日本書紀と古事記かいてあること違うじゃねえか
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日本書紀と古事記かいてあること違うじゃねえか。
▼古代天皇没年齢(日本書紀/古事記)
初代:神武天皇 127歳/137歳
2代:綏靖天皇 84歳/45歳
3代:安寧天皇 67歳/49歳
4代:懿徳天皇 77歳/45歳
5代:孝昭天皇 114歳/93歳
6代:孝安天皇 137歳/123歳
7代:孝霊天皇 128歳/106歳
8代:孝元天皇 116歳/57歳
9代:開化天皇 111歳/63歳
10代:崇神天皇 119歳/168歳
11代:垂仁天皇 139歳/153歳
12代:景行天皇 147歳/137歳
13代:成務天皇 107歳/95歳
14代:仲哀天皇 53歳/52歳
15代:応神天皇 111歳/130歳
16代:仁徳天皇 143歳/83歳
17代:履中天皇 70歳/64歳
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21代:雄略天皇 62歳/124歳 なんか常陸国茨城県も、
無名古社みたいのがいっぱいあるんですよね。
力がある神としては、十二大神社や、全国一之宮でしょうけど、
鉄オタみたいに、全国無名古社巡りとか、すげえ文化的だなあと思います。 藤原系と反藤原系の朝廷内の対立が反映されてんじゃね?もちろん反藤原の陰謀は全部藤原の陰謀で潰されるのだが >>220
>途中で うつした というだけの話な
先遣の「忌部一族(阿波勢力)」が、本国「阿波」の元社から勧請してもらったってこと。 @阿波 ※各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみ。
「天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)」
阿波國風土記ニモ
或ハ 大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、
或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、
或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。
これは、崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇 の称号です。
通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、
その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?
役人が天皇に献上する書です。
上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。
「お前、何書いとんねん!」では済まないのです。 @阿波 >>254
日本の中心って大和、筑紫、日向、出雲以外にも
いっぱいあるのだな
阿波も伊勢も淡路も重要そうな所だらけだな >>254
邪馬台国があったとされる地域の一つ
剣山もある >>255
天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」。
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われている。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」 @阿波
正一位、延喜式に記録された式内名神大社
「天石門別八倉比賣神社」:徳島県徳島市国府町西矢野 矢野神山
https://sueyasumas.exblog.jp/9415763/
http://www.genbu.net/data/awa2/yakurahime_title.htm 動かぬ、倭国(阿波)の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 >>231
いや〜常陸国の国などの関東系は所謂阿部や、出雲系が多く、国造も安房国ですら同系統
カガセオさんはその後に入った物部の神様、道教の北斗、妙見信仰の系統なので、いろんな人たちが入ってきてますよ 阿波国風土記なんて残欠どころか逸文で万葉集くらいしか引用元がない
柿本人麻呂こと山辺赤人なら、全国から集められた風土記が破却される前に見ることは出来ただろうけどね
忌部氏と、千家が出雲で古事記の神代の内容を纏めてるのに、破却された阿波側が上位などあり得んよw
忌部は、藤原ヨイショの歴史を書かされてるわけだからね
下手すると忌部氏が関わったから古事記が不採用になった可能性すらある >>253
七支刀を日本に下賜したとか抜かす朝鮮人と同じ理論w
貴方のせいで阿波の歴史が毀損されている >>261
>阿波国風土記なんて残欠どころか逸文で万葉集くらいしか引用元がない
お前んとこは、何もない。 哀れなり。 わははははは @阿波 >>235
神社の形態は意外に保守的で、千木もよほどのことがない限り変わりません
用明期からあるとされる出雲の神魂神社の千木は物部のまま
和解の印の剣神社は千木が半分ずつタテカシマ削ぎと、横削ぎになったまま
もう一つ。美穂関の美穂神社も本殿の千木が物部と出雲の様式になっています
結構神社巡り楽しい >>236
www
御神水で何処のか分かったら凄すぎますw >>263
涙を拭け、ペテン師w
本当の阿波の歴史と向き合わない大嘘つきさんw >>264
自己レス
何故かタテカシマが自動変換で入ってしまったw 他からの引用だけど阿波は何しろ出鱈目のようだ
〉「阿波郷土会報」の面白い事。
”あの”応神天皇の陵(みささぎ)ではないかと言われている徳島市八万町の恵解山古墳を
昭和30年に発掘したときの記録なんてもう、しっちゃかめっちゃか(死語)
古墳の発掘に発破は使うは、発掘物はドラム缶に放り込んだままにするは、極めつけは
発掘物を作業員が持ち逃げして、後でそれを見つけて買い戻すなんて、目が点になるよう
な話が満載です。
いくら戦後間もない昭和30年だからといっても、これはないでしょうという有様です。
ま、地域性はそうは簡単に治らんよなw
朝鮮半島の前方後円墳そっくり
発掘前日に盗掘に遭うなんて、阿波と朝鮮くらいのものでは?w 阿波の引用元が多分これ
https://sites.google.com/site/awakokufudoki/home/awa-koku-zoku-fudoki-nitsuite/2_awakoku_fudoki_towa
名だたる旧家が指摘するように架空の人物ヤマトタケルが出てきてる段階で、記紀よりも後の文章であることが分かるw
仮に風土記にヤマトタケルをかけるとしたら、出雲風土記のみ
編纂に関わった人たちでしか書けない
出雲風土記のみ、ほぼ完本で残るのは千家が書き直したから。
完成後10年以上経ってから、記紀の完成後、出雲王家に千家が書き直したバージョンが提出された 施朱以外で日本における最古の朱の遺物としては、4500年ほど前の奈良県丹生川上村、宮の平遺跡で出土した朱の付着した石皿。
この頃には朱の採集、粉砕、製粉は始まっていたことになる。
徳島の加茂宮ノ前遺跡や三重の天白遺跡、森添遺跡はそれより1000年ほど後となる。
阿波は前にもコレを教えてやったのにまだ嘘をつく単なる阿波の工作員
モノホンのクズ >>269
その出雲風土記に、「大国主」や「国譲り」の記述一切なし!
出雲風土記には、「忌部一族」の記述ばかり。 わははははは @阿波 >>270
>この頃には朱の採集、粉砕、製粉は始まっていたことになる。
肝心要の「卑彌呼」の時代は、開店休業してたのか? アホカスよ。 わははははは @阿波 >>272
それで?学術的裏付けのある一千年の差は?
お?ww
無関係なクリンチに流れて論点晒しか?w
さすがヒボコの逃げ込んだ地域は性格がそっくりだなw
独自の呪術が発展するわけだw >>273
>それで?学術的裏付けのある一千年の差は?
なんや?一千年の差って。 肝心要の「魏志倭人伝」「卑彌呼」の時代は、開店休業してたのか? アホカスよ。 わははははは @阿波 ほれ、話題すり替えのクリンチw
旭日旗の起源も阿波国風土記なんじゃね?w >>231
大甕倭文神社
ググって見ました
素敵な所ですね
行ってみたい >>275
>ほれ、話題すり替えのクリンチw
話題をすり替えているのは、お前だろうがよ。
「卑彌呼」の時代を言え! 一千年前の差だと? この、うすらトンカチめ。
「阿波」では縄文時代から水銀朱を精製している。 お前など出る幕じゃね〜んだよ。 @阿波 >>277
だ か ら
阿波の一千年前からだっつってんだろーが
それが学術上の編年なんだよ
阿波ごときの新しい年代の丹など、ベンチマークにはならん
それが卑弥呼クリンチし始めてるのはお前だろ大嘘つきがw
お前、阿波に恨みでもあるのか?誉め殺しして嫌がらせしてるだけだろw 卑弥呼の時代は九州なら殆ど丹は輸入
瀬戸内海で混合
ヤマトなら国産
古墳の成分分析でもそうなってる
そもそもの鉱物の品位がヤマトと、他では不純物の量が違う
卑弥呼とか吠えながら自分で縄文とか抜かしてる辺り、笑えるわ 前14000年前 北海道で最古のベンガラ
前2500年 奈良宮ノ平遺
前1500年 徳島ww「賀茂」宮ノ前遺跡ww
前500以降 北九州で施朱
徐福時代に入り、九州に大陸産の朱が入り始める
それまで我が国には朱の進んだ精錬法が無かった
その後、卑弥呼時代www
輸入の背景は製錬方法の違い
あの時代、我が国から国産の朱が出せる事は画期的だった
4世紀に入り、黒塚古墳 加茂氏の古墳ww
黒塚は木棺の遺体を置く中央部のみ水銀朱で両端はベンガラ。三重県丹生鉱山出土朱。
すぐ近くの天神山古墳には木製容器の中に41sの水銀朱が納められていた。こちらは大和水銀鉱山出土朱。
嘘はやめましょうね、嘘は
そもそもが、阿波国風土記なんて明治あたりに弄ったなどと噂されている眉唾物 「日本古代朱の研究」 市毛 勲
徳島県若杉山辰砂鉱山遺跡の発見で弥生時代後期から古墳時代初めにかけて、
本邦産辰砂は少なくとも西日本各地域に搬出されていた状況が推察できた。
これによって「魏志東夷伝」倭人の条記載の「其山有丹」が証明され、さらには
「卑彌呼」が献上した品物の「丹」が本邦産辰砂である点も明らかになった。 @阿波
Gaiyo-5395 (14).pdf >>280
>前1500年 徳島ww「賀茂」宮ノ前遺跡ww
嘘はやめましょうね、嘘は わははははは
阿南市加茂町の「加茂宮ノ前遺跡」で、古代の祭祀などに用いられた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる
縄文時代後期の石臼や原料の辰砂が大量に出土した。
県教委などが、国内最大で最古級の生産拠点だったと発表した。
近くの水井町にある弥生時代後期〜古墳時代初期の「若杉山辰砂採掘遺跡」が国史跡の指定を受け、
辰砂の採掘方法が判明した全国唯一の遺跡と評価された。
両遺跡は那賀川中流域での水銀朱生産の歴史をひもとく発見として注目されている。
「加茂宮ノ前遺跡」では石臼や石きねのほか、辰砂原石や水銀朱を塗った土器の破片、耳飾りなど約1千点が出土した。
祭祀に使われたとみられる円形に石を並べた遺跡や住居跡も見つかった。
過去の発掘調査では弥生時代中期末〜後期初期に水銀朱が生産されていたと判明していた。
今回の発見で、その起源が縄文時代後期までさかのぼることになった。 @阿波 >>281
こういう嘘をさらりと書くのが阿波人ww
〉「卑彌呼」が献上した品物の「丹」が本邦産辰砂である点も明らかになった。 >>283
>こういう嘘をさらりと書くのが阿波人ww
市毛 勲さんて、阿波人だったのか? お前はまともに文章読めんのか? わははははは @阿波 >>280
>前1500年 徳島ww「賀茂」宮ノ前遺跡ww
嘘はやめましょうね、嘘は わははははは
阿南市加茂町の「加茂宮ノ前遺跡」で、古代の祭祀などに用いられた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる
縄文時代後期の石臼や原料の辰砂が大量に出土した。
県教委などが、国内最大で最古級の生産拠点だったと発表した。
近くの水井町にある弥生時代後期〜古墳時代初期の「若杉山辰砂採掘遺跡」が国史跡の指定を受け、
辰砂の採掘方法が判明した全国唯一の遺跡と評価された。
両遺跡は那賀川中流域での水銀朱生産の歴史をひもとく発見として注目されている。
「加茂宮ノ前遺跡」では石臼や石きねのほか、辰砂原石や水銀朱を塗った土器の破片、耳飾りなど約1千点が出土した。
祭祀に使われたとみられる円形に石を並べた遺跡や住居跡も見つかった。
過去の発掘調査では弥生時代中期末〜後期初期に水銀朱が生産されていたと判明していた。
今回の発見で、その起源が縄文時代後期までさかのぼることになった。 @阿波 >>280
>前1500年 徳島ww「賀茂」宮ノ前遺跡ww
嘘はやめましょうね、嘘は わははははは
「加茂宮ノ前遺跡」(縄文時代) 令和2年6月12日 徳島新聞朝刊
阿南市加茂町の「加茂宮ノ前遺跡」は、那賀川中流域の右岸の自然堤防上にある。
標高は26m前後。
今回の調査では、縄文時代中〜後期(約5500〜3千年前)にかけての遺物の大きな成果が得られた。
確認されたのは、屋外炉や土坑、溝などの遺構だ。
期待した「竪穴式住居」の発見には至らなかったが、屋外炉や縄文土器を捨てた土坑などが見つかったことから、集落の一端を捉えた可能性が十分にある。
一方、遺物では装飾品類がたくさん出土した。
縄文土器のほか、玉斧や?状耳飾り、耳栓などだ。
?状耳飾りは7点、玉斧1点、垂飾1点。
深瀬遺跡(阿南市深瀬朝)の翡翠製丸玉、田井遺跡(美波町由岐)の?状耳飾り、西原遺跡(東みよし町足代)の翡翠製大珠とを合わせて考えると、
県内の縄文時代の装飾品の多様性がうかがえる。
他方、「加茂宮ノ前遺跡」を特徴付ける水銀朱関連の遺物については、今回の縄文時代中期の層からの出土はなかった。
ここで水銀朱が使われ始めた時期が、縄文後期だと裏付けられた。
ただし、豊富な装飾品類が示す通り、日常生活の中で祭祀が行われていたことが十分うかがえ、
縄文後期までに、これまでに発見されている配石遺構(祭祀場)を築ける素地が出来上がっていたといえる。
2016年度に始まった発掘調査では、弥生時代〜古墳時代の鍛冶遺構や水銀朱精製関連の遺物、縄文時代後期の「竪穴式住居」や円形配石遺構、
国内最古級の水銀朱関連の遺物が確認され、全国的に注目を集めた。(県埋蔵文化財センター専門研究員・田川憲) @阿波 >>280
>前1500年 徳島ww「賀茂」宮ノ前遺跡ww
嘘はやめましょうね、嘘は わははははは
「加茂宮ノ前遺跡」だけじゃな〜ぞ。 お前ごときの出る幕じゃなね〜!
「矢野遺跡(縄文時代)」
徳島南環状道路建設に伴い1992〜98年に行われた発掘調査で、縄文時代後期初頭(約4千年前)の遺構面から見つかった。
このうち、土面は縦15.8センチ、横16.7センチ、厚さ1センチのほぼ円形で、粘土で作られている。穴を開けて目や口を作り、鼻や眉も付けている。
用途は定かではないが、祭祀で使われた可能性がある。土面としては国内最古で、最も西の地域の出土例となっている。
土器は煮炊き用の深鉢や盛り付けに使われた鉢、つぼなど。関東の土器に見られる文様だけでなく、近畿から九州北部の広範囲で確認された文様が混じっている。
祭祀で使われた赤色顔料「水銀朱」が付着しているものもあり、国内最古の水銀朱の使用例として注目されている。
石器にはやじりなどの狩猟道具や食物加工用具がある。最も多いのは石の重りの石錘で、網にくくりつけて漁労に使ったほか、編む際の重りなどに使われたとみられる。
文化審議会は「縄文時代最古級の土面や、水銀朱の使用例が含まれ、西日本における縄文時代中期末から後期の生活の様子を示す資料として貴重だ」としている。
2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊 唐古腱遺跡から出てきたのが古代勾玉の製作場跡だしな
古代京都において勾玉製作が行われた遺跡が出てきとる >>280
>前1500年 徳島ww「賀茂」宮ノ前遺跡ww
嘘はやめましょうね、嘘は わははははは >>280
>前1500年 徳島ww「賀茂」宮ノ前遺跡ww
嘘はやめましょうね、嘘は わははははは @阿波 >>276
大甕の、甕って言う字、みか。って読めました?これなかなか読めないと思うんですけどね。ググれたということは、わかりました? >>286
こいつ分かってねぇしw
「賀茂」宮ノ前遺跡 「加茂宮ノ前遺跡」
何が違うんだ?w
加茂氏の地盤って事がイタイよな?w >>291
はい、お勉強になりました
磐座も大きくてイイですね 全国に大規模に銅鐸が埋められた所は多い
しかしそれは蹂躙の証
銅鐸祭祀は、出雲、初代神武の奈良の尾張家や、出雲と習合した磯城家、そして登美家で行われていた
和歌山から最初に入った物部氏が奈良で行った事は宗教戦争
銅鐸祭祀を壊して廻った
出雲の銅鐸が埋められた経緯は、磯城家のフトニ大王が親戚の出雲を攻撃したから
西出雲王家の分の青銅器をフトニに出し、残りは東出雲王家の✖の刻印があるものを中心に土中に埋められ、隠された
銅剣にも向家のシンボルの✖印がある
コレは諏訪の御柱の✖の刻印に受け継がれた
この頃は既に出雲では銅鐸はあまり作られず、出雲の砂鉄と奈良の銅鐸を交易で交換していた
フトニの出雲攻撃は北九州の、物部の影響で銅鐸祭祀が廃れ始め、銅剣祭祀を始めたからだとされる
さて、阿波ご自慢の阿波の銅鐸だが、吉備か、物部にフルボッコされた証なんだよね
それも大型化した新しい時代の畿内型銅鐸w
阿波に言わせるとそれも阿波なんだそうだww >>286
くだらないコピペで、自分の嘘を自己紹介zw
〉今回の縄文時代中期の層からの出土はなかった。
ここで水銀朱が使われ始めた時期が、縄文後期だと裏付けられた。
最古級と最古は意味が違う >>288
あそこの土器は殆どが本物の展示なんですよね >>284
阿波人だろうねぇ、頭の中は
そんな事が裏付け取れたなんて話は考古学上存在しない
ものの言い方が阿波
卑弥呼の水銀だってよww 前1500に紀元後の2021出せばおおよそ時代もあってるのに口から阿波を飛ばして嘘だと叫ぶ阿波人w 約9000年の歴史のある宮ノ平縄文遺跡ww
朱塗の土器片が出土ww
http://tadoru-ono.com/osaka-335.html
元川上神社上社跡地より畿内最古(9000年前)の縄文早期前半時代よりの遺跡が発掘され、ここからはストーンサークルや数多くの土器などが出土しました。遺跡は湖底に沈みましたが、遺品は神社上社の直下にできた「森と水の源流館」に保存展示されています。
歴史の乗っ取りの嘘をつくのは朝鮮人と阿波だけにして欲しいものだw こんな昔から朱はあるのに徳島のだけは卑弥呼の水銀ってなんで分かるんだよw
阿波の水銀ですら畿内の人が開発してると考える方が妥当ww 青森式の土器は日本列島に浸透して、九州にまで影響をしている
そんな事も知らないんだろうな、阿波はw
水銀の話題は本スレには無関係
なんの関係もないベンチマーク かつて縄文の時代に北日本から九州まで広がった土器は亀ヶ岡式土器という
引用
〉 2)土器の赤色漆塗としても,朱が多用されている。
後の時代,特に亀ヶ岡文化と称される時代の東北北部の赤色漆塗土器は,ベンガラ漆の使用に圧
倒的な存在感がある。とすれば,先行文化としての下宅部遺跡の文化的状況は,亀ヶ岡文化にどの
ように繋がっていくのか。赤色顔料を手がかりとした議論が必要である
ベンガラから朱への移行が存在する
その源流は北日本から
阿波など、新しい歴史のものしかない 辰砂に関して
昔のは水水銀で、すり潰した程度のもの
採掘と呼べるレベルの物量としては阿波も弥生期以降
https://museum.bunmori.tokushima.jp/cc/51.htm
奈良桜井茶臼山古墳では200キロもの使用例がある 桜井茶臼山古墳の年代は卑弥呼時代にかかっており、鉱物品位や産出量ともにヤマト鉱床のみならず、他地域からも運ばれ、集約されていたと考えるべきレベルになっている 魏志倭人伝文中にある「真珠・鉛丹各 50 斤」 という記述の真珠は硫化第二水銀(真朱)のこと であると解釈されている。ここでは硫化第二水銀 を朱と呼び,以下用いる。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/117/5/117_5_948/_pdf 水銀がベンチマークとなり、記紀に関連するとなると「鉛丹」でなければならない。
