神代・日本神話は古代福岡の話3
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神代、日本神話について語りましょう。
隠された、消された部分を少しでも掘り返せれば・・・
※誘導やテンプレート張り付けも禁止とします 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。
https://i.imgur.com/sqWR6yh.jpg
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww 重複スレのため運営に通報しました。
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(古事記)神代・日本神話は古代福岡の話(日本書記)3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1612543233/ 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!
徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、
なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、
稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
何 の 理 由 も な く 伊 都 国 だ っ た 地 域 が 松 浦 郡 (末 廬 国) に 取 り 込 ま れ た り、
志 摩 半 島 だ け 独 立 し た 郡 に 切 り 分 け ら れ た り す る は ず も な く、
稜 線 で 生 活 空 間 の 隔 た り の あ る 早 良 郡、
沖 と い う 生 活 空 間 の 隔 た り の あ る 志 賀 島 が 伊 都 国 だ っ た な ど 世 迷 い 言 で し か な い。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度で確定している。
https://i.imgur.com/k5O9gHp.jpg
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(古事記)神代・日本神話は古代福岡の話(日本書記)3
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〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)
https://i.imgur.com/AyDRUbp.jpg
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(古事記)神代・日本神話は古代福岡の話(日本書記)3
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イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。
https://i.imgur.com/5HQ0c5o.jpg
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(古事記)神代・日本神話は古代福岡の話(日本書記)3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1612543233/ >>295
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない >>296
> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw >>297
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/ytHyOsA.jpg
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない >>298
http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
> 同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
> 「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
> 新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
> 各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw >>299
何一つソースが無いw
妄想を並べることしかできなくなったキナイコシw >>300
41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw >>305
いや、それだと魏志倭人伝の記述と合わない
伊都国から奴国まで東南に短里で百里(約7.5km)しかないのだから、奴国の都である春日丘陵からの距離を考えると
西新町遺跡あたりまでは伊都国でなければならない
春日丘陵の須玖岡本遺跡から西新町遺跡まで直線距離でさえ10kmあるからね
間に山があるから実際にはもっと遠い
須玖岡本遺跡から北西方向に7.5kmだと天神までしか届かない
当然早良も伊都国ということになる 結局、今日も>>13の圧倒的事実には何一つ反論ができず、ただ逃げ惑うだけのみじめな負け犬キナイコシくんでしたw ネシア人(薩摩)と”ツン”グース人(長州)の末路だな。 >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明、戦前は鞆の浦が有力だった?)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では方角や距離を正しく測れなかった可能性が高いが、
水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、この時点で不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が真っ先に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめろ >>321
倭人伝スレのテンプレでとっくに論破されてるぞ
テンプレで論破されてることを何回繰り返す気だこの馬鹿w
2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし 倭国(博多湾沿岸)が拡大してヤマト王権(奈良盆地)になったんでしょ 奴国が二つ存在したような倭人伝の記述は、そういう意味じゃないのかね それか、奴国は博多湾沿岸 もうひとつの奴国は伊勢
そして卑弥呼はインド人(笑) つまり筑紫から大和に勢力拡大したんだね
つ 神武東征 神話は博多湾沿岸”倭国”のお話 ←大陸の文化を受け入れた日本の創世記のお話
ずっと後の神武さんは神話とは別のお話だね ←博多湾沿岸の国を滅ぼして無かったことにしたお話 アズさんの一族を乗っ取ったザビさんみたいに、「ジオン」と名付けて自分たちの物にしたような感じかな。
”倭”をヤマトと呼ぶのと同じ原理。 早良にあったのは倭人を代表する奴国の王家。
後に伊都国に宮だけ移動した。
神武は祖父と同じ彦火火出見の称号を持ち、その宮は伊都国の高祖宮、またの名を筑紫の日向の高千穂宮。
高千穂宮があったクジフル峰は、伊都国と奴国を結ぶ日向峠に近い高祖山の南端の名前。
高祖山の北の筑紫の日向の小戸(現在の小戸公園や小戸大神宮)、高祖山の東の日向川(室見川の支流)などの地名も残る。
小戸は伊奘諾が黄泉の国から帰ってきてから禊をしたところでもある。
博多湾沿岸は少しずつ呼称を変えながら日中の史書に繰り返し登場する。
そして考古学的には稲作文化の到来の地であり、銅鏡文化、三種の神器の文化の中心地となっている。
博多湾沿岸こそ、神代の倭国の王都に他ならない。 >>330
いや、それだと魏志倭人伝の記述と合わない
伊都国から奴国まで東南に短里で百里(約7.5km)しかないのだから、奴国の都である春日丘陵からの距離を考えると
西新町遺跡あたりまでは伊都国でなければならない
春日丘陵の須玖岡本遺跡から西新町遺跡まで直線距離でさえ10kmあるからね
間に山があるから実際にはもっと遠い
須玖岡本遺跡から北西方向に7.5kmだと天神までしか届かない
当然早良も伊都国ということになる 真綿や木綿は仲良くしてね
あと、”カイメン”を大事にしてね
ワクワクな国に幸あれ 命の意味がわかった
行きとし生きるものの思慮のことである なぜ日本神話がギリシャ神話に似ているかと言うと
そっちから来た連中の神話だからだ どこが似てるよ?
似てる部分まったく見当たらないぞ
三種の神器出土地
年代順 遺跡名 所在
1. 吉武高木 福岡市西区
2. 三雲南小路 福岡県糸島市
3. 井原 福岡県糸島市
4. 須玖岡本 福岡県春日市
5. 平原 福岡県糸島市
弥生時代の三種の神器の出土地は
総て福岡市近郊であり、奈良は勿論
佐賀の吉野ヶ里や朝倉市の平塚川添遺跡
からも出土していない
要するに天皇家は福岡市西区が発祥地と言う事だ 今の皇室は李氏朝鮮から来た連中だ
天皇制なんて戦国時代に実質終わっていた
いつまでも天皇のおとぎ話に騙されてんなよ低能死んでしまえ
武家政権は滅んですでに150年以上経ったが
天皇家は日本国の象徴として依然健在
>>338は日本の歴史を全く判っていない
明治以降に朝鮮半島から日本に来た在日の子孫WW 三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀の記述によれば入れ墨族は
大王族やらにひたすら殺戮されていく蛮族 神武御一行は刺青あったけどな。
大和にいたイスケヨリヒメがそれを見てビックリしてた。 ◆シン日本神代古代史◆
高天原=邪馬台国=九州北部
天照大神=卑弥呼+台与
天孫(族)ニニギ命=邪馬台国系の代官一族
神武天皇以降は、邪馬台国連合から独立した。
十代崇神天皇が邪馬台国を制圧したので、天照大神=卑弥呼+台与が祟った。
「高天原=邪馬台国=九州北部」説の初論者(おそらく)は、益田謙三『赤裸々の神代』(大正8年)
天照大神の生誕地=筑紫の日向(九州の南or北)
天孫(族)降臨地=対馬国・壱岐国・伊都国
天孫ニニギ命の名前=アメ「ニキ」シクニ「ニキ」シアマツ「ヒコヒコ」ホノニ「ニギ」ノ命
邪馬台国から伊都国へ派遣されたの代官名は「爾支ニキ」
対馬国と壱岐国の代官名は「卑狗ヒコ」
日向三代は邪馬台国の代官の系統なので、独立した存在とは言えないから、天皇とは認定されなかった。
畿内に独立国を成立させた天孫族系が、その後に高天原=邪馬台国と勢力争いになって、十代崇神天皇の御代に、かつて祖先が属していたた高天原=邪馬台国を制圧してしまった。
欠史八代は天孫族と高天原=邪馬台国との争いの歴史なので、古事記・日本書記の記述はカットされた。
・・・なので、天照大神=卑弥呼・台与に祟られる事となった。
崇神天皇は祟りを鎮める為に、
ニニギが台与から授かった、ヤタの鏡を地元神と一緒に宮中で祀ったが、祟りが収まらないので場所を替えて祀った。
そして後に、ヤタの鏡は倭姫に託された。
それが、伊勢の神宮の由来である。 日本神話の主な舞台は出雲と日向である
大和朝廷にとって二大脅威であった吉備と筑紫の神話を隣接する自分たちに忠実な弱小国に移し替えて成立したのが日本神話ではなかろうか?
つまり本来筑紫神話→日向神話
本来吉備神話→出雲神話
だから日向神話の場合完全に移し替え切れないで福岡説が出てくるのでは? 弥生時代は筑紫が圧倒的に強大な地域だったよ。
稲作の普及、金属器の普及、人口の増大、海外交易の活発化。 5/19
【朝日】かつて大地震で沈んだ淡路島南部の白石村の伝説 戦国時代の天正大地震か?古地図や神社に痕跡 [みの★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1652925614/
80 ニューノーマルの名無しさん 2022/05/20(金) 07:31:25.57 ID:FOislIkp0
国生み神話で、
イザナギ、イザナミが
天沼矛でかき混ぜた矛の先の滴で出来た最初の島が淤能碁呂島(おのごろじま)で、続けて大八島つまり日本列島が作られた
インド東南アジアに広まってる乳海撹拌神話
この淤能碁呂島の候補の一つが沼島で、
二人が矛をまわした場所が天浮橋(あめのうきはし)
伝承される白石村が沼島とをつなぐ半島だと言うなら、
まさにそれが天浮橋だということになってくる 福岡に横穴式の古墳けっこうあるじゃない?
昔、筑豊あたりにあれを見に行ったらヤンキーがアンパン吸ってた ネトウヨの願い虚しく日琉語族は中国の遼寧省が故地なんだよな。
遼河文明の一支流てあった偏堡文化人の言葉が日本語と琉球語の祖語だった。
福岡県や佐賀県の玄界灘沿岸は韓半島から渡ってき弥生人が最初に上陸する地域。
糸島が日向国でもおかしくはない。
なにせ天孫が天下ったクシフルタケは韓国に向かう山でソホリ(ソウル)の山だというのだからな。
ネトウヨは反移民などの工作をしているが、ジャンプそのものが韓半島からの渡来人だったわけだ。
移民をドンドン入れればいい。
今の中国や韓国などの特別永住者に対するヘイトは多様性のない日本社会の構造からきている。
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