家康の関西征伐
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まあ仕方ないんだね
関西人らは皆殺しにされてもおかしくないことをやった連中らの子孫だからな☹ 最後は西日本の薩長に征伐されて幕府は崩壊しましたw 大阪は市街が狭く、家屋には庭がなく、風通しが悪いものだから、商家の男は襦袢ばかりだし、
女は老若ともに諸肌(もろはだ)をぬいで平然としている。
(幸徳秋水・高知県出身) 大和武尊の東国征伐(神話)
大和王権の東国征伐(古代)
家康の関西征伐(戦国)
明治政府の東日本征伐(近代)
関東目線だと1勝3敗ってとこか 京都兵wwwww
『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」
『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」
『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」
『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」
『吉田定房奏状』
「戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんやwwwww」 橋下摂津守「学力もだめ、体力もだめな大阪の幕末維新、どないなっとんねん」
【幕末の学問】
『コンサイス人名辞典日本編』に採録された文人の出生地(教育社歴史新書84p57/塚本学/信州大教授/福岡県出身)
1801年〜1850年 ※江戸出生の大名は江戸生まれの人数に含まない。
江戸生まれ 73人
京都生まれ 11人
大坂+堺生まれ 5人
長崎生まれ 6人
その他 326人
幕末の大阪府は長崎市以下…
【幕末の武芸】
江戸(東京都区部)出身の幕末剣豪 → 男谷信友、勝子吉、寺田五右衛門、白井亨、高柳又四郎、千葉栄次郎、伊庭八郎、榊原鍵吉、山岡鉄舟…その他多数
埼玉郡(埼玉県東部)出身の幕末剣豪 → 秋山要助、岡田十松、戸賀崎熊太郎、中村万五郎
肥前国(長崎県)出身の幕末剣豪 → 中村一心斎、高尾鉄叟、渡辺昇
五畿内(大阪府+京都府+奈良県+神戸市)出身の幕末剣豪 → なし
幕末の大阪府は久喜市以下… ヤマト政権の母体は東海勢やな
ヤマトタケルも東海勢の一員
関西は歴史上何もしていない。じっと耐え忍んでいただけ 神武やヤマトタケルは史実じゃないもの
そしてアスカひとは朝鮮帰化人 朝廷(日本)から見た関東
後醍醐天皇の正中の乱の際に弁明した言葉がある。
「関東は戎夷(えびす)なり。天下管領しるべからず。卒人の民皆重恩を荷う。聖主の謀反と称すべからず。
但し、陰謀の輩あらば、法にまかせて尋ね沙汰すべき事の由これを載せらる、多く本文を引かる、その文体宋朝の文章のごとし(花園天皇記)」
この時代の公家の国家観は「天下」があって、その「天下」の中に「日本国」(畿内)と「外国」(周辺地域)が併存するというものであった。
彼らは観念の上で2つの国家という意識を持っていたである。そしてさらに天皇や公家の居住地である京都や畿内が清浄で周辺地域は野蛮で文化程度も低いという観念が横行していた。
この野蛮で文化程度の低い地域の代表が東国であると意識されていた。だから後醍醐は率直に「関東は戎夷なり」と言ったのである。
景行天皇は次のように述べられている(日本書紀)。
「東の国(関東)の人々は性質が凶暴で人を凌辱しても恥じることない。
国を治める人がいないので、領地争いばかりしている。
道を通る人に悪いことをしたり、苦しめたりしている。
蝦夷は男と女が雑居して暮し、親子の礼儀を知らない。
獣の皮を着て動物の血を好み、兄弟は仲が悪くて争ってばかりいる。
人から恩を受けてもすぐに忘れるが、人に恨みを持つと必ず仕返しをする。
仲間を集めては、大和朝廷の国境に侵入して農家の仕事を邪魔し、人を襲っては物を奪ったりして人々を苦しめている。」 関東は流刑地だった
十世紀初頭に成立した「延喜式」には、犯罪を犯した者が流される地域をその罪の軽重により、遠流・中流・近流と京都からの距離により、三地域に分類している。
ここに見られる遠流の諸国は伊豆・安房・常陸・隠岐・土佐の諸国である。中流地は信濃・伊予の両国であり、近流地は安芸と越前である。
古代においては罪が穢れと意識されていたことにより、遠流地は穢れの追放場所として意識されていた。東国については伊豆・安房・常陸あたりが穢れ地であり、国家の周辺地として意識されていたものとみなされる。
