日本書紀と古事記かいてあること違うじゃねえか
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日本書紀と古事記かいてあること違うじゃねえか。
▼古代天皇没年齢(日本書紀/古事記)
初代:神武天皇 127歳/137歳
2代:綏靖天皇 84歳/45歳
3代:安寧天皇 67歳/49歳
4代:懿徳天皇 77歳/45歳
5代:孝昭天皇 114歳/93歳
6代:孝安天皇 137歳/123歳
7代:孝霊天皇 128歳/106歳
8代:孝元天皇 116歳/57歳
9代:開化天皇 111歳/63歳
10代:崇神天皇 119歳/168歳
11代:垂仁天皇 139歳/153歳
12代:景行天皇 147歳/137歳
13代:成務天皇 107歳/95歳
14代:仲哀天皇 53歳/52歳
15代:応神天皇 111歳/130歳
16代:仁徳天皇 143歳/83歳
17代:履中天皇 70歳/64歳
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21代:雄略天皇 62歳/124歳 古史古伝を読んでも桓武天皇からしか整合しないからな。 日本を会社として考えると
古事記
⇒内部統制用の資料
日本書紀
⇒会社概要の説明資料
みたいなもんでしょ? >>443
古事記は「廃棄した筈のヤバい走り書き」だろう。 >>444
草
一応の立て付けは正史(事実とは言っていない)やぞ >>445
天武帝の悲願、稗田阿禮の魂、そして太安萬侶永年辛苦の結晶『古事記』。
それが遂に完結献上された日に宮中で交わされた会話を知る者は少ない。
「…おい、安。何だよコレ。オモテに出せねえぞこんなもん。誰がこんなもん書けって云ったよ…?」
「誰って、天武の旦那ですよ。」
「書き直せ。すぐ書き直せ今書き直せここで書き直せ。」
「ヤですよ何年も掛かりっ切りだったんですよもう草臥れましたよ。それに天武さんの肝煎ですからね、非国民って云われますよ粗末に扱うと。」
「うるせえ、書き直せ。とっくの昔に死んだ狒々爺ィなんか知ったことか。」
「やーだーくーたーびーれーたーっ。」
「いいよもう手前ェにゃ頼まねえよ。…お〜い、誰か舎人君を呼んで来てくれ〜。」
かくして本邦初の正史『日本書紀』が生まれることになるのだが−−、
それはまた別の物語である。
(了) 古事記は、各豪族がコーランのように節をつけて読み上げていた。
それぞれが、かなり違っていたので、天皇家認定の統一見解本を作ったのだ。
日本書記は、漢文で書かれている公文書。
外国人にも読ませる前提のもの。 >>447
それって古事記が書かれた理由だろ。
前文に書いてある。 だから答え簡単やん(°▽°)
日本の天皇は持国天王、多聞天王、増長天王、広目天王らと同格だよ その天皇の配下に日本神話に出てくる日本の神々がおる(゚∀゚) いまだに「日本書『記』」って誤記する奴がいるのか。 日本書紀の書き下し文
ttps://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/sp/pages/412.html 日本書紀と古事記は違う本だが新約聖書の福音書がよくわからん
なんで同じ事を微妙に違って記述した話がいくつもあるんだ 支配者を神の子孫とする宗教を国民に信仰させる
違うことを書いた書物を焼いた
残った古代文書は 天皇を神の子孫と書いてあるものだけ
インドや他の国でも普通にやられてる
bju 古事記によりますと
・初代神武天皇即位:紀元前660年
・始打候時動鐘鼓:西暦671年
古代の2年は現代の1年に相当することから、
真ん中を取って(660+671)÷2=665.5年…
すなわち西暦6年が実際の初代天皇の即位、
またこの西暦6年は仏滅紀元538年であり…
538年という数字に聞き覚えはありませんか?
→日本に仏滅が伝来したとされる西暦年です。 伊勢神宮はタタリ神天照を封じ込めるためにできた
だから代々の天皇は参拝しなかった 明治になって初めて参拝した
天照の子孫から この国を奪ったので 天照に祟られるようになった >>463(最後の一文、訂正)
正:→日本に仏教が伝来したとされる西暦年です。
誤:→日本に仏滅が伝来したとされる西暦年です。 古代の暦というのは太陰暦を基準としてるから
単純なものではない
つまり単純な2倍年歴ではない >>464
◆シン日本神代古代史◆
「高天原=邪馬台国=福岡」説の初論者(おそらく)は、益田謙三『赤裸々の神代』(大正8年)
・高天原=邪馬台国=福岡
・天照大神の生誕地は筑紫の日向
・天照大神=卑弥呼+台与
古墳時代(宋書倭国伝)は朝鮮半島の事を、日本書紀(神代上)では沖ノ島の事を「海の北」と記している。
これは、天孫族が九州北部にいた頃の名残である。
沖ノ島・大島・宗像の三女神は、天照大神の命令で天孫を助ける為に、天降った。
↓↓↓↓↓↓
・天孫(族)降臨地=対馬国・壱岐国・伊都国
天孫(族)ニニギ命=邪馬台国系の代官一族
ニニギ命の名前=アメ「ニキ」シクニ「ニキ」シアマツ「ヒコヒコ」ホノニ「ニギ」ノ命
邪馬台国から伊都国へ派遣されたの代官名は「爾支ニキ」
対馬国と壱岐国の代官名は「卑狗ヒコ」
日向三代は邪馬台国の代官の系統なので、独立した存在とは言えないから、天皇とは認定されなかった。
神武天孫族が畿内に独立国を成立させた。
その後継が、高天原=邪馬台国と勢力争いになった。
そして十代崇神天皇の御代に、かつて祖先が属していたた高天原=邪馬台国を制圧してしまった。
欠史八代は天孫族と高天原=邪馬台国との争いの歴史なので、古事記・日本書記の記述はカットされた。
・・・なので、天照大神=卑弥呼・台与に祟られる事となった。
崇神天皇は祟りを鎮める為に、
ニニギが台与から授かった、ヤタの鏡を地元神と一緒に宮中で祀ったが、祟りが収まらないので場所を替えて祀った。
そして後に、ヤタの鏡は倭姫に託された。
それが、伊勢の神宮の由来である。 白村江で倭国全体の統治権が邪馬台国から日本に移った
そう考えれば記紀はスムーズに読める 筑紫というのは九州島全体のこと
日向というのは宮崎の日向
神武天皇は投馬国の出身 残念ながら違う。
宮崎の投馬国は隼人の祖である海幸彦の国だからだ。
神武は海幸彦を筑紫から追い出して倭王となった山幸彦の末裔だ。
神武は福岡県の筑紫の出身。 >>470
そこは邪馬台国ではなく倭国とするべきじゃないかねえ。
少なくとも中国の史書はずっとそちらの呼称だから。
倭の訓読みがヤマトであり、九州北部のことなのだろうけれど。 アジアにおける文明の発祥は中国だから古代に日本に最初に起こった統一政権も大陸、朝鮮から来た者によって作られたと見るのが自然だ
それを認めるわけにはいかんのでストーリーが作られた 何故、古代にという表現をしたかというと
超古代には日本に大陸由来ではない文明が存在していたかもしれないからだ
あくまでも可能性としてだが 開化天皇の春日之伊邪河宮=宇美八幡宮
春日=春日市、伊邪河=井野川(伊邪国=井野)
崇神天皇の師木水垣宮=高良玉垂宮
師木=御眞木(御間城)、水垣=垂久米
垂仁天皇の師木玉垣宮=高良玉垂宮
師木=御眞木(御間城)、玉垣=玉久米
成務天皇の志賀高穴穂宮=香椎宮(逆読みでシカ)
志賀=志珂郷、高穴穂=穂高見命(海神族)
古事記をベースに考察すると全て九州
日本書記は畿内に移動してからの記述に過ぎない ワンピース 尾田栄一郎
キャラクター
ウソップ・ 山口勝つ兵
海賊「麦わらの一味」狙撃手。異名は「〝狙撃の王様〟そげキング」、「〝ゴッド〟ウソップ」。「東の海(イーストブルー)」のシロップ村出身。
ルフィの3人目の仲間。赤髪海賊団狙撃手ヤソップの息子。母バンキーナ譲りの長鼻(長さは13cm[24])が最大の特徴[注 1]。臆病でお調子者ながら器用で口八丁な射撃の名手であり、その手腕は仲間からも一目置かれている。一人称は「おれ」
チョッパー ・ 大谷育江
海賊「麦わらの一味」船医。異名は「わたあめ大好きチョッパー」。「偉大なる航路(グランドライン)」のドラム島出身。
ルフィの5人目の仲間。青い鼻のトナカイ。動物系悪魔の実「ヒトヒトの実」の能力者で、人獣型・人型・獣型に変形でき人語を話せる「人間トナカイ」。何でも治せる医者を目指している。一人称は「おれ」。 アサヒのやつは捏造が多いから
信じないほうがいい。
【古事記の辿った歴史(推測)】
『日本書紀』には『古事記』そのものは登場しない。が、蘇我倉山田石川麻呂(~649)が誅殺される際「好書」を残したという記述なら日本書紀にある。
それこそ蘇我馬子が厩戸皇子と一緒に作った『天皇記の写本=原古事記』であった。
だが前時代の支配者が作った史書ならば即座に隠匿せねばならない。
『天皇記=原古事記』は宮中書庫の奥深くに秘書として封じられてしまう。決して表舞台に出ることは無い筈だった。
しかし150年後、『日本書紀』の講義をしていた多人長が何故かこの書を発見!
正史と全く異なる歴史、豊かな神話が記された書本を見てびっくり仰天!
自家の権威付けのため利用してやろう!と考えついた
そういうことで、祖先太安万侶を顕彰し「古事記は稗田阿礼が暗誦して太安万侶が編纂したんだよ~」とする序文を追記。
んでもって流石にそのまま公開したら不敬を問われて処罰されるのがオチなので、一定程度日本書紀の記述と整合性を取りながら公開。
つまり、多人長のメンツのせいで内容全然違う『古事記』と『日本書紀』の二つの修史事業が平行して行われたとかいう意味不明トンチンカンな歴史になっちゃったわけな
タイムライン化しようか
【古事記の辿った歴史】
○[真]西暦620年
蘇我馬子らが「天皇記(大王記)」を編纂する。
○[真]西暦649年
蘇我倉山田石川麻呂さんが誅殺される。
重要な「好書=天皇記」を遺す。
●[偽]西暦712年
稗田阿礼が暗誦、太安万侶が編纂し「古事記」が完成。と古事記の序文に書かれている。
○[真]西暦800年前後
日本書紀講師の多人長さん、講義に使える参考書を探してる間に「天皇記」を発見
( ゚д゚)ハッ!
正史と全く違う記述に仰天&豊かな神話に感嘆し、自家の権威付けのため利用してやろうと考え付き先祖の太安万侶を編者とした序文を追加。
不敬を恐れ、ある程度正史整合性取れるように修正。
○[真]西暦812年
「古事記」の存在が初めて他文献(弘仁私記序:)に記される。
《紆余曲折、秘書扱いで近衛家書庫に封じられたり偽書扱いされたり...》
○[真]西暦1798年
本居宣長が「古事記伝」を完成させる。
彼が古事記を称揚した事により評価が一変し、日本書紀と並び評される神典として祭り上げられるようになる。
例えば日本書紀と古事記の違い。蘇我氏に対する姿勢
古事記には崇峻天皇が蘇我氏に暗殺されたなんて書いてないし厩戸皇子(聖徳太子)なんて一行しか登場してこない
でも日本書紀では、蘇我氏が崇峻天皇暗殺するような横暴極まる暴虐氏族になってるし厩戸皇子は大活躍する。つまり当時代の功績は蘇我氏の物ではなく厩戸皇子の物として描かれている。
つまり古事記が、親蘇我的で
日本書紀は、親藤原(中臣)的なのも説明付くよね
勅撰なのに、正史の「続日本紀」に登場してこない
勅撰なのに、無官の太安万侶一人で編纂
稗田阿礼は「日本書紀」にも「続日本紀」にも登場しない
性質の異なる二つの史書が、天皇(天武)の勅命でそれぞれ並行して編纂されるという不可解さ
全部説明つくね 記紀と旧事紀以外の上代の伝承はないとされているがそんな事はない
因幡伊福氏系図や海部氏系図や住吉大社神代記など記紀とは内容を異とする伝承が残っている
これ以外にも多くあったと思われるが長い歴史のなかで失われてしまったのだろう
宋書に神武は筑紫城にいたという記載がある
これは比叡山の僧が渡宋して中国側に伝わった知識だろう
記紀の説と違う内容だがここから比叡山と日吉大社にも記紀にない別伝があったと思われる
信長の比叡山焼き討ちが無ければ残っていたかもしれない
叡山の伝がどのようなものであったか今となっては不明だが古書に面白い記述が残っている
日蓮遺文の中に日本は三韓と同種であったがその類の書は桓武の時代に焼き捨てられたとある
比叡山は平安鎌倉の日本の最高学府であり記紀を超える史書が独自編纂されていても不思議では無かった
神武が筑紫城にいたというのは興味深い伝だと思う
日本では無理だろうが中国や韓国から日本に関する別伝が見つかること期待したい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています