古代天皇はなぜ100歳を超えるのか ★ 4 ★
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。
文字があったのなら王統の伝達は可能なわけで、
7世紀の朝廷はそれまでの王のおおよその実年を把握しており、
後漢書東夷伝のAD107年の倭国王師升(Shuai sheng )がスサノオだと分っていたでしょう。
白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
かつてヤマト民族の始祖たるスサノオまでが生口160人を捧げて朝貢し、
後漢・安帝に謁見したいと土下座した事実は、
白村江敗戦という傷口に塩を塗られるように惨めであり、
自尊心がズタズタであったでしょう。
だから、7世紀の朝廷は記紀編纂に際し、古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、
時代を大きくずらす事でごまかしました。
また記紀編纂者たちはスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代になることも分ってたでしょう。
だから記紀において神武東征をやたらクローズアップし、まるで男王国であったかのような脚色をして、
卑弥呼(Bei mei hu)、比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、
つまりヒメ(蹈鞴五十鈴)后の記述を最小限にとどめました。
そして神武天皇即位をBC660年という途方もなく遠い過去に葬り去りました。
神武以降の天皇もそれに合わせました。
これが古代の天皇が100歳を超える日本の歴史の真相でしょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1619554762/l50 >>881
〉日本書紀によれば、山陰出雲では崇神により出雲振根が殺され、祖先から伝わる出雲の神宝を奪われている。
そして次の垂仁の代に出雲大社を建てて出雲の大神の祟り、つまり振根の祟りを封じ込めている
出雲大社は、元は杵築大社といい、実は記紀成立前後に出来ています。
あの辺りでは、奥出雲の熊野大社、松江の神魂神社の方が圧倒的に古く、神魂神社で言えば用明天皇期にはあったそうです
大国主は神門臣家の八千矛で、元々は雲南の三刀屋神社で既に祀られていました
国造職が廃止され、国司がおかれてから、失職を恐れた千家が神社の共同運営を元王家に持ちかけます。
資材と土地は神門臣家が、資金の大半は向家が出資し、大社の鍵は神門臣家の分家の別火家が管理して、千家は勝手に大社に入る事すら出来ませんでした
それが今では、式年遷宮の際に、特別参観者に、天皇陛下でも勝手に入れませんと自慢げに説明するほどにww
千家が封じているのは自らが手引きして滅ぼした出雲王家の御霊が祭神だからです。
普通の人には怨霊でも何でもないんですよ >>874
高尾張邑は、イソタケル=カゴヤマの息子の村雲(系図上の神武=海幸彦)が、丹後から移動してきて最初に拠点にした所で、二上山近く。
笛吹連や尾張氏と呼ばれた人の拠点です
神武の宮とされたところはこそからすぐ近くなんですよね >>882
〉彼らは神武天皇と共に九州からやってきて、神武天皇のお墓を守り続けてきたという伝承を持つ。
自分は、この集団は久米ではないかと思っている。
根拠は久米の居住地・橿原市久米に近いこと、
また久米は神武東征の大久米以降、なにやらメインストリームに出てこず、
没落したのではないかと考えられること。
おおお。
出雲伝承ですと、崇神は奈良入りする前に九州で没し、魏書にも載った、イサチイリヒコイクメが実際に奈良を掌握したとあります
彼は崇神こと、イニエの実家近く、イキメで生まれた為に、イクメノコと呼ばれたそうです
生駒山や、クメの地名に因んだ名前。九州から来たとされるのならバッチリハマりますね >>887
伊都チョンや@阿波に聞かせてやりたい言葉ですな >>901
高尾張邑は、古来から高天原と呼ばれる奈良県御所市高天。
神武の真の宮とされる柏原は、今では同じ御所市内だけども、
歩いて1時間半という感じかな。
御所市高天から少し下ると、神武の墓があるといわれる畝傍山を見下せる。
見下せる位置に初代天皇・神武の墓がある。
これはどういう意味か。
神武という男は「大王(おおきみ)」ではなかった。
高天原の神々ではなかったという事。
神武の義理父の事代主こと「えべっさん」が真の「大王(おおきみ)」。
神武というのはその娘婿。
ちょうど真子様と小室圭の関係に似ている。 >>897
国譲り事件の頃の事代主奥さんは摂津の大豪族三島家の人。ミシマミソグイヒメ。
あの家との協力ががなかったら奈良の発展は無かった >>899
飯入根は確か出雲王家の親戚で、大国主でも事代主でもなかったと記憶しています
景初時代の邪馬台国事件の際に物部と、タジマノモリとの戦いで、タワヤマか、ムキバンダの拠点のどちらかで戦死しているそうです >>899
〉山陰出雲では考古学的にも4世紀を境にした時代にしか大きな変化はない。
四隅突出型墳丘墓は厳密には古墳というカテゴリーではない様ですね。
あの古墳の源流は吉備国との境の山間地域らしく、初期型の物は突出部分が小さかったはずです
吉備の影響としては、突出部に、円筒埴輪の前の特殊器台が置かれた墳丘墓が発見されている事で説明ができます
4世紀だと既に物部政権末期から神功皇后にかけてですので、墳丘墓からの視点としてはそれで合っていると思います
しかし、出雲の青銅器はもっと古いですよね
実用鉄器が我が国に導入されるのが三世紀頃。
その鉄器以外の物では、出雲、九州、奈良にはそれ程の文化差無いはずなのです >>904
〉神武という男は「大王(おおきみ)」ではなかった。
高天原の神々ではなかったという事。
あ。何となく分かってきました。
金剛山麓の土蜘蛛塚のある辺りには高天原伝承が有りますよね。
九州から来たイクメは前政権の娘、ヒバス姫を娶りましたので、バッチリ婿的な立ち位置ですねw ただし、開化天皇の前、クニクル大王の代でイカガ何とかと言う物部の姫が母系で嫁入りしているので、物部系のイクメには何の権利もない純粋な入婿かと言うと、そうでもないのです >>881
出雲十神宝に関しては、詳しいことは伝承にもありませんが、取り敢えず、邪馬台国事件の後、出雲王国が第17代の山崎帯以降に奥出雲に建てられた熊野大社に安置されていたそうです
その中には、徐福が八千矛に献上した銅鐸の元になる青銅器と、勾玉があってそうです
三種の神器の出所の推測として、鏡の物部、勾玉の出雲、熱田の草薙の剣がありますが
確か、鏡は継承の儀式からは外されていませんでしたっけ?
あと、草薙の剣の本体は熱田にあり、元々の社家の尾張氏の所有でした
鏡に関しては、出雲伝承に於いては銅鏡祭祀が2世紀に物部五瀬軍、いわゆる磐余彦により持ち込まれたとされますが、最近、近畿から紀元前後の小型の国産鏡と、原初の製鉄遺跡が出ましたので、厳密に九州物部の象徴かと言うと、考古学的には古くからあったのでは?という考え方を持っています
それとその遺跡、摂津との交流を伺わせると言う内容なので、摂津にはもっと古い小型の国産鏡か、製鉄の遺跡が出ているのかもしれませんね
タタラ、いすゞは、製鉄用語です
伝承に従えば、ヤマトからは前2世紀の製鉄遺跡が出てもおかしくはありません >>907
>四隅突出型墳丘墓は厳密には古墳というカテゴリーではない様ですね。
あの古墳の源流は吉備国との境の山間地域らしく、初期型の物は突出部分が小さかったはずです
突出部分が小さかろうが古墳。
高塚墓の発祥は出雲である。
>4世紀だと既に物部政権末期から神功皇后にかけてですので
4世紀こそ物部の全盛期だ。 >>911
学術的にはどれだけ巨大でも出雲それは墳丘墓扱いなんですよね
私もそれはおかしいと思います
四隅突出型墳丘墓の古い物の話は一般的にいわれている事で、出雲伝承は関係ありません
前方後円墳の元になっているのは吉備の楯縫だかなんだかの弥生式墳丘墓という説があり、特殊器台が有名で、出土品の独特な模様が巻向の木製品からも出土していて重要視する研究者がいますね >>911
〉突出部分が小さかろうが古墳。
高塚墓の発祥は出雲である。
確か、島根県だかなんだかの資料で検索してた時に、今までとは違った埋葬方法を作り出そうと言う機運が高まった時期があって、それで古墳が作られる様になったと言う書き方をしてありました。
んで、元々は出雲親戚であって、奈良から追い出された孝霊天皇の吉備国が、新しいことをやり出した
それが古墳祭祀という流れを個人的に考えています。
というのは、元々出雲最高礼装は風葬だったからです。
磐座祭祀、アメニズムですね。
遺体に朱を流し込んで、とある山のあたりでヒモロギを作り、数年後に洗骨。
磐座に埋葬したとあります。
ヒモロギの現物は神魂神社に常時展示してありますね。
向井家の磐座は、奥出雲の天宮山。今は天狗山と呼ばれています。
どうも磐座の右側の下の部分が納骨する場所だったみたい。
磐座の下に湯呑みが押し込まれています。
死の汚れを極端に嫌う出雲に古墳という考え方が生まれたのは他地域からの影響だったのではないかと思います。
四隅突出型墳丘墓のデザインは出雲独自のものだと思います
ちなみに、千家は、水葬と決められ、出雲には千家の古墳は一つもないそうです
だから後年、千家は出雲臣家を名乗り出したのかもしれませんね。 >>899
フルネの話
所謂邪馬台国事件、第二次物部東征で出雲は滅びます。
当時の西出雲王家の神門臣家の大穴持が「遠津山崎帯」
王宮は出雲大社近くの真幸ヶ丘の北方(出雲市神門町、智伊神社の辺り)
当時の東出雲王家の少名彦が「富太田彦=野見宿祢」
王宮は松江市の神魂神社
東征軍の集結地は、現在の石見の国の物部神社。
宇佐家豊彦の息子の八綱田・菟上王が進軍を開始する
西出雲側陣地は東征軍の侵入経路を想定して幾重にも堀を作って備えていた。
ところが東征軍はそれを知っていたかのように、空いている側から攻め込んで来た。出雲伝承では千家(ホヒ家)のウマシカラヒサと息子のウカツクヌが道案内をし、東征軍の手引きをした。
これは東出雲王宮においても同じで手薄な経路を手引きしたそうだ。
まるで秀吉の朝鮮出兵の時の朝鮮人の様である。
神門臣家の将軍、「振根」はここに残って王宮を守る為奮戦するも戦死。西出雲王宮は東征軍に占領される。
王宮を占領された山崎帯王と多くの西出雲軍は、南方の古志町に逃げて久那子(現久奈子)の丘に集結する。ここはサルタ彦大神のこもる聖なる鼻高山を遥拝する出雲の霊畤であった。丘の上に新しく宮を建て、体制の回復を図る。
しかし攻めて来た東征軍と激しい争いを繰り返した末に、山崎帯王が降伏。東征軍将軍の物部朝倉彦と山崎帯王との間で講和条約が締結。そしてこの久那子の宮が「和秤宮」と名付けられ、この名が江戸時代まで使われていた。今は出雲の大神であるクナト神の息子神、サルタ彦にちなんで久奈子神社と変わっている。 >>899
イリネの話
対して東出雲王宮を攻撃した東征軍の大将は、熊野系物部軍の十千根入彦
物部本体の吉備国との戦いの後、出雲に進軍してきた。
戦線を変えながら応戦するも、田和山神殿の戦いにて「飯入根」が戦死
能義郡の白田村で激戦が繰り広げられるが多勢に無勢の中、東出雲軍は戦闘を諦める。
副王である富太田彦は軍の解散を宣言。戦後処理を王家に仕えていた千家のカラヒサに任せて奥出雲に逃げ込む。
カラヒサと十千根入彦の間に講和が結ばれ、出雲は滅んだ
富家(向家)は奥出雲の熊野で、熊野大社の元になる邸内社、クナト社を建て、始祖のクナト王と、事代主を祀った。
後にそこは八神群の一角を担う、熊野大社になる。
出雲において、王宮後の神魂神社と、熊野大社は出雲大社より格上。出雲大社より先に成立している。 つまり出雲10神宝事件は、邪馬台国事件、物部東征(記紀では神武東征)において滅んでいる
古事記
ヤマトタケル(景行天皇の御子に挿入された架空の人物、物部王朝時代)が出雲の頭目、イズモタケルを倒しにいく。まずは友の契りを交わし、心を許させたあと、水浴びをしている時に偽の剣とすり替え、その後太刀合わせを願い出、斬り殺してしまう。だまし討ちの後、ヤマトタケルはイズモタケルを嘲る歌をうたう。
日本書紀
崇神天皇(実際には大和入りしてない九州で没したイニエ)が出雲大神の宮に収めてある神宝を見たいと言い、武諸隅(十千根)を遣わす。出雲振根(西出雲王家)が神宝を管理していたが筑紫に行っており不在。その弟の飯入根(東出雲王家)が皇命を承り、弟(実際には部下の千家=ホヒ家)のカラヒサと子のウカツクヌに持たせる。出雲振根は帰ってきてそのことを聞いて怒り、弟の飯入根にたやすく神宝を渡したことを責め、水浴びに誘った際に、兄は弟の剣を偽ものとすり替え、斬り合いとなって弟を斬り殺す。兄は弟を嘲る歌を歌う。
このことをカラヒサとウカツクヌが朝廷にチクる。そして吉備津彦とヌナカワワケを遣わして、振根を殺させて終わる。
物部本体に滅ぼされた吉備と、何故か大彦の息子のヌナカワワケを登場させて出雲の滅びを内紛という事にして隠ぺいした。
古事記は朝廷が出雲を征服したと書き、日本書紀ではそれを隠すため出雲の内部抗争によって滅亡したとした。
水浴びでのだまし討ちや嘲りの歌など全く同じ話を使って、本筋を異にしている。
太安万侶、柿本人麻呂の間で表現が異なっている。 トオチネイリヒコの子孫は秋上氏と名を変え、後年出雲王家側と和解。
フツの御霊を剣神社に移し、和解の印として千木の半分を、出雲式、物部式として建立
王宮後はその後も継続して管理を向家から任され、現在に至る。
神魂神社の祭神を出雲に戻した際に、クナト大神と、姫巫女の幸神(サビヒメ)を名前を変えて祭ることになる。
それが我が国で初めてのイサナギ、イザナミになった。これが記紀に書かれることになる。
これが現在の海部や藤原の母系の血筋、出雲の血筋の尊重の形として残る事になった経緯。
イザナギ、イザナミは九州には行ってない。 少なくとも@阿波や伊都チョンの話がチャンチャラ可笑しいのは明らかw
薩摩隼人が海幸彦だってよ。プッw
少なくとも依存するものが記紀である以上、九州説は説明できない。 >>916
訂正
>つまり出雲10神宝事件は、邪馬台国事件、物部東征(記紀では神武東征)において滅んでいる
>つまり出雲10神宝事件は、邪馬台国事件、第二次物部東征(記紀では神武東征)において滅んでいる出雲の事が書かれている訳です。
トオチネは、160年代の第一次物部東征の際に奈良入りした物部氏で、それゆえ熊野系物部氏と書きました。こっちの熊野は和歌山の方の熊野の事です。
記紀における入彦、入姫は、東征に絡んだ重要人物です。 出雲国風土記にこの第2次出雲戦争のことがさらりと書かれています。
〈意宇の郡、母理の郷〉
天の下をお造りになった大神大穴持の命が、越の八口を平定なさってお帰りになる時に長江山においでになって仰った。「私が造って治めている国は、天つ神のご子孫が平安な世としてお治め下さい。ただ出雲の国だけは私が鎮座する国として、青垣のような山々をまわりにめぐらして、(霊力のこもる)珍宝を置いて国を守りましょう」と。
つまり、出雲国を除く広域出雲王国の支配権を物部王朝に渡したということです。もちろん出雲国とて国造は物部の支配下にあります。ただ、王家の血筋を絶たれなかったことは幸いでした。財筋たからすじとして王家は秘密裏に存続してきたのです。そして歴史の表舞台からは消えましたが、その財力と他豪族へと繋がっていた血脈によってその後も影響力を持ち続けます。また、日本の歴史を裏側から、第三者の目で見続けた稀有な存在として今に至ります。 >出雲国を除く広域出雲王国の支配権を物部王朝に渡したということです
物部王朝というのは物部の女性・イカガノシコメを母に持ち、ハツクニシラススメラノミコトと呼ばれる崇神以降だな。
ただ崇神は振根の出雲国も倒しているし、四道将軍は東北の会津にまで古墳群を残すので、ほぼ全国制覇と言ってもいいと思う、もちろん残存反抗勢力はあっただろうが。、 >>921
はい、分類上は崇神からと言うことになりますが
実際の重要人物は子供の垂仁のイクメの方で、彼が奈良と出雲を倒しました。
崇神の任務は、諡号をいじり、任那から来た様に見せかけることです。
物部関係者が諡号を付けましたが、記紀には逆らえずだったのでしょう
当時の日本は長野県あたりまででした。
後年の平家の落武者ですら、逃走としては長野より北は行っていないそうです
坂上田村麻呂が長野県に来たのはそう言うことなのでしょう
つまり会津は当時は訳分からん土地で、大彦と、息子のヌナガワワケは、朝廷の大将ではありません、やられちゃった前政権、神武の政権の王族です
前方後円墳は、物部に限ったものではありません
前政権も作っていました。故に東国に前方後円墳があるのです。 皮肉にも、物部政権の証明が、邪馬台国=奈良のヤマトになるのです。
二度にわたる物部のヤマト攻撃は、魏書の解釈上も、神武が神武を攻撃したと言い換えることが出来るものでした。
母系に物部の姫が入った開化天皇政権から見ても、大彦のクナ国(クナト国)は、物部にとっても共通の敵でした
開化天皇の息子は奈良の政党後継者、我こそがヤマトであると言える立場でした
故に、朝貢の卑弥呼たちが、我らはヤマトであり、クナ国と戦っていると申し出ても嘘にはならなかったのです。
そこに記紀の都合上、2回の東征が隠され、神武にされ、神武が神武を攻撃すると言う緩い誤認が真実とされ、書物として残されたのです。
大陸は最後まで東征軍がクナ国と戦っていると思い込んでいた様です
真実としては単なる利権継承者同士の内紛で、大陸としてはどちらの肩も持てない状態でしたが、朝貢メンバーの政治力が優ったのでしょう。
大陸から見たら邪馬台国は奈良のヤマトのことであり、我が国の内情を考慮した邪馬台国は、事実上、東征軍が集結した都万国と言えると思います。
大陸の記載上、東征という戦闘直前から始まっているので、国の実態がなくとも、大陸の誰も不思議には思わなかったのでしょう
事実、張政は、戦闘終了間近に、宗女トヨを金印の継承者として正式に指名して、戦乱の終結に導いています。
魏書を書いた人間はトヨと同年代の人なので、その辺はリアルに把握できてる立場だったと言えます >>874
>日本で、奴婢、または奴婢になったであろう集団が大量に誅殺された事件はこれしかない。
イスケヨリヒメが妃になる前の話だから、殉葬とは関係ない。
いい加減に妄想を繰り返すのはやめろ。
イスケヨリヒメが仮に卑弥呼だったとして、そこから二児を産んで、さらに90歳になってから殉葬が行われたはず。
半世紀以上も時間差がある。 >>879
>因みに伊都に関しては数行のみw
>記紀と同じでほぼガン無視ですw
そりゃあ、出雲にとって筑紫は天敵だろうからなあ。
それは伊都に王権を奪われたことを否定する根拠にはならない。 >>925
お前には話しかけてねぇんだよ歴史の冒涜者
さっさと自分のスレに帰れストーカー 筑紫の日向が倭国の王都であった時期があるということから目を背けてはいけない。
それこそ歴史に対する冒涜だ。 >>927
か え れ
と言われてるのが分からない段階で分かれや
ここはそんな下らない妄言を垂れ流すスレではない >>924
>イスケヨリヒメが妃になる前の話だから、殉葬とは関係ない。
いい加減に妄想を繰り返すのはやめろ。
何を偉そうに言ってるんだお前は。
日本に殉葬はない。
しかし奴婢の大量虐殺はあった。
卑弥呼が誰なのかスパッと言えない分際でほざくな ちょっとヨウツベ見てたら面白いことがあった。
横道にそれて申し訳ないが
https://www.youtube.com/watch?v=H9RcFp7PrRw
【ゆっくり解説】邪馬台国シリーズついに完結!? 邪馬台国の場所はズバリここだっ!
大陸が、邪馬台国への距離測に伝聞が入ってるんじゃないかという視点。
魏書の作者が過去の話のメモから書き起こしている所があるんじゃないかという点
そこから邪馬台国への道順を導き出している。
場所は日向。宮崎の西都原辺り。
面白いのは、ナ国が邪馬台国と名乗ったというところ。一見九州説ともとれるが
邪馬台国(東征軍)が伊都を窓口にしている連合国であったという点
マツロ国の立ち位置など、興味深い話になっている
日本の旧家も、東征軍は宮崎に集結し、敵は狗奴国と発言し、その実ヤマトを倒しに行ってる。
であるがゆえに、邪馬台国は奈良であり、魏書の朝貢の卑弥呼の名乗った邪馬台国は東征軍の集結した日向という話と符合する。
物部氏の隠された歴史に火がともり始めたような気がしてならない。 ここで出雲伝承の年表を出してみます。
和国大乱(147〜188)年代はおよそ。
150年 ヒボコの勢力が播磨へ侵攻
大和の豪族同士の覇権争い始まる(ヒボコに影響され領土拡張の口火が開かれる)
160年 吉備のフトニ大王(孝霊)が出雲王国を攻撃(第1次出雲戦争)
165年 葛城国分裂に乗じ、物部五瀬が東征を開始(第1次物部東征)フトニは奈良に戻れなくなり吉備国を建国
175年 八咫烏の引き入れで、和歌山物部勢の大和入り
183年 大彦が物部に敗れ大和から北へ退却(クニクル第八代孝元天皇の代で物部の姫を嫁に貰う)
所謂景初の時代は、吉備国が山陰と瀬戸内海を押さえており、畿内ヤマトが朝貢ルートを失っている時代でした。
それを踏まえて先ほどの動画や、魏書を考え直すと、驚くほど正確に魏書は卑弥呼の拠点に関して理解をしていたのかもしれないという事になります。
また、倭国大乱期から系図を戻していけば、なんとなく歴代天皇に比定された人物たちの時代が明らかになってくるのではないでしょうか?
キーワードはやはり物部氏ですよね。あれが記紀最大の秘密と言ってよいのでしょう。 孝霊天皇は倭国大乱の様子を視察に吉備行幸をしていた。
日野郡誌に詳細がある。 景初の時代は、葛城国が二度目の分裂を迎えていた時期でした。
開化の後のヒコイマス王の息子の代でサホ彦、ヒコミチヌシが勢力争いを始めます。
本来であれば強力な国家に成長していた吉備国を避けたいところでしたが、物部宇佐連合軍は真正面から戦いを挑みます。
物部本体は吉備国を倒した後、トオチネが出雲方面に展開
イクメはそのまま進軍しますが、途中の安芸の国で豊玉姫が病死。
仮埋葬は厳島で行われたそうです。それゆえ、トヨ姫、トヨ彦の奈良入りが遅れます。それが後にトヨ姫暗殺、豊彦の奈良追放に繋がり
ひいては、物部政権の弱体化の原因になっていきます。
物部政権が短命に終わったのは、宇佐を裏切ってしまったからとも言えましょう。
それと、武内宿祢を暗殺しようとして失敗し、その後の物部の子孫たちが平群、蘇我の政権で圧迫されるようになる原因になりました。
先の方が神武天皇陵に関して言及されていましたが、実に理にかなった考え方と私は思いました。
私も神武天皇陵の守り人たちが九州由来の方々であると思います。
ただ、イクメの遺骨の一部は九州に移され、イクメ古墳群に収められている様ですよ。 土蜘蛛と土雲
日本書紀や風土記では「土蜘蛛、土蛛、都知久母」と記されている。
Wikipediaでは〈上古の日本において朝廷・天皇に恭順しなかった土着の豪族などを示す蔑称〉とある。
単一の勢力ではなく各地に存在すると。国栖くずや八束脛やつかはぎ(スネが長い)とも呼ばれます。
・・・・・ナガスネヒコwwwwww
日本書紀では土蜘蛛のことを〈身短くして手足長し、侏儒と相にたり〉と表現します。侏儒とは小さい人のことです。
土蜘蛛は近世以降は蜘蛛のような妖怪として描かれ、これは朝廷が土蜘蛛を迫害し征伐したことによる怨霊の意味があると思われます。
記紀では神武天皇が大和に侵攻した時、「高尾張村にいた土蜘蛛」を征伐しています。のちにその地を葛城と改めたとしていますが、出雲王家の伝承によると、元々、高尾張村には海部氏の祖である尾張家が、葛城には出雲の加茂家が住んでいました。神武東征以前、両者は親戚となって村雲王から始まる大和の国を治めていました。
つまり、神武が物部であるならば、当然に二上山から金剛山のあたりは蹂躙されたでしょうね。
蜘蛛という字をよく見ると、「朱を知る虫」と書かれている気がする。もしかしたらこの字はこの時代に作られた文字かもしれない。
朱とは辰砂、丹砂、朱砂のことであり、中国の皇帝たちも求めた不老不死の薬であり、錬金術によって金を産むとされた鉱物であり、日本では縄文時代から日常的に使われていた鉱物。
古代では特に大和で多く産出しました。この辰砂を採掘していたのが土蜘蛛の可能性は無かろうか?。
三重の鉱床ですら大和鉱床の一部であり、宇陀では古くから採掘されてきました。
また朝廷が土蜘蛛を征伐する時、「誅殺」とか「誅伐」と書かれます。ここにも朱の字が入っています。
罪を咎めて殺すこと、らしい。
記紀や風土記を読めば、先住民への虐殺のように思えるのは当然だと思いますが、記紀においては日本の国力=水銀の事が凄くよく書かれているような気がしてならないのです。 宇佐家極秘口伝書
伝承を持つ旧家がいくつかあると書きました。
そのうちの宇佐氏は既にかなりヤバい線を走っています。それが物部氏に関する事柄
大分県の宇佐神宮宮司であった故宇佐公康氏(宇佐国造池守公より57世)が、宇佐家に代々伝わる極秘口伝書の内容を1990年に著書「古伝が語る古代史」にて公開している。
次世代に受け継ぐ者がいないため、一子相伝の「口伝書」と「忘備録」を世に公表して残そうと決意。
ただし引き継がれたそのままの形ではなく、氏が口伝書を考証しながら、その解説として記されているので、内容すべてが口伝そのままではないらしい。
まあこれは出雲伝承も同じだとは思いますが。
今更ながらですが、宇佐神宮は全国4万社以上ある八幡宮の総本社。
一時は伊勢神宮を凌ぐほど皇室と密接になり、崇拝されてきた経緯がある。
この宇佐家伝承によると、物部氏の原住地は筑後平野で、「高良神社」が氏神であり、「神武東征以前」にニギハヤヒが部族を率いて大和へ移ったとあります。そして崇神天皇は物部氏の首長であったと。
記紀に触れる物部五瀬は避け、饒速日としている処はエスプリを感じますな。
《 筑後一宮、高良大社(久留米市高良山)の祭神である高良玉垂命こうらたまたれのみこととは誰なのか。
古代史界では謎の存在であるようです(ゲフンゲフン)
九州王朝説の古賀達也氏によると、4〜6世紀の九州王朝の都が筑後地方にあり、この高良玉垂命は天子の称号で歴代倭王であるとしている。
さらに玉垂命の最後の末裔とされる稲員いなかず家の家系図があり、初代玉垂命とは物部保連やすつらであると記されています。(ゲフンゲフン) また高良大社の文書、高良記(中世末期成立)には、「玉垂命が物部であることは秘すべし、それが洩れたら全山滅亡だ」と、穏やかではないことが書かれている。
「出雲の伝承」では筑紫は2世紀まで物部王国だったとの事である。
武内宿祢の子孫の系譜である、蘇我氏出身の推古天皇(在位593〜628年)が587年に蘇我が物部を滅ぼしたことを気にして、吉野ヶ里に近い三根の郡に経津主ふつぬしの神(物部の祭神)を鎮めるための社を建てたそうである。
その地は物部の郷と呼ばれていたそうだが、記紀に物部のことが書かれなかったことから、忘れられていったという。
現在では九州説を研究する人ほど、物部の影が見えなくなるというジレンマを抱えているように思う。 何故徐福時代の吉野ヶ里を物部の故郷と思ったのか。それは「謎であるゲフンゲフン」 >>938
高良玉垂命は4〜6世紀という事なので、大和への東征に参入しなかった物部の一派がその後も筑後に残っていたという事は当然に考えられることですよね。
ただ、その後の偽装が余程完ぺきだったのか、高良玉垂命=武内宿祢説まで出ていますよね
私はそのまま垂の字から垂仁=イクメの事かと思っています。
何しろハツクニシラスの子供ですからね 諡号を付けたのは物部氏
奈良時代後期に「文人の首」とまで称された人物が、石上宅嗣と淡海三船であり、当時の文人として名を馳せました。
淡海三船(おうみのみふね)
【生没】 養老6年(722年)〜延暦4年(785年)
【父】 開花天皇(第2子)
【母】 伊香色謎命(大綜麻杵の娘)
開化天皇は、母系が物部。伊香色謎命も物部(クジホンギに出ていますね)
帝紀の編纂委員会から思いっきりハブられていた物部氏ですが、バッチリ良い役目を貰ってたのではないかと思います。
その後も活躍してたんじゃないかと思いますよ〜 九州王朝に詳しいねえ。
玉さんは知っていたが、研究してわけがわからなかった。
年号もうんと出てるし、当時の政局は畿内と九州の二本立てだった。
大陸は卑弥呼当時鼎の三分の政局だった。日本も単一政局でなかった。
コチラは倍暦での仏伝までの年代研究をメインとしてたので、同王朝は貴殿
のほうがずっと詳しいな。 >>941
物部王朝は本当に復元可能だと私は思っているんです。
仮に出雲伝承が正しいとして、祖は奈良と九州が同じだとすれば
邪馬台国時代までは第八代。
それくらいの短い家系図すら秘密にされるほど、物部の歴史は隠されてきたと言えます。
でも、絶対に居るはずなんですよ、口伝か何かで必死に守り続けてる人たちが。
筑紫舞の継承者の師匠、菊邑検校さんも、それを知ってた節があります。
筑紫舞の本来の舞い手は九州の出でないと意味がないそうですね。 >>931
実年代が
孝霊即位年=162年
で、貴殿の年代の主張はだいぶ合ってるね。 >>941
倍歴のお話ですが、面白いことがありまして
結果から言いますとインド式の暦という説があります。
宇佐氏は出雲族が渡来してくるより前から土着していた一族だったそうで
出雲族が渡来した時期に関して言及しています。
時代差はありますが、出雲の伝承だと、インドからロシア経由で日本に来たそうなんです。
そして暦の話になりますが
初代主王の王宮は大神山(大山)を望む現松江市大庭の神魂の丘にありました(東出雲側)。
春分と秋分の年2回、各地の豪族たちが集まって、主王の后が司祭となりクナト大神を遙拝。
拝所を霊畤と呼び、大祭をマツリゴトと言ったそうです。
主王と副王が各地に出掛けて、豪族たちに参加するよう声をかけました。力ではなく言葉による統率です。訪れる人はその土地の土産を持って集まるようになりました。
インドの風習と同じく春分、秋分それぞれが元日としていたそうで180日が1年です。 歴代大名持は岩をよく拝んでいたので、岩神、伊和の大神とも言われました。
古事記では大山津見の神が、娘の木花開耶姫コノハナサクヤヒメと石長姫イワナガヒメを天孫ニニギノ命に差し出すも、醜い石長姫は突き返されてしまいます。そこで大山津見の神は怒って「天つ神の命は岩のように永遠のものとはならず、花のように短くなるだろう」と告げました。
古事記の中では大山津見の神の娘が実はもう1人いて、コノハナチル姫です。スサノオ系統の息子の妻ということになっていますが、スサノオは出雲族ではありません。そしてその息子とは出雲3代主王であり、生まれた息子は4代主王です。石長姫とコノハナチル姫は同一人物であることを暗示しているのでしょうか。
石長姫は縄文の女神であろうと言われていますが、詳細はわかりません。Sorafullには出雲を象徴している気がしてなりません。大山津見の神(クナト大神)の子であること、そして大国主が岩の神と言われていたこと、また天孫族の寿命が短くなるということは、インド式の1年で2歳年をとる数え方から現在の1年1歳に変わることで年齢が半分、つまり寿命が半分になるからです。
古事記では何か表現したいことがあったのかもしれませんね 実は、私は虎の巻があるのです。
出雲伝承の本と、それらを詳しく説明したブログ。
本を読んだだけでは足りなくて、独自の情報を補完したような視点が非常に参考になって抜粋をここに乗せています。
私は受け売り以外の情報以外の核心的情報はあまりありません。自力で研究、独自の理論に到達した方に比べれば足元にも及びませんです。
30年以上前から出雲の歴史には注目してて、昭和の徳間書店の謎の出雲帝国、から全国歩き回って神社も実際に見てきただけの人間です。
大国主が幽閉されたと伝わるもう一つの神隠れの岩屋とかも見に行きました。足を使うほうが得意です。
今回は、色々引用してたのはSorafullさんのブログですよ。
出雲伝承には水銀の事、筑紫舞等の話はほとんど書かれていません。
出雲伝承は考古学の編年と完全に一資するほど発掘が進んでいる訳ではありませんのであくまで説という位置づけですが
出雲以外の歴史を継承する旧家からしてみても、大陸の歴史書は驚くほど正確に書かれているそうですよ。 インドも2倍暦を行使してたと思ったな。少し調べたことがある。
ノートに書きこんでたな。
世界で結構2倍暦等を行使してたから、日本も例外ではないと思う。
でも否定論者はかなりいる。紀の日数、月数統計をやれば、いくら彼らが否定
しても崩せないと考える。否定するのは殆どが卑弥呼畿内説が成り立たなく
なるから、統計表を色々見せても必死に連中は否定する。
だが表から歴然として二倍暦等やってたのが分かるね。 神無月、出雲では神有月と言うそうですが、出雲の文化は物々交換の様なものが非常に発達してて
ある地方で職利用が足りないと色々融通するような仕組みがあったそうです。
それで地方の豪族さんたちが土産物をもって出雲に集まり、そして返礼品を貰って帰国したそうです。
神無月の逸話は、出雲の二倍歴と、交易の習慣に関連している様に思えます。
あと、あまり一般的ではありませんが、諏訪も昔は神在月という習慣があったそうです。
何しろ、タテミナカタが巨大な体つきで出雲までくるのは大変だから特別に免除されたとかなんとかw
出雲伝承の本にも、春宮、秋宮との呼称は倍歴とも関係するのではと言及してた気がします。 私も殉葬に関しては本当にそういう習慣があったのかどうかに関して考えていました。
仮にですが、邪馬台国事件の際は、これから東征軍立ち上げます、鏡ください、ハタ下さい。
そして、武内宿祢が現在ヒコミチヌシと交戦中とか言ってますので
戦争中って埋めちゃうほど人に余裕ってあるのかな?って考えていました。
魏の張政は、完成した後の墓を見たと思われ、100人は、埋められた後で全く確認は出来ない状況ですよね。
それと、当時は死者の怨霊が亡者となることを怖れる文化があったと思われ、敵方の人間を埋めたとも考えられません。
親戚一丸となって東征してる訳ですから、魏の張政治は、我が国の威容を示すためについた方便を真に受けたのではと妄想しています。
出雲伝承では卑弥呼の墓を「仮埋葬」という形で、魏書の「家」に近い字の簡便な墳墓を表現しています。 >>947
出雲族がロシア経由であることの補足としてロシアのブリヤート人があります。
ググって写真検索をすると、日本人に激似ですよ〜 殉葬っていえば垂仁天皇がやめさせたんではなかったかな?
記憶が薄れてるので・・・? それで埴輪で代替えとしたと思ったが?
二倍暦だと、1月〜6月までと7月〜12月の各半年を1年としてて、現今の1年だと
当時は2年経過してるということになる。これは単純な二倍暦の方法。
それで安寧なんか7月即位したのもそのためだし、景行も安寧に則って7月即位
したようだ。 >>951
出雲の向家、最後の副王が、富太田彦でした。
彼は野身太田彦と名を変え、垂仁の要請に応じ、奈良に軍を出します。
そう、出雲は滅んだ後に、垂仁の要請応じて、戦後処理の戦闘に参加しているのです。
その功績で野見宿祢に名を変えられ、古墳造りの土師氏は、野見宿祢の直系の子孫になります。
しかしながら、吉備国で円筒輪の元になる特殊器台が始められた盾築墳丘墓が二世紀後半でありますので
野見宿祢の子孫が土師氏になるまでに時間差があり過ぎるような気がするのです。
また人物埴輪が盛んになると、物語性というか、行列の様な賑やかなものになったりしますよね。
とてもついでに埋めちゃう人の代わりというよりはもっと楽し気な雰囲気を感じるのですが。 あと、残念なことに、野見宿祢はほどなくして毒殺されてしまったようです。
奈良からの帰途、地方の豪族の家に呼ばれて食事をした際に死亡。
関係者にヒボコ族の出身の人が居たそうです。
つまり、時間的には彼が進言したというよりは、記紀作者の配慮の様な気がします。
タジマノモリはイクメと同じ銀印を貰っていたことにより次第に制御できなくなり(男王を立てるも国安定せず)
その追放の為に出雲兵が奈良に呼び込まれましたが、タジマノモリの話はミカンの美談に変化しています。 虎の巻に毒殺が載ってるんですか?
被疑者は?
銀員は出雲からかねえ? >>954
虎の巻にはどの豪族なのかは出ていませんね。
しかし地名は記述があります。
播磨国の辰野で亡くなったとの事です。
それこそ仮埋葬レベルの古墳しか作れなかったそうです。
野見宿祢古墳と名前がついている様ですね。
現在でも兵庫県「たつの市」にあります。
播磨風土記にその逸話が残されています。
没した際に出雲の人が来て「野に立ち」並び、それで立つ野の地名となったとあります。 相撲が強いから、格闘じゃあ彼を倒しにくいし、記紀にはそんな話がないから、
参考文献ではかなり役に立つかな?
そんな文献があるのかねえ?
物部文書なんか非公開ではなかったかな?
いまも非公開かなあ? >>955
タジマノモリが貰ったのは魏からの銀印です。
大陸の人物名は、日本の名前を音感で短縮して付けられています。
朝貢メンバー
伊聲耆(イサチ入彦イニエ 何とイニエ本人は直接朝貢しています。とても記紀には書けません)銀のハンコ
難升米(タジマのモリ)ナシメではないそうです→銀のハンコ
掖邪狗(ヤサカイリヒコ)
奴佳革是(額田宿祢。武内宿祢の腹違いの弟)
都市牛利(二つの説有物部十千根説、十市瓊入姫命説)
載斯烏越(武内宿祢 無役に終わったことにより大和側に鞍替え) >>957
相撲の古事。なんとタイムリーなww
相撲の古事が、野身宿祢がタジマノモリを三輪山から追い出し、淡路島に逃走させた古事を表しているそうです。
物部文書の本、持ってますよ〜
あれ、白黒ですが、物部の10の神宝の写真が出てるんですよね。
物部文書の本体は非公開のままですね。
ちょうど先ほどヨウツベでも確認しました。 >>958
ゴメンナサイ間違えました
伊聲耆(イサチ入彦イニエ 何とイニエ本人は直接朝貢しています。とても記紀には書けません)銀のハンコ
↓
伊聲耆(イサチ入彦イクメ イクメ本人が朝貢しています。物部氏の書いた諡号も相当スレスレのヤバい名前を付けています。イクメのもう一つの名前がイサチなのです。) 出雲王家本の大元出版ですが、結構面白くて、作者が複数います。
上官家の血を引く現在の伝承者は「斉木雲州」さんのペンネーム
親魏倭王を書いたのは「勝友彦」さんのペンネーム
斉木さんは、邪馬台国は奈良であると、大陸側からの視点で表現。
勝さんは、朝貢メンバーが我々はヤマトと名乗ったので、邪馬台国は都万(日向の西都原)と日本国内から見た視点で表現。
記紀も神武が神武を攻撃しているのでヤマト国がヤマト国を攻撃した構図
邪馬台国にはロマンがありますな〜 出雲王家本だと、青銅製の国産技術は徐福時代に日本に入ってきたという事になっています。
更には、畿内のヤマトと九州の物部は同祖の親戚であると。それが本当の海幸彦、山幸彦であると。
鉄器に関してはかなり早くから製鉄をタタラで行っていたと断言していますが
ヤマトに関しては本当に鉄器の普及が遅れたという考古学上の編年があります。
原初の製鉄は、矢じりの先に使うようなもので、摩耗も早く残りずらいとかいてありましたがそれを裏付けるかのような発見があります。
九州→仿製鏡の起源がBC2まで遡る
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG27H9E_X20C15A5CR8000/
一般的に銅鏡の物部と言われる地方の面目躍如とと言ったところでしょうか
そしてヤマトも起源前後にまで仿製鏡と製鉄が遡っています。
https://news.goo.ne.jp/article/sankei/life/sankei-_west_west_life_75RGI6VFHFO65IYKHWI27P7DQM.html 福岡市の市教委によると、剣や矛などの青銅器は、紀元前3世紀ごろに伝来してまもなく国内生産が始まった。
とありますので、大陸の史書にある徐福時代BC3世紀という事は割と言われている様ですね。 >>931
>183年 大彦が物部に敗れ大和から北へ退却(クニクル第八代孝元天皇の代で物部の姫を嫁に貰う)
時系列がグダグダ、八代孝元は3世紀末から4世紀初頭の人物。
孝元、開化、崇神、垂仁、このあたりは父子でなく、
兄弟または従兄弟か傍系。
日本書記は、時代を大きく引き伸ばす意図のもとに書かれたので、
兄弟または従兄弟か傍系を「父子」にして時代を引き延ばしたのであろう。 書き忘れた、大彦も4世紀初頭から前半の人物。
それは稲荷山鉄研剣のヲワケの系図からもわかる。
オオヒコを当時にありふれた名前だから四道将軍の大彦と決められないという意見もあるようだが、
鉄剣に刻むほど先祖自慢をしたいオオヒコは四道将軍の大彦以外にないであろうから間違いないであろう。
ヲワケの辛亥年471年から一世代20年弱で7世代さかのぼればオオヒコの時代、
それは4世紀前半、やはり崇神もこの時代である。 471年=雄略元年
これは倍暦計算からの年代で、鉄剣のワカタケルは雄略天皇で間違いないな。 >それは4世紀前半、やはり崇神もこの時代である
八幡愚童訓に
黄龍2年=230年=開化48年
とあるから、その9年後の 239年=景初3年 の卑弥呼活動年代が把握でき、
開化の年代から次代の崇神がほぼ卑弥呼の年代と重なる。 >>964
大彦はクニクルの息子ですよ〜。これが180年代だから二世紀。
ニニギは便宜上物部の象徴として挿入されているので架空の人物です。
故に、400年ほどズレがあるので文書が記紀の影響を受け、後年のモノかどうかは、大彦がどの時代に書かれているかで分かります。
そういう意味ではクジホンギも記紀の影響を受けています。
第9代開化のあとが、記紀では隠されていますがヒコイマス。磯城王朝最後の10代大王です。
ヒコイマスは、クジホンギの稲葉国造でバッチリ名前が載ってしまっています。
崇神は開化とは血縁関係なしです。物部氏。
だから開化から崇神で結婚関係が変なことになってるはずですよ
大彦と、息子のヌナガワワケは親子で、四代将軍という職がつくり話との事です。
大彦とヌナガワワケは会津では会っていません。
長野県の将軍塚古墳が埋葬地との事です。最後は布施氏と組んだみたいですね。
神社は布施神社になっています。
物部東征は二回あったという事が重要な点です。
九州研究の人は、東征が二回あったと、どういうわけか気付いている人も居ますね。
崇神は東征開始前に九州で無くなっていて、東征には参加していないそうです。
471年になると、鉄器の生産量の編年から考えれば邪馬台国時代を通り過ぎてしまいますよ 魏書に出てるクナ国の男王は、ヒコミチヌシノミコとの事です。
訂正
ヒコイマスは、クジホンギの稲葉国造でバッチリ名前が載ってしまっています。
↓
ヒコミチヌシは 10代が隠されているので、もう一世代入るって事の様ですね。 崇神は九州なんか行幸等してないよ。畿内の人物で、四道将軍に畿内から
四方の地に調査視察に行かせたわけで、崇神が九州に行ってるわけがない。
九州に関係の当時の天皇は神武と景行だよ。
景行は九州行幸したのだ。ただ例外で開化も記紀には記載漏れだが、大成経だったか
神皇紀だったかに畿内から外へ行幸してたというから、開化も行ってたかも
知れない? 八幡愚童訓に開化48年呉兵沖縄襲来とあるから、九州行幸も開化
はしてた可能性がある。 ヒコイマスと、息子のヒコミチヌシ。大負けに負けたとして、40年挿入すればいい線行くと思いませんか?
そうすると、160年の朝貢が、クニオシヒトにぐんと近づくわけです。 物部による九州遠征は、垂仁の子供二代です。大タラシヒコとワカタケル。
結局物部政権は奈良に戻れずに終わったとされます。
垂仁から三代で潰えました。
崇神イニエは九州から出ずに没しているそうです。景初の段階ではすでに死亡 10代大王ヒコミチヌシは第2次物部東征が始まる直前に亡くなったそうです。 魏書の続きでは、使者の張政が到着した時には、卑弥呼はすでに死んでいたと書かれている。
宇佐家伝承ではウサツ姫(豊玉姫)は安芸に6年滞在したことになっているので、241年頃にはすでに安芸にいたのか?。
出雲伝承では246年には瀬戸内へ向けて東征を開始したとありますね。 九州から畿内への東征は何回もあった。
しかしそれを全て物部だとか神武だとか一つの名前で呼ぶと、訳がわからなくなる。
ちゃんと別の名前で呼ぶべきだ。
饒速日、三島溝杭耳、磐余彦。
皆それぞれに役割がある。 >>976
物部氏は系図が何代か抜かれているので難しいですよ
クジホンギ使ってもちょっと足りないくらい
崇神とか、記紀成立後の物なので仕方がないとは思いますが 崇神は九州とは関係ない。二代後の景行の九州行幸が記紀に記載があって、崇神が
九州行幸した事実が記紀に記載されないわけがない。崇神からは欠史八代ではない。
崇神没年=258年 だから景初の年代で崇神は生存していたね。
開化48年=230年=黄龍2年 だから、9年後の 景初3年=239年 の卑弥呼活動
のころ崇神は開化の次代だから生存は確かだ。 >>968
>大彦はクニクルの息子ですよ〜。これが180年代だから二世紀。
だからなんで180年代なのか。
四道将軍は4世紀初頭あたり。
オオヒコと建沼河別命が合流した会津の一箕古墳群(いっきこふんぐん)は4世紀前半。
また新潟にも畿内系の古墳があるようで4世紀初頭。
吉備津彦の中山茶臼山が4世紀前半。
崇神の行灯山が4世紀初頭。
相変わらず津田史学系の学者は四道将軍など「ない」といってるようだが、
四道将軍は神話でも何でもなく実際にあった。
ただし、この時代を卑弥呼の時代に持って行っても何の説得力もない。 >471年=雄略元年
百済武寧王墓から買地券=金石文が発見されており、
そこから計算すると458年。 そっちは二倍暦をやってないから、半島暦とは別で合わないわけで、
471年辛亥が雄略元年だ。半島のを見ると紀が卑弥呼年代を間違えたように失敗する。
ただし雄略当時朝廷も通常暦を蔭で残してい、まの旧暦のように
残ってはいた。雄略の記紀双方の歳は2倍ピタリの差がある。 男性にエロ動画を見せる理由は、
素神。つまり、
あいつらがいうところの、
女神探しです。
目を、女というところなど。
本国というのは、
海王星か、土星か、
アメリカか、ロシアか、イギリスか、オランダか、南アフリカでしょう。 まず、47歳の男の母親っていうところから計算しろよ アメリカを潰して、
新政権つくりたいそうです。
アメリカが核実験失敗で国が亡くなるというのも、
み化されたんじゃないかな。 山下達郎ちょっとあやしいな。
なんであんな目なんだ?
悪側宇宙人ぽくない?
昔から嫌いだった。
俺に好きにさせない力が働いたのかもしれないが。 竹内まりやさん。
もう家に帰らないほうがいい。
何かがおかしい。
セックスに何か秘密があるみたいだ。
男女が絶頂に達した時、
神界に通じると思ってるようだ。
そして、
神星を狙っているのかもしれない。
なんだろうか、ものすごい悪い意志が働いている気がする。
だからって、
素神がいる国なんて、
各次元星の話をしたように、
たくさんある。
特定なんてそもそもない。
もしかしたら、
生きた神居る星を探しているのかもしれない。
暗黒霊界魔王。 少なくとも、
地球と人類をめちゃくちゃにする意図はあるようだ。
サタニスト。
ドラコニアン。
恐竜。
猿の惑星。
なにかあるな。 人類誕生の秘密を探っているようだ。
結局、進化論に従って、
原人までは進化したのよ。
知性をどうして持ったかは知ってるから書いてもいいが、
魂がどうして造られたかは教わっていない。
御魂は菊理姫がつくり、
肉体は天照大神が造ったと教わっただけだな。 風俗産業の方でも、
人殺しでも、
自民党でも、
プーチン、オバマ、内藤雄でも、
心底詫びれば、
それで神様は許してくださいますからね。
逆に言うと、
そうしなければ、
ただただ罰せられて、
無辺地獄でどんどんどんどん下落ちするだけです。 魑魅魍魎とは、
つまり全て、
天獄宇宙人なんだってさ 風俗嬢でも誰でも、
お付き合いしてあげてくださいね。
セックスが開発されて、
よりよいセックスをさせてくださる方たちですよ。
別に、他の男に抱かれてたって、
魂や神性、霊性まで落ちていませんよ。
そんな事言いだしたら、
モテる男女というのは、
もう何人も経験ある人達ですからね。
それをあなたは嫌だといいますか?
優しくいたわってあげましょう。 真善美といいますが、
正しくは、
神全美です。
美化。み化。 内藤雄とは、
周瑜です。
お前が水軍指揮力100もあるわけねえだろ!! レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。