江戸時代には犯罪が無かった!
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本人が在日だとも祖父が朝鮮から連行されたとも言ってるからな 与力や岡っ引きはともかく
下っ引き自体が犯罪者くずれか二足のわらじ 芸能人やタレント、時代劇、その枠の中にしていいのか、自分たちのご先祖様を 越後屋光圀は諸国漫遊どころか毎晩のように辻斬りをやっていた 津田信任は京都で辻斬りをやっていたのが発覚
大名の地位を失った 日本は犯罪者とか、軽犯罪、クレプトマニアみたいなのが出てきたら
そいつの家族ごと滅ぼすってのをやってた
これが日本人の気質に関連する? 337 ニューノーマルの名無しさん [sage] 2021/05/25(火) 21:26:13.15 ID:rWnn2yi60
こんな小物よりベンツで暴走繰り返してるキチガイ捕まえろよ
348 ニューノーマルの名無しさん [sage] 2021/05/25(火) 21:34:08.56 ID:gEXkPJic0
>337
楽して出世したい 350 ニューノーマルの名無しさん 2021/05/25(火) 21:36:35.80 ID:VX/fbqsm0
>348
そう思う
職質だけで点数が増えるから安全に身の保全が図れる
冤罪が無くならない原因
357 ニューノーマルの名無しさん 2021/05/25(火) 21:43:16.50 ID:cwc7FxpK0
>350
江戸時代の岡引がまさにそれ
召し取ると与力から小遣いが出たから、えん罪出しまくり
拷問で自白を強要するから、ほとんど助からない
今の愚警察も中世に退化したなあ それはおまえの祖国・穢土
江戸はチョンコが居なかったから平和 江戸の火消しが放火して自分で消す、元祖マッチポンプ。
それが粋でもあるんだな。 火消しの仙石は評判が悪く
幕府から叱責されていた
加賀の前田からは「身の程を弁えぬ天下の大愚物」と悪口をいわれた
島津久光も徳川慶喜に言われてた気もするが 江戸時代は犯罪者だらけ
というのは警察に相当する体制があって、ならず者を捕らえていたからだ
それまでのケダモノ朝鮮人天皇が表に出ている時代というのは
朝鮮人である武士が、日本人である農民を強姦しようが首を切ろうが
それは犯罪にならないし、取り締まる者もいなかったのだ >>1
マジな話、近代的な法律なんてなかったからな。
慣例で適当にその場の空気でやっていたから。 簡単にいうと世代交代が早かったから15歳あたりで元服して公務に就く
で30歳ころに家督を息子にあるいは養子をむかえつがせる
ようするに30歳過ぎたら年金生活ができたからだよ
あとは趣味で生きる絵を描いたり物語かいたり金に余裕あるやつは
愛人を囲う御隠居生活 762 ニューノーマルの名無しさん 2021/08/15(日) 08:08:57.38 ID:wlBGfKC10
そもそも一重っていうのが朝鮮人の影響
江戸時代の写真見れば分かるが一重なんて
殆どいなかった
朝鮮人が日本に来てからやたら一重が増えた
アホだよな朝鮮なんて併合してさ 江戸時代における伝馬町牢屋敷の無法地帯ぶりは町人も良く知っており、吟味方与力は、調べでクチを割らない証人には、伝馬町送りを匂わせ、クチを割らせた
なんとなれば牢内は牢名主に牛耳られ、下手をすると息の根をとめられかねないからである 武士=半島からの渡来人が、農民=日本人を強姦しようが首を切断しようが自由だった
それが犯罪にならないってことは犯罪者が居ないってことだ
犯罪者が居ないってことは無法地帯だってことでもある
しかし江戸時代になると、武士が理由なく農民を切ることは禁止された
禁止されたってことは、農民を切ると犯罪者になるってことで
犯罪者が多いとは、治安がしっかりしているってこと >>2
そもそも松の廊下で、吉良に斬りつけたのがチョンコでしょ 武蔵の国
東京や多摩の別名として古来からの国名の武蔵がある。若者の街で人気の吉祥寺も武蔵野市にある。
“武蔵”というのは“モサシ”という朝鮮語から生まれた言葉だという。
モサシは河原にはえる草の呼び名らしく、多摩川の河原や東京を二分するようなその広大な河岸段丘の草原からつけられたようだ。
桓武天皇以来、東夷(アズマエビス)が住む関東の姿とはアイヌ系の先住民と、朝鮮の百済の人の入植地であり、
それらに当時の政権から派遣された源氏や平氏が割拠する土地だったのである。
また、武蔵の国の国司は百済人と決まっていて亡命してきた百済王家の人間がなっていたという。
今でも東京(武蔵野)には狛江とか高麗とか朝鮮に関係ある地名や名称が多く残っている。
沢の名前などはアイヌ語のようなものも目立つ。
武蔵の国の政府があった府中の大国魂神社(オオクニタマジンジャ)のあたりからは、百済人や東夷が暮らした武蔵野の大地が遠望できる。
江戸がなぜ栄えたか、というと「田舎者で栄えた」というのが一つの答えらしい。
江戸八百八町は当時も世界最大の都市。大名の参勤交替だけではなく、ありとあらゆる田舎から人々が集まって来ていたのだ。
そもそも江戸の背景となった武蔵の国そのものが海外からの亡命者や入植者、あるいは都落ちしたもの、東国へ派遣されたもの、
古来地元で群雄割拠する豪族など、ありとあらゆる人間が生活を営んでいた場所である。
しかも知事は外国人、国際的といえる地域でもあるのだ。 春秋(6月15日)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK145SP0U2A610C2000000/
日本の刑務所のルーツをたどっていくと、江戸期の「人足寄場(にんそくよせば)」に行きつく。
▼興味深いのが、運営の重点が収容者の社会復帰にあった点だ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています