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邪馬台国畿内説 Part706
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2021/06/28(月) 13:52:07.94
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1623391331/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 13:52:54.92
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
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2021/06/28(月) 13:53:31.47
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
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2021/06/28(月) 13:54:05.80
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 13:54:37.39
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 13:55:09.11
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 13:55:41.54
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 13:56:12.07
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 13:56:46.38
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
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2021/06/28(月) 13:57:18.69
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 13:57:50.06
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
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2021/06/28(月) 13:58:23.03
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 13:58:56.52
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 13:59:31.34
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:00:03.72
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:01:01.53
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:01:33.22
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:02:05.46
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:02:35.67
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:03:07.12
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:03:40.01
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:04:12.47
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:04:43.91
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:05:15.90
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:05:46.95
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:06:18.70
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:06:51.10
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:07:23.91
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:07:55.48
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:08:26.38
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:08:55.65
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:09:27.31
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:09:59.45
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:10:32.29
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:11:04.17
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:11:36.82
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:12:07.92
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:12:39.71
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2021/06/28(月) 14:13:11.99
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:13:44.43
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
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2021/06/28(月) 14:14:16.80
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
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2021/06/28(月) 14:14:52.74
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:15:23.48
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:15:56.20
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆n7jxAxKCBhb6
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2021/06/28(月) 14:16:28.17
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2021/06/28(月) 14:17:02.02
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2021/06/28(月) 14:17:34.21
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2021/06/28(月) 14:18:08.00
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2021/06/28(月) 14:18:40.18
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2021/06/28(月) 14:19:11.96
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2021/06/28(月) 14:19:43.06
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2021/06/28(月) 14:20:16.40
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2021/06/28(月) 14:20:50.94
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2021/06/28(月) 14:21:22.35
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2021/06/28(月) 14:21:54.62
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2021/06/28(月) 14:22:31.29
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
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2021/06/28(月) 14:23:04.76
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2021/06/28(月) 14:23:37.41
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2021/06/28(月) 14:24:09.71
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2021/06/28(月) 14:24:42.23
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2021/06/28(月) 14:25:14.24
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。

三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2021/06/28(月) 14:25:55.46
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2021/06/28(月) 14:26:27.70
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2021/06/28(月) 14:26:59.64
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
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2021/06/28(月) 14:27:32.37
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2021/06/28(月) 14:28:04.81
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2021/06/28(月) 14:28:41.11
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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2021/06/28(月) 14:29:13.74
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
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2021/06/28(月) 14:29:45.04
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
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2021/06/28(月) 14:30:17.06
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
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2021/06/28(月) 14:30:49.06
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
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2021/06/28(月) 14:31:22.16
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0073◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/06/28(月) 14:31:54.93
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0074◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2021/06/28(月) 14:32:26.12
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0075日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 08:47:59.91
前スレ999
>そんな分かり気った書物見て何がしたいんだよお前らは

あんたは読んでないんだから、何も分かってないだろ?
0076日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 12:22:55.36
>>75
読まなくても大体の内容は分かるよ
読んだら新しい発見でもするわけじゃないでしょ

九州だろうが畿内だろうがなんでもいい
俺が知りたいのは卑弥呼は本当にいたのかって事
それは女王としての役割をしてたかって事ね
0077日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 12:45:32.79
>>76
魏志倭人伝に書いてあるからな
中国で卑弥呼と呼ばれる女王が居なかったら書かれないだろ
0078日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 13:06:31.88
Wikiの編集すら出来ないので誰にも相手にされなくなった自称畿内説宣伝係あわれ
0079日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 16:49:06.29
>>76
>読まなくても大体の内容は分かるよ

それで邪馬台国のことを「何も分かってない」と決めつけるなら
邪馬台国が実在したことも信用不可になるから
「邪馬台国の全容を明らかにする」という発言そのものが自己矛盾してるね
0080日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 17:16:17.13
>>77
なぜ創作の可能性を疑わないの?
日本に来て死者を適当にあしらった可能性もあるのに
0082日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 19:21:48.28
魏志倭人伝は通称で、三国志「魏志」第30巻東夷伝・倭人条を指して言う
著者の陳寿は蜀の役人だった
蜀漢滅亡後しばらくして、推挙され西晋に仕えた

三国志は、史記、漢書、後漢書と並び、二十四史の中でも優れた歴史書であるとの評価が高い
同時代に他に史書が書かれているが、三国志のみが残った
唐の太宗の時代に正史と認定された
0083日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 19:28:46.65
>>82
そもそも言語ってどうしてたんだ?
普通に話せたんか?
0084日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 19:40:46.11
意味の通じない乱暴な話し方だ
君は「普通に話せ」てはいない
だが、当時の倭国と魏の役人との会話と汲み取って答えよう

魏志倭人伝に「今、使訳通ずる所は三十国」とある
この使訳は通訳のこと
0085日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 20:05:10.97
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだな。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 20:06:51.87
>>85
貴方は、戻ってきたな。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 20:08:07.15
八村塁氏も、日本に、戻って来る可能性があるな。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 20:11:18.41
奥山氏が、朝鮮民族の誇りを守るために、邪馬台国畿内説を宣伝するようにして、
八村塁氏は、日本民族の誇りを高めるために、バスケットボールでの死闘を闘うのではないのかな。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 20:12:00.30
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまった。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 20:12:53.04
90
0091日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 20:25:13.77
>>85からの会話を見ると投稿後1分でレスしている
昨夜の深夜の会話も時間帯を考えればありえないレス間隔

心ない者がなりすましの創作会話をしていることがわかる
0092日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 20:29:22.72
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮民族の係員は、成り済ましが得意な、プロ固定だったな。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 20:32:49.38
>>92
プロ固定は、邪馬壹国九州学の立場の者にも成り済まし、スレッドを活発化する朝鮮民族の無職なのだったな。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 20:33:35.87
>>93
奥山氏だねw
0095日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 21:08:22.69
このように九州説はニセ情報が好き
0096日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 21:32:21.68
まーだやってらっしゃるのか




卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0097日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 21:34:15.35
論争に負けて潰れた九州説は
もう誰にも邪馬台国の話をして欲しくないようだ
0098日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 22:41:59.48
>>97
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事や史料事態に拠って、大和説始めかららバツだよ。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/29(火) 22:58:21.89
>>84
もしもボビーオロゴンクラスの言語能力だったら正しく通訳できるのか?
そして、それっぽいニュアンスで歴史書を書いたのかもしれないしな
女王と王女を間違えただけで全然違うぞ

そして通訳はどうやって手に入れたんだ?
0101日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 00:07:58.61
>>100
辺境にはバイリンガルが必ずいるんだよ
それが世の中だ
0102日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 01:44:57.46
>>101
それでも通訳レベルに当たり外れがある
ハズレだったらそれを証明できるの?

日本側の資料がないと話にならないって事を理解しようよ
何が魏志倭人伝だよw
この裏を取れてない限り小説と一緒や
0103日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 01:56:34.84
魏志倭人伝しか資料がないからこれが正しい事前提で考えようね!
幼稚園児の知能教育かよ

なぜ日本書紀と古事記以前に歴史書がないか考えてみろよ
不都合な真実は消されてる可能性が高い
0104日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 06:40:12.09
>>103
日本で文字が普及してないだけ
陰謀論者は脳量少ないなー
幼稚園児に負けるレベル
0105日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 11:37:03.58
>次日奴佳鞮

奴 奴国の
佳 優れた
鞮 通訳者

「鞮」の部首・画数・読み方・意味など - 漢字辞典オンライン
音読み, テイ. 意味, くつ。革靴。 たび。中敷や飾りのない履き物。 翻訳する。通訳する。また、通訳者。
音読み: テイ

ちゃんといますw
0106日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 12:13:33.78
史料構造的に
ベースとなる過去の文献があり
新しい情報を書き込んだり、修正したりだな。
不確定な情報や陳寿の思い込みもあるだろう。
水行の所は不確定な情報と思う。

史料と事実は食い違いがあることも考えても
いいんじゃないの?
鵜呑みはできないのは当然。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 12:35:46.89
〜 魏志倭人伝を読み解けない人はIQ低すぎ 〜

■魏志倭人伝を読む上での注意事項
・中国既存の記録に倭人からの情報など最新情報を追加した文書構成である
・卑弥呼時代に朝貢が再開されるまで、中国は投馬国や邪馬台国という国名は知らなかった
・水行○○日の行程は、魏に朝貢した倭人からの説明を引用したものである
・投馬国とは、半島南部の呼び名である
・邪馬台国とは、対馬海峡を渡った先にある北部九州一帯の呼び名である

水行の起点は帯方郡である
https://i.imgur.com/X5UppCx.png

例)朝貢に来た倭人曰く
・(郡を出て)南に船で20日ほど行くと投馬国に至ります。
・さらに投馬国から南に海を渡れば邪馬台国です。
・そこに女王の都があります。
・郡から計1か月ほどの道のりとなります。

この記録を陳寿なりに解釈して倭人伝に記載したが、出発点や里数の表記が無く、
位置関係がわからないので、とりあえず不彌国の後ろに追記しておいた。

■参考
魏略で引用されている廣志では「邪馬臺国」の位置は伊都国の又南と記載されている。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 13:11:33.49
>>107
>魏略で引用されている廣志では「邪馬臺国」の位置は伊都国の又南と記載されている。

信じたらIQ低すぎ
0109日本@名無史さん
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2021/06/30(水) 13:27:18.23
>>108
畿内説は信じてるが?
東を南だと勘違いしていたから伊都国の南と書いてあるのだ、というのが畿内説の言い分だろ
0110日本@名無史さん
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2021/06/30(水) 13:54:28.41
>>109
どこの誰が言った?
九州説さんまた妄想かい?
IQ低すぎるから妄想するんだよ
0111日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 14:10:03.18
邪馬台国は西都原(宮崎県西都市)である まあ日向だな。

邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。

1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
 類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
 西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
 (日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
  尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
  9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
  邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
  これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
  人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。

朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
0112日本@名無史さん
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2021/06/30(水) 14:25:31.30
>>107
繰り返し、荒唐無稽な書き込みをしているが
自らごまかしを行っていることは自覚しているのか、卑屈な文章になっている

卑弥呼の時代は半島南部を含めて魏の直轄地
最南端の狗邪韓国から渡海し対海国、一大國を経て北部九州の末盧國に至る
ここからは陸路で伊都國、奴国、不弥国
不弥国から水行二十日で投馬国
投馬国から水行十日・陸行一月で邪馬壱国
これが魏志倭人伝に書かれていること

九州説の人はごまかしのために陸行一月は一日の誤記などと言ったりもするが、これもありえない
陸行一日の距離なら里数で表記されるはず
0113日本@名無史さん
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2021/06/30(水) 14:29:12.57
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)




久 努 国 ( く の の く に )




久 努 国 ( く の の く に )




馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0114日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 14:52:24.84
何度も投稿されている荒唐無稽な説が連続して現れる
日向説と狗奴国は久努国説

荒唐無稽であることがレゾンデートルのような
0115日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 15:32:22.51
・理由も言わない
・情報の出所も言わない
IQの低い人が頭の中だけで妄想してるって丸わかりという九州説の惨状
0116日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 15:42:35.29
・理由も言わない
・情報の出所も言わない
IQの低い人が頭の中だけで妄想してるって丸わかりという畿内説の惨状
   ↓

115 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2021/06/30(水) 15:32:22.51
・理由も言わない
・情報の出所も言わない
IQの低い人が頭の中だけで妄想してるって丸わかりという九州説の惨状
0117日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 15:59:29.45
>>112
不彌国までの行程は中国側で認知していた情報の写しであり「まえおき」
日付に変わる水行以降の行程情報は、里を知らない倭人からの情報だ
陳寿は連続行程であるかのように記載しているが、実際の水行開始地点が帯方郡だったということ
だから総距離12000里という数値情報は変わらず記載されている

「郡〜女王国=邪馬台国=北部九州まで12000里である」

陸行一月は「月」と「日」の誤写は可能性として高い
しかし「東」を「南」と誤写することは有り得ないので解釈は二通りに絞られる

@九州上陸から約1日で卑弥呼の居る都に到着できる
A九州上陸してから入国許可が降り、卑弥呼と面会出来るまでに約一か月を要する
0118日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 16:25:38.75
>>116
ほら、九州説はまた
・理由も言わない
・情報の出所も言わない
に該当してしまった
0119日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 16:25:41.69
>>111
1955年(昭和30年)4月1日 - 妻町と上穂北村が新設合併して西都町が発足。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 16:34:46.64
>>117
「東」を「南」と誤写でなく。
会稽の東の観念が強く、陳寿が書き換え。
水行10日 陸路なら1月かもしれない。
12000余里は会稽まで1里95〜100m。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 16:38:15.36
>>120
というか、もし陳寿に執筆以降に誰かが誤写してたんなら
陳寿が会稽より南と誤解するわけないよな
0122日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 17:06:49.89
>>120
それ、明らかに計算間違ってるよな
1里95〜100mで12000余里行っても揚子江の南には届かない
0123日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 17:16:19.93
>>117
帯方郡から12000里は九州上陸地点までの距離
その前にある対海国、一大国は島なのでこの距離からは除外されている
次の末盧国が倭国到達点とみなされている
女王国の到達点で魏志倭人伝の地理的な説明の起点となる
0124日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 17:22:20.37
>>123
なんでそんな計算になるの?
0125日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 17:39:27.07
>>122
会稽山を基準、直線だろな。
千里法。余里は?
千里法も現在なみに
垂直、水平取れていない
大雑把。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 17:43:21.18
>>125
日本語でおながいします
0127日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 17:46:06.68
>>121
意味不明
陳寿は、
夏の記禄しか読んでいない。
倭国全体をそうとらえている。
其れが会稽の東の観念がつよい
陳寿自体が書きかえもあるてこと。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 17:46:42.59
天皇陵・陵墓参考地は看板にみだりに立ち入ってはならないと書いてあります。
つまり、「みだりに」ではなかったら立ち入っても良いわけです。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 17:47:21.54
>>126
>>おながいします

意味不明
0130日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 17:55:30.49
>>123
九州上陸後、奴国や不彌国までが女王国以北(女王国北部)に該当する領域
長崎・佐賀、大分が戸数等が不明で国名だけ紹介されている国々の領域
そして南は狗奴国
これが中国の使者による記録だとすれば、その視点は「奴国」or「不彌国」にある
「女王の都」=「奴国」or「不彌国」と考えられる

要するに12000里ですでに女王連合国=邪馬台国に到着しているということよ
0131日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 17:56:19.14
>>128
ナイスアイデアだなw
0132日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 18:41:02.74
>>124
狗邪韓国までで、七千余里
対海国まで千余里
一大国まで千余里
末盧国まで千余里
合計すると一万里と「余里」が4回、1回で100里だとすると合計1万400里ほどか

ここで地図を見て欲しい釜山と対馬、対馬と壱岐、壱岐と糸島の最短距離はほぼ同じ、これが千余里の距離
対馬と壱岐には一定の大きさがあるからその分を加算すると一万二千余里の積算に違和感はない
0133日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 18:45:58.01
実際に箸墓古墳には調査に入っている
何も出なかったの?

日本側の資料がならんと何も話にならんで
日本書紀、古事記以前の歴史書がなぜない?

歴史を編集する概念は陳寿の時に入ってきてるだろ
0134日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 18:49:14.13
>>130
魏から見て、女王国と女王国までの地域のこと
九州上陸地点で一万二千余里は消化されている
だが、魏志倭人伝ではそこから九州北部の移動に加え
投馬国に水行二十日 邪馬壱国に水行十日、陸行一月と書かれている
0135日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 18:52:15.20
>>134
「魏から見て、女王国と女王国までの地域のこと」
の前に
「女王国以北とは」を挿入します
0136日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 19:00:54.56
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0137日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 19:35:30.76
>>133
>実際に箸墓古墳には調査に入っている

いつ、どこで誰が?


>日本側の資料がならんと何も話にならんで

そんなこと断定する理由は?
0138日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 19:51:28.00
>>137
ごめん
墓自体は掘り起こしたりはしてないみたい
2013年に初めて中に入って外側の視察なんかはしてるみたいよ
なぜ中を暴かせてくれないんだろうな

自分で他国に行って取材してみると仮定すればいい
嘘をついてるかもしれないし、全部を暴くことなど不可能でしょ
内情側から書かないと本当のことなんて分かるわけない
いわば、新聞記事と自伝みたいなもん
だから信憑性なんてないよ
分かるのは女の人が統治していた国があった可能性だけ
0139日本@名無史さん
垢版 |
2021/06/30(水) 23:44:14.86
>>138
じゃあ、どんな条件をキーにして邪馬台国を探す気?
0140日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 00:42:48.94
>>139
古墳を掘り起こすしかないんじゃないか?
そこからじゃないと分からなくないか
恐らくやらしてはくれないだろうけど
0141日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 02:13:13.43
>>140
掘り起こす目的は?
何が出たら、どう判断するつもり?
0142日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 04:10:25.28
>>132
帯方郡から12000余里は古い文献からの引用
不彌国までの行程は、実測し追加された部分。
1里の長さが同じという証拠がないし
両方ともどういう計測し方したのかわからん

>>対馬と壱岐には一定の大きさがあるからその分を加算する

なんでそこだけ、他の国は一定の大きさはないのか?
0143日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 06:34:23.67
>>142
>帯方郡から12000余里は古い文献からの引用

なんで?
0144日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 07:08:08.91
>>143
魏略からの引用。
魏略に不彌国までの行程や里数ない
投馬国、邪馬台国等の戸数もない。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 07:10:46.70
>>142
島と島の間、および上陸地点間の距離は接岸地点での距離を記載したものだと思う
そこでは、はっきりと境界が見える
同じ陸地を移動する国と国の間の距離はその国の中心地までの距離
一定の領域が存在していても、現在のように標識が整備されていたわけではなく
目に見えるのは都市部の中心地
0146日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 07:20:33.68
>>141
そこしか何か出る可能性はないんじゃないか?
邪馬台国なんて見つける必要もないってならそれまでだが
0147日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 07:22:11.25
とにかく日本側が書いた何かしらの資料が欲しい
そしたらこんな議論は不要だよ
0148日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 07:40:44.17
>>147
日本側が書いたなら信じるのか?
中国人が書いたらまったく信用しないのに
0149日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 08:02:42.93
邪馬台国は女王が住む都だが、魏志倭人伝にはその名は一度しか登場しない
卑弥呼は倭国の王、魏志倭人伝では倭国・女王国は何度も語られる

卑弥呼が倭国の王という認識から始まれば、九州説の人も混迷から抜け出せると私は思う
0150日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 08:24:35.79
>>146
>そこしか何か出る可能性はないんじゃないか?

何かって、何が?
何が見つかると、どう判断できるの?
0151日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 08:24:38.45
>>136
「南≠東」などに拠って、バツです。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 08:49:26.41
>>142
>>対馬と壱岐には一定の大きさがあるからその分を加算する

>なんでそこだけ、他の国は一定の大きさはないのか?

魏の役人らに拠る里数計測になる侏儒國付近までの、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里・・・
參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の、
陸路参問の「五千余里」の計算が、
「400余×2+300×2+500+100+(4000余ー1000余)=5000余(里)
の計算にように、對海國と一大國の海岸沿いの陸路の陸行を加算している事から、
魏の役人らは、對海國と一大國の海岸沿い二辺の陸路移動計上していた、
という事が判る。
0153日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 08:58:15.12
>>152
>魏の役人らに拠る里数計測になる侏儒國付近までの、

なんでそれが「魏の役人らに拠る里数計測」だと決めつけるんだ
0154日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 09:11:48.41
>>152
さらにわからん。
無理やり合わせているように見える。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 09:17:37.37
>>152

400余里と300里はすでにあるのに
さらに2倍する理由がわかんない。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 09:23:30.47
>>155
知能低いのか?

|400里



ーーーーーー400里
0157日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 09:33:08.75
>>145
>島と島の間、および上陸地点間の距離は接岸地点での距離を記載したものだと思う
そこでは、はっきりと境界が見える
同じ陸地を移動する国と国の間の距離はその国の中心地までの距離
一定の領域が存在していても、現在のように標識が整備されていたわけではなく
目に見えるのは都市部の中心地

これも違うな。
古代の中国学者や役人らの「国間里数」の計測記録の原則は、
双方の国での居住外縁部や柵や、出口入り口間の里数で記録記載する事が原則。
また、都市間里数であれば、その都市の城柵や門や出口や入り口間の里数になる。
そして、双方の出口や入り口の間は、原則としては無人的地域、という事になる。
この論理は、古田解釈以外に、生野真好というお方も主張されている。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 09:38:31.66
>>157の少し訂正
古代の中国学者や役人らの「国間里数」の計測記録の原則は、
双方の国での居住外縁部や柵や、出口入り口間の里数で記録記載する事が原則。
また、都市間里数であれば、その都市の城柵や門や出口や入り口間の里数になる。
そして、双方の出口や入り口の間は、原則としては、
国という実態が存在しなかった半分無人的地域、という事になる。
この論理は、古田解釈以外に、生野真好というお方も主張されている。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 09:45:34.10
こう言いたいんだろ?
■郡から水行南+東 7000里 至狗邪韓国
帯方郡
|
|(南)4000里
|
|________狗邪韓国 (東)3000里

船:(南)1000里

■至封馬国
|(南)400里
|
|____(東)400里 方可四百餘里

船:(南)1000里

■至一支国
|(南)300里
|
|____(東)300里 方可三百餘里

船:(南)1000里

■至末盧国
(東南)陸行500里

■至伊都国
(南)100里 至奴国、(東)100里 至不彌国

計 12000余里
0161日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 10:09:52.53
>>157
中国の都市は城壁で囲まれていたからその測定になったのだろう
0162日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 10:09:55.75
>>156
知能低いのか?
陸行の記がないのに
どうしてそうなるのか?
0163日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 10:33:22.66
>>162
お前の知能が低すぎるから理解できないだけ
陸行じゃないんだし馬鹿丸出しw
0164日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 10:45:01.04
>>163
お前の知能が低すぎるから陸路を書いたまで
方300里、400里余のすでにあるのに
二度加算する理由がない。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 10:57:10.44
>>164
お前の知能の低さは治療が必要なレベルだなw

北から南へ抜けると何里だ?
https://i.imgur.com/pRecIEZ.png
0166日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 11:02:47.73
まーだやってらっしゃるのか




卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0167日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 11:16:29.11
>>165
4√2が公式。
565里だな。
なんでさらに400余里、300里を加える?
0168日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 11:37:21.60
>>167
船で島を貫通して南下したってか?www

池沼確定だなw
0169日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 11:43:05.99
>>168
そんな事はいっていないよ。
俺に言ってもしょうがない
165が対角とか言い出したんだよ。
二重に加算する理由がない。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 11:44:49.35
>>169
もうしゃべんなチエオクレ
0171日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 11:47:19.00
>>170
お前がな。もうしゃべんなチエオクレ
0172日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 11:54:03.18
馬鹿同士やめろ
共食いしてるのと一緒や
0173日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 11:58:36.01
>>150
あのな中国側の資料なんて役に立たないの
少なくども日本側の資料が出ないと駄目なの

だから何でもいいから出ないと駄目なんだよ
分かれよそのくらい
ちえおくれが
0174日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 12:09:47.26
>>159
>古代の中国学者や役人らの「国間里数」の計測記録の原則は、
>双方の国での居住外縁部や柵や、出口入り口間の里数で記録記載する事が原則。

そんな原則を現代日本人が昭和の末に発明しても
古代の中国学者や役人らが従う可能性はゼロだから
0175日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 12:16:29.29
>>古田解釈以外に、生野真好というお方も主張されている。

古代人でもない人の主張だから間違いなんだよ。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 12:18:04.43
理系能力がゼロなので数値問題で確実に破綻してしまう畿内説あわれ
0177日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 12:26:06.21
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)




久 努 国 ( く の の く に )




久 努 国 ( く の の く に )




馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0178日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 12:46:58.76
>>159
>この論理は、古田解釈以外に、生野真好というお方も主張されている。

素人だけじゃねえか
0179日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 12:49:16.90
解説!「発掘された日本列島2021」 vol.1 新発見考古速報 【文化庁発】遺跡から地域の魅力を発掘!「いせきへ行こう!」vol.5 <2021年夏
好評の文化庁の動画です
https://www.youtube.com/watch?v=ZUE2NeV_lj4
0180日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 13:29:32.08
>>159
生野真好プロフィール
1950年11月7日生まれ。1969年、大分県立大分商業高校卒業。同年4月、日立クレジット(株)(現・日立キャピタル)入社。1992年4月、退社。1994年5月、(株)フィールドリブ設立、現在に至る。九州古代史の会会員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
『陳寿が記した邪馬台国 「倭人伝」を読む 2』より

糞ワロタ
0181日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 13:50:10.85
>>179
日本の文系の言う事は99%が想像

冗談抜きで問題視されてるよ
0182日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 13:58:52.99
>>181
あなたにとって意味のある学問分野とは?
0183日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 14:08:12.53
>>182
存在意義のある学問とは
医学、物理学、生物学、数学
である
0184日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 14:12:03.01
>>182
実際人文科学系の学問は空想だらけだからな
これは事実
うちの家内が国文学者だが、よく自分でそう言っているw
0185日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 14:17:42.87
>>183 >>184
興味のある学問分野があってそれを学ぶのは良いこと
だが、なぜ日本史の板に現れて他の学問分野をくさすような発言をするのか?
0186日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 14:43:59.73
>>184
>>185
そう、空想と空想を組み合わせるようなものを学問と呼ぶような慣習を取り除かなければ日本の未来は無い
最近では何にでも「〜科学」という文字を付けて、あたかも科学的事象であるかのように論じる文書などが溢れているが、これに対し本職の科学者達は本気で憤っている
また文系馬鹿しかいないメディアによる科学的解説など、間違いだらけ、誤解を生むような例え、個人解釈を交えたものばかりだ
もう学問の定義や分類を見直すべき時代なんだよ
0187日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 15:39:07.26
>>184
>うちの家内が国文学者だが

へー、奥さんが学者なのに夫は知識階級じゃないの?
0188日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 15:53:58.88
典型的畿内説思考

奈良市の平城宮跡で大規模な建物跡が見つかる 聖武天皇の娘、道鏡でおなじみ孝謙天皇の宮殿か
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1625101623/

柱穴を発見 → 聖武天皇の娘、道鏡でおなじみ孝謙天皇の宮殿か

速攻で空想を展開し結論を設定w

あとはその結論ありきでこじつけていくだけの簡単なお仕事ですw
0189日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 15:59:28.88
>>188
それが畿内説の人の思考だという証拠は?

あなた今
「速攻で空想を展開し結論を設定w
あとはその結論ありきでこじつけて」
いませんか?
0190日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 16:08:30.88
>>189
纏向遺跡調査の日常光景そっくりだろw

多数の柱穴を発見 → 卑弥呼の宮殿か

桃の種発見 → 卑弥呼の祭祀で桃がお供え物として献上されたのかも

蛙の骨発見 → カエルは祭祀の供物で、祭りが終わった後に出席者が食べ、骨を穴に捨てた可能性がある
0191日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 16:09:37.50
必ず妄想結論を先に決めてから調査にかかる馬鹿学者どもwww
0192日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 16:16:14.24
>>190
それが
「速攻で空想を展開し結論を設定w
あとはその結論ありきでこじつけて」
るって根拠は?
0193日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 16:17:32.57
>>192
テンプレ
0194日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 16:23:12.97
>>193
どうしてそれが根拠になるの?
0195日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 16:27:27.55
>>190
そうやって
一切反論せず、一切立証せず、一切根拠出さず
ただ誹謗するというやり口は
「速攻で空想を展開し結論を設定w あとはその結論ありきでこじつけ」てる典型
0196日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 16:44:44.56
相変わらず1日中振り込め詐欺の受け子のような言い訳しか出来ない中卒の畿内説宣伝係あわれ
0198日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 16:48:10.92
>>196
結局、九州節って中傷しかできないのね
論破され尽くしてるから
0199日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 16:56:57.03
ほんと畿内説の情けない低脳発言が蓄積される一方だなw
0200日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 16:57:40.35
>>167
>4√2が公式。565里だな。なんでさらに400余里、300里を加える?

魏使らは、
詔書や金印や卑弥呼らへの下賜品などの非常に大切なものを運ぶ事が業務であるから、
安全に届ける事が最も優先されるのであり、
だから渡海や山越えのような危険やトラブルの多い行路は出来るだけ最小限にして、
出来るだけ平坦な行程を選択するものであり、
だから、對海國と一大國も「海岸沿いの二辺」の出来るだけ平坦な道を選択するもの。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 17:04:56.88
>>199
具体的には、なんのこと?
0202日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 17:05:48.50
>>200
妄想する皿酷
0203日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 17:13:18.46
九州説の人は理系の振りをして対論相手を攻撃しようとする
平気で嘘をつく
あさましい本性を曝け出して恥じない
0204日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 17:30:49.54
>>203
>>167は明らかに理系能力皆無だろw
0205日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 17:44:03.76
>>200
163は
>>陸行じゃないんだし馬鹿丸出しw

と書いている。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 17:46:26.05
>>204
虚偽を弄ぶものは能力以前の問題
あと、君と会話して感じるのは
知的能力の未熟さ
0207日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 17:47:54.01
>>204
答えだせよ。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 17:56:49.98
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0209日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 18:01:51.42
畿内説は中文も理解できないんだよなw

対馬→壱岐の方角が南と記述されている魏志倭人伝に
従うと、邪馬台国は九州島のどこかにあるはずです。

↓この視点で見て「南」の方角です。
https://i.imgur.com/t1La2wr.png

ぜひ探してみて下さい。

九州説:陸行「一月」は「一日」の転記ミスである
畿内説:方角の「南」は「東」の勘違いである
0210日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 18:09:32.41
>>187
俺は医者だけど、それが何か?
0211日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 18:12:45.33
>>187
悪いけど、駿台の公開全国模試とかセンター試験の点数とか、東大実戦模試の順位とかは君とは比較にならないくらいいいと思うよw
どうせお前、文三にギリギリ合格したようなどアホだろwww
0213日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 18:48:28.70
学歴がどうでも考古学的事実は一つ
邪馬台国は畿内にあった
0214日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 18:57:17.13
>>211
受験勉強は出来ても馬鹿なんだなw
邪馬台国と受験勉強はイコールにならんぜ?
悔しかったのかもしれないけど、問題を整理してみろよ

社会に出たら受験勉強なんて役に立ちません
0215日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 19:04:41.31
>>212
連続句読点の学歴コンプレックスって悲惨なレベルだな
幼稚舎なのに慶應から断られたとか、そういうレベル
0216日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 19:07:51.74
このごろはwを使う人が極めて少ないので
言い合いをしている双方が使っていると
同一人物の自演に見える
0217日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 19:14:19.41
受験勉強すらしたことの無い中卒(特殊学級)なので全く話が噛み合っていない畿内説宣伝係の奥山あわれ
0218日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 19:17:30.11
俺は正直言うと特殊能力者なんだが、特殊能力を使って卑弥呼の陵を探してみたら、
黒塚古墳だと言ってくる

狗奴国は静岡から神奈川にかけてあった国で、都は沼津の足高尾遺跡群、
卑弥弓呼の陵はその傍にある高尾山古墳だと言ってくる

投馬国は岡山にあった「たまのくに」だと言ってくる

特殊能力が九州だと言ってきた事なんて一度たりともありませんよ
0219日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 19:49:24.66
>>218
学歴がどうでも、歴史的文献考古学的史料事実や史料実態は一つ。
3世紀の列島には、「邪馬台国」も「畿内」も存在しなかった。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 20:12:12.70
>>219
九州もないな。
0221日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 20:29:33.84
>>214
>受験勉強は出来ても馬鹿なんだなw

無職のお前に言われたかないなwww
0222日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 22:56:55.90
>>221
でも、ちゃんと意味の通る文章を書けないお前って
小学生に要求されてる水準に満たない学力の人だよ
0223日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 22:59:46.95
>>222
意味の通らない文なんて書いてないだろ
お前が何を言おうと、お前がアホで無職である事実は変わらんぞw
落ちこぼれのくせにwww
0224日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 23:45:03.78
>>223
ほら、また意味の通らない文章を書いた
0225日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/01(木) 23:53:17.58
>>223
自覚がないのが致命的
0226日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 01:16:34.93
ぷ。落ちこぼれと指摘されて図星なんだろ
仕事見つかればいいな。頑張れよwww
0227日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 01:51:30.38
>>223
通ってないだろw
受験勉強が出来るのと邪馬台国の全容を解明できる事に何の論理性もないやろ
だから受験勉強が出来ても馬鹿だって言ってんだよ
暗記ばっかしてたんだろ
そして言われた事しかできないんだろうな
0228日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 02:08:11.40
>>226
ほら、また意味の通らない文章を書いた
それは無能の証拠だよ
0229日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 02:32:27.40
「ミミ」および「ミ」

ミミ(耳、彌彌、美美)およびミ(彌、見、美、海、看)は古代日本の尊称。

「ミ」(霊)は神格を表す尊称(神霊の意)として
「ワタツミ」(海つ霊)や「ヤマツミ」(山つ霊)等と用いられ、
「ミミ」(霊霊)はその「ミ」(霊)を重ねたものとされる。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 02:38:10.24
地域的首長としてのミミおよびミ

『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に
「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。
>の 様にミミと重なる尊称は近畿地方に多く、九州地方にはいない
>よって3世紀の投馬国は行程日数から岡山吉備地方の鞆の浦か玉野しかあり得ない。


『古事記』および『日本書紀』では和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、
摂津地方に三嶋溝杭耳(ミシマミゾクイミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、
また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)が記録されているが、
いずれもその地方の首長と考えられている。

『出雲国風土記』には波多都美(ハタツミ)や伎自麻都美(キジマツミ)など
「ミ」の付く人物が記されており、いずれも地域的首長である。

また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(スガノヤツミミ)、
布帝耳(フテミミ)、鳥耳(トリミミ)、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミ)、
天日腹大科度美(アメノヒバラオオシナドミ)も地域的首長と考えられる。

他に近江国伊香郡の伊香刀美(イカトミ、伊香津臣命か)なども地名にミを付けた
地域的首長を表すと考えられる。
また綏靖天皇の和風諱号である神沼河耳命(カムヌナカワミミ)や、
その兄である神八井耳命(カムヤイミミ)なども同様である。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 02:44:02.46
>これ、明らかに東至の投馬國(鞆の浦か岡山児島湾の玉野、玉)の事だよ。
>近代まで潮待ち港で有名な場所で日数もピッタリ合ってる。
>それに官、副官、のミミ音は近畿地方の首長がよく使う尊称で九州地域では使わない。

南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
「南、投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。」
(不弥国から)南、投馬国に至る。水行二十日。官はミミといい、副はミミナリという。およそ五万余戸。

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬
次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳(革是) 可七萬餘戸
「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り。
次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳(革是)と曰う。七万余戸ばかり。」
0232日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 02:48:20.01
博多湾より水行二十日の地、投馬國とは西道将軍、吉備津彦が居た
吉備地方の事で五万余戸が有ったと言う。
官は弥弥ミミと曰い、副は弥弥那利ミミナリと曰う。五万余戸ばかり。

そこから東、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。
これも岡山から奈良までの行程にピッタリ。

次に官有伊支馬とは生駒(いこま)氏の事で大阪奈良の堺、生駒山地の東側が本拠地。
次日彌馬升(ミマサ) 次日彌馬獲支(ミマワカ) 

次日奴佳(革是)(これは生駒山地南が本拠地のヌカタだと思う、
石切神社近くに近鉄、額田ヌカタ駅もある)
0233日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 02:50:26.41
次に邪馬台国の高官だけど、次日彌馬升(ミマサ) 次日彌馬獲支(ミマワカ) 
(ミマ)音だけど任那のミマ、御間城ミマキなどの(ミマ)は、

>どうも古代には皇孫の事を(すめみま)と呼んでいたらしい。
すめ‐みま【皇御孫・皇孫】
天照大神(あまてらすおおみかみ)の御孫(みま)。
特に、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほににぎのみこと)をさす。すめみまご。すめらみまご。

※書紀(720)神代下(兼夏本訓)「高皇産霊尊、皇孫(スメミマ)を
降(くた)しまつりて此の地(くに)に君臨(きみと)したまはむと欲(す)」
0234日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 03:18:18.07
西道将軍だった吉備津彦命と
九州熊襲、狗奴国との対立戦闘のために八女・みやま市辺り山門郡に

邪馬台国の現地前線部隊、駐屯地が敷かれ若かりし卑弥呼こと百襲姫が女将軍として
指揮を執ってたんだろう。 神功皇后や斉明天皇などもその例だと思う。

中国などでも女将軍とか武田氏の川中島の合戦でも女将軍がいたと云うから。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 07:18:39.68
>>232
魏志倭人伝の「南≠東」や、
宋書倭國伝の「自昔・・・東征毛人五十五國」や、
舊唐書の「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」や、
唐会要倭國伝の「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツね。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 07:42:50.80
>>228
お前は無職だから世間にまったく認められていない
まさに無能そのものだろ
0237日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 08:41:43.77
>>235
都合の悪い所は書かないインチキ
魏志倭人伝の「不彌國から南至 投馬國,水行二十日,南至邪馬壹國,水行十日,陸行一月」
宋書倭國伝 「東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」
隋書    「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也」
舊唐書   「倭國者,古倭奴國也」
つまり日本の前身が邪馬臺、邪馬壹國である。元は倭国の小国に過ぎなかった。
共立された卑弥呼、壱与あたりからヤマトの台頭で別種地になった。
by
0238日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 09:25:33.80
★★★魏志倭人伝すら読み解けない世間知らず低脳畿内説は慰安婦捏造と同類★★★

■魏志倭人伝を読む上での注意事項
・中国既存の記録に倭人からの情報など最新情報を追加した文書構成である
・卑弥呼時代に朝貢が再開されるまで、中国は投馬国や邪馬台国という国名は知らなかった
・水行○○日の行程は、魏に朝貢した倭人からの説明を引用したものである
・投馬国とは、半島南部の呼び名である
・邪馬台国とは、対馬海峡を渡った先にある北部九州一帯の呼び名である

■水行の起点は帯方郡である
https://i.imgur.com/X5UppCx.png

魏に朝貢に来た倭人による行程説明(仮)
・(郡を出て)南に船で20日ほど行くと投馬国に至ります。
・さらに投馬国から南に海を渡れば邪馬台国です。
・そこに女王の都があります。
・郡から計1か月ほどの道のりとなります。

この記録を陳寿なりに解釈して倭人伝に記載したのが、謎の水行陸行だ

■参考
魏略で引用されている廣志では「邪馬臺国」の位置は伊都国の又南と記載されている。
0239日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 09:32:33.04
3世紀の半島南部は倭人居住区だった
それが5万戸の投馬国(連合)であり、のちの任那である

参考図:任那
https://i.imgur.com/nCvS5Pc.png
0240日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 09:39:14.14
>>238
記載が正しいとは限らない。
不確実な情報も含まれていると見る。
後の文献で修正されたり、
新しい情報が書き込まれる。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 10:09:05.10
>>237
>つまり日本の前身が邪馬臺、邪馬壹國である。元は倭国の小国に過ぎなかった。
>共立された卑弥呼、壱与あたりからヤマトの台頭で別種地になった。

まったく根拠のない妄想
0242日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 10:11:51.57
通常は「有〜家」「有〜戸」と表記される戸数が、投馬国と邪馬台国のみ、「可〜戸」で表記されている
「可〜戸」はざっくりとした規模的な表現であり、2国の行程がセットで追記されたと考えられる
中国にとって久しぶりに朝貢に来た倭人から得た最新情報だったのだろう
https://i.imgur.com/2i1Te7E.png
0243日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 10:19:10.86
>>241
畿内説が妄想するような巨大国家で無かったことは確かだ

〜 中国の記録に記された女王国の規模 〜
魏志の韓伝および倭人伝に記された領土に関する情報
・三韓からなる韓国領土は4000里四方
・馬韓の国数は50国
・倭の国数は30国
・後漢時代は100国だったが魏の時代に交流できたのは女王国30国のみ
・倭は約5000里で巡回出来る
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
・女王国の南には敵対する狗奴国がある

https://i.imgur.com/yLFScGN.png
0244日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 10:29:08.42
>>243
>倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り。或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり
これは、南西諸島を指している
0245日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 10:45:00.81
>>243
トンデモ解釈並べても九州説に勝ち目はないよ
なぜ倭韓の戸数を無視する?
自分のトンデモ解釈が間違ってるの知ってて無駄な抵抗してるからだ
0246日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 10:58:24.26
>>244
中文における「周旋」の用例

「老鷹在空中不停地周旋」
タカが休みなく空を旋回している

ぐるっと一周すると解釈するのが正しい
0247日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 10:59:51.64
>>245
何の根拠も無く韓国式思考煽りしかできない畿内説さん乙
もう誰もいませんよw
0248日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 11:02:18.08
>>247
何の根拠も無く韓国式思考とか言ってる九州説に未来は無いな
0249日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 11:04:36.90
>>246
それ、外側を一周するって意味じゃないから失格
0250日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 11:21:21.17
>>247
>もう誰もいませんよw

何がいないの?
九州説はかわいそうだね
通じる日本語が話せないなんて
0251日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 11:42:19.99
>>249
証拠は?
0252日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 11:43:12.63
>>248
ザラコク式オウム返し?同種?w
0253日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 11:44:18.14
>>250
お前以外の畿内説
というかお前の畿内説が変だからw
0254日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 11:44:36.66
>>241
根拠 
隋書「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也」
舊唐書「倭國者,古倭奴國也」であり邪馬臺とは書いていない。
日本が邪馬臺であると推測。
もっともヤマトが邪馬臺(卑弥呼〜壱与)のころ
水害から出して農業、開拓で巨大化中だろうな。
邪馬臺だけで可7万戸までおおきくなっている。
また、東海、吉備地方の特徴のある土器が九州で出土する時期が重なる
0255日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 11:50:39.57
まーだやってらっしゃるのか




卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0256日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 11:52:27.20
>>254
隋書では邪馬台「国」は登場しない
該当する遺跡も無い
あるとすれば河内
0257日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 11:59:57.40
>>252
この意味が読み取れないって、相当学力が低いね
0258日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 12:02:48.46
>>251
>証拠は?

「老鷹在空中不停地周旋」
タカが休みなく空を旋回している

これを「外側を一周するって意味」だと読む人は
日本語も中国語も読めない書けない話せない
かなーり知能の低い人
0260日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 12:08:33.94
>>246
お説の通り出発地があり最終到達点があり、また出発地に戻るという意味
0261日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 12:11:43.28
キナイコシ無職www
キナイコシ無職wwwwww
キナイコシ無職wwwwwwwww
キナイコシ無職wwwwwwwwwwww
キナイコシ無職wwwwwwwwwwwwwww
キナイコシ無職wwwwwwwwwwwwwwwwww
キナイコシ無職wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
0262日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 12:14:24.69
船頭が低知能なので船ごと間違った山に登ってしまい降り方がわからず妄想に耽るだけの畿内説あわれ
0263日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 12:19:42.47
>>260
一定の領域の広さを表現している
0264日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 12:22:14.67
>>261のw男って、もう脳の病気だな
0265日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 12:40:03.50
南西諸島は
>大隅諸島、吐噶喇列島、奄美群島、沖縄諸島、慶良間列島、宮古列島、八重山列島、尖閣諸島、大東諸島
と九州と台湾の間に台形状の地域に広がっている
日本人が日本の領域と認識した以前に中国は倭人が住んでいる地域として認識していた
0266日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 12:47:44.63
どういうものが根拠となるの
実例を示して欲しいけど?
0267日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 12:50:29.39
>>259
どういうものが根拠となるのかい?
実例を示して欲しいけど?
0268日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 12:53:12.42
>>264
本当のこと言われて恥ずかしいのかな?
0269日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 13:03:08.28
>>266
まさに、今読んでいる魏志倭人伝の個所

>倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り。或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり

倭地は倭国の領域外だが倭人が住んでいるところ
0270日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 13:12:37.50
キナイコシ無職www
キナイコシ無職wwwwww
キナイコシ無職wwwwwwwww
キナイコシ無職wwwwwwwwwwww
キナイコシ無職wwwwwwwwwwwwwww
キナイコシ無職wwwwwwwwwwwwwwwwww
キナイコシ無職wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
キナイコシ無職wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
0271日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 13:14:32.18
キナイコシは無職で、世間、学会から全く認めてもらえないただの無能
やることないから毎日毎日5chで憂さ晴らし
0272日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 13:18:17.66
>>269
なんでこれが根拠になるの?
0273日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 13:23:14.73
>>272
私の
>>265のあとに君の>>266の書き込みがあったので
それにレスしたもの
>>267を読むと違うコメントへの質問のようですね 失礼しました
0274日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 13:53:10.63
>>253
>というかお前の畿内説が変だからw

どう変なのかまったく具体的に入れないと云うことは
変なのは>>253の頭だという証明なんだがな
0275日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 14:27:03.60
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせるテクニック。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 14:29:46.48
>>275の模式図だyo!【魏志倭人伝の「倭国=南越(儋耳朱崖)」プロパガンダ】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」(出雲・吉備) 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★『(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏≒西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年」
0277日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 14:31:05.25
>>256
すでに都だしね。
河内平野一角の羽曳野市周辺地域も
もちろん候補。纏向遺跡も候補

移動しているのではないか?

交通インフラ整備や農地での利水に資するとともに、
平坦地の掘削によって土中環境に高低差をもうけることで、土中の通気性・浸透性を改善し、
さらに滞水を解消しながら、豊かで持続的な農業生産を可能とする土地へと改善。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 14:32:21.42
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径【円墳】百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@曹魏から禅譲を受け、呉を平定し中国を再統一。280年頃、再び天下に平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹魏の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
B「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形◎や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと無意味な論争が継続中!

もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
魏使「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
魏使「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩四神鏡そのもの。まさに倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しよう(陳寿、心の声)w
0279日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 14:38:30.30
>>277
纏向遺跡は4世紀前半で消滅している
隋書の邪靡堆は難波京だろうよ
0280日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 14:38:57.67
>>276
>>278
倭王卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書用封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい!!
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種【〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道】
−其南有狗奴國 不属女王【〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂)

畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
0281日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 15:03:54.66
>>279
だから、移動したんだよ。
大和川から大阪湾にかけての交通路や水路
物資流通とか
又、丹山があり、奈良、三重、阿波から集中する場所でもある。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 15:11:21.11
>>280
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
0283日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 15:11:58.12
>>275
孫権も公孫氏との連携やベトナムとの連携と合わせて東方への進出を企てている
そういう架空の戦略など通じるはずがない

東方へは夷洲及び亶州への探索だが台湾から南西諸島さらには南部九州の地域を含む地域が対象
0284日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 15:15:05.34
>>282
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が100年前の邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
伊都国崇神朝の景行/成務/仲哀、邪馬台国応神朝の応神(息子)/仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0

その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 15:15:33.26
>>278
史書は同時代の人々からも注目を受ける
適当な与太話が入り込んだら厳しく指摘されるだろう
ありえない話だ
0286日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 15:17:03.31
>>284
ダイワ(オオワ)としか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家の=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津京に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書の古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず、国民の無知に付け込み、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 15:28:47.49
>>286
日本(本州・旧邪馬台)は昔小国だった。
卑弥呼の前の時代までね。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 15:29:54.27
>>280
当時九州にそれほどの人口を想定することは荒唐無稽
0289日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 15:31:21.90
>>286
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子(以和為貴)」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html
0290日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 15:34:10.21
今城塚古墳に眠る治天下大王のピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:12:49.33
阿蘇ピンク石って、そういうことか!!
0292日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:17:09.98
>>288
無知おつ
奈良盆地にはこうした弥生人が継続的に居住していた痕跡は無い

行橋・長井遺跡 弥生期の箱式石棺31基出土 23日に現地説明会 /福岡
https://mainichi.jp/articles/20191121/ddl/k40/040/331000c
0293日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:19:21.20
>>287
屁理屈おつ
後漢時代の倭国は100国あったが、魏の時代の卑弥呼女王国は30国
つまり卑弥呼時代までは小国だった
となるが?
0294日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:36:50.65
>>292
日本列島には1万6500万年前から縄文人が生活していた
弥生人は紀元前1000年頃から日本に居住するようになった
0295日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:37:56.53
>>279
>隋書の邪靡堆は難波京だろうよ

そんなピンポイントな場所に七万戸とか
無理筋な説だ
0296日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:39:02.76
>>294
1万6500万年前を1万5000年前に訂正します
0297日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:43:31.40
>>293
>後漢時代の倭国は100国あったが、魏の時代の卑弥呼女王国は30国
>つまり卑弥呼時代までは小国だった
>となるが?

ならんでしょ
論理がおかしい
卑弥呼時代の直前が100国というわけでは無いのだから
「漢時有朝見者」と書いてあるでしょ?
0299日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:45:13.95
>>282
越王の分家→狗奴国王・卑弥弓呼→継体天皇→阿毎多利思北孤→天智天皇→欽明天皇(現在の天皇家)

ってことか…やはり皇室の祖先は中国人だったんだな…orz
0300日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:46:47.91
>>292
>奈良盆地にはこうした弥生人が継続的に居住していた痕跡は無い

もしかして唐古・鍵遺跡とかも知らない超絶無知な人ですか?
0301日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:46:53.05
>>294
奈良盆地の弥生遺跡の下を掘り進めて次に出てくるのは「旧石器時代」
「新石器時代」(縄文時代)が出てくるのは橿原神宮付近の一角だけ
0302日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:48:17.99
>>295
難波京は飛鳥京より古く平城京よりデカいらしいぞw
0303日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:49:39.46
>>286
>ダイワ(オオワ)としか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?

九州説に漢字の知識が小学生以下な人がいて
思わず苦笑した
0304日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:51:56.67
>>298
纏向遺跡は弥生遺跡ではない
『 辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纒向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳しょくじがあります。
銅鐸の飾耳は突線鈕式とっせんちゅうしき銅鐸の破片ですが、纒向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。
特殊埴輪は都月とつき型と呼ばれるもので、特殊器台から派生した最古の埴輪とも呼ばれるものです。』

且つその奈良の3つの弥生遺跡は縄文時代から継続した遺跡ではない

長期間継続していた遺跡は強いて言えば中西遺跡だろ
0305日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:53:38.44
>>293
屁理屈はそっち。

卑弥呼の前の時代ね。
東海 近畿は、水害で奈良が避難地と
なり人口が増える。
水害から脱して、農業生産が飛躍てきに伸びる。
卑弥呼が共立された理由のひとつ。卑弥呼は鬼道を
通じ、暦をしっていたかもしれない。
魏志では投馬国と邪馬台国が急に水行、陸行の日数になり
「可」戸数もになっている。(不確定)


隋書 「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也」
舊唐書「倭國者,古倭奴國也」であり
新唐書では、大和国でなく大和州
0306日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:55:26.15
>>303
「大和」の読みは「ダーワ」だよな

魏志倭人伝では女王国で使われていた市場を監視役「大倭」と記載されている
『国国有市 交易有無 使大倭監之』
0307日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:58:15.90
>>305
可住地面積:人が住むことの出来る土地の面積
https://i.imgur.com/b6pzfwV.png

奈良は47都道府県中47位
しかも3世紀の大阪はまだ海だった時代
0308日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 16:59:28.82
>>302
それが七万戸の邪馬台国だとかおっしゃる?
隋の使者が訪れた先が桜井市じゃなくて大阪市中央区だとかおっしゃる?
0309日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:01:09.45
>>307
>しかも3世紀の大阪はまだ海だった時代

あんたって畿内は海に面して無いとか言ってた人?
京都県とか言ってた人?
0310日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:02:14.28
>>306
>「大和」の読みは「ダーワ」だよな

いつの時代?
0311日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:03:50.44
魏志:倭人伝
隋書:倭国伝
旧唐書:倭国条、日本条(日本は倭国の別種と書いてある)
新唐書:日本国(倭王は筑紫城に住んでいたと書いてある)
0312日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:05:19.51
>>309
> あんたって畿内は海に面して無いとか言ってた人?
> 京都県とか言ってた人?

なにそれ?
別人だが「京都県」って何?
0313日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:06:06.05
九州節の人って年代の感覚がない人が多いね
つまり歴史を学ぶのは無理だってことだけど
0314日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:06:20.80
>>310
漢字の訓読みが出来たのは平安時代だぞ?
0315日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:07:10.33
>>312
あんたくらい日本地理を知らない人の話だ
0316日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:07:33.42
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)




久 努 国 ( く の の く に )




久 努 国 ( く の の く に )




馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0317日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:08:16.35
>>308
「七万戸の邪馬台国」は3世紀の話だろ池沼w
0318日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:08:58.30
>>315
現実は受け入れろよ池沼w
0319日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:10:26.77
>>311
>新唐書:日本国(倭王は筑紫城に住んでいたと書いてある)

それはデマ
そんなこと書いてない
0320日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:11:31.74
伊都(国)は斯馬(国)に連なっていたとのこと。
また、邪馬臺国は伊都国から「又南」と書かれているので、
伊都国のすぐ南にあったと考えられる
https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
0321日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:13:33.19
>>314
>漢字の訓読みが出来たのは平安時代だぞ?

それ、誰の珍説?
日本人じゃないよね?
0322日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:14:21.90
>>319
今更しらばっくれるなw
中国の新唐書は「東遷説」、日本の記紀は「東征説」は常識だぞw

新唐書「居築紫城 ?瀲子神武立 更以 天皇 爲號 徙治大和州」
日本は、古の倭の奴国なり。
その王の姓は阿毎(あめ)氏、自ら言う、初主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、
彦瀲(ひこなぎさ)に至る迄およそ32世、皆、尊(みこと)をもって号となし、筑紫城(ちくしじょう)に居す。
彦瀲の子、神武立ち、改めて天皇を以って号となし、治を大和州(やまとしゅう)に移す。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:14:24.86
>>320
これだよ
九州説って程度低すぎ
注釈って何だかも知らない
0324日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:15:02.13
>>321
自分でも調べてみろよ池沼w
0325日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:16:15.88
畿内説宣伝屋のボケボケ喜劇公演中www
0326日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:16:28.82
>>322
>今更しらばっくれるなw

ほらほら、書いてなかった
「倭王は筑紫城に住んでいたと書いてある」
は嘘だと認める?
0328日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:17:51.91
>>324
>自分でも調べてみろよ池沼w

誰の説だか言えないってことは
>>324の珍発明妄想だったと認めたってことで
いいね?
0329日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:18:57.05
>>304
何を主張したいのか?
0330日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:19:03.70
ただいま、珍説畿内説お披露目中www
0331日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:20:01.82
>>330
簡単に論破されて九州説がまた発狂
かわいそう
0332日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:21:58.62
>>311
隋書 「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也」

旧唐書
倭国条、古倭奴國也であり邪馬臺者ではない。
日本条 日本(邪馬臺者)は倭国の別種と書いてあるのは当然

新唐書 大和国でなく大和州つまり広範囲である。
もっとも、新唐書の時代になると
記紀が完成しているから、どこまで信憑性があるか定かではないけど。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:22:10.09
>>328
そうか、爺は検索すら出来ないのか?w

『漢字が本来、中国語、つまり外国語を表記するための文字であり、日本語の語義と一つ一つが一致しないためである。
このような状況のなか、時を戻して平安時代中期以降になると、漢文を日本語の語順や訓で読む漢文訓読の方法が発達するとともに、
一義一訓の形に次第に訓が限定されていき、室町時代には訓がかなり固定化された。』
0334日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:23:06.22
>>333
誰の説だか言えないんだね?
一撃で論破されてかわいそうだね
0335日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:23:56.79
>>332
ほーら畿内説はご都合主義の曲解しか出来ない中文音痴w
情けないねーw
0336日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:24:50.61
>>333
そこに
>漢字の訓読みが出来たのは平安時代だぞ

と云う妄想は書いてない件について
0337日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:24:54.98
>>334
誰の説であろうと日本人の「常識」だから諦めろチョンw
0338日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:25:57.42
>>336
古墳時代に始まったとは書いて無いな
0339日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:27:20.78
>>335
あなたが非難したい「ご都合主義の曲解」とは何_
それって実在する?
具体的に言ってみて
0340日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:27:59.29
>>336
「大和」をヤマトと読むようになったのは何時からだ?
しっかりしろよ爺w
0341日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:28:50.48
>>337
>誰の説であろうと日本人の「常識」だから諦めろチョンw

つまり、あなたの言い張ってる
「漢字の訓読みが出来たのは平安時代だぞ」
なんて珍説は実在しないと云うことで
いいね?
0342日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:30:02.90
>>340
>「大和」をヤマトと読むようになったのは何時からだ?
>しっかりしろよ爺w

奈良時代だが、それが何か?
0343日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:33:00.31
物的証拠として卑弥呼時代あたりから
北九州で東海、近畿の特徴である土器が出土
また、那珂八、祇園山等で三角縁神獣鏡が出土
0344日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:33:47.03
では、もう一度

↓古い順
魏略:広志逸文(伊都国の又南に邪馬臺国)
魏志:倭人伝(投馬国の南が邪馬臺国)

隋書:倭国伝(邪靡堆はいにしえの邪馬臺とは書いて無い)
   過去から邪馬臺国が継続していたのであれば、改めて紹介する必要は無い
   過去とは異なるから再度文字を変えて紹介されているわけです

旧唐書:倭国条、日本条(日本は倭国の別種と書いてある)
新唐書:日本国(倭王は代々、筑紫城に住んでいたと書いてある)
0345日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:34:57.34
>>342
それ以前は?
「大和」→「ダーワ」だろw
0346日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:35:44.27
>>342
エビデンスの提示よろしく
0347日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:49:54.19
>>346
続紀
常識でしょ
0348日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:50:53.42
>>344
拡大したのだから当然だな。
だから邪馬臺者となっている。必要ある。
旧唐書:倭国条 古倭奴国也(いにしえの邪馬臺とは書いて無い)
当然 倭国から見れば別種。魏志では、倭国は元々男王。

魏志には、筑紫国は登場せず
新唐書:記紀が書き終えている時代
日本国(倭王は代々、筑紫城に住んでいたと書いてあるが邪馬臺国とは書いていない)
0349日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:51:21.45
>>344
>新唐書:日本国(倭王は代々、筑紫城に住んでいたと書いてある)

デマ
事実なし
0350日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:53:37.08
>>348
ほーら子供じみたこじつけ反論しか出来ないw
0351日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:54:30.76
>>345
>「大和」→「ダーワ」だろw

「大和」という単語がない
0352日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:55:33.89
>>347
エビデンスって意味わかる?
抜粋よろしく
0353日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:57:04.28
>>350
うーん・・>>348は子供じみたこじつけ反論というより
単なるデマだし
0354日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:58:09.91
>>352
え! 続紀を知らないの?
0355日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:58:18.50
■万葉集における「ヤマト」に該当する当て字は多種有り
 『倭』   19首
 『山跡』  18首
 『日本』  14首
 『夜麻登』 5首
 『八間跡』 1首
 『也麻等』 1首
 『夜萬等』 1首
 『夜未等』 1首

例)
大倭(オホヤマト)には 群山あれど、
とりよろふ 天の香具山。
登り立ち 国見をすれば、
国原は 煙立ち立つ。
海原は 鴎(カモメ)立ち立つ。
可怜し国ぞ。
あきづしま大倭の国は。

ヤマトではカモメが飛んでいたとのこと
0356日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:58:40.83
>>349
至彥瀲,凡三十二世,皆以「尊」爲號,居築紫城。彥瀲子神武立,更以「天皇」爲號,徙治大和州
だったな。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 17:58:54.75
>>354
>>351
0358日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 18:01:54.55
>>353
あんたはどうなの?
いっこうに書かないな。
デマとか漠然としか書かない。
0359日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 18:02:21.22
要するに畿内説はチェリーピッキングを組み合わせただけの妄想作文て事よ
0360日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 18:10:17.24
そりゃあ邪馬台国は畿内にあったから
邪馬台国についての資料の一部だけを取り出してみても
それが邪馬台国は畿内にあった事を示しているのは当然
0361日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 18:11:34.17
>>359
根拠なし
0362日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 18:21:40.39
必死にチェリーピッキングしてもストライクな記録がないので結局妄想でこじつけるしかない畿内説あわれ
0363日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 18:33:44.04
>>360
当然だな。九州説は
不弥国近辺で必死止めるのに
あの手、この手だな。
對馬国等の距離を二重に加算したり、
放射読みとかね。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 18:38:31.11
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0366日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 18:40:48.34
>>358
>いっこうに書かないな。
>デマとか漠然としか書かない。

読めばわかるけど?

新唐書のどこにも「倭王は代々、筑紫城に住んでいたと書いて」ない

だから
>新唐書:日本国(倭王は代々、筑紫城に住んでいたと書いてある)

は明らかに
デマ
事実なし


デマ
事実なし
0367日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 18:47:59.91
>>355

ヤマトで「国見をすれば」
「海原は 鴎(カモメ)立ち立つ」

と書いてある

「ヤマトではカモメが飛んでいた」はウソ
0368日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 18:51:29.11
結論
九州説はデマ
0369日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 18:53:50.94
「漢字の訓読みが出来たのは平安時代」
とか言っている人はどこにもいない

これが常識だとか、デマ

九州説はデマ
0370日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 19:10:36.58
>>366
356
至彥瀲,凡三十二世,皆以「尊」爲號,居築紫城。彥瀲子神武立,更以「天皇」爲號,徙治大和州
だったな。

原文出して訂正しているが?
0371日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 19:15:08.53
>>370

>新唐書:日本国(倭王は代々、筑紫城に住んでいたと書いてある)

は明らかに
デマ
0372日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 19:17:19.21
九州説はデマ確定
0373日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 19:21:24.96
>>371
意味不明
倭王は代々との記はないよ、

新唐書自体がデマてこと?
記紀の後だしね。辻褄あわせて事?
0374日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 19:25:37.79
>>367
どうして?
ユリカモメの特徴
・生息地:ユーラシア大陸の極東ロシアから西ヨーロッパまで広く繁殖し、北アメリカの東端でも一部繁殖し、冬は南下しヨーロッパ、アフリカ、インド、東南アジアへ渡り越冬する。
日本では冬鳥として本州から南西諸島まで広く渡来し、北海道でも厳冬期以外では確認することができる。夏に繁殖するため、日本では基本的に営巣しない。
主に、全国の海岸の他、河川や沼地などに普通に渡来する。海岸、内陸の湖沼や河川に比較的大規模な群を作り生活する。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 19:37:19.22
>>373
つか記紀の劣化コピー確定してるし
0376日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 19:39:44.38
>>374
>どうして?

そう書いてない
「ヤマトではカモメが飛んでいた」はウソ
0377日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 19:46:28.64
九州説、終わってるな
0378日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 20:45:55.12
>>365

「倉敷市玉島・玉の浦」 この辺一帯が投馬国だろう。
http://www.tamatele.ne.jp/~mizukawa-y/00022.htm
今から約1300年前、奈良時代に詠まれた歌があります。

「ぬばたまの夜は明けぬらし玉の浦に漁(あさ)りする鶴(たづ)鳴き渡るなり」
(暗い夜が明けたようだ。玉の浦でえさをあさる鶴の鳴き声がひびきわたっている。)

これは万葉集の中の一句で、新羅に派遣される人がその旅の途中で詠んだ歌です。
早朝の出発に、玉のような島々が連なる、おだやかな浅瀬の情景を見て歌ったのでしょうか。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 20:47:29.20
「ミミ」および「ミ」

ミミ(耳、彌彌、美美)およびミ(彌、見、美、海、看)は古代日本の尊称。

「ミ」(霊)は神格を表す尊称(神霊の意)として
「ワタツミ」(海つ霊)や「ヤマツミ」(山つ霊)等と用いられ、
「ミミ」(霊霊)はその「ミ」(霊)を重ねたものとされる。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 20:50:18.28
地域的首長としてのミミおよびミ

『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に
「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。
>の様にミミと重なる尊称は近畿・中国地方に多く、九州地方にはいない
>よって3世紀の投馬国は行程日数から岡山吉備地方の玉島・玉の浦しかあり得ない。


『古事記』および『日本書紀』では和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、
摂津地方に三嶋溝杭耳(ミシマミゾクイミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、
また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)が記録されているが、
いずれもその地方の首長と考えられている。

『出雲国風土記』には波多都美(ハタツミ)や伎自麻都美(キジマツミ)など
「ミ」の付く人物が記されており、いずれも地域的首長である。

また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(スガノヤツミミ)、
布帝耳(フテミミ)、鳥耳(トリミミ)、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミ)、
天日腹大科度美(アメノヒバラオオシナドミ)も地域的首長と考えられる。

他に近江国伊香郡の伊香刀美(イカトミ、伊香津臣命か)なども地名にミを付けた
地域的首長を表すと考えられる。
また綏靖天皇の和風諱号である神沼河耳命(カムヌナカワミミ)や、
その兄である神八井耳命(カムヤイミミ)なども同様である。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 20:53:08.81
>これ、明らかに東至の投馬國(倉敷市玉島・玉の浦)の事だよ。
>現在では内陸に成ってるが近代まで潮待ち港で有名な場所で日数もピッタリ合ってる。
>それに官、副官、のミミ音は近畿地方の首長がよく使う尊称で九州地域では使わない。

南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
「南、投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。」
(不弥国から)南、投馬国に至る。水行二十日。官はミミといい、副はミミナリという。およそ五万余戸。

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬
次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳(革是) 可七萬餘戸
「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り。
次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳(革是)と曰う。七万余戸ばかり。」
0382日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 20:57:56.35
博多湾より水行二十日の地、投馬國とは西道将軍、吉備津彦(百襲姫の弟)が居た
吉備地方の事で五万余戸の大都市が有ったと言う。
官は弥弥ミミと曰い、副は弥弥那利ミミナリと曰う。五万余戸ばかり。

そこから東行、邪馬台国に至る。女王の都とする所。水行十日または陸行一月。
これも岡山から奈良までの行程にピッタリ。

次に官有伊支馬とは生駒(いこま)氏の事で大阪奈良の堺、生駒山地の東側が本拠地。
次日彌馬升(ミマサ) 次日彌馬獲支(ミマワカ) 

次日奴佳(革是)(これは生駒山地南が本拠地のヌカタだと思う、
石切神社近くに近鉄、額田ヌカタ駅もある)
0383日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 20:59:23.13
次に邪馬台国の高官だけど、次日彌馬升(ミマサ) 次日彌馬獲支(ミマワカ) 
(ミマ)音だけど任那のミマ、御間城ミマキなどの(ミマ)は、

>どうも古代には皇孫の事を(すめ・みま)と呼んでいたらしい。
すめ‐みま【皇御孫・皇孫】
天照大神(あまてらすおおみかみ)の御孫(みま)。
特に、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほににぎのみこと)をさす。すめみまご。すめらみまご。

※書紀(720)神代下(兼夏本訓)「高皇産霊尊、皇孫(スメミマ)を
降(くた)しまつりて此の地(くに)に君臨(きみと)したまはむと欲(す)」
0384日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 21:03:53.33
西道将軍だった吉備津彦命(卑弥呼こと百襲姫の弟)と
この当時、秦氏が宇佐に現れる前、宇佐は吉備氏の直轄統治地だった
九州熊襲、狗奴国との対立戦闘のために八女・みやま市辺り山門郡に

邪馬台国の現地前線部隊、駐屯地が敷かれ若かりし卑弥呼こと百襲姫が女将軍として
指揮を執ってたんだろう。 神功皇后や斉明天皇などもその例だと思う。

中国などでも女将軍とか武田氏の川中島の合戦でも女将軍がいたと云うから。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 21:12:24.08
ただ豊国宇佐は秦氏の八幡宮が進出する以前は
吉備津彦の弟・日子刺肩別命が 統治してたようで。

宇佐、豊国と吉備

1 「国前(くにさき)国造、志賀穴穂朝吉備臣と同祖。吉備都命六世午佐(うさ)自命 
   定賜国造」『先代旧事本紀』国造本紀

2 豊国(とよくに。大分県〜福岡県豊前地域)の国前臣は日子刺肩別命(ひこさしかたわけ)
   のことであり大吉備津彦命と若日子建吉備津日子命。「孝霊記」

3 「豊国別命、吉備別祖」『先代旧事本紀』天皇本紀景行六十年条

4 「古の菟狭(うさ)国の神都は備前なり。備前・備中・備後・美作(みまさか)は
  古の菟狭国第一の神都にして、第二は九州」宇佐国造家伝承 宇佐公康『宇佐家伝承が語る古代史』

5 本来皇室しかもらえない品位を宇佐神宮と吉備津彦神社だけがもらっている。
  「奉る(八幡)大神一品、八幡比羊()神二品」『続日本紀』
  「八幡比羊神授一品」『文徳実録』
  「特授備中国吉備津彦神授四品」同上
  「在備中国四品吉備津彦神授三品」同上
  「奉授 備中国三品吉備都彦命二品」『三代実録』
0386日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 21:15:06.33
豊国宇佐は秦氏以前は吉備国の直轄地で
筑紫地域の首長が西道将軍・吉備津彦の姉、卑弥呼こと百襲姫だった。

神話のアマテラスとスサノオの話はこの兄弟の領地争いと誓約だったのでは?。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 21:20:23.48
宇佐国造家伝承では古の菟狭国の首都、神都が「吉備の国」だとされてる。
0388日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/02(金) 22:01:11.15
>>378
投馬国は今の岡山市と倉敷市の北部に広がっていた国

投馬国の場所を霊感に聞くと、「たま」とばかり言ってきて岡山の地図を見せてきます

特に岡山の内陸の方を見せてきます

これの意味が半年くらい分からずイライラしていたのです

水行して舟で行ったのだから内陸の訳がないと

それもそのはず、岡山市と倉敷市の南部は当時は海だった事を後から知りました

岡山県の内陸にある当時の海岸線だった場所にある遺構こそが投馬国の痕跡です
0389日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 05:29:06.55
>>382
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。
0390日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 07:37:26.46
>>384
滅茶苦茶ですね。まあそういう妄想に浸れるところが畿内説などと言うゲテモノの
温床になるわけですが。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 07:55:56.83
吉備津彦は後世の人間が名付けた呼称であって、吉備津彦が存命中は吉備津彦は
吉備津彦と呼ばれてないのですよ

吉備という地名もそう

吉備津彦の生きた時代には吉備という呼称はまだないのですよ

吉備津彦の生きた時代の吉備は「たま」と呼ばれていたのです
0392日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 08:47:01.27
キナイコシは無能だから、いつまで経っても無職のまま
0393日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 09:09:31.41
佐藤宏之「先史時代の物流ネットワーク」―公開講座「ネットワーク」2012
https://youtu.be/CNLqiXQGP6M?t=930
近世以前の海運は波の静かな日本海が中心
0395日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 10:21:05.25
>>390
反論はしない
ただ罵る

その行為こそが九州説敗北の証拠
0396日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 11:18:25.23
弥生墳丘墓の成立と発展
https://youtu.be/p8H-cb9gdNA?t=636

奴国王の墓制と弥生墳丘墓の違い
盛り土がされるようになるのは出雲など山陰エリアから
0397日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 13:28:29.28
【磯浜古墳群へ続く道】C広瀬 和雄 氏「基調講演 磯浜古墳群と古墳時代の交通」
https://youtu.be/03CChrQLJ6w?t=1176
古墳時代の墳丘の規模と分布から中央と地方の成立が見える
0399日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 14:42:36.57
>>398
1970年代から、国内の多くの地域でユリカモメの越冬地の拡大や越冬数の増加が起こっている。
京都市では、かつてはユリカモメは越冬していなかったが、1974年から市内の鴨川や桂川に越冬するようになった。
近年では、最大1万羽が越冬するまでになる、

集団繁殖が古代になかった証明にはならないよ。
奈良にまったくいない証明にならないよ。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 15:14:28.64
まーだやってらっしゃるのか




卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0402日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 15:17:49.69
カモメ科の「ユリカモメ」のことを
古代・中世に「​ミヤコドリ」と呼んでいたという説がある。
まあ説だがね。

「かつてはユリカモメは越冬していなかった」
「かつては」ていつ頃なんだろうか?
須川恒 1996 ユリカモメ, 日高敏隆(監修) 樋口広芳、森岡弘之、山岸哲(編)

条件が合えば、飛来するのだから、まったくいない根拠にならない。
0403日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 15:58:34.27
>>399

>>394のようなユリカモメが今いることは
万葉集の時代にいた根拠にはならない
「今はいますよ。」が正しい言い方
0404日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 16:33:26.10
>>403
もちろん国見という行事が現実の風景を描写すると思ってる学者はほぼいない
舒明天皇の都が奈良県でないと思ってる学者も誰もいない
0405日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 16:45:19.05
>>404

蜻蛉島だから日本がすばらしい国だということを天皇が詠んだ歌
0407日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 16:56:56.80
>>406

江戸時代の層から出土した動物遺存体だろ?
0408日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 17:36:07.33
都鳥は都取りとの掛け言葉という説があるな
0409日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 18:13:14.61
>>407
それがどうしたの?

奈良、平安時代の地質学の観点から
いても不思議でもない。

逆に否定する地質学者いるの?
0410日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 18:37:54.02
>>409

地質学の観点じゃなくて、お前がいても不思議でもないと思うだけだろ
地質学者が扱うのは古生物だろ
0411日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 18:49:23.01
山から雲がモクモク出てると言うんだから九州のことを詠んだ歌でしょ
0412日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 18:50:42.83
>>410
古生物学も地質学のひとつである

地形学でもいいけど?

奈良、平安時代の地形学の観点から
いても不思議でもない。

逆に否定する地形学者いるの?
0413日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 18:58:28.88
>>412

カモメは古生物じゃないから
0414日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 19:04:00.10
>>411
>山から雲がモクモク出てると言うんだから九州のことを詠んだ歌でしょ

これば流石にばかだろう
因果関係に論理性がない
0415日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 19:19:11.87
>>413
当然だな。
地質学全てが古生物ではないよ。
地形学も地質学からの発展だな。
0416日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 19:31:41.12
>>415

地質学では江戸時代のカモメの生態は扱わない
0417日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 19:51:59.70
どっちにしろ、カモメ見えないから天香具山は奈良県じゃないとか真顔で言うのは
知能のない人
0418日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 19:58:56.09
>>416
地質、地形学を基に
他の分野も関連ずけするだろう?

>>417
そういう事
都鳥説、国見説もあり
多説ありだし。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 20:02:48.39
あり得ない妄想をこじつけるのに必死なカモメの居なかった畿内説あわれ
0420日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 20:26:12.15
>>418

カモメの生態は動物学の鳥類学だろ
0421日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 20:34:44.25
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)




久 努 国 ( く の の く に )




久 努 国 ( く の の く に )




馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0422日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 22:53:39.88
正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣され、
『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年の間)
に書かれた、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。

『魏志倭人伝』の、「その余の旁国二十一カ国」
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、
對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、
邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国が記録されている。
0423日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 22:56:33.07
「その余の旁国二十一カ国」の内
邪馬台国から博多湾奴国への帰還ルート上と思われる国々。
爲吾国=伊賀国、 鬼奴国=紀の国、
邪馬国=山背国、今の京都

躬臣国=「葛葉・樟葉・久須波」、今の枚方市で物部氏の祖先ニギハヤヒが
   天の鳥船で降臨した岩船神社が南部にあり北部には継体天皇の「樟葉の宮」がある。
   木津川、宇治川、桂川、3川が合流し淀川になる軍事、運輸、の要衝地。
巴利国=木簡では「針間国・幡麻国」・播磨国、
支惟国=吉備国、
   諸橋『大漢和辞典』によると(惟)音読みイ・ユイ・以外に ビ・ミ の読みがある。
   https://mojinavi.com/d/u60df
烏奴国=関門海峡の穴戸国のアナ、となり宇部市に宇治部があり応神朝以前に有ったか?
奴国=博多湾の奴国、へ帯方郡の使節が帰還したと思われる。
0424日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 23:06:08.93
>あとはこれ位かな。
斯馬国=志摩国、
伊邪国=伊勢国、
彌奴国=美濃国、
好古都国=高津、のち大阪城の南側にあった応神朝の高津の宮辺りか?、
0425日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 23:16:11.83
国名の紹介は次有 斯馬国で始まってるだろ馬鹿

伊都(国)は斯馬(国)に連なっていたとのこと。

また、邪馬臺国は伊都国から「又南」と書かれているので、
伊都国のすぐ南にあったと考えられる
https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
0426日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 23:31:12.68
最後の奴国は三野国(美濃国)あたりだろう
0427日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/03(土) 23:33:24.30
>>425
>また、邪馬臺国は伊都国から「又南」と書かれているので、
>伊都国のすぐ南にあったと考えられる

あんた、ほんとに馬鹿だね
それって注釈で、原文じゃないんだよ
0428日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 10:32:11.53
>>424
面白そう。参加するね。
巴利国ー>播磨国
好古都国ー> 白兎ー>因幡
爲吾国ー>丹後、丹波
己百支ー>伯耆
0429日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 10:42:03.37
>>427
伊都国は女王国以北を検察しているんだから、南にあるのは当たり前やろ
バカじゃね?
0430日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 11:36:44.93
>>429がすごく頭の悪いことが証明された
日本語の正常な読み書きが全くできてないレベル

「伊都国のすぐ南にあったと」
      ↓
「南にあるのは当たり前やろ」
0431日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 12:32:45.56
魏志倭人伝の記述から
陳寿の想定だと邪馬台国は投馬国を挟んで伊都国のはるか南
0432日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 13:01:13.90
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0433日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 15:51:32.42
>>429
>伊都国は女王国以北を検察しているんだから、南にあるのは当たり前やろ
>バカじゃね?

伊都国はしてません
0434日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 16:56:00.67
魏志倭人伝では国名と人名の固有名詞は倭人の発音を写して表記している
ただし、国名につく○○"国"は国名であることが読者に判別しやすいように付け加えられたもの
中国史に登場する国名は漢字一文字で"国"はつけなくとも判別される

余談だが、現在は美国、仏国、英国など一文字の外国の国名には"国"がつく
スイス(瑞西)や日本は二文字なので国はつかない

"中国"も"中華人民共和国"も二文字以上だが、これは"国"が付く かつてと逆転していることになる
0435日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 17:06:13.57
魏志倭人伝に登場する役職名は中国語の役職名が記されている
王、女王、官、副、大卒、大倭
太夫、大人、下戸は倭人社会での身分の違いを表現した部分

大倭は倭人の中の有力者を表現しているものと思う 町ごとの市の監督をしていたとの記載がある
0436日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 17:08:32.55
>>435
大卒は大率のまちがいでした
0437日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 17:10:12.88
>>434
それ、もうちょっと考えれば解明に至るな
国の中に国があったら、王の王、つまり皇帝に近い存在と認めた事になってしまう
だから、国家形成の途中だった女王国を倭人伝は曖昧にしか描けなかったのさ
そして、倭人伝以降、つまり国家形成がもっと進んだ段階では、本国ー附庸国の関係で位置付ける必要が出てくるんだ
だから邪馬臺には国をつけなくなる
0438日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 17:17:26.34
大卒、大倭が役職名だと判別できるのは
大という文字が付いているから
官僚のクラスを表現した部分
0439日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 17:19:04.88
良くこのスレでは東西南北を議論してるけども、
弥生時代には沖縄の様に磁気方位、北をニシと発音してた可能性がある
そこで中華から入って来た方位知識を知ったかが、ニシの反対は東だろと
実は中華方位の北の反対は南で、倭人が東と言ってるのは南方だと勘違いし
中華方位と倭人方位は90度ズレてる事に気づかなかった。

それを、中華王朝では倭は会稽の東に朝鮮から続く、
南北に長い国だとの固定イメージがあって
本当は東にあった邪馬台国が南に続いてるはずだと、
高学歴官僚、西晋の陳寿たちが東と現場が記録した物を南へ修正してしまった。
博多湾沿いの国々の位置方位は誰もが知る方位で修正しなかったんだろう。


沖縄・漢字の読み方知ってる?ニシが北?知れば知るほど ...
https://okinawa-repeat.com › okinawakanji

「東西南北」は磁気方位「ヒガシ・ニシ・ミナミ・キタ」と呼びますが、

沖縄本島では東をアガリ、西をイリ、南はフェー、北はニシと呼びます。
八重山諸島では東をアール、西をイール、南をハイ、北をニシと呼びます。
与那国では東をアガリ、西をイリ、南をハイ、北をニチと呼びます。
西表島(イリオモテジマ)の名前の由来もこの由来もココからきています。

波照間島では「ニシ浜」というビーチがある。
この場所は、波照間島の北側に位置するのに「ニシ浜」。
「北」を「ニシ」と呼ぶなんて、頭が混乱しますよ。
0440日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 17:20:39.50
沖縄・漢字の読み方知ってる?ニシが北?知れば知るほど ...
https://okinawa-repeat.com › okinawakanji

「東西南北」は磁気方位「ヒガシ・ニシ・ミナミ・キタ」と呼びますが、

沖縄本島では東をアガリ、西をイリ、南はフェー、北はニシと呼びます。
八重山諸島では東をアール、西をイール、南をハイ、北をニシと呼びます。
与那国では東をアガリ、西をイリ、南をハイ、北をニチと呼びます。
西表島(イリオモテジマ)の名前の由来もこの由来もココからきています。

波照間島では「ニシ浜」というビーチがある。
この場所は、波照間島の北側に位置するのに「ニシ浜」。
「北」を「ニシ」と呼ぶなんて、頭が混乱しますよ。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 17:22:29.43
>>423
面白いね
邪馬国=山背国、山科、山城 
躬臣国=宇治
伊邪国、都支国、彌奴国=出雲
鉄、銅出土地域?
0442日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 17:23:36.74
>>434
当時の中国では州の中に郡と並んで○○国が置かれていたケースもあります
いずれも行政機構の一部としての位置づけなのでしょうが
どんな理由で分けられていたのかは興味があります
0444日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 17:40:38.71
>>439
沖縄諸島の地名
南風原 はえばる
北谷 ちゃたん

波照間島 
パスポート不要となってそく
幼い頃、連れて行ってもらった。
船酔いと星がきれいだった
南十字星が見た事が思い出。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 18:03:14.17
支惟国=吉備国
四国全域(遺跡が多く、水銀もでる)が投馬国と推測
0446日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 19:22:09.88
まーだやってらっしゃるのか




卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0448日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 21:01:48.71
>>443
詐欺乙
用紙が足りずにこの日本地図を差し込んだ15世紀の朝鮮地図を根拠にするしかない詐欺の畿内説w

https://i.imgur.com/ev0ywjx.png
14世紀の日本地図
上が西
下に東と書いてある
0449日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 21:15:56.32
ちなみにこれが本家

混一疆理歴代国都之図
https://imgur.com/a2t49cQ

畿内説がよく主張に使うコンパクト版
混一疆理歴代国都之図は日本が李氏朝鮮に依頼して描いてもらったもの
0450日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 21:20:03.40
To 詐欺の畿内説
14世紀時点で東西南北をしっかり認識していた日本が15世紀に日本列島を縦に描いて貰った理由を答えよw
0451日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 21:41:11.70
>>448 (449と450も)
熱く語っているところ水を差すようだが、単にwikipediaの記事を引用したもの
話題の地図は、記事中にある龍谷大学所蔵の地図
この図だけは日本列島が90°ずれているとの記事がある
誰が見てもずれているのはわかる
それがどんな理由なのかは記事にはない
0452日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 21:51:07.93
>>450
>To 詐欺の畿内説
>14世紀時点で東西南北をしっかり認識していた日本が15世紀に日本列島を縦に描いて貰った理由を答えよw

あーまた九州説が詐欺してる
呆れた連中だな
龍谷図は朝鮮朝で製作されたもの
「日本が15世紀に日本列島を縦に描いて貰った」
とかデマを流しても
九州説が今以上に惨めになるだけだ
0454日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 22:03:48.99
>>453
九州説が詐欺やらかしたのに
被害者である畿内説が言い訳する必要なし

詐欺師の九州説さん、反省しなさい
世間からもう爪弾きだよ
0455日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 23:41:30.98
完全敗北してしまった九州説は
もうニセ情報流すくらいしか打つ手がないのだな
0456日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/04(日) 23:49:22.00
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)




久 努 国 ( く の の く に )




久 努 国 ( く の の く に )




馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0457日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 11:23:52.54
>>449
>ちなみにこれが本家

九州説がまた嘘をついているな
それは日本製
0458日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 11:45:04.20
おいおいレス読み返してみろよ
畿内説はボケ老人しかいねぇのか?
0459日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 13:19:08.54
>>458
またも
全く反論できない九州説は
ほとんど知的障害の部類
0460日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 13:49:08.41
何の反論も出来ないクセに勝利宣言してる認知症の畿内説あわれ
0461日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 13:50:41.15
>>458の誰と会話してるのか不明な投稿は
ただ一つ、この九州説男がコミュ障なことだけを証明している
0462日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 14:06:19.84
>>460
何に反論するの?
もう九州説ってぼろ負け常時敗走中じゃね?
0463日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 14:20:45.26
>>462
常時敗走中の畿内説さんの遠吠え?
0464日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 14:27:23.38
>>463
ほら、九州説はオウム返しのボキャ貧
0465日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 15:29:59.02
何この貧相な返答の仕方w
噂通りw

464 返信:日本@名無史さん[] 投稿日:2021/07/05(月) 14:27:23.38
>>463
ほら、九州説はオウム返しのボキャ貧
0466日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 15:58:41.24
>>465
ほらな、九州説は内容のない罵りしか出来ない
惨めだねえ
0467日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 16:54:20.81
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0468日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 20:52:51.05
投馬国の中心地は今の栄えている岡山市の市街地ではなく、今は寂れている岡山市の
北西部から総社市の東部あたりだったんですね

中心地が今とはかなりズレています

尾張国もそうですね

弥生時代に栄えていた中心地は名古屋市ではなく、清須市から稲沢市あたり

大和国もそうですね

奈良市ではなく橿原市や桜井市や明日香村あたり

今では想像もつかない辺鄙な場所ばかり

他にもたくさんあるでしょうね
0469日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 21:04:23.01
>>242
>通常は「有〜家」「有〜戸」と表記される戸数・・・

ちょっと違うな。
古田さんの文献分析では、
「戸」は、魏では「国家からの兵役や納税などの義務を持った家」の数の数え方単位。
それに対して「家」は、「魏や国家からの兵役や納税の義務」を持たない家数の数え方単位。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 21:15:39.47
>>277
>すでに都だしね。河内平野一角の羽曳野市周辺地域ももちろん候補。纏向遺跡も候補

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツね。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 21:26:06.59
>>279
>隋書の邪靡堆は難波京だろうよ

隋書の邪靡堆は、俀國として倭奴國や卑弥呼らの居地として書かれているから、
北部九州である事になり、
また、竹斯國上陸後に阿蘇山へ行く途上にある事になるから、
難波説はバツである。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 21:34:31.09
>>469
それ、分析じゃなくて空想でしょ
根拠がないもの
0473日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 21:36:17.18
>>471
阿蘇山へ行くとか隋書には書いてないから
そんなトンデモ説はバツである。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 21:36:21.27
>>287
>日本(本州・旧邪馬台)は昔小国だった。卑弥呼の前の時代までね

新唐書の記述や、釈日本紀紹介の延喜講記の記録に拠って、
九州倭國の別種分家の旧小国の大和王権が母国の九州倭國から独立を果たして、
唐から日本國号を認められたのは「唐の武徳中」の事であるから、
バツね。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 22:40:33.47
>>474
バツ氏は前回話をしたときは、邪馬台国は鹿児島湾の近くと話していたと思うが、今もその見方は変わりないのだろうか?
0476日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/05(月) 23:59:29.92
竹島は韓国に統治権があると主張している古田の会反日有害活動員ザラゴキは
朝鮮に一番近い筑紫から将軍様が東征した作り話
0477日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 08:30:00.00
キナイコシは無能
論文いくら書いてもアクセプトされず無職
0478日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 08:30:36.77
>>395
>反論はしない ただ罵る その行為こそが九州説敗北の証拠

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
大和の日本國王権は「九州倭國の別種の旧小国」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や、それからの帰納的高確率的な推論の史料実態の指摘に、
反論もしないし、出来ない。
ただ罵る。その行為こそ大和説の敗北の証拠
0479日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 08:40:37.75
>>478
それ、ひとつとして史料事実じゃないぞ
0480日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 09:48:08.61
>>478
大和の日本國王権は「九州倭國の別種の旧小国」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実はない、帰納的高確率的な推論の史料実態もなく
丹山等の遺跡もないのでバツ。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 10:04:58.82
>>469
古田は、史学を70年
後退させた罪は重い。
0482日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 11:15:44.67
>>481
いや、アマチュアに受けただけだから
史学は後退してないし
0483日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 11:33:23.86
畿内説が事実だと認識している妄想一覧

・理由は知らないが倭人伝の南は実は東だったニダ
・奈良も鉄器社会だったが鉄が溶けやすい地質なので残って無いニダ
・よく似た古墳がある地域は当時同政権だった証拠ニダ
・纏向建物の柱穴より深い別の遺構で出土した桃の種が3世紀だったので建物は卑弥呼の宮殿に違い無いニダ
・纏向は人々の住居跡がほとんど無いので倭国の首都だったニダ
・島根県で景初3年の紀年鏡が出土したので畿内説が正しいニダ
・博多湾から投馬国までの水行20日の道程は無人地帯だったニダ
・投馬国から水行10日+陸行一月の道程も無人地帯だったニダ
・中国産の銅しか無い時代に作られた三角縁神獣鏡の成分が中国産だと分かったので中国製で間違いないニダ
・中文は日本の漢文と同じニダ
0484日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 11:33:38.27
まーだやってらっしゃるのか




卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0485日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 12:50:45.77
>>483
みんな九州説が必死で考案した妄想
0486日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 13:15:00.70
>>289
実年代=古事記の没年補正(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+中国皇帝への朝貢記録
◆奴国@博多【後漢の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(光武帝、金印下賜=鉄輸入開始!)
帥升(情報なし)…107年(安帝に謁見。生口160人を献上=鉄輸入急増→タウポ山大噴火→大飢饉(黄巾の乱)発生→倭国大乱へ)
◆邪馬台国@筑紫【狗奴国と戦争→曹魏皇帝に水銀朱と引き換えに帯方郡の鉄、独占輸入権要請→親魏倭王】
卑弥呼(〜247年)…238年/240年/243年/245年
台与(235年〜?)…247年
◆伊都国@博多(崇神朝)…国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源独自確保)
10祟神(〜318年)…266年(西晋武帝へ)、四道将軍派遣270年頃。
11垂仁(情報なし)…330年頃没。伊勢神宮創建(紀伊半島の水銀鉱床独占)。
12景行(情報なし)…343年頃没。日本武尊の東征335年頃。 大臣・武内宿禰
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)  
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆邪馬台国@筑紫(応神朝)…半島派兵(高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)┐
18反正(〜437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆狗奴国@阿蘇(継体朝)…倭王磐井暗殺→日出処天子・阿毎多利思比孤→欽 明皇子を本州の飛鳥へ分家→現在の天皇家へ
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮)
0487日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 14:59:47.11
>>485
まーだやってらっしゃるのか
>卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料事実や、
史料事実からの帰納的高確率的な史料実態に拠って、
ハイ、大和説や吉備説や東海説などは、終了
解散!
0488日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 15:50:20.02
>>487
あんた・・「史料事実」って言葉の意味知らないで
デタラメ書いてるだろう
0489日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 16:48:17.58
>>486
都合の悪い所は書かない
魏志倭人伝の「丹山ありや不彌國から南至 投馬國,水行二十日,南至邪馬壹國,水行十日,陸行一月」
宋書倭國伝 「東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」
隋書    「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也」
梁書    「有大蛇吞此獸」出雲
舊唐書   「倭國者,古倭奴國也」
つまり日本の前身が邪馬臺、邪馬壹、邪靡堆である。元は倭国の小国に過ぎなかった。
共立された壱与の後、4〜6世紀に倭、毛人、半島をヤマトが統一。その後 日本に改める。
大業三年(六〇七)に日本の記はない。その後 日本に改める。
「唐の武徳中」はその後の話
よって九州からの東遷も東征もない。
征服は近畿より西で西服
近畿より東の毛人を東征
その後、半島へ向かう
0490日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 18:59:02.89
「漢字の訓読みが出来たのは平安時代だ」
とか言い張る低脳無学九州説は
さすがに死滅したんだろうな

w
0491日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 19:03:29.98
邪馬「臺」 ←高い

「卑」弥呼 ←低い

また気付いちゃったねw
0492日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 19:10:16.66
狗邪 + 韓国

邪馬 + 臺国

うんうん、これもこれもw
0493日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/06(火) 19:48:13.37
邪馬臺 ← 山と台

つまり前方後円墳
0494日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 08:02:20.65
もう誰にも相手にされない頭の悪いボケ老人と化した畿内説あわれ
0495日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 08:33:19.92
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)




久 努 国 ( く の の く に )




久 努 国 ( く の の く に )




馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0496日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 08:43:57.63
これで、畿内説の者がやってるように見せかけてる積もりなのかな
正気を疑う
0497日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 09:42:11.75
>>487の小訂正
まーだやってらっしゃるのか
>卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料事実や、
史料事実からの帰納的高確率的な推論で得られた史料実態に拠って、
ハイ、大和説や吉備説や東海説などは、終了
解散!
0498日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 10:48:39.92
>>497
何も史料事実から帰納してないではないか
0499日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 10:49:09.41
投馬国は四国だろうな。
三重、奈良、阿波の水銀
0500日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 11:05:22.29
>>499
>投馬国は四国だろうな。三重、奈良、阿波の水銀

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「投馬國は、博多湾岸の不彌國の南方の水行二十日の市にあるから、ほぼ南九州である」などの、
史料事実や、史料事実からの帰納的高確率的な推論で得られた史料実態に拠って、
ハイ、四国や、三重、奈良、阿波説などは、終了
解散!
0501日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 11:31:54.70
★★★魏志倭人伝すら読み解けない低レベルな畿内説学者は産廃★★★

■魏志倭人伝を読む上での注意事項
・中国既存の記録に倭人からの情報など最新情報を追加した文書構成である
・卑弥呼時代に朝貢が再開されるまで、中国は投馬国や邪馬台国という国名は知らなかった
・水行○○日の行程は、魏に朝貢した倭人からの説明を引用したものである
・投馬国とは、半島南部の呼び名である
・邪馬台国とは、対馬海峡を渡った先にある北部九州一帯の呼び名である

■水行の起点は帯方郡である
https://i.imgur.com/X5UppCx.png

魏に朝貢に来た倭人による行程説明(仮)
・(郡を出て)南に船で20日ほど行くと投馬国に至ります。
・さらに投馬国から南に海を渡れば邪馬台国です。
・そこに女王の都があります。
・郡から計1か月ほどの道のりとなります。

この記録を陳寿なりに解釈して倭人伝に記載したのが、謎の水行陸行だ

■参考
魏略で引用されている廣志では「邪馬臺国」の位置は伊都国の又南と記載されている。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 12:08:17.57
>>501
>魏略で引用されている廣志では「邪馬臺国」の位置は伊都国の又南と記載されている。

ニセ情報にご注意

魏略は廣志なんか引用しない
実に九州説らしい駄法螺でした
0503日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 12:34:36.87
>>500って偽皿国?
0504日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 12:56:58.08
3世紀の奈良は福岡県の南にあったと書かれた史書を提示できない畿内説あわれ
0505日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 13:02:12.21
>>504
そんなこと書いたら嘘つきでしょ
九州説みたいに
0506日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 13:28:00.81
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0507日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 13:45:14.00
コピぺ荒らしは九州説の犯行
0508日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 14:00:41.41
>>501
>魏略で引用されている廣志では「邪馬臺国」の位置は伊都国の又南と記載されている。

これがウソ


 
0510日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 14:17:43.12
これだ

翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。

https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png

邪(岬)は伊都に届き、斯馬國へと連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国,又南、至る邪馬嘉(臺)国。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 14:26:41.42
>>500
舊唐書 「倭國者,古倭奴國也」
なのであるから、邪馬壹、邪馬臺、邪靡堆ではない。
「投馬國は、不彌國の南方の水行二十日の位置にあるから、ほぼ四国である」
丹山あり、水銀関連遺跡が四国、近畿地方にあることから
物的証拠、史料事実や、史料事実からの帰納的高確率的な推論で得られた史料実態に拠って、
九州説、終了
0512日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 15:25:58.22
>>509
B型か? B級か?
0513日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 16:16:38.69
>>511
>舊唐書 「倭國者,古倭奴國也」なのであるから、邪馬壹、邪馬臺、邪靡堆ではない。

「倭奴」は、姫氏系図に拠れば「委奴【=イ奴)」の地の国であり、
阿毎(天や海のアマ+伊や委のイ)の部族と、
火の国山門に渡来して来てその一部が分かれて委奴の地に合流した姫氏の一部が合同した国であり、
その後、「伊」部族と「奴」部族の分裂が起きて、伊都國と奴國に別れ、
姫氏の一部は更に一部が分裂して大野の地に移って、
邪馬部族と提携して卑弥呼を輩出して、女王之所都の地に、女王に共立されたもの。

>「投馬國は、不彌國の南方の水行二十日の位置にあるから、ほぼ四国である」
丹山あり、水銀関連遺跡が四国、近畿地方にあることから

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「投馬國は、博多湾岸の不彌國の南方の水行二十日の市にあるから、ほぼ南九州である」などの、
史料事実や、史料事実からの帰納的高確率的な推論で得られた史料実態に拠って、
ハイ、四国や、三重、奈良、阿波説など大和関連説は、終了。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 17:19:14.86
>>513
魏志に丹山の記があり
都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也
日本書紀 
即大唐使人裴世清 下客十二人 従妹子臣 至於筑紫 遣難波吉士雄成 召大唐客裴世清等 為唐客更造新館於難波高麗館之上

史料事実や、史料事実からの帰納的高確率的な推論で得られた史料実態に拠って、
九州説などは、終了
0515日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 17:24:08.98
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」
などの記禄はない。

九州説 終わっている。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 17:44:45.23
1
前方後円墳の意味で一番しっくりきたのは丸が天で方が地という説
他に何か重要な意味ある?
0518日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 17:45:58.20
2
前方後円墳の向きがバラバラなのは埋葬者の出身地を指してる説あるけどどう思いますか
0519日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 17:50:49.89
昔ミマキイリヒコのミマは任那という説あったけど、
日本書紀読んでたら、倭の五王時代に福岡南部に水間(みま)という豪族がいる
倭の五王は南朝(江南)に朝貢してるから、卑弥呼とは違って、有明海の港を使って中国に行っている
ミマキイリだから「水間に婿入り」という意味という線はない?
0520日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 17:54:33.05
↑3
↓4
雄略の時代にはすでに関東まで平らげていたらしいけど、
古墳時代の前方後円墳が畿内より関東の方が多いということは、
前方後円墳の多くは、皇族じゃなくて、制圧された被害者側の埋葬の可能性ない?
0521日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 18:01:20.00
>>520
> 前方後円墳の多くは、皇族じゃなくて、制圧された被害者側の埋葬の可能性ない?

考古学者の誰かもそんな事言ってたような
0522日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 18:02:08.10
まーだやってらっしゃるのか




卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0523日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 18:23:51.10
>>514
>魏志に丹山の記があり

九州にも「以朱丹塗其身體,如中國用粉也」の痕跡はあるし、「其山有丹」の例もあるし、
明帝の「鉛丹」の痕跡は不明だが、「丹木」を上獻した記録はある。

>都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也

「則魏志所謂邪馬臺者也」は、3世紀の同時代文献での記録ではなく、
はるか後代の唐代の魏徴らの「魏志倭人伝に関しての自己解釈に拠る書き変え文」情報という、
信頼性や確率が殆どない文であり、証拠にならない。

>日本書紀 
即大唐使人裴世清 下客十二人 従妹子臣 至於筑紫 遣難波吉士雄成 召大唐客裴世清等 為唐客更造新館於難波高麗館之上

8世紀の古事記や書紀も、
倭國の歴史や倭奴國や卑弥呼や倭の五王らの倭國の歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書であり、
その記述は、3世紀の倭國の卑弥呼らの歴史などの証拠には全くならない代物。

史料事実や、
史料事実からの帰納的高確率的な史料批判や推論で得られた史料実態に拠って、
大和説などは、終了。
0524日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 18:34:55.40
>>515
>「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」
などの記禄はない。

唐会要の、(日本國伝ではなく)、
倭國伝の「北限大海西北接百濟正北抵新羅西南與越州相接」に拠って、
「西北接百濟正北抵新羅」の方向指定は、北部九州を指している、という事は、
人類の常識である。

大和説学者らは、終わっている。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 18:53:15.17
>>520
>雄略の時代にはすでに関東まで平らげていたらしいけど、

「自昔・・・東征毛人五十五國」の倭王武らは、九州倭國の王であり、
書紀に書かれた大和の雄略らは、九州倭國の別種分家の阿毎氏の、
「倭國の地方の市を監督する大倭職」の旧小国の王であったに過ぎず、
雄略が「関東を平らげていた」事にはならない。

>古墳時代の前方後円墳が畿内より関東の方が多いということは、
前方後円墳の多くは、皇族じゃなくて、制圧された被害者側の埋葬の可能性ない?

大和でも関東でも、九州倭國の「東征毛人五十五國」の将軍や武将らが、
征服した毛人や蝦夷や、出雲系などの銅鐸祭祀部族らを生口や守墓人にして、
前方後円墳を造ったから、沢山造られた、という事だな。
0527日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 19:46:30.63
>>525
そうやって
「九州説は正しい」→「ゆえに九州説が正しい」
という論理を振り回している限り

九州説は永遠に
学問の世界には入れてもらえないんだよ
0528日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 20:19:20.84
>>524
半島に近いから当然あるが方向指定のみであり、
「倭國の中心は北部九州」にはならない。
白村江の戦い、守人、鎌倉時代の元寇、秀吉遠征等
みれば、九州は中心にならない。近い所に都は置かない
0529日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 20:35:07.62
卑弥呼、壱与,大和の系譜だな。
宋書倭國伝 「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
0530日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 21:29:36.75
正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣され、
『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年の間)
に書かれた、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。

『魏志倭人伝』の、「その余の旁国二十一カ国」
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、
對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、

邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国が記録されている。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 21:32:17.41
「その余の旁国二十一カ国」の内
邪馬台国から博多湾奴国への帰還ルート上と思われる国々。
爲吾国=伊賀国、 鬼奴国=紀の国、

邪馬国=山背国、山城国、今の京都
躬臣国=「葛葉・樟葉・久須波・くすは」、今の枚方市で物部氏の祖先ニギハヤヒが
   天の鳥船で降臨した岩船神社が南部にあり北部には継体天皇の「樟葉の宮」がある。
   木津川、宇治川、桂川、3川が合流し淀川になる軍事、運輸、の要衝地。
巴利国=木簡では「針間国・幡麻国」・播磨国、
支惟国=吉備国、
   諸橋『大漢和辞典』によると(惟)音読みイ・ユイ・以外に ビ・ミ の読みがある。
   https://mojinavi.com/d/u60df
烏奴国=関門海峡の穴戸国のアナ、宇部市に宇治部があり応神朝以前に有ったか?
奴国=博多湾の奴国、へ帯方郡の使節が帰還したと思われる。
0532日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 21:33:21.12
>穴にはウロとの発音もありウロ地が短縮してウ地→宇治、となったと思われる。
>宇治には抜け道、抜け穴、の意味があり京都宇治も琵琶湖への抜け道で
>伊勢宇治山田も浜名湖への抜け道、江戸城大奥にも宇治の間には抜け穴用、
>隠れ部屋が有ったと云われてる。

>関門海峡に有った「穴戸国」も「ウロ戸国、ウ戸国」と発音してた可能性がある
>つまり博多湾奴国の手前と思われる「烏奴国」は「穴、ウロの国」では?
>宇部市には宇治部が有ったのも玄界灘への抜け道ですんなり理解できる。

虚/空/洞/穴/(うろ)の意味 - goo国語辞書
内部が空になっているところ。うつろ。ほら。空洞。「古木のうろ」
0533日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 22:09:46.04
>>525
なるほど
「大倭」を役職名と分かっている人って2chにはどれくらいいますか?
>>528
その通りで、だから絹も神器も、東進して畿内に落ち着いたのでは?

まだl邪馬台国は卑弥呼の時代は、
伊都国を中心とした(半島南部含む)エリアのみが連携し、畿内は別の倭種
関東もまだ別の倭種
0534日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 22:19:06.98
倭国のエリアが急拡大して不審がられるのは隋か唐の時代
逆に言うと、
それ以前は九州の倭国、岡山の水軍を中心にした倭種の国、東海や関東の倭種の国などまだ地域王国の段階
いきなり日本中が統一されていたわけがない
0535日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 22:42:43.44
卑弥呼や台与には子どもがいない 天皇の系譜と彼女たちは無関係
台与の退位は記録が無いが、266年の朝貢は台与だったと思う

ここから421年の倭王讃の朝貢までは中国側の記録は無い
倭王讃は允恭天皇と重なる時代 412年に即位

台与の朝貢のすぐ後に
日本に天皇制が生まれた
応神天皇が270年に即位、仁徳天皇が313年に即位している
応神天皇の母である神功皇后は、そのワンダーウーマンぶりが偉大な卑弥呼を想起させる伝説だと思う
熊襲征伐や神武東征、三韓征伐などは神がかった武力を誇示する逸話だと思う
0536日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 22:44:22.90
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)




久 努 国 ( く の の く に )




久 努 国 ( く の の く に )




馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0537日本@名無史さん
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2021/07/07(水) 22:51:01.94
卑弥呼は天照大神の神話となった

卑弥呼の後継者を打ち負かして天皇の治世が始まったが
神話と儀式と国名と首都はそのまま受け継いだ

新嘗祭などは卑弥呼の時代に始まったもの

さらに時代を経ると天皇の性格も卑弥呼に似て来た
卑弥呼が天皇制の精神的なバックボーンになったと言えると思う
0538日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 23:26:06.92
東晋が317年に建国してから、百済は372年に鎮東将軍、高句麗は413年に
征東将軍に任ぜられている
倭王讃は宋の建国の後421年に安東将軍に任ぜられている
台与の後、一世紀と少し、日本が形成された時代といえると思う
0539日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 23:29:50.93
>>535
伊都国には王はいる
卑弥呼、壱与は九州以外から来たのである。
国際関係上や紛争地域である
九州にいただけである。
0540日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 23:37:13.90
>>533
邪馬台国 卑弥呼の時代は、
丹山有の記で
北部九州から三重あたりまでを
含むエリアである。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/07(水) 23:38:54.69
>>539
卑弥呼がいたのは邪馬台国
この首都の名前は魏志倭人伝に一度しか出てこない
日本人は何故かこの名前にロマンを感じて国名がそうだと思いがちだが
あくまで卑弥呼が住んでいた都の名前
国名は倭国
伊都国の王は良く解らないが特殊な事情で卑弥呼の時代も従来どおり王を名乗っていたものだろう
卑弥呼は倭国の王
0542日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 01:05:53.24
>>523
魏志倭人伝のみ絶対視?
おかしな話である。
それ以外は隠蔽盗用造作した半分偽書?
隋書、旧唐書、新唐書等も中国では正史として重んじる。
0543日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 05:12:49.91
>>529
>卑弥呼、壱与,大和の系譜だな。
宋書倭國伝 「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料事実や、
史料事実からの帰納的高確率的な推論で得られた史料実態に拠って、
「西服衆夷六十六國」は、九州倭國地域を「既にほぼ征服し終えていた」、
という意味であり、
ハイ、嘘吐き騙しの大和説や吉備説や東海説などは、終了
解散!
0544日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 08:15:30.12
>>543
トンデモ珍解釈を理由も言わずに言い張ってもダメ
0545日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 08:23:45.42
>>542
>魏志倭人伝のみ絶対視?おかしな話である。

「絶対視」なんて関係がない。
「同時代の役人らに拠る実地での見聞計測の記録」は、信頼性や確率が高いが、
後代の学者や人間が、自分の考えで前代の「同時代の役人らの記録」を書き変えてある記載は、
信頼性や確率が低く、半分バツ記載である、という事だ。

>それ以外は隠蔽盗用造作した半分偽書?

いや、記紀の記載の話だ。
記紀は、倭國の倭奴國王や卑弥呼や壹與や倭の五王らの記録を、
隠蔽盗用造作している半分偽書だな。

>隋書、旧唐書、新唐書等も中国では正史として重んじる。

勿論、隋代や唐代での「実地での確認された記録」を元にして書かれた部分は信頼性が高いが、
過去の実地記録を書き変えた事になる記載は、半分偽記載になる、という事だ。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 08:59:36.49
魏志でも同じだよね。
実地での見聞計測の記録
は里数がある所の地形や動植物、
鉱物、戸数等のみ
後は現地の聞き取りのみで
確認できていないと考えていいかい?
0547日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 09:40:38.20
>>546
>魏志でも同じだよね。
実地での見聞計測の記録は里数がある所の地形や動植物、鉱物、戸数等のみ
後は現地の聞き取りのみで 確認できていないと考えていいかい?

関係がないな。
陳寿は、当然、列島までは来ていないから、実地の見聞計測をしておらず、
だから、殆どは、魏や郡の役人らに拠る実地の見聞計測の記録などを元にして、
それに自分の計算や判断も加えて、倭人伝に書いたんだろう、という事になる。
特に、東西南北程度の方向や、大体の里数や「水行十日陸行一月」の所要日数などは、間違える筈がないな。
しかし、実地の見聞計測出来なかった「投馬國への所要日数」や「巨大な戸数」は、
倭人からの伝聞を中心とし、「可〜」などとして記録したんだろうなあ。
0548日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 09:41:59.26
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0549日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 09:56:37.38
>>547
聞いた事が正確とも言えないし、
里数がある所までと見ている。
中国側、倭人側の政治的な要因もあるよな。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 10:39:51.52
>>543
>「則魏志所謂邪馬臺者也」は、3世紀の同時代文献での記録ではなく、
>はるか後代の唐代の魏徴らの「魏志倭人伝に関しての自己解釈に拠る書き変え文」情報という、
>信頼性や確率が殆どない文であり、証拠にならない。

とか言ってた人が
>「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
>或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」

は絶対だと言い張る

九州説ってデタラメすぎないか?
0551日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 10:44:02.32
>>549
>聞いた事が正確とも言えないし、
>里数がある所までと見ている。

なら東の倭種の国まで里数があるんだから、卑弥呼の都にも行ったことになるね
0552日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 10:44:05.41
邪馬臺國に行かないなら
千餘家の不彌國まで行く意味がない
0553日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 10:50:19.73
>>545
>勿論、隋代や唐代での「実地での確認された記録」を元にして書かれた部分は信頼性が高いが、

「実地での確認された記録」だと、根拠も示さず勝手レッテル貼ってるだけだから
全く意味のない意見だな、それは
0554日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 11:01:09.47
史実です

■旧唐書より
※倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png

<倭国伝>〜AD631年までの記録
倭国(九州)は古の倭奴国なり。
※漢委奴国王の金印は福岡で発見された

<日本伝>AD701年以降の記録
日本国(ヤマト)は倭国の別種なり。

■史書における「別種」の使用例
<高麗伝>
高麗は出自、扶余の別種なり。

<百済伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。

■結論
・畿内ヤマトと倭国は別の国だった
0555日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 11:07:22.34
>>549
>聞いた事が正確とも言えないし、

魏の役人らは、大体の方向も里数も日数も計測記録出来るが、
倭人は里は知らず、日数は数えられたようだったし、
「戸」数も、「可」があれば、倭人からの伝聞で魏の役人らが推定した事になるんだろう。

>里数がある所までと見ている。

魏の役人らは、方向や里数を計測して侏儒國付近までは行っている。

>中国側、倭人側の政治的な要因もあるよな。

魏の役人らは、正確な報告をする事が仕事であり、
政治的な要因で計測記録をして、
それが同行の役人や後続の魏の役人らに拠って、バレれば、
首が危なくなるだろうなあ。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 11:22:35.64
>>554
根拠もなく史実と言い張ってもトンデモ説
学者には相手にされない
永遠に教科書に載ることもない

はるか後代の、日本(=倭国)とは国交もなくなった時代の空想的解釈だからね
信頼性などない文であり、証拠にならないと言うのが常識だ
0557日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 11:23:48.10
>>555
>魏の役人らは、正確な報告をする事が仕事であり、

あんたが勝手にそんなこと決めても意味ないだろう
0558日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 11:31:34.89
「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」
ここには3つの説が併記されている
日本は倭国の別種で、太陽の昇る方向にあるので日本と名乗った
倭国が雅でない名を嫌って日本と変えた
旧小国の日本が倭国を併合した

筆者はいずれの説にも確信が持てないでいる
錯綜した情報をまとめただけ
0559日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 11:34:23.68
>>550
>>「則魏志所謂邪馬臺者也」は、3世紀の同時代文献での記録ではなく、
はるか後代の唐代の魏徴らの「魏志倭人伝に関しての自己解釈に拠る書き変え文」情報という、
信頼性や確率が殆どない文であり、証拠にならない。

>とか言ってた人が
>「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
>或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」
は絶対だと言い張る
九州説ってデタラメすぎないか?

勿論「絶対だ」なんて言う筈がない。
舊唐書の記録は、当然、魏志倭人伝を含めて歴代の中国との国交の記録や、
隋代の裴清や唐代の郭務ソウらの記録や報告などを元にした確率の高い記述。
大和説者らって、デタラメ過ぎないか?。
0560日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 11:51:57.46
>>558
>「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」
ここには3つの説が併記されている
日本は倭国の別種で、太陽の昇る方向にあるので日本と名乗った
倭国が雅でない名を嫌って日本と変えた
旧小国の日本が倭国を併合した
筆者はいずれの説にも確信が持てないでいる

いや、「日本は倭国の別種で、太陽の昇る方向にあるので日本と名乗った」は、
釈日本紀引用の延喜講記に、
小野妹子が隋文帝に「日本」国を名乗って本国の倭國の了解がないから、と拒否され、
唐の武徳中になって、唐が認めた事が記録され、
「倭国が雅でない名を嫌って日本と変えた」も、釈日本紀に、
西晋の惠帝の時に、(当然)倭國の使節が日本國を名乗った、という情報を紹介しており、
「旧小国の日本が倭国を併合した」も、郭務ソウが高宗に「倭國の処分法」を報告しており、
いずれも、中国側に記録が残っていた事。

>錯綜した情報をまとめただけ

この大和説男?も、頭の中が「詐欺で錯綜」しているだけ。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 12:06:57.45
>>551
足らない部分があった、
魏志以前の文献がベースがあり
里数、戸数、方向の三点セット揃い
が魏志が確認できた部分
日数、可戸数、方向は、聞いたのみで
実地確認はしていないと推測。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 12:11:22.66
>>545
>>記紀の記載の話だ。
>>記紀は、倭國の倭奴國王や卑弥呼や壹與や倭の五王らの記録を、
>>隠蔽盗用造作している半分偽書だな。

釈日本紀もそうなるのか?
0563日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 12:34:20.29
まーだやってらっしゃるのか




卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0564日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 12:38:41.75
>>560
3つの説は基本的にまったく異なった説
一つ目は日本と倭は別だとしている
二つ目は倭が改称したという説
三つ目は日本が倭を併合したという説
0565日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 12:45:08.95
>>561

魏志以前の文献に里数、戸数、方向が書かれていたなら
魏使が行ったか否かは里数、日数とは無関係
0566日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 12:46:19.93
倭国 近畿(邪馬壹、邪馬臺)の卑弥呼、壱与が共立され
九州に行く、その後ヤマト(邪馬壹、邪馬臺ー>邪靡堆)台頭で倭国の別種だな。

日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。
或云:日本舊小國,併倭國之地。其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。
又云:其國界東西南北各數千里,西界、南界咸至大海,東界、北界有大山爲限,山外即毛人之國

北界有大山爲限 (南アルプス、富士?)
宋書以外に毛人の記で
ヤマトが西国を服従(併合)させ毛人国を征服し
さらに半島(倭の五王)へ。で日本に改める。
と推測。

倭國者,古倭奴國也であって、邪馬壹者、邪馬臺者ではない。
倭國王帥升等の血筋ではではないか?

もっとも、姻族関係や政略結婚などがあったかもしれない?
0567日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 12:57:02.52
>>559
>・・・らの記録や報告などを元にした確率の高い記述。
>大和説者らって、デタラメ過ぎないか?。

根拠もなく、なんの計算もせずに絶対「確率の高い」ものだって
言い張ってるだろ
デタラメな人だね

そもそも俺たち大和説なんかじゃないし
0568日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 13:04:35.18
>>566

>九州に行く

お前の作り話は要らない
0569日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 13:05:59.12
漢時に朝見した者が有り、
後漢代をピークとした楽浪土器が出る地域は里数で書かれており倭人の風習の卜骨が出ない
倭の女王とは別の王がいて女王國に従属している
日を以て計る倭人の風習はその東の本州の関東まで弥生中期に拡がる
0570日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 13:07:28.74
>>565
書かれていても、どのように
測ったか詳しい記がないなら
全ては推測
0571日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 13:13:50.64
>>568
あんたの感想も要らない。
推測だよ。
卑弥呼、壱与あたりから
東海、近畿、吉備(ヘラ)特徴もつ
土器が九州から多く出土。
0572日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 13:18:55.71
>>571

作り話(推測)から始めたらどんな物語にでもなる
不要
0573日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 13:23:38.12
>>572
近畿説も九州説も作り話
てことになる。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 13:29:26.07
>>573

我国の学者の通説畿内説では「卑弥呼が九州に行った」などという倭人伝、後漢書に書かれていない作り話はしていない
0575日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 13:40:16.96
>>574
通説畿内説も作り話。
「卑弥呼が九州に行ていない」も
書かれていない。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 13:41:12.47
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)




久 努 国 ( く の の く に )




久 努 国 ( く の の く に )




馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0577日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 13:45:18.05
>>575

書かれていないから何も作っていない
0578日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 13:47:36.74
>>577
近畿にいたことも書いていない。
定かでないて事?
0579日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 13:50:04.59
書かれていること

■魏志の韓伝/倭人伝に記された各国の規模や位置情報

・三韓からなる韓国領土は4000里四方
・韓国の東西は海で南は倭と接する
・三韓のうちの馬韓の国数は50国
・魏と交流のあった倭の国数は30国
・倭は約5000里で巡回出来る
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
・女王国の南には敵対する狗奴国がある
・女王国から船で南に行くと小人の住む侏儒国がある(種子島)
※女王国=邪馬台国連合

https://i.imgur.com/yLFScGN.png
0580日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 13:54:40.76
>>578

3世紀の博多湾沿岸が畿内の影響を受け、大阪湾沿岸や足守川流域の消長も連動してることから
倭人伝に書かれた倭国は畿内を中心とした畿内〜博多湾の首長ネットワークであろうというのが通説
0581日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 14:05:42.49
>>580
卑弥呼の所在について?
女王之所都であり、住むとは書いていない
また卑弥呼が首長という記もない
卑弥呼、壱与は、共立王。
0582日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 14:09:15.22
>>580
書いてあること

[纏向遺跡]
銅鏡、刀剣類、勾玉な、鉄製品などが出土していないなど年代を決定する決定的な出土物は乏しく、ここに邪馬台国であったと決定的なことは言えない。
日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。
また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる
土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。
また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含むものの、九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。


「九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が大陸との交易は乏しかった」
0583日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 14:12:56.16
博多では畿内の土器を模倣制作しているので
北部九州の在来の土器を畿内に運ぶことはない
0584日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 14:15:01.44
倭人に共通した文化をあたかも政権勢力の指標であるかのように印象操作している畿内説という霊感商法は犯罪ですね
0585日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 14:18:08.16
3世紀の九州には共通した文化というのがない
0586日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 14:20:04.02
畿内説の理屈でいけば、この時代は九州の倭奴国が東海までを統治していた時代ということだな
https://i.imgur.com/1RqOzrx.png
0587日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 14:27:58.78
書かれていること、出土している物

3世紀頃の九州と奈良盆地との経済交流の痕跡はありません

『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

弥生時代の鉄器出土量
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png
0588日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 14:39:10.55
>>583
誰も運ぶとは書いてない。
政権勢力の指標とも書いていない。
特徴あるのが多く出ているしか書いていない。
0589日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 14:44:53.79
>>586

遠賀川式土器の時代に倭奴国は無い
0591日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 14:50:43.28
>>587
あったと見なせません。

またこれかい?鉄だけみてもしょうがない。
再利用できるもんだし、日本海、若狭湾、関東まであるね。
データも古い。
古墳時代のデータは出さないの?
鉄、銅、水銀等もトータルで見ないとね
0592日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 15:01:28.39
>>591
>あったと見なせません。

それはどこにも書いて無いあなたの「希望」であり、議論に使えません。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 15:03:28.27
>>590
内訳

纏向遺跡で出土した搬入土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
0594日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 15:10:32.40
■桜井市纏向学センターHPより
辻河道出土の銅鐸と特殊埴輪(桜井市大字辻)
辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纏向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳があります。
銅鐸の飾耳は突線ちゅう式銅鐸の破片ですが、纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。

つまり纏向は弥生時代からの連続性は無く、古墳時代初期のほんの数十年間使われた何かの施設ですね。

これを頭の悪い学者が「大集落」だと発表していますが、唐突に7万戸の集落が空から降ってきたとでも言い出すのでしょうか?
0595日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 15:12:32.49
>>592
鉄は議論に議論に使えません
そのグラフ自体が「希望」だな。
0596日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 15:15:05.79
>>587
>國出鐵韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭 又以供給二郡
は辰韓伝
鉄を市場での通貨のように使っている

ここでの倭だが魏志倭人伝に「船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている」対海国、一大国の倭人のことだと思われる
0597日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 15:18:56.11
>>595
>そのグラフ自体が「希望」だな。
  ↑
というあなたの「希望」ですね

どの学者の鉄器調査結果報告も同様の結果ですから
「想像」で話しかけないでください
0598日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 15:19:21.42
>>593
だから何?
纏向遺跡で発掘された部分だな。
奈良盆地は元は湖だった。縄文式土器が出土が少ない。
東海、伊勢での水害で避難地だったかもね。
まあ、土木工事である。古墳造り前のインフラ整備。
0599日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 15:22:12.44
>>597
どの学者て誰?著名な人5〜6名
上げてみて?
「想像」で話しかけないでください。
いつの発表のデータ?
0600日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 15:27:49.00
>>593
交流のないところとは戦争は起きない

狗奴国は交流が盛んだったところだろ

狗奴国は伊勢・東海のどこかにあると言っているようなもの

ただ東海系と一括りにせず、天竜川を境として東海西部系と東海東部系に
分けた場合の結果も出して頂きたい
0601日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 15:38:20.20
当然だな。元は小国だよ。
戦乱跡も見つからない。
宗教地であり開拓地、避難地に人
が集まる、その後水害から脱却し
農業生産があがるんだよ。
卑弥呼一族は鬼道通じ、暦を知っていたのでは?
0602日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 16:35:45.81
脳が空っぽなのを気にしてか想像を大量に詰め込んでしまったので事実識別能力を失ってしまった畿内説あわれ
0603日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 16:46:43.14
>>562
>>記紀の記載の話だ。
>>記紀は、倭國の倭奴國王や卑弥呼や壹與や倭の五王らの記録を、
隠蔽盗用造作している半分偽書だな。

>釈日本紀もそうなるのか?

釈日本紀の筆者は、
書紀の記載に存在しない「日中間での存在記録」を紹介しただけだな。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 17:01:07.68
>>565
>魏志以前の文献に里数、戸数、方向が書かれていたなら
魏使が行ったか否かは里数、日数とは無関係

後漢書の記録は、倭の使節が後漢に行った記録であり、
後漢の役人が倭地に来て、里数、戸数、方向などを計測した、という事になっていないし、
郡の役人らも伊都国とのコンタクトが中心であって、
倭地への里数、戸数、方向などを計測記録をする事が業務であったのか?は不明であり、
従って、魏使らに従って来た魏や郡の役人らの、
「倭地に関する里数戸数方向計測」がおそらく最初。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 17:06:12.91
>>566
>倭国 近畿(邪馬壹、邪馬臺)の卑弥呼、壱与が共立され
九州に行く、その後ヤマト(邪馬壹、邪馬臺ー>邪靡堆)台頭で倭国の別種だな・・・

「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、「ヤマト説」はバツだな。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 17:22:42.03
>>569
>漢時に朝見した者が有り、
後漢代をピークとした楽浪土器が出る地域は里数で書かれており

楽浪土器の中心は、当然(馬韓にも同じ国名がある)不彌國であり、
魏代の「魏の楽浪帯方攻撃戦争」から避難流浪した呉系楽浪鏡師らの避難地も、おそらく不彌國。

>倭人の風習の卜骨が出ない

「卜骨」習俗は、元々は沿海州方面から出雲地域を中心として伝来していた習俗であり、
九州倭地でも、一大國に盛行しており、肥前地域にも存在していたが、
卑弥呼の「鬼道」とは相いれず、卑弥呼共立後は、九州島付近では廃れた。

>倭の女王とは別の王がいて女王國に従属している
日を以て計る倭人の風習はその東の本州の関東まで弥生中期に拡がる

この男は大和説派のようであるが、
「南≠東」や「冢≠s前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。
0607日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 17:42:21.32
「冢≠s前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実はない。史料実態に拠って、バツは、バツ。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 17:43:31.93
>>571
>・・・卑弥呼、壱与あたりから
東海、近畿、吉備(ヘラ)特徴もつ
土器が九州から多く出土。

逆だな。
紀元前100年頃〜紀元前91年頃からの神武らの「東征毛人」の征服戦争に拠って、
征服された吉備や近畿や東海に幾つもの「倭國の地方の市を監督する大倭職」が置かれ、
卑弥呼や壹與の頃に作られた北部九州の「土器」も、
その後、吉備や近畿や東海に伝搬しただけの事。
大和説者は、吉備や近畿や東海の土器年代の詐術をしていた、という事になる。
0609日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 17:55:31.60
奈良から始まったもの

・奈良漬

以上。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 18:00:57.18
>>606

竹島どろぼう反日有害種族のデマ
我国には不要な人種
0611日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 18:25:35.93
>>580
>3世紀の博多湾沿岸が畿内の影響を受け、大阪湾沿岸や足守川流域の消長も連動してることから
倭人伝に書かれた倭国は畿内を中心とした畿内〜博多湾の首長ネットワークであろうというのが通説

博多湾沿岸の庄内は3世紀前半からであり、
大和の庄内は3世紀末の石塚などからであるから、
博多湾岸の方がはるかに早く、
大和は、九州倭國の東征毛人五十五國で出来た「地方の市を監督する大倭職」に拠って、
博多湾岸の庄内が伝えられた事になる。
それが史料事実や史料実態。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 18:28:49.45
>>611

古田の会の反日有害種族にはデマしか書かない
0613日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 18:29:56.65
>>583
>博多では畿内の土器を模倣制作しているので
北部九州の在来の土器を畿内に運ぶことはない

博多の庄内は3世紀前半であり、大和の庄内は、3世紀末の石塚の庄内1からであるから、
博多の庄内が大和に模倣された事になる。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 18:32:03.72
>>613

全てがデマの不要な人種
0615日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 18:54:57.82
>>589
>遠賀川式土器の時代に倭奴国は無い

九州倭國の倭奴國からの東征した神武の「大和での即位元年は大体紀元前91年」であり、
その後の欠史八代の中の4人に「大倭」の称号を貰っていた事になっているから、
大和に遠賀川式が伝搬した?のも、倭奴國時代であった、という事になる。
0616日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 19:01:16.30
>>591
>あったと見なせません。
またこれかい?鉄だけみてもしょうがない。
再利用できるもんだし、日本海、若狭湾、関東まであるね。
データも古い。古墳時代のデータは出さないの?
鉄、銅、水銀等もトータルで見ないとね

これも論拠にならないな。
大和の大量の鉄は、3世紀最末〜4世紀のホケノの鉄鏃からだから。
0617日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 19:02:42.64
伊都国にいた大率は帯方郡の役人
魏の国内での刺史と同じような職と説明してある
刺史は不正を防ぐための職
どんな不正に備えたのか

女王が文書や品物を帯方郡や洛陽に送るときに
大率が品物をリストして証明印のある文書として持たせ
帯方郡や洛陽から卑弥呼への文書や品物は送付の文書どおりかどうかをチェックして確認の書類を添付したのだろう
そういうチェックが無いと不正をする役人や民間人が漢の時代からいたことになる
0618日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 19:04:07.06
地質学的に見てる人いる?
邪馬台国の時代の奈良盆地は奈良湖だよ。
邪馬台国だというのは無理がある。
0619日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 19:09:31.22
市場を監督した大倭は大率と比べるとその役割は小さい
大率は伊都国に一人置かれただけだが大倭は市場ごとにおかれた
倭国の中の国という行政単位でも複数の市が存在していただろう
遠距離を移動しなければならないとしたら市の有効性が削がれる

これは帯方郡とはかかわりなく倭人の有力者がその役割を担っていたのだろう
0620日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 19:12:10.10
>>561
>日数、可戸数、方向は、聞いたのみで
>実地確認はしていないと推測。

そう推測する理由がないなら
それは推測でなくて妄想と言うんだよ
0621日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 19:14:20.99
>>618
>邪馬台国の時代の奈良盆地は奈良湖だよ。
>邪馬台国だというのは無理がある。

などと
既に提出されている全ての証拠に反して
何も証拠なしに言い張る行為には
とても無理がある
0622日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 19:24:51.29
>>618
「大和には 群山むらやまあれど とりよろふ 天あまの香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙けぶり立ち立つ 海原は 鴎かまめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」

大和湖(奈良湖)の地図
http://ikomashinwa.cocolog-nifty.com/ikomanoshinwa/2015/07/post-36cd.html
0624あかさたな
垢版 |
2021/07/08(木) 20:14:56.22
>>621
奈良湖のこと調べたこともないんだろ。
古墳デカいー
土器いっぱいー
だから機内に邪馬台国あったー!
そんなノリだから機内説はダメなんだよ。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 20:25:44.62
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0626日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 20:54:26.43
>使大倭監之 について

▼三国志03 魏書03 明帝紀第三
漢繼周、或彊或弱、俱失厥中。【大魏】創業、

▼三国志13 魏書13 鍾繇華歆王朗傳第十三
軍事、復寢。太和中繇上疏曰「【大魏】受命、繼蹤虞夏。

▼三国志33 蜀書03 後主傳第三
后來之惠、全元元之命。伏惟、【大魏】布コ施化、宰輔伊周、含覆藏疾。

これは簡単だったね

大倭は【大魏】と同じく、ただ単に美称表記なだけとw

ちなみに、呉もいくつか散見

▼三国志61 吳書16 潘濬陸凱傳第十六
理、處朝忠謇、斯社稷之重鎭、【大吳】之龍逢也。

など

また答え出ちゃったねw
0627日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 20:56:23.92
九州大学の「倭人伝の道と北部九州の古代文化」〜九州大学所蔵考古学資料展〜
の資料から
古墳時代の北部九州の諸豪族
「古墳時代(3世紀中ごろ〜6世紀代)になると、近畿地方を中心として、九州から東北地方南部にわたる日本列島の広い範囲で、前方後円墳を主体とした古墳が築かれるようになります。これは、各地域の首長層が共通の葬送儀礼を採用し、また相互の政治的同盟関係を強めていったことを示しています。」

地の利を生かして研究に取り組んでいる九大の資料です
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/publications/annual_exhibitions/WAJINDEN2004/00-flame.html
0628日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 21:01:01.96
>>626
官名に「大」をつけて官職の権威を示したもの
これを省き「倭」では何を指すのか意味が取れない
「大」がついているからこそ官命だと判別できる
0629日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 21:01:43.82
【使大】で全文検索しても

【大】は、その後の文字の一部分ですw

大臣、大将軍、大司馬など
https://i.imgur.com/FZXjaja.jpg

これで「大倭は、ただの美称表記」だと

もう答え出ちゃったねw
0630日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 21:02:44.63
>>628
なるほどw
0631日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 21:08:20.94
>>629
官名は君の言う美称表記も含めて官名
大の有る無しでは違う官名となる
0632日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 22:29:04.68
お前たちも韓国と言わずに「大韓民国テーハミング」と言えよ

倭国て何だよ舐めとんのか? 「大倭」と言わんかい、発音は邪馬台国じゃ。
0633日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 22:35:58.42
>>624
あさはかだな
0634日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/08(木) 23:05:51.10
>>632

 100年前は倭国王だったぞ いつから大倭に成った
 わが皇帝陛下に通知が無いから却下、お前らは倭国だ親魏倭王な。
0635日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 02:09:05.82
>>627
>九州大学の「倭人伝の道と北部九州の古代文化」〜九州大学所蔵考古学資料展〜
の資料から
古墳時代の北部九州の諸豪族
「古墳時代(3世紀中ごろ〜6世紀代)になると、近畿地方を中心として、九州から東北地方南部にわたる日本列島の広い範囲で、前方後円墳を主体とした古墳が築かれるようになります。これは、各地域の首長層が共通の葬送儀礼を採用し、また相互の政治的同盟関係を強めていったことを示しています。」
地の利を生かして研究に取り組んでいる九大の資料です

「近畿地方を中心として」という部分が、「九州大学所蔵考古学」のインチキです。
実際には、「大倭」や「使大倭」の命名や基点の中心は、九州倭國です。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 05:42:52.15
>>616
意味不明
放置するわけないよ。
祭祀場でもあるから古墳へ埋めただけだよ。
また、滋賀の稲部遺跡もあるよ。

>>597
どの学者て誰?著名な人5〜6名
上げてみて?
このグラフ、いつ発表のデータ?

いつ答えるだよ?
0637日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 06:17:53.09
>>608
という事は、
纏向遺跡で出土した搬入土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%

九州と関係あったという証拠になり

「九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が大陸との交易は乏しかった」は
間違いてことだよな?
0638日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 06:19:40.44
>>636
というか、あのグラフ自体からして
「鉄器調査結果報告」
じゃないわけで
0639日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 06:47:52.81
>>638
だよな。
「ノストラダムスの大予言」みたいな本
を出す安本?古田か?
0640日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 08:23:55.42
まーだやってらっしゃるのか




卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0641日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 08:58:34.69
意地になって史実曲解と事実歪曲と想像を組み合わせなければ辻褄が合わなくなってしまう畿内説あわれ
0642日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 10:18:59.48
>>641
どう合わないの?
0643日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 10:36:03.69
敗れ去った九州説の言うことには、もはや内容が無い
0644日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 10:51:57.29
無能でどこにも就職先が決まらない無職キナイコシが何をわめいても全く説得力がない
0645日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 10:53:22.58
>>644
妄想で悪口言うだけって
九州説みじめすぎね?
0646日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 14:39:17.71
九州説残党は、もう主張したいことなど何も無くて、恨みだけで呟いてるんだろう
0647日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 14:40:33.70
>>646
お前のような畿内説残党は切り捨てる方針が出たよ
0648日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 15:13:05.31
>>647
畿内説は学界の主流だから、残党なんていないんだよ
あんたは現実から逃避してるだけ
0649日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 15:52:10.89
九州説老人は脳停止してるから自分が指摘された言葉を機械的にオウム返ししてるだけだよ
0650日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 16:02:54.69
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)




久 努 国 ( く の の く に )




久 努 国 ( く の の く に )




馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0651日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 16:35:01.14
コピペ荒らしは九州説がするイヤガラセ
0652日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 16:51:14.68
低脳過ぎて畿内説から相手にされていないのに自分が畿内説だと思ってる畿内説宣伝係あわれ
0653日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 16:53:50.05
>>652
あんた、頭おかしいだろ
どんなものが畿内説だと思ってるんだ?
0654日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 17:01:43.79
>>652
おまえがニセ畿内説のbyとやりあってるのをよくみかけるが
byを畿内説だと思ってるのか?
0655日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 17:13:35.22
九州説はほんとの畿内説にはもう全く歯が立たないから
偽物を本物認定するインチキくらいしか思いつかないんろう
0656日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 17:59:07.57
後漢書
自女王國東度海千餘里,至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王
後漢書/卷90
光和元年冬,又寇酒泉,緣邊莫不被毒。種眾日多,田畜射獵不足給食,西暦198年〔二〕其中有魚,不能得之。聞倭人善網捕,於是東擊倭人國,得千餘家,徙置秦水上
,令捕魚以助糧食。

三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳鮮卑:
鮮卑眾日多、田畜射獵不足給食。後檀石槐乃案行烏侯秦水、廣袤數百里、停不流、中有魚而不能得。聞汗人善捕魚、於是檀石槐東擊汗國、得千餘家、徙置烏侯秦水上、使捕魚以助糧。
至于今、烏侯秦水上有汗人數百戶。

汗人と倭人との関係
祇園山古墳 
楽浪漢墓(阿残墓)石巌里第9号墳と類似。
楽浪郡に倭人の国があった?集団で住んでいた。
0657日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 20:34:52.65
>>653
>あんた、頭おかしいだろ
どんなものが畿内説だと思ってるんだ?

あんたら大和説者らは、、頭おかしいだろ?。
魏の親魏倭王の卑弥呼の頃には「畿内」なんて列島には存在もしなかった文言なんだよ。
どんなものが畿内説だと思ってるんだ?
0658日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 20:48:50.59
>>657
九州はあったのかい?
阿呆
0659日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 20:56:25.71
畿は都、王のいる場所
0660日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 21:53:21.23
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0661日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 21:57:51.67
>>656
>後漢書
自女王國東度海千餘里,至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王
後漢書/卷90
光和元年冬,又寇酒泉,緣邊莫不被毒。種眾日多,田畜射獵不足給食,西暦198年〔二〕其中有魚,不能得之。聞倭人善網捕,於是東擊倭人國,得千餘家,徙置秦水上
,令捕魚以助糧食。
三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳鮮卑:
鮮卑眾日多、田畜射獵不足給食。後檀石槐乃案行烏侯秦水、廣袤數百里、停不流、中有魚而不能得。聞汗人善捕魚、於是檀石槐東擊汗國、得千餘家、徙置烏侯秦水上、使捕魚以助糧。
至于今、烏侯秦水上有汗人數百戶。

後漢書は、はるか後代の5世紀の、
「実地の見聞計測をせず」に「自己解釈に拠って過去の記録の書き換えが多い」范曄の書であり、
半分×書であり、3世紀根拠には半分ならない書である。

>汗人と倭人との関係

当然、史料実態からは「汗人≠倭人」である可能性が十分にある。

>祇園山古墳 楽浪漢墓(阿残墓)石巌里第9号墳と類似。

情報、有難う。
石巌里第9号墳は、始皇帝冢と同じような「錐体台」的な形状なんですか?。
0662日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 21:59:41.86
>>656の続き
>楽浪郡に倭人の国があった?集団で住んでいた?

倭人は、周代には「燕の南方」にいたらしい「非漢人」であって、大半は、半島経由で海峡に来て、
天孫族の阿毎氏の天照らが、出雲の支配下のNo.2になっていて、
天照らが出雲との「国譲り戦争」に勝利して、
それから天照の孫が委奴の地のクシフルに天孫降臨した事になる。
また、満州方面にも別れた倭人もいた筈である。
しかし、委奴の地に於いても、
火の国山門の渡来して来た呉王夫差の遺民の「姫氏」の一部が、委奴の地の阿毎氏と合同したようであり、
そこで姫氏系として?倭奴國王や倭國王帥升らが出たが、姫氏の一部がまた「大野」に移り、
倭奴國の方も、「奴國」と「伊都国」に分裂し、
倭國亂の後、大野の姫氏の卑弥呼が共立され、卑弥呼亡き後の戦乱後、
平原出身の、(熊襲系の市鹿文という名の)卑弥呼の宗女の壹與が女王になって、
天円地方思想の前方後円墳の始まり?と思われる平原1号に埋葬され、
その後3世紀末頃には一旦(一貴山銚子塚などの)天孫族の伊都国王らが王になったようだが、
西晋や楽浪滅亡して半島情勢も不安定になり、317年に東晋が建国されたおり、
倭國王家も筑後の「こうやの宮」や久留米付近や高良大社に遷宮し、
倭の五王らの東海姫氏國として栄え、517年頃に、倭王武の次の倭國王賢の時に、
阿毎氏系の磐井に倭國王の地位を奪われ、磐井は日本國や天皇を称して高良大社にいたらしく、
同じ阿毎氏の(535〜538年頃の)大和のヲホドの反乱に拠って倒され、
磐井の子の葛子が後を引き継いで倭國を継続し、阿毎タリシホコやサチヤマが出て、
白村江で大敗して、
大和のヲホドの後継の欽明や用明が独立を志向して、
梁や隋にコンタクトを付けて「日本國」を称し様として断られ、
唐の武徳中になって唐に「日本國」を認められて、九州倭國からの独立を果たし、
郭務ソウラらとの折衝で、
天智が「九州倭國を併合吸収継承」する事で郭務ソウらの承諾を得た。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 22:08:50.73
>>658
>九州はあったのかい?阿呆

周の頃の中国の「九州」に、倭人がいた事になり、
だから、列島の九州島付近に流れて来た倭人は、
6〜7世紀頃から九州島付近を「九州」と称していたんだよ、
阿呆。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 22:25:31.59
>>662






で、呉王夫差の遺民の「姫氏」が火の国山門に渡来してきたなんて
中卒ギャグ飛ばしてるマンガチックでむぱ頭脳のウハウハ考古学者の論文は?






.
0665日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 22:27:29.92
楽浪漢墓石巌里9号墳は紀元前1世紀
祇園山古墳は4世紀初
0666日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/09(金) 22:33:09.27
>>663
>周の頃の中国の「九州」に、倭人がいた事になり、

周代の中国全土に倭人がいるわけないだろう
九州説は教養ない奴ばかりだな
0667日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 08:27:30.67
>>665
>楽浪漢墓石巌里9号墳は紀元前1世紀

有難う。
http://wi12000.starfree.jp/forGmap/html/Nakrang_Tombs@Seokam-ri.html
に拠れば、2世紀前半で、「龜鈕玉璽」があり、「木槨墓」であり、
「30×30m方形台状墳丘墓」であるから、始皇帝冢や祇園山の「方形錐体台」と同じようであり、
長宜子孫内行花文鏡が二面出土しているようだな。
また近所からは「尚方作」の長宜子孫内行花文鏡も出土しているようだ。

>祇園山古墳は4世紀初

これは、最初に発掘報告を書いた学者のインチキだな。
その学者は、「土師器の古い方」とはほぼ「庄内」であったと事が判らず、
(だから後から柳田らに訂正されてしまっており)、
出土した△の年代も「南→東などの嘘つき騙しの大和説学者らの、筑紫の△年代観」に従って「4世紀初」として、
筑紫の最古の△が、志登のが3世紀前半末であり、
不彌國の藤崎西新町の△が3世紀中ごろになる事も判らず、
墳裾の3個の甕棺の年代比定も異常に新しくするインチキをしており、
須恵器も吉武高木から出土している事も知らなかったようであり、
この大和説男の「4世紀初」は、
完全に「最初に発掘報告を書いた学者」に騙されている事になるな。
0669日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 09:25:49.36
祇園山古墳裾の甕棺は
博多62次方形周溝墓の周溝外周隅に埋められた甕棺と同じ在来系最終期のUC期(4世紀初)
0670日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 09:36:41.17
>>667
>これは、最初に発掘報告を書いた学者のインチキだな。

いや、明らかにあんたのインチキ
「土師器の古い方」だと言った事実はなく
「柳田らに訂正されてしまって」という事実もない

単なるあんたの嘘
0671日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 09:53:07.32
>>667
九州説さん、捏造しすぎだよ
0672日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 10:11:58.00
>>662
魏志には、筑紫の記はない。
隋書、梁書には「日本國」の記はない。
元は小国が邪馬壹、邪靡堆である。
梁書で「有大蛇吞此獸」出雲神話
隋書で「阿蘇山」
宋書のころには、ヤマトは、半島まで進出している。

寄って、史料事実や史料実態に拠って、あんたは、バツ。
魏志も不彌國まで実際に行った、後は倭人聞いただけ
万二千余里は魏略等より転機、実際、魏使者は不彌國止まり。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 10:13:23.15
>>668
>なんだ九州の祇園山古墳は4世紀だったのか

いや、前述のように、最初の発掘報告学者の「4世紀」論が全くのインチキであっただけだな。
祇園山は、魏志倭人伝に記載の「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人」の説明に、
ほぼ99%適合し、
列島で唯一「3世紀前半末の卑弥呼の冢」に最も近い墓だ。
0674日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 10:21:52.30
>>669
>祇園山古墳裾の甕棺は
博多62次方形周溝墓の周溝外周隅に埋められた甕棺と同じ在来系最終期のUC期(4世紀初)

「4世紀初」なら、筑紫や博多の王墓は、前方後円墳時代であり、方形周溝墓時代ではないから、
「在来系最終期のUC期(4世紀初)」という年代編年をした大和説学者(名前は忘れた)が、
甕棺年次編年のインチキ失敗をしていた事になる、という事だな。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 10:40:23.90
>>674
ならない。前方後円墳と他の形の古墳も
同時期に造られている。

また、王墓とは断定していない。
渡来人の中心人物かもしれない
或いは、石巌里第9号墳の子孫
といろんな仮説がたてられる。
0676日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 11:08:52.70
>>670
>>これは、最初に発掘報告を書いた学者のインチキだな。

>いや、明らかにあんたのインチキ
「土師器の古い方」だと言った事実はなく
「柳田らに訂正されてしまって」という事実もない
単なるあんたの嘘

宝賀さんの
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
の「(4) 土師器・須恵器と石棺材」の所を見ればよい。
(今の説明の前の)最初の時の説明では、「土師器の古い方」と書かれていたが、
宝賀さんは、今の説明では「土師器の古い方」という発掘報告書の記載を無くしており、
それは、最初の発掘報告書を見れば判る事であり、
また、高〜氏の説明も省かれており、
その代わりに柳田の、
「西新式土器を弥生終末期から古墳時代の土器と考え、その大半を土師器T型式(庄内式に併行する土器)」
という説明だけに書き変えておられる。
だから、最初の発掘報告書を見れば判る事。

大和説さん、捏造しすぎだな。
0677日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 11:10:00.83
>>670
>>これは、最初に発掘報告を書いた学者のインチキだな。

>いや、明らかにあんたのインチキ
「土師器の古い方」だと言った事実はなく
「柳田らに訂正されてしまって」という事実もない
単なるあんたの嘘

宝賀さんの
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
の「(4) 土師器・須恵器と石棺材」の所を見ればよい。
(今の説明の前の)最初の時の説明では、「土師器の古い方」と書かれていたが、
宝賀さんは、今の説明では「土師器の古い方」という発掘報告書の記載を無くしており、
それは、最初の発掘報告書を見れば判る事であり、
また、高〜氏の説明も省かれており、
その代わりに柳田の、
「西新式土器を弥生終末期から古墳時代の土器と考え、その大半を土師器T型式(庄内式に併行する土器)」
という説明だけに書き変えておられる。
だから、最初の発掘報告書を見れば判る事。

大和説さん、捏造しすぎだな。

(ちょっと、画面がおかしくなったので、もう一度投稿)
0678日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 11:24:15.86
すべてが竹島どろぼう反日有害活動員のデマ
0679日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 12:03:05.48
>>677
宝賀て誰?
最初の発掘報告書と
記載を無くしたという
発掘報告書の中身をみたいな。
(誤りもあって無くした場合もある。)
リンクお願いします。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 12:35:46.41
>>672
>魏志には、筑紫の記はない。

勿論、魏志やその後の中国史書群の倭國の中心の位置説明は北部九州付近である。
また隋書の竹斯國は、「筑紫」の音韻国名であった可能性が高く、
その頃には、糸島から博多湾岸付近で「筑紫」という呼称が発生していた可能性がある。

>隋書、梁書には「日本國」の記はない。

釈日本紀の「西晋の惠帝への日本國の名乗り」報告の記載があり、
これが舊唐書の日本國伝などの「或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本」の根拠になる。

>元は小国が邪馬壹、邪靡堆である。

ダメです。「元は旧小国」は、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」で征服され、
地方の市を監督する「大倭」職が置かれた小国群です。

>梁書で「有大蛇吞此獸」出雲神話

これもダメです。梁書でも、出雲は文身國として独立的であり、
「有大蛇吞此獸」の話は、九州倭國での話です。

>隋書で「阿蘇山」宋書のころには、ヤマトは、半島まで進出している。

これもバツです。宋書の「渡平海北九十五國」は、九州倭國の話です。

寄って、史料事実や史料実態に拠って、あんたは、バツ。
魏志も、魏の役人らは、北部九州から足摺付近の侏儒國まで見聞記録しており、
それ以外は倭人聞いただけ
万二千余里も、魏略も魏の役人らの記録からの計算であり、
実際、魏使は女王之所都まで来ており、
部下の魏の役人らが足摺付近の侏儒國まで「參問倭地」をしたもの。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 12:41:57.74
>>676
>宝賀さんの
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
>の「(4) 土師器・須恵器と石棺材」の所を見ればよい。
>(今の説明の前の)最初の時の説明では、「土師器の古い方」と書かれていたが、

そのリンクを見れば
「(4) 土師器・須恵器と石棺材」の章に「土師器の古い方」なんて記載は無い。
お前の捏造だ

また九州説のインチキが明らかになったな
0683日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 13:22:49.94
>>680
ない可能性もある
なんら証拠もない。
却下

釈日本紀も記紀同様に鵜呑みできず
参照程度、証拠にならず

>>元は旧小国」は、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」で征服され、
地方の市を監督する「大倭」職が置かれた小国群です。
「渡平海北九十五國」は、九州倭國の話です
北部九州から足摺付近の侏儒國まで見聞記録しており

魏使は女王之所都まで来ているかは定かではない。
また、塚の場所も定かではない。

計測方法も定かではなく
不確定な部分が多い。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 13:53:27.90
>>680
>これもバツです。宋書の「渡平海北九十五國」は、九州倭國の話です。
>寄って、史料事実や史料実態に拠って、あんたは、バツ。
>魏志も、魏の役人らは、北部九州から足摺付近の侏儒國まで見聞記録しており、
>それ以外は倭人聞いただけ

どこも「史料事実や史料実態に拠って」なくない?
0685日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 15:21:31.68
>>679

>宝賀て誰?

素人
0686日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 15:21:59.60
>>676
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
>の「(4) 土師器・須恵器と石棺材」の所を見ればよい。
>(今の説明の前の)最初の時の説明では、「土師器の古い方」と書かれていたが、

と言っといてそのサイトには「土師器の古い方」と書かれていないんだから
>>676 が詐欺だ
0687日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 15:58:38.05
>>685
九州説のアマチュア爺さんだな
0688日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 17:35:38.10
>>681
>>宝賀さんの
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
の「(4) 土師器・須恵器と石棺材」の所を見ればよい。
(今の説明の前の)最初の時の説明では、「土師器の古い方」と書かれていたが、

>そのリンクを見れば
「(4) 土師器・須恵器と石棺材」の章に「土師器の古い方」なんて記載は無い。お前の捏造だ

いや、そのサイトは、私がYahoo掲示板やtextream時代から、2chや5chでの議論で提示して来た部分であり、
その頃の読者は当然、皆ご存じの事であり、最近になって宝賀さんは、
事情は分からないがその部分を2回に渡って変更され、
その中で祇園山の土器に対して、最後には「土師器の古い方」という文言が無くなっている事になっていた。

しかし、また大和説者(おそらく東大理系博士号自称男)のインチキが明らかになったな
大和説者ってウソつきすぎだな。
0689日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 18:03:06.28
>>683
>ない可能性もある なんら証拠もない。却下

「竹斯≒筑紫」はほぼ常識であり、確率も非常に高い。

>>「元は旧小国」は、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」で征服され、
地方の市を監督する「大倭」職が置かれた小国群です。
「渡平海北九十五國」は、九州倭國の話です
北部九州から足摺付近の侏儒國まで見聞記録しており

>魏使は女王之所都まで来ているかは定かではない。

魏使らは卑弥呼に謁見して、詔書や親魏倭王印や大量の下賜品を直接与えており、
だから、邪馬壹國女王之所都にまで来ていた確率は99%以上。

>また、塚の場所も定かではない。

「塚」ではなく「斜面が直線的な錐体(台)的な冢」であり、祇園山で、99%位確実。

>計測方法も定かではなく不確定な部分が多い。

後漢末期に周髀算経の再収集注釈がなされたので、東西南北の計測法も周知になっており、
一寸千里の法や簡易三角測量や記里車や歩測などでの大体の里数計測も可能になっており、
里数計測の精度も、四捨五入や50%以上の精度のもの。
0690日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 18:15:32.69
この竹島どろぼう反日有害活動員は、
明大の佐々木が論文を改竄したとも言い張っていた
0691日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 18:56:56.92
>>688
>事情は分からないがその部分を2回に渡って変更され、
>その中で祇園山の土器に対して、最後には「土師器の古い方」という文言が無くなっている事になっていた。

要するにお前が一人で、なんの証拠もなく
祇園山の土器のことを「土師器の古い方」だと言い張ってるってことか
それのどこが「大和説者(おそらく東大理系博士号自称男)のインチキ」なんだ
お前の妄言じゃないか
0692日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 19:19:59.65
>>689
隋書のことではない。
「竹斯≒筑紫」はほぼ常識であり、確率も非常に高い。
魏志に記がないと言っている。
>>邪馬壹國女王之所都にまで来ていた確率は99%以上
根拠なし。
卑弥呼が、伊都国、奴国、不彌國にいる方が高い。
魏志では邪馬壹國は、女王之所都であり
女王国所之都ではない。
共立された王である。

50%以上?
100mだったら149m、
75mだとすると112m
それでいいこと?
0693日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 20:23:46.78
>>691
そのボケ老人、自分の記憶違いを原作者が勝手に変えたとか陰謀だとか言い張ってるクレージーだぞ
0694日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 20:41:01.22
この竹島どろぼう反日有害活動員は
自分のPCの不調まで日本の学者や政府のせいにしてるからな
0695日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 20:46:29.46
クレー爺い
0696日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 22:39:50.39
倭人伝には不思議な所があって
福岡県の宇美川、御笠川より西部方面には伊都国の影響か詳しく

東部、遠賀川、宇佐周辺がポッカリ空白地帯になってる、なぜだ??
0697日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 22:48:22.26
 日本書紀』『古事記』『先代旧事本紀(せんだいくじほんき) 』などに、
物部氏の祖は天磐船(あまのいわふね)に乗って、舞い下りてきたニギハヤヒ(饒速日命)とある。
天神の子だから、天上界(高天原)からやってきたということになる。

 また『先代旧事本紀』によれば、中臣氏の祖は、饒速日命に従ってヤマトにやってきたとある。
遠賀川(おんががわ)の下流域に、物部氏の密集地帯があり、
これらの地域から、彼らはヤマトに移動したというのだ。
0698日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 22:51:34.55
>>690
>明大の佐々木が論文を改竄したとも言い張っていた

そう言えば、明大紀要の佐々木の論考をPCのお気に入りに保存しておいたが、
それがある時画像が出なくなり、しばらくしたらまた出るようになったが、
その中の「筑紫における庄内系の土器の内容や時期」の記載が、書き換えられた、
と思われた事があった。
0699日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 22:54:07.41
 遠賀川式土器(おんががわしきどき)は、西日本に分布する弥生時代前期の土器​の総称。
北九州から伊勢湾地域までの西日本一帯の広い地域に分布し、
それが初期の水田稲作の西から東への伝播の指標とされ、
西日本の弥生前期土器の総称としてつかわれるようになった。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/10(土) 23:26:41.37
>>698
あんたの頭が病気なだけだよ
0701日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/11(日) 00:03:46.00
【歴史】邪馬台国「大和説」、最有力候補地「纒向遺跡」調査の考古学者・石野博信さん「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1625926825/
0702日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/11(日) 00:12:33.69
691:名無しの報告:2021/07/11(日) 00:09:24.79 ID:xMiy8Tde0
・埋め立て
0703日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/11(日) 01:28:28.35
>>696
宗像以西と以東では勢力範囲が違う

以西が卑弥呼の支配域「いち国・いつ国」
以東が大国主の支配域「おほ国・たい国」

一大国からルート分岐する
0704日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/11(日) 01:46:24.41
>>702
毎日しつこく報告してるけど「荒らし」や「埋め立て」の意味を理解してないね、その人
0705日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/11(日) 06:57:44.06
>>699
>遠賀川式土器(おんががわしきどき)は、西日本に分布する弥生時代前期の土器​の総称。
北九州から伊勢湾地域までの西日本一帯の広い地域に分布し、
それが初期の水田稲作の西から東への伝播の指標とされ、
西日本の弥生前期土器の総称としてつかわれるようになった。

成程。
天孫族の「国生み神話」や、「五瀬や神武らの初期の東征」に拠る、
「地方の市を監督する大倭職」で、広がった事になるのか。
五瀬らは、岡田宮や宇佐にも立ち寄っていたからなあ。
しかし、出雲や越や侏儒國からは、どれ位出土するんだい?。
0706日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/11(日) 07:32:44.24
遠賀川式土器の木葉文は橿原式文様の影響を受けている
0708日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/11(日) 10:48:32.22
奈良橿原の約3000年前の縄文人は人肉食をしていた可能性がある
0710日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/11(日) 14:07:09.80
>>708
狂った九州説信者は奈良県がそんなに憎いのか?
0713日本@名無史さん
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2021/07/11(日) 14:44:41.08
>>711
証拠が出せないのはデマな証拠
0715日本@名無史さん
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2021/07/11(日) 15:55:30.70
橿原遺跡を特徴づける最大の出土物は橿原式土偶といわれるもので、
人体の腹部をへこませて表現し、ひとつながりの消化器官が示されている
この、消化器官が口から腹部を通って下がっている特異な表現から、
当時の人々が解剖学的知識を持っていたのではないかという見解があり、
さらに一部では人肉食の可能性も指摘されている
0716日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/11(日) 16:07:09.82
>>715
誰がそう言った?
0718日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/11(日) 16:27:34.36
>>715

最後の一行はお前の願望
0719日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/11(日) 16:31:47.40
>>718
これは綏靖天皇の人肉食の逸話とからめて
かなり古くから言われてる有名な話だぞ
もちろん人肉食の確証があるわけではないが
疑わしいということだ

ちなみに俺は畿内説だが
0720日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/11(日) 16:40:01.86
>>719

じゃ末永雅雄じゃない
0721日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/11(日) 17:01:39.93
東北の土偶は中空に作られている
貫通孔があるものは西日本で消化器土偶と言われる
土偶の手足を省略したのが土版
0722日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/11(日) 17:14:43.52
>>719
で?
 誰が言ってる説?
0724日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/11(日) 22:48:50.71
>>674
>「4世紀初」なら、筑紫や博多の王墓は、前方後円墳時代であり、方形周溝墓時代ではないから、
>「在来系最終期のUC期(4世紀初)」という年代編年をした大和説学者(名前は忘れた)が、
>甕棺年次編年のインチキ失敗をしていた事になる、という事だな。

今度は九州説は「方形周溝墓時代」なんてものを捏造してインチキをしてるのか

弥生時代前期末から古墳時代前期に、主として近畿地方以東で盛行した
古墳時代は下級豪族の墓だ
古墳時代前期は四世紀後半まで続いている
四世紀初頭に畿内の影響下にあった北部九州の豪族の墓として相応しい

九州説よ
ニセ情報を撒き散らして醜く足掻くのはやめるんだな
恥をかくだけだ
0725日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 01:10:23.93
神武軍は葛(かずら)で編んだ網で大和先住民の土蜘蛛を討った。
その場所が高天原(=高尾張邑・御所市高天)である。

10代崇神は4世紀前半とほぼ確定、それ以前に大量の奴婢または奴婢になったであろう集団が大量殺戮された記録は、
この神武東征紀の土蜘蛛誅殺以外にない。

これが魏志倭人伝の卑弥呼墓の「殉葬奴婢百余人」の真相であろう。

網では人を殺せない。
葛(かずら)で編んだ網は土蜘蛛を奴婢とするための生け捕り用に使われたのであろう。
かつて本居宣長が指摘したように奈良でカシハラという地名は今の御所市柏原しかなった。
そして土蜘蛛=奴婢を束ねた神武が住んだその柏原は、20世紀になって水平社宣言が為され、部落解放運動の原点となる。


では殉葬奴婢百余人とはどういうことか。
私が地元で聞いた話では、高天原の洞窟にいた土蜘蛛が出られないように、
神武軍は洞窟の入り口に大きな岩を置いたようである。

だから今でも土蜘蛛窟という史跡になっている。
ただし洞窟自体は不明である。

私は、7世紀の朝廷が、神武軍が洞窟の入り口に大きな岩を置いて土蜘蛛を殺戮したこの話を知っていたのではないかと推測している。
しかし日本書紀には書けなかった。
書いてしまえば魏志倭人伝の卑弥呼墓の「殉葬奴婢百余人」の事だと気づく人も出てくるからであろう。
せっかく時代を大きくずらして神武をBC7世紀の人物に設定してるのに、これがばれてしまえば元も子もない。

だから、7世紀の朝廷はこの高天原の洞窟の話を官製神話にして置き換えた。

高天原、洞窟、岩、戸。

それこそがアマテラスの天岩戸神話であろう。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 02:58:46.14
>>724
>>>祇園山古墳裾の甕棺は
博多62次方形周溝墓の周溝外周隅に埋められた甕棺と同じ在来系最終期のUC期(4世紀初)

>>「4世紀初」なら、筑紫や博多の王墓は、前方後円墳時代であり、方形周溝墓時代ではないから、
「在来系最終期のUC期(4世紀初)」という年代編年をした大和説学者(名前は忘れた)が、
甕棺年次編年のインチキ失敗をしていた事になる、という事だな。

>弥生時代前期末から古墳時代前期に、主として近畿地方以東で盛行した
古墳時代は下級豪族の墓だ 

いや、在地の毛人蝦夷や出雲系銅鐸祭祀部族の長の墓と、
九州倭國の東征毛人五十五國の部将らや「地方の市を監督する大倭職」らの墓の混在だ。

>古墳時代前期は四世紀後半まで続いている

大和説学者らに拠る古墳時代というものの定義がそもそも曖昧であり、インチキだ。

>四世紀初頭に畿内の影響下にあった北部九州の豪族の墓として相応しい

4世紀初頭に、大和に「畿内」なんて存在もしていなかったから、バツだ。
大和説者よ。ニセ情報を撒き散らして醜く足掻くのはやめるんだな 恥をかくだけだから。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 03:15:09.47
>>725
>神武軍は葛(かずら)で編んだ網で大和先住民の土蜘蛛を討った。
その場所が高天原(=高尾張邑・御所市高天)である。
10代崇神は4世紀前半とほぼ確定、それ以前に大量の奴婢または奴婢になったであろう集団が大量殺戮された記録は、
この神武東征紀の土蜘蛛誅殺以外にない。
これが魏志倭人伝の卑弥呼墓の「殉葬奴婢百余人」の真相であろう。・・・

「葛城説」のお兄ちゃん、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
舊唐書の「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」や、
倭國の「東征毛人五十五國」や、
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などの史料事実や史料事態に拠って、
大和説も葛城説も、始めからバツだ。
葛城は、在地の毛人や出雲系銅鐸祭祀部族の地であった、という事にしかならない。
Yahoo掲示板時代から5chまで、必死で葛城説で頑張っているようだが、
無駄で無意味だ。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 08:59:05.79
>>727
お経いくら読んでも他人の説は悪霊退散なりまへんで
0729日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 09:02:40.09
>>728
>>1に言えよ
0730日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 09:12:32.47
>>727は深夜のコメント
その5時間45分後に>>278のレスがあると
3分後には>>729の言い返しがあるという不思議
0731日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 09:23:33.42
>>730
妄想おつw
0732日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 09:25:04.55
ヤマト王権奈良起源説は歴史捏造と確定

https://www.asahi.com/articles/ASP7B75J6P7BTTHB00K.html
 佐賀市教育委員会は9日、同市の七ケ瀬(しちがせ)遺跡で確認された弥生時代後期(1〜2世紀ごろ)の集団墓地の甕棺(かめかん)や石棺から
副葬品の中国製の青銅鏡や鉄剣、勾玉(まがたま)が出土した、と発表した。
「三種の神器」に数えられるこれらが一緒に出土したのは佐賀県内で初めてだという。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 09:54:09.99
三種じゃねぇじゃん
0734日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 10:39:35.74
土器の共通性が政権領域を表すという邪馬台国畿内説のミラクル屁理屈に準ずると、
奈良時代よりずっと以前にあった九州時代がヤマト王権の源ということになる。
弥生時代ではなく、「伊都時代」と呼ぶべきだな。

遠賀川式土器は東海地方にまで伝搬されている
https://i.imgur.com/1RqOzrx.png
0735日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 10:40:05.73
>>731
君は深夜に書き込んだ人か?
それともそれにレスした人か?
0736日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 10:44:14.80
>>734
伝播と搬入が違うのが分からん池沼
それが九州説脳
0738日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 10:48:38.50
>>735
糖質重症化おつw
俺はこのスレでは>>729以降しか書き込んでないぞw
0739日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 10:56:16.51
>>738
どちらの書き込みもしていない無関係な人が
なぜ私のコメントにレスポンスするのか?
0740日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 11:08:32.05
>>738
勘違いしました
君は少なくとも>>729は書き込んでいる訳ですね

なぜ、関係のない>>728に、つまり>727へのレスに反応したのか?
0741日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 11:15:02.36
>>740
お前専用掲示板じゃないんだよ池沼w
0742日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 11:15:55.96
>>741
自作する人にこそ、その言葉はふさわしい
0743日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 11:24:18.40
>>741
言い返しになってないところが知能の低さを物語る
0744日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 11:29:43.34
>>743
このスレに書き込んだのが>>729以降だとすれば
深夜に書き込まれた>>727とは無関係
それにレスした>>728も本来は無関係
しかし、3分の間隔で無関係な>>728にレスしている

さらに、私が一連の書き込みに疑問を呈すると
喧嘩腰の罵倒となる
なぜ?
本来、君とは無関係なはず
なぜ、そんなに熱くなるのか?
0745日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 11:34:52.26
>>744
別に熱くなってないよw

低脳を弄って楽しんでるだけ
0746日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 11:38:30.70
>>745
wを使う君のキャラは私には覚えがある
このスレで過去にも書き込んだことがあるはず

君はいわゆる九州説派なのか?
0747日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 11:52:58.44
>>746
ああ九州派だよ

5chでwを使う人は珍しくない
スレ主含め沢山いるぞ
0748日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 11:53:51.18
弥生時代の墓群から鏡、剣、勾玉が一緒に出土 佐賀県内初
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1626047399/
佐賀市は、七ケ瀬遺跡で確認された弥生時代後期の集団墓地の甕棺や石棺から
副葬品の中国製の青銅鏡や鉄剣、勾玉が出土したと発表した。

「三種の神器」に数えられるこれらが一緒に出土したのは佐賀県内で初めてだという。
0750日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 11:59:00.10
>>747
このスレに始めて書き込んだ人が
なぜスレ主の発言に気づけるのか?

私もこのスレに長くいるがスレ主の人が発言した事実、その発言でwを使った事実は知らない
0751日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 12:17:16.68
>>745
実は自分の低脳ぶりを晒してるだけなのを気づかないのが悲惨だな
0752日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 12:50:28.30
>>750
初めてじゃないぞ
久しぶりに来ただけ

スレ主→>>751
0753日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 12:57:33.87
>>750
さらに、ニュー速+でひたすら畿内説経典を読み上げるスレ主がこれw

530 名前:ニューノーマルの名無しさん[sage] 投稿日:2021/07/12(月) 12:52:44.42 ID:ovise1uK0
学界や考古学では何十年も前から畿内説が定説
九州説は主張する学者も居ない状態
ネットで九州説を連呼してるのは何故か歴史が憎いらしい
ネット工作員の可能性が高い
0754日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 13:13:46.69
・・考古学会w
0755日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 13:47:43.49
>>753
それがスレ主だというのが低脳妄想でしょ
0756日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 14:29:37.90
この記事の遺跡一帯が正真正銘の伊都国。
倭人伝・魏略・廣志の記述通り、まさに末盧国・唐津港から東南陸行500里の地点だ。
畿内説も終わた、糸島説も終わた、阿波説も終わた、伊都国は佐賀平野の大和町川上で決定だ・・。
https://www.asahi.com/articles/ASP7B75J6P7BTTHB00K.html
0758日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 15:52:03.08
1〜2世紀ごろの集団墓地だからまだ伊都国はないだろうな
0759日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 16:23:54.22
>>758
帯方郡の倭の出先機関が伊都国だから、
前100年頃に漢の武帝が半島を平らげて帯方郡を設置すると、その後、間を置かずできていたんじゃないの。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 16:26:13.97
>>759
帯方郡の倭の出先機関が伊都国とか
どこから湧いてきた話だ?
0761日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 16:37:08.16
>>760
その前の楽浪郡の時代に発する東夷韓倭人支配のための出先治所さ。
倭人伝には、郡使常駐する所とやんわり書かれているけど、昨日今日できたものではないな。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 16:43:10.10
『漢書』地理志
 「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う」

>楽浪というは、前漢第7代皇帝の武帝(ぶてい)が朝鮮半島を征服(BC109)し、
>その地に設置した直轄領4郡のうちの一つ「楽浪郡(らくろうぐん)」のことで、位置的には現在のピョンヤン付近である。
>即ち、既に弥生前半において、、
>「朝鮮半島の海の向こうに倭人が住んでおり、百余国の小国家に分立している。毎年、時期を定めて、貢ぎ物をもって楽浪郡に来ていた。」という事になる。

つまり、これら百余の小国が倭人伝中の「旧100余国」に対応しているのであろう。
そして倭人伝では、この100余国は「今(三世紀の)帯方郡下の倭人伝時代には30国に集約され、厳に支配監督されている」と自慢しているのであろう・・。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 16:56:48.27
>>761
違うだろうね
出先治所なら県とか都尉とか名前が付く
0764日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 17:05:23.02
>>763
だから都尉を思わせる高貴な「都・尉」という文字を取り入れ、「伊都国」と記録されたのだろう、
0765日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 17:15:31.70
トと読む字は都しかないのに無理やり台をトと読もうと必死になる畿内説あわれ
0766日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 17:30:33.56
郡使常駐するのは3世紀
集団墓地は1〜2世紀ごろ
0767日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 17:36:00.29
>>765
無教養丸出しだな
台はトと読む
0768日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 17:55:38.07
集団墓地に三種の神器を埋葬するほどに栄えた佐賀川上の地に、
1-2世紀当時から、或は三世紀になって、郡の威光を背景にした「伊都国」と呼ばれる強国が繁栄し、覇を唱えたということさ。
歴史プッツンは幼稚な思考。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 18:05:43.01
>>768
集団墓地にあったってことは三種の神器じゃないってことなんだが
0770日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 18:21:55.93
>>768
面白そう。
魏志に郡の使者が往来し、常駐する場所である。
遭難者とか亡くなった人もいるからハプロタイプとかの
遺伝子調査だな。
伊都国と仮定する、東南至奴國百里(吉野ケ里遺跡)
東行至不彌國百里(久留米あたり)
そこから南へ水行20日(黒潮で遅い)で投馬国(薩摩)
さらに南へ水行10日陸1月 邪馬台国(?)
0771日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 18:55:55.87
集団墓地程度の被葬者が貴重な舶載品を持ってるということは
半島難民か盗人だろう
0772日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 19:04:40.15
そうだろうな、
半島から大挙して逃れてきた王族難民たち・・、
0773日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 19:11:04.21
>>853
九州にもたどり着かないよ
魏志倭人伝には邪馬台国は
九州を通り過ぎた先の沖縄とか台湾になる辺りと書いてある
0774日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 19:26:55.95
>>773
>九州にもたどり着かないよ
魏志倭人伝には邪馬台国は
九州を通り過ぎた先の沖縄とか台湾になる辺りと書いてある

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツであり、
魏志倭人伝では、不彌國やその南の(おそらく50里以下の)邪馬壹國女王之所都で、
「萬二千余里」がほぼ終わる書き方であるから、
「沖縄とか台湾になる辺り」にはならない書き方あるので、この男の解釈はバツ。
0775日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 19:30:16.06
>>773
その読みが直球棒玉過ぎなんだよ。
中国大陸を駆け巡って百戦錬磨、陳寿の倭人伝読むなら少しはひねくってみたらどうだ。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 20:19:47.86
>>775
誰が中国大陸を駆け巡って百戦錬磨?
日本語の読み書きを勉強してね
0777日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 20:41:04.76
この読売記事の佐賀大和町川上の七ガ瀬遺跡一帯が正真正銘の伊都国。
倭人伝・魏略・廣志の記述通り、まさに末盧国・唐津港から東南陸行500里ドンピシャリの地点だ。
(此処から出土した遺物の数々、とりわけ、この偉大な大太刀を見よ。)
http://www.yomiuri.co.jp/local/saga/news/20210709-OYTNT50094/

畿内説も終わた、糸島説も終わた、阿波説も終わた、伊都国は佐賀平野の大和町川上でファイナルアンサーだ・・、
0778日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 20:46:52.27
伊都国が糸島に比定されるのは漢末をピークとする楽浪土器が多量にが出るから
0779日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 21:00:17.38
ありふれた日用品の楽浪土器は根拠になり難い。
糸島イトコク説の致命的欠陥は、倭人伝との方角違い食い違い
0780日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 21:04:02.39
日用品が出てるから楽浪人の居住が想定されている
0781日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 21:28:21.04
倭人伝に書かれているのは、楽浪人ではなくて、魏王朝/帯方郡の役人たちとの親密な交流だろ・・、
0782日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 21:32:27.93
だからピークが漢末で3世紀に減少する
伊都國には倭の女王とは別の王が居て女王国に従属している
0783日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 21:40:29.78
糸島が伊都国でないと言った瞬間に
あなたの邪馬台国説は死亡宣告だ
0784日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/12(月) 23:58:42.40
肥國地域説(作り話)は3世紀の博多湾沿岸と交流がほとんどない時点ですでに終わっている
0785日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 03:36:30.64
>>777
昔から吉野ヶ里を伊都国とする人たちがいて、でも今回のこれで
こっちの方が伊都国とするにはバッチリってこと?
0786日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 03:38:28.10
>>777
大和町なんだから邪馬台国と主張して良さそうなのに
もし畿内で同じ規模のものが見つかったらめっさうるさかったろうに
0787日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 05:53:30.27
>>786
他人の行動に妄想多めの九州説
0789日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 07:19:19.84
>>785
深夜のレス、ありがとさんです。
くだんの吉野ヶ里は、今回報道の大和町川上(伊都国)からは百余里12-13qほど東にあるので、倭人伝に云う不彌国だったとすればピタリ一致する。
なお、倭人伝に云う伊都国東南百里7qの奴国は現在の佐賀県庁一帯となる。
つまり、川上伊都国、吉野ヶ里不彌国、佐賀県庁奴国は三角配置になっていたということなんだ。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 07:26:20.62
理由をひとことも書かないのが九州説
0791日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 07:41:00.61
歴史に理由はない。ただ淡々と過ぎ行くのみ・・、
0792日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 07:59:47.36
>>786

大和村が発足したのは1955年(昭和30年)
0793日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 08:21:19.03
>>786
佐賀市大和町は、唐津の東南500里だから、伊都国相当で良い。
一方邪馬台国は、上陸後東南〜南へ2000里だから、明らかに大和町を超える。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 08:39:40.52
>>793
五百里だとか勝手に言ってもダメでしょう
0795日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 08:56:03.77
>>540
朱は九州にもあるのと
「邪馬台国の東に海があって、さっと渡って別の倭種の国がある」から、四国より西までだろう
0797日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 09:06:05.17
>>787
昔から畿内学者にはそういう性行があるわよ

またもや捏造するか 国立歴史民俗博物館
https://daishi.at.webry.info/200910/article_34.html
最近の歴博は、もと館長の白石太一郎以降、こういうマスコミ操作に長けた学者が多くなっています。そしてそれは近畿圏の学者にほぼ共通した性行なのです。同志社の森浩一名誉教授などは、こういう傾向を「学者として全く恥ずべき姿勢だ」と非難しています。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 09:44:03.60
森先生はチョンボをこいてしまわれた
0799日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 10:46:58.48
>>796
オレの見立では、其の余の傍国の最後の奴国が博多那の津国だな。
糸島はその那の津国の一田舎で、那の津の王家(いにしえの倭奴国王家)の工房と墓場があった。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 10:56:37.72
>>797
ただの下卑た中傷じゃねーか
0801日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 11:05:55.01
3世紀の今津湾沿岸、三雲には前方後円墳が築造された福岡平野産の庄内甕、布留甕が搬入されているので
畿内中心ののグループ
0802日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 11:48:26.03
>>797が「そういう性向」の典型なんだが

マスコミ操作だとか決めつけて「他人の行動に妄想多め」でしょ?
歴博は何も「他人の行動に妄想多め」ではない
0803日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 12:03:53.61
マスコミ操作に長けた学者といってるのは
C14年代測定法で分析し水田稲作が北部九州で始まったのは定説より約500年早い紀元前1000年ころと発表したのが
歴博の春成(考古学)と今村(歴史資料科学)を中心とする研究グループ
0804日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 12:09:16.99
>>803
相手の主張にまったく反論せず
行動の意図や動機をあれこれ空想して
なにか批判でもした気分に浸るのは
九州説のひとのおかしな性向
0805日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 12:27:05.71
発見当初韓国で日本の前方後円墳の起源になる古墳として注目された松鶴洞墳を
調査する前に
「松鶴洞墳をひと目みた瞬間に、私はこれは前方後円墳に間違いないと直感しました。
しかも上位の前方後円墳なんですね。
上位といいますのは形がきれいで見てすぐわかるということです。
松鶴洞古墳は”みごとな”という形容詞をつけていいほどの上位の前方後円墳といえます。 」
ととても残念なチョンボをこいてしまわれたのが森先生
調査したら築造時期の異なる3基の円墳だった
0806日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 12:38:36.43
調査もしないで個人的意見をマスコミに露出しまくった人がいるのに何も批判せず
研究結果をプレスリリースしただけで何か悪いことしたようにネットで宣伝するのは
どうかと思う
0807日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 12:52:08.30
歴博も確かにそうだけど
森浩一も確証のないままで結論を言うことが多かった
0808日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 13:59:10.43
文献や出土品と無関係な空想しか語ったことのない妄想専門家の畿内説あわれ
0809日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 14:04:40.08
>>808
現実の畿内説と無関係な空想の非難しか出来ない九州説あわれ
0810日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 16:35:50.25
>>807
歴博もそうって・・>>797はただの中傷だろ?
0811日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 17:57:06.09
>>801
>3世紀の今津湾沿岸、三雲には前方後円墳が築造された福岡平野産の庄内甕、布留甕が搬入されているので
畿内中心ののグループ

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和の庄内は3世紀末の石塚の庄内1が最初であり、
大和の布留は、4世紀の箸墓の布留1からであるから、
「大和中心のグループ」になんかならないので、バツ。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 18:00:00.23
>>803
>マスコミ操作に長けた学者といってるのは
C14年代測定法で分析し水田稲作が北部九州で始まったのは定説より約500年早い紀元前1000年ころと発表したのが
歴博の春成(考古学)と今村(歴史資料科学)を中心とする研究グループ

ふーん?、春成と今村か。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 18:08:47.42
このように、九州説は嘘と中傷ばかり
0814日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 18:30:47.18
七が瀬遺跡で三種の神器が出ちゃったのでこのスレッドも終了だな
0815日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 19:09:48.74
>>814
その通りだ。
七が瀬遺跡は墓地だから、これでも伊都国の一部に過ぎない
本体の伊都国城郭(土塁を巡らせた都域)、旧王の宮殿跡、郡使常駐所、一大率の治所跡、その他の官衙や役人たちの住居跡などの発掘もひかえている、
かねて予言の通り、佐賀川上は益々賑わうであろう・・、
0816日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 19:56:49.72
ばかですか?
0817日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/13(火) 20:23:47.85
だれかオレを呼んだか??

佐賀川上バカだが・・、
0818日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 08:57:00.90
纒向遺跡で三種の神器が出土しないので閉店してしまった畿内説あわれ
0819日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 09:29:30.92
三種の神器は墓からは出ない
0820日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 11:17:50.48
畿内説の最大の不幸はキナイコシがいることだろ
こいつが何か言うと全て嘘に聞こえる
いつまでたっても無職の男が何を言おうと信憑性ゼロだからな
0821日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 11:19:38.62
三種の神器とかお経を唱え続けてるのは何なんでしょうね
九州説とかやってると脳が萎縮するのかな
そういうレッテル貼るだけで歴史が理解できるわけないのに
0822日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 11:33:29.10
福岡や佐賀で三種の神器が出土しヤマト王権の源流が北部九州であることが判明したので、存在意義がなくなってしまった畿内説あわれ
0824日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 11:38:32.86
>>822
なんで判明するの?
そんなことが
0825日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 11:40:38.47
>>820
中傷しか言わない人が
何か言うと全て嘘に聞こえる
何を言おうと信憑性ゼロだからな
0826日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 13:44:54.78
偉大なる中国古典をねじ曲げて何の学問か・・、
倭人伝、魏略、廣志の三史書の文面どおり、倭国上陸地(唐津港)の東南陸行500里の佐賀川上一帯が正真正銘の伊都国だったのだ。
この事実を押さえてから論ぜよ!
0827日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 13:55:00.42
>>826
500里って中国の単位をねじ曲げたので
失格
アウト
0828日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 14:56:53.48
>>827
倭人伝では、A:帯方郡ーー狗邪韓国を7000里、B:三海峡渡海を3000里としている。
唐津ーー佐賀川上の500里と、A、Bそれぞれの1/14、1/6とを地図上で比較すれば極めて適切な里数である。
またこれらの数字は、共に文面通りであり、いささかも捻じ曲げてはおらぬぞ。
オメこそ失格・アウトだ。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 15:29:14.89
>>828
自画自賛してるだけで
適切だという証拠
提出できず
アウト

ゲームセット
0830日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 15:36:15.03
佐賀川上集団墓地の1〜2世紀ごろは曹魏も帯方郡も無い
0831日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 17:03:40.46
ヤマト王権も邪馬台国も九州である可能性が高まったので、また弥生時代のように過疎化してしまう桜井市畿内説あわれ
0832日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 17:14:00.57
野見宿禰が相撲を取ったのが桜井市周辺であったことには変わりはない
0833日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 17:19:44.08
>>831
ヤマト王権が九州とか、九州説信者って脳が腐ってるだろ
0834日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 17:22:38.01
過疎化してしまう桜井市などと特定地域に妬みをもつのは関西のよっちゃんだろう
0835日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 18:14:02.14
>>830
おっ、なかなか詳しいではないか。
ただその当時は、帯方郡の前身の楽浪郡との間で交流・・、というか監督指導関係が有った。
つまり漢から見れば、弥生時代の韓倭は入植地〜植民地的位置づけにあり、前漢〜後漢を通じて、長い人的関係が継続されていたということだろう。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 20:10:25.20
伊都国の段には「世有王」の記述がある。これは数世代にわたって王が君臨していたと読める。
つまり伊都国は帯方郡が出来た時、或は曹魏の時代になって急にできた国ではなかろう。
長い前史が有ったことを語っている。
ローマは一日にして成らず、もちろん伊都国も、邪馬台国も、大和も、東京もだ・・、、
0837日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 22:53:50.73
>>835

それが楽浪土器が韓末をピークに多量に、3世紀前半まで出る糸島
3世紀前半になると減少し福岡平野と拮抗する
壱岐や博多側で入れ替わるように出るようになるのが馬韓系土器
0838日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/14(水) 22:54:38.64
訂正

韓末 → 漢末
0839日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 07:20:43.15
>>837
言いたいのは、糸島平野と博多平野は小さな平野の連続ということだ。
その中での土器変遷も重要な知見であろうが、それは一つの比較的狭い地域内(たぶん一つの王国内)のできごとでしかない。

糸島・博多平野からは山岳地帯を超えた南にあって、その10倍の規模の筑紫平野をみればどうかということがさらにさらに重要だ。
とりわけ、その西半分を占める佐賀平野の中心部にあり、のちの佐賀郡となった佐賀市一帯の楽浪土器/馬韓土器はどういう変遷をしたのか。
今回の佐賀市大和町川上の七が瀬遺跡発掘を契機に、新たな展開があるのではないか。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 08:22:28.85
>>839

博多平野というのはない
福岡平野と筑後平野は連続している
佐賀市一帯から楽浪土器/馬韓土器は出てないので出たら考えればいい
0841日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 08:26:23.12
>>839
それ、正気で言ってるの?
糸島と博多って平野で繋がってないよ
0842日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 08:47:17.37
中国メディア 日米韓の中国古代史教科書、一番無礼なのは 
http://news.searchina.net/id/1700710?page=1
日本の教科書は中国の古代史に関してはいずれも謙虚な態度で記述されている。
その内容からは古代中国に対する大きなリスペクトが感じられる。

また、日本の教科書は漢王朝や唐王朝を非常に高く評価しているほか、羅針盤・火薬・紙・印刷という
中国の四大発明についても詳細な記述や説明を行っている。さらに日本が多くの先進的な制度や
文化を中国から学んだことについてもしっかり言及している。

一方で、韓国の歴史教科書は「日本の謙虚さに比べると、かなり尊大」と指摘。
韓国は長きにわたり中国に付随して生きてきたことは「周知の事実」であるにも関わらず、
この事実を認めていない。そして、「自らによるアジア全体の発展に対する大きな貢献をアピールするために、
中国の歴史に関する記述を敢えて簡単なものにしている嫌いがある。

最後に米国の歴史教科書について、多くの紙幅を割いて中国の歴史を記述しており、米国においても
中国の歴史が比較的重要視されている事がうかがえる。また、古代中国の政治制度についても日本や
韓国以上に客観的かつ公正な評価のもとで記述が行われているとの見解を示した。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 09:15:22.30
福岡平野というと筑豊・筑後を含め、福岡県全体が平野でつながっていると思う者も多い。
福岡平野と筑後平野がつながっているというのもその典型例だが、両者は小峠分水嶺で隔てられている。
それに比べれば、糸島と博多はツーツーの関係にあり、今は住宅街でつながっているといっても過言ではない。
ま、糸島・博多何んぞ、北部九州のほんの一部にすぎぬ。古代でさえ一つの王国どまり(倭奴国)だったのだろうな。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 09:32:48.80
>>843
その筑後平野が邪馬台国と呼ばれた領域だな
0845日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 09:38:02.53
>>843
現実の地理まで無視する九州説
妄想の行き着くとこは何処?
0846日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 09:44:08.87
>>845
地球で言う南を東と解釈する異星人の畿内説さんの行きつくとこは病院でしょうね
0847日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 10:06:31.36
>>846
畿内説はそんな解釈しない
敗北者九州説は捏造ばっかり
0848日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 10:23:42.47
>>844

博多湾沿岸が筑後の影響を受けた考古学的根拠がない
筑後北部までが畿内を中心としたネットワーク
筑後南部は外
0849日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 10:52:25.69
考古学者仲間では、「佐賀平野にさしたるクニはなかった、遺跡も出土物もない・・、」というのが常識だったようだ。
しかしそれは、地元佐賀県が吉野ヶ里に手を取られて県西部の発掘調査に手が回らなかっただけのこと。
今回のように調査が西へ広がると、途端に大発見あり、となる。
事情を知らないよそ者学者が、全国遺跡総覧には何も無いから無い、と即断するのは早トチリなのだ。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 11:18:20.78
集団墓地だからさしたるクニじゃなかろう
0851日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 11:31:21.97
だいたい佐賀平野を伊都国にしたがり、
漢代の北部九州の出土舶載品をガラクタというのは何も無い高千穂爺
0852日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 11:36:08.47
>>849
それ、なんか証拠あんの?
ないでしょ
妄想だよ
0853日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 12:32:49.96
倭人伝、魏略、廣志に明記された「東南」を蹴っ飛ばして鬼門の方角の北東へ迷い込み、
くたびれ果てて小さな墓に腰かけ、「此処があの伊都国なのじゃやー」と、恍惚に浸ってきた学者集団の姿は物悲しい・・、
明治の白鳥、内藤以来の高名学者が、なぜ中国史書の東南に反乱反抗したのであろうか???、
0854日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 12:48:36.83
>>848
馬すらいない時代に広域ネットワークとかw
畿内説はテレビの見過ぎw
子供じみた極論しか言えないのか?
0855日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 12:50:15.95
>>849
吉野ヶ里のような集落が平野一帯に点在していたという話だったと思う。
ただし、水害なども多かった地域なので相当掘らないと発見するのは難しいと思う。
0856日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 13:22:29.54
吉野ヶ里遺跡や隣接の目達原遺跡はやや小高い土地に残されていた。
今回発掘の七が瀬墓地も小高い土地柄だ、

そして伊都国の中心官衙と推定される大願寺地区(未調査)は、更に高い高速道路の北側の標高15-25mくらいの丘陵地だ。
そんな地形地勢から、この地が「川上」の名でよばれてきたのではないか。
なお一般大衆労働者は、現在の佐賀市街(奴国)のような洪水に脅かされる下町の低地集落に住んでいたことはその通りであろう。。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 13:33:18.03
>>854

韓伝では、馬韓は牛、馬に乗ることを知らないが
辰王は常に馬韓人を用いてこれを作り、代々、受け継いでいる。辰王は自立して王になることはできない
辰王は馬韓の月支国で統治している
現在の韓国の面積は九州の2.7培くらいの面積
馬に乗らないと広域の国ではないというのは子供じみた考え
0858日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 13:42:03.58
>>856

つまり何一つ考古学的根拠が無い
0859日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 13:50:04.79
>>857
馬韓が50国で女王国が30国だから規模的に北部九州におさまるね

〜 中国の記録に記された女王国の規模 〜
魏志の韓伝および倭人伝に記された領土に関する情報
・三韓からなる韓国領土は4000里四方
・馬韓の国数は50国
・倭の国数は30国
・後漢時代は100国だったが魏の時代に交流できたのは女王国30国のみ
・倭は約5000里で巡回出来る
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
・女王国の南には敵対する狗奴国がある

https://i.imgur.com/yLFScGN.png
0860日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 14:01:33.79
>>859

倭国が17、8万戸、三韓で14,5万戸なのでおさまらない
0862日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 14:37:22.76
>>861

朝鮮部落民の民族意識
0863日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 14:42:36.13
>>862
逆でしょ
朝鮮民族に半島南部は任那日本府だったなんて言ったら発狂しますよ
0864日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 14:45:54.74
>>863

>>861に任那日本府なんて書かれていない
朝鮮部落民が緑枠から来たから倭人の末裔という主張になる
0865日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 14:53:55.18
>>859の図と>>861の図は描いてる内容が全く違う
0866日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 15:42:23.63
>>861
無茶苦茶だな
投馬国が倭人30国に入ってないし、帯方郡の位置もめちゃくちゃ
そもそも区や韓国に着く前に投馬国に着くなんて、倭人伝に全く合ってないだろ
0867日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 16:27:55.08
>>858
発掘調査がまだなのだから、考古学的根拠はない。当然のことだ。
しかし中国三史書に記載された条件を検討すると、伊都国は100%佐賀平野にあり、地誌的地理学的根拠に満ち溢れていることは間違いない。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 16:31:11.20
>>867

自己絶対主義肥人
0869日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 16:47:23.84
>>867
その検討が我流無根拠我田引水と指摘されているのに
0870日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 17:02:38.04
日本から中国に使者が渡り出したのが西暦600年以降やからの

日本の坊さんらが使者として中国の方に行った
0871日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 17:04:55.21
隋の皇帝と日本の聖徳太子とされる人物の間でやり取りされたのは日本から渡る修行僧らの派遣のやり取り
0872日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 17:06:30.77
史書でも30国の小国であり遣唐使も昔は小国だったと言ってるのに、3世紀時点から巨大統一国家だったという幻想物語の創作を続けるボケ老人のような畿内説あわれ
0873日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 17:07:13.27
それから70年後、日本の天武天皇が実したのは仏教の保護と日本神道の編纂事業の開始
0874日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 17:14:09.02
>>872
畿内説はそんなこと言ってないのに捏造しかできないオワコン九州説哀れ
0875日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 17:48:21.29
>>801
>3世紀の今津湾沿岸、三雲には前方後円墳が築造された福岡平野産の庄内甕、布留甕が搬入されているので
畿内中心ののグループ

畿内なんて3世紀には存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和の庄内は3世紀末の石塚からであるから、
「今津湾沿岸、三雲」は大和中心のグループにはならず、
バツです。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 17:56:57.20
>>804
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」などの、
史料事実や史料実態に関する相手の九州説者側の主張にまったく反論せず
行動の意図や動機をあれこれ空想して
なにか批判でもした気分に浸るのは
大和説のひとのおかしな性向
0877日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 18:01:54.42
>>809
現実の「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」などの、
史料事実や史料実態と、
無関係な空想の非難しか出来ない大和説者あわれ
0878日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 18:11:22.33
>>845
現実の「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」などの、
史料事実や史料実態と、
現実の地理まで無視する大和説
妄想の行き着くとこは何処?
0879日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 18:18:56.84
>>848
筑紫が大和の影響を受けた考古学的根拠がない
瀬戸内や近畿や東海や関東付近までが、九州倭國の東征毛人五十五國で支配され、
地方の市を監督する大倭職が置かれて、九州倭國を中心としたネットワーク
東北以北は奈良時代以前には外
0880日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 18:26:09.24
>>879
専門の学者が言ってることと正反対なんだけど
0882日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 18:31:09.69
倭人伝、魏略、廣志などは、そもそも理系考古学の教科書ではない。
なのにそれを考古学的に証明しようなどと、その試みがトンデモ理系の石頭。
これらは地理書、或は地誌とでもいうべき社系文科系書物のたぐいである。しかと心得るべし。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 18:41:53.27
>>876
>史料事実や史料実態に関する相手の九州説者側の主張にまったく反論せず

してますが?
何で九州説の人はウソばかりつくの?
0884日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 18:44:26.43
>>881
いつも理由の言えない九州説の人は知能が低いと思われる
0885日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 18:56:18.97
>>875->>879

竹島は韓国に統治権があると主張している反日有害活動員

と、>>881はその金魚の糞
0886日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 19:02:57.83
地誌(地理書)を読み切れない理系の考古学者が、
必死であさっての方角を掘りまくったところで、伊都国も邪馬台国も掘り当てることは出来まいよ。
せいぜい奴のつく傍国だろうな・・、
0887日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 19:05:37.25
古代の言語には良く甲類か乙類か議論になるけども、
これ縄文語、渡来弥生語が関係してるのか、ナマリの様な物では、

そこでヤマトの「ト」だけど「トやコ」は場所を表す「処」のナマリなのか
面倒くさいから二つ合わせて「処トコロ」で良いだろと、
日本語で「トやコ」が付く地名には場所の意味を含む物が多い様に思う。

「例」
1.浅瀬が多く座礁の危険がある場所トは「瀬戸セト」
2・渦潮で海鳴りがする場所トは「鳴門ナルト」
3・瀬戸内海と玄海灘を抜ける関門海峡付近の場所トは「穴門(穴戸)長門アナト」
4・連山、山岳が多い中で人が出入り出来る場所トが「山門ヤマト」
5・水面みなもや水が多い場所トが「湊ミナト、水戸ミト」
6・平たく更地/新地サラチに田畑や家を建てる場所トが「里、郷サト」
7・全国の神戸の地名の読み方として「かど・かのと・かみと・かみど・かんど・
  かんべ・ ごうと・ごうど・こうど・こうべ・じんご・じんど」
  などの場所「処がトやコ」ろである
0888日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 19:06:49.19
これに関連で「都」がある
ミヤコとは辞書などでは「宮ミヤ」+「場所・処トコロ」でミヤコと説明してる。
すると、大倭ヤマトも山がある場所・処との説が見られ、
確かに縄文、弥生人たちは場所の事を「トやコ」で発音してる様なのだ。
記紀にも「泣かじとは汝(な)は云ふとも山処の一本薄(ひともとすすき)」〈記・上・歌謡〉
奈良時代の官人・中臣宮処 東人(なかとみのみやこの あずまびと)もある。

じゃ山ヤマとは?
その辺にある山岳の事じゃなく縄文時代からある祖霊信仰のヤマで
聖なる山の中腹に死者の霊が漂う森があり、地方などに村落が見渡せる処に墓地がある。
仏教ではその森に33年漂って村人や子孫を見守ってくれお盆には家に帰る。
そして、月日が経って奥山,深山に上って神になり祖先神となる。

かく豪族たちの聖山の総本山が御諸山・三輪山で王の中の大王の祖先神を祀る処。
つまり倭人たちの集合体大倭を三輪山がある処、ヤマトと古代より呼んでたのだ。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 19:23:43.23
地理といっても平面な四角の大地という地理的世界観だから
0890日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 20:22:32.47
倭は大倭王の治める地じゃなかった?
0891日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 20:49:05.32
>>882
歴史の学問においては、
同時代の文献記載や、「年代が決定出来る金石文」のような考古などが、
最も歴史の学問の根拠になるのであり、
後代史家に拠る解釈文書や、単なる考古出土物などでは、高確率的な根拠になり難く、
倭人伝や廣志などは、ほぼ同時代の記録であるから、歴史の根拠になる可能性が非常に高く、
なのにそれを考古学的に否定しようなどと、その試みがトンデモ大和説学者らの石頭。
彼らは、学問や科学ではなく、
現代の国家主義の皇国史観宗教とでもいうたぐいである。
しかと心得るべし。
0892日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 20:52:32.78
>>884
いつも、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」などの、
史料事実や史料実態に関して、
その否定の理由の言えない大和説の人は、
知能が低いと思われる
0893日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 20:54:47.09
三輪山を崇める祖霊信仰にとって
大事な威儀物が銅鐸で仏教やキリスト教で使う、鐘、ベルにあたる。

ひと昔前まで、銅鐸文化圏とか銅矛、銅剣文化圏と分けてたけど
銅鐸文化圏が三輪山の祖霊信仰で出雲、吉備、勢力が中心のニギハヤヒ王国
九州北部はニニギ天孫降臨族と綿津見神、豊玉彦の王国。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 21:01:59.94
九州北部には天孫降臨していない
0895日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 21:04:34.04
九州北部は孫さん密入国
0896日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 21:08:36.65
纒向遺跡はまだ10%ほどしか発掘されておらず
その中で外来土器の50%が東海系の土器、あとは近畿圏、出雲、吉備の土器で
九州圏の土器は極僅か、不思議な事に九州より伊勢湾東海圏と親密な関係?

東海圏には物部一族が勢力を広げ、東海物部の代表が熱田神宮の尾張氏。
あれ九州北部は?ゆるい倭国勢力圏。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 21:10:21.45
纒向遺跡の15%が外来土器、その50%が東海系
0898日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 21:13:44.91
>>892
>その否定の理由の言えない大和説の人は、

畿内説の者は理由言ってるけどね
大和説ってバツ爺さんの空想上の説だからどうでもいい
0899日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 21:14:01.59
伝統的畿.内第V様式が吉備の土器制作技術を取り入れたのが庄内式土器
0900日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 21:23:10.44
畿内の庄内式土器を3世紀前半に博多で模倣制作したのが筑紫型庄内甕
0901日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 21:24:05.69
訂正

筑紫型庄内甕 → 筑前型庄内甕
0902日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 21:43:02.71
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ごゆっくりとお楽しみください。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 22:12:17.91
九州北部日向へのニ二ギの天孫降臨とは
BC3〜4世紀ころ早良区の吉武高木遺跡に甕棺墓群を残したのが史実で
その早い起源前時期、岡山、大阪湾に開拓民として進出したのがニギハヤヒ
その後、遅れてニ二ギの子孫神武が東征の形で奈良ヤマトに進出して来たけど
これはニギハヤヒ物部一族の大阪奈良進出をモデルにしたファンタジーで

扶余王イリも10代崇神として大阪湾に博多住吉三神とで住之江、住吉区に進出し
三輪山西部地域の首長・磯城一族の入り婿として王朝を築いたが
まもなく博多湾、綿津見神勢力と秦氏が東征したのが15代ホムタワケ応神王朝勢力
今日の皇族の直接先祖。そして出雲、三輪山大物主勢力は否応なく応神朝に国譲りした。

日本史の欠史八代の皇后がすべて磯城一族の娘で、この間は女系王朝だった?。
欠史八代の真実は磯城郡の唐古・鍵遺跡が本拠の磯城女系王朝だったのかも??
0904日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 23:13:17.30
今上天皇の直系祖先は継体天皇以降だろう
0905日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/15(木) 23:56:02.98
越前出身の継体天皇は応神天皇の五世孫とあるけども
もし、デタラメな伝承なら、もう少し近い雄略天皇の子孫とかで誤魔化せるはずで
疑われそうな際どい五世孫とかにしない、

真実だから誤魔化せなかった。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 00:24:11.46
>>905
継体、持統は成句だから、三船の世代でそういう常識だったんだろう。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 00:27:13.79
冕冠​(弁冠ベンカン)
冕冠もしくは冕(べん)とは、もと中国に由来する冠の一種で、
中国では皇帝から卿大夫以上が着用した。
日本では古代から天皇の冠として用いられてきたが、その起源の詳細は不明である。

日本では礼冠の一種で天皇礼冠ともいい、かつては即位や朝賀の儀などに、
袞衣(天皇礼服)とともに用いられた。
『古事談』に、 「大嘗会の時の冕(べん)は、応神の物也」とあり、
応神天皇の冕冠が平安・鎌倉時代まで大嘗祭で使用されていたとの記述があるが、
現在は伝わっていない。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 00:44:22.86
応神天皇の時代はまだ天皇制はない
和風諡号の譽田は敦賀の笥飯(気比)大神と名前を交換した
応神天皇の母である神功皇后は仲哀天皇が紀伊国のコ勒津宮にいた時に角鹿の笥飯宮にいた
というストーリーになっている
0909日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 00:56:03.03
「頭亦無冠但垂髪於両耳上 至隋其王始制冠」(隋書)
0910日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 01:05:09.31
九州筑後川周辺地名と大和地方の周辺地名の合致

大和地方のその地名に囲まれたヤマト王権の首都の場所辺りを
九州に戻し、地名の囲みの中からヤマト王権の首都の場所辺りに当てはめた時、邪馬台国の首都近辺にたどり着くだろう。

その時矛盾が起きる。
日向から出た神武大王がなぜ日向の地名を移設せず、邪馬台国の辺りの地名を移設したのか?
0911日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 01:07:01.92
邪馬台国と神武大王との関係を探らねばその答えは出るまい。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 01:16:16.20
>>910

『説得の文章技術』、『説得の心理戦略』の著者である心理学者出身で現在イベント業者の主張だな
0913日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 02:09:15.61
>>911
東征は神武を頭としたが、それについて来た氏は邪馬台国や周辺国の氏が多かったのだろう。神武と東征賛成派、邪馬台国と居残り派、二派があったのだろうよ。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 05:25:18.12
>>900
>畿内の庄内式土器を3世紀前半に博多で模倣制作したのが筑紫型庄内甕

畿内なんて3世紀には存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
筑紫の庄内は3世紀前半であるが、大和の庄内1の石塚は3世紀末であるから、
大和の庄内は、
筑紫からの東征毛人軍や「倭國の地方の市を監督する大倭職」に拠って伝搬したもの。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 06:57:53.05
三世紀・倭人伝の国名すらろくに残っていないのに、
当時の九州筑後川周辺の地名が今も健全に残っていると思うほうが可笑しい。

よく見ろ、あれらの地名の多くは好字二字で出来ている。
つまり八世紀以降、大和朝廷から大宰府に赴任した役人が、故郷大和の風景を偲んで名付けた逆逆輸入地名なのだ。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 07:07:04.74
纒向石塚古墳

・盛土内出土土器を評価する考え→庄内1式期、3世紀前半。
・西側周濠の出土土器を評価する考え→庄内0式期、3世紀初頭。
・導水溝出土土器を評価する考え→庄内3式期、3世紀中頃。

尚、周濠から出土したヒノキの板材は、年輪年代測定法で200年ごろの伐採と確認されている。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 07:08:26.13
畿内から見た邪馬台国  石野博信先生
庄内式土器

 土器は日常の道具であり、土器の移動は人が移動したことをを示す。
庄内式土器は、畿内で作られた土器だが、畿内から西、とくに九州で大量に発見される。
これは畿内から九州への人が移動したことを意味する。

 畿内からは、各地へ土器が移動している。厚甕とよばれる弥生時代の伝統的な土器は
東に広がり、薄甕と称する庄内式土器は、西に向かって九州まで移動した。

 3世紀の九州の土器はほとんど畿内に入っていない。
3世紀の九州の人間は出不精で、そのかわり外のものを寛容に受け入れた。
畿内人はでしゃばりだった。

 九州の庄内式土器は筑前型庄内甕といわれ、畿内の型式の土器を九州で製作したものである。

朝鮮半島南部で出土する日本列島の土器は九州や山陰タイプであり、
畿内の土器は半島に行っていない。
邪馬台国の時代に朝鮮半島と交流があったのは、九州であるといえる。

しかし、このことから邪馬台国が九州にあったと即断することはできない。
なぜなら、近畿の王が九州の人間に命令して半島に行かせたという解釈ができるから。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 07:15:50.54
>>916
筑紫なんて3世紀には存在もしなかった嘘つき騙し文言であり
史料事実や史料実態によりバツ
0922日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 07:23:20.73
>>920
もともと畿内の時代を繰り上げてるから、畿内から流出したとなる。
しかし畿内の時代を繰り下げれば、流入したとの判断になる。さてどちらが正しいのでしょうか・・・
0923日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 07:44:23.33
九州北部に近畿の庄内式土器や銅矛・銅剣などが多いのは
これから戦地である半島南部への出陣の準備のためで

卑弥呼から200年後、倭の五王の上表文へと続くんだろ。
「西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北(半島南部)を平らぐること、九十五国。
王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。」なんだろ。

魏志韓伝には邪馬台国勢の軍事長である、卑奴母離の卑離国と付く国名が多いし
弁韓などには倭人系の国名と思われる
(弁辰・弥烏邪馬ミワヤマ国)(弁辰・接塗セト国)などなどがある。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 07:48:50.82
庄内式の発祥は、肥後熊本の方保田東原遺跡の出土品に求めることができる。
0925日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 09:04:21.92
>>922
>もともと畿内の時代を繰り上げてるから、畿内から流出したとなる。

繰り上げてるという根拠は?

>しかし畿内の時代を繰り下げれば、

繰り下げる理由は?
0926日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 09:04:47.56
>>924
できるという理由は?
0927日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 09:33:56.05
もう歴史学を完全に否定しないと九州説って成り立たなくなったんだね
0928日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 09:56:27.83
>>918
>三世紀・倭人伝の国名すらろくに残っていないのに、
当時の九州筑後川周辺の地名が今も健全に残っていると思うほうが可笑しい。

いや、對海國は対馬として半分残っているし、一大國も壱岐として半分残っているし、
伊都国自体も、それ以前の「委奴」や「倭奴」の関連語であり、
現在も「冶土」や「糸島」などの「イ」として残っているし、
邪馬壹國や邪馬國の「邪馬」も、耶馬渓付近の地名として残っているし、
斯馬國も、「志摩」の地名に残っているし、
對蘇國などの「蘇」も、「阿蘇」の呼称に残っているし、
狗奴國の「狗」も、熊本の「ク」」として残っている可能性がある、と言える。

>よく見ろ、あれらの地名の多くは好字二字で出来ている。

それほどでもない。

>つまり八世紀以降、大和朝廷から大宰府に赴任した役人が、故郷大和の風景を偲んで名付けた逆逆輸入地名なのだ。

大和には、倭人伝時代の国名に類似する地名は殆どないから、バツだな。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 10:13:03.67
>>925
歴史に根拠はない、また理由もない。

ただ、過ぎ去った結果の羅列あるのみ・・、
0930日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 10:23:03.27
>>929
そんな事だから、あんたは歴史がダメなんだよ
0931日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 10:27:19.29
>>919
>纒向石塚古墳
・盛土内出土土器を評価する考え→庄内1式期、3世紀前半。

石塚は、前方後円墳であり、
卑弥呼の冢や壹與の「冢+平面台」とは全く違う事や、
那珂八幡などの前方後円墳の進化型であるから、3世紀末位にしかならず、
3世紀前半説はバツ。

>・西側周濠の出土土器を評価する考え→庄内0式期、3世紀初頭。

これは、石塚なのか?、箸墓なのか?、どっちなんだい?。
しかし、前方後円墳の庄内である限り、3世紀第4四半世紀以後にしかならず、バツ。

>・導水溝出土土器を評価する考え→庄内3式期、3世紀中頃。

大和の庄内3は、ホケノと同じであり、3世紀最末〜4世紀にしかならず、バツ。

>尚、周濠から出土したヒノキの板材は、年輪年代測定法で200年ごろの伐採と確認されている

年輪年代は、(欧米やシベリアの大平原ではなく)日本のような大陸東岸沖の急峻な山岳列島地域では、
採取場所に拠って日照期間や降水量などが千差万別であり、
基準木と検体木との「年次別気象の同一性」の保証が全くなく、
「年輪年代測定法で200年ごろの伐採と確認されている」と言えるのは、
たまたまである可能性が高く、
論拠にならない。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 10:41:32.32
>>931
>石塚は、前方後円墳であり、
>卑弥呼の冢や壹與の「冢+平面台」とは全く違う事や、

それ、何も根拠がない

>那珂八幡などの前方後円墳の進化型であるから、3世紀末位にしかならず、

これも何も根拠がない
賛成する人もない

たわごと
0933日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 11:29:07.64
>>920
>畿内から見た邪馬台国  石野博信先生
庄内式土器 土器は日常の道具であり、土器の移動は人が移動したことをを示す。
庄内式土器は、畿内で作られた土器だが、畿内から西、とくに九州で大量に発見される。
これは畿内から九州への人が移動したことを意味する。

ダメだ。庄内は筑紫の方が大和よりも50年位余り早い。

>畿内からは、各地へ土器が移動している。厚甕とよばれる弥生時代の伝統的な土器は
東に広がり、薄甕と称する庄内式土器は、西に向かって九州まで移動した。

だから、これもダメだ。瀬戸内〜東海などの庄内は、
九州倭國の東征毛人五十五國で出来た「地方の市を監督する大倭職」の市での伝搬だな。

>3世紀の九州の土器はほとんど畿内に入っていない。
3世紀の九州の人間は出不精で、そのかわり外のものを寛容に受け入れた。
畿内人はでしゃばりだった。

九州の土器は、大和へは、瀬戸内地域を介しての伝搬だ。

>九州の庄内式土器は筑前型庄内甕といわれ、畿内の型式の土器を九州で製作したものである。

九州の庄内は3世紀前半であり、大和の庄内は3世紀末であるから、バツだ。

>朝鮮半島南部で出土する日本列島の土器は九州や山陰タイプであり、畿内の土器は半島に行っていない。
邪馬台国の時代に朝鮮半島と交流があったのは、九州であるといえる。
しかし、このことから邪馬台国が九州にあったと即断することはできない。
なぜなら、近畿の王が九州の人間に命令して半島に行かせたという解釈ができるから。

畿内も邪馬台国も存在もしなかったバツ文言であり、
「近畿の王が九州の人間に命令して半島に行かせた」なんて事も、起こり得ない。
0934日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 11:44:13.03
>>923
>九州北部に近畿の庄内式土器や銅矛・銅剣などが多いのは
これから戦地である半島南部への出陣の準備のためで

ダメだ。
庄内も九州の方が古く、銅剣も銅矛も、九州が中心の出土であり、
半島南部への出陣も、九州倭國の行為だ。
0935日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 11:51:58.17
>>930
歴史に根拠や理由を求めても、結果が変わることはない。
百万億千無駄な人生だ・・、
0936日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 11:52:52.82
>>925
>>もともと畿内の時代を繰り上げてるから、畿内から流出したとなる。

>繰り上げてるという根拠は?

>>しかし畿内の時代を繰り下げれば、

>繰り下げる理由は?

何度も書いてある。
「卑弥呼の冢≠前方後円墳」であり、
更に、大和の前方後円墳は筑紫の那珂八幡などの進化型だ。
0937日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 11:55:16.21
>>927
もう文献考古の史料事実や史料実態からの歴史学を完全に否定しないと、
大和説って成り立たなくなったんだね
0938日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 12:03:01.00
>>930
「南→東」や、
「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」の無視などの、
史料事実や史料実態の否定や曲解のように、
そんな事だから、あんたら大和説者らは、歴史がダメなんだよ
0940日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 12:16:05.40
>>934
>ダメだ。
>庄内も九州の方が古く、

素人のダメだ爺さんが一人で
理由も言わずに叫んでも
誰も認めてくれるわけないんじゃね?
0941日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 12:17:37.67
竹島どろぼう反日有害種族は人種的に不要、除外
0942日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 12:17:47.69
>>936
>何度も書いてある。
>「卑弥呼の冢≠前方後円墳」であり、
>更に、大和の前方後円墳は筑紫の那珂八幡などの進化型だ。

だから、その理由を言わないんじゃ話にならない
0943日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 12:30:15.95
朝倉郡夜須町

辛卯に層増岐野に至りて、即ち兵を擧りて羽白熊鷲を撃ちて滅す。左右に謂りて曰はく、
「熊鷲を取り得つ。我が心則ち安し。」故、其の處を號けて安と曰ふ。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 12:36:20.70
桜井市を妬んでるよっちゃん登場
0946日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 13:19:57.73
>>944
あわれなのは、何も反論できず、ただそんな悪口しか言ってるしかない九州説だよ
0948日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 14:01:39.18
>>947
研究対象がある限り
0949日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 16:11:33.64
>>940
禅問答での、無限に「それの根拠は?。何故だ?」と、相手に論拠を要求し続けて、
議論に勝ったかのように見せかけて、
世間の人々を騙そうとする東大理系博士号自称爺さんが、
自分側の理由や根拠も言わずに、いくら叫び続けても
誰も認めてくれるわけないんじゃね?
0950日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 16:20:26.17
>>945
九州説を妬んで、
「何故何故?」を無限に反復する禅問答や、
人種差別や朝鮮人差別の「国民受けをする文言」を使って誹謗し、
世間の人々に「議論に勝った」かのような言い方で、
ダマそうとする、
東大理系博士号自称男のよっちゃん登場
0951日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 16:22:28.60
>>949
あんたがそう主張する根拠は何だと
聞かれてあんた答えられないんじゃあ
あんたの主張は根拠なしってことだ

そう証明されたってこと

「論に勝ったかのように見せかけて」
だって?
正真正銘! 議論に勝ってるぞ
0952日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 16:24:04.09
>>950
>「何故何故?」を無限に反復する禅問答や、

答えれば無限にならないだろ?

無限になるのは、あんたが永遠に答えないで
逃げ続けてるからだ
お前のせいだよ
0953日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 16:25:15.79
>>946
あわれなのは、
「南→東」や、
「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」の無視などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しをして、
何も反論できず、ただそんな悪口しか言って、
国民やマスコミを騙すしかない、
東大理系博士号自称男や、大和説学者らだよ
0954日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 16:36:59.99
>>951
>あんたがそう主張する根拠は何だと
聞かれてあんた答えられないんじゃあ

これまでに数え切れない位、Yahoo掲示板〜5chの議論の中で、答えて来てあるよ。
東大理系博士号自称男らは、ここでもその事を隠して、「答えられない」と嘘を付いている。

東大理系博士号自称のあんたの主張は根拠なしってことだ、
そう証明されたってこと
「論に勝ったかのように見せかけて」の証拠がないだって?
この「邪馬台国畿内説」のスレでも数え切れない位提示して来てある。
東大理系博士号自称男は、正真正銘! 議論に負けている
0955日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 16:51:49.47
>>954
>これまでに数え切れない位、Yahoo掲示板〜5chの議論の中で、答えて来てあるよ。

答えたっていう証拠ないだろ
そうやって今日もまた答えない

あんたは「答えられない」んだよ
議論に負けてるってことだ
永遠に誤魔化し続ける
だから聞かれ続ける
九州説は負け続ける
0956日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 16:53:58.37
>>953
>史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しをして、

否定されてるのは史料事実じゃなくって
あんたら九州トンデモ説のトンデモ解釈だよ
0957日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:00:45.64
仮説
邪馬台国と神武大王は親和性、血縁関係があったかも。
その当時の大倭を治める国として武力を捨てさせられ、象徴とさせられたのが邪馬台国。

神武大王とその他の大倭国の国の王族や一部の臣下たちは、大倭(北九州)の領土の狭さと領土拡大が難しい土地である事を認識しだしていた。(大陸には半島を通して進出していたが)

総称神武系(構成は上記の通り)は、東征を決行、そのリーダーは当然神武大王。

東征

カシハラにて、ヤマト王権を樹立。
昔、九州を旅立ち、今新しい王都、領土、豪族たちを従えるにあたり、

我々こそ、大倭連合国の正当なる後継者なり
(或いは故郷の望郷の念からか)

として、畝傍橿原宮を首都とした。

ならば、

この類似性ある地名の範囲内のどこかに、
邪馬台国や神武東征の謎を解き明かす都市、
環濠、理由があるのかも。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:00:51.85
>>956
史書たけど方角を間違えちゃった!テへ!

これ以上のトンデモがあるのか?
0959日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:03:09.35
九州のその地名が当てはまる範囲の内側の何処かに 大いなるヒントが眠っている。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:14:37.54
>>958
だという理由は?
0961日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:17:13.20
■朝鮮式畿内説の主張

・希望的観測の結果、魏志倭人伝の南は実は東だったニダ
・畿内も鉄器があったが鉄が溶けやすい地質なので残って無いニダ
・畿内式土器とよく似た土器がある地域は畿内政権の傘下だったニダ
・纏向建物の柱穴より深い別の遺構で出土した桃の種が3世紀だったので建物は卑弥呼の宮殿ニダ
・纏向遺跡は住居跡がほとんど無い大集落なので女王の都だったニダ
・日本書紀に筑紫〜任那の距離が2千余里と書いてあるが1里は0.435Kmだったニダ
・博多湾から投馬国までの水行20日の道中は無人地帯だったニダ
・投馬国から水行10日+陸行一月の道中も無人地帯だったニダ
・3世紀の奈良盆地の東は海だったニダ
・卑弥呼が100枚貰った銅鏡は600枚以上発見されている三角縁神獣鏡に違いないニダ
・島根県で景初三年の紀年鏡が出土したので畿内説が正しいニダ
・中国産の銅しか無い時代に作られた銅鏡の成分が中国産なので鏡の製造地も中国で間違いないニダ
・中文は日本の漢文と同じ解釈でよいニダ
・平均偏差値30台の考古学会の畿内説は最も正しい説ニダ
0962日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:26:29.16
竹島どろぼう反日有害種族は関西を中心とした九州王朝説
日本の学者の通説は畿内説
0963日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:30:46.33
>>952
>>「何故何故?」を無限に反復する禅問答や、

>答えれば無限にならないだろ?

答えて上げても、それに知らん顔して、
「それは何故だ?」と言い立て続ければ「無限反復禅問答」に持ち込める。
無限になるのは、あんたが永遠に「それは何故だ?」と言い立てて、
逃げ続けてるからだ
お前のせいだよ
0964日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:33:57.03
>>962
畿内を確定したかったら、早く卑弥呼の墓を、邪馬台国を発見せねば、どんぐりの背くらべになりますよ?
0966日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:35:05.43
>>963
>答えて上げても、それに知らん顔して、
>「それは何故だ?」と言い立て続ければ「無限反復禅問答」に持ち込める。

なんで自分がそう主張する理由が答えられないの?
九州説って異常じゃない?
0967日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:37:23.61
>>961
>■朝鮮式畿内説の主張

畿内説がそんなこと主張したって証拠は?
九州説は妄想と嘘を並べるだけ?
0968日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:42:42.46
>>966
証拠もないのに、学会で発表もできないのに、畿内という貴方の方もおかしいですよ?

もし、それで権威などと言われておるなら後身に跡を譲るべきです、今すぐ。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:44:23.35
証拠は出さない、理由は言わない
ないない尽くしの九州説
理由を言わずに結論だけワメいて、そんなの「説」と言わないんだよ

九州説は終わってるよ
0970日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:44:50.26
>>967
嘘と断定するには、

畿内で、邪馬台国と卑弥呼の墓を見つける義務がある。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:45:14.23
>>968
>証拠もないのに、学会で発表もできないのに、畿内という貴方の方もおかしいですよ?

あるよ
発表されてるし
0972日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:46:22.25
>>970
>嘘と断定するには、
>畿内で、邪馬台国と卑弥呼の墓を見つける義務がある。

必要があるって理由は?
また理由もなくゴリ推しですか九州説さん
0973日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:46:24.39
>>969

証拠は出さない→貴方
ナイナイ尽くし→貴方

明日、テレビがあっ!!という証拠を流してください。発掘証拠を。
0974日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:47:50.23
>>972

それを無くして、なぜ畿内だと言い切れるのですか?

親魏倭王の金印でも出たんですか?
0975日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:51:24.85
>>969
西洋、旧約聖書を読み解き、人工衛星による赤外線センサーで下の遺物を見つけつつ、
聖書通りに解釈して歴史を探る西洋宇宙考古学と
貴方の親魏倭王の金印も出ていない、生贄墳墓も出ていない畿内説のほうを

世界の最先端の考古学者が認めると思いますか?
0976日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:53:30.39
>>965

不要。
0977日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 17:54:56.89
>>976

日本考古学の世界に

貴方が不要です。間違いなく。

世界の最先端の考古学者があなたの意見を聞いたら受け付けないでしょう。

ミスター、証拠が足りません、と。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:01:02.11
WIKIの編集すら出来ず論文も出せず学会発表も出来ないので不要品となってしまった勘違い畿内説宣伝係あわれ
0979日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:01:41.94
>>974
>それを無くして、なぜ畿内だと言い切れるのですか?
>親魏倭王の金印でも出たんですか?

あなた、異常に知能が低いでしょ?
箭内説が>>961みたいな主張はしてない、>>961は嘘だと断定するのに
「畿内で、邪馬台国と卑弥呼の墓を見つける義務がある」
と言い張るの?

異常だよ
知能が低すぎる
0980日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:02:26.54
奴国より南で帯方郡から12000里

それでも畿内と言いたいなら、何か証拠がいるよな

漢委奴国王の金印級の
0981日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:02:50.97
>>977
>世界の最先端の考古学者があなたの意見を聞いたら受け付けないでしょう。

そんなこと決めつける理由は?
0982日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:05:18.99
>>980
>奴国より南で帯方郡から12000里
>それでも畿内と言いたいなら、何か証拠がいるよな
>漢委奴国王の金印級の

要らないよ
史料のその箇所に信憑性がないと証明すればいいだけ
0984日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:10:05.08
>>982
自分の解釈 ≫ 歴史書


日本でも、世界でもそのような意見を認める人はいないでしょう。

裁判で 過去の記述≪私の解釈(書き違え)
と言って、最高裁まで行って敗訴するのはあなたのほうでしょうね。

考古学で遊んでませんか?
0985日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:13:29.73
>>983

この方(畿内説)、と貴方は実はよく知る間柄では?

想像するに、若くなく、もう老境で権威とか呼ばれている感じの方が畿内、出土する必要はない。と仰られている感じに感じますね。
自分以外受け入れられない、みたいなオーラを感じますね。

これで、日本の考古学を進めているのですか?
0986日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:17:39.47
日本の考古学は、世界の宇宙考古学と比べて
100年は遅れているでしょう。


その間に鉄剣は朽ちていき、
銅は溶け、
木簡は土に溶ける。

日本の歴史を冒涜していると思いませんか?
0987日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:18:52.76
>>985
この方って、どの方?
どの人のことを
「若くなく、もう老境で権威とか呼ばれている感じの方が畿内、出土する必要はない。と仰られている感じに感じますね。
自分以外受け入れられない、みたい」
と感じるの?

そんなこと感じる理由は?
0988日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:19:47.94
>>986
>日本の考古学は、世界の宇宙考古学と比べて
>100年は遅れているでしょう。

そんなこと決めつける理由は?
0989日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:21:50.29
>>984
>裁判で 過去の記述≪私の解釈(書き違え)
>と言って、最高裁まで行って敗訴するのはあなたのほうでしょうね。

どこの誰が「過去の記述≪私の解釈(書き違え)」と主張してるの?
敗訴するのは誰?
0990日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:24:27.14
>>987
畿内、九州どちらも可能性がある、とできない時点で。
(現時点で、どちらにも確定出土品がない)
私ならどちらも可能性があると探る。


>>988
ユーチューブ、ディスカバリーチャンネル等で、世界最先端のエジプト考古学へのアプローチとか見ました?

掘る前に、人工衛星で徹底的に中の可能性を探っています。
砂漠を無作為に掘ってもも無駄です。

その下を見つける事が出来るのが今の人工衛星撮影です。

日本でやってます?
0991日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:27:18.19
自信があるなら、まず畿内の思うところを人工衛星で探らせて掘ってくださいよ。


それで、親魏倭王が出てきたらあなたのものでしょう?すべての理論は、仮説は?

あなたの名前は日本中に広まる。
0992日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:28:44.25
>>987
史書に記述があって、その後、金印という物証まで見つかってるのに、何ら根拠を出さずに史書の記述をデタラメだー!と言い張ってる連中のことだろ
0993日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:29:47.49
>>991
ねえ、以上に知能の低いあなた
発作起こさないで
ちゃんと理由を聞かせてよ

箭内説が>>961みたいな主張はしてない、>>961は嘘だと断定するのには
「畿内で、邪馬台国と卑弥呼の墓を見つける義務がある」
と言い張るの?
0994日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:31:39.11
>>990
だから
この方って、どの方?

誤魔化さないで、ちゃんと答えてよ
その人は畿内説ですか?
0995日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:32:53.84
>>992
その人は、どこにいる、どの人?
投稿した番号はどれ?
0996日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:34:07.22
>>995
ほら、史書の記述と物証を無視してこんなこと言ってるぞ

982 日本@名無史さん 2021/07/16(金) 18:05:18.99
>>980
>奴国より南で帯方郡から12000里
>それでも畿内と言いたいなら、何か証拠がいるよな
>漢委奴国王の金印級の

要らないよ
史料のその箇所に信憑性がないと証明すればいいだけ
0997日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:34:25.49
>>990
>日本でやってます?

砂漠jがないよ
0998日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:36:00.36
>>996
「証明すればいい」が
どうして
「史書の記述と物証を無視」
に化けるんだい?
0999日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:37:54.81
>>997
遺跡の上に田んぼがある。

建物が立ったら写せませんよ?永遠に。
貴方の代で日本考古学を終わらせるのですか?


>>996
歴史書より俺が偉いでは、世界では無理です。

早く日本考古学の為に引退されることをおすすめします。
1000日本@名無史さん
垢版 |
2021/07/16(金) 18:39:52.98
>>999
誰がそんなことを言ったの?
九州説の人は妄想が過ぎない?
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