王都である平安京から離れれば離れるほど王権は弱くなり、穢れが強くなるという観念が古代・中世には強く存在していた。東国(坂東)の入り口である伊豆国は境界の地であり流罪の国としても有名である。
源頼朝をはじめとして伊豆に流された「犯罪者」は数多く存在した。畿内では伊豆は鬼が出現すると信じられていた説も有り、異類異型が出没する地域とみられていた。伊豆の国以遠の東国の諸国については推して知るべしである。 戦国時代の大阪、神戸、和歌山
人国記/摂津国
柔弱虚談之国風故武は用るに不足也。
人国記/和泉国
唯野狐に衣服をしたるに似たり。不頼也。
人国記/紀伊国
欲深きこと日本にも双ぶ国あるまじきなり。 征夷大将軍→夷(アズマエビス)を征伐する大和の将軍 903 名前:名無しさん[] 投稿日:2021/07/03(土) 22:05:43.96 ID:1hgB3PVR
首都圏大地震や富士山噴火したら
東北地方へも人が流れ込むから
受け入れ態勢できる心の準備をしておけ
明治維新以来、白河以北一山百文と差別されていた東北地方だが
東北人なめんなよ
↑
てめぇは贅六だろ知的障害w 904 名前:名無しさん[] 投稿日:2021/07/03(土) 23:27:26.80 ID:64NOZY9i
東北を選択することはないから余計な心配しなくていい
↑
知的障害贅六自演すんなカスw贅六は南海トラフで絶滅だから余計な心配しなくていい 日本の歴史上、口ばっかのヘタレしかいないと評判だった大阪人
↓
全国から集まった適塾塾生から「臆病」と馬鹿にされていた大坂の皆さん
『福翁自伝』より
「元来大坂の町人は極めて臆病だ。江戸で喧嘩をすると野次馬が出てきて滅茶苦茶にしてしまうが、大阪では野次馬はとても出てこない。
夏のことで夕方飯を食ってブラブラ出ていく。申し合わせをして市中で大喧嘩の真似をする。お互いに痛くないように大層な剣幕で大きな声で怒鳴って掴み合い打ち合うだろう。
そうすると、その辺の店はバタバタ片付けて戸を締めてしもうてひっそりとなる。喧嘩といったところが、ただそれだけのことで、他に意味はない。」
適塾塾生の出身地(適塾記念会)
大阪府出身19名←適塾所在地
福井県出身26名←橋本左内
岡山県出身46名←緒方洪庵の地元
福岡県出身33名←高松凌雲
大分県出身21名←福澤諭吉 >>11
東国の作った秩序はいつも腐敗停滞するから西国にしてやられるんだろ。
縄文時代しかり、明治維新しかり。 ▼正岡子規(愛媛県出身)
『和歌が堂上に盛なりし一事は、名所の歌のみならず、総ての歌を腐敗せしむる一原因とはなれり』
▼幸徳秋水(高知県出身)
『大阪は市街が狭く、家屋には庭がなく、風通しが悪いものだから、商家の男は襦袢ばかりだし、女は老若ともに諸肌をぬいで平然としている』
▼正岡子規(愛媛県出身)
『小倉百人一首は悪歌の巣窟なり。万葉以降の歌人は、源実朝(鎌倉人)と田安宗武(江戸人)との二人なり』
▼安岡章太郎(高知県出身)
『ボクは京都の人の悪口を決して言いたくはないけど、我々が行くとよそ者というだけで、かなり差別されますねえ』
▼正岡子規(愛媛県出身)
『人間としては下等の地に居る、死に歌詠みの公家たち』 関西と関東での戦に対する意識の違いとは
関東は野蛮で憎悪に満ちている
関西は打算的で馴れ合う
伊東:その通りです。とくに景春は権威の内側にいたわけですから、その秩序を壊そうというのは、よほどのことがないとできません。とくに関東の戦いは「やるかやられるか」になることが多く、畿内に先駆けて戦国時代に突入するというのは、必然的な流れだったかもしれません。 享徳の乱が大義を巡る争いであった一方、同時期に京都を中心に繰り広げられた応仁の乱は、家督や権益の奪い合いでした。関西と関東では戦に対する意識が違うようです。
本郷:時代を先取りするコンセプトは関西で生まれ関東に波及していますから、大義をめぐる争いというのは遅れていたと言えます。関東では相手の息の根を止めるまで合戦を続けていましたから、当時の価値観でも野蛮です。応仁の乱の指導者は、皆な畳の上で死んでいますから、ガチバトルではなかった。
伊東:関東では平将門の時代から、関東全域に縦横無尽に馬を飛ばし、あちこちで命懸けの戦いが繰り広げられているイメージがあるので、畿内の戦いとは概念自体が違う気がします。 関東の戦いは荒ぶる鎌倉武士たちの流れを引き、怒りや憎悪といった感情によって相手を倒すまで戦うというイメージですが、畿内の戦いは利害や打算が働いており、馴れ合い的な印象もあります。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています