邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)2
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。
伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。
里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。
魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。
『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。
三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。 三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名」は24か所。
うち22例にて、"A+治+地名B"は、
「A自らの中心拠点を(Aの管轄域の主要地である)Bに設置した」の意味で使われている。
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖曹操を兗州東郡の太守に任命し、曹操は東武陽県に郡治を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡太守に転任させ、臧洪は東武陽県に郡治を置いた
☆郡所治廣武 郡庁所在地の廣武県
☆治廣ィ如舊 (烏丸校尉の閻柔は)元からの如く廣ィ(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 (益州牧)劉焉は綿竹県に州治を移した
☆焉徙治成都 (綿竹の大火災)劉焉は成都に州治を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 先主(劉備)は公安県に州治を置いた
☆治成都 (劉備は)成都を首都とした
☆先主爲漢中王遷治成都 劉備は漢中王になると、成都を首都とした
☆移治味縣 (庲降都督)馬忠は主要拠点を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の州治は昔から壽春県にある
☆繇乃渡江治曲阿 (揚州刺史)劉繇は長江を渡って曲阿県に州治を移した
☆權徙治秣陵 孫権は首府を秣陵県に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌都尉(6県担当)に任命し、太史慈は海昬県に主要拠点を置いた
☆領荊州牧治公安 (劉備は)荊州牧を拝領し、公安に州治を置いた
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 (呉郡都尉)程普は銭唐に軍事拠点をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏郡の太守になって、程普は沙羨県に郡治を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊郡の太守にして、呂範は建業県に郡治を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵〜公安の軍事担当となり、樂鄉に主要拠点を置いた
☆假節開府治半州 (鎭軍大將軍の孫慮に)軍政府を開設させて、孫慮は幕府を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 (烏程候から皇帝になった孫晧は)呉興郡を新設して、烏程県に郡治を置いた
★使司隸校尉留治関中 司隸校尉を関中に留めて治めさせる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた 三国志に出てくる「統属」は6か所。
「A統属B」は全て、〇新たな所属変化に伴って、
◎AがBの”直接管轄域の一部”もしくは”直接の部下”になる、の意味。
☆州幷属冀州更拜議郎西部都督従事 統屬冀州 <吸収合併>
梁習は幷州の刺史だったが、
幷州が冀州に「併合」されて幷州刺史の職も無くなったため、
議郎・西部都督従事の肩書を新たに拝命して、冀州に統属された。
(後年、文帝が幷州を復活すると、梁習は再び幷州の刺史となった)
☆仍就故任 統屬長沙守韓玄 <直接の部下><領土の一部>
黄忠は、荊州牧・劉表の配下で荊州長沙郡の攸県を守備していた。
曹操が荊州の新支配者となったが、黄忠にそのまま攸県守備を続けさせ、
長沙郡太守・韓玄の下に統属させた。
☆移屯江州留護軍陳到駐永安 皆統屬嚴 <直接の部下><領土の一部>
孔明が漢中へ出陣し、その留守中に
蜀を守る前将軍(職名)の李厳は、駐屯地を永安から江州に移した。
永安白帝城は護軍の陳到に担当させ、李厳配下に統属した。
李厳は護軍から出世を重ねて前将軍になっており、護軍陳到は前将軍李厳の直接配下に入った。
江州も永安も同じ益州巴郡内で、管轄地としても陳到は李厳の一部である。
☆王沖者廣漢人也爲牙門将 統屬江州督李嚴 <直接の部下>
王沖は牙門将となって、李嚴の配下になった。
☆士仁字君義廣陽人也爲將軍住公安 統屬関羽 <直接の部下><領土の一部>
士仁は将軍となって公安に駐屯し、関羽(荊州軍事総督〜前将軍)の配下となった。
管轄地としても関羽直接管轄域の一部。 以上テンプレです。
コピペを繰り返すだけの方は、伊都説に対する敗北宣言とみなします。
下品なヘイトスピーチまがいも、同様です。
文献あるいは考古学的根拠をもとに、正々堂々と議論してください。
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/l50 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>7
┏━━┓ ┏━┓┏┓┏━━━┓
┗┓┏┛ ┗━┛┃┃┗━━┓┃
┏━┛┗━┓┏━━┓ ┃┃ ┃┃
┗━┓┏━┛┣━ ┃ ┃┃ ┃┃
┏┛┃ ┣━ ┃┏━━┛┃┏━━┛┃
┗━┛ ┗━━┛┗━━━┛┗━━━┛
┏┓ ┏┓ ┏┓ ┏┓
┃┃ ┏┓┏━━┛┗━━┓┏━━┓┃┃ ┃┃
┏┛┗━━━━━━┓┃┃┗━━┓┏━━┛┃┏┓┃┃┗━━━━┓ ┃┃
┃ ┏━━━━┓┏┛┗┛ ┏━┛┗━┓ ┃┃┃┃┃┏━━┓┏┛┏━━┛┗━━┓
┃┃┃ ┃┃┏━━┓┃┏┓┏┓┃ ┃┗┛┃┃┗┓ ┃┃ ┃┏━┓┏━┓┃
┏┛┃┃┏━━┓┃┃┗━┓┣┛┗┛┗┛┗┓┃┏┓┃┗┫┃┏┛┃ ┃┃ ┃┃ ┃┃ ┏┓ ┏━━┓
┗━┫┃┃┏┓┃┃┃ ┏┛┣┓┏┓┏┓┏┛┃┗┛┃ ┃┗┛┏┛ ┃┃ ┃┃ ┃┃ ┃┗━┓┏┛┏┓┗┓
┃┃┃┃┃┃┃┃ ┃┏┛┃┗┛┗┛┃ ┃┏┓┃ ┗┓┏┛ ┃┗━┛┗━┛┃ ┃┏━┛┃┏┛┗┓┃
┃┃┃┗┛┃┃┃ ┃┃ ┗━┓┏━┛ ┃┃┃┃ ┏┛┗┓ ┗━━┓┏━━┛ ┃┃ ┗┛┏━┛┃
┃┃┗━━┛┃┃ ┃┃┏━━┛┗━━┓┃┗┛┃ ┃┏┓┗┓ ┃┃ ┏━┛┗━┓ ┃┏━┛
┃┃ ┃┃┏┛┗╋━━┓┏━━┛┣┳┳┫┏┛┃┗┓┃ ┃┃ ┃┏┓┏━┛ ┗┛
┃┃ ┏┛┃┗━┓┗━━┻┻━━┓┃┃┃┃┃┏┛ ┃┗┓ ┃┃ ┃┗┛┃ ┏┓
┗┛ ┗━┛ ┗━━━━━━━┛┗┛┗┛┗┛ ┗━┛ ┗┛ ┗━━┛ ┗┛ >>8
荒らしているのがキナイコシだとバレた瞬間w 曹操の墓に銅鏡が副葬されていなかったのだから、魏は銅鏡など重視しておらず、文献(曹操集譯注)からも出土物(金銀錯嵌鉄鏡)からも、魏は鉄鏡こそを威信材として認識していたことが明らかである。よって、卑弥呼に贈られた銅鏡百枚は、百枚という数の多さから考えても、威信材ではなく、当時貴重な青銅原材料として贈られたものである可能性が高いことになる。 そうだね。
その原材料を溶かして作られたことが鉛同位体の研究によって明らかに。
平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1535797407/l50 玄界灘の制海権を掌握していた伊都が倭国女王卑弥呼の王都だった。
邪馬台国とは、伊都を含む九州北部の連合王国である。
倭国大乱に明け暮れていたこれらの国々が、和平のために女王を共立した。 神功皇后記に誘われて、末盧国から北東の糸島方面へむかうのが果たして正しかったのかどうか・・?
つまり、中国三大史書の、魏志、魏略、廣志、は、「倭国に上陸したら東南へ進め」といっている。
その通り進めば、邪馬台国へのメインルートは佐賀平野の吉野ヶ里を通る。そしてその後の方角里数からして、邪馬台国は熊本〜阿蘇方面にあったことになる。 >>15
その東南は弥生時代にどうやって東南とわかったのかな。 >>16
中国では、天子は北辰(北極)に有りとされており、北極星がおおむね北を差すことは良く知られていた。
帯方郡の使いは、何度も往復している、
南であれ、東であれ、東南であれ、方角を間違えるような者は、そのような大事な役目を仰せつかることはなかったであろう。、 .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>17
>中国では、天子は北辰(北極)に有りとされており、北極星がおおむね北を差すことは良く知られていた。
ほう。
>天子は北辰(北極)に有りとされており
魏代以前の出典はあるかな?
>北極星がおおむね北を差すことは良く知られていた。
魏代以前の出典はあるかな? >>19
そうだ。
人々が海に潜って漁をする風景。
真夏の太陽を見て、これから進む方角を決めたのだ。 太陽が昇る方を単純に東と覚えていて、夏の朝に方角を取ると誤認するかもね。
夕方の到着時はわざわざ方角なんて見ないから。 方位磁針はまだ無い。
A)夜に星を見て真北を認識した可能性
B)出発時に夏の太陽を見て東を認識した可能性
このどちらもありうる。
よって、どちらで持論を展開することもできる。
基本的には、
伊都國は糸島の三雲遺跡を中心とする領域。
奴國は那珂遺跡を中心とする領域。
とするのが一般的。 >>20
「史記」
前漢武帝(前156-87)の時代の書(史記)に、北斗七星は「北辰」を中心に一晩で一回転し、一年で斗柄は十二方位を指し、
止まることのない永久時計として陰陽(太陽と月のこと)、そして夏・冬を分け、農耕の作業時期を示し、
国家安寧を保証するとある。
なお、すでに紀元前1100年頃には、北極を指し示す星についての知識・信仰があった。 >>25
なるほど。
では、君は夜の北極星を見上げて、吉野ヶ里遺跡へ進みなさい。
私は早朝の太陽を見て、平原遺跡へ進むとしよう。 >>1 お前アホだろ
魏志倭人伝の原文はこうなってる
>南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
南に船で10日行って陸を一月歩いたところが女王のいる都や
とりあえず九州北部に邪馬台国はない >>28
古代の墨書による、日から月への転写間違い
・文脈上、二十日→十日→一日、と単位は統一されているべき
・海運国家の島国倭国に対して、大陸国家の中国人は陸行なら一月だろうと勝手に誤認
・この程度の転写間違いは三国志原文の各所に一定確率で認められる
などが理由として挙げられる。 里程と日程は並列。
北部九州邪馬台国内の里程説明は不彌國まででいったん終了。
『南至投馬國 水行二十日』
『南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月(←日)』
帯方郡から、南に進むと投馬國に至る。
(「東南でなく南」=『韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里』)
投馬國までは、水行で二十日かかる。
投馬國から、南に進むと邪馬壹國に至る。
邪馬壹國の中の、女王が都としている場所までは、投馬國から、水行で十日と陸行で一日かかる。 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる)から一万二千里である。
その西北界(倭国の西北の国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. 一戸5人として、吉野ヶ里遺跡とその周囲で5000人だから千戸。
佐賀平野や筑後平野には集落が目白押しだから、それぞれ1万戸とか数万戸とかありそう。
福岡平野側はもっと住居が密集してるし、奴国から筑紫野市へ抜ける辺りはヤバいくらい人口密度高いだろ。
伊都唐津で五千戸、その西の長崎もあわせたら1万戸はいきそう。
その上、まだ東には豊前豊後があるんだから、
余裕で7万戸以上ありそうに思える。 >>28
いつまでその周回遅れの誤読を続ける気だよw
2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし >>23
針の中央を固定した羅針盤はまだないが、永久磁石を使用した指南魚という方位磁石は当時もう存在する
114 :日本@名無史さん :2021/03/05(金) 00:31:04.70
>>75
魏の使者は磁石(指南魚)を使って方位を測ったはずだから、磁北基準での東南だよ
当時の磁北は地軸から約15°ほど西にずれていた
このため磁石で方位を測ると真北(地軸方向)は東北東15°となり、方位は東寄りにずれが生じる
魏の使者は磁石で方位を測ったため、方位の表記は全体的に東寄りにずれている
これを補正すれば上陸地の呼子から東南で方位は合致する
古代の方位測定法
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2013/06/20130601-1.html
>いまの私たちなら、方位磁針(コンパス)を使うのが簡便です。ただし、よく知られているように、磁針が指す磁北は、地球の自転軸の延長方向である真北とは一致しません。
>奈良や京都では、真北から7度ほど西にずれています。この差は地域や時代によって異なりますが、6〜8世紀ではさらに大きく、西日本では平均して10〜15度も西へずれていました。
>したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。
>
>ではどうやって方位を測ったのかというと、まず間違いないのは太陽を利用する方法です。地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。
>午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。
>この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。
この周礼の方法は高精度だが午前と午後の2回、同地点での測定を行わなければならないので、魏の使者のように旅をして移動している人間には使用できない
都市計画などには良いが、移動する人間は磁石を使うしかなかった
当時まだ羅針盤は無いが、指南魚という永久磁石を用いて方位を知る道具が既に存在している
ちなみにこの15°補正により別の方位問題も解決する
会稽東治(江蘇省蘇州市)からの方位に15°の補正を加えると筑後山門はほぼ真東となる
https://i.imgur.com/IOyJ05p.jpg >>40
指南魚の最古のものは11世紀とある。
3世紀以前に指南魚が使われた文献記録、
あるいは
3世紀以前の指南魚の出土物を提示できなければ夢物語。 持衰のこと詳しく書いてあるし、
張政も倭人が送ってるし、
魏使は倭船に乗って、だいたいの方角と距離を測ってるだけで伊都に到着したんだよ。
真夏の太陽を基準にしてね。 伊都國とは、
『郡使往來常所駐』 三雲遺跡から楽浪土器が集中出土。硯も。
『特置一大率檢察』『皆臨津捜露』 北方の諸国を検察する、港に近接した検察官がいる。海上保安庁。
糸島市で決着がついている。
>>23
は、控えめな表現。 >>38糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。
https://i.imgur.com/Km8Z0re >>39
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。
https://i.imgur.com/puurb8v >>40
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)
https://i.imgur.com/faTpmpq >>41
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。
https://i.imgur.com/LZ2BRD3 >>43糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf >>44
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw
https://i.imgur.com/puurb8v 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国覧吹A国譲りの開試n)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
阿曇氏いわく名島のナは浦と同義で壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている 【捏造中】 糸島トンスル妄想ファンタジー 【創作中】
__
/ ../)
三三)/) 声闘でゴリ押しし続けるニダよ〜
__ 三三)/ __
/ ../) ウリたちが安曇ニダ♪ / ../)
三三)/) ∧_,,∧ ∧_,,∧ 三三)/)
三三)/ < `∀´> <`∀´ ;> 三三)/ 卑弥呼もウリナラ
ニダ ∧_,,∧ と φ) (つ φ) ∧_,,∧ 邪馬台国もウリナラ
< #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#> / ../)
/ _∧_,,∧口 ∧_,,∧ ⌒ φと_ ヽ 三三)/)
(/< `>口 < #>φ/⌒//(__ム 三三)/)
‖ ̄(l ノ  ̄( ノ ̄ ̄ ̄|| 三三)/
__`ー‐' ニダ `ー‐' 漁村という真実は感情的に
/ ../) __ 受け入れられないニダ!
三三)/) / ../)
三三)/) 三三)/) 〃∩ ∧_∧良い感じニダ♪
三三)/ 三三)/ ⊂⌒< `∀´>
`ヽ_っ⌒/⌒c
⌒⌒ 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 このスレで言えば>>38-41,43-44のような連投が糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、>>38-41,43-44のように大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。
https://i.imgur.com/LZ2BRD3 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘
https://i.imgur.com/faTpmpq
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww 結局、また今夜もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
深夜にコソコソとしつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww おやおや
>>45-56
を各スレに貼っているのは、吉野ヶ里説の方だ、と理解していいのかな? 吉野ヶ里説じゃないだろw
キナイコシが伊都説を吉野ヶ里に誘導して煙幕はろうとしてるだけだw 糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 このスレで言えば>>57-58のようなサル芝居連投が糸島朝鮮式声闘。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。
そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。
自分に非があっても決して認めず、負け惜しみを>>57-58のように大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。
https://i.imgur.com/LZ2BRD3
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww 持衰のいる倭船で来倭した魏使が、
朝の出発時に、真夏の太陽を見て、その日に進行する方角を確認した。
以上。 奴國の西は伊都國
奴國の東は不彌國
奴國の北は海
となると、烏奴國は奴國の南しかありえないのだが、
さらにそうなると、三方を國に囲まれた奴國が此女王境界所盡とはおかしな話になる。
次有奴國とは、次有有奴國だったのではなかろうか。 北辰を持ち出したり
指南魚を持ち出したり
北へ南へ
キナイコシは節操が無いなあ .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. >>51
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ >>1
>魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
>魏使は伊都國までしか来ていません。
>魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
>首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。
なーるほど。
壱岐対馬〜末蘆〜伊都と海沿いの生活だけ見たんだな。
みんな漁をしている風景が記録されている。
海沿いの集落であれば、
長距離移動は舟だから、むしろ裸足のほうが便利。
冬でも裸足で過ごしたというのはそういうことだろう。
逆に言うと、
『倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣』
というのは、
魏使は「温暖な九州の、しかも島嶼沿岸部だけ訪れた」ことの証左になるわけだな。 北部九州は古くから開発されてるからね。
集落内の主要な道は掃いてあって、裸足で歩けただろう。
田んぼでの農作業
漁
手漕ぎ舟での移動
この辺りはむしろ裸足のほうが便利だね。 末蘆國から伊都國までの道は草ぼうぼうだったとある。
離れた集落間の移動では、普段は舟で移動していたから道が荒れていたということだろう。
魏使は船酔いとか天候とか何か理由があって、伊都國の手前で上陸して歩く羽目になったか、
海外からの客は伊都國の港の全容を見せないためにわざと視界の悪い場所で降ろして少し歩かせたか。 伊都國→奴國→不彌國
奴國の西は伊都國
奴國の東は不彌國
奴國の北は海
となると余傍國の、烏奴國→奴國の烏奴國は、奴國の南に接するしかない。
そうなると、三方を國に囲まれた奴國が此女王境界所盡とはおかしな話になる。
次有奴國とは、次有有奴國の転写間違いだった。
此女王境界所盡=『有奴國』 >>72
奴国二万戸だから南北に長細いという可能性もある
南北に細長い奴国の北西に伊都、北東に不弥がくっつき、
奴国の南西に烏奴國
奴国の東南面や南面がフリー >>72
ほほう。畿内説にも賢い奴がおるんだな。
そう。此女王境界所盡=『奴國』であれば、対馬海峡や伊都はもちろん勢力圏だから、
奴國が東の境界線となって九州内で完結してしまう。
未知の有奴國を設定することで、九州外に出る道を切り開こうという魂胆だな。
だが道は険しい。
【自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳】
餘旁國は女王國の南にあるのだな。
概観としては、女王國の南に餘旁國達。
さらにその南に狗奴國。
となるのだ。
例えば伊都説なら、女王國≒伊都國=首都を中心として、
その南の餘旁國達も併せた連合国家群が北部九州邪馬台国。
さらにその南に狗奴國。となる。
例えば邪馬台国=朝倉説なら、女王國=邪馬台国=朝倉市で、
北の対馬海峡や伊都國奴國などはその傘下。
女王國=邪馬台国=朝倉市より南に餘旁國達があってその傘下。
さらにその南に狗奴国。となる。
九州外他説だと、女王國=邪馬台国より南に餘旁國達を設定できるかどうか、いばらの道。 >>51
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)
で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?
で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ >>41
どこでそんな間違った知識を仕入れてきたんだ?
11世紀は方位磁針の発明だぞ
方位磁針
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BD%8D%E7%A3%81%E9%87%9D
> 歴史
> 11世紀の中国の沈括の『夢渓筆談』にその記述が現れるのが最初だとされる。沈括の記述した方位磁針は24方位であったが、後に現在と同じ32方位に改められた。
> 原型となるものとしては、方位磁針相当の磁力を持った針を木片に埋め込んだ「指南魚」が3世紀頃から中国国内で使われていた[14][15]。
> 指南魚を水に浮かべることで、現代の方位磁針とほぼ同様の機能を実現する。名前に「魚」とつくのは、多くの場合木片を魚の形に仕上げ、
> 魚の口の部分が南を向くようにしたもの(文字通り「南を指す魚」=「指南魚」)が使われていたため[15]。 >>46
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない >>48
> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw >>49
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/Uno9rXi.jpeg >>50
http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
> 同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
> 「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
> 新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
> 各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw >>51
何一つソースが無いw
妄想を並べることしかできなくなったキナイコシw >>52
41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ
とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw >>78
>「指南魚」が3世紀頃から中国国内で使われていた
だからその根拠を示してよw
[14][15]とやらのリンク先も無くなってるし >>85
https://www.jasnaoe.or.jp/mecc/fushigi/report/report028.html
鉄を吸い付けるふしぎな石=磁石の存在は古くから知られていましたが、磁石にN極とS極があることに気づいたのは、約2千年前の中国人だったと言われています。
方角を知るのに欠かせない「コンパス」は、この磁石の原理から生まれました。
3世紀頃より中国で使われた、コンパスの元祖とも言える道具が「指南魚」(しなんぎょ)でした。魚をかたどって彫られた木片に磁石を埋め込み、
水に浮かべると魚の頭が常に南を向く仕組みです。南の方角を指す魚なので、指南魚と呼ばれました。 >>86
いやいやwそれ根拠じゃないよね
文献とか、出土した指南魚とか、そういうのが根拠 さて、キナイコシくんを完全論破したところで、事実を貼っておくか
425 :日本@名無史さん :2021/01/16(土) 03:22:48.20
魏志倭人伝スレより
せっかく作ったからこっちにも貼っておこう
https://i.imgur.com/d2g3guu.jpg
読み解くための前提知識として、神代は人代の実在の人物を遠い過去に投影した影絵のようなものだということを知っておく必要がある
例えば、本来は神代の存在であるはずの五十猛(スサノオの子、天照大神の甥)が実際には人代の五十迹手と同一人物である
https://i.imgur.com/UkCWhZF.jpeg >>87
日本船舶海洋工学会による完璧な根拠だが
詳細が知りたければ君が問い合わせれば済むだけ
君のはただのイチャモンに過ぎない >>89
いやいやいやw
根拠の意味わかってる?
3世紀から指南魚が使われていた、「一次資料」を示してってこと
なにもイチャモンでもなんでもないぞ
普通の質問 >日本船舶海洋工学会による完璧な根拠
こりゃまた畿内説が喜びそうなカモネギw 特に呈示史料がなければ、指南魚はせいぜい11世紀のものとなるが、
いいかね。 >>79
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。
https://i.imgur.com/puurb8v
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww >>80
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。
糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。
https://i.imgur.com/LZ2BRD3
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww >>81
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf >>82
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう
五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。
にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している
五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る
声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw
https://i.imgur.com/puurb8v >>83
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww >>84
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば
奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる。
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは
名島神社のみであり、先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている。
阿曇氏いわく名島の「ナ」は「浦」と同義であり、壱岐・対馬では今でも「浦」を「ナ」と読む習慣があるという(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)。
つまり「ナ」島は阿曇読みで、大和読みでは「ウラ」島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている。
一方で、風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で、儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている。
また住吉大社に伝わる住吉神代記や筑前住吉神社の社殿では現人神社こそ檍原(阿波岐原)だとしている。
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww >>86
【捏造中】 糸島トンスル妄想ファンタジー 【創作中】
__
/ ../)
三三)/) 声闘でゴリ押しし続けるニダよ〜
__ 三三)/ __
/ ../) ウリたちが安曇ニダ♪ / ../)
三三)/) ∧_,,∧ ∧_,,∧ 三三)/)
三三)/ < `∀´> <`∀´ ;> 三三)/ 卑弥呼もウリナラ
ニダ ∧_,,∧ と φ) (つ φ) ∧_,,∧ 邪馬台国もウリナラ
< #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#> / ../)
/ _∧_,,∧口 ∧_,,∧ ⌒ φと_ ヽ 三三)/)
(/< `>口 < #>φ/⌒//(__ム 三三)/)
‖ ̄(l ノ  ̄( ノ ̄ ̄ ̄|| 三三)/
__`ー‐' ニダ `ー‐' 漁村という真実は感情的に
/ ../) __ 受け入れられないニダ!
三三)/) / ../)
三三)/) 三三)/) 〃∩ ∧_∧良い感じニダ♪
三三)/ 三三)/ ⊂⌒< `∀´>
`ヽ_っ⌒/⌒c
⌒⌒ >>88
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘
https://i.imgur.com/faTpmpq
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています