邪馬台国畿内説 Part660
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1606975678/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 >>1
,、‐'''''''''ヽ、
/:::::;;-‐-、:::ヽ _,,,,,,,_
l::::::l _,,、-‐"iiiiiilllllllllllliiiiiiiー-、__ゞ:::::::::::`ヽ,
ヽ::`/: : : : iiiiiilllll||llllliiiiii: : : : : : ヽイ~`ヽ:::::::i
. /;,..-‐、: : : : : l|l: : : : : : : : : : : : : \ ノ:::::}
/: /: : : : :`.: : : : : : : : :/´ ̄\ : : : : : ヽ:::ノ
. !: : : :iflllli、: : : : : : : : : : : : : : : :ヽ: : : : : :.!
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|: : : :|llll |: : : : : : : : : : .llllf l: : : : : : : : :.|
|: : : :.!lllll!' : : : : : : : : : : |llll |: : : : : : : : :i
/: : : : : ○ : : .!lllll!' : : : : : : : :.i
 ̄|: : :" ,,,,,,,,,,,,,|____ : : : : : : : :.<iii/ ______________
. /!.: |:::::/  ̄''''''''l ヽ: : : : :-─/─ />>1くん!もう二度とくそスレをたてないで!
ヽ ヽ/ ノ : : :ヽ/ < すぐにくびをつってしんでね!
\ \,,_ _,,,/ : /\ \しまじろうとお約束だよ!!!
`''‐、、__  ̄ ̄ __,,,、-‐"  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. //:::::/ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ノ::::/\
. / /:::::/ ` ̄ ̄ ̄/:::::/. \ ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) >>962
>>揚子江河口の南北海岸地域の東であれば
>そんな場所が「会稽」であるって史料は一切なく根拠も一切なく
「会稽≠会稽郡」であり、「会稽⊃会稽郡」であり、
「会稽」は「夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害」の「会稽」であるから、海岸地域であり、
「東治」は、揚州の管轄下の治所、という意味だ。
東大理系博士号自称の大和説男が、
自分の利益のために妄想してるだけだろ
つまり九州説は破綻してるんだよ ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし また(5chにバツにされたので)テスト投稿
>>965
>そこまで誤魔化してもまだ福岡より200km以上南の地だ
無理に無理を重ねてゴリ押ししてもぜんぜん届かない 九州説は死んでるよ
関係がない。
投馬國が、九州北岸の不彌國から南へ水行二十日の位置であり、
佐多岬を越えて、種子島付近にまでになり、
だから女王國(≒倭國)は、ほぼ九州島付近だ、という事になり、
十分だ。 またテスト投稿
>>968
>>東冶付近は、「一般的な会稽地域」にはならず、
会稽郡の中だ 会稽郡の北部、東部でない南部地域だから会稽東冶5県と言われいて都尉治がある
一般的な会稽地域だよ
「夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽とは、全く関係がない地域。
>>260年頃の「会稽郡の分郡」で「建安郡」になった地域であるから、
>魏には関係ない 卑弥呼の時代には正真正銘の会稽郡だしな 時代も後のことだ
陳寿は、当然「会稽郡の分郡」を知っている。
>>陳寿が「会稽」の中に含める筈がない地。
>そんな理由は何も無いな 魏の会稽郡南部地域だもの
陳寿が書いた魏志の中の一節には「会稽」の中に当然含める
これもダメだ。呉の地域の事だし、
魏代の260年の分郡の後から西晋代の陳寿の執筆時まで、
会稽郡と建安郡は区別されていた。 >>75
>投馬國が、九州北岸の不彌國から南へ水行二十日の位置であり、
ダメだね
陳寿が7国を「女王国以北」と「其余」の2に分類したということは、投馬国は女王国に含まれない
投馬国までの道里が判明している以上「女王国以北」になければならない
女王の都を北部九州だと言っておいて
投馬国を南九州にするのは倭人伝の無視だな
九州説は破綻してるよ >>76
>これもダメだ。呉の地域の事だし、
そう、九州説はダメね
呉の勝手にやったことだから魏は認めてない
つまり魏の記録には残らない
だから魏志には反映しない
>魏代の260年の分郡の後から西晋代の陳寿の執筆時まで、
>会稽郡と建安郡は区別されていた。
まったく関係ない
史書には記録される事件のあった当時の地名で書かれるもおだ >>76
>「夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽とは、全く関係がない地域。
関係あるんだよ
その少康の子孫が越の王家で、越国と後裔の東越、閩越の三ヶ国が漢に併合された
それが後漢代の会稽郡だからね
閩越の旧都が東冶で、その国が会稽東冶 >>79
史実だと思って「説」だと思ってない人が増えたから、そうかもね >>75
>投馬國が、九州北岸の不彌國から南へ水行二十日の位置であり、
その道里を陳寿が計算して会稽云々と言ったということは
「水行二十日」は「道里」でいいんだな?
ならば投馬国は女王国以北になければいけないから
南九州説は、バツ >>76
>陳寿は、当然「会稽郡の分郡」を知っている。
知ってたらなんだってこと
他の箇所でも2回も「会稽東冶」と書いている
大体、なんの根拠もなく長江河口部の南岸はおろか揚州に属してない北岸まで「会稽東治」だとか言い出す中国史無視をやってたら
世間が九州説を見放すは当然だろ
いや、当然 >>81
畿内説が史実?
九州説は事実だけどどっちが美味しいの? また(5chに拒否されるから)テスト投稿
(いくつかの投稿は、バスしています。)
>>1000
>そもそも会稽の東の治の東なら、会稽の東というのと同じだろう
そんな変な解釈はありえない
「会稽東治之東」と敢えて書いた、という事は、
陳寿は「会稽」と「東治」とを違う地域だ、と考えている、
という事。
「東治」は、会稽の東方の「会稽とは違う組織の治所だ」と考えていた、という事。 >>86
>畿内説が史実だという証拠は?
史実だと思ってる人が多いと言っただけだが?
証拠は必要か? >>88
> 史実だと思ってる人が多いと言っただけだが?
そんなこと思ってる人が何処にいるの?
地元奈良? >>87
>陳寿は「会稽」と「東治」とを違う地域だ、と考えている、
>という事。
そんなわけなだろ
備中高島って備中と高島が別の場所だと思うか?
>「東治」は、会稽の東方の「会稽とは違う組織の治所だ」と考えていた、という事。
ありえんな
会稽の東方には海しかない >>89
>そんなこと思ってる人が何処にいるの?
日本全国だろ
日本全国で使われてる教科書に
>古墳が成立する時期を3世紀とする研究が進む中で、
>「ヤマト」を中心とするヤマト政権に邪馬台国が直接つながる可能性が高くなった。
>邪馬台国の中心地とされる候補地の一つに、纏向遺跡がある。
と書かれてるんだから >>91
それ10年以上前の話でしょ?
情弱なの?
もしかして纏向の人? 俺様は、奈良の無職の朝鮮民族だが、邪馬台国畿内説は、正しいのだぞ。
文句のある日本人は、俺様に、言え。
俺様は、脳が悪いが、頭は、堅いぞ。
だから、巻向古墳には、卑弥呼の死体が埋めてあるのだ。 >>93
邪馬台国畿内説には、具体的な証拠がないのですよ。
貴方は、日本政府が設置した機関が、発表した内容を、テレビで見なかったのですか。 >>94
しまった。
俺様は、貴方に論破されてしまった。
明日から、誰かに雇用されれば、良いな。 邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族の無職の奥山氏が、論破されてしまった。 朝鮮民族の奥山氏の家には、テレビがない可能性もありそうだな。 >>96
貴方は、頭が悪いので、アンカーの宛先を間違えているよ。 これよく出来てるなwww
@畿内説に合わない倭人伝を認めない。
A畿内説に合わない記紀を認めない。
B畿内以外の考古学的出土物を認めない。
Cフルボッコされた畿内説の負けを認めない。
D無視されると勝利宣言する。
E自分で荒らして他説のせいにする。
F論を批判せずに個人を罵倒する。
G存在しない遺跡や確認できない資料を提示して煙に巻く。
H畿内説に合わない鏡を認めない。後で作り始めたことにする。
I証拠を要求するが何を出しても証拠を認めない。
J証明を要求するが畿内説自身は証明ができない。
K論破していないことを論破したと主張する。
L計算ができない。
M方位も距離も畿内に合わせて読み替える。
N川と海の区別がつかない。
O東西南北が分からない。
P日本製を中国製と偽る。
ことで畿内説は成立しています。 >>99
しまった。
邪馬台国畿内説を信じる俺様は、アンカーを95晩にあてるつもりが、94
晩にあててしまった。
94晩の人物は、俺様と同じ境遇の奥山氏だな。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>95
テレビ言ったのは
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
04;00
「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。」
つまり九州説がまた詐欺をした >>100
それが九州説の恥だな
ひとつも証拠が出せない >>1
奥山氏は、今日も、殆どの日本人が忙しい時間帯に、誰とも連絡する必要がない隔離された状態で、長時間かけて、テンプレートを貼り付けたのだね。 >>105
僕達は、奥山氏がテンプレートを貼り付けている間、僕達の現役時代の物事で、複雑な物事の注文を受け、後輩に紹介していたのだったな。 >>105
奥山氏は、完全に、隔離された無職なのだったね。 >>107
そこの日本語が異常に下手な君! 君って一日中掲示板にいるよね >>108
奥山氏は、深夜にも、活発化できるのだったな。 >>1
奥山氏よ。
今からでも、改めなさい。
貴方は、完全に、間違えてしまっている。 >>111
全員奥山だと思ってる連続句点の頭がおかしい >>112
「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。」 奥山氏が、恥ずかしがっているな。
113日本@名無史さん2020/12/08(火) 20:01:26.40
>>111
全員奥山だと思ってる連続句点の頭がおかしい 奥山氏よ。結論が出ていない物事のために、貴方は、長時間かけて、何百回も、テンプレートを貼り付け、人生を無駄にしているよ。
114日本@名無史さん2020/12/08(火) 20:02:02.94
>>112
「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。」 奥山氏が、ついに、自殺という物事を見つめてしまった。
116日本@名無史さん2020/12/08(火) 20:03:27.66
九州説がまた「自殺」しているのだな 11:19:44.50
>>1
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた奥山氏よ、、、
貴方は完全に論破されてしまったが、自殺しては、駄目だ。
生き続けなさい。
これは、命令ではなく、お願いです。 奥山氏以外の人物は、奥山氏が創りあげたキャラクターなので、奥山氏自身なのだったな。 畿内説の主張と合致しないねえw
https://i.imgur.com/6n7rfmW.png
91 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2020/12/08(火) 18:52:24.15
>>89
>そんなこと思ってる人が何処にいるの?
日本全国だろ 奥山氏よ、貴方が、万が一、ベッドから離れられない身体障害者であっても、真剣に生きろ。 「桜井市纏向学センター」
箸中地区の木製輪鐙(あぶみ)(桜井市大字箸中)
木製輪鐙は箸墓古墳後円部裾で行われた纏向遺跡第109次調査で出土しました。
輪鐙が出土したのは幅約10mの箸墓古墳周濠の上層に堆積した、厚さ約25〜26pの植物層の中層からで、
古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと思われます。
摩耗痕が認められ、この鐙が実際に使用されたものであることを物語っています。
輪鐙が出土した植物層には土器片と少量の加工木が含まれ、輪鐙の所属時期は層位やこれらの遺物の年代観から
布留1式期(4世紀初め)の国内最古の事例と考えられています。
http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html
だってさ。 わははははは @阿波 >>125
おい。おまえ。
俺様は、邪馬台国は、巻向古墳にあったのだと信じている朝鮮民族の無職だ。俺様の仲間の、朝鮮民族の無職の奥山氏を揶揄うな、、、
おまえは、なぜ、」真剣に生きろ。「という、俺様の仲間の奥山氏には、無理な物事を提案するのだ。
俺様達は、邪馬台国畿内説を、愛してしまっているのだぞ。
邪馬台国畿内説は、永遠に、輝き、拡大するのだ。
真剣に討論してたまるか。 .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>128
貴方は、鉤括弧の使用方法を、完全に、間違えてしまったな。
邪馬台国が何処にあったのかを研究するためには、貴方や奥山氏は、日本で、働き、働き、日本の常識を身に付けた方が良いよ。 >>1
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた奥山氏よ、、、
貴方は完全に論破されてしまったが、自殺しては、駄目だ。
生き続けなさい。
これは、命令ではなく、お願いです。 おい、奥山氏よ、出現して、討論しても良いよ。
貴方と討論したい者は、いるのだぞ。
貴方は、貴方と討論したい者達が、いるからこそ、生きられるのではないのかな。
ただし、僕達は、今から少し忙しくなってしまった。
明日また、討論できれば良いね。 オカンが言うにはな、その説は老若男女みなから支持される言うてんな
ほな畿内説と違うかー。畿内説は国民からまったく支持されてないのよ >>76の訂正
>>968
>>東冶付近は、「一般的な会稽地域」にはならず、
>会稽郡の中だ 会稽郡の北部、東部でない南部地域だから会稽東冶5県と言われいて都尉治がある
一般的な会稽地域だよ
「夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽とは、全く関係がない地域。
>>260年頃の「会稽郡の分郡」で「建安郡」になった地域であるから、
>魏には関係ない 卑弥呼の時代には正真正銘の会稽郡だしな 時代も後のことだ
陳寿は、当然「会稽郡の分郡」を知っている。
>>陳寿が「会稽」の中に含める筈がない地。
>そんな理由は何も無いな 魏の会稽郡南部地域だもの
陳寿が書いた魏志の中の一節には「会稽」の中に当然含める
これもダメだ。呉の地域の事だし、
魏代の260年の分郡の後から西晋代の陳寿の執筆時まで、
会稽郡と建安郡は区別されていた。 >>77
>>投馬國が、九州北岸の不彌國から南へ水行二十日の位置であり、
>ダメだね
陳寿が7国を「女王国以北」と「其余」の2に分類したということは、投馬国は女王国に含まれない
ダメだ。「自女王國以北,其戶數道里可得略載,其餘旁國, 遠絕不可得詳」という事は、
「以って」だから「其戶數道里可得略載」出来た国が女王國に含まれる、という意味であり、
「其餘旁國」は、「遠絕不可得詳」であった、というだけの事だ。
>投馬国までの道里が判明している以上「女王国以北」になければならない
「女王國以北」であれば、投馬國は、女王國に含まれる、という事だ。
>女王の都を北部九州だと言っておいて 投馬国を南九州にするのは倭人伝の無視だな
陳寿は、明らかに、「女王之所都」と「女王國」とを書き分けており、
また、不彌國と邪馬壹國女王之所都の里数はほぼ0里であり、
女王國に含まれる投馬國は不彌國から南へ水行二十日の位置であるから、
不彌國は、ほぼ南九州になり、
だから、女王國(≒倭國)は「ほぼ九州島付近」である事になる。
大和説説学者らや東大理系博士号自称男は破綻してるよ >>78
>>これもダメだ。呉の地域の事だし、
>そう、九州説はダメね 呉の勝手にやったことだから魏は認めてない
つまり魏の記録には残らないだから魏志には反映しない
いや、陳寿は、呉志も書いており、当然呉の地域の分郡なども知って記載している。
東大理系博士号自称男の頭がダメね。
>>魏代の260年の分郡の後から西晋代の陳寿の執筆時まで、会稽郡と建安郡は区別されていた。
>まったく関係ない
史書には記録される事件のあった当時の地名で書かれるもおだ
全く関係がない。この男は、全くの馬鹿だね。
会稽東治之東の「東治」は、地名ではなく、「会稽の東方の治所」という意味の「名刺の連結」文言。
それに対して、建安郡の「東冶」は、魏代から西晋代にも存在した地名そのもの。 >>80
>>「夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽とは、全く関係がない地域。
>関係あるんだよ
その少康の子孫が越の王家で、越国と後裔の東越、閩越の三ヶ国が漢に併合された
それが後漢代の会稽郡だからね
閩越の旧都が東冶で、その国が会稽東冶
ダメだな。東大理系博士号自称男は、自分から、
「夏后少康之子封於會稽」の会稽は、杭州付近の会稽山付近だ、と主張して来ていたのであり、
建安郡の東冶とは、場所も全く違っており、バツね。 >>140
>「夏后少康之子封於會稽」の会稽は、杭州付近の会稽山付近だ、と主張して来ていたのであり、
つまり長江河口だなんだという珍説は全部ダメってこと
陳寿は倭人の説明に会稽の越人と海南島の朱崖人を持ち出して説明したんだ
だから地理的にはそのちょうど中間にある会稽東冶で説明したのさ >>82
>>投馬國が、九州北岸の不彌國から南へ水行二十日の位置であり、
>その道里を陳寿が計算して会稽云々と言ったということは
「水行二十日」は「道里」でいいんだな?
違うな。「自女王國以北,其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕,不可得詳」だから、
「水行二十日」は、「可得略載」された情報。
>ならば投馬国は女王国以北になければいけないから 南九州説は、バツ
「女王國以北」には「以って」があるから、女王國も含んで、という意味であり、
投馬國は「其戶數道里可得略載」されているから投馬國は、女王國に含まれる。 >>83
>>陳寿は、当然「会稽郡の分郡」を知っている。
>知ってたらなんだってこと
建安郡になった「東冶」を会稽と呼ぶ事はない。
>他の箇所でも2回も「会稽東冶」と書いている
260年の分郡以前は、会稽郡時代であったから。
>大体、なんの根拠もなく長江河口部の南岸はおろか揚州に属してない北岸まで「会稽東治」だとか言い出す中国史無視をやってたら
世間が九州説を見放すは当然だろ いや、当然
「揚州の管轄下」の話は、東大理系博士号自称男の方から、言い出した事であり、
その時の議論では、江蘇省海岸〜臨海郡?付近まで揚州の管轄下になっていた。 >>85
>証拠のない九州説が不味いな
証拠もないし、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」や、
「存在もしなかった畿内や邪馬台国」という嘘吐き騙しの大和説が、不味いな。 >>90
>>陳寿は「会稽」と「東治」とを違う地域だ、と考えている、という事。
>そんなわけなだろ 備中高島って備中と高島が別の場所だと思うか?
女王國の位置を「会稽の東方だ」と言いたいんなら、
「会稽之東」とか「会稽郡之東」でよい筈であるのに、
陳寿が敢えて「東治」という文言を入れて「会稽東治之東」と書いて、
敢えて「東を2個も重ねる書き方をした」、という事は、
陳寿は、「会稽之東」ではダメであり、
「会稽地域の東方の海岸地域の治所の東方にある」と言いたかったから。
>>「東治」は、会稽の東方の「会稽とは違う組織の治所だ」と考えていた、という事。
>ありえんな 会稽の東方には海しかない
ダメだ。会稽と海の間に、揚州の管轄下の地域がある。 >>91
>日本全国だろ 日本全国で使われてる教科書に
古墳が成立する時期を3世紀とする研究が進む中で、
「ヤマト」を中心とするヤマト政権に邪馬台国が直接つながる可能性が高くなった。
邪馬台国の中心地とされる候補地の一つに、纏向遺跡がある。
と書かれてるんだから
その教科書会社の教科書は、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の否定や曲解の嘘吐き騙しをしており、
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使ったりしていて、
思想宗教に狂っている事が明らかな会社であるから、
信頼性が全くなく、バツである。 >>104
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の否定や曲解の嘘吐き騙しをしており、
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使ったりしており、
それが大和説学者らの恥だな
ひとつも証拠が出せない >>141
>>「夏后少康之子封於會稽」の会稽は、杭州付近の会稽山付近だ、と主張して来ていたのであり、
>つまり長江河口だなんだという珍説は全部ダメってこと
ダメだな。
「会稽東治之東」は、「東治」という全く無意味に見える文言を挿入しており、
ただ「会稽郡の東方」だと言いたいんなら、「会稽之東」でよい筈であるのに、
わざわざ、「東治」という文言を入れた、という事は、
会稽の東方の海岸治域の東方だ、と言いたかったからである、という事になる。
そして、一番東方の海岸になるのは、揚子江の河口の南海岸部であり、
揚州の管轄下の江蘇省の海岸である。 会稽東治=会稽の東部にある治所
こんなの基本中の基本 >>149
当然そんな素人デタラメ認める専門家はいないな >>148
>「会稽東治之東」は、「東治」という全く無意味に見える文言を挿入しており、
誤字だもの、無意味さ、
正しくは「東冶」ダァら。
>そして、一番東方の海岸になるのは、揚子江の河口の南海岸部であり、
そこは会稽の東方じゃないからダメ
そっちは北だ
北≠東だな >>145
>ダメだ。会稽と海の間に、揚州の管轄下の地域がある。
そこも会稽だよ >>143
>建安郡になった「東冶」を会稽と呼ぶ事はない。
卑弥呼の頃は呼ぶよ
>「揚州の管轄下」の話は、東大理系博士号自称男の方から、言い出した事であり、
>その時の議論では、江蘇省海岸〜臨海郡?付近まで揚州の管轄下になっていた。
呉郡も会稽郡も揚州の管轄下だが、それが何か?
呉郡は会稽じゃない >>142
>「女王國以北」には「以って」があるから、女王國も含んで、という意味であり、
そんな意味はないよ
>投馬國は「其戶數道里可得略載」されているから投馬國は、女王國に含まれる。
ならば計って会稽東治の東にはならない
道里を計ったんだからな
ダメ >>142
>142日本@名無史さん2020/12/08(火) 23:27:49.03>>154
>>82
>>投馬國が、九州北岸の不彌國から南へ水行二十日の位置であり、
>その道里を陳寿が計算して会稽云々と言ったということは
「水行二十日」は「道里」でいいんだな?
違うな。「自女王國以北,其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕,不可得詳」だから、
「水行二十日」は、「可得略載」された情報。
>ならば投馬国は女王国以北になければいけないから 南九州説は、バツ
「女王國以北」には「以って」があるから、女王國も含んで、という意味であり、
>投馬國は「其戶數道里可得略載」されているから投馬國は、女王國に含まれる。
デタラメだな
「女王國以北」が鹿児島まで含むなら
「其余旁国」も「狗奴国」も九州にないよ >>143
>建安郡になった「東冶」を会稽と呼ぶ事はない。
まさか
歴史を書くのに歴史的地名を使うのは当然だろ
現に陳寿は他に二箇所も会稽東冶と書いている つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。 もはや論破されつくして会稽東冶の東という陳寿の脳内地図にしがみつくしか無い畿内説あわれ >>158
九州説も同じじゃないか。 わははははは @阿波 >>150
>>会稽東治=会稽の東部にある治所 こんなの基本中の基本
>当然そんな素人デタラメ認める専門家はいないな
当然、「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」や、
「畿内や邪馬台国などの存在もしなかった文言を使う」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの、
出鱈目な大和説学者らや大和説専門家なんて、
まともな国民や、世界の学者らがら、信用する筈がないな。 >>151
>>「会稽東治之東」は、「東治」という全く無意味に見える文言を挿入しており、
>誤字だもの、無意味さ、正しくは「東冶」ダァら。
5世紀の范暢の後漢書の「東冶」は、
「後代学者の誤った自己解釈に拠る前史の書き換え」の典型的な例であり、
宋明清代の校勘学者らは誰一人「会稽東冶」を認めておらず、
魏志の「会稽東治」で正しい、という判断であり、
「会稽東冶」が誤字だもの、無意味さ、
正しくは「会稽東治」ダァら。
>>そして、一番東方の海岸になるのは、揚子江の河口の南海岸部であり、
>そこは会稽の東方じゃないからダメ そっちはは北だ 北≠東だな
杭州から揚子江河口南岸部へは「ほぼ東北東」だな。
蘇州付近から揚子江河口南岸部へは「ほぼ東南東」だな。
要は、「夏后少康之子封於會稽」の会稽や、「3世紀の陳寿の頃の会稽」が、
どの付近であったのか?の問題だ。
勿論「北」には全くならず、これも、東大理系博士号自称男のインチキ詐欺だな。 「夏后少康之子封於會稽」という物事を、魏志倭人伝の作者は、どのようにして、知ったのだろうか。 >>162
「夏后少康之子封於會稽」という物事を、魏志倭人伝の作者は、魏志倭人伝時代よりも古い文章を読んだので、知った可能性が、高いのではないのかな。 >>163
では、「夏后少康之子封於會稽」という物事を、魏志倭人伝の作者が読んだので知った、魏志倭人伝時代よりも古い文章とは、何時代の文章なのだろうか。 >>164
貴方は、魏志倭人伝の「会稽」は、「「夏后少康之子封於會稽」という物事を、魏志倭人伝の作者が読んだので知った、魏志倭人伝時代よりも古い文章」が書かれた時代の会稽なのだと考えたのだな。 「夏后少康之子封於會稽」という物事が、書かれた一番古い時代は、何時代なのだろうか。 畿内説が馬鹿なのは確率の低い仮説を数珠つなぎにした細い線で全てを語ろうとする所
まるでオカルト系宗教にのめり込んだ信者のようだよ >>166
半坡陶符時代の可能性もあるのではないのかな。 >>168
貴方は、半坡陶符という物事の研究を始めたのだね。 「夏后少康之子封於會稽」という物事は、どのようにして、良渚文化時代から、魏志倭人伝時代に、伝わったのだろうか。。。 >>153
>>建安郡になった「東冶」を会稽と呼ぶ事はない。
>卑弥呼の頃は呼ぶよ
「計其道里,當在會稽東治之東」の文は、3世紀第4四半世紀頃の陳寿の地の文であり、
3世紀第2四半世紀頃の卑弥呼の頃の記録ではない。
>>「揚州の管轄下」の話は、東大理系博士号自称男の方から、言い出した事であり、
その時の議論では、江蘇省海岸〜臨海郡?付近まで揚州の管轄下になっていた。
>呉郡も会稽郡も揚州の管轄下だが、それが何か?呉郡は会稽じゃない
揚子江の加工の南北地域は、会稽地域ではなく、江蘇省地域であった、
という話なんだよ。 >>170
魏志倭人伝の「会稽東治」は、「「夏后少康之子封於會稽」という物事を、魏志倭人伝の作者が読んだので知った、魏志倭人伝時代よりも古い文章」が書かれた時代の「会稽の東の治所」なのだったな。 「夏后少康之子封於會稽」という物事は、どのようにして、良渚文化時代から、魏志倭人伝時代に、伝わったのだろうか。。。 良渚文化と大汶口文化の図象記号とは、どのような記号なのだろうか。 >>154
>>「女王國以北」には「以って」があるから、女王國も含んで、という意味であり、
>そんな意味はないよ
「A以上」という時には「Aを含んでそれ以上」だ、
という事は、小学校以来の漢字の常識だ。
>>投馬國は「其戶數道里可得略載」されているから投馬國は、女王國に含まれる。
>ならば計って会稽東治の東にはならない 道里を計ったんだからな ダメ
「水行二十日」という所要日数説明が、「道里の代わり」になっているから、
「略差異 >>172
魏志倭人伝の作者の作者は、「夏后少康之子封於會稽」という物事を、発表してから、続けて、女王国がその「会稽」東治の東にあるのだということを、発表したのだったね。 >>176
つまり、脳に異常の無い、頭が普通の者が読めば、「魏志倭人伝の「会稽東治」は、「「夏后少康之子封於會稽」という物事を、魏志倭人伝の作者が読んだので知った、魏志倭人伝時代よりも古い文章」が書かれた時代の「会稽の東の治所」なのだ。」という、魏志倭人伝の作者の考えが伝わるのだったね。 良渚文化と大汶口文化の図象記号とは、どのような記号なのだろうか。 >>175が、また途中で投稿ボタンを押した事になって失敗したから、訂正
>>154
>>「女王國以北」には「以って」があるから、女王國も含んで、という意味であり、
>そんな意味はないよ
「A以上」という時には「Aを含んでそれ以上」だ、
という事は、小学校以来の漢字の常識だ。
>>投馬國は「其戶數道里可得略載」されているから投馬國は、女王國に含まれる。
>ならば計って会稽東治の東にはならない 道里を計ったんだからな ダメ
「水行二十日」という所要日数説明が、「道里の代わり」になっているから、
「略載」された事になっている、という事だ。 「會稽」とは、「元々」は、何を表しているのだろうか。。。 >>180
大河が、「澱みに会ってしまったのだ。」という物事を、表現した可能性が高いな。 >>181
つまり、「會稽」とは、「元々」は、巨大な三角州の事なのだね。 >>182
つまり、「會稽」とは、「元々」は、太湖を中心とする古代の巨大な三角州の事なのだな。 >>180-183
松傾ニ告グ
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直チニ傾イタ松デ キュウリノ葉デ 老婆デ ?ナ 基地外ニ変身セヨ
松傾ニ告グ
松傾ニ告グ
直チニ傾イタ松デ キュウリノ葉デ 老婆デ ?ナ 基地外ニ変身セヨ 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた奥山氏が、自殺に失敗し、起床したな。
184 名前:日本@名無史さん 2020/12/09(水) 09:50:02.26
>>180-183
松傾ニ告グ
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直チニ傾イタ松デ キュウリノ葉デ 老婆デ ?ナ 基地外ニ変身セヨ
松傾ニ告グ
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直チニ傾イタ松デ キュウリノ葉デ 老婆デ ?ナ 基地外ニ変身セヨ >>1
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた奥山氏よ、、、
貴方は完全に論破されてしまったが、自殺しては、駄目だ。
生き続けなさい。
これは、命令ではなく、お願いです 良渚文化と大汶口文化の図象記号とは、どのような記号なのだろうか。 >>155
>>「女王國以北」には「以って」があるから、女王國も含んで、という意味であり、
投馬國は「其戶數道里可得略載」されているから投馬國は、女王國に含まれる。
>デタラメだな「女王國以北」が鹿児島まで含むなら
「其余旁国」も「狗奴国」も九州にないよ
デタラメだなあ。
「今使譯所通三十國」は、
狗邪韓国から邪馬壹國女王之所都までの説明に記載された国々(側副傍線の2国を含む)の、
9か国と、其餘旁國に挙げられた21国で30国であり、
という事は、卑弥呼に敵対的であった「女王の南の狗奴國」は、
今使譯所通三十國に数えられていなかった、という事になるだけ。
という事は、其餘旁國に挙げられた21国は、九州島やその周辺の島々にあった国である、
として十分。
勿論、狗邪韓国を数えず、狗奴國を含めても、30国になる。 「夏后少康之子封於會稽」という物事は、どのようにして、良渚文化時代から、魏志倭人伝時代に、伝わったのだろうか。。。 >>156
>>建安郡になった「東冶」を会稽と呼ぶ事はない。
>まさか 歴史を書くのに歴史的地名を使うのは当然だろ
「計其道里,當在會稽東治之東」は、3世紀末の陳寿執筆時での「地の文」だ。
>現に陳寿は他に二箇所も会稽東冶と書いている
それらはいずれも、呉志における「260年の分郡」以前の記録だったからだ。 >>171の訂正
>>153
>>建安郡になった「東冶」を会稽と呼ぶ事はない。
>卑弥呼の頃は呼ぶよ
「計其道里,當在會稽東治之東」の文は、3世紀第4四半世紀頃の陳寿の地の文であり、
3世紀第2四半世紀頃の卑弥呼の頃の記録ではない。
>>「揚州の管轄下」の話は、東大理系博士号自称男の方から、言い出した事であり、
その時の議論では、江蘇省海岸〜臨海郡?付近まで揚州の管轄下になっていた。
>呉郡も会稽郡も揚州の管轄下だが、それが何か?呉郡は会稽じゃない
揚子江の河口の南北地域は、会稽地域ではなく、江蘇省地域であった、
という話なんだよ。 >>191
>「計其道里,當在會稽東治之東」の文は、3世紀第4四半世紀頃の陳寿の地の文であり、
3世紀第2四半世紀頃の卑弥呼の頃の記録ではない。
陳寿は卑弥呼の時代の歴史を書いたんだから当時の地名で書くんだよ
他の箇所でもそう書いている
>揚子江の河口の南北地域は、会稽地域ではなく、江蘇省地域であった、
>という話なんだよ。
で、陳寿が書いた「会稽東治」は会稽地域のことだ
江蘇省地域である揚子江の河口の南北地域とか、倭人伝に関係ないな 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた奥山氏が、意見を発表したのではないのかな。
192日本@名無史さん2020/12/09(水) 10:51:26.79
>>191
>「計其道里,當在會稽東治之東」の文は、3世紀第4四半世紀頃の陳寿の地の文であり、
3世紀第2四半世紀頃の卑弥呼の頃の記録ではない。
陳寿は卑弥呼の時代の歴史を書いたんだから当時の地名で書くんだよ
他の箇所でもそう書いている
>揚子江の河口の南北地域は、会稽地域ではなく、江蘇省地域であった、
>という話なんだよ。
で、陳寿が書いた「会稽東治」は会稽地域のことだ
江蘇省地域である揚子江の河口の南北地域とか、倭人伝に関係ないな >>190
>「計其道里,當在會稽東治之東」は、3世紀末の陳寿執筆時での「地の文」だ。
いいや。
陳寿は史官として卑弥呼の朝貢やその死など、魏代のことを書いたんだよ
倭の地理も風俗も、当時の魏が東夷外交を通じて得た情報の歴史的記録だ
>それらはいずれも、呉志における「260年の分郡」以前の記録だったからだ。
すべて地の文だよ >>193
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた奥山氏が発表した意見は、あまり、良い意見ではないな。 >>195
魏志倭人伝の「会稽東治」は、「「夏后少康之子封於會稽」という物事を、魏志倭人伝の作者が読んだので知った、魏志倭人伝時代よりも古い文章」が書かれた時代の「会稽の東の治所」なのだったな。 >>196
魏志倭人伝の作者の作者は、「夏后少康之子封於會稽」という物事を、発表してから、続けて、女王国がその「会稽」東治の東にあるのだということを、発表したのだったね。 >>198
つまり、脳に異常の無い、頭が普通の者が読めば、「魏志倭人伝の「会稽東治」は、「「夏后少康之子封於會稽」という物事を、魏志倭人伝の作者が読んだので知った、魏志倭人伝時代よりも古い文章」が書かれた時代の「会稽の東の治所」なのだ。」という、魏志倭人伝の作者の考えが伝わるのだったね。 陳寿が言及した会稽とは、三世紀の会稽のことではなくて、
「夏后少康之子が封ぜられた古い時代の於會稽」のことであり、
それは陳寿が倭人伝を執筆した三世紀から数えると、さらに2000年も前の夏王朝の時代の会稽のことなんだよ。
教養あるあなたがたなら、陳寿が2000年前の中華の大古典を引いたことおわかりでしょ? >>198
そうだね。
魏志倭人伝の作者が発表した「夏后少康之子封於會稽」という物事に続けて、唐突に、魏志倭人伝の作者が「夏后少康之子封於會稽」という物事とは無関係の「東冶」という地点を持ち出せば、魏志倭人伝の作者の作者は、読んだ者から脳の異常を疑われてしまうのだったな。 「夏后少康之子封於會稽」という物事は、どのようにして、良渚文化時代から、魏志倭人伝時代に、伝わったのだろうか。。。 >>192
>>「計其道里,當在會稽東治之東」の文は、3世紀第4四半世紀頃の陳寿の地の文であり、
3世紀第2四半世紀頃の卑弥呼の頃の記録ではない。
>陳寿は卑弥呼の時代の歴史を書いたんだから当時の地名で書くんだよ
他の箇所でもそう書いている
陳寿は、地の文として書いているのか?、過去の文献や記録や上表文などとを、
ある程度、読者に判るように書き分けている。
>>揚子江の河口の南北地域は、会稽地域ではなく、江蘇省地域であった、という話なんだよ。
>で、陳寿が書いた「会稽東治」は会稽地域のことだ
ダメだ。陳寿は、
「会稽之東」とは書かずに、「会稽東治之東」とはっきり区別して書き分けている。
>江蘇省地域である揚子江の河口の南北地域とか、倭人伝に関係ないな
どっちにしても、建安郡の「東冶」は、会稽東治にはならず、バツだな。 >>188
>「今使譯所通三十國」は、
>狗邪韓国から邪馬壹國女王之所都までの説明に記載された国々(側副傍線の2国を含む)の、
>9か国と、其餘旁國に挙げられた21国で30国であり、
>という事は、卑弥呼に敵対的であった「女王の南の狗奴國」は、
>今使譯所通三十國に数えられていなかった、という事になるだけ。
それがどうしたの?
その「女王境界所尽」の「其南」に狗奴国があるんだよ
鹿児島まで女王国で、狗奴国はどこにあるんだい?
そもそも、あんたの言うように
>投馬國は「其戶數道里可得略載」されている、女王國に含まれる。
なんて話なら、壱岐も対馬も女王国になるぜ
「女王国以北」とか書く意味がない
支離滅裂だろ 今夜は、奴国があったあたりで、闘いがあるのだったな。 >>203
>陳寿は、地の文として書いているのか?、過去の文献や記録や上表文などとを、
>ある程度、読者に判るように書き分けている。
地の文に会稽東冶と書いているよ
>ダメだ。陳寿は、
>「会稽之東」とは書かずに、「会稽東治之東」とはっきり区別して書き分けている。
だかた会稽郡南部の旧閩越国地域のことだ
ただ会稽と書けば会稽郡全域のことと区別がつかないからな
>どっちにしても、建安郡の「東冶」は、会稽東治にはならず、バツだな。
魏にとって不法占拠の盗賊に過ぎない呉がなんと命名しようが、建安郡など魏は認めないから魏は関知しない
どっちにせよ卑弥呼の時代にそんな郡は存在しない
魏志に出てくるなら会稽東冶も会稽東治も今の福建省のことだ
もちろん会稽ではない江蘇省地域である揚子江の河口の南北地域とか、倭人伝に関係ないな >>204
>>「今使譯所通三十國」は、
狗邪韓国から邪馬壹國女王之所都までの説明に記載された国々(側副傍線の2国を含む)の、
9か国と、
其餘旁國に挙げられた21国で30国であり、
という事は、卑弥呼に敵対的であった「女王の南の狗奴國」は、
今使譯所通三十國に数えられていなかった、という事になるだけ。
>それがどうしたの?
九州島付近には、行程から位置が明らかな9国と、卑弥呼に敵対した狗奴國以外の、
「其餘旁國」の21国が存在し得る、地域や周辺島々が十分にある、
という事だな。
>その「女王境界所尽」の「其南」に狗奴国があるんだよ
鹿児島まで女王国で、狗奴国はどこにあるんだい?
「女王境界所尽」と「女王國」の範囲や場所は違う。
「女王國」は、卑弥呼共立の30国の範囲であり、「女王」は、卑弥呼そのものだから、
「女王境界所尽」あh当然「女王之所都」の事を意味する。
>そもそも、あんたの言うように
>投馬國は「其戶數道里可得略載」されている、女王國に含まれる。
なんて話なら、壱岐も対馬も女王国になるぜ「女王国以北」とか書く意味がない 支離滅裂だろ
對海國も一大國も、当然女王國に含まれる。 >>199
つまり、脳に異常がある者だけが、「会稽東治」について「だかた会稽郡南部の旧閩越国地域のことだ
ただ会稽と書けば会稽郡全域のことと区別がつかないからな」という、頓珍漢な間違いを犯してしまうのだね。 >>202
夏王朝の時代の会稽は、良渚の末期の遺蹟のことなのだったな。 >>208
>>陳寿は、地の文として書いているのか?、過去の文献や記録や上表文などとを、
ある程度、読者に判るように書き分けている。
>地の文に会稽東冶と書いているよ
260年の分郡以前の呉地域の文献情報の紹介だな。
>>ダメだ。陳寿は、「会稽之東」とは書かずに、「会稽東治之東」とはっきり区別して書き分けている。
>だかた会稽郡南部の旧閩越国地域のことだ ただ会稽と書けば会稽郡全域のことと区別がつかないからな
「会稽郡南部」ではない。「会稽東治」とはっきり書いている。
>>どっちにしても、建安郡の「東冶」は、会稽東治にはならず、バツだな。
>魏にとって不法占拠の盗賊に過ぎない呉がなんと命名しようが、建安郡など魏は認めないから魏は関知しない
呉志を書いた陳寿には、関係がない。記録や情報に拠って、呉志を書いただけ。
>どっちにせよ卑弥呼の時代にそんな郡は存在しない
魏志に出てくるなら会稽東冶も会稽東治も今の福建省のことだ
いや、陳寿は「夏后少康之子封於會稽」のつもりで「会稽」と書いている。
>もちろん会稽ではない江蘇省地域である揚子江の河口の南北地域とか、倭人伝に関係ないな
「夏后少康之子封於會稽」の「東治」なら、揚子江の河口の南北地域だな。 >>212
>260年の分郡以前の呉地域の文献情報の紹介だな。
地の文は地の文だ
倭人伝の「会稽東治之東」も同じ魏代の文献情報だな
>「会稽郡南部」ではない。「会稽東治」とはっきり書いている。
「会稽東治」が「会稽郡南部」を指しているんだよ
その意味で二回も「会稽東冶」と書いている
>いや、陳寿は「夏后少康之子封於會稽」のつもりで「会稽」と書いている。
それは後の越国だな浙江省だ
>「夏后少康之子封於會稽」の「東治」なら、揚子江の河口の南北地域だな。
会稽とまったく関係のない場所だ
ましてや揚子江河口の北岸は当時揚州ですらない >>209
>「女王境界所尽」と「女王國」の範囲や場所は違う。
>「女王國」は、卑弥呼共立の30国の範囲であり、「女王」は、卑弥呼そのものだから、
>「女王境界所尽」あh当然「女王之所都」の事を意味する。
でたらめだな
陳寿は「其余旁国」21国並べて最後に
「…次有烏奴国、次有奴国、此女王境界所尽」
と書いてるんだがね
>對海國も一大國も、当然女王國に含まれる。
じゃ、女王国以北とは、どこ?
支離滅裂だな >>1
貴方を、教育します。
女王国以北とは、男王国より北の倭国のことですよ。 >>217
夏王朝の時代の会稽の本部である、良渚城から、北東で東南でもない、正に東に、九州があるね。 >>219
夏王朝の時代の会稽の本部である、良渚城から、北東で東南でもない、正に東に、九州があるね。
という文章は、
夏王朝の時代の会稽の本部である、良渚城から、北東でも東南でもない、正に東に、九州があるね。
とタイピングしたかったのでないのかな。 「夏后少康之子封於會稽」という物事を、学問的に裏付けた、夏王朝の時代の会稽の本部である、良渚城から、北東でも東南でもない、正に東に、九州があるね。
https://www.google.co.jp/maps/@31.7781046,125.6392502,7.5z?hl=ja 「良渚古城」 中国4000年を遡る古代文明
杭州市瓶窯鎮雉山村に於いて発掘! >>216
>>260年の分郡以前の呉地域の文献情報の紹介だな。
>地の文は地の文だ 倭人伝の「会稽東治之東」も同じ魏代の文献情報だな
ダメだ。「会稽東治之東」は、陳寿執筆時点での女王國の位置に関する判断記載文だ。
>>「会稽郡南部」ではない。「会稽東治」とはっきり書いている。
>「会稽東治」が「会稽郡南部」を指しているんだよ
ダメだ。「東≠南」だ。
>その意味で二回も「会稽東冶」と書いている
それは。陳寿執筆時点での陳寿の判断文ではなく、分郡前の呉の情報や記録の文の紹介だ。
>>いや、陳寿は「夏后少康之子封於會稽」のつもりで「会稽」と書いている。
>それは後の越国だな浙江省だ
夏后少康の頃には、越はなく、会稽だ。
>>「夏后少康之子封於會稽」の「東治」なら、揚子江の河口の南北地域だな。
>会稽とまったく関係のない場所だ 構わんな。
>ましてや揚子江河口の北岸は当時揚州ですらない
揚子江の「楊」は、おそらく「揚州」の「楊」だ。 夏王朝文化である龍山文化という文化が、會稽である良渚文化に進出し、良渚城が出現し、「夏后少康之子封於會稽」という物事が発生した可能性が高いな。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず
. >>223
>ダメだ。「会稽東治之東」は、陳寿執筆時点での女王國の位置に関する判断記載文だ。
いくら言い張っても陳寿が書いた魏志で使われてる地名は魏代のものだよ
>ダメだ。「東≠南」だ。
ダメだじいさんの信念がそうでも史実は変わらない
東越も東瓯も越の南にある国だよ
>それは。陳寿執筆時点での陳寿の判断文ではなく、分郡前の呉の情報や記録の文の紹介だ。
陳寿が魏志で使ったのも当時に魏で使われた地名だよ
歴史書というのは記載した史実の時代の地名を使うものだ
だから陳寿は漢代の地名も使っている
>>それは後の越国だな浙江省だ
>夏后少康の頃には、越はなく、会稽だ。
だから「後の越国」と書かれているが、発狂したかね?
>揚子江の「楊」は、おそらく「揚州」の「楊」だ。
なんの関係もない
揚子江の河口と会稽は無関係だ
もっと南の地名だから >>224
夏王朝文化である龍山文化という文化が、會稽である良渚文化に進出し、良渚城が出現し、魏志倭人伝の「夏后少康之子封於會稽」という物事が発生したのだから、「会稽東治」は、良渚城の東にあった可能性が高いのだね。 >>221
>「夏后少康之子封於會稽」という物事を、学問的に裏付けた、夏王朝の時代の会稽の本部である、良渚城から、北東でも東南でもない、正に東に、九州があるね。
うそ
まさに東にあるのは屋久島
種子島より南 >>229
最初の「會稽郡」は、現在では複数の自治体にまたがる、太湖を中心とした、上海西方の狭い地域なのだったね。 >>221
なるほど。。。
九州は、「夏后少康之子封於會稽」という物事を、学問的に裏付けた、夏王朝の時代の会稽の本部である、良渚城から、魏志倭人伝が採用した八方位の、北東でも東南でもなく、「正に、」東にあるな。 >>231
では、「会稽東治」は、上海にあった可能性も高いな。 >>233
僕達の研究ノートの「会稽東治」のページには、「中国藻屑蟹という蟹が、美味い」という文章が書かれているよ。 >>235
「中国藻屑蟹という蟹が、美味い」という文章の下に、「最初の會稽郡の本部」と書かれているね。 上海ではなく、蘇州市が「会稽東治」である可能性も高いのではないのかな。 >>1
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた奥山氏よ、、、
貴方は完全に論破されてしまったが、自殺しては、駄目だ。
生き続けなさい。
これは、命令ではなく、お願いです。 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>237
まったく理由がないのに可能性は生まれない 邪馬台国畿内説には、具体的な証拠を伴う理由が、全く無いのだったな。 奥山くん、つぶやきたいならTwitterでやれよw
519 ニューノーマルの名無しさん [sage] 2020/12/09(水) 12:49:03.67 ID:to4KsT1G0
まあ九州説の立場もわかるよ
文献では九州は通り過ぎる事が書かれてるし畿内説には考古学的証拠も揃ってて学説でも定説
もうどうやっても畿内説に勝てるとは思えないけど
勤め先の電通系ネットステマ会社のブラック上司が書け書けと無理強いしてくるんだろ 太湖北の常州市武進区の寺墩地区で発見された、夏の時代になった頃の良渚文化の本部の遺蹟とは、どのような物体なのだろうか。。。 >>231
>もちろん間違い
会稽は越王の都だった現在の紹興市にあった
戦国末期、越王勾践が呉を滅した時に都を呉の句蘇に移したが会稽は元のまま
越は楚に滅ぼされ、蘇は漢に亡された
漢は呉越の旧地を会稽郡として支配し郡治は呉県に置かれた
その後、漢は南の東越、閩越を滅ぼし、会稽郡に編入した
後漢は呉郡を分離し、会稽郡治は会稽山陰に戻った
孫権は会稽太守として通称「孫会稽」と呼ばれた
三国時代の常識では、会稽とは会稽郡(いあの浙江省と福建省)か会稽郡治(今の紹興市)付近である >>247
秦朝というのは、始皇帝という人物と関係が有りそうだな。 太湖北の常州市武進区の寺墩地区で発見された、夏の時代になった頃の良渚文化の本部の遺蹟とは、どのような物体なのだろうか。。。 秦朝というのは、徐福という人物とも関係が有りそうだな。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>247
會稽郡初置時,領有吳、越兩國之地,大致相當於今江蘇長江以南、安徽東南、上海西部以及浙江北部。
という文章が、出典まで示されながら、発表されているな。 >>242
連句点は誰を見ても奥山、奥山と呟くが、具体的な証拠を伴う理由が全く無いのだったな。 >>1
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた奥山氏よ、、、
貴方は完全に論破されてしまったが、自殺しては、駄目だ。
生き続けなさい。
これは、命令ではなく、お願いです。 >>252
つまり長江北岸まで会稽だとかは嘘の大嘘なのだったな >>231
「最初の「會稽郡」は、現在では複数の自治体にまたがる、太湖を中心とした、上海西方の狭い地域なのだ。」という真実は、
「「會稽」という地名が、元々は、現在では複数の自治体にまたがる、太湖を中心とした、上海西方の狭い地域なのだ。」という真実を導いてしまうのだったな。 僕達が、一度も発表していない物事について、嘘だと言われる筋合いは全く無いな。
256日本@名無史さん2020/12/09(水) 15:59:59.82
>>252
つまり長江北岸まで会稽だとかは嘘の大嘘なのだったな 太湖北の常州市武進区の寺墩地区で発見された、夏の時代になった頃の良渚文化の本部の遺蹟とは、どのような物体なのだろうか。。。 >>1
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた奥山氏よ、、、
貴方は完全に論破されてしまったが、自殺しては、駄目だ。
生き続けなさい。
これは、命令ではなく、お願いです。 脳に異常の無い、頭が普通の者が読めば、「魏志倭人伝の「会稽東治」は、「「夏后少康之子封於會稽」という物事を、魏志倭人伝の作者が読んだので知った、魏志倭人伝時代よりも古い文章」が書かれた時代の「会稽の東の治所」なのだ。」という、魏志倭人伝の作者の考えが伝わるのだったね。 「「夏后少康之子封於會稽」という物事を、魏志倭人伝の作者が読んだので知った、魏志倭人伝時代よりも古い文章」が書かれた時代には、「會稽」という地名が、元々の、「現在では複数の自治体にまたがる、太湖を中心とした、上海西方の狭い地域」という意味で使用されていたのだったな。 絶望的に劣勢な九州説がニセの情報で無理な一発逆転を望んでいるのだな >>261
倭の位置を示すのに
「会稽の東の治所」だなんて地名のない場所を使うとか
そんな空想は脳のそうとう弱い人しか思いつかないのだったな >>262
「現在では複数の自治体にまたがる、太湖を中心とした、上海西方の狭い地域」とか
万民に笑える嘘をつき続ける九州説の醜態 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww やはり、最後は、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた奥山氏が、卑劣な悪口や嘘を言い放つだけのスレッドになってしまったな。
263 名前:日本@名無史さん 2020/12/09(水) 16:20:36.44
絶望的に劣勢な九州説がニセの情報で無理な一発逆転を望んでいるのだな
264 名前:日本@名無史さん 2020/12/09(水) 16:23:35.70
>>261
倭の位置を示すのに
「会稽の東の治所」だなんて地名のない場所を使うとか
そんな空想は脳のそうとう弱い人しか思いつかないのだったな やはり、最後は、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた奥山氏が、卑劣な悪口や嘘を言い放つだけのスレッドになってしまったな。
263 名前:日本@名無史さん 2020/12/09(水) 16:20:36.44
絶望的に劣勢な九州説がニセの情報で無理な一発逆転を望んでいるのだな
264 名前:日本@名無史さん 2020/12/09(水) 16:23:35.70
>>261
倭の位置を示すのに
「会稽の東の治所」だなんて地名のない場所を使うとか
そんな空想は脳のそうとう弱い人しか思いつかないのだったな やはり、最後は、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた奥山氏が、卑劣な悪口や嘘を言い放つだけのスレッドになってしまったな。
263 名前:日本@名無史さん 2020/12/09(水) 16:20:36.44
絶望的に劣勢な九州説がニセの情報で無理な一発逆転を望んでいるのだな
264 名前:日本@名無史さん 2020/12/09(水) 16:23:35.70
>>261
倭の位置を示すのに
「会稽の東の治所」だなんて地名のない場所を使うとか
そんな空想は脳のそうとう弱い人しか思いつかないのだったな
265日本@名無史さん2020/12/09(水) 16:28:33.52
>>262
「現在では複数の自治体にまたがる、太湖を中心とした、上海西方の狭い地域」とか
万民に笑える嘘をつき続ける九州説の醜態
266日本@名無史さん2020/12/09(水) 16:28:51.64
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに) >>268
松傾はお前だよ
邪馬台国畿内説 Part594
537 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2020/05/05(火) 14:25:16.26
『何者にもなれない お前たち』も出てくるし、包丁を投げてくる老婆?
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1588622650/537
邪馬台国畿内説 Part595
449日本@名無史さん2020/05/10(日) 02:07:20.48
なぜか、家と同じような設定、話?兄と弟、妹w
『何者にもなれない お前たち』何かに寄生されているのかな?
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1588832433/449
邪馬台国畿内説 Part598
日本@名無史さん2020/05/21(木) 00:19:24.28
考古学科てのは何者なれない底辺に飯を食わせる福祉施設みたいなもんだな
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1589864224/495
邪馬台国畿内説 Part618
472日本@名無史さん2020/07/16(木) 19:53:22.14
お前の今の立場が証拠だろwww
何者にもなれないエセ畿内説www
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1594810464/472 >>269
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた奥山氏は、嘘をついたことを曝かれ、正々堂々の討論に敗北したのだから、嘘や悪口を言い放つしかないよ。 奥山氏が、自分が呟いた内容を、再び貼り付けているな。
270日本@名無史さん2020/12/09(水) 16:36:37.00
>>268
松傾はお前だよ
邪馬台国畿内説 Part594
537 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2020/05/05(火) 14:25:16.26
『何者にもなれない お前たち』も出てくるし、包丁を投げてくる老婆?
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1588622650/537
邪馬台国畿内説 Part595
449日本@名無史さん2020/05/10(日) 02:07:20.48
なぜか、家と同じような設定、話?兄と弟、妹w
『何者にもなれない お前たち』何かに寄生されているのかな?
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1588832433/449
邪馬台国畿内説 Part598
日本@名無史さん2020/05/21(木) 00:19:24.28
考古学科てのは何者なれない底辺に飯を食わせる福祉施設みたいなもんだな
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1589864224/495
邪馬台国畿内説 Part618
472日本@名無史さん2020/07/16(木) 19:53:22.14
お前の今の立場が証拠だろwww
何者にもなれないエセ畿内説www
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1594810464/472 勝ち負けどころか、土俵にすら上がれず5chで嘘を宣伝するだけの死に体となってしまったスレ主あわれ >>1
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと奥山氏よ、、、
貴方は完全に論破されてしまったが、自殺しては、駄目だ。
生き続けなさい。
これは、命令ではなく、お願いです。 >>275
そういえば連句読点、お前は他人と対話できないコミュ障だったな
かわいそうなことだ >>227
>いくら言い張っても陳寿が書いた魏志で使われてる地名は魏代のものだよ
ダメだ。「計其道里,當在會稽東之東」は、3世紀第四四半世紀に、
陳寿が自分の計算した女王國の位置推定を書いた文だ。
>ダメだじいさんの信念がそうでも史実は変わらない 東越も東瓯も越の南にある国だ
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」や「会稽東治之東の曲解」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの東大理系博士号自称男の信念がそうでも、
南や東の方向や、史実は変わらない。
>陳寿が魏志で使ったのも当時に魏で使われた地名だよ
「東治」は、地名ではなく、「東方の治所」という合成文言だ。
>歴史書というのは記載した史実の時代の地名を使うものだ だから陳寿は漢代の地名も使っている
だから陳寿は、資料や記録からの歴史説明の文と、
執筆時点での陳寿の確認や判断の文とを、判るように、書き分けている。
また、夏后少康の頃には、越はなく、会稽だ。
だから「越国」なんて関係がないのは自明なんだが、
東大理系博士号自称男は、発狂したのかね? 例えば日本の歴史家が、「徳川家康は東京に東京幕府を開いた」とは決して言わぬ。
「江戸に江戸幕府を開いた」というのが常識だ。
同様に陳寿も、「夏后小康の子、封於会稽・・」と言えば、三世紀の会稽ではなくて、
陳寿より2000余年前の夏王朝時代の会稽を意図したことは明白である。 >>262
>「「夏后少康之子封於會稽」という物事を、魏志倭人伝の作者が読んだので知った、魏志倭人伝時代よりも古い文章」が書かれた時代には、「會稽」という地名が、元々の、「現在では複数の自治体にまたがる、太湖を中心とした、上海西方の狭い地域」という意味で使用されていたのだったな。
会稽が狭い地域とか大ウソ
会稽郡が広大過ぎて管理が行き届かないので、のちに再三分割が続くことになった >>278
>陳寿より2000余年前の夏王朝時代の会稽を意図したことは明白である。
そこ、浙江省だから 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>278
>例えば日本の歴史家が、「徳川家康は東京に東京幕府を開いた」とは決して言わぬ。
だから「建安東冶なはずだ」なんて言うのは非常識なトンチキさん 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた、松傾こと、奥山氏の晩御飯は、誰が作るのだろうか。 「「夏后少康之子封於會稽」という物事を、魏志倭人伝の作者が読んだので知った、魏志倭人伝時代よりも古い文章」が書かれた時代には、「會稽」という地名が、元々の、「現在では複数の自治体にまたがる、太湖を中心とした、上海西方の狭い地域」という意味で使用されていたのだったな。 >>284
バンビシャスは、佐賀の者達を、優れた者達が邪馬台国畿内説を叩き潰したようにして、完全に叩き潰せば良いよ。 >>1
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと奥山氏よ、、、
貴方は完全に論破されてしまったが、自殺しては、駄目だ。
生き続けなさい。
これは、命令ではなく、お願いです。 会稽東治のことで、完全に論破されてしまった奥山氏が、自殺体になってしまった。 連句点よ
お前さんニュー速板でエセ畿内説やってるだろw >>263
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、絶望的に劣勢な大和説学者らが、
ニセの情報で無理な一発逆転を望んでいるのだな まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>264
陳寿が、倭の位置の説明を示すのに、
わざわざ「夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害」の話を持ち出した、という事は、
陳寿も、(魏略も記載したような)、
卑弥呼らが呉王夫差の遺民の「姫氏」である事を聞き知っていて、
敢えて「夏后少康之子封於會稽」を持ち出して、
「会稽東治之東」というような「東治」という説明文言を挿入した、
という可能性があるな。 >>289
おいおい
会稽東治で九州説は完全に死んだだろ
皆から詐欺認定取ったし
いくらインチキして中国地理史を捏造して中国人から軽蔑されても九州の最南端ち届かない
インチキしても自滅 >>293
陳寿が詐欺したという説は、いう九州説の自殺だよ >>293
縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国大陸系の
衣食住に関する炊飯用土器やズボンのある衣類や土壁の住居を伴う中国大陸系の
生活痕遺構が一切存在しない
縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国大陸系の
衣食住に関する炊飯用土器やズボンのある衣類や土壁の住居を伴う中国大陸系の
生活痕遺構が一切存在しない
呉王夫差の遺民も周の太伯も徐福集団も百越も全く考古立証できません
中卒すぎるので2回言いました >>285
>「「夏后少康之子封於會稽」という物事を、魏志倭人伝の作者が読んだので知った、魏志倭人伝時代よりも古い文章」が書かれた時代には、「會稽」という地名が、元々の、「現在では複数の自治体にまたがる、太湖を中心とした、上海西方の狭い地域」という意味で使用されていたのだったな。
ウソはつけばつくほど九州説の傷が大きくなるよ
「會稽」という地名は、とても広い地域を指した
戦国時代の国が三つも四つも入る広大な郡だった 難しく考える必要はない
魏志倭人伝なんて中国様にとってどーでもいい小国だった頃の倭国メモの寄せ集めだから
史書に記された帯方郡〜投馬国、邪馬台国、狗奴国の位置関係
https://i.imgur.com/U0aWTOy.png
後漢時代の倭国は100国あったが魏の時代に交流できたのは30国のみと記載されている
魏への朝貢を実施した半島南部〜北部九州の倭国30国が女王国として記録されただけのこと
同時代のその他の地域は独自文化を営んでいた「東の倭種の国」70国であり、中国との交流は無かった(例:纏向遺跡)
■中国史書の特徴
基本的に前時代の文献を丸写しして新しい情報を追記する手法で編纂されている
■古くから中国で伝えられてきた倭地の情報を記載した部分(1里75m時代の記録)
帯方郡→狗邪韓国〜対海國〜一大国〜末廬国〜伊都国〜奴国〜不弥国 で合計約12000里
■卑弥呼時代に朝貢に来た倭人から得た情報を記載した部分(日数表記の記録)
帯方郡→南に船で20日→投馬国(半島南部)→南に船で10日→邪馬台国(北部九州)上陸→陸行一日で女王の都に到着(計12000里)
※倭人には暦の概念が無く「月」という単位を知らないので「一月」は「一日」の誤写である
■考えられること
・倭人伝は奴国が2回紹介されるなど、情報が重複して記載されている可能性がある
・海洋民族である倭人にとって渡海と水行の区別は無く、船で移動することを全て水行と表現していた
・倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国と呼び、北部九州側を邪馬壹(臺)国と呼んでいた
・倭人は距離単位の「里」を知らず「日」を使って表現していた(隋書倭国伝に記載あり) 魏志倭人伝の邪馬台国の位置と書いてる会稽東治の東とは
現在の福建省福州市あたりにあった会稽郡東冶県の東のこと
その位置は沖縄や台湾あたり
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国に行く行程も
九州北部から船で南に水行30日陸行1月と邪馬台国をかなり南にある国と想定して書いてある事がわかる >>299
日数表記の部分は朝貢に来た卑弥呼の遣いからの口頭説明のメモだろうよ
起点は帯方郡だ
陳寿はそんな事情知らねえから単純に付け足したんだろう >>294
おいおい、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙し」などでも、
「会稽東治之東」でも、大和説学者らは完全に死んだだろ
皆から詐欺認定取ったし
いくらインチキして中国地理史を捏造して中国人から軽蔑されても、
沖縄や台湾には届かない
九州島付近には、ほぼぴったし。
大和説学者らや東大理系博士号自称男らが、インチキしても自滅 九州説がいくら見苦しく言い訳しても、陳寿が倭人の国を実際よりはるか南と誤解していたことは確実だ
だから、「陳寿が倭人伝に書いた通りオレサマは正しく進んだ。行ったら九州のドコソコに着いたんで、ここが邪馬台国」という説は
みんな死んでいる >>295
陳寿が詐欺したという大和説は、いうならば、大和説学者らの自殺だよ 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>304
は?
池沼のキナイコシにはそう見えるのか?w >>301
水行した先は投馬国
里数表記のときはまず狗邪韓国に行くと書いてあるので
日数表記の起点は帯方郡ではないとわかる >>306
>陳寿が倭人の国を実際よりはるか南と誤解していた
そうだけど何か?
もしかして魏志倭人伝のすべてが魏の時代だと思ってんの?w
素人未満の自称玄人か?w >>303
>「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
>「畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙し」などでも、
それが嘘だという証拠を出す意思がないなら
九州説のその主張はみんな嘘とわかるんだよ >>310
狗邪韓国などは昔からの記録を丸写しした部分だと説明してるんだが? >>313
狗邪韓国は次の時代は金官加耶国と呼ばれるようになるんだけど
記録上狗邪韓国が投馬国と呼ばれたことはないね 「冢≠前方後円墳」は合ってるよな
倭人の墓の説明「冢」と記述されており、卑弥呼の墓の説明でも「冢」と記載されている
「冢=前方後円墳」ならばちっちゃい前方後円墳がそこかしこから出土するはずだよなw >>297
ウソは、つけばつくほど大和説学者らやの傷が大きくなるよ
>「會稽」という地名は、とても広い地域を指した
戦国時代の国が三つも四つも入る広大な郡だった
「夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害」という事は、
夏后少康之子らの頃の会稽は、海や大河や大湖の付近であった、
という事を言っているのであり、
「戦国時代の国が三つも四つも入る広大な郡」のような地域を言っているのでは全くない。 >>311
>そうだけど何か?
ならば、陳寿が書いたとおり進んでも女王の都に着かないよ
だから九州説は21世紀には生き残れない
これは確定
罵っても反論になりません >>314
倭人は「投馬国」と呼んでいたと説明してるじゃないか
つまり中国での伝承と、久々に朝貢に来た倭人視点での説明と名称などが食い違うのは容易に想像できる >>310
>里数表記のときはまず狗邪韓国に行くと書いてあるので
>日数表記の起点は帯方郡ではないとわかる
という理由は? 水行した先は投馬国と書いてあるので
帯方郡が日数移動の起点というのは全くの間違い >>317
>陳寿が書いたとおり進んでも女王の都に着かないよ
そうだけど何か?
陳寿は倭国なんて知らないし行ったこともないんだから
何の不思議もない >>318
>倭人は「投馬国」と呼んでいたと説明してるじゃないか
そんな説明が、どこに? >>318
倭人の記録でも
狗邪韓国を投馬国と呼んでいた記録はないね
そもそも投馬国には倭の役人がいる事が記されているので
朝鮮半島にある狗邪韓国は投馬国ではありえない事がわかる >>320
倭人が「ここから船で南に20日で投馬国」
と説明したら中国人は「南至投馬国 水行二十日」と記録した
それだけのこと >>323
狗邪韓国を含んだかどうかは知らん
図を見ろ
半島に狗奴国って書いてあるか?w >>322
・倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国と呼び、北部九州側を邪馬壹(臺)国と呼んでいた >>321
ならば、南に何里だ、東に何里だと言ってても邪馬台国がどこだか解明出来ないのは、わかるね?
だから九州説は死んでるんだよ >>327
・倭人は距離単位の「里」を知らず「日」を使って表現していた(隋書倭国伝に記載あり) >>324
>倭人が「ここから船で南に20日で投馬国」
>と説明したら中国人は「南至投馬国 水行二十日」と記録した
とか決め付ける理由は? >>325
魏志倭人伝は少なくともそう書いてある
帯方から船で行く先が朝鮮半島最南部の狗邪韓国
そこから船で対馬に渡るとある >>328
それが何?
何かの理由?
ちゃんと日本語で話してね >>332
お前の頭が悪すぎなんだよ
責任者呼べよw
倭人の説明を記録したものが陳寿の手元にあった
それだけのこと >>334
説明できないの?
なら、あなたの頭はかなり悪いよ >>331
だからそこは中国側で代々伝えられてきた行程だろ
それをコピペしただけだろ >>334
>倭人の説明を記録したものが陳寿の手元にあった
>それだけのこと
だという理由は? >>337
という理由は?
俺が奥山だという理由も答えてくれ 九州説さんが、自分がなぜそう主張するか筋道たてて理由が言えないってことは、九州説さん相当あたま悪いって証拠だけどね >>341
筋道たててんのにそれが理解できないのを九州説のせいにするな
おれは元畿内説だ
忘れたか?w >>340
ほら、悪口しか言えない九州説
とても頭悪いと自分で証明した >>342
>筋道たててんのにそれが理解できないのを九州説のせいにするな
どこに、どう立てた?
>おれは元畿内説だ
という証拠は? >>342
>おれは元畿内説だ
>忘れたか?w
もともと知らないよ
あんた誰?
岡上とか? 旧石器時代捏造事件を賞賛するような発言してるやつが奈良の畿内説にいたなあw
読売じゃなくて毎日が古代史ネタのスポンサーとなった事を嘆いたりもしてたなあw >>347
バカの典型だ
白痴の典型が連続句読点で、狂ってるのがザラコク
わかりやすいだろ? >>351
証拠は?根拠は?
しか返せない池沼の特徴丸出しだからw >>352
古田説信者
異常な狂信者
ダメだじいさん >>353
>証拠は?根拠は?
>しか返せない池沼の特徴丸出しだからw
池沼だという証拠は?
言わなきゃ聞かれるのは当然のことだがな
ふつう誰でも聞く >>354
最近来てないんじゃ?
お前の脳内には来てるんだろうけどwww >>353
根拠言わずに結論だけ主張したら、みんなはあなたに根拠聞かないの? >>356
>最近来てないんじゃ?
今日もいただろ
何でもダメだというトンデモ系古田信者 邪馬台国畿内説は、なぜ、完全に破綻してしまったのだろうか。 スレッドが、進行しているな。
奥山氏が、自作自演で、進行させたのだろうか。 >>365
奥山氏は、スレッドが活発化しているように見せ掛けるのだったな。 邪馬台国畿内説は、なぜ、完全に破綻してしまったのだろうか。 >>366
邪馬台国畿内説が、なぜ、完全に破綻してしまったのかについて、頭が普通の者達を納得させられる者達だけが、松傾こと奥山氏ではないのだったね。 邪馬台国畿内説は、なぜ、完全に破綻してしまったのだろうか。 理由を聞かれると答えられず、簡単に論破された羞恥心で、無根拠馬鹿が白痴化し連呼白痴になる
九州説レートダウンの法則 奥山氏は、自演で、スレッドを進行させ、虚しくないのだろうか。 連句点はときどきニュー速で似非畿内説をやってるらしいなw >>375
ボキャブラリーが変だから、すぐバレるんでは? >>373
僕達が、闘っている間、スレッドが不自然に速く進行し、投稿番号の数字が大きくなったので、貴方は、奥山氏の自作自演を見破ったのだね。 >>299
>魏志倭人伝の邪馬台国の位置と書いてる会稽東治の東とは
現在の福建省福州市あたりにあった会稽郡東冶県の東のこと
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使っているから、
この大和説男は、始めからバツ人間であり、
陳寿の「女王國の位置」推定の「計其道里當在會稽東治之東」の会稽は、
当然その直前に書かれた「夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽であり、
海や大河や大湖に近い杭州付近になり、
建安郡の東冶は、後代史家の范曄の大間違いであったのである。
>その位置は沖縄や台湾あたり
東治は、(東冶という地名ではなく)「東方の治所」という意味であり、
会稽東治は、杭州付近の東方の揚州の管轄下の治所、という事になり、
その東方は種子島などを含む九州島付近になり、「沖縄や台湾」説は全くバツ。
>魏志倭人伝に書いてある邪馬台国に行く行程も
九州北部から船で南に水行30日陸行1月と邪馬台国をかなり南にある国と想定して書いてある事がわかる
九州北岸部の不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
だから、その南の「水行二十日の投馬國」はほぼ南九州である事になり、
また「水行十日陸行一月」は、目的國である「女王之所都」への所要日数説明になるから、
「郡から女王之所都」の所要日数になる。 >>378
無意味に進行早めてるのは連続句読点の無意味な呟きだ >>1
貴方を、教育します。
まともな職を得なさい。
貴方は、生き方を間違えてしまっています。 >>379
そういや「水行十日陸行一月」は現実的に計算すると12000里になるんだっけ 2013年、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまい、邪馬台国畿内説は、インターネットで、嘘の宣伝が実行されるだけになってしまった。 >>300
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」の史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しや、
「畿内や邪馬台国などの存在もしなかった嘘吐き騙し文言」を使う大和説学者らの妄想は、
何度貼っても妄想 >>379
>陳寿の「女王國の位置」推定の「計其道里當在會稽東治之東」の会稽は、
>当然その直前に書かれた「夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽であり、
>海や大河や大湖に近い杭州付近になり、
論破されたザラコクはおバカすぎる長江河口南北説を諦めたので、九州説の破綻と短里説の破産は確定した >>379
>東治は、(東冶という地名ではなく)「東方の治所」という意味であり、
このような中国語捏造により、九州説はさらなる窮地に立つ
>会稽東治は、杭州付近の東方の揚州の管轄下の治所、という事になり、
杭州の東は海まで会稽郡なので、そんな場所に治所は無いし
魏晋のひとに倭の位置を説明するなら実在する地名を言うから、「東治は普通名詞」説も死んでいる >>306
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」の史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しや、
「畿内や邪馬台国などの存在もしなかった嘘吐き騙し文言」を使う大和説学者らが、
いくら見苦しく言い訳しても、
陳寿が倭人の国を実際よりはるか南と誤解していなかったことは確実だ
だから、
「陳寿が倭人伝に書いた通りオレサマは正しく進んだ。
行ったら九州の女王之所都に着いたんで、ここが女王國であり、倭國の中心」
という論を否定する大和説学者らは、
みんな死んでいる >>379
>会稽東治は、杭州付近の東方の揚州の管轄下の治所、という事になり、
杭州付近の東方はずっと海まで会稽郡で、揚州の管轄下の治所など無いので妄想なのは明らかだが
その東方は種子島だから、九州島付近というのはウソで、北部九州説は破綻してる >>312
>>「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙し」などでも、
>それが嘘だという証拠を出す意思がないなら九州説のその主張はみんな嘘とわかるんだよ
それらが皆「史料事実や史料実態に曲解や否定に嘘吐きン騙しになっている」
という証拠を、数え切れない位書いて来ておいてあるから、
この大和説学者の主張は皆嘘だ、と判るんだよ。 >>379
>九州北岸部の不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
島巡り珍説なので認めてる学者はいない
>だから、その南の「水行二十日の投馬國」はほぼ南九州である事になり、
女王国以北であるという倭人伝と相容れない珍説
>また「水行十日陸行一月」は、目的國である「女王之所都」への所要日数説明になるから、
>「郡から女王之所都」の所要日数になる。
「〜になるから〜になる」に因果関係がない
論理として破綻している >>392
>それらが皆「史料事実や史料実態に曲解や否定に嘘吐きン騙しになっている」
>という証拠を、数え切れない位書いて来ておいてあるから、
という証拠がない
>この大和説学者の主張は皆嘘だ、と判るんだよ。
証拠がないので、判る理由もない >>317
陳寿が書いたとおり進んだら、
不彌國の直ぐ南に邪馬壹國がある事になり、女王之所都に着ける。
だから大和説は21世紀には生き残れない
これは確定
罵っても反論になりません >>395
>陳寿が書いたとおり進んだら、
>不彌國の直ぐ南に邪馬壹國がある事になり、女王之所都に着ける。
という理由は? >>1
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏よ、、、
貴方は完全に論破されてしまったが、自殺しては、駄目だ。
生き続けなさい。
これは、命令ではなく、お願いです。
そして、できれば、労働しなさい。
これも、命令ではなく、お願いです。 >>395
>不彌國の直ぐ南に邪馬壹國がある事になり、
いやこれ
・出発点は不弥国
・ても日数起算は帯方郡
って、破滅的に自己矛盾してます >>397
貴方は、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた、松傾こと、奥山氏に、優れたアドバイスを与えましたね。 >>320
>水行した先は投馬国と書いてあるので
帯方郡が日数移動の起点というのは全くの間違い
関係無し。
「水行二十日」は不彌國から南への投馬國への側副傍線行程の所要日数。
「水行十日陸行一月」は、
その直前の「女王之所都」という文言に対する説明文言になるから、
全行程の出発地である郡から女王之所都への所要日数であった事になる。 >>397
プロ固定は、僕達が、1回投稿すれば、歩合の報酬を得られるが、まともな職ではないのだったね。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず
. >>397
だから、松傾っておまえ連続句読点なのバレてるから >>327
>ならば、南に何里だ、東に何里だと言ってても邪馬台国がどこだか解明出来ないのは、わかるね?
だから九州説は死んでるんだよ
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているし、だから投馬國は、
(至の前に途中移動を示す文言がないから)不彌國からの側副傍線国の説明になるし、
だから、邪馬壹國女王之所都は、不彌國の直ぐ南にあった事になり、
だから、大和説は死んだんだよ。 「「奥山氏が、BBAなのだ。」ということを、バラされること」を嫌がっていることが、バレてしまった。
381日本@名無史さん2020/12/09(水) 21:07:50.99
>>377
BBAと言ってるのが連句点かな?w >>404
さすがに別人じゃないか?w
キャラが全然合わないぞw
240 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2019/03/31(日) 12:42:02.08
『松傾』
の家の子供の頃の写真、むかーしのw
きゅうりのような葉、葱の華・・・などが写っていて、
あと寺院の話もしていたり
『老婆談』
241 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2019/03/31(日) 12:42:16.07
老婆と家(『松傾』?)が結婚するとき・・・、
何かの家だと言われたとか、凄い家(不明)の人w
242 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2019/03/31(日) 12:42:41.35
『牛頭テンオノウ』?
『何者にもなれない お前たち』
『』内を調べてみて、画像
243 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2019/03/31(日) 12:42:57.19
天王、天皇・・・、
どちらでも良いんだけど、
そもそも日本の話ではない 「「奥山氏が、松傾なのだ。」ということを、バラされること」を嫌がっていることが、バレてしまった。
404日本@名無史さん2020/12/09(水) 21:43:18.96
>>397
だから、松傾っておまえ連続句読点なのバレてるから >>400
>その直前の「女王之所都」という文言に対する説明文言になるから、
>全行程の出発地である郡から女王之所都への所要日数であった事になる。
理由になってませんけど
だって不弥国から投馬国の20日も道里でしょ?
女王の宮への水行10日陸行1月も不弥国からの道里で正しい
だって「南」って不弥国からの方位でしょ
昔から漢文の専門家がすべてそう読んで来た >>341
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者さんらが、
自分がなぜそう主張するかを、筋道たてて理由が言えないってことは、
大和説学者さんらが、相当あたま悪いって証拠だけどね >>1
松傾のことを呟いてきた、松傾こと、BBAの奥山氏よ、、、
貴方は完全に論破されてしまったが、自殺しては、駄目だ。
生き続けなさい。
これは、命令ではなく、お願いです。
そして、できれば、労働しなさい。
これも、命令ではなく、お願いです。 >>343
ほら、「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定に嘘吐き騙しや、
悪口しか言えない大和説学者らは、
とても頭悪いと、自分で証明した 日数帯方郡起点説って昭和も末ごろ九州説アマチュアが考案した珍説だろ
それまで幾多の専門家が倭人伝を読んで来たが、誰も考えもしなかった
九州説のトンデモ読みがすべて破綻して、苦し紛れに新規発明された、九州説素人による九州説素人による九州説素人のトンデモ読みだ
九州説破綻の証拠でしかないな 松傾ってバレてないと思ってるんだw
みんなもうあんたの正体知ってるよw
句読点過多〜ではないかな老人 = 松傾 = ニセスレ建てまくり上げ荒らし
常識でしょでしょ♪ >>410
>自分がなぜそう主張するかを、筋道たてて理由が言えないってことは、
>大和説学者さんらが、相当あたま悪いって証拠だけどね
テンプレに書いてあるので問題なし 奥山=キナイコシ=スレ主であると告白した日になりましたね >>348
ほら、
「「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定に嘘吐き騙しの大和説学者らや、
それを支援しているのが
バカの典型だ
白痴の典型が大和説教信者で、狂ってるのが大和説学者ら。
わかりやすいだろ? >>372
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
理由を聞かれると答えられず、簡単に論破された羞恥心で、
無根拠馬鹿が白痴化し、「何故?、根拠は?」の連呼白痴になる
大和説学者らレートダウンの法則 >>417
いつ、どこで?
証拠は?
九州説さん、またウソついてるの?
異常でしょそれ >>418
>帯方郡起点は中国人の常識だろ
だという根拠は?
九州説さん、また無根拠言い張り? 「不彌国(吉野ヶ里)から邪馬台国へ」
倭人伝は不彌国(吉野ヶ里)から、二つのよく似た構文によって、
はるか南の投馬国(宮崎西都市都万)と、同じく南の邪馬台国女王之所都(熊本阿蘇)までの二股行程を、バスガイド調で(中国貴人に)案内している。
A:南へ至れば投馬国で、(帯方郡からは)水行二十日でございま〜す。
B:(又同様にして)南へ至れば邪馬台国女王之所都で、(帯方郡からは)水行十日と陸行一月でございま〜す。
実際に地図上で不彌国(吉野ヶ里)からの道里を計ると、宮崎県西都市都万は南南東約180q、熊本県阿蘇地方も南南東で約110q(1400里)となる。
なお末盧国(唐津)から多久・佐賀経由で東南の不彌国(吉野ヶ里)までは約50q(600里)であるので、
これらの里数を足すと、帯方郡から〜女王之所都(熊本阿蘇)までは丁度1万2000里となる。 >>419
>「「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
>史料事実や史料実態の曲解や否定に嘘吐き騙しの大和説学者らや、
だから、それが史料事実だという証拠は?
実態だと言い張る証拠は?
嘘だという証拠は?
九州説はなぜ証拠を絶対に出さないの
でまかせのウソだから? >>376
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
理由を聞かれると答えられず、簡単に論破された羞恥心で、
「何故?」「証拠は?」の、無限議論で議論からの逃亡を図る自演は、
大和説学者らの特徴だよ >>424
だから、どうして
同じ一つの文で
(どこから)南へ、という起点と
(どこから)何日という起点が違うの?
そんな文章ほかにある?
そう読んだ学者、誰かいる?
ないなら新作の創作デタラメだよね 出ーてこい、出てこい出てこい♪
出ーてこい、出てこい出てこい♪
〜ではないのかな句読点過多老人出てこい♪
松傾出てこい♪
ニセスレ建てまくり上げ荒らし出てこい♪
ドンドコドンドコ出てこいよ♪ >>383
この「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
「何故?、証拠は?」を繰り返すばかりの、無限議論論法の・・・・が、
大和説学者ら。 近い将来、逮捕されることが確定しつつある畿内説あわれ >>426
>「何故?」「証拠は?」の、無限議論で議論からの逃亡を図る自演は、
>大和説学者らの特徴だよ
理由言わない結論だけ語る人いれば
「何故?」「証拠は?」と聞くのはあたりまえ
わけが知りたいのは人間として当然だ
理由答えれば、無限議論になんか当然ならない
答えないで議論からの逃亡を図ってるのは九州説ばかりということ
畿内説の者には自演などする理由も、した証拠もない >>427
おいおいデタラメではないぞ。
豪華クルーズ船の中国人に説明するのだから、水行の起点は帯方郡になるのさ。本邦大公開・新作大正解だ。。、 >>389
>>東治は、(東冶という地名ではなく)「東方の治所」という意味であり、
>このような中国語捏造により、九州説はさらなる窮地に立つ
このように「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しだけではなく、
「東治→東冶」のような、中国語の捏造により、大和説学者らは、さらなる窮地に立つ
>>会稽東治は、杭州付近の東方の揚州の管轄下の治所、という事になり、
>杭州の東は海まで会稽郡なので、そんな場所に治所は無いし
陳寿は「郡」の話などしておらず、
「夏后少康之子封於會稽」の会稽の「東の治」の話をしているのであり、
会稽の「東の治」は、最も東の海岸地域の揚子江河口付近になる。
>魏晋のひとに倭の位置を説明するなら実在する地名を言うから、
陳寿は、西晋の人々に対して、女王國の大体の位置説明を書いた。
>「東治は普通名詞」説も死んでいる
「東治」という地名は存在しないから、「東治は地名」説も死んでいる。 >>427
なぜ、帯方郡が水行の出発点になるかって?、、
倭人伝の冒頭に、從郡至倭 循海岸水行 歴韓国、とある。
つまりクルーズ船の旅の始まりの出発集合地は帯方郡だったから・・、というわけさ。、
倭人在 帶方東南 大海之中(中略)
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 >>391
会稽東治は、杭州付近の東方の揚州の管轄下の治所、という事になり、
杭州付近の東方の海岸地域は、揚州の江蘇省?の管轄下地域であったので、
東大理系博士号の妄想なのは明らかだが
その東方は種子島〜佐多岬付近だから、
女王國は九州島付近という事になり、
大和説学者ら説は破綻してる >>333
日数表記と里数表記の行程は
向かう先の国が違うということ 会稽山(かいけいざん)
会稽山は、浙江省紹興市南部に位置する山。
中国の歴代王朝で祭祀の対象となり、五鎮名山の中の南鎮とされる。
名称
旧名を茅山、別名を畝山と称す。夏王朝禹の時代には会稽山の名称が使用されていた。
禹が死去した地であると記されており、現在も禹を祭った禹王廟が位置する。近年の言語学者らの研究により、会稽は越語の「矛山」という意味であることが分かった。
江南は古代中国では越国の領地であり、言語も当然越語が使われていた。 >>437
>日数表記と里数表記の行程は
>向かう先の国が違うということ
だという理由は? >>436
>会稽東治は、杭州付近の東方の揚州の管轄下の治所、という事になり、
>杭州付近の東方の海岸地域は、揚州の江蘇省?の管轄下地域であったので、
まったく根拠なし
九州説は妄想 >>393
>>九州北岸部の不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
>島巡り珍説なので認めてる学者はいない
「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の「五千餘里」が、
1000余+400余×2+1000余+300×2+1000余+500+100+(4000余ー1000余)=5000余(里)
という島巡りの陸上移動の里数計算で得られた事が確定しており、
認めていない大和説学者らの脳がおかしい事が確定。
>>だから、その南の「水行二十日の投馬國」はほぼ南九州である事になり、
>女王国以北であるという倭人伝と相容れない珍説
「以」という文言があるから「女王國を含んで以北の意味になる」、
事が判らないらしいアホが、東大理系博士号自称の大和説者。
>>また「水行十日陸行一月」は、目的國である「女王之所都」への所要日数説明になるから、
「郡から女王之所都」の所要日数になる。
>「〜になるから〜になる」に因果関係がない論理として破綻している
中国語での、数量説明の(形容詞的な使用ではない)叙述的な記述では、
形容対象文言の後ろに数量文言を書く、という事が判らない東大理系博士号自称男らの、
論理が破綻している。 >>435
>なぜ、帯方郡が水行の出発点になるかって?、、
>倭人伝の冒頭に、從郡至倭 循海岸水行 歴韓国、とある。
>つまりクルーズ船の旅の始まりの出発集合地は帯方郡だったから・・、というわけさ。、
それはもうt違法群から出発して
「循海岸水行、歷韓国乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海・・・」
と書かれている
投馬国や邪馬壹国への水行の始まりが、また突然帯方郡からに戻る理由がない >>441
>中国語での、数量説明の(形容詞的な使用ではない)叙述的な記述では、
>形容対象文言の後ろに数量文言を書く、という事が判らない東大理系博士号自称男らの、
それ、起点が郡からだって理由と
まったく何も関係がない
論理が存在してない >>441
>「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の「五千餘里」が、
>1000余+400余×2+1000余+300×2+1000余+500+100+(4000余ー1000余)=5000余(里)
>という島巡りの陸上移動の里数計算で得られた事が確定しており、
>認めていない大和説学者らの脳がおかしい事が確定。
いや確定したって理由もないし認めてる学者もいないし
俺様の説を認めないのは脳がおかしいとか
中傷しても意味ないでしょ >>409
>>その直前の「女王之所都」という文言に対する説明文言になるから、
全行程の出発地である郡から女王之所都への所要日数であった事になる。
>理由になってませんけど
だって不弥国から投馬国の20日も道里でしょ?
女王の宮への水行10日陸行1月も不弥国からの道里で正しい
だって「南」って不弥国からの方位でしょ 昔から漢文の専門家がすべてそう読んで来た
違うな。
「水行十日陸行1月」は、「女王之所都」の後ろに書かれたから、「女王之所都」の説明文言。
不彌國の次に書かれた投馬國は、「至の前に途中移動の文言がない」から、移動しておらず、
「水行二十日」も含めて、側副傍線国の説明文。
そして、「水行十日陸行一月」が邪馬壹國への所要日数説明であれば、
不彌國から「南至邪馬壹國水行十日陸行一月、女王之所都・・・」の語順になる。
しかし、陳寿の説明は、
不彌國の次に「南至邪馬壹國、女王之所都水行十日陸行一月」の語順になっており、
更に、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているので、
水行十日陸行一月は、文字通りに、その直前の(萬二千余里の)女王之所都の説明文言である事になり、
だから、「水行十日陸行一月」は、郡から女王之所都の所要日数の説明文言になる。 >>414
日数の不彌國起点説って、
昭和も末ごろまでの「結論先にありきの大和説学者やアマチュアが考案した珍説」だろ
それまで幾多の大和説専門家も倭人伝を読んで来たが、誰も反省もできなかった。
大和説のトンデモ読みがすべて破綻して、
苦し紛れに、新規発明された、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らや大和説素人による、大和説のトンデモ読みだ
大和説破綻の証拠でしかないな >>425
>>「「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定に嘘吐き騙しの大和説学者らや、
>だから、それが史料事実だという証拠は?
「南」も「冢」も、魏志倭人伝に書かれている文であり、
「正北抵新羅」は唐会要の倭國伝に書かれた文であるから。
>実態だと言い張る証拠は?
史料記載事実であるから。
>嘘だという証拠は?
大和説学者らが、「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否認」などの、
ウソを付いたから、
大和説学者らは、なぜ具体的な証拠を絶対に出さないの
でまかせのウソだから? >>445
>「水行十日陸行1月」は、「女王之所都」の後ろに書かれたから、「女王之所都」の説明文言。
>不彌國の次に書かれた投馬國は、「至の前に途中移動の文言がない」から、移動しておらず、
>「水行二十日」も含めて、側副傍線国の説明文。
それ、素人おじいさんが昭和になって突然発明した説で
漢文はそんなふうに読むんだって証拠は一切ないんだよね? >>447
>>嘘だという証拠は?
>大和説学者らが、「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否認」などの、
>ウソを付いたから、
だから、ウソだって証拠は? >>447
>大和説学者らは、なぜ具体的な証拠を絶対に出さないの
出してますが?
テンプレに載ってるよ >>427
>だから、どうして同じ一つの文で(どこから)南へ、という起点と
(どこから)何日という起点が違うの?
そんな文章ほかにある?そう読んだ学者、誰かいる?ないなら新作の創作デタラメだよね
「同じ一つの文」と言うのが、意味不明であり、結論先にありきで詐術的。
漢文は、原則は、
漢字や、固有名詞などの「連結文言」の、順次式の叙述をする言語であり、
時には、一言一言が一つの文であり、「同じ
魏志倭人伝でも >>451の訂正書き直し(PCの調子が悪くて、止まったり途中で投稿ボタンを押した事になったりする)>>427
>だから、どうして同じ一つの文で(どこから)南へ、という起点と
(どこから)何日という起点が違うの?
そんな文章ほかにある?そう読んだ学者、誰かいる?ないなら新作の創作デタラメだよね
「同じ一つの文」と言うのが、意味不明であり、結論先にありきで詐術的。
漢文は、原則は、
漢字や、固有名詞などの「連結文言」の、順次式の叙述をする言語であり、
時には、一言一言が一つの文であり、
幾つかの文字群を「同じ一つの文」なんて断定をする事がおかしい。
一度、逐語読みや順次式の読みをしてみたら?。 >>452
>漢文は、原則は、
>漢字や、固有名詞などの「連結文言」の、順次式の叙述をする言語であり、
>時には、一言一言が一つの文であり
漢文がそんなもんだと言う証拠は? 「冢≠前方後円墳」は合ってるよな
倭人の墓の説明「冢」と記述されており、卑弥呼の墓の説明でも「冢」と記載されている
「冢=前方後円墳」ならばちっちゃい前方後円墳がそこかしこから出土するはずだよなw
なるほどねえ >>455
知能低いな
誰も「冢=前方後円墳」なんて言ってないのに
前方後円墳も円墳も方墳も
土が高く盛り上がってりゃみんな冢だろ
冢、高墳也。 九州説信者ってのは面白い生き物だな
相手の説を批判することを考えてない
ただ相手とは違う自分の説を言うだけ
しかも結論だけ どのようにして、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだろうか。 日韓交差編年という、1000キロメートル近くも離れた遠隔地同士の時間的な物事を、幾つもの併行関係で繋ぐという、恣意的にずらすことも可能な物事よりも、畿内馬具という物事の証拠能力の方が、強力なのだったな。 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺し損ねた、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族の、あまり頭の出来栄えが良くない松傾が、正々堂々の討論から逃げ、敗北宣言の意味にしかならない嘘の悪口を言い放ってきたな。
457日本@名無史さん2020/12/10(木) 01:47:34.79
九州説信者ってのは面白い生き物だな
相手の説を批判することを考えてない
ただ相手とは違う自分の説を言うだけ
しかも結論だけ 冢はその字形の成り立ちから遺体を収容する空間であり、
墳、高墳にももちろんその冢があるので、
墳、高墳も冢と呼ばれるようになったのであろうが、
だからと言って卑弥呼の冢が高墳であったと断定するのは間違い。
高い位置にある冢である可能性が高い。 >>431
>理由言わない結論だけ語る人いれば
「何故?」「証拠は?」と聞くのはあたりまえ わけが知りたいのは人間として当然だ
ダメだ。
理由や根拠は、当然それまでの投稿で、何度も説明して「説明済み」であるし、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの史料事実の曲解や否定の、
嘘つき騙しの大和説学者らは、その「説明済み」にも知らん振りする騙しをして、
また始めからの「理由や根拠」の無限説明を要求する詐術を弄している!。
>理由答えれば、無限議論になんか当然ならない
理由は説明済みであるから、無限議論に持ち込もうとする大和説者の方が、犯罪者的。
答えないで議論からの逃亡を図ってるのは大和説学者らばかりということ
九州説者は、原則として、
史料事実や、それからの帰納的確率的に得られた史料実態を根拠にしているから、
無限議論論法などする理由も、した証拠もない >>440
>>会稽東治は、杭州付近の東方の揚州の管轄下の治所、という事になり、
杭州付近の東方の海岸地域は、揚州の江蘇省?の管轄下地域であったので、
>まったく根拠なし 九州説は妄想
杭州の話は、最近どなたかか?が発掘遺跡をしめしておられたし、
揚州や江蘇省の話は、かなり前に、東大理系博士号自称男が提示した話だし、
私の根拠は、「夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害」であり、
「斷髮文身以避蛟龍之害」が出来るような、海岸や大河や大湖の周辺だろう、
というだけだ。 >>443
>>中国語での、数量説明の(形容詞的な使用ではない)叙述的な記述では、
形容対象文言の後ろに数量文言を書く、という事が判らない東大理系博士号自称男らの、
>それ、起点が郡からだって理由とまったく何も関係がな 論理が存在してない
南至邪馬壹國女王之所都、と書かれた時点で、
女王之所都への行程としての里数などの説明が終了しており、
だから、女王之所都の直後に書かれた「水行十日陸行一月」という所要日数は、
出発した帯方郡から女王之所都の所要日数説明であった、とするしかない。 「不彌国(吉野ヶ里)から邪馬台国へ」
倭人伝は不彌国(吉野ヶ里)から、二つのよく似た構文によって、
はるか南の投馬国(宮崎西都市都万)までと、
同じく南の邪馬台国女王之所都(熊本阿蘇)までの二股行程を、
(古代豪華クルーズ船の出発集合地である帯方郡の港で中国貴人旅行者集団に)バスガイド調で事前説明している。
(その一場面)
A:(不彌国から)南へ至れば投馬国で、(帯方郡からの旅行日数は)水行二十日でございま〜す。
B:(又同様に不彌国から)南へ至れば邪馬台国女王之所都で、(帯方郡からの旅行日数は)水行十日と陸行一月でございま〜す。 会稽東治のことで、完全に論破されてしまった奥山氏が、自殺体になってしまった。 夏王朝文化である龍山文化という文化が、會稽である良渚文化に進出し、良渚城が出現し、「夏后少康之子封於會稽」という物事が発生したのだったな。 >>444
>>「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の「五千餘里」が、
1000余+400余×2+1000余+300×2+1000余+500+100+(4000余ー1000余)=5000余(里)
という島巡りの陸上移動の里数計算で得られた事が確定しており、
認めていない大和説学者らの脳がおかしい事が確定。
>いや確定したって理由もないし認めてる学者もいないし
俺様の説を認めないのは脳がおかしいとか中傷しても意味ないでしょ
いや、この陳寿に拠って突然書かれた「可五千余里」という数字や、
「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連周旋」という意味不明の文言の説明は、
「洲島之上」という陸上の移動での「参問」や「周旋」での合計里数であった、
というのが陳寿の意図であった、と判ったから。
という事を示しているの。 >>470
夏王朝文化である龍山文化という文化が、會稽である良渚文化に進出し、良渚城が出現し、魏志倭人伝の「夏后少康之子封於會稽」という物事が発生したのだから、「会稽東治」は、良渚城の東にあった可能性が高いのだね。 >>472
そして、最初の「會稽郡」は、現在では複数の自治体にまたがる、太湖を中心とした、上海西方の狭い地域なのだったね。 >>473
「最初の「會稽郡」は、現在では複数の自治体にまたがる、太湖を中心とした、上海西方の狭い地域なのだ。」という真実は、
「「會稽」という地名が、元々は、現在では複数の自治体にまたがる、太湖を中心とした、上海西方の狭い地域なのだ。」という真実を導いてしまうのだったな。 脳に異常の無い、頭が普通の者が読めば、「魏志倭人伝の「会稽東治」は、「「夏后少康之子封於會稽」という物事を、魏志倭人伝の作者が読んだので知った、魏志倭人伝時代よりも古い文章」が書かれた時代の「会稽の東の治所」なのだ。」という、魏志倭人伝の作者の考えが伝わるのだったね。 >>473
中国のインターネットでは、常識なのだったね。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%83%E7%A8%BD%E9%83%A1
會稽郡初置時,領有吳、越兩國之地,大致相當於今江蘇長江以南、安徽東南、上海西部以及浙江北部。
という文章が、出典まで示されながら、発表されているな。 会稽東治のことで、完全に論破されてしまった奥山氏が、自殺体になってしまった。 邪馬台国畿内説を宣伝する係員の松傾こと奥山氏への弔辞を発表します。。。
奥山氏、今、僕達はあなたにお別れを告げようとしています。昨日、討論していた時はあんなに元気だったのに、、、突然、自殺体になろうとは、誰が予想できたでしょうか。
振り返ってみれば奥山氏と僕達との出会いは、5ちゃんねるの掲示板でした。偶然に僕達がスレッドを覗いた事がきっかけで、魏志倭人伝時代についての討論会で一緒に過ごしました。
奥山氏は、あの時からずっと変わらず卑劣な論敵でいてくれました。そして、奥山氏はいつも僕達に論破されましたね。。。僕達にとって奥山氏は、頭の悪さを楽しませて貰え、笑えてリラックスさせられる存在です。
奥山氏が頑張っているから、僕達が癒される、、、いつもそんな思いで生きてきました。
奥山氏、どうぞ安らかに眠ってください。また、天国であなたと討論できる日までお別れです。
奥山氏、本当に心よりありがとう。 始皇帝という人物が生きていた頃、会稽東県という県があった可能性も高いのだったな。 >>480
会稽東県という県の役所は、会稽東治なのだったね。 >>480
貴方は、安山岩についての計算の合間に、始皇帝という人物が生きていた頃の会稽郡について、研究したのだったな。 >>444
>>「水行十日陸行1月」は、「女王之所都」の後ろに書かれたから、「女王之所都」の説明文言。
不彌國の次に書かれた投馬國は、「至の前に途中移動の文言がない」から、移動しておらず、
「水行二十日」も含めて、側副傍線国の説明文。
>それ、素人おじいさんが昭和になって突然発明した説で
漢文はそんなふうに読むんだって証拠は一切ないんだよね?
漢文は、原則として、
まず新しい主語や主題の文字を出して、
それに関する叙述の文字や文字列を前から逐語的に順次式に並べて、
その意味を繋いで行って、文を構成する言語であるから。 >>462
>だからと言って卑弥呼の冢が高墳であったと断定するのは間違い。
理由も言わずに勝手に宣告する
九州説はそれだから説得力がない
>高い位置にある冢である可能性が高い。
ほら、また理由もなく言い張る
でも、そんな可能性は高くないどころか、ない
「冢、高墳也」と書かれた史料をそんなふうに読んだ人はいない
なぜなら「冢者、大也」(白虎通)とも史料は言うからだ >>448
>>「水行十日陸行1月」は、「女王之所都」の後ろに書かれたから、「女王之所都」の説明文言。
不彌國の次に書かれた投馬國は、「至の前に途中移動の文言がない」から、移動しておらず、
「水行二十日」も含めて、側副傍線国の説明文。
>それ、素人おじいさんが昭和になって突然発明した説で
漢文はそんなふうに読むんだって証拠は一切ないんだよね?
漢文は、原則として、
まず新しい主語や主題の文字を出して、
それに関する叙述の文字や文字列を前から逐語的に順次式に並べて、
その意味を繋いで行って、文を構成する言語であるから。 >>464
>>理由言わない結論だけ語る人いれば
>>「何故?」「証拠は?」と聞くのはあたりまえ わけが知りたいのは人間として当然だ
>ダメだ。
>理由や根拠は、当然それまでの投稿で、何度も説明して「説明済み」であるし、
ほら。 また言い張るだけで頑として証拠を出さない
だから九州説は永遠に聞かれるんだよ「証拠は?」って
逃げ続けてる自分のせいだよ
いつ、なんと「説明」した?
証拠は?
どうして証拠を出さないで口先だけでごまかそうとするの?
そうやって無限議論に持ち込もうとする九州説って、詐欺屋という「犯罪者的」な人たち?
答えないで議論からの逃亡を図ってるよね
明らかにさ >>485
>漢文は、原則として、
それ、誰が決めたの?
それも素人おじいさんが昭和になって突然発明した説? >>465
>揚州や江蘇省の話は、かなり前に、東大理系博士号自称男が提示した話だし、
また証拠がないの?
つまり、ただ毎日イイカゲンなことを
言い張ってるだけなの?
九州説って、そうなの?
>私の根拠は、「夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害」であり、
>「斷髮文身以避蛟龍之害」が出来るような、海岸や大河や大湖の周辺だろう、
>というだけだ。
そんなの根拠な訳ないじゃない!
常識人の知ってる会稽は浙江という大河の近くで、杭州湾と言う海の近くだよ
つまり九州説は理由もなく常識に反することを言い張ってるだけの説ってことだね 今日の松傾は、奥山氏のキャラクターではなく、BBAのキャラクターで出現したな。
487日本@名無史さん2020/12/10(木) 09:55:41.79
>>485
>漢文は、原則として、
それ、誰が決めたの?
それも素人おじいさんが昭和になって突然発明した説? >>489
BBAのキャラクターは、松傾の無駄な改行という特徴を、丸出しにするのだったね。 >>466
>南至邪馬壹國女王之所都、と書かれた時点で、
>女王之所都への行程としての里数などの説明が終了しており、
それが理由?
それって昭和の末に新発明された矛盾だらけの少数説でしょ
正しいなんて証明されてないし
支持者もあなたのお仲間しかいないでしょ?
>だから、女王之所都の直後に書かれた「水行十日陸行一月」という所要日数は、
>出発した帯方郡から女王之所都の所要日数説明であった、とするしかない。
つまりロクな理由もない珍説で、かつ矛盾だらけな主張ということになりますよね 常識人の知ってる「元々の」会稽は、現在では複数の自治体にまたがる、太湖を中心とした、上海西方の狭い地域なのだったね。 >>1
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏よ、、、
貴方は完全に論破されてしまったが、自殺しては、駄目だ。
生き続けなさい。
これは、命令ではなく、お願いです。
そして、できれば、労働しなさい。
これも、命令ではなく、お願いです。 >>492
中国のインターネットでは、常識なのだったね。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%83%E7%A8%BD%E9%83%A1
會稽郡初置時,領有吳、越兩國之地,大致相當於今江蘇長江以南、安徽東南、上海西部以及浙江北部。
という文章が、出典まで示されながら、発表されているな。 「最初の「會稽郡」は、現在では複数の自治体にまたがる、太湖を中心とした、上海西方の狭い地域なのだ。」という真実は、
「「會稽」という地名が、元々は、現在では複数の自治体にまたがる、太湖を中心とした、上海西方の狭い地域なのだ。」という真実を導いてしまうのだったな。 脳に異常の無い、頭が普通の者が読めば、「魏志倭人伝の「会稽東治」は、「「夏后少康之子封於會稽」という物事を、魏志倭人伝の作者が読んだので知った、魏志倭人伝時代よりも古い文章」が書かれた時代の「会稽の東の治所」なのだ。」という、魏志倭人伝の作者の考えが伝わるのだったね。 >>471
>「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連周旋」という意味不明の文言の説明は、
>「洲島之上」という陸上の移動での「参問」や「周旋」での合計里数であった、
支離滅裂だね
いま自分自身で
「絕在海中洲島之上」で「或絕或連」と言ったじゃないか
壱岐も対馬も九州島も本州も
「海中洲島之上」にあって「或絕或連」してるでしょ
ういで分断されてる島々だ
どうして「陸上の移動での」「合計里数であった」なんて意味不明な結論になる?
九州説脳、腐ってますか? 脳が腐っている、邪馬台国畿内説を宣伝する松傾こと奥山BBAは、僕達に完全に論破されたので、
僕達をいないかのようにして、ザラコク氏に対して、悪口を言い放っているな。
497日本@名無史さん2020/12/10(木) 10:15:53.59
>>471
>「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連周旋」という意味不明の文言の説明は、
>「洲島之上」という陸上の移動での「参問」や「周旋」での合計里数であった、
支離滅裂だね
いま自分自身で
「絕在海中洲島之上」で「或絕或連」と言ったじゃないか
壱岐も対馬も九州島も本州も
「海中洲島之上」にあって「或絕或連」してるでしょ
ういで分断されてる島々だ
どうして「陸上の移動での」「合計里数であった」なんて意味不明な結論になる?
九州説脳、腐ってますか? 脳が腐っている者達だけが、邪馬台国畿内説を信じてしまうのだったね。 >>456
>知能低いな 誰も「冢=前方後円墳」なんて言ってないのに
口先で誤魔化してもダメだよ。
大和説学者らは、大和の前方後円墳が卑弥呼の墓だ、と言っており、
魏志に拠れば、卑弥呼の墓は「冢」であるから、
大和説学者らは、「冢=前方後円墳」というウソを付いている事になる。
>前方後円墳も円墳も方墳も 土が高く盛り上がってりゃみんな冢だろ
古代中国では、始皇帝の錐体台的な墓を「冢」と表現しており、
馬韓の錐体的に尖って見える家屋を「冢」と説明しており、
崋山の「尖った」錐体形状の山々を「冢」と形容しており、
「冢」とは、斜面が「直線的な錐体的に尖り状に見える」形状を示す文言である、
という事が判る。
>冢、高墳也
説文解字のこの表現は、説明言葉足らずの不完全な文である。
「冢≠墳」であり、「冢≒高墳(=高さを感じる墳)」であると言っている事は判るが、
「冢が錐体的形状である」という説明がなく、不完全である。 >>498
「うい」とは、海をタイピングしようとして失敗した可能性があるね。 「冢≠前方後円墳」は合ってるよな
倭人の墓の説明「冢」と記述されており、卑弥呼の墓の説明でも「冢」と記載されている
「冢=前方後円墳」ならばちっちゃい前方後円墳がそこかしこから出土するはずだよなw
なるほど、畿内説が言ってた卑弥呼による前方後円墳体制というものは捏造だったのですね >>501
奥山BBAは、朝鮮民族なので、「うい」と発音する朝鮮語の可能性もあるな。 驚いたな。。。
「うい」とは、朝鮮語で、友情という意味があるな。 奥山氏の考えでは、魏志倭人伝時代には、壱岐も対馬も九州島も本州も友情が分断された島々なのだな。 卑弥呼が亡くなったので、大勢で、塚を作り、参道を100歩分作り、奴隷を100人埋めたのだったね。
502日本@名無史さん2020/12/10(木) 10:27:04.51
「冢≠前方後円墳」は合ってるよな
倭人の墓の説明「冢」と記述されており、卑弥呼の墓の説明でも「冢」と記載されている
「冢=前方後円墳」ならばちっちゃい前方後円墳がそこかしこから出土するはずだよなw
なるほど、畿内説が言ってた卑弥呼による前方後円墳体制というものは捏造だったのですね >>457
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者や大和説信者らってのは、
面白い生き物だな
相手の説を口先で批判誹謗したり、史料事実に違背することを考えてない
ただ相手とは違う自分の説を言うだけ
しかも結論だけ >>462
>冢はその字形の成り立ちから遺体を収容する空間であり、
墳、高墳にももちろんその冢があるので、
墳、高墳も冢と呼ばれるようになったのであろうが、
その解釈では、馬韓の尖った家屋の形状が冢とされた事や、
崋山の尖った山々が「冢」と形容された事の説明が付かない。
>だからと言って卑弥呼の冢が高墳であったと断定するのは間違い。
賛成。
>高い位置にある冢である可能性が高い
尖った錐体的な形状である、という説明の方が、ベター。 里数表記の地域は漢の時朝見し漢化している地域
倭の女王とは別の王が女王国に従属し、女王国の一大率が検察している
日数表記の地域は序文に言う
「然荒域之外、重譯而至、非足跡車軌所及、未有知其國俗殊方者也」である女王国の領域
伊都國が使譯 >>509
おそらく一大率ってのは対馬海峡を牛耳る海兵隊のようなものだろうね >>476
>會稽郡初置時,領有吳、越兩國之地,
大致相當於今江蘇長江以南、安徽東南、上海西部以及浙江北部。
ふーん、成程。
当初の会稽郡が「江蘇長江以南」で「上海西部以及浙江北部」であったんなら、
私が言った事と、全く同じではないか。 >>508
>その解釈では、馬韓の尖った家屋の形状が冢とされた事や、
>崋山の尖った山々が「冢」と形容された事の説明が付かない。
尖った尖ったって、あなたがただの想像で言ってるだけだよな
華山に至っては、いくつかの峰を持つ山全体が冢なんだから
2つ頂点をもつ前方後円墳が冢でないと言うのは妄想だ 馬韓の住居は「居所作草屋土室 形如冢 其戸在上」なので
尖っていない >>507
>・・・大和説学者や大和説信者らってのは、
面白い生き物だな
>相手の説を口先で批判誹謗したり、史料事実に違背することを考えてない
当然そんなこと考えてないよ
九州説とは違うもの
九州説側の根拠のない主張に対してちゃんと筋道立てて反論してるだけ
>ただ相手とは違う自分の説を言うだけ
>しかも結論だけ
それはウソだな
畿内説の者は誰でもいつも
根拠ー推論プロセスー結論の3点セットで主張する 奥山氏の御先祖は、馬韓の住居に住んでいた可能性があるな。 畿内説の者は誰でもいつも75パーセントの根拠で推論しているのでは、ないのかな。 >>515
>箸墓古墳の上部は、平面なのではないのかな。
始皇帝冢の上部も平面だな 大ウソつきが来てるなw
517 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2020/12/10(木) 11:52:18.88
>>507
>・・・大和説学者や大和説信者らってのは、
面白い生き物だな
>相手の説を口先で批判誹謗したり、史料事実に違背することを考えてない
当然そんなこと考えてないよ
九州説とは違うもの
九州説側の根拠のない主張に対してちゃんと筋道立てて反論してるだけ
>ただ相手とは違う自分の説を言うだけ
>しかも結論だけ
それはウソだな
畿内説の者は誰でもいつも
根拠ー推論プロセスー結論の3点セットで主張する つまり、前方後円型の物体に、頂点が2つあるというのは、真っ赤な嘘なのだね。
520日本@名無史さん2020/12/10(木) 11:55:16.84
>>515
>箸墓古墳の上部は、平面なのではないのかな。
始皇帝冢の上部も平面だな >>519
九州説の者は誰でもいつも0パーセントの根拠で結論だけを言い張るようだ >>521
ウソだと言う根拠は?
九州説さん、また0%? 僕達の引用の仕方と同じ引用の仕方を実行した人物が、奥山氏の意見を真っ向から否定してしまった。
521日本@名無史さん2020/12/10(木) 11:56:01.07
大ウソつきが来てるなw
517 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2020/12/10(木) 11:52:18.88
>>507
>・・・大和説学者や大和説信者らってのは、
面白い生き物だな
>相手の説を口先で批判誹謗したり、史料事実に違背することを考えてない
当然そんなこと考えてないよ
九州説とは違うもの
九州説側の根拠のない主張に対してちゃんと筋道立てて反論してるだけ
>ただ相手とは違う自分の説を言うだけ
>しかも結論だけ
それはウソだな
畿内説の者は誰でもいつも
根拠ー推論プロセスー結論の3点セットで主張する >>484
>>だからと言って卑弥呼の冢が高墳であったと断定するのは間違い。
>理由も言わずに勝手に宣告する
>九州説はそれだから説得力がない
卑弥呼の墓が高墳であれば、そもそも冢という言葉自体が使われないはず。
また高墳であれば死後に数年もかかる造営期間を説明できない。
よって卑弥呼の死後に冢という遺体収容の小さな空間を造営した、これなら自然に説明できる。 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、正々堂々の討論での反論を諦め、またしても、敗北宣言の意味にしかならない嘘の悪口を言い放っているな。
523日本@名無史さん2020/12/10(木) 11:57:19.45
>>519
九州説の者は誰でもいつも0パーセントの根拠で結論だけを言い張るようだ 畿内説の者は誰でもいつも75パーセントの根拠で推論しているのでは、ないのかな。 >>522
前方後円型の物体に、頂点が2つあるという、真っ赤な嘘をついてまで、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、守り通そうとした物事は何だろうか。 >>529
「邪馬台国畿内説が正しいのだ。」という立場の者達は嘘をつくことが、好きなのですよ。 >>513
>当初の会稽郡が「江蘇長江以南」で「上海西部以及浙江北部」であったんなら、
>私が言った事と、全く同じではないか。
ウソ
「揚子江河口の南北海岸地域」と言っていた >>526
>また高墳であれば死後に数年もかかる造営期間を説明できない。
あのー
「説明できない」と言う根拠が無いんですけど 揚子江河口の河口は元々は太湖を中心としたデルタなので、「揚子江河口の南北海岸地域」と、「江蘇長江以南」で「上海西部以及浙江北部」は大体一致する可能性が、高いな。
532日本@名無史さん2020/12/10(木) 12:11:18.01
>>513
>当初の会稽郡が「江蘇長江以南」で「上海西部以及浙江北部」であったんなら、
>私が言った事と、全く同じではないか。
ウソ
「揚子江河口の南北海岸地域」と言っていた 『46億年物語実況』
(9:42〜放送開始)
s:
//youtube.com/watch?v=ktBBBfIaDNc >>534
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏は、揚子江河口の河口は元々は太湖を中心としたデルタだということも、
チュウゴクモクズガニが美味しいことも知らないほどの、無知なのではないのかな。 「揚子江河口の河口」と河口を、重ねてしまったな。
534日本@名無史さん2020/12/10(木) 12:16:24.54
揚子江河口の河口は元々は太湖を中心としたデルタなので、「揚子江河口の南北海岸地域」と、「江蘇長江以南」で「上海西部以及浙江北部」は大体一致する可能性が、高いな。
532日本@名無史さん2020/12/10(木) 12:11:18.01
>>513
>当初の会稽郡が「江蘇長江以南」で「上海西部以及浙江北部」であったんなら、
>私が言った事と、全く同じではないか。
ウソ
「揚子江河口の南北海岸地域」と言っていた
537日本@名無史さん2020/12/10(木) 12:22:28.68
>>534
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏は、揚子江河口の河口は元々は太湖を中心としたデルタだということも、
チュウゴクモクズガニが美味しいことも知らないほどの、無知なのではないのかな。 揚子江河口は元々は太湖を中心としたデルタなので、「揚子江河口の南北海岸地域」と、「江蘇長江以南」で「上海西部以及浙江北部」は大体一致する可能性が、高いな。
532日本@名無史さん2020/12/10(木) 12:11:18.01
>>513
>当初の会稽郡が「江蘇長江以南」で「上海西部以及浙江北部」であったんなら、
>私が言った事と、全く同じではないか。
ウソ
「揚子江河口の南北海岸地域」と言っていた >>539
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏は、揚子江河口は元々は太湖を中心としたデルタだということも、
チュウゴクモクズガニが美味しいことも知らないほどの、無知なのではないのかな。 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏よ、、、
チュウゴクモクズガニは美味しいよ。 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. 畿内説の者は誰でもいつも75パーセントの根拠で妄想しているのでは、ないのかな。 >>530
>高墳だから冢だろw
卑弥呼の死後、高墳を造らない。
卑弥呼の死後、冢(埋葬空間)を造る。 >>533
>「説明できない」と言う根拠が無いんですけど
日本の歴史で王の遺体を何年も殯に服したという史実がない。 >>547
だから高墳に冢があるのだからその通りだが、
高齢の女王の死後に高墳を造り始めることはない。
女王の死後に造り始めたのは埋葬部分=墓=冢 >>546
「貴人三年殯於外 庶人卜日而瘞」(隋書) >>544
貴方は、今、奥山氏が出張しているというBBAのスレッドに、質問を発表したな。 >>550
歴女というのは、BBAのことではないよ。 >>544
畿内説の妄想率ならほぼ100%だろうなw >>549
封土作冢
(土を封じて塚を作る)
つまり高墳ではない、遺体埋葬に土を封じたものが冢 >>548
九州説さん、それもまた空想でしょ
なんで絶対に史料から帰納しないの? 歴女のスレッドでの奥山氏の投稿は、どれなのだろうか、、、
そして、奥山氏が「僕達が演じているのだと勘違いした偽畿内説」の投稿は、どれなのだろうか。
290日本@名無史さん2020/12/09(水) 19:08:19.10
連句点よ
お前さんニュー速板でエセ畿内説やってるだろw >>554
現代の労働基準法で古代の工法ならできない >>555
封土作冢
(土を封じて塚を作る)
残念だな、土を盛って冢を作るじゃないよねw
だから箸墓じゃないよねw >>550
僕達は、このレベルの低いスレッドの討論の内容が、箸墓古墳の二つの頂点や、高墳という、更にレベルを下げてしまう内容になってしまったので、飽きてしまい、歴女のスレッドで、重大な質問を発したのだったな。 ふう
〖封〗 フウ・ホウ
1.
とじ目をふさいで、あけられないようにする。とじ目をふさいだもの。とじめのしるし。
「封をする」
2.
閉じる。閉じこめる。出入りをふせぐ。
箸墓ではありませんwww >>553
>つまり高墳ではない、遺体埋葬に土を封じたものが冢
封じるってのは土を積み上げて高くする意味なんだが
九州説って漢字も読めねえのかw
于是封之崇四尺。(礼记·檀弓下) >>562
丘壟
1.キウロウ
1.つか(冢)壟は地の高所、隴に同じ。
つまり墳ではない、高所にあるのが冢
箸墓でいえば埋葬部分 >>563
>封じるってのは土を積み上げて高くする意味なんだが
え?
穴を封じるという意味だが?
土を積み上げて高くするなんて嘘は言わないように。 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏は、「封をする」という簡単な物事のことでも、完全に論破されてしまったな。 チュウゴクモクズガニは、スーパーマーケットでは売っていないのだろうか。 チュウゴクモクズガニは、甲羅の中身が美味しいのだったね。 チュウゴクモクズガニの名産地が、会稽東治の置かれた場所なのだったな。 >>569
だから何?
卑弥呼が死んだ、土で封をした冢を造ったんだね、高所に。
卑弥呼が死んで墳丘を造り始めたという君の話とは大きく食い違ってきているが。 封という漢字は
楷書体では、土土(国土。三角の盛り土)+寸(手の仕事)=封(領土を与えて領主にする。
土を盛り集める。合わせる。手紙の閉じ合わせる)になります。
http://huusennarare.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-5044.html >>574
>土で冢(=高墳)を造った
封土作冢
(土を封じて冢を作る)
つまり箸墓だとしたら、卑弥呼の生前にとっくに墳丘はできており、
卑弥呼の死後に墓穴を作って土で封をしたという事だ。
君の説は崩壊www 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏は、「卑弥呼が死んで墳丘を造り始めた」という物事についての討論で、ピンチを切り抜けられるのだろうか。 丘壟
1.キウロウ
1.つか(冢)壟は地の高所、隴に同じ。
つまり墳ではない、高所にあるのが冢
箸墓でいえば埋葬部分 >>579
土を盛り集めて高く積み上げるのが封
mound、earth up、stack soil to build a grave
https://www.zdic.net/hans/%E5%B0%81 コウチセイシュウラクという店で、日本のモクズガニは、購入できるのだろうか。 ローマ字が出現したな。
583日本@名無史さん2020/12/10(木) 13:43:04.17
>>579
土を盛り集めて高く積み上げるのが封
mound、earth up、stack soil to build a grave
https://www.zdic.net/hans/%E5%B0%81 mound、earth up、stack soil to build a grave
は、
邪馬台国は、完全に破綻した。
という意味なのだろうか。 >>586
mound、earth up、stack soil to build a grave
は、
邪馬台国畿内説は、完全に破綻した。
という意味なのでは、ないのかな。 >>583
おや?
箸墓は墳丘の高所に石室らしきものがあるのが確認されてたね。
その石室の上に土で封をしたのが冢ならば、
そもそも卑弥呼が死んで墳丘自体を造り始めたという君の説は崩壊するわけだが。 封という漢字の「元々の」意味は、どのような物事なのだろうか。 >>588
土を封(積み上げて)じて高墳を作るのが冢 >>590
>土を封(積み上げて)じて高墳を作るのが冢
なら卑弥呼の冢の上に30mの土を封(積み上げて)じて高墳を造ったのか?
立ち入り調査の時の話と全然違うが?www >>588
まだ「封」の意味をわかってないとか
九州説っておつむ足りない人が多いのかな >>590
(まず棺を置き、その上に直接)土を封(積み上げて)じて高墳を作るのが冢 邪馬台国があった場所は間違いなく奈良県だよ
霊能スピリチュアルYouTuberさんが霊視をしたら
卑弥呼がいた場所や邪馬台国は
奈良県だったって言っていたから間違いない! >>591
>なら卑弥呼の冢の上に30mの土を封(積み上げて)じて高墳を造ったのか?
大量の土を封(積み上げて)じて箸墓のような高墳を造ったのだが?
九州説の人は日本語がわからないのかな? >>592
墓穴の上に土で封をするのが倭人の「冢」だね。
分かってないのは君だねw >>596
箸墓の高所に石室があるだろ。
だから基礎から順番に墳丘を造り始めて、「冢」は工事の最後の方だね、
卑弥呼の死後に基礎から墳丘を造ったという君の説はおかしいね。 >>594
>30mの土を積み上げた墓が冢
ということは卑弥呼の遺体は30m地下にあるのかwww
立ち入り調査と全然違うが? >>582
>丘壟
>1.キウロウ
>1.つか(冢)壟は地の高所、隴に同じ。
>つまり墳ではない、高所にあるのが冢
>箸墓でいえば埋葬部分
おいおい
「冢、封土爲丘壟」
って説明受けてんのに、ばか?
九州説って、ばかなの?
漢文まったく読めないの? >>601
馬が、石の入った袋をロープで上から引き釣り上げたのではないのかな。 >>602
九州説は無知からくる妄想ばかりしているのだな 「邪馬台国畿内説が正しいのだ。」という立場の者達は、漢文を読めなかったので、失敗したのだったな。 >(まず棺を置き、その上に直接)土を封(積み上げて)じて高墳を作るのが冢
それが30mの高さになりましたとさwww >>606
奥山かどうかは知らんが、畿内説側が史料を使って一方的に勝ってるぞ 奥山氏は、どのようなことで、論破されてしまったのだろうか。 総じて、史料を駆使して帰納的に立論しているのが畿内説
史料を使わず想像だけでおしゃべりしているのが九州説だな
勝敗の行方は明らかだ >>613
箸墓古墳の2つの頂点と関係した物事なのでは、ないのかな。 >>598
(まず棺を置き、石槨・木槨は作らず、その上に直接)土を封(積み上げて)じて高墳を作るのが冢 >>613
あんたも知らないなら、存在してないのさ 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、箸墓古墳の2つの頂点と関係した物事で、完全に論破されてしまった。 前方後円型の物体に、頂点が2つあるという、真っ赤な嘘をついてまで、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、守り通そうとした物事は何だろうか。 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏は、「2つ頂点をもつ前方後円墳が冢でないと言うのは妄想だ」という文章を発表したのだったな。 >>619
松傾はお前だよ
人と会話できずいつも呟いてばかりのコミュ障だろ 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が発表した「2つ頂点をもつ前方後円墳が冢でないと言うのは妄想だ」という文章には、どのような意味性があるのだろうか。 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、正々堂々の討論を諦め、またしても、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放ってきたな。
621日本@名無史さん2020/12/10(木) 14:23:46.90
>>619
松傾はお前だよ
人と会話できずいつも呟いてばかりのコミュ障だろ >>622
まったく証拠のない流言飛語を流すのが
九州説のお家芸のようだな この文章は、奥山氏が発表したのだろうか。。。
それとも、奥山氏の討論の相手が、発表したのだろうか。
616日本@名無史さん2020/12/10(木) 14:17:05.52
>>598
(まず棺を置き、石槨・木槨は作らず、その上に直接)土を封(積み上げて)じて高墳を作るのが冢 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、正々堂々の討論を諦め、またしても、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放ち続けているな。
621日本@名無史さん2020/12/10(木) 14:23:46.90
>>619
松傾はお前だよ
人と会話できずいつも呟いてばかりのコミュ障だろ
624日本@名無史さん2020/12/10(木) 14:28:52.89
>>622
まったく証拠のない流言飛語を流すのが
九州説のお家芸のようだな この文章は、奥山氏が発表したのだろうか。。。
それとも、奥山氏の討論の相手が、発表したのだろうか。
616日本@名無史さん2020/12/10(木) 14:17:05.52
>>598
(まず棺を置き、石槨・木槨は作らず、その上に直接)土を封(積み上げて)じて高墳を作るのが冢 >>628
あまりレベルの高くない討論だったので、アンカーを辿っても、その文章が、奥山氏が発表したものなのか、どうか、わからないな。
616日本@名無史さん2020/12/10(木) 14:17:05.52
>>598
(まず棺を置き、石槨・木槨は作らず、その上に直接)土を封(積み上げて)じて高墳を作るのが冢 この文章は、奥山氏が発表したのだろうか。。。
それとも、奥山氏の討論の相手が、発表したのだろうか。
590日本@名無史さん2020/12/10(木) 13:52:52.36
>>588
土を封(積み上げて)じて高墳を作るのが冢 前方後円型の物体に、頂点が2つあるという、真っ赤な嘘をついてまで、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、守り通そうとした物事は何だろうか。 またしても、邪馬台国畿内説が、論破されてしまった。 この文章は、奥山氏が発表したのだろうか。。。
それとも、奥山氏の討論の相手が、発表したのだろうか。
590日本@名無史さん2020/12/10(木) 13:52:52.36
>>588
土を封(積み上げて)じて高墳を作るのが冢 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、正々堂々の討論を諦め、またしても、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放ってきたな。
636日本@名無史さん2020/12/10(木) 15:08:06.85
九州説にはもうウソと中傷しか無いようだな
醜いよ >>638
そうやってウソばかりついてると
九州説はどんどん悲惨になるよ 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、正々堂々の討論を諦め、またしても、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放ち続けているな。
636日本@名無史さん2020/12/10(木) 15:08:06.85
九州説にはもうウソと中傷しか無いようだな
醜いよ
639日本@名無史さん2020/12/10(木) 15:17:05.63
>>638
そうやってウソばかりついてると
九州説はどんどん悲惨になるよ 毎日素人に論破され敗北してしまう自称プロのスレ主あわれ >「冢≠前方後円墳」は合ってるよな
>倭人の墓の説明「冢」と記述されており、卑弥呼の墓の説明でも「冢」と記載されている
>「冢=前方後円墳」ならばちっちゃい前方後円墳がそこかしこから出土するはずだよなw
なるほどね
畿内説さん、卑弥呼時代の一般人の墓は何処ですか? >>614
>総じて、史料を駆使して帰納的に立論しているのが畿内説
有棺無槨封土作冢
封土作冢を屁理屈こいてごまかしてるが、
有棺無槨はごまかせないね。
纏向説惨敗w 纒向 ←この地名が答えになってるじゃんw
日向
纒向
あれれー? 似てるなー?w
向かっちゃうんだw
纒ってどういう意味だろうw
玉衣姫に聞いたら、わかるかなー?w
はい畿内説論破 >>507の訂正
>>457
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者や大和説信者らってのは、
面白い生き物だな
相手の説を口先で批判誹謗したりするばかりであり、
史料事実に違背することしか考えてない
ただ相手とは違う自分の説を言うだけ
しかも結論だけにする >>644
一般庶民の墓は副葬品が少ないので年代が分かりにくく、サイズも小さいから後世耕されてマウンドも残らない
纒向古墳群は100m級で墳丘が残っているが諸侯クラスだろう
庄内期とわかっているメクリ1号墳は30m未満級だから、たとえて言うなら男爵級とかか
ほかに纒向で庄内期とわかっている方形周溝墓や土器棺墓がいくつかあるが、マウンドは残っていないので土の盛り上がりがあったことしかわからない
これも、ど庶民じゃないだろう >>510
>棺を入れる後円部が冢 前方部が墳
張政らは、卑弥呼の墓の全体を見て「冢だ」と判断している。 >>645
>有棺無槨はごまかせないね。
古墳には槨はない
あったのは出雲の四隅とか
畿内に限らず方形周溝墓は当然ながら有棺無槨 >>651
>張政らは、卑弥呼の墓の全体を見て「冢だ」と判断している。
そんなこと倭人伝には書いてないな >>649
九州説さんって何度訂正しても証拠ひとつ書いてなくて
悪口だけしか書いてないんですけど 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>655
また論破された九州説がコピペ荒らししているよ 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、スレッドを活発化して得られる歩合の報酬は、僕達の投稿1回あたり、幾らなのだろうか。 >>657
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、スレッドを活発化して得られる歩合の報酬が、僕達の投稿1回あたり、幾らであろうとも、奥山氏の母国の通貨で支払われる可能性が、高いね。 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、正々堂々の討論を諦め、またしても、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放ってきたな。
659日本@名無史さん2020/12/10(木) 20:20:08.30
>>657
中傷しか出来ない九州説は負け組 >>516
>馬韓の住居は「居所作草屋土室 形如冢 其戸在上」なので尖っていない
Yahooの議論で、知能指数が200で検索大王と呼ばれたmutouha氏が示した写真では、
尖っていたし、
「居處作草屋土室,形如冢,其戶在上,舉家共在中」であれば、
戸主が上に在して、そのほかの家人が中に共在するんだから、
(上が尖った)錐体的になる。 >>664
僕達は、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏に対して、「前方後円型の物体に、2つの頂点が存在するのか、それとも、存在しないのか」という物事で、誇りをかけて、討論していたのだったね。 >>660-663
貴方達は、奥山氏に対して、優しいのだね。 「邪馬台国畿内説が正しいのだ。」という立場の者達には、頭の悪い者達しかいないのだろうか。 完全に論破されてしまった、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、意見を発表しなくなってしまったな。 >>671
討論に、敗北したので、沈黙しているよ。 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、スレッドを活発化して得られる歩合の報酬は、僕達の投稿1回あたり、幾らなのだろうか。 >>665
>Yahooの議論で、知能指数が200で検索大王と呼ばれたmutouha氏が示した写真では、
>尖っていたし、
あんたの脳内だろ
口先だけで言い張ってもダメだな
>「居處作草屋土室,形如冢,其戶在上,舉家共在中」であれば、
>戸主が上に在して、そのほかの家人が中に共在するんだから、
戸主が上とか書いてないな
結局また九州説じいさんの脳内だけの話だった >>652
>古墳には槨はない
竪穴式石槨を知らないのか。
吉備発祥だ。 有棺無槨封土作冢
これは分かりやすく言うと木棺直葬のこと。
纏向古墳群の様相ではない。 >>681
低いのは九州トンデモの人のレベルだけだよ
議論というより九州説さん、あまりの知識不足で歴史談話について来られてないだろ >>682
だと決め付ける理由は?
九州説さん、また理由なしで決め付けるだけで説明不能?
ダダこねてもダメだよ >>681
纏向古墳群の様相が、どうであれ、巻向に前方後円型の物体が、出現したのは、4世紀なのだったな。 >>682
>有棺無槨封土作冢
>これは分かりやすく言うと木棺直葬のこと。
九州の組合式石棺はアウトでいいんだな? >>686
違うという根拠は?
九州説さん、また説明不能? >>692
オーマイがッド。
は、
オーマイガッド。
とタイピングしたかったのだね。 吉備が吉備と呼ばれるようになったのは4C後半から
5C前半だろうか??
記紀を見ると、吉備津彦は生前、吉備津彦と呼ばれてないのだ
どうも吉備津彦は後世の人に付けられた和風諡号のようだ
5C後半からヤマトが吉備氏を成敗する事件があるが、この名前も後付けの
諡号の可能性もあるんだそうな
吉備が吉備と呼ばれるようになった時代は明確ではないが、卑弥呼や臺与の
時代にはまだそう呼ばれてなかった事だけは確かだろう >>694
連続句読点はいつも意味不明だな
貧しい脳内だけで言葉が自己完結してて他人と会話が出来ないのだろう
コミュ障かわいそうだ >>685
高いレベルの物事を研究している優れた者達は、全く別分野の炭素での時間の計測の方法に対しては、あまり、関心がないので、そのついでに破綻してしまった、邪馬台国畿内説には、まだ、少し時間が残っているね。 >>527
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らは、
誰でもいつも、確率が殆ど0パーセントの根拠で、
結論だけを言い張るようだ >>695
>時代にはまだそう呼ばれてなかった事だけは確かだろう
なんで確かなの? 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、正々堂々の討論を諦め、アンカーの宛先を間違えながら、またしても、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放ってきたな。
696日本@名無史さん2020/12/10(木) 21:11:43.49
>>694
連続句読点はいつも意味不明だな
貧しい脳内だけで言葉が自己完結してて他人と会話が出来ないのだろう
コミュ障かわいそうだ >>524
九州説がウソだと言う根拠は?
大和説学者らさん、また確率がほぼ0%の投稿? >>696
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏は、全連続句読点症を、発症したのではないのかな。 >>698
>史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らは、
>誰でもいつも、確率が殆ど0パーセントの根拠で、
九州説さん
曲解だ嘘だと言い張る根拠は?
また0パーセントの根拠? >>530
>高墳だから冢だろw
「冢≠墳」だから、バツ。 >>700
敗北宣言の意味にしかならない嘘の悪口しか書けない連句点
会話できないコミュ障かわいそうだ 奥山氏がこのスレッドで一人で邪馬台国畿内説を宣伝していることが、バレ、少し可哀相になってしまった。 >>706
>>高墳だから冢だろw
>「冢≠墳」だから、バツ。
冢、高墳也(説文)
九州説はいつも文献無視ですね 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏は、正々堂々の討論を諦めると、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を繰り返すのだったな。
696日本@名無史さん2020/12/10(木) 21:11:43.49
>>694
連続句読点はいつも意味不明だな
貧しい脳内だけで言葉が自己完結してて他人と会話が出来ないのだろう
コミュ障かわいそうだ
707日本@名無史さん2020/12/10(木) 21:20:02.40
>>700
敗北宣言の意味にしかならない嘘の悪口しか書けない連句点
会話できないコミュ障かわいそうだ 完全に論破されてしまった、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、意見を発表しなくなってしまったな。 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、スレッドを活発化して得られる歩合の報酬は、僕達の投稿1回あたり、幾らなのだろうか。 畿内説は、まいどお馴染みの逆張り商法が見破られてしまったのではないかな・・・、 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏は、全連続句読点症を、発症したのではないのかな。
716日本@名無史さん2020/12/10(木) 21:38:55.56
>>715
連続句読点、意味わかんねえよ 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、スレッドを活発化して得られる歩合の報酬は、僕達の投稿1回あたり、幾らなのだろうか。 >>718
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、自作自演で、僕達との正々堂々の
討論から、逃亡するための、偽九州説キャラクターを出現させた可能性が、あるな。
715日本@名無史さん2020/12/10(木) 21:36:39.21
畿内説は、まいどお馴染みの逆張り商法が見破られてしまったのではないかな・・・、
716日本@名無史さん2020/12/10(木) 21:38:55.56
>>715
連続句読点、意味わかんねえよ >>1
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまいましたね。 >>513
>>当初の会稽郡が「江蘇長江以南」で「上海西部以及浙江北部」であったんなら、
私が言った事と、全く同じではないか。
>ウソ「揚子江河口の南北海岸地域」と言っていた
違うな。
今回の「当初」とは、当然、
「夏后少康之子封於會稽」の頃から「会稽郡」が出来た頃までの話であり、
どなたかに九州説者さんが、杭州付近の遺跡を紹介された後での、
私の「会稽郡」に関する解釈。
それに対して、「揚子江河口の南北海岸地域」論は、
陳寿が3世紀末に「計其道里,當在會稽東治之東」と書いた時の、
「会稽東治」に関する比定地の話。
ほら、東大理系博士号自称男の、嘘吐き騙しのインチキ投稿が、またバレた。 前方後円型の物体に、頂点が2つあるという、真っ赤な嘘をついてまで、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、守り通そうとした物事は何だろうか。 畿内説の信用は地に堕ちているな
誰も信用していない >>724
連続句読点は脳が弱いので悪口もオリジナリティがない
多くの場合は自分が言われつけてるフレーズを考え無しにそのまま使うので現実と合わない
これが、連続句読点の連呼する悪口がいつも連続句読点にばかりジャストフィットする理由 なんでもかんでも連続句読点のせいにして
批判から耳を塞ぐのが畿内説か 奥山は人と話をすることの意味が分かっていない
だから話が広がらないつまらない正義の奪い合いになる
社会に出たことがないひきこもりにありがちな
視野狭窄さだな >>614
総じて、史料を駆使して帰納的に立論しているのが九州説
「南」や「冢」や「正北抵新羅」などの史料を使わず、
想像だけでおしゃべりしているのが大和説学者らだな
勝敗の行方は明らかだ >>726
>なんでもかんでも連続句読点のせいにして
>批判から耳を塞ぐのが畿内説か
批判って、具体的には何のこと?
なぜ絶対に具体的なこと言わないの?
連続句読点は批判とかしないよ
嘘をついて悪口言ってニセスレ立てる >>728
>総じて、史料を駆使して帰納的に立論しているのが九州説
したって証拠は? >>614
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
まったく証拠のない流言飛語を流すのが
大和説学者らのお家芸のようだな 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまい、逆張り炎上論法だけで息してるようですね >>636
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅」の否定などの、
史料事実や史料実態jの曲解や捏造の嘘吐き騙しの大和説には、
もうウソと中傷しか無いようだな
醜いよ テンプレが古すぎる気がする
畿内説の著名研究者の果たして何パーセントが箸墓=卑弥呼陵を支持しているんだろうか?
箸墓=臺与陵を唱えている研究者の方が多いんじゃないだろうか? >>639
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しなどように、
そうやってウソばかりついてると
大和説はどんどん悲惨になるよ >>654
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者さんらって、
何度訂正しても証拠ひとつ書いてなくて
悪口だけしか書いてないんですけど >>656
また、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しがバレて、
論破された大和説学者らがら、コピペ荒らししているよ >>736
>「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
>史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者さんらって、
>何度訂正しても証拠ひとつ書いてなくて
「正北抵新羅の倭國」から平安時代に使者来てるって証拠書いてあるんだけど
九州説さん、またウソ連呼? >>737
>論破された大和説学者らがら、コピペ荒らししているよ
証拠は? >>659
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しがバレて、
中傷しか出来ない大和説学者らは負け組 >>683
低いのは「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
トンデモ大和説学者らの人のレベルだけだよ
議論というより大和説学者らさん、
あまりの正義感や能力不足で、
歴史談話について来られてないだろ >>684
だと決め付ける理由は?
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解は否定の嘘吐き騙しの大和説学者らさん、
また理由なしで決め付けるだけで説明不能?
ダダこねてもダメだよ >>691
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らさんの、
レベル低さゆえに 九州説なんて伝承すら伝わってねえからな😗
そりゃ当たり前よ >>742
>だと決め付ける理由は?
>「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
>史料事実や史料実態の曲解は否定の嘘吐き騙しの大和説学者らさん、
理由は明白
「曲解」だ「嘘」だと決め付ける理由を
何度尋ねても回答拒否するから
根拠なしだと判断した >>744
>壊れたボイスレコーダー
きっちりリピートしてるし壊れてるようには思えないが?w 魏志倭人伝を聖書として信仰すると九州説が正しいと感じるようになる >>749
そしてムラムラと異端を火刑にしたくなり
魔女狩りしたくなり
十字軍気取りで戦争始める 魏志倭人伝を聖書として信仰すると邪馬台国は九州南端あたりになるな
7万戸もあった集落遺跡もないし、径百歩の冢もないし、帝の下賜鏡と思える
まとまった鏡の出土もないし、東渡海したら太平洋上だ
すぐに破たん終了 日本古代史ネットワーク
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炭素14年代:国際較正曲線INTCAL20と日本産樹木較正曲線JCAL
最新の北半球の炭素14年代・較正曲線INTCAL20は、紀元前後〜AD450年頃は日本産樹木較正曲線JCALが基準となり、
JCAL= INTCAL20としてほぼ統一された(2020年8月、歴博発表)。これにより、弥生古墳時代の年代観に大きな影響が及ぶ。
纏向遺跡大型建物跡の土坑出土の纏向桃核(名古屋大測定12個、山形大測定2個、合計14個の加重平均):炭素年代は1823BP
1823BPの実年代は、AD220〜AD260年あるいはAD290〜AD340年(図3)。
箸墓周辺出土の布留0土器:炭素14年代は1800BP
1800BPの実年代はAD240〜AD260年あるいはAD290〜AD340年(図3)。
箸墓築造年代の通説はAD300年頃〜4世紀前半で、1800BPはこの従来通説と一致する。
AD220~AD260 年あるいは AD290~AD340 年の二か所が候補となるが、図 5 から判断すると AD300 年頃 ~4世紀前半が有力となる。
同様に、箸墓周辺布留0式土器の年代も AD290~AD340 年が有力となる。
このように、今回 INTCAL20 への移行によって、弥生末~古墳発生期の年代の大幅見直しが必至の情勢とな った。
http://nihonkodaishi.net/topics/news.html 九州南端は下り過ぎ、筑後平野は上りすぎ、
仲を取り持つ肥後良好、まして阿蘇なら最高最適!、 >>757
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。 と何度言えばw @阿波 >>753
これ、1823Bpをプラマイ何年で計算したか知らないけど
10年で追試するとIntcal20の2σは209〜246A,D,で95.4%なんだよね
残りチョボチョボが300A.D.あたり
ピークは235A.D.
つまり庄内3は三世紀第2四半期で決まりでしょ
したがって箸墓周辺布留0式土器の年代は240〜260A.D.で決まり >>705
>>史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らは、
誰でもいつも、確率が殆ど0パーセントの根拠で、
>九州説さん 曲解だ嘘だと言い張る根拠は?
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」だから。
>また0パーセントの根拠?
おや?、この大和説学者らは、また、
「殆ど0パーセント→0パーセント」と摩り替えるら嘘吐き騙しの詐欺をしているな。 >>758
全国に「集落遺跡」はなんぼでもある、が倭人伝の道里と阿波なければただのゴミ屋敷だ。
つまり阿波のは、腐るほどあってもゴミ屋敷ばかりなりけりちょんまげ・・、 >>707
敗北宣言の意味にしかならない嘘つき騙しの詐欺の悪口しか書けない大和説学者ら
まともな会話も議論もできないコミュ障かわいそうだ >>709
>冢、高墳也(説文)九州説はいつも文献無視ですね
説文解字が、「冢」とは「錐体的である、という事を書かなかった」、という
不完全な説明をしている事は、既に証明した。
大和説学者らは、いつも、
都合の悪い史料事実の無視隠蔽の嘘吐き騙しの詐欺師ですね。 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだな。 前方後円型の物体に、頂点が2つあるという、真っ赤な嘘をついてまで、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、守り通そうとした物事は何だろうか。 >>759
たかが数十年来の狭い学閥の論議と面子に拘泥してるな
数千年の歴史を議論してるんだから、其の大勢トレンドを見抜かなければならぬ、言ってることが小せえ小せえ >>761
倭人伝の道里と合う「阿波」の集落遺跡は、邪馬台国7万戸にふさわしい輝かしい集落群だ。 わははははは @阿波 >>729
批判って、具体的には何のこと?
なぜ史料事実や史料実態からの、具体的なこと言わないの?
大和説学者らはら、史料批判とかしないよ
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料批判で得られた史料実態からの、
帰納的確率的推論を否定し、
議論から逃げて、嘘をついて悪口言う。 >>730
>>総じて、史料を駆使して帰納的に立論しているのが九州説
>したって証拠は?
例えば「南」であり、「冢」であり、「正北抵新羅」であり、
「東征毛人五十五國」であり、「日本國者倭國之別種也」などの史料事実からの、
帰納的確率的な推論。 オーマイゴッド粒子の発見で、ついでに破綻してしまった物事について、レベルの低い討論が実行されているな。 >>744
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や、それからの帰納的確率的推論で得られた史料実態の、
曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らは、
壊れたボイスレコーダー >>767
帯方郡からの方位・距離や、会稽東治からの方角地図を苦心惨憺こさえても、
途中のチェックポイントの国々がクリヤできなければ失格になる。
阿波大学卒の天才なんだからわかっとるじゃろ。。、 >>764
>だと決め付ける理由は?
>「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
>史料事実や史料実態の曲解は否定の嘘吐き騙しの大和説学者らさん、
>理由は明白 「曲解」だ「嘘」だと決め付ける理由を
何度尋ねても回答拒否するから根拠なしだと判断した
理由は明白。
普通の成人人類や、記録した中国人らの持っている、常識が根拠が、根拠。 >>772
阿波大学卒の天才だからわかっとる。
ほれ、途中のチェックポイントの国々じゃ。
帯方郡(沙里院市)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬の上対馬町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐の郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25km)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛辺り)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里 紀伊水道渡海→奈良周辺) @阿波」 帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの朝鮮半島着岸地である。 @阿波 >>770
2次宇宙線の影響を排除した実験室で観測された炭素14の放射線量を基にして計算された炭素14の崩壊速度では、
1700年の間、自然界で2次宇宙線に含まれる中性子線に曝された炭素14の現実の崩壊量を導けないのだったね。 最近、奥山くんが息をしていないと聞きました
大丈夫なの? >>774
天才にしては万津浦の命名には抜かりがあったな。
つまり、津は津、浦は浦、両者の意味するところは違う。それを迂闊にもホッチキス合体させた「○津浦」は無い無い。
よいか、魏略も魏志倭人伝も末盧国(唐津)の東南といっておるのだぞ。 >>778
>よいか、魏略も魏志倭人伝も、末盧国東南といっておるのだぞ。
まさに、その通り!
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り) @阿波 >>1
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた奥山氏よ、、、
貴方は完全に論破されてしまったが、自殺しては、駄目だ。
生き続けなさい。
これは、命令ではなく、お願いです。 >>773
>普通の成人人類や、記録した中国人らの持っている、常識が根拠が、根拠。
あなたが常識を知ってるって証拠は? >>776
つまり、万が一、「大河内孝之氏がその正しさを証明したのだ。」という物事で、1700年前の空気中の炭素14の量が、正しく予測できたとしても、
2次宇宙線の影響を排除した実験室で観測された炭素14の放射線量を基にして計算された炭素14の崩壊速度では、
1700年の間、自然界で2次宇宙線に含まれる中性子線に曝された炭素14の現実の崩壊量よりも、少なめに、崩壊量を導いてしまい、
桃の種は、実際よりも、随分、古く計算されてしまうのだったね。 マスコミを利用しようとして逆に乗せられた藤村、
それと同じ道にはまったのがそんたく奥山ということだろう。
二人だけではないぞ、
「邪馬台国」を廻っては、そのようなほんわかオトコたちがわんさといる。これからも続くだろう・・、 >>760
>>九州説さん 曲解だ嘘だと言い張る根拠は?
>「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」だから。
あなたの理由のない個人的意見は、常識的に言って証拠になりませんが 奥山氏は、せいぜい、無職のプロ固定なので、藤村何某氏が歩んだ道にすら進まないのではないのかな。
785日本@名無史さん2020/12/11(金) 08:34:11.36
マスコミを利用しようとして逆に乗せられた藤村、
それと同じ道にはまったのがそんたく奥山ということだろう。
二人だけではないぞ、
「邪馬台国」を廻っては、そのようなほんわかオトコたちがわんさといる。これからも続くだろう・・、 >>763
>説文解字が、「冢」とは「錐体的である、という事を書かなかった」、という
>不完全な説明をしている事は、既に証明した。
九州説さんは、また史料を否定するわけですね?
いつ、なんと言って証明したのですか?
また秘密ですか? 説文解字とは、どのような物事なのだろうか、、、
788日本@名無史さん2020/12/11(金) 08:48:25.30
>>763
>説文解字が、「冢」とは「錐体的である、という事を書かなかった」、という
>不完全な説明をしている事は、既に証明した。 前方後円型の物体に、頂点が2つあるという、真っ赤な嘘をついてまで、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、守り通そうとした物事は何だろうか。 >>749
同時代の魏の役人らによる実地の見聞計測の記録が元になっている魏志倭人伝を、
確率が高いとして受け止めれば、九州説が正しいと感じるようになる
倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作した嘘つき騙しの記紀を、
聖書として信仰すると大和説が正しいと感じるようになる >>750
そして「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者らの宣伝に共鳴すると、
ムラムラと異端を火刑にしたくなり 魔女狩りしたくなり
十字軍気取りで戦争始める >>783 土中に水分がある状態だと
中性子線は遮蔽されるのも知ってるよな?
てかかなりいい状態ででてるしそれは証明の根拠が必要だな >>792 おまえいつまでもそれやめないよな
ずっと言ってるけど根拠を示さないと無意味だよ
今現在それはただの妄言でしかない 説文解字とは、オタマジャクシとの関係性が深いのだな。 >>751
>魏志倭人伝を聖書として信仰すると邪馬台国は九州南端あたりになるな
7万戸もあった集落遺跡もないし、径百歩の冢もないし、帝の下賜鏡と思える
まとまった鏡の出土もないし、東渡海したら太平洋上だ
すぐに破たん終了
3世紀の魏の役人らによる実地の見聞計測の記録を元にした魏志倭人伝に普通に従えば、
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言である事が判るし、
邪馬壹國女王之所都も、
ほぼ「福岡平野中央部から筑紫平野部、及びその周辺丘陵地」であって、
「九州南端あたり」というのも、嘘つき騙しである。 つまり、邪馬台国畿内説の頼みの綱は、「1700年間、微高地の桃の種は、常に、中性子の侵入を防ぐ程の湿った土壌に埋もれていたのだ。」という、頭が普通の者ならば、思いもつかない、有り得ない想定だけなのだね。
794日本@名無史さん2020/12/11(金) 09:05:42.03
>>783 土中に水分がある状態だと
中性子線は遮蔽されるのも知ってるよな?
てかかなりいい状態ででてるしそれは証明の根拠が必要だな 説文解字とは、オタマジャクシのような物事を、正当化するための文章なのだろうか、、、
それとも、
説文解字とは、オタマジャクシのような物事を、正当性を否定するための文章なのだろうか、、
それとも、
それらの、どちらでもないのだろうか。 >>799
説文解字とは、オタマジャクシのような物事を、正当化するための文章なのだろうか、、、
それとも、
説文解字とは、オタマジャクシのような物事を、正当性を否定するための文章なのだろうか、、
それとも、
それらの、どちらでもないのだろうか。
という文章は、
説文解字とは、オタマジャクシのような物事を、正当化するための文章なのだろうか、、、
それとも、
説文解字とは、オタマジャクシのような物事の正当性を、否定するための文章なのだろうか、、
それとも、
それらの、どちらでもないのだろうか。
とした方が、文法が正しいのではないのかな。 説文解字とは、オタマジャクシのような物事を、正当化するための文章なのだろうか、、、
それとも、
説文解字とは、オタマジャクシのような物事の正当性を、否定するための文章なのだろうか、、
それとも、
それらの、どちらでもないのだろうか。 >>802
研究を、深めれば良いのではないのかな。 >>759
>これ、1823Bpをプラマイ何年で計算したか知らないけど
10年で追試するとIntcal20の2σは209〜246A,D,で95.4%なんだよね
残りチョボチョボが300A.D.あたり ピークは235A.D.
つまり庄内3は三世紀第2四半期で決まりでしょ
したがって箸墓周辺布留0式土器の年代は240〜260A.D.で決まり
「炭素14年代」と書いている限り、AMS法を使っており、
だから「プラズマ化に拠ってベータ崩壊の促進」があって、
50〜100年位の古い年代が出た、と言った事が避けられず、
だから、バツね。 我が家のプラズマテレビは、すぐに壊れてしまったのだった。 『説文解字』という物事は、魏志倭人伝の文字使用に影響を与えることが、あったのだろうか。。。
それとも、
『説文解字』という物事は、魏志倭人伝の文字使用に影響を与えることが、全く、無かったのだろうか、、、 魏志倭人伝では、「冢」とは、どのような物体を、指し示した文字なのだろうか。 前方後円型の物体に、頂点が2つあるという、真っ赤な嘘をついてまで、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、守り通そうとした物事は何だろうか。 2020年、邪馬台国論争は終わった。九州説が95%以上の確率で正しいことが
わかった。YOUTUBEではすでに九州説の圧勝になっている。5ちゃんねるは
遅れている。2021年、ついにテレビ局が動き出すかもしれない。「邪馬台国論争
は終わった」という番組を作るかもw それはどの局なのか? 畿内説だと邪馬台国はヤマトで後のヤマト王権へと繋がるでシンプルなんだが
九州説だと九州王朝説とか妄想のファンタジーになっちゃうのが問題だよな
九州説からヤマト王権に繋げるのは相当無理があるし、油津姫に当てても
熊襲扱いの土蜘蛛が魏から金印貰えるってのも違和感あるよな >>813
テレビでやってたーとか、ようつべでーとか言ってるのが九州説
学者の論文読んでるのが畿内説
勝負になってないのは当然か >>769
>例えば「南」であり、「冢」であり、「正北抵新羅」であり、
>「東征毛人五十五國」であり、「日本國者倭國之別種也」などの史料事実からの、
>帰納的確率的な推論。
それ、どう「帰納」したの?
してなくない? >>813
を読んで、畿内説小僧がタコ踊りを始めたな、フフフ・・、 octopus-dance
https://tunadrama.com/video/lance-stephenson-crossover-and-octopus-dance/
817日本@名無史さん2020/12/11(金) 10:42:46.76
>>813
を読んで、畿内説小僧がタコ踊りを始めたな、フフフ・・、 >>815
畿内説を妄信してる学者の方がレベル低いし根性腐ってるから畿内説は見下げられるんだよ
そしてそのうち意地になってゴッドハンドやらかすだろうと待ち望んでいるのがマスゴミ >>753
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炭素14年代:国際較正曲線INTCAL20と日本産樹木較正曲線JCAL
>纒向遺跡大型建物跡の土坑出土の纏向桃核(名古屋大測定12個、山形大測定2個、合計14個の加重平均):炭素年代は1823BP
http://nihonkodaishi.net/topics/news.html
桃核14個を加重平均って、何を加重したのかな
わかる人おしえて 合計14個の加重平均=(「名古屋大測定の平均値 」×12+「山形大測定の平均値 」×2)/(12+2)
=(「名古屋大測定の平均値 」×6+「山形大測定の平均値 」)/7 ニュー速でいつも畿内説に叩きのめされる九州説あわれ >>820
纏向の桃核が出た場所は纏向遺跡とは不連続な土坑だよな
これを根拠にするのってほぼゴッドハンドだよなw 氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、スレッドを活発化して得られる歩合の報酬は、僕達の投稿1回あたり、幾らなのだろうか。 >>826
氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、スレッドを活発化して得られる歩合の報酬が、僕達の投稿1回あたり、幾らであろうとも、奥山氏の母国の通貨で支払われる可能性が、高いね。 昨夜、僕達がパーソナルコンピューターの電源を切った後、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、僕達に完全に論破された恨みを晴らすために、またしても、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放っていたのだな。
725日本@名無史さん2020/12/10(木) 22:09:46.42
>>724
連続句読点は脳が弱いので悪口もオリジナリティがない
多くの場合は自分が言われつけてるフレーズを考え無しにそのまま使うので現実と合わない
これが、連続句読点の連呼する悪口がいつも連続句読点にばかりジャストフィットする理由 >>832-834
貴方は、そのように卑劣な奥山氏に対しても、貴方の優しさから、奥山氏が、スレッドを活発化して得られる歩合の報酬の金額を高めるために、投稿してあげるのだね。 >>832
貴方は、このゴミのようなスレッドを、気まぐれから、遡って読んだのだな。 前方後円型の物体に、頂点が2つあるという、真っ赤な嘘をついてまで、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、守り通そうとした物事は何だろうか。 魏志倭人伝では、「冢」とは、どのような物体を、指し示した文字なのだろうか。 『説文解字』という物事は、魏志倭人伝の文字使用に影響を与えることが、あったのだろうか。。。
それとも、
『説文解字』という物事は、魏志倭人伝の文字使用に影響を与えることが、全く、無かったのだろうか、、、 説文解字とは、オタマジャクシのような物事を、正当化するための文章なのだろうか、、、
それとも、
説文解字とは、オタマジャクシのような物事の正当性を、否定するための文章なのだろうか、、
それとも、
それらの、どちらでもないのだろうか。 >>832
昨夜、貴方達がパーソナルコンピューターの電源を切った後、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏は、もう一つ、貴方達に完全に論破された恨みを晴らすために、敗北宣言の意味にしかならない、嘘の悪口を言い放っていたよ。
729日本@名無史さん2020/12/10(木) 22:35:28.74
>>726
>なんでもかんでも連続句読点のせいにして
>批判から耳を塞ぐのが畿内説か
批判って、具体的には何のこと?
なぜ絶対に具体的なこと言わないの?
連続句読点は批判とかしないよ
嘘をついて悪口言ってニセスレ立てる 『説文解字』という物事は、魏志倭人伝の文字使用に影響を与えることが、あったのだろうか。。。
それとも、
『説文解字』という物事は、魏志倭人伝の文字使用に影響を与えることが、全く、無かったのだろうか、、、 経学という物事は、はたして、魏志倭人伝の作製に、どの程度に、関係したのだろうか。 >>821 >>822
まったく意味ねえ計算してんのか >>847
あまり、関係性が無いのではないのかな。 >>815
「南→東」や「冢→前方後円墳」とか「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解は否定の嘘吐き騙しの大和説学者らが言っていたとか、
テレビでやってたーとか、教科書が書いていたとか、などとか言ってるのが大和説
文献考古の史料事実や実態を考慮していてるのが九州説
勝負になってないのは当然か >>847
だが、魏志倭人伝の作者が経学という物事を、勉強した可能性は、あるのではないのかな。 いったいいつになったら大NHKが邪馬台国は纏向にあったという番組を作るんだよ?
www 桃の種しかネタがない畿内説なんて相手にしないだろ。まあ、発掘はまだまだ
続くから結論が出たわけじゃないが、どんどん期待は萎んでるよね www >>852
魏志倭人伝の作者が経学という物事を、勉強していたとしても、今文経伝という物事と関係しながらなのだという可能性が、急激に高まってきたな。 説文解字とは、オタマジャクシのような物事を、正当化するための文章なのだろうか、、、
それとも、
説文解字とは、オタマジャクシのような物事の正当性を、否定するための文章なのだろうか、、
それとも、
それらの、どちらでもないのだろうか。 『説文解字』という物事は、魏志倭人伝を作製する時の文字の使用方法に影響を与えることが、全く、無かった可能性が、急激に高まってきたな。 前方後円型の物体に、頂点が2つあるという、真っ赤な嘘をついてまで、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、守り通そうとした物事は何だろうか。 人民が鉄を使用していた跡や人民の住居の跡の発見数が高まらないまま、桜井市の発掘が進行し、桜井市の面積に対する、発掘された面積の割合が、増えているのではないのかな。
854日本@名無史さん2020/12/11(金) 13:43:17.52
いったいいつになったら大NHKが邪馬台国は纏向にあったという番組を作るんだよ?
www 桃の種しかネタがない畿内説なんて相手にしないだろ。まあ、発掘はまだまだ
続くから結論が出たわけじゃないが、どんどん期待は萎んでるよね www .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>854
その文章を他人が読んで意図を理解できると思う? 畿内説は当時の南が東だった事を証明すればいいのに
まずそこに注力しろよ >>858
なるほど、、、
つまり、ザラコク氏の発表した優れた意見に対して、
或る物事を守り通すために、前方後円型の物体に、頂点が頂点が2つあるという、真っ赤な嘘をついた、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、持ち出した、
「冢、高墳也(説文)」という物事には、反論の有効性が、全く、無かった可能性が、急激に高まってきたのだな。
709日本@名無史さん2020/12/10(木) 21:22:09.49
>>706
>>高墳だから冢だろw
>「冢≠墳」だから、バツ。
冢、高墳也(説文)
九州説はいつも文献無視ですね >>865
貴方は、このゴミのようなスレッドを、気まぐれから、遡って読んだのだな。 だが、譙周允南氏にならば、説文解字という物事に関わる必要性や可能性は、有ったのだろうか。 >>868
譙周允南氏が勉強した六経という物事は、漢という国家の正式な学問なのだね。 前方後円型の物体に、頂点が2つあるという、真っ赤な嘘をついてまで、氷河の時代の無職であり、帰納という物事に対する理解の間違いを指摘され、論破され、自殺体になる誘惑と闘っている、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族であるプロ固定の、松傾のことを呟いてきた松傾こと、奥山氏が、守り通そうとした物事は何だろうか。 >>864
九州説は当時の人が日数も数えられなかったとでも言いたいのか >>874
倭人が日数は数えることが出来ので、魏に日数で回答した
それだけのこと
https://i.imgur.com/UWpPMKl.png >>875の説明
■中国史書の特徴
・基本的に前時代の文献を丸写しして新しい情報を追記する手法で編纂されている
・文字の使い方でいくつかのブロックに分類されることから、冒頭の行程部分などは様々な時代の記録の継ぎはぎであると考えられる
■古くから中国で伝えられてきた情報を記載した部分(1里75m時代から)
・韓国領土:4000里四方で東西は海に面し、南は倭と接する
・帯方郡〜狗邪韓国:7000余里
・ 〜対海國〜一大国〜末廬国:3000余里
・ 〜伊都国〜奴国〜不弥国:700余里
・女王国まで合計約12000里
■卑弥呼時代に朝貢に来た倭人から得た情報を記載した部分(日数表記の記録)
・帯方郡→南に船で20日→投馬国(半島南部)
・→南に船で10日→邪馬台国(北部九州)上陸
・→陸行一日で女王の都に到着
・女王国の南に狗奴国有り
■考えられること
・倭人伝は奴国が2回紹介されるなど、情報が重複して記載されている可能性がある
・海洋民族である倭人にとって渡海と水行の区別は無く、船で移動することを全て水行と表現していた
・倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国と呼び、北部九州側を邪馬壹(臺)国と呼んでいた
・倭人は距離単位の「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書倭国伝に記載あり)
・倭人には暦の概念が無く「月」という単位を知らないので「一月」は「一日」の誤写である 畿内説さん、南が東であったなら、東の倭種の国や南の小人国、西方向に関する記述がない
事の理由を説明してよ >>877
誰も南が東であったって主張してないから却下 >>876
>■古くから中国で伝えられてきた情報を記載した部分(1里75m時代から)
・・・帯方郡〜狗邪韓国:7000余里 ・・・女王国まで合計約12000里
なんて有るわけないのは相当知能低くても理解できると思うんだけどね
帯方郡っていつできた? >>878
反論不可ということですね
わかりました >>880
帯方郡の無い時代の記録でもOK
楽浪郡でも何処でもいいんだよ別にw >>881
反論不可?
「畿内説は南が東であったって主張してない」
という決定的反論で
君はもう論破されたのだが >>875
徒歩一日が一ヶ月だったとしても九州だな
吉備まで届くかな? 奥山氏が、安心しているのではないのかな。
879 名前:日本@名無史さん 2020/12/11(金) 17:09:48.12
連句点は寝たようだなw >>882
>帯方郡の無い時代の記録でもOK
じゃないな
「帯方郡〜狗邪韓国:7000余里」が成り立たないだろ? >>885
貴方達は、今、少し忙しいので、奥山氏の相手が出来ないのだね。 >>883
> 「畿内説は南が東であったって主張してない」
> という決定的反論で
畿内説は無かったという敗北宣言ですね
わかりました >>886
「楽浪郡〜狗邪韓国:7000余里」
でもいいんだけど何か?w >>890
魏の時代以前は倭人伝が無かったと証明できるか?w >>888
>> 「畿内説は南が東であったって主張してない」
>> という決定的反論で
>畿内説は無かったという敗北宣言ですね
>わかりました
お前って歴史的に頭悪いだろ
「南が東であったなら、東の倭種の国や南の小人国、西方向に関する記述がない
事の理由を説明してよ」の
仮定「南が東であったなら」が成り立たないので
いかなる結果も成り立たないのが当然
畿内説が主張してないことを畿内説が説明する必要はないし
説明しなくて畿内説がいかなる不利益を受けることもない >>892
畿内説が常識を超越した妄想でしたというカミングアウトですね
よくわかってるじゃん >>891
>魏の時代以前は倭人伝が無かったと証明できるか?w
そんな証明は不要だろ
あったと証明しないとお前の説は成り立たないのだから >>893
お前ってホントに頭悪いな
こっちが主張してない、お前の考えた仮定が正しいという前提で、コレコレを説明せよ
それ、こっちは従う必要ないだろう? >>894
倭国大乱の話が書いてあるじゃないか
仮に文献で残ってなくとも口伝で伝えられてきた可能性は大いにある
まあ文字文化の行き届いた中国なんだし文字で残してあった可能性の方が高いがなw
ちなみに倭国大乱らしき記録が中国側の史書にも残っているそうだ >>895
つまり畿内説としても南は南であり、東の間違いでは無いということですね
じゃあ九州の南部でしょうね
わかりました 呉の側面に倭国がないとダメなのに
東は無いでしょ
あまり東過ぎる天子の徳が届かないケガイノチになるよw >>896
あのなあ、女王国っていつ最初に朝貢した?
「古くから中国で伝えられてきた情報を記載した部分(1里75m時代から) 」に
「女王国まで合計約12000里」と書いてあると思うか? >>898
中国の上海あたりから船を漕ぎだせば北部九州に流れ着く
そしてその海の名は「東海」(日本名:東シナ海)
会稽東冶の東でなんの矛盾もない >>897
>つまり畿内説としても南は南であり、東の間違いでは無いということですね
どうして?
それ、何も理由ないよね?
こちらも誰も言ってないし
妄想? >>899
12000里は陳寿が「道里を計算すると」の結果だろバカ? >>900
>中国の上海あたりから船を漕ぎだせば北部九州に流れ着く
>そしてその海の名は「東海」(日本名:東シナ海)
>会稽東冶の東でなんの矛盾もない
道里を測ってないので決定的にダメ 国境である楽浪または帯方より1万2千里は
当時の世界観で世界の果てを示す概念的数字 いい事例が投稿されたね
【古くから伝えられてきた情報】
>中国の上海あたりから船を漕ぎだせば北部九州に流れ着く
>そしてその海の名は「東海」(日本名:東シナ海)
>会稽東冶の東でなんの矛盾もない
【魏の時代の認識で追記されて情報】
道里を計算すると、12000里であり会稽東冶の東あたり
なんの矛盾無ないね >>906
つまり南に何里だ、東に何里だとアレコレ言ってても
邪馬台国には到着できないのは確定で
九州説は成り立たないということ >>906
それを証明するものは?
ペルシャまで14000里はどうなる? >>900
アイヌは、阿夷奴って漢字で書くんだぞ
分かりやすいねw >>908
道里を計算すると、12000里にならないので
矛盾だらけ >>902
>後漢書倭伝というのがあってな
いつから >>909
だから魏は倭人に再度確認し、倭人が
「ざっくり方向は南で、〇〇日数で投馬国、そっからまた船で南に10日ほどいけば邪馬台国に到着。
上陸して1日もあるけば女王の都ですよ」
と教えてあげたんだよ
旧唐書もそうだが、中国と倭人の意思疎通は完全ではない
お互い小さな誤解は常にもっていたわけで 行程の記事をいくら見ても
あっちこっち間違ってるという結論しか出ない 陳寿はおかしな情報の羅列を見て正しいと信じて
ちょうど会稽東冶の東にあるはずだ、と記した
しかしそこには海しかない
倭人伝に書いてある通り進んでも海にドボンするだけ
卑弥呼のおうちは解らない >>917
現代でもベトナム人がよく漂着していたそうだよ >>910
概念的なものだから実態を反映してなくたって何ら問題ない
理論的に整合性が存在しないものだから >>925
57年に後漢に朝貢をして金印を貰った
奴国の事が書いてある 畿内説にとって都合の悪い問題は軽視する
なるほど
922 日本@名無史さん [sage] 2020/12/11(金) 18:09:14.67 ID:
>>910
概念的なものだから実態を反映してなくたって何ら問題ない
理論的に整合性が存在しないものだから >>931
つまり、あったという証拠はおろか
手がかりすら無いんだね?
ちなみに朝貢の記録とかは帝記や起居注にかかれるから「倭伝」みたいな物があった根拠にはならないよ 何か言ってるけど何の説得力も無い畿内説宣言係あわれ >>932
後漢書倭伝は普通に存在してるよ
57年に後漢から金印をもらった漢倭奴国王のことが書いてある
その金印も見つかってる >>934
>後漢書倭伝は普通に存在してるよ
おい、読んだことあるのか? >>920
>倭人伝に書いてある通り進んでも海にドボンするだけ
倭人伝に書いてある通り進んら、「阿波」に辿り着く。 @阿波 >>935
後世で書かれたという事は、原本となる古い記録があったという事だ
書いたと言うよりは写したと言った方が正しいな 畿内説も後世で笑いものにされるんだろうな
誰が書いたんだよこんな子供じみたファンタジー小説w
とかw >>939
じゃあ後漢書はどうやって書かれたんだよ? >>935
後漢の事が書いてある書だから
後漢の時代だね
>>936
普通にあるわ
九州説はもしかして後漢書倭伝は存在しないと思ってるの? >>942
勘違いしてるのは畿内説だろ
時代ごとに古い記録の切れっ端を集めては史書に追記し、次の代へと継いでいく >>944
古い記録と追記された記録を直列に接続するから訳わからなくなってるんだろうよ
倭人による日数表記の簡潔な説明によって、中国からの使者もようやく女王に会いに来ることが出来たんだよ 後漢書倭伝は存在しないものと恥ずかしい思い違いをしていたのを
胡麻化そうと必死な九州説 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>1
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだな。 畿内説なんてもはや寝言の類だよwww 纏向なんかいつまで経ってもこれという出土物
が出て来やしないもんなw >>952
奥山氏が、一人で、進行させたのだろうか。 後漢書倭伝という物事は、どのような物事なのだろうか。 >>955
見覚えがあるので、僕達の研究ノートを、読み返せば、思い出せるのではないのかな。 九州説は後漢書倭伝も知らずによく邪馬台国議論をやろうとするものだな >>956
だが、その前に、僕達は、安山岩質という物事について、もう一度、計算しなければならなくなったのだったね。 九州説は畿内説に対する単なる言いがかりで構成されている事が判明しました >>958
計算は、パーソナルコンピューターに任せれば、良いよ。 魏志倭人伝時代についての僕達の研究ノートは、13冊あるな。 >>965
だが、そのうちの1冊は、「魏志倭人伝時代の討論の論敵、奥山氏の病気について」という題名の研究ノートなので、魏志倭人伝時代とは、直接関係ないよ。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>967
貴方は、完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説の公式ホームページを、ここ、5ちゃんねるに作成しましたね。
だから、感謝します。 僕達の研究ノートに書き殴られるようにして書かれている言葉は、「烏侯秦水」なのではないのかな。 >>971
スンダランドに出現した倭人は、枝分かれしながら、移動し、遼東半島という半島にまで、達したのだろうか。 スレ主がスレ立てをしている間は奥山やキナイコシが現れないね まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼の城 ← 熊本城
卑弥弓呼の国 ← 緑川の南側
ハイ終了
解散! >>967
貴方は、完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説の公式ホームページを、ここ、5ちゃんねるに作成しましたね。
だから、感謝します。 >>967
貴方は、完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説の公式ホームページを、ここ、5ちゃんねるに作成しましたね。
だから、感謝します。 >>967
貴方は、完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説の公式ホームページを、ここ、5ちゃんねるに作成しましたね。
だから、感謝します。 >>1
なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのですか。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼の城 ← 熊本城
卑弥弓呼の国 ← 緑川の南側
ハイ終了
解散! まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼の城 ← 熊本城
卑弥弓呼の国 ← 緑川の南側
ハイ終了
解散! 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 計算のためには、メモリという物事を、確保しなければ駄目だよ。 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1607686058/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 2013年、大規模調査によって、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまった。 2013年、大規模調査によって、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまった。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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