しかし出土例がまだないのである。鉛丹が卑弥呼時代に存在していたという発見なら、大発見で当然に記紀の卑弥呼時代に関連しているものとして大いに議論されねばならない
水銀と硫黄から人工的に作る方が可能。中国では、1~2世紀には煉丹術(仙薬製造)をとおして合成されていたものと考えられている。
この時代は旧家の歴史で言えば、丹後と出雲の勢力が奈良の開発を行なっていた、初代神武の尾張氏や、分家の海部、三輪山祭祀世襲家の登美家の時代
この頃には既に板切れを組み合わせた構造船が九州でも奈良でも使われていた時代
青銅器の合金の技術が日本にもたらされた後なので生産そのものは可能な下地になっていたと言う仮説は成り立つ
おそらくだが日本の国産鉛丹の、理論限界は大陸の合成技術の歴史を考慮すると紀元後の卑弥呼時代には入っていても不思議ではない、と言う程度
しかし魏書は、大陸の言葉で書かれているので、やはり鉛丹であって辰砂ではないと言う議論はなされるべきである
どのみち辰砂では中途半端に早に古すぎて合わないのである
その辺、阿波は全く理解していない 辰砂からの水銀精錬法は古代から進んでおり、辰砂を400〜600℃程度で加熱する方法がとられた。加熱により辰砂は、水銀蒸気と硫化水素に分解するが、この水銀蒸気を冷やして金属水銀を回収する方法である。後に述べる丹生大師付近は、水銀鉱山の中心地でありその遺跡(鉱山跡地や炉の遺物等)が今も残されている。一方では経済繁栄の陰に、”ホムツワケ”が徘徊し、恐ろしい水銀中毒に苦しめられていた鉱山労働者の記録も残されている。
https://320-tanjo.jp/writing/essay1/
大陸の渡来人はこの温度による精錬方を持ち込んだのではないかと推測される
徳島の辰砂は、すり潰しただけのものであるはずだよ 仕方なく水銀を多少強引に記紀に繋げてみる
何故ゆえに古代豪族たちが、山奥の不便で狭く、沼地ばかりの大和をこぞって狙ったのか、辰砂を除けば他に理由は思い当たらないと言う考え方をする人もいる。
だって、単に国を名乗るだけなら伊都を首都に見せかけて、奈良を無視して瀬戸内海と、出雲で奈良の朝貢軍団を寸断すれば良いだけの話である。
それでも奈良に攻め込まねばならない理由、それが大和の水銀鉱脈を得るためだった、のではないかと言うことなのである。
神武や朝廷によって征伐された先住民「土蜘蛛」とは、辰砂に関わる人々の可能性が高まる。
蜘蛛の字を分解すると「朱を知る虫」と読めなくもない。
古事記の著者はここにメッセージを込めているのかもしれない。 水銀と出雲の風葬
出雲王国の前〜中期においては、王の遺体に水銀朱を注ぎ込み腐臭を防ぎ、数年後にモガリをし、遺骨を天宮山などの磐座に葬る風習があった
風葬は、当時の最高儀礼であったようである
紀元前6〜前3世紀頃といえば徐福時代より前になる。
不老不死の薬として水銀に魅入られた始皇帝が徐福を派遣し、最初に出雲へ上陸したのはそこに理由があったのではないか‥‥。
最初は彼はキチンと仕事をしようとしていたのかもしれないw 奈良県の名産品が水銀だなんて聞いたこともない。
少なくとも、支配者層が水銀鉱山の近くに住みたがったとは思えない。
そういうのは辺境の地と決まっている。
しかしそもそも奈良県にそんなに水銀が出るのか?
あそこの農作物はやばいのか? >>312
奈良って開けた場所以外は超ど田舎じゃん
それと水銀は昔は薬だったりしたからね
悪いものじゃなかったのよ
そんなものがヤバいのなら上高地もヤバいぞ
あそこは安曇が水銀取ってたんじゃないかって説もあるからね >>311
九州の産出量は同じ中央構造線でも少ない
まだ阿波の方が多いレベル
ヤマト鉱床が日本では最大 水銀朱だろ
染料の原材料だよ、
倭人らは赤い刺青をしていたんだっけ?
なら身体に水銀朱を塗っていた可能性あるな 赤染の原料やろ
陶器なんかでも水銀朱を塗って赤染やってるしな >>315
確か、水銀の考古学的編年では、卑弥呼時代はすり潰して粉には出来たけど、布を染めれる程ではない粒子の大きさだったみたいですね。
今の所の発掘の段階ですが 文献みたいのは読む気しないと思うので比較的短文で読み切れる水銀の話
https://ameblo.jp/314416tg/entry-11931526120.html
ここにも水銀の権益に関してサラッと書いてある
あと丹生都比売神社の数ですかね
ヤマト鉱床から三重当たりが物量的には多そうです
時代による産出量の編年からも、ヤマト鉱床と、その延長の東海方面は重要な山地と言えるでしょう
単純に鉱山の数なら北海道が上になるので、全く意味がない話になってしまうんですよね
記紀をある程度参考にした編年と産出量で、判断がされるべきかと
単純に鉄器の話をするのなら、邪馬台国時代は、既に九州は丹後に産出量で追い抜かれてます
じゃあその勢力は?、と言うことで考えがなされるべきです
残念ながら四国が中心になる事はありません
丹生都比売は、九州や伊都あたりから来たとか伝承がありますから
厳密に言うと丹生神社と丹生都比売神社は時代が違うらしい 考古学と地域伝承の連動性
https://ameblo.jp/314416tg/entry-11931468517.html
北九州と出雲の青銅器に関しては興味深い
倭国大乱期は何処と何処が争ったのか
日本書紀と、古事記の本来の年数が連動して考えられるべきである ここまで来ると記紀をすっ飛ばしてしまいますが、前10世紀からの朝貢に関する考察w
前600年台の出雲を超えてさらに古くなってしまうのですが、最近発見された佐賀の前10世紀の水稲遺跡からも昔よりは荒唐無稽な解釈では無くなってきたのではないかと
https://ameblo.jp/314416tg/entry-11931391008.html ベンガラから水銀の朱へと、
九州グループと、北海道グループ
最古の施朱の事例は北九州
水銀の権益が九州グループからのものではないかという考察
https://somosora.hateblo.jp/entry/2020/04/23/朱の国⑵ベンガラから水銀朱へ(前編) 大甕倭文神社 のお話が出ましたよね
甕棺には施朱がなされました
字が同じなのが気になりますね。共通性を見出すのは我田引水が過ぎますでしょうか? 紀元前後から4世紀頃までの古墳に使われた朱の産地を調べたところ、次のような結果になったそう。
・1〜2世紀頃は地域の王墓に中国産が使われる
・3世紀は中国と日本の混在もしくは国産に移行
・古墳時代が始まった3世紀後半から国産に限定
古墳時代以前は国産よりも中国産を使うことでより権威を示すことができたと考えられる。
コレは、邪馬台国が魏から属国旗を貰って東征を開始したことからも想像ができる。
遥か彼方の大国と交易しているわけで、権力の象徴にはなり得る
ちなみに中国産の朱を使っていたのは福岡の井原鑓溝遺跡や春日立石遺跡、出雲の西谷3号墳、鳥取の紙子谷門上谷1号墳、丹後の大風呂南遺跡、福井の小羽山30号墳、徳島の萩原遺跡。ほとんど日本海沿岸で古代から栄えていた地域。
これらの周辺の遺跡では同じ時代でも国産の朱が使われているそうである。 日本書紀
日本書紀には神武天皇の不思議な魔術が描かれている。
宇陀に侵攻し先住民と戦っている中、夢に神が現れお告げがあっ。
天皇はお告げ通りに丹生の川上で神事を行うことにする。
天の香具山の赤土で皿と壺を作ってお祀りし、そしてふたつの宣言をした。
@「この皿で水無しに飴を作ることができれば、武器を使わずに勝てるだろう」
A「壺を川に沈め、もし魚が酔って葉っぱのように浮いて流れていくなら、この国を平定できるだろう」
もちろん両方成功するのだが、@は水銀朱を加熱して飴のような水銀に変化させたのかもしれない。
「武器を使わずに勝てる」という文句も、ニホツ姫やサルタ彦大神が「刀に血塗らずして敵を服従させる」と言った、朱を匂わせる話の中で使われてきた。
東征側の新たな精錬法の話なのかもしれないね。 >>318
>じゃあその勢力は?、と言うことで考えがなされるべきです
少なくとも丹後は丹後であって、大和とは地理的に関係なさそうだ。
>丹生都比売は、九州や伊都あたりから来たとか伝承がありますから
そして九州伊都が全ての中心、と。 ニホとニフの違いに関して
結論から言うと倭国大乱期に丹生氏が紀伊にやって来たのか?
この時期は物部東征の時。2世紀後半か3世紀後半になる。
https://somosora.hateblo.jp/entry/2020/05/06/朱の国⑸朱の女神、ニホツ姫とニウツ姫(前編)
九州伊都周辺にはヒボコ族もいたし、大彦の一派もいた
いずれにせよ渡来系の別の勢力が邪馬台国時代に新しい精錬方を持ち込んできた可能性がある。
紀伊には伊都郡がある
安曇でもない勢力が全国に展開して採掘や精錬を行なっているのではないか
忌部は、徐福2回目の大陸脱出の際の一族にあたるらしく、忌部氏ではないと考えられる ニホは古く、神社の祭神も出雲系が多いとされる
つまり、風葬などで朱を使ってた出雲は採掘が上手く、ニフを持ち込んだ可能性のある勢力が、日本書紀に象徴的に書かれたのではないか? 話をまとめると、国家という概念が成立する前は、各豪族が少なくとも複数の拠点を持ち、少なくとも、そののたわれは貿易窓口の九州にあった
各豪族が単独で朝貢していた時期がある
それがヤマトではない金印
昔の朝貢は貿易的側面が強かったと出雲伝承にも伝わる
程なくして新しい加熱温度の調整で精錬する技能者が渡来し、品位の低い鉱石からも水銀回収が可能になる
品位の低い鉱石は鉱脈が蜘蛛の巣に近いようである→土蜘蛛
さらに丹生都比売神社には、加熱用の窯が遺物として残っている
かま、かめ、甕のじんしゃは塩ではなく水銀の関係? >>325
水銀の鉱脈は、中央構造線以外だと丹後方面にある 仮に伊都周辺の勢力が抑える事ができた、中央構造線に依存しない鉱脈は、博多湾から南下した鉱脈くらい
圧倒的に量が足りなかったのが、北九州の古墳に大陸由来の辰砂が使われた理由ではなかろうか
邪馬台国時代から、神功皇后期にかけての鉱脈は、都万国の領域
物部と宇佐の領域だった
神功皇后期にそこの覇権を握っていたのが武内宿禰の子孫、襲津彦だった。
彼は水軍も抑えており、先祖の竹内宿禰が出雲に匿われていた事もあり、出雲=ニフとも繋がりがあったと考えられる 平原遺跡の副葬品を見るに、そもそも舶来品を歓迎していたので、同じ水銀朱でも九州北部で使われていたものが最上品とみなされていたのだろう。 古代日本語でk-m-という語根は「ヒトの認知の向こう」という意味
神・熊・隈いずれもこの語根から生まれたことばで
後世「み」が割り込んでしまったけど「窪み」も元々は「くみ」
「土蜘蛛」と記紀に記されていても和語なんだから
わかるのは記紀で当てられた漢字は関係なしに「ツチクモと呼ばれていたという
記述が記紀にある」ということまで
神・熊と同様k-m-なんだから「ツチクモ」=「土着の神族」と言っているにすぎない
小野妹子が女でないように
記紀の「蜘蛛」という表記は節足動物の蜘蛛とは関係がない 記紀の大きな役目の一つに、万世一系「物部を隠す事」
あともう一つ、水銀を隠すことではなかろうか
自慢げに書いて、大陸に日本書紀を提出すれば、日本に攻め込まれかねない
現代でいう戦略物資のようなものだったと解釈すればなんとなーく通る気がする 記紀の違いなんて大した事ではないw
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1634172197/
邪馬台国は阿波?
神武東征は阿波市→鳴門市!?
総距離40km弱 クッソ笑える! 色々読み解くと、記紀やその前に編まれた風土記では、水銀の話が満載である。
各地の風土記と記紀
出雲国風土記、仁多郡、三津の郷
大神大穴持命(大国主)の御子、アジスキタカヒコは大人になっても話すことができなかった。大神が夢に祈願すると、翌朝御子は「御津みつ」と言った。そして外へ出て水が湧き出る泉を指し、その水を自ら体に浴びて浄められた。そのようなわけで、その泉の水は国造が神事前の禊ぎの水として使い始めた。今も妊婦はその村の稲を食べない。
尾張国風土記逸文、丹羽郡、吾縵あづらの郷
ホムツワケは7歳になっても言葉を発しなかった。垂仁天皇の后の夢にミカツ姫が現れ、私を祀れば御子は話すようになると告げた。神を祀る場所を占うために美濃国の花鹿山に使者を派遣し、吾縵郷とでたので社を建てて祀った。
古事記
ヤマトタケルが伊吹山での神との対決の後、疲れ果てながら揖斐川沿いに四日市から鈴鹿へ下ってくる。
途中、三重の村で「私の足は三重のまがりの如くで、ひどく疲れ果てた」と言ったのでそこを三重という、とある。
播磨国風土記
賀毛郡の三重の里では、女性が土地の筍を食べると足が三重に折れ曲がったので、三重といったとある。この隣には品遅部の村があり、鉱山の存在を伺わせる。
しかも品遅部の村の起こりは、応神天皇の世に品遅部の祖が2羽の鴨を射たことで土地を賜ったとある。討たれたのは出雲の賀茂であろうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています