年号が彫ってあって卑弥呼が魏から下賜されたもの あーあ、いつになったら自称三角縁が出たってソース出てくるんだろうなぁww
2010年の古い本で勉強しろとかそういうのは簡単にリンクで案内する癖によ〜
不思議ですねぇww私以外にも知りたがってる人いっぱいいると思うんですがねぇ〜ww >>921
>やっぱ三角縁神獣鏡の話しよう
>三角縁神獣鏡は魏の年号が彫ってあって卑弥呼が魏から下賜されたもの
おいいいいwwwwwwwww >>922
ちょっと検索すれば簡単に出てくるよ
さては調べもしないで言いがかりをつけているな 三角縁神獣鏡という物体は、呉という地域から渡来した謎の人物が、日本列島の何処かで作製した物体なのだったな。 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 三角縁神獣鏡という物体を、化学の学部の者達が検査したので、呉という地域から渡来した謎の人物が、日本列島の何処かで作製した物体であることが、判明したのだったな。 >>928
奥山氏は、数学や物理だけではなく、化学の分野についても不得意なので、真実を理解できないのだったね。 洛陽で発見されたのは三角縁神獣鏡ではありません
何度言ったらわかるのか?
https://i.imgur.com/YypsJbt.png 別にさ、最終的に魏の鏡になってもどうでもいい話なんだよ。ああそうかって話。
考古学的に補完できない伝承や旧地名の保存率。
遺跡やその出土物。
対象となる物体が大量産出になった時の分布や編年。
こういうところから論じる畿内説や、九州説ともはや異端である三角縁畿内説は別の話って事。
どぉーでもいいけど知ってほしいというのならソースをだしてみなよw 洛陽で発見された物体は、謎の骨董商や謎の考古学ファンが、日本から持ち出した物体である可能性もあるのだったな。 >>932
日本の古墳のほとんどが盗掘されてるから海外にも盗品が流通してるかもね >>932
その洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と 徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作である。
また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と、同じく徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とも、神像表現が同じであり、同じ工人作なのである。
これは取りも直さず、その同じ工人が、徳島・宮谷古墳付近に暮らし、「三角縁神獣鏡」を?製していたことを示している。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>929
2018年にこのスレッドの過去のシリーズである、僕達も参加した討論会で、奥山氏が化学の分野についても不得意なので、三角縁神獣鏡という物体についての真実を理解できないことが、バレてしまったのだったな。 >>932
一応、洛陽の鏡コレクターの所有する三角縁神獣鏡は、錆の発生の仕方から中国国内で長期に渡り存在してた事は
事実として認められている。
青さびじゃなくて赤さびに特徴があるらしい
しかし、加工の方法が第一期のそれではなく、第二期の加工に酷似w
実は、三角縁神獣鏡の研磨の形式は、鋳型じゃなくて古墳ごとにまとまってるらしいのよww >>935
三角縁神獣鏡という物体に含まれる、数種類の物質の割合について、同位体という物事を含めて、討論したのだったな。 >>936
その洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と 徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作である。
また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と、同じく徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とも、神像表現が同じであり、同じ工人作なのである。
これは取りも直さず、その同じ工人が、徳島・宮谷古墳付近に暮らし、「三角縁神獣鏡」を?製していたことを示している。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>936
> 古墳ごと
つまり畿内が全国に配布したという奥山説はガセなのですね >>937
あの時の討論会でも、奥山氏は、頓珍漢な意見を発表して、頭の悪さを印象付けていたのだったな。 三角縁神獣鏡国産説にすると九州もダメージがある筈ニダ。
だから畿内説が勝ってるはずニダwwww
九州説は畿内の味方をしないと即死ニダぞ?だから認めるニダwww 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 三角の模様について
・「舶載」と見られる三角縁神獣鏡には、象や駱駝、仏像、車馬なども描かれていた。
・象や駱駝、仏像、車馬など「見たことがない」物がデザインされているということは、珍重された大きな理由の一つだったのではないか。
祭祀統一している国で仏教を持ち込んじゃまずいよなw >>940
僕達が、笑いリラックスするために、奥山氏の笑わせてくれる意見を保存し始めた2019年以降にも、金属の化学に関しての頓珍漢な意見が有ったね。。。
318日本@名無史さん2019/05/21(火) 20:15:10.70
>>311
三角縁神獣鏡も2種類あってな
魏から入ってきた舶載鏡と国内のコピー品のボウ製鏡だ
SPring8で分析した所
以前から舶載鏡とされていた三角縁は魏・晋鏡と同じ素材の銅
ボウ製鏡とされていたものは国内産の銅製品と同じ素材と出た
三角縁神獣鏡は魏鏡と国産コピーが混在しているという事だな SPring8というのは、ボクシングの訓練とは、無関係な物事なのだったな。 >>924
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i ,ノ( 、_)ヽ i
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ヽ 醤 油 /
` ー ----‐‐ ´ >>947
SPringというのは、スパーリングではないよ。 >>949
そう、錫と鉛で嘘がすぐばれちゃうんだよね。
特に鉛は嘘ついても致命的。産地で同位体の偏りが大きく変わり誤差の範囲を軽く超えてくる 奥山氏は、知ったかぶりで、いつも失敗してしまうのだったな。。。 1.鉛同位体比から観測される事実
(1)「舶載」三角縁神獣鏡は鉛同位体比図の上で狭い範囲(B-1)に集中し、特定の系統の原料が使われていることを示す。
(2)日本出土の魏の紀年鏡は、平成6年出土の青龍三年銘方格規矩四神鏡を含めて、すべてB-1に入る。つまり、「舶載」三角縁神獣鏡と同じ系統の原料で作られていると考えられる。
(3)日本出土の呉の紀年鏡は魏の紀年鏡とは別の領域(B-2)に集まる。これは中国出土の呉の紀年鏡と同じ系統の原料である。
(4)「〓製」三角縁神獣鏡は「舶載」三角縁神獣鏡と近接するが、明らかに異なる領域(B-3)に分布する。
(5)三角縁神獣鏡以外の古墳出土〓製鏡の大部分はB-1、B-2、B-3にまたがって分布し、さらに少数は弥生時代の前漢鏡タイプの鉛を含む。つまり、一定の原料で作られていない。
2.三角縁神獣鏡に関する諸説との整合性
(1)魏鏡説は、全般的に鉛同位体比の結果と整合性がよい。
(2)日本列島製作説は、一定の材料が中国から輸入され、その材料だけを使って「舶載」三角縁神獣鏡が作られたとすると説明がつく。
「一定の材料が中国から輸入され、その材料だけを使って「舶載」三角縁神獣鏡が作られたとすると説明がつく。」 文字化け修正
1.鉛同位体比から観測される事実
(1)「舶載」三角縁神獣鏡は鉛同位体比図の上で狭い範囲(B-1)に集中し、特定の系統の原料が使われていることを示す。
(2)日本出土の魏の紀年鏡は、平成6年出土の青龍三年銘方格規矩四神鏡を含めて、すべてB-1に入る。つまり、「舶載」三角縁神獣鏡と同じ系統の原料で作られていると考えられる。
(3)日本出土の呉の紀年鏡は魏の紀年鏡とは別の領域(B-2)に集まる。これは中国出土の呉の紀年鏡と同じ系統の原料である。
(4)「イ方製」三角縁神獣鏡は「舶載」三角縁神獣鏡と近接するが、明らかに異なる領域(B-3)に分布する。
(5)三角縁神獣鏡以外の古墳出土イ方製鏡の大部分はB-1、B-2、B-3にまたがって分布し、さらに少数は弥生時代の前漢鏡タイプの鉛を含む。つまり、一定の原料で作られていない。
2.三角縁神獣鏡に関する諸説との整合性
(1)魏鏡説は、全般的に鉛同位体比の結果と整合性がよい。
(2)日本列島製作説は、一定の材料が中国から輸入され、その材料だけを使って「舶載」三角縁神獣鏡が作られたとすると説明がつく。
『一定の材料が中国から輸入され、その材料だけを使って「舶載」三角縁神獣鏡が作られたとすると説明がつく。』 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>952
奥山氏は、合金に関する化学のことを、まるで理解していないまま、頓珍漢な意見を発表したのだったね。。。
643奥山氏2019/05/20(月) 00:52:36.49
>>641
鉛同位体分析は
同じ時代に同じ鉱山で採取された銅で作られた銅製品でも一致しない結果が出るし
時代も地域も全然違う銅製品が一致したりする
つまり製造地や製造年を決める根拠になりえない
スプリング8はその点はっきりしていて
同一鉱山から取られた銅は銀・アンチモン比が一致する
そして魏・晋鏡と三角はそれが一致した
これが学問だよ >>957
なんだ、完全に三角縁畿内説は奥山さんだったのねw
語るに落ちるとはこのことだ。 SPring8というのは、ボクシングの訓練とは、無関係な物事なのだったな。 >>957
具体的な中身のない中傷を続けるのは
九州説がどーしょもなく負けた証拠 奥山氏は、SPring8という物事を、意味も分からずに頼みの綱にしていたのだったな。 終わってしまった畿内説という作文を握りしめ負け惜しみの妄言をつぶやくしかない奥山あわれ >>955
>『一定の材料が中国から輸入され、その材料だけを使って「舶載」三角縁神獣鏡が作られたとすると説明がつく。』
つまり三角縁が国産とすれば、製作者は大量の金属素材を一括で入手した
これは政権レベルで中国とつながっていたもの以外に考えられない
というわけで、三角縁国産説でも畿内説一択である 下池山古墳。
直系37センチもの巨大な国産鏡が出土
下池山古墳から出土。黒塚より古い。3世紀末以前の古墳。
彷製内行花文(ぼうせいないこうかもん)鏡・大型の精緻な白銅鏡である。
三世紀以前に既に我が国ではこれだけの鏡を制作する能力が既にあった。
この辺は推測だが、三角縁神獣鏡が珍重された理由は魔鏡の加工にあるのではないか?
磨きの工程でいい加減にされなかったのは、鏡面。これはどの鏡もきっちりやってあったそうだ。
そして三角縁神獣鏡の埋められ方。鏡は魔よけとしての側面があったとされる。
決して粗略に扱われたものではなく、魔よけとして外に向けられるように配置されたのではなかろうか。
魔境なら、そこに浮かぶものに守護してもらえそうなそんな期待感があったかもしれない。
でなければ先祖伝来のゆかりの品を粗略に扱う葬儀という事になってしまうのではないかと。 >>961
奥山氏は、まだ、合金製品に関して発表した自分の意見の頓珍漢さに気づいていないようだね。
960日本@名無史さん2020/11/11(水) 14:32:39.62
>>957
具体的な中身のない中傷を続けるのは
九州説がどーしょもなく負けた証拠 >>963
残念ですが、畿内で製作された痕跡は皆無
糸冬 >>965
ほら、徹底して具体的な中身のない中傷ばかり
いつまでもしつこく続けるのは
九州説がどーしょもなく負けたという証拠 他の地域と違い、奈良の古墳で見つかる鏡は何故か棺の外にまるでスペーサーのように挟みこまれていました
おそらく鏡の使い方を知らなかったのでしょう やはり斜縁と三角を明確に区分して斜縁のみに限定して調査するべきでは? どう考えても斜縁や平縁が、魏の卑弥呼に下賜した鏡としかw >>957
笑いリラックスするために、合金に関する化学のことを、まるで理解していないまま、奥山氏が発表した頓珍漢な意見を、何度でも貼り付ければ良いよ。
643奥山氏2019/05/20(月) 00:52:36.49
>>641
鉛同位体分析は
同じ時代に同じ鉱山で採取された銅で作られた銅製品でも一致しない結果が出るし
時代も地域も全然違う銅製品が一致したりする
つまり製造地や製造年を決める根拠になりえない
スプリング8はその点はっきりしていて
同一鉱山から取られた銅は銀・アンチモン比が一致する
そして魏・晋鏡と三角はそれが一致した
これが学問だよ 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww アンチモンが混入しているとすれば銅ではなく錫だったよな?
要するに錫の産地が中国産ということ 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1605074640/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ またテスト投稿
>>739
>倭国大乱はAD180年
5世紀の范暢の後漢書の「倭國大乱」は、
魏志の「倭國亂」の「自己解釈に拠る書き換えになる二次的史料」であり、
根拠にならず、実際は、3世紀初頭である。
>畿内にあった邪馬台国の魏への遣使はAD239年
畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
卑弥呼の「難升米らの遣使」は、景初二年(AD238年)」である。 またテスト投稿
>>740
>なぜ鏡がいつまでも九州だけに留まってると思うの?
思っていない。
大和にも多鈕細文鏡が残っているし、
九州倭國の東征毛人五十五國などによっても、九州以外の地にも運ばれている。
>邪馬台国は他国と交流なかったとでも?
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この大和説男がバツ。 >>972
それが奥山だと思う理由は?
また妄想? >>973
、ミ川川川彡 ,ィr彡'";;;;;;;;;;;;;;;
ミ 彡 ,.ィi彡',.=从i、;;;;;;;;;;;;
三 ギ そ 三 ,ィ/イ,r'" .i!li,il i、ミ',:;;;;
三. ャ れ 三 ,. -‐==- 、, /!li/'/ l'' l', ',ヾ,ヽ;
三 グ は 三 ,,__-=ニ三三ニヾヽl!/,_ ,_i 、,,.ィ'=-、_ヾヾ
三 で 三,. ‐ニ三=,==‐ ''' `‐゛j,ェツ''''ー=5r‐ォ、, ヽ
三. 言 ひ 三 .,,__/ . ,' ン′  ̄
三 っ ょ 三 / i l,
三. て っ 三 ノ ..::.:... ,_ i ! `´' J
三 る と 三 iェァメ`'7rュ、,ー' i }エ=、
三 の し 三 ノ "'  ̄ ! '';;;;;;;
三 か て 三. iヽ,_ン J l
三 !? 三 !し=、 ヽ i ,.
彡 ミ ! "'' `'′ ヽ、,,__,,..,_ィ,..r,',",
彡川川川ミ. l _, , | ` ー、≡=,ン _,,,
ヽ、 _,,,,,ィニ三"'" ,,.'ヘ rー‐ ''''''"
`, i'''ニ'" ,. -‐'" `/
ヽ ! i´ /
ノレ'ー'! / O またテスト投稿
>>745
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説者って、
またオムツが必要になる高齢者世代なんだな またテスト投稿
>>746
>三角縁神獣鏡には景初や正始と
魏志倭人伝に卑弥呼が魏に遣使した年と書いてる魏の年号が彫ってあるよ
書いていない。
景初三年と正始元年は、渡来の呉系楽浪鏡師の陳氏が記銘した年であって、
「卑弥呼が魏に遣使した年」ではない。 またテスト投稿
>間違いだな
九州に多いのは魏の成立より100年は古い鏡ばかり
2世紀後半あたりの鏡から西日本に広く分布するようになる
卑弥呼の時代の鏡は三角縁に限らず畿内が中心だ 九州説は死んだんだよ
間違いだな。
九州には日田の黄金鉄鏡のように、晋代ににもなる鏡の発掘が続いていた。
そして、大和は、葛城付近に多鈕細文鏡が一個出た後は、
3世紀最末〜〜4世紀のホケノの画文帯が最初頃だ。
渡来の呉系楽浪鏡師らが関与した頃から、西日本に広く分布するようになる
卑弥呼の時代の鏡は三角縁に限らず九州が中心だ
大和説は死んだんだよ またテスト投稿
>>749
>魏帝からもらった鏡が無くって、配布もできなかったのなら
九州の政権とか脳内劇場でしょ
魏帝からもらった鏡が、殆ど九州ばかり出て、
3世紀代には、東方の征服地にも殆ど配布もできなかったのなら
3世紀の大和の政権とか脳内劇場でしょ >>987
九州説は魏からもらった鏡がどれだか言えない
北部九州から鏡を配った形跡もない
だから学者は誰も支持してくれない 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1605009757/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 笑いリラックスするために、合金に関する化学のことを、まるで理解していないまま、奥山氏が発表した頓珍漢な意見を、何度でも貼り付ければ良いよ。
643奥山氏2019/05/20(月) 00:52:36.49
>>641
鉛同位体分析は
同じ時代に同じ鉱山で採取された銅で作られた銅製品でも一致しない結果が出るし
時代も地域も全然違う銅製品が一致したりする
つまり製造地や製造年を決める根拠になりえない
スプリング8はその点はっきりしていて
同一鉱山から取られた銅は銀・アンチモン比が一致する
そして魏・晋鏡と三角はそれが一致した
これが学問だよ またテスト投稿
>>760
>あと吉備国の瀬戸内海支配は、新型の平型銅剣でも分かる。
あれは出雲の銅を吉備国が奪って作った剣だから材料でもすぐにわかる。
四国の北側まで吉備国が抑えてたから、畿内ヤマトの朝貢は不可能。
そして、吉備国そのものがヤマト王朝(葛城国)が分裂した国だから、日本海側の出雲も敵に回っており、ヒボコの丹後の国もあったから日本海ルートも寸断
九州勢しか朝貢出来ない時期だったwwww
ふーん、成程。 またテスト投稿
>>761
>・・・サイトの内容
「その後、魏志倭人伝によれば、倭国内で乱があって、
卑弥呼が倭国王になった約100年後の時代の漢の銅鏡の出土分布をみると、下図のようになる。」
「北九州はほとんどなく、畿内に分布が固まっていることがわかる。
明らかに、銅鏡が列島に入ってくる場所が変わったことが明確になる。
この岡村氏の銅鏡の編年研究だけで、二世紀の終わりから三世紀の最初に、
古代の日本で、権力の場所が北九州から、畿内に移動したことが推定できる。」
ダメだ。
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
大和のホケノの画文帯は、3世紀最末〜4世紀であり、卑弥呼の時代ではない。
岡村や大和説学者らの、死亡のお知らせだ >>990
それが奥山の投稿だって決め付ける理由は? >>992
>大和のホケノの画文帯は、3世紀最末〜4世紀であり、卑弥呼の時代ではない。
そんな時代のものだって決め付ける理由は? またテスト投稿
>>765
>東征なんてものが九州説が思いついたフィクションだから
話にならない
倭王武の上表文の、
「自昔・・・東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國」
は、史料事実だ。 >>963
造った時期は3世紀後半だろう。
卑弥呼とは関係ないよ。 またテスト投稿
>>788
>そういう脳内劇場100%になったら
九州「説」は死んだということで
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
そういう、史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説の、
脳内劇場100%になったら、
大和説は死んだ、
という事で。 このスレッドは1000を超えました。
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