邪馬台国畿内説 Part698
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1616631240/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 誰が見てもバカに見えるbyと同レベルの人間がこの世に1人います
奥山氏です >>368
ぐぐったら出てきた
情報処理学会 芳賀正憲氏だね
歴史学者でなく科学者ですね
>「倭人伝」の1里の長さはいくらで、その根拠はどこにあるのか、なぜこの里単位が使われたのかという問題です。
旅程記事の中で確かと考えられる地名をもとに、その間の距離から逆算すると、1里は70〜90mになります。<
と記述されてます
奥山氏の好きな科学的実証にぴったりじゃないですかね >>368さん
再掲失礼
第46回 数学者の 「社会への提言」より
「倭人伝」の1里の長さはいくらで、その根拠はどこにあるのか、なぜこの里単位が使われたのかという問題です。
旅程記事の中で確かと考えられる地名をもとに、その間の距離から逆算すると、1里は70〜90mになります。
中国の使節が旅程を記録するため、何らかの計測をしながら邪馬台国に至ったと考え、その前提に、「周髀算経」や「九章算術」という
当時の数理科学書の知識があることを想定しました。
「周髀算経」は、紀元前1世紀くらいに編纂された現存最古の中国天文学書で、その中に一寸千里説とも呼ぶべき考え方が示されています。
夏至の日、基準地点に8尺の観測棒を垂直に立てると影の長さは1尺6寸になります。そこから真南に千里行くと影の長さは1尺5寸、真北に千里行くと影の長さは1尺7寸になるというのです。
地球の半径が6357kmで、太陽光は地球にほぼ平行にはいってくることを前提に、夏至の日に8尺の棒の影の長さが1尺6寸になる緯度を求めると、
西安あるいは洛陽の緯度にほぼ一致しました。また、南北千里は、76〜77kmとなり、1里が76〜77mに相当することが計算されました。
これは、倭人伝の1里と想定される長さによく対応しています。 >>388
それぞれの国で夏至の日に計測してたら、邪馬台国まで行くのに何年かかるんですか? >>389
帯方郡からだと、最短で9年だな。 @阿波 >>388
緯度は「一寸千里」で測れるとして、
経度はどうやって測ったんだろうね? @阿波 >>389
夏至の太陽の南中時の高さが78.4度
冬至の太陽の 同 31、6度
春分、秋分が 同 55度
計算は省きます
夏至の影の長さを1とした場合
冬至 8
春分・秋分 3.5
夏至の1里を76Mとすると冬至は608M
春分・秋分は266M
___________________________
私見
一里76〜77Mは当時の人の概念上の距離であると思われます
魏使が棒を立て測った距離ではありません
>>390@阿波さん、
あなたがいつも、比例的に短里?支持している
倭人伝の比例計算の図式を掲載してください
疑って申し訳ありません まだあなたが@阿波さんと確信できませんので >>395
帯方郡(沙里院市)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬の上対馬町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐の郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25km)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 又は 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群)
↓【東】渡海(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里 紀伊水道渡海→奈良周辺) @阿波
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの朝鮮半島着岸地である。 @阿波 >>396
疑って、申し訳ありませんでした
最近 阿波説の投稿が少ないので、、、?と思いました
ゴメンナサイ 健康には気を使っているつもりのオイラも、今日この後すぐ、コンビニへ行こうと横断歩道を渡ってて横から信号無視の暴走プリウスに轢き殺されるか判らない。
オイラがいつ死んでもいいように、おまいらには、おまいらだけには、真実を伝えておかねば!
@倭国大乱後、出雲吉備(墳丘祭祀)連合が、大和東海(銅鐸)連合を征服(初期ヤマト王権=纏向型前方後円墳)。大和挟撃に貢献した東海には前方後方墳(裏切りの御褒美)。
Aそこへ北部九州・邪馬台国「親魏倭王」卑弥呼から派遣された伊都国王神武(帯方郡から輸入した大量の鉄剣鉄鏃)が東征してきて、奥津城(王家の谷=紀伊半島の水銀鉱床独占=帯方郡の鉄を独占大量輸入)化する。
B崇神が鉄剣により、更なる東征で本州統一(前方後円墳祭祀)を進め、台与崩御後王統が途絶えた邪馬台国を乗っ取り、魏も西晋に代わり、薄葬圧力から解放され、3世紀末頃箸墓を築造する(倭王宮は天智太宰府まで博多、ヤマト王権は完全な幻想)
>>272 >>392
概念上の距離って何?
その概念とはどういう意味? >>396
逆算だよね。阿波
111m以下なら妥当、目視によるもんと
大雑把との組み合わせ。
まあ、会稽が万二千餘里だったと推定
先行する文献から転記
わははは? by >>396
阿波泡沫説も「南⤴東」読み替え(左曲りのダンディ)は同じなんだなw 大和地方の祭祀変遷
銅鐸→墳丘→銅鏡
これに地域を重ねると、
東海→吉備出雲→北部九州(神武東征)
あれ?ピッタリw >>404は
他人に吐き付ける悪口が
なぜか自分にだけ該当してる悲惨な男 頭が悪いので意見を発表出来ず通行人に八つ当たりしてしまう奥山あわれ >>403
さう言へば、纏向遺跡で、東海土器と地元大和の土器、どっちが多く出ているんだらうね?www >>407
どっちが多く出ているって?
7〜8割が地元だが、そんなことも知らんのか? 畿内説が纏向を宮殿だと言い張る行為は、
市内共同墓地を市役所だと言い張ってるようなものだ
考古学者の視野の狭さや、カンの悪さ、世間知らずぶりを証明しているようなもの 宮が立派で、豪華絢爛であるという
固定観念があるんだろうな。
質素な宮で十分、移動するのだからね by >>411
九州説さん
いくら悪口を言っても
それは反論ではありません 庄内甕の大和型登場を時系列で地図上にプロットしても拡散プロセスが分からないので、
纏向が拡散元などと言えない。
庄内〜布留0は、纒向特有の消耗品土器ではないので、
仮に、庄内〜布留0土器が、三重県(伊勢)に分布していても、三重県(伊勢)が女王国の一部などとは言えない。
奈良大和の纒向遺跡の東は、笠置山地や布引山地など、山ばかり。
纒向遺跡は「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にあきらかに矛盾している。
もし女王国が奈良大和であれば、「女王國 東 越山 復 渡海千餘里復有國皆倭種」 である。
よって、テンプレの
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にありえない。
は、虚偽である。 @阿波 >>414が論理的に間違いなのは
たぶん小学生でもわかる 失礼視しました
>>400さん
>概念上の距離って何?
その概念とはどういう意味?<
携帯は私には操作しづらく申し訳ありません。今も母の介護中ですのでお許しください
さて、あなたの質問ですが、あくまで私見です。
里の距離について、「周髀算経」等以降の距離について中国の文献が無いのです
文献から夏至以外の距離比定が古代?中国の文献には無いのです。
すると、一里70m前後と言う概念が後世まで受け継がれたと思います。
しかし、私は倭人伝の一里の距離は>>396阿波さん同様の考えです >>417
>里の距離について、「周髀算経」等以降の距離について中国の文献が無いのです
何を寝言いってんだ
腐るほどあるだろ
逆に一里70m前後とかいう文献が元から存在しない >>414
@阿波さん 先般は本当にゴメンネ
発掘された土器を用い邪馬台国を語るのは反対です
発掘物から阿波説も捨てがたいですが、、なぜか引っかかるのです
最大の理由は近江説同様、近距離の畿内との関係が倭人伝の記述と未だ解明できないのです
浅学でスイマセン >>419
>近距離の畿内との関係が倭人伝の記述と未だ解明できないのです
「卑彌呼」時代の畿内になにを求めているんだい?
その当時の畿内は倭国に含まれない、遅れた地域に過ぎない。
「魏志倭人伝」に於いては、畿内など倭種の国程度の扱いなんだから。 @阿波 >>418さん
申し訳ありませんが あなたは過去レスを読み込んでから
投稿していただければ幸いです・・私の稚拙な投稿より優秀な方の投稿が良いでしょう
>逆に一里70m前後とかいう文献が元から存在しない<
これはあなたの言う通りです。
文献から解き明かした距離と理解していただけないでしょうか?
私は、倭人伝の記述の里と距離からおおよそ短里に近いと思ってます。
韓伝では韓の国は四千里四方と記述されてます。
倭国への行程に関わらず、一寸 千里は理解できますが
私への反論は、罵声以外はなるべくお答えします。
少し家庭の事情で即答はご勘弁ください。
なお、私への反論の前に。自説(私はこう思う)を語っていただいければ幸いです >>422
阿波さんは、阿波から見える/
大阪湾近辺の地や、淡路島は邪馬台国阿波にとって
3世紀はどのような位置づけですか? 阿波さん失礼
変な質問でした
淡路島だけ語っていただけませんか >>424
「卑彌呼」時代の倭国は、せいぜい阿波・讃岐・淡路島南部ぐらいだろうね。 @阿波 >>426
其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國・・・
狭い by 「其餘旁國遠絶不可得詳」(その他の周辺国は遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない)。
この意味は、阿讃山脈を越え、海を隔てた遠く瀬戸内海地域などの倭国以外の国々(吉備など)については、
「遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない」との説明である。 @阿波 「其戸數道里可略載」(女王国より北にある国々は、その戸数や道順、距離をおおよそ記載できる)。
この意味は、女王国(粟国=大吉野川流域)に所属する21カ国については、
「その戸数や道順、距離をおおよそ記載できる」との説明である。 @阿波 「其戸數道里可略載」
これは、「戸数や道順、距離」は略載(書こうと思えば書けるが、省略して書かなかった)としている。 @阿波
「戸数や道順、距離」を書けば、「略載」とはならず、「詳載」となってしまう! @阿波 >報告書に「できる」と書くだけでしないというのはあり得ない(笑)
女王国へ到着するまでの行程説明が主な記載事項。 あとは、「略載」とある。 @阿波 「次有斯馬國次有巳百支國・・・」以下の21カ国は、女王国(粟国=大吉野川流域)に所属する国々の説明である。 @阿波 >>418
倭人伝までに腐る程ある文献ってなんですか? 女王国より北の範囲は、それぞれの戸数・行程の距離を略せず記載することができたが、それ以外の傍らの国は遥か遠くにあり、詳細を知ることができない。
by この閑散状態は、荒らしの犯人はキウスだったと証明したようなもの >>423
>申し訳ありませんが あなたは過去レスを読み込んでから
>投稿していただければ幸いです
どんな過去レスが実在すんの?
あなたの脳内は他人に見えない
>倭国への行程に関わらず、一寸 千里は理解できますが
理解できるという理由は?
あなたの脳内は他人に見えない >>414
土器に関係なく、
女王国に邪馬壹や伊勢も含むので
「女王國 東 渡海千餘里復有國皆倭種」 である。邪馬壹も国々のひとつであるが中心國でなく祭祀と宗教地なので古墳地域
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にありえない。
出身地であり、共立後は、別の地で
生涯終え、冢もある。なので邪馬壹・纏向にはいない。
別の地の冢から移動があり
その墓のひとつの候補が箸墓古墳 by >>428
其餘旁國遠絶 不可得詳
九州北部限定も想定地が
狭いので「其餘旁國遠絶 不可得詳」当たらないのでボツ by 本日のテーマ
卑弥呼の墓に関する記録
魏志倭人伝より
「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴碑百餘人」
墓は大きく造り、大きさは約百歩、殉葬者は100人余り。
大きな塚(墳丘)であり、周辺には殉葬者が埋葬されているはずです
↓
祇園山古墳(福岡県)
https://i.imgur.com/3jJf8mz.png まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 淡路島の
五斗長垣内遺跡
舟木遺跡
は興味ありますが、
淡路島は独特のポジション?でよくわりません
独り言失礼 >>449
畿内説のスレにふさわしい
箸墓VS黒塚の議論を望みます
奥山氏も本望でしょう キウス >>450
あんたは独り言ばっかりて他人の質問に答えないからな 奥山という低脳の脳内ワールドの妄想は書き込まないでください。
453 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2021/04/03(土) 09:06:26.81
>>448
祇園山古墳は不適格で確定済み >>451
霊感が言ってきた事だから、間違いないと思うが
箸墓←見るたびに霊感が拒否してくる
黒塚←見た瞬間に凄まじい衝撃波が体を突き抜けた >>456
奇遇だね
俺も霊感強いとよく言われるんだけど箸墓古墳は違うね、絶対
黒塚は九州説も卑弥呼の墓候補として認めるほどだった
しかし、どうやら他国の、しかも男性の墓である可能性が高いらしい >>455
奥山が低脳であることが確定している事は、既にスレの住人は知っていますから、あらたまって念を押さなくていいんですよ もしかして奥山氏は奥山が低脳だということを知らなかったのかな? 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 史実を読み返してみましょう
■旧唐書より
※倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
<倭国伝>〜AD631年までの記録
倭国(九州)は古の倭奴国なり。
※漢委奴国王の金印は福岡で発見された
<日本伝>AD701年以降の記録
日本国(ヤマト)は倭国の別種なり。
■史書における「別種」の使用例
<高麗伝>
高麗は出自、扶余の別種なり。
<百済伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。
■結論
・畿内ヤマトと倭国は別の国だった お手紙が届いておりましたので転載
一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、
「最近、数年来、宇宙線の観測が、劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、破天荒に強大な空気シャワーに含まれる、想像を絶する数量の、中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、
小枝が、ホケノ山古墳が3世紀に出現した証拠になるかかもしれないと考え、
ホケノ山古墳の小枝を、検査したが、
「最近、数年来、宇宙線の観測が、劇的に進行し、千数百年間、巻向にも数限りなく降り注がれた、破天荒に強大な空気シャワーに含まれる、想像を絶する数量の、中性子が、地表付近の桃の種や壺の吹きこぼれを構成する炭素の同位体比率を激変させる可能性を明らかにし、完全に破綻してしまった炭素年代法」という、年代を実際よりも7パーセント程古く誤推定してしまう炭素を利用した法は、
小枝の年代を、4世紀の物体だと推定した可能性が、高いな。 >>452
本間さん
あなたの正体は承知していますよWWW
そのトリで しばらく投稿してください
そうしたら、あなたの質問に答えます。 キウス すみませんが、
どなたか、
移行すべき、
以前貼り付けていただいた、
スレッドのURLを、
再度貼り付けてもらえませんか?
考古学板はわかるのですが、
もう一個の方、
わからなくなりました。
花関索ですが。 >>467
有難うございます。
即座の返信、感謝いたします。
正にそれです。 >>461
日本,古倭奴也「新唐書」
日本國者,本倭奴國也「宋史」 >>469
<旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
◆倭国条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭国者,古倭奴国也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
※漢委奴国王の金印は福岡で発見されている
◆日本条 701年〜 (畿内ヤマト政権時代)
「日本国者,倭国之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小国,併倭国之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言い訳だ。 >>469
■新唐書
日本は古の倭奴なり。京師を去る万四千里。新羅の東南に直る。
海中に在りて島にして居す。東西五月行、南北三月行。
其の王の姓、阿毎氏。自ら初主を号して天御中主と言う。
彦瀲に至る凡そ三十二世、皆尊を以て号と為し、筑紫城に居す。
倭王は筑紫城に住んでいたとのこと >>471
中國では日本国と倭国が別種だとは考えなかったから修正された >>474
日本の使者には別国だという認識があった 「大和」は、魏志倭人伝では女王国の市場を監視する官職として「大倭」と記載されている
『国国有市 交易有無 使大倭監之』
後世のヤマト政権はなぜ「大和」という名を選んだのか? >>475
それは竹島どろぼう反日有害種族の会の主張 >>480
九州説など存在もしない、一人一作り話はどうでもいい >>478
それ、単なる日本書紀の雑な抄本だよな
それがどうかしたの? >>471
>これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言い訳だ。
それ、無知すぎ
倭って、百余国あったんだろ?
それを統合したのが日本(やまと)でなんの不思議もない
漢文読めないとんでも九州説じいさんは古代史諦めろよ .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
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