邪馬台国畿内説 Part666
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1608791342/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・4世紀以降の古墳がある
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から伝来した庄内式という式の土器が埋まっている。
・大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏は、禿。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png 邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・4世紀以降の古墳がある
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から伝来した庄内式という式の土器が埋まっている。
・大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏は、禿。 邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・4世紀以降の古墳がある
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から伝来した庄内式という式の土器が埋まっている。
・大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏は、禿。 邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・4世紀以降の古墳がある
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から伝来した庄内式という式の土器が埋まっている。
・大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏は、ウンコ。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・4世紀以降の古墳がある
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から伝来した庄内式という式の土器が埋まっている。
・大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏は、禿。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・4世紀以降の古墳がある
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から伝来した庄内式という式の土器が埋まっている。
・大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏は、禿。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) スレタイを畿内説ではなく奥山説に変えてください
迷惑ですから (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 スレタイを畿内説ではなく奥山説に変えてください
迷惑ですから ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 新スレ立てました
マスク着用のお願い
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1583810066/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】テンプレ削除しました ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
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なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
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【追加・変更】◆FAQ 100を追加 新スレ立てました
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【追加・変更】テンプレ削除しました 邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・4世紀以降の古墳がある
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から伝来した庄内式という式の土器が埋まっている。
・大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏は、禿。 う物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。 >>131
普通の人間ならば、必ず面倒になる物事を、奥山氏は小一時間かけて、黙々と成し遂げてしまうのだね。。。 僕達の途中まで縦書きで発表された意見に対して、反論が不能の奥山氏が、出現し、論破された時の奥山氏の癖であり、松傾の癖でもある空白の改行という癖を丸出しにしながら、嘘の負け惜しみを言い放ってきたな。
132日本@名無史さん2020/12/28(月) 13:14:19.60
そんな中傷しかできない九州説は
負け犬
w 邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、自称考古学者が、勝手に騙されてしまったのだったね。 「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が無かった」のならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が有った」のならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高い。
そして、
「倭王済という謎の人物が、天皇でない」ならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
逆に「倭王済という謎の人物が、天皇である」ならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高まる。 始めて會稽郡が置かれた秦の時、その郡域の東部に置かれた治所は蘇州にあり、それが、上海市浦東新区東治と並ぶ、魏志倭人伝の会稽東治の候補の一つであり、
その郡の範囲は揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なので、元々の會稽という地名もまた、
揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なのだということが、頭が普通の者にはすぐわかり、
さらには、考古学的に夏后少康の子の無余が、約4100年前以降に赴いた會稽の中心が良渚城であることが決定的になり、
上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から八方位で北東でもなく、南東でもない、正に東の対岸には、九州があることも、邪馬台国畿内説を、完全に叩き潰してしまったね。
「会稽郡初置时,领有吴、越两国之地,大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」
http://baike.baidu.com/item/%E4%BC%9A%E7%A8%BD%E9%83%A1
http://sa.sogou.com/sgsearch/sgs_tc_news.php?req=fTHB0oVBvP8_OA2O9bRmtEvFDGmMLbBQJUG3mNn3l9A= もしも、兆が一、巻向が邪馬台国であり、緯度が同じ中国のどこかの地点を選び、その東としたいならば、洛陽の東と書けば良いだけなのだが、
あえて、会稽東治の東と書いたのは、やはり、上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から「東シナ海を越えれば、割合、すぐそこに、八方位での東の、ちょうどその対岸に女王国があるのだ。」という物事を強調するためであり、
九州の水人が、越の最後の首都でもあったことが「翳三十三年,遷于吳。」でわかる、蘇州にあった「元々の会稽郡治」の人々の様子と似ていることも、同時に強調できるからなのだったね。 邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・4世紀以降の古墳がある
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から伝来した庄内式という式の土器が埋まっている。
・大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏は、禿。 >>141
魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から伝来した庄内式という式の土器が埋まっている。
という文章は、
魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
と修正した方が良いよ。 >>142
なるほど、、、
つまり、巻向の庄内式土器の最も古い物の年代は、九州の庄内式土器の年代と、あまり変わらないどころか、博多付近の庄内式土器の年代とでは、寧ろ、新しい可能性が、高いのだな。 >>143
邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘の一部分が、暴かれたね。。。 邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏は、禿。 >>145
このスレのテンプレによると、畿内説は0点だなw >>144
邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘の一部分が、暴かれたね。。。
という文章は、
邪馬台国畿内説の、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘の一部分が、暴かれたね。。。
という文章に、改めなければ、意味が通じないよ。 >>143
邪馬台国畿内説の、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘の一部分が、暴かれたね。。。 >>142
貴方は、庄内式土器という物事について、研究したのだな。 >>148
つまり、国内の併行関係だけでも、巻向を新しい方に、何十年もずらしたのだな。 やはり、邪馬台国畿内説は、真っ赤な大嘘だったのだね。 >>151
僕は、あなたの意見に反対します。
理由は、巻向には、魏志倭人伝時代の人民の住宅が、少ししか発見されないからです。
だから、卑弥呼の都ではありません。 >>219
「あ」という文字は、それだけでは、本文としては投稿できないので、貴方達はあと少しのところで、諦めたのだね。 無理だな。
222 名前:日本@名無史さん 2020/12/28(月) 14:54:39.76
>>221
スペース付ければ?w 昔、宇陀から帰る時に、雪で渋滞に巻き込まれ、立往生してしまったのだったな。 >>253
冬にも裸足で駆け回り、生野菜を食べたのではないのかな。 邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、自称考古学者が、勝手に騙されてしまったのだったね。 「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が無かった」のならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が有った」のならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高い。
そして、
「倭王済という謎の人物が、天皇でない」ならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
逆に「倭王済という謎の人物が、天皇である」ならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高まる。 始めて會稽郡が置かれた秦の時、その郡域の東部に置かれた治所は蘇州にあり、それが、魏志倭人伝の会稽東治の候補であり、
その郡の範囲は揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なので、元々の會稽という地名もまた、
揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なのだということが、頭が普通の者にはすぐわかり、
さらには、考古学的に夏后少康の子の無余が、約4100年前以降に赴いた會稽の中心が良渚城であることが決定的になり、その東の治所から八方位で北東でもなく、南東でもない、正に東の対岸には、九州があることも、邪馬台国畿内説を、完全に叩き潰してしまったね。
「会稽郡初置时,领有吴、越两国之地,大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」
http://baike.baidu.com/item/%E4%BC%9A%E7%A8%BD%E9%83%A1
http://sa.sogou.com/sgsearch/sgs_tc_news.php?req=fTHB0oVBvP8_OA2O9bRmtEvFDGmMLbBQJUG3mNn3l9A= もしも、兆が一、巻向が邪馬台国であり、緯度が同じ中国のどこかの地点を選び、その東としたいならば、洛陽の東と書けば良いだけなのだが、
あえて、会稽東の治所の東と書いたのは、やはり、「東シナ海を越えれば、割合、すぐそこに、八方位での東の、ちょうどその対岸に女王国があるのだ。」という物事を強調するためであり、
九州の水人が、越の最後の首都でもあったことが「翳三十三年,遷于吳。」でわかる、蘇州にあった「会稽東の治所」の人々の様子と似ていることも、同時に強調できるからなのだったね 蘇州も捨てがたいが、海に面している上海市浦東新区東治の方が、無余が海に潜った場所としては相応しいね。 >>261
三角州の南端の原野であるこの一帯を、大昔は東治と呼んでいた可能性が、高いね。 インターネットでグーグルマップというマップにアプローチし、パソコンの画面に中華人民共和国が全て映し出されるようにしてから、
検索のための空欄に「東治」とタイピングし、実行ボタンを押しこめば、「会稽東治」の有力な候補地点が、赤の印で指し示されるのだったね。 日本の歴史研究家や自称考古学者の「邪馬台国は何処にあったのだ。」という物事についての討論とは、全く無関係に、中国5000年の歴史が、東治という地名を言い伝え残したのだね。 会稽東治は、元々は、何万年か前から揚子江の沙が堆積した、図らずも、会稽への東からの高潮等の水の侵入を防ぐことになった自然の台地という意味の数千年前からの地名なのだったね。 確かに。。。
「治」という漢字は、水の侵入を防ぐ台地という意味が、あるな。 畿内説はまさにバイアスの塊だな
『魏志倭人伝には、「倭人は鉄鏃(てつぞく:鉄のやじり)を使う」と記載されているのに、福岡の460に対して、
卑弥呼時代の奈良には鉄の鏃は4つの出土例しかありません。そしてもと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」とマジで答え、さすがにこれには近畿圏の学者たちも沈黙していました。
春成秀爾はこの佐原真の弟子です。この一連のマスコミ操作は、いったい何が目的なのでしょうか?』 >>304
佐原真氏とは、どこかでその人物のエピソードを目にした人物の可能性があるな。 「神々の汚れた手」という本の内容に対して、正々堂々の反論は、為されたのだろうか。。。 様々な分野の優れた学者が集合し、あらゆる柵みとは無関係に意見を闘わせ、日本政府が公式に設置した機関が、「邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が、全く無い。」と判断し、広く、発表したのだったな。 >>309
様々な学問の分野の中には、ゴッドハンドを出現させてしまった分野もあるよ。 「神々の汚れた手」という本の内容に対して、正々堂々の反論は、為されたのだろうか。。。 >>327
うんこ塗れの奧山氏は、邪馬台国畿内説を完全に論破され、反論の手がかりを全て失ったので、スレッドを放置してしまったのではないのかな。 >>333
松傾ニ告グ
直チニ 傾イタ松デ キュウリノ葉デ 老婆デ 葱ノ華ナ 基地外スペクトルマンニ
変身セヨ >>129
だからー、小枝が後代の混入物とか根拠なし
小枝はどこから混入したと言うのだ
積石や封土を飛び越えて墳頂から落ちてきたとでも言うのか
普通は初めから石室内にあったとみなす
仮に小枝が積石や封土に混じっていたとしても、それは古墳築造時にすでにあったもの
小枝の年代=古墳築造の年代
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20200205004858_comm.jpg
https://livedoor.blogimg.jp/bungchanblog-kodaishi/imgs/8/6/868e0802.jpg まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏か、出現したが、僕達の意見に対しては、やはり、何の反論も無いな。 >>338
仕方ないよ。
邪馬台国畿内説は、もう、完全に破綻してしまったのだからね。。。 奥山氏が活発化し、ウンコ塗れの討論が、始まるのではないのかな。 >>352
邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏は、前回のスレッドのリベンジを出来るのだろうか。。。 近畿説は破綻
でも水行20日、10日陸1月は謎だ。
奴国が二度でてくる。投馬国の位置?狗奴国位置
後漢書では東に千里。
九州説も疑問 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>355
九州説の短里使う近畿説?
400km以上の地点でないと? 完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝してきたプロ固定の奥山氏は、スレッドを活発化し、歩合の報酬を獲得出来るのだろうか。 「神々の汚れた手」という本の内容に対して、正々堂々の反論は、為されたのだろうか。。。 The dirty hands of the deities。。。 >>338
邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏か、出現したが、僕達の意見に対しては、やはり、何の反論も無いな。
という文章は、
邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏が出現したが、僕達の意見に対しては、やはり、何の反論も無いな。
とタイピングしたかったのではないのかな。 邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏が出現したが、僕達の意見に対しては、やはり、何の反論も無いな。 >>368
貴方の意見を、もう一度、発表すれば良いのではないのかな。 >>369
では、発表します。
邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまった。 奥山氏は、配達の臨時職員として、雇用された可能性が、あるな。 >>354
〜 当時の倭国は半島南部=投馬国に5万戸、北部九州=邪馬台国に7万戸 〜
https://i.imgur.com/TKTkTp9.png
■魏志倭人伝は過去の記録に新たに得た情報を追加する形式で書かれている。
■中国で伝倭国の位置
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・上陸してから伊都国までが陸行およそ500里
・奴国、不彌国までがそれぞれ約100里
これらを足し合わせ陳寿は帯方郡から女王の都までの総距離を合計12000里と見積もった
■卑弥呼時代に朝貢に来た倭人による行程説明を追記した部分(日数表記の記録)
帯方郡
↓
南に船で20日→投馬国(半島南部)
↓
南に船で10日→邪馬台国(北部九州)上陸
↓
女王の許可をもらうまで伊都国で待機
↓
倭人か客人の到着を報告に行く
↓
女王の使者が迎えに来る
↓
使者とともに女王の都へ向う
■考えられること
・海洋民族である倭人にとって渡海と水行の区別は無く、船で移動することを全て水行と表現していた
・倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国と呼び、北部九州側を邪馬壹(臺)国と呼んでいた
・倭人は距離単位の「里」を知らず「日」を使って表現していた(隋書倭国伝に記載あり) >>371
大晦日の深夜に、奥山氏が僕達に、おせち料理を配達してくれる可能性も、あるのではないのかな。 >>372は、つまり女王の都は伊都国から片道10日ほどかかる場所ということだ ■中国で伝倭国の位置
の部分は、
■中国で伝わる倭国の位置
とタイピングしたかったのではないのかな。
372日本@名無史さん2020/12/28(月) 20:25:02.78
>>354
〜 当時の倭国は半島南部=投馬国に5万戸、北部九州=邪馬台国に7万戸 〜
https://i.imgur.com/TKTkTp9.png
■魏志倭人伝は過去の記録に新たに得た情報を追加する形式で書かれている。
■中国で伝倭国の位置 >>375
僕達が魏志倭人伝を読み返すときに必ず不思議に思うのは、朝鮮半島の陸路ではなく、朝鮮半島の沿岸を水行したにも関わらず、なぜ、日本の何処かを、沿岸ではなく、1カ月間陸路で進まなければならなかったのか、という事なのだったな。 さて、伊都国から徒歩10日で行ける場所は何処でしょう? >>375
だから、僕達は、最短時間で進行できる海路は、卑弥呼にとって敵対的な海軍がいるのだ、という仮説を導いたのだったのだな。 >>379
有明海の入り口は、やはり、狗奴国の海軍が活発化していた可能性が、高いね。 >>1
奥山氏よ、僕達のおせち料理を、雪の中、配達してくれるのならば、タイヤにチェーンを巻いて、安全運転でお願いします。 >>382
貴方は、貴方のおせち料理よりも、奥山氏の命を大事に思っているのだね。 >>383
奥山氏の命は、おせち料理よりも大切であるという、僕達の考えを、貴方は見破ったな。 >>377
>なぜ、日本の何処かを、沿岸ではなく、1カ月間陸路で進まなければならなかったのか
沿岸航行10日 または 陸行1月 だと何度言えばw @阿波 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 茨城にも那珂川があり那珂の地名がある
2つ目の奴国は常陸の国だったのでは 水行20日で吉備へ至る、水行10日陸行1日で纒向へ至る >>394
>水行20日で吉備へ至る
何処から見て南なの? >>374
半島南部が投馬国?
可五万餘戸ありそうな場所だけど?
謎解きだなz 九州説:99.0%
畿内説:0.1%
だった確率が2020年度で
九州説:99.9%
畿内説:0.01%
に変化したのですね
わかります 九州説30%
畿内説50%
その他10%
こんなもんだろ 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>81
だからー、小枝が後代の混入物とか根拠なし
小枝はどこから混入したと言うのだ
積石や封土を飛び越えて墳頂から落ちてきたとでも言うのか
普通は初めから石室内にあったとみなす
仮に小枝が積石や封土に混じっていたとしても、それは古墳築造時にすでにあったもの
小枝の年代=古墳築造の年代
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20200205004858_comm.jpg
https://livedoor.blogimg.jp/bungchanblog-kodaishi/imgs/8/6/868e0802.jpg >>353
>でも水行20日、10日陸1月は謎だ。
そうでもないよ。
邪馬台国の戸数は7万戸としている。
1戸5人としたら邪馬台国の人口は35万人。
当時の中国でも35万人は大都市。
そうした邪馬台国の人口規模を考えたら、1か月陸行するくらいの広さがないとね。
ただ、35万人は眉唾だけど、陳寿はそれに見合った陸地の広さを想定したということなんじゃないの。 >>404
では皆さんに聞いてみましょう
邪馬台国はどこにあったと思う?
https://i.imgur.com/6n7rfmW.png
九州:54.4%
近畿:35.7%
その他:9.9% 弥生後期になると、熊本の鉄鏃出土量は飛躍的に多くなる。
これは、博多からの鉄素材の流通が熊本へ向かって広がった結果だ。
その熊本へ流通した鉄素材は、さらに臼杵まで流れていた。
ところが、弥生終末期らなると、八女・山門の邪馬台国が盟主となって倭国乱の手打ちが行われた。
そこで、盟主となった八女・山門の政権は博多から熊本へ抜ける鉄素材の流通に難癖をつけはじめた。
それが、熊本菊池の卑弥弓呼と邪馬台国の卑弥呼のそれぞれの政権が不仲になった原因だろう。
熊本の政権としては、鉄素材が思うように博多から入って来なくなったので、頭に来ていたところ、
纏向の政権から焚きつけられて、ついに山門へ攻め込み、一方、纏向の政権は軍兵を送って博多を制圧すると同時に、
八女の北の御井に避難していた卑弥呼を背後から急襲したのだろう。
狗奴国が山門に攻め込んだのは、そもそもが鉄素材の流通に卑弥呼の政権が横槍を入れたことが原因ではないか。 >>407
水行20、10日、陸1月換算していない。
距離同様1/5。水4、2日、陸5−6日。
よって人口も戸数も1/5。1.4万戸、7万人 >>408
邪馬台国について個人的にじっくり調べてみた事がある人に限定すれば率が
ひっくり返るだろ >>411
倭国だけ1/5したらおかしいだろ
韓も1/5しないと
そうすると東夷の人口が少なくなりすぎる >>412
さらに開くよ。
俺がそうだから、近畿から九州だけど
九州限定ではなく、鉄交易による連合。
北九州、鳥取(青谷上寺地遺跡)、京丹後、吉備
近江等。 >>414
そこからさらにじっくり調べて学者レベルに近づくにしたがって畿内説になる 韓は陸続きで情報が入りやすい。
倭国は未知の領域、山海の世界から脱却していない。 >>416
1/5は行程の里数から考えたんだろ
韓も1/5にしないとな >>414
鉄がー、って典型的な初心者だろ
しかも弥生時代全期間の累積とかで見てるんだろう まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>415
ならないな。魏志の方向や距離は無視しながら
卑弥呼が貰ったとされる鏡が細かい事書いていないのに三角縁神獣鏡とする理由が疑問
中国からの出土がない理由。
大乱の痕跡が見つからない。
鉄武器、絹が出てこない。 >>420
今はその程度だからならないと思ってるが
そこからさらにじっくり調べて学者レベルに近づくにしたがって畿内説になる >>417
公孫滅ぼし魏になる。
陸続きで地理情報は多い
7千里まではいい。
その後は陳寿の頭は、400mだ。
会稽の東と書いた理由がそこにあると思う 邪馬台国畿内説からいえることは。
魏は魏志倭人伝にみられるように
東西南北も知らない国だった??? >>424
それも変な話。諸葛亮、司馬懿、周瑜等の時代
国防や補給路考えると方向や位置まず確認する。 >>424
渡海するときに目印にするモノはまず陸地
対馬や壱岐などの陸地を目印に渡海した
ただ海流によって流されて方向感覚がおかしくなる
それでも目印にした陸地に着けば合ってることに
単純な話だ >>425
使者は、周碑測るだろうな。
報告受けた陳寿は、具体的な数字が出ない
残り1300里を1里400mで描いたかも? 要するに、
邪馬台国畿内説は
でたらめすぎだよね。 よほど馬鹿じゃない限り畿内説なんて受け入れないよ
右へ習えしてるのは飯食うため且つどーせ証拠は無いんだから、という学問を舐め切った精神からそうなるわけで 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>427
航海に慣れた倭人なんだから流されないよ
対馬や壱岐から南北の市場に買い出しに行ってたぐらいだからね >>421
邪馬台国は九州にあり、畿内にも別勢力がある
これにたどり着く
もちろん畿内は出雲を去勢したヤマト王権 >>432
鉄を介し交易が頻繁。
白村江に負け半島ルートが使えず
遣隋使、遣唐使 苦難の航海だった思う。 方向音痴の邪馬台国畿内説論者。
魏志倭人伝の東西南北が判らないらしい。 まだ諦めないのか?陳寿が鬼道と言ってる以上太平道か五斗米道しか無いの、で巫女は五斗米道。卑弥呼は明帝も知る中国人巫女だよ 磐井の乱と言うのがあったが
筑紫から以西、対馬壱岐ルートを抑えられると
基本、半島や大陸との交流はむつかしくなる
畿内ヤマト王権は
渡来人の手助けによって急速的な発展を遂げるが
それもまた一枚岩ではなくなった(元からだが)
九州女王国連合を抱え込めた要因は大きい
もちろん九州女王国連合、通称邪馬台国の後裔生き残りが磐井であろう 卑弥呼は神降ろしのたぐい
自身に神を降ろしてアドバイスを貰う
モモソ姫や神功皇后と同じ >>439
今で言う霊媒師だよな
西塔恵さんが有名 >>434
日本史の基礎知識が足りない
九州説ってこんなやつばっかり >>388
>茨城にも那珂川があり那珂の地名がある 2つ目の奴国は常陸の国だったのでは
倭國の東征毛人五十五國の将軍らが常陸の地まで達して、那珂川と名付けた可能性はあるが、
「2つ目の奴国」説は、「南≠東」に拠ってダメだな。 >>394
>水行20日で吉備へ至る、水行10日陸行1日で纒向へ至る
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツだな。 >>401
>アイラブ畿内説
嘘吐き騙し論を愛する事は個人の自由であるが、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
文献考古の根本的な史料事実や史料実態に違背していたら、
学問的にはダメだな。 >>410
>・・・熊本の政権としては、鉄素材が思うように博多から入って来なくなったので、頭に来ていたところ、
纏向の政権から焚きつけられて、ついに山門へ攻め込み、一方、纏向の政権は軍兵を送って博多を制圧すると同時に、
八女の北の御井に避難していた卑弥呼を背後から急襲したのだろう。
狗奴国が山門に攻め込んだのは、そもそもが鉄素材の流通に卑弥呼の政権が横槍を入れたことが原因ではないか。
「纏向の政権は軍兵を送って博多を制圧する」なんて、
史料事実や史料実態に存在もしなかった事を論拠にした時点で、
この投稿子は、ダメだな。
突然「 邪馬台国畿内説は魏志倭人伝を無視して成り立つ
どこでも邪馬台国説。 >>412
>邪馬台国について個人的にじっくり調べてみた事がある人に限定すれば率が
ひっくり返るだろ
文献考古の史料事実の史料批判をじっくり調べてみて、
確率や信頼性が高い史料実態に拠って立論して診れば、
九州説は99.9%以上になり、
大和説や阿波説は、0.1%以下になるだろう。 >>415
>そこからさらにじっくり調べて学者レベルに近づくにしたがって畿内説になる
そこからさらにじっくり調べて、
文献考古の史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論、という学問的レベルに、
近づくにしたがって九州説になる おーい 方向音痴の邪馬台国畿内説論者。
距離までも音痴。 >>418
>鉄がー、って典型的な初心者だろ
しかも弥生時代全期間の累積とかで見てるんだろう
典型的な初心者だろ しかも弥生時代全期間の累積とかで見てるんだろう
「鉄がー、って」なんて、一つの考古的史料実態に関して、それを、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」などの文献考古の、
史料事実の曲解や否定になる大和説学者らの解釈や、
年代比定の曲解や否定になる解釈をして、九州説を批判するなんて、
典型的な初心者だろ
しかも701年の大宝元年からの大和盟主時代とかの、
皇国史観という結論先にありきで見てるんだろう >>421
>今はその程度だからならないと思ってるが
そこからさらにじっくり調べて学者レベルに近づくにしたがって畿内説になる
今はその程度の皇国史観だから、大和説になる、と思ってるが
そこからさらにじっくり調べて、文献考古の史料事実や、
史料批判に拠る史料実態からの帰納的確率的な推論のレベルに近づくにしたがって、
九州説になる 邪馬台国畿内説が成り立つくらいなら、
邪馬台国東京でも
邪馬台国北海道でも成り立つ >>422
>公孫滅ぼし魏になる。 陸続きで地理情報は多い 7千里まではいい。
その後は陳寿の頭は、400mだ。
ダメだ。里数の計測記録は、(魏略や陳寿らではなく)、
魏や郡の役人らの記録が元になっており、
途中から、「里」距離の記載の変更など、」する筈もないし、出来る筈もない。
(なんだか、安部の時にも、そんな、
公務員の調査や都合の悪い記録を否定抹殺する事件があったなあ)
>会稽の東と書いた理由がそこにあると思う
おや?、「会稽の東」は、OKなんだね?。 >>452
3世紀の博多湾沿岸が東京や北海道の影響を受けていないから成り立たない 様々な分野の優れた学者が集合し、あらゆる柵みとは無関係に意見を闘わせ、日本政府が公式に設置した機関が、「邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が、全く無い。」と判断し、広く、発表したのだったな。 邪馬台国畿内説の利点。
魏志倭人伝の中身を無視できる、何にも気にしなくてよい。
どこかの大学の先生と同じような取り組み方をすればよいだけ。 「神々の汚れた手」という本の内容に対して、正々堂々の反論は、為されたのだろうか。。。 心配しなくても大和は魏志倭人伝にも記載されてるよ
■魏志倭人伝
収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
「租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。」
租税を収め、邸閣がある。国々に市があって有無を交易し、「大倭」にこれを監督させている。 >>452
邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏は、禿。 >>456
様々な学問の分野の中には、ゴッドハンドを出現させてしまった分野もあるよ。 奧山氏は、魏志倭人伝時代が終わって数十年後の話を、発表しているな。
455日本@名無史さん2020/12/29(火) 07:40:05.41
>>452
3世紀の博多湾沿岸が東京や北海道の影響を受けていないから成り立たない >>462
そうだね。奧山氏は併行関係という物事が、実は、絶対年代に対して何も決定できないことを隠し、嘘を発表しているな。
そして、それ以前に、奥山氏は土器や墓の形を決定した者達という、その時代全体からみれば、ごく一部の要素でしかない物事を、その時代の社会現象全体に還元してしまっているのだったな。
455日本@名無史さん2020/12/29(火) 07:40:05.41
>>452
3世紀の博多湾沿岸が東京や北海道の影響を受けていないから成り立たない 教育水準を高めるためには、多目的アリーナが有用なのではないのかな。 >>465
コートを夏はプールとして使用し、観客席のスペースは図書館にすれば良いよ。 >>466
コートを夏はプールとして使用し、観客席のスペースは図書館にすれば良いよ。
という文章は、
コートを夏はプールとして使用し、観客席の下のスペースは図書館にすれば良いよ。
とタイピングしたかったのではないのかな。 コートを夏はプールとして使用し、観客席の下のスペースは図書館にすれば良いよ。 >>455
>3世紀の博多湾沿岸が東京や北海道の影響を受けていないから成り立たない
しかし、「阿波」の影響、もろ受けだ。 わははははは @阿波 >>427
>使者は、周碑測るだろうな。
報告受けた陳寿は、具体的な数字が出ない
残り1300里を1里400mで描いたかも?
魏略や陳寿は、魏や郡の役人らの計測記録を写すしかないだろうなあ。 >>433
>邪馬台国は九州にあり、畿内にも別勢力がある
これにたどり着く もちろん畿内は出雲を去勢したヤマト王権
大和は、当初は、
毛人や、銅鐸祭祀の出雲系や、九州の阿毎氏の国生み神話の倭種の、
共存地域であったが、
九州倭國の東征毛人五十五國軍が入って来て、
梁代頃までは、九州倭國の別種分家の大倭職の旧小国の附庸國の「扶桑國」であった。 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>441
>日本史の基礎知識が足りない 九州説ってこんなやつばっかり
文献考古の基礎的な史料事実や、
それらに関する史料批判によっての、帰納的確率的な史料実態推論が足りず、
「結論先にありき」の宗教的演繹的な講釈など、
大和説学者らって、こんなやつばっかり。 博多湾沿岸が3世紀初めに畿内の影響を受け始めた数十年後に
火の国テロリスト松本智津夫県北部は北部九州型の高杯に転換する
テロリスト松本智津夫県南部はそれより数十年遅れる
その後畿内からリアルタイムに影響を受けた福岡平野の北部九州型布留甕が
火の国テロリスト松本智津夫県に伝播し、テロリスト死刑囚松本智津夫県の土器様相が一変する 倭国の大乱のあと畿内の影響を受けるようになったということは、
倭国の大乱で大負けしたので、畿内勢力に助けを求め従うようになったということだ。
>>475 名前:日本@名無史さん 2020/12/29(火) 08:57:55.14
>博多湾沿岸が3世紀初めに畿内の影響を受け始めた数十年後に 奧山氏は併行関係という物事が、実は、絶対年代に対して何も決定できないことを隠し、またしても、嘘を発表しているな。
そして、それ以前に、奥山氏は土器の売り上げていた者達という、その時代全体からみれば、ごく一部の要素でしかない物事を、その時代の社会現象全体に還元してしまっているのだったな。
475日本@名無史さん2020/12/29(火) 08:57:55.14
博多湾沿岸が3世紀初めに畿内の影響を受け始めた 弥生中期というのは、倭王帥升等の時代なのだろうか。。。 関西の竹島どろぼう反日集団の日本語は変なので除外。 けっきょく九州説が非学問的なこと言い張るだけなのは
専門の学者がほぼ全部九州説から手を引いた結果ってことだ >>459
大倭は土器の有無の交易にも携わっていたんだよね >>480
博多湾沿岸が「畿内からと誤認されている地域の土器を売り上げていた者達」の影響を受け始めた時期は、魏志倭人伝時代が完全に終わった頃からだという可能性が高いのだったな。 様々な分野の優れた学者が集合し、あらゆる柵みとは無関係に意見を闘わせ、日本政府が公式に設置した機関が、「邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が、全く無い。」と判断し、広く、発表したのだったな。 九州説:文献重視、理論重視、一般人含め大多数が納得する説
畿内説:学閥重視、派閥確認の為の通説 >>487
様々な学問の分野の中には、ゴッドハンドを出現させてしまった分野もあったが、他の様々な分野の優れた学者達には、あまり、真面目には取り合って貰えなかったのだったな。 >>455
>3世紀の博多湾沿岸が東京や北海道の影響を受けていないから成り立たない
しかし、「阿波」の影響、もろ受けだ。 わははははは @阿波 畿内説:全国の学者の通説
九州説:お爺さんの一人一作り話
荒らし:竹島どろぼう反日集団 >>468
40億円ほどの作製費用がかかるね。。。 奈良県と桜井市が20億円づつ出し合って、巻向に作製し、巻向国際プールと名付ければ良いよ。 >>495
建築関連が活発化し、教育水準も高まりそうだな。 >>497
だが、予算を作製するためには、犠牲にしなければならない分野もあるのではないのかな。。。 >>498
無駄になっている分野の廃止を断行し、若者達の幸せの為に、予算の使い道を変換すれば良いよ。 >>501
はずれーw
とことんカンの悪い畿内教信者w >>488
そんなこと口先で言うだけで一切証拠出さないから
九州説は消えたんだよ >>502
外れだって証拠出せないのに罵っても無駄 >>490
様々な分野の優れた学者が集合し、あらゆる柵みとは無関係に意見を闘わせ、日本政府が公式に設置した機関が、「邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が、全く無い。」と判断し、広く、発表した後も、
邪馬台国畿内説を宣伝している自称考古学者がいるので、
若者達の、自称考古学者達を見る目が、ウンコを見るような目になってしまったのだったな。 >>441
え?俺 近畿説70%,九州説30%、
基礎知識とは与えられた教育?
教えられた事が本当に正しいか疑うことから始まる。天皇中心の記紀の記述は証拠にならない。
外国文献、出土等と一致したところのみ参照している。 学校の日本史の教科書は 畿内説ですでに なってる
その影響ではw >>490
様々な分野の優れた学者が集合し、あらゆる柵みとは無関係に意見を闘わせ、日本政府が公式に設置した機関が、「邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が、全く無い。」と判断し、広く、発表した後も、
邪馬台国畿内説を宣伝している自称考古学者がいるので、
若者達の、自称考古学者達を見る目が、ウンコを見るような目になってしまったのだったな。 論文を読んで無い近畿説70%,九州説30%というのは
まだよくわからないということだな >>509
近畿説ゴリ押し教科書の実態w
山川出版社は「詳説日本史」「新日本史」「高校日本史」で各々、
「数十万人の朝鮮人や占領地域の中国人を日本本土などに強制連行し鉱山や土木工事現場などで働かせた」、
「多数の朝鮮人や占領地域の中国人を、日本に強制連行して鉱山などで働かせた」、
「朝鮮人や占領下の中国人も日本に連行されて労働を強制された」としている。 >>455
>3世紀の博多湾沿岸が東京や北海道の影響を受けていないから成り立たない
3世紀後半頃以後の大和は、九州倭國の東征毛人五十五國ので支配され、
別種分家の大倭職の附庸國の旧小国であったのであり、
東京は、同じく東征軍の征服下にあったかもしれないが、
北海道の九州倭國の影響を受けていない。 教科書屋といえば総じてパヨクだからな
半島南部が倭人の土地だったと認めたらまずいもんなw ■魏志倭人伝
収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
「租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。」
租税を収め、邸閣がある。国々に市があって有無を交易し、「大倭」にこれを監督させている。
当然ながら土器の有無も交易していた >>516
奥山はNHK受信料を払っていないので見れないな >>511
>論文を読んで無い近畿説70%,九州説30%というのは
九州説が30%もあるという話はとても信じられない
ソースは? >>511
謎だらけでわからないよ。
人名など一致しない。
「空海」ぐらい。
天皇名も小野妹子も聖徳太子の文字は中国文献には見つからない。
倭の五王や阿毎 多利思比孤を天皇に当てる事に疑問に思う。
やっと両文献の一致見たのが新唐書
歴代天皇が文字を含め一致する。
神功皇后もある。大正時代に消されたと
聞かされた。15代天皇と大正15年で終わる
因果と思っている。 >>519
初めは近畿100%だったよ。
教育、当たり前、常識を疑うことから始まった。
まず、魏志の方角だな。諸葛、司馬懿の時代に
ありうるのか?国防、戦略、戦術、補給に方角間違いは、命取り。何故無視するのかが疑問。 >>514
>半島南部が倭人の土地だったと認めたらまずいもんなw
半島南部が倭人の土地とか思ってる学者は一人もいない >>521
だから九州説が30%もあるという根拠は? 九州説で日本語おかしいやついるけど、本当に日本人なのか? 完全に破綻してしまった奧山氏が、自作自演でスレッドを進行している可能性があるな。 >>475
>博多湾沿岸が3世紀初めに畿内の影響を受け始めた数十年後に・・・
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和は、欠史八代の頃に、九州倭國の地方の市を監督する阿毎氏の「大倭職」が置かれ、
3世紀末頃に、九州倭國の東征軍の支配で、
九州倭國の市や、生口や守墓人に拠っての前方後円墳などの、技術が伝えられた。 >>525
貴方は、
邪馬台国畿内説が完全に破綻してしまったという当たり前の物事ではなく、
奧山氏のスレッド進行が、完全に破綻してしまったことを先ず指摘し、
「プロ固定の奧山氏のスレッド進行が、完全に破綻してしまったので、奥山氏は、自作自演するしかない。」という可能性を指摘したのだね。 >>478
>倭国の大乱のあと畿内の影響を受けるようになったということは、
倭国の大乱で大負けしたので、畿内勢力に助けを求め従うようになったということだ。
倭国大乱も畿内も存在もしなかった文言であり、
あったのはほぼ九州付近での「倭國亂」であり、
大和は、倭國亂が落ち着いた後に、
また再開された「東征毛人五十五國」に拠って、
在地の民を従えての本格的な国造りが始まったの。 >>480
奧山氏は併行関係という物事が、実は、絶対年代に対して何も決定できないことを隠し、またしても、嘘を発表しているな。
そして、それ以前に、奥山氏は土器の売り上げていた者達という、その時代全体からみれば、ごく一部の要素でしかない物事を、その時代の社会現象全体に還元してしまっているのだったな。
という文章は、
奧山氏は併行関係という物事が、実は、絶対年代に対して何も決定できないことを隠し、またしても、年代の嘘を発表しているな。
そして、それ以前に、奥山氏は土器を売り上げていた者達という、その時代全体からみれば、ごく一部の要素でしかない物事を、その時代の社会現象全体に還元してしまっているのだったな。
と修正した方が良いよ。 奧山氏は併行関係という物事が、実は、絶対年代に対して何も決定できないことを隠し、またしても、年代の嘘を発表しているな。
そして、それ以前に、奥山氏は土器を売り上げていた者達という、その時代全体からみれば、ごく一部の要素でしかない物事を、その時代の社会現象全体に還元してしまっているのだったな。
475日本@名無史さん2020/12/29(火) 08:57:55.14
博多湾沿岸が3世紀初めに畿内の影響を受け始めた 学問を全否定してるやつって、引き篭もりの高卒ニートだろう
世の中に出れば、どんな分野にせよ自分より詳しい人は山ほどいることに気づく >>528
それがどうしたの?
日本史研究は、日本人以外はやってはいけないという法律でもあるのか?
セカンドオピニオン、第三国交える事も必要と思うけど? >>484
>けっきょく九州説が非学問的なこと言い張るだけなのは
専門の学者がほぼ全部九州説から手を引いた結果ってことだ
けっきょく現在残った大和説学者らが、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
非学問的なこと言い張るだけなのは
文献考古の史料事実や、史料批判された史料実態からの、
帰納的確率的な推論を専門とするまともな学者らが、
ほぼ全部、大和説から手を引いた結果、、ってことだ 奧山氏は、小卒ニート。。。
532日本@名無史さん2020/12/29(火) 11:31:07.18
学問を全否定してるやつって、引き篭もりの高卒ニートだろう
世の中に出れば、どんな分野にせよ自分より詳しい人は山ほどいることに気づく >>490
様々な分野の優れた学者が集合し、あらゆる柵みとは無関係に意見を闘わせ、日本政府が公式に設置した機関が、「邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が、全く無い。」と判断し、広く、発表した後も、
邪馬台国畿内説を宣伝している自称考古学者がいるので、
若者達の、自称考古学者達を見る目が、ウンコを見るような目になってしまったのだったな。 俺様は、桃の種が、好きだ。
桃の種が、発見されたので、邪馬台国や卑弥呼の死体は、巻向遺蹟に馬っているのだと学者が発表したからだ。
だが、なぜなのかは、よくわからないぞ。
なぜ奈良、俺様は、あまり、頭がよくは泣いからだ。
だが、俺様は学芸会の発表を真じるのだ。文句がある者達には、俺様は、討論には絶対応じず、悪口を言い放つぞ。
俺様の、割る口に太子ても、心がしっかりした真実の為に正々堂々と意見を発表しくる者に太子ては、俺様は、「俺様には意味が分からないが、学芸会が言っているから俺様は正しいのだ。」という意見を発表してやるのだ。
だから、俺様は、次々にスレッドを削制し、卑劣に闘い続蹴るのだ。
そろそろ次回のスレッドが、必要だな。 >>527
ずいぶん自演が好きな様だが、畿内説の破綻って具体的になんのこと? 邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだったな。
539日本@名無史さん2020/12/29(火) 11:40:40.23
>>527
ずいぶん自演が好きな様だが、畿内説の破綻って具体的になんのこと? >>540
邪馬台国畿内説というのは、「魏志倭人伝時代の巻向に卑弥呼の城が有り、巻向に卑弥呼の死体が埋められていて、魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、近畿式土器という土器が埋まっていた範囲に重なるのだ。」という仮説なのだったね。 >>536
学会自体も石器捏造で「信用・権威」でガタ落ち。漠然に考古学的とか言うのか?
検証条件、関連団体、詳細な証拠、データ等を提示すれば済むのに? >>541
あまり、出来栄えの良くない仮説なのだったな。 >>543
あまり、頭の出来栄えが良くない者の脳に、出現してしまった仮説なのではないのかな。 >>544
延べ何十万人が、何十年間もかけて、200回程で、全体の5%を発掘したが、人民の使用した鉄器はおろか、時代のはっきりしない人民の住居が数件、発見できただけなのだったな。 >>545
箸墓古墳から、5世紀に活発に輸入された馬の痕跡が発見されたのでは、ないのかな。 俺様は、桃の種が、好きだ。
桃の種が、発見されたので、邪馬台国や卑弥呼の死体は、巻向遺蹟に馬っているのだと学者が発表したからだ。
だが、なぜなのかは、よくわからないぞ。
なぜ奈良、俺様は、あまり、頭がよくは泣いからだ。
だが、俺様は学芸会の発表を真じるのだ。文句がある者達には、俺様は、討論には絶対応じず、悪口を言い放つぞ。
俺様の、割る口に太子ても、心がしっかりした真実の為に正々堂々と意見を発表しくる者に太子ては、俺様は、「俺様には意味が分からないが、学芸会が言っているから俺様は正しいのだ。」という意見を発表してやるのだ。
だから、俺様は、次々にスレッドを削制し、卑劣に闘い続蹴るのだ。
そろそろ次回のスレッドが、必要だな。 >>533
必要ではないがやってはいけないということはない
日本の歴史を考えるには日本古来の文化を知らなければならない
日本では今日は全員大掃除をする慣わしとなっているので
まず大掃除をしなさい >>410日本@名無史さん2020/12/28(月) 23:07:54.44>>445
>(抄)弥生後期には、熊本の鉄鏃出土量は飛躍的に多くなる。博多の鉄素材が熊本の狗奴国へ広がった結果だ。
>ところが弥生終末期になると、倭国の乱を制した八女・山門の邪馬台国が盟主となって、
>博多から熊本へ抜ける鉄の流通に難癖をつけはじめた。
>それが、熊本菊池の卑弥弓呼と邪馬台国・卑弥呼が不仲になった原因だろう。
その論に従えば、クソ重たい鉄素材なんだから、当然博多入港陸揚げとなるはずで、
上陸後は、博多ー大宰府ー八女・山門ー熊本菊池ー、の(現国道3号線)ルートになる。
しかしこれでは、倭人伝の上陸地点が末盧国である理由を説明できない。
末盧国(唐津)に上陸したのち、そこから熊本(菊池)へ運ぶなら、だれがどう考えても佐賀平野経由の平坦・近道ルートだろう・・。 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>554
数日前の深夜に、またしても、告白していたね。 >>557
奧山氏は、嘘をついた者が常用する「本当の事を言っている」のだ、という嘘を交えながら、告白したのだったな。
653日本@名無史さん2020/12/24(木) 00:46:10.62
畿内説は本当の事を言ってる朝鮮人
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1608577083/653 >>558
つまり、邪馬台国畿内説を宣伝している奧山氏は、嘘をつく朝鮮人なのだね。。。 >>551
>しかしこれでは、倭人伝の上陸地点が末盧国である理由を説明できない。
それは、トンデモ説だからなんだよ。 わははははは @阿波 畿内説の根拠が無くなってしまったな
2015年は、「三角縁神獣鏡の製造に関する実証的な研究」が大きく進展して、「魏鏡説」が大巾に後退し、
「国産説」が決定的となった年と言えるであろう。
まず、昨年末、読売ホールで開催された橿考研の大講演会「三角縁神獣鏡研究の最前線」で、
「舶載鏡」と「イ方製鏡」が同一の鋳型を用いて造られていた事例が豊富に報告された。
「イ方製鏡」の製作地、すなわち「舶載鏡」も日本で製作されていたことを示したわけである。
また、鈴木勉の工芸文化研究所も、鏡の加工痕の研究から「国産説」を決定付ける報告を提出している。 そもそも、初期の三角縁神獣鏡は、中国との関係性を偽装しながら、4世紀に作製された物体なのではないのかな。 >>563
産地を偽装すれば、売り上げが上がるのだったね。 >>562
>「イ方製鏡」の製作地、すなわち「舶載鏡」も日本で製作されていたことを示したわけである。
これウソな
発表者はどっちも国産じゃないってニュアンスの発表だったから 畿内説の根拠がウソしかなくなった
「中国製」「国産」同じ鋳型か 卑弥呼の「神獣鏡」、傷ほぼ一致
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG01H2A_R01C15A1CC1000/
清水さんは「複数箇所の一致は偶然ではありえない。
鏡を鋳造後、鋳型の文様面を削って新しい文様を彫り込んだが、ひびが深いため、
そのまま残り、同じ形のしわができた」とし、4枚の鋳型は同じと結論付けた。 >>562と>>566の事実から
日本のほとんどの古墳が盗掘され、副葬されていた鏡などが海外まで流通していたことが判明したわけだ >>566
>畿内説の根拠がウソしかなくなった
これがもうウソ
テンプレ見れば一目瞭然だが、畿内説は魏鏡説を根拠に使ってない 畿内説の根拠は、日韓交差編年「だけ」なのだったね。 >>570
だが、日韓交差編年どころか、巻向の庄内式という式と九州の庄内式という式の併行関係も怪しいのだったな。 >>573
楽浪郡から纏向の間の、幾つもの併行関係を少しづつ卑劣にずらすことで、合計100年近く、
畿内馬具を古く見せかけた可能性が、強いね。。。 >>572
残り数秒で決着する、痺れる闘いだったのではないのかな。 >>573
そうやって考古学を完全否定しないといけない九州説は
完全に死に体 八村塁氏が、連続句点で、感動を表現しているのではないのかな。
素晴らしい。。。感動です号泣クラッカー >>580
八村塁氏が、連続句点を使用してしまったので、奧山氏に、僕達は八村塁氏なのだという頓珍漢な誤認をされる可能性も高いな。。。 邪馬台国畿内説の根拠は、日韓交差編年「だけ」なのだが、日韓交差編年どころか、巻向の庄内式という式と九州の庄内式という式の併行関係も怪しいのだったな。 >>582
貴方は真実を発表しましたね。
素晴らしい。。。感動です号泣クラッカー ま、楽浪土器がいちばん出るIA期=公孫氏時代ってのは動かないから
九州説の無駄な抵抗は虚しいんだけどね >>551
荷物運ぶ船は、できるだけ早く陸地に荷物を揚げる必要がある。
不慮の事故で荷物がいつ海の藻屑と沈んでしまうかしれない危険があるからね。
で、一旦末盧に荷揚げし、そこから博多へ運ぶのが常道。
鉄鏃の出土場所の地図では、そのルートは久留米-八女と進んで、そこから山間を伝って菊池へ進むものだったように思うが。
一方、海を行ったとしても玉名までは山門の沿岸を通るのだから、どちらにしても山門の近くを通るルートになるよ。
とにかく、一旦は博多で仕分けして、各地へ向かうのじゃないの。 つまり、日韓交差編年が正しいのだという事は、全く証明できないのだね。
584日本@名無史さん2020/12/29(火) 14:58:12.39
ま、楽浪土器がいちばん出るIA期=公孫氏時代ってのは動かないから
九州説の無駄な抵抗は虚しいんだけどね >>586
貴方は真実を発表しましたね。
素晴らしい。。。感動です号泣クラッカー >>582
交差編年の大半が青銅器による日中間の交差だとも知らない九州説の無知に
全米が笑った >>582
楽浪郡から纏向の間の、幾つもの併行関係を少しづつ卑劣にずらすことで、合計100年近く、
畿内馬具を古く見せかけたのだったな。 つまり、やはり、絶対編年という物事を、長期間伝世する物体で偽装していたのだな。
588日本@名無史さん2020/12/29(火) 15:03:41.22
>>582
交差編年の大半が青銅器による日中間の交差だとも知らない九州説の無知に
全米が笑った >>589
貴方は真実を発表しましたね。
素晴らしい。。。感動です号泣クラッカー >>566
三角縁神獣鏡は国産だということでしょう。 >>594
貴方は真実を発表しましたね。
素晴らしい。。。感動です号泣クラッカー 三角縁神獣鏡の文様を、自称考古学者が、日中黄砂に使用していた可能性もあるのではないのかな。
566日本@名無史さん2020/12/29(火) 14:19:21.02
畿内説の根拠がウソしかなくなった
「中国製」「国産」同じ鋳型か 卑弥呼の「神獣鏡」、傷ほぼ一致
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG01H2A_R01C15A1CC1000/
清水さんは「複数箇所の一致は偶然ではありえない。
鏡を鋳造後、鋳型の文様面を削って新しい文様を彫り込んだが、ひびが深いため、
そのまま残り、同じ形のしわができた」とし、4枚の鋳型は同じと結論付けた。 >>596
奧山氏は「交差編年の大半が青銅器による日中間の交差だ」という馬の脚を晒したのだったね。
588日本@名無史さん2020/12/29(火) 15:03:41.22
>>582
交差編年の大半が青銅器による日中間の交差だとも知らない九州説の無知に
全米が笑った 方向音痴の邪馬台国畿内説。
底なし沼に浸っている。 バカでっかい馬墳のような古墳を盾に
邪馬台国畿内説をたれるな。 >>589
例え、ずらした期間が100年程ではなくても、40年程もずらしていたのならば、巻向大下水道は卑弥呼の共立に間に合わなくなり、邪馬台国畿内説は完全に破綻するのではないのかな。 >>600
なんにも理由なしに
ずらしたーずらしたーと
言い張る九州説の頭はズラ >>601
貴方は、呟きの絵文字がドラッグという物事では複製できずに、文字になってしまう事が不思議なのだね。 では、奥山氏は、奧山氏の鬘は、絶対にずらすことの出来ない物事なのだと証明すれば良いよ。
602日本@名無史さん2020/12/29(火) 15:47:37.29
>>600
なんにも理由なしに
ずらしたーずらしたーと
言い張る九州説の頭はズラ 邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。 >>605
貴方は真実を発表しましたね。
素晴らしい。。。感動です号泣クラッカー まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 奧山氏が論破された時に常用する文章を、貼り付けてしまった。
607日本@名無史さん2020/12/29(火) 15:55:38.19
まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
方向音痴の邪馬台国畿内説者
魏志倭人伝への方向を無視してはだめぞ。 >>604
巻向の桃の種の絶対年代を決定するために、楽浪から1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、繋げることは、絶対に「恣意的に少しづつ年代をずらしながらは」できないのだということを、奥山氏が証明すれば良いのではないのかな。
602日本@名無史さん2020/12/29(火) 15:47:37.29
>>600
なんにも理由なしに
ずらしたーずらしたーと
言い張る九州説の頭はズラ >>612
貴方は真実を発表しましたね。
素晴らしい。。。感動です号泣クラッカー 俺様は、土器が、好きだ。
土器が、発見されたので、邪馬台国や卑弥呼の死体は、巻向遺蹟に馬っているのだと学者が発表したからだ。
だが、なぜなのかは、よくわからないぞ。
なぜ奈良、俺様は、あまり、頭がよくは泣いからだ。
だが、俺様は学芸会の発表を真じるのだ。文句がある者達には、俺様は、討論には絶対応じず、悪口を言い放つぞ。
俺様の、割る口に太子ても、心がしっかりした真実の為に正々堂々と意見を発表しくる者に太子ては、俺様は、「俺様には意味が分からないが、学芸会が言っているから俺様は正しいのだ。」という意見を発表してやるのだ。
だから、俺様は、次々にスレッドを削制し、卑劣に闘い続蹴るのだ。
そろそろ次回のスレッドが、必要だな。 ››611
九州説はやっぱり定説に対してまったく反論できっこないって結論でたね 様々な分野の優れた学者が集合し、あらゆる柵みとは無関係に意見を闘わせ、日本政府が公式に設置した機関が、「邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が、全く無い。」と判断し、広く、発表したのだったな。 >>616
様々な学問の分野の中には、ゴッドハンドを出現させてしまった分野もあったが、他の様々な分野の優れた学者達には、あまり、真面目には取り合って貰えなかったのだったな。 つまり、巻向の桃の種の絶対年代を決定するために、楽浪から1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、繋げることは、絶対に「恣意的に少しづつ年代をずらしながらは」できないのだということを、誰も証明できないのだな。
615日本@名無史さん2020/12/29(火) 16:24:05.37
››611
九州説はやっぱり定説に対してまったく反論できっこないって結論でたね >>617
様々な分野の優れた学者が集合し、あらゆる柵みとは無関係に意見を闘わせ、日本政府が公式に設置した機関が、「邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が、全く無い。」と判断し、広く、発表した後も、
邪馬台国畿内説を宣伝している自称考古学者がいるので、
若者達の、自称考古学者達を見る目が、ウンコを見るような目になってしまったのだったな。 俺様は、土器が、好きだ。
土器が、発見されたので、邪馬台国や卑弥呼の死体は、巻向遺蹟に馬っているのだと学者が発表したからだ。
だが、なぜなのかは、よくわからないぞ。
なぜ奈良、俺様は、あまり、頭がよくは泣いからだ。
だが、俺様は学芸会の発表を真じるのだ。文句がある者達には、俺様は、討論には絶対応じず、悪口を言い放つぞ。
俺様の、割る口に太子ても、心がしっかりした真実の為に正々堂々と意見を発表しくる者に太子ては、俺様は、「俺様には意味が分からないが、学芸会が言っているから俺様は正しいのだ。」という意見を発表してやるのだ。
だから、俺様は、次々にスレッドを削制し、卑劣に闘い続蹴るのだ。
そろそろ次回のスレッドが、必要だな。 ››611
こういうウソをつき続けるから九州説は信用を失って終了してしまったんだよ ■魏志倭人伝
収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
「租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。」
租税を収め、邸閣がある。国々に市があって有無を交易し、「大倭」にこれを監督させている。
当然ながら土器の有無も交易していた
大倭が北部九州に畿内式土器のサンプルを提供したんだな 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 条件が厳しくなったんだね
邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏は、禿。 ››624
九州説がどんどんバカっぽくなっていくなあ
w >>618
考えてみれば、簡単な事だね。
Aという物体がa1からa2という年代に存在し
Bという物体がb1からb2という年代に存在し
Cという物体がc1からc2という年代に存在し
AとBが併行する期間がb1からa2で存在し
BとCが併行する期間がc1からb2で存在し、
a1、a2の絶対年代が得られても、
b2,c1,c2の年代は絶対に分からないのだからね。 反論が不能になってしまった奥山氏が、論破された時の奥山氏の癖であり、松傾の癖でもある空白の改行という癖を丸出しにしながら、嘘の負け惜しみを言い放ってきたな。
625日本@名無史さん2020/12/29(火) 16:49:00.07
››624
九州説がどんどんバカっぽくなっていくなあ
w 奧山氏よ、アンカーのための>>を、他の記号と間違って使用しているよ。 奧山氏は、外出先から、スレッドにアプローチしているのだろうか。。。 >>626
わからなくなる架空の例を頭の中だけで作っても意味ないよ 脳の出来栄えが良くない奧山氏には、やはり、分からなくなるのだな。
632日本@名無史さん2020/12/29(火) 17:03:28.17
>>626
わからなくなる架空の例を頭の中だけで作っても意味ないよ では、奧山氏の別キャラクター作り出した努力に敬意を表し、貴方を、››奧山氏と呼びます。
634日本@名無史さん2020/12/29(火) 17:07:28.43
››628
誰でも奥山に見える病気の人がいる 脳の出来栄えが良くない››奧山氏には、やはり、分からなくなるのだな。
632日本@名無史さん2020/12/29(火) 17:03:28.17
>>626
わからなくなる架空の例を頭の中だけで作っても意味ないよ >>636
おかしな例を考えついた>>626は明らかに脳の出来が良くないのだが >>566
>畿内説の根拠がウソしかなくなった
「中国製」「国産」同じ鋳型か 卑弥呼の「神獣鏡」、傷ほぼ一致
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG01H2A_R01C15A1CC1000/
清水さんは「複数箇所の一致は偶然ではありえない。
鏡を鋳造後、鋳型の文様面を削って新しい文様を彫り込んだが、ひびが深いため、
そのまま残り、同じ形のしわができた」とし、4枚の鋳型は同じと結論付けた。
ふーん、成程。 >>516
動画の最後の方に出演者全員が映ってる場面があるが、左から3番目は誰?
本郷さんかな? >>>569
>・・・テンプレ見れば一目瞭然だが、畿内説は魏鏡説を根拠に使ってない
ここにいる大和説者は、殆どが魏鏡説を唱えていたんだが、
スレ主は、大和説者じゃなかったの?。 >>639
「阿波」で確定しているものを、アホ学者がそろいもそろってアホ論議。 わははははは @阿波 >>639
また、臭わし大国、纏向大和説か。
東千余里倭種の国で決着ついてるのにね。
まあ、とにかく、がんばりたまえ。 >>641
どーせあとで追加するんだろ?
Spring8で成分ガー!
中国産と判明したニダ―!
だから中国製ニダー!
ってw >>578
>そうやって考古学を完全否定しないといけない九州説は
完全に死に体
「清水さんは「複数箇所の一致は偶然ではありえない。
鏡を鋳造後、鋳型の文様面を削って新しい文様を彫り込んだが、
ひびが深いため、そのまま残り、同じ形のしわができた」とし、
4枚の鋳型は同じと結論付けた」
という事の否定や、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などにように、
文献考古の史料事実や史料実態の曲解や、
それらを完全否定しないといけない大和説は
完全に死に体 ちょっとダイキ行ってきたんだけど、畿内説の根拠が売ってなくてさあ
店員さんに聞いたら、そんなもんは無い!とのことでした >>638
5年も前にこんな結論出てるのに、今だに三角縁卑弥呼の銅鏡説を唱えている古代史熱狂沸き沸きファンも、たいがいにしてほしいわ。
3世紀末頃以降の古墳からしか出ないのだから、鍬形石同様の纏向政権製作威信財なのは明らか。
まあ、こうした視点から正月の邪馬台国番組の学者たちの言説をみてみるのも一興だろう。
なんか新しい知見に言及する学者がいるのかね。 >>648
>なんか新しい知見に言及する学者がいるのかね。
「阿波」の最新遺跡を無視するのであれば、新しい知見に言及なんて出来るわけがないよ。 @阿波 そうそう、古墳と鏡は年代が合わないのが当たり前なのですよ
『江田船山古墳からは6面の銅鏡が出土しており、熊本県の古墳では最多量です。
その内の5面は中国南朝の宋にて作られた舶載+はくさい+鏡(中国鏡)であり、1面は日本列島内で作られた倭+わ+鏡(国産鏡)です。
これだけの鏡を副葬する被葬者+ひそうしゃ+は、かなり大きな権力を持った人物であったと考えられます。』
https://jpsearch.go.jp/item/cobas-88373 >>650
たぶん、阿波産丹砂は献上品だった、とかなんとか言うよ。 >>653
昔は一時売ってたけど、今はもう人気ないので作ってない、と店員さんが笑ってたよ。 >>588
>交差編年の大半が青銅器による日中間の交差だとも知らない九州説の無知に
全米が笑った
交差編年という手法を採るんなら、
当然倭と中国との交差関係だけではなく、
倭と半島との交差関係も考慮しなければならないし、
青銅器だけではなく、土器やその他の武器や祭器や生活用品などの交差も、
考慮する必要がある、という事も知らないらしい大和説者の無知に、
世界の殆どが笑った。 >>654
いや、「阿波」という文言さえ出さないだろうね。 「阿波」を出せば、番組の収拾がつかなくなるから。 わははははは @阿波 >>602
>なんにも理由なしに ずらしたーずらしたーと 言い張る九州説の頭はズラ
何の論理の普遍性も明確な証拠もなく、
「日中間の交差〜交差」と言い張る大和説の頭はズル?。 300年続いて結論が出なかった邪馬台国畿内説とは、いったいどんな説だったのですか??
ハイ、今はもう爆笑問題です!! >>615
>九州説はやっぱり定説に対してまったく反論できっこないって結論でたね
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
文献考古の史料事実や史料実態の曲解や否定の大和説は、
やっぱり、九州説に対してまったく反論できっこないって、
結論でたね >>622
>■魏志倭人伝
収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
「租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。」
租税を収め、邸閣がある。国々に市があって有無を交易し、「大倭」にこれを監督させている。
当然ながら土器の有無も交易していた
大倭が北部九州に畿内式土器のサンプルを提供したんだな
北部九州の邸閣の国が、地方の国々の市を監督する「大倭」職の「市」で、
土器も交易交換していたの。 >>651
古墳の位置からすると、玉名の首長でしょうね。
山間を八女に続く街道があり、このルートを今の高速が走ってます。
海岸よりも山間が幹線街道のように見えますね。 孫達が、僕達に会うためにPCR検査を受けたいと言ったので、僕達は、泣きながら「来なくて良いよ。」と言わなければならなかった。 >>667
貴方は、年末年始に、邪馬台国畿内説が完全に破綻してしまっているという真実を、日本の若者達に向けて、宣伝することに決めたのだね。 >>667
泣くなよw正月は毎年来るんだから
長生きしろよw >>1
おい、プロ固定、スレッドを活発化するために、嘘をつくのは、許されないことだよ。 >>670
安心しても、良いよ。
頭の出来映えが悪いプロ固定の嘘に、欺される若者は、日本には、一人もいないよ。 影響が一方的な、日中間の青銅器での交差編年によって、日本の物事の年代を断定出来るのだと考えてしまった自称考古学者は、何という名前なのだろうか。
663日本@名無史さん2020/12/29(火) 18:51:34.90
>>659
交差があれば学問としてOKだろ >>672
貴方は、すぐに、せいぜい無職のプロ固定の嘘を発見したね。 最後的には、邪馬台国畿内説という妄想の材料は、青銅器の日中の交差編年だということが、判明したのだったのだな。 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 昔のイオンで、一時売られていた邪馬台国畿内説の証拠とは、どのような物体なのだろうか。 昔のイオンで、一時売られていた邪馬台国畿内説の証拠とは、桃の種なのだろうか。 昔のイオンで、一時売られていた邪馬台国畿内説の証拠とは、中国の洛陽近くの農民に贈られた鏡なのだろうか。 なぜ、男王ではなく、壹與ならば國中が定まったのだろうか。 魏志倭人伝に書かれている裸国が大和朝廷ではなかろうか 女王国とは糸島市、福岡市付近のことだから
女王國東渡海とは博多から山口県までのことであろう
1000里、80kmくらいで丁度計算が合う 陽子の崩壊が、予測に反している理由は、何なのだろうか。 なぜ、男王ではなく、壹與ならば國中が定まったのだろうか。 >>651
そりゃ、そうだ。
移動できるもんだし権力に物が集まる
埋葬ブツの1番新しいもんが正解に近い。 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>647
大和政権が詐欺にあったんだろうな。
詐欺師
「天皇様、これが卑弥呼おばばが魏から頂いた鏡でせ!」
天皇様
「おおー、これか!権力の証しとして複製品作り
地方の豪族に配ろう」。
で千枚近く。 奥山氏は、論破されると、長い文章を貼り付け、論破された記録を、目立たなくするのだったな。
690 名前:日本@名無史さん 2020/12/29(火) 21:37:23.00
(8)蒸してーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になってい
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作っし器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした691 名前:日本@名無史さん 2020/12/29(火) 21:37:36.18
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。 邪馬台国畿内説が、完全に追い詰められ、日本の若者達にとって、笑いリラックスするためだけの物事になってしまった。 >>625
>九州説がどんどんバカっぽくなっていくなあw
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、
大和説学者らがどんどんバカっぽくなっていくなあ >>696
>敗北した九州説 もう荒らし専門かよ
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
文献考古の史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しがバレて、
敗北した大和説学者ら、
もう荒らし専門かよ >>697
だからそれ
平安時代まで九州王朝が栄えてました
みたいな誰も信じない妄言なんだよ
九州説はもう
そこまで堕ちてるの 九州説はキチガイが増えすぎてオワコン化してしまった… >>692
その豪族の中に奴国の酋長が居るのがねー 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 九州の古墳から三角縁神獣鏡が出てなければ九州説の可能性もあったんだがなぁ >>698
>だからそれ 平安時代まで九州王朝が栄えてました
みたいな誰も信じない妄言なんだよ
九州説はもうそこまで堕ちてるの
だから、それ(=唐会要倭國伝の開成四年の遣使の記録)は、
平安時代まで九州王朝(=九州倭國)が、国家として認められていました、
という記録なんだよ。
東大理系博士号自称男の投稿は、まるで詐欺みたいな、誰も信じない妄言なんだよ
そこまで堕ちてるの >>699
>九州説はキチガイが増えすぎてオワコン化してしまった…
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
文献考古の史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者や大和説者らは、
キチガイが増えすぎて、オワコン化してしまった… >>702
>九州の古墳から三角縁神獣鏡が出てなければ九州説の可能性もあったんだがなぁ
列島の最古クラスの三角縁神獣鏡は、
3世紀前半末近くの志登や祇園山や藤崎西新町から出土していたのに、
大和の古墳から4世紀以後の三角縁神獣鏡しか出ていないから、
大和説の可能性は全くないんだがなぁ 邪馬台国畿内説が、完全に追い詰められ、日本の若者達にとって、笑いリラックスするためだけの物事になってしまった。 なぜ、男王ではなく、壹與ならば國中が定まったのだろうか。 >>705
福岡の那珂遺跡群からも出ているね。
三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡?
記がないのに。 九州倭國という団体は、平安時代の天皇に許可を貰い、単独で、外交していた可能性もあるな。 陽子の崩壊が、予測に反している理由は、何なのだろうか。 アップクォークはダウンクォークよりも小さいのではないのかな。 >>712
2つのアップクォークの中心同士の方が、距離を近づけられるのだな。 日本は、奈良に全国の代表が集い、女性を王とすることを話し合いで決めて誕生した国なんだね
なんて素晴らしい成り立ちなんだろう
美しい日本に生まれてよかった 日本は、奈良を九州の軍団が侵略し、倭人を天皇とすることを力づくで決めて誕生した国なんだね
なんて素晴らしい成り立ちなんだろう
力強い日本に生まれてよかった >>717
兄弟が、吉備で軍隊と船を集めて、侵略したので、吉備の土器が侵略地に影響を与えたのだったな。 >>719
庄内式土器と命名されてしまったのだったな。 なぜ、男王ではなく、壹與ならば國中が定まったのだろうか。 単に侵略王フトニが死んだだけ
で、娘の臺与(和風諡号:百襲姫)を王として共立することで国が落ち着いた 3世紀に博多と桜井に前方後円墳が出現するってことは博多と桜井との繋がりは3世紀もしくはそれ以前からあったということなのでは?
同時期に似た形状の古墳が出現するって偶然は有り得んだろ フトニの息子を大王にしなかったところに他国の力が働いている事を感じる
臺与は卑弥呼と同じ、各国と協議して選ばれた大王 4世紀に、それまでは、九州にしか無かった前方後円型の物体が、巻向に出現した理由は、何なのだろうか。 神武東征で神武即位が1C末頃だから、1C末から九州北部はヤマトの属国だろ >>708
>福岡の那珂遺跡群からも出ているね。
那珂八幡などの前方後円墳からだから、3世紀後半半ば過ぎ頃になる。
>三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡? 記がないのに。
違うな。
△は、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であって、
明帝→卑弥呼への下賜の銅鏡百枚ではない。 九州北部の属国が大和だった可能性もある
邪馬台国は九州にあったが倭国連合は東海にまで及んでいたとかどうよ? 仲哀はヤマタケの子どもだろ
オヤジと同じで戦争に明け暮れて短命で死んだ
単に戦地に近い場所が宮になってるだけ >>731
それただの空想
考古学的事実と矛盾した空想 >>731
そういう伝説が何もないだろ
3C以前の九州北部に戦の話も大王の話も大王の陵の話も伝説もない
何にもない場所が九州北部 兄弟を吉備に送り出した者達は、どのような王国の者達だったのだろうか。 >>723
>同時期に似た形状の古墳が出現するって偶然は有り得んだろ
有り得んのは、トンデモだからだよ。 「忌部はん」が各地へ進出して行ったからに他ならぬ事。 至極簡単な話。 @阿波 倭国大乱で大和は九州の傘下に入り多くの優秀な弥生人が大和へと移住して行った
結果、纒向は発展を遂げ後のヤマト王権になっていった >>738
>結果、纒向は発展を遂げ
纏向が発展??? アンポンタン @阿波 息子の吉備津彦兄弟を吉備に置いて吉備を支配させ、
自らは出雲攻略に明け暮れて出雲の傍の伯耆で死んだのがフトニ
だから息子は各国に大王に推されず、侵略と何も関係ない臺与(百襲姫)が大王に推された 奥山氏は、年末年始、配達会社に臨時雇用されたのだったな。 >>741
「式内社 阿波國名方郡 天佐自能和氣神社(あまさしのわけじんじゃ)」
御祭神 日子刺肩別尊・意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命・神皇産霊尊・高皇産霊尊
徳島県徳島市。吉野川の南岸、四国三郎橋の近くの堤防側にある。
現在の祭神は、四柱だが、もとは、日子刺肩別尊一柱。
ついで、その母にあたる意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命も合せ祀り、さらに、二柱を後世に加えたと考えられている。 @阿波 母の意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命は、孝霊天皇の第三夫人であり、日子刺肩別尊は、その第二子。
日子刺肩別尊は、高志之利波臣・豊前之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖とされている。
ちなみに、姉は、大物主命の妻となった夜麻登々母々曾毘売命。弟は、四道将軍の一人・大吉備津彦命。
すごい兄弟なのである。
神紋は、『式内社調査報告』には、菊紋とあり、境内の石碑にも菊紋が付いている。 一方、拝殿には鷹羽紋が付いている。 @阿波 夜麻登々母々曾毘売命の死体は、箸墓古墳に埋められたのではないのかな。 >>774
古事記という文章では、トが一つ少ないのだったな。 倭迹迹日百襲姫命が夜麻登登母母曽毘売ならば、
倭は、ヤマだった可能性が、あるのだったな。 >>722
>単に侵略王フトニが死んだだけ
で、娘の臺与(和風諡号:百襲姫)を王として共立することで国が落ち着いた
「臺与」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
百襲姫も、九州倭國の別種分家の大和の姫であるから、九州倭國とは関係もなく、
バツ。 やまとととひももそひめのみことと言う名前の中に桃がある
つまり桃の種が出た纒向が邪馬台国だったのだね >>723
>3世紀に博多と桜井に前方後円墳が出現するってことは博多と桜井との繋がりは3世紀もしくはそれ以前からあったということなのでは?
博多の前方後円墳は、那珂八幡などの3世紀後半半ば過ぎであり、
大和の前方後円墳の最初期の石塚は、那珂八幡の「進化型」であるから、
那珂八幡よりも後での「那珂八幡の模倣」であり、3世紀末頃。
>同時期に似た形状の古墳が出現するって偶然は有り得んだろ
同時期になっておらず、石塚は那珂八幡の後。 百襲姫は崇神天皇と数々のエピソードを遺してるから
臺与とは考えられるが卑弥呼とは考えられないんだよ
崇神天皇は3C末〜4C前半の人物だから、卑弥呼はすでにこの世にはいない
箸墓が百襲姫陵なら臺与陵となら考えられるが卑弥呼陵とは考えられない >>745
桔梗紋だから明智光秀。 だから他人だな。 わははははは @阿波 >>745
母の意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命は、孝霊天皇の第三夫人であり、日子刺肩別尊は、その第二子。
日子刺肩別尊は、高志之利波臣・豊前之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖とされている。
ちなみに、姉は、大物主命の妻となった夜麻登々母々曾毘売命。弟は、四道将軍の一人・大吉備津彦命。
すごい兄弟なのである。
神紋は、『式内社調査報告』には、菊紋とあり、境内の石碑にも菊紋が付いている。 一方、拝殿には鷹羽紋が付いている。 @阿波 >>728
>神武東征で神武即位が1C末頃だから、
二中歴の「年代歴」の説明では、神武即位元年は紀元前91年頃になる。
>1C末から九州北部はヤマトの属国だろ
だから、紀元前91年頃に、
九州倭國の阿毎氏の別種分家の附庸國が、大和の片隅に出来た事になる。 巨大古墳と言う遺物があるのに手付かずでまったく進展しないってのがもどかしい 加藤清正公は、明智光秀を死体にしてしまった合戦では、御直番として活躍したのだったな。 巨大古墳という物体は、大規模調査で4世紀後半に出現したことが判明したのだったな。 吉備津彦というのはずっと後に付けられた単なる諡号
吉備津彦兄弟の生前の吉備はまだ吉備と呼ばれてないのだよ 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだから、美味しいきびだんごの作り方を研究すればよいよ。 >>759
「大きいから天皇陵」 単細胞の思考回路。
「忌部はん」 のお墓を有難がる隠れ忌部。 わははははは @阿波 >>734
>そういう伝説が何もないだろ
3C以前の九州北部に戦の話も大王の話も大王の陵の話も伝説もない
何にもない場所が九州北部
そういう記録は、中国や半島の史書群や逸文に、いくらでもあるだろ。
3C以前の九州北部に、戦の話も女王の話も女王の陵の話もある。
全く何にもない場所が大和。 >>752
>やまとととひももそひめのみことと言う名前の中に桃がある
つまり桃の種が出た纒向が邪馬台国だったのだね
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言でしょうね。 >>755
>百襲姫は崇神天皇と数々のエピソードを遺してるから
臺与とは考えられるが卑弥呼とは考えられないんだよ
臺与も存在もしなかったし、
百襲姫の比定論も「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠ってバツ。
>崇神天皇は3C末〜4C前半の人物だから、卑弥呼はすでにこの世にはいない
箸墓が百襲姫陵なら臺与陵となら考えられるが卑弥呼陵とは考えられない
箸墓も、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などに拠って、
「壹與」陵はバツ。 どのようにして、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだろうか。 7世紀に近畿地方を中心に
木(き)の国ができたんだかあったんだらし〜からな〜😗
これより最古の国は分からん😋 九州北部の
紀元前3世紀の有力者の遺跡
・早良 吉武高木遺跡
・奴国 板付田端遺跡
・末慮国 宇木汲田遺跡
↓
紀元前2世紀の有力者の遺跡
・伊都国 三雲遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 吉野ヶ里遺跡
・末慮国 宇木汲田遺跡
・早良 吉武大石遺跡、桶渡遺跡
・嘉穂 鎌田原遺跡、立岩遺跡
・筑紫野 隈・西小田遺跡
・朝倉 峯遺跡
↓
紀元前1世紀の有力者の遺跡
・伊都国 井原遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 吉野ヶ里遺跡、二塚山遺跡
・末慮国 桜馬場遺跡
↓
1世紀の有力者の遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 二塚山遺跡
↓
空白
↓
2世紀後半の有力者の遺跡
伊都国 平原遺跡
↓
消滅 奈良盆地の
紀元前3世紀の有力者の遺跡
空白
↓
紀元前2世紀の有力者の遺跡
空白
↓
紀元前1世紀の有力者の遺跡
空白
↓
1世紀の有力者の遺跡
空白
↓
空白
↓
2世紀後半の有力者の遺跡
唐古鍵
↓
3世紀後半
消滅
↓
3世紀末期
巻向
↓
4世紀末期
消滅 4世紀に邪馬台国が消滅してるなら九州説かなって思うよな .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. ヤマタノオロチ退治事件という事件は、肥の川上で、発生したのだったな。 >>775
すくなくとも女王共立は消滅してるだろ
3世紀末で女王の朝貢が途絶える >>782
ヤマタノオロチが北部九州の邪馬台国だよ
狗奴国の神武がそれを撃破したんだよ
その後は倭種の国と渡来人の合流で日本の歴史が始まる >>732
ヤマタケは遠征ごとに子供を作る。
前方後円墳が各地にある理由のひとつ。 正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。
という文章があるのだったな >>766
古事記では夜麻登登母母曽毘売
母母は、モモともハハとも読まない
九州で女性の陰部。
大物主と婚姻
短命だった。 其後復立男王,並受中國爵命。
という文章の男王とは、何者なのだろうか。 やはり、壹與が生きている時代に、もう一人、王が並び立ち中国に使者を送っていたのだろうか。 大物主は、一夜母母に成功した可能性も、あるのではないのかな。 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>791
壹與の子だろー。
これで九州は壹與
子が神武だよ。
記紀を政治や大学の利害関係が絡む学者に
任せたらいけない。 >>775
>4世紀に邪馬台国が消滅してるなら九州説かなって思うよな
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
邪馬壹国は、卑弥呼を共立する事に賛成した29〜30国の中の一国であり、
共立された卑弥呼が「女王之所都」した7万戸の地域国名であり、
福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地の範囲の国名呼称。
そして、卑弥呼共立に賛成した29〜30国の地域國全体が女王國或いは倭國と呼ばれ、
後続の倭國王の居地は、その都度変わって行き、
邪馬臺や、邪靡堆などと変わって行った。 年末年始に臨時雇用された奥山氏は、配達物を配達しているのではないのかな。 どのようにして、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだろうか。 >>778
>倭の五王は畿内の人物だろ
倭の五王の頃は「東海姫氏國」時代であり、
「臺」の字名がある筑後の久留米近辺に所都し、その地が邪馬臺と呼ばれた。 >>783
>すくなくとも女王共立は消滅してるだろ
3世紀末で女王の朝貢が途絶える
壹與の後は、九州倭國は、
(姫氏の)熊襲の娘ら以外は、「女王的存在」の可能性の記録はない。 古墳から見て4世紀の九州はパッとしないよな
そこそこイケてるのは6世紀の岩戸山古墳くらいじゃね? >>802
九州かどうかはわからないけどな
天皇が他国の爵位や名を求めるなんて
侮辱だぜ。よって倭の五王は天皇ではない。 >>804
ベンガラとか模様とか派手もあるが、
争いが絶えない時代だろー >>785
>途絶えるのは西晋と楽浪郡が滅ぶから
途絶えていない。
九州倭國は、惠帝の時に、「日本」という国号を名乗った事もあるし、
倭の五王の頃は、宋に785
>途絶えるのは西晋と楽浪郡が滅ぶから
途絶えていない。九州倭國は、
惠帝の時に、「日本」という国号を名乗った事もあるし、
倭の五王の頃は、宋に、
「自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王」
などと名乗って、遣使を派遣し、授号を受けている。 >>786
>ヤマタケは遠征ごとに子供を作る。
前方後円墳が各地にある理由のひとつ。
倭建命は、「倭」と書かれたから、当然九州倭國下の一将軍であり、
阿毎氏の大和が伝承して記録しているから、
倭建命は、九州倭國の伊都国系の阿毎氏の一将軍的な人間。 どのようにして、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだろうか。 其後復立男王,並受中國爵命。
という文章の男王とは、何者なのだろうか。 大阪の遺跡
紀元前2世紀〜紀元1世紀 池上曽根遺跡 18mいずみの高殿
奈良の遺跡
紀元前5世紀〜紀元前4世紀 中西遺跡 水田10万平方メートル?
紀元前2世紀〜1世紀後半 唐古鍵遺跡 職人集落
↓
洪水で埋まるが再開発
↓
紀元1世紀後半〜3世紀 唐古鍵遺跡 ニュータイプ
紀元2世紀半ば〜後半 瀬田遺跡 集落
↓
北東
↓
紀元前2世紀〜1世紀 坪井遺跡 集落
↓移動
1世紀〜3世紀 大福遺跡 集落
↓
北東
↓
3世紀 纏向遺跡
とりあえずざっとまとめた 天皇の系図の或る人物から或る人物の連なりは、天皇の系図の或る人物から或る人物の別の連なりと、並行して存在していた可能性があるのだったな。 >>813
貴方は真実を発表しましたね。
素晴らしい。。。感動です号泣クラッカー 奈良盆地の
紀元前3世紀の有力者の遺跡
空白
↓
紀元前2世紀の有力者の遺跡
空白
↓
紀元前1世紀の有力者の遺跡
空白
↓
1世紀の有力者の遺跡
空白
↓
空白
↓
2世紀後半の有力者の遺跡
唐古鍵
↓
3世紀後半
消滅
↓
3世紀末期
巻向
↓
4世紀末期
消滅 >>815
貴方は真実を発表しましたね。
素晴らしい。。。感動です号泣クラッカー >>813
天皇の系図の作者は、真実が完全には失われないように、誰にでも発見できるヒントを忍ばせた可能性もあるね。 >>791
@「倭國亂相攻伐」して、「卑彌呼」を立てた。
A「卑彌呼」死後、狗奴国の男王「卑彌弓呼」が「卑彌呼」の後釜として倭王となった。
B「國中不服更相誅」して、「壹與」が立った。 「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
C「其後復立男王」として、「神武天皇」が立った。
出雲狗奴国王「須佐之男命」 の息子「大国主命」は、「卑彌呼」宗女の「壹與」と同世代である。
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 池上曽根遺跡も道具を作る職人集団で
遺跡の周りから田畑のあとがみつかってないので
唐古鍵遺跡のような職人集落だった可能性がある
いずみの高殿の前の井戸はクスノキで枠を作っていて
クスノキから出る樟脳(防虫剤)のせいで
わざと飲料用には使えなくした可能性があって
儀式用か青銅や道具を作る工業用の水専門の井戸だったと思われる
>>815 きみはアホだな
中西遺跡、唐古鍵遺跡、瀬田遺跡、
坪井遺跡、大福遺跡、纏向遺跡
これは全部奈良盆地にあるよ >>805
>・・・天皇が他国の爵位や名を求めるなんて
侮辱だぜ。よって倭の五王は天皇ではない。
成程。 須売伊呂大中日子王という人物が、いたのではないのかな。 >>819
>いずみの高殿の前の井戸はクスノキで枠を作っていて
そのクスノキは、「阿波」から「忌部はん」が持ち込んだものだな。 @阿波 魏志倭人伝時代以降、西日本には、王国が複数あったので、奈良時代になってから、天皇の系図を作成する者が混乱した可能性が高いな。 >>819
全部ゴットハンドだろ、全て8世紀以降の遺跡だ >>806
>ベンガラとか模様とか派手もあるが、争いが絶えない時代だろー
九州倭國は、
東海姫氏國系の倭の五王や倭國王哲から、天孫族の阿毎氏系の磐井に政権氏族が変わり、
磐井は同じ阿毎氏の大和のヲホドや物部に倒されて、残った子供の葛子が引き継ぎ、
結局は、タリシホコやサチヤマまで継続したが、
白村江の大敗で、大和の阿毎氏が継承した。 其後復立男王,並受中國爵命。
という文章の男王とは、秦王や八幡との関係性もあるのではないのかな。 >>807の訂正
>>785
>途絶えるのは西晋と楽浪郡が滅ぶから
途絶えていない。
九州倭國は、
(釈日本紀に拠れば)惠帝の時に、「日本」という国号を名乗った事もあるし、
倭の五王の頃は、宋に、
「自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王」
などと名乗って、遣使を派遣し、授号を受けている。 >>661
だから、平安時代に九州倭国があったとか言い張っても
ダメって反論されてるでしょ
ウソついても無駄だから >>828
>九州倭國は、
>(釈日本紀に拠れば)惠帝の時に、「日本」という国号を名乗った事もあるし、
コレもウソ
釈日本紀はその説を否定してる >>808
>古墳時代の九州はしょぼ過ぎて
九州倭國は、所謂古墳時代には、
「西服衆夷六十六國」が既に終わっていて、
在地住民を生口や守墓人にして、巨大古墳を造る、
という必要がなかったから。 >>827
>という文章の男王とは、秦王や八幡との関係性もあるのではないのかな。
ない。 神武天皇だから。 @阿波 >>812
>大阪の遺跡 紀元前2世紀〜紀元1世紀 池上曽根遺跡 18mいずみの高殿
奈良の遺跡
紀元前5世紀〜紀元前4世紀 中西遺跡 水田10万平方メートル?
紀元前2世紀〜1世紀後半 唐古鍵遺跡 職人集落↓洪水で埋まるが再開発
↓紀元1世紀後半〜3世紀 唐古鍵遺跡 ニュータイプ
紀元2世紀半ば〜後半 瀬田遺跡 集落↓北東↓
紀元前2世紀〜1世紀 坪井遺跡 集落↓移動 1世紀〜3世紀 大福遺跡 集落
↓北東↓3世紀 纏向遺跡とりあえずざっとまとめた
「鉄器」が全くのように存在しないから、
卑弥呼の国や倭國ではない。 >>830
>>九州倭國は、
(釈日本紀に拠れば)惠帝の時に、「日本」という国号を名乗った事もあるし、
>コレもウソ 釈日本紀はその説を否定してる
釈日本紀は、そのような、
「惠帝」や「日本」号の名乗りの情報がなくては書けない事であり、
そのような情報があった事を知ったから、書けたのだ、
という事になる。 江戸後期の鶴峯戊申は著書『襲国偽僣考』において、一連の古代年号を熊襲が使用した僭年号であると主張した。
現在の九州王朝説論者の中には、これを高く評価して古代年号が自説に有利な傍証史料(九州年号)たり得ると信じる者も少なくないが
学界からは全く相手にされていない 邪馬台国畿内説は、日本の様々な学界からは全く、相手にされていないのだったな。 >>838
日本の様々な学会の中には、ゴッドハンドを出現させた学会もあるよ。 >>830
釈日本紀自体、怪しげ?
自分の信じる文献が正しいと思うのは自由だがね。 >>819
倭国の大乱の後はまったく出てこん。
京丹後、近江、鳥取ぐらい、圧倒的に九州が多い
都開設テーマパークだよ。 〜 畿内説は勘違いでした 〜
https://i.imgur.com/TKTkTp9.png
■魏志倭人伝は過去の記録に新たに得た情報を追加する形式で書かれている。
■中国で伝えられてきた倭国の位置情報
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・上陸してから伊都国までが陸行およそ500里
・奴国、不彌国までがそれぞれ約100里
これらを足し合わせ陳寿は帯方郡から女王の都までの総距離を合計12000里と見積もった
■卑弥呼時代に朝貢に来た倭人による行程説明を追記した部分(日数表記の記録)
@帯方郡
↓
A南に船で20日→投馬国(半島南部)
↓
B南に船で10日→邪馬台国(北部九州)上陸
↓
C女王の許可をもらうまで伊都国で待機
↓
D倭人か客人の到着を女王に報告しに行く
↓
E女王の使者が迎えに来る
↓
F使者とともに女王の都へ
※陸行一月はC〜女王のもとに到着するまでに一か月を要するということ
■考えられること
・海洋民族である倭人は船で移動することを全て水行と表現していた
・倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国と呼び、北部九州側を邪馬壹(臺)国と呼んでいた
・倭人は距離単位の「里」を知らず「日」を使って表現していた(隋書倭国伝に記載あり) >>836
>やっぱ畿内説が有力だな。
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
やっぱ大和説が有力だな。 >>841
墳丘墓も含め吉備、九州などにも沢山あるが?
一族の墓の移転だな。権力権威と正当性には巨大な古墳が効果がある。 唐突に行程が日数に変わる
戸数表記が有〇〇戸から可〇〇戸に変わる
唐突に官職の名称の規則性が崩れる
なぜか狗奴国について詳しく書かれている
それらが卑弥呼の朝貢によって改めて追記された箇所である >>845
大きい=権力が大きいという考え方は東日本で発展した文化である
半島南部と北部九州の古墳は副葬品が豪華であり、それらが権力の大きさを示している >>843
投馬国が半島南部?
謎だけど、邪馬壹は九州だが範囲は、九州限定ではない説、鉄と米、玉 交易国による連合。
近江、北陸、吉備も含む まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>837
>江戸後期の鶴峯戊申は著書『襲国偽僣考』において、一連の古代年号を熊襲が使用した僭年号であると主張した。
現在の九州王朝説論者の中には、これを高く評価して古代年号が自説に有利な傍証史料(九州年号)たり得ると信じる者も少なくないが
学界からは全く相手にされていない
平安期の二中歴の年代暦の記載の、
年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
継体五 元丁酉 (五一七年〜)
善記四 元壬寅 (五二二年〜)同三年発誰成始文善記以前武烈即位・・・
の九州年号の記録は、平安期での官的学者らの記録であり、
その年号の実在は否定し難い。 >>847
てっか、東日本を牽制する為に巨大化させる。
又奈良はどこの勢力圏でもなく開拓である。
豊富な木材、水路を作り、流し、古墳作成時の残土活用、銅水銀も大量にある。後の大仏や法隆寺建設に続く。 >>850
石器捏造で学会に権威もないのに?
なんで虚勢張るんだろー。 >>848
>近江、北陸、吉備も含む
鉄器の広がりから可能性はあるね
ただし別政権かもしれない
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png 自称考古学者が税金を無駄に使用し、小枝の炭素を計測した学芸会を、「学会」呼ばわりできるのならば、レベルの低い、このスレッドも、学会になってしまうな。 一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、自称考古学者が、勝手に騙されてしまったのだったね。 >>827
この男王は、倭の五王のことだよ。
「並んで中国の爵命を受く」とあるように、次々と応神朝の大王が朝貢した資料に基づいたもの。
後漢書以来の倭国大和説の典型だね。 邪馬台国畿内説の最後の根拠は、青銅器の日中交差という、影響が一方的な、しかも、伝世する可能性が高い物体の、奥山氏の鬘がずれるようにして、ずれやすい物事だけなのだったな。 >>856
>さすがに、半島陸行説はみなくなったな。
九州説者であれば、大同小異の「小異」な論点であるから放置しているが、
大和説者が半島水行説を言い出せば、それは黙過し難く、
当然、きちんと反論否定して上げるよ。 >>840
>自分の信じる文献が正しいと思うのは自由だがね。
その文献が「義理不明」って書いてんだから
文献信じるんなら結論は晋代「日本」国号の実在否定だろう >>863
でも否定否認するだけで
反論はしないんでしょ? 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>861
>この男王は、倭の五王のことだよ。
「並んで中国の爵命を受く」とあるように、次々と応神朝の大王が朝貢した資料に基づいたもの。
後漢書以来の倭国大和説の典型だね。
ちょっと違うな。梁書は、
「・・・復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊・・・」
だから、「其後復立男王」は、「晉安帝時,有倭王贊」よりも前の事であり、
倭の五王は倭王賛からであるから、
「倭の五王」の事ではない。 >>850
>の九州年号の記録は、平安期での官的学者らの記録であり、
>その年号の実在は否定し難い。
みんなは否定してるよ
「継体」なんて奈良時代に考案された諡号使ってるから >>863の訂正
>>856
>さすがに、半島陸行説はみなくなったな。
九州説者であれば、大同小異の「小異」な論点であるから放置しているが、
大和説者が半島水行説を言い出せば、それは黙過し難く、
当然、きちんと反論否定して来て置いていたよ。 >>864
>その文献(注、釈日本紀)が「義理不明」って書いてんだから
文献信じるんなら結論は晋代「日本」国号の実在否定だろう
釈日本紀の筆者が、「義理不明」と書いたという事は、
その筆者は「晋代「日本」国号」が記載された文献を見た、
という事だよ。 邪馬台国畿内説の最後の根拠は、青銅器の日中交差という、影響が一方的な、しかも、伝世する可能性が高い物体の、奥山氏の鬘がずれるようにして、ずれやすい物事だけなのだったな。 >>874
スレッドが、梅だらけになれば、誰かが、小一時間、時間を費やすのではないのかな。 >>868
>>(二中歴の年代歴)の九州年号の記録は、平安期での官的学者らの記録であり、
その年号の実在は否定し難い。
>みんなは否定してるよ 「継体」なんて奈良時代に考案された諡号使ってるから
年代歴の筆者らは、「継体」年号が書かれた文書を見なければ、
「継体年号」があった、という記載が出来ない、
という事だな。
しかし、東大理系博士号自称男がこの「邪馬台国大和説」スレに戻って来ると、
私の投稿は、軒並みに、
「ERROR: リファラが変です。HTTP_REFERER: http://lavender.5ch.net/」
とされて、5chから「投稿拒否」にされるな。 奥山氏は、あまり、頭の出来映えが良くないので、東京大学との関係性は、無いな。 >>867
「其後復立男王並受中国爵命」と、これに続く「晋安帝時有賛…」は、まったく別の文ではないようだ。
その前の「男王」について具体的に説明したのが、「晋安帝時有賛…」ということになる。
倭国の女王台与のあとに、また別の男王が次々に立って倭国が続いたという意味ではないな。 俺様が、今年最後のスレッドを作成すれば、良いな。
そして、俺様が、俺様が愛している邪馬台国畿内説のための新しいテンプレートを、貼り付けるのだ。
なぜなら、俺様は、邪馬台国畿内説を愛しているからだ。 >>869
半島陸行説は短里説を説明するのに創出した勝手説で、半島陸行説は短里説の最も重要な柱だったの。
それが最近は影を潜めているところをみると、短里説が崩壊したということだね。
まあ、大晦日を明日に控えて、めでたい話というわけ。 >>897
短里で普通だから難しく考える必要は無くなったんだよ
崇神記65年 「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
任那〜筑紫間が2000余里と記述されている。 まあ、いずれにしても、ヤマト王権のスタートは箸墓の被葬者が生存して活躍した3世紀中頃から。
倭人伝の倭国は北部九州の八女・山門にあり、その女王であった卑弥呼が3世紀中頃直前に急死し、
そのあとの女王台与はヤマトの傀儡として20年くらい王位についていたが、その後は見る影もなくなって倭国は消滅した。
その頃から、ヤマト政権では三角縁神獣鏡や鍬形石、車輪石などの威信財を作り出して、舶載貴重財とともに積極的に各地の首長に配布しはじめた。
日本の歴史としては、そういうことだったのよ。 >>889
>「其後復立男王並受中国爵命」と、これに続く「晋安帝時有賛…」は、まったく別の文ではないようだ。
その前の「男王」について具体的に説明したのが、「晋安帝時有賛…」ということになる。
倭国の女王台与のあとに、また別の男王が次々に立って倭国が続いたという意味ではないな。
漢語漢文は、原則として「文字の順次式に並べる言語」であり、
時系列的にも、その順序に書かれている、と解すべきだろうなあ。 九州説の背景を分析すればカルト思想
もっと言えば悪魔思想よ >>897
>半島陸行説は短里説を説明するのに創出した勝手説で、半島陸行説は短里説の最も重要な柱だったの。
それが最近は影を潜めているところをみると、短里説が崩壊したということだね。
まあ、大晦日を明日に控えて、めでたい話というわけ。
違うな。
漢文漢語は、原則として、文字や言語を順次式に並べて説明をする言語であり、
だから、その記述は、時系列的にも地理的にも論述的にも、
順次式の記載だ、という原則で解すべきである、という事であり、
だから、「短里」も「行程説明」も、その原則に拠って解した結果が、
「短里であった」という事だな。 >>898
書かれているのは、720年成立の日本書紀だけど。
3世紀末頃に書かれた倭人伝じゃないし。 >>864
異なる文献で一致している部分のみだな。
それ以外は何とも言えないな。
小野妹子も聖徳太子の名が中国側に記がない。
利歌彌多佛利
阿毎多利思比孤
誰だが?聖徳太子や天皇にあてるのは自由だけど
疑問である
唐書で「空海」歴代天皇など文字まで日本の文献と一致した所は、確定できるけどね。
それ以外は、確定できない。 >>908
伽耶の港から対馬に渡る海上距離を地図で計り、その伽耶の港の場所によって1里は60m〜90m程度になると妄想したのが古田。
その説を補完するために、水行七千里を陸行七千里と言い張ったのが古田古代史熱狂頭沸き沸き種族の面々だったわけ。
しかし、まあ、枯れ木も山の賑わいだから、来年もそのままがんばりたまえ。 ヤマト王権が突然現れるわけもないし2世紀後半から3世紀前半にはヤマト王権と呼べるものが存在してただろ >>902
>まあ、いずれにしても、ヤマト王権のスタートは箸墓の被葬者が生存して活躍した3世紀中頃から。
箸墓は、全く4世紀だから、3世紀にしたこの男はバツだな。
>倭人伝の倭国は北部九州の八女・山門にあり、その女王であった卑弥呼が3世紀中頃直前に急死し、
そのあとの女王台与はヤマトの傀儡として20年くらい王位についていたが、
その後は見る影もなくなって倭国は消滅した。
倭国は、唐会要倭國伝に平安期の「開成4年の遣使」まで記録されているんだから、
「その後は見る影もなくなって倭国は消滅した」事にはならず、バツだな。
>その頃から、ヤマト政権では三角縁神獣鏡や鍬形石、車輪石などの威信財を作り出して、舶載貴重財とともに積極的に各地の首長に配布しはじめた。
日本の歴史としては、そういうことだったのよ。
△は、渡来の呉系楽浪鏡師らの「糸島の志登」が3世紀前半末頃で列島最古であり、
大和は、九州倭國の「東征毛人五十五國」に拠って征服され、
九州倭國の地方の市を監督する大倭職の、別種分家の附庸國の旧小国であったのだよ。
日本の歴史としては、そういうことだったのよ。 >>907
どちらかと言うと反日思想だろうな
日本の歴史観を難癖つけて破壊しようとしてる >>907
>九州説の背景を分析すればカルト思想 もっと言えば悪魔思想よ
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
文献考古の史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らの、
背景を分析すれば、
人種差別的殺戮戦争皇国史観宗教のカルト思想
もっと言えば悪魔思想よ >>909
測量方法が周碑算なら倭人伝も同じ。
それ以外の測量法があれば教えて? >>918
では、つまり、奥山氏は解雇されるのだね。 >>917
続き。
700年代の科挙試験に
周碑算があったとか? >>909
>>崇神記65年 「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
任那〜筑紫間が2000余里と記述されている。
>書かれているのは、720年成立の日本書紀だけど。
3世紀末頃に書かれた倭人伝じゃないし。
要は、8世紀の書紀の筆者らは、
大和内の崇神伝承が短里を使っていた、という事を知っていた、
という事だよ。 >>1
仲哀天皇について研究すれば、日本の歴史の秘密は、全て解き明かすことが、できるよ。 >>903
男王たちが倭の五王ではないとした場合、卑弥呼、台与、賛ほか中国の王朝に朝見した倭王の名が史書に克明に書かれているのに、
台与のあとの男王たちの名だけが梁書に記されていないのは、不自然。
男王たちの名が賛らであるとすれば、何の不自然もない。 金銭的粗大ゴミとなってしまった捨て場の無い畿内説が
この先生きのこる
ために解雇されることとなった無職の奥山あわれ >>914
歴史って色々と難しいから
何か適当な学説っぽい事言っとけば滅茶苦茶になるんじゃねというのは理性や学問や人間愚弄の悪魔思想そのもの >>911
>伽耶の港から対馬に渡る海上距離を地図で計り、その伽耶の港の場所によって1里は60m〜90m程度になると妄想したのが古田。
また違うな。
魏の役人らの長距離計測の原則は、
見えていなければ、一寸千里と大体の方向からの三角測量や、歩測や船行日数測であり、
見えていたり陸行であれば、三角測量や歩測や記里車や目測であり、
また、出発地の外縁部の出発地点や門から、到着地の到着地点や外縁部の入口までの距離計測。
>その説を補完するために、水行七千里を陸行七千里と言い張ったのが古田古代史熱狂頭沸き沸き種族の面々だったわけ。
嘘を付くな。
古田説は、「水行七千里を陸行七千里と言い張っ」ていない。
郡から循海岸水行の間は、海岸沿いの水行で、
「歴韓國乍南乍東」部分は、韓國内の陸行、説。
しかし、まあ、この嘘吐き騙しの大和説男も、枯れ木も山の賑わいだから、
来年もそのままがんばりたまえ。 >>928
中国文献でも
血縁関係は微妙に違うね。57年の金印の倭王、
107年の奴隷を送った王、同じ国なのか定かではないね
卑弥呼ら女王2人は一時的なもん。 >>923
仮に倭人が短里を使っていたとしても、中国人の魏里430mとは関係ないこと。 九州説はまだいいけど、九州王朝説は日本の歴史を破壊するのが目的だとしか思えない 完全に論破された邪馬台国畿内説が、まな板の上のカエルのようにして、ピクピク、ぶるぶる震えているな。 九州王国説はまだいいけど、邪馬台国畿内説は日本の歴史を破壊するのが目的だとしか思えない >>931
陸行七千里を言ってるのは、古田の熱狂的信者頭沸いてる種族だと書いてけんね。
ちゃんと読んでちょ。
あんたらのことだよ。 >>934
なんで関係ないの?
倭人はどこから測量を学んだだろう >>912
>ヤマト王権が突然現れるわけもないし2世紀後半から3世紀前半にはヤマト王権と呼べるものが存在してただろ
そりゃ無理だ。
奈良盆地には、元々は、毛人や蜘蛛人?らや出雲系(銅鐸祭祀)部族がいて、
そこへ九州倭國の東征の神武らが侵入して来て作った「地方の市を監督する大倭職の国」との、
共存的な状態であったのであり、所謂「大和王権」などなかった。
そして、3世紀末頃になって、九州倭國の東征毛人五十五國の軍が到着して、
毛人らや出雲系(銅鐸祭祀)部族を征服して、九州倭國の「旧小国の附庸國」を造って、
「邪馬族の門」や「山鏃の都」などという意味で、
「ヤマト」の音韻呼称で呼んだ、という事だな。 >>940
だな、奈良説は記紀を否定する事になる。 .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>914
どちらかと言うと大和説学者や大和説者らは、
反国民思想であり、反学問思想だろうな
国民や人類の正確な歴史を、難癖つけて破壊しようとしてる >>946
天皇の住む所や都に
記紀にはない人物も加わるのか? >>930
歴史って色々と難しいから
何か適当な学説っぽい事言っとけば、滅茶苦茶になるんじゃね
という大和説学者らは、
「理性や学問や人間」愚弄の悪魔思想そのもの >>933
>中国文献でも
血縁関係は微妙に違うね。57年の金印の倭王、
107年の奴隷を送った王、同じ国なのか定かではないね
卑弥呼ら女王2人は一時的なもん。
当然、一つの統一王朝ではなく、
「百余りの國」や「30國」など、沢山の国があったんだから、 >>934
>仮に倭人が短里を使っていたとしても、中国人の魏里430mとは関係ないこと。
これも、バツ。
魏の民間人の使用里が短里であったのか?や、長里であったのか?は決まっていないが、
魏朝の皇帝や魏や郡の役らは、短里を使っていた、という事は否定できない。 >>948
九州説を取るが、火の打ちどころない証拠と
事実で奈良説が立証されたら、
記紀や神社の言い伝え、歴史を根底から否定する覚悟を持つべきと思うけど
今まで出雲、伊勢 明治神宮等の参拝はなんだったとか憲法1条はどうなる? >>938
九州説はまだいいけど、
畿内説や大和説は、国民や日本の歴史を破壊するのが目的だ、
としか思えない >>943の訂正
そりゃ無理だ。
奈良盆地には、元々は、毛人や蜘蛛人?らや出雲系(銅鐸祭祀)部族がいて、
そこへ九州倭國の東征の神武らが侵入して来て作った「地方の市を監督する大倭職の国」との、
共存的な状態であったのであり、所謂「大和王権」などなかった。
そして、3世紀末頃になって、九州倭國の東征毛人五十五國の軍が到着して、
毛人らや出雲系(銅鐸祭祀)部族を征服して、九州倭國の「旧小国の附庸國」を造って、
「邪馬族の門」や「山族の都」などという意味で、
「ヤマト」の音韻呼称で呼んだ、という事だな。 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125 >>958
オウム返さればかり
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
文献考古の史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しばかりで、
オウム返しされてばかりの、
真理教大和説学者ら説 >>956
どっちにしても、漢字が一般化してからできたのがヤマトということね。 >>951
使っていたという事例を示さんことにはなあ。
言うだけ兄ちゃんじゃ、信憑性ないし。 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1609341691/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 畿内の発掘が進めば進むほど九州説に逆転の目はなくなっていく 鏡もなあ。
魏の皇帝が、金印与えた卑弥呼にひび割れ鏡を贈るわけないし。 >>961
>知的障害、痴呆はオウム返しが増える
極右のタカ派の人種差別殺戮戦争宗教狂の知的障害の痴呆は、
「オウム返され」が増える
諸行無常、万物流転、栄枯盛衰、盛者必滅、
奢る大和説学者ら、久しからず
地球は、全人類全生物のもの。 >>965
>畿内の発掘が進めば進むほど九州説に逆転の目はなくなっていく
自然や歴史は、99.9%以上の不可知部分があり、
我々は、その自然や歴史の内からの、
「知り得た極めて僅かな事実や実態からの帰納的確率的な推論」を、
しなければならないもの。
それを、この大和説者のように「存在もしなかった畿内」なんて文言を使うのは、
「結論先にありき」の詐術的な狂気の犯罪者である。 >>966
>鏡もなあ。
魏の皇帝が、金印与えた卑弥呼にひび割れ鏡を贈るわけないし。
成程。 >>949
だな。倭の五王は天皇では無い。
熊本、埼玉からの鉄剣は、倭の五王を滅ぼして
戦利品としては掠奪したのである。
なぜなら爵位を記した竹簡などが出土されない。 続き
まして天皇は神の子。
神の子が他国に官爵を求めるなどない。
キリストがコーラン読み上げ、決まった方角、時間にメッカに向かって礼拝をするようなもん。
或いはマホメットが教会へ行って、聖霊受け
十字架の前で十字をきるようなもん。
奈良説は、こういう点を忘れている。
町おこしも結構だが、慎重にお願いしたい。 >>971
だから、「阿波」一択 だと何度言えばw @阿波 >>972
天皇や皇室、神社等と一切、関係ないなら認めるよ。 >>973
関係があるとなんで認められないんだい?
まあ、「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」で、確定はしているがね。 @阿波 >>971
日本書紀には倭王の珍が使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王の称号を中国に求めたと書いてあるよ
九州説は本当に日本の歴史を知らないね >>975
珍だろー。天皇名を記していない。
なんでも天皇に充てようとする。
こういうのが歴史修正し、和の国を国難や戦乱に巻き込む。天皇の反勢力の王だろ。 >>974
関係ないとは、天皇とは別者だったらいいて事。 >>967
>極右のタカ派の人種差別殺戮戦争宗教狂の知的障害の痴呆は、
>「オウム返され」が増える
理由もなく他人を
「極右のタカ派の人種差別殺戮戦争宗教狂の知的障害の痴呆」
とか罵るなんて。正常な人ではないですね
ましてや「オウム返され」なんて言葉ないし >>977
>関係ないとは、天皇とは別者だったらいいて事。
関係、大有りだよ。 天皇も、「忌部一族」なんだから。 天皇は、なにも特別な存在じゃない。 @阿波 >>979
逆だな。皇室を離れたのが「忌部一族」
特別な存在だから記紀があり神社がある。
説は自由。肯定も否定もしない。
否定するのは奈良説のみ。 >>976
何でも大和朝廷や天皇以外に当てはめようとする歴史修正主義者九州説 奈良説は、九州説が怖いのだろう。
奈良を否定するのが九州説と決めつける。
倭の五王を天皇に充てる思考しかないのか? >>981
だったら、何故 はっきりと天皇名を記さない根拠や証拠をあげないのだ。 >>975
>日本書紀には倭王の珍が使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王の称号を中国に求めたと書いてあるよ
九州説は本当に日本の歴史を知らないね
日本書紀には、
「倭王の珍が使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王の称号を中国に求めた」
なんてと書いてないよ
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者らは、
本当に日本の歴史を知らないね 九州説を信じることは、万世一系を信じるのと同じくらい馬鹿な事だよ >>983
中国は昔から国外の王には別字を当てるよ
聖徳太子もタリシヒコになる >>981
>何でも大和朝廷や天皇以外に当てはめようとする歴史修正主義者九州説
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などのように、
何でも大和朝廷や天皇に当てはめようとする歴史修正主義者が、
大和説学者ら。 九州説の目論見が読めてきたよ
8世紀ぐらいまでの畿内の大和朝廷を全否定して
九州王朝の朝鮮出身である天智天皇系がのちに天皇の唯一の系統になった
日本の天皇は朝鮮系ニダとやりたいんだろ >>984
>だからといって九州王朝説を信じるのはバカバカしい
だからといって、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國中心は北部九州の否定」などの、
文献考古の史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しや、
史料実態そのものである九州王朝説の否定をする大和説学者らを信じるのは、
バカバカしい >>988
古代史は畿内の大和が中心になってるし
記紀も天皇とその関連の記録が中心だからそうなるのも当然だろ >>986
>九州説を信じることは、万世一系を信じるのと同じくらい馬鹿な事だよ
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
文献考古の史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者らを信じる事は、
「天地開闢以来大和天皇家が支配したもうた」という万世一系を信じるのと同じ位、
馬鹿な事だよ。 >>987
多利思比孤は、あくまで推測である。小野妹子の文字も見えない。使者の一部?
唐書でなんで歴代天皇や「空海」とか日本側文献と文字まで一致するのか? >>994
阿毎 多利思比孤は、天皇じゃないかな?
天皇ではないかもしれないけど。 「天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)」
阿波國風土記ニモ
或ハ 大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、
或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、
或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。
これは、崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇 の称号です。
通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?
役人が天皇に献上する書です。上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。「お前、何書いとんねん!」では済まないのです。
※各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみである。 @阿波 >>987
>中国は昔から国外の王には別字を当てるよ 聖徳太子もタリシヒコになる
違うな。
中国は昔から、原則として、
中国外の王であっても、
漢字表記があればその漢字で記載記録するし、
漢字表記を持っていなければ、
中国皇帝名よりも控えめの意味になる類似音韻の漢字を選択して、
表記していた。 >>996
要するに天皇に献上しただけの話?
奈良以外なら、どうぞですがね >>997
だよな。唐書で「空海」とか文字まで一致。 >>989
>九州説の目論見が読めてきたよ
8世紀ぐらいまでの畿内の大和朝廷を全否定して
九州王朝の朝鮮出身である天智天皇系がのちに天皇の唯一の系統になった
日本の天皇は朝鮮系ニダとやりたいんだろ
大和説学者らの目論見が読めてきたよ
記紀の「九州倭國の存在や歴史の隠蔽盗用造作」手法を真似て、
8世紀ぐらいまでの九州倭國の歴史を全否定して
九州倭国の傍系の天智系が唯一の天皇系統であって、